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(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「我如古/がねこ集落」があり「我如古公民館」の南側に「トゥンヤマグヮー合祀拝所」があります。この祠には「トゥンヤマグヮー・ジトゥーヒヌカン/地頭火の神・ヒジャイガミ」が祀られており霊石とウコールが設置されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『我如古里主所之殿 我如古村 麦・稲四祭之時、五水六合宛・神酒壱宛 我如古地頭、稲三筋宛・神酒二宛 麦大祭之時麦神酒。同村百姓中、供之。宜野湾巫ニテ祭祀也。且、麦大祭之時、饅頭壱籠飯・和物壱重。稲大祭之時、炒米一升・和物一重、同所ニテ地頭、巫馳走也。』ときされています。なお、この拝所には沖縄戦の戦没者を祀る慰霊之塔が建立されています。(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)(トゥンヤマグヮー合祀拝所の祠)(トゥンヤマグヮー合祀拝所の祠内部)(トゥンヤマグヮーの拝所に祀られたウコール)(ジトゥーヒヌカン/地頭火の神の霊石とウコール)(トゥンヤマグヮー合祀拝所のヒジャイガミ)(ヒジャイガミのウコール)(我如古慰霊之塔)(我如古慰霊之塔に祀られたウコール)(我如古集落の石敢當)(我如古集落のフクギ並木)「我如古公民館」の西側約150メートルの位置に「イリヌカー」と称する井泉があります。この井戸は「我如古集落」で子供が生まれた時に産水として利用されていたため「ウブガー/産井」とも呼ばれていました。かつて「イリヌカー」は旧暦3月3日の「サングヮチャー」の行事で拝れており石造りのウコールが現存しています。湧き出た井戸水は敷地内のガマ(洞穴)に吸い込まれ、北西側約150メートルの場所にある「ウプガーヌシッティー」と云うガマに繋がっています。このガマは「クシヌカーラ/志真志川」沿いにあった洞窟で地下に大きなクムイ(池)があったと言われています。さらに「我如古公民館」の南側約100メートルの道沿いに「仲里家の屋敷獅子」が現在も残されています。(イリヌカー/ウブガーの入り口)(イリヌカー/ウブガーに降りる階段)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガー)(ウブガーヌシッティに続く洞穴)(ウブガーヌシッティに隣接するアパート)(ウブガーヌシッティのガマ入り口)(仲里家の屋敷獅子)(仲里家の屋敷獅子)(仲里家の屋敷獅子)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.02
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(我如古ヒージャーガー)沖縄本島中部に「宜野湾市」に「我如古/がねこ集落」があります。「我如古公民館」の北側に隣接した崖下に「我如古ヒージャーガー」があります。この井戸は今から100年以上前の明治25年(1892)に集落出身の「ミーシーシ/新末吉」と「ウィージョー/上門」の勝れた石工2名の指導により、村人総出で半年の月日をかけて造られた湧泉であると伝わっています。湧泉から流れる清水は人々の日々の飲み水や野菜や芋の洗い水、さらに衣類の濯ぎ水などに利用されるなど長く地域の共同生活用水として親しまれてきました。(我如古ヒージャーガーへの案内板)(我如古ヒージャーガーの入り口)(我如古ヒージャーガーへ降る階段)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの湧き口)(我如古ヒージャーガーの樋石)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)「我如古ヒージャーガー」の造りは、洞穴から流れ出る地下水の湧き口に山羊(ヤギ)のあごひげのような水流しの樋(とい)をかけた「ヒージャーガー形式」となっています。この井戸は集落の伝統行事である「ウマチー」や「ウビナディ」などの節々の拝みや、新年を迎える時に身を清める「ワカミジ/若水」、子供の出生のときの湯浴みに使う「ウブミジ/産水」など、村人ひとりひとりの人生の節目に使う大切な水は「我如古ヒージャーガー」の湧水を汲み取って利用されていました。(我如古ヒージャーガーの拝所)(我如古ヒージャーガーのウコール)(我如古ヒージャーガーの湧口)(我如古ヒージャーガーの湧口内部)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの平場と洗い場)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの広場)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所のウコール)(我如古ヒージャーガー/石畳道の階段)「我如古ヒージャーガー」の特徴は不整形な積み石の面がカミソリさえも差し入れられないほど精巧に噛み合う「相方積み/あいかたづみ」の手法が取り入れられている事です。さらに湧泉へ降りる15段を数える石畳道の下側5段が自然の岩盤を削って仕上げられ、湧泉の外側に広場を設けるなど、至る場所に当時の知恵と工夫がうかがえます。この広場はかつて村人同志の出会いや情報交換の場として賑わったと言われています。「我如古ヒージャーガー」の石積みの一部は長い歳月の間に崩れてしまいましたが、市教育委員会では平成3年(1991)から2年がかりで現在に見る石垣の復元工事を行いました。(二代目我如古ヒラマーチャー/我如古平松)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の記念碑)(我如古ヒラマーチャー/我如古平松)現在の国道330号線「我如古交差点」の南側に、かつて樹齢300年を誇る立派な「ヒラマーチャー/平松」がありました。枝ぶりも300坪ほどありましたが沖縄戦で失われてしまいました。現在は「我如古公民館」の広場に二代目の平松が育っています。「我如古集落」には次の謳が残されており「二代目我如古平松」の記念碑に刻まれています。『我如古平松や 枝持ちの美らさ 我如古美童ぬ 身持ち清らさ』YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.27
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(我如古大主の拝所/我如古グスク)沖縄本島中南部にある「宜野湾市」の南端に「我如古/がねこ集落」は方言で「ガニク」と呼ばれ、1671年に「宜野湾間切」が成立するまで「浦添間切」に属していました。この集落の南側には「我如古グスク」の小高い丘陵の森があります。このグスクは中山王国最後の王であった「武寧/ぶねい」の三男である「我如古大主/がにくうふしゅ」が築いたグスクと伝わっています。現在グスクの遺構は残されていませんが、丘陵中央部の頂上付近に「我如古大主」の祠と石碑が建立されています。祠内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、祠の後方には「我如古大主」と彫られた石碑が築かれています。「我如古大主」の拝所に向かって右側には石積みで造られた古墓があり、その歴史の長さと文化財としてのを知ることが出来ます。(我如古グスクへの道を示す看板)(我如古グスクの丘陵頂上)(我如古大主の拝所)(我如古大主の拝所の祠)(我如古大主の拝所の祠内部)(我如古大主の拝所の石碑)(我如古大主の拝所の霊石)(我如古大主の拝所の古墓)(我如古大主の拝所の古墓)「我如古集落」には女性だけで踊られる「スンサーミー」の行事が継承されています。女性は揃いの「キーチリー」と呼ばれる絣(かすり)を身に纏い円陣を組み、地方(じかた)の唄三線に合わせしなやかな舞を披露します。「スンサーミー」は500年以上も昔に「察度王」の子孫でもある「我如古大主」が「我如古グスク」を築城した際、その祝宴で披露されたのが始まりであると伝わっています。かつては豊年や子孫繁栄を願い旧暦8月17日に踊られていましたが、いつの頃から「サングヮチャー」と呼ばれる旧暦3月3日に踊られるようになりました。「我如古大主」の祠の前方に「グスクガー」と云う井戸があり「スンサーミー」の踊りの前にウガミ(拝み)が行われます。(我如古グスクのグスクガー)(我如古グスクのグスクガー)(グスクガーのウコール)(グスクガーの内部)(我如古グスクのパパイヤの木)(我如古グスクのパパイヤの実)(我如古グスクから見た沖縄本島西海岸)(我如古グスク)「我如古グスク」の北側にある畑に「チブガー」と呼ばれる井戸があり、現在は農業用水として利用されていますが、かつては「ガニクメー」と呼ばれる地域の人々の飲料水の他に水浴びなどにも使われていました。現在も水が湧き出ており水タンクも現存しています。沖縄戦後に捕虜となった宜野湾村民は、各地の収容所を経て米軍が割り当てた土地に住むようになりました。その土地の一つが「ガニクメー」で我如古・志真志・佐真下・真栄原・大謝名の地域住民が割り当てられました。現在「チブガー」の畑では様々な農作物が栽培されており、井戸水で育った芭蕉の木々には沢山の島バナナが実を付けています。(チブガー)(チブガー)(チブガーの井戸水)(チブガーの井戸水)(チブガー)(芭蕉/バナナの木)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.20
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(ヒャーカーガー)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「大山集落」があり「大山ターブックヮ」と呼ばれる広大な水田地帯に流れ込む「大山湧泉群」があります。「大山集落」の中央部に「ヒャーカーガー」の湧水があり、更にその東側に「ナイシガー」の井泉があります。現在、これらの井戸の水は農業用水として利用されており、宜野湾市の特産品である田芋栽培に役立てられています。「大山集落」の最も東側で「宜野湾パイプライン」と「国道58号」の間に「フルチンガー」があります。「オーグムヤー/青小堀」と称されるこの場所には大きな洞穴があり、開口部から湧水が流れ出ています。「フルチンガー」の湧水は周囲の土地を侵食して、側面が急な「オーグムヤーガーラ/青小堀川」となっています。現在はコンクリートで覆われており石碑とウコール(香炉)が祀られた祠が建立されています。(ヒャーカーガー)(ヒャーカーガーの石碑)(ヒャーカーガーの湧水)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(ナイシガーの湧口)(ナイシガー)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠内部)(オーグムヤー/青小堀の石碑)(オーグムヤー/青小堀のウコール)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.18
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(アラナキガー)沖縄県宜野湾市の「大山集落」には広大な「ターブックヮ」と呼ばれる水田地帯があり、かつては稲作が盛んでしたが、現在は宜野湾市の特産品として知られる「ターンム/田芋」栽培が行われています。この「ターブックヮ」の周辺には水田を潤す湧水が豊富に存在しています。「大山幼稚園/大山小学校」の北西側に「アラナキガー」があります。現在は農業用水として水田に流れ混んでいますが、かつては那覇市の上水遊の水源の一つでした。「アラナキガー」の北東側に「ヤマチヂャガー」があります。この井泉も「大山湧泉群」の一つで現在は農業用水として利用されています。「ヤマチヂャガー」の北側の水田地帯には「ウーシヌハナガー」と呼ばれる井泉があります。この井泉から湧き出る豊富な水も「ターブックヮ」の「ターンムダー/田芋田」に流れており、田芋栽培の重要な水源として重宝されています。(アラナキガー)(アラナキガー)(アラナキガー)(水田地帯に流れ込むアラナキガーの湧水)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガーの湧口)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガー)(水田地帯に流れ込むウーシヌハナガーの湧水)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.13
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(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)沖縄本島中部「宜野湾市」の西海岸沿いに「大山集落」があり、湧泉群の豊富な水源が多い事で知られています。方言で「ウヤマ」と読むこの集落の南西側に「ヒーガーガー/メンダカリガー」と呼ばれる井泉があり、集落の「ウブガー/産井」として子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」として利用されていました。石造りの樋から流れる水は隣接する「大山ターブックヮー」の田園地帯に流れ込んでいます。「ヒーガーガー」の北東側に「ミジカシガー」という井泉があり「シンダカリヒーガー」の名称でも知られています。かつては現在よりも高い位置から水が湧き出ており、水汲みの女性が頭上に桶を載せたまま水を入れる事が出来たと伝わっています。さらに「ミジカシガー」の東側には「マジキナガー」と呼ばれる井泉があり、現在は主に農業用水として活用されています。(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石碑)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石樋)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの溜池)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガーの湧口)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.09
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(小禄墓)沖縄本島中南部の宜野湾市「嘉数(かかず)」の「嘉数高台公園」は沖縄戦で数多くの人々が亡くなった激戦地でした。この公園の北側には琉球大学の敷地から国道58号線を超えて、西海岸に流れ込む全長4.5キロの「比屋良(ひやら)川」があります。緑豊かな川の両脇には10m余りの断崖絶壁がそそり立ち、多い所で3段もの横穴状に彫り込ん古墓群が連なっています。これらの古墓は数100年前に造られ、沖縄県指定の有形文化財に登録されています。(宇地泊川/比屋良川の橋)(小禄墓)「比屋良川」は別名「宇地泊(うじどまり)川」とも呼ばれており、この川沿いに「小禄(おろく)墓」があります。川沿いの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切石や自然の雑石で塞いだ古琉球の墓です。「小禄墓」の大きさは幅8.5m、横2.4mで、葬式の際に龕(がん)と呼ばれる御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま墓に入ると伝えられるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地が付いており、常時取り外せるような仕組みとなっています。墓内には「おろく大やくもい」という古琉球の高級官人が葬られています。(小禄墓石彫香炉)(小禄墓石彫獅子)墓前に祀られた石造りウコール(香炉)の四面には火炎宝珠(太陽)、麒麟、花生け、四隅には獅子が浮き彫りされています。嘉慶11年(1806年)に中国の「馮姓」の士族により寄贈されました。香炉に向かって右側には墓を守る石彫の獅子が祀られています。現在は劣化が著しく原型が分かり辛い状態ですが、獅子が立ち上がっている形をしています。「石彫香炉」と「石彫獅子」はそれぞれ宜野湾市の指定有形文化財に登録されています。(小禄墓内石厨子)(小禄墓古墓群)「小禄墓」の内部には沖縄県指定有形文化財の「小禄墓内石厨子」が納められています。琉球王国第二尚氏王統の第三代「尚真王」時代に造られた、粗粒輝緑岩(あるいは細粒斑粝岩)製の石厨子です。石棺の正面中央には「弘治七年おろく大やくもい六月吉日」の銘文が彫られています。中国年の弘治7年(1494年)と記する文字は、沖縄県で最古級の平仮名文字と言われています。「小禄墓」の断崖には他にも3段に彫られた古墓が群がっています。高級官僚であった「おろく大やもい」同様、古琉球において身分の高い人物の墓だと考えられています。(宇地泊川/比屋良川沿いの古墓)(シュイワタンヂ/首里渡し)「宇地泊川(比屋良川)」周辺にある崖の中腹には「小禄墓」の他にも多数の古墓が点在しています。中腹まで石段が積まれている墓や、断崖絶壁で辿り着けない墓まで多種多様です。この川には「シュイワタンヂ(首里渡し)」と呼ばれる道があります。旧国民学校の通学路と川が交差する場所にあった川を渡る「ワタンジ(渡し)」の事で、大雨が降ると川が増水して渡れませんでした。この道は首里に行く道であったため「シュイワタンヂ(首里渡し)」という名前が付けられました。(ウシヌクスービラ/ウシヌクブービラ)「小禄墓」の南側に「ウシヌクスービラ」と呼ばれるビラ(坂道)があります。昔は現在よりも坂道がきつく牛が糞をしながら登った為「ウシヌクスービラ」と名付けられた説と、周囲の地形が牛のコブや牛の後頭部(クブー)に見える事から「ウシヌクブービラ」と呼ばれるようになった説があります。かつて、この坂道に交差して首里への道として利用されていた宜野湾村を横断する道がありました。道の両側に松の木が林立していたので「ナンマツ(並松)」と呼ばれていました。それに因み、現在この周辺には松の木が多数植えられています。(アガリガー)(アガリガーのウコール)宜野湾市「嘉数公民館」の南西側に「アガリガー(東ガー)」があります。比較的に規模の大きなこの井戸は「嘉数集落」のウブガー(産ガー)で、集落で子供が産まれると「ウブミジ(産水)」として井戸の水が使用されました。また、正月には「ワカミジ(若水)」を汲んでいました。「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られており、水の神と恵みへの感謝を祈る拝所となっています。この井戸は現在も水量が多く、ポンプで水が汲まれ農業用水として重宝されています。(ティラガマの出入口)(ティラガマの内部)(ティラガマの拝所)「嘉数集落」の最南端で浦添バイパス(国道330号)沿いに「ティラガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。この鍾乳洞は沖縄戦の際には防空壕として「嘉数集落」の住民の命を守りました。さらに、このガマは昔より伝説がある洞窟で「首里桃原」に住んでいた美女が家から逃げ出した時に休息したガマだと伝わります。その女性は宜野湾市にある「琉球八社」の一つの「普天満宮」の祭神である女神だと言われています。「ティラガマ」の内部奥は神が宿る鍾乳石があり、2基のウコール(香炉)と霊石が祀られる拝所となっています。この拝所にはヒラウコー(沖縄線香)がお供えされており、普段から人々の祈りの聖地として崇められているのです。
2021.12.07
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(嘉数高台公園)沖縄本島中部の宜野湾市「嘉数(かかず)」に「嘉数高台公園」があります。「嘉数」は沖縄の方言で「カカジ」と呼ばれ、比屋良川と牧港川に挟まれた琉球石灰岩の地域です。沖縄戦において名高い激戦地となり、今なお戦争の爪痕が数多く残っています。「嘉数高台公園」一帯は戦後は焼け野原でしたが、現在は自然豊かな森林が回復し、公園内にはヒカンザクラが植えられて市内でも有数の桜の名所となっています。(ウィーヌヤマ/上之山)(スズナリノ御嶽)(スズナリノ御嶽の祠内部)「ウィーヌヤマ(上之山)」は「嘉数集落」で最も重要な聖地とされ「琉球国由来記(1713年)」には「スズナリノ御嶽」と記され、歌謡集の「おもろそうし」には「かかずもりぐすく/ねたてもりぐすく」とあります。昔は石畳が敷かれた集落でしたが「首里城」を築造するにあたり、住民はその石を一つ一つ担いで首里に献上したと伝わります。この祠は琉球王府が認めた御嶽で集落の発祥に深く関わっており、祠内部には3体の霊石が祀られています。(トーチカ/北側と北西側の銃眼)(トーチカ/南西側の出入口)(トーチカ/内部)「ウィーヌヤマ(上之山)」の頂上に沖縄戦の際に造られた「トーチカ」があります。鉄筋コンクリート製の防御陣地で高さが最大1m、内部は2m四方で大人が3名ほど入れる広さです。比屋良川向けの北側と北西側に向けて敵を射撃する銃眼が2箇所あり、そこから小銃や機関銃を構えて米軍を攻撃しました。「トーチカ」には弾痕が無数にあり、鉄筋が剥き出しになるほど破壊されており激しい戦闘を物語っています。南西部の小さな開口部は日本兵が出入りする為に開けられています。(嘉数護獅子)(嘉数護獅子の石碑)(嘉数護獅子)「嘉数高台公園」の北西側には2体の「嘉数護獅子(村獅子)」があり「ヒーゲーシ(火伏)」と呼ばれる厄払いの役割を持つ守り神です。大型の石獅子には『いがる肝合ち したてたる獅子や 世の果て迄ん 護って給り 区民一同』と刻まれた石碑が建立されています。更に小型の石獅子の台座には『戦場に成たる 嘉数高台や 形や失しなてん 砂汰や残くち 襌應』と記されています。(陣地壕)(陣地壕の内部)「嘉数高台公園」の丘稜中腹に「陣地壕」の入口が残っています。「嘉数」に駐屯した日本軍は嘉数高地を中心とした周辺地域に幾つもの「陣地壕」を築きました。兵士だけでなく「嘉数」や周辺集落からも老人や女性を含む多くの人々が朝から夕方まで毎日「陣地壕」の構築に駆り出されました。壕は石灰岩を掘り込んでコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡も確認されています。(トゥン・ジトゥーヒヌカン/殿・地頭火ヌ神)「嘉数高台公園」の西側に隣接して「嘉数トゥンヌヤマ遺跡」があります。この遺跡にある「トゥン(殿)」は古くは「ウマチー(豊作祈願)」などでノロや村人が祭祀を行う聖地で、かつては「トゥンヌヤマ」と呼ばれる小高い丘となっていました。「ジトゥーヒヌカン(地頭火ヌ神)」は「トゥン(殿)」にあり、琉球王府時代の地方役人である「地頭」と結びついた火ヌ神を「地頭火ヌ神」と呼びます。祠内部には神が宿る3つの霊石が祀られています。(ミーガー/新泉)(ミーガー/新泉)(カンカー石)「殿(トゥン)」の南側に「ミーガー(新泉)」と呼ばれる井戸があります。崖の麓にある洞窟の中を流れる湧泉で、水道が整備される前まで集落の生活用水として利用されていました。「ミーガー(新泉)」の西側の道路脇には「カンカー石」が祀られています。旧暦8月10日に集落の行事である「カンカー」と呼ばれる厄払いの祭祀が行われていました。牛一頭を屠殺(とさつ)して「カンカー石」にお供えし、残りは集落の各家庭に分けられていました。現在は祠内にウコール(香炉)が祀られる拝所になっています。(アシンニ)(トーバルヌヤマ/桃原ヌ山)「カンカー石」から西側に進むと「アシンニ」と呼ばれる場所があります。かつて、急な坂道を登った後に休憩所として利用されいた地点で、現在は三叉路となっています。「アシンニ」から南側に延びる一本道は「ウマイー」と呼ばれる、馬の美しい走り方を競う琉球競馬が行われた直線の道でした。「ウマイー」終点地の東側に「トーバルヌヤマ(桃原ヌ山)」と呼ばれる拝所があり、航海安全の神様が祀られています。祠内には霊石とウコール(香炉)」が設置されています。(嘉数高台公園のガジュマル)16世紀から17世紀にかけて琉球王府が編纂した沖縄最古の古謡集である全22巻の「おもろそうし」に「嘉数のおもろさうし」が謳われています。『一 かゝずもりぐすく ねたてもりぐすく なよくらてづて あまやかせ 又 けおのよかるひに けおのきやかるひに 又 あらがみはてづて おりなぐはてづて』(村の最初から崇めた嘉数の杜グスクに嘉数の神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ今日の佳き日に神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ神女はオリナクの神に祈って神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ)
2021.12.03
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(大謝名メーヌカー)沖縄本島中南部の宜野湾市に「大謝名(おおじゃな)」集落があります。国道58号線と県道34号線(宜野湾西原線)周辺に広がる集落は昔、隣接する「真志喜集落」と「大山集落」を含めて「ぢゃな」と呼ばれていました。「大謝名集落」は碁盤目状に形成され、琉球王国時代は「中頭方西街道(現在の国道58号線)」の宿道集落として栄えました。また、米どころとしても知られ、肥大な田園が集落西側の「港田原」に広がっていました。(黄金宮の標識)「大謝名集落」の南側に「黄金宮(クガニナー)」と呼ばれる森があります。黄金庭、黄金森グスク、金宮とも呼ばれ「琉球国由来記」には「コガネミヤヨリアゲ森(神名:真次良御イベ)」との記述があります。「察度(サット)」が初代中山王として即位する前に楼閣を造営し居住した場所だと伝わります。周辺一帯からはグスク時代の土器や中国製の外来陶磁器などが採取されています。(黄金宮/クガニナー)奥間大親(オクマウフヤ)と天女の間に生まれた「察度」はある日、勝連按司が婿探しをしていると聞き勝連へ出かけました。勝連按司と家来は「察度」の汚い格好を見て馬鹿にしましたが、按司の娘は「察度」の人徳を見抜き嫁入りを決めたのです。「大謝名集落」の「察度」の家は垣根も壊れ雨漏りもしていました。しかし、汚れたカマドをよく見てみると黄金で出来ていました。驚く按司の娘を「察度」の畑に連れて行くと、沢山の黄金が石ころの様に転がっていたのです。(黄金宮の祠内)当時「大謝名集落」の北西側に隣接する牧港には日本の商船が頻繁に出入りしていました。初めて黄金の価値を知った「察度」は畑の黄金で鉄を買い、この鉄で農具を作り集落の農民に配りました。民衆の心を掴んだ「察度」はやがて浦添の按司となり、その後「初代中山王」に即位しました。中国明朝との貿易を正式に始め、東南アジアにまたがる交易の礎を築いたのです。人々は「察度」の功績を讃え「黄金宮」の地を聖地として現在も大切に崇め続けています。(上之山御嶽の拝所)かつて「大謝名集落」の中央で現在の県道34号線(宜野湾西原線)沿いに「上之山(イーヌヤマ)」と呼ばれる小高い森山がありました。集落の大切な拝所で「クサティムイ(腰当森)」てして親しまれていました。ちなみに「クサティ」とは「赤ちゃんが抱かれて寄り掛かる状態」を意味します。沖縄戦後、森は米軍住宅建設工事で消滅してしまい、拝所は「黄金宮」の敷地内に移設され現在も住民に拝まれています。(カニマンバカ/金満墓)14世紀後半、中国明王朝の初代皇帝「洪武帝(こうぶてい)」は対外政権として冊封・進貢策を取り、日本をはじめアジアや諸外国との交易を進めていました。招諭使の「楊載(ようさい)」は来琉した際、初代中山王「察度」に対して明朝への朝貢を促したのです。1372年「察度」は義理の弟である「泰期(タイキ)」を琉球初の使節団の団長として中国に遣わしました。こうして琉球王国における大交易時代の幕が「泰期」により開かれました。この「泰期」が「大謝名集落」南東部にある「カニマンバカ(金満墓)」に永眠しています。(残波岬公園の泰期像)中国との交易は「唐旅」と呼ばれ、遠方への旅路は生命の保障の無い危険なものでした。「泰期」はそれに臆することなく5回に渡り中国との貿易を交わしました。東南アジアに及ぶ大交易による黄金時代を築き上げた「泰期」は「商売の神様」として象徴され「残波岬公園」に銅像が立てられ「泰期」の言葉が刻まれています。『指をさし、向こうに見えるのは中国大陸。たとえ残波の海が荒れていようとも、いざゆかん。果報をもたらす夢の大陸へ。』(マテーシ/ウカマ)(根屋内のヒヌカン/ビジュル)(根屋内の位牌とウコール)「カニマンバカ」の北西側に「マテーシ(又吉)」の拝所があり「御釜(ウカマ)」とも呼ばれています。「大謝名集落」の創始者と言われる屋号「又吉」の屋敷跡で、最も古い家筋である事から「根屋(ニーヤ)」とされて集落祭祀の中心的役割を担ってきました。現在は後継が絶えたため屋敷跡にヒヌカン(火の神)、又吉祖先代々之霊、又吉大根屋之神、又吉大按司之霊の位牌が祀られています。旧暦8月15日の夜に獅子舞の行事の前に集落の住民により大切に拝まれています。(大謝名クシヌカー)(ウシアミシガー)(ウシアミシガーのガジュマル)「マテーシ」の北側に「大謝名集落」で昔から使われてきた湧き水の「大謝名クシヌカー」があり「ミーガー」の名称でも知られています。地下の洞穴の天井が崩落したすり鉢型の"陥没ドリーネ"と呼ばれる地形になっています。更に「大謝名クシヌカー」の直ぐ北側には「ウシアミシガー」の湧き水があり、この名前の由来は牛を水浴びさせていた事に由来します。かつては一段下がった水場に牛を連れて降りる専用の通路がありました。立派に根を広げて育ったガジュマルが「ウシアミシガー」のシンボルとなっています。(地頭火ヌ神)(祠内の上之山の神)(地頭火ヌ神の霊石)「大謝名集落」の中央部で大謝名小学校の東側に隣接する「メーヌモー」に「地頭火ヌ神」があります。「大謝名集落」の守り神であるこの拝所は以前、前恩納(屋号)の屋敷近くにありましたがパイプライン道路拡張工事により敷地が削られた為、現在では「メーヌモー」へ移設されています。祠内には「上之山(イーヌヤマ)の神」が祀られており「地頭火ヌ神」の3体のビジュル霊石とウコールが合祀されて住民に祈られています。(土帝君/トゥーティークー)(祠内の霊石)「地頭火ヌ神」に隣接して「土帝君(トゥーティークー)」の祠が建立され、祠内には「土帝君」と刻まれた霊石が祀られています。「土帝君」は中国から伝わった「農業神」です。かつて「土帝君」があった県営大謝名団地周辺は作物が良く育つ水田地帯でありましたが、土地が低かった為に大雨が降る度に水没していたそうです。現在「土帝君」は「メーヌモー」に移設され、旧暦2月2日に集落の住民により祈られています。(大謝名メーヌカー)(大謝名メーヌカーのカービラ)「地頭火ヌ神」と「土帝君」がある「メーヌモー」の南側麓に「大謝名メーヌカー」の井泉があります。「大謝名集落」の住民がかつて生活用水、若水、産水、死水として使った、暮らしや人生の節目の行事に欠かせない湧き水です。樋口の上部に造られた窪みにはウコール(香炉)が祀られています。「大謝名メーヌカー」に通じる立派な石畳の坂道は「カービラ(井坂)」と呼ばれ、湧き水と共に宜野湾市指定の文化財に登録されています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.09.12
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(野嵩の屋号図/西門ガジュマル)沖縄本島中南部の宜野湾市東方の石灰岩大地で、米軍普天間基地に隣接する地域に「野嵩(のだけ)集落」があります。「野嵩」は方言で「ヌダキ」と言い、1671(康熙10)年に宜野湾間切が設置される以前は中城間切に属していました。戦前まで「野嵩集落」の主導者達は「アシビ(歌、三線、踊りなどを楽しむ祭事)こそムラの繁栄とムラの人の健康に繋がるもの」と認識して、本島中部において群を抜く「アシビ」の地域として賑わいました。(イーヌタキ/上ぬ毛のうたき)「野嵩一区公民館」西側の山頂に「イーヌタキ」の拝所があり「イーヌモー御嶽」や「上ぬ毛のうたき」とも呼ばれています。集落の「北の神」と言われるこの御嶽は、1982(昭和57)年の改修でコンクリート製の祠が建てられました。マールアシビ(豊年祭)の前に演者達が「イーヌタキ」に登って歌い、ムラヤー(当時の公民館)まで声が届くかを調べて祭りの配役を決めるビーシラビ(声調べ)が行われました。現在「イーヌタキ」の祠内には霊石が祀られています。(ミーガー跡)「ミーガー跡」は「野嵩一区公民館」の北側に位置しています。首里王府の指令で新松川(屋号)の祖先が掘った井戸だと伝えられています。水量は豊富で沖縄戦の最中には多くの人が利用しました。市道の建設により井戸は埋め立てられ現在は碑と祠が建てられています。「ミーガー跡」から「イーヌタキ」に向かう坂道があり、この付近は"字野嵩西門原"と呼ばれていた事から「西門坂(イリジョウビラ)」と地域住民から親しまれています。(トゥニムートゥ)(根屋/ニーヤーの拝所)「野嵩一区公民館」の敷地内に「トゥニムートゥ」と呼ばれる拝所があります。集落の守り神である"天の神、地の神、竜宮の神"が祀られており、旧暦8月15日の「ウチチウマチー」と呼ばれる収穫祭に祈願されます。さらに東側には「根屋/ニーヤーの拝所」があります。集落の発祥に関わる家の拝所で、マールアシビ(豊年祭)の際に祈られます。拝所の内部には4基のウコール(香炉)が祀られ、それぞれ花瓶と湯呑みが設置されています。(ヌンドゥンチ)更に東に進むと左側に「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」があります。「野嵩ノロ」を輩出した家でマールアシビ(豊年祭)行列の出発点となっています。「ヌンドゥンチ」とその斜め向かいの東中加(屋号)の仏壇を拝んでからエイサーを踊りながら練り歩く「道ジュネー」が始まるしきたりになっていました。また「ヌンドゥンチ」ではマールアシビの衣装や旗頭、五穀豊穣をもたらす来訪神のミルク(弥勒)の面を管理していました。(野嵩クシヌカー)「ヌンドゥンチ」の東側に宜野湾市指定史跡の「野嵩クシヌカー」と呼ばれる立派な石積みの井泉があります。「野嵩集落」の"ムラガー"で住民の生活用水、赤ちゃんのウブミジ(産水)、正月のワカミジ(若水)を汲む井戸として人々の暮らしを支えてきました。水量が豊富で沖縄戦の最中は軍作業の洗濯場として利用されていました。「野嵩集落」で最も規模が大きいこの井泉は現在でも枯れる事なく水が湧き出ています。(ハウスナンバー32)(MP事務所)1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、3日後「野嵩集落」に民間人収容所を設置しました。そのため集落は攻撃対象にならず破壊を免れた民家の母家をはじめ、家畜小屋に至るまで収容所として使われました。この家のヒンプン(衝立)に記された「32」は収容所を管理する米軍が付けた番号で、当時163番まであった番号は現在32番のみ現存しています。この家の東側には「MP(憲兵隊)事務所」として利用されていた屋敷があり、戦後は集落の警察署として使われていました。(ウガンヌカタ/う願のかた)「野嵩集落」の北東端で、県道29号線(那覇北中城線)と県道35号線(本町通り)の交差点「安谷屋(南)」付近の丘稜に「ウガンヌカタ(う願のかた)」の御嶽があります。集落の「東の神」であると言われ旧暦8月15日の「ウチチウマチー(収穫祭)」の際に祈願されています。この行事では集落の住民が「ウガンヌカタ」に神酒を貰いに行く伝統のしきたりがありました。現在、拝所の祠内には霊石が祀られています。(野嵩石畳道/袖離れ坂)「ウガンヌカタ」から県道29号線を渡った東側に「野嵩石畳道」があります。琉球王国時代に整備された首里から中城間切への宿道の一部で「野嵩集落」から「我謝橋」までの高低差34m、長さ120mの急坂に造られた石畳道です。古老によると「護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)」の際、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が石畳道を渡って逃げていました。その時に追っ手に射かけられた弓矢により彼女の着物の袖が引き離された事から「袖離れ坂(スディバナビラ)」と呼ばれています。(ウフグティ)「野嵩集落」の最南端にある墓地群に「ウフグティ」と呼ばれる牛が座っているように見える巨大な石灰岩が集落の「南の神」として祀られています。隣接する北中城村「新垣集落」に向いていおり、名前の由来は「ウフ(大きい)」「グティ(牡牛)」と伝わっています。普天間川を挟んで「新垣集落」の「ガンワー」と呼ばれる岩が吠えると「野嵩集落」に病気が流行ると言われ、「ウフグティ」が天から落ちてきて「新垣集落」に吠えると病気がなくなったと伝わっています。(ビンジリの拝所)「野嵩集落」の最西端で米軍普天間基地沿いの場所に「ビンジリの拝所」があります。集落の「西の神」と言われ、元々は山林でしたが普天間飛行場の建設用に採石されて大きな窪地になっていました。現在は埋め土で平地になり駐車場として整備されています。西側に隣接する「新城集落」に向けて建てられおり、集落の西側から悪霊を追い払う魔除けや守り神として崇められていました。「ビンジリ」とは霊石信仰の「ビジュル」を意味し、現在は拝所として住民に祈られています。(メーヌカー)(地頭火の神)「ビンジリの拝所」から集落の中心部へ東に進むと「メーヌカー」の井泉があります。石積みの"ムラガー"で生活用水、ウブミジ(産水)、ワカミジ(若水)を汲む場所として人々の暮らしを支えてきました。「メーヌカー」の北側には「地頭火の神」があり「野嵩集落」の火の神を祀る集落の守り神と言われています。「野嵩集落」では戦中戦後の混乱期には伝統行事も途絶えましたが、生活が安定した今日では「ちなひちもうい」「ウチチウマチー」「マールアシビ」が復活して「野嵩集落」の人々の暮らしに大切に受け継がれているのです。
2021.09.09
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(西森御嶽/ウガンヌカタ)沖縄本島宜野湾市の北東部に「真志喜集落」があり、米軍普天間飛行場(普天間基地)と宜野湾市西海岸に挟まれた集落に「森川公園」があります。国道58号線の「真志喜(南)交差点」から北に約400m進んだ場所にある公園の北側に御嶽、拝所、井泉があり、南側に展望台、多目的広場、滑り台、ブランコ、砂場、ウォーキングコース、テニスコートなどがあり地域住民に愛されています。また「森川公園」は様々な都市伝説があるスポットとしても知られる聖地となっています。(森川公園入り口)(森の川)「森川公園」の北側に「森の川」と呼ばれる井泉があります。この井泉は宜野湾市に伝わる「羽衣伝説」の発祥の地で神聖なパワースポットとして知られています。14世紀の中世琉球時代、浦添間切の謝名村(現在の宜野湾市真志喜)に「奥間大親(おくまうふや)」という人がいて、嫁の来手もない程の貧乏でした。ある日、畑仕事を終えて手足を洗おうと「森の川」に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に衣がかかっていました。(森の川の井泉)(森の川の通路)奥間はすばやく衣を草むらに隠した後、女の前に姿を現しました。驚いた女は急いで衣を取ろうとしましたが、木の枝にかけていたはずの衣が有りません。女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れません」と泣き崩れました。すると奥間は女の身の上話などを聞き「それはお困りだろう。私が衣を探してあげるから、それまで私の家で休まれるがよい」と言うと、女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間はその羽衣を家の倉の奥深く隠してしまいました。(筒状の石垣構造)(井戸口の香炉)それから10年の月日が流れ、二人の間には一男一女が生まれました。さらに何年か経ち、女の子が偶然に羽衣を見つけ弟と遊びながら「母の飛び衣は6つの柱の倉にあり、舞衣は8つの柱の倉にある」と歌ったのです。それを聞いた母親は大いに喜び、夫の留守中に羽衣を取り出して身につけ、たちまち天高く舞い上がりました。しかし、愛しい夫や二人の子どもの泣き声を聞くと、急には去りがたく空の上をぐるぐる飛び回り、ついに風に乗って大空の彼方に飛び去ったのです。(西森御嶽の石垣)(石垣の門と香炉)「森の川」の東隣に「西森御嶽(ウガンヌカタ)」があり御嶽の森には石門が設置されています。尚清王(在位1527〜1555年)の第七子を初代とする向氏伊江家の人々が「森の川」の石積み工事を行いました。資金を寄せて石工を集め、石を切り敷き詰めて井泉を囲み門を造ったのです。さらに「西森の御嶽」の前にも長さ5尺4寸(約16.4m)の石垣を造り、門を開けて出入りできるようにしたのです。この御嶽は祈りの対象とされており、この門前で祈りを捧げる人が多数訪れます。(石垣の門の内側)(西森碑記)石門の内側は「ウガンヌカタ」と呼ばれる聖地となっており「西森碑記」が建てられています。この石碑は高さ120センチ、幅30〜60センチ、厚さ10〜22センチのニービヌフニ(微粒砂岩)で作られています。1725年に建立され碑文が彫られています。碑文には「森の川で沐浴していた天女と奥間大親とか出会い一女一男が生まれた。男の子は察度と名付けられ後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は宜野湾間切謝名村の野国掟の娘で、名を城の大按司志良礼といい、尚清王の夫人である」と記されています。(西森御嶽の丘陵)(マヤーアブの入り口)「西森御嶽」がある森川丘陵の中腹に「マヤーアブ」と呼ばれる自然洞穴(ガマ)があります。沖縄の言葉で「マヤー」は"猫"「アブ」は"縦穴"で「猫穴」を意味します。1945年の沖縄戦の際、真志喜集落の住民約300人は米軍の上陸直前に「マヤーアブ」に避難して尊い命を守る事が出来ました。このガマに避難した住民は戦場の恐怖と飢えに耐えながら、お互いに助け合い悲惨な戦禍を乗り越えて、今日の真志喜集落の礎と繁栄を築き上げて来たのです。「マヤーアブ」の入り口には香炉が祀られて人々が祈る聖地となっています。(神酒森拝所)「西森御嶽」の西隣に「神酒森(ウンサクモー)」があり森の頂に「神酒森拝所」の石碑が祀られています。かつて「真志喜集落」を司っていたノロ(祝女)が「森の川」の井泉で汲んだ湧き水で神酒(ウンサク)を造り、この森で集落の住民に配っていました。ノロは琉球王国により公認された神職で、集落の祭祀行事の他にも住民への奉仕活動や交流行事を積極的に行っていました。神酒は「森の川」の神水から造られている事から「森の川」はノロの祭事を行う「ノロガー」の役割があったと考えられます。現在は拝所としてウコール(香炉)が設置され、集落の綱引きの行事の際に住民により拝まれています。(マヤーガマ)「真志喜集落」の北側に「大山集落」が隣接しています。国道58号線から普天間基地のメインゲートに向かう途中に「大山マヤーガマ洞穴遺跡」があります。「マヤーガマ」とは"猫洞穴"という意味です。昔、この「マヤーガマ」に住む魔物(マジムン)が猫に化けて「大山集落」の子供達を行方知らずにさせたそうです。それを見かねた集落の力持ちが化け猫を懲らしめ、逃げ込んだ洞穴の中の甕を棕櫚(しゅろ)と呼ばれるヤシ科の樹木の皮で作った左巻きの縄で括り付けました。それ以来「マヤーガマ」の化け猫は、二度と集落に現れなくなりました。(大山マヤーガマ洞穴遺跡)「大山ヤマーガマ洞穴遺跡」は沖縄諸島の墓の造りと死者の葬り方の移り変わりを知る上で大切な遺跡です。遺跡は標高50m程の傾斜地に位置し、後背に平坦な琉球石灰岩の大地が控え、全面に西海岸の海が一望できる場所です。洞穴の入り口は北西側に向かって開き、その内部は高さ2.5m以上、幅12m、奥行き7.5m程の人が動きやすい広さとなっています。現在、3箇所の通路がありますが、もともとは1連なりの入り口でした。(マヤーガマの左側と中央の入り口)(マヤーガマの右側の入り口)洞穴の中には新旧の人骨と死者に添えて葬られた副葬品などの遺物が、積み重なる土層の順に埋もれています。古く沖縄貝塚時代の前期(約3000年前)と中期(約2300年前)の時期には、人骨に伴って壺型の土器や貝輪などの副葬品があり「洞穴墓」として利用された事が分かります。後期(約1500年前)とグスク時代には、鍋型の土器や植物をすり潰す擦り石などの生活用具があり、当時の人々が洞穴で生活していた事がうかがえます。さらに、琉球王府時代(約200年前)には洗骨の儀礼を終えた遺骨を土器や陶器製の蔵骨器に納め直して、再び洞穴墓として利用したのでした。(普天間基地のフェンス)「西森御嶽」や「マヤーガマ洞穴遺跡」などの重要な文化財がある「真志喜/大山集落」は米軍普天間基地に隣接した地域にあり、基地のフェンス内には宜野湾市のみならず沖縄県にとって非常に大切な歴史が未だに奪われたままとなっています。フェンス越しにも興味深い地形や森が見えて、基地中には古い拝所や御嶽も存在します。本当の意味での終戦や基地返還とは一体何なのか?フェンスによって歴史が閉ざされる思いになってしまいますが、遺跡文化財は歴史の証人であり沖縄の人々が生きてきた証は確かに現存しています。
2021.05.18
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(喜友名のシーサー)沖縄本島宜野湾市の北部、県道81号線沿いに「喜友名(きゆな)集落」があります。アメリカ軍普天間基地とアメリカ軍Camp Foster(キャンプ瑞慶覧)に挟まれた集落は、地区全体が碁盤の目のように規則正しく整理された古き時代の計画集落の1つです。「喜友名集落」を取り囲むように7体の石彫りシーサー(獅子像)が置かれ、宜野湾市の「市指定有形民俗文化財」に登録されています。(メントー前のシーサー)「メントー前のシーサー」は喜友名集落の北西側外れに設置されています。この喜友名2丁目5番地にある「メントー前シーサー」は宜野湾市の中心部に向けて建てられています。シーサーには集落や屋敷内に厄や忌み嫌われるものが入らないようにする「反し(ケーシ)」としての役割があります。(メーマシチ前のシーサー)「メーマシチ前のシーサー」は「メントー前のシーサー」の東側、喜友名2丁目3番地に設置されています。元々は喜友名集落の北側に隣接する神山集落(現普天間基地)への「反し(ケーシ)」の役割でしたが、現在はメーマシチの庭に移動しました。分家によって集落が拡がるとシーサーも更に前に移して集落の全員がシーサーの恩恵を受けられるようにしているそうです。(クラニーグァー前のシーサー)喜友名2丁目17番地に「クラニーグァー前のシーサー」があり、宜野湾市の中心部である南側を向いてます。喜友名公民館の南東方向に位置するこのシーサーは南側の「いすのき通り」から見て突き当たりの場所に設置されています。喜友名集落の石獅子は集落を守るものとしては沖縄県内で最多で、7体のシーサーは面構えや形も違い、さまざまな表情を見る事が出来るのです。(イリーグァー前のシーサー)「イリーグァー前のシーサー」は「クラニーグァー前のシーサー」の東側である喜友名1丁目3番地の三叉路に位置しており、西側に隣接する「新城集落」方面を向いています。シーサーの集落での置き方、顔の向き、形状の違い等はそれぞれのシーサーが持つ特別な意味を知る上で重要な手掛かりとなります。(トゥクイリグァー前のシーサー)「トゥクイリグァー前のシーサー」は喜友名集落の北東部にある「シオン幼稚園」の交差点にあります。喜友名1丁目29番地から北東方向を向くこのシーサーは比較的に保存状態が良く、身体の横幅1メートルで高さ80センチ以上の大型シーサーで、顔の表情、歯の形、足の形、尻尾まではっきりと形状が綺麗に残されています。(メートーヤマ前のシーサー)国道58号から県道41号を普天間神宮方面に向かう坂道の途中に「メートーヤマ前のシーサー」があります。喜友名集落の北側で喜友名2丁目29番地に構えるこのシーサーは北部の北谷町と西海岸の海を向いています。「メートーヤマ前のシーサー」は頭部だけがこの場に設置されており、胴体部分と思われる部分は喜友名公民館の敷地内にあります。(ナカムトゥー前のシーサー)「ナカムトゥー前のシーサー」は喜友名集落の西側で喜友名2丁目25番地にあり南側を向いています。1960年代には仲元家後方のガジュマルの木の中にあったそうで、現在でもシーサーの顔の表情が良く残っています。現在、集落を守るシーサーが残るのは喜友名集落のみで、宜野湾市の民俗を考える上で大変貴重で重要な文化財となっています。(ヒージャーグーフー)(ウフブタ)「ナカムトゥー前のシーサー」の西側で喜友名2丁目9番地に「ヒージャーグーフー」と呼ばれる石柱があります。グーフーとは「高まり」や「たんこぶ」の意味で、明治時代に「反し」として建てられました。この場所から一本道が喜友名集落の東側まで続いており、その場所である喜友名1丁目12番地の「シオン幼稚園」敷地内には「ウフブタ」と呼ばれる大岩があります。「ウフブタ」も同じく「反し」の意味があり、シーミー(清明祭)の際に集落の住民が祈っていました。(パイプライン標識)「シオン幼稚園」の敷地内に「パイプライン標識」が残されています。パイプラインと呼ばれる那覇軍港から普天間基地に燃料を送る輸送菅が喜友名集落の北側から東側を通っていた事を今に伝える当時の標識が残っています。「POL R-O-W/NO THOROUGHFARE UNAUTHORIZED VEHICLES/KEEP OUT」「軍油線道路 許可なき諸車の通行を禁ず」と記されています。(ウィユクイビラ)(チュンナーガーの入り口)(チュンナーガーの歌碑)喜友名集落の北側にある「メートーヤマ前のシーサー」は「ウィユクイビラ」と呼ばれる坂道にありました。この場所はチュンナーガー(喜友名泉)の湧泉から集落までの道の途中にある休憩場の1つでした。現在はアメリカ軍Camp Foster(キャンプ瑞慶覧)内にあるチュンナーガーまでの道のりは急勾配で険しく、水汲みは大変な重労働で喜友名集落への嫁は少なかったと伝わります。その反面、喜友名に嫁いだ女性は「働き者」として非常に評判だったそうです。(喜友名の合祀祠)(祠内/向かって右側)(祠内/向かって左側)「ウィユクイビラ」の西側に「喜友名の合祀祠」があり鳥居の向こうに祠が建てられています。この祠は現在の「米軍キャンプ瑞慶覧」の敷地内(県道81号線沿い)にあった「喜友名グスク」の拝所を昭和34年に移設したものです。祠内は6つに分けられており右から「ヌール(ノロ)」「東門」「正門」「北門」「海」「泉」の拝所が合祀され、それぞれに霊石とウコールが祀られています。(喜友名の火の神)(火の神の祠内部)喜友名集落の中心部に「喜友名公民館」があります。公民館の敷地に「火の神」が祀られており、祠の内部には天地海を示す3つの霊石とウコール(香炉)が設置されています。喜友名集落の守り神であり、7体の石獅子と共に喜友名集落を悪霊から守る大切な聖域となっています。ウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が燃えた山盛りの灰が残されており、集落住民の信仰心の強さが見てとれます。(喜友名公民館のシーサー通り標識)(喜友名公民館の入り口にあるシーサー)「喜友名集落」は1671年に浦添間切から分離され宜野湾間切に編成されました。方言名で「チュンナー」と言います。琉球王国時代の地割制度の名残りで集落全体が規則正しく区画整理され、現在でも旧喜友名集落の面影が残っています。沖縄戦後に喜友名集落の遺跡文化財の多くが普天間基地とCamp Foster(キャンプ瑞慶覧)に接収されてしまいました。1日も早い普天間基地とCamp Fosterの返還を心から望み、喜友名集落の大切な宝を取り返したいものです。
2021.04.20
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(大山貝塚の祠)大山貝塚は沖縄県宜野湾市大山にあり、隣接する「森川公園」と恩納村の「SSS」に並ぶ沖縄の三大心霊スポットとして知られています。沖縄のシャーマン「ユタ」の修行場所としても有名で、大山貝塚は決して遊び半分や肝試しで訪れる場所ではありません。ここは沖縄の歴史を学ぶ場所であり、敬意を払って訪れる聖域なのです。(普天間基地のフェンス)宜野湾市のファミリーマート大山店から400メートルほど坂道を上がると米軍普天間基地のフェンスにたどり着きます。フェンス内は住宅エリアになっていて米軍関係者が普通に暮らしています。沖縄戦の時には大山貝塚近くの防空壕に沢山の沖縄の住民が避難していましたし、この一帯は沢山の犠牲者も出た激戦地でした。(大山貝塚の碑)フェンス沿いに50メートほど進むと「史跡大山貝塚」の碑に迎えられます。米軍基地フェンスに隣接するこの地に大山地区の守り神を祀るウガンジュがある皮肉、これは紛れもない沖縄の現実です。この碑の右手には大山貝塚に続く下り階段があります。(祠へ下る階段)階段を下り正面には大山貝塚のウガンジュが訪問者を待ち受けています。先人の霊、戦死者の魂、亡くなったユタの念が蠢く地場は不気味に、かつスピリチュアルに佇んでいます。階段を一段一段下りるにつれ重たい空気に身体が包まれてゆきます。これ以上進めない、進ませてくれない非常に強いパワーに足が動かなくなりました。(祠と鍾乳洞)石造りのウガンジュに手を合わせ名前を名乗り、訪れた理由を語りかけ沖縄の平和を祈りました。すると、それまで私の身体を縛り付けていた重過ぎる圧力がフッと消え、物凄い心地良い雰囲気に包まれました。ウガンジュの横には鍾乳洞の洞窟に下りる真っ暗な入り口があり「あの世への入り口」と呼ばれる聖域になっています。ユタはここから洞窟に入り厳しい修行をするのです。(大山貝塚のガジュマル)大山貝塚には神が宿るガジュマルがあります。琉球石灰岩をガジュマルの枝が何百年もかけて絡み付き見事な生命力を表現しています。ガジュマルの前にひざまづき瞑想を始め耳に聞こえる物、鼻から匂う物、目をつむり見える物、ガジュマルに触れる手に感じる物、そして精神が素直に想う物に集中して五感を研ぎ澄ませました。(大山貝塚の入り口)大山貝塚は確かにパワーの強いスポットです。遊び半分の肝試しに来る人には怖い心霊現象を与え、敬意を払って訪れる人にはスピリチュアルな心地良い雰囲気を与えます。私がパワースポットに取り憑かれる理由は、この掛け替えないパワーを感じる事と自分自身の魂の浄化の為です。大山貝塚はこの階段の下から今も訪問者を見つめているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2020.12.16
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