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(インジングシクのガジュマル)沖縄市の中央部で米軍嘉手納基地に隣接する「八重島地区」に八重島公園があり、敷地内には珊瑚が隆起して形成された琉球石灰岩の山城があります。ガジュマル、ソテツ、他にも多種に渡る亜熱帯植物に覆われた「インジングシク」は奇妙な力を醸し出す謎が多い城跡となっており、多くの都市伝説も生まれています。(インジングシク麓の拝所)(グスク山頂に登る石段)週末には沢山の子供連れの家族が集まる大型遊具が多数ある広場の直ぐ脇に、突如ウガンジュ(拝所)が現れます。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 八重島真鶴繁座那志(ヤエジママツルハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。ウガンジュの横にはグスクの頂上に伸びる琉球石灰岩で造られた石段が続いています。麓の石碑の拝所は訪れる者をお通しするヒヌカン(火の神)の役割を持っていると考えられます。(インジングシク中腹の拝所)(拝所のビジュル霊石)亜熱帯植物のジャングルを真っ直ぐに切り裂く様な60段の石段を登ると、ゴツゴツとした琉球石灰岩の大岩の横に屋根付きの石造り建物がひっそりと佇んでいます。建物の中はウガンジュになっており御供物と共に霊石が祀られていました。ビジュルの拝所として「インジングシク」の構造である琉球石灰岩の堅固な地盤とグスク全体を司る守護神だと思われます。(拝所正面の石碑)(グスク頂上の展望台)石造りのウガンジュの正面のガジュマルの下にはもう一つの拝所があります。「天帯子御世(テンタイシウユウ) 八重島金満大主(ヤエジマカニマンウフヌシ) 中が世酉(トリ)のみふし)」と石碑に彫られています。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、地域住民に拝まれています。拝所の祠と石碑がある場所の脇にはグスクの頂上に登る展望台に通じる階段がありました。(うるま市石川方面)(中城湾方面)ゴツゴツした琉球石灰岩の大岩を螺旋状に回り登ると素晴らしい絶景が現れたのです。「インジングシク」の頂上からうるま市石川方面を見渡すと、沖縄市北部、石川岳、うるま市石川の市街地、金武港、その先の金武岬まで眺める事が出来ます。また、沖縄市の西部、うるま市南部の市街地、中城湾、その先の勝連半島や勝連城跡、さらに先に連なる宮城島まで絶景が広がっています。(グスク麓のガマ)「インジングシク」の山城の麓に鍾乳洞(ガマ)があり、直径30センチに開いた入り口はそのまま地下深くの暗闇に続いています。このガマには遠い過去に人々に拝まれていた痕跡があり、琉球石灰岩造りの香炉台や一段上がる拝場の跡が確認されます。鍾乳洞(ガマ)は沖縄では昔から信仰や崇拝の対象とされており、神が宿り神に通じる聖域として崇められてきたのです。(八重島神社)(字久田井/差田井)八重島公園の「インジングシク」の北東に「八重島神社」があり殿内に安室家の香炉、嘉陽家の香炉、ビジュル霊石と香炉が設置された火ヌ神が祀られています。敷地内に「字久田井」と「差田井」の霊石と井戸が祀られた祠があります。字久田集落と佐田集落は現在、米軍嘉手納基地の滑走路になっており、沖縄戦で土地を奪われた両集落の住民が八重山地区に移住させられたのです。両集落の水の神をここに祀った拝所と考えられます。(八重島貝塚)(ヤシマガー)「八重島貝塚」は八重島公園に隣接する沖縄市民会館から東に約250mのところにある3500年~2500年前の古い貝塚です。この貝塚からは石器、貝殻、獣骨などが出土しています。現在も湧き出る井泉の「ヤシマガー」を石炭岩崖下にはさみ、貝塚の典型的な立地条件を備えています。「八重島貝塚」周辺は古代の人々が生活するのに非常に適した環境が整っていたと言えます。(八重島公園の東側入り口)八重島公園内にも墓が多数あり、公園沿いには非常に広範囲に渡る「中央霊園」も存在します。かつて八重島地区には多数の無縁墓が点在し、大規模な火葬場もありました。火葬場で焼かれて出た大量の遺灰は八重島地区の端に流れる比謝川に流されたと言われています。そのため、比謝川周辺は心霊スポットとして知られ、多数の幽霊の目撃情報があります。(八重島高層住宅)八重島地区の心霊スポットとして最も有名な場所が「インジングシク」がある八重島公園のすぐ北側の集合墓地の近くに建つ「八重島高層住宅」です。無縁墓地を壊して建てられた住宅で、特に4階以上の階に住む住民の多くが心霊現象を体験し、住宅は常に入居と退去を繰り返し部屋が埋まる事は決して無いと言われます。(インジングシクの森)謎が多く未だに全容が解明されていない「インジングシク」は八重島公園の敷地内にありますが、八重島地区全体が琉球墓群に覆い尽くされている独特な雰囲気がある地域です。神が宿るパワースポットである「インジングシク」と、琉球墓群の霊魂が漂う心霊スポットが絶妙なバランスで混ざり合う謎多き八重島地区は今日も静かに佇み、何も語らず来訪者を見つめているのです。
2020.12.31
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(安慶名城跡/安慶名闘牛場)「安慶名城跡」はうるま市の中心部の「安慶名集落」にある城跡です。15世紀の琉球三山時代から16世紀にかけて同城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司の拠点として知られ、1972年5月15日に国の史跡に指定されました。県道8号線沿いに広がる「安慶名中央公園」の中に「安慶名城跡」を始め、安慶名闘牛場や遊具などが整備された緑豊かな憩いの場として地域住民に親しまれています。(安慶名城跡入り口)(安慶名城跡の中腹)「安慶名集落」に流れる天願川の周辺に隆起した珊瑚石灰岩の岩塊の断崖と傾斜を利用した山城で、天然の岩と岩との間に石垣や城門を構えています。「安慶名グスク」の特徴は緑豊かな自然と岩塊とを最大限に活用した堅固な城である事です。城の構造は外側と内側に二重の石垣を巡らす様式で、沖縄に現存する唯一の輪郭式グスクです。城の北に水源が豊富な天願川が流れていて、その別名が「大川」であったことから安慶名城は「大川城」という別名でも知られています。(安慶名大川按司の墓)(安慶名グスクの城門)琉球石灰岩で創られた石段を登って行くとグスクの中腹に「安慶名大川按司の墓」が現れます。鍾乳洞に石垣が積まれた墓には歴代城主であった安慶名大川按司一世から三世の三代の魂が安らかに眠っているのです。さらに石段を登り進めると安慶名城の外郭と内郭を繋ぐ「城門」に辿り着きます。城門は自然の大岩をくり抜き、側面には切石を平らに積み上げた壁が施されています。この城の主郭へと続くトンネルには神秘的な力が宿り、訪れる者を城の内部へと誘ってくれるのです。(安慶名宇志仁大主の石碑)「安慶名グスク」内郭東側の城門近くにはウガンジュ(拝所)があります。ニービ石造りの古い石碑には「天帯子御世(テンタイシウユウ) 安慶名宇志仁大主(アゲナウシジンウフヌシ) 中が世丑(ウシ)のみふし」と記載されています。つまり「天帯子」の琉球三山時代に「安慶名宇志仁大主」の石碑が「丑のみふし」により建立され祀られた事を示しています。石碑には幾つもの霊石が供えられ崇められています。(具志久美登繁座那志の石碑)内郭西側の城門の岩の上にあたる山の頂上付近にあるウガンジュです。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 具志久美登繁座那志(グシクミトウハンザナシ) 中が世うみない母親」と彫られています。「天帯子」の琉球三山時代に「具志久美登繁座那志」の神様を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を意味しています。ニービ石造りの石碑に石造りのウコール(香炉)が設けられ、そこに霊石と陶器のウコールが祀られています。(大兼久眞澄繁座那志の石碑)これは城の外郭東側にあるウガンジュ(拝所)です。石碑には「天正子(テンシヨウシ)の結(ムス)び 大兼久眞澄繁座那志(ウフガニクマスミハンザナシ) 中が世うみない母親」と記載されています。「天正子」の時代に「大兼久眞澄繁座那志」の神を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を示しています。この石碑にも石造りウコール(香炉)が設置されており、そこに陶器のウコールと霊石が祀られていました。(安慶名グスクの外郭)(外郭の先にあるガマ)「大兼久眞澄繁座那志」の拝所の先には城の外郭が続いており、外郭の上を歩いて進めるようになっています。外郭の行き止まりは小さなガマ(鍾乳洞)になっていて、外郭へ城の外部からの侵入を守る為の拝所である可能性もあります。沖縄の城の多くが直線上に郭が連なり奥に主郭がある連郭式と呼ばれる様式である中、岩山に築かれた「安慶名グスク」は中心部に主郭を置き、それを取り囲むように中腹に郭を巡らした沖縄県内では非常に珍しい輪郭式と呼ばれる様式を取っています。「安慶名城跡」にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯の草木が生い茂っていて豊かな自然に覆われています。かつて「安慶名グスク」の丘陵から湧き出た井泉の恵みにより集落が形成され、そこに文化が生まれて先人の暮らしが継承されて来ました。古代琉球の三山(北山、中山、南山)時代から変わる事なくうるま市の「安慶名集落」を見守る古城は、周辺地域の守り神であり神聖なパワースポットでもあるのです。
2020.12.27
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(鬼大城の墓)鬼大城(うにうふぐしく)の名前で知られる越来賢雄(ごえくけんゆう)は15世紀の琉球王国の時代に活躍した武将です。越来賢雄という名前は鬼大城が越来間切の総地頭となって以降の名称であり、それ以前は大城賢雄(うふぐしくけんゆう)でした。鬼大城は並みはずれた体格で武勇に優れ、狼虎の如しと例えられた事で人は彼を「鬼大城」と呼んだのです。(鬼大城の墓への階段)沖縄市知花にある知花城跡に鬼大城の墓があり、市指定の文化財に登録されています。鬼大城の墓はこの63段の階段を登った城山の中腹にひっそりと佇んでいます。鬼大城の墓は県道329号沿いにあり、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の山城である知花城跡は周辺地域でも一際目立つ存在感を持っているのです。(鬼大城の墓)鬼大城は尚泰久が王位を継ぐと共に首里へと登り、王女の百度踏揚が阿麻和利(あまわり)に嫁ぐに当ってその従者となりました。阿麻和利が王に謀反を企ている事を知った鬼大城は軍を率いて阿摩和利が城主である勝連城を包囲したのですが、城は非常に堅固で困難をきわめたのです。鬼大城は知恵を絞り、自ら女装して城に忍び込み油断した阿麻和利の討伐に成功しました。(知花グスクの中腹)鬼大城はこの功績のお陰で越来間切(沖縄市越来地区)の総地頭職を授けられ、越来親方賢雄と名乗り百度踏揚を妻としました。後に内間金丸(尚円王)のクーデターで第一尚氏が攻め滅ぼされると、忠臣であった鬼大城も攻め込まれ、最期は知花城の中腹にある洞窟で火攻めの末に殺されてしまったのです。(黒く焦げた墓口)鬼大城が火攻めで討ち死にした鍾乳洞の洞窟がそのまま墓になり現在に至ります。鬼大城の墓の左側全体が異常に丸焦げになっています。これが火攻めで殺された跡なのか?それとも沖縄戦での米軍による火炎放射の跡なのか?いずれにせよ、鬼大城の墓は生々しく凄まじい姿を訪れる者に見せるのです。(鬼大城の墓前)私は鬼大城の墓に手を合わせて、鬼大城が王に示した強い忠誠心に敬意を払いつつ、同時に沖縄の平和を祈りました。ふと気付くと墓にお供え物をする石台の鉄製の水を入れる容器が2組無様に倒れている事に気付き、私は容器を石台に立てて戻しました。すると石台から2〜3センチの黒い玉が突然現れ、10センチ程までに急成長しながら私の頭上を物凄いスピードで飛んで行ったのです。(鬼大城の墓の案内板)結局その黒い玉が何だったのか今でも説明が付きませんし、科学的に解明できる物とも到底考えられません。鬼大城からの何かのメッセージなのか?鬼大城の墓から発した霊妙なパワーなのか?鬼大城が火攻めで殺された鍾乳洞の真上には古いガジュマルの木があり、ガジュマルにも神が宿ると言われています。悲劇の琉球武将である鬼大城の墓は奇妙な雰囲気と共に、琉球の長い歴史を体感できる神秘的なパワースポットなのです。
2020.12.25
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(伊波城跡の鳥居)「伊波集落」の中心部にそびえる「伊波城跡」は標高87mの丘陵に位置する山城で、沖縄本島うるま市石川の市街を北東に見渡しています。琉球石灰岩の上に築かれ、城壁は自然の地形を巧妙に利用しながら自然石を殆ど加工せずに積上げていく野面積み技法で作られており、城の北側には石灰岩の断崖を備えています。(鳥居前の石柱)1989年の発掘調査では城内の地表下50cmから無数の柱穴跡が発見され、掘立柱建物の存在が確認されています。文化的価値が非常に高い琉球産や外国産の土器、中国産の青磁や白磁、三彩陶器、褐釉陶器、染付、南島産の須恵器なども出土しており、当時の伊波按司の勢力が大きなものであったことを示しているのです。(中森城之嶽)鳥居を潜り階段を上がると予想以上に広い空間に足を踏み入れます。ちょうど正面のひときわ目立つガジュマルの木の下に「中森城之嶽」(ナカムイグスクのタキ)があります。「中森城之嶽」は伊波城の神様である火の神(ヒヌカン)の役割があり、ビジュル石とウコール(香炉)が祀られています。城を災難から守り城主と家族の健康を守る非常に重要な御嶽です。(森城之嶺)「中森城之嶽」から少し離れた場所には「森城之嶽」(ムイグスクのタキ)があり、この先にはもう一つの伊波城跡入り口があります。「中森城之嶽」が城のお通しの御嶽であるヒヌカン(火の神)の役割を果たしている為、この「森城之嶽」に近い入り口は伊波グスクの裏門に当たると考えられます。こちらの御嶽にもビジュル石とウコールが設置され集落の住民に拝まれています。(城跡頂上へ向かう道)「森城之嶽」の左側には伊波城跡の頂上へ向かう道が続いています。ゴツゴツとした琉球石灰岩の地質にはガジュマル、ソテツ、クワズイモなどの樹齢の古い亜熱帯植物が生い茂り、琉球王国時代よりも更に古の昔から変わらぬ豊かな自然な風景を保ち続けています。(三ツ森城之嶽)伊波城跡の頂上に辿り着くと「三ツ森城之嶽」(ミーチムイグスクのタキ)が姿を見せました。この御嶽は「ウフアガリヘの遙拝所」と呼ばれており、天地海を祀るビジュルの霊石が設置されています。ウフアガリ(大東)は琉球語で「遥か東」を意味します。つまり、太陽が上がる東の海に理想郷であるニライカナイの神様を崇めて祈りを捧げていたのです。(城跡頂上からの景色)伊波城跡の調査では13世紀後半から15世紀に当時の人々が食べ残した貝殻、魚、猪の骨なども出土しています。また、貝塚時代の土器も多数出土しており約2800年前の貝塚が伊波城を含めた丘陵全体にあったことがうかがわれます。そのため、伊波城周辺の地域が伊波按司による築城よりも遥か前の古代から人々の重要な居住地であった歴史とロマンを示しています。(伊波ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(神アシャギ/神アサギ)伊波城跡入り口の手前に琉球赤瓦屋根のノロ殿内があり「ヌール屋」と「神アシャギ」が並んで建てられています。「ヌール屋」と呼ばれるヌンドゥンチはヒヌカン(火の神)が祀られており、かつてこの場所でノロ達がノログムイ(共同生活)をしていたと伝わります。向かって左側に隣接する「神アシャギ」では、集落においてノロが神を招き入れて祭祀を行なっていました。(伊波火ヌ神の敷地)(伊波火ヌ神)伊波城跡から南東側に「伊波火ヌ神」があります。伊波の守護神として崇められており「ジーチ火ヌ神」とも呼ばれています。この火ヌ神と伊波メンサー織作業所がある場所との間が伊波集落の入り口と言われていて、旧暦4月15日に火ヌ神と入り口はアブシバレー(農作物の害虫駆除儀式)で拝まれています。また、旧暦7月16日には祭祀行事として旗頭と獅子舞の演舞が奉納されます。(ビンジリの拝所)(ビンジリの祠)「ビンジリ」は伊波按司の子孫と伝えられる仲門(なかじょう)家の屋敷から東北側に位置する拝所です。石積み造りの祠の中に高さ30センチほどの丸い霊石が祀られています。この祠の前には「山城仁屋から道光23年(1843年)に供えられた」と記されています。伊波集落の旧暦4月15日のアブシバレー、旧暦10月20日の苗種御願(メダニウガン)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)などの行事で参拝されています。(伊波仲門)「伊波仲門」は伊波按司の子孫とされる門中(ムンチュー)です。「南島風土記」には伊波按司が首里に引き上げた後も、この門中が伊波親雲上仲賢の名で伊波集落の地頭職を勤めたとされています。仲門の始祖は伊波城内から居住を城の外に移した5代目伊波按司の子孫であると考えられています。屋敷の仏壇には按司神とウミナイビ(王女)神のウコール(香炉)の他にも、按司時代に稲の穂を運んだという伝説が残る鶴の香炉も祀られています。(門口ガー)「伊波門中」の屋敷の東門に井泉が湧いており「門口ガー」と呼ばれています。代々の伊波門中が利用してきた井戸で神水として崇められています。井泉からは樹齢の長い立派なガジュマルが育っており、集落の住民から神が宿る聖地として拝まれています。伊波集落の北部には伊波貝塚があり集落の歴史の長さが伺え、伊波集落発祥を知る手掛かりに繋がります。伊波城にある御嶽に祈りを捧げる信仰心の強い住民により、古の集落文化が現在に大切に継承され続けているのです。
2020.12.22
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(伊波ヌール墓)沖縄本島うるま市石川伊波に「伊波ヌール墓」があります。ヌールとは沖縄のノロの事で琉球神道における女性の祭司、又は神官を指します。地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割を果たしていました。琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に任命されて王国各地に配置されました。「伊波ヌール墓」は歴代の伊波ノロの遺骨が納められた聖域として崇められています。(伊波ヌール墓の標識)「伊波ヌール墓」が位置する石川伊波地区は当初1990年に石川バイパス工事の開発地区に予定されていましたが、伊波ヌール墓や周辺の貴重な文化財を保護する案が浮上したのです。伊波ヌール墓のある山の地質は千枚岩と堆積した琉球石灰岩であり、トンネルを通す地質条件に適していませんでした。しかし、うるま市のみならず沖縄県の歴史的価値の高い文化遺産を残す目的で、急遽バイパスは「伊波ヌール墓」の真下を通関する「石川トンネル」の整備に変更されたのです。(伊波ヌール墓へ降りる石段)琉球王国時代に伊波、嘉手苅、山城、石川の各集落の年中祭祀を正式に司っていた歴代のノロ(伊波ヌール)の遺骨が墓に納められています。沖縄の「ノロ」や「ユタ」は神がかりなどの状態で神霊や死霊など超自然的存在と直接に接触や交流し、この課程で霊的能力を得て託宣、卜占、病気治療などを行う呪術や宗教的職能者を指します。「ノロ」は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」はいわゆる霊、神霊、死霊と交信します。(伊波ヌール墓がある崖下)「伊波ヌール墓」は崖下の鍾乳洞を利用した掘り込み式です。墓室内にはサンゴ石灰岩製蔵骨器11基と陶製蔵骨器4基の計15基が安置されています。ほとんどの蔵骨器に2体分の遺骨が納められています。現在でもウマチー(収穫祭)や清明祭の時に参拝の人たちが訪れるなど地域的信仰の対象となっています。1994年には貴重な文化財として市の指定を受け、地元住民の重要なウガンジュ(拝所)として大切に保護継承され続けています。(伊波ヌールガーに生える大木)(伊波ヌールガー)「伊波ヌールガー」と呼ばれる井泉が「伊波ヌール墓」の南西にあります。伊波ヌールが祭祀を行う際に利用した水源で、聖なる神水として崇められた聖域でした。「伊波ヌールガー」にはウコール(香炉)が設けられ、井泉の脇から大木が力強く育っています。この大木は「伊波ヌールガー」周辺で極めて目立つシンボルとなっており、聖なる神水で成長した木の枝が天に向かって伸びている神秘的な光景となっています。(伊波按司の墓/伊覇按司之墓)(伊波中門祖宗之墓)「伊覇按司之墓」は伊波グスクを築いた按司の墓で、旧具志川と旧石川を結ぶ国道329号(石川バイパス)が通る石川山城地区にあります。伊波グスクから南に1キロほど離れた場所にある墓は天然の要害を利用して築かれ、野面積みの石垣が現在も残っています。伊波仲門門中(なかじょうムンチュー)が管理しており、同門中の始祖(伊波按司)が祀られています。向かって左側には「伊波中門祖宗之墓」が隣接しており、現在も子孫等の多くの参拝者が訪れて拝んでいます。(数明親雲上の墓の入り口)(数明親雲上の墓)「伊波集落」の中央に「数明親雲上(スミョウペーチン)の墓」があります。数明親雲上は伊波集落の生まれで第二尚氏第4代「尚清王(在位1527〜1555年)」に神歌主取として仕えていました。尚清王が久高島からの帰途に嵐に見舞われた際、船の舳先に立ち神歌(おもろ)を謡い風波を鎮め無事に帰港したと伝わります。この墓は伊波原に所在する古墓で地元では「屋嘉墓」とも呼ばれています。(尚泰久王墳墓跡)第一尚氏第6代「尚泰久王(在位1454〜1460年)」の墓跡と伝えられています。伝承によると、第一尚氏第7代「尚徳王(在位1461〜1469年)」の亡き後、第二尚氏の「尚円王(在位1470〜1476年)」に政権が代わった際、首里の天山陵に祀られていた尚泰久王の遺骨が密かに移葬されたと言われています。それを隠すためか、この墓は「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうです。(ウミナイ墓)「ウミナイ墓」は「尚泰久王墳墓跡」の右側に隣接し、尚泰久王の母親もしくは乳母が祀られた墓だと伝えられています。1982年に発掘調査が行われ、墓の中に石灰岩製の石厨子が3基あり、中央に位置する大型の石棺からは風化の進んだ人骨、鳩目銭2枚、猪の第3臼歯が発見されました。毎年、清明祭には伊波仲門門中、大屋門中、尚泰久王に縁のある人々が多く訪れ拝まれています。(伊波ウブガー/東側入り口)(伊波ウブガー/西側入り口)「伊波ヌール墓」の南側に「伊波ウブガー(産川)」があり、東西を繋ぐ地下トンネル内に現存しています。伊波集落で最も古い井泉とされる「伊波ウブガー」は生活用水、産湯、正月の若水、病気の際のミジナディ、死者の清め水、霊水として使用されていました。石川バイパス整備の際に地下横断路を作り、場所、位置、形を変えず昔のままの姿で残っています。「伊波ヌール墓」もバイパス整備で「石川トンネル」を掘る事で守られたように、歴史ある先人からの遺跡文化財を大切に守り継承する素晴らしい郷土愛が「伊波集落」には強く根付いているのです。
2020.12.21
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(ジャネー洞)沖縄本島うるま市与那城屋慶名に「藪地島」という小さな無人島があります。勝連半島の東部に位置し沖縄本島とは藪地大橋で結ばれています。島の入り口は一つだけでサトウキビ畑の真ん中に伸びる道は舗装されておらず、車一台がやっとギリギリ通れる砂利道が一本のみ無人島を横断しています。(藪地島の野良猫)凸凹の砂利道を砂埃を巻き上げながらゆっくり進むと行き止まりの森に突き当たります。そこに車を停めると森の守り神の白黒ハチワレ猫が出迎えてくれます。守り猫に挨拶をしてから森に入ると亜熱帯の植物が不気味に生い茂り、その奥地にひっそりと同時に力強く「ジャネー洞」が姿を表します。(ジャネー洞の森)「ジャネー洞」は6,000〜7,000年前(縄文時代)と推測される沖縄最古の土器が発見された住居跡です。発見された土器は藪地島特有の形状である事から「ヤブチ式土器」と名付けられました。ジャネー洞はヤブチ洞窟遺跡とも呼ばれ、地元の住民から祖先発祥の地として信仰を集めています。(鍾乳洞の拝所)「ジャネー洞」の鍾乳洞の入り口はウガンジュ(拝所)になっており地元住民や沖縄のカミンチュ(神人)まで皆が祈りを捧げるスピリチュアルな聖域となっています。花やお供え物と共に琉球香炉のウコールが設置されていて、つい先程までこの場で祈りを捧げた方が水かけをした跡が残っていました。(鍾乳洞の入り口)鍾乳洞は石灰岩が地表水や地下水などによってひたすら長い年月にわたり少しずつ侵食されて出来る大自然の芸術です。無人島の藪地島全体がパワースポットであり「ジャネー洞」は地元住民の聖地として大切にされています。訪れる際には礼節を持って島の神様に敬意を払い無垢な心を保ちたいものです。(ジャネー洞の拝所)私はウガンジュにひざまづき沖縄の平和を祈り、沖縄の悠久の歴史に直接触れる事の喜びを噛み締めました。祈る人それぞれに、それぞれの想いが込められます。「ジャネー洞」はその長い歴史の中で常に人々と共に存在し続け、数えきれない人々の祈りを受け止めて来た魂の籠った神秘的な空間なのです。
2020.12.20
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(屋良ムルチの石碑)「屋良ムルチ」は嘉手納町の北東端に位置し、比謝川と沖縄市との境界部分にある淵(クムイ)です。1934年(昭和9年)の沖縄県耕地課による測量によると長さ49間(89m)、幅21間(38m)、深さ48尺(14m)となっています。「屋良ムルチ」の入り口は米軍嘉手納基地の北側に隣接する県道85号線沿いにある「嘉手納霊園」の脇にあり、入り口には「屋良ムルチ」の案内板があり森の中を下る階段が姿を見せます。(屋良ムルチの入り口)(屋良ムルチへの階段)沖縄には古くから「大蛇伝説」が語り継がれています。ムルチ(無漏渓/茂呂奇/漏池)に住む大蛇は地域に暴風などの災いをあたえ、住民は童女を人身御供に出せば禍い事が止むと信じていました。ある年、親孝行の娘がたった一人の祖母を置いて沼池に生け贄にされた時に天神が現れ大蛇を退治して災害を除きました。その後、娘は王子の嫁になり祖母と一緒に幸せに暮らしました。(石碑とガジュマル)「ムロキノ嶽 神名 アキミウハリ ミウノ御イベ」と記された石碑がガジュマルの下にひっそりと佇みます。「屋良ムルチ」には神が祀られており、周辺全体が拝所として森の御嶽として崇められています。足元には数えきれないガジュマルの根が土壌から力強くはみ出し、まるで大量の蛇が地面を覆っている不気味な雰囲気に包まれます。沖縄ではガジュマルは神が宿る木として大切にされ、勝手に木を切ったり枝を折ると祟られると信じられています。(屋良ムルチの沼)(拝所跡の石段)「ムロキノ嶽」の石碑の右手奥には全く水の流れが無い緑色に濁った沼が広がっています。大蛇伝説の舞台になったこの沼は、いつ大蛇が現れても何も不思議ではない静けさに包まれています。まさに私自身が生け贄の祭壇に取り残されたような気分に陥ります。水辺にはかつて石碑やウコール(香炉)が祀られていたと考えられる石段が残されています。石碑を設置していたと思われる箇所は「屋良ムルチ」の水面の方向を背にしています。(屋良ムルチのガジュマル)沼池沿いに生えるガジュマルは「屋良ムルチ」の沼水の恵みを受けて、その不気味で奇妙な根を大地に伸ばしています。ガジュマルの横には巨大な葉を持つクワズイモや亜熱帯植物が多数生息しています。まるでジャングルに足を踏み入れたような気分で、この地には多くのハブも生息するので十分に気を付ける必要があります。(ワニガメへの注意勧告)ゴツゴツした琉球石灰岩の地質、緑色に濁る沼池、亜熱帯の植物で造られた「屋良ムルチ」は地図上では比謝川に分類されます。濁った水は流れが全く無く水の色は不気味な緑色で、肉眼では魚などの生物は水中に確認不可能です。以前「屋良ムルチ」では危険生物に指定されるワニガメの目撃情報があり嘉手納警察署とニライ消防本部が出動するニュースになりました。(屋良ムルチ入り口脇の拝所)(拝所に祀られる香炉)「屋良ムルチ」は大蛇伝説だけでなく水の神として屋良集落の住民に大切に崇められていました。日照りが続くと「屋良ムルチ」のウガンジュ(拝所)に住民が集まり雨乞いの儀式が行われていたそうです。大昔からこの地は人々の重要な祈りの場で心の拠り所として存在し続けました。人々の祈りの魂や精霊が漂う屋良ムルチはスピリチュアルなパワースポットであり、瞑想をして心を研ぎ澄ませると琉球のロマンを五感に感じる事ができる聖地なのです。
2020.12.19
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(チビチリガマの祠)「チビチリガマ」は読谷村波平にあるガマ(鍾乳洞)で、1945年の沖縄戦における悲惨な集団自決が行われた場所です。読谷村に攻め入った米軍から逃れるため139名の住民がチビチリガマに避難し82名が自決、その過半数が子供達だった悲劇の歴史があります。(チビチリガマの標識)チビチリガマへは国道58号線を那覇から読谷村に入り伊良皆交差点を左折して右手に読谷高校を過ぎて直進します。左手に米軍施設トリイステーションの2つの鳥居が見えます。そのまま直進してタウンプラザかねひで読谷店前の信号で左斜めに入ります。すると写真の「チビチリガマ80m」の看板が見え右手にチビチリガマの駐車場が見えて来ます。(チビチリガマへ下る階段)この階段がチビチリガマの入り口です。入り口は特に恐怖や重々しい雰囲気は感じませんが、階段を下りるにつれて身体に重い圧力がかかって来ます。ある一線からピンと張り詰めた空気に包まれて、いよいよ聖域に入り込む覚悟が湧いてきます。(ウガンジュ/拝所)階段を降り切ると薄暗い小さな空間が広がり正面にはゴツゴツとした琉球石灰岩で造られたウガンジュがあります。重苦しい空気力に身体を圧迫されながらウガンジュを見つめると自決した人々の魂の悲しみ、怒り、恐怖の全てが強烈に伝わって来たのです。(鍾乳洞入り口)ウガンジュの左には沖縄戦で住民が自決したガマがあり沢山の千羽鶴が生々しく飾られていました。私はガマの入り口に膝まづき自己紹介と訪れた理由を言葉でゆっくりと伝えて、この場で自決した人々への慰霊の言葉と沖縄の平和を心から祈りました。その後もしばらく目を閉じたまま瞑想を続けたのです。(チビチリガマのガジュマル)目を開けると重苦しい圧力が一気に消え去り、全てがフワッとした浮き上がる雰囲気に突然包まれました。物凄く心地の良い空間に身体を委ねると足元の枯葉が何枚も空気中に浮き上がり、爪楊枝の様な謎の物体が3本連なるように私の目の前に浮遊していました。すると3本の細い物体が一本ずつ物凄い勢いであちこちに飛び去って行くのです。(チビチリガマの地蔵)すると直後私の頭上に「バチッバチッバチッバチッ!」と爆音が30秒近く鳴り響きました。爆音がピタッと止むと非常に心が穏やかになり全てのストレスも消え去り、この場所に何時間でも居続けたい優しい気分に包まれました。まさに私の魂が浄化されたようで、純粋で無垢な気持ちで落ち着いていました。(チビチリガマの歌)しかしながら、その日は快晴で無風だったので今でも爆音の原因は不明。さらに爪楊枝のような羽のない謎の浮遊物体の正体も未解決のままです。この超常現象はチビチリガマが起こした奇跡であり、この地場に集まる魂のパワーが創り出した怪奇現象です。チビチリガマで犠牲になった魂と沖縄の平和を改めて心から祈り、二度と悲惨な戦争を起こしてはいけない決意を強く持ちチビチリガマを後にしたのです。
2020.12.17
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(大山貝塚の祠)大山貝塚は沖縄県宜野湾市大山にあり、隣接する「森川公園」と恩納村の「SSS」に並ぶ沖縄の三大心霊スポットとして知られています。沖縄のシャーマン「ユタ」の修行場所としても有名で、大山貝塚は決して遊び半分や肝試しで訪れる場所ではありません。ここは沖縄の歴史を学ぶ場所であり、敬意を払って訪れる聖域なのです。(普天間基地のフェンス)宜野湾市のファミリーマート大山店から400メートルほど坂道を上がると米軍普天間基地のフェンスにたどり着きます。フェンス内は住宅エリアになっていて米軍関係者が普通に暮らしています。沖縄戦の時には大山貝塚近くの防空壕に沢山の沖縄の住民が避難していましたし、この一帯は沢山の犠牲者も出た激戦地でした。(大山貝塚の碑)フェンス沿いに50メートほど進むと「史跡大山貝塚」の碑に迎えられます。米軍基地フェンスに隣接するこの地に大山地区の守り神を祀るウガンジュがある皮肉、これは紛れもない沖縄の現実です。この碑の右手には大山貝塚に続く下り階段があります。(祠へ下る階段)階段を下り正面には大山貝塚のウガンジュが訪問者を待ち受けています。先人の霊、戦死者の魂、亡くなったユタの念が蠢く地場は不気味に、かつスピリチュアルに佇んでいます。階段を一段一段下りるにつれ重たい空気に身体が包まれてゆきます。これ以上進めない、進ませてくれない非常に強いパワーに足が動かなくなりました。(祠と鍾乳洞)石造りのウガンジュに手を合わせ名前を名乗り、訪れた理由を語りかけ沖縄の平和を祈りました。すると、それまで私の身体を縛り付けていた重過ぎる圧力がフッと消え、物凄い心地良い雰囲気に包まれました。ウガンジュの横には鍾乳洞の洞窟に下りる真っ暗な入り口があり「あの世への入り口」と呼ばれる聖域になっています。ユタはここから洞窟に入り厳しい修行をするのです。(大山貝塚のガジュマル)大山貝塚には神が宿るガジュマルがあります。琉球石灰岩をガジュマルの枝が何百年もかけて絡み付き見事な生命力を表現しています。ガジュマルの前にひざまづき瞑想を始め耳に聞こえる物、鼻から匂う物、目をつむり見える物、ガジュマルに触れる手に感じる物、そして精神が素直に想う物に集中して五感を研ぎ澄ませました。(大山貝塚の入り口)大山貝塚は確かにパワーの強いスポットです。遊び半分の肝試しに来る人には怖い心霊現象を与え、敬意を払って訪れる人にはスピリチュアルな心地良い雰囲気を与えます。私がパワースポットに取り憑かれる理由は、この掛け替えないパワーを感じる事と自分自身の魂の浄化の為です。大山貝塚はこの階段の下から今も訪問者を見つめているのです。
2020.12.16
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