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2021.11.05
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カテゴリ: 中城村



「中城ハンタ道」を「ペリーの旗立岩」から北側に進むと「喜石原古墳群」の深い森があります。その広大な森を抜けると「中城グスク」に到達し、首里城から勝連グスクまで続く「中頭方東海道」の中城村内を通る「中城ハンタ道」は終点を向かえます。 歴史の道と呼ばれる「中城ハンタ道」は12世紀ごろ 集落を繋ぐ 道として開通 し、14世紀前半に「 中山王尚巴王」によって 整備 されたと考えられる道です。 ペリー提督が率いる 「大琉球奥地探検隊」が沖縄本島を北上する時にも「中城ハンタ道」が使用され、この道は昔から沖縄本島を南北に巡る際の主要道路として重宝されていました。


(中城ハンタ道の迂回路)

(オーシャンキャッスルカントリークラブ前の案内板)

「ペリーの旗立岩」から「中城ハンタ道」の崖道を東側に下ると「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」の広大な敷地に突き当たります。本来の「中城ハンタ道」はゴルフ場の西側駐車場からクラブハウス、さらにゴルフコースの18番ホールから10番ホールを通り「村道ウフクビリ線」と「村道大瀬線」の交差点を抜けて「喜石原古墓群」の森に進みます。しかし、2003(平成15)年にゴルフ場が開場し、残念ながらこの区間の「中城ハンタ道」が消滅してしまいました。その為、現在は約800mに渡り「中城ハンタ道」の迂回路が設けられています。


(中城ハンタ道/喜石原古墓群)

(熱田根所門中の石柱)

(熱田根所門中の拝所)

「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」のゴルフコースを北東側に抜けて「喜石原古墓群」に入ると、本来の「中城ハンタ道」が再開します。その地点から「中城ハンタ道」を「中城グスク」方面に進むと、左側に「熱田根所門中」の石柱が立っています。その奥に細い森道が続いており、数十メートル進むと「熱田根所門中の拝所」があります。2本に分かれた木々の根元に石積みが組まれています。「熱田」は隣接する「北中城村熱田」の古集落の名前、「根所」は集落の発祥地、「門中」は集落発祥家の始祖を同じくする親族です。その為、この地は「熱田根所門中」の魂を祀る拝所だと考えられます。




(ギイスノテラ手前の拝所)

「中城ハンタ道」を更に進むと道が二股に分かれており、左に進んだ直ぐの右側に「ギイスノテラ」への階段があります。階段を登ると木の根元に石積みで囲まれた穴がありウコール(香炉)が設置されています。「ギイスノテラ」は「琉球国由来記」に「神名ギイス森ナンダイボサツ」と記されており「添石集落」の「マス島袋」という人物の祖先が霊石を安置して奉り、その子孫によって祭祀を司ったと記されています。「添石集落」では昔から「シーシティラ(添石のテラ)」と呼ばれていました。


(ギイスノテラのガマ)

(ギイスノテラのガマ内部)

「ギイス」とは「高い嶺」という意味で「ギイスノテラ」上部の岩山は「添石(シーシ)ガンワー」と呼ばれています。また「ギイスノテラ参り」と称して男装をした女性と意中の男性が夜な夜な逢瀬を繰り返していた事から「夜半前(ヤハンメー)御嶽」とも呼ばれています。沖縄では霊石を祀る神殿、洞穴、祠を「テラ」と言い、共同体の祭祀場である「御嶽」に対して航海安全やお授けなど「テラ」は個人的な願いを対象にしています。「ギイスノテラ」のガマ内部には多数の古い霊石が祀られており、琉球王国時代には「中城ハンタ道」を旅した人々もこの神聖な場所で祈りを捧げた事でしょう。


(掘込墓/フィンチャー)

(亀甲墓/カーミヌクーバカ)

(破風墓/ファーフーバカ)

「ギイスノテラ」から更に「喜石原古墓群」の森を西側に進むと幾つもの「堀込墓(フィンチャー)」が立ち並んでいます。 砂岩層(ニービ)の崖を掘り込んだ穴や、自然のガマ(洞窟)を利用した「堀込墓」は沖縄で一番古い種類の墓として知られています。更に古墓群を進むと「亀甲墓(カーミヌクーバカ)」も多数点在しています。「亀甲墓」の独特な形は女性の子宮の形から型取ったと言われ「母から生まれ、亡き後も母に帰る」という「母体回帰」の思想に基づくと考えられています。「喜石原古墓群」の中心から離れてゆくと「破風墓(ファーフーバカ)」が多く見られます。「破風墓」は屋根があり堀りもある「家」の形をした墓で「ヤーグヮーバカ」とも呼ばれています。


(添石ヌンドゥンチの墓の案内板)

(添石ヌンドゥンチの墓の入口)

(添石ヌンドゥンチの墓/ 地域情報システム「発見!なかぐすく」より引用)

「ギイスノテラ」手前の二股の道を右に進むと「添石ヌンドゥンチの墓」があります。この古い墓は「中城グスク」の 祭祀を 司っていた「ヨキヤ巫(ノロ)」の一族のお墓です。「 喜石原古墓群」内にあり「中城グスク」に近い「中城ハンタ道」の西側 斜面地にあります。 「添石ヌンドゥンチの墓」の入口には石垣が積まれ、琉球石灰岩で造られた石段は丘稜の頂きに続いています。現在は残念ながら深い草木に覆われており「添石ヌンドゥンチの墓」に到達する事が出来ないので、中城村の「地域情報システム『発見!なかぐすく』」より墓の画像を引用させて頂きました。


(雷岩)

(雷岩の大岩)

「添石ヌンドゥンチの墓」から更に北側に進むと「喜石原古墓群」の森を抜けます。ひときわ目立つ琉球石灰岩の大岩があり、この岩に雷がよく落ちたことから地元では「雷岩」と呼ばれています。「
雷岩」のある場所は「集落を結ぶ道」「新垣グスクへ続くハンタ道」「宜野湾市方面へ行く道」の3つの道が交わる地点で「雷岩」は旅人の目印となっていました。また、琉球王国最後の名将と呼ばれた「護佐丸公」が旧暦の中秋の名月の夜、宿敵であった勝連城城主「阿麻和利」の謀略により切腹し自害しました。その直後に空は厚い雲に覆われ、激しい暴風雨の嵐になり落雷がありました。雷が落ちたこの場所に突如出現した大岩が、この「雷岩」とだと言う伝承も残っています。


(中城城跡の石柱)

(中城城跡の正門)

「雷岩」から更に進むと「中城ハンタ道」の終点地の世界遺産「中城城跡」に到達します。「南上原糸蒲公園」から「中城城跡」を繋ぐ全長6.2キロの「中城ハンタ道」は歴史の道として琉球王国時代からの「中城」の遺跡文化財を多数現在に継承しています。かつての先人達が旅をした「中城ハンタ道」は琉球王国時代にタイムスリップ出来るスポット、集落、御嶽、グスク、拝所などを巡る事が出来る「歴史の道」であり、中城村のみならず古の琉球の歴史的、文化的、民族学的、考古学的に様々な視点から満喫出来る重要な遺産となっています。







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最終更新日  2022.03.06 23:00:02
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