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昨年は、9月で更新がストップしてしまい、これではいけないと思った時は、年が明けていました。平成29年の最初のテーマは、「米ドル」にしました。私が、小学生だった頃は、1ドルが360円でした。先生が、「1ドルとは、1円を毎日貯金して、1年経って貯まったお金が、1ドルだ」と教えてくれました。 社会人となって、会社の社員旅行で、ハワイへ行った時は、1ドルが250円でした。その時は、1ドル硬貨が、出回っており、消費税が4%でした。当時、消費税は、日本になかったので、面食らいました。牛乳のコップ1杯49セントが、税込み51セントでしたから、理解するのに2~3分を要しました。 平成になって、2度目のハワイ旅行があって、マウイ島に宿泊した時、同じ部屋に泊まった若い社員が、ホテルの廊下に置いてあるコーラの自動販売機に1ドル(10セント・コインを10枚)いれても、コーラが出てきません。私は、若い社員に代わって、ホテルの係員にトラブルを告げにロビーまで行き、「My room-mate has a problem. He put 1 dollar into vending machine. But no cola issued.」と云いましたら、係の強面のおじさんが、1ドル返してくれました。しかし、日本に帰って、自動販売機の前面に 「Use 4 Quarters.」と書いたビラが貼ってあった写真を見付け、納得しました。
2017.01.14
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ブログの更新を5月以来怠って、申し訳ありません。最近も東京在住の先輩から「終活は、うまくいってますか? 私のほうは、3ヶ所目の納骨所を手配しました。」というメールが届きました。ショックです。そのため私のブログ更新は、途絶えたままでした。このままでは、いけないと思い、意を決してブログ更新を試みます。・・・ 日本経済の環境が大変革を遂げたのは、運送業界の主流が、「馬車から自動車へ」移行したことだと思いますが、私の幼年時代は、馬車が大きな通りを闊歩していました。今の時代、ガソリン・スタンドが在って当たり前ですが、昔は、主要な道路に「鍛冶屋」さんが居りました。鍛冶屋さんの主な仕事は、馬車馬の蹄(ひづめ)に附ける「馬蹄」の修理だったと私は記憶しています。 小学校の唱歌を思いだします。 < 村のかじ屋 > (昭和22年改定後の最終的な歌詞) しばしも休まず槌うつ響き 飛びちる火花よ はしる湯玉 ふいごの風さえ息をもつがず 仕事にせい出す村のかじ屋 ・・・2番以下省略・・・ 上の歌は、村の鍛冶やさんを歌っているようですが、 私の思っていたのは、「町のかじ屋」さんでした。
2016.08.13
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毎年、8月の今頃になると、幼い頃の戦争体験を思い出します。今年は、特に戦後70年の年でもあり、記憶している事を綴って見たいと思います。 私にとって、戦時中の記憶は、小学校1・2年生の時のものです。ある日、海軍の制服を着た20歳ぐらいのお兄さんが、教室にやって来て、「自分は、この小学校を卒業した○○と申します。いま、海軍に入隊して、潜水艦の機関室で仕事をしています。」と言いながら、黒板に、潜水艦の絵を描いてくれました。「君たち男の子は、大きくなったら、我が帝國海軍に入って欲しい。」と言われ、その気になったものの、次の年の8月に終戦となりました。 小学校1年のとき、「手旗信号」を教わりましたが、今、覚えているのは、「イロハニホヘト」くらい迄で、それ以後は、忘れてしまいました。大きくなって、思い付いたことですが、これは、軍事訓練の一環だったのです。近所の2歳年上のお兄ちゃんが、「トツー イ トツートツー ロ」と呟いていたのを覚えていますが、これは、「モールス信号」だったのです。戦争が、あと2~3年続いていたら、私も「モールス信号」を教わる筈でした。 戦後70年の今、奇妙なことを覚えているものだと、自分ながら感心する次第です。
2015.08.04
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昭和60年頃、社員旅行で、初めてハワイを訪れた時の話しです。当時日本には、消費税の制度は有りませんでしたが、ハワイでは税率4%の消費税が課せられていました。この事は、旅行会社の方から聞いてはおりましたが、いざ買い物となると、大変な苦労を伴いました。 それは、とあるカウンターで、コップ酒ならぬコップ牛乳を飲もうとした時のことです。値札には、「49セント」とあったので、50セントを出した所、店員さんは牛乳を出そうとしません。49セントが税抜きであると、理解した私は、49掛ける4%が2セントだと判断して、50セントに1セント追加したところ、金髪の店員さんは、やおら牛乳をコップに注いで呉れました。この間、会話はなく、無言のままで1分近くが過ぎていました。私にとって、初めての消費税でしたから、「消費税は厄介なものだ」と感じたものです。
2014.12.12
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2014.01.14
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平成4年のことですが、アメリカから盲目の女子大生、キャラ・ダンさんが、当時私の勤務していた東京の事務所に3週間滞在されました。 あの時から、すでに20年以上過ぎましたが、彼女について、ネット上で情報を収集している内に、2004年に亡くなられたことを知り、非常にショックを受けました。 彼女が亡くなってからも、ネット上に新しい情報が提示され、「パラリンピック・スキーヤー」として紹介されている事を知り、大変感激しました。 今年は、ロシアのソチで、2月に冬季オリンピック、3月には冬季パラリンピックが開催されることでもあり、キャラさんが冬季パラリンピックにおいて、どのような活躍をされたか、少しだけ注目して見ようと思います。 キャラさんが12歳の時、オーストリアのインスブルクにおけるパラリンピックのスキー部門で、銅メダルと銀メダルを獲得されたそうです。(In 1984 when she was 12 years old, Cara won two bronze medals and one silver at the winter Paralympics in Innsbruck, Austria, and in 1988, she returned to win two more silver medals, one in the downhill and the other in giant slalom.) 実際にスキーを滑っている写真を見つけました。 動画もあります。 http://www.youtube.com/watch?v=j4GWQ50Cvns スキーを滑ったことのない私から見ると、キャラさんは超人としか思えません。実際、彼女の言葉がネット上で紹介されています。 "In God, all things are possible."That was Cara Dunne-Yates' personal motto, and no one understood it better than she did. 「やれば、何でもできます。」と言ってのけた彼女は、凄い人だと思います。 注:写真の貼り付けに失敗しました。
2014.01.14
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今朝の読売新聞・日曜版に将棋の大山名人の名言「平凡は妙手にまさる」が紹介されていますが、大山さんの名前を聞いて、60年前の記憶が蘇ってきました。 私が中学3年の時のことです。家庭科の佐々木綾子先生が、教室に入るなり、「マア聞いて下さい。私のいとこの大山康晴が、名人になりましてなァ~、今日は、家庭科の授業を横に置いといて、康晴の話をさせて貰います。」との切り出しで、1時間にわたって、名人の幼少の頃からの苦労話を聞かせてもらいました。名人は、小学校を卒業するなり、木見金治郎九段宅に住み込みで入門し、最初の2年間は、部屋の掃除や庭の手入れだけを任され、将棋の話は皆無だったそうです。3年目から、ようやく師匠の手ほどきを受けたとの事でした。これは、60年前の記憶ですから、多少ウロオボエの部分もありますが、大山名人が艱難辛苦を乗り越えて、その道の頂点を極めた過程を身近に感じた次第です。
2013.03.10
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2年前の今ごろ、脊椎のガンで亡くなった友人が、亡くなる前年に、立派に咲いた紫の菊の写真を送ってくれました。同封の手紙には、 「一病息災にて、ゆっくり過ごしていこうと思います。 今後ともお互に健康には気をつけて度々お会い出来ることを楽しみにしております。・・・」と書かれておりました。 友人は、ガンと闘いながら、我々との再会を望んでいたようですが、2年前の猛暑に抗しきれず、この世を去りました。猛暑の時期になると、友人のことを思い出します。
2012.08.06
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我々のサークルでは、1月に市内のイタリアン・レストランで新年会を催しました。店に入ると、直ぐ「お料理は、魚にしますか、チキンにしますか?」と聞かれ、チキンにしますと答えましたが、その時、ふと思い出したのは、十数年前の北欧旅行で、フィンランド航空の機内食の直前に、「Beef or chicken?」と聞かれたことでした。成田を発つ時、添乗員の方から、「ビーフ オア チキン?」と聞かれたら、ビーフ(牛肉)かチキン(鶏肉)か、好きな方を答えるようにと云われていました。ところが、いざ機内食が出る時、金髪のキャビン・アテンダント(昔のスチュアーデス)さんが、「ベフォチキ?」と聞くので、最初は意味が解らなくて、キョトンとしておりました。しかし、すぐ、出発のときの話を思い出し、私は「チキン」と答えました。一方、私の後席のツアーメイトさんは、意味が解らなくて、結局、食事抜きとなりました。 もっと早く気が付けば、通訳して上げられたのにと思いましたが、後の祭りでした。その時のツアーメイトさんは、旅行から帰って判った事ですが、日本詩人クラブの重鎮・Kさんだったのです。
2012.04.04
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暑い日が続く中、涼しい話題を探しましたが、何しろ南洋の話しだから、逆に暑く感じるかも知れません。 あれは、平成3年頃、社員旅行でマレーシアへ行った時のことです。南シナ海を望むホテルに4泊して退屈だったので、ホテルが主催するジャングル・ツアーに参加しました。ホテルのマイクロバスに乗って、椰子の実畑が延々と続く中を可成りのスピードで突っ走り、とある集落に到着しました。冷やかしにコンビニを覗いたりしながら時間を潰していると、小さな旗が目に付きました。「冷氣旅館」と書いてありました。日本だと「クーラー付きの部屋あります。」となるでしょうが、冷気の気が「氣」となっていたし、立て看板でなく旗であったのが新鮮で、何か江戸時代にタイムスリップした感がありました。当時の記憶に基づいて、画像を再現して見ました。
2010.08.05
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今から40年前は、大阪万博で大賑わいでしたが、50年前は、どうだったかと思い出してみると、私はコンピュータの会社に就職して、社内研修のまっ最中でした。生まれて初めてコンピュータを見ました。見る物、聞く物が、全て初めてでした。 コンピュータの講習は、東大卒の先輩社員が講師で、アメリカから送られて来たマニュアルを、講師自ら翻訳して、ガリ版印刷のマニュアルを使っていました。初心者の私の馬鹿げた質問にも、マジメに答えて下さったことを、思い出します。 当時のコンピュータは、「かけ算・割り算」が出来るんだと自慢していて、今考えるとナンセンスなシロモノでした。コンピュータという名前も、まだ一般大衆に知られてないとのことで、売り出したときは、「計算して帳票を印刷する機械(calculating tabulator)」と称していました。 国内で、200台売れたらいいな!と大まじめに話していました。現在のようなパソコンの時代では、嘘のような話です。 画像検索で当時のコンピュータの写真が見つかったので、添付します。
2010.04.17
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新聞によりますと、40年前の今頃、大阪万博の開会式が行われたとあります。 丁度40年前は、豊中市のニュータウンに住んでいて、北側の窓から首を出して東の方向を向くと、ソ連館の建物がすぐ近くに見えていました。万博開催の6ヶ月は、まるで夢のようでした。わたしは、嬉しくて半年の間に12回も入場しました。親戚や友人が、入れ替わり立ち替わり、泊まってくれたものです。 最初の1ヶ月ぐらいは、パビリオンの中の職員に、サインをして貰っていました。ソ連館を訪れたとき、ロシアの係員に「ハラショー」とサインしてと頼んだところ、ロシア文字で、「スバラシイ」と書いてくれました。日本語でお願いしたのが、マズかったのかなと反省していますが、意味が正確に伝わらない「もどかしさ」があったことを、今でも記憶しています。 アメリカ館では、月の石を見るために、2時間くらい待たされたこともありました。エチオピア館では、美味しいコーヒーが飲めるので、4~5回訪れたものです。 夕方の入場は、割引されるので、いくつかの国のレストランで、夕食を摂った記憶もあります。これまでの人生で、一番楽しかった時期だったと、正直、思っております。 1979年に、ヨーロッパ旅行をした時、まるでヨーロッパ中が万国博を開催しているかの如き錯覚を覚えたのも、大阪万博の体験があったからのことです。 「楽しくなくては、人生じゃない!」などと云われますが、辛い体験をサラリと忘れて、残り少ない人生を生きて行きたいと思う今日この頃です。
2010.03.14
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現在ドイツ語を勉強していると言う「きしめんバーガー」さんから、心温まるコメントを頂いたので、このブログにドイツ語を書き込んで見ようと思います。 これは、50年ぐらい前の事ですが、私の学生時代に、ドイツの女性(Mädchen)と文通していました。彼女はドイツ語、私は英語を使っていました。彼女の手紙に、 Wir beten zu Gott nicht nur für unsselbst, sondern auch für ändern. と言う文章があり、これを訳すなら、 「我々が神に祈るのは、我々自身のためだけでなく、 他の人達のためにも祈るのです。」 となります。これを読んで感心しました。「ドイツの人は、いいこと言うなあ!」と思いました。現在のローマ法王・ベネディクト16世は、ドイツ出身だそうですから、やはり「ドイツ人は偉い」と思いました。 1979年に、私は初めて海外旅行をしましたが、ロンドンの次にミュンヘンを訪れた時、自由時間を利用して、よせば良いのに、電車に乗ってミュンヘンの繁華街まで一人で出かけました。ホテルへ帰るべき時間が迫ってきたので、慌ててタクシーを拾おうとしましたが、手を挙げても止まってはくれません。仕方なく通りがかりの男性に「タクシー乗り場はどこですか?」と聞いたところ、「どこまで行くのか?」と聞かれ、「シェラトン・ホテルです。」と私が言うと、「急ぐのか?」ときたので、これは「急ぎでなければ、オレの車に乗れよ」と言う意味だと判断して「イヤ、それ程急ぎません。」と私が言うと、「チョッと付いて来て」と言われるままに、付いて行くと、「この車でホテルまで送ってあげるよ。」と言われた時は、まさに「ラッキー!」だと思いました。ホテルまでの車の中で、彼が言うには、「シェラトン・ホテルは、最近開業したばかりだから、殆んどの人は、どこにあるか知らないでしょう。幸い、オレの家の近くだから、送ってあげてる訳だよ。」との事でした。この時の会話は、全て英語でした。相手が英語ペラペラだから、助かりましたが、もしドイツ語だったら(私はドイツ語会話がダメだったから)、こうは旨く行かなかったでしょう。本当に「Danke schön !」でした。私にとっては、夢のような体験でした。親切なドイツ青年に感謝・感謝です。
2007.10.31
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今日は、先妻の命日です。あの日から、私の頭の中は、牛乳を流し込まれたような、白一色となりました。悲しみを和らげる意味もあって、先妻の詩作品を一冊の本に纏める作業を開始したのが、10年前の今日です。 今年の6月ごろ、夢の中で「私のブログを見てくれる?」と言われて、検索した Web-site(ポトマック書房)を以下に掲載したいと思います。奇妙なことに、この書評を書いた方が、どなたなのか、私は知りません。もし、どなたが書いて下さったか判明すれば、亡妻に代わってお礼を述べたいと思っております。文中の氏名に伏字を用いたことをお断わりしておきます。 日付: 2006/04/15 タイトル: 虹の塔 花◯智□詩集 著者: 花◯智□ 出版社: 東京文芸館書評: 無残な夢の欠片のように、徒に泥を被るだけの人生がある。絵空事を踏み外し、大切なことは痛みを通してしか思い出せない社会もある。いざこざが絶えない人々もいる。それらとは一線を隔した花◯さんの生涯が感動を呼び覚まさない筈はない。不治の病にも拘らず、忍耐と勇気の鉱脈から<希望の原石>を掘り起こし、ひたすら磨き続けていたのだ。自己瞞着に胡坐をかく教条主義者らはこれを知って恥じ入るがいい。しかも、信条告白など一言もない、この匿名性とリゴリズム。もし、クリスチャンでないとしたら、「花◯さんが神」と言わざるを得まい。 逆境だからこそ燃え上がる創作意欲、これは芸術家の本分でもある。病状が悪化するに攣れ、表現手段も変わらざるを得ない。絵筆をペンに持ち替えて詩を書き、最晩年はそれこそ口述かパントマイムで、表現の場を死守することになる。ご主人にしかわからぬ表情の機微もあったことだろう。没後一周年、未発表詩を含む30余篇の作品が、彼女の霊前で、祈りの形に整えられた。本書は、病魔との闘いに打ち克った壮絶な魂の記録である。 夜中台所で 滅びる物の腐蝕が始まり 新しい生がゆるやかに立ち上がる 過去と未来がそっと手を触れる瞬間である 天使がとまどいながら時の扉をたたき 昨日と変らぬ今日が続く 初期の作品「夜の界」と比べ、何という隔たりであろう。この「日常」と題された詩には、異界の干渉に抗いながら、選ばれた天使として、この世に留まろうとする花◯さんの姿がある。いつ立ち会わされるかも知れない天と地の交換劇に、内面の緊張を漲らせている。かつては、生活の匂いに包まれた彼女自身が動物や花々の中心命題であった。しかも、好んで描かれた夜の世界には、ネガをポジに変える奥深い眼差しが潜んでいたのだ。 くちなしの花の香りが 悩ましく足もとにまつわりつく 戯れる野良犬 うす燈の下に動く人影 こじんまりと出来上っている家庭 幸せを堅く閉ざす窓 自信に満ちた笑顔で挨拶して行く人 路上まで明るい花屋 賑やかな花々のおしゃべり 光の小箱を連ねた電車が 高架線の上を流れて行く もしかしたら彼女は、持ち前の卓越した予見性によって、自らの運命の円環を閉じ、生と死の具足する世界を、既に読み終わっていたのかも知れない。夜の聖徒の賑わいが、スヒーダムの貞女に芳香を放っていた時のように。 そんな花◯さんにも、ほんの束の間、輝いた昼があった。「夏の彼方に」と言う作品には母と娘が肩を並べて語り合う印象深い光景がある。明るい世界は追憶の場面にしかなく、ここで母を外在化させ、夜闇に包まれた現実の世界では天使を内在化する、詩的なレトリックは偶然の所産とは思えない。常に、そのようなものとして宇宙があり、花◯さんの夜と昼があったのだろう。 淡い肌色の小千谷縮みの和服を きりっと着込み 白っぽいパラソルの中に 真夏の光を浴びて ゆらゆらと揺らめいて ゆるやかな微笑を浮かべ 古い駅舎の前に佇む母 毎年変わらぬ夏の風景 意に背いた娘の帰省 「ただいま」 「お帰り」 包丁の使い方 道の歩き方 寂しさと悲しさを癒す知恵 健やかな笑顔で過ごす日常 優しい愛情を掌いっぱい受けながら いつも遠い空を見つめていた 母親になれなかった娘は 最後の別れまであなたの娘でした 陽炎のゆらゆらのぼるベールを越えて あなたの横に並ぶ事は一度もなかったのです 芙蓉の花が咲く頃には 母の日傘はくるりと 後向きになりました 謝まりたい事があるのです
2007.10.25
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10年前の10月、私の先妻がこの世を去って、私は悲嘆に暮れておりました。悲しみに耐えながら、私は次のような一文を残していたので、ここに掲げたいと思います。即ち: 妻が長年苦しんだリウマチという病気は、ものの本によれば、語源はギリシャ語の「流れ」を意味する「レウマ」という言葉だそうです。「流れ」と聞いて思い出すのは、彼女の卒業論文のテーマが、ヴァージニア・ウルフの「意識の流れ」だったのです。さらに「川の流れのように」過ぎ去った日々を思いおこすうちに、私は涙が出るのを禁じえず、ふと「わが心に涙降る」の詩を思い出し、その原文はどのようなものか調べたくなりました。彼女の書棚を開け、何冊か見て行くと、ヴェルレーヌの詩集が目に留まり、4~5頁めくった所で丸印の付けられた頁に出くわし、じっと見ると、それが正に探していた原文そのものでした。ちなみに、それには訳がついておりませんでした。 元来、コンピュータの情報処理技術者で、数学専攻の私ですから、文学には縁遠く、学生のころドイツ語を少し履習した程度で、フランス語は、独学です。 しかし、以前、人間の言葉をコンピュータの言葉に変換する仕事をしたこともあり、自分では詩が書けないので、せめてこの機会に自分の心境を詩の形にする意味で、(無謀にも)ヴェルレーヌの詩を翻訳することを思いつきました。 原文(このブログでは、文末に添付します)と訳文は、次の通りです。 「町に静かに雨が降る」 ポール・ヴェルレーヌ原作 私の心に 涙が降っている あたかも 町に降る雨のようだ 私の心に 忍び込む このけだるさは 何だろう ああ 屋根の上から地面から 聞こえる 雨の優しい音は しょんぼりしている心に向けて いたわり励ます ああ雨の歌 うんざりしている心の中に わけもなく 涙が降っている えっ! ウソ偽りはないかって? この弔いに わけなどないよ 確かにこれは 苦痛の極だ 何故そうなのか 分からないとは 愛もなく また 憎しみもなく 私の心は まさに苦痛でいっぱいだ! 上の詩は、最初の4行が、「ちまたに雨の降るごとく」と人口に膾炙されているだけに、私の訳は見劣りがします。次の4行は、何回書き直したか知れません。なにしろ素人の私ですから、なるべく細工をしないで、直訳を旨としました。な~んだ、原作は、こんな意味だったのかと思っていただければ幸いです。全体として、私の(当時の)心境と相通じるものがあるだけに、駄作を承知で、あえて披露する次第です。 以下に原詩を掲げます。
2007.10.07
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