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2008年08月24日
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カテゴリ: 斉藤啓一

麻原教祖があれほど信者を惹きつけた理由

自らの意志で脱会したとはいえ、私の心には、大きなしこりが残った。
 私は、あんな男が、最終解脱者や聖者なんかで"あるはずがない"と思った。
 つまり正直なところ、まだ心のどこかで、
 「もしかしたら本物だったかもしれない」
 という思いが、払拭できないでいたのである。頭ではニセモノとわかっていながら、気持ちがついてこないのだ。拭っても拭っても頭から消えない。自分の頭が自分で制御できないことへの苛立ちと嫌悪が募っていき、あげくの果ては、麻原教祖のもとで修行している夢を、しつこく見たりするのである。
 「いったいなぜ、あんなインチキ・グルを忘れることができないのか?」
 自分に腹を立てながら、何回も何回も自問自答を繰り返した。
 その理由はやはり、麻原教祖の持つ、頭の回転の早さ、博識ぶり、理路整然とした説教、そういったものが、実際かなり鋭かったからだと思う。単なる詐欺師として片付けるには、インパクトが強すぎたのだ。何を語るのでも、確信に満ちた口調なので、こちらはつい信頼を寄せてしまうのだ。どんなことも明確に定義し、物事の白黒をはっきりさせるのである。それが実に痛快で、歯切れのよさが感じられるのだ。
 その回答が本当に正しかったかどうかは別として、宗教という、あいまいな世界をさ迷っている者にとっては、あのように幅広い知識と確信に満ちた態度で指導し、明確な(正確にいえば単純な)世界観を与えてくれる人物というのは、実に頼りがいがあり、また魅力的に映るものなのだ。何が本当で何が本当でないか、混沌として見えにくく、それゆえに不安な現代社会においては。
 しかも彼は、近づき難い権威を振りかざす反面で、父親のような、妙に気さくな一面もあり、それらを非常にうまく使い分けて、弟子の心をつかんでいたように思う。
 私も修行中に、「おまえは鈍感だなあ」などと笑ってけなされたかと思うと、「美しい光が内部に見えるよ」などと褒められたりした。こういうアプローチをされると、弟子としてはたまらないわけである。それこそ「尊師のためなら死んでもかまわない」と思う弟子が出てきても、不思議ではないのかもしれない。
 だが、麻原教祖を内面から追い出せないのは、こうした彼自身のカリスマ性もあるが、むしろその背後にある、さらに根深いものであるように思われるのだ。
 それは、インド系の宗教を信じる人の間で、常識のように思われていることなのだが、真のグルに巡り会う幸運は、何百年に一度あるかないかであり、グルなしで解脱することは不可能だという、いわば暗黙の了解なのである。
 教典などを読むと、悟りを開くうえでグルの存在がいかに大きいか、しつこいほど強調されている。オウム信者がなぜ、あそこまで執拗に麻原教祖への帰依を捨て切れないでいるのか、最大の理由は、この点にあると思うのだ。
 たとえばミラレパというインドのグルは、かなり過激な状況に弟子を追い込み、悟りの指導をしたといわれる。グルがいかにひどいことをしようと、グルへの信頼を失わない弟子こそが、悟りを開いて解脱する資質があるとして、称賛されるのだ。グルというものは、いかようにも自分を変えて弟子をトリックにかけ、その信を試すと信じられているのである。
 だが、こうした話は、インチキ・グルが弟子を盲信させるための、かっこうの言い訳になることも確かであろう。自分のボロが出そうになったら、
 「グルというものは、ときにはペテン師のように弟子を試すものなのだ。グルを信じられないなら、解脱なんかできないぞ!」
 といって脅し、弟子の疑いをかわして、自らの権威を保てるからである。実際、私はそんな「グル」にも会ったことがある。そういう人は、精神世界では珍しくないのだ。ミニ麻原ともいうべき連中が、自分は悟りを開いたグルなどといいながら、口先だけのもっともらしい説教をし、たいていは法外な指導料(お布施)を巻き上げて、集団を形成しているのである。
 それはともかく、オウムに惹かれて入信するような人は、すでに仏典やヨーガ教典などは読破して理解しており、解脱のできる優秀な弟子というのは、グルの命令であれば、どんなことも無条件に、死ねといわれれば死に、人を殺せといわれれば殺すほどの従順さと、何があってもグルへの信頼が揺るがない者であるという知識を、すでにインプットされているのだ。
 早くいえば、グルに支配されることを欲する人間が入信してくるわけである。あと教祖がやることといえば、自分を最終解脱のグルと称し、それらしく振る舞うことだけなのだ。
 弟子は喜んで洗脳され、グルの機嫌を取るためなら何でもするようになり、グルへの信頼を揺るがす、いかなる情報に対しても、自らの心を閉ざすようになってしまう。
 あれだけ狂信的な弟子を周囲に引き寄せることができたのも、教祖自身のカリスマ性もあるのだろうが、それ以上に、もともと「グル至上主義」ともいうべき土壌が敷かれてあったことが原因であると、私は考えている。

          オウム信者を凶悪犯罪に駆り立てたのは何か?

オウム信者たちは「脱皮」するために、修行に熱心であった。「仏陀」になるために、必死に努力していたのだ。ハードな修行に打ち込むひたむきさには、ある種の悲壮感さえ感じられたほどだ。われわれは、本当によく戦っていたのである。
 けれども、そこには「別の戦い」もあったように思われた。
 「認められたい、人の上に立ちたい」という戦いである。
 具体的には「位の高い弟子になる」という戦いだ。
 当時はまだ、後に見られた細かい階級制度はなかったが、それでもグルから認められ、教団内部において一目置かれるポジションに身を置きたいという、そんな願望というか、野望が、修行の動機のひとつとしてあったように思われたのである。
 もちろん、すべての信者がそうだったというつもりはないし、露骨に剥き出しにしていたわけでもない。彼ら自身、気づいていなかったかもしれない。
 ただ、話などをしていると、競争心や嫉妬、演技がかった教祖への称賛が見え隠れし、私にはそれが、位の高い弟子をめざすという野心の現れのように感じられたのである。
 優秀な弟子として認められるには、グルの命令ならどんなことも服従し、実行できなければならない。たとえその行為が、どう考えても間違いだと思えてもである。
 なぜなら、そう思うのは自分が未熟だからで、この課題をやり遂げればすばらしい進歩があることを、偉大なグルはすべてお見通しであると、こういうことになっているからである。
 だが、その結果として、弁護士の殺害、サリン事件が起きたのではないのか?
 「命令とあれば、こんな不正なこともできるのです。それだけあなた(グル)への信頼が厚いのです。そんな私を認めてください」
 こう訴えていたのではないのか?
 だとしたら、まさに彼らが軽蔑する「世俗」の打算、エゴイスティックな野望と、何ら変わらない動機にオウムは支配されていたことになる。一般の人々が「出世競争」に明け暮れるのと同じ原理で動いていたのだ。
 だが、逆に見るなら、歪んだ現代社会に生まれ育った若者たちの病理が、オウムの中で反映されたともいえるだろう。
 繰り返し述べてきたように、親の野望達成のための道具にされた子供が、親の「愛」を勝ち得るには、道具になりきるしかない。だが、道具の価値とはその「機能」である。ハサミに価値があるのは「よく切れる」からで、切れなくなれば、そのハサミは無用のゴミとなって捨てられてしまう。つまり、取引する親の愛は、子供そのものではなく、子供のもつ「機能」に向けられているのだ。彼らはこういって子供(という道具)を使うのである。
 「優秀な能力を示して親の野心を満たしなさい。そうすれば愛をあげましょう」
 そうして育てられた子供は、大人になっても、自分の才能や能力、あるいは柔順さといった「機能」を褒められたいと願い続け、認められることに執着するようになる。彼らにとっては、機能への称賛が「自分自身」への愛だと錯覚しているからだ。
 そんな彼らがオウムへ入れば、まるでプログラムされたロボットのように、今度は教団内部で自らの優秀さ、滅私奉公といった「機能」をアピールし、グルの寵愛を自分に集めようと執着を燃やすようになる。そんな柔順さを「エゴの消滅」と勘違いしながら。
 だが、それは単に、グルを通して自分のエゴを満たそうとしているだけの、きわめて自己中心的(エゴイスティック)な行為なのである。
 こういう、お互いを道具としてみなす関係では、支配する方も服従する方も、常に捨てられる恐怖を背負いこむことになる。そして捨てられないためには、自分の優秀さを常に誇示していなければならない。グルはその威信を保っていなければならない。
 それは基本的に戦いである。だから、真の意味で心を許しあう相手もいなければ、触れ合いもない。ただみせかけの愛と連帯があるだけで、内実は恐怖と孤独にあえいでいるのである。
 これが現代社会の、そしてオウム教団の世界なのだ。ある意味でオウム教団は、現代社会の相似形にすぎない。オウム教団の母体は、他ならぬ現代社会なのである。
 その中で、子供たちも、オウム信者たちも、もともとありもしない親(グル)の愛を獲得するために、空しい戦いをしてきたのである。






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最終更新日  2008年08月24日 11時21分53秒
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