全227件 (227件中 1-50件目)
(マンジュウガンジュ/満喜世御願所)沖縄県沖縄市の「高原集落」を南北に通る国道331号の東側に「満喜世山」と呼ばれる小高い丘陵があり、頂上に「マンジュウガンジュ」の祠が建立されています。この拝所の祠内部には「高原海洋神」と刻まれた石碑が祀られています。かつての「高原」は「嵩原/たきばる村」と「満喜世/まんじゅ・まんじゆ村」に分かれており「御当国御高並諸上納里積記」によると田畑とも中の村位と記されています。「満喜世村」の脇地頭は康熙8年(1669)から康熙14年(1675)まで「満喜世親雲上幸清」が務めており、他にも地方役人に与えられた「オエカ地」が置かれていました。「マンジュウガンジュ」の東側には「満喜世之殿」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『満喜世之殿 満喜世村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛・筵一枚 満喜世大屋子、神酒二 一米、一芋。同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(満喜世山/マンジュウガンジュ)(マンジュウガンジュの入り口)(満喜世山の森)(マンジュウガンジュの祠)(マンジュウガンジュの祠内部)(高原海洋神の石碑)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(満喜世山の森)(満喜世山/マンジュウガンジュ)(満喜世之殿)(満喜世之殿の拝所)(満喜世之殿)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿)
2024.05.06
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(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)沖縄県沖縄市の「仲宗根町」があり沖縄市役所の南東側の丘陵に「仲宗根ウガン」の祠が建立されています。こね周辺一帯は「ウチグスク/内城」と称され「仲宗根グスク」とも呼ばれています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『内城アマミヤ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 仲宗根村 / 外間之殿 神名 マネヅカサノ御イベ 同村 仲宗根巫崇所』と記されています。「仲宗根ウガン」の広場は「ウンサクモー」と言われており集落の「5月ウマチー」などで拝され、祠内には「仲宗根火神/地頭火之神」も合祀されています。更に、この丘陵一帯には約3,500年前から600年前に渡り存続した「仲宗根貝塚」があります。この遺跡からは抜歯された人の顎骨や動物の骨、祭祀に関係すると思われるガラス玉、中国製陶磁器や土器、青磁、白磁、鉄製の鎌、須恵器などが出土しています。(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽/仲宗根貝塚)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の灯籠)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(内城アマミヤ嶽の石碑)(外間之殿の石碑)(仲宗根火神の石碑)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の祠から見た鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の丘陵)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(ウンサクモーの拝所)(ウンサクモーの拝所の祠)(ウンサクモーの拝所の祠内部)(ウンサクモー/仲宗根貝塚)(ウチグスク/内城/仲宗根グスク)
2024.05.02
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(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)沖縄県沖縄市の中央部に「照屋/てるや集落」があり、国道331号沿いの丘陵に「アガリヌタキ/アガリヌウタキ」の祠が建立されています。1950年代の区画整理に伴い「御嶽の神・ヌールの神・火の神」が現在の場所に合祀されました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『照屋之殿 照屋村 麦大祭・稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛 上地地頭 供之。越来巫ニテ祭祀也。』は「アガリヌタキ」に相当すると考えられます。御嶽の南側に「メーヌカー/メーヌカーグヮー」があり、かつて周辺は田んぼであった為、農業用水や野菜等を洗う井戸であったと言われています。御嶽の北側には「クシヌカー」があり、民家の脇に井戸跡が現在も残されています。さらに県道を挟んだ御嶽の東側には「アガリヌカー/ウブガー」があり、昔は集落で子供が生まれた時に用いる産水を汲んでいました。また正月の元旦に汲む若水としても利用され、水量が豊富で水枯れしなかったと伝わっています。(アガリヌタキ/アガリヌウタキの鳥居)(アガリヌタキ/アガリヌウタキの祠入り口)(御嶽の神の石碑)(ヌールの神の石碑)(火の神の石碑)(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(クシヌカー)(クシヌカー)(クシヌカー)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガーのウコール)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガー)
2024.04.25
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(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿)沖縄本島中部の「うるま市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の西側に「クバウ御嶽」があり1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『コバウノ嶽 神名 マネヅカノ御イベ 宇堅村』と記され、更に『クバウ嶽ノ殿 宇堅村 麦・稲四祭之時、穂・シロマシ・花米九合宛・五水二合宛・神酒一宛 宇堅大屋子。同大祭之時、肴一器 魚。百姓中 供之。田場巫ニテ祭祀也。祭終テ、巫・夫廻神・根神・掟ノアム・根人へ同大屋子、昼食有賄也』との記述があります。「クバウ御嶽」の北東側に「シリガー」があり、現在は芭蕉/バナナ栽培等の農業用水として利用されています。また御嶽の西側で天願川沿いの土手にある「ウキンガー」からは現在も水が湧き出ています。御嶽の南東側には「アシビナー」があり、隣接する川辺にはかつて「宇堅村」を管轄していた「田場ノロ」が祭祀の際に舟に乗って集落を訪れた「ヌールワタイ」の跡が残されています。(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の鳥居)(クバウ御嶽の鳥居傍にある石碑)(宇堅村クバウ嶽之殿と記された石碑)(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の手水鉢)(シリガー)(シリガーの湧水)(シリガーのウコール)(シリガー傍の芭蕉畑)(ウキンガー/向かって右側)(ウキンガー/向かって右側のウコール)(ウキンガー/向かって左側)(ウキンガー/向かって左側のウコール)(ウキンガー/向かって左側の湧水)(アシビナー)(ヌールワタイ)(天願川)
2024.04.20
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(ヒャーカーガー)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「大山集落」があり「大山ターブックヮ」と呼ばれる広大な水田地帯に流れ込む「大山湧泉群」があります。「大山集落」の中央部に「ヒャーカーガー」の湧水があり、更にその東側に「ナイシガー」の井泉があります。現在、これらの井戸の水は農業用水として利用されており、宜野湾市の特産品である田芋栽培に役立てられています。「大山集落」の最も東側で「宜野湾パイプライン」と「国道58号」の間に「フルチンガー」があります。「オーグムヤー/青小堀」と称されるこの場所には大きな洞穴があり、開口部から湧水が流れ出ています。「フルチンガー」の湧水は周囲の土地を侵食して、側面が急な「オーグムヤーガーラ/青小堀川」となっています。現在はコンクリートで覆われており石碑とウコール(香炉)が祀られた祠が建立されています。(ヒャーカーガー)(ヒャーカーガーの石碑)(ヒャーカーガーの湧水)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(ナイシガーの湧口)(ナイシガー)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠内部)(オーグムヤー/青小堀の石碑)(オーグムヤー/青小堀のウコール)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀)
2024.04.18
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(アラナキガー)沖縄県宜野湾市の「大山集落」には広大な「ターブックヮ」と呼ばれる水田地帯があり、かつては稲作が盛んでしたが、現在は宜野湾市の特産品として知られる「ターンム/田芋」栽培が行われています。この「ターブックヮ」の周辺には水田を潤す湧水が豊富に存在しています。「大山幼稚園/大山小学校」の北西側に「アラナキガー」があります。現在は農業用水として水田に流れ混んでいますが、かつては那覇市の上水遊の水源の一つでした。「アラナキガー」の北東側に「ヤマチヂャガー」があります。この井泉も「大山湧泉群」の一つで現在は農業用水として利用されています。「ヤマチヂャガー」の北側の水田地帯には「ウーシヌハナガー」と呼ばれる井泉があります。この井泉から湧き出る豊富な水も「ターブックヮ」の「ターンムダー/田芋田」に流れており、田芋栽培の重要な水源として重宝されています。(アラナキガー)(アラナキガー)(アラナキガー)(水田地帯に流れ込むアラナキガーの湧水)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガーの湧口)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガー)(水田地帯に流れ込むウーシヌハナガーの湧水)
2024.04.13
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(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)沖縄本島中部「宜野湾市」の西海岸沿いに「大山集落」があり、湧泉群の豊富な水源が多い事で知られています。方言で「ウヤマ」と読むこの集落の南西側に「ヒーガーガー/メンダカリガー」と呼ばれる井泉があり、集落の「ウブガー/産井」として子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」として利用されていました。石造りの樋から流れる水は隣接する「大山ターブックヮー」の田園地帯に流れ込んでいます。「ヒーガーガー」の北東側に「ミジカシガー」という井泉があり「シンダカリヒーガー」の名称でも知られています。かつては現在よりも高い位置から水が湧き出ており、水汲みの女性が頭上に桶を載せたまま水を入れる事が出来たと伝わっています。さらに「ミジカシガー」の東側には「マジキナガー」と呼ばれる井泉があり、現在は主に農業用水として活用されています。(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石碑)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石樋)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの溜池)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガーの湧口)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)
2024.04.09
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(モーガー/テニンガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があり、この集落の南西側に「モーガー/テニンガー」の井泉が湧き出ています。昔から藻が多い井戸であったため「モーガー」と呼ばれるようになったと言われています。旧暦5月に稲や麦の五穀豊穣を祈願する「ウマチー」の際にウンサク(神酒/ミキ)を作り、屋号「コーチハンジャ/幸地波平」の椀に注ぎ祭祀が行われました。行事の後に使用した椀を「モーガー」で洗った事から「ウマチーガー」とも呼ばれていました。「モーガー」の東側に隣接した場所に「座喜味公園」があり、かつてこの地は「ターンムダー/田芋田」として田芋が栽培されていた「ダーブックヮ/田んぼ」でした。現在、公園の西側には「座喜味ミーフダー」と刻まれた石碑が建立されています。また、かつて「座喜味公園」の北側には「キジャマガー橋」と「西キジャマガー橋」が掛かっていて、更に「モーガー」の北側には現在も「カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ」の巨樹が育っています。(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーの石碑)(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーのウコール)(モーガー/テニンガーの湧水)(モーガー/テニンガー)(ターンムダー/田芋田跡)(座喜味ミーフーダーの石碑)(座喜味公園)(ターンムダー/田芋田跡)(ターンムダー/田芋田跡)(キジャマガー橋跡)(西キジャマガー橋跡)(カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ)
2024.04.06
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(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があります。「座喜味グスク」の南側に「ウェンダカリガー」があり「イリンダカリガー」とも呼ばれ旧正月の「ワカミジ/若水」を汲む井泉でした。旧暦9月の「ミジナディ/水撫で」にも利用され、額に水を付けて無病息災を祈願しました。村人が病気になった時や小児がイリガサー(はしか)にかかった時に重宝されました。「ウェンダカリガー」の南西側の森に「ティランカー」の井泉があり、かつて井戸の水はお茶用や豆腐作りに使用され地域の重要な水源として大切にされていました。。さらに「ティランカー」の西側には「ミーガー」があり、1904年(明治37)の干ばつの時に隣に住む「當山松田」の老婆により発見されました。その後、村の共同井泉として整備された井戸は「座喜味集落」の中でも比較的新しい井戸なので「ミーガー/新井」と呼ばれるようになりました。(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーの井泉)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのウコール)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのガジュマル)(ティランカー)(ティランカーの石碑)(ティランカーの井泉)(ティランカーのウコール)(ティランカーの井泉)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の石碑)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の井泉)(ミーガー/新井)
2024.04.02
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(字伊禮拝所)沖縄本島中部の「北谷町/ちゃたんちょう」にある「伊平集落」は戦前まで「伊禮/イリー集落」と「平安山/ハンザン集落」に分かれていました。「字伊禮拝所」にかつて「ハンザンヌル/平安山ノロ」が来て拝んでいた「トゥン/殿」が祀られており、キジムナーの妖精がいたと伝わる樹齢100〜200年のガジュマルの巨木があります。この拝所には鎮守の森と言われた「クランモー/蔵森」から移設された「クランモーヌカー/蔵森の井戸」と「クランモーフェーヌカー/蔵森南井戸」のウコール(香炉)が祀られ「アラカチヌカー」とも呼ばれる「クシヌカー/後の井戸」と「ウブガー/産井」であった「イーマガニクヌカー/上間兼久」のウコールも合祀されています。さらに「土帝君・祖霊神・火の神」のウコールを祀った祠も建立されています。「字伊禮拝所」の西側にある森の中に湧水井戸の「ウーチヌカー」があります。この井戸は旧暦5月15日の「グングヮチウマチー」の時に「ハンザンヌル」が祭祀を行う井戸で、雨乞いの際にも拝まれ豚を潰して供えていました。(字伊禮拝所の石碑)(トゥン/殿の拝所)(トゥン/殿の石碑)(トゥン/殿のウコール)(字伊禮拝所のガジュマル)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の拝所)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の香炉)(祠の賽銭箱と香炉)(土帝君・祖霊神・火の神の拝所)(土帝君・祖霊神・火の神の香炉)(ウーチヌカー)(ウーチヌカーの森)(ウーチヌカーの湧水)(ウーチヌカーのガジュマル)
2024.03.25
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(歌三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑)沖縄本島中部「読谷村/よみたんそん」に「楚辺/そべ集落」があります。この集落の西海岸に集落発祥の地と言われる「ユーバンタ」があり「ユータティバンタ/世立ちの崖」とも呼ばれています。戦前までこの崖の南東側は風葬地帯で現在は唄三線の始祖として知られる「アカヌクー/赤犬子」の墓碑が建立されています。「ユーバンタ」は魚群を発見する「イユミーバンタ」や旅立つ者を見送る「フナウクイ/船送り」の地であり、戦前は村の若者達が集い遊ぶ「アシビナー/遊び庭」でした。さらに「ユーバンタの浜」の南側には悲惨な沖縄戦の実相を伝え、平和の尊さを発信する象徴として「艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑」が建てられています。この作品は1971年頃に「楚辺」出身の比嘉恒敏(ひがこうびん)氏が作詞作曲した沖縄民謡で、比嘉氏の4人娘の民謡グループ「でいご娘」がレコーディングし沖縄県内で大ヒットしました。(ユーバンタ/ユータティバンタ)(ユーバンタ/ユータティバンタからの風景)(赤犬子大主之墓碑)(ユーバンタの浜)(ユーバンタの浜の景色)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑からの風景)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)
2024.03.21
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(シタドゥミガー/シタズミガー)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。惣慶公民館の北側に「シタドゥミガー/シタズミガー」があり1945年頃まで集落の飲み水として利用されていました。旧暦9月9日の「カーウ拝み」には門中や各家庭で餅・酒・花米・ヒジュルウコー(火を付けない線香)を供えて水への感謝を込めて拝しています。また公民館の南西側には「ワタンジガー/渡地河」があり現在も水が湧き出ています。さらに公民館の南東側にある「カータ原遺跡群」には「カータガー/川田河」があります。沖縄貝塚時代中期(縄文時代晩期)の石斧やグスク時代の土器が発掘されている事から、かつての「惣慶」にはカータガー周辺に古い集落があったと考えられています。「惣慶」の地頭であった「惣慶忠義/1686-1749年」が次の歌を詠んだと伝わっています。『川田河の松の枝もちの美らさ 惣慶若者の並の美らさ 近く見りば伊計離、浜、平安座 遠く見りば 勝連与那城 波風静か うえばるじょうから 波うち立ててくる景色や どっと よへんでえびる』(シタドゥミガー/シタズミガー)(シタドゥミガー/シタズミガーのウコール)(シタドゥミガー/シタズミガーのヒジュルウコー)(シタドゥミガー/シタズミガー)(ワタンジガー/渡地河)(ワタンジガー/渡地河)(ワタンジガー/渡地河の湧水)(ワタンジガー/渡地河のウコール)(ワタンジガー/渡地河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河のウコール)(カータガー/川田河)
2024.03.16
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(惣慶のお宮/惣慶宮)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。「惣慶公民館/惣慶区事務所」の西側に隣接する一帯には御嶽の森が広がり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『マチョウガマノ嶽 神名 アラハタヨリフサノ御イベ 惣慶村 麦大祭之時、仙香•花米九合・麦神酒二器、同村百姓中供之。漢那巫ニテ祭祀也。漢那巫崇拝所。』と記されています。かつては普段の立ち入りや木々の伐採が禁じられた男子禁制の御嶽で「漢那ノロ」を招き祭祀が行われていました。1942年、那覇市の「波の上宮」より「イザナミノミコト/伊弉冊尊・ハヤタマオノミコト/早玉男命・コトサカオノミコト/事解男命」の三神が分霊されました。「お宮」の東側に「ウブガー/産井」があり、集落で子供が産まれた時に使用する「ウビナディ/水撫で」として利用されました。さらに正月の「ワカミジ/若水」としても重宝されていました。(惣慶ウガン所/惣慶児童公園/南西側入り口の鳥居)(御嶽内のオキナワウラジオガシ)(惣慶のお宮/惣慶宮の鳥居)(惣慶のお宮/惣慶宮の鳥居扁額)(惣慶のお宮/惣慶宮の手水舎)(手水舎の石鉢)(惣慶のお宮/惣慶宮)(惣慶のお宮/惣慶宮の社殿内部)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井のウコール)(シマカー/島カー)(シマカー/島カー)(シマカー/島カーのウコール)
2024.03.14
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(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。この集落の東西北の入り口には「イシガントウ/石敢當」と呼ばれる石灰岩の村獅子が安置されています。かつて、人々に不幸をもたらす災い(悪霊や火災など)は集落の入り口から来ると信じられてきました。「イシガントウ」は集落に入ろうとする災いを跳ね返す「ヒーゲーシ」のために置かれたと伝えられています。この東西北の「イシガントウ」では明治44年まで旧暦9月5日に「シマカンカー」という年中行事が行われていました。「シマカンカー」は悪霊が集落へ侵入する事を防ぐ目的で催されり祭祀で、かつて集落にあったウシナー(闘牛場)で牛または豚を潰し、その肉を煮て東西北3箇所の「イシガントウ」に供えました。供えた肉は集落の人々に分け与えられ、子供達には「一口食/チュクチクェー」と言って一口づつ配っていたそうです。その後「惣慶集落」では暫く「シマカンカー」が途絶えていましたが、1985年に復活し現在も集落の大切な年中行事として継承されています。(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)
2024.03.09
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(イビ神/漢那村の祖霊神)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があり、漢那ビーチの北側に漢那公民館(漢那区事務所)があります。この公民館の周辺は「ユウアギモー」と呼ばれる御嶽で、1713年に琉球王府が編纂した「琉球国由来記」に『ヨリアゲ森 二御前 漢那村 壱御前 神名 真南風ノワライヅカサノ御イベ 壱御前 神名 オラウセナデルヅカサノ御イベ』と記されています。「ユウアギモー」の聖域である「イービメー」一帯はかつて左縄が張り巡らされ男子禁制の場所でした。1938年に「イービメー」の石灰岩の上に神社風の神殿が造られ「お宮」と呼ばれるようになりました。その昔「イービメー」の岩の後ろには骨神を入れた骨甕が安置されていましたが、現在は「お宮」の脇に建てられた祠に納められています。1702年に刊行された「琉球国絵図郷村帳」には『はま村』と記載されている事から、琉球王国時代の漢那には「漢那村」と「浜村」があったと伝わっています。(イビ神/漢那村の祖霊神)(イビ神のウコール)(龍宮神の祠)(龍宮神の祠内部)(龍宮神のウコール)(漢那のお宮/漢那宮の鳥居)(漢那のお宮/漢那宮)(漢那のお宮/漢那宮)(漢那のお宮/漢那宮の拝所)(骨神の祠)(骨神の祠のウコール)(漢那のお宮/漢那宮の鐘)(ユウアギモーのイービメー)(渡地の御願所/浜村の祖霊神)(渡地の御願所/浜村の祖霊神の石碑)(渡地の御願所/浜村の祖霊神のウコール)
2024.03.07
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(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があり、この集落の東側丘陵に広がる「ヨリアゲ森」は「ウェーヌアタイ森」と呼ばれています。この森の中にある鍾乳洞穴には風葬墓があり「漢那ウェーヌアタイ木製家型墓」が安置されています。1912年頃に「漢那集落」の屋号「仲ニーブ」の老婆がこの風葬墓に納骨されていたのが一番新しいと言われています。木棺にまつわる伝承は、グスク時代に首里の奥方が重病にかかり亡くなるまでに早急に木棺を造るように命じられました。その後完成した木棺を浜から運ぼうとしましたが、奥方が亡くなった連絡により木棺は浜に放置されてしまいました。この木棺を「ウェーヌアタイ森」の風葬墓で使用したと伝わっています。宜野座村立博物館の調査の結果、木棺内の北側に納骨の空間が設けられ頭を西側、四肢骨や肋骨などは東側に配置されており計170体の方々が祀られていました。(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴/風葬墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓のウコール)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓の内部)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓のウコール)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)
2024.03.02
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(水神の碑/ヨリアゲ森)沖縄本島北部にある「宜野座村/ぎのざそん」の「漢那/かんな集落」には「ヨリアゲ森」と呼ばれる丘陵があります。この森は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『ヨリアゲ森 神名 カワヅカサノ御イベ 漢那村 麦大祭之時、仙香・花米九合宛・麦神酒二器宛、同村百姓中供之。漢那巫ニテ祭祀也。』と記されています。「ヨリアゲ森」の麓に「ヒージャーガー/ヒーザー川」という「ヒージャー/樋川」があり「水神の碑」が祀られています。この「ヒージャーガー」は旧正月には集落で「カーウガミ/川拝み」が行われ水の恵への感謝が祈られています。また「ヒージャーガー」は宜野座村の水道発祥の地としても知られており、1938年に建設された貯水タンクが現在も残されています。更に「ヨリアゲ森」を通る「宿道跡」の西側は「長寿の森」と称されており丘陵の入り口には「長寿の碑」が建立されています。(水神の碑の石碑/ウコール/霊石)(水神の碑の石碑)(水神の碑のウコール)(水神の碑の霊石)(ヒージャーガー/ヒーザー川)(ヒージャーガーのヒージャー/樋川)(ヒージャーガーの清流に架かる橋)(ヒージャーガーの清流)(ヨリアゲ森)(漢那ヨリアゲの森の地質の案内板)(ヨリアゲ森の宿道跡)(長寿の碑)(長寿の碑)
2024.02.27
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(漢那祝女殿内)沖縄本島北部にある「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があります。この集落には「祝女火の神/ノロヒヌカン」を祀った「漢那祝女殿内/ノロドゥンチ」の祠があり「漢那ノロ」により祭祀が行われ、村の豊作や豊年が祈願されていました。「漢那祝女殿内」の南西側に隣接した場所に「神アシャギ/神アサギ」があり村の守護神を招いて「漢那ノロ」が司る祭祀が執り行われていました。また「神アサギ」の東側に広がる「漢那農村公園」の広場には「馬川/マーガー」と呼ばれる「クムイ/池」跡があります。この「クムイ」は「漢那ノロ」の馬を水浴びさせる井泉の池で「漢那ノロ」は権威の象徴たして馬を連れて祭祀を行っていました。その愛馬の容姿を詠んだ歌が残されています。『漢那のろくみの乗りみせる馬や 爪は綾爪に真黒立髪』(漢那祝女殿内)(漢那祝女殿内の内部/御先祝女・中祝女・今祝女)(漢那祝女殿内の内部/根人神・地頭神・居願神)(漢那祝女殿内の内部/安富祖家先祖代々之霊位)(漢那祝女殿内の内部/根人神の火の神・居願神火の神)(地頭火の神/村火の神の祠)(神アシャギ/神アサギ)(神アシャギ/神アサギのウコール/香炉)(馬川/マーガー)(馬川/マーガーの石碑)(馬川/マーガーのウコール/香炉)(馬川/マーガーのクムイ/池跡)(漢那祝女殿内の北西に隣接する拝所の祠)(拝所の祠内部)
2024.02.22
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(ヌールガー/祝女川)沖縄本島北部の東海岸に「宜野座村/ぎのざそん」があり、この村の南西部に「漢那/かんな集落」があります。「漢那ヌールガー/祝女川」は集落の東側丘陵の谷間から流れる水をを引いた拝泉で「漢那集落」の祭祀の際にヌール(ノロ)が「ヌールガー」で水浴びをして身を清めていました。この拝泉にはヌールが髪を洗う時に使用した「クチャ」と呼ばれる泥を捏ねた「タマチブ」という凹んだ石が残されています。更に「ヌールガー」の北側には「漢那ウブガー/産井」があり、同じく集落東側丘陵の谷間からの水が湧き出ています。かつて集落で産まれた赤ん坊の産湯に使う水を汲んだ井泉として重宝されていました。この2つの井泉では旧暦9月9日に集落の先祖代々が恩恵を受けた井泉を拝する「カーウガミ」が行われていました。(ヌールガー/祝女川)(ヌールガー/祝女川の石碑)(ヌールガー/祝女川のウコール)(ヌールガー/祝女川のヒジャイガミ霊石)(ヌールガー/祝女川のタマチブ)(クチャを捏ねたタマチブ)(ヌールガー/祝女川)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井の石碑)(ウブガー/産井のウコール)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)
2024.02.19
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(屋嘉節の歌碑)沖縄本島北部の最南端に「金武町/きんちょう」があり「屋嘉/やか集落」の国道329号(国道331号)沿いに「屋嘉節の歌碑」が建立されています。「屋嘉節」は1945年の沖縄戦後に「金武村/現金武町」の「屋嘉」に設けられた旧日本軍将兵の捕虜収容所で創作されました。現在の金武町立嘉芸小学校の校地周辺を米軍がブルドーザーで整地し、投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉捕虜収容所」が設けられました。沖縄出身の捕虜達は空き缶や有り合わせの木材を使い、パラシュートの紐を弦として「カンカラ三線」を作り演奏するようになりました。やがて沖縄の一兵士により「屋嘉節」が生まれて広まり、現在は沖縄民謡として歌い継がれています。隣接する屋嘉の浜には「竜宮神」があり航海安全やニライカナイの神を拝む拝所となっています。(屋嘉節の歌碑)(屋嘉節の歌碑)(日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑)(日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神/ウコール)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉ビーチ前バス停)
2024.02.15
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(ミージョーガー/ジョーガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」にある「座喜味/ざきみ集落」があり「座喜味グスク」の西側に「ジョーガー」と「ミージョーガー」が隣接しています。集落を取り巻く川の一番上部にある事から「ジョーガー/上ガー」と呼ばれた説があります。また「座喜味グスク」でも使われた事から「グスクガー/城ガー」とも言われています。「ジョーガー」はお茶の水として汲まれ、味は格別だったと伝わってます。「ミージョーガー」は昭和初期の干ばつの際に「ジョーガー」の北側に新たに造られました。隣り合う2つの井泉は水質が異なり水の味が全く違う事で知られていました。「ジョーガー」と「ミージョーガー」は旧正月のハチウガン(初御願)や旧暦9月のウビナディ(水撫で)で拝され、井泉の水は新年のワカミジ(若水)や出産の際のウブミジ(産水)として用いられました。(ジョーガー/ミージョーガーへ降りる階段)(ジョーガー)(ジョーガーの石碑)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガーのウコール)(ミージョーガー)(ミージョーガーの石碑)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー/ジョーガー)(ジョーガー/ミージョーガーの拝所)(ジョーガー/ミージョーガーのクワズイモ)
2024.02.12
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(ウェーガー/エーガー/親川)沖縄本島中部の西海岸に「読谷村/よみたんそん」があり、世界文化遺産で知られる「座喜味城跡」の東側谷間に「ウェーガー」があります。この井泉は座喜味城主が専用に使用した古いカー(井泉)と伝わっており「エーガー/親川」や「グスクガー」とも呼ばれています。その昔イリガサー(はしか)にかかった際に「ウェーガー」の水でミジナディ(水撫で)すると早く治ると言われていました。戦前までこの井泉は旧暦1月の「ハチウグヮン/初御願」や旧暦9月の「ウビナディ/水撫で」の行事で拝されていました。さらに旧正月の元旦にはワカミジ(若水)を汲み、出産の際には産水として用いる「ウブガー/産井」として利用されていました。「ウェーガー」には石造りの古い石碑・ウコール(香炉)とコンクリート製の石碑・ウコールが祀られています。(ウェーガー/エーガー/親川へ続く森道)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガー/エーガー/親川へ降りる階段)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガーの石碑/向かって左側)(ウェーガーのウコール/向かって左側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガーの古い石碑/向かって右側)(ウェーガーの古いウコール/向かって右側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガー/エーガー/親川へ向かう散策路/木道)(ウェーガー/エーガー/親川の森)
2024.02.10
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(根神地/カミヤー)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「瀬良垣/せらがき集落」があります。「瀬良垣公民館」に隣接した「根神地」と呼ばれる場所に「カミヤー/神屋」と「神アサギ」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根神火神 瀬良垣村 山留ニ竹木伐故、為作毛折願之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。ミヤ種子之日、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中、供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 瀬良垣村 稲穂祭之時、五水二合 地頭、シロマシ一器・神酒二・干魚一絡 百姓中。稲大祭之時、五水二合 地頭、炊飯二器・神酒三・干魚一絡 百姓中。右、恩納巫祭祀也。柴指之時、神酒二 百姓中 供之。居神ニテ祭祀也。』との記述があります。(根神地/カミヤーの鳥居)(根神地/カミヤー)(カミヤーの仏壇)(根神火神/ニーガンヒヌカン)(根神火神/ニーガンヒヌカンに供えられた塩)(根神地の拝所)(根神地の拝所に祀られた霊石)(根神地の拝所/ヒジャイガミ)(神アシアゲ/神アサギ)(紫微鑾駕/しびらんか護符)(紫微鑾駕/しびらんか護符)
2024.02.06
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(瀬良垣竜宮神)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」の北部に「瀬良垣/せらがき」集落があります。1635年以降に先島を除く沖縄本島と周辺離島の石高を間切と島ごとに集計した帳簿である「琉球国高究帳」には「せらかち村」その他の地誌には「瀬良垣村」と記されています。「瀬良垣集落」の北西側に「サーシヌ子/サーシヌクワ」と呼ばれる小島に「瀬良垣竜宮神」の祠がありニライカナイ神が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『一御前 神名 シマネドミ 年浴之時、仙香・花米五合・神酒一、瀬良垣村百姓中供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』との記述があります。「サーシヌ子」の北側に「サーシ屋」という旧家の畑があった「サーシノハナリ/サーシバナレ」と呼ばれる小島があり、旧暦三月三日に「瀬良垣村」の神女と村人により拝されていました。(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ入り口)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの祠)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの石碑)(瀬良垣竜宮神/シマネドミのウコール)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たダイヤモンドビーチ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見た名護市方面)(サーシヌ子/サーシヌクワ周辺の瀬良垣小島嶼群)(サーシヌ子/サーシヌクワのソテツ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たサーシノハナリ)(ヨリアゲ森方面から見たサーシノハナリ)
2024.02.04
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(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)沖縄本島北部の西海岸最南端に「恩納村/おんなそん」があり、この村の北側に「瀬良垣/せらがき集落」があります。この集落の北側海沿いに「ヨリアゲ森」の御嶽があり「瀬良垣ウドゥイガマ」と呼ばれる鍾乳洞で形成されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『ヨリアゲ森 瀬良垣村 一御前 神名 アフヤマノイベナヌシ』と記され、更に『毎年、四月朔日ヨリ五月中、山留也。然ドモ、公用ニ竹木伐デ不叶故、為作物崇祈之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。年浴之時、仙香・花米五合・神酒一、同村百姓中供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』との記述があります。この御嶽は正月元旦、五月十五日稲穂祭、六月十五日熟穂祭で拝されていました。(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/御嶽のイビ)(ヨリアゲ森/イビのウコール)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森)
2024.02.03
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(ウッチガー/掟井泉)沖縄本島中部の東海岸沿いに「読谷村/よみたんそん」があります。「座喜味/ざきみ集落」はこの村で最も古い集落として知られ、各村の生産高を集計した「琉球国高究帳(1635年)」には『城村』と記されています。「座喜味集落」の南東側に「ウッチガー/掟井泉」があります。読谷山間切座喜味村の「上地親雲上/イーチペーチン」が現在の区長に相当する役職である「ウッチ/掟」に就いていた頃、田んぼ近くの岩間に湧泉を発見し整備した事が「ウッチガー/掟井泉」の名称の由来であると伝わっています。「上地親雲上」の子孫が屋号「東上地/アガリイーチ」にあたり、子孫や座喜味集落では「上地親雲上」を「ウシータンメー」と呼び崇敬を寄せています。また「ウッチガー」の南側に「座喜味世ヌ主の妻の御墓」がありウコール(香炉)が祀られています。(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉の石碑)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(ウッチガー/掟井泉)(座喜味川)(座喜味川)(座喜味世ヌ主の妻の御墓)(座喜味世ヌ主の妻の御墓の標識)(座喜味世ヌ主の妻の御墓)(座喜味世ヌ主の妻の御墓のウコール)(交通安全のキジムナー像)
2024.01.30
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(ダッチンガー/ダチンガー)沖縄本島中部の西海岸に「読谷村/よみたんそん」があり、この村の中央に「座喜味/ざきみ集落」が広がっています。「座喜味」は「ザチミ」または「ジャチミ」と呼ばれ「読谷村」で最も古い集落となってます。「座喜味集落」の南東側で県道12号線下に流れる「ザキミ川/座喜味川」の川沿いに「ダッチンガー/ダチンガー」と呼ばれる井泉があります。この井泉は村内で初めて造られた「ニーブガー/柄杓で水を汲む井泉」であると伝わっています。井泉の名称の由来は「座喜味/ザチミ」から「ザチン」「ザッチン」と訛り「ダッチン」になったと言われています。さらに「ダッチンガー/ダチンガー」の周囲には霊石とウコールが祀られた井泉の拝所と、座喜味村の按司が葬られた「座喜味世ヌ主の御墓」の古墓が隣接しています。(ダッチンガー/ダチンガー)(ダッチンガー/ダチンガーの石碑)(ダッチンガー/ダチンガーのウコール)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所/ウコール)(ダッチンガー/ダチンガーの拝所/霊石)(ザキミ川/座喜味川)(ザキミ川/座喜味川の石碑)(座喜味世ヌ主の御墓)(座喜味世ヌ主の御墓/標識)(座喜味世ヌ主の御墓)(ダッチンガー/ダチンガー)
2024.01.27
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(許田の手水/クシヌカー)「名護市」の「許田/きょだ集落」は沖縄本島南部の東海岸にある名護湾に面した小さな部落です。旧名護間切の南部に位置しており、沖縄の方言で「チューダ」と言われています。17世紀中頃の古文書には『久田』とあり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『許田』と表記されています。現在は大幅に埋め立てられていますが、かつては集落の山地の麓に大きなウチウミ(内海)があり、そこを中心に「ティミジ/手水・フクジ/袋地・クチャマタ/古知屋又・ヒンジュク/湖辺底」という4つのムラで形成されていました。(許田の手水/クシヌカーの祠)(許田の手水/クシヌカーの祠内部)その昔「許田」にたいへん美しい娘がいました。ある日、この娘がムラの後ろにある「クシヌカー」という井泉で水を汲んでいると、馬に乗った首里の殿様が通りかかり娘に「水をください」と声をかけました。娘がニーブ(ひしゃく)を使って水をあげると、殿様は「あなたの手で水を汲んでください」と言ったので、娘は手で水を汲んであげました。その仕草と娘の美しさに惚れた殿様は娘を首里に連れて行ったという話が伝えられています。それから「クシヌカー」の井泉を「手水」と呼ぶようになりました。「許田の手水」の水は洗い物などの生活用水ではなく、飲料水やミーミジ(若水)やウブミジ(産水)に使用されたと言われています。(許田の手水/クシヌカーの手水鉢)(許田の手水/クシヌカーの石碑)「許田集落」の入り口に現在の橋が掛かる前は、大きく入り込んだウチウミの入江沿いに道があり古地又(こちやまた)や福地原(ふくちばる)を通って「許田の手水」の前を通るようになっていました。この道沿いにあった「手水」は昔から村人のみならず、多くの旅人の喉を潤してきました。さらに、この井泉が娘と殿様の伝え話と共に広く知れ渡り「平敷屋朝敏/へしきやちょうびん」作の組踊『手水の縁』の題材に利用されました。その他「許田の手水」にまつわる琉歌も詠まれています。『馬よ引き返せ しばし行き見ぼしや 音に聞く名護の 許田の手水』ー与那原親方良矩ー(許田のウバメガシ/ナーナンギー)(許田のウバメガシ/ナーナンギー)「許田の手水」後方の山中に「許田のウバメガシ」という名護市指定天然記念物の古樹があり、地元では「ナーナンギー/ナーナシギ」と呼ばれています。「許田集落」の旧家「寛栄屋」の家主が案内してくれた「ウバメガシ」は戦後台風で倒れた老大樹の萌芽木で、現在は幹の先まで空洞化し名護市の管轄で管理されています。「ウバメガシ」は神奈川県以南、四国、九州、中国の主に沿岸の潮風が厳しい環境に分布し、沖縄では伊平屋島、伊是名島に林があります。「許田のウバメガシ」は分布の南限地となっています。「ウバメガシ」は樹木としての成長は遅く材の目詰まりが著しいため、薪炭材として火持が良く高い温度を発生させる白炭や備長炭として重宝されてきました。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の鳥居)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の石碑)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の階段)「許田集落」の東側丘陵で「許田の手水」に隣接した場所に「クシヌウタキ/後ヌ御嶽」があります。この御嶽は集落の守護神が祀られており、戦前は小さな拝所でしたが昭和40年に現在の祠に改修されました。「琉球国由来記」に記されている『ヨリアゲマキウノ嶽 神名 イベヅカサ 喜瀬巫崇所』は「クシヌウタキ」に相当すると考えられ「喜瀬ノロ」の管轄として祭祀が執り行われていました。「許田集落」を一望できる「クシヌウタキ」の丘陵麓には「後ヌ御嶽」と彫られた石碑があり、御嶽の入り口には鳥居が建立されています。丘陵の頂上には「クシヌウタキ」の祠があり内部にはウコール(香炉)が祀られており、花瓶、ロウソク、三方が設置されています。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠内部)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の階段)「許田の手水」は山裾の「ヒージャー/樋川」と呼ばれる湧き水で、昔から飲料水として重宝されていました。この「手水」は琉歌にもよく謳われています。『面影よ残す許田の玉川に なさけ手にくだる水の鏡』ー玉城親方朝薫ー『昔手にくだける情から出ぢて なまに流れゆる許田の手水』ー詠み人知らずー『見る人はつめていきかはりがはり いつも流れゆる許田の手水』ー粟国親雲上ー『手水しゆて代々に名を残す人の いきやしがな行衛たづねぼしやの』ー喜瀬筑登之ー
2023.12.07
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(かすりの道の標識/琉球かすり会館)沖縄本島南部の「南風原町/はえばるちょう」に「ティーラ/照屋・チャン/喜屋武・ムトゥブ/本部」の「サンカ/三箇」と呼ばれる3つの集落を巡る「かすりの道」があり「かすりロード」とも呼ばれています。「かすり/絣」とは染め抜かれた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りなす図柄の"かすれ"から「かすり」と呼ばれています。身の回りの動植物や生活道具、さらに自然界から着想を得て巧みに反映されています。「かすり」の技術は14〜15世紀に沖縄が東南アジアの国々と交易をしていた頃、インド発祥の「かすり」がインドネシアやフィリピン、中国などを経由して沖縄に伝わったと言われています。(トゥイグヮー)(カキジュー)(イチチマルグムー)(ブリブサー)「トゥイグヮー」は鳥(トゥイ)を模った「かすり」で、曲線は同じ長さに染められた緯絣(よこがすり)を両手で左右にずらしながら織る「幅小寄/ハバグヮーユイ」や「手寄/ティユイ」と呼ばれる技法で織られています。「カキジュー」は鍋や道具を吊るして掛ける道具の紋様となっています。このような沖縄の生活に密着した道具をモチーフにしたかすりのデザインが豊富にあります。「イチチマルグムー」は緯絣2本ごとに絣の無い緯糸1本を織り、ぼかして5つの丸い雲を表現した紋様となっています。「ブリブサー」は夜空に輝く星団を経絣と緯絣の重なりで地色との対比を強調して群星を表現しています。(トゥイグヮー)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)親子で飛ぶ「鳥小/トゥイグヮー」は琉球絣の中で最も多く用いられる緯絣の紋様として知られています。海外から沖縄に伝わった「かすり」は琉球王府を通じて薩摩に渡り、そこから日本全国各地へと広がって行きました。「南風原」で特に琉球絣が盛んになったのは大正時代の頃で、南風原尋常小学校に織物を指導する女子補習学校が併設され、熊本県出身の「金森市六」が絣技術を指導しました。退職後は「宮平・山川」で織物工場を経営して南風原の織物産業の発展に貢献しました。その功績もあり、現在では「南風原町」は琉球絣の最大の産地となっています。「かすりの道」沿いには絣糸の張り伸ばし場が点在しており、周辺住民の生活の一部として集落の風景に自然に溶け込んでいます。(経緯絣/たてよこがすり)(ハナアシー)(ミミチキトーニー)(ビックー)(ピーマの絡み合わせ)「経緯絣/たてよこがすり」は機(はた)に似た絣と2つの四角は経絣と緯絣が重なり地色との対比を強調し、絣全体がバランスよく配置してあります。「ハナアシー」は経絣3筋の切れ間に緯絣3筋を織り併せ、花の形を2つ段違いに並べた紋様です。「ミミチキトーニー」は耳つき(ミミチキ)の四角い容器(トーニー)の事で、芋洗いの箱・動物の餌箱・湯船などを表し、小絣が2つの耳のように付いている紋様となっています。「ビックー」は六角形の中に花をあしらった吉祥紋様で、織幅に並ぶ鼈甲が小さく、その数が多いほど長寿を願う気持ちが込められています。「ピーマ」と呼ばれる緯糸の絣だけで描く左右もしくは上下対象のが複数合わさり、抽象的な模様や具象的な波や小動物などを表現しています。(ヒチアーシ)(絣模様の外壁)(琉球かすり会館)(かすりの道の標識)「ヒチアーシ」と呼ばれる道具は、経絣用に整形した糸の束を図案通りに柄を合わせて固定するために使われます。「琉球かすり」の大きな特徴はおよそ600種という多彩な幾何学模様の図柄で、琉球王府時代から伝わる『御絵図帳』をもとに職人が現代の感覚を取り入れながら進化し続けています。織は緯糸を経糸の間に手投げ杼で織る昔ながらの技法で丹念に織り上げて行きます。また「南風原町」の童歌に『ティーラ チャン ムトゥブ (照屋 喜屋武 本部)』があり、3つの村は鼎(かなえ)のように向き合い、互いのムラの娘さん達が揃って布織りの自慢話や布織り競争をする唄が伝えられています。
2023.11.28
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(安平田の御嶽/アヘダノ嶽)沖縄県内で唯一海に面していない「南風原町/はえばるちょう」は沖縄本島南部に位置しており、この町の中南部に「照屋/てるや集落」があります。「照屋集落」は「喜屋武集落」と「本部集落」に隣接し、この3つの集落は「サンカ/三箇」と呼ばれています。「照屋」の村発祥は集落の東側にある「クガニムイ/黄金森」の「イシジャー」に住んでいた人に関わりがあるとの伝承があります。この人物の長男が「喜屋武」次男が「照屋」三男が「本部」の各村の始祖となり、子孫が広がって行ったと言われています。また「イシジャー」にいた「大城子」という人物が「ティーラバル/照屋原」で「喜屋武・本部・照屋」の三カ村の村立てをしたとも伝わっており、村の年中行事は古くからこの三カ村共同で行われてきました。(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠内部)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠内部)「照屋集落」の東部で那覇市安謝と糸満市潮平を結ぶ県道82号沿いの東側丘陵に「安平田の御嶽」があります。「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の祠内部には石造りの「ウコール/香炉」が祀られており、火を付けない「ヒジュルウコー」が供えられています。また隣接する「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の「ヒヌカン/火の神」の祠内部にはウコールに霊石が祀られ、さらに三体の「ビジュル石」が設置されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『アヘダ之殿 照屋村 同御嶽之殿 照屋村』と記されており『稲二祭之時、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 照屋村百姓、五水四合宛、玉那覇村 百姓、供之。玉那覇巫祭祀也 此時、巫一人・居神一人、照屋百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』との記述があります。(アヘダノ嶽/安平田の御嶽)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)「アヘダノ嶽/安平田の御嶽」は「照屋集落」に属していますが「照屋村」との直接的な関係が無いと言われ、西側に隣接する「津嘉山集落」の祭祀で拝まれる拝所となっています。この御嶽は「照屋集落」では「アヒダシー/安平田子」と呼ばれており「琉球国由来記」には『アヘダノ嶽 神名 ヨラムサノ御イベ 玉那覇巫崇所。』と記されています。「玉那覇ノロ」が「照屋村」にある「アヒダシー」の屋敷跡とされる「アヘダノ嶽」と、その一族の屋敷跡である「アヘダ之殿」を拝む理由は「玉那覇ノロ」の父親の旧跡として拝するようになったと言われています。その後、代々「玉那覇ノロ」が慣例として拝むようになったと伝わっています。また「ミーヤシチムンチュー/新屋敷門中」の祖先が「今帰仁」から「アヘダノ嶽」に来住したと伝わっており、旧五月・六月の「ウマチー」の際に御嶽を拝しています。(照屋公民館/照屋自治会)(ナガモー/ナガ毛の御嶽)(トゥンヌシチャ/殿の下)(トゥンヌシチャ/殿の下の拝所)「安平田の御嶽」の西側で「照屋集落」の中央部に「照屋公民館/照屋自治会」があり、この公民館は戦後に現在の場所に移されました。この一帯はかつて「ナガモー/ナガ毛」と呼ばれる広場で、松の大木が生えた「アシビナー/遊び庭」としてムラの住民の憩いの場でありました。旧暦6月の綱引きや旧暦7月のお盆のエイサーが行われたのも「ナガモー」で、現在は公民館の敷地に「ナガモーの御嶽」があり、祠には3基のウコール(香炉)が祀られています。ナガモーの南側にある「メーミチ」沿いには「トゥンヌシチャ/殿の下」と呼ばれる拝所があり、石造りのウコールに霊石が祀られ線香が供えられています。この「トゥンヌシチャ」は「安平田子」の次女「マグジー/真呉勢」が浦添から「ナカマウフヌシ/仲間大主」を婿養子に迎えて結婚後に住んだ屋敷跡です。「ウマチー」の際に「安平田の御嶽」を拝んだ「津嘉山/親国」の旧家一行が帰路に立ち寄って休んだ場所であると伝わっています。(サーターヤー跡の石碑)(サーターヤー跡/仲組/西組)(サーターヤー跡/上江洲組/西原組/仲筋組/新組小)(メーミチ)「ナガモー」の東側にはかつて6つの「サーターヤー/製糖小屋」があり「サーターヤーグミ/製糖屋組」により管理されていました。現在「サーターヤー跡」の石碑が建立されており、石碑の下にはかつて「ナガモー」で若者達が力比べをした「力石」が埋められています。「仲組/ナカグミ・西組/イリグミ・上江洲組/ウエズグミ・西原組/ニシバラグミ・仲筋組/ナカシジグミ・新組小/ミーグミグヮー」の6組で「一号組〜六号組」とも呼ばれて「一号組」の「仲組」が最も規模が大きかったと伝わっています。14〜15歳になると製糖小屋に出て作業を手伝い、行事は製糖小屋単位で行いました。また製糖作業は門中の「ユイマール/共同作業」で行い、製糖組は実質的には親戚同士の組織でした。その昔は製糖作業の動力は馬を利用していましたが、発動機が導入されると昭和17年に「共同製糖工場」が出来ました。そして戦後になると「組」は無くなり「班」と呼ばれるようになったと伝わっています。(夜警団屋跡)(トーフヤー/豆腐屋跡)(ナカミチ)(馬を水浴びさせたクムイ/溜池跡)「ナガモー」の南側に「夜警団屋跡」と呼ばれる場所があります。「照屋集落」は交通の便が優れていましたが、泥棒や不審者の被害も多かったと言われています。夜間の警備のために若者が多く集まる場所として1950年に「夜警団屋」が建てられました。後に青年会員が消防団の役割も兼ねるようになると、火を消す道具や消防用資器材を保管して集落の安全安心を担いました。「夜警団屋跡」の北側に隣接した家は昭和13年以降に「トーフヤー/豆腐屋」を営んでいましたが、当時は行商人が多く集落に来ていて「首里山川」から毎日「トーフヤー」が豆腐を売りに来ていたと伝わります。「夜警団屋」と「トーフヤー」の間の道は「ナカミチ」で、この道を東に進むと「シーサーヌメーヌカーラ/カーラグヮ」にかかる橋があります。この橋沿いには「照屋ノロ」が公務で使う馬を水浴びさせたクムイ(溜池)の跡地があります。(ヌルジー/ノロ地)(ヌルジー/ノロ地の井戸)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)「照屋集落」の北側に「ヌルジー/ノロ地」と呼ばれる場所があり、かつて北側に隣接する「本部集落」に属していました。「ヌルジー」の「ミーフダ/三穂田」という水田では「ノロ/祝女」が祭祀の際に使用する稲穂が栽培されていました。現在、この土地では芭蕉(バナナ)が栽培されており古い井戸跡が残されています。なお「ヌルジー」の南側の屋敷はその昔「ユーフルヤー/銭湯」を経営していたと伝わっています。「ヌルジー」の西側には「照屋の石獅子」があり「アガリ/東のシーサー」とも称されています。現在「照屋集落」には2基の石獅子があり、どちらも「本部集落」に向いていると言われています。一方「本部集落」では「八重瀬岳」への邪気払いを意味する「フーチゲーシ」を目的に石獅子を設置しましたが、結果的に「照屋集落」を向くことになりました。「照屋」の住民は自分達の集落に石獅子が向けられていると思い、対抗するために「本部」に石獅子を向けたと伝わっています。
2023.11.10
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(照屋の石獅子)沖縄本島南部の「南風原町」は沖縄県で唯一海に面してい町として知られており、この町の中南部に「照屋集落」があり方言で「ティーラ」と呼ばれています。隣接する「本部集落・喜屋武集落」と合わせた三部落は「サンカ/三箇」と称され、お互いに社会的関係が深く「ノロ/祝女」の祭祀管轄も同一の区域でした。「照屋集落」は「南風原町」の面積の3.3%を占める比較的小さな集落となっています。1635年に発行された各間切の石高が記されている「琉球国高究帳」には「照屋」の名前は確認できませんが、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『照屋村』と記されています。また近世中期に作成された「御当国御高並諸上納里積記」には『照屋村』、更に1871年に編集された「上り絵図郷村帳」には『てるや村』との記述があります。(デームイモー)(デームイモー/照屋の石獅子)(デームイモーの御嶽)(デームイモーの御嶽/祠内部)「照屋集落」の北西部に「南風原町立南星中学校」の東側に隣接する「デームイモー」があります。「デームイモー」は集落で現在唯一の丘陵地で、この一帯には「ウフヤ/大屋・ナカシジ/仲筋・ミーヤシチ/新屋敷・ニシバラ/西原・カニグスク/金城」などの集落草分け旧家が位置する「フルジマ/古島」となっています。「デームイモー」の頂上には僅かな平場があり石獅子と御嶽の祠が祀られています。グスク時代には「デームイモー」は集落北東部にある「兼城集落」の「内嶺グスク/兼城グスク」や、集落西側に隣接する「津嘉山集落」の「仲間グスク」の見張り場や狼煙をあげた「フィータティモー/火立毛」であったと言われています。旧暦6月15日の米の豊年祭である「六月ウマチー」の際に「デームイモー」の御嶽は「ナカシジムンチュー/仲筋門中」により祈願されています。また旧暦6月26日の雨乞い祈願の「アミシヌウガン/雨寄ヌ御願」でも御嶽の祠が拝されています。(照屋ノロ殿内/ヌンドゥンチ)(照屋ノロ殿内/祠内部のヒヌカン)(照屋ノロ殿内/祠内部)(照屋ノロ殿内/祠内部)「デームイモー」の東側丘陵麓に「照屋ノロ殿内」があり「ヌンドゥンチ」とも称されています。旧暦1月4日の「ハチウガン/初御願」で「照屋ノロ殿内」が拝まれる際には、初めに向かって左側の「ヒヌカン/火の神」から拝まれます。この「ヒヌカン」について「琉球国由来記」には『本部巫根神所火神 照屋村 毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、稲穂祭三日崇之時、花米六合・五水弐合 照屋大屋子、花米三合五勺・五水二合、照屋村 百姓、花米九合・五水二合、本部 地頭、花米一升二合・五水三合、本部 百姓、五水弐合、喜屋武村 地頭、花米三合、喜屋武村 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。また、ノロが祭祀を行う「神アサギ」について「琉球国由来記」には『神アシアゲ之殿 照屋村 稲二祭之時、花米七合宛・五水壱沸宛・神酒一宛 照屋大屋子、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫一人・居神二人、百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』との記述があります。(照屋ノロ殿内)(照屋ノロ殿内/祠内部)(今帰仁への遥拝所)(ガヂー)「照屋ノロ殿内」の祠内部に向かって右手には御神体である霊石が祀られており「ハチウガン」から旧暦1月27日まで衣として紙を巻き付ける風習がありました。また旧暦3月3日は「フーチゲーシ/風気返し」を行う日で「ヤナムンゲーシ/悪物返し」とも呼ばれました。かつて「照屋ノロ殿内」の前で豚もしくは牛を潰して血液をタライに入れておき、各家庭は桑の枝とススキを3本づつ束ねた「ゲーン」に血液を付けて持ち帰り魔除けとして屋敷の四隅や門に供えました。「照屋ノロ殿内」の東側に隣接する拝所は「ナチジン/今帰仁」への「タンカー/遥拝所」で、かつては「照屋ノロ」を排出した集落草分け旧家の「ナカシジ/仲筋」のみが拝んでいましたが、現在では村の人々にも拝されています。さらに「照屋ノロ殿内」の東側には「ガヂー」という道があり、かつて「照屋ノロ」が馬に乗って通っていた道であると伝わっています。(石敢當)(ティラジョー/テラゾーの屋敷跡)(ティラジョーガー/テラゾーガー)(ユンヌカー/弓取り井泉)「ガヂー」を東側に抜けると「ティラジョー/テラゾー」の屋敷跡があり、その北側には「ティラジョーガー/テラゾーガー」があります。この井戸の水は「ソーケーミジ/アカミジャー」と呼ばれ飲料水には適さず、大きな「カーミ/甕」に水を溜めて洗濯用水などに使用していました。「ティラジョーガー」の西側には「ユンナカー/弓取り井泉」があります。ある昔『この地に弓矢を射れば水が湧いてくる』とのお告げがありました。その通りに弓矢を射ると水が湧き出したとの伝承があり、この井戸の名称になったと言われています。「ユンナカー」の水はとても清らかで美味しいと評判で、正月の若水はこの井戸から汲んでいました。飲料水としての井戸で洗濯は禁止されており、旱魃の際にも決して枯れる事がなかったと伝わります。その為、水不足の時は「ユンナカー」に番屋を作り、集落の「ジュウニンガシラ」が泊まり込みで水の番をしていました。(イシジャーガー)(イシジャーガーのウコール)(イシジャーヌシー)(イシジャーヌシーのウコール)「デームイモー」南西側の麓にかつて「イシジャーガー」がありました。集落の住民が増えた大正時代に石ころばかりの原に「イシジャーガー」の井戸を掘り飲料水を確保したと言われています。現在はアパートが建てられており、井戸跡にはウコールが設置され水神への感謝を祈る拝所となっています。「イシジャーガー」の西側で「南風原町立南星中学校」の入り口付近には「イシジャーヌシー」の岩があります。「照屋村」の西側に隣接する「津嘉山村」の勇猛で富豪であった「安平田子/アヒダシー」が琉球王府に攻められ傷付き、この場所まで逃げて来ましたが岩の間で息絶えたと言われています。「照屋集落」では「イシジャーヌシー」と呼ばれていますが「津嘉山集落」では「チマダヌシー」の名称で知られています。「イシジャーヌシー」にはウコール(香炉)が設置されており、現在でも「安平田子」の子孫により拝されています。
2023.10.27
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(サーターモー跡/本部公民館/本部児童館)沖縄本島南部の「南風原町」に「本部集落」があり方言で「ムトゥブ」と呼ばれています。また「本部集落」は「南風原町」の中でも農村文化を持つ「下村/シチャムラ」に属しています。1916年の「本部」は96戸のうち90戸がサトウキビを生産し、牛・馬・豚ヤギを飼育する純農村でした。製糖期には「イーマールー/ユイマール」という共同作業で親戚が集まりサトウキビを刈り、現在の「本部公民館・本部児童館」がある「サーターモー」へ運搬していました。「サーターモー」には「イリグミ/西組・アガリグミ/東組・ジャナグミ/謝名組・イーミチグヮーグミ/上道小組」の4つの「サーターグミ」があり、サトウキビの圧搾と黒糖作りを行なっていました。「西・東・謝名・上道小」は屋号で各クミの中心的役割を担っていました。(イリジョーガー/西門之井戸)(イリジョーイチ/西門池跡)(ナカドオリ)(第二織物工場跡)「サーターモー跡」の南側に「イリジョーガー」と呼ばれる拝井があり、井戸跡の石碑に『昭和三年戌辰九月十五日 御大典記念 西門之井戸』と刻まれています。一説には元々小さな井戸であったが昭和三年に大きくしたと伝わります。昔から「本部集落」の「イリ/西」地区の住民の貴重な水源であり、現在も拝井として拝まれています。「イリジョーガー」の北側には「イリジョーイチ/西門池跡」があります。この池は隣接する「サーターモー」で作業する馬に水浴びをさせる「クムイ/溜池」の役割があったと考えられます。各地の製糖小屋には「クムイ」が併設されており、もし製糖作業をした馬に水浴びをさせないと疲れが取れず、翌日の作業効率が下がったと言われています。「サーターモー」の西側から集落の南側に向けて通る「ナカドオリ」の先にはかつて「第二織物工場」があり、その跡地には現在「ももの木保育園」の建物があります。(ビジュルモー/びじゅる森)(ガンヤー/龕屋)(ガンヤーモー)(上之殿跡)「サーターモー」の北側丘陵にある「本部公園」にはかつて「ビジュルモー/びじゅる森」があり「ビジュル」と呼ばれる霊石が祀られ住民が拝していました。「ビジュルモー」の南側に「ガンヤーモー」があり、死者の棺を墓場まで運ぶ「ガン/龕」を収納する「ガンヤー/龕屋」という小屋があります。旧暦10月最後の午の日に「ガン」を祝う「ガンゴー」が行われます。「ガンヤーモー」の東側は現在「本部公園野球場」となっていますが、かつてこの地に「上之殿」と呼ばれる拝所がありました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『上之殿 本部村 稲二祭之時、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。また、この周辺は「本部集落」の古島であると考えられ「琉球国由来記」に『上ノアタリ之殿 本部村 稲二祭之時、穂・シロマシ壱器・神酒二宛 百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫一人・居神七人、百姓中ヨリ馳走仕ル也。』との記述が残されています。(石獅子があった場所)(上ヌカー)(本部赤嶺の屋敷跡)(イージガー)「本部公園』の東側にある「沖縄県土地改良事業団体連合会総務部」の駐車場脇に、かつてもう1基の石獅子がありましたが沖縄戦で消失してしまいました。更に戦前までこの場所には「上ヌカー」と呼ばれる井戸がありましたが、現在は東側の道路沿いに井戸跡として移設されています。移設後の「上ヌカー」南側の道路を渡った場所には、かつて集落にガンと獅子舞を寄贈した事で知られる農豪の「本部赤嶺/モトブアカンミ」の屋敷があったと伝えられています。琉球国王が「本部赤嶺」の屋敷を訪れた際、村の入り口から屋敷まで白い米粒が敷いてあるのを見て「食料を粗末に扱うとはけしからん」と訪問を中止して「本部赤嶺」に打ち首の刑を命じました。位牌は戦前まであった屋敷に祀られていましたが、現在は本部公民館に移設されて大切に祀られています。また「本部赤嶺」の屋敷北側にあった「イージガー」と呼ばれる井戸は拝井として屋敷跡の東側に移設されています。(ムンナンドゥンチ/門南殿内の祠)(ムンナンドゥンチ/門南殿内跡)(ムンナンガー/門南ガー)(仲里殿跡)「本部赤嶺」の屋敷跡の北側に「ムンナンドゥンチ/門南殿内」の祠がありウコールが祀られています。戦前までは茅葺の建物があり「本部集落」の草分け「ニーヤー/根屋」とされてきました。「門南殿内」の位牌は現在「本部公民館」に移され祀られています。「門南殿内」で使用されていた「ムンナンガー/門南ガー」の東側に隣接した場所にはかつて「仲里殿」と呼ばれていました。「琉球国由来記」には東側に隣接する「喜屋武集落」の拝所として記されており『仲里殿 喜屋武村 稲二祭之時、花米五号宛・五水壱沸宛 仲里大屋子、穂・シロマシ壱器・神酒壱宛 同村百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫、百姓ヨリ盆拵馳走也。』との記述があります。戦前まで「仲里殿」は「喜屋武集落」にゆかりのある門中にのみ拝されていましたが、現在は「本部殿内」の祠に合祀されており「本部集落」の人々にも大切に祀られています。
2023.10.17
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(本部殿内/本部里主之殿)「本部/もとぶ集落」は「南風原町/はえばるちょう」の南西部に位置し、沖縄民謡の「南風原町口説」には『村のぐなさや本部村』と歌われています。かつて集落の中央を東西に通る「メーミチ/前道」の北側には古い集落、南側には水田が広がっていました。現在「メーミチ」の南側には家々が碁盤の目のように並んでおり、これは地割の名残であると言われています。集落の南側に隣接する「照屋集落」との境界には「デームイモー」があり、東側に隣接する「喜屋武集落」との間には「ウマイー」の丘陵があります。中央に丘陵が連なる「南風原町」は北側の「上村/ウィームラ」と南側の「下村/シチャムラ」で文化の違いがあり、首里に隣接する上品で穏やかな「上村」に対して「本部集落」が属する「下村」は農村らしく力強い文化を持つと言われています。(本部殿内の祠内部/本部殿地/門南殿地/仲里殿)(本部殿内の祠内部/豊年拝/上之殿)(本部殿内の祠内部/下本部/繁栄拝)(下本部/下本部之殿)「本部集落」の北部にある丘陵中腹には「本部殿内」の合祀拝所があり「本部殿地」とも呼ばれています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『本部里主之殿 本部村 稲二祭之時、花米九合宛・五水二沸宛・神酒一宛 本部地頭、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。1416年に「尚巴志/しょうはし」により滅ぼされた中山王国最後の王「武寧/ぶねい」の五男である「本部王子」が、居住していた「喜屋武」のイシジャーから「本部」のムンナンに移住して暮らした屋敷が「本部殿内」であると伝わっています。「本部殿内」の東側に隣接した場所は「下本部」と呼ばれ「琉球国由来記」には『下本部之殿 本部村 稲二祭之時、神酒壱宛 本部掟、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。かつて「本部」の「ニーヤ/根屋」とされる「金城門中」が「五月・六月ウマチー」の際に拝していました。(ミーヤガー/新屋井)(本部の石獅子)(本部の石獅子)(ハクル/繁栄拝/ウガンモー/御願毛)「下本部」の東側に隣接する屋敷に「ミーヤガー/新屋井」が残されています。「本部集落」の北東側に「本部の石獅子」があります。集落には二基の石獅子がありましたが一基は沖縄戦で消失してしまいました。石獅子は「フーチゲーシ/ヒーゲーシ/火返し」の目的で東風平の「エージ/八重瀬」に向けられました。しかし一説には「照屋集落」に向いているとされ、これに対抗するように「照屋の石獅子」は「本部」に向けて造られたと言われています。その昔「本部」と「照屋」は「ユンヌガー」と呼ばれる井戸の水争いがあり、仲の悪いムラ同士であったと伝わっています。「本部の石獅子」の南側にある「ウガンモー/御願毛」の丘陵にはかつて「ハクル/繁栄拝」がありました。「ハクル」とは「百度」を意味しており「南風原村史」によると旧暦2月下旬に「ヒャクルメーヌウガン/百度詣御願」が行われ、ムラの人数が百人に満つようにノロやムラの老人達により祈願されていました。(イジュンガー公園/カンジャーヤークムイ)(イジュンガー)(ニーガー/根井戸/ウブガー/産井戸)「ハクル/ウガンモー」の南側に「イジュンガー公園」があり「イジュン」とは「泉」を意味し良質の水が湧いていたと言われています。戦前までこの地には「イジュンガー・クムイ・カンジャーヤー」があり「イジュンガー」は水量が豊かで、旧正月には若水を汲み「ヒヌカン/火の神」や「トゥクシン/床の神」さらに仏壇に井戸の水を供えました。「クムイ」では野良仕事の後に芋や野菜を洗ったり馬の水浴びをさせていました。この「クムイ」は那覇の人が鯉の養殖をしていたとも言われています。「カンジャーヤー」は首里から鍛治職人が来て農具の修理をしていたと伝わっています。「インジュガー公園」の南西側に「ニーガー/根井戸」があり「本部集落」で一番神高い井戸だとされてきました。ムラで子供が産まれた際、この井戸の水を産水として利用していた事から「ウブガー/産井戸」とも呼ばれています。
2023.10.09
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(ナカヌカー/中の井公園)沖縄本島南部に沖縄県内で唯一海に面していない「南風原町/はえばるちょう」があります。この町の南東部に「喜屋武集落」は方言で「チャン」と呼ばれています。集落は大きく「ムラウチ/村内」と「ヤードゥイグヮー/屋取小」に区分され、現在の「湘南小学校」周辺にはかつて高さ30〜60メートル程の丘陵があり「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」の境目となっていました。1920年(大正9)にこの丘陵を人力で割り取った「ワイトゥイ」と呼ばれる道路を開通させて両区域の行き来が容易になりました。「ヤードゥイグヮー」のほとんどの家は戦後に「ムラウチ」から二男や三男が分家して広まったと言われています。現在「ムラウチ」の中心部に「ナカヌカー/中の井公園」があり「喜屋武集落」の住民の憩いの場となっています。(ナカヌカー/中の井)(メーミチヌイチ)(ナカモーグヮー/中毛小のガジュマル群)(メーミチ)1928年(昭和3)に「ナカヌカー/中の井」と池が掘られ、その記念として「ウフアシビ/大遊」が盛大に開催されました。この井戸は飲料水や洗濯の場として利用され、池では野良仕事の後に芋や野菜を洗ったり馬の水浴びをさせていました。現在は拝井戸として線香が供えられ水への感謝が祈られています。「ナカヌカー公園」の南側に「ナカモーグヮー/中毛小」と呼ばれる広場があります。現在、2本のガジュマルが残されていますが、かつて5本のガジュマルの根が網目状に絡んで土手を覆い、枝が大きく広がる古木として南風原町指定天然記念物に登録されました。「喜屋武集落」の中心に位置するガジュマルとして、かつては子供達が木に登り鬼ごっこをしたり、古老達がゴザを敷いて談笑したりする住民の憩いの場として利用されました。旧暦9月の20日以降に行われる「タントゥイ/種取り」は「ナーシルダー/苗代田」に稲の種を蒔く日に行われた行事で、15歳以上の男子が「ナカモーグヮー」に集まりました。(カナチ棒の説明板)(下茂)(下茂の祠内部)(下茂のヒヌカン)「ナカヌカー公園」と「ナカモーグヮー」に隣接する「メーミチ」は綱引きが行われる道となっています。現在の綱引きは旧暦6月25日(カシチー綱/2回)と26日(アミシ綱/1回)の2日に渡り行われますが、かつては旧暦5月14日(ンチャタカビ/2回)と15日(ウマチー/2回)、旧暦6月14日(ンチャタカビ/2回)と15日(ウマチー/2回)にも綱引きが行われていました。集落の東と西に分かれて両陣営による「ヤッチャイ」と呼ばれる体のぶつけ合いや、棒術も披露される本格的な真剣勝負でした。「メーミチ」の東側に「下茂」という拝所があり、祠内部には4基の「ウコール/香炉」にそれぞれ線香が供えられています。さらに3体の霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」に線香が供えられています。「下茂」の拝所は旧暦1月2日の「ハチウクシ/初興し」旧暦3月20日以降の「ヒャクドゥヌウガン/百度の御願」旧暦10月午の日の「シマクサラシ」などで拝されています。(ハサマガー/狭間井)(カンジャーヤー跡)(ウマイーグヮー跡の石碑)(ウマイーグヮー跡)「喜屋武集落」の「ムラウチ」南側に「ハサマガー/狭間井」という井戸があります。旧暦1月1日の正月の早朝、集落の子供達が「ハサマガー」の井戸に行き魔除けのための「サン」を結んだ急須に水を汲みました。その水は「ワカミジ/若水」と呼ばれお茶を沸かして仏壇に供え、家族でそのお茶を飲みました。かつて集落の「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」の境目に「ウマイーグヮー」と称する馬の練習場がありました。大正時代まで「南風原町」には「ハルスーブ/畑勝負」という行事があり、各字にある畑の管理状況の良し悪しを競い合っていました。南風原の役場があった「宮平集落」の「ウマイー」に村民を集めて結果を発表しました。その余興として馬の走り方の美しさを競う「琉球競馬」が盛大に行われていました。その競馬に出場する馬の練習場が「ウマイーグヮー」で、現在は「南風原町立湘南小学校」の敷地となっています。(製糖工場跡の石碑)(メーグミ/ナカグミ/アガリグミ/イリグミ)(ミーグミ)(メーヌミーグミ)かつて「喜屋武集落」の「ヤードゥイグヮー」と呼ばれる場所には「サーターヤーグミ/製糖屋組」が連なり、現在「製糖工場跡」の石碑が建立されています。1921年(大正10)まで4つの「サーターヤーグミ」組織があり「ナカグミ・アガリグミ・イリグミ・ミーグミ」で形成されており「グミ/組」は「チュチョーデー」や門中より下位の一定範囲の父系血縁関係者を中心に構成されていました。その後「メーヌミーグミ・ウィーヌアガリグミ・ウィーヌミーグミ」が設立され全部で7組となりました。旧暦9月1日の「クングヮチゴー/9月ゴー」では「サーターヤーグミ」単位で行事を行ってたと伝わります。「黄金森」にある「仏の前」と呼ばれる拝所の屋根の葺き替えのため、毎年「サーターヤグミ」単位で作業を分担して競い合って仕事をしていたと言われています。1937年(昭和12)に「喜屋武共同製糖工場」が設立され、発動機によるサトウキビ圧搾機械が導入されたのをきっかけに「サーターヤーグミ」組織は解体されました。(サーターヤーガー跡)(ダンパチヤー跡)(ヘンダガー/フェンダガー/南風平井の石碑)(ヘンダイチ/フェンダイチ)「製糖工場跡」の石碑に隣接した「ミーグミ」の敷地に「サーターヤーガー」跡があり現在は公園として整備されています。この井戸は住民の飲料水以外にも「ミーグミ」の製糖工場で働いていた馬の水浴びをさせた井戸であるとも考えられます。さらに現在は更地となっていますが「ミーグミ」の南側にはかつて「ダンパチヤー/理髪店」があり、地域住民に重宝されついたと思われます。この「ダンパチヤー」の南側には「ヘンダガー/フェンダガー/南風平井」の石碑があり、この広場は「ヘンダイチ/フェンダイチ」と呼ばれています。最後に「喜屋武集落」にまつわる言葉を紹介します。『喜屋武ぬ 童達(わらばぁたー) 長者の大主 ジンナーク 美らさ ちゅらさ』『喜屋武(ちゃん)や 綱(ちな)ぬ、結(むすま)い』『芸能や 喜屋武人(ちゃんちゅ)ぬ 肝果報(ちむかふう)』
2023.09.22
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(名護之殿)沖縄本島の南部に「南風原町」があり、沖縄県内で唯一海に面していない町として知られています。「南風原町」の南東部に方言で「チャン」と呼ばれる「喜屋武/きゃん集落」があります。この集落は「ムラウチ/村内」と「ヤードゥイグヮー/屋取小」に区分され、その間にはかつて標高60メートル程の丘陵がありました。この丘陵の一部を人力で切り開き「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」を結ぶ「ワイトゥイ」と呼ばれる道が1920年(大正9)に開通しました。「喜屋武集落」には「南風原町」のシンボルである「黄金森/クガニムイ」があり、この森の丘陵の西側にはウマチーの際に祭場となった「名護/ナグ」や集落の草分けの家筋である「親国/ウェーグン」をはじめとする旧家群が位置しています。この一帯が「喜屋武」のムラの始まりだとされていますが「黄金森」の頂上付近にある「喜屋武シジ」に集落の始祖の屋敷があったとも伝わっています。(名護之殿)(名護之殿のヒヌカン/ウコール)(名護之殿のシーサー)(勝連カー/勝連門中)「喜屋武集落」の北部に「喜屋武農村公園」があり、この敷地に「名護/ナグ」と呼ばれる祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『名護之殿 喜屋武村 稲二祭之時、五水壱沸二合宛・神酒壱宛 地頭、穂•シロマシ壱器・神酒宛 百姓、供之。本部巫祭祀也。此時、巫壱人・居神三人、百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』と記されています。「名護之殿」は草分け旧家である「ニーチュ/根人」の「ナグヤシチ」と呼ばれる屋敷でした。沖縄戦で焼失する以前まで土間(台所)と床敷きの一間からなる瓦葺きの建物で、大正5年頃までは茅葺屋根であったと伝わります。さらに当時の建物には台所にあった「ミチムン/火の神」と「トゥハシル」という家屋の二番座出入り口付近にウコール(香炉)があったと言われています。「名護之殿」の敷地に「勝連カー 勝連門中」と刻まれた石碑、ウコール、井戸跡が祀られています。この井戸はかつて「黄金森」の頂上にある「喜屋武シジ」北側の森の中にありました。(アナカー)(ミジグラ)(ウフカー)(下ぬ嶽)「喜屋武農村公園」には他にも「アナカー・ミジグラ・ウフカー・下ぬ嶽」の井戸跡が合祀されており、それぞれに石碑、ウコール、井戸跡が祀られた拝所となっています。これらの井戸はかつて「黄金森」の西側に点在しており「南風原町中央公民館」や「県道241号/宜野湾南風原線」の建設により「名護之殿」の敷地に移設されました。旧暦5月15日の「5月ウマチー」は稲の初穂祭で、集落の「ムンチュー/門中」単位での「カーウビー」と呼ばれる井泉拝みが行われます。また、集落の旧家である「親国」家で造られた「ウンサク/神酒」には「ウフカー」の水を混ぜて使う習わしがあったと言われています。「5月ウマチー」の際に「ジシチガミ/儀式係」の2人により「ウンサク」と握り飯を重ねた「ウブン」が準備され「名護之殿」の「トゥハシル」のウコールの前に供えられ「本部ノロ」や「喜屋武集落」の神人により祭祀が行われました。ちなみに「下ぬ嶽」は「黄金森」の「イシジャー」と呼ばれる「上の御嶽・中の御嶽・下の御嶽」の丘陵麓にあった井戸跡であると伝わっています。(親国/ウェーグンの井戸)(恩納ヌ前ヌクムイ)(ナカミチ)(内原のカー)「喜屋武之殿」がある「喜屋武農村公園」の南側に集落の草分けの家筋である「親国/ウェーグン」の屋敷があり、敷地の脇に井戸が残されてウコールが設置されています。「ニーガン/根神」の神役は「親国」の系統から出ており「イシジャー」の御嶽の神を司っていたと伝わります。旧家の「前親国/メーウェーグン」から「門/ジョウ」に嫁いだ女性が「ニーガン」の「ウナイ/姉妹」神「親国/ウェーグン」から「小城/ググー」に嫁いだ女性が「ニーガン」の「ウィキー/兄弟」神を務めていました。「黄金森」の「イシジャー/上の御嶽」にある岩の上には厨子甕があり「親国」の現在の門中墓に祀られている「タカシップ」とう人物であるとも言われています。古老によると、毎年「親国」の関係者が「下の御嶽」の近くの溝で「イシジャー」にある人骨を洗う行事があったと伝わっています。また「名護之殿」の北側には旧家である「内原」の屋敷があり「内原のカー」と呼ばれる古い井戸が現在も残されています。(仲里井/ナカザトゥガー)(ハンタイチ)(ボーントゥ用の土)(第一織物工場跡)「喜屋武之殿」の西側に「仲里井/ナカザトゥガー」と呼ばれる井戸跡があります。戦前までこの付近に集落の草分け旧家の1つである「仲里」の屋敷があったと言われています。「琉球国由来記」には『仲里之殿 喜屋武村 稲二祭之時、花米五合宛・五水壱沸宛 仲里大屋子、穂・シロマシ壱器・神酒壱宛 同村百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫、百姓ヨリ盆拵馳走仕ル也。』と記されています。「イガン/居神」と呼ばれる神役は「親国」の二男腹とされる「仲里」の門中系統から出ました。また「喜屋武農村公園」の北側に「ボーントゥ」の土を摂る場所があります。「ボーントゥ」とは旧盆の「ウンケー」に仏壇の位牌の前に供える飾り物の事で、土を大きめの形に固めてサトウキビの先枝とクガニー(ミカン)を飾り付けます。サトウキビは「クァンマガ/子孫」てクガニーは「ウヤファーフジ/先祖」を意味しています。(喜屋武公民館/ムラヤー)(喜屋武公民館/ムラヤー)(ムラヤー/ブルブルギー跡)(ムラヤー/ブルブルギー跡)「喜屋武集落」の中央に「喜屋武公民館」があり、かつては「ムラヤー」と呼ばれていました。戦前まで「ムラヤー」の敷地には泥棒や罪人を吊り下げる「ブルブルギー」または「ヌスドゥサギーギー」と言う木があったと伝わっています。かつて「喜屋武集落」のムラの掟と制裁は厳しく、部落で重罪を犯した者は「ムラヤー/公民館」に連行され村人全員の前でひざまづき(正座)をさせられ罰金も課されました。その罰金で豆腐と酒を購入し、15歳以上の男女が飲み食いをしたと伝わります。最低でも各人に豆腐一丁はあたり、普通は酒もたらふく飲めるほどあったそうです。「喜屋武」のムラを評して「チャンカニ」と表現されて「カニ」は「鉄」の意味で「喜屋武」のムラの掟が鉄のように固い事を表現しています。若い女性に対する規制が徹底して厳しかったと言われています。古老が若い頃には「モーアシビ/毛遊び」や「歌グヮーシーガ/歌うたい」なや参加しただけでムラに引っ張られた人達が沢山いたと言われています。
2023.09.07
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(黄金森/クガニムイ)沖縄本島南部の中央に位置する「南風原町/はえばるちょう」は周りを6つの市町に囲まれ、沖縄県で唯一の海に面していない町として知られています。「喜屋武/きゃん集落」は「南風原町」の南東部に位置し「本部•照屋」の2つの集落に隣接しています。かつて「喜屋武」と「本部」の間に「本部ンマイー」という馬追い(馬場)があり「照屋」との間には「メーヌシジ/前のシジ」と呼ばれる丘陵が以前あり、集落間の境界線として用をなしていました。この「喜屋武•本部•照屋」の3集落は「サンカ/三箇」と呼ばれ「本部ノロ」が管轄して祭祀が執り行われていました。さらに、この3集落は戦前から「琉球絣/かすり」の生産が盛んである共通点があります。「南風原中央公民館」の東側に隣接する「黄金森/クガニムイ」の丘陵は「イシジャー」と呼ばれる御嶽の森となっており、戦前までノロが祭祀を行った「カー/井泉」が数多く点在していました。(イシジャー/上の御嶽)(イシジャー/上の御嶽のウコール)(イシジャー/喜屋武ノロの墓)(イシジャー/喜屋武ノロの墓)「黄金森」の西側丘陵は「イシジャー」と呼ばれる一帯で、山手から「上の御嶽・中の御嶽・下の御嶽」で構成されています。「上の御嶽」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『喜屋武之嶽 神名 イシガワノ御イベ 喜屋武村 本部巫崇所。』と記されています。「上の御嶽」の中心部には巨大な岩があり「イシジャー」及び「イシガワノ御イベ」の「イシ」はこの岩に因んでいると考えられています。また、この岩の上には厨子甕が2基あり「タカシップ」という人物のものである説があります。「ボージウシュ/坊主御主」と呼ばれた「尚灝王/しょうこうおう(1787-1834年)」に遠慮せず相撲で勝ってしまった「タカシップ」が王様の家来に北谷の「ムルチグムイ」で殺されたと言われています。また「上の御嶽」の岩の背後には「喜屋武ノロ」の墓があり「喜屋武集落」がまだ「本部ノロ」の管轄になる以前に存在したノロが眠る墓であると伝わっています。(イシジャー/中の御嶽)(イシジャー/中の御嶽)(イシジャー/中の御嶽の石柱)(イシジャー/中の御嶽のウコール)「サチガユーヌウタキ/先の世の御嶽」とも呼ばれる「上の御嶽」の下方には「中の御嶽」があります。祠のウコール(香炉)には「上の御嶽」のと同様に『文政二年巳卯九月十三日 奉寄進 野原仁屋・仲里仁屋』という文字が刻まれています。因みに文政二年は1819年で、伝承によると「野原仁屋」は「喜屋武集落」の旧家である「前門」家の祖先、さらに「仲里仁屋」は「仲里」家の祖先で、御嶽のウコール石は2人が唐旅をした際に土産で持ち帰った石を寄進したものだと言われています。2人が旅に出る前に「イシジャー」の神に旅の安全の願掛けをし、その後無事に集落に戻って来られた事への感謝として石を奉納したと伝わったています。ウコールに刻まれた年号が日本式の年号であることから、唐への旅ではなく大和(薩摩)への旅であった可能性が高いとも言われています。また、奉納された石は船を安定させるために船底に積まれた石であったとも言われています。(フトゥキヌメー/仏の前)(フトゥキヌメー/仏の前)(フトゥキヌメー/仏の前の祠)(フトゥキヌメー/仏の前の祠内部)「イシジャー」の南側丘陵に「フトゥキヌメー/仏の前」と呼ばれる祠があり、内部には丸型の石とウコールが祀られています。この拝所は旧暦9月9日の菊の節句で健康を祈願し、お祝い行事や無病息災を祈る場所となっています。以前は丸い石の周りに小石が7〜8個あり「フトゥキーグヮー/仏小」と言われていました。かつて「山川集落」を除く「南風原」の全ての集落の人々や南風原村役所からも代表者が参拝していました。さらに昔は「糸満」からも「フトゥキヌメー」を拝みに来ていましたが、神体の石を分けてからは来なくなったと伝わっています。戦時中においては戦争に関する祈願を行う場所になり、日本軍が南京やシンガポールに侵攻攻略した際に戦勝祝いが行われ「喜屋武集落」の青年会が軍歌を歌いながら「フトゥキヌメー」を廻ったと言われています。しかし、沖縄戦が始まると戦争に関する祈願は全て行われなくなったそうです。(喜屋武シジの入り口)(喜屋武シジ/日本軍兵士埋葬地点)(喜屋武シジの頂上)(黄金森の飯上げの道入り口)「フトゥキヌメー」の南側に「喜屋武シジ」と呼ばれる「黄金森」で1番標高が高い場所があり「シジ」とは地元の方言で「高い場所」を意味しています。「喜屋武シジ」は琉球王国時代「南風原間切」の納税完納祝いが行われ、さらに「フトゥキヌメー」を拝んだ後に「喜屋武シジ」の広場で宴会をする「喜屋武シジ拝み」も行われていました。「喜屋武シジ」の頂上は戦時中には見張り場所として利用され、周辺には米軍による激しい砲弾や爆弾の攻撃で出来たと思われる大小多数の穴や、日本軍が造った交通壕が残されています。戦後間もない頃「喜屋武シジ」一帯は「ガイコツ山」と呼ばれるほど人骨が散乱していたと伝わり、現在も戦没者の遺骨が眠っていると言われています。「フトゥキヌメー」と「喜屋武シジ」の間には「飯上げの道」が残されており「黄金森」西側の「喜屋武集落」にあった炊事場から各壕に食糧を運ぶ道として使用されていました。
2023.08.31
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(健堅大親の墓/健堅之比屋御墓所)沖縄本島北部「本部町」の西側で「瀬底島」の東側に「健堅/けんけん集落」があります。この集落は沖縄の方言で「キンキン」と呼ばれており、国道449号(本部町南道路)の「瀬底大橋」の入り口付近に「健堅大親の墓」があります。この墓は「健堅之比屋御墓」や「キンキンヌヒャーの墓」とも言われています。この墓がある「健堅集落」は琉球王府時代からの古い村で、1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切より伊野波間切を創設した際の11村の内の1つとなっています。また、本部町で最初に文献に出てくるのが「健堅大親/キンキンウフヤ」で、琉球の正史と言われている「球陽」巻一察度45年(1394年)の条には『本部郡健堅大親給馬中華人似蒙招撫/もとぶぐんきんきんうふやうまをちゅうかじんにきゅうしもってしょうぶをこうむる』と記されています。(健堅大親の墓への階段)(健堅大親の墓のウコール)(健堅大親の墓の石碑)「久米島」の「堂之大親/どうぬうふや」と親交を結んでいた「健堅大親」が島を訪れた際、暴風の悪天候で漂流した中華人を「健堅村」に連れ帰り、中国に帰る為の船と良馬を与えた事から、中国の皇帝は琉球王国を通じて神に奉献する幣帛(へいはく)と石碑を贈り褒賞したとの記述が「球陽」に残されています。ちなみに、この文献から中国貿易が行われていた「察度王代」の14世紀末には、琉球には相当な数の集落が形成されていたと考えられます。「健堅大親」の墓がある丘陵一帯は「駈ヶ原/カキバル」と呼ばれており、この名称は「健堅大親」が中華人に馬を与えた事に由来していると伝わっています。この墓のウコール(香炉)には『奉納 鳳姓一門』と刻まれており、石碑には『鳳姓元祖 父 松寿 五十三才 健堅比屋御墓所 明治三十六年吉日 幼名 次郎 同年迠三百六十二年 次男 亀寿』と彫られています。(健堅集落の古島周辺)(アメラグスク)(アメラグスク/健堅之比屋御屋敷跡の入り口)(健堅之比屋御屋敷跡/井戸跡)「健堅集落」の主要な拝所がある「ウインバーリ/上バーリ」の北東側約700メートルの位置は集落の「フルジマ/古島」と呼ばれています。古老の話によると「健堅村」は北側に隣接する「辺名地」から移動し「ヒナンジャー/辺名地川」(大小堀川上流)南側の大地に集落を形成したと言われています。この「フルジマ」には「健堅大親」の屋敷跡や井泉がありましたが「ベルビーチゴルフクラブ」の建設により、現在は拝所として「アメラグスク」に移設され祭祀の対象となっています。「健堅集落」の北側にある「アメラグスク」は標高50〜60メートルの丘陵上にあり、石垣遺構などは確認されておらずグスクの調査が困難となっています。しかし「アメラグスク」は海や船舶の管理や監視の為に築造されたと言われており、12〜13世紀に「今帰仁グスク」が築城された為に途中で放棄されたグスクであると伝わっています。(アメラグスク拝所)(アメラグスク拝所の石碑)(アメラグスク拝所の祠内部)(健堅之比屋御屋敷跡の石碑)(健堅之比屋御屋敷跡/移設された井戸跡)「アメラグスク」の西側にはグスクの入り口があり、階段を登ると「アメラグスク拝所」があります。拝所の石碑には『アメラグスク拝所 建立 平成十一年二月十日 旧十二月二十四日』と刻まれています。拝所の祠内部には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに、この拝所の敷地には「フルジマ」から「健堅大親」の屋敷跡と井戸跡が移設されており、石碑には『健堅之比屋御屋敷跡 拝所』と彫られており、石碑には向かって左側には井戸跡と『鳳姓健堅御屋敷』と記されたウコールが設置されています。「健堅村」は本部間切の「名島/なじま」と呼ばれる一村で、地頭代(地頭の代官)として地方行政を担当した人物は「キンキンヌペーチン/健堅親雲上」と呼ばれていました。地頭代職を務めた家は現在でも「キンキンヤー/健堅屋」と言われています。(ニーヌファ/子の方)(ニーヌファの神屋内部)(ニーヌファのウコール)(ニーヌファのヒヌカン)「健堅集落」の東側に航海安全を祈る「ニーヌファ/子の方」と呼ばれる拝所があります。女神が祀られていると言われている「ニーヌファ」は旧暦の7月19日〜24日に執り行われる集落の年中行事である「シヌグイ」で拝されています。最終日の24日に実施される「ウワイシヌグ」では、まず最初に「ニーヌファ」の拝所に行きます。神屋では神役の「ニガミ/根神」が3基のウコールに2ヒラ(1ヒラは6本)づつのウコー(御香/沖縄線香)を立てます。次に共に参加する一般の婦人達も各々2ヒラを「ニガミ」に手渡しウコールに立ててもらいます。その後「ニガミ」を中心にして全員で手を合わせます。「ニーヌファ」に祀られている2基のウコールには、それぞれ『村元根神支』『如女神支』と記されており「ヒヌカン/火の神」の丸型のウコールには『国火山岳』と彫られています。(シジマ乙樽本墓)(竜宮神/お宮の鳥居)(竜宮神/お宮)(竜宮神/お宮の拝所)(竜宮神/お宮の拝所)「健堅大親の墓」の北東側約100メートルの海岸沿いに「シジマ乙樽本墓」と記された石碑と墓があり、2基のウコールと花瓶が設置されています。三山時代に今帰仁グスクの南側に「志慶真村/シジマムラ」という集落があり「乙樽/ウトゥダル」という絶世の美女がいました。神様のように気高い「乙樽」は「今帰仁御神/ナキジンウカミ」と呼ばれていました。時の今帰仁の主(王様)は「乙樽」を城内に召し上げて寵愛し、王妃が産んだ今帰仁王子を「乙樽」は我が子のように可愛がったと伝わっています。さらに「健堅集落」の東側にある「浜崎漁港」には航海安全と豊漁を祈る「竜宮神」の拝所があり、住民からは「お宮」の名称で親しまれています。「崎浜漁港」は古くから中国や薩摩への船が停泊した場所で、漁港の入江や大小堀川の河口は「ヤンバル船/山原船」が出入りした津(港)として知られて賑わっていました。
2023.08.14
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(神アサギ)沖縄本島北部にある「本部町」の西側に「健堅/けんけん集落」があり、方言では「キンキン」と呼ばれています。「健堅集落」の北部には西側に流れる「大小堀川/ウフグムイガー」を境に「辺名地集落・大浜集落」に接しています。さらに南部には「先本部集落」西側は東シナ海に面し、東部には「健堅森/キンキンムイ」が広がっています。「健堅」の部落は4つの集落で構成されています。山手側に「健堅/キンキン(1班)」と「石川/イッチャファガー(2班)」海側に「浜崎/ハマサキ(3班)」と「駈ヶ原/カキバル(4班)」があり、最も古い集落は「本字/ホンアザ」と呼ばれる「健堅」で、ムラの主要な祭祀行事はこの集落で執り行われています。「健堅集落」は琉球王府時代から存在する古い村落で1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切から伊野波間切を創設した時の11村の1つでした。(神アサギの入り口)(根所火神の祠)(イッチャファヤー/石嘉波家)1班の「健堅集落」は更に4つの地区に分かれており、1区は「ウィンバーリ/上バーリ」2と3区が「ナカンバーリ/中バーリ」そして4区が「シチャンバーリ/下バーリ」と呼ばれています。この「シチャンバーリ」は新しく出来た地区であるため「ミージマ」とも言われています。「ウィンバーリ」は集落の丘陵の高台に位置しており、東側の上方にある「神アサギ」では「健堅」の年中祭祀の最も主要な祭場となっています。この「神アサギ」は当初、集落の草分け「ニーヤ/根屋」である「イッチャファヤー/石嘉波家(現・仲宗根家)」の敷地内にありましたが、現在は南東側に約50メートルの場所に移設されています。「神アサギ」の東側後方には「根所火神」の祠が隣接しており、祠内部には「女神・男神・火神」が祀られています。(ウイヌウタキ/上の御嶽)(ウイヌウタキの入り口)(ウイヌウタキの祠)(ウイヌウタキの祠内部)1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根所火神 健堅村 麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。稲大祭之時、仙香 巫、花米五合 百姓、神酒弍 百姓。竈廻・ミヤ種子・アラザウリ・向ザウリ・畔払之時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒壱 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されており、更に『神アシアゲ 健堅村 麦・稲四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、仙香 巫、花米九合・五水五合・神酒壱・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒二・肴壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』との記述があります。「神アサギ」東側の森の中に「ウイヌウタキ/上の御嶽」があり、コンクリート製の祠が建立されており、霊石と二器の石造りウコール(香炉)が祀られています。(タマウドゥン/玉御殿/健堅大親御願所)(タマウドゥン/玉御殿/健堅大親御願所)「神アサギ」の北西側に「タマウドゥン/玉御殿」の神屋があり「キンキンヌヒャー/健堅大親」の『御先中世健堅比屋 父 松 幼名 次郎 次男 亀寿 子之神 夫 太郎 妻 オミチル』と記された「グヮンス/元祖(位牌)」が祀られています。更に「関帝王」の図像、観音像、8器のウコールが設置されています。この「タマウドゥン」は「健堅御願所」とも呼ばれており、最近では「お宮」の名称でも知られています。「健堅大親/健堅之比屋」は「察度王」の時代(1350-1395年)に「健堅大屋子」の役職を務めた人物です。「健堅大親」は誠実で人情深く、村人から大変尊敬されていました。1743-1745年に編纂された琉球王国の正史である「球陽」には、久米島で難破して漂着した中国船に乗っていた中国人を助け、船と名馬を与えて無事に中国に返し、後に中国の皇帝から琉球王国を通して絹と石碑が送られたとの記述が残されています。(ウガンヤマ/キンキンウタキ)(ウガンヤマ/キンキンウタキの入り口)「タマウドゥン」の南東側約100メートルの場所にある森は「ウガンヤマ/御願山」や「ウガン」と呼ばれ、普段人々が立ち入ってはならない聖域とされています。「キンキンウタキ」とも称される集落の「クシャティ/腰当て(拠り所)」であるこの御嶽は旧5月9日の1日だけは草刈り、樹木の手入れ、周囲の清掃を「健堅集落」の住民により行われています。「琉球国由来記」の『イシヤラ嶽 神名 ワカマツノ御イベ 健堅村』に相当する御嶽であると考えられ『麦・稲穂祭、且、山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒二肴一器 百姓、供之。同大祭之時、仙香 巫、花米五合、神酒二宛 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。(マツガーヤー/松川家)(マツガーヤーの位牌)(マツガーヤーのウコール)(マツガーヤーのヒヌカン)(マツガーヤーの図像)「健堅集落」の北側に「マツガーヤー/松川家」の旧家があり「ヒナジドゥンチ/辺名地殿内」とも呼ばれています。「健堅集落」は草分け旧家の「ナナチネー/7軒」から始まったと言われており「マツガーヤー」はその内の1軒であると伝わっています。更に土地の言葉で「健堅」の「タチハジマイ/立始め」の家として知られています。祀られている「グヮンス/位牌」には『渡久地 栄 長男 三良渡久地 次男 仙太郎渡久地 三男 太良渡久地 栄 妻 マツ 三良 長女 マツ』と記されています。「マチガーヤー」と共に「ナナチネー」として挙げられる旧家は「キンキンヌヒャー・キンキンウギドー・マンナヤー・イッチャファヤー・ヤマタイヤー・メーナケーマ」で、この7軒は「ムカシグヮンス/昔元祖」と呼ばれ、集落の祭祀が執り行われる旧家として大切にされています。
2023.08.04
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(上のウティラグンジン)沖縄本島北部の「本部町」に「辺名地/へなじ集落」があり、集落の西側丘陵に「辺名地洞穴」があります。この洞穴は「ウティラグンジン/ウティラグンギン」と呼ばれ、昔から「辺名地」の人々が「ムラシーミー/村清明」の際に拝してきました。洞穴は2箇所あり「辺名地集落」に近い方が「上のウティラグンジン」で、海沿いの「大浜集落」に近い方は「下のウティラグンジン」と呼ばれています。「辺名地集落」の「ムラシーミー」は集落の草分け旧家である「松田門中」の「マンナルンチ/マンナドゥンチ」と「松田門中」の分家である「ヘナジヤー」さらに「崎本部集落」から移り住んだ「渡口門中」の3組に分かれて執り行われています。「ムラシーミー」は「シマ建て」と呼ばれる「辺名地集落」の草分け祖先を拝する祭祀であり、かつては村の全ての住民が参加して祭祀が営まれるのが原則であったと言われています。(上のウティラグンジンの洞穴)(下のウティラグンジン)(下のウティラグンジンの洞穴)(下のウティラグンジンのウコール)「辺名地集落」の西側にあるサトウキビ畑を通り抜けると「ウティラグンジン」の森が広がり、県道244号線(渡久地山入端線)沿いの小高い丘陵に「上のウティラグンジン」と「下のウティラグンジン」の洞穴があります。「辺名地集落」の神役はノロ(祝女)1人とネガミ(根神)3人の計4人の女性を中心に祭祀が執り行われて来ましたが、現在はネガミの1人(ヘナジヤー)が数名の支持者と共に単独で祈願を行なっています。この単独行動の理由は「辺名地」に居住していないユタの判断を信じていると言われており「マンナルンチ」と「ヘナジヤー」の2つの旧家の葛藤が深刻化しているそうです。「ムラシーミー」の際、本来は昔から「下のウティラグンジン」のみ拝されていましたが、集落の古老がまだ幼い頃に見知らぬユタの判断により「上のウティラグンジン」を開いて祀る指示が出されたそうです。現在は「上のウティラグンジン」を拝み、次に「下のウティラグンジン」を拝するの順序となっています。(崖下の墓に向かう丘陵)(崖下の墓/風葬墓)(崖下の墓/正面の門石)(崖下の墓/向かって右側のウコール)(崖下の墓/内部の厨子甕)「下のウティラグンジン」の東側にある崖の中腹に風葬墓があり「崖下の墓」と呼ばれています。「ムラシーミー」ではこの古墓も同時に拝されており「辺名地集落」の先祖に関する人物の墓であると考えられています。墓の前はやっと1人がお供物を捧げ拝む事しか出来ない所狭い空間で、その脇は急な深い崖となっています。この風葬墓は珊瑚塊を人の背丈程の高さに積み重ねた壁に囲まれています。墓の正面にはジョウイシ(門石)を囲むシミイシ(隅石)やジョウガブイ(門冠り)の構造が見られ、石造りのウコールが設置されています。また、正面に向かって右側にもウコールが設置されてあり、ジョウイシとして多数の石が積み上げられてあります。石積みの内部には4基の厨子甕が設置されており、床には散乱している人骨が確認出来ます。「ムラシーミー」の際には墓に餅、天ぷら、蒲鉾などの重箱をお供えし線香を炊き合掌し、その後はあの世のお金である「ウチカビ/打紙」を燃やして拝されています。(マンナルンチ/マンナドゥンチの屋敷)(ナカヌウタキの森)(ナカヌウタキの入り口)集落の祭祀を執り行うノロを出す「マンナルンチ」の屋敷は「ジョーバル」とも呼ばれ「辺名地公民館」の南側に位置しています。この旧家は集落の草分けの家で「ニーヤー/根屋」としても知られ「ウッチガミ/掟神」という女性神役および男性神役も1人この家から出ています。かつてノロは南西側に隣接する「健堅集落」の祭祀にも関与していましたが、現在は「辺名地集落」の祭祀のみ執り行っています。「マンナルンチ」の「ニーヤー」にあるお宮は旧暦7月19日から24日の「シヌグイ」で執り行われる「ウフウムイ」と「ウンナレート神酒興し」拝されています。「マンナルンチ」の屋敷から西側に約100メートルの場所に「ナカヌウタキ」と呼ばれる御嶽が小高い森の中にあります。この森は「シニグイバル」の名称でも知られており、現在は一帯が土地改良が施されて畑が広がっていますが、昔からの拝所はこの森に大切に残されています。(ナカヌウタキの合祀拝所)(金満嶽の拝所)(土帝君の拝所)(ナカヌウタキのヒヌカン)「ナカヌウタキ」に通じる階段を上ると森の中に広場があり3つの拝所が合祀されています。「金満嶽」と刻まれた石碑とウコール(香炉)が祀られた拝所は「辺名地集落」の「フルウガミ」と呼ばれる御嶽がかつてあった方向に向けて設置されています。また、土地神である「土帝君」の石碑とウコールは土地改良が行われた集落の西側に向いており、さらに3体の霊石が設置されたヒヌカンの拝所は集落の中心部に向いています。「ナカヌウタキ」は旧暦1月3日の「元日御願」で拝され米2升・酒3合・線香3束が供えられ、旧暦4月15日の「4月ウマチー」では麦2升・線香15束・マキが供えられます。また、旧暦5月9日の「ウフウガン/大御願」の際には酒1升・麦2升・線香・ミキを作る麦粉・マキを供えて拝されています。(ヒナンジャーの拝井)(ヒナンジャーの拝井/入り口)(ヒナンジャーの拝井)(ヒナンジャーの中流)「辺名地公民館」の南東側に「ヒナンジャー」と呼ばれる川が流れています。公民館に隣接する場所に「ミャークニー散策道」と刻まれた石碑があり、そこから丘陵の森を下った麓に「ヒナンジャー」があります。この川沿いの階段の先には拝井が残されており、水は枯れていますがウコールと考えられてる石板が設置されています。「ヒナンジャー」は「古御嶽」と呼ばれるかつて集落の御嶽があった場所に近く「辺名地集落」の先人が貴重な水の恩恵を受けた川であると考えられます。ちなみに「ヒナンジャー」は「大小堀川」の中流を指し、下流は「ウフグムイガー」と呼ばれています。散策道の名称である「ミャークニー」は「宮古根」と表記し「本部宮古根/ムトゥブナークニー」という沖縄民謡があります。「スクミチ/宿道」をテーマにした唄であると同時に「モーアシビー/毛遊び」を唄った沖縄民謡としても知られています。『渡久地から登て 花の元 辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部』
2023.07.27
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(ムラウチの合祀所)「辺名地/へなじ集落」は方言で「ヒナジ」と呼ばれ、沖縄本島北部「本部町/もとぶちょう」の「八重岳」の西側山麓から東シナ海に向かって緩やかに広がる丘陵地に位置しています。集落の西側は「大浜・谷茶」の台地に続いており、北側は低地が広がる「渡久地・東」と丘陵が連なる「大嘉陽」に隣接しています。集落の南側には大小堀川が流れており、その中流「ヒナンジャー」と下流「ウフグムイガー」は隣接する「健堅/けんけん集落」との境界になっています。「辺名地集落」は内陸から「喜納/キンナー」「桃山/トウヤマ」「辺名地本字/ヘナジホンアザ」の3つに分かれ、そのうち中心的な部落は「辺名地本字」となっています。この「辺名地本字」地区は東シナ海を見下ろす丘陵の最西端に位置し、本部半島の山並みを背景に「伊江島・水納島・瀬底島」の離島や「美ら海水族館」で知られる「海洋博公園」を眺望する景勝地となっています。(五穀蔵神の祠)(古御嶽/フルウガミの拝所)(地頭神/村火神の拝所)(三釜/五釜/七釜の拝所)「辺名地本字」は「ムラウチ/ムラ」と呼ばれ一班と二班に分かれており、一班は「ヒチャクブ/下窪」二班は「ウイグブ/上窪」に区分されます。また「ヒチャクブ」を「へー/南」「ウイグブ」を「ニシ/北」と言う事もあり、これは旧6月25日に行われる綱引きの単位となっています。「辺名地公民館」は「ヒチャクブ」に位置しており、公民館の南東側にある高樹齢のデイゴの大木の下には集落の合祀拝所が設けられています。コンクリート製の祠内部には3基のウコール(香炉)が祀られ「五穀蔵神」と刻まれた石碑が建立されています。この祠に向かって左側には「古御嶽」と記された石碑があり、霊石とウコールが設置されています。かつて「古御嶽」は現在の御嶽から南側に位置しており住民からは「フルウガミ」と称されています。「古御嶽」の拝所に向かって左側には「地頭神/村火神」の石碑とウコールが祀られています。さらに「五穀蔵神」の前方には「三釜/五釜/七釜」と刻まれた石碑が建立しており、かつての窯元のヒヌカン(火の神)がこの地に合祀されていると考えられます。(辺名地公民館)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神)(ヒナジンヤー)(神アサギ)「ヒチャクブ」の中でも「辺名地公民館」周辺は「プシマ/大シマ」と呼ばれています。「ムラウチ」で最も古い部分であるとされる「プシマ」には集落の主要な祭祀場や旧家が集中しています。公民館の西側に「ニードゥクルヒヌカン/根所火神」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根所火神 辺名地村 麦・稲四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。竈廻之時、仙香 巫、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子ノ時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 巫、花米五合宛・五水五合宛 百姓。畔払之時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓、供之。瀬底巫・辺名地根神祭祀也。』と記されています。公民館に隣接した場所に「ヒナジンヤー」と呼ばれる旧家があり「ニガミ/根神」はこの家から自出します。さらに公民館に隣接して旧家「並里家」の「神アサギ」が建立されており「琉球国由来記」には『神アシアゲ 辺名地村 麦・稲四祭併柴指・芋祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。』と記されています。(ウルン/御殿)(御殿改築記念碑)(ウルン/御殿の内部)(ウルン/御殿のヒヌカン/火の神)「辺名地公民館」から「神アサギ」を中心とした周辺には「辺名地遺跡」が広がっています。遺跡にはグシク時代の土器や陶磁器等が散布していた事から原始時代の遺跡であると言われ、古くから部落が形成され人々が居住していた事が認められています。1635年に近世琉球における各村の石高と田畑を間切ごとに集計した古文書「琉球国高究帳」には本部の8村が「今帰仁間切」に属し、その中に「辺名地村」が記されています。また「仲村家/屋号カラヤマヤー」の辞令書によると、1604年には「仲村家」から「辺名地村」の村長助役である「目差役人」が命じられていた記述があります。「神アサギ」に隣接して「ウルン/御殿」が建立されており「御殿改築記念碑」と「神社改修記念碑」があります。「ウルン」の内部には石造りウコール(香炉)と陶器ウコールが3基づつ祀られており、それぞれにクバ扇と稲穂が飾られています。さらに向かって左側には「ヒヌカン/火の神」があり、こちらにも稲穂が祀られています。(タキサン/ウタキサン)(メーヌファ)(ミャークニー散策道の標識)(ミャークニー散策道)「辺名地公民館」の北側約200メートルの位置に「タキサン/ウタキサン」と呼ばれる森があります。「琉球国由来記」に記されている『西森 神名 コバヅカサノ御イベ 辺名地村』に相当すると考えられ『稲・麦四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。山留ニ竹木伐枯、為作物祈願之時、仙香 巫、花米五合・神酒二 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記述されています。旧5月9日に執り行われる「ウフウガン/大御願」の祭祀には、集落の人々は神役と共に「タキサン」に登り祈願します。ただし男性は「メーヌファ」の広場から奥には入れない男子禁制の御嶽となっています。「辺名地集落」の古老によると、この「タキサン」は3回移動していると伝わっています。以前は南側の丘陵にあったとされ「フルウガミ/古拝み」と称されています。さらに、それ以前は「ナカヌウタキ」と呼ばれ「プシマ」の南西側にある「シニグイバル」という小高い森にあったと言われています。
2023.07.15
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(石嘉波の神アサギ)沖縄本島の北部に「本部町/もとぶちょう」があり、この町の東側に「瀬底島/せそこじま」という離島があります。「瀬底島」の名称の由来や語源は諸説ありますが、沖縄の歴史学者である「東恩納寛惇/ひがしおんなかんじゅん(1882-1963年)」は自身の著書「南島風土記」にて『泳島(伊江島)の南に獅子島と注するもの瀬底島の事なるべし。』と記しています。「瀬底島」の北側には「イチャファ/石嘉波」と呼ばれる集落があり「石嘉波の神アサギ」が建てられています。この神アサギは南北に長く柱はコンクリート製で、屋根はセメント瓦葺きの造りとなっています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『神アシアゲ 石嘉波村 麦・稲四祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、仙香 根人、花米九合・五水五合・神酒壱 百姓。芋祭之時、仙香 根人、蕃薯二器・神酒弍・肴 二器百姓、供之。瀬底巫・根人祭祀也。』との記述があります。(石嘉波のニードゥクル/根所)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神に向かって右側)(石嘉波神社改築記念碑)「石嘉波の神アサギ」の東側に隣接した位置に「石嘉波のニードゥクル/根所」があります。この赤瓦屋根の建物内部には「ニードゥクルヒヌカン/根所火神」と呼ばれる霊石が3体祀られており、ウコール(香炉)・湯呑・花瓶・徳利が設置されています。「琉球国由来記」には『根所火神 石嘉波村 麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒弍 百姓。竈廻之時、仙香 根人、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。畔払之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 根人、花米九合・神酒壱 百姓、供之。瀬底巫・根神・根人祭祀也。』と記されています。また「ニードゥクル」の建物に向かって右側には「石嘉波神社改築記念碑」が2基建てられています。(石嘉波乃嶽/タキサン)(石嘉波乃嶽/タキサンの石碑)(石嘉波乃嶽/タキサンの古墓)(石嘉波乃嶽/タキサンのニジリヌカミ)「石嘉波のニードゥクル」の南東側一帯は「タキサン」と呼ばれる森があります。この森に「石嘉波乃嶽」の祠と鳥居が建立され、地元住民からは「ジンジャ」の名称で親しまれています。「石嘉波村/イッチャファ」の祭祀は神役と「カミー」という行事の世話役が中心となり「ニードゥクル」や「石嘉波乃嶽/タキサン」で執り行われます。「石嘉波村」の旧家は大きく分けて「上間家/屋号ウチバラドゥンチ」と「金城家/屋号ペーキルンチ」があります。「上間家」は「ウチバラ/ウチバラドゥンチ」と呼ばれ「石嘉波村」の最上位の旧家で「ニーヤ/根屋」であると考えられています。「金城家」は「尚敬王」の時代の1736年に「瀬底島」に移り住んだ長い歴史を持っています。「石嘉波村」には「上間・金城・知念・宮里・玉城」の姓がありますが「金城」が最も多く「金城門中」が最大の門中であると言われ「石嘉波大屋子」は「金城家」から自出したと伝わっています。(石嘉波乃嶽の祠)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって中央)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって右側)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって左側)「石嘉波乃嶽」は「琉球国由来記」に記されている『前之嶽 神名 マツノワカツカサノ御イベ 石嘉波村』に相当すると考えられ『麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香・花米 百姓、神酒二宛 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物折願之時、仙香 巫、花米五合・神酒一・肴一器 百姓。供之。瀬底巫祭祀也。』との記述があります。「石嘉波乃嶽」では旧暦5月の「ウフウガン/大御願」の際に豊作・村人の健康・村の繁栄が祈願され、米・酒三合瓶・二合瓶・線香二十束・半紙が供えられます。旧暦7月18日から23日に執り行われる「シヌグイ」は年間最大の儀礼で、悪風祓い・村の繁栄・豊作祈願が行われます。20日の「ウークイ」は神女中心の儀礼で一般女性の参加も多く見られ、22日の「ハンジャレートゥ」は男神役中心の儀礼で一般男性が多く参加します。因みに、これらの一般の村人は家族の健康祈願のために参加すると言われています。(アンチ御嶽)(アンチ御嶽の祠)(アンチ御嶽/安全守神の石碑)(アンチ御嶽の巨岩)(アンチ御嶽/巨岩のウコール)「アンチ御嶽」は「瀬底島」入り口の表玄関である「アンチ浜」西側の岩の上に位置しています。「瀬底大橋」の付け根の北側にあり、御嶽周辺は巨岩で覆われています。「アンチ御嶽」のコンクリート造りの祠は前面が閉じられた古墓の型をしており、内部には厨子甕が納められていると言われています。航海安全を祈願する旧暦1月2日の「ハチウクシー/初起し」や旧暦5・9月の「ウフウガン/大御願」で拝まれます。離島である「瀬底島」は「本部町」がある本島との往来は「トゥケーワタイ」と呼ばれ、特に注意を払って島民は神に祈りました。この「アンチ御嶽」は島民の航海安全を祈願する御嶽として昔から拝されてきました。御嶽の下方には「浜番屋」が置かれ、明治末年頃から「瀬底島」の「岸本家」が島の渡し守りをしていたと伝わります。「アンチ御嶽」の祠に向かって右側には「安全守神」と刻まれた石碑が建立されており、現在でも石造りウコール(香炉)には多数の線香が供えられています。
2023.07.06
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(瀬底土帝君/ティーティンク)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に「瀬底島/せそこじま」があります。橋長762メートルの「瀬底大橋」を渡り車や徒歩で行ける「瀬底島」は観光客に人気の美しい離島として知られています。島の中央部に「瀬底集落」があり「瀬底公民館/瀬底区事務所」の東側に「瀬底土帝君」という農神が祀られる祠が残されています。「ティーティンク」や「とていくん」と称される「瀬底土帝君」は1997年(平成9)12月3日に国指定重要文化財に登録され「本殿・拝殿・庭・石段・炉・周辺の石垣」で構成されています。「土帝君」は中国古来の土地関係の神の一種で、一般的に「土地神」と呼ばれています。「瀬底島」における「土帝君」信仰は島の旧家の1つである「上間家」の二世「健堅親雲上/きんきんペーちん(1705〜1779年)」が「尚敬王」の時代に「山内親方/やまうちうぇーかた」に随行して清国に渡った際に農神「土帝君」の木造を請じて祀ったのが始まりであると伝わっています。(瀬底土帝君の拝殿/アサギ)(拝殿のウジャイガミ)(瀬底土帝君の本殿/イビ)(本殿のウコール)「瀬底土帝君」は沖縄各地に祀られる「土帝君」のうち最大の規模を保つ礼拝施設で、建築年代は不明ですが本殿及び拝殿の軸部や石組み等の状態から18世紀中頃の造営であると考えられています。この「土帝君」は「本部間切」の「地頭代/ぢとぅでー」を勤めた「シークエーキ」と呼ばれる旧家「上間家」の所有で、毎年旧暦2月2日の「土帝君正月/てぃてぃんくそうぐゎち」の祭礼が行われます。「瀬底土帝君」の祠は集落東側の北西方向に面する傾斜地に位置し、自然林が構成する歴史的風致の中にあります。石垣で整然と区画された一画に珊瑚石の巨石を用いて建設された本殿(イビ)拝殿(アサギ)庭(ミャー)が直線上に並んでおり「土帝君」信仰に関する建造物の形態を良く保つ代表的な遺構として高い文化的価値があります。さらに旧暦5月ち9月の「大御願/ウフウガン」の行事にも拝され「瀬底集落」に於いて「瀬底の七嶽」と呼ばれる拝所の1つに含まれるようになりました。(ケーガーの拝所)(拝所の祠)(祠内部のウコール)(南洋サイパン/ロタ同志會の石碑)「瀬底土帝君」の東側で「瀬底島」で最も標高が高い「ウンバーリ」と呼ばれる丘陵西側の低地に「ケーガー」と称する拝井戸があります。「ケーガー」とは飲料水を貯める池の事で「ウンバーリ」の山に降った雨水を貯めた溜池が4つあります。以前は飲料用水として重宝されていましたが、現在は農業用水として利用されています。「ケーガー」の拝所は1番東側の溜池の脇にあり、祠と破損した鳥居が建立されています。祠の屋根の眉には左右に天皇家の家紋である「菊の御紋/菊花紋章」が刻まれており、中央に造形された5枚の花びらは桜を模ったと考えられます。また、この祠に向かって左側に「月」正面に「星」右側に「太陽」の模様が彫られています。祠内部には3基の石造りウコール(香炉)が祀られており、さらに祠に向かって左側には「奉納 南洋サイパン ロタ 同志會」と刻まれた石碑が建立されています。この石碑は昭和4年に南洋出稼ぎ移民としてサイパン島とロタ島に渡った「瀬底島」出身の移民者により造られたと言われています。(ケーガーの溜池)(ケーガーの溜池)(チンガー)(チンガーの石柱)旧暦9月9日の「ハーウグヮン」では「ケーガー」の溜池を拝み水の恩恵に感謝します。午後4時過ぎ頃から門中の神人等が「ケーガー」に集まり「ハーウグヮン」が始まります。まず初めに「瀬底ヌル」をはじめとする村の神人が祠の前に座り酒3合、米9合、ヒジュルウコー(火をつけない線香)を供えて村の祈願を行います。その後、門中ごとに供え物を捧げて各門中の神人達で祈願します。祈願が終わると「ケーガー」の敷地内にある広場に車座になり、夕刻まで供え物の酒と持参した弁当を飲食して楽しみます。「瀬底島」の外に在住する神人も必ず「ハーウグヮン」に参加する決まりとなっており「ケーガー」に集合する前に各自の門中井戸や池を拝む事となっています。「ケーガー」に隣接した場所に「チンガー」と呼ばれる井戸があり、石積みで囲まれ整備された「チンガー」には石造りのウコール(香炉)が設置されています。なお「チンガー」に向かう道には「チンガー 田園空間整備事業」と記された石柱が立っています。(ウフニヤ)(ウフニヤの祠)(ウフニヤの祠内部)「ケーガー」の東側に「ウフニヤ」と呼ばれる拝所があります。「ウフニヤ」は「ウンバーリ」の山中にあり浄水場の近くにコンクリート製の祠が建立されており、祠内部には三基のウコール(香炉)が祀られています。旧正月の「ウフニヤウグヮン」では旧正月の朝「大底門中」の男神役である「ウフシヌヘー」と区長が「瀬底島」一番の高所である「ウフニヤ」に行き、酒とお供物を捧げて村人の健康と村の繁栄を祈願します。かつて「ウフニヤ」には船の出入りを見張る「トゥーミー/遠見番」と呼ばれる職が置かれており「伊江島」から入船の合図の狼煙が上がると「ウフニヤ」の「トゥーミー」で狼煙を上げて「読谷村」の「座喜味」に伝えたと言われています。これに因んで「瀬底島」では現在も「遠見屋/トゥーミーヤー」の屋号が残っています。さらに「ウフニヤウグヮン」の日には、同時に「ヌルルンチ/ノロ殿内」で神女を中心とした祈願が執り行われます。(ティランニー)(ティランニーの祠)(ティランニーの祠内部)(ティランニーの洞穴入り口)「ウフニヤ」北側に「ティランニー」と呼ばれる拝所があり、この森の中に深さ5〜6メートル程の洞穴があります。以前はこの洞穴の中で儀式が執り行われていましたが、現在は洞穴の前に小さな祠が建立され「お通し」の儀式が行われています。旧暦5月・9月・11月の穀物の豊作祈願である「ティラムヌメー」の行事の際に「ティランニー」が拝されています。伝承によると「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は行事の2日前から塩・味噌・油を使った食事を摂らず、当日の朝は「トールマイ」の浜に下りて海水で身体を清めます。その後「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は梯子で洞穴に降り下着を脱いでハヤーを43本束ねたサン(魔除け)を供えて祈願しました。「ティラムヌメー」の行事が穀物の豊作祈願である事から、男神役の「ウフシヌヘー」と神女の「瀬底ヌル」による一種の性交模倣儀礼であったと考えられています。
2023.06.24
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(ウチグスク/東の御嶽)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に西洋梨の形をした「瀬底島/せそこじま」があります。この大地状の島の面積は2.99平方キロメートル、周囲は7.3平方キロメートル、標高は76.0メートルとなっています。「瀬底島」の中央にある「瀬底集落」の南東側に位置する「ウチグスクヤマ/内城山」と呼ばれる場所に「ウチグスク/内城」があり「アガリヌウタキ/東の御嶽」または「ムーチースネードゥクル」と呼ばれています。また「ウチグスク山」の東側一帯は崖の丘陵となっています。この「ウチグスク」は「瀬底村」の発祥の土地でグスク時代の「瀬底貝塚」があり、村はその貝塚を「クサティ/腰当」にして北西側に広がって行ったと言われています。「瀬底島」の主要な祭祀が「ウチグスク」で行われている事から「瀬底村」の祖霊神を祀る御嶽であると考えられています。(ウチグスクの祠)(ウチグスクの祠内部)(ウチグスクの岩石)「ウチグスク」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『カネオツ森 神名 ワカマツノ御イベ 瀬底村』に相当する説があります。「ウチグスク」での祭祀が執り行われる「ハギヤー」と呼ばれる広場にコンクリート製の祠があり、この祠内部には数体の霊石が祀られウコール(香炉)が3基設置されています。「ウチグスク」一帯の森や岩石が聖域を意味する「イビ/威部」となっており「瀬底村」の草分け旧家である「ウフシヌヘー/大城家」が「ウチグスク」の鳥居と祠を建立しました。「瀬底村」の「ニードゥクル/根所」として代々村の祭祀を執り行ってきた男神役である「ウフシヌヘー」の屋敷は「ウチグスク」北側の「瀬底貝塚」にありましたが、3回目に現在の場所に移転したと伝わっています。現在でも旧暦7月22日の「ハンブトウキ」や「ハンジャレートウ」と呼ばれる悪風祓いと豊作祈願の行事で「瀬底貝塚」が拝されています。(ヌルヒヌカン/祝女火神の鳥居と祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠内部)(ヌルヒヌカン/祝女火神の石碑)「瀬底グスク」とも称される「ウチグスク」の西側入り口に「ヌルヒヌカン/祝女火神」があり鳥居と祠が建立されています。この「ヌルヒヌカン」は「ヌルルンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「祝女火神」の祭神が祀られています。かつての祠は破風型のコンクリート造りで昭和4〜5年頃に「瀬底島」でトラバーチンを発掘した道下氏が寄付した二百円のうち百拾五円で建立されました。トラバーチンとは貝を含む珊瑚石灰岩で、日本の国会議事堂の内装に使用されています。現在の赤瓦屋根の祠は1988年(昭和63)に建て替えられたもので祠内部には古い数体の霊石が祀られており、石造りのウコールが一基設置されています。この祠に向かって左側には「のろ火の神 ヌルヒヌカン」と記された自然岩の石碑と「奉納 道下扉志 昭和六年七月建立」と考えられる文字が刻まれた石碑が設けられています。(ヌルヒヌカンの敷地にある記念樹碑)(ウチグスク入り口の仲田門中章氏拝所)(ウチグスク入り口のウコール)(ウチグスク入り口のカミヤー/神屋)(カミヤー/神屋の敷地にある井泉跡)「ノロヒヌカン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に次のように記されています。『瀬底巫火神 瀬底村 毎年三・八月、四度御物参有祈願也。且、麦・稲穂祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。麦大祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒二 百姓。竈廻之時、仙香 巫、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子・畔払之時、仙香 巫、花米五合宛・五水三合宛 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。稲大祭之時、仙香 巫、花米九合 百姓、神酒弐 壱地頭 壱百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒弐 百姓。毎年十一月、海神折目之時、仙香 巫、花米五合・神酒三・五水三合・魚三絡 百姓、供之。同巫、根人祭祀也。』また「ウチグスク」の入り口には「仲田門中章氏拝所」が設けられており、隣接した場所には石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに「ウチグスク」の入り口には他にも「カミヤー/神屋」の祠が建立されており、敷地には井戸跡が残されウコールが設置されています。(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋の位牌)「カミヤー」の内部にはヒヌカン(火の神)、仏壇、トゥクシン(床の神)、位牌が祀られています。旧暦7月18日から24日まで執り行われる「ウフユミシヌグイ」では悪風払いと農作物の豊穣、さらに村の繁栄と村人の健康祈願が行われ「ヌルヒヌカン」や「ヌルルンチ」の入り口広場でも祈願が行われます。3日目(旧暦7月20日)に行われる「ウフユミ」は主な儀礼の一つで、この日から3日間は死者を村の中に入れてはいけない風習となっています。「ウフユミ」は「タチガミ/立神」と呼ばれる神女が中心に行われ「瀬底ヌル・ウフニシヘー」や他の神女達が参加して「カーサームーチー」と呼ばれる月桃(げっとう)の葉で包んだ餅が供えられます。この日の祭祀で「タチガミ」は竹製の6本の弓矢を持ち頭に草を巻いて武装します。「瀬底島」西側の海岸にある「アタフジ浜」へ向かう途中と浜では「タチガミ」が「水納島」と「伊平屋島」方面に向いて、敵を想定して弓矢を投げる儀式が行われます。(内城按司/ノロ之墓)(内城按司/ノロ之墓の改築記念碑)(内城按司/ノロ之墓の石碑)(内城按司/ノロ之墓からの景色)「ウチグスク」がある「ウチグスクヤマ」西側の森の中に「内城按司」と「瀬底ノロ」の墓があります。この墓の「マユ/眉」と呼ばれる位置に「第一尚氏」の家紋が刻まれており、墓に向かって左側には「内城按司 ノロ 之墓 改築記念碑 昭和六二年六月廿日竣工」と記された石碑が建立されています。また、その左側には「女神様 一九七七年三月五日」と刻まれた石碑と、更にもう一体の石碑が設置されています。「瀬底島」の祭祀は旧暦1月1日の正月の祈願から旧暦12月の「ワタクシウグヮン」まで「瀬底ノロ」により執り行われます。「瀬底島」の年中行事を締めくくる「ワタクシウグヮン」は「ヌルルンチ」に豆、酒、線香を供えて1年間の感謝祈願として拝されます。この祭祀は昔からノロの「ウグヮン/御願」で、ノロの1年間の勤めに感謝して集落の各戸から徴収した穀物を報酬としてノロに与えたと言われています。
2023.06.16
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(大城家/屋号ウフジュクの神アサギ)沖縄本島の北部の「本部町」に隆起珊瑚礁で形成された「瀬底島」があり「島尻マージ」と呼ばれる土壌が分布しています。「瀬底島」の中央部に「瀬底集落」があり、この集落の草分け旧家である「大城家/屋号ウフジュク」の屋敷に「神アサギ」が建立されています。「大城家」の「ムートゥヤー/元屋」である「大底門中」の先祖が「瀬底島」に移り住んだ15世紀中頃には島の先住民が暮らしていましたが「北山監守今帰仁按司」の子孫で武力と統治力のある「大城家」により島は支配されたと伝わります。「大底門中」は現在も集落の「ニーヤー/根屋」としてウフシヌヘー、ノロ、神人などを出し、島の祭祀の中心的役割を担っています。この「大城家」の屋敷の東側に神を迎えて招宴する「神アサギ」があり、内部には神の依代である「タムト木」と呼ばれる丸太が祀られています。「神アサギ」での祭祀の際にはこの「タムト木」の上に線香を供えて祈願します。(大城家のカミヤー/神屋)(カミヤーの仏壇とヒヌカン)(カミヤーのトゥクシン/床の神)(カミヤーの仏壇)「神アサギ」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、線香 巫、花米九合・神酒弍・五水五合・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒弍・肴壱器 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。「大城家」の敷地内で「神アサギ」の東側には「カミヤー/神屋」があります。仏壇には『大城親雲上・大城筑登之・内城按司・内城大主・内城按司女神・内城按司祝女・七之ウミナイビ乳母・七代先祖・八代先祖』などの位牌が建立されており、仏壇の左側には「ヒヌカン/火の神」の霊石が三体祀られています。「カミヤー」の中央には「大城家/大底門中」の先祖である「ウチグスク/内城按司」と考えられる人物を描いた掛軸と刀が飾られており、向かって右側には「寿」と記された木彫りの扇子が二面据え置かれています。(大城家の鳥居)(大城家のニーヒヌカン/根火神)(ニーヒヌカン/根火神の祠内部)(アシビモー/遊び毛/フチャムイのガジュマル)「神アサギ」の北側に面して「ニードゥクル/根所」と呼ばれる赤瓦屋根の祠があり「ニーヒヌカン/根火神」が祀られています。この祠は「大城家」の屋敷東側に建立されているため「大底門中」の「ヒヌカン/火神」であると考えられています。旧暦2月の麦の豊作祈願で麦の初穂を供える「2月ウマチー」と、旧暦5月の粟の穂を供えて粟の豊作祈願と集落の住民の健康祈願を行う「5月ウマチー」でウフシニヘーやノロなどの神人が「ニーヒヌカン」を拝します。また旧暦3月の麦の豊作に感謝しウブク(ご飯)・酒・カティムン(おかず)・線香を供えて祈願する「3月ウバングミ」と、旧暦6月に粟の豊作を感謝しウブク・酒・カティムン・線香を供える「6月ウバングミ」でもウフシニヘーやノロなどの神人により祈願が行われます。「大城家」の東隣には集落の踊りが行われる「アシビモー/遊び毛」があり「フチャムイ」とも呼ばれています。旧暦8月15日の「シシウグヮン/獅子御願」では「アシビモー」に獅子を安置し「ヤナカジゲージ」と呼ばれる「ヤナムン/悪霊」祓いの祈願をします。(若狭松御願/ワカサマチウガン)(若狭松拝所の石碑)(若狭松御願/ワカサマチウガンの祠内部)「大城家」の「神アサギ」から西側の場所に位置する「ウチマンモー」と呼ばれる広場に「ワカサマチウガン/若狭松御願」の拝所があります。その昔、この一帯に青々とした立派な松の木があった事からこの名前が付いたと伝わります。「ワカサマチウガン」の祠内部には石造りウコール(香炉)が2基と鉄製のウコールが1基祀られており、この拝所には『若狭松拝所 一九六三 . 八 . 廿五 .』と記された石碑が建立されています。「ワカサマチウガン」は「瀬底集落」の年中行事で悪風祓いと農作物の豊穣、さらに村人の健康と村の繁栄を祈願を兼ねた「ウフユミシヌグイ」の6日目に拝されます。この行事は一年で最も重要な祭祀で旧暦7月18日から24日の1週間に渡り行われます。この拝所は「瀬底の七門中/大城・上間・仲田・湧川・仲原・仲程・奥原」の「仲田門中」と深い関わりがあると言われています。(御天竜神地の拝所)(御天竜神地の石碑)(御天竜神地のウコール)旧暦7月23日の「ワカサマチウガンの日」の午後、神人および「仲田門中」の人々が「ワカサマチウガン」の拝所に集まり、重箱(仲田門中)・おにぎり・酒・シブイ(冬瓜)の薄切・刺身の味噌和え・線香を供えて祈願します。「ワカサマチウガン」に隣接して「御天竜神地」の拝所があり大小無数の石が積まれています。『御先 御天竜神地 ニライカナイ』と刻まれた石碑が建立されており、石造りのウコールと数個の霊石が祀られています。『御先/ウサチ』は「アマミキヨ・シネリキヨ」の琉球開闢の世の中である「御先の世/ウサチユー」を意味し『御天/ウティン』は「天」を指します。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。この拝所は海の神に通じる聖域であり、航海安全や豊漁祈願が行われる「地/ジーチ」として崇められています。(慰霊塔)(慰霊塔)(刻まれた戦没者名)更に「ウチマンモー」の南側には昭和32年に建立された「慰霊塔」があり沖縄戦で戦没した軍人・軍属の御霊を祀り、毎年6月23日の「慰霊の日」に「慰霊祭」が執り行われています。1944年(昭和19)10月10日の「十・十空襲」では「瀬底島」と沖縄本島の「先本部」の海峡に停泊していた潜水母艦「迅鯨/じんげい」がアメリカ軍の攻撃により沈没しました。この空襲により「瀬底島」の民家と学校が消失し島民1人が死亡し、翌年の1945年(昭和20)4月22日、アメリカ軍は「瀬底島」に上陸したのです。沖縄戦に於いて「瀬底島」出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となりました。戦時中「本部町」の住民は「名護市」の「久志・辺野古」の収容所に移動させられましたが「瀬底島」の住民は収容されなかったと伝わります。この理由として「瀬底島」の主要な人物が島の学校を再建する事を条件にアメリカ軍と交渉して島民は収容所への移動を免れたと言われています。
2023.06.05
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(西の御嶽/宮鳥御願)沖縄本島北部にある「本部/もとぶ町」の西側に周囲7.3キロ平方メートルの「瀬底/せそこ島」があります。この島の住民は「瀬底島」を「シマー/島」と呼びますが、対岸の本部半島の人々は「シーク」または「シスク」と呼んでいます。国道449号線から「瀬底大橋」を渡った場所にある「瀬底島」の西側に「瀬底ビーチ」があります。この浜の南側には「西の御嶽/イリヌウタキ」の森が佇み、別名「宮鳥御願/ミーヤトゥヤウガン」と呼ばれています。この御嶽は1913年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『ヨネフサキ嶽 神名 カネマツ司ノ御イベ』に相当すると考えられます。「瀬底集落」の西側約900メートルの場所にある「西の御嶽」は木々が生い茂る一帯に2〜3メートルの窪地にあり、御嶽の周囲は石灰岩の口の広い洞穴となっています。この拝所には「ノロ/祝女墓」の他にも洞穴内に4つの古墓が祀られています。(初代瀬底ノロ墓)(呂氏仲程瀬底一世の石碑)(洞穴内の古墓)(洞穴内の古墓)「西の御嶽」の「ノロ墓」は破風型のコンクリート製で、石碑には「呂氏仲程瀬底一世 昭和十一年四月建立」と記されています。この古墓には「瀬底村初代公儀ノロ」が祀られていると伝わります。葬られた祝女は若い頃から公儀ノロを務めた美女で、旧暦五月三日に穀物の豊作祈願を行う「ティラムヌメー」と呼ばれる祭祀の前に「トールマイ浜」にて身体を清める洗い髪をしていました。その時、以前から沖に停泊していた鹿児島船の船乗りに暴行され、ノロは「宮鳥御願」の森に逃げ込み身を隠しました。ノロは暴行した船乗りに『残波に行けば、お前達の船は破れてしまえ』と手を合わせて船乗りに呪いをかけたのです。その後、天候が回復して船を出したところ残波で船は難破して船乗りは全員死亡し、ノロはそれを見届けた後に洞穴で自ら命を絶ったと言われています。その骨神がこの「西の御嶽」の古墓に祀られていると伝わっています。(宮鳥拝所)(宮鳥拝所の石碑)(宮鳥拝所の祠内部)(宮鳥御願の竜宮神)旧暦五月の「ウフウグヮン/大御願」ではその昔、ノロ墓から骨を出して洗い清めていました。この骨洗いは「ミススイ/御洗清」や「スン」と呼ばれ「瀬底集落」の「仲程門中」が担当してきました。この「ウフウグヮン」は「七ウターキ/御嶽」の祈願で麦の豊作と村人の健康と繁栄を願います。現在はノロや神女達が集落にある七ヶ所の御嶽を巡り大豆九升・酒三合・線香二十五束を供えます。その昔は徒歩で巡っていたため一日がかりの行事となり、道中は供物を小使いの少年が担いでいたと伝わります。「宮鳥御願」の森には「宮鳥拝所」の祠があり、内部には三体の霊石と三基の石造りウコール(香炉)が祀られています。また祠の脇には「宮鳥拝所 一九九二年八月吉日改築」と刻まれた石碑が建立されています。この祠から浜の方向へ進むと「竜宮神」の拝所があり「竜神」と記された石碑、形の異なる三基の石造りウコール、一体の霊石、シャコガイの貝殻が海に向かって祀られています。(サンケーモー/三景毛)(大底門中/大城家の拝所)(大底門中/大城家の拝所)「瀬底集落」では旧暦五月と九月の「ウフウグヮン/大御願」の行事に「七御嶽」が拝まれます。参拝の最後に集落の南側にある「サンケーモー/三景毛」と呼ばれる小高い丘に行き「瀬底島」の西側にある「水納/みんな島」に向かって神人全員が拝みます。この行事は「水納島」にある「メンナの御嶽」へのタンカー(御通し)だと言われています。この「サンケーモー」には「大底門中」の拝所があり、この門中の「大城家/屋号ウフジュク」は「瀬底集落」の「ニーヤ/根屋」で、集落で最も古い約500年余りの歴史を持つ旧家です。「大底門中元祖由来記」には「大底門中」は第一尚氏「尚巴志」王統の「北山監守今帰仁按司」で、数代に渡り「山北今帰仁グスク」に駐在して山北諸郡を統治していました。第七代「尚徳王」が滅亡した時に「北山監守今帰仁按司」の子孫の1人が「瀬底島」に移り住み、村を創建して「瀬底集落」の草分けとなったと言われています。(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所)(仲田門中拝所)「サンケーモー」には他にも「上間門中/上間家/屋号アガーリ」の拝所があり、別名「シークウェーキ」とも呼ばれています。伝承によると「上間門中」の始祖である「細工大主」は「瀬底島」に渡って来た当初は「アンチ浜」の海岸丘陵にある「カンジャーガマ」でカンジャー(鍛冶屋)をしていました。当時は士族や農民にとってカンジャーは重要で島民に重宝され、貯めた蓄えで土地を購入し「瀬底集落」に住居を構えるようになったと伝わります。第二世から第五世までは「本部間切地頭代役」を務めて「健堅親雲上/キンキンペーチン」と呼ばれていました。第二尚氏「尚円王」の子である「山内親方」のお供を若い頃からしていた第二世は中国の清に渡り、土地神(農耕神)である「土帝君」の木像を持ち帰り「瀬底島」に祀るなど豪農と慈善事業家として知られていました。また「サンケーモー」には集落で第三の旧家である「仲田門中」の拝所も設けられ、石碑の前には「首里」と「津嘉山」の石柱が建立されています。(前の御嶽/南の御嶽)(前の御嶽/南の御嶽の祠)(前の御嶽/南の御嶽の祠内部)(前の御嶽/南の御嶽の森)「前の御嶽/メーヌウタキ」は「瀬底集落」の南西の方角に約500メートルの場所にこんもり茂った「ウチンメー」と呼ばれる小丘陵にあります。別名「南の御嶽/へーヌウタキ」とも言われるこの御嶽は「瀬底島」の拝所の中で最南に位置しています。コンクリート製の祠内部には三体の霊石と一基の石造りウコール(香炉)が祀られています。以前は赤瓦屋根の祠でしたが、昭和40年代に現在の姿に建て替えられました。「前の御嶽」は「瀬底の七御嶽」の一つで「国守りの神」が祀られているとの伝承があり「瀬底島」を守護する御嶽であると考えられています。旧暦五月と九月の「大御願」の際に拝される「七御嶽」の最後に参拝される拝所として知られています。ちなみに旧暦五月の「大御願」では「瀬底ノロ」や神女等により麦の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄を祈願し、九月の「大御願」では豆の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄が祈祷されます。
2023.05.28
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(ウドゥンガー/御殿ガー)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」に「谷茶/たんちゃ集落」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」と1731年に成立した漢文による琉球王国地誌である「琉球国旧記」によると、恩納間切地頭代は『前兼久親曇上』と称する以前は『谷茶大屋子』と呼ばれていました。このことから「谷茶村」は琉球王国の行政村として確立していた事が示されています。また「谷茶村・仲泊村・前兼久村・冨着村」の4村は「山田ノロ」の管轄により「冨着神アサギ」にて合同祭祀が執り行われていました。「谷茶集落」の中央部にある小高い丘陵は村の御嶽となっており、この御嶽の東側に「ウドゥンガー/御殿ガー」と「シリンカー/後ガー」があり、西側には「メーンカー/前ガー」と呼ばれる井泉があります。この3箇所の井泉は集落の草分け旧家とその子孫に水の恩恵を与えた拝井として現在も大切に崇められています。(ウドゥンガー/御殿ガーの祠)(シリンカー/後ガーの拝所)(シリンカー/後ガーの祠)(ミージマバシ/新島橋)「谷茶集落」の御嶽がある丘陵の東側麓に村の草分け旧家の1つである「アガリ/東」があり、この家の南西側に「ウドゥンガー/御殿ガー」の拝井が残されています。井戸は石組で丸く囲まれており現在も水が湧き出ています。「ウドゥンガー」には南側に隣接する御嶽に向かって祠が建てられており、コンクリート製の祠内部には数個の霊石が祀られています。この「ウドゥンガー」から更に東に50m程の場所に「シリンカー」と呼ばれる小川が流れており、川岸にはコンクリート製の祠が建てられ「クシガー/後ガー」と呼ばれる拝所となっています。コンクリート製の祠内部には霊石が1個祀られています。その昔は「シリンカー」から西側に「谷茶集落」が広がっていましたが、明治20年頃に集落のほぼ全域を焼き払う大火がありました。それ以後「シリンカー」を越えて東側に民家が建つようになり「シリンカー」に架かる「ミージマバシ/新島橋」を境に東側の地域を「ミージマ/新島」と呼ぶようになりました。(メーンカー/前ガーの拝所)(メーンカー/前ガーの祠)(メーンカー/前ガーのグムイ/溜池)(メーンカー/前ガーの上流)御嶽の西側で「アガリメーウフヤ/東前大屋」の旧家から北側に進んだ森に「メーンカー/前川」の上流があります。水量が豊富な小川の流れを堰き止めた「グムイ/溜池」があり、この場所に「メーンカー」の祠が建てられ「メーガー/前ガー」と呼ばれる拝所となっています。北側に隣接する御嶽に向けて建てられたコンクリート製の祠内部には霊石が6個祀られており、現在でも先人が水の恵みを頂いた拝井として多くの住民が参拝しています。「谷茶集落」の古島は「メーンカー」と「シリンカー」に挟まれた地域に民家が広がり集落を形成し発展してきました。人々の生活に欠かせない「ウドゥンガー」「クシガー」「メーガー」の井泉に祀られる3箇所の拝所は旧暦8月に行われる「カーウガミ/井泉祈願」で拝されており、かつて正月に汲む若水や産まれた子供の産水としての「ウブガー/産ガー」として村人に重宝されていたと考えられます。(東リタカビチェー/谷茶村墓)(ウフヤームンチュー/大屋門中之墓)(亀甲墓)「谷茶集落」の北東側に「谷茶古墓群」と呼ばれる標高約20mの丘陵があり「クガタ/此方組墓」と呼ばれる「ムンチュー/門中墓」が点在しています。集落の「アガリ/東リ・ウフヤー/大屋・イリ/入り」などの旧家は「クガタムンチュー」に属していました。「ムンチュー/門中」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団を言います。「ムンチュー」の一族は同一の共同墓に入り、墓の管理や運営も「ムンチュー」により行われています。「丘陵の中腹には「東リタカビチェー」と称する「ムラバカ/村墓」があり、他にも「ウフヤームンチュー/大屋門中之墓」など古い亀甲墓が構えています。この「タンチャオオブクロバル/谷茶大袋原」にある「谷茶古墓群」には亀甲墓の他にも堀込墓や破風墓があり、古墓の蓋石に大型のテーブルサンゴなどが用いられています。さらに丘陵の周囲からは獅子竈や近世陶磁器が発掘されています。(旧ムラバカ/村墓)(堀込墓)(谷茶古墓群に移設されたムラバカ/村墓)「谷茶古墓群」から更に北東側で「大湾川」の北側に「ガンジ原古墓群」と呼ばれる約3m程の小高い丘があり「アガタ/彼方組墓」と称する「ムンチュー墓」が造られていました。この古墓群には集落の草分け旧家である「ニーチュヤー/根人屋」などの「ムンチュー」が「旧ムラバカ/村墓」や「堀込墓」に葬られていました。この「ガンジ原古墓群」は「谷茶集落」と関連がある古墓とされていますが「谷茶古墓群」と位置が離れており墓の形状も違う事から、より古い違う時代の古墓群であると考えられています。その証拠に「ガンジ原古墓群」には堀込墓が多く「大湾川」から多数の厨子甕が発見されています。この周辺の丘からは厨子甕に使われた土器壺や青花が表面採集されており、さらに「寛永通寶」の貨幣も発掘されています。現在「ガンジ原古墓群」にあった「旧ムラバカ」は「谷茶古墓群」に「谷茶区合祀墓」として移設されています。(谷茶前節の歌碑)(谷茶前浜)(谷茶前浜)「谷茶前浜」には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑が建立されています。耕作地が少なかった「谷茶集落」では村を上げて漁具に力を注いでいました。集落では海の幸の恵みと感謝を示すため御嶽の祭祀には魚を神前に捧げたと言われています。「アカヒゲ屋」の人は三線が巧みで踊りや狂言も人気があり「マネク屋・トクムト・入り・与儀小」などの人々と共に「谷茶前浜」に押し寄せた数えきれない海の幸、大漁に心躍る青年達、忙しく魚を売りに走る乙女達の情景を「谷茶前節」で見事に歌と踊りに表現しました。因みに、琉球音楽の世界で『唄三線の始祖』として信仰されている「赤犬子」が旅の途中に「谷茶」で物乞いをした時、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に「赤犬子」をもてなしてくれました。「赤犬子」は谷茶の船を「谷茶速船」と名付け、それから谷茶の船は爽快に水を切って走ったとの伝承が残されています。
2023.05.18
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(谷茶の御嶽)沖縄本島北部の西海岸線沿いに「恩納村/おんなそん」が南北に長く広がり、この村の中央部に「谷茶/たんちゃ集落があります。この村の集落は東西に細長い形をしており、西側にある弓状の浜辺の砂堆上に位置しています。「谷茶」という村名は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」から記載され始めました。さらに1743〜1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である「球陽/きゅうよう」には『一六七三年(延宝元年)恩納間切創設に読谷山間切から八邑、金武間切から四邑を割き、十二邑で恩納間切を創めた。』と記載されています。このことから「谷茶」は読谷山間切から割かれた八邑の一つである事が分かります。また、1731年に成立した漢文による琉球王国地誌の「琉球国旧記」には『谷茶大屋子(地頭代)』の記事が記されています。(御嶽の丘陵)(御嶽の登口)(谷茶の御嶽)「谷茶集落」の中心部から南側にある丘陵の頂上に「御嶽」の社が「谷茶」の古島がある北側に向けて建立されています。「谷茶」の草分け旧家を見晴らす位置にある「御嶽」は村の守護神として昔から崇められてきたと考えられます。この御嶽は旧正月1日の「ハチウガン/初御願」で「谷茶集落」の老若男女が初詣に参拝しました。前年に子供が産まれた家は「カミジン酒」をつくり神に捧げ「ニーガン/根神」により神への報告が行われます。寄り合った人々は神酒を戴き、三線の演奏に合わせて歌舞が奉納されます。まず最初に男達が舞い、次に神女が舞う慣わしとなっていました。御嶽参詣は祭りの日や年中行事の際だけではなく、日付けを問わず出稼ぎに行く人や試験を受ける人などが御嶽を拝し、それぞれの日程から集落に帰った時に「フトゥチウガン/解き御願」を行いました。(アガリメーウフヤ/東前大屋)(ニーチュヤー/根人屋)(ナカミチ/中道から見たニーチュヤー/根人屋)「御嶽」の登口と「ナカミチ/中道」の周辺一帯には「谷茶集落」の草分け的な古島旧家が軒を連ねており、集落の神職もこれらの旧家から輩出していました。かつては隣接する「冨着」を主柱として「仲泊・前兼久・谷茶」の四カ村が「山田ノロ」の管轄の下に合同祭祀を執り行っていました。「谷茶集落」にも独自に「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」と称する神職が存在していました。「冨着神アサギ」での祭祀に「谷茶」を代表する神職として「根人」に相当する男子が「ウムイの主」になり「居神」も選定されていました。集落の「根人」と「根神」は「御嶽」の入り口にある旧家の「ニーチュヤー/根人屋」とその系統から出自していました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での合同祭祀の他にも「谷茶集落」に祀られる「御嶽」で村出身の神職により独自的な祭祀が執り行われていたと伝わっています。(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋)(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋の仏壇)(ニーチュヒヌカン/根人火神)(ニーチュヒヌカン/根人火神の祠内部)「根人屋」の屋敷の南側に赤瓦屋根の「カミヤー/神屋」が建てられており、内部には3基のウコール(香炉)が設置された仏壇、2基の石造りウコールが祀られたヒヌカン(火の神)、1基のウコールが設置されたトゥクシン(床の神)が設けられています。この仏壇に向かって右側には観音図が祀られており、ウコール、湯呑、花瓶が設置されています。かつて「根人屋」の炊事場に2つの竈(カマド)があったと伝わります。竈に向かって右側が「根人火神」が祀られ「根神」が拝し、左側は「家庭火神」とされてきました。戦後になり「根人火神」は「御嶽」入り口の右側に祠を設けて移動され、その祠内部には更に2つの火神が祀られ「谷茶集落」の民間霊媒師である「ユタ/シャーマン」により拝されています。現在、この祠には10体の霊石が祀られ、3基のウコールと3つの湯呑が設置されています。(クラントゥー/蔵ン当のカミヤー/神屋)(シードヌヤー/勢戸ヌ屋の屋敷跡)(ウフヤー/大屋のカミヤー/神屋)(アガリ/東の屋敷跡)「谷茶集落」の「御嶽」の南側には他にも「クラン根/蔵ノ根・クラントゥー/蔵ン当・シードヌヤー/勢戸ヌ屋・ウフヤー/大屋・アガリ/東」の旧家屋敷がありました。「御嶽」で祭祀が執り行われた際、稲穂は「シードヌヤー」の「メーンター/前ン田」から三穂を収穫して神に捧げ、お供えする神酒もこの家で造られました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での四村合同祭祀には「ウフヤー・アガリ」の両旧家から神女が1人づつ参加し「ニブトイ/根ブ取」と呼ばれる神人は「アガリ」が出席したと伝わります。桶の神酒を杓子で汲み、再び桶に戻す事を3回繰り返した後に改めて神酒を汲む「神酒起し」と呼ばれる儀式が神女達により行われました。正月と6月25日の年2回「御嶽」の清掃と枯木採取が3人の神女により行われ、〆縄は「ニブトイ」が張り巡らしたと言われています。(川端屋の屋敷跡地)(谷茶集落入り口の古墓)(タンチャバシ/谷茶橋)(タンチャバシ/谷茶橋の石碑)旧家「アガリ」の北側で「谷茶前浜」の近くに「川端屋」の屋敷跡地があります。この家は耕地が少ない「谷茶集落」でも土地持ちの裕福な家として有名でした。恩納間切の「南恩納・熱田」や金武間切の「屋嘉」などの集落に多くの水田を所有しており、その土地の住民に小作をさせていたと言われています。この「川端屋」から借金をした人は利子を労働で返済し、多くの日雇いも使用していたと伝わっています。「おんなサンセット海道」から「谷茶集落」の西側に入る位置に古墓があり墓門にはウコール(香炉)が設置されています。この墓の正面に流れる「メーンカー」には「谷茶橋」が掛けられており、川岸には『大正十二年十一月築設』と刻まれた、当時実際に使用されていたと思われる2本の石柱が記念碑として保存されています。その昔、この川には「ヤンバル/山原船」や村船の「入り船・アガリ船」が往来していたと伝わります。
2023.05.10
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(冨着古島の御嶽/アフシマノ嶽)「冨着集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線にあり、この集落の「古島/フルジマ」は東側にある丘陵にあり、琉球王国時代の村の祭祀や生活は全て「冨着古島」で営まれていました。「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の屋敷東側に隣接して「冨着古島」の御嶽があります。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『アフシマノ嶽 神名 コダマノイベヅカサ 富着村』と記されています。「冨着古島」の年中行事として4月15日は「マチチャ御願」が執り行われ「御嶽」と「地頭火神」を拝してハブの卵が孵化しないように祈願しました。さらに10月1日の「竈廻い」の行事では「御嶽」と「地頭火神」を参拝した後に男老数人が各家の竈を廻り「1(ティー)、2(ター)、3(ミー)…10(トー)。110デヤビル。」と言って祈願したと伝わります。(冨着古島の御嶽入り口)(御嶽の森)(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)さらに「琉球国由来記」には『四月朔日ヨリ五月中、山留也。然ドモ、公用ニ竹木伐デ不叶故、為作物崇折之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。稲穂祭三日崇、且、同穂祭之時、仙香・花米五合宛・麦神酒二器宛。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二。柴指之時、仙香・花米五合。ミヤタネノ時、仙香・花米五合・神酒二器。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也 竈廻之時、火之用心ニ掟・頭々、村々掃除見廻也。後効之。』との記述があります。赤瓦屋根の建物は御嶽の森に向けて建立されており、非常に強い「セジ/霊力」により御嶽全体が包まれています。この御嶽の入り口周囲には大規模に渡り、聖域を守護する役割である3本の「ヒジャイ縄/左縄」が張られています。(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)(根神屋の屋敷跡/カミヤー)(アシビナー/遊び庭跡)「冨着古島」の御嶽の北側に「根神屋」の屋敷跡があり「カミヤー/神屋」が建てられています。「山田ノロ」が古島で祭祀を行った際、供えられる神酒は「富着村」宗家の「アガリ家」で作られ、三穂は「前兼久村」の「殿内田」と呼ばれる「ナーシルダー/苗代田」から持参しました。捧げ物は「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」からの乾魚から「山田ノロ」は七コーシ盆「ノロの供神」に三割五分コーシ盆「冨着根神」に一コーシ盆「居神達」に一割五分コーシ盆が捧げられました。また9月1日の「神酒御願」の際には古島集落の各家から花米一合を当て募り神酒を作ったと伝わります。この神酒を「アガリ家・ミーヤ家・根神屋・上家」の四家に捧げ、各村人が都合の良い家で神酒を頂きました。「根神屋」の南側に隣接した場所にはかつて「遊び庭/アシビナー」があり「冨着古島」の盆踊りなどの年中行事で老若男女が集っていました。(ミーヤ家の神アサギ)(神アサギ前の霊石)(神アサギ前の石組)(神アサギ内の霊石)「根神屋」の屋敷跡に隣接した北側に「ミーヤ家」の屋敷跡があり、この敷地には「神アサギ」が建てられています。「ミーヤ家」は「冨着古島」の草分けである「アガリ家」に次ぐ旧家であると考えられています。「山田ノロ」がこの家の仮屋で一泊されていたのも「ミーヤ家」が「根神」出自の家であったからであると伝わります。さらに「冨着」の古老によると「ミーヤ」は大昔に「アガリ家」から分家したと言われています。「山田ノロ」の後継が絶えてからは「冨着根神」を柱として昔から継続する「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」の四ヶ村合同祭祀を行うようになりました。「山田ノロ」が祭祀を司っていた現存する「神アサギ」を使用するのは恐れ多いため「ミーヤ家」の敷地内に「冨着根神」が祭祀を執り行う「神アサギ」が新たに建てたと考えられます。この「神アサギ」の内外部には古い霊石が現在も祀られています。(上家の屋敷跡)(富着金細工の屋敷跡)(子孫仲村の表札)「ミーヤ家」の東側に隣接した場所には「上家」の敷地跡が現存しており、かつて「神酒御願」の際に「神酒」が捧げられた集落四家の1つです。さらに「ミーヤ家」の西側の敷地はかつて「富着金細工」の屋敷があり、姓は「金城」でしたが現在は「仲村」となっています。当時は「恩納村」では有名な財産家で「アガリ家」の分家であり村の神女もこの家から出たと言われています。「富着金細工」の家は鍛冶工として財をなし「恩納村」では「前兼久・富着・仲泊・伊武部・山田」さらに「金武村」の「屋嘉」にも水田を持っていました。現在の「うるま市」の「東恩納」にある屋号「当ノ屋」から「仲泊」の水田を買った有名な話は今でも伝えられ、この水田を買い求めた資金は「屋嘉」と「山田」の水田を売却した金を元手にしたと言われています。因みに、この「当ノ屋」は「普天満宮」の洞窟に現れた「熊野権現」と名乗る仙人が「当ノ屋」に黄金(神徳)を捧げて苦難を救ったとの伝承があります。(クシヌカーへの道)(クシヌカーの遥拝所)(クシヌカー)(クシヌカーの拝所)「根神屋」から北東側に丘陵を下って行く道があり、途中に「クシヌカー」への遥拝所が設けられ、霊石が祀られています。高齢者や足が不自由な参拝者が急な斜面を下りずに「クシヌカー」を拝するように遥拝所が設置されていると考えられます。丘陵の麓まで降りると「クシヌカー」の小川が流れており、川沿いには霊石が祀られています。集落では9月15日の「井泉拝」では遠い先祖が恩恵を受けた「クシヌカー」に水の恩恵に対する感謝の祈願が行われます。「冨着古島」の草分け旧家で、源「南城市」の「玉城」に始祖を持つ「アガリ家」の南側丘陵の麓には「メーヌカー」が流れています。「井泉拝」において集落の南北に流れる2つの拝川を「玉城」の「受水/ウキンジュ・走水/ハインジュ」と重ね崇めて「冨着古島」の豊作祈願も同時に「井泉拝」の行事で祈願されていたと一説では考えられています。
2023.04.20
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(神アサギ/神アシアゲ)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線に「冨着/ふちゃく集落」があります。この集落の西側で、南側に隣接する「前兼久/まえがねく集落」との境界線に位置する丘陵に「冨着集落」の「古島」があります。1635年に集計された資料である「琉球国高究帳」には『ふ津き』と記されており、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『富着』との記述があります。更に清の官僚で琉球王国の「尚敬王」を冊封した「徐葆光/じょほこう」が1721年に著した「中山伝信録」には『富津喜』とされています。また、大正時代には「冨着」は『フジチ』と呼ばれており、現在は『フチャク』の名称となっています。「冨着古島」から見て海沿いの砂地を「前兼久」と呼び、その後方に位置する現在の「冨着集落」の場所を「後兼久」と称していたと伝わります。(神アサギ/神アシアゲ)(地頭火神)(地頭火神の祠内部)(冨着礼拝所の通路)「冨着古島」の「冨着礼拝所」と呼ばれる場所に、かつて「山田ノロ」が祭祀を執り行った「神アサギ/神アシアゲ」があります。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 富着村 稲穂祭之時、シロマシ二器・麦神酒四 谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村百姓、五水八合・神酒一・肴二器 同四ヶ村地頭。稲大祭之時、五水八合・肴二器・神酒一 同上、同四 同四ヶ村百姓中、供之。稲穂祭之時、山田巫ニテ祭祀也。且、同大祭之時者山田巫、谷茶・仲泊・富着・前兼久、四ヶ村居神ニテ祭祀也。』と記されています。この「神アサギ」に隣接して「地頭火神」の祠が建立されており、祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。かつての祭祀の際には「山田ノロ」を中心として「富着村」から出自した「前兼久根神」や4ヶ村から参列した「居神」等の神女達は「地頭火神」を拝した後に「神アサギ」の祭祀を行ったと言われています。(アガリ家の屋敷入り口)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)「冨着古島」の集落で宗家と言われている「アガリ家」の屋敷跡が「神アサギ」の東側に隣接しています。この旧家からは「富着村」の「根人/ニッチュ」が出自し、この「根人」出自の「ミーヤ家」も「アガリ家」の昔分家であると伝わっています。「山田ノロ」による祭祀に供えられる神酒は「アガリ家」で作られ、祭祀終了後に「山田ノロ」を接待する場も「アガリ家」だったと言われています。集落の盆踊りも「アガリ家」から始まり、次に「根屋神」を訪れます。8月の「豊年祭」の時には「根神屋」を拝した後に「アガリ家」を拝して「遊び庭/アシビナー」で豊年芝居が執り行われました。この集落宗家である「アガリ家」は現南城市「佐敷」の「鮫川大主」を祖先としています。この「鮫川大主」は琉球王国の第一尚氏初代国王「尚思紹王」と「場天ノロ」の父にあたる人物とされています。(上小家の敷地にあるカミヤー)(カミヤーの建物内部/仏壇)(カミヤーの建物内部/ヒヌカン)(上小家の屋敷跡/礎石)「アガリ家」の西側で「神アサギ」の南側に隣接した場所はかつて「上小家」の敷地で、現在は「カミヤー/神屋」が建てられています。この建物内部にある仏壇には『冨着根屋御元祖』と記された位牌と『冨着神女』と記された位牌が祀られており、仏壇の壁には2本の薙刀と2枚のカージ(クバ団扇)が飾られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。「冨着古島」は「山田ノロ」の管轄でしたが、集落には「富着村」から出自した「前兼久根神」や「居神」等の神女が存在し「山田ノロ」の補佐役として祭祀を務めていました。また「山田ノロ」の後継が途絶えた後は「根神」を柱として「富着村・前兼久村・谷茶村・仲泊村」の伝統的な「四村合同祭祀」が継続して執り行われました。ちなみに「上小家」の敷地には昔の屋敷に使われた珊瑚石の礎石が現在も多数残されています。(カーニー家のアコウ)(メーヌカーに降る道)(メーヌカー)(メーヌカーの拝所)「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の南側に隣接した敷地にはかつて「カーニー家」があり、現在は樹齢の古いアコウの木が幾本もの根を伸ばしています。この「カーニー家」から南側に降りる丘陵が続き、谷底には「メーヌカー」と呼ばれる拝川が流れており古い霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「冨着集落」では9月15日に「メーヌカー」にて「カー拝み/井泉拝」が行われています。この行事は「カチンジョウ拝み」とも言われており「富着村・前兼久村・谷茶村」の三部落の遠い先祖がこの地に住んでいた時代に水の恩恵を受けた井泉への感謝を示す為に拝されています。この「カー拝み」の日には「アガリ家」の屋敷から「メーヌカー」と祖先である「鮫川大主」の出身地である「佐敷」の方角に向けて遥拝が行われていたと伝わります。ちなみに、一説では稲の伝承地である「玉城」の方面を拝していたとも言われています。
2023.04.12
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(村火の神/前兼久根神火神)「前兼久/まえがねく集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いにあり、集落の公民館の敷地に「村火の神」の祠が西側にある「前兼久漁港」の海に向かって建立されています。この「ヒヌカン/火の神」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『前兼久根神火神』と記されており、更に『稲穂祭三日崇・同稲穂祭之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 谷茶・仲泊・前兼久・冨着四ケ村百姓。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。年浴之時、仙香・神酒二 百姓中。ミヤ種子之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。右四ケ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也。』との記述があります。そのため「前兼久」はこの時代には「冨着」から独立した村として琉球王府に認められていた事になります。(村火の神/前兼久根神火神の祠内部)(龍宮神の拝所)(龍宮神の祠内部)「村火の神」の祠がある「前兼久公民館」の土地は、その昔この村を治めていた地頭代の「前兼久親雲上ペーチン」の屋敷跡であると伝わり、この「ヒヌカン/火の神」は「地頭代火の神」とも呼ばれています。祠内部には「村火の神」と記された石板の下に3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。「村火の神」に向かって右側に隣接して「龍宮神」が祀られる祠が海に向けて建立されています。この海の神様である「龍宮神」は1月2日の「フナオコシ/舟興し」で豊漁と海の安全、更に集落の繁栄と住民の無病息災が祈願されます。昔は祈願の後に漁民全員が舟で海に出て獲った魚を女性達が料理し、ご先祖様や海の神様にお供えしてから皆で食べ親睦を深めていました。この日の漁は「ハツウクシ/初興し」と呼ばれる仕事始めで、獲った魚は売ってはならず全て食べる決まりとなっていました。(前兼久トゥングヮー)(前兼久トゥングヮーの龍宮神)「前兼久集落」の西側には神が住むニライカナイに繋がる海が広がり、この理想郷の神が集落に来られる際には「前兼久トゥングヮー」で一時休憩されてから村に来臨すると信じられていました。この事から「前兼久トゥングヮー」の岩島は聖地とされ、この島を拝む事はニライカナイを拝する事と同じだと言われ、集落として昔から 崇められていました。「前兼久トゥングヮー」の岩窟に収められている古骨は集落の前代先祖の骨とされ、この島に死者を葬る事はニライカナイに葬る事と同じであると信じられていました。「前兼久トゥングヮー」は集落の中でも限られた人しか島に渡る事が出来ず、この島の東側には「龍宮」と記された赤い鳥居が建立されています。旧暦5月4日の「ウンガミ/海神祭」では「前兼久トゥングヮー」の周辺で100年以上続く「前兼久ハーリー」の伝統行事が行われ豊漁と航海の安全が祈願されます。(前兼久トゥングヮーの遥拝所)(ノロ御迎毛)「前兼久」の古老によると、幼い頃まで海を望む岩崖の上にウコール(香炉)が「前兼久トゥングヮー」に向けて祀られており、この遥拝所から「前兼久トゥングヮー」を拝していたと伝わっています。現在の遥拝所の岩崖は根本から削られて「Blue Entrance Kitchen」というレストランになっており、隣接する公衆トイレの裏側に岩崖の跡が僅かに残っています。「前兼久公民館」の敷地の東側の広場はかつて「山田ノロ」を迎える「ノロ御迎毛」でした。「前兼久村」が「冨着村」から独立する前まで「山田ノロ」は舟で「ノロ御迎毛」に来て休憩し、そこから「冨着古島」の丘陵に向い祭祀を行なっていたと言われています。因みに「山田ノロ」の管轄は「読谷山・冨着・谷茶・仲泊・久良波」で「冨着」から独立した「前兼久」は村の「前兼久根神」により祭祀が執り行われていました。(移設されたウーガー/大井/オカー)(ウーガー/大井/オカーがあった場所)(移設されたナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井)(ナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井があった場所)戦前まで「前兼久集落」の草分け家の「アガリカーニー/東川根」の屋敷の隣に「ウーガー/大井」があり「オカー」とも呼ばれていました。正月の早朝午前3時頃に「アガリカーニー」の家主か長男が集落の古島にある「ヒジャガー」からバケツ1杯の水を汲み「ウーガー」に注ぎ入れます。その後、村中の家々が新年初めの「ワカミジ/若水」を汲んで帰ったと言われています。また「ウーガー」の南側で「前兼久の御嶽」の丘陵麓にはかつて「ナカヌカー/中ヌ井」があり「前ン当の井」とも呼ばれていたと言われています。毎年1月と8月の「カーウガン/井御願」では「ヒジャガー・ウーガー・ナカヌカー」の三井が拝され、塩・線香・御花米を各井戸に供えて全戸主が参拝しました。「ウーガー」と「ナカヌカー」は「おんなサンセット海道」の工事により埋め立てられましたが、この海道沿いに各井戸跡が移設されて現在も拝されています。(ジッチャク/勢理客の墓)(ジッチャク/勢理客の墓の墓門)(前兼久貝塚跡)(恩納ナビーの銅像)「前兼久集落」北側の「メーガニクバル/前兼久原」に集落で拝される「ジッチャク/勢理客の墓」と呼ばれる岩陰墓があります。集落に関係する「按司」の墓であると言われており墓内には石厨子が納められています。この墓の周辺から青磁碗の直口口緑部と思われる小破片が発掘されています。さらに「ジッチャク/勢理客の墓」東側の「メータバル/前田原」は「前兼久貝塚」があった場所で、現在は沖縄郷土料理店の「風月楼恩納本店」やコンドミニアムホテルの「プリンスプラージュ」などが開発されています。「前兼久貝塚」は標高5mの海岸砂丘に立地しており、この土地から弥生〜平安時代並行期の土器片が確認されています。因みに「風月楼恩納本店」の入り口には「恩納村」で生まれたの琉球二大女流歌人である「恩納ナビー」の銅像と同歌人の代表歌が供覧されています。
2023.03.31
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