何でも雑記帳

何でも雑記帳

PR

プロフィール

あいうえお5532

あいうえお5532

カレンダー

コメント新着

ななしのななこ@ 今でも見てる人いるかな? これらちょうど10年前の記事になるんです…
MerillvumeK@ услуги грузчиков москва [url= <small> <a href="https://bestgruz…
Lucidus@ Looking for pad for the site Hi everybody! Recommend dear amigos[ur…
Lucidus@ Looking for hosting for the website Hello! Recommend expensive amigos[url=…
MilaBisa@ Need CMS for service page with documentation. Hello everybody. Looking for engine fo…
DarHok@ Looking for hosting for the site Hello everyone! Tell Please dear amigo…
DarHok@ Looking for pad for the website Hello! Advise expensive buddies[url= <…

お気に入りブログ

日本の戦時中の負の… モモン・妖狐60/宗教被害2世さん

オカルティストの日… 邦州 健さん
宗教と有名人(芸能… 宗教ミーハーさん
ぱっぴんすのブログ ぱっぴんす0314さん
空の色のもとに 空りすさん
じじい50の日記 真の伯父/じじい50さん
思った事 感じた事… matu8181さん
気ままに落書き… ビニールポデさん
NAMIDAのダイアリー YURINONAMIDAさん
空が好きのひとりごと そらがすきさん

バックナンバー

2025年03月
2025年02月
2025年01月
2024年12月
2024年11月
2024年10月
2024年09月
2024年08月
2024年07月
2024年06月

フリーページ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2008年11月25日
XML

<心霊の世界における死後の心>

体の調子がよいとき、心は心地よく感じる。逆の場合は、不快だ。同様に、魂も心に作用する。正しい思惟は心を爽快にし、誤った思惟は心を不快にさせる。
心が魂の表明に共感すればするほど、人間は完成する。心が体の活動によって満足させられている分だけ、その人は未完成だ。魂が人間の中心であり、人間は自分の働きのすべてが魂によって方向づけられないと、自分の使命を達成できない。
体は、魂が物質界を認識し、地上で活動するための仲介役を果たしている。体が知覚したものを心が体験し、それを魂に伝える。一方、魂が抱く考えは、心の中で実現への願望となり、体を用いた行為になる。
死後、魂は体から離れても、心とは結び付いている。そして、体が魂を物質界につなぎとめていたように、心が魂を心霊の世界につなぎとめる。私たちが眠くなると、体は心と魂を離す。同様に心は、地上的・身体的なものへの執着を脱すると、魂を精神の国へと解き放つ。死ぬときに地上的な欲を捨て切っていれば、人間は死後ただちに精神の国に向かえる。死ののち、心は物質への執着を解消するための期間を過ごすことになる。物質への執着が強い場合、その期間は長く、そうでない場合は短い。その期間を過ごすのが、「欲望の場所」だ。そこを通過するうちに、「体によって満足させられる欲望を抱くことは無駄だ」と、心は悟っていく。そして、物質的・身体的な関心が心から消えていく。心が心霊の世界の高次領域、すなわち共感の世界に入っていき、利己心が消えて、心霊の世界と一体になったとき、魂は解放される。魂は地上に生きることをとおして、自らを体と同一視することがある。だが、それよりも、魂と心の結び付きのほうが強固だ。魂は心という仲介物をとおして体と結び付いているけれど、魂と心はじかに結び付いているからだ。
心霊の世界の最初の領域に入った死後の心は、体のいとなみに関連する粗雑で利己的な欲望を消滅させていく。物質生活への欲望を捨てられずにいる心は、満たしようのない享受を求めて苦しむ。地上では、欲望は満足させられると、一時的になくなったように見える。けれども、欲望が消滅したわけではない。幾日か経つと、また欲求が生じる。その対象を入手できないと、欲求は高まる。死後、心に染み付いた身体的な欲望は、満たされないので、高まることになる。心霊の世界の第一領域で、欲望は、その高まりによって燃え尽きていく。これが浄化だ。生前、身体的な欲望から自由だった人は、死後、心霊の世界の第一領域を、苦しみなく通過していく。一方、身体的な欲望への執着が強かった心は、死後、この領域に長く引き留められる。心霊の世界の第二領域は、人生の外的な瑣事への没入、流れゆく感覚の印象の喜びによって生じた心の状態に関連する。そのような欲求も、感覚的・物質的な事物が存在しない心霊の世界では叶えようがないので、消えていかざるをえない。第三領域の性質を持つ心は自己中心的な共感を有し、その共感の力によって対象を自分の中に引き入れようとしている。この願望も成就できないので、次第に消えていく。心霊の世界の第四領域は、快と不快の領域だ。地上に生きているときは、快・不快が身体と結び付いているので、人間は体が自分であるかのように感じる。この「自己感情」の対象である体が失われると、心は自分が失われたように感じる。死後、心霊の世界の第四領域で、「身体的自己」という幻想を打ち砕く必要がある(自殺者は、体に関する感情を心の中にそっくり残している。体が次第に衰弱していったのではないので、死は苦痛を伴う。そして、自分を自殺へと追い込んだ原因が、死後も当人を苦しめる)。心霊の世界の第五領域は、周囲に対する心の喜びと楽しみに関連している。心は、自然のなかに現われる精神的なものを体験することができる。けれども、感覚的に自然を楽しむこともある。そのように感覚的に自然を享受する心の性質が、ここで清められる。また、感覚的な平安をもたらす社会を理想とする人の心は、利己的ではないのだが、感覚界を志向しているという点で、この第五領域で浄化される。心は第五領域で「楽園」に出会い、楽園の空しさを悟ることになる。地上の楽園であれ、天上の楽園であれ、宗教をとおして感覚的な安楽の高まりを要求する人々の心が浄化される。
第六領域では、利己的ではなく、理想主義的・自己犠牲的に見えながらも、感覚的な快感の満足を動機とする行動欲が浄化される。また、面白いという理由で芸術・学問に没頭している人は第六領域に属する。
心霊の世界の第七領域で、「自分の活動のすべてが地上に捧げられるべきだ」という意見から、人間は解放される。こうして、心は完全に心霊の世界に吸収され、魂はすべての束縛から自由になって、精神の国に向かっていく。

<精神の国>

精神の国は思考を素材として織りなされた領域だ。地上の人間の思考は、精神の国を織りなす思考素材の影である。物質界は現象・結果の世界、精神の国は原因・発端の世界。精神の国には、物質界と心霊の世界に存在するものたちの原像が生きている。その原像は創造的であり、精神の国は絶えざる活動の世界だ。それらの原像は、協力しながら創造している。心霊の世界では、さまざまな神霊が色・形で現われ出ている。精神の国に入ると、原像が響きを発する。精神の国も七領域に区分される。第一領域には、無機物の原像がある。鉱物の原像であり、植物・動物・人間の物質体の原像である。地上では、空間中に物質が存在している。精神の国では、物質の存在しているところが空になっており、その周囲の空間に、物質を創造するものたちが活動している。この領域が、精神の国の「大陸」だ。第二領域には、生命の原像が存在する。思考を素材とする生命が流れており、生命は調和ある統一体をなしている。「海洋」と言われる領域だ。精神の国の第三領域=大気圏には、心の原像がある。地上と心霊の世界における心の活動が、この領域に天候のように現われる。第四領域には、精神の国の第一領域・第二領域・第三領域の原像を統率し、秩序を与える原像が生きている。第四領域は、思考の原像の世界だ。第五領域・第六領域・第七領域は、精神の国の上部領域。精神の国の下部領域の原像に、原動力を与えるものたちの領域だ。この領域に達すると、人間は宇宙の基盤にある意図を知る。この領域には、言葉が響いている。この領域で、あらゆるものが「永遠の名」を告げる。

<精神の国における死後の魂>

人間の魂は死後、心霊の世界を遍歴してから精神の国に入り、新しい身体存在へと成熟するまで、そこにとどまる。精神の国に滞在する意味を知るには、輪廻の意味を理解する必要がある。過ぎ去った人生の果実は、人間の精神的な萌芽に摂取される。そして、死んでから生まれ変わるまで滞在する精神の国で、その果実は熟する。その果実は熟して素質・能力となり、新しい人生のなかに現われる。地上での人生で獲得した果実が、精神の国で熟すと、人間は地上に戻る。人間は地上で、「精神存在」「精神の国の使者」として、創造活動を行なう。地上で活動するための意図・方向は精神から来る。地上での活動の目的は、地上に生まれるまえに、精神の国で形成される。精神の国で設計したプランにしたがって、地上での人生が歩まれる。魂のまなざしは常に、自らの地上的な課題の舞台に向けられている。地上での活動が人間の魂の課題なのだけれども、体に宿る魂は、繰り返し自分自身の領域つまり精神の国に滞在しないと、この世で精神存在でありつづけることができない。人間の魂は、精神の国の諸領域の本質に浸透されることによって成熟していく。精神の国の第一領域は、物質の原像の世界。その原像は、地上の事物を生み出す思考存在だ。この領域で、人間は自分の遺骸・物質的身体を、外界の一部として認識する。精神の国の第一領域では、家族への愛や友情が、死者の内側から甦る。この領域を生きることによって、家族への愛や友情は強まっていく。地上でともに生きた人々を、精神の国でふたたび見出す。地上でたがいに関係があった者たちは精神の国で再会し、精神の国にふさわしい方法で共同生活を続ける。精神の国の第二領域は、地上の共通の生命が思考存在として流れているところだ。地上では個々の生物が個別に生命を有するけれど、精神の国では生命は個々の生物に限定されずに、精神の国全体を循環している。その残照が地上で、全体の調和への宗教的な畏敬として現われる。
精神の国の第一領域で、死者は家族・友人と再会した。その関係を維持しながら、第二領域では、同じ信条を持つ者たちが集うことになる。精神の国の第三領域には、心霊の世界の原像がある。心霊の世界に存在するものが、ここでは「生命的な思考存在」として出現する。ここでは、利己的な欲求が心に付着していない。地上で人々のために無欲に行なったことが、ここで実を結ぶ。地上で奉仕的な行為に専念するとき、人間は精神の国の第三領域の残照のなかに生きている。精神の国の第四領域には、芸術や学問など、人間の魂が創造するものの原像が存在している。地上で人間が日常的な生活・願望・意志の領域を超えて従事したものすべてが、この領域に由来する。死後=生まれる前に、人間はこの領域を通過してきたので、地上で個人を超えた普遍的・人間的なものに向かえるのだ。精神の国の第五領域まで上昇すると、人間の魂はどんな地上的な束縛からも解放される。そして、精神の国が地上のために設けた目標・意図の意味を体験できる。
第五領域で、魂としての本来の人間があらわになる。第五領域で、人間は本来の自己のなかに生きている。精神的な自己は、ここに生きている。ここで、前世と来世の展望が開ける。第五領域と同質の精神性をあまり獲得しなかった人間は、来世は苦しい人生を欲する。「苦しみの多い人生が自分には必要だ」と、精神の国の第五領域で思うのだ。
精神的な自己は、精神の国を故郷と感じる。そして、精神の国の観点が、地上生活の基準になる。自己は自らを、神的宇宙秩序の一部分と感じる。自己の活動の力は、精神の国からやってくる。

                                  西川隆範(シュタイナー研究家)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年11月26日 00時30分03秒
コメント(8) | コメントを書く
[ルドルフ・シュタイナー] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: