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いろいろと書こうと思ったこともあれば、コメントをつけようと思っていた日記もあった。が、今日は中止。私事ではあるが、悲しい悲しい報せを聞いた。 あまりにも矮小で失礼ですらあるが、当サイトは本日と明日、喪に服す。「しあわせになりたい、普通のしあわせでよいから」 と、多くの人が思う。それは本当に普通で、小さなことだと思う。 しかし辛いことというのは、簡単にあっけなく、降り掛かる。 人生における袋小路というものは、あっという間にやってくるものだ。 強くあらねばならない。 せめて、周囲の人が辛い時、その悲しみを救うことも支えることはできなくとも。「気にするな」と言う自分の言葉が、説得力をもつくらいには。 探し物は見つかっていない。 が、探し続けるしかない。
2005/01/30
好きなアニメキャラクターといったら、やっぱ004ですなあ(こんなもんまであるらしい)。 全身兵器の彼004は、「悪の組織が壊滅したら彼自身の存在価値がなくなる」という根本的なアイデンティティクライシスを最も感じざるを得ない立場なわけで。(まあ「火が吹ける」という特技もなかなか難しいものがあろうが、中華料理という特技と併せればなんとかなりそうな気も)「人」たることに悩む主人公は多いですが、彼ほど構造的に悩ましいポジションを与えられたキャラクターってのもなかなかおるまいて。この登場人物に、感情表現が最も容易な「瞳」を与えなかった石ノ森の手法は、見事としか言いようがない。 閑話休題。 たまにではあるが、仕事で若い女の子と一緒になることがある。 仕事なんだから仕事の話をしてりゃあいいのだが、そうも言ってられないタイミングってのはあるもので。「まあ何となくここは歓談して」というような時間があったりするわけだ。いやあるんだよ。ホントに。 もちろん若くて可愛くて機転の利く女の子と話すのは、私は大好きである。 大好きではあるんだが、これがなかなか困る。 せっかく話すんだから相手を退屈だと思わせないようにせにゃならんと考えるし、そうかといって若い女の子が好きそうな話題を年中チェックするなんてヒマは、当方にはない。 考えてみりゃ当たり前の話なのだが、若くて可愛い女の子というのは、たいてい「自分が話しかければそれだけで相手は喜ぶ」というのを意識的か無意識的かに関わらず、深く自覚している。 ニコニコしてりゃあそれでいい、と思っているフシがあるのだ。 いやあのね、オジサンいま少し困ってるんスけど。 そんなわけで、そういう時は食べ物の話を振ることにしている。「目玉焼きにはどんな調味料をかける?」とか。「パクチーが許せない俺は東南アジアには一生旅行には行けないのだろうか?」とか。 これで相手の出方を探り、機転が利きそうな子の場合は「あのね、どんな話題が好きなのかな?」とか正直に聞いてみることにする。なぜ「機転の利かない子」には聞かないかというと、機転の利かない子はたいてい頭が悪いので、こちらから好きな話題を聞いてまでその場を繋ごうとは思わないからだ。食べ物トーク続行。 少し困るのは、たいていの若くて可愛い子は「世の中のヒト科オスは全員、自分のことをよく知りたがり、それを契機に仲良くなりたがっている」と深く深く信じていることだ。すまん。正直いってあんまり興味ないこともある。 万が一このサイトを見ているなかで、「ショータとは食べ物の話しかしたことがない」という方。 すまん。あんまり興味なかったんだ。 あともうひとつ。 当サイトの1月25日付けの日記にて、私は以下のように書いている。> 大変興味深いのは、どちらの作家も代表作のテーマに「機械と人間」>を盛り込んだところだ。石ノ森の『サイボーグ009』や『仮面ライダー』、>松本の『銀河鉄道999』は、どちらも「機械化への警鐘」と「それに対>する人の葛藤」というメッセージを持つ。 石ノ森章太郎と松本零士についての考察(そんな立派なもんでもないが)なわけだが、上記文章を読んで、30代後半のアニメファンや強度のアニオタは「あれ?」と思うに違いない。たぶん。 それぞれの作品が持つテーマやメッセージ性に間違いはないのだろうが、実は『サイボーグ009』と『銀河鉄道999』は発表年次に大きな隔たりがあるのだ。『サイボーグ999』は初出1964年。『銀河鉄道999』の初出は1977年である。 漫画界で初出年次13年の違いといえば、二世代、三世代は違うと考えられるのが常識だ。 しかし、多くの方々はおそらく、『サイボーグ009』と『銀河鉄道999』のあいだに共通点を感じると思う。それは私が1月25日の日記で使ったように、「作者の誕生日が同じ」という、一見因縁めいたファクターに引っ掛けて話しを進めると、余計にそう感じるだろう。 しかしこれ、社会史学的に見ると大きな間違いだったりするわけだ。 なんでこんなことを書いているかというと、いま『監獄の誕生』をパラパラと手に取って眺めていたら、そのなかで上記のような態度をフーコー先生がえらいこと怒ってらっしゃるからである。 フーコー先生はいう。「いま、ここ、わたし」を中心に制度を語るんぢゃねえ。と。「もの」にはすべて固有の「前史」があり、それぞれの「誕生日」がある。 いっぽう、「いま、ここ、わたし」を中心に過去のものを語ろうとすると、どうしてもその過去のものは、「古いあれこれ」と一括されてしまう。 そんな論考は意味をなさない、ということをミッシェル・フーコーというハゲでホモの学者は書いている。あくまでも社会史学的に。 経験主義とプラグマティズムは似てるようで全然違うのだ。 それは圧倒的に正しい。正しいんだけども。面倒くさいから私はそういう見方を、時にはしょる。 しかもそれをあんまり悪いことだとは思ってない。 こっちはアンタみたいに誠実には生きられんよ。 探し物は見つかっていない。 これを読んでいる若くて可愛い子、アニメは好きですか? 私ぁあんまり見てません。『テニスの王子様』とか正直どうなの?
2005/01/28
朝からまったりダラダラな時間が続いている。 昨日、うーさー教授のところで「ハンドルネーム占い」なるものが紹介されていたのでやってみた。 中吉。 お似合いですよ、そのハンドル! 使い続ければ良い事がきっとあります。 だそうだ。 悪い気はしないが特に感慨もなし。中途半端な結果がでやがったもんだ。 探し物は見つかっていない。 本日は午後8時より同窓会。旧友に会ってきます。
2005/01/26
知り合いの女性が転職したり彼氏ができたり別れたりと、いろいろバタバタしている。いや自分にはあんま関係ないんだけど。当方はパラボラアンテナが配送されたのでスカパーに仮登録。どんなチャンネルを選ぼうかしらん。 でもって。 本日1月25日は、奇しくも故石ノ森章太郎と松本零士の誕生日である。 両者はともに1938年のこの日、片方は雪深い宮城県石森町で、もう片方は九州、福岡県久留米市で生まれている。『009』の作者と『999』の作者が同じ日に生まれているわけですな。 大変興味深いのは、どちらの作家も代表作のテーマに「機械と人間」を盛り込んだところだ。石ノ森の『サイボーグ009』や『仮面ライダー』、松本の『銀河鉄道999』は、どちらも「機械化への警鐘」と「それに対する人の葛藤」というメッセージを持つ。 両者が活躍した1960年~70年代、日本は高度成長期であり、機械産業化へ長足の進歩を見せた時期と重なる。そうした時代背景ももちろんあろうが、しかし、深読み好きの私としては、もうちょっとだけ考えてしまう。 両作家が活躍する以前の「機械のマンガ」といえば、『鉄腕アトム』(初出1952年/手塚治虫作)であり、『鉄人28号』(初出1956年/横山光輝作)であった。素朴な機械への信頼、期待が溢れていた時期から、それが不安に変わり、その移り変わりの底辺に「人間としての成長」を見出していく。そうした時代の感性に、石ノ森、松本両氏の作品がよくマッチしたのではないだろうか。 なお、上記の考察には『宇宙戦艦ヤマト』の存在をしらじらしく無視している。コスモクリーナーを求めて宇宙を旅する構図ってのが、どうも解釈が難しい。掘り下げていけば根っこのところで繋がっていそうなのだけれども。 っていうか、マンガ分析ってこんな素人が(あらすじくらいしか覚えてないのに)軽々しく手を出しちゃあいけんもんですな。自戒自戒。 探し物はまだ見つかっていない。 このログを書くためにちょこちょこ検索していたら、松本零士のインタビューを見つけた。示唆に富んでいてとても面白かったのだけども、「へぇ~」と唸ったのは以下の部分。=======<以下引用>======== あれだけ貧乏してても、私が漫画家になれたのは、日本は文房具が安かったということのおかげなんですよ。日本は、他の国に比べると、紙とか鉛筆とかインクとかが極端に安いんです。東南アジアの青年が来たとき、聞いてみて知ったんですけど、他の国では、紙が高い、ペンが高い、インクが高い、何か書こうとすると「生活が大変だからやめなさい」と親が怒るというんですね。日本では、一円で紙が三枚買える、ペン先も三本ですよ。鉛筆一本なんていくらもしない。湯水のごとく使ったって大したことにはならないね。五十円あればもう大長編漫画だって書ける。あとは揮なんかなくたって、寝っ転がってでもかける。そういう環境のおかげで、日本では漫画が大量に生まれたんです。どんなにバックグラウンドとしての生活が貧しくても、漫画を書くことは可能だったんです。それが、他の国では不可能だったんです。考えて御覧、鉛筆も紙もペンも全部輸入品だとしたら、子供には手も足も出ないでしょ。 だから、子供たちにふんだんに、紙、鉛筆、そういうものを供給すれば、今の大人の世代はだめでも、その子たちが大人になるときに威力を発揮するんだよ。子供に援助するときは文房具から始めりゃいいのになあなんて思ったりする。必ずしも学者かなんかになるとは限らない。それでもかくという作業はあらゆる基本を作ってくれるものだから。 『松本零士にきく』より=======<引用終了>======== 印象的な話である。 言うまでもなく、「マンガ(MANGA)」は日本が世界に誇る一大文化だ(サブカルチャーだけど)。その大成を支えたのは「安い紙」、製紙業の隆盛であったわけだ。 人が幸せに生きていくためには、衣食住のあとに何が必要なのか。考えさせられるインタビューであった。
2005/01/25
1月19日付けの日記にTBがついている。 まあTB先を読んでもらえば概要はわかると思うのだが、これについてグリグリと続ける気は、当方にはあんまりない。「鬼畜」というのは人物に対する評価を表わす慣用句であって、例えば「麒麟児」という言葉に対して「そうではない。人は麒麟ではない。人間だ」と応えるのはおかしいし、「馬鹿」という言葉に対して「そうではない。人は馬でも鹿でもない。人間だ」と応えるのはおかしい。「トンビが鷹を生んだ」という言葉に「人は鳥ではない」、「懐刀」に対して「人は刀ではない」、「目糞鼻糞を笑う」に対して「人は糞ではない」、「白眉」に対して「人はマユゲではない」と対応するのは、日本語の使い方に問題がある、というだけのことだ。 かつてネット思想界隈で「鬼畜」と呼ばれた人がいた。 勉強家で強烈な左翼だった。みすず書房から翻訳本をだすほどだった。 元気かな。 さておき。 りゅうちゃんさんには別のことでちょっと聞いてみたいことはあるが、いまここでやることでもなかろ、と思っている。りゅうちゃんさんがもしも、上記のようなことではなく、「私が言いたいのは、【鬼畜】という言葉そのものではなく、【鬼や畜生と称されるようなことを人間にさせてしまう戦争】が憎いのだ」と言いたいのであれば、改めてそう主張すべきだ。 今のりゅうちゃんさんは自分の主張に固執するあまり、「鬼畜と称されるようなことをしてしまう人間の性」には注目できても、「鬼畜と称してしまう人間の性」に目がいっていない。「言葉」には歴史がある。特に「鬼畜」という言葉には、そうとでも呼ばなければやり切れないほどの「痛み」や「死」が積み重なっている。 夜空を真っ赤に染め上げた焼夷弾、焦土と化した帝都の下、消し炭となった10万人の日本人が、どのような思いを込めて「鬼畜」と呼んだと思っているのか。 そうした重みを無視して「比喩として不適当」などと言うのであれば、それは単なる言葉狩りに堕する。 探し物は見つかっていない。言葉狩りに興味はない。
2005/01/23
掲示板のほうにお越し頂いている「ネット界最強新左翼」、帽子屋さんより、私が書いた以下、> 有史以来、人間社会は「主体性を持ち、かつ【国】という物語に>寄り掛からない人間」の集団を産み出したことは一度たりともない。 という書き込みに対し、「欧州のキリスト教民主主義者がいるだろうがゴルァ!」 というご指摘があった。えーと。あのー……。 キリスト教民主主義ってナニ? というわけで、気になっちゃって仕方がないので、仕事をほっぽり投げて変態らしくセコセコと検索して勉強中。 以下は現千葉大助教授である水島治郎氏が甲南大学助教授時代にまとめた論文(資料※)を半分ほど読んで、ザッとまとめたものである。ええ。まだ半分しか読んでません。 政治学の論文って【まだ比較的】、読みやすいっすね(何か激しく誤解中な私)。■キリスト教民主主義とは?・まずキリスト教民主主義という思想潮流は、日本に対応する思想的勢力が存在しなかったため国内研究が進んでいなかったという現実がある。らしい。(学術の世界だけでなく一般化もしていないと思われる。少なくとも私はほとんど意識したことがなかった。ただしキリスト者のなかではかなり一般化した思想であるようで、「キリスト教民主主義」で検索すると、一部学術論文、ミッション系大学のゼミ、欧州(英国、イタリア、オランダ、ベルギー等)の政党名と並び、教会のサイトがヒットしたりする)・19世紀中頃、自由主義思想による政教分離政策、特にその一環である教育の世俗化に教会勢力が激しく対抗し、これに中間層市民層の揺り戻し(自由主義思想の退潮)が加わって成立した■集団の成立と伸長の過程・当時は欧州社会の急速な産業化により旧来の緒社会関係が一変。産業の工業化に伴い都市部で発生した労働者問題や、市場経済の浸透による農村部への打撃により、社会問題の深刻化や社会主義運動の勃興を招く・そのような状況のなか、下級聖職者や地域の有力信徒層が中心となって独自の労働組織や雇用者団体、農村部では協同組合などを組織。独自の福祉・教育制度を充実させた・19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧州各国で政党化が進む。前出の各団体組織化が成功し、急速に伸長。当初は教育の世俗化に対抗するための組織であったが、労働者からも雇用者からも、そして中間層からもまんべんなく支持を集めることに成功し、各国で政界最大勢力となる■思想の内容・イデオロギーとしての特徴は、妊娠中絶や安楽死、同性愛への批判など倫理面での保守性を強く持ちつつ、経済面では自由主義勢力の主張する市場原理を、「それでは緒社会問題の解決が困難」として批判。そのいっぽうで階級闘争を否定し、労働者と雇用者の階級間協調を重視することで社会主義ともはっきりと一線を画す。自由主義と社会主義の間、「第三の道」を主張・カトリック民主主義は人間同士の相互依存を本質的なものと考えるところから(=連帯主義)、家族や地域社会、職能団体といったコミュニティが重要な価値を持つ。このコミュニティの集団的価値は、個人の自由、自己決定権に優先する(このへんはコピペ)・キリスト教民主主義がなぜコミュニティを重視するのか。ここで大きな影響を与えているのが、カトリックの社会教説に由来する「人格主義」(personalism)の思想である(Papini, 1997; Hanley, 1994)。この立場によれば、社会は孤立したばらばらの個人ではなく、社会的存在としての人格(person)によって構成される。そしてこの人格が開花し、実現されるのは、他の人格との交わり、具体的には教会や家族、地域社会といったコミュニティにおける交わりを通してであるとする。個人を単位とする個人主義的自由主義は、このコミュニティにおける人格の発展を無視しているという点で誤りとされる(このへんもコピペ)■管理人による考察と疑問・「階級間の連帯と共同体重視、倫理的には保守」というのは、日本で言うと近世的価値観に近いような。これはあくまで感想。この集団、共同体的価値観と個人的価値観の齟齬ってなかったのかなあ……。ニーチェあたりが思想的に突っ走って「個人」という概念を創出したが、それに一般市民が付いてこなくてここらへんに落ち着いた、という構図のような気がする・自由主義経済の急速な発展により発生した社会問題(特に教育問題)に対して登場したというあたりが大変興味深い。まさに現代日本のような気が。日本じゃもうとっくに民衆を支える中規模共同体(家族より大きく、地方自治体より小さい)なんて存在してないけど。教会があるから成立したのか?・明治維新の時にこの思想が大々的に入ってきたら、例えばキリスト教が国家神道に、神社が教会にすり替わって大発展した可能性もあるような気がする。って、無理か。日本の民衆は天皇なんてほとんど関心がなかったし毎週日曜に神社に行く習慣もなかった・で、肝心の「神」は? 神と個人の関係はどう処理されてんの?・「共同体」と「国」と「個人」はそれぞれ同等の主権を持つ、という思想的特徴があるらしい。それぞれしょっちゅう、しかも激しく対立しそうな気がするんだが。権利概念とは対立するものである。多元化されたアイデンティティはつねに葛藤がつきまとう、っていう考え方がデフォルトなのかしらん??・当該論文をジックリ最後まで読めば緒疑問は解決するのだろうか。まあ仕事がはねて時間に余裕があり、かつ興味が続いていれば読み進めるだろう。amazonで「キリスト教民主主義」を検索したら2件しか引っ掛からなかった。1件は絶版でもう1件はキリスト者の著作。ヲイ。どうしろと・探し物がまた増えた(T_T) 明日からまたしばらく更新が滞ります。よろしく。(資料※)「西欧キリスト教民主主義-その栄光と没落-」http://homepage1.nifty.com/protestant/politics/articles/mizushima01.doc(MS word文書)
2005/01/19
忙し過ぎてネットに逃避中。 泣くな俺。頑張れ俺。(自分で自分を励まし中) 『底抜け合衆国』(洋泉社刊・町山智浩著)、『犠牲(サクリファイス)』(文春文庫刊・柳田邦男著)読了。前者は特に秀逸。むちゃくちゃ面白かった。米国メディアの現状について、いま最も楽しみながら知れる本。 後者は脳死についての本。気鋭のノンフィクション作家に「脳死とは感情の問題なのだ」と書かせた気合いが感じられた。ただ、えてしてそういう感情を文章から受け続けると、えらいこと疲れる。体力がないと読破は難しいかも。(最近、本を読む体力が落ちたなー) 以下、かなりグダグダになった状況で書く。若いね、俺も。 仕事がはねたら買おうと思ってるのが『カブールノート~戦争しか知らない子供たち~』。国連職員である著者が、アフガニスタン(カブール)の子供たちと直に接した体験談をまとめたもの。 別に突然反戦平和に目覚めたわけではないのだが、<以下引用> 彼らの算数の教科書を見てみよう。 「カラシニコフ2本とカラシニコフ3本を足すと、カラシニコフは何本になりますか?」 「あなたはロシア人を3人殺しました。私はロシア人を4人殺しました。さて全部で何人のロシア人が死んだでしょう?」 彼らはこうやって足し算を覚えてきたのだ。「2本のバナナ+3本のバナナ=5本のバナナ」が僕の教科書だったろう。カラシニコフとバナナの差はとてつもなく大きい。いや、ロシア人の死体とバナナの差は人間の生きる次元を変えてしまうのではないか。外から「援助」という名の下でやってきたよそ者とアフガン人の間には、想像をはるかに超える大きなギャップがあるはずなのだ。 国際社会によるアフガン援助、その全体の中に決定的に欠けているものがあるような気がしてならないのはそのせいではないか。我々の多くはそのことを感じていながら、あえて考えようとしていない気がする。 無知が傲慢となるのはそんな時なんだろう。(中略)■10歳の少年の作文 僕は、戦車、カラシニコフ、地雷を知っています。でも、「平和」というのがどんなものか知りません。見たことがないからです。でも、他の人から聞いたことがあります。 僕はたくさんの武器を知っています。ほとんどの武器は、バザールや、街や、学校の壁や、家の前や、バスの中や、その他どこでも見られるからです。「平和」というのは鳥のようなものだと教えてくれた人がいます。また、「平和」というのは運だと教えてくれた人もいました。でも、それがどうやってやってくるのかは知りません。 でも、「平和」が来ると、地雷の代わりに花が植えられると思います。学校も休みにならず、家も潰されなく、僕も死んだ人のことを泣くことがなくなると思います。「平和」が来たら、家に帰るのも自分の家に住むのも簡単になると思います。銃を持った人が「ここで何をしている?」とか訊かなくなると思います。「平和」が来たら、それがどんなものか見ることができると思います。「平和」が来たら、きっと僕が今知ってる武器の名前を全部忘れてしまうと思います。<以下、紹介サイトであるhttp://homepage2.nifty.com/see-saw/something-senso1.htmより引用終了> 上記をたまたま読んで痺れたからだ。 特に後半の少年の文章は、ただただ圧倒的なリアリティをもって迫ってくる。 紹介サイトによれば、アフガンでは1979年のロシア侵攻からずっと、現在まで恒久的な平和が訪れたことはなく、結果、戦争しかしらない子供たちが溢れているという。 平和を鳥になぞり、地雷の代わりに花を植える。本来は古典的な、厳しい言い方をすれば陳腐なフレーズのはずなのに、そこに「アフガンの少年」という要素が加わるだけでここまでリアリティが増すとは。つか当たり前か。リアルなんだから。 某サイトコメント欄で「戦争」と「軍隊」についてちょこっとやり取り。「キミの書き込みには痛みが感じられない」 と言われる。こんなん読んでたら「痛み」など込められるわけがない。どれほどの想像力を持ってしても日本に生まれ育った者には辿り着けない「痛み」が、殺人にも戦争にもあるだろう、だからせめて極力冷静に、怜悧に書くしかないんだ、と書こうと思ってやめた。「カラシニコフ2本とカラシニコフ3本を足すと、カラシニコフは何本になりますか?」 という文章には、「痛み」は存在しない。ただただ悲しい現実があるだけだ。 探し物は見つかっていない。 共感した、などとは恥ずかしくて言えない。言う資格もない。そういう現実が、ある。 軍事関係の文章ばかり読んでいたので、少し神経がヒリヒリしているのかもしれない。 我々の税金を使って在日米軍は養われ、米国債が購入されている。このネットを繋ぐ通信費も、プロバイダが支払う法人税も、モニターやPCの購入費も、すべてが少年の平和を奪う一助となっている。 アフガンゲリラたちとは、地獄で会うことになりそうだ。
2005/01/18
(この日記は本サイト1月16日付けの日記からの続きとなるので、そちらを先にご参照ください) 続いて「米軍基地は負担となっているのか?」という点について。 某S氏さんは、>だからこそ「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業費」だの「沖縄米軍基>地所在市町村活性化特別事業費補助金」が支払われているんですよ。>それが平成15年度予算額で83億1700万円あるそうですが、基地に負担を追>っている沖縄県民に対する基地の負担を追わないものの出来ることです。>金を出すことを卑しいと言っちゃいかんでしょうな、それが平等な負担と言うもの>ですから。>>また基地による雇用は1万人前後だったと記憶していますがこれは沖縄県庁に>続く第二位だとか。>こう言うメリット面を全く無視して、デメリットばかり声高に叫んでも>「あっそ、で?」>と冷ややかな目で見られるのも仕方ないでしょう。 とおっしゃっているが、以下の答弁を見るとどうも日米両政府は現状を「平等な負担」とは思っていないようだ。>小泉内閣総理大臣から、沖縄には我が国に駐留する米国軍隊(以下「在日米>軍」という。)の施設・区域の七割以上が集中しているが、自分の内閣の大き>な課題の一つは沖縄の人々の負担を軽減することであり、日米関係を強化す>るためにもこのことが重要であることを是非理解してほしい旨述べた。これを>受けて、ラムズフェルド国防長官から、沖縄の問題については十分理解して>いる旨の発言があった。(04年1月の国会答弁書より抜粋) 負担金の額が適切であるか、そもそも負担金そのものが必要であるのか、という論議の以前に、負担金を受けている現状でもなお、「沖縄県民は(それ以外の都道府県民に比して)問題視すべき負担を抱えている」、少なくとも現状の日米両政府首脳はそう考えている、ということは言えよう。「沖縄県民はどう思っているか」については、県知事とラムズフェルドの会見をご参照いただきたい。 全文はこちら。ま、「感謝感激!」と思ってるわきゃないわな。 負担金がある現状でなお、沖縄が基地を歓迎しているわけでも納得しているわけでもないことはよくわかる。 以上が前提B。「前提」の最後、「在日米軍は日本政府の大きな協力によって支えられている」という点。 04年度の日本政府による在日米軍駐留経費負担(いわゆる「思いやり予算」)は、2441億円に達する。 これは米軍駐留の直接経費の約45%にあたり、この経費負担が始まった1978年から累計すると総額2兆円を超える。ちょっとクラクラしてきた。昨年末にやっとこさ250億円程度の削減案を日本政府が提出する、との報道があったが、に、したってねえ。多すぎだろ。 予算による提供施設内容はこちらを参照(01年度)。私、個人的には日共の議員は大嫌いなのだが、佐々木憲昭なる衆院議員がセコセコと調査したところによると、司令官宅には風呂が3つあり、その施設費用も当然思いやり予算が負担。>日本では考えられないことです。以前、「なぜお風呂が3つもいるのか」と私た>ちが追及すると、「体格がいいから」という答弁だったというのです。ここまでア>メリカべったりの政府ですから、ほんとうになさけなくなります。 私もそう思うが、アンタ国会で風呂の数を問題にしたのか。 もうちょいほかにやることがありそうだが……。 沖縄県に対する負担金が約80億円/年で、 在日米軍に対する駐留支援金が約2400億円/年ですか。 いやあ、県民ひとりあたりと軍関係者ひとりあたりの税金の掛け方を計算してみたいもんだ。面倒だからやんないけど。 もうひとつ資料を引用しておこう。こちらは米国側の認識。> 日本から作戦行動する米海軍は、世界で最も優秀な艦船修理施設を有している。>……その真価は、「砂漠の盾」「砂漠の嵐」両作戦における、空母ミッドウェー(その>後インディペンデンスと横須賀母港を交代)の艦載機は、一人の兵員も一機の航>空機も失うことなく、他のどの空母よりも多くの出撃をこなした。この事実は、在日>米軍基地で行われている訓練レベルの高さと秀逸なメンテナンスを証明している。>(「日米安保関係報告書」1995年3月1日) まだ読んでる途中の(ぼちぼち飽きてきた)『在日米軍』(梅林宏道著・岩波新書刊)からの孫引きであるが、少なくとも湾岸戦争時においては、世界に展開する米軍のなかで在沖部隊はナンバーワンの実力を示したわけだ。そりゃそうだ。世界一優遇しているホスト国があるわけだもんね。 いうまでもないことだが、この活躍の背後には、絶え間なく続く訓練による騒音被害を代表とした基地地域住民の犠牲、そして日本国民の血税によって提供される思いやり予算が欠かせない。少なくとも約45%(駐留直接費用の日本負担分)以上の貢献はしている。 以上が前提C。 前提A(沖縄に基地があることの最大の要因は、米軍の軍事的影響力を東アジア~東南アジア~中東に行使し続けること)、前提B(沖縄に基地があることで、沖縄には日米両政府が問題視するほどの負担がかかっていること)、前提C(在日米軍の駐留および活躍には、日本政府と日本国民の多大なる支援のうえに成り立っていること)、以上3つを踏まえたうえでの私の結論は以下のとおり。 (地位協定を含む)日米安保条約に基づいた在日米軍駐留と沖縄への集中という現状は、どう考えても「日本」にとっては不釣り合いなものであり、従って不利益をもたらしている。 私が調べた範囲では、沖縄に基地があること、それを日本政府が支援していることの最大にしてほとんどの理由は、「米国の軍事的影響力を東アジア~中東において支えること」にほかならなない。 上記の地域の軍事的影響力を米国が握ること、「それが日本の国益に繋がる」というのであれば、それは支払った対価(年間2400億円の駐留負担と地域住民への基地被害)に見合う国益でなければならない。 具体的に書こう。 現在スマトラ沖地震の復興支援で活躍する米軍に対して、確かに現地住民も現地政府も大感謝するだろう。 イラク戦争で「勝った側」についたイラク人たちも、侵攻してフセイン政権を倒し、現地のレジスタンス(米国務省定義を使用)をぶち殺しまくっている米軍に対して、感謝するだろう。 しかし現状、その感謝の約45%(しつこいが在日米軍駐留費における日本負担分)以上が、「米軍を支える日本という国」に振り向けられているだろうか? 国際的認識として、「不安定な狐」に最も軍事的影響力を及ぼしている米軍の約45%以上を、「日本という国」が支えていることは認知されているのだろうか? せめて日本国民や米国民には衆知徹底されているのか???? 私はそうは思わない。 私は反対するし、唾棄すべきものだとすら思っているが、米国の世界戦略に乗る、と、世界の1/3の地域が米国の軍事的影響下にあることが日本にとって最も有益だ、と、(ついでにそれが「保守派」として恥ずかしくない、と言うのであれば)これはもっと効果的かつ大々的に喧伝されるべきだ。 声を大にして「世界」に向けて発信すべきだ。「日本は多大なる負担を背負って世界の1/3の地域の安定に寄与しています」と。「その約75%は、沖縄に集中していますけどね」と。 長くなった。探し物は見つかっていない。 しばらく軍事関係はこりごりだ。非常に気分が悪い。
2005/01/17
土日はもうちょい時間が取れるもんだと思っていたのだけども、まったくヒマにならない。 今週はさらにバタバタする予定なので、面倒でも長いのを書いてしまうことにした。 具体的にいうと、本サイト1月7日付け日記の後処理ですな。大野さんがいなくなってしまったのでかなりやる気を失ってしまった。むうう。 ネット上で読み込んだ参考資料は前記のものが以下と、http://war.bbs.thebbs.jp/1085578827/72-http://www.town.kadena.okinawa.jp/place/base/kadenabase.htmlhttp://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=14&id=580&page=1http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200406110000 追加で以下。http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160801.htm 上記は>中国の台湾奪還も陳総統が憲法改正した場合には、米国は台湾関係>法の除外にする可能性がある。特に民主党のケリー候補は、昔から>親中派で知らる存在であるので、日本の反中主義者は痛い目に会う>でしょうね。親米派は親中派にならざるを得ないことになる。>スーパー301条も復活して、日本の自動車をターゲットにすると>噂されている。小泉さん大丈夫ですか?? のように眉唾もんの主張もあるのだが、軍事に疎い私はどれほど説得力があるのかいまいち不明なところがある。日本の自動車をターゲットにしたスーパー301条発令は、いまのところまったく現実味はない(バブル期と違い、発動して困るのは米国人工場労働者のほうだから)。 ついでに最後半部分などはほとんど電波にしか見えないのだが……。 さておきしかし、素人目には>勿論、中国の海軍の増強は凄いが、ロシアのキロ級潜水艦である。>ロシアの潜水艦は内部を木で構築しているために、火事に弱い。ま>だまだ、そのレベルは低い。発見さえできれば、攻撃は簡単である。>この発見のために、日本の保有しているP3Cが必要なのでしょう>ね。それより戦闘機のSU-27、30の方が怖いが空母がないと>グアムまで届かない。中国陸軍の多量のロシア製T-90、T->80は、在韓米軍の少数のM-1では防御できない。このため、大>陸からは撤退したのです。そして、その防御線を中距離ミサイルが>届かないグアムにしたのです。グアムであれば、中国の潜水艦さえ>防御すれば、米軍は当分の間安泰です。反撃もできる。日本は前線>基地、情報基地に格下げですよ。中国の攻撃から日本を守ることは>できないと見ているのです。SU-27、30の攻撃も受ける。 これには説得力があるような気がする。 中台情勢を中心とした東アジア情勢の監視任務と即応性については、偵察衛星と自衛隊からの情報リンクでフォローできるのでは? と考えればこのニュースも読み方が変わってくる。 ただ上記ログの「ロシアのキロ級潜水艦」というのがどの程度なのか不明なのはちょっと気になる。現在シナの最新鋭潜水艦は093型と呼ばれる「清(Qing)級」で、ロシアのヴィクター3級を元に造ったらしい攻撃型巡航誘導弾搭載原潜のようだ。これもP3Cなら補足できるのか?? 1番艦はすでに進水済みで2番艦、3番艦を建造中だそうだが。 戦略型原潜(094型)については長くなるので割愛。この最新艦は04年12月に「今後1~2年以内にも実戦配備」との報道があったらしいが、ここ日本ではシナの戦略型原潜は心配してもあんまり意味ないらしいし(日本への核攻撃は内陸のミサイル基地が担当するので)。 で。戦略的な話をするならば、ハッキリいって「台湾有事のための在沖米軍」というのは、論理的に矛盾している。台湾のために近域に米軍が必要だ、というのであれば、台湾に置くべきであって、沖縄県民が基地被害に晒されている必要性は低い。シナの弾道ミサイルは、大規模米軍基地があることによって沖縄へ照準を向けている。と思う。基地があることで沖縄の危険性が増していることは、論を待つまい。 誤解するバカがいそうなので書いておくが、これは「じゃあ台湾を見捨てるということか?」という話ではない。 これは、台湾の心配をする前に自国防衛の心配をすべし、という話しだ。 と、このへんまで書いてきて、ハッキリいってこの話題、かなり飽きてきた。 前出の『戦争学』(松村劭著・文春新書刊)、『在日米軍』(梅林宏通著・岩波新書刊)は読了したのだが(後者はいま半分くらい)、鳩さんよりお薦めがあった『新・戦争学』や『ゲリラの戦争学』まで読む気にはちょっとならない(鳩さん、もし『戦争学』をお持ちなら同書P181~182をご参照ください。「集中の原則」が「分散の原則」と表裏一体であることが大変論理的に書いてあります。ROM向けに書いてしまいますと、相手に「集中の原則」を容易にさせないために、防御側は適切な分散が必要だ(大意)、とあります)。 ので、途中をすっ飛ばしていきなり結論めいた部分に飛ぶ。 米軍が沖縄に基地を集中させるのは、このサイトに訪れる方々ならば誰もが気づいているだろうが、北東アジア~東南アジア~中東に渡る地域(「不安定な狐」と呼ばれる地域らしいが、広すぎだ。地球の1/3ぢゃねーか)において、軍事的影響力を行使するため、という要因が最大である。 極東条項(日米安保条約第六条「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」)があるのにね。変な話だ。 ここらへんのニュースを詳しく知りたい方はこちらを参照。横田基地にある第五空軍司令部のグアム移転が白紙になったらしいね。 イラク戦争については日本全土の米軍基地が「イラクへの出撃基地」になったようで、いまいち「在沖米軍」という括りで考えることは難しいが(イラク戦争における在日米軍の活躍っぷりはこちらを参照。うむむ、ついに赤旗にリンクしてしもうた)、スマトラ沖地震の復興支援については、なかなかわかりやすい構図が露呈した。 今回の大地震復興支援のため、タイのウタパオ基地に設置された米軍前線司令部の司令官に就任したのは、沖縄地域調整官を務めるブラックマン中将であり、海兵隊を含む多くの在沖駐留米兵が各被災地に派遣されている。むろん輸送ヘリを中心とした多くの軍用機・軍用艦も、沖縄からインド洋へと向かった。 (むろん沖縄からだけでなく)世界中の基地から派遣された米軍の「災害救助部隊」には、明確な目標がある。 現地を視察したパウエル国務長官がジャカルタでハッキリと述べたように、「貧困がテロの温床になる」、「テロリストは豊かな土地には根付かない。米国の被災地支援は米国の国益であり、被災国の国益でもある」(ソースはここね)というように、東南アジア最大のイスラム大国であるインドネシアにおいて、イラク戦争で下がりに下がった「米軍の評判」を向上させる役割を、この被災地支援は担っているわけだ。 そしてその中心には沖縄から派遣された司令官がおり、米本土から遠く離れた東南アジアにおいて、米軍が迅速かつ効果的に働き、【米国の】国益に大きく寄与したのは、沖縄に大規模な基地があったからにほかならない。 以上が前提A。(明日ぶんの日記に続く)
2005/01/16
ただいま『戦争学』(松村劭著・文春新書刊)、『在日米軍』(梅林宏通著・岩波新書刊)を購入し、泥縄ながらも勉強中。>関係者諸氏 まあ気長にいきましょう。途中で飽きてやめるかもしれませんが(笑)。 で、仕事はあいかーらずバタバタしている。のでちょっこりだけ更新。 なんでか知らないが、直木賞受賞会見をラジオで聞いていた。 受賞者である角田光代さんに、司会から昨秋に亡くなった母親について振られると、「一番初めに伝えたかったのに。寂しくて悔しいです」と答える角田。 その瞬間ラジオのスピーカーから「バシャバシャバシャ!」という音が響く。 詰め掛けた記者団たちのシャッター音ですな。それを聞いて角田が泣いていることがわかったのだが、なんだか白けた。お前ら待ってたろ。そういうのを下品というのだ。 むろん、彼らは「仕事」でやっているわけで、それが「商売になる」から「下品だと思っても」、お涙頂戴を期待し、時にそれを演出して、提供しているわけだが。 なんでこんなことを書いているかというと、「今年は比較的おとなしかった」という成人式のニュースを見たからだ。 なぜ毎年毎回、TVクルーや新聞記者たちが成人式会場に行くかというと、そこにニュースソースが転がっているかもしれない、と思っているからだ。この場合のニュースとは、要するに事件や痴態である。言うまでもないことだが、「新成人たちの痴態」の要因のひとつには、この「周囲の(事件・痴態への)期待」がある。 私は新成人にまったく関心がない。従って彼らがいくら騒ごうが喚こうが、私の認識や価値観に影響を及ぼすことはまったくない。放っときゃいいのに。親でもないのにさ。 探し物はまだ見つかっていない。 自分の成人式の日のことは、まあ覚えてはいる。あの頃に戻りたいか、と聞かれればたぶんYESと答えるだろうが、その根拠は薄甘い感傷と本能による忘却だろう。
2005/01/14
1月7日付けの日記でのコメント欄が盛り上がっているようで。 まずはなにより。いまのところ管理規定(管理人の好み)に引っ掛かるような書き込みはされていないので、続けてくださって結構です。私も後ほどいただいたレスへの返信を書き込みますが、まずは通常の日記などをつらつらと。 一昨日よりセッセと年賀状を専用のバインダーに整理していた。 仕事関係の知り合いと学生時代の友人のものを振り分けている途中に、ふと手が止まる。 大学時代の同級生からの年賀状。学生時代はよく一緒に飲みに行った。 子供の頃に父親を亡くし、高校時代に母親を亡くし、学費と下宿代をバイトで稼ぎながら通っている女の子だった。当時流行っていたテレクラのサクラをやっており、酔っぱらってそのことについて何度かからんだ記憶がある。 バイト代なら家庭教師のほうが効率がいいだろ。なんでそんなバイトを? 家庭教師の協会に登録するのに保証人が必要で、その保証人が見つからなかったの。それで諦めてから探してない。 将来はMBAを取りたい、そう言っていた。 卒業してからも付き合いはしばらく続き、年に1~2回新宿で合って近況を報告し合っていた。結婚する。そう聞いたのは7年ほど前。相手は彼女が就職した小さなイベント会社の部長さんで、バツイチ子供なし。 相手の離婚の理由は聞いたの? ううん。でもどんな理由でも構わないかな、と思えたから結婚する。 ちょっぴりほろ苦かったが、祝福した。 それからずいぶんと疎遠になっていた。さすがに旦那持ちの元同級生を飲みには誘い辛い。年賀状のやり取りだけが、ほそぼそ続いていた。 パソコンで編集されたと思われる「鶏」の絵と「2005年」と、「あけましておめでとうございます」という文字、それに送り主の住所と電話番号。差し出し人の名前の横にちょこんと手書きで「今年は旧姓に戻るかもしれません」と手書きで書いてある。 ほかの同級生から「激しいDVの被害にあっている」という話を聞いていた。 マルクス経済学の重要な知見のひとつに、「人間社会は(正確には「人類史は」)螺旋状に進化する」というものがある。「これはいつか体験した事態に似ている」と思っても、昨日より今日、今日より明日は、少しだけ前に進んでおり、「いい時があれば悪い時もある」。しかし人は、人間は、人間社会は、前に進んできたし、これからも進んでいくのだ。 かなり乱暴な解釈だが、私はそう理解していた。 そんな話を、彼女を相手に新宿のきったねえ飲み屋のカウンターでしたことをいま思い出した。 この知見が魅力的なのは、現在の状況がどうであれ眠れば日は昇るし月は沈む。そうした自然科学の絶対的な法則に拠っているところである。「未来」以外の何物も持たない、まだ何者ですらない若者たちにとっては、「今日より明日はマシだ」という知見は、素朴に科学理論として信じられるだけの説得力があった。 しかし。学校を卒業して仕事に就き、家庭をもって何年も経つと、その知見の重大な欠陥に気づく。人は、人間は、人間社会は、いつでも最悪のゼロ地点に戻る可能性があるということのほうに、説得力を感じてしまうからだ。 いま目の前に年賀ハガキがある。 電話しようと思うのだが、かける言葉が見つからない。 探し物はまだ見つかっていない。当たり前の話ではあるが、その子は当時、とても可愛くて頭がよかった。付き合ったことはないけどね。
2005/01/10
本日はちょっと長いのを書きます。 私は昨日の日記で以下のように書いている。> 有史以来、人間社会は「主体性を持ち、かつ【国】という物語に寄り掛か>らない人間」の集団を産み出したことは一度たりともない。> さらにいえば、そうした「主体性をもった個人」が形作る「近代国民国家」>なるものは、実現性が限りなく薄いという点において、共産主義者が夢見>た「ユートピア」と同じである。(キッパリ) ちと説明というか補足を。「近代国民国家」とは、主体性をもった「個人」が、それぞれの信念に従い、確立された「個」の判断によって「国家」を運営する政治的共同体のことだ。少なくとも今から130年ほど前に日本にこの概念が輸入されてきた時、福沢諭吉というオッサンはそのように分析した。 ひとりひとりが「主権」を持ち、その判断によって形作られる強力な共同体。その構成員はそれぞれの主権をそれぞれの判断によって「国家」に譲り渡す。そうした人々を「国民」と呼び、「一般意志」なるものを創出する。 しつこいようだが、「国民」による「一般意志」によって運営される共同体を「国民国家」と呼び、いちおうそれが現在の「近代国家」の有り様の基本となっているわけだ。(byルソー) 近代主義者たちによれば、ヒト(人類全般)には犯すことが許されない「権利」が生まれ持って存在しており、それを「人権」と呼ぶ(その権利内容は地域によって変わる。らしい)。 その人権には多くの場合において「主権」が認められており、現在世界中のさまざまな地域でこの「主権」が侵害されているという状況がある、と。主権には二種類存在し、ひとつめは「国民国家」が「国民」に対して保障する(保障すべき)「個人主権」。もうひとつは「国家」が他の国家に対して保障する(保障すべき)「国家主権」。 以上ここまで前提。 で。 上記のような前提がある以上、「世界中のあちこちで主権侵害が巻き起こっている」のは、「前提が徹底されてないからだ! 徹底しろコラ!」と主張する人々がいる。つまり「(近代主義に基づいて)個人と国家の主権をちゃんと守れよコラァー!」と言っているわけですな。 通常、それが広義の近代主義者と呼ばれる人々であり、彼らの信奉するイデオロギーを「近代主義(モダニズム)」という。 80年代初頭から現代にいたるまでの情勢が、思想界を中心にして「ポストモダン(近代以後とか近代後期とか訳される)の社会」と言われているのは、この近代主義を否定し、超克し得るイデオロギーがまだ【新たに】誕生していないからだ。(「ポスト」は「以後」である以上、「近代(モダン)」から抜け出していない、という意味も含まれる。近代主義とポスト近代主義の違いについては長くなるんでまた今度) ちなみにこの「近代の超克」というのは思想界では古くて新しいテーマで、その端緒は1942年にすでに『文学界』という雑誌で当時の知識人を集め、同テーマでの座談会が開かれ、昨今でもその座談内容が物議を醸していたりする。 ここでは日本における政治状況をターゲットにして話を進めるが、19世紀後半に入り、それまで約三世紀に渡ってアジア極東の列島で平和かつ豊かに暮らしてきた人々(除く琉球)が、突然なんでこんな七面倒臭い「制度(システム)」を大急ぎで導入せにゃならんかったか、という理由は主に2つ。 産業革命の延長線上で世界が小さくなり、名実ともに「他者」である欧米列強が出現したこと。もうひとつは坂本龍馬を含む勝海舟・佐久間象山一派がうっかり「列島を丸ごと近代国家にすりゃあこのピンチを乗り切れるんぢゃね?」と気づき、それが世界情勢の潮流に奇跡(これを「維新回天」と呼ぶ)のようにハマりまくったこと。 少なくとも私はそう認識している。(俗に言う「司馬遼太郎に騙され組のイデオロギー」) で。で。「世の中、もうちょっとよくしたいなあ」と考える人々が、この近代思想の徹底化を唱えることについては、論理的に否定するのは非常に難しい。なにせ現代社会はその思想に基づいて作られた「近代国家」で埋め尽くされているわけで、その国家を支える根本的なルールが近代主義に基づくのは当然とも言えるからだ。 言い換えるならば、彼ら近代主義者は「ルールを厳密に守れよ」と言っているわけですな。 ここ日本国内において「ルールが守られていない状況」の最も顕著な例は、在日朝鮮人と象徴天皇制、それに在沖米軍基地に見て取れる。この3つは、「それが存在すること自体によって」、本来平等であるべきはずの「人間の主権」が侵害されており、それが国ぐるみで黙認されている。 だからこそ、日本の近代主義者たちはこの上記3つの問題に強い関心を寄せ、特に改正を求めるわけだ。まあルールに従うなら、そうだわなあ、となる。 で。で。で。 在沖米軍基地について、特にそこに駐留する米兵の犯罪については、現在楽天内の某所で議論になってたりするのだが、小生感心のあるテーマなれどもいまいち参戦する気になれない。(とりあえずTBは打っておきます。感謝) 米兵の犯罪については、一般沖縄県人と駐留米兵との犯罪率を比較し、それがほぼ同程度だというデータをもとにして、「駐留米兵の犯罪をことさら強調し、一般米兵まで犯罪者と見るのは、それは差別だ」と言われて糾弾側が劣勢に立たされているようだが、そんなもん差別に決まってまんがな。それは最初から踏まえておこうよ。 なんで自衛隊員や警察官や政治家が犯罪を起こすとより大きなニュースになるの? なんで国内で発生した誘拐殺人よりも北朝鮮工作員がさらっていった拉致被害者問題のほうがヒートアップするの? 近代主義に基づいて作られた近代国家という共同体には、重要なルールがある。 それは構成員たちが創出する一般意志に基づいて、「国家が暴力の集中管理をする」ということだ。国家は構成員たちから「暴力」を取り上げ(だからこそ日本では江戸時代まで部分的に認められていた個人の「復讐権」、別名「敵討ち権」が認められていない)、その変わりに「警察」という「内」に対する暴力と、「軍隊」という「外」に対する暴力を、集中管理・管制・行使するわけだ。 それらはあくまで構成員の要望に基づき、公共益のために行使されるという目的があるわけであって、それが構成員個人に対して不当でしかも不法な行使のされ方をしたのであれば、他の構成員より高い倫理が求められ、その犯罪についてはより問題視され、厳しく罰せられるべきのは当たり前。 それが差別だ、というのであれば、当然差別ですよ、と言うしかないではないか。 それから、この問題は辿っていくと必ず日米地位協定、さらに辿ると日米安保、ついでに純思想的な問題として「日本人ってどんな人を指すの?」という大変やっかいなことに言及せざるをえないと思うのだが、どうなるんでしょうな。 うーむ、話題の端緒である「国歌と国旗」からずいぶんよれたような気がする。 とりあえず探し物は見つかっていない。これもまだ続きそうな気がするが、続かないような気もしている。どっちだよ。
2005/01/07
えー、いきなりこのログを読まれた方は「なんのこっちゃかわからん」となるのを承知で書いている。ので、まあザッと説明をば。 このログを書くことの契機は、まずkimdongsungさん(以下、勝手に「kimさん」)という方のサイトにある12月17日付けの日記「日の丸の話」に関して、私がコメントをつけたことにある。 そこでのやり取りは99年8月に施行された「国旗及び国歌に関する法律」(いわゆる国旗国歌法)についての、言ってみればよくあるやり取りだった。管理人さんであるkimさんがその法律自体とそれにともなう各教育委員会等が教師を含む公務員に対して実施せよと命ずる「義務」に疑問を投げ掛け、それに対応する手段について異論反論が飛び交っていたわけだ。 このサイトをよく見に来る政治思想議論バカ(私のことですよー)にとっては「いまさら」なテーマのひとつではあるのだが、まあちょっとだけお付き合い願いたい。 国旗国歌法に関しては、施行当時の99年から右やら左やら保守やら革新やらがガッツリ対峙して正反対の主張をする、非常にわかりやすいテーマであった。 今もまあ決着はついたとは言えないのだが、04年3月に都教委が「卒業式の国歌斉唱時に起立しないなどの不適切な行動をとった」として教職員200人を処分したり、同じく04年10月の園遊会で天皇陛下が「(国旗掲揚、国歌斉唱は)やはり、強制になるということではないことが望ましい」とおっしゃられたり、適度な時期に適度な量の「燃料」が投下されている。(ところで陛下、日本語が変です) こんなこともあって今も喧々諤々の議論になってるところではなっている。らしい。 ここらへんは大新聞が真っ向から対立しててなかなかファンキーな状況なので、そこらへんを詳しく知りたいかたはここらへんを参照のこと。 ところで上記リンクの愛・蔵太さんって昔、辛口で有名なテキストサイトレビューとかやってた方かしら? まあええか。 話は戻ってkimさんのサイトである。 ここで私が一番興味を惹かれたのが、秀0430さんという方の投稿だった。 手っ取り早く秀さんの主張を要約するのは時間がかかりそうなので、まとまったところを見てもらうとすると、これである。 上記リンクログにある意見について、どうにも疑問が湧いたのが、本ログを書くキッカケである。 礼儀とすれば当該ログのコメント欄に付けるべき考察ではあるが、秀さんご自身が「議論などせずに、自説を展開していればそれで十分です」 とおっしゃる。 まあそうおっしゃる方のサイトに無理くり押しかけるのは好みではないので、自分のサイトで自説を展開することにした。ともあれ、当ログに辿り着くまでにいくつかの質問を秀さんに投げ掛け、それにご回答いただけたことでいくつかクリアになった部分がある。まずはそれを嬉しく思いたい。 また、私が考える疑問点の多くが、下記に引用する秀さんの言説部分にあることをまずは明記しておく。(以下引用)>日の丸・君が代が今のような使われ方をしている限り、僕は日本人は>真の主体性を持ち得ないのではないかと思っている。主体性を確立>するという国民益に対して、日の丸・君が代は、それを阻害する要素>になる。だからこそ僕は、その押しつけに反対するということをもう一>度よく考えてみようと思う。>>(中略)>>日本社会は、遅れて近代化への道を歩んだ国だったので、国民の成>長と自覚によって愛国心を育てた国ではなかった。国としてのまとまり>がなければ、進んだ国である西欧に屠られてしまう。その危機感か>ら、早急な近代化を図らねばならなかったのだが、そのために上からの近代化の注入として天皇制を利用したというのが、社会学的な理解>ではないかと思う。>>このことによって、国としての近代化は成功したが、国民一人一人>は、主体性を持つという近代化は出来なかった。天皇の判断に寄りか>かる、非主体的な人間が大多数を占めるようになり、それを再生産す>るために、日の丸と君が代が利用された。日の丸・君が代の特殊性に>は、この主体性を失わせる国民を育てたという面があると僕は思う。こ>れを克服しない限り、これが強制されれば、また主体性のない国民>を育てるのに利用される恐れがある。これこそが、日の丸・君が代の>強制に反対しなければならない最大の理由ではないかと僕は思う。(引用終わり) 上記のログで秀さんが持っている問題意識については、先ごろ本サイトの掲示板に来て頂いた「帽子屋」というハンドルネームの近代主義者と、03年3月頃に語り合ったことがある。ケチョンケチョンに叩きのめされたような記憶があるが、当方当時よりはもうちょっとだけ知識が増え、変わりに少しバカになり、そのおかげか意見も微妙に変わっている。 その時のログを知るのはこのサイトの閲覧者のなかで4名ほどいらっしゃるとは思うのだが(むう、意外に多いな)、その方々も気乗りがすればぜひ参加してほしい。 少し補足しておくと、秀さんが「日の丸・君が代」について、単なる旗、単なる歌との違い、すなわち「特殊性」を見出したのは圧倒的に正しい。確かに「日の丸・君が代」というものは構造主義的な意味合いにおいて、強く強く「国家」という「幻想の想像体」と結びついている。 秀さんが意味じくも語ったように、「シンボル」という意味での「国歌・国旗」とはそういうもの(シニフィエとシニフィアンが結びついたもの)であるからだ。逆に言えば、強く「国家」と結びついていない「国歌・国旗」というものは存在しないし、仮に存在したとしても意味がない。(同じように「日本を連想させるもの」には、特別な意味合いが常にまとわりつく。「桜」は「梅」よりも特殊性を持つし、「富士山」は「磐梯山」より特別な意味合いを持って使われる) 例えば「日の丸」を「ハートマーク」に、「君が代」を『Yeah!めっちゃホリデイ』に代えたところで、たいした意味はもたない。それが背後に「日本」というシニフィエ(意味されるもの、意味内容)を持つ限り、その歴史性や政治性からは逃れられないからだ。 しかして私の論点はひとつ。 有史以来、人間社会は「主体性を持ち、かつ【国】という物語に寄り掛からない人間」の集団を産み出したことは一度たりともない。 さらにいえば、そうした「主体性をもった個人」が形作る「近代国民国家」なるものは、実現性が限りなく薄いという点において、共産主義者が夢見た「ユートピア」と同じである。(キッパリ) 探し物は見つかっていない。この話はもうちょい続くかもしれない。(続かないかもしれない)
2005/01/05
『劇場板 さよなら銀が鉄道999 アンドロメダ終着駅』をわざわざレンタルビデオ屋行って(DVDはレンタル中だったので)ビデオ版を借りてきて、DVDデッキ外して、しまってあったビデオデッキを接続して観劇。 むうう……。おかしい。確かこれ、20年くらい前に見た時はずいぶん感動したはずなのに、今見ると意味不明っつーか伏線外しまくりっつーか。シナリオとして破綻しているような気がするんですけど。 あらすじと真っ当なレビューはここらへんを参照のこと。 観劇後、納得のいかない点をザッと書き記すと、・「黒騎士ファウスト」の登場が突然すぎ・ハーロックとエメラルダスの登場が都合よすぎ・「サイレンの魔女」なる存在が意味不明すぎ・メーテルが親不孝すぎ こんな感じで物語のキーワードになる人物にことごとく「?」マークがつくのはどーなのよ。 全体に流れるテーマを「エディプス・コンプレックス」にもっていった手法は1981年という公開年次とアニメという表現方法を考えれば評価できるものの(メーテルが「母の跡を継いで女王に即位する」というのと「鉄郎が何をしてもついていく」という、二重の意味で母親的な存在であることは論を待たない。と思う)、ここまで強引な話のシメ方をして、当時のファンたちは怒らなかったのだろうかと余計な心配までしてしまった。 ポストモダン的に考えるならば、機械化人間の食料が(人間の)「命の火」だと知った鉄郎が、怒り狂って母星大アンドロメダを破壊するわけなのだけれども、大金持ちしか乗れないという「銀河鉄道999」に乗り、さんざん旅して回った鉄郎に果たして女王プロメシュームを道義的に非難する資格があるのか、とも思ってしまう。 少なくともそれ(機械化人間の食料の元ネタが人間の「命の火」だということ)を知らなかった、メタルメナを口汚く罵る資格はお前にゃねーだろ。 なんてことをブツクサ言いながらエンドロールを眺めていたわけだけども、どうにもそういったことを考える人間は、このアニメを楽しむ資格がないんじゃないか、ということのに気づいたり。新年早々複雑な気分になりマシタ。はい。 年末に32型液晶TV(悩んだすえSONYの「WEGA」に決定)とHD&DVDレコーダー、それにパラボラアンテナとスカパー用チューナーを買った。 新宿の「さくらや」と「ビックカメラ」で見積もってもらったのだが、店員の態度が極悪。スマイルも有料のようですな。ははは。説明を受けている最中に「もういい。ここでは買わない」と言い捨てて、店員の態度が一番よかった「ヨドバシカメラ」で購入。金額もなんだかんだでヨドバシが一番安かった。 さくらやとビックカメラ、こんなんであの激戦区で生き残れるのか? 探し物は見つかっていない。さくらやとビックカメラでは、もう二度と何も買わない。
2005/01/04
今年も当サイトをご愛顧のほど、よろしくお願いします。 はてさて新年ではあるが、忙しいには忙しいのだけれども、微妙に時間が開いたりして、その間なにをしているのかというと、本を読んだりしている。正月のあいだに読んでおこうと思った本は数冊あるのだが、とりあえず読了したのは 『銀河鉄道999』(松本零士著・少年画報社文庫) 全12巻、古本屋で一気に買って一気に読んでしまった。 最初に上記のマンガに触れたのはおそらく小学生の頃だったように思える。今回突然思い立って全巻そろえてしまった。ついさっき12巻を読み終えたところなのであるが、本棚をガサゴソと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がどこかにあったんじゃないかと探し中。新潮文庫でずいぶん前に買ったはずだ。 う~ん、見当たらない。 パソコンでパパッと検索すると、青空文庫に入っているらしい。 いまダウンロードしてみたのだが、どうにもPCの画面で読む気にはなれず、いまプリントアウトしている最中。全部で12枚だそうだ。長いな。文庫で読むとあっという間のような気がしたが。 宮沢賢治についての勉強は学生時代にザッとした覚えがある。彼が熱心な日蓮宗徒であったことや、現在刊行されている『銀河鉄道の夜』が改稿を重ねたもので、最も一般的なものが第四稿であること。その作品は死後、遺稿として発表されたものだということは知識として知っていた。 最初に読んだのは高校時代だったろうか。『注文の多い料理店』に比べればレトリックが少なく、透明感はあるけれども物語的な面白さには欠ける作品で、子供が読んでも退屈だろうなあなどと思っていた。 おそらく今読み返してもあんまり感想は変わらないだろうなあ。『銀河鉄道999』と『銀河鉄道の夜』、両作品の共通点は意外と少ない。舞台となるのがSLをモチーフとした銀河鉄道の客車内であること、客車内で旅を続ける2人の会話が物語の中心となること、そして「死」が物語の端緒となること。ザッと考えてこの3つくらいだ。 このうち最後の共通点は意外と根深い。『銀河鉄道の夜』ではカムパネルラが友人のザネリ(こういう登場人物の名前はなぜか覚えていたりする)を救うために冬の川に飛び込み、浮かんでこない描写が最後に展開される。 いっぽう『銀河鉄道999』では、母を機械伯爵に殺された星野鉄郎少年がメーテルと「機械の体をタダでもらえる」というアンドロメダ星を目指す旅に出る。 友人カムパネルラと母親の「死」。 このふたつの事件が、主人公が銀河鉄道に乗ることの契機となっている。『銀河鉄道の夜』には根底に「自己犠牲」というテーマが流れ、『銀河鉄道999』には「少年の成長」というテーマが描かれている。 プロットとしては 「事件」→「旅立ち」→「見聞」→「同行者との別離」 と、ほぼ同じ流れを踏襲していても、中身はまるで別物といってもいい。 夜空を見上げ、そこに「遥か銀河の彼方へ向かう列車」を夢見た2人の表現者、宮沢賢治と松本零士。彼らが描いた2つの世界観の違いは、そのままズバリ、両者が見ていた「未来」、こことは違う旅の行き先の違いに投射されている。 すなわちそれは、それぞれの「こうありたい」という姿に思えてならない。 物語の最後に、ジョバンニはカムパネルラが川に落ちたことを知っても、「ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラと一緒に歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした」 としか行動できていない。 ただジョバンニは、父の帰りを母に知らせるために家に走るのである。(ラストだけ確認した。プリントアウト完了) 星野鉄郎であればどうしただろうか。 ひとつジョバンニのためのフォローを加えるとすれば、ジョバンニは友人カムパネルラの死を物語の最後まで知らず、いっぽう星野鉄郎は母の死を踏み越えてから、物語に旅立つ決意を固めるという違いがあることか。 探し物はまだ見つかっていない。 あとでレンタルビデオ屋に『さよなら銀河鉄道999』を借りてこよう。今年もよろしく。
2005/01/02
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