何でも雑記帳

何でも雑記帳

PR

×

プロフィール

あいうえお5532

あいうえお5532

カレンダー

コメント新着

ななしのななこ@ 今でも見てる人いるかな? これらちょうど10年前の記事になるんです…
MerillvumeK@ услуги грузчиков москва [url= <small> <a href="https://bestgruz…
Lucidus@ Looking for pad for the site Hi everybody! Recommend dear amigos[ur…
Lucidus@ Looking for hosting for the website Hello! Recommend expensive amigos[url=…
MilaBisa@ Need CMS for service page with documentation. Hello everybody. Looking for engine fo…
DarHok@ Looking for hosting for the site Hello everyone! Tell Please dear amigo…
DarHok@ Looking for pad for the website Hello! Advise expensive buddies[url= <…

バックナンバー

2026年06月
2026年05月
2026年04月
2026年03月
2026年02月
2026年01月
2025年12月
2025年11月
2025年10月
2025年09月

フリーページ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2008年08月20日
XML
カテゴリ: 斉藤啓一

(質問SAさん)  

洋の東西を問わず、ずっと以前から聖人、覚者と呼ばれる人達の多くが迫害や虐待そして不当な差別を受けてきました。組織から追い出されたような人もあります。確かにそういった状態にならず生前から尊敬を受けていた人達もいますが、圧倒的に少数であると感じています。キリスト教(カトリック)には、殉教した人間や迫害を受けた聖人が特に多いですが、ただ単なる政治的、思想的な理由だけではないのではと思います。「愛」を体現している存在に、なぜ恐ろしいほどの試練を"人間によって"与えられなければならないのか大変疑問です。どのようにお考えになりますでしょうか?

(回答)

それが人間によってであれ、あるいは何らかの事柄によってであれ、なぜ、愛ある人が、なぜ善人が、ひどい苦しみや試練を受けなければならないのか? 一方で、なぜ悪い人が栄えるのか、なぜずるい人が幸運な人生を送るのか?

 善人が苦しむのを見ると、この世に神は存在するのかと思いたくなることもあります。人によっては、『ヨブ記』で語られているように、神には計画があるのだから、人知では計り知れないのだ、つまり、その苦しみが与えられたのは、結果的にそれでよかったのだ、という人もいます。理屈では確かに筋が通っていますが、問題を不可知の領域にあずけてしまっただけで、何の説明にもなっていません。要するに、そのことを信じられるか、信じられないか、という信仰の問題になってしまうのです。
 しかし、実際のところ、このような不条理に対して、信仰の要素をまったく除外して、だれもが納得のいく理性的かつ合理的な説明というのは、果たして存在するのかどうか疑問です。まして、その説明によって、何の罪もないのにひどい苦しみにあっているすべての人が納得し、慰めを得てもらえるような説明は、少なくても、私にはできません。どうしても、最後のところでは、信仰的な要素が入り込んでしまうように思うのです。つまり、「こう信じたい、こうであろうと信じる」という言葉で締めくくらざるをえないような気がするのです。
 この点をご理解いただいた上で、私なりの見解を述べさせていただきたいと思います。
 まず、いくつかの考え方があるように思います。
 ひとつは、この世界を浄化するには「犠牲」が必要であるという考え方です。
 たとえば、洗濯をするとき、水を使います。服はきれいになりますが、水は汚れます。何かを浄化するためには、たいていの場合、その汚れを引き受けるものが必要とされるわけです。同じように、悪という世界の汚れを浄化するには、その悪を自分の身に受ける存在が必要なのかもしれません。しかし、そのような「汚れ役」など、いったいだれが望むでしょうか。それを望むには、この世界、この人間に対する、そして世界と人間の浄化を望む神に対する、絶大なる愛をもっていなければ無理でしょう。
 あるいはまた。血液の中には「白血球」と呼ばれる細胞があります。ご存じのように、白血球は、外部から細菌などの異物が入り込んでくると、その細菌を自分の中に取り込んで、その細菌と一緒に自分も死ぬのです。そうやって、私たちのからだは守られているのです。白血球が犠牲になってくれるおかげで、他の細胞が生きられるわけです。からだの中には、そのような役割を担っている細胞が住んでいるのです。
 神の創造したこの世界も、ある意味では、巨大な「肉体」のような構造をしているのかもしれません。人間は過ちを犯します。悪を生みます。しかし、悪は全体の健康を脅かします。そのため、その悪を自分に包み込んで、その悪と一緒に死ぬような役割が、この世界には必要なのかもしれません。しかし、そのような役割を引き受けるのは、よほどの愛と善意をもった魂だけではないでしょうか。そのために、この地上世界では、愛ある人や善人が、苦しみや試練を受けるのかもしれません。キリストは、人類の罪をあがなうために自分が犠牲になりました。白血球のように、彼は悪を自分の中に取り入れて、一緒に死んだのです。その役割を担ってきたのです。
 私たちは、巨大な魂、あるいは生命の「集積体」です。個々の生命が単に集まっているだけではなく、テレパシーのような、何らかの通信手段によって、お互いが密接に結ばれている「システム」となっているように思われます。しかし、このシステムは成長し、進化し続けています。ところで、成長や進化を遂げるには、逆説的ですが、成長しようとする方向とは反対の力が必要とされます。たとえば、ジェット機は進行方向とは反対の方向へエネルギーを噴射し、その反動で前進するわけです。同じように、人類が善の方向へ進むには、ある意味では「悪」を経験することが必要なのかもしれません。悪を知ることによって善を知るからです。そのため、この生命体のシステムは、必然的に内部に「悪」を生み出すのです。しかし、その悪ばかりがはびこってしまえば、逆にシステム全体が崩壊してしまいます。したがって、ある一定量の悪がたまったら、それを浄化しなければなりません。肉体でいうなら、肝臓や腎臓のような機能が必要とされるのです。そして、そのような役割を担っている魂が、このシステムには存在するのです。それが、愛ある人であり、聖人や善人なのかもしれません。
 また、このシステムが「幸福」を知るためには、「不幸」や「苦しみ」を知らねばなりません。そのため、このシステム内部に、不幸や苦しみを味わう「感覚器官」が必要とされるのです。そして、その感覚器官を通して得られた不幸や苦しみの情報が、テレパシー的な情報手段を通して、他のすべての魂に伝えられ、それによって、個々の魂が成長できるのです。ですから、この考え方でいけば、この世の中には「苦しむ人」が必要なのです。その人は、ひたすら苦しむことを通して、全体の進化と幸福に貢献しているのです。
 ところで、仮に以上の説が本当であるとしても、苦しむという役割を担った魂は、あまりにも気の毒で、不公平であるような気もします。魂の意識では、自ら志願して、この地上にやってきたのかもしれませんが、肉体意識のレベルでは、とにかく苦しくて仕方がないわけですから、自分がそんな志願をしたなどとは思えないでしょうし、まったくとんでもないことだと思うでしょう。なぜ自分の人生は、こんなにも不幸なのだと嘆きたくなるでしょう。
 これに関しては、このように考えるしかないように思います。
 たとえば、人間の一生が8年だったとしましょう。つまり、十分の一だったとします。生まれてから一年で物心つき、二年で成人になるとします。しかも、人間は何回も生まれ変わることを自覚しているとします。さて、だとすれば、仮に今のあなたの人生が、不幸の連続だったとしても、そう嘆いたり、不公平だと憤ったりすることもなくなるのではないでしょうか。8年だけなら、我慢できるのではないでしょうか。しかも、この8年を我慢すれば、次の8年の人生、その次の次の人生も、ずっと幸福であり続けられるとしたら、今の8年の人生が苦しみだけだったとしても、ほとんど問題とはならないのではないでしょうか。
 どうやら、私たちの魂は、このような時間感覚をもっているようなのです。魂が、その本来の霊的な世界ですごす時間に比べたら、地上での80年など、8年どころか、8分とか、8秒ほどの、ほんの短い一瞬でしかないようなのです。これほど、地上と霊的な世界との時間感覚のずれがあるようなのです。したがって、肉体意識レベルでは不条理に思えるこの世の出来事は、非常に長い霊的な尺度で見るならば、断片の断片の断片くらいでしかないわけです。半年も続くNHKの連続ドラマのうち、一日だけ正義の主人公がいじめられるだけのストーリーだったとしても、「このドラマは不条理だ」という抗議の電話はかかってこないでしょう。このような悠久な感覚で、この世の人生の不条理をとらえる必要がありそうなのです。
 したがいまして、先ほどの『ヨブ記』で神がヨブにいったように、「遠大な神の計画を、近視眼的な人間の浅はかな知恵で計ることはできない」ということになるわけです。
 しかし、実は『ヨブ記』には、もっと深い意味があるのです。
 表面的な字面だけを見ると、ヨブは「神の計画を浅はかな知恵で計るな」と神から怒られ、その言葉で、自分の苦しみの理由がわかり、懺悔して納得したように思われます。しかし、そうではありません。ひどい人生の苦しみにある人が「あなたの苦しみは、神の計画で訪れたのだから、あなたの浅はかな知恵で解釈してはいけないよ」といわれ、「ああ、そうですか」と納得して癒されるでしょうか。そのくらいで癒されるような苦しみなら、たいした苦しみとはいえないと思います。ひどい苦しみにあるとき、いかなるもっともらしい理屈を耳にしても、決して癒されることはありません。
 しかし、ヨブは癒されました。なぜなのでしょうか。
 それは、「愛である神」に、直接、遭遇したからです。ヨブの友人たちの言葉は、理屈としては正しいものでした。しかし、癒されませんでした。なぜなら、友人たちには「愛」がなかったからです。ただ理屈だけがあったからです。だから神が、友人たちに対しても「自分に関して正しいことを語らなかった」と怒っているのです。神は理屈ではありません。しかしヨブは、理屈としての神ではなく、愛である神に接しました。つまり、ヨブは愛に接したのです。それが、ヨブの抱えている不条理、苦しみを癒したのです。
 人生は、理屈で考えれば、確かに不条理です。しかし、その不条理に、納得のいく回答を与えてくれるものがあるとすれば、それは愛しかないように思うのです。


                          斉 藤 啓 一 (精神世界著述家)







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年08月20日 19時05分59秒
コメント(200) | コメントを書く
[斉藤啓一] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: