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2022.09.16
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カテゴリ: 中城村



「古島」と呼ばれる「和宇慶集落」の発祥地は「和宇慶の御嶽」の森から北西側に位置する「上登原/イートンバル」の丘陵にあったと伝わります。その後、現在の集落の中心がある「検知原/ケンチバル」に移転したと言われます。沖縄戦が始まる1944年(昭和19)には「和宇慶集落」の一部も日本陸軍の「東飛行場」の滑走路建設に利用されました。この飛行場は「西原飛行場/小那覇飛行場」とも呼ばれ、その年の10月に起きた「10・10空襲」により米軍の激しい攻撃を受けて土地は放置されました。戦後「和宇慶集落」があった「検知原」の一帯は米軍の軍用地として強制的に接収されて立ち入り禁止区域となり、住民は近隣の集落に身を寄せる事になったのです。そして、1959年(昭和34)5月に「和宇慶集落」は米軍から集落の地主に返還され、現在の「和宇慶集落」の発展に至っています。


(和宇慶の氏神のシーサー)

(和宇慶の氏神の霊石)

「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」の敷地内に「和宇慶の氏神」が祀られる祠があり、赤瓦の屋根には魔除けのシーサー(獅子)が構えています。「氏神」とは土地の守護神であり、その土地に生まれた人を守る神を言います。戦前は「和宇慶の氏神」はここから南側にあった「倶楽部/村屋」と呼ばれる、現在の公民館にあたる施設の敷地内にあり「ナカミチ」という主要道路寄りの北側に鎮座していました。当時は3〜4段の階段を登った土台の上に祠が建てられており、現在の「氏神」の祠よりも大きく東側の海岸に向けて建てられていました。今日


(倶楽部/村屋跡)

(統合拝所乃碑)

(ナカミチ跡)

「和宇慶集落」の西側で戦前まで集落の中心を東西に通る主要道路であった「ナカミチ」沿いに、かつて「倶楽部」という場所があり「村屋」とも呼ばれていました。現在の公民館にあたる「倶楽部」は当時は木造瓦葺の建物で、1924年(大正13)生まれの古老が産まれる前からあったと伝わります。現在の「倶楽部」は「統合拝所」となっており、戦前までこの地にあった「ムラの火の神・ビジュル・ビジュル御井・中軸之御井」に併せて戦前に「検知原」に点在していた「安里御井・世利御井・外間御井・龍宮御神」の8拝所が合祀されています。「統合拝所」の入口には「土地改良地域 統合拝所乃碑 昭和五十八年九月十八日」と彫られた石碑が建立されています。現在この敷地の北側には昔の「ナカミチ」跡が数十メートル残されています。


(ビジュル)

(ビヅル神/ビヅル御井の石碑)

(ビジュル御井/ビジュルウカー)

「倶楽部/統合拝所」には「ビジュル神」が祀られた祠が北側に向けて建てられています。祠の内部には「ビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しており、戦前「ビジュル」の霊石は「倶楽部」の東側に隣接した屋号「小波津/クファチ」の屋敷内にウコール(香炉)と共にありました。「ビジュル」の語源は十六羅漢の中の第一の尊者である「賓頭盧/ビンズル」で、その名前は「不動」を意味します。「ビジュル」とは霊石の事で、その霊石を信仰する沖縄における「霊石信仰」の対象となっています。「ビジュル」の祠は豊作・豊漁・子授けなど様々な祈願が行われる拝所で、祠の脇には「ビヅル神 ビヅル御井」と彫られた石碑が建立されています。更に、その右側には「ビジュル御井」の井戸とウコールが祀られており「ビジュル」の霊石同様、戦前は屋号「小波津」の屋敷内にありました。


(安里御井/アサトウカー)

(中軸之御井/チュウジクヌウカー)

(ムラの火の神/ヒヌカン)

「安里御井/アサトウカー」は戦前の「和宇慶集落」の南側にあった屋号「南風小/フェーグヮー」の側にありました。「山城門中」の先祖が利用していた井戸で、昔から同門中が拝していたと伝わります。「中軸之御井/チュウジクヌウカー」は「倶楽部」の敷地の庭の真ん中に位置していた井戸で、その名称は井戸があった場所に由来していると考えられます。この井戸は「倶楽部」の敷地内にあった事から集落の多くの人々から拝されていました。かつて「倶楽部」の建物の土間に3つの石が置かれた窯があり「火の神/ヒヌカン」が祀られていました。「倶楽部」で行事が行われる際には、この窯で茶を沸かして振る舞ったと伝わります。現在、この3つの石を「ムラの火の神」として祀っており、西側に向けて建てられた祠には石造りのウコールが設置されています。


(外間御井/ホカマウカー)

(世利御井/シリウカー)

(龍宮御神/リュウグウウカミ/東世御通)

「倶楽部/村屋」跡の敷地には他にも合祀された「外間御井/ホカマウカー」があり、戦前の「和宇慶集落」の中央部に位置していました。「ナカミチ」沿いにあった屋号「仲元」と屋号「新前小波津」の間にあり「儀間門中」が拝んでいました。「外間御井」の脇には「世利御井/シリウカー」が祀られており、戦前は「外間御井」の南東側に位置する屋号「登同呉屋」と屋号「小波津小」の間にありました。さらに「統合拝所」には「龍宮御神/リュウグウウカミ」の石碑が建立されています。戦前は集落の最東端にあった「サーターヤー/サトウキビ小屋」の敷地内にあり「ウマアミシグムイ」と呼ばれる馬に水浴びをさせる水溜りの脇に「龍宮御神」の石碑が建立されていました。「龍宮御神」は東の海の遥彼方にある理想郷「ニライカナイ」を拝む拝所として崇められてたと言われています。


(旧県道)

(ユーフルヤー/風呂屋跡)

(ダンパチヤー/理髪店跡)

「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」沿いに「旧県道」が通っています。戦前の主要道路で中城村内は「久場・泊・吉の浦」を通り「奥間・和宇慶」を経て西原町に続きます。戦前は「旧県道」の屋号「西新屋小」は「ユーフルヤー/風呂屋」を営んでおり、敷地内にある井戸から手押しポンプで汲みあげた水を大きな釜で沸騰させました。利用者は桶には入らず釜のお湯を洗面器で体にかけていたと言われています。「ユーフルヤー」から旧県道を渡った向いの屋号「二男仲與儀」は「ダンパチヤー/理髪店」を経営していました。この店主は大阪から「和宇慶集落」に帰って来て「ダンパチヤー」を開店し、集落では「グーニーダンパチヤー」と呼ばれていたそうです。戦前はハサミを所有する家族が少なく、ほとんどの人が「ダンパチヤー」を利用していたと伝わります。


(雑貨屋跡)

(馬車ムチャー跡)

(和宇慶公民館裏の石敢當)

「ダンパチヤー」の南西側向かいの屋号「吉田小」は、戦前は「雑貨屋」を経営していて米や油、生活雑貨など豊富に揃っており県道沿いの好立地から多くの客で賑わっていたそうです。屋敷内の豚小屋で豚を飼育して豆腐も作っていたと伝わります。この「雑貨屋」西側の旧県道沿いの屋号「二男前仲元」には「馬車ムチャー」と呼ばれる馬車を所有する人がいました。サトウキビの製糖時期になると樽詰めにした黒糖を馬車に乗せて、那覇にある出荷場まで運ぶ役割を担っていました。帰りは新しいタルガー(黒糖を入れる樽)を購入して集落に戻って来たと伝わります。「和宇慶公民館」の西側には古い「石敢當/イシガントウ」が残されています。「石敢當」とは丁字路の突き当たりに設置される魔除けの石碑の事で、この「石敢當」は昔からこの場所で厄祓いの役目を果たしていると考えられます。







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最終更新日  2022.11.05 00:37:11
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