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はい きのうは朝からカミさんと2人で絵付け釉薬かけて 窯詰めして 火をつけたのは 夜の7じウチは8時間焼成 1000℃まで3時間1320℃まで3時間 その温度を2時間ひっぱるで 明け方3じまで カミさんが見てくれたーきょうは2窯目 昼ごろ入れ替えて 3じには火が入るかな 今日もガンバルーぼくは 出張で陶芸教室 あー忙しクルマ30分の日野町 日野菜の名産地 そこの公民館で 20人ほどの陶芸教室日野菜 って 大根の突然変異種江戸時代にここでできて 広がった ←知ってた?さくら漬け よりも ヌカ漬け のほーが 好きお酢をかけて食べるのが 地元風美味←知ってた?はい 以下は 再放送 ↓ ↓ ↓ ぼくは お金を拝みます拝金主義ってワケやなくって 実際の振舞い方 として売り買いの現場 お金を受け取った時の礼儀 として お金を拝む=感謝を身体で表現するあまたある やきものその中から 自作をとりあげていただく代価として お金をいただくこれ以外に ぼくはお金を稼ぐ方法を知らないこのお金で 家族5人の口に食べ物が入るこのお金で 命をつないでいける 自分の気持ちの実感→お金を拝む 陶器市 陶器祭 クラフトフェア・・・自作を 取り上げて買ってくださるお客様からお金を いただく それを 受け取る時 押し頂いて すこし頭を下げるそして ありがとうございました 深く頭を下げる自作は 家庭の実用的な 普段使いの器お金を 手渡してくださるのは圧倒的に女性=一家の主婦その方 に頭をさげ ありがとうございました と云う同時に その後に立ってらっしゃるご主人にも 視線で 同じことを お伝えする 身体表現 身体の使い方 声の出し方 で いろんなことが伝えられる ストリート系の陶芸家=やきもん屋 ここ10年ほど道端で自作を売ってきて こーゆーやり方を覚えましたさいしょはこんなケーケンから 瀬戸話3 ↓ ↓ ↓=====================瀬戸話32002の9月に せともの祭=陶器市に初出店したそのときは前日の夜に瀬戸にいって瀬戸訓練校のコンパに同席させていただいた訓練校 産業労働省管轄の職業訓練校は 全国に京都と瀬戸の2校だけ しかし各焼物産地には県施設の窯業指導所や 窯業研究所があって研修生システムがある京都は手挽きでのロクロ技術修得にしぼってるのが特徴瀬戸は手挽きロクロ/機械ロクロ/デザインなど多岐にわたる入校希望者は多い 倍率は3倍くらいしかし以前にくらべると男の割り合いが落ちてきてる家族を養っていく男の職業としては もう陶芸家orやきもん屋ってのは なりたち難いってことが理由そのぶんフットワークの軽い女性たちの比率が高まる京都も女性が半分くらい瀬戸はここんとこずーっと女性のほうが多い・・・コンパに同席させてもろて現役訓練生とお話すると・・・東京の陶芸教室で出会って結婚したカップルで夫婦ともども仕事を辞めて瀬戸訓練校受験入校した方 とか夫の転勤で名古屋に こっちで陶芸教室に通ってるうちに訓練校入校 とかこんなグアイに東京から来られた方とかと地元の方 窯元の息子さんや娘さんなどが混在してるジョーキョー翌日からの せともの祭で自作を売る方お店で売り子のバイトする方・・・いろいろですその方々のなかですでに家の仕事の手伝いや先輩の店を手伝ったなど何度か販売を経験している方が『販売の実際』について自然発生的なレクチャーを始められました お金の受渡しはできれば両手でやること お札は方向を揃えてお渡しするように心掛けること こんな風に手をそえて頭を軽くさげて 買って下さる お客さまに丁寧に感謝をこめること・・・・えらいなぁ と思いました 作ってそれを売るものは いくつもいくつも まだまだ 学ぶべきことが あるんやろなー と思いました---ぼくをせともの祭にさそってくれた友人のやきもの屋のKさんは ある時デパートのクラフトの催事にさそわれて出展したそう・・・1日立ってると疲れてきて腕を後ろに組んでたらさそってくれたクラフト作家さんにこう注意されたそう・・・ 手は垂らして 手のひらを前で軽く合わすか 太ももにそえる 後ろに組んだり 胸の前で腕を組んだりすると 尊大に見える こーゆー心がけは 接客の「いろはのい」でしょKさんはなるほどなー と納得したそうですKさんも陶芸教室に通ってるうちにプロに飛び込んンだ口陶芸教室→独立して 自作を売りはじめる人 ここ何年か ずいぶんと多い徒弟制のなごりの残る 産地の現場をくぐらずに陶芸家/やきもん屋になるヒトが増えることは いいことなんか 悪いことなんか・・・---電気窯/ガス窯/灯油窯が普及したおかげでパーソナルにやきもんを焼くことが一般に可能になったのは昭和40年以降のこと1965年ころから1960~1970のあいだにニッポンの高度経済成長で日本の賃金は名目5倍 実質3倍の増えたこの豊かさの中で美術系の大学を卒業するもの急増それらの美大出の若者たちが農村の安い人件費と徒弟制に支えられていた陶芸や工芸の世界にはいってくるようになって のち 独立陶芸/工芸の世界の個人作家の急増 これはある種の活性化といえるバブル期前に独立開業した陶芸の個人作家のある部分は作品/器が売れなくなって以降 陶芸教室を運営することで生計を立てるようになったこれら街場の陶芸教室で楽しみとして陶芸を学びその先にすすむ意志のあるもの 進んだ先に夢をもつものはだれでも陶芸家/やきもん屋になれる時代がきていまそこから『プロ』がうまれつつある・・・とはいえる 200万円と10畳のスペースがあれば ひとりでできるベンチャービジネス=陶芸家/やきもん屋こんな認識でこの陶芸/やきもんの世界にサラリーマンになりたくないヒトが飛び込んで来るようになって40年 たかだか40年の歴史 そして飽和状態 作り手が多すぎる 買い手=市場を育てて無い 買い手=市場を育てる楽しい学習の場が無い・・・ ふだん使いの器を作るものは 融通無碍な『美』とゆう基準ではなく 実質的な暮らしの道具としてのデザインを提供/追求すべき やきもんの器つくりは 美術的な要素が色濃い仕事やけど 外面的な美にとらわれ過ぎててはあかん そして いったんは お金に対する欲を捨てる 世間並み より低いところで 暮らす覚悟を決める 好きでやってる仕事ですさかい お金にならんでもしゃーないんですわ 好きでやってる仕事ですさかいに 人がだれでも持つ 上昇志向 それを 半ばは 捨てる そーやないと・・・ 美術 にもって行ければ はるかに 桁のちがうお金が稼げる この茶碗 500万円です もありえる だれだってお金は欲しい だれだって拝金主義に陥る可能性がある 強い上昇志向を持ったヒトが ムカシおこした事件↓芸術新潮1991/11月号 贋作特集 加藤唐九郎作 『永仁の壺』 権威が御墨付きをあたえてはじめて 芸術はお金を生む ↓ 芸術はきれいな箱にいれてリボンで飾らんと一文にもならん権威=鑑定者=目利き=評論家これらのヒトビト 実作者でないヒト腕に覚えがある陶工のなかには かれら鑑定者/目利きをだまして 鼻をあかしてやりたくなる それが実利をともなう・・・そんな時代がかつてあった------------- ニセモンの壺 明日が本編でこれが前ふりでーす♪===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ 軽くアタマをさげて押し頂き さらに 深くアタマをさげてお辞儀しまーす♪
2007年09月06日
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はあ 秋の繁忙期 この 土日は瀬戸目下 仕事が多忙今日 が正念場♪なので 瀬戸カンレンの 再放送 その1ーーーーーーーーーーーー瀬戸話1 釉薬:うわぐすりの煎餅しばらく瀬戸にカンケーあることを書きますね愛知県の瀬戸市 やきものの産地 六古窯のひとつ瀬戸は早くから分業制 土屋 生地屋 焼き屋 上絵屋・・・焼き屋さん と云ったり 窯焼きさん ともゆー毎年9月の第二週の土日が「せともの祭」瀬戸の陶器市ですね 50万人の人出良く売れるんでことしも売りに行きたいほんでね おもろい煎餅を見つけました『7つの釉薬が煎餅になった!』瀬戸焼き煎餅 七釉瀬戸市の米屋さんや窯焼きさんたち4人が開発したこの煎餅7種類のやきものを表現してるんです 上から時計まわりにオリベ・茶色い煎餅に白い砂糖をぬり はしっこに青ノリ御深井(おふけ)・甘辛いしょうゆ味にゴマ ショウガ風味志野・しょうゆベースに砂糖吹き付けで梅型黄瀬戸・小判型で きなこ味鉄釉・沖縄の紅芋を生地に入れた暗紫色の薄焼き緑釉・抹茶をいれて暗緑色の薄焼き古瀬戸・全面にびっしりトウガラシ 激辛!おもろいなー 焼き手の心←泣かせるキャッチコピーです~それぞれの焼物の特徴が良う出てるような気もするなーこれネットで買って陶芸教室とかに持って行ってみんなで食べればウケることまちがいなしやねー♪伝統釉のベンキョーにもなるしねー♪一袋¥800くらい ちゃんとウマかったですー♪御深井(おふけ)だけはマイナーでマニアックすぎてワカランなー瀬戸では一般に通じるんかもしれんけど 灰釉の類いらしー以上 やきものが煎餅になったオハナシでした~♪===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら 焼き手の心バリバリッ!
2007年09月04日
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はい 7月7日 七夕はい ぼくとカミさんの 結婚記念日うん 結婚して20年が 経ちました よーもってる♪結婚式 してませんやきもの屋として 独立したてで どーなるか分からんかったしねーやっていけるもんか どーか先方の親御さんも それでいい と・・・20年前の6月の末に カミさんの益子での織の修行 3年の年季が明けたカミさんとご両親 ぼくとウチの両親 この6人で京都の木屋町の料理屋 竹島 で一席をもうけた 払いはうちのおとーちゃん両家の出会い 30のバツイチの息子 24の初婚の娘縁あってやっていきますので とアイサツ懐石料理をいただきながら さまざまに話をし・・・6人ともが 話すべきを話おわって しばしの沈黙・・・そんときぼくは・・・・ とゆーことで このヒトは ボクがもらいますご両親ともに 蒲生の家に2日ほど泊まっていただきそのあとすぐに 友人の窯焚きの手伝いに 4日ほど7月7日の早朝まで ぼくとカミサンは近くの友人の 薪窯の窯焚きに行っていてその朝 終了 帰りがけ 覚えやすい七夕を 結婚記念日にしよー と だれもいない村社 八坂神社に詣でて 手をあわせた これがぼくらの 結婚式蒲生町の新興住宅地 そのそばにある 八坂神社 蒲生町のここらの在所は 京都の八坂神社の荘園やったトコなので 八坂神社の別社 とゆーことらしいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下2004年12月の文京都料理のイベント展示のレポートやけど懐石料理について よく書けてるので再録します♪ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 京都人はブランド好き・・・って言えるかなぁすべての物にはクオリティ=質ってもんがあるなにか買うとき損したく無い→世間の評判/評価が気になる良いとゆー評判/評価の定着した店や物がうまれるこれがブランド ところが本末顛倒もおこるブランド=善 になって盲目的にブランド信仰までいくと自分の目/舌/頭を使わずに判断停止してしもてイメージとしてのブランドに追従することになる それはマズイ ちゃんとした批評があるからこそブランドはできるんやから批評の不在は表現や物の質をさげるしかしエスタブリッシュメント=確定した権威の悪口をゆーと ヒトにきらわれる 生きにくくなる王様は裸 とゆー勇気が 批評なんやけど世間を敵にまわすことになりかねへん・・・・-------------京料理といっても寿司屋の出展もあるし一品料理のゆーめー店の出展もあるおべんとうの井筒屋 これならテコにあう 京都駅で売ってるもんこんな店も出展したはるんやけど核は 懐石料理すべての日本料理でいちばんエライのが懐石料理その懐石料理を生み出し研ぎすましてきたのが京都京料理とゆーたらそれが即 懐石料理それをくずしたんが割烹料理であり会席料理---------京都人はブランド好き 千年の京ですから~♪京の字の訓読みは みやこ そやから京都は みやこみやこ京料理/京仏具/京仏壇/京雛/京焼/京染/京塗り・・・お約束の・・・京舞お茶/お花/舞い/お香/のお家元 それに お寺の本山・・・・みーんなみんな京都にあるからいちばーんおおきなブランドが 『京都』ってこと懐石料理のゆーめー店がずらーり懐石料理を茶道から切りはなして食べさせる店がいまの料理屋です吉兆 萬重 菊水 鳥居本 平八 中村楼金茶寮 たん熊 美山荘手のこんだ芸としての料理をやり京都の旦那衆の舌が支えて来た店 名だたる文人墨客の筆にのぼることでブランドをこさえてきた店格式が高いわけです店の建築/内装/庭/花や床の室礼/給仕の作法 器/食材を四季に替えてもてなすその演出の妙一級の店店・・・・1食2万~4万かなすべて茶道の懐石料理の料理屋版をやる店茶道はニッポンの食の文化と工芸の文化を作って利休以来の400年間をひっぱってきたわけなんですわ・・・店をかまえてない懐石仕出しの専門店が2店 辻留:つじとめ と 柿傅:かきでん柿傅の献立 前菜:さきづけ 向付け 煮物 焼物 強肴:しいさかな 箸洗:はしあらい 八寸:はっすん 飯 汁 香の物 水菓子これらがコースで出て来るのが懐石料理 茶道の茶事(ちゃじ)のときにいただくご飯が懐石料理ですなんで懐石とゆーか けったいな名前でしょそのワケは・・・ 懐:ふところの石=温石:おんじゃく=カイロみたいにお腹をあっためるもんやから そーゆーんです茶道は禅宗と結びついてます 茶禅一味ともゆー お家元は大徳寺から僧籍をもらって=得度して家元になるそやから仏道では各お家元は大徳寺の下に位置する・・・禅の修行僧は寒いときに火で焼いた石を布にくるんで懐にいれ暖をとったこれに由来する料理なんで 懐石料理とゆーんですわ茶事ってゆーのはお客さんよんでお抹茶をのんでもらう茶道の礼式 お茶をおいしく呑んでもらうためにご飯も出す 本来は亭主=呼ぶ人がみずから包丁をとって料理して出しお客さんにお腹をあっためてもろておいしくお茶をのんでいただくそんな もてなしの心 が礼式にまで高まったのが茶事なんですそやからもともとはそんなにご馳走やなかったんです裏の畑の大根を湯がいて味噌をかけ それにご飯と汁一汁一菜が基本ちょっとピンボケ 辻留の一汁一菜 ご飯は表千家の一文字 向付は魯山人の備前割山椒:びぜんわりざんしょでもいま茶道の茶事でも料理屋の料理でも向付にふろふき大根てゆーわけにいかんでしょやっぱり鯛のお造りを・・・となってどんどん立派になってご馳走になってしもたんですねーそやから亭主みずからが料理する そんなことまではできへんでしょそれで上に書いた料理屋さんや 辻留さんとか柿傅さんに仕出し=ケータリングしてもらうことになったわけ 禅の料理やさかいに魚はあっても肉類は出ないのがフツー 懐石料理のエッセンスを入れて革新したのが フランス料理のヌーベルキュィジーヌ ぼく辻留さんのはケーケンないねんけど柿傅さんの仕出しでの茶事に出たことあって・・・茶事をちょーカンタンにセツメーすると・・・まず お薄をいただく=抹茶を1杯呑むほんで ご飯をいただく=懐石料理を食べる 粗飯(そはん=ささやかな食事)でございます←亭主アイサツ ご飯だけでなく お酒も出る! 辻留 お預け徳利 色絵螺子祥瑞:いろえねじしょんずい 八寸 クワイにカラスミ いろいろとアテがでてきて 作法にのっとって 千鳥の盃 とかゆーて亭主の盃のやりとり 盃はあさーい塗り でもだんだん酔おてくるぅ~♪ あとは御自由に←亭主アイサツ 客だけで呑む 酒器は塗りやったり鋳物に色絵磁器の蓋やったり あくまで盃は上品な小さいもの グイ呑みなんかは出ない 柿傅の焼肴 マナカツオの幽庵焼 織部手鉢 楽旦入作 強肴 焼き蕪と南京 松茸のはり湯 強肴:しいさかな は もっと呑めと強いるさらなるアテの意 作法に乗っ取ってゼーンブ食べたら正客(トップの客)に お箸をあつめる ジャラリンと音を立てて折敷:おしきに ころがしたらそれが合図 懐石料理はおしまい いったん休憩して ふたたび 席入りしお濃茶の席になる ドロドロの濃茶を 一椀で回し呑む そのあとで さらに お薄の手前をいただいて オシマイ! 作法につぐ作法 ふーっ これが茶事 1日仕事 ・・・・ ことほど左様に 茶事は大事:おおごと 季節/時間/主旨・・・歴代宗匠=お家元の考案された さまざまな茶事の礼式があり・・・教養ある文化人にしかできない芸事の極致なんですね席がかわると室礼:しつらえ=花/掛物は変える 小間の茶室なら天窓/蔀戸(しとみど)を開けて午前の席と午後の席では光をもとり替えて時の流れを亭主のもてなしの演出に潜ませる 茶室って日本の建築の一方の極致数寄屋建築ってもっともお金のかかる普請道楽茶庭のたたづまいは自然の抽象表現 造園とゆー芸術打った水は涼しさの演出 しかし客の袖を濡らさんように飛び石にそって葉っぱ1枚1枚を拭いてまわる そこまでして客の心のなにごとかを動かす もてなす心・・・ながれる水の音 木々のざわめき 光 すべてをつかさどって亭主は客をもてなし 客はそれに応じる床に掛ける軸 活ける花 使う道具 すべてに目が効かなあかんのですわ和漢の教養があって工芸に目が効いてこそ そんな道具立てに意味をこめて 客をもてなすことができる 芸事=もてなす心の極致 もてなす心 すばらしいです スゴイです けどこれがフォース(理力)の暗黒面にひきこまれると 権威主義/教養主義になってしもて わからんヤツを文化力のないヤツとして バカにする文化的装置になってまうんやなぁ・・・ ツライところです ぼくも手作りの器つくってそれを売って 生業:なりわいとしてしてますから文化がもともと持つ この構造を全否定できないですから・・・ 文化にはお金がかかる←事実デスケド 一食¥30000ハ権威主義デハナイノデスカ? ソノ権威 ホンマニ中身ツマッテマスカ?食は命をやしなう糧 おなか空いてたらどんなもんでもオイシイ冬の深夜に 冷や飯にあっついカス汁をぶっかけて口一杯にほおばる口福=幸福 それは動物としての根源的なヨロコビこのときの器は 機械量産品の安手のドンブリが適切それがこの食に見合った器使い すぐれた演出衣食足りて礼節を知る 文化としての作法=ええ器を使い 競うのは そのダイブあとのことなんやなぁ・・・ま ぼくはやきもんをつくる者として ふだん使いの家庭食器を手作りでつくって みんなみんなの食卓の彩りにしてもろて 苦しみ多いこの世をともにわたる「暮らしの仲間」て ゆーてもらえるよーにがんばろ・・・ 井筒屋の弁当をめざそー・・・-----------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーさ 明日は さきおととい 竹島 でいただいた ¥8000のコースをレポートします♪ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓
2007年07月07日
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年間20箇所 いろんなトコで売るそのときいつも カンカラ三線を弾いてるオキナワ風の音を出しておいてシガケンから来ましたーオキナワからではなくーと 落とす しょっぱなの笑いを取る ツカミですお客さんはみんな カンカラ三線を見て自分で作ったの? と聞く なので・・・ いえこれは 組み立てキットも売ってますし 組みあがったもの も売ってます カンカラ三線 とゆー オキナワの楽器です ちょっと見 オモチャっぽいですけど オキナワの方にとっては 歴史性のある ちゃんとした 楽器なんです 沖縄戦で 本皮張りの三線=蛇皮線はみんな 燃えてしもた そのあとみんな 米軍のキャンプに 収容されて 米軍の配給してくれる ビスケットの缶 ミルク の缶 それに簡易ベットの足をサオにしてね・・・ この弦も 最初はパラシュートの紐を ほどいて 撚って 弦にしゃはったそーです・・・・ そーやってできた この楽器で 生き残った祝い=命の祝い=ぬちどぅいわい は このカンカラでしゃはったそーなんです そやからオキナワの方々にとっては オモチャではなく 思い入れのある 特別な楽器として 今も作られてる・・・ 屋嘉:やか ってところがあって 米軍の収容キャンプもあった そこで出来た唄 カンカラ三線で 作曲された 哀切なメロディ =『屋嘉節』 ってゆー曲は こんなイントロ・・・ こんな歌詞です・・・ なちかしーやー ウチナー(沖縄) 戦場:いくさばになやいー 戦場:いくさばになやいー 世間御万人;セケンオマンチュぬー 流すナーミーダー 流すナァミィダー この『屋嘉節』はいまでも 本皮張りではなく カンカラ三線で演奏される ことが多い こんな粗末な オモチャみたいな 楽器 カンカラ三線 沖縄の歴史が 生み出した楽器 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2000年3月 那覇 壺屋焼 新垣製陶所にて 絵つけ・裏場工 新垣紀美子(75)より聞き取りもう・・・65年もやちむんの仕事・・・おとーさんが キミ子 この仕事やってみなさい とゆーたのが10才の時できないってゆーたけど キミ子ならだいじょーぶ やってみなさい ってじぇんじぇん 怒られなかったほめてほめて おしえてくれたキミ子 いい仕事しよーと思たら 目と手と心がデージ(大事)だよ って 那覇 壺屋焼 キミ子おばぁの絵つけした抱瓶(だちびん) 腰にフィットする水筒状の注器 畑に行く時 泡盛を入れてったそー ヒモのつけ根はシーサー(獅子)になってるやちむんの仕事は ずーっといそがしかったさヒマだったことはじぇんじぇんなかったさー日本軍の仕事で軍用の飯碗をたーくさん焼いたさーつや消しで黒い色の飯碗や什器白くて光ると敵に見つかるでしょーわたしら仕事しよるでしょー兵隊さんが見にくるわけさそーゆー時でも士官のえらいヒトが前で下っ端のヒトは後でいーっぱいで見てるさー兵隊さんはかわいそーと思もーたさきびしぃーさー上と下の区別が収容生活が終わって琉球政府になって戦後復興てゆーたら島中から壺屋にやちむん買いに来たさぁ水ガメや油壺やみんな いっさいがっさい戦争で生活の道具がなんも無くなったとこからでしょー島中のヒトがやちむん買いに来たさ沖縄の復興は壷屋からはじまったんさーどんどんどんどん作ってから焼いてからそれはそれはいそがしかったさーそのあとは内地に輸出もするしアメリカーにも輸出するしベース=基地のオミヤゲも作るしその頃もいそがしかったさー本土復帰して海洋博があってたくさんの内地のヒト 沖縄に来るよーなって壺屋のやちむん買って帰られるよーなったでしょーだからさ ずっといそがしかったさヒマだったこと無かったさー65年もやちむんの仕事して来てからさーこの仕事やってきて ほんと良かったさーこーやって観光の内地のヒトと話しできて おばぁは 楽しいさぁ ある時代を生きて 生活のための やきものを 作りつづけて来たヒトの言葉として 記録しておきます 2007/6/23 沖縄戦終結から62年 慰霊の日に=========================================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ キミ子おばぁ の仕事してるヨースはここで見られます↓ぼくの書いたオキナワ紀行
2007年06月23日
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南アルプス南部 歩行訓練の実際4/29深夜 静岡県大井川源流 畑薙第一ダム到着 クルマで寝る 夜が明けて 南アルプス南部の山 ダム湖中部電力のダムの脇 静岡駅からここまでのバスと乗り換えるリムジンバスの停留所のそばに 入山者駐車スペース そこに10台ほど 山口 松本 相模 ナンバーのクルマも30日朝8じ 東海フォレストのバスダムで夜を明かした登山者たちぼくを含めて11名が この日 このバスに東海フォレストのバスは完全予約制 8じ11じ15じの3本だけこの先にある2軒のロッジに宿泊するものだけが乗れるボク以外全員 50~60Lの大容量アタックザック装備は冬山用 アイゼン ピッケル かんじきスノースコップ 女性2名 全員年季の入った山屋たちダムの先2キロでゲート 静岡県警と静岡山岳会の管理事務所入山者は登山計画書の提出が義務付けられてるこの先は未舗装の地道 オフロードバスは大井川源流を 奥へと進む 山がでかい 里はすっかり春で新緑の世界やったのに季節が早い速度で 巻き戻されていく里は 山笑う それが 山目覚める 寝ぼけ眼の山 山眠る そこまで 巻き戻される聖岳 3013畑薙ダムの標高は11001時間ほどでサワラ島ロッジに着くぼく以外の全員がここで下車した赤石岳 聖岳 などへの登山者たちにはここが登山基地となる小型のオフロード車に乗り換えてぼくだけさらに奥へどんどん沢が近くなる 大井川源流の間ノ岳からの谷は静岡県 東の分水嶺で山梨県 西の分水嶺で長野県と接する ここは国立公園であり かつ 東海パルプの社有林 東海パルプの子会社 (株)東海フォレスト は ロッジ経営 登山・アウトドア活動のサービス部門 20年前からそんな風になってる 奥の二軒小屋まで行く登山者は ダムへのクルマ停め置きではなく 山梨県へ下山ルートを取る者が多いこんなことを運転手のおじさんからマンツーマンで聞き取りながら あーここらのカラマツ まだ芽が出始めたとこやなー あーけどあのヤマザクラは満開キレーとか思いつつ 40分ほども走ると・・・見えてきました 二件小屋ロッジ♪到着は9じ40分 チェックインだけしてさあ 登るぞー♪ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーさ 明日は 初日の歩行訓練転付峠:でんつくとうげ への登りーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー★励ましのクリックのおかげで♪ はい ちゃんと届いてることカクニンできました ここ のブログを読むこと 楽しんでくださってる♪ ええ 一度聞いてみたかったんです ありがとうございました♪ 山のこと イベント 子育て やきもんのこと 自然とヒト・・・ 書きながら 考えをまとめていきます これからも読んでください♪ご愛顧感謝「今日のハプー」♪クリックお願いねー♪ ↓ 山登りの実際について去年書いた 八ヶ岳なかなか力作 秋の山 ぼくの入浴シーンも ウフッ はーとまーく♪よかったらそっちも読んでくださいませ♪ ↓八ヶ岳
2007年05月11日
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とーっても忙しいんで 再放送ちょっと 加筆してます 去年の春の文 ↓ぼくはべつにやきもん屋になろうとしてやきもん屋になったわけやないんです美術系の短大で油絵描いて2年したら就職京焼きの窯元に絵付師として就職それから早30年ほど・・・村上龍の「13歳のハローワーク」の前書にこんなことが↓書いてある 仕事・職業こそが 現実という巨大な世界の「入り口」 仕事・職業を通して世界を見たり感じたり考えたり 対処できるようになる つまり 自分の仕事・職業によって 世界と接している うん なっとくですやきものの世界の生産の現場にずーっといることで世界と出会って来た実感が ぼくにはあります過去と現在 そして未来もふくめて日本とも中国とも韓国とも欧米とも出会ってきたしさまざまな具体的なヒトとも出会い 自分とも出会う やきもんを通して出会う「世界」→得がたい幸福でしたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー エッチなことは好きですか?日記を読みに来てくださってるみなさま ありがとー♪ 毎日だいたい200~300人ほどの読み手がきてくださる♪陶芸・やきもんに関わってる方々も多いと思います。プロの陶芸家・アマチュア陶芸に熱中してる方・プロを目指してる方・・・ どうでしょう・・・ エッチなことは好きですか? エッチなことが好きなヒトは陶芸家に向いてる らしーいや ぼくがそー思うんやなしに 村上龍がそーゆーんですよ 本のなかで・・・「13歳のハローワーク」村上龍 著ヒジョーに興味深い本 ちょっと紹介してみますますね♪そのなかで 陶芸関連の職業について・・・・アートと表現に関する職業 絵やデザインが好き P102って項があって画家や版画家 イラストレーター・・・ときて人形作家/刺青師のつぎに絵付師の項目がありますそれとは別にP331から20ページほどをつかって「日本の伝統工芸」染織・陶芸・漆器・木工芸・竹工芸・・・が紹介されてます・・・なかなかおもしろく要点をついたいい伝統工芸の紹介かつ職業ガイダンスになってます この本は売れたし まだ今も 売れてる・・・ 中学・高校の図書館にも置いてある・・・ そしてこの本のP374に「エッチなことが好き」とゆー項があって エッチなことが好きな子は想像力が豊かな場合が多い そういう子は表現することに向いてることがある だが当たり前のことだがエッチなことが好きというだけでは 小説家や芸術家や職人やデザイナーにはなれない精神科医・臨床心理士・心療内科医 小説家・芸術家 画家・音楽家など デザイナー・営業・医師とならんで 職人 陶芸家などと書いたはるんですねぇ・・・・エッチなことが好きやと 陶芸家に向いてるんかなぁ?ホントかなぁ?・・・・自分の胸に手をおいて考えてみると・・・・ 当たってる・・・かなぁ????? みなさんは・・・どうですか???===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 3位かな?あ 本店サイトには 前に書いた土岐美濃焼陶器祭りとか土岐と多治見とかありますんで そっちものぞいてネ やきもん産地のフンイキがよく出てると思うー♪ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年04月26日
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あー組内の班に おとむらいができましたなので今日明日 夫婦2人お手伝いに出ますなので再放送↓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーービデオで『初恋のきた道』を見ました。中国映画 チャンイーモウ監督山の村の小学校の先生に恋をする少女。小学校の建物は村のオトコがみんなで建てる。その昼ごはんは各戸から鉢に入れ茶碗でフタをして届ける。建築の仕事場にオンナは近付けない。少女の届ける昼ごはんは大ぶりの染め付けの鉢。若いその先生がその鉢をえらんでくれることをひたすら祈る。ひとときの別れがおとずれる、後を追い丘を走る少女。キノコ餃子を手渡そうとしてその鉢を割ってしまう。村にせともの修理がやってくる。天びん棒に荷をかつぎ「せともののしゅーりー」と呼ばわる。少女の母が呼び入れる。「これなら修理するより買ったほうが安いよ」「娘のためなのさ その鉢を使った人が娘の心を持って行ってしまった せめてもの思い出にお椀だけでも残してやろうと」「なるほどな だったらしっかりと修理しておこう きれいな思い出になるようにな」3つに割れた鉢を独楽紐で縛り、ちいさな弓の弦を巻き付けたキリを膝のうえで使う、ヤットコで鎹(かすがい)を整え、鉢に打ち込んで行く・・・・こんなふうにしたんやぁー ↓ 東京国立博物館所蔵 青磁輪花碗 龍泉窯 銘 馬蝗絆(ばこうはん)重文 宗代 馬蝗は大きな蝗(いなご)の意。絆はきずな。日本に伝わる青磁茶碗を代表する優品である。江戸時代の儒学者,伊藤東涯が記した『馬蝗絆茶甌記』によると,かつて室町時代の将軍足利義政がこの茶碗を所持していたおり,ひび割れが生じたため,代わるものを中国に求めたところ,明時代の中国にはもはやそのようなものはなく,鉄の鎹でひび割れを止めて送り返してきたという。この鎹を大きな蝗に見立てて,馬蝗絆と名づけられた。☆画像と説明文は国立東京博物館からいただきました。 無断借用です。 ========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年04月10日
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昨 夜半 春雷 驟雨はい 今日から 卯月4月春本番 5時で もう夜が 明け始める新年度 のスタートの日 雨あがり 鳥の声 2007年の 四分の一が すでに終わった再放送↓フラガール7 これが最終ーーーーーーーーーーーーーーーーーーフラガールを見た良かったすごく良かった いろーんなリアル=現実をちゃんと ふくんでいてカナシさも クルシさも ヤルセない宿命も踊ることで 突き抜けてゆく 努力する ケナゲで 強く弱い 少女たちぼくは頭人間なんで 踊れないだから踊れるヒト を尊敬するココロを開いて音を聞きカラダを使って表現するヒト を尊敬する踊れるヒトを見ると うらやましい 前にいるフラガール=南海キャンディーズの静ちゃん には女優としての出演依頼 オファーが殺到してるらしー いつか 常磐ハワイアンセンター に行ってみたいなぁ いまは スパリゾートハワイアンズ が正式名称です東北福島に ハワイ を炭鉱の炭鉱による炭鉱のためのハワイ にする奇想天外な発想 ものすごい大胆な 発想やなー ・・・・・やればできるものなんや・・・・・ひとりひとりは弱くってちっぽけでも・・・・・強く願うものとそれに歩をあわすもの・・・・・さいしょは不確かな足取りであっても・・・・・チームをつくって心をあわせ ・・・・・仲間とともに歩き続ける 継続は力なり 念願は人格を形成する 夢はいつか叶う・・・・・=======================================こないだ 九州で行った小石原おっちゃん窯=国光窯の高倉国光さんの言葉 世ん中ん人がやきもんを 必要とせんごとなっととかも 一時代が終ったごと思ーちょる こいからは ほんなごつ やきもん好きなモンだけが 焼いていくっとよ福島にハワイができたころ炭鉱夫のムスメたちが フラガールになったころ昭和40年ころ やきものの世界はおおきく変わった共同で焼く薪の窯 こまかく特化した分業制 町全体にやきものの仕事 チームの力で焼く産地の現場そこに ガス窯と電気窯が到来なので パーソナルに好き勝手にお手軽に 自由に やきものを 焼く時代が来たそれから40年ほどこれからもきっと それぞれが それぞれに 焼いてゆく のやろなぁ これからの 手作りのやきもん陶芸家 やきもん屋 アマチュア セミプロ プロ 美大出 弟子経験者 現場叩き上げ 男 女 教室上がり 主婦作家 専業 掛け持ち若い者 若くない者 それぞれが それぞれにひとりひとりは弱くちっぽけ時代の変化 世の中の変化大きな流れのなかで なんとかチームとして心をあわせることが できればなぁ仲間としていっしょに歩いていくことが できればなぁ時代の変化でヒトとヒトのつながり方が変わった以上もうそれは願ってもかなわないことなんやろーなぁバラバラに切りほぐされた個人たちがそれぞれの現場で それぞれに歩く しかないきっとそーゆーことやろと 思うしかたない========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年04月01日
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はい 3月おわりはい 再放送です すこし加筆 ↓^-----------------フラガールを見た良かった すごく良かった映画の中で 早苗 って娘は 人員整理=クビを切られた父とともに福島の常磐炭鉱から 北海道の夕張炭鉱に引っ越す映画を離れて・・・夕張で中学校の先生をしていた友人から聞いた 炭鉱:やま のリアルな世界のことを書きます 一山一家:いちざんいっか昭和40年の常磐炭鉱を描いたフラガールその映画のなかで掛かっていた額に墨書された 言葉炭鉱=山 ではたらくすべての者が ひとつの 家族であるとゆー標語=スローガン=気持ち生死 労働 文化 喜びも悲しみもひとつの 家族として担う 運命共同体としての炭鉱:やま男は 地下何百メートルの坑道に行って命の危険を賭して 石炭を掘る 高温多湿の劣悪な労働環境 力のいる仕事 根性のいる仕事 勇気のいる仕事男はかぎりなく 男らしく なっていくときには 過剰に男らしく なっていく のかも気も荒くないと やっていけないやろうなぁ・・・・ 昭和40年 実際のフラガールたちを育てた 常磐音楽舞踊学校方針は 常磐を 東北の宝塚に 基礎はバレエから叩き込む 人としての常識を持った舞台人を育てる ダンス 一般常識 行儀 メーキャップ・・・・強固に保守的な男権主義的な炭鉱:やま 過剰に男らしい男たちの町で 30代の女教師は奮闘する=======================1984年夏 農作業でオカネ稼ぐために富良野で2ヶ月暮らした そのときのことを書いたのが北の国から1984 ぼくは2ヶ月の間 人参を洗う工場で働いてたいっしょに働いてた地元のヒト 靖っちゃんは 旭川教育大の大学生そのあと彼は中学校の先生になって 最初は僻地校に赴任全校生徒が10数人の小規模校に赴任 そのあと・・・夕張の中学校に 1990年ころの夕張その中学校はとても荒れていて靖っちゃんはその困難校で数年を過ごしたかつて炭鉱:やまとして栄えた町寂れていかざるをえない宿命の町過剰に男らしい男たちの作る 独特の文化その現実=リアルのほんのすこしを 聞いた・・・・ 炭鉱:やま 一山一家の独特 すべてが 会社の丸抱え で暮らせてしまう 会社の作った 炭住:炭鉱住宅に低家賃で住み 会社の作った 仕事:命を賭けて石炭を堀り 会社の作った 風呂で汗を流し 会社の作った 病院で病気と怪我を癒し 会社の作った スーパーで買い物をし すべてがツケで支払われる 石炭を掘れば その労働で返せる 過剰に男らしい 男らしすぎる 暮らしの在り様 モンダイはすべて先送りする 無計画に 生きる 生きていい 命をかける力仕事 危険な労働の対価として 労働運動が獲得した 手厚い福利厚生と社会保障が ヒトをスポイルする 場合もある そんな男親に支配される 家 そんな男親が家長として仕切る 家 そんな男親は教育の価値を信じてない そこで育った子どもたちのモラルと行儀 そんな中学校で先生として働くことの困難さ そのころの夕張の町 みんなが苦しんでいたそう夕張の炭鉱:やまのオンナたちは 春からずっと 朝はやく迎えのバスに乗って富良野や美瑛や何十キロも離れた 大農法の農場に行って 農作業の出面(でめー)さん で稼ぐ 一つの丘全部の 人参の間引きをし 除草をし 収穫をし向こうにも丘 そのまた向こうにも丘 春から秋へタマネギジャガイモアスパラビート・ 仕事は続くもうずーっと前から富良野あたりの北海道の 大農法の農作業をささえてるのは閉山した炭鉱:やま=夕張のオンナたちなんでしょう・・・ オヤジは きっと 失業保険をもらって 朝からずっとパチンコ・・・・ 一家の 主たる家計を支える 男の仕事 時代と社会の変化 翻弄される 男と女と子ども ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーヒトはそれぞれ その属する集団から 学び生きるその集団の文化 の中で学び生きる そして伝える立ち居ふるまい 何を信じ何を信じないか=価値 それらすべてが 文化========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月31日
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はあ 3月 あと2日はあ 光陰 矢の如し日々は飛び去る しかして浮世は 夢のごとし去年10/14の文 ↓ーーーーーーーーーーーーーーーフラガールを見た良かったちかく2000人の解雇がある と耳打ちすごく良かった3丁目の夕日 スイングガールズ も良かったけれどそれは 映画とゆー虚構のなかでの メルヘンとロマンフラガールは リアルをベースにした女たちのプロジェクトX寂れていく炭鉱のリアル=現実労使の対立 組合指導の闘争に残るもの去るもの 男たち女たちの葛藤父と娘 母と娘 それぞれの宿命親と子 世代間の対立と葛藤強固に男権主義的な男たちの世界炭鉱:やまがかかえていたリアルがちゃんと 織り込まれていながらそれを描いてエンターテイメントとして笑い 泣け 共感できる娯楽映画 に仕上げたもともとの事実 が もともと大胆 温泉の熱で 東北にハワイリゾートを創る それで炭鉱従業員から 600人の雇用を生み出すもともとの発想が大胆 40年前にこれを実行する蛮勇年間 数億円を投じて 捨て去る大量の熱水=温泉1トンの石炭を掘るために 捨てる40トンの温泉それを有効利用して 雪の福島にハワイを とゆー発想・・・・・やればできるものなんや・・・・・ひとりひとりは弱くってちっぽけでも・・・・・強く願うものとそれに歩をあわすもの・・・・・さいしょは不確かな足取りであっても・・・・・チームをつくって心をあわせ ・・・・・仲間とともに歩き続ける 継続は力なり 念願は人格を形成する 夢はいつか叶う・・・・・ いつか 常磐ハワイアンセンター に行ってみたいなぁ いまは スパリゾートハワイアンズ が正式名称です==============================うちのオヤジ 関西電力の現場の所長でしたからテレビとかも 世間のウチよりも早く家にあった電気こたつ 電気洗濯機 電気冷蔵庫 電気炊飯器ちろりん村とくるみの木 を見てた夕方 布目川水力発電所の社宅 7時からはそのまま NHKのニュースあのころはよく 炭鉱での落盤事故がトップに翌日の新聞も それが大見出しで報道されてた子供心に 大勢の人が死んだんやと 怖いなぁとぼくが保育園のころのニュースの記憶 1962年 昭和37年ころのこと京都で育ったぼくには 炭鉱って遠い世界つぎに炭鉱:やま に ふれたのが「青春の門」五木寛之の小説の映画化 田中健 と 大竹しのぶ伸介しゃん と オリエ筑豊炭鉱 田川 川筋気質 ボタ山ヤクザが仕切る旧弊な労働市場と その近代化そこから飛翔する若者 東京の大学へ行く伸介とりのこされる カワイソウなオリエ・・・そんなことが描かれてたよーに思う・・・ でもー 炭鉱:ヤマの世界って 男はいばってたみたいですねーきのう書いたハラダさんのオトーサンと話してたら オンナが うんぬんかんぬん・・・と話さはるこの オンナ とゆーのは 自分の妻 を指す言葉でねー ちょっとびっくりした ぼくなんかの短大時分は第何次かのフェミニズムの台頭期でねー そーゆー風潮の中で 強い女の子たちの 爪とぎ台にされてましたんでねーまー 地下何百メートルに行って 高温多湿の劣悪な労働環境で 命をかけて黒いダイヤ:石炭を掘る 力のいる仕事 根性の要る仕事 勇気のいる仕事まー 気も荒くないと できん仕事やろなー 男はどんどん限りなく 男らしく なるんやろなー=====================あしたはねー 炭鉱:やま のマイナス面を書きます========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月30日
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いやあー あったかくなったなーツバメも 飛んでるしウグイス さえずってるもうすぐ サクラもさくやろー4月4日は京都へ行く レンのライブ2回目まあ 哲学の道あたりで 花見しよーかなー4月6~8日 岸和田城 サクラどうやろ?きっと 花びら流れ ふりかかる 陶器祭りまあ売り上げよりも 春の日を 味わうためになので 製作急ピッチなので 再放送↓ 去年の10/13の分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー フラガールを見た良かったすごく 良かった画像の上は フラガール 劇中の画像画像の下は 昭和40年ころ常磐炭鉱の実写坑道へのトロッコ 炭住:炭鉱住宅 坑夫が汗を流す風呂かつて長崎の炭鉱で働いていた ハラダさんと1983年ころ 京都の窯元で 窯出し窯詰めしてました♪====================ぼくは美術の短大の洋画科 京都精華短大 いまは4年生大学学校の就職課の掲示板に 絵付け師募集の求人票その年は 嵯峨美や芸短など ほかの美術短大からその窯元に行ったのは5人 毎年それくらい新人が入る2人は男 あと3人は女 おんなし洋画科からのハラダリョウコさんもいた彼女は兵庫県芦屋市から 京都の短大に通ってた東福寺の近くのその窯元に勤めてからは 近くに下宿4年ほどたって そのハラダリョウコさんのお父さんがその窯元に勤めはることになって ぼくが先輩として(当時25)いっしょに 窯詰め窯出し 釉薬:くすり掛け など裏場仕事した若造のボクは 九州のコトバで話す ハラダさんと いろんなハナシをした お父さんのハラダさんの働いてきた道筋は まさしく時代の変化と流れに翻弄された 労働の歴史==========================宮崎県の農家の次男か3男 中学を出て就職のときに 学校の斡旋で 大阪の松下電気に決まりかけてた父親が猛反対 松下電気て ナショナルでしょ? いまのパナソニック 伸び盛りの優良企業やのに・・・ なんでオヤジさんは 反対しゃはったんですか? オヤジん頭ん中にゃ 戦後すぐん記憶が 詰まってたごたぁ・・・遠い大阪ん街がたで 工場勤務やらしょったら 寮に入るとでしょ 寮やら食料事情 悪かごたぁ 思いこんでから 結核ばかかる ちゅーてから 猛反対しょったと そげん時代や もーなかゆーても 聞かんオヤジやったとよ なら 好きんする もっと危なかトコ 行っちゃる! てから・・・ ハラダさんは 家を飛び出して親戚頼って まだ石炭が 黒いダイヤモンド だった時代の長崎の炭鉱:ヤマへ切り羽やったそー坑道を切り開いていく 最前線の仕事発破:はっぱ=ダイナマイト を仕掛ける仕事危険手当ついて 現代のオカネで 月100万くらい稼いでたそー あー そのオカネで 芦屋に家買ったんですね! いやぁ 違うと・・・ そん時 稼いだカネは みーんな呑んでしもーたとよ それが 炭鉱:ヤマの男の 気風ばい へぇーっ!・・・・・・ そやけど あれでしょ あとでエネルギー革命で 人員削減 労使対立 全学連とか労組のオーエン戦闘部隊 九州に続々 とかあって 三井三池炭鉱労働争議のときとか 機動隊と実力対決ってことで ツルハシふりまわしたりしたんやないですか なーも あげんこつやんのは バカタレたい 国が決めとるこつ 変えれるわけなかとー もう石炭は無理かと はっきりわかっちょったとー そんでわしは 会社ん世話で 神戸に来たとーハラダさんはそのあと 神戸の鉄の会社 に就職 JIS規格の 鉄の焼き入れ技術 を持つ鉄の会社 大阪万博のパビリオン建築急務 その巨大な鉄の構造材の 焼き入れ 新幹線の車輪の 焼き入れ 原子力発電所の巨大なパイプの 焼き入れさまざまなカタチの 真っ赤に焼けた巨大な鉄の部品を吊り上げる そのために 重心を崩さないように 何本ものチェーンを掛けるのが ハラダさんの仕事チェーンで吊り上げたら 一定程度に熱した油のタンクに浸す油のタンクに入れた途端 チョー巨大な炎が立ちのぼるらしーこーやって 鉄に焼きを入れる 男の仕事やなー♪ さまざまなカカチの重量物を バランスよく吊り上げるためにチェーンをかける技術を 玉掛け ってゆー玉掛け は国家試験 重心計算して重量計算して運動物理計算してものすごむずかしい 国家試験認定の技術 ハラダさん 玉掛けの資格とらはったんですかー いやぁ とっちょらん あげな免許は 課長とか主任がとっとらすけん ばってん 現場はケーケンでやっととよー ふーん!で 石炭=炭鉱:ヤマから 鉄その鉄の会社で働いて 芦屋(庶民的なほーの芦屋)に家を持ち子どもを育て上げ ムスメは京都の美術短大を卒業した・・・とと 鉄がもーダメになったわけで・・・人員整理で もーすこしは働いていきたい と ムスメが絵付けしてる 京焼の窯元はケーキいいってことで ぼくといっしょに 窯詰め窯出し することになった で 毎日ウォークマンで演歌を聴きながら 新快速で 芦屋から京都まで 通勤することになった と 「重厚長大から軽薄短小の時代へ」 このころ竹村健一がよーゆーてたなぁ・・・・ハラダさんの労働の道筋はまさしく男らしい男の労働の現場 炭鉱:やまから鉄へ石炭だって鉄を作るために掘ってたんやもんなー鉄は国家なり って時代が かつてはあった鉄で 船を造り 街を作り ビルを作り クルマを作り・・・高度経済成長時代って そーゆーこと 鉄の生産量がケーキと国民総生産のバローメーターやった時代 科学と工業の発展ははかがやかしい未来の種 それが時代の気分それが起こした負のツケ 公害 環境破壊・・・いつしか 急速に流れが変わった 時代の変化「モーレツからビューティフルへ」は大阪万博のころかなぁこのころ戦後第何次かの陶芸ブーム民芸ブームがあったらしー京都の窯元 ウケに入った 電気窯ガス窯への転換は少し前すでにだから窯元の次男も3男もやきもの屋になり 陶芸家になり・・・ たーくさんの マンガ好きが 美大に行く時代が来た・・・ぼくらがそんな ムスメやムスコ 就職先に 絵付け師 石炭や鉄よりも 美術的な要素のある=付加価値の高い 京焼=陶芸が もてはやされる時代が そのとき来てた オトーサンのハラダさんとぼくは そんな時代の場を いっしょにハタライてたんやなぁ・・・美大出の ムスムたちやムスコたちがはたらいてる窯元そーいった若者 とそれ以前の 最後の徒弟制をくぐったほんとの たたき上げの職人 とが混在してるそれが1977~84年ころの京焼の現場でした=============================ハラダさんのムスメ=リョウコさんはその窯元の先輩絵付け師と結婚し自分も焼き物を焼き もうすでに 2人の子どもを育て上げたこの春先に電話があって だいぶ前に 宮崎に帰った両親母に痴呆の症状 介護のため単身宮崎へ と ああ 個人のライフサイクルとしては そんな時代がきたんやなぁ==============================好むと好まざるとに関わらずぼくらは 時代の子 であると同時に 次の時代の親 でもある何を変え 何を変えず 次の世代に 何を手渡すのかそれぞれが それぞれの 場で 誠実に===================================================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月29日
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きのうの朝=3/27 歩いたらもう ツバメがいっぱい 飛んでた!きのうの晩 みんなで フラガール を見た去年の文 に 加筆しました♪ ↓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー カミさんもフラガールを見てきた 良かった すごく良かった と感想 昭和40年ころの まだまずしかった日本 ほどよく まずしかったころの日本 ぼくは8才 カミさんは2才のころ カミさんはもっとも南 千葉よりの茨城 常磐炭鉱は 茨城と福島の県境の炭鉱 ボクと楽:3男の耳には フラガールで話されてるコトバ 茨城のカミさんのウチで話されてるコトバと おなしに聞こえるけど やっぱりぜんぜんちがうそーです それどころか 新利根のコトバと 結城はちがうし 益子もちがうし 大洗もちがうし・・・ ディープ方言の世界=================日本の人口 江戸おわり 3000万人 昭和20年 7000万人 昭和40年 9800万人 そのあとで 一億2000万人に人口の増加は・・・・国力が付く 生産力があがる みんなが食えること と医療が発達することで そーなる 衛生環境 病院や医院そのインフラ=社会資本の整備がすすむ そのインフラの都市と農村の格差が縮小する ことでつまりは 乳幼児の死亡率が 下がることで 人口は増え平均寿命が延びて行く 昭和40年の平均寿命 男 67.24才 女 72.94才フラガールの主人公=キミコの兄(トヨエツ)の名前は 洋次郎 きっと最初の兄は育たなかったキミコは高校に行ってるが キミコをフラガールにさそった サナエ は行っていない この年の全国平均の高校進学率 70% 男子と女子 農村と都市 富と貧 進学するしない 格差は大きかったはず昭和40年は 1965年東京オリンピックがあり 1970年 大阪万博があり 高度経済成長は1970年代のどこかまで続く・・・・ 豊かな国 豊かすぎる国は 医療技術を高めて 老人も 死なない 世界一の長寿国ができた ======================石炭とのかかわり ってゆーと京都府の郡部の小1と 京都市内の小4まで石炭ストーブやったなぁ 昭和42年ころかぁストーブ当番は 石炭置き場に行って 自分の組の分を持ち帰るブリキでできた石炭用バケツに入ってる片側が広口のクチバシみたいになってるとても重い 二人で両脇から持ち手をにぎって運ぶ新聞を燃やして 焚き付ける これは用務員さんの仕事けど 火が消えてしまうこともある5年になって奈良の小学校に転校したら ガスストーブやった昭和38年生まれのカミさん 石炭ストーブは知らないそう===================長崎の炭鉱で働いてたヒトと 京都の窯元でいっしょに働いたことがあるそのハナシを明日♪========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月28日
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ひゃぁー 5じはんでもう明るい♪ひゃぁー ストーブなしでヘーキ♪ひゃぁー あと5日で3月おわり!はいー きょうも再放送 ↓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーフラガール 良かったすごく良かったけなげで 強い 努力する 少女たち===============おととい 3男の楽(小5)と 近江八幡までフラガールを 見に行ったとても天気のイイ日で キラキラの陽射しと 楽がクルマの窓から外を見てゆー この家のまわりの植木 すごくピシッとしたカタチでキレー なんでこんなんになんの? 植木屋さんが ちゃんと刈るからや こーゆー形にしよーと決めて 葉っぱが出っぱって伸びたら きれいに刈る 好き勝手の伸びかけたら そのカタチに収まるゆーに 刈る 何べんも何べんも そーゆー風に 刈ってると だんだん そのカタチの中に 葉っぱが詰まってくる それであんなにクッキリした 生垣になるんやで かーさんのお父さん 茨城のオジイチャンの仕事やん オジイチャンは 植木屋さん庭師さんやろ あ そーなん! そやから茨城のオジーチャンとこ ウラの畑には あんなに いーっぱいの木がうえてあるんかぁ! そやろ こんな木がほしーて云われたら 植えられるよーに あんなにいろーんな木を 育ててはるんやで 茨城のオジイチャンとこはなー 農地解放で土地とられてなーほんで国の考える農政=農業政策の無策にふりまわされてなー 苦労しゃはったんやでー 茨城は東京にちかいやろー 利根川こえたら千葉 その向こうは東京 オジイチャンとこはいちばん南の茨城や戦後すぐのころは 都市近郊での小規模酪農が奨励されててなー5頭くらいの乳牛を飼いはじめはった 牛乳を生産ってわけ そやからカーサンのさいしょの記憶= 5才くらいの記憶は 子牛の手綱をひっぱって草を食べさしてたこと そーゆーたはったやろそやけど小規模酪農ってうまくいかへんよーなってオジイチャンは いろいろ工場につとめたり仕事 変わらはってなーなんかなー 運がいいとか 悪いとかそーゆーことって あるんやなーマジメにがんばってても ウマクいかないってこともなーほんで 競艇とか ま そーゆーこともしたくなったりするし東京にいちばん近い茨城のへんってゴルフ場がいっぱいあるんやなーそこにお金持ちがゴルフしにくるそのコースの攻め方 クラブ=道具を運んだりそれがキャディーさんの仕事 だいたい女のヒトの仕事茨城のオバアチャンがキャディーさんして生活を支えたはったんやて そーすると東京のヒトが 子どもさんにコレどーぞ ってゆーて東京のお菓子とかくれはるやろ おいしい外国のチョコレートとか ちっちゃいこどものころの かーさんもミノルおじさんもスミコおばちゃんもそれがすごーく楽しみで 喜んでたら・・・オトーサン=茨城のオジイチャンとしてはおもしろくない わけや・・・いろいろと おもしろくない・・・そーゆーもんなんや・・・ほんで 東京のゴルフのヒトがキャディさんゴメン きょうはオミヤゲが無いだからこのチップで こどもさんたちになにか・・・ってお金をもろたりすることもあったんやて・・・子どもはお菓子ないんで ガッカリオトーサンは 水商売みたいなマネして と・・・ケンカがな・・・ ま 絶えない・・・ と・・・ま カーサンが中学生のころらしー・・・男と女 夫と妻 父と母 親と子・・・家=家族ってゆーのは フシギなもんでなぁ・・・あったかくもあり 居心地よくもありしばりつけられたりもし うっとうしくもあり・・・変な やっかいなもん なんやなぁ・・・それがやなー おまえらの大オジイチャンキクオおじいちゃん がそばに住んだはるやろあのおじいちゃんが茨城のおじいちゃんのオトーサンやガッコの先生したり 会社ではたらいたり柿とか栗とか作ったり ほんで若いころから植木いじりが好きやし 上手かったんやて ほんでいつの間にか近所のヒトに頼まれて 庭の植木を刈ったり手入れしたり頼まれてやってる仕事が評判になってな キクオおじいちゃんは プロにならはったそのキクオおじいちゃんを 手伝って 習って茨城のオジーちゃんも いつの間にかプロにならはったんや カーサンが高校出て茨城の結城紬の織元に 住み込みで修行しだしたころから 植木屋さんにならはったんやてーめづらしーことやで これはー幸運なことやで これはー植木屋・庭師って ムカシのふつーは 若いころからそーゆー造園業の親方のとこに入って 徒弟制ってゆーんやけどま 下働き 行儀ふくめて アタマ叩かれながら 覚えるもんやけどなそやからオジーチャンは おそくから庭師になった植木 生きてる植物 それを 育て 整える仕事茨城のおじーちゃんは その仕事に 向いてたしその仕事を 喜びとしゃはったんやなーまじめで ていねい な仕事 おじーちゃんにやってもらったお家のヒトのそーゆー評判が つぎの仕事をつないでくれて茨城のオジーチャンは 植木屋さん 庭師さんに ならはったんやで========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月27日
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はい マンモスを捕りにいったマリンメッセええ ことしの売り上げは51でしたまあ 肉付きのいいマンモスといえる 40→43→13(地震)→50→51と推移 実行委員会からのアンケートに次回のイベントへの企画案提案・聞き取りの欄があり 家庭の食=食育 とゆー切り口での講演や展示する キッズルーム開設などの対応と 幼稚園・保育園を 通じての 若いオカーサンたちの動員で新規開拓すると 書き込んで提出しておきました おちいさい子たちがいるオカーサンが もっとも入りにくいお店が 陶磁器小売店やから とーーーーーーーーきのう朝 帰りました荷をおろして 1日休養カミさんと リツとガクはスケートにいった ので小倉のコンビにで買った フラガールのDVDを ひとりでゆっくりと 見た 名作やなぁ きょねん映画館で見たときの文 再放送しますねー ↓ーーーーーーーーーフラガール 良かったすごく 良かった・・・・一山一家:いちざんいっか閉山してゆく炭鉱:やま石炭から石油へのエネルギー転換 人員削減をはかる会社 労使の対立福島県いわき市の常磐炭鉱昭和40年 東京オリンピックのころぼく8才のころ むかし 日本がまだ貧しかった ムカシあらたな雇用創出をめざして東北に常磐ハワイアンセンターものすごい発想の転換踊るのも 炭鉱夫の娘・・・演奏するのもツルハシを楽器に持ち替えた元炭鉱夫・・・3丁目の夕日 スイングガールズ が好きなヒトは 見たら感動すると思います♪ そして言葉 方言が北茨城 福島の言葉 この言葉 関西人のぼくの耳には 義理の父 義理の母の話す言葉と同じ もっとも千葉よりの茨城県新利根の言葉と同じ カミさんのオトーサンオカーサンの話す言葉と同じ いっしょにいった3男の楽:がくにもそう聞こえたそー 女の人も オレ とゆー 最初 娘さんをください と行った時は かなり おどろいた・・・・明日から その辺のことを 書こー・・・・ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーま 去年の9月公開のこの フラガールま 賞を総なめ キネマ旬報の読者投票では1位ま むべなるかな ですわーま DVD出るの 心待ちにしてたー♪さ 次は4月6~8日 岸和田城である 泉州陶器まつりさ 店およびネットからの個人注文もたまってるー 仕事再開♪========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月26日
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マ:はーいっ! マージでぇ~す!ジ:ジャーガルでぇ~す! ふたりあわせてネンド漫才~!マ:キミ やきもんってどーやって始まったか 知ってるか?ジ:いや 知らんマ:ネトネトした土があるやろ いろんなとこに それが粘土やジ:うんうん ダンゴとか作ってあそぶわなーマ:その上を歩いたら足アトがつくやろ、ジ:つくつくマ:ほんで乾いたら足アトのついたまんま固まってるやんジ:そやねー乾いたらかたまってるマ:そやけど雨が降ったら溶けてしまうやろジ:そら雨ふったらもとの平らな地面にもどってまうわーマ:ところが大昔人間にもまだなっていない猿みたいな人が・・・ジ;ナンヤネンそれ 猿か人間かどっちやねんっ!マ:ま大昔の人間ちゅーことや その猿みたいなヤツが粘土足アトのついた地面の上で焚き火しよったんやぁジ:火は火山から持ってきょったんやな ま せいだい焚き火したらええがな 寒かったンやろしマ:そしたらな 次に雨が降ったらこの焚き火のまわりの足アトだけは溶けんと 足アトのカタチが残ってて水がたまってたんやてージ:ほーマ:ほかとこは足アトもなくなってネトネトの平らな地面に戻ってんのに これを見た頭のカシコイ猿みたいな人ジ:ナンヤネンそれマ:大昔の人間ちゅーことやがな そいつが「これはこの土と火が関係ある!」ということで、 ネトネトの土をお皿とかにして焚き火の火の中に入れよったんやジ:それが『焼き物』のはじまりかい ほんまかいなマ:ほんまほんま ほんでこの時代は刃物とかないから、 木を削って形を作ることもできへんかったけど、 粘土はそこらにあってカンタンに形ができるやろ(可塑性が高い) 焼いた壷とかに食べ物を入れたり(貯蔵可能) それを火にかけてやわらかくして食べれるし(調理可能) それまで石とか葉っぱの上にのっけてたのに、 やきもんの器の上にのせれる(美麗)ジ:けっこうなこっちゃなーマ:な トクなことがいろいろあるわけやけど これはそれだけにとどまらへんのやなージ:そーかなー たとえばどー?マ:やきもんを作っている猿みたいな部族の仲間はとても強よなったワケやジ:そらまたなんで?マ:前は生で食べてたから消化も悪いしお腹こわして早よ死んでたのに 壷のなべで調理したら、バイキンも死ぬし、栄養の吸収もええやろ とても強くなって、隣りの部族をやっつけにいく体力がついたんやねジ:なるほどなるほど となりの部族をやっつける ドレイにする そいつら使役して 富を蓄積する 大国になる 世界制覇!マ:な やきもん焼く技術の あるなしで そこまで違ごてくる 勝ち組のアイテム やきもん! 人類の大発明=やきもん ちゅーわけや この やきもん 世界のいたる所で自然発生した と されてるんやけど・・・ジ:それどれくらい昔のこと?マ:世界でいちばんふるい土器は・・・ジ:いきなり学術的やなマ:12000年前のニッポン製!ジ:え~っ!ほんまかいや~~~~っ!マ:炭素年代測定でそーゆー結果やからまちがいないジ:そしたら中国わいマ:BC2000年 若いね アジア最古でも BC4750年 西アジアのハッスーナ遺跡出土 ジ:ほんまかいや~ ニッポンの縄文土器が世界でいちばん古いんかぁマ:そやからきっと 土器=やきもんを発明したんはニッポン人や 学者はそんなこと大胆にきめつけるワケにいかへんけどなジ:ほんでやな~ ニッポン人がやきもん好きなんはマ:そーゆーこと ダイジにせなあかんねー やきもん ニッポンのデントー やねんしジ:アホなことゆーてんと そろそろオレらも火ぃで焼いてもろて ヒトのくらしの役にたつ やきもんになろジ:そーしよー♪ そーしよー♪ーーーーーーーーーーーーーーーいま(5じ)から素焼 だして ちょい絵付けして釉薬かけて 本焼するー そのあときのう出たもんとか 仕分けして積み込みそれから108のカップを 水挽きして 3じはんが出発目標時間 ふー・・・・ ↑ よー仕事しまっしゃろ♪ 神戸からの船 6時半出港 明日朝6時半 新門司入港高速走って 博多マリンメッセ8時すぎ1日かけて搬入して展示 さあ売れるかな?数字の推移は 40→43→13→50→? ↑ 地震で中止 ほかの部族をやっつける ためやのーて ウチの家族をやしなう ために行くんですわー ぼくはこのほかに 米を買う方法を 知らんさかい♪準備万端で出かけるキブンは ワクワク♪男の仕事は マンモスを獲ってくることそのマンモスがこのごろ ごっつヤセてもーてて トホホそれでも基本的に 狩り に行くんはオモシロイー♪♪♪ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 3位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月13日
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はあー あと1日半で 福岡行き今日 素焼き兼上絵の窯 焚いて明日 それ絵付けして足して 本焼の窯をもう一窯カミさんに焚いてもろて 各地の店に送ってもらうー♪ なので今日も 再放送 ↓ ーーーーーーーーーーーーーーー やきもんのコト みんなでいっしょに 考えようっ!ハプーの 『おしえてやきものAtoZ』~~~~!さっそくイイ質問がよせられました。どこかのカズシ君からです。さっそくこたえていきましょう。質問1 ネンドをやくと、どうしてかたくなるんですか? ネンドじゃなくても、アルミナの こななんかをやいても、 どうしてかたくなるんですか?答え1 イイところに気がついたねぇカズシ君・・・ 君はなんねんせいかな? どうしてアルミナなんていう ムズカシイ言葉をしってるのかなー??? まあいいでしょ・・・ カズシ君わー 火でやけどしたことあるでしょ。 火はあついよねぇ。 あつい火がカラダにさわるとコワイでしょー カラダかたまっちゃいますよねー こわくって ネンドもいっしょなんだよー ネンドは、あつい火をあてられると ギュッとかたくなって、じぶんをまもろうとするんだよー やんきーのヒトが、根性焼きするとき 歯をくいしばって 手をギュッとにぎってがまんするのと同じことだよー 質問2 かんそうしたネンドは水にとけるのに、 ネンドをやくと、どうして水にとけなくなるんですか? がらすができるような、たかいおんどでやかなくても、 すやきの、ひくいおんどでやいた、 じょうもんしき土器なんかは、 どうしてなんぜん年も、 水にとけないんですか?答え2 すばらしいね、カズシ君っ! こどもとはおもえない論理のてんかいだね・・・ さあここで質問1のこたえを思いだしてごらん 質問2のこたえがかんたんにわかるよねー 答えは・・・ 『焼いたネンドは根性があるっ』 だねっ じょうもんしき土器はものすごく根性があるんだね じゅうぶんにヘッドがはれる「うつわ」だネっ! わかったかなカズシ君 みんなもハプーの『おしえてやきものAtoZ』のこと ほかのおともだちに おはなしして、 やきもののこと、みんなでかんがえようっ! ========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月12日
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きのう朝からがんばって 2じあがり彦根に 梅見 に行ったなかなか エエ風情の梅林そのあと モデルハウス見学会にいった現代=いまのお家がどんなんか勉強する 彦根のハウスビルダー ハナホームさんの見学会表札をお作りすることにもなったしねー♪ ヒトの暮らし って 衣 食 住住 住まい 家 家庭 住処:すみか それはベース=基地 ヒトの営みの基礎そこにくらし そこに隠れ そこでやすらぎ そこで和みくつろいで パワーを取り戻す場所そこに集い そこで睦み そこで食べ そこで排泄し そこで身を整え そこに眠る住まいは基地 基地で使う備品は イイ物であって欲しい で そこに コレ↓ 置いてきました♪ 双葉と鳥と雨 の文様の陶板時計 雨 うけて 双葉 スクスク キレーな花が咲くと イイな♪ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーはい 再放送 きのうのつづき2006 3/25の文↓ーーーーーーーーーーーーーーーーー 唐津から 有田へきのうはまず・・・ケズリは反時計まわり14代中里太郎右衛門先生の窯を訪ね 古くからの職人さん含め 働いてる人は12人 工房が唐津駅から歩いて7分の町中にあるんでびっくりつぎに・・・中里重利先生の三玄窯をお訪ねし・・・ 30年来の職人さん1人と若手絵付け2人 静かな山ふところ 唐津駅からクルマ10分 ぼくトコの隣町 日野でやったはる竹村嘉造さんは こちらで8年修行しゃはった・・・つぎに・・・展示室中里隆先生と太亀さんの隆太窯を訪ね・・・ じっさいに物を作るのは隆先生&太亀さんの2人だけ 作品の販売・管理担当に3人補助仕事1人 小さな谷川を挟んだ起伏の多い地形に 展示室・工房・土置き場・登り窯などなど点在 穴窯をちいさな登り窯に作り変えてるところやった ぼくが益子でご厄介になった坂田甚内先生は 隆先生と知遇があり・・・ 隆先生はアメリカで作陶中でご不在・・・------------------------------------------唐津について思うことぼくまちがってました 唐津は秀吉朝鮮出兵で渡来した陶工たちによって創始されたと思ってましたが古唐津または絵唐津といわれる鉄絵陶はそれ以前からあった 唐津市北波多にその古窯群存在これぼくの思い込みを修正します 1592年が文禄の役1597年が慶長の役 コレ2つあわせて韓国では壬申倭乱(倭:ウェは日本の蔑称)とゆー朝鮮からの陶工集団は古唐津に朝鮮唐津・斑唐津・粉引唐津やさまざまなバリエーションを加えていったんやろう・・・さらに奥地へ展開して武雄唐津を生み・・・その陶工集団の一部はさらに奥地へ南下して・・・有田まで行ったんやろなぁ・・・それにしても唐津はニッポンの端っこにあるごく小さなやきもの産地 現存する窯元の数20ほど・・・なのにこの知名度とブランド力・・・やっぱり「一楽二萩三唐津」←このキャッチコピーのチカラやなぁ茶陶としてはこのコトバが 命脈を今に 太く つないだ・・・中央・都・京都・家元・エスタブリッシュメント・・・との結びつき それを作り育てる政治力が不可欠・・・民間実用の道具としての唐津は産地生産力の拡大した一時期には唐津港からの海運流通によって販路をひろげ九州・山陰地方の市場をおさえたので・・・このエリアでは「やきもの」一般の総称として「瀬戸物」といわず「唐津物」と言ってた時期がある・・・販路開拓力と流通やなぁ・・・-------------------------------------------------まだ12時すぎ けっこう距離あるけど・・・有田までクルマで1時間20分足をのばして・ 工房は見学不可14代酒井田柿右衛門窯の展示室と古陶磁参考館 すんごい立派な茅葺の母屋 伝説の柿の木・・・ 参考館には柿右衛門の本歌とマイセン窯のコピーが並んでる・・・ 総合指定で重要無形文化財指定を受ける工房には 40人の職人さんが・・・またクルマで10分ほど走って つぎに・・・ 14代今泉今右衛門窯の展示室と美術館へ 車の往来頻繁な国道233沿いにあるんでびっくり 道をへだてて工房と展示室・美術館 ここらが鍋島藩御用の献上品を焼いていた有田赤絵町 総合指定で重要無形文化財指定を受ける工房には 40人の職人さんが・・・-----------------------------------伊万里・色鍋島について思うこと海を渡ってきた陶工集団 1592 1597 奥地へ奥地へ 有田皿山に磁器土脈発見 日本初の磁器誕生 1616年のこと有田で生産された品やけど伊万里港から出荷されたんで伊万里焼と・・・初期伊万里の誕生・・・ラフな染付けの荒っぽくオンモシロイ品・・・そこに中国の赤絵の技術が重なる・・・1640年代後半 アヘン戦争で景徳鎮の窯の生産力はげしく衰退・・・その代替を求められた有田 みごとにそれに応えた・・・有田には新技術としての赤絵がもたらされ・・・1650年ころには伊万里焼の磁器に赤絵五彩がほどこされ・・・ひとつの方向としては支配階級のタカラモノ=ステータスシンボルとして発展・・・色絵極上品は藩の総括管理のもとに保護され囲われる=色鍋島=今右衛門市場に出ない品 将軍家・諸大名への献上品・贈答品として管理生産もうひとつの方向としては伊万里港からの海運を通しての貿易輸出品オランダの「東インド会社」さかんにヨーロッパ王侯のもとに伊万里を運ぶ ドイツのマイセン窯 必死に柿右衛門をコピーあ これも王侯貴族 特権階級の珍奇なタカラモノかやっぱりステータスシンボルやなぁま もっと人の暮らしに近いものもあったはずやし・・・生産力うなぎのぼりに増大 わが世の春到来!1684 景徳鎮輸出再開!ひょえーんマズイー・・・負けるー・・・ってことで国内向け生産に方向転換→庶民も白い磁器でご飯食べれる時代に・・・おかげで他産地の陶器大打撃 陶器=土もの衰退磁器=石もの市場席捲 必死で技術盗んで磁器生産に鞍替え 京都も瀬戸も・・・今右衛門 柿右衛門 きっとトップの2大勢力として江戸・明治・昭和をしのぎを削って 競い合ったはず・・・宮内省御用 宮家御用 中央となった東京・・・ 薩長の新政府 あたらしいエスタブリッシュメント・・・どーワタリをつけて行かはったんやろぅ・・・政治力・・・この土地の人々みんなを食べさせてきた力・・・大前提は技術力・・・でもそれだけじゃ足らんはず・・・ それにしても これら2つの様式のデザイン成立時点からあたらしい・古臭くない・モダンな図案意匠=デザイン焼くとゆー技術の制約のゆえ 純化されるデザインほんの数色であらわす自然 徹底してシンボライズ=象徴化された自然・・・ーーーーーーーーーーーーーーーーと まー どちらのお家の展示室・参考館・美術館もよかったんですがあたらしいモンも見たいなー と今右衛門さんのトコ美術館から道路をわたったら向かいに・・・ あたらしいモンがっ!のぞくとココは絵の具屋さん! 辻絵具店 有田町赤絵町1-2-1 0955-42-3474 辻昇楽(つじしょうがく)さんは代々の家業としての上絵具調合=彩料技師でもあり・・・ 粋乎窯とゆー自身の工房で実作する磁器赤絵の作家でもあり・・・中に居るひとから さまざまに有田のハナシを聞かせていただけて・・・いやホントありがたいですわー・・・そーこーするうちに 夕方の船に乗るための出発リミット3じに門司出港は6じはん カーナビの予測では所要2時間20分 余裕をみるともう出んとマズイんで・・・シュッパーツ!ーーーーーーーーーーーーーーーはいオミヤゲは↓ 波戸岬の玄武岩 ここらは溶岩台地でね 波に侵食されてオモロイくぼみ波戸岬で見つけたハリセンボンの死骸 楽とか律に見せたろと思もて砂を洗い落とそーと思もて水かけたら→臭い臭い→もう捨てました唐津の先 呼子の くらげ岩のり と 鯨の軟骨の麹漬け東松浦半島では捕鯨がさかんやったんですおととい歩き回った海岸「七つ釜」はその見張り場所やったさらに↓ 右から 中里太郎右衛門窯の朝鮮唐津湯のみ ¥4000 箱書きは印刷 下部に鉄釉 口にワラ灰釉薬 このとけて流れた白がなんともアジワイあって ま 作ろと思もたらできるんですけどね・・・ 窯の仕事ですよ 先生の品ではないですよ♪ 粋乎窯 辻昇楽さん の赤絵磁器杯 ¥4000 単純明快隆太窯 中里太亀さんの皮鯨グイ呑 ¥5000 鯨の皮は黒い 口だけ鉄まいたさまが 皮鯨:かわくじらみたい 南蛮焼き〆にするか迷った 隆先生じゃないですよ 40才の太亀さん作酒器・グイ呑は茶道具なんで大きい湯飲みより高いこれ焼く側にとっては小さくって窯にいっぱい入ってネダンがとれる美味しいアイテムです♪=================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 3位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月11日
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あー あと4日こないだ6日に108作ったカップ とさきおととい7日に作った4種170点の品今日 素焼きして 明日かあさって 本焼きするなので 今日も 去年の 九州ベンキョー旅行の再放送です♪ことしは19日にマリンメッセのイベント終ったら去年のつづき=有田から波佐見 三川内 へと足をのばす 地図は現地ではない ので現場に行くことがダイジ以下2006 3/24の日記↓======================= まず 唐津城 海のすぐ側 西と東に白砂青松の浜をつらねる 舞鶴城唐津と唐津焼のよってきたるところ その歴史が5階までの展示で ザクッ と学べる唐津城に来た感想を俳句にして投句してくださいとの趣向ぼくも2句発句してみた 城のぼり 陶匠(すえたくみ)来し 海はるか 陶匠 四百年を 守りし火1592 1597 文禄・慶長の役秀吉の朝鮮出兵はこの地から 連れてこられた朝鮮陶工の技術が 日本のやきものを 格段に高めたアジア何千年 生き死にしてきた 無名陶工が 作り上げた技術 その恩につらなってある自分唐津湾の先は 玄界灘 その先に 東シナ海天守閣から見える・・・ 虹の松原 5キロつづく 黒松の防風林その浜によせる波 飽かずながめる波の白 砂の白 海の蒼 空の碧 松の緑 春の日差し 心がほぐれていく打ち寄せられた貝 窯詰めにつかう赤貝大量にもっと海を見たくなり 東松浦半島突端 呼子の 七つ釜へ溶岩台地 玄武岩柱状節理の海岸美自然の造形力のダイナミックなムーブメントもっと海を見ていたくなり 波戸岬へ 九州西北の端黒い玄武岩の荒磯に 白い波が寄せて風は北から来るのだが もう 暖かい========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月10日
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ひえー 神戸から船にのるまで あと5日ケツに火がついてるー なので去年の九州ベンキョー旅行の再放送 ↓ ↓ ↓ーーーーーーーーーーーーーーーー2006 3/23の文3つ目の赤い橋で・・・きのうはオフ1日目大宰府に行った去年出来た九州国立博物館へでかい 新聞報道のとうり 来館者 多い東京 京都 奈良 とならんで日本で4つ目の国立博物館もっともあたらしく出来た博物館として 随所に工夫がある来館する一般のヒトビトには ややもするとムズカシく フルクサく ただ ムカシの文物が 平坦にならんでるだけ そんないままでの博物館展示のイメージからの脱却を志向してるそれら昔のモノを 生み出したヒト=生きていた人間 が具体的に いた ことをぼくらに示し想像させるような展示 それらのヒトの息づかいにふれるような展示 といってもイイかもそしてそれらのヒトビトのヨロコビもカナシミも今 生きているぼくらのそれと そんなにへだたってない・・・ そんな風に たのしくおもしろい学習の場 を提供する試み もっと やきものにも たのしくおもしろい学習の場をいま もとめられる視点は共通しているーーーーーーーーー博物館を見たあと すぐそばの 大宰府天満宮に参拝する長男は去年無事 行きたかった高校に合格 ヤツにももたせた学業上達&受験合格のお守りをこんど中2になる次男にも と・・・早くからもたせなければ ヤバいぞ と・・・梅の香 香る橋 心字池にかかる 3つの赤い橋 1つ目が過去で 2つ目が現在(いま) 3つ目の橋でぼくが 転びそうになったとき・・・ 支えてくれるヒトは どこにも居ませんでしたぁ~♪ from さだまさし========================== なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月09日
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はい 6日 あさ4じ今日 11じから福井の小浜にヤボ用いまから水挽きしまーす♪1週間したら神戸から博多へ マリンメッセでの 全国陶磁器フェア 今度で5回目の出展 15~19日が会期いまから作るもんも 13日に持ってくつもりなので とてもイソガシイ♪なので 今日は 2年前の3月20日その日記の 再放送↓で お茶を濁します♪=======================後ろがマリンメッセ 2005年3月20日 11じ少し前 地震コワかったひどく割れたヒトのブース うちは 持っていった品の 12分の1が 割れた他の出展者 8~9割割れたヒトも博多マリンメッセで行なわれていた『全国陶磁器フェア2005』は18,19の2日間が開催されて、さ あと3日がんばろーと思った3日目=20日。開館して50分ほど、かなりの観客が入った10:53に震度5弱のゆれ中央区は震度6弱、マリンメッセのあるのは博多区。館内にはガラガラガッシャーンとやきもの割れる音がこだま・・・若干のキャーという悲鳴もはげしいユレでみんな立ちつくす立ってられる程度の横方向のユレがしばし生まれてはじめてのユレ滋賀で感じた阪神大震災のユレよりは強い巨大建築の天井部の大型スピーカー/照明器具がグラグラ1つでも落ちてたらパニックが起こったはずみんな無言で恐怖にたえてるユレがおさまった時点で館外への退避をうながす館内放送あり走ったりパニくったりせず粛々と外へエントランスの壁 一部崩落外縁のレンガ鋪装に陥没と隆起が散見される 退去の時に床に散らばったやきものの破片で軽度のケガした出展者が1名お客さんはみんな無事。・・・主催者からの夕方の発表でイベントは打ち切りに。博多埠頭が出展者駐車場やったんで・・・ぼくのクルマは海から10メートルの位置。津波に持ってかれるとコマルんですぐに行くと、レンガがボコボコしていてセメントを溶いたようななめらかな泥水が湧出。『液状化ってコレかぁ』と思って見回すと、50メートルほどはなれた場所では50センチほどの隆起=沈下があって長さ100メートル/段差30センチほどの2~3本の地割れが埠頭先端にむかって伸びており、そのさきの方にはクルマ1台が落ち込める大きな陥没も2カ所。停める位置が悪かったらクルマは脱出できなかったかも・・・セーフっ!埠頭に停泊中の海上保安庁の船から『津波の怖れがあります、沿岸部からはなれてください』とマイク放送あり自主判断で1ブロックはなれたトコまでクルマ移動。ここで津波到達予想時間11:10を迎える。のち11:46に予想時間が変更。なにごとも起こらず。津波注意報が完全解除になってからマリンメッセにもどる。おおかたの出展者たちはずっとマリンメッセ前の駐車場にいた・・・津波が来なくて本当に良かったけど・・・出展者たちのクルマも埠頭の駐車場に留め置きやった・・・パニックを恐れてのことやろけど・・・安全策として海側と建物のそばをさけてマリンメッセ前の駐車場で車中に泊まる。道路は昼からずっと渋滞が続いてたんでコンビニで早々に確保した食料と飲料がありがたい。クルマの中にいても感じるちょっと大きめの余震が気味悪い・・・眼前の都市高速倒壊の『絵』を思ってしまう・・・夜の間に博多ベイサイドと博多埠頭に玄界島からの避難者の船が次々着き、警察/消防の搬送車両のサイレン、報道の車両の動きがかまびすしかった------------------------昨日21日朝9じから、余震におびえながらの搬出。150ブースの全国からの出展者たちは割れたやきものを涙ながらにかたづけて(←やや誇張シテマス)帰路につきました。5日間の会期がたった2日で打ち切り。たった2日と1時間の販売ではみんな出展料の16万はぜんぜん回収できてない。まだ2~3万ってヒトも。出展ブースのしつらえによって割れた分量はひとによってさまざま。高い棚組みで見せるしつらえのトコほど多くの物が割れた。うちは棚が1段だけ落ちて、持って行った量の1割ほどが割れたかな。コンテナにすりきり1杯。ま 去年のトラック横転事故ではコンテナ54箱分割ったンで割りなれてるんで、これくらいへのかっぱですけど・・・8割が割れたってヒトも。となりの備前焼のブースは100万円の大壺が転落しつつ下にあった作品をことごとくフンサイし下まで落ちてくだけ散った・・・出展マニュアルを見るとハッキリと『天災については責任を負いません』と免責事項が書かれており・・・若い関西/東海エリアからのやきもの屋は800~900キロを下道で帰る。かれらの帰路はさぞや長い道のりになるやろととても気の毒に思いました。ぼくは昨日夕方の新門司ー神戸のフェリーで今朝神戸に帰着。なんかやっとホッとしました。=======================↑ここまでが2年前の日記 ま いろんなケーケンさせてもらえますわ 寅さんみたいな やきもん屋の暮らししてるとこのあと事務局から 全出展者の1ブースにつき5万円の見舞金がもどされました♪ ============================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリックしてもらえませんでしょうか? ↓ 1位かな?あ たまには本店サイトハプーのやきもの屋さん ものぞいてネ♪過去ブログ記事の自信作 「生き延びるための陶芸技法」 それから「沖縄ネンド紀行」「韓国やきもんレポート」」とかもあったりしますし ほんでもって 家族のきずなを育む こどもメシ碗やこどもカップなど 和めるやきもん の お買い物もできますー♪
2007年03月06日
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去年1月にフロ屋はやめた お風呂屋のおばあちゃんぼくの母の母96歳 11月30日 おばあちゃんに頼まれた品をとどけた11月初旬 湯飲みを30個持ってきて と電話 聞こえない耳で おばあちゃんから電話なんとか 月末くらいには持って行けるわ と11月30日におばあちゃんは 夏の陶器祭り 冬の今頃いーっぱいぼくの品を買ってくれる知り合いのヒトや 病院のセンセや看護婦さんに配るためぼくはもう50歳 でもおばあちゃんにとっては長女のトコの長男 初孫いまでもかわいがってもろてる・・・・ 以下の文は去年12月6日にかいた文の再放送ですーーーーーーーーーーーーーーーー もうじき1軒のお風呂屋がやめる京都市左京区新堺町仁王門通り下ル の電気湯二条と三条通りのまん中の横の通りが仁王門通り 鴨川の東の川端通りと東大路そのまんなかの縦が新堺町通り岡崎の美術館/平安神宮/動物園/南禅寺へも歩いて10分三条大橋へ5分 河原町の繁華街まで10分京都のまんなかやけど このエリアは観光の京都ではないフツーの人の暮らし場としての京都ここにある風呂屋が 電気湯 ぼくのおばあちゃんのトコです営業前 のれんを上げるのは午後3時 左はしに露地:ロージの入口三ツ野花子 95才 ぼくの母の母ぼくの母は長女 下に女の子が2人 俊子オバチャンと京子オバチャン 最後に長男←隆夫のオッチャン京都市役所に勤める隆夫のオッチャンと奥さん=ユキコさんとともにつづけてきたお風呂屋の営業も20061月末まで・・・ぼくにとってもココがふるさと 自分がおおきくなった町小2から小5までここに籍を置いて小学校へ 比叡のそば山 春秋に 平安の京ながめつつ 常磐のみどり 和みたり転勤ぐらしで小学校3つ変わったけどここの新洞小学校の校歌だけは 今も歌えるそこももうじき廃校らしい 従兄のナオキのこどもは今もそこやけど1年生はたったの6人ドーナツ化現象 町の成り立ちが変わってしまったこのおおきな時代の変化のなかでお風呂屋はもういらなくなってしまったみたいやぼくのおばあちゃんのやってきた電気湯のことを記録しておこうと思うそれはフツーの人の暮らし場としての京都の記録と記憶になるんやないかと思うんで・・・昭和40年ころの京都の記憶 ぼくなりの『3丁目の夕日』を明日からつづけて書いてみます男性諸氏あこがれの女湯や番台についても書く♪オタノシミニ♪===========================明日 この続き=再放送の2-ーーーーーーーーーーーーすんませんけど今日もまた ↓クリックしてもらえませんやろか お願いします 1位かな?
2006年12月04日
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はい 今日は朝から京都行きはい 再放送 1月30日の文 ↓芸事:げいごと の道は 枯れかじけて寒い たった一人でゆく道けれど なにごとにも よき先達は あらまほしきことなり by兼好法師==========陶器はモロイか?モロイ陶器もある モロクない陶器もあるあるお家に良く遊びに行ってたんですね やきもの屋ではたらいて5年たったころ 25年ほど前そこの奥さんは 手作りの陶器が好き ほんで京都の訓練校で同期だったM先輩の湯のみや器なんかをたくさん買ってた 先輩は15キロの電気窯で焼いたはった 奥さんいわく Mさんのはイイんだけどモロイのよねーいい先輩 いい友人の品が そう言われるとカナシかったですその奥さんは もと東大教授のH先生の夫人で エエシのご出身のはず なんですけどガラッパチでね そこがおもしろくって みんな集まってたんやけど食事のあとの洗い ほかの食器やなんかと 洗い桶に漬けてガチャガチャ洗うんで M先輩の品 ほんとにカケがすごく起こるぼくの勤めてた京焼の窯元の品もモロかった京焼らしい花の絵に金彩の縁取りで¥8000もする湯のみとか貫入が入ってて汚れやすいしモロくてカケが多かった45キロの電気窯 1260度で焼いた品最近のここの品を見たら ぼくが勤めてたころより土が細かくなってて改善されてましたうちの窯最下段 東京ぜーゲル10番オルトン10番11番完倒4枚棚板組の中央 もっともバーナーから遠い位置に立てた東京ぜーゲル10番は1300 オルトン10番は1305東京ぜーゲル11番は1320 オルトン11番は1325ま 誤差がねぇ・・・ ぼくが買った品の中にも伊豆に旅行に行って あ コレいいなと買った15センチの小皿そのあたりの個人の作り手の刷毛目の皿 ¥2500買って1週間ほど使ったら縁の白化粧がポロポロとカケてしもた自作でも穴窯に凝って年に10回ほども焚いてたころ奥のほうで焼いた信楽土にいい緋色がでたビアマグ焼きが甘くって でも 風合いがいいんで使ってみたけどカケも起こるし 匂いがこもって カビがはえてしもた市場に出さんで良かった↑焼きの甘い=焼成温度の低い 陶器にはモロイものがある実用の食器として使うには 特別の心使いしなきゃいけない 釉薬かかっていても 無釉の焼き〆でも その器だけは洗い桶にひたしてガチャガチャやらず 1点1点 大切にとりあつかって 別に洗う くわえて 浸み込み防止のためには 使う前30分ほどは 水や湯にひたしておき 器を使い終わったら すぐに洗う 完全に乾かしてから収納するこの注意点 ムカシは 富裕な階層の主婦のたしなみとしては当たり前のことやったんかもしれないしそーいった心づかいすることが 共有する文化として あったのかもしれない・・・富裕層では甘く焼かないと得られない風合いもある茶陶ならこれでイイ 高い料理屋の懐石の器ならこれでイイでも 今とこれから ふだん使いの日常食器として作り売る場合これらの「手作りの陶器をあつかう時の心づかい」これをやってくれと 使い手にもとめるのは もう無理やないやろか? そーゆー共有文化 たしなみはもう滅んでしまったんやないやろか?あえて風合いを重んじて 焼きの甘い器を焼くならば 個々の使い手に そのことを確実に伝えなきゃ 生産者の説明責任を 十全に 果たさなきゃならない と思うねんけどなぁ 自分の作った品は モロイです でもイイです 共感できるなら買ってくださいと 言うべきやろー韓国に修行 なんどか行ってる女の子のやきもの屋で甘く焼いた 黄色い粉引をやってる子は 売る時に この風合いは温度低く焼かないと出ないんで ほかの物といっしょにガチャガチャ洗ってもらうと カケるんで別にあらってくださいね と断ってる エライ!しかし この子の品を売ってる お店の人はちゃんとそのことをお客さまに伝え切れるやろうか?アルバイト店員ふくめて?きっと 無理そやから ぼくが伊豆で買った皿と同じことが いろんなトコで 起こる ちょっと無理して買ったいい風合いの 手作りの陶器 使ってみたらすぐカケてザンネンな気持ちになる 失望するこんなことを続けてたら これからも「手作りのやきものを愛し使う文化」が続いていくやろか・・・うちの窯上部のぜーゲル ほぼ下と同じ うちは1315~1330度くらいで焼いてる と言っていいかな時間はかけない8時間 1000度まで3時間 1300まで3時間そのあと1300をキープして2時間維持する 夕方4時に点火して12時には終了 翌朝7じ600度台前半なら口を切り始める昼12じには窯は入れ替えられる 陶器祭なんかで売ってて お客さんに はっきり言われたことがある いいカンジだけど 陶器はモロいからなあ・・・これからは こーいわれたら こー返そう いえいえ モロイ陶器もありますし モロクない陶器もありますよ うちの品は 磁器よりも丈夫です 無貫入なんでしみ込みも心配ないですし 電子レンジ・食器洗い機・オーブン加熱OKです 吟味した土を 灯油窯で 1300~1320度で焼いてますから この土の場合ここまで上げて焼くのがもっとも焼け締まるんです この温度はよそさんよりかなり高いです ひょっとすると100度ほども高いです 機械ロクロや鋳込みの大量生産のの品と違って 手で作るロクロですから 持ったときのカンジがイイでしょ 手へのおさまり 持ち重り 口作り 抹茶のお茶碗とおんなし 心づかいで作ってますから お使いになる方の手がヨロコブ品です ゆったりした指筋が器に吹いてる風 うち屋号が 八風窯ですから ぼくが1個1個 描いてる絵付けは 機械物の転写シールとちがって イキオイがあるでしょ なごめますよ♪ それに サランラップが 良くつく♪ ーーーーーーーーーーーーー 一方では・・・ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー高い温度で焼けば高ければ高いほど 丈夫なもんが焼ける とゆー迷信が美濃の磁器屋さんたちの間に流布してたそーです!有田の磁器に比べると 美濃の磁器はモロイとゆー風評が昭和60年ころにはあったそうで それに対抗してゆくために温度を上げていった・・・ なんと 1400度で焼いていた!そんなことしたら かえってモロクなる シバリングが起こるそれぞれの作り手が使う土が もっとも焼けしまる温度は体積比もっとも焼き上げた品が重くなるとき みんなちがうそれより低くすぎると弱くなる それより高すぎても弱くなる四日市・常滑なんかの朱泥の土なら1200度前後うちの土は耐火度高いんでまだ上げられけど このへんで妥当そーすると釉薬とかいろいろ大きく変える必要が出てくるそこまではせんでもエエと思う 磁器より丈夫 0.19Jって数字が出てるし 磁器0.13飲食のお店にモニター依頼して 何年も業務用食器洗い機で磁器と一緒に 洗いまくってもろても割れへんしカケへん 摩滅はするけどね その部分も汚くならないし白い土の色電子レンジもオーブン加熱でグラタン調理もいっつもやってるコト さあ これで 手作りの陶器ならではのカンジで機械生産の磁器に対抗する やきもの屋のモー娘たちの弱点は死活問題として やきもんに取り組んでないんで 押さえが甘い こーやるのがフツーをなぞってる手作りのやきもん まだまだ改善できる余地多々あるんやけど そのことにまだ気づいてない シメシメ・・・====================================================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 1位かな?
2006年10月05日
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きのうは 思わず仕事が進んで 6じあがり素焼と本焼 の窯を焚いた 今日もう1窯本焼きあさ3じすぎに目が覚めたんで 1時間半の 歩きここんとこ仕事が詰まってたんで 数日ぶりの 歩き体重は57キロ後半を安定維持♪まだ真っ暗な 朝 冷気と夜気空の中天に オリオンの三つ星いつもとルートを変えて 林道を登る天の☆星 ひさしぶりに 見ながら 夜を歩く星を楽しむ暗闇を楽しむ懐中電灯は使わない星明りに薄白いアスファルトをたどるかたわらの草むら葉むらに ちいさな 光り最初は 星明りに 露が光ってるのか と思ったそこここに 光っていて 飛んだり動いたりはしないが たしかに発光している 10月初旬 ホタル?ホタルの10分の1くらいの 大きさと光量光を見つめて たづさえてきた マグライトで照らすと 1センチほどのケムシ これが光ってる ふーん こんな光る虫もおるんやーーーーーーーーーーーー峠を越えて 和南:わなみ の在所へ あさ4じ茶の間の 灯のついてる家がある この家の人は 起きだしてるのかなぁ2階の部屋の灯のついた家があるこの家には受験生がいるんかなぁ豊かな今の農村の 夜と朝のあわいで蕪村の句を 思い出した・・・ 月天心 貧しき村を 通りけり 蕪村 蕪村は シブイなぁ・・・・・ いたるところに ヒトの 暮らしさ そろそろ仕事しまっさま 1月24日の再放送 ↓ 『3つの飯椀』ぼくが29年前に京都の窯元でならったやり方は29年前の『京焼』の有り様・・・電気窯で1250くらいで焼く・・・1975年ころこの温度設定 薪で焼いてた時代の焼成技術/焼成温度をひきずってる温度設定薪で焼いてた時代のふたしかな焼成の限界をスライドした温度コストの問題もあって低い方が生産者は助かるんやけど・・・どんどん改良されたガス・電気・灯油の窯で焼いている今もこの温度での焼き をなぞってて エエんでしょうか?========その15年ほど前までは=1960年=昭和35年ころまでは京都はいくつかの窯元・工房で共同窯を持ち焼いてた窯を焚く専門職=窯焚き師とゆー職能集団がいて京都中の窯を焚いてまわってたそう穴窯やとか民窯の登り窯とちごて京都では温度管理が重要薪も4段階に割り分けてあって 窯上部の温度を上げるためにはもっとも細い割り木を投げ込む 投げ込んだ時点で燃え上がって上に火が行く 下が焼けてなかったら太い割り木 火床に落ちてから燃えるんで 下に火がながれる・・・テクニックを駆使して窯を焚いてたそーですが・・・ 公害=黒煙問題で 薪の共同窯が使えなくなって電気/ガスの窯に切り替わっていったんが1960~1965ぼくがならった時点は それから15年たったころのやり方・・・ ぼくが習って30年もたってるけど・・・ 薪窯から電気・ガスへの転換が始まってから45年・・・ その当時やり方 温度設定でエエんやろか・・・ 陶器は磁器よりももろい それは仕方ない←改善できないか?陶器は磁器よりももろい ほんとにそうか?確かめよう 丈夫さは測れます 計測してみよここに↓3つの飯椀があります左が 信楽のM製陶のブドウ文 ¥588 240グラム 機械ロクロ 4立米の大型ガス窯 焼成温度1250度中が うち八風窯の品(試験用無地)¥1500 170グラム 手引きのロクロ 0.5立米の灯油窯 焼成おんど1300度右が 白磁飯椀 森正洋デザイン ¥450 140グラム 鋳込み成形またはローラーマシン成形 波佐見の品 焼成温度1300~1350度 割ってみました 割らせていただきました これらをそれぞれ10個づつ 信楽窯業試験場にもちこみました 学校給食用強化磁器の対衝撃規格のために 目下 全国窯業試験場での試験方法の統一が急がれていてほぼ これに落ち着くとゆーやり方の正式な「衝撃試験」にかけてみました↓ 垂直に立った直角L字型の金属壁に押し付けて 飯椀口縁の2点で接合 反対側の中心点にあたる口縁に吊り下げ式ハンマーを打ち付ける ハンマー打面は垂直方向に一文字になっていて打点は口の1点 飯椀の固定は見込み底面を試験者の手で強く押さえる ハンマーの振り上げ角度を大きくしてゆき チップ=米カケ・亀裂・破砕 どれが起こってもダメ 角度とハンマーの運動速度と重量から割れた時点の エネルギー計算をしてJ=ジュールで衝撃への強度を表わす M製陶のぶどう文飯椀 平均値 0.18J 八風窯の飯椀 平均値 0.19J 波佐見の白磁飯椀 平均値 0.13J 試験方法 ASTM C368に準拠 JTトーシ製シャルピー試験機CAI使用 食器10検体の平均値!!!!!陶器のほうが 磁器よりも丈夫!!!!! ======================================================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 1位かな?
2006年10月04日
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はあ きのうはやっぱり 本焼の窯 立ちませんでした今日 明日で2窯 立てる個人のネットでの注文が優先かつ お店からの注文も入れ忘れんよーにして今月のイベント 信楽+金津+台が原 で売れそーな品を できるだけ潤沢に持っていけるよーに9/22から始めて800点ほどを2週間で作ったし生生地でおいてあった品 も仕事してるんで3~400点が加わるから 1200点ほどここまでで本焼が4窯 焼き切るにはあと2窯かなカミさんと2人体制でのフルの生産量ってこのへんぼくが→ 水挽き・削り・掻き落とし・ 窯詰め・下絵付け・上絵付けカミさんが→ 化粧かけ・釉薬かけ・色さし・ 窯出し・底すり・仕分け・発送大体こんな役割分担 臨機応変に 入れ替われるところは 入れ替わりつつ・・・いちばんメンドクサクかつ 重要なんは・・・ 日々入ってくる 注文情報の整理 と それを元にした 的確な指示出し 情報と指示を2人で共有して臨機応変に 日々 働くこと できれば ギスギスせんよーに ゆったりと働くこと♪きのうは イイやきもん について即物的かつ物理的な角度からの「再放送」でしたきょうは イイやきもん についての叙情的かつ心理面=ロマン主義的な「再放送」です♪1月24日の文ですわ ↓ ↓ ↓ヒトは生きてこの世にいるあいだ 器をつかう器は ただの器物=たんなる物なのにヒトはさまざまな思いを仮託する苦しみ多いこの世を ともに旅する暮らしの仲間として 器もヒトとともに生きるから=================宮沢賢治が最愛の妹 とし子のために書いた「永訣の朝」という詩がある 雨雪(あめゆき)=みぞれ 賢治の生きた岩手花巻の言葉では あめゆじゅ くりかえされる懇願・・・(あめゆじゅとてちてけんじゃ)(みぞれ とってきて 賢治にいさん) 青い蓴菜〔じゅんさい〕の文様の ついたかけた陶椀 いっしょにそだってきたあいだ みなれたちゃわんのこの藍の文様 どんな やきもの やったんやろう 永訣の朝 けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゅとてちてけんじゃ) うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から みぞれはびちょびちょふってくる (あめゆじゅとてちてけんじゃ) 青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に おまへがたべるあめゆきをとらうとして わたくしはまがったてっぽうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゅとてちてけんじゃ) 蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から みぞれはびちょびちょ沈んでくる ああとし子 死ぬといふいまごろになって わたくしをいっしゃうあかるくするために こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから (あめゆじゅとてちてけんじゃ) はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・ ・・・ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまってゐる わたくしはそのうへにあぶなくたち 雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち すきとほるつめたい雫にみちた このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらっていかう わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (Ora Orade Shitori egumo) ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あああのとざされた病室の くらいびゃうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまっしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる) おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになって おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 1位かな?
2006年10月03日
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はい きのうは 素焼と本焼の窯はなんとか立ちましたけど 夜7じまでで削りは20だけ ぼくは夜は7じまでしか 仕事せーへん 7じでぁがる夜は ま ビールのんでテレビ見て9じか10じには寝る年に2日か3日かなー 夜 仕事すんのは♪なので 今日はまず 残り削り100 ほんで下絵付け今日から3日連続で本焼き3窯 建つかなー ま 明日以降で2窯が ムリないとこかなーちょっと再放送しますね 1月26日の文ちょこっと手を入れました♪ ↓ ↓ ↓えーとねえ インスタントコーヒーを飲んでるんですわー違いがわかる男のゴールドブレンドえと ぼくがどうやって使うかとゆーと新しく買ってきたらキャップをパカッとあけて 口の天に張ってある金色シールの端四角い壜の角の1個所に人差し指でプチっと2センチ径の穴を開ける左手で壜の胴をにぎって カップにその穴をちかづけ右手でトントンと口を叩いて コーヒーをふりだして カップにそそぐ こーやってますみんなこーゆーふーにやったはるんやないかなぁ?スプーンとか使う? メンドーでしょ? いつやったかなぁ知らん間に 壜が持ちやすくなってた↓2側面にミゾが入ったこれだけで 格段に持ちやすくなったデザインってこーゆーコトやないかなぁもうこれ以上することないってゆー シンプルな四角い壜がよーく考えてみたら こーしたらもっと良くなると2本のミゾをきることで 改善される 使い勝手が格段に良くなる・・・こーゆーのが本質のデザインやと思う外装のデザインをいじる のは枝葉末節のデザイン 外の見た目をまあるくして「癒し系」てゆーてみたりラベルの図柄を 流行りにあわせて とりかえてみたりま それもデザインやけどね===================================いいポット と いい醤油さし↓G型醤油さし¥1100 ポット¥28004年前東京ドーム初出展の時に白山陶器のブースで買った 長崎県波佐見の白山陶器の品G型醤油さしは 第一回1960 年のグッドデザイン賞でロングライフデザイン賞 45年ずっーーーーーーーと売れつづけてる 森正洋デザイン水切れがカンペキ 一滴の腋だれもないこのポットは去年グッドデザイン賞をとったみたい 坂本やすきデザイン非常に使い勝手がいい↓400cc 茶葉はストレーナーで漉す 洗いやすい口径 内部にも茶漉しがついてる 取っ手に指2本または3本通して 親指でフタを押さえられるそのツマミがポット外縁にかけるフックになっていて茶葉とりかえるときに下に置かなくてもいい工夫になってる うーん ¥2800・・・磁器鋳込み 工場生産でしかできないネダンぼくが土瓶作ってた時 上代¥12000 下代¥6000胴を挽き フタを挽き 注ぎ口挽き 茶漉しつくって取っ手の環 全部のパーツ張り合わせ 藤ツルの取っ手も巻く水切れ悪かったらダメ 出せない 見合いません・・・土瓶急須専業でやり 付加価値つけて¥30000でもどーかなぁってカンジ 手作りの陶器 勝てないなぁ この『注ぐ道具』の分野では・・・ 手作り=高価なのに破損の起こりやすいカタチ 機械生産=低価格=気安く使える さらに良くデザインされていて 使い勝手がイイ・ 手作りの手描きの陶器 実用の食器でやってる うち八風窯・・・ぼくがこれらの「いいデザイン」に勝つには どーすればイイんやろ?あるいは 同等に並ぶことはできないか? 大きすぎる野望やろか?手作りは生産性が低い 数できないから付加価値つけて高く売るしかない 手をかけ手間かけ名をあげて 美術工芸品にまで高める←必然の流れでも そーでないやり方に活路をもとめる やきもん屋のぼくとしては・・・白山のポット以外のほかのアイテム 椀や鉢や皿の値段はうちとほとんど同じ・・・湯のみで¥1000~1500 鉢で¥1000~6000・・・工場生産のとても良くデザインされた量産の磁器に 手作りの陶器の個人の工房生産(カミさんと2人体制)で対抗するには・・・うーん・・・ともかくガンバロ・・・ 醤油さしをデザインされた 森正洋さんは去年11/12 77才なくなられました 朝日の追悼記事の引用ですが 産地では「雑器」とばかにされた 食器や卓上の小物にこだわり続けた その歩みは新奇な外来思想をもてはやしながら 足元のささやかな「生活空間」をないがしろにし続けた 戦後の「貧しさ」への挑戦だった 森正洋さんの掲げたポリシーは 日常の器 工場での生産 多くの人々との共有 これは いわば 物を通じての 「戦後民主主義の実現」といえなくもない うーん↑(朝日っぽいマトメ方やなぁ♪) ===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 1位かな?
2006年10月02日
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瀬戸話5だれがやきものを焼いてきたか?キツくて低賃金の肉体労働につく 男たちと女たちと子供たち小学校を卒業すると わずかな金で売買され無給で働かされる ヤロ(野郎)という徒弟制度があった大正のころまで 加藤唐九郎はこれをくぐってる やきものの技術 アジア4000年 何百万何千万と生き死にしてきた無名の陶工=労働者によって 今に手渡された果実なにをつくってきたか?人がくらすための道具 なんでもない皿や鉢や壺美術的価値などない雑器と雑貨 二足三文のやきもん 割り捨てられ 消費される ただの瀬戸物:せともんほとんどすべて そーいった品『永仁の壷事件』加藤唐九郎さんの起こした事件はとんでもないもの「美術」をめぐる おろかしい仕組みを露呈した事件小山富士夫 文部技官のち陶芸家中国定窯の白磁/青磁・・・の発掘研究文部省文化財保護審議官として国宝/重文の認定に関わる戦後の混乱期 敗戦国ニッポンからの美術品流出を食い止めたいというバイアスがかかってた・・・指定すれば流れ出さない陶磁器の研究者 学者 美術行政のエリート官僚彼の人生をくるわせた『永仁の壷』事件 その作者 加藤唐九郎温厚篤実な文部省技官を退官にみちびき陶芸家 小山富士夫を生み出すことになった『永仁の壷』事件加藤唐九郎が自分で焼いた「古瀬戸」の陶片を山中に撒いて小山富士夫を窯が出た と案内する これが伏線「桃山期の古窯発見」「その古窯で焼かれたらしき永仁の年号の入った最古の瀬戸焼の瓶子発見」「重要文化財に認定」その兄弟作がもう1本骨董屋に持ち込まれて・・・あやしいとなり パリに逃げ 自分の贋作だと告白し ・・・ちゃんと整理すると・・・昭和12年 加藤唐九郎が焼いたこの壺が・・・昭和34年 1294年に焼かれた『最古の古瀬戸』として重文に指定される 小山富士夫(文部技官)の提案によって審議 文化財専門審議会委員11人の反対はなく15分で決まった昭和35年 重文指定の混乱=にせもの疑惑は国会でも追求される 加藤唐九郎は逃げたパリで自作と告白 昭和36年 科学分析でクロ 重文指定解除 小山富士夫 文化財保護委員会を責任をとって辞職昭和39年 小山富士夫 作陶生活に入る 加藤唐九郎 新宿伊勢丹の陶芸展で成功 毎日芸術賞受賞 その後も活躍 ・・・事件の顛末 不可思議とゆーしかないなぁその技官は長年の知己でもあり、彼の陶技の良き理解者でもあったのに、周到に何年もかけて・・・だましてゆく山師の手口なぜそんなことをしたのか・・・不思議でした でも瀬戸に行きその町の成り立ちといまの風景からも透けて見える過去の『陶都瀬戸』と向き合った時ぼくの疑問はゆっくりと氷解しました================瀬戸でやってるKさんとは やきもん屋仲間2002せともの祭初出店の時 彼ん家に泊めてもろた彼が住んでたのは職工住宅とよばれる小さいボロ家 もう閉めてる焼き屋=工場があってその裏手の職工住宅を借りて奥さん/赤ちゃんと3人暮らし仕事場は赤津に クルマ20分ほど 閉めた工房を借りてる やきものを作る労働者=職工 職工の暮らす部屋 ここに2泊せとやき祭の出店場所までは徒歩15分朝に行き 夕に帰る瀬戸の街Kさんの部屋たどりつくまでに見る侘びた風景丘の斜面 うねった小道そこにへばりつくように立ついくつもの閉めた生地屋 焼き屋 転写屋なごりをとどめる 陶都瀬戸の面影・・・ 赤い郵便ポスト型の貯金箱(低火度の土器)を今も細々とつくってるところ表には陶土のついた木箱がつみあげてあるいれるのも木箱 運ぶのも木箱 ぼくがこどものころ 昭和30年代みたいに木の箱がさかんに使われ いま打ち捨てられつつある 陶土の精製をしていた粘土屋 錆びに錆びた鉄骨の機械黒ずみ破れたスレート 草のはえた陶土置き場に白い長石が山になってる Kさんの部屋へは閉めた工場をとおりぬけて行くそう古くもない1立米のガス窯があり窯の扉が開けらない状態のママ まわりをコンクリート舗装してある 駐車スペースとして賃貸しするためやそー運び出す費用を惜しんでのことか?いつか操業再開を期してのことか?きっと両方・・・最盛期800あった製陶所はいま400これら閉めた工場を「個人作家」独立のためのスペースとして貸し出す「空き工房バンク」として登録して欲しい と瀬戸市の広報誌の記事・・・ 斜面にはり出した通路を 曲がりに曲がるまるで釜山に来たみたい だと感じた灯りの灯りはじめた 瀬戸の町を見下ろせば煙突焼き屋の煙突 職工が汗を流す風呂屋の煙突味の濃い うまくて安い 食べもン屋のある 無名陶工の街黒煙がたなびいて景気が良かったであろう 生産の街キツイ労働で働く 男と女が出会いそんな母と父が子供たちを育てて来た街子供たちには やきもんの仕事では無い仕事について欲しいと 痛切に願った街ベンキョーができる子は上の学校へ行き 白いシャツと背広を着て『会社行きさん』になる それが キツイ低賃金の労働に汗をながす母と父の夢そうでない子 学校にやれない親の子は『無名陶工』になる販路を握るもの 売るものがエライのであって汗をながし作る者は地べたを這いずりまわる者粉じんを吸い込んで病を得る仕事 そんな時代もしこの街のこんな時代に生をうけ「並外れた才覚」があったらどうなるんやろ自身の才覚を頼んで陶芸家をめざす自身の才覚をもっとも高く売るための競争をする無名陶工=職工=労働者ではなくひとかどの陶芸家=芸術家にと強く望む===============唐九郎さんが ヤロ(野郎)=徒弟だったころの逸話才覚のある陶工はよその窯元の釉調合を『盗む』工場の裏手にある瓶 釉薬原料が入ってる 何がはいってってどの順にならんでるかは調査済み丘の斜面に張り付いて目を凝らし、杓合わせであわすその窯元の釉調合を『盗む』あの瓶から3杯 となりから2杯 ベンガラを1杯・・・ものすごい努力と研究と研鑽 そして天賦の才それをもってしても・・・なまなかにはうかびあがれない仕組みと時代 中央と地方/貧と富・・・陶工ふぜいが!1933昭和8年 研究成果を『黄瀬戸』として出版 36才瀬戸の人が祀る「陶祖 藤四郎」を野武士の親玉のようなものと記述し 自宅への集団投石を受け瀬戸を追われ 名古屋市守山へいまも評価の高い『陶磁大辞典』増補改訂版1954昭和29年その口絵にすでに自作『永仁の壺』を「古瀬戸の優品」として忍び込ませる『才覚』も発揮してる・・・この時代 明治/大正/昭和 この陶都に生を受け『並外れた才覚』があって、つよい上昇指向があれば・・・裏のルート 骨董屋と組んでの『贋作つくり』を研鑽/実利/表現として選びとってもおかしくない・・・そんな裏ルートをたどっても 自身の才を恃んでいつか表で「ひとかどの陶芸家」になることを激しく望んだ・・・「山師を生む土壌」・・・貧困と不公平+ありすぎる才覚+強すぎる上昇志向 友人のやきもん屋 Kさんの部屋は職工住宅 裏は陶土採取場草深い 蚊の多い 湿ったその部屋で生まれたばかりの赤ちゃんが泣いてた歩いてしかたどりつけない 丘の上のその部屋への引っ越し身重だった奥さんには キツイのぼり下りやったろう・・・ ぼくも彼もやきもん屋 陶器まつりやクラフトフェアに自作をもっていって自分で売る好きでやってる仕事やし 地道にやっていって ご飯が食べられたら それでシアワセ・・・子供たちには そんな家に生まれたことを宿命として受けとめてもらうしかない・・・===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 2位かな?
2006年09月07日
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はあ あと2日今日 もう1窯 本焼き都合 月曜から 本焼き3窯 素焼き1窯また これの底すりが・・・また これの仕分けが・・・明日 3時には瀬戸に向けて出発したいなぁ・・・ なので 瀬戸話4『ニセモノの壷』 の再放送♪ ↓ ↓ ↓================瀬戸話4はぁ・・・大ネタ書きようがムズカシイ・・・芸術新潮1991/11月号 贋作特集 加藤唐九郎作 『永仁の壺』昭和12年 加藤唐九郎が焼いたこの壺が・・・昭和34年 1294年に焼かれた『最古の古瀬戸』として重文に指定される 小山富士夫(文部技官)の提案によって審議 文化財専門審議会委員11人の反対はなく15分で決まった昭和35年 重文指定の混乱=にせもの疑惑は国会でも追求される 加藤唐九郎は逃げたパリで自作と告白 昭和36年 科学分析でクロ 重文指定解除 小山富士夫 文化財保護委員会を責任をとって辞職昭和39年 小山富士夫 作陶生活に入る 加藤唐九郎 新宿伊勢丹の陶芸展で成功 毎日芸術賞受賞 その後も活躍 ・・・事件の顛末 不可思議とゆーしかないなぁ----------ぼく いっぺんだけ唐九郎さんをお見かけしたことあります1984の6月に多治見の幸兵衛窯で1ヶ月だけ鋳込みさせてもろてたんですわ京都の窯元6年でやめて 窯ぐれ修行しててね 幸兵衛窯は卓男先生の作品を仕事する工芸部と幸兵衛窯の窯としての品もンつくる量産部に分かれててね量産部で鋳込みさせてもろてて・・・なんか量産部で働いてるみんな オジサンとかオバサンがザワザワしてるんで なんかなー?と思たら 唐九郎さんがござった 唐九郎さんがござった →いらっしゃった ゆーてササヤキが みんな持ち場はなれて覗きにいったりするんで ぼくも行ってみた最晩年の唐九郎さんが 息子さんに手を引かれて来たはってあの風貌でしょ なんかオーラがあって みんなの人気者♪卓男先生と唐九郎さんは仲が良かったようで今度 唐九郎さんの監修で出版される『織部』の本に卓男先生の桃山期の織部陶片を載せたいとかでね 訪ねてござった らしーすんごいですよ幸兵衛窯の資料展示室飛騨の合掌作りの民家を移築してあって3階屋根裏までそん中にペルシャラスターの完品とか桃山期の陶片とか李朝とか むきだしそのころってこの『永仁の壺事件』ってよく知らんかったし かなりムカシの話やし 唐九郎さんは実力で完全復活して「陶芸家」の寵児やし「陶芸」って言葉も唐九郎さんがつくったらしーしもう『絵に描いたよーな陶芸家』そのものでね その生の姿 見たんやから ひょー あれが唐九郎かぁ と遠目で見て感激してましたけど・・・この事件は ちょっと ヒドイ・・・小山さんは 気の毒すぎる・・・2002年 せともの祭に初出展したころ『永仁の壷事件』とか『分福茶釜』とか 贋作に関する本を読んでた『分福茶釜』は浅田次郎の贋作にまつわる短編集です加藤唐九郎記念館(へぇ!白州正子はひどくケナシてる!) ↑ 加藤唐九郎さんの品はものすごくいいもの人と作品は別 関係ないのに作品と人は・・・加藤唐九郎さんの起こした事件はとんでもないもの「美術」をめぐる おろかしい仕組みを露呈した事件くわしくゆーと 読んでたのは 『偽作の顛末 永仁の壷』松井覚進 講談社文庫 ¥660松本清張の序「謹厳なクェーカー教徒だった小山富士夫は加藤唐九郎にだまされて からはウィスキーの瓶をあおるほどの酒徒に転じたという。(中略) 約束の場所に40分もおくれてきた小山技官が『永仁の壷は唐九郎の ニセ作です。ぼくは近く文部省をやめます』と酔顔で告げたのが 強く印象に残っている」この本に 小山富士夫が死去1年前に書いた色紙と加藤唐九郎が臨終前夜かいた絶筆がならんで掲載されていて あはれ深い ともにただ1字 『壷』とのみ・・・ その文部技官は長年の知己でもあり 彼の陶技の良き理解者でもあったのに 周到に何年もかけて・・・だましてゆく山師の手口なぜそんなことをしたのか・・・不思議でした。でも瀬戸に行き その町の成り立ちといまの風景からも透けて見える 過去の『陶都瀬戸』と向き合った時ぼくの疑問はゆっくりと氷解しました・・・---------明日の『山師を生む土壌』につづく===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 2位かな?
2006年09月07日
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はい あと3日ぼくは お金を拝みます拝金主義ってワケやなくって 実際の振舞い方 として売り買いの現場 お金を受け取った時の礼儀 として お金を拝む=感謝を身体で表現するあまたある やきものその中から 自作をとりあげていただく代価として お金をいただくこれ以外に ぼくはお金を稼ぐ方法を知らないこのお金で 家族5人の口に食べ物が入るこのお金で 命をつないでいける 自分の気持ちの実感→お金を拝む 陶器市 陶器祭 クラフトフェア・・・自作を 取り上げて買ってくださるお客様からお金を いただく それを 受け取る時 押し頂いて すこし頭を下げるそして ありがとうございました 深く頭を下げる自作は 家庭の実用的な 普段使いの器お金を 手渡してくださるのは圧倒的に女性=一家の主婦その方 に頭をさげ ありがとうございました と云う同時に その後に立ってらっしゃるご主人にも 視線で 同じことを お伝えする 身体表現 身体の使い方 声の出し方 で いろんなことが伝えられる ストリート系の陶芸家=やきもん屋 ここ10年ほど道端で自作を売ってきて こーゆーやり方を覚えましたさいしょはこんなケーケンから 瀬戸話3 の再放送 ↓ ↓ ↓=====================瀬戸話32002の9月に せともの祭=陶器市に初出店したそのときは前日の夜に瀬戸にいって瀬戸訓練校のコンパに同席させていただいた訓練校 産業労働省管轄の職業訓練校は 全国に京都と瀬戸の2校だけ しかし各焼物産地には県施設の窯業指導所や 窯業研究所があって研修生システムがある京都は手挽きでのロクロ技術修得にしぼった1年制が特徴瀬戸は手挽きロクロ/機械ロクロ/デザインなど多岐にわたる入校希望者は多い 倍率は3倍くらいしかし以前にくらべると男の割り合いが落ちてきてる家族を養っていく男の職業としては もう陶芸家orやきもん屋ってのは なりたち難いってことが理由そのぶんフットワークの軽い女性たちの比率が高まる京都も去年までは女性の方が多かった瀬戸はここんとこずーっと・・・コンパに同席させてもろて現役訓練生とお話すると東京の陶芸教室で出会って結婚したカップルが夫婦ともども仕事を辞めて瀬戸訓練校受験入校した方 とか夫の転勤で名古屋に こっちで陶芸教室に通ってるうちに訓練校入校ってグアイに東京から来られた方 とかと地元の方 窯元の息子さんや娘さんなどが混在してるジョーキョー翌日からの せともの祭で自作を売る方お店で売り子のバイトする方・・・その方々のなかですでに家の仕事の手伝いや先輩の店を手伝ったなど何度か販売を経験している方が『販売の実際』について自然発生的なレクチャーを始められました お金の受渡しはできれば両手でやること お札は方向を揃えてお渡しするように心掛けること こんな風に手をそえて頭を軽くさげて 買って下さる お客さまに丁寧に感謝をこめること・・・・えらいなぁ と思いました 作ってそれを売るものは いくつもいくつも まだまだ 学ぶべきことが あるんやろなー と思いました---ぼくをせともの祭にさそってくれた友人のやきもの屋のKさんは ある時デパートのクラフトの催事にさそわれて出展したそう・・・1日立ってると疲れてきて腕を後ろに組んでたらさそってくれたクラフト作家さんにこう注意されたそう・・・ 手は垂らして 手のひらを前で軽く合わすか 太ももにそえる 後ろに組んだり 胸の前で腕を組んだりすると 尊大に見える こーゆー心がけは 接客の「いろはのい」でしょKさんはなるほどなー と納得したそうですKさんも陶芸教室に通ってるうちにプロに飛び込んンだ口陶芸教室→独立して 自作を売りはじめる人 ここ何年か ずいぶんと多い徒弟制のなごりの残る 産地の現場をくぐらずに陶芸家/やきもん屋になるヒトが増えることは いいことなんか 悪いことなんか・・・---電気窯/ガス窯/灯油窯が普及したおかげでパーソナルにやきもんを焼くことが一般に可能になったのは昭和40年以降のこと1965年ころから1960~1970のあいだにニッポンの高度経済成長で日本の賃金は名目5倍 実質3倍の増えたこの豊かさの中で美術系の大学を卒業するもの急増それらの美大出の若者たちが農村の安い人件費と徒弟制に支えられていた陶芸や工芸の世界にはいってくるようになって のち 独立陶芸/工芸の世界の個人作家の急増 これはある種の活性化といえるバブル期前に独立開業した陶芸の個人作家のある部分は作品/器が売れなくなって以降 陶芸教室を運営することで生計を立てるようになったこれら街場の陶芸教室で楽しみとして陶芸を学びその先にすすむ意志のあるもの 進んだ先に夢をもつものはだれでも陶芸家/やきもん屋になれる時代がきていまそこから『プロ』がうまれつつある・・・とはいえる 200万円と10畳のスペースがあれば ひとりでできるベンチャービジネス=陶芸家/やきもん屋こんな認識でこの陶芸/やきもんの世界にサラリーマンになりたくないヒトが飛び込んで来るようになって40年 たかだか40年の歴史 そして飽和状態 作り手が多すぎる 買い手=市場を育てて無い 買い手=市場を育てる楽しい学習の場が無い・・・ ふだん使いの器を作るものは 融通無碍な『美』とゆう基準ではなく 実質的な暮らしの道具としてのデザインを提供/追求すべき やきもんの器つくりは 美術的な要素が色濃い仕事やけど 外面的な美にとらわれ過ぎててはあかん そして いったんは お金に対する欲を捨てる 世間並み より低いところで 暮らす覚悟を決める 好きでやってる仕事ですさかい お金にならんでもしゃーないんですわ 好きでやってる仕事ですさかいに 人がだれでも持つ 上昇志向 それを 半ばは 捨てる そーやないと・・・ 美術 にもって行ければ はるかに 桁のちがうお金が稼げる この 茶碗 500万円 です だれだってお金は欲しい だれだって拝金主義に陥る可能性がある 強い上昇志向を持ったヒトが ムカシおこした事件↓芸術新潮1991/11月号 贋作特集 加藤唐九郎作 『永仁の壺』 権威が御墨付きをあたえてはじめて 芸術はお金を生む ↓ 芸術はきれいな箱にいれてリボンで飾らんと一文にもならん権威=鑑定者=目利き=評論家これらのヒトビト 実作者でないヒト腕に覚えがある陶工のなかには かれら鑑定者/目利きをだまして 鼻をあかしてやりたくなる それが実利をともなう・・・そんな時代がかつてあった------------- ニセモンの壺 明日が本編でこれが前ふりでーす♪===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 2位かな?
2006年09月06日
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はあ せともの祭 まであと5日8日の3時ころ 前日乗り込みの予定なので実質仕事できるんは あと4日さっき きのう焚いた素焼の窯 夜7時点火 10時半終了250℃で 口切ってきました ギッチギチに詰まってるま この灯油窯 0,5立米って大きさの窯小物でやる 個人の作り手の窯としては ちょうどいい大きさ今日から4日 カミさんと2人で 絵付けして 釉薬かけて窯詰めして 本焼する 本焼は8時間 なので できれば 夕方4時 最悪6時に点火 0時もしくは 午前2時までの焼成ぼくは夜9時には床に就くんで 窯はカミさんに焚いてもらうぼくは朝5時には起きるんで 700度台前半まで冷めてる窯の口を切りはじめる んで 朝10時か11時には 窯出し このセットをくりかえすウチは2人体制としては 生産性が高いですま ルーティーン=日常の仕事 ですけどねま キツイと言えばキツイ 釉薬かけるのも両手を使って 2個がけ 座らずに立ったまま♪ さ そろそろ やってみまっさ♪================== とゆーことで今年の1月ころに書いた 瀬戸関連の話題を『再放送』しまーす======================瀬戸話1 釉薬:うわぐすりの煎餅しばらく瀬戸にカンケーあることを書きますね愛知県の瀬戸市 やきものの産地 六古窯のひとつ瀬戸は早くから分業制 土屋 生地屋 焼き屋 上絵屋・・・焼き屋さん と云ったり 窯焼きさん ともゆー毎年9月の第二週の土日が「せともの祭」瀬戸の陶器市ですね 50万人の人出良く売れるんでことしも売りに行きたいほんでね おもろい煎餅を見つけました『7つの釉薬が煎餅になった!』瀬戸焼き煎餅 七釉瀬戸市の米屋さんや窯焼きさんたち4人が開発したこの煎餅7種類のやきものを表現してるんです 上から時計まわりにオリベ・茶色い煎餅に白い砂糖をぬり はしっこに青ノリ御深井(おふけ)・甘辛いしょうゆ味にゴマ ショウガ風味志野・しょうゆベースに砂糖吹き付けで梅型黄瀬戸・小判型で きなこ味鉄釉・沖縄の紅芋を生地に入れた暗紫色の薄焼き緑釉・抹茶をいれて暗緑色の薄焼き古瀬戸・全面にびっしりトウガラシ 激辛!おもろいなー 焼き手の心←泣かせるキャッチコピーです~それぞれの焼物の特徴が良う出てるような気もするなーこれネットで買って陶芸教室とかに持って行ってみんなで食べればウケることまちがいなしやねー♪伝統釉のベンキョーにもなるしねー♪一袋¥800くらい ちゃんとウマかったですー♪御深井(おふけ)だけはマイナーでマニアックすぎてワカランなー瀬戸では一般に通じるんかもしれんけど 灰釉の類いらしー以上 やきものが煎餅になったオハナシでした~♪===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまたクリック↓してもらえませんやろか お願いします 2位かな?
2006年09月04日
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・・・・・2000年3月 那覇 壺屋焼 新垣製陶所にて 絵つけ・裏場工 新垣紀美子(75)より聞き取りもう65年もやちむんの仕事おとーさんが キミ子 この仕事やってみなさい とゆーたのが10才の時できないってゆーたけど キミ子ならだいじょーぶ やってみなさい ってじぇんじぇん 怒られなかったほめてほめて おしえてくれたキミ子 いい仕事しよーと思たら 目と手と心がデージ(大事)だよ って那覇 壺屋焼 キミ子おばぁの絵つけした抱瓶(だちびん)腰にフィットする水筒状の注器 畑に行く時 泡盛を入れてったそーヒモのつけ根はシーサー(獅子)になってるやちむんの仕事は ずーっといそがしかったさヒマだったことはじぇんじぇんなかったさー日本軍の仕事で軍用の飯碗をたーくさん焼いたさーつや消しで黒い色の飯碗や什器白くて光ると敵に見つかるでしょーわたしら仕事しよるでしょー兵隊さんが見にくるわけさそーゆー時でも士官のえらいヒトが前で下っ端のヒトは後でいーっぱいで見てるさー兵隊さんはかわいそーと思もーたさきびしぃーさー上と下の区別が収容生活が終わって琉球政府になって戦後復興てゆーたら島中から壺屋にやちむん買いに来たさぁ水ガメや油壺やみんな いっさいがっさい戦争で生活の道具がなんも無くなったとこからでしょー島中のヒトがやちむん買いに来たさどんどんどんどん作ってから焼いてからそれはそれはいそがしかったさーそのあとは内地に輸出もするしアメリカーにも輸出するしベース=基地のオミヤゲも作るしその頃もいそがしかったさー本土復帰して海洋博があってたくさんの内地のヒト 沖縄に来るよーなって壺屋のやちむん買って帰られるよーなったでしょーだからさ ずっといそがしかったさヒマだったこと無かったさー65年もやちむんの仕事して来てからさーこの仕事やってきて ほんと良かったさーこーやって観光の内地のヒトと話しできて おばぁは 楽しいさぁ ある時代を生きて 生活のための やきものを作りつづけて来たヒトの言葉として 記録しておきます 2006/6/23 沖縄戦終結から61年 慰霊の日に===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまた ↓クリックしてもらえませんやろか お願いします 2位かな?
2006年06月23日
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はぁ 今日もジツギョウ優先明日はゼッタイ 「ギフトセット」やりますね♪おとといきのう と ああゆー並びやったんで今日はコレ↓を再放送します♪================ おしえてやきもの A to Z ================ はいっ!あたらしくはじまった『おしえてやきものAtoZ』です。さっそくカズシ君というヒトからこんな質問がきました。質問1 ねんどをやくと、どうしてかたくなるんですか? ねんどじゃなくても、アルミナの こななんかをやいても、 どうしてかたくなるんですか。答え1 イイところに気がついたねぇカズシ君。 君は、なんねんせいかな。 どうしてアルミナなんていうムズカシイ言葉を しってるのかなぁ・・・・・・まあいいでしょ。 カズシ君、火でやけどしたことあるでしょー。 火はあついよねぇー。いっしょなんだね・・・ ねんどは、あつい火をあてられると、 ギュッとかたくなって、じぶんをまもろうとするんだよー やんきーのひとが、根性焼きするとき歯をくいしばって、 手をギュッとにぎってがまんするのと同じことだよ。 質問2 かんそうしたねんどは水にとけるのに、 ねんどをやくと、どうして水にとけなくな るんですか? がらすができるような、たかいおんどでやかなくても、 すやきの、ひくいおんどでやいた、じょうもんしき土器なんかは、 どうしてなんぜん年も、水にとけないんですか。 答え2 すばらしいね、カズシ君。 こどもとはおもえない論理のてんかいだね。 質問1のこたえを思いだしてごらん。 質問2のこたえがかんたんにわかるよね。 こたえは 『やいたねんどは根性がある』 だね。 じょうもんしき土器はものすごく根性があるんだね。 じゅうぶんにヘッドがはれるうつわだね♪ わかったかな、ハプーおじさんの『おしえてやきものAtoZ』のこと、 ほかのおともだちにも おはなしして、 やきもののこと、みんなでかんがえよう!===========================なにがしか みなさまのお心にとどきましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまた ↓クリックしてもらえませんやろか お願いします 2位かな? 1位かな?
2006年04月28日
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ギフトセット販売講座 きょうはムリなんとか明日かあさってやれるとエエねんけど・・・ジツギョウが正念場 5月連休から6イベント連続岐阜土岐・滋賀信楽・福井金津・大阪ドーム・長野駒ヶ根・滋賀彦根大阪ドームが天王山 なので今日は「再放送」=旧作これでお茶を濁します・・・・・ま 古典ネタっちゅーワケで粘土マンザイ「やきもんのはじまり」沖縄亭ジャーガル&マージのご両人 どーぞっ! ちゃか ちゃんりん ちゃんりん でんでん♪ ↑ 出囃子マ:はーいっ! マージでぇ~す!ジ:ジャーガルでぇ~す! ふたりあわせてネンド漫才~!マ:キミ やきもんってどーやって始まったか 知ってるか?ジ:いや 知らんねーマ:ネトネトした土があるやろ いろんなとこに それが粘土やジ:うんうん ダンゴとか作ってあそぶわなーマ:その上を歩いたら足アトがつくやろ、ジ:つくつくマ:ほんで乾いたら足アトのついたまんま固まってるやんジ:そやねー乾いたらかたまってるマ:そやけど雨が降ったら溶けてしまうやろジ:そら雨ふったらもとの平らな地面にもどってまうわーマ:ところが大昔人間にもまだなっていない猿みたいな人が・・・ジ;ナンヤネンそれ 猿か人間かどっちやねんっ!マ:ま大昔の人間ちゅーことや その猿みたいなヤツが粘土に足アトのついた 地面の上で焚き火しよったんやぁジ:火は火山から持ってきょったんやな ま せいだい焚き火したらええがな 寒かったンやろしマ:そしたらな 次に雨が降ったらこの焚き火のまわりの足アトだけは溶けんと 足アトのカタチが残ってて水がたまってたんやてージ:ほーマ:ほかのとこは足アトもなくなって ネトネトの平らな地面に戻ってんのに これを見た頭のカシコイ猿みたいな人が・・・ジ:ナンヤネンそれマ:大昔の人間ちゅーことやがな そいつが「これはこの土と火が関係ある!」ということで、 ネトネトの土をお皿とかにして焚き火の火の中に入れよったんやジ:それが『焼き物』のはじまりかい ほんまかいなマ:ほんまほんま ほんでこの時代は刃物とかないから、 木を削って形を作ることもできへんかったけど、 粘土はそこらにあってカンタンに形ができるやろ(可塑性が高い) 焼いた壷とかに食べ物を入れたり(貯蔵可能) それを火にかけてやわらかくして食べれるし(調理可能) それまで石とか葉っぱの上にのっけてたのに、 やきもんの器の上にのせれるジ:けっこうなこっちゃなーマ:そうするとやな トクなことがいろいろあるわけやジ:そーかなー たとえばどんな?マ:やきもんを作っている猿みたいな部族の仲間は とても強よなったワケやジ:そらまたなんで?マ:前は生で食べてたから消化も悪いしお腹こわして早よ死んでたのに 壷のなべで調理したら、バイキンも死ぬし、栄養の吸収もええやろ とても強くなって、隣りの部族をやっつけにいく体力がついたんやねジ:なるほどなるほど 人類の大発明=やきもん ちゅーわけかぁマ:やきもん を作ってる部族はツヨクなって やきもん を作ってない部族を攻めてドレイにしたり 吸収合併したワケやジ:えらいもんやねー やきもん でそんだけ差が出るかーマ:出る出る そやから やきもん 世界のいたる所で自然発生したんらしいんやねジ:それどれくらい昔のこと?マ:世界でいちばんふるい土器は・・・ジ:いきなり学術的やなマ:BC12000年のニッポン製 そやし14000年前ジ:え~っ!ほんまかいや~~~~っ!マ:炭素年代測定でそーゆー結果やからまちがいないジ:そしたら中国わいマ:BC2000年 若いね アジア最古でも BC4750年 西アジアのハッスーナ遺跡出土 ジ:ほんまかいや~ ニッポンの縄文土器が世界でいちばん古いんかぁマ:土器=やきもんを発明したんはニッポン人や 学者はそんなこと大胆にきめつけるワケにいかへんけどなジ:ほんでやな~ニッポン人がやきもん好きなんはマ:そーゆーことジ:そろそろオレらも火ぃで焼いてもろて ヒトのくらしの役にたつ やきもんになろジ:そーしよー そーしよー===========================なにがしか みなさまのご参考になりましたでしょうか? もし そー思てくれはったら・・・ すんませんけど今日もまた ↓クリックしてもらえませんやろか お願いします 2位かな? 3位かな?
2006年04月26日
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