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☆ブログお引越しのお知らせ☆ いつもブログをご覧いただきましてありがとうございます このたび Blogのお引越しをいたしました+.(´∀`*).+゚. ↓新しいブログへはこちらをクリック☆ 「十字架の恵みが溢れて」 http://toku-sati.jugem.jp/ お気に入りなどにご登録いただいる方は お手数ですが、ご変更をお願いします。 こちらの旧ブログ「イエスの喜びと満足のために☆」は、神様の豊かな恵みの証としてこのまま残しておきたいと思っています。 このブログを通して出会うことができた多くの方々との交わりは主がお与えくださった大切な贈り物。そしてたくさんの方々に祈って頂き、どれほどの励まされ、支えられたことでしょう。改めて心から感謝いたします。 引き続き、新しいブログ「十字架の恵みが溢れて」での交わりをどうぞよろしくお願いいたします。
2009年08月14日
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かつて私は聖き生活を送ることができないと思った。 なぜなら、自分の力で聖くなろうと努めていたから。 しかし今は、主が私に聖きを与えてくださった。 主ご自身、私のうちに全てをなさってくださる。 かつて私は自分で親切になり、愛にあふれ、柔和であろうと努めた。 しかし今は、主イエスが私のうちに住んでおられ、 私をご自分の御姿に変えられようとしておられることを知った。 かつては日々刻々、勝利の生活を送るとは夢にも思わなかった。 しかし今は、主自らわがうちに住んでおられ、 私の歩みを勝利に保たれることを知った。 かつて私は主のうちにとどまり、主に喜ばれようと必死に努めた。 しかし今は、私は主ご自身、私のうちにみわざを成すままにしている。 このようにして私は主にあり、主は私のうちにおられる。 ドイツの歌より
2009年08月08日
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山谷さんのブログより http://majormak.blogspot.com/ 先日、温泉で次のような問答をした。備忘のため、以下に書き留めておこう。某氏「キリスト者にとって、義認がすべて、という考え方がありますね」小生「そうですね」某氏「そうしますと、聖潔というのは、義認に付け足す感じになりませんか」小生「なるほど」某氏「義認は、それだけで完全なのに、なんで付け足す必要があるのか、と」小生「義認は、たとえて言えば、プレゼントのようなものでしょう」某氏「プレゼントですか」小生「箱に入ったケーキのようなものですね」某氏「ほう」小生「プレゼントを受け取った人は、その時点で、すべてを受け取ったのです」某氏「なるほど」小生「しかし、包み紙を破り、箱を開け、ケーキを食べない限り、中味をあじわうことはできません」某氏「すると、プレゼントが義認で、その中味をあじわうことが聖潔ですか」小生「そう考えたら、どうでしょう」某氏「そうしますと、義認の中に聖潔が含まれているわけですね」小生「そうですね。義認が、キリスト者の経験の中に実体化されるのが、聖潔でしょう」さて、上記の温泉問答の後、小生は、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験は、上記のたとえで言えば、どういうふうに位置づけられるのか、ということを、つらつら考えさせられた。いまのところ、こう考えてみている。すなわち、ケーキの上にのった苺が、それ、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験である。苺がたくさんケーキの上にのっているに、しくはない。しかし、ケーキの本質は、もとより苺の中には、ない。ケーキの本質は、本体にこそ、あるのだ。なぜなら、もし、ケーキの本質が苺にあるとしたら、ショートケーキ以外のケーキは、もはやケーキでなくなってしまうからである。問題は、われらの主は、あるキリスト者にショートケーキをプレゼントなさり、あるキリスト者にはチョコレートケーキをプレゼントなさるらしい、ということである。さらにこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、チョコレートケーキですね。それはケーキとして二流です。あなたが主から愛されていない証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。もっとこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、ショートケーキですね。それはケーキとしては邪道です。あなたが主から見放されている証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。しかし、注意しよう。主の愛が、分割されたり、分配されたり、加減されたり、ということは、ない。主は、この人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。さらに主は、あの人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。主の愛は、その意味で、単一である。しかも、この単一の愛は、単調な愛ではなく、各人に各様に表現される、多彩なものなのだ。苺の数を誇る(聖霊派)とか、苺がないのを誇る(根本主義)とか、プレゼントに添えられたカードの文法解析にレキシコンと首っ引きで没頭する(福音派)とか、まあ、いろいろな義認の受け取り方があるかもしれないが、重要なことは、わたしが、主から義認を受け取り、その中味であるキリストご自身を味わって食べ、主を喜び楽しむことであろう。
2009年08月08日
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今日は透析は夜間に。今日は体調がいい♪これも主の備え☆ これから息子の進学先2校目の教育相談。電車を乗り継ぎ、ちと遠いぞ;; 中学の担任の先生同行ということなので、さて、どのような内容になるでしょうか 受験すべき所へ導いてくださいと祈りつつ、息子にはすでに主の最善が備えられていると信じることができるのは、本当に感謝。 2学期に向けても、私と息子で二人三脚の勉強の取っ組い?をしつつ ウ~~ン、このない頭をひねるのも大変だ・・笑 進路も、ただ主に聞きながら、主が導いてくださる方向へと踏み出して歩んでいく中で、主がしてくださることに信頼すること。 主により頼んでいくことができる幸い、そして、主ご自身を味わう恵みをわくわくしながら待ち望む♪ 今日も主の恵みは十分です。 お祈りのお願い 愛するイチゴ姉妹。体調を崩し、寝込んでおられます。重なるようにしていろいろな試練の中におられますので、どうぞ覚えてお祈りください
2009年08月07日
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ジェットコースターのように日々の体調が変わる毎日に 生きていくって本当に大変だなぁ・・と実感している今日この頃 横になっていても抜け出すことができないだるさと、時折気持ちが悪くなる 気分を紛らわすのためにPCに向かいつつも、肉にあって 弱まっていく自分自身を客観的に見ている 何も考えられず、ただ無力さの中に 何が正しいとか、何がいけないとか、何がよいことか、そんなこと、もう どうでもよくなる キリストとともに、 「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている」 という御言葉の事実に座り、いのちだけを待ち望む 私を生かすいのち、これだけで本当に十分 この方の中に、安心し もたれかかって、いつの間にか眠りにつくのです
2009年08月05日
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梅雨がようやく明け、太陽の日差しが眩しい。朝から気温が上昇し 手を伸ばして洗濯物を竿にかけるだけでくらくら(=∀=;) 透析が終わったあとは、けだるさ、思考力も低下して、本当にぼぉ~となるのだが、そこに夏の暑さ。 ひと夏を越えることが、本当によっこらしょ・・・という感じ。休み休みの家事をしながらカタツムリのような生活をしています。 弱さの中に置かれるという事が、神の深いご計画の中にある 弱さの中に、神はいのちの食物を備えていてくださる ただ単純に手を伸ばし、その恵みの食卓に与る。真の食べ物は、主そのもの。 健康であったときには、見えていなかった恵みの世界が 足を踏み入れるほどに開かれてくる。 十字架を背負ってついてゆくということが いかに人の知恵によってはその歩みは理解することができず、そのコツさえも全く閉ざされているということ ただ主ご自身が、はじめて歩きはじめようとする幼子の手をとって、 「ほら、こうするのだよ」と 御霊によって直接教えてくださるまでは、本当になにもわからない。そんな感じなのです。 それでも、まだまだその歩みはよちよちで、何度も立ち止まったり、転んだりしながら、 それでも手をとって共に歩んでくださる主に導かれながら、なのです。 でもね、歩き始めた子供が、いろんなことに興味を抱き、転ぼうと、よろめこうと構わないほどに、歩み始めて開かれ、広がる恵みの世界が実に楽しいのです。 十字架を背負ってついてゆく、その歩みのコツを主から学んだ人は幸いです。 「 弱さの中に、いのちの木が植えられている その只中で、豊かな実に与る その芳醇な果実は 死を通して結ばれたいのちの実 その甘さは癒しをもたらし その実を食べる者は生きるからである。 」 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 第二コリント12:9
2009年08月04日
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「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。 そこにはサタンの王座がある。] 黙示録2:13 わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。聖書でエジプトと言えば、これはこの世を表わしています。この世は、悪魔の力のもとにある世界です。神から離れてる世界です。モーセはこのエジプトで生まれ、エジプトで教育を受け、エジプトの環境で生活しました。しかし、いったいだれがモーセをエジプトに導き給うたでしょうか。神ご自身です。パロのもと、サタンの影響の下に導かれるとは、何という導きでしょう。四十年間、神はエジプトにモーセを留め置いて、訓練しました。そこでモーセは色々な苦しみを通らせられました。それは、まことの神のしもべとなるための、尊い訓練だったのです。もし、エジプトにおける訓練がモーセに無かったなら、モーセは決して、神に用いられるしもべとはならなかったでしょう。主なる神は、私たちにも、「わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」と、言っておられます。全世界は悪魔の王座です。ですから私たちがどんなに暗い所を通らされても、不思議ありません。私たちは、サタンの王座のある所に住んでるのですから。しかし、忘れてはいけないのは、そのような所に導き給もうたのは神である。永遠の愛をもって、私たちを愛しておられる全能の神であるということです。サタンの座の上に光り輝く神の座があるのです。いったいどうして主なる神は、訳の分からない所を、暗い所を、通らせるのでありましょうか。それは私たちが、悪魔の支配に落ちてる人々を、神の光の中に、導き入れることのできる主イエス様の、満たしにあずかった神のしもべとなるためなんです。わたしは、あなたの住んでる所を知っている。そこにはサタンの王座があるとありますが、しかしこれは、尊い主の学校です。主なる神は、私たちが示されてる使命にかなう者となることを望んでおられます。私たちが救われた恵みに留まらず、キリストの満たしに至ることを、主は心から願っておられます ベック兄
2009年08月04日
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「主よ、あなたのみこころのままに行ってください。私は、健康も病気も、命も死もあなた様に願いません。私の健康と病気、またいのちと死も、あなた様のご栄光と私の救いのためにご支配くださいますように。私にとって何が益であるか、あなた様だけがご存知です。あなた様が主であられますから、みこころを行ってください。与えて下さり、取り去ってください。私はひとつのことだけを知っています。あなた様についていくことが最善であることを。私にとって、あなた様を侮蔑することは損となります。私にとって、健康か病気か、富か貧困か、そのどちらが益となるのかわかりません。この世のこと、すべてについてもわかりません。この決定は人間や御使いの力を超えたものです。私にとって、何が益で何が損であるか、私には隠されています。あなた様の秘密なのです。私は、それを解明しようとは思いません。」 パスカル 「山々の神よ、谷々の神よ、深淵の神よ、天の神よ。あなた様のお導きは、決して間違っていません。すべてのことを正しく司られます。小さき者の神よ、弱き者の神よ、無に等しい者の神よ。あなた様は悩みの中でも歌えるように助けてくださり、私たちが神の子供であることを知らせてくださいます。不安の谷間で失望している者に新しい朝を知らせてくださり、足りないものは何もありません。力と権威の神よ。私の力が無くなり何もできなくなったとき、あなた様の御手が私を支えてくださいます。永遠の神よ、あなた様は、そのとき、私をあなた様のところに引き上げてくださいます。私はあなた様を喜びをもって賛美します。私の歩みは祝福されるでしょう。」 ある兄弟の詩
2009年08月03日
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イエス様の十字架は私たちの持っている問題の根にまで、解決のメスを入れてくださいます。私たちは持っているあらゆる問題をその根まで解決してくれるためには十字架が必要です。今、ある国の政府が、「酒の害は大変ひどい。以後酒を呑んではいかん。」という法律を設けたとします。そして警察ではあらゆるバーや酒場に行って、酒を没収したとします。これで酒を完全に取り締まることができるのでしょうか。それだけではいけない。酒を作る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立たないでしょう。 私は工場です。私たちの行ないは酒という製品です。 イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりをなさいました。けれどイエス様はそれだけでは満足されません。工場を潰してしまいたいのです。罪人をどうにかしてしまわなければならないと思っておられるのです。イエス様の血は全く十分でしたから、私たちは罪の赦しを努力無しにいただきました。同じように私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。イエス様は全き救いを成し遂げたとき、製品、すなわち罪ばかりでなく、工場、すなわち罪人自体のことをもお考えになっておられました。イエス様の血潮は全ての罪、おのおの一つ一つの罪から私たちを聖めてくださいます。それとともにイエス様は私たちの古き人、アダムから受け継いだ罪の性質を十字架につけて死んでくださいました。どうかこの事実を、この永遠なる事実を啓示によって見ることができますように。そうするなら全ての問題を氷が溶けるように解決してしまいます。 ローマ6;6私たちの〔うちの〕古き人問は、この罪のからだが壊されるために〔キリストと〕共に十字架につけられたのだ、ということを私たちは知っている。それは、私たちがもはや罪に隷属することのないためである ここに、「私たちは知っています。」とありますが、私たちはこれを実際に知っているのでしょうか。それとも知らないのでしょうか。 それともあなたがたは、キリスト・イエスヘと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか ローマ6:3 イエス様が私たちの心の目を開いてくださいますように
2009年08月03日
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このようにして、あなたがたもまた、一方で自分たちが罪に対して死んだ者[であるということ]、他方でキリスト・イエスにおいて神に対して生きる者[であるということ]を認めなさい ローマ6:11思いなさい。認めなさい。どうして、こう言われているのでしょうか。もうすでに私たちがイエス様とともに死んでしまったから、認めるべきであるということです。もしあなたが五万円を持っておられるとすると、金銭出納簿に何と書き入れるのでしょうか。もちろん五万円と書き入れるでしょう。事実、五万円を持っているから、そのように書き入れるのです。この五万円を持っているという事実に基づいて、それから計算します。買い物に行っても、自分は五万円持っているということをいつも考慮にいれておきます。同じように、主なる神は、私たちはもうすでに罪については死んだ者であると計算しなさいと言っておられます。それは事実ですからそうしなさいと仰るのです。これは主の命令です。あなたは五万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪に通じて死んでいますから、そのように計算しなさい。イエス様が亡くなられたとき、私たちもともに死にました。ですから、もうすでに罪について死んでしまっていることを計算し、信じ込まなければならない。罪に対して死に、主なる神に対して生きているということを認めるにはどうしたらよいのでしょうか。私たちのうちにあってではなく、主イエス様によってのみ可能です。イエス様を見上げ、イエス様の成し遂げたみわざを思い見ましょう。それが計算の秘訣です。もちろんこれは信仰の計算でなければならない。ローマ人への手紙の前半は、多くが信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、主なる神との平和などはみんな信仰によって、主に頼ることによって自分のものとすることができます。これに対して、ローマ人への手紙の後半は、信じなさいということより、計算しなさいということばが多く書かれています。けれど実際には信仰も計算も似ているものです。信仰とはいったい何なのでしょうか。信仰とは主の成してくださったみわざを受け取ることです。信仰はいつも過去に行なわれた事実の上に立つものです。信仰の目的を考えますときに、未来をのぞき見ますが、たいていの場合は過去に行なわれた事実に基づいています。ローマ人への手紙の後半に多く出て来る、計算するということは全部過去の事実に基づいています。ですから信じなさいということばではなく、計算しなさいということばを使っているのです。またマルコの福音書の11章には、計算せよということばと同じ意味のことをイエス様が言われました。 「このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、〔もう〕受け取ったものと信じよ〔計算せよ〕。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。」 マルコ11:24 (あるメッセージより) 計算するということ、キリストにあって成し遂げられた御言葉、すでに受けたと計算し、その通りに思いの内に書き入れ、それに基づいて行動すること、これは大きいです。 キリストに目を注ぐ、この方の内にすべての宝が隠されている。これはあるかないかの曖昧なことではなく、たしかな事実、真実として見、計算せよ、と主が語られているのです。
2009年08月02日
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主イエスよ、どうぞ、あなたの血潮の価値が、私の中の頭の知識ではなく、 私の内のいのち、真理となりますように! あなたの血潮の価値がどれほどに深く、絶大なものであるのか、 今はまだ、あまりにも無知である私を憐れんでください。 どうぞ、イエスの血潮を、 それをご覧になり、よしとされた御父の満足を 深い信頼を持って仰ぎ、喜ぶ者としてくださいますように サタンの訴えに対し、それを全く退ける力は血潮にあり 私の内の平安も喜びも、あなたの血潮の内にあるからです。 心より信頼いたします。 そして、ただ御父が十分に満足された血潮ゆえに 信じる者にとって、それが十分であることを信頼いたします ただただ、血潮のゆえに今日も、明日も変わらず、 御前に祈ることができるとはなんという恵みでしょう 私の何かによらないということが! イエスの血潮へと思いを引き寄せてくださり その血を信じるようにと招いてくださっている事を心から感謝いたします あなたのいのちの豊かさが、その血にあると心から信じます! ハレルヤ! 「今日は一日穏やかに過ごした。主のために何か行なった。満足だ。という所から祈り心が湧いてきて、そのような気分の土台に祈るのでしょうか?もし気分の土台で祈るなら、それは絶望への第一歩と言わなければなりません。なぜなら気分の良い日は、一週間にそんなにたくさんないからです。良心の平和は、気分の上になりたつものでは決してありません。ただ、流された主イエス様の血潮を受ける時にのみ、良心の平安があるのであります。このことを知ることは本当に大切なことです。ヘブル10:19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです
2009年08月01日
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アンドリュー・マーレーは、暗闇から正しい道に導いてくださる神のみことばを覚えるためにリストを作成しました。1895年、彼はイングランドでひどく背中が痛み、苦しんでいました。何年か前のけがのせいでした。ある朝、彼が部屋で朝食をとっていると、宿の主人が尋ねて来ました。下の階に泊まっている女性が大きな苦難に置かれているのだが、何か助けになることを助言してもらえないかということでした。アンドリュー・マーレーは何かが書かれているメモを渡しながら言いました。「私が自分のために書いておいた忠告です。これを彼女に渡してください。助けになると思います。」そのメモには次のように書かれていました。 「逆境の時にこのように言え。「まず、神が私をここに連れて来られた。私がこの狭く苦しい場所にいることは神の御心である。私はそこで安息するであろう。」 その次にはこのように言え。「神が愛で私を守ってくださり、この試練の中にも神の子として行動できる恵みをくださるであろう。」 またこのように言え。「神が試練を祝福に変え、私が学ばなければならない教訓を教え、くださろうとしている恵みを注いでくださる。」 最後にこのように言え。「神のすばらしい方法と時は神だけがご存知である。」 それゆえ、このように言え。「私は神の約束によって、神が見守られる中、神の訓練のもと、神の時を待ちながらここにいる。」
2009年07月30日
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みのみのさんのブログより ぼくはイエス様の中に座り、イエス様が行動してくださる。 電車に乗るときって、私たちは努力しないですよね。 電車に乗ったら、自動的に希望の場所に連れて行ってくれます。 ぼくが行動するんじゃなくて、電車が行動する。 でも電車と一つとされ、ぼくも電車と一緒に動いているんです。 そういうように、ぼくとイエス様は、今一つに結び合わされています。 だからぼくはただ座るだけ。 イエス様が行動してくださる。 気合入れる必要もないし、焦る必要もない。 ぼくはただ座って、主のご計画に同意して、主にしていただくだけ。 でもぼくとイエス様は一つに結ばれているから、 結果、ぼくがその勝利の恵みを堪能できる。 美味しいとこ取りです とっても分かりやすいですよね!詳しくはみのみのさんのブログ 「 いのちの泉 」 http://livingwater.jugem.jp/ +.(´∀`*).+゚.
2009年07月30日
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* Dr.Luke的日々のココロ *より抜粋 (またまたいただいてきました♪) 心理的慣性-信仰VS.大脳辺縁系- かつてリンカーンが奴隷解放宣言をした瞬間、アメリカの奴隷はすべて消滅しました(完了形)。法的に、客観的には。しかしそれまで奴隷であった人々は、その事実を知らないため、あるいは知ったとしても信じないため、依然として過酷な主人を恐れ、自分は単なる奴隷と思い込んでいるのです。その思い込みに従って彼らは行動し、その結果を自らに招きます。自分たちの新しいアイデンティティ(=自由人)や、新しく所有した権利を主張することもできません。心がそれまでの経験によって萎えているからです。過酷な主人もできるだけ彼らを騙して、そのまま自分の手元に置こうとするでしょう。ここに彼らの客観的立場と主観的経験のズレが生じるわけです。私たちがメッセージで語ることは、子があなたがたを自由にするのであれば、あなたがたはまことに自由な者となる、と主イエスが言われた、と告げるだけです。後は聞く側の問題。 信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 よく言われますが、馬を水辺までは連れて来れるが、実際に水を飲ますことはできないと。それは馬自身の決断に任されるのです。クルシチャン化の原因は- ・思い(mind)に種々のフィルターがかかっており、そのままに言葉を聴くことができない(認知の歪み)。 ・聞いたことをそのままに信じていない。のです。すでに私たちは客観的事実として、過酷な奴隷状態から解放されて、神の夏休みに入っているのです!では、その夏休みをあなたはどう過ごしますか?-これがクリスチャン生活のすべてです。そして富んでいる者はますます、なのです。 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン(そのとおり)」と唱えます。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。 十字架はこの旧い私と新しい私の交換の場であり、そこで旧い価値観・生き方のパタンが新しい価値観・生き方のパタンへと置き換わるのです(再条件付け)。まことの十字架って、素晴らしいと思いませんか?
2009年07月30日
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もしあなたが、もっと神に近づきたい、神の臨在、力、愛、みこころ、働きをもっと十分に悟りたい、~一言で言えば、もっと神について知りたい、~と感じているなら、キ・リ・ス・ト・に・あ・っ・て神に来なさい。キリストが、地上の人として、どのように深いへりくだりと依存、完全な明け渡しと全き従順において御父に近づかれたかを考えなさい。彼の御霊において、彼と結び付いていなさい。神の前で、キリストが天において取っておられるのと同じ立場を取ることを求めなさい。すなわち、成就された贖い、完全な勝利、神の栄光への全き進入の立場を取ることを求めなさい。キリストが、この地上における勝利と栄光への途上取られた立場を、神の御前で取りなさい。それを、この地上において、あなたのうちにある彼の内住の力、可能性を信じる信仰によってしなさい。確信を持って、あなたのアプローチが受け入れられていると考えなさい。あなたが達成したものによってではなく、心の明け渡しの正直さと、キリストにあって受け入れられていることの完全さによって、あなたのアプローチが受け入れられていると考えなさい。その時、あなたは、小道~そこにおいて、あなたの内に生き、あなたの内に、語っておられるキリストが真理となり、力となってくださる小道~を導かれていくことでしょう。
2009年07月28日
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キリストのあること、キリストにとどまっていることは、とりもなおさず、次のことを意味します。すなわち、たましいが、神ご自身によって、人であられるとともに神であられるキリストのいのちという、このすばらしい環境の真っ只中に置かれる事を意味するのです。たましいは、そこにおいて、服従と犠牲のうちにまったく神にささげられ、復活のいのちと栄光において、神によって全く満たされるのです。イエス・キリストのご性質とご人格~その権威と愛、その力と栄光~これらは、この中で、私たちが生きる基本要素であり、私たちが呼吸する空気であり、その中で、私たちのいのちが存在し成長するいのちであるのです。
2009年07月28日
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* Dr.Luke的日々のココロ *より (私もいただいてきました+.(´∀`*).+゚.) 十字架-交換の場-先の記事で"自分の十字架"は自分で問うて下さいな、とお答えしましたが、昨日のメッセージで軽く原則を語っておきました。すなわち十字架は交換の場なのです。私(セルフ)とキリストが交換される場。喩えると-自分でお手伝いをして稼いだ10円玉を5個握り締めている子供に対して、父親が「○○ちゃん、それをパパに下さいな」と求めます。子供はどう反応するでしょうか?自分の達成である10円玉に愛着を置くか、パパの求めに答えるか、これはすべてパパとの関係がいかなるものかによるのです。一方のパパもこの質問をするとき、内心ハラハラかもしれません。だって、自分に対するその子の心が分かってしまうのですから。しかもパパは実はその心の中に500円玉1個を代わりに与える用意があるのです。これがなかなかできないわけで。もし、しぶしぶながら子供が10円玉を明け渡すことができたとします。パパはやや悲しいかもしれません。しかも、もしかするとその子は代わりの硬貨が1個に減ってしまったことに失望するかも知れません。これが私たちの様です。救世軍山谷少佐のメッセージもちょうどこれと同じ内容です。ぜひご参照ください。外なる人と内なる人の交換の場が十字架であることが分かります。10円玉5個、すなわち自己(セルフ)を失う者は幸いです。それは500円玉1個、すなわち内なるキリストを得ること、そのとき私たちはその方の信仰にあって生きる者とされるのです。 我はキリストと同(とも)に十字架につけられたり。されど生く、尚お我にあらず、キリスト我にありて生き給うなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付(わた)し給いし神の子の信仰に在りて生くるなり。(永井訳)(注) 注:ガラテヤ2:20は実に訳しにくい節です。たとえばヤングの直訳でも with Christ I have been crucified, and live no more do I, and Christ doth live in me; and that which I now live in the flesh--in the faith I live of the Son of God, who did love me and did give himself for me; となります。この信仰は、キリストに対する私の信仰なのか、キリストの信仰なのか。私は永井訳とヤング訳を好みます。それは「私は信仰にあって、すなわち私が生きる御子の信仰」と理解しています。自分で振り絞るのではありません。御子の信仰が私の生きることを可能にする術、あるいは領域であるわけです。ポイントは、私は十字架につけられ、キリストが生きるのですが、同時に私もその御子の信仰にあって生きているのです!このとき、諸々の状況においてかつてのような認知行動パターンをしなくなります。再条件付けがなされるのです。これが私たちの内面の変化、まあ、聖化とも言えるでしょう(しかし体が旧い以上、大脳辺縁系の影響は免れません)。ウォッチマン・ニーがこのような喩えをしています。それはあたかも椅子に座りながら移動するようなものだ、と。動くのは椅子、すなわち私たちの居場所であり、生きる原動力であるキリスト。その中に座り、身を任せたまま、私たちも生きているのです。何と楽なことでしょうか。クリスチャンの歩みはまず座ることから始ります(これは私のバイブルカレッジの「霊的成長コース」で扱っています)。ここに生きるエネルギーの交換があるのです。
2009年07月27日
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というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン 患難、それは神の恵みを具体的に知るために備えられ、用いられる道具 患難そのものはなんら喜ばしいものではないし、それを望んでいるということではない。 「 患難は忍耐を生じさせ、 忍耐は確証を、確証は希望を生じさせる〔ということを〕。」 ローマ5:3、4 という御言葉があるが、同5;2の「キリストを通してわたしたちは」という言葉の流れの中にあることを忘れてはならない。 患難が自動的に忍耐を生じさせるのではなく、苦難の中で与えられる神の慰めそのものが、真に苦しみに対して耐えうる力を与えるのである。それは忍耐という言葉のイメージが持つ、苦しみながらひたすら我慢するようなものではない。主ご自身にふれる喜びが伴った深い慰めは、患難さえも喜ぶと証しする力を与えるのです。 与えられた慰めによって、神が共にいてくださるということの確かな証が内から溢れ出、主にある希望、信仰によって生みだされてゆくのです。 すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るという、(これは何たる希望でしょう!)この御言葉を味わい、患難の真っ只中で安息を得るのです。 私たちの内に神の愛が、そうです!私たちの内に与えられた御霊によって、豊かに!豊かに注がれ続けていることを知る。ハレルヤ! 「 キリスト・イエスにあって、」これこそすべての秘訣であり、 患難を通してこれら一切の恵みが内に押し寄せ、なだれ込んでき さらに、与えられた慰めがいのち、与えるいのちとなって流れてゆくのです。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 ローマ5:2~
2009年07月26日
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息子の進学希望の学校で、教育相談がもたれたのだけど、行ってみたら結局、親と子、別々の相談となった。私は案内された狭い部屋で、簡単な書類に記入し、待っている時間、祈りながら過ごしていた。 祈っているうちに、人になられたキリスト、今も人としての性質を持っておられ、なお神であられるお方が、内におられるという思いに導かれ、喜びに満たされた。 今まで人になられたキリスト、ということがほとんど、分かっていなかった 知識の上では、そう、理解しているつもりだった。 内におられるお方がどのようなお方であるのか、主を知るということが、これほどに喜びを伴っていること、いまさらながらに驚きはじめている。 「キリストの御霊」というその言葉の中に、どれほどに大きな主の愛と成し遂げられた業が凝縮されているのか、主の愛の大きさに、ただただ圧倒される。 嬉しくて泣いてしまったのだけれど、泣き顔のまま、息子のところから戻ってくる高校の先生に会うわけにも行かないので、溢れる気持ちを抑えつつ、涙をぬぐった。 戻ってきた先生との話し合いも、平安の内に伝えるべきことはしっかりと伝えることが出来た。 最後に息子の印象について、話してくださった。緊張はしているようでしたが、一生懸命に質問に答えてくれ、誠実さがとても伝わってきましたよ、と。 無事に教育相談が終了。帰り道、息子の顔はニコニコとしていた。
2009年07月23日
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超日常 だれでもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。この言葉に秘められたパワーと豊かさを知っていますか。御言葉は淡々と書かれていますが...自分を捨て、自分の十字架を負うこと。それだけが主ご自身と主のうちにあるすべての霊的祝福を実際に経験する方法。主は十字架を教えるために、私たちが様々な困難を通ることを許される。大きな十字架の経験でその「コツ」を得、日々の小さな事柄においてそれを適用できるようになる。自分を捨てて十字架を負うことがわかり、且つできるようになって行くと、今まで味わったことのない、新しい世界が目の前に開かれる。信仰の世界。まだ見ていないものを、御言葉の約束ゆえに、すでに得たかのように喜ぶ。「起こる」と主が語ってくださったことを単純に信じ、そうなるんだから、と備えを始める。「これはこうである」という御言葉を単純に信じるなら、振る舞いも自ずと変化してゆく。信仰には行いが伴うって、そういうこと。神が与えてくださった方法が「信仰」でなかったら、私たちはまずすべてを見なければ何も始まらなかったのでしょう。信仰ってすごい。真に信じると、パアーっと目の前が開ける。ヨルダン川に足を踏み入れたときに水が二つに分かれたように、霊的リアリティーの中へ入って行く。自分の心を主に持って行くことを続け、とにかく主と心にある御言葉に集中してゆくということは、自分がそれまで心を置いていたものすべてが十字架を通るということ。その結果、目の覆いが取り除けられ始め、それまで頭だけの知識だったものが本当に見え始める。主の愛。御言葉が本当であること。そして、信仰がどんなものであるか。十字架で私は終わり、主が生き始めてくださる。それは1回できたらもう大丈夫、じゃなくて、1年365日、1日中。 信仰も主に属するもの。だから主のいのちに溢れると、信仰も同時にそこに溢れるということなのだろう。主の豊かさを真に経験するためには、ちゃんと主が定められた手順がある。そして、それを頭ではなくて本当にわかるのは簡単なことではない。主は人を得るために、最高のものを与えるために、その人の体のいのちすら危ういところに持って行かれることを厭わない。主の御心を願う者を、主は一歩一歩導いてくださる。主は十字架ですべてを用意してくださった。それを実際に味わうのは、私たち次第。昨日から喜びが溢れて止まらない。興奮で頭が痛くなるぐらい。皆既日食どころではない。御言葉は永遠の真理。唯一確かなもの。だけど体が持たないので、主よ、お控え目にどうぞ...(笑こうなると、同じ御言葉が今までとは全く別物。言葉では説明しきれないし、言葉を理解しても何も始まらないのだろうけど、十字架の先に何かあるようだ...そう思っていただけたら嬉しい。十字架は奥義。ものすごく単純なのだけれど、これも経験の中で主が直接教えてくださるのでなければわからない。一人一人、主がその人に与えてくださる困難の中で。でも求める者を、主は必ず導いてくださる。それぞれに経験は違っても、主が教えたいことは一つ。人が真に主に向いていて、主を中心とする同心円上の交わりが発生するとき、交わりもまた別物。主の油が滴る永遠の祝福の場所。信仰が信仰を生み、喜びが伝染し、関係は能力も立場も何も関係なくフラット。主にあって利害が完全に一致して行く。「一つ」が実際となる。ここで初めて、ヨハネ17章の主のお言葉が実現するわけだ。。。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。(ヨハネ17:24)自分の中で、二つだったものが、ピシッ!と一つになったような感覚。すごく気持ちが良い。まだまだ足を踏み入れたばかり...これからが本当に楽しみです。主の真実を感謝します。
2009年07月23日
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今日は暑くなりそうですね~ 今日は息子と進学希望の学校へ教育相談の日。 教育相談といっても、面接と同じ。今日でほぼ合否が決まるとか。 一人1時間の時間を割いての教育相談。ん~~、長いぞ。 親子面接形式。面接の次第によっては、他校へ進学を進められることもあるそう。 それはそれで、切り替えが早くできるからいいのかもしれないけど・・。 何がともあれ、一切を主に委ね、いざ、主と共に!!
2009年07月23日
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ほむべき方があなたに与えられました。彼は言われます、 「私を受け入れなさい。遠くから見習う模範としてではなく、 いのちとして受け入れなさい。私はあなたの内に入って、 あなたに私の性質そのものを分け与えます。 私の性質はあなたの心の第二の性質となり、 あなたの選択に自動的に働き、あなたの意志において勝利し、 あなたのすべての感情生活に織り込まれます」。 これがキリスト生活です。これが、今日あなたのところに来て、彼ご自身の豊富と十全性を与えて下さるキリストです。 アーメン!!!
2009年07月21日
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「 目覚めている時、あなたを喜んで賛美します わたしの心を石にするほどの悲嘆ゆえに この石を立てて、ベテル(神を拝する場)とします。 そして、私の悲しみのゆえに、 わたしの神よ、もっと、もっと、 あなたのみそばに行かせてください」 聖歌260 主よ、いよいよ (邦訳では省略されているところ) セーラー・F・アダムス 以前、ブログでもご紹介したことがあるのですが、改めて、その詩の素晴らしさに、本当にアーメンと感じさせられています。 わたしの心を石にするほどの悲嘆ゆえに この石を立てて、 ベテル(神を拝する場)とし、そして、悲しみのゆえに、 主の御許に引き寄せられることを慕い求めています。 全て主の憐れみ。十字架から流れてくる泉。 悲嘆にくれる中で知る主の憐れみは、どれほどに深いことでしょう。 語られる御言葉は、聞く者を、死からいのちへと移し、 イエスの信仰へと引き寄せ、信じる喜びで満たしてくださる。 御霊によって恵みとして与えられたものを知らせてくださり どんな些細なことの中にも、主の御手の動きを知る。 ただ主を知ることを切に求めよう。 すべてはここに導かれてゆく 「セーラーは1848年43歳の若さで世を去りました。結核で死亡した姉の看病をし続けたことが彼女の命を縮めたのです。」・・・(賛美歌・聖歌物語より抜粋)
2009年07月21日
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神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。 彼らはあなたの家の豊かさ心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。 詩篇36:8.9 主よ、あなたを信じて待ち望むたましいに恵みを持ってお応えくださる神 弱さのうちに、無力さのうちに、恐れとおののきの内に しかし、何よりも、あなたを信じる喜びの内に 深くあなたを待ち望む 十字架にとどまるとき、 いのちを与える御霊によって呼び起こされ 目覚めて あなたの御姿に満ち足ります あなたの家の豊かさを 心ゆくまで飲み、主ご自身を知る喜びで楽しませてくださる いのちの泉はあなたにあり、その泉をあなたを信じる者の内に据えてくださったこと その恵みの深さへと招いてくださることを感謝いたします ただあなたを見上げ、あなたのみ姿に触れ 幼子のようにあなたを受け取りたいと願います
2009年07月20日
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「 山暮らしのキリスト 」 Mr.Sugar 氏のブログより 「あるメールから」 私達はともにこれから主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」だけですね。苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、とても楽になりました。世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者となって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしいものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。読むことも、PCの前に座っていることもあまり簡単ではなくなってきています。これからは ますますそうでしょう。でも主は真実であり、十分です。主の愛を心から感謝します。
2009年07月15日
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私たちの内が、肉にそのところを譲っているかぎり、御言葉におけるどんな霊的洞察力も、理解力も、そして真理を知ろうする熱烈な思い、深い思想ですら、「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」ていても、いのちに対して何の益ももたらすことはありません。自己の信仰、自己の知恵も、自己に属するすべての経験さえも、十字架に引き渡され、焼き尽くされる神のいのちは私たちの肉のいのちの死を通して初めて、豊かないのちとして私たちのうちに満ち、流れ出るいのちとなるのです。
2009年07月15日
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おぉ、私の神よ、私のうちに聖霊を住まわせてくださるこの驚くべき賜物を、もう一度感謝いたします。御霊が私のうちにあって働かれるみわざがどんなに光栄あるものか、新しく知るために、へりくだって、あなたに切にお願いします。 とりわけ、聖霊こそは私のうちにある神のいのちを成長させるいのち、また力であって、私たちが神の望まれる程度にまで成長しうるという神の確証であることを、私に教えてください。それを知れば、御霊が内にあるいのちの御霊として私の霊をどんなにか励まし、いのちの糧であるみことばに飢えさせ、それを同化して真のいのちとし、力とされるかを悟ることでしょう。 私の神よ、霊でありいのちであるあなたのみことばを、人間的な思想と肉的な思いをもって理解しようと努めたことが実に多かったことをお許しください。私は肉が何の益ももたらさないことを学ぶにあたって、この上もなく鈍い者でした。今、それを学びたいと思うのです。 おぉ、私の父よ、知恵の御霊を与えてください。御霊の力あるお働きにより、どんなにあなたのみことはの一つ一つが深遠で霊的なものであるかということ、そして、どうすれば霊的なことはただ霊的にのみ洞察することができるようになるかを知るようにさせてください。どうか、あなたの御言葉である聖書に向かうとき、肉的な思いを捨て、深いへりくだりと信仰をもって、みことばを生かす御霊の内なる働きを待ち望むことを教えてください。そうか、あなたの御言葉についてのわたしの黙想が、また信仰と服従による御言葉の保持が、御霊とまことといのちと力によってなされますように。 アーメン
2009年07月14日
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「 青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、 暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。 」 『イザヤ書』45章2-3節 目の前に立ちはだかる扉がどんなに重くても、 またそれがどんなに頑丈なかんぬきで守られていても、 「 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた」 (詩篇107:16) 御言葉が、明け渡された霊、待ち望む者の内に生きて働く。 事実、私の内の青銅の扉、鉄のかんぬきのような かたくなさと罪の縄目を粉々に砕いて、 自由を与えてくださった。 「主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、 彼らのかせを打ち砕」いてくださる ハレルヤ、すべての希望、わが主! 御名の栄光がほめたたえられますように! 「暗闇に置かれた宝、隠された富」 それを知ることはなんと麗しいのでしょう。 霊はこおどりして喜びに満たされます その暗闇が深ければ深いほど、 その価値を知るからです。 ひそかに隠された富で満ち足らせ 主を知る喜びで溢れさせてくださるのです ハレルヤ、ハレルヤ! わが主を、霊とまことによって拝します
2009年07月13日
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「神は真に、ご自身のために私たちを必要としておられること、つまり、私たちの心と愛情、そうです。私たちの中心人格、私たち自身をその愛が宿るべきホームとして神を拝すべき聖殿として必要としておられる」 アンドリュー・マーレー 「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、 人の子には枕する所もありません」 ルカ9:58 という主イエスの言葉を思い起こした。 ただ単に、「あなたのおいでになるところなら、どこにでもついてゆきます」と言われた言葉に対する主イエスの言葉としてしか・・、そう、主に従う道の過酷さとかを言い表している、そんなうわべのことしか見ていなかったように思った。 枕する所もない・・と語られたイエスの言葉の意味がもっと深い所から語られている。それは、「 私は彼らの中に住み、彼らの中を歩む。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(コリント人への第二の手紙6章16節) これこそが、主の願い。私たちのうちをその住まいとし、枕するべき場所として、私たちの心を得、その信仰を通してお住まいになることを願ってくださっている。 どれほどにその心を求めてくださっているのか、その切なる願いが神の御子を天より下らせ、十字架の死にまで下らせたのである。 なんという深い愛でしょう、なんというへりくだりでしょう。私たちが救われたのは、私たち自身が永遠のホームに帰るためだけではない。その愛が宿るべきホームとして必要としてくださっている。 「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もし、なかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのためにわたしは場所を備えに行くのです。わたしが行ってあなたがたの場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」 ヨハネ14:2,3 主イエスにとって、場所を備えるとは、天国で大工をして家を建ててくるというようなことではありません。死んでいたわたしたちにとって、父の家という場所は罪によって私たちが失った場所でした。その場所を回復する、永遠のホームを勝ち取るために、イエスはまっすぐに十字架に向かわれたのです。 まさに、場所を備えに、十字架に向かわれたのです。 十字架の贖いは罪を赦すためだけではないのです。それは入り口です。 その血によって清め、わたしたちも神のうちに住まい、そして私たちを神ご自身の住まいとして下さるためのものでした。 住まいは準備されたら終わりではありません。家は建ててみたけど住まないという人はいません。共に住まう、そこにこそ意味があるのです。 主はわたしたちの明け渡したその領域の分、共に住まう方としてご自身を現してくださいます 信仰を通して「わたしたちの心と愛情、わたしたちの人格の中心、私たち自身をその愛が宿るべきホームとして、神を拝するべき聖殿として」捧げたいと心から願う私たちの思いを主は待っておられるのです。 [キリストは私たちから遠くなく、傍らにおられるのでもない。彼は明け渡された霊の内に住まわれて、そこに私たちの天を造りたもう] A. B. シンプソン
2009年07月11日
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主の憐れみが波のように押し寄せる それは私の何かによるのではなく、 まだ私が不従順であったときに、 まだ私が、全く神の愛を知らなかったときに 一方的に神から与えられた贈り物 何も見えず、何も悟らず、何も聞いていなかったとき 誰よりも不従順で、誰よりも罪深かったゆえに召しだして まず愛してくださって まず、憐れんでくださった 「 あなたがたの受けたあわれみによって、」 遣えるために 受けた愛によって、愛するために 赦してくださったその赦しによって 赦す者となるために 受けた慰めによって、慰める者とされるようにと それが 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 と語られる主の深い願い 無力さのなかに、おののきながらも、 瞬間瞬間流れてくるいのちによって、遣わされる 弱さのうちに待ち望み たらなさの中に、キリストのいのちが溢れ出る 御言葉が内なる霊を呼び覚まし、このお方の内に引き寄せられる 弱さのうちに出てゆく恵み 後は主が一切をなされるゆえに 特等席で主の甘みを味わう ほむべきかな、わが主 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 」 第二コリント1:4
2009年07月09日
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罪人の贖いのわざを始められたのは、 ただ神お一人だけです 信じる一人一人の内に 瞬間ごとに救いの業を成し続けてくださるのも ただ神お一人だけです。
2009年07月07日
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必要なとき、必要な御言葉を持って 引き上げてくださるお方。 私のものが、キリストとともに死に下る 幸いなるかな、自らのものに絶望し その無力さを知ること キリストがよみがえられたゆえに そのいのちに与る恵み 「人はパンのみで生きるものではない。 むしろ、神の口から出てくる一つ一つの言葉で生きる」 死んでいた者が この方の御口から語られる言葉によって いのちへと移される喜び あぁ、御言葉が死の淵より引き上げ いのちのうちに起される ただ、ただ、主の深い憐れみによる ますますいのちの中へ そのいのちを豊かに持つために このお方の足元へ、十字架へと走り寄る
2009年07月06日
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血圧が下がり気味な夏、昼から少し横になっていたら楽になったぞ・・・ と思いきや、お風呂から出て急に体が変?・・もどしてしまった。 しばらく寝ていたら回復。でも横になりすぎで、今度は眠れず パソコンに向かっている次第Oo。。(*´∀`*)ゞ 何をやっているのかしら?と思いつつも、まぁ~こんな日もあるでしょう。 じたばたしないでいられることは楽ですね 先日レンタルビデオでこんなのを見つけました。 思わず借りてしまいました。前編、後編に分かれていて3時間の超大作。パウロの生涯が描かれています。 【ストーリー】イエス・キリストが十字架刑に処せられた当時、ユダヤにあるエルサレムはローマ帝国の支配下にあったが、ユダヤ人の自治が続いており、宗教と政治においてパリサイ派とサドカイ派という二つの派が対立していた。そのような中、パリサイ派の青年サウロ(=後のパウロ)とサドカイ派の祭司ルベンは、身分と派を超えた友情を結ぶ。一方イエスの弟子たちは伝道に力を尽くし、信者たちが何千人にも増えていく中、キリスト教徒たちへの迫害が激しさを増していく。サウロもルベンと共にキリスト教徒迫害に一躍を買っていた。しかし、ダマスコにイエスの弟子たちを捕らえるために出かける途中、突然目が見えなくなるという悲劇に見舞われる。そんな中、イエスの声を聞いたサウロはキリスト教徒の力で文字通り「目からうろこが落ちる」体験をし、再び目が見えるようになる。この出来事に驚いたサウロは、イエスの存在とその力を確信し、キリスト教への回心を決意する。「パウロ」に改名、布教活動に励んだ。友の裏切りに烈火のごとく怒ったルベンはサウロを殺そうと追い詰める。神から異邦人への伝道という使命を与えらたパウロは、迫害に遭いながらも自らの命を懸けてイエス・キリストを伝え、キリスト教徒弾圧に燃えるローマを目指すのだが・・・・。 使徒行伝を見ているようでした。聖書に忠実に描かれていて、当時の時代背景がよくわかる作品ではと思いました。お時間のある方はどうぞ♪
2009年07月04日
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いちいち報告する日本人、自分で決断する中国人 柏木理佳コラムより 「中国人はなぜ上司に報告しない」 中国人の部下を持つ日本人なら一度は憤慨したことではないだろうか。なにしろ日本の会社では、報告・連絡・相談(報連相)が常識なのだから。日本人上司ならば、「上司として信頼されてない」「なぜ上司の俺の存在を無視したのか」と思うはずだ。 しかし、誤解して欲しくない。中国人が報告しなかったからといって、決して上司を信頼していないわけでも、嫌いなわけでもないのだ。もっといえば報告を忘れたわけでも怠ったわけでもない。ただ単純に、もともと報告する意思がなかっただけである。 「それならもっと悪いじゃないか?」 日本人はそう思うかもしれない。しかし、中国人は基本的に個人主義者である。中国人に限らず外国人の多くは子供のころから常に自分で判断し、自分で決定している。ところが日本人は親が所属品のように扱い、常に誰かに相談し、誰かと一緒に判断する癖がついている。 つまり、中国人からすれば、「これくらいのことを、なぜ上司に聞かなければならないのか?」「なぜ報告しなければならないのか?」となる。そもそも、報告しなければならない理由がわからないのである。 報告を怠ったと怒る日本人に対して、怠ったのではなく報告の意思がなかった中国人部下。これくらいのことは自分で判断するのが当たり前、と考える中国人にとっては、なぜ日本人が怒っているのかさえわからないのだ。 中国人が上司に何かを報告するときは、自分への賞賛・評価、または、協力、アドバイスをして欲しいときである。もしくは自分が何か大きな結果を出したときである。報告することで、上司から何らかのアドバイスや協力を得られるならば、上司に報連相する時間を割くだけの理由になるのだ。しかし、報告してもただうなづいて、何もアドバイスしてくれない日本人の上司に対して、何のために報告するのか、まったく理由がわからないのである。「そんなことくらい自分で決めて」とシンガポールの上司は言った ところで、これは中国だけの話ではない。シンガポールでも同じだった。 私がシンガポールで会社設立に携わったとき、「合弁会社の人とともに工場を見学し、品質管理の結果」「不動産会社を訪問、新しく借りる事務所の賃貸料などの契約書の詳細」など日々の業務を毎日、シンガポールと日本の上司にFAXと電話で報告していた。ところがシンガポールでは「そんな細かいことはいちいち報告しなくていい。君に任せる。困ったときだけ相談にきて」といわれた。しかし、日本本社からは相変わらず日々の報告書を要求された。そのうち報告書を書くのに1時間以上もかかり、まるで報告書を書くために仕事をしているような気分にもなってきた。27歳だった私は、不動産の物件を合弁会社のパートナーと勝手に決めていいのか不安だった。自分の責任にされるのは嫌だから、逐一報告していたのだ。それに対して、シンガポールの上司は「そんなことぐらい自分で決めてくれ、忙しいんだから」と、まだシンガポールに住み始めたばかりの私に決定権を次々に与えてきたのだ。もちろん大きなミスをしたらクビだろう。しかし、自分で判断できるということは、より真剣にビジネスに立ち向かえるということで、日本ではできない経験をさせてもらった。 日本人は信頼関係が築けてはじめて、少しずつ仕事を任せる傾向にある。そのうち、報告の義務を多少怠っても、文句を言われなくなる。しかし、中国など海外では、最初からある一定の仕事を完全に任せる傾向にある。 特に中国では、経済情勢がめまぐるしく変化している。国や省庁の政策もころころ変わる。チャンスはまさに今しかない。今即決しなければ商機を逃すのである。「本社に持ち帰って検討する」日本人は、その間にライバル社に抜かれてしまうのだ。 日本人は時間よりも責任感やコンセンサスを重視し、中国人は責任感よりも商機のためのスピードを大事にするという違いのために、双方に誤解が生じる。報告することは本当に大事か? 日本企業の海外支社では、必ずといっていいほど現地のスタッフから苦情が出る。「日本の本社の決断を待たなければならないから商機を逃した」「現場でしかわからないのに。なぜ現場を知らない日本の本社で決定するのか」「決断に時間がかかりすぎる」。そして口をそろえて「ある一定の権限をゆだねて欲しい」と希望する。 確かに、中国をはじめ、多くの国では転職してきたばかりの社員に、すぐに仕事を任せる傾向がある。彼らが社内のシステムのことをよく知らないままに仕事上の判断をしたために、大きなミスになることもしばしばあるだろう。 しかし、いちいち細かいことまで報告することが、本当に必要なのだろうか? その理由は、実は責任問題になったときに自分の立場を守るためではないのか? もちろん、部下を守るためではないだろう。部下の失敗の責任を、日本の上司が本当に取るとも思えない。 部下を、仕事ができないと決め付け、信頼していないから報告させるのではないか。報告に費やす時間を無駄と感じたことはないのだろうか? 今後、雇用の流動化が促進することで、日本企業もこれまでのようなスタイルを維持することは難しくなっていくだろう。日本でも報告の簡素化や、責任を上司でなく個人に求める時代が来るかもしれない。
2009年07月02日
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あなたは、神に あなたの愛、あなたの心、あなたのいのちを与え、 神から、神の愛、神のいのち、神の御霊を受けるという 生きた交換 何ともらうことだけに その祈りが費やされていることでしょう。
2009年07月02日
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パラダイスの中の2本の木 もしアダムがいのちの木から食べていたとすれば、彼は、神が生ける力によって彼のために備えておられたすべてのよいものを受け、そして知っていたことでしょう。そして彼は悪から全く解放されることによってのみ、悪を知っていたことでしょう。しかし、エバは知識のための欲に迷わされました。「賢くするというその木はいかにも好ましかった。」こうして人類は善についてそれを所有することなしにその知識だけを受けました。善についての知識を、その反対物である悪からのみ受けたのです。そしてその日以来、人類はいのちの中よりも知識の中に、自分の宗教を探し続けているのです。 真の知識を与えるのは、いのち、経験、そして神のそのみこころの所有のみです。知性の知識はいのちを与えることはできません。「たとい私が、・・・あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ・・・ていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」 私たちがこの危険に会うのは私たちが日々聖書を読むときにおいてです。私たちはそれに直面し、それを征服しなければなりません。私たちは、人間的な意味で神の言葉を聞き、理解するには知性を必要とします。しかし、知性による真理の所有は、聖霊がそれを心の中でいのちとし、真理としてくださるのでなければ、私たちに益を与えることはあり得ないとことを知る必要があります。私たちは私たちの心を明け渡し、静かな服従と信仰を持って、神が御霊によって私たちのうちに働いてくださるのを待つ必要があります。 このことが聖い習慣となるにつれて、私たちは知性と心が完全に調和を保って働く技術を学ぶことでしょう。そして、頭脳の働きの一つ一つに、それに対応する心の働き~聖霊の教えを待ち望み、それに耳を傾ける心の働き~が常に伴うことでしょう。 いのちと知識 より アンドリュー・マーレー 。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。 信仰を持つようになって購入した本。もう何年もの間、本棚でほこりをかぶっていた本だった。しかし本当にほこりをかぶっていたのは私のほうだった。 何と曇った目、見えない目で読んでいた・・いえ、見えないということすらも知らないで、それでもって見えると思って読んでいた。 「真の知識を与えるのは、いのち、経験、そして神とその御心の所有、・・・・聖霊がそれを心の中でいのちとし、真理としてくださる・・ことによる。 人類はいのちの中よりも、知識の中に自分の宗教を探し続けている。」 まさに!だ 聖霊が心の中でいのちとし、真理とする。私たちの心を明け渡し、静かな服従と信仰を持って神が御霊によって私たちのうちに働く、それは 十字架の死と復活、神ご自身がいのちへと移してくださることによる。 真の知識とは、ただ、聖書の御言葉についての分析やギリシャ語に精通することではない。霊のことは、霊によって、いのちのことは、いのちによってのみ、真に理解される いのち、経験、神とそのみこころ、すべては恵みによる。 そして真の知識から流れる証は、いつの時代を経たとしても、求める者にたどり着き、いのちの水を呼び覚ます呼び水、その人のいのちを呼び起こす力となるからだ。
2009年07月01日
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今日から息子は修学旅行 初日はディズニーランドで一日中遊び、2日目は東京見学、3日目はシュノーケリングやところてん作り、漁業体験など、メニューは充実している。 小学校の修学旅行の時は、まだ友達と話をすることもできなかった。 そんな息子が中学に入り、自由に友達と話せるようになった。毎日の学校生活が楽しいと話す息子にとって、今回の旅行は忘れられない楽しい思い出になるにちがいない。 東京見学は各自班ごとに自由行動。迷路のような東京の地下鉄を目黒から浅草まで移動したりと・・班長になった、と言っていたが、さてさて、大丈夫かしら? 以前は何をするにも不安いっぱいな顔を浮かべていたが、小さな経験が自信へとつながってゆく。 「大丈夫だよ」 そう話す息子がちょっとだけ成長したことを感じた。 今頃名古屋駅の集合場所。名古屋まで地下鉄なのだが、乗り換えも必要で、そこですら一人で行ったことはない。中国人の友達を連れ(この子は名古屋駅おろか、そこまでの行き方すら知らない)集合場所に行かなくてはいけないのだけど、それも大丈夫。と(o^-^o) いまだに何も連絡が入らないと言うことは、無事に集合場所にまで行けたのだろう。 主が旅の最後までお守りくださいますように。 成長させてくださるお方すべてを委ね、感謝します。
2009年07月01日
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愛のこもった贈り物 とても素敵なCMご覧ください.:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜ http://www.youtube.com/watch?v=71uoDpxb2Uw&feature=related
2009年06月29日
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これなんだと思います?実は低反発布団、トゥルースイーパーです。腰の悪い私や主人の体のことを思い、娘が父&母の日にプレゼントしてくれました。 これ、寝心地最高~!体がジンワリ布団に沈んでいく感じです。せんべい布団とも今日でお別れ+.(´∀`*).+゚. 快適な睡眠ライフを娘を通して備えてくださった主に感謝します! ☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆ あれから数日間使用した感想♪ トゥルースリーパー、やっぱりいいですね~。 寝返りの回数がかなり減り、ぐっすり眠れます。 今までは上向きに寝れば腰に体圧がかかり、横になれば肩のほうに体圧がかかっていましたが、それがなくなりました。特に上を向いたときの腰の痛みはずいぶん楽になりました。 とにかく、気持ちよく眠れる、これはありがたいことです。
2009年06月24日
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DVD「隠れ家」 コーリー・テン・ブームの証より~その2~ ラベンズブルックは強制労働収容所です。死ぬまで働かせる目的で作られました。戦争が終結するまでに9万6千人が死にました。私の目の前で老いて、飢え死にしたベッチィも含めてです。火葬場からの煙は黒い霧となって立ち込めました。毎日700人もの女性が死ぬか、殺されました。過密な人口を減らす唯一の方法でした。私自身何度も死を目前にしました。そのたびに主は私の隠れ家であり続けました。 すべてを終えたとき、死は人生で最高の一瞬になります。それはイエス様の手にあなたの手を置く瞬間です。イエス様は生も死も、過去も未来も与えられます。天国のみならず今すぐにでも、永遠の命を与えられます。それは海に落ちるのと似ています。あなたは考えます。「溺れる。一時間は泳げても、いずれ、溺れ死ぬ。」と。命綱一本だけがあなたの望みでしょう。私はイエス様が唯一の頼りだと気づきました。世の中の苦しみに溺れたとき、すべてを失ったと思うとき、イエス様はそばにいると気づくのです。彼はあなたのために生き、死に誰よりもあなたを愛するのです。私は33年間イエス様のことを64ヶ国で語り続け、その間、一度たりともイエス様に助けを求め後悔したと言う人とあったことがありません。私が説教をはじめたと思うでしょう。でも私が聞いた最高の話は、囚人がお話したことです。ニュージーランドの刑務所で「イエス様は世界に光を与え、あなたも暗い刑務所 に光を与えることができるのです。そういうと一人の男性が、 「今朝、僕は聖書の中の殺人犯の話を読んだ。モーセ、ダビデ、パウロの三人だ。」 そういいました。神からの英雄と呼ばれているけれど、彼らは殺人犯だ。その彼らの命を主は迎え入れた。つまり僕らにも希望はある。」 そう、彼は真実を見つけました。聖書にも書いてあるようにイエス様が助けられないのは「私は誰よりも優れている」と言う人だけです。なぜなら、イエス様は罪びとを救うためにこの世に来られたのだから。 手袋は置いてあるだけでは役に立ちません。でも私の手が中にあれば、たくさんのことができます。手袋がやっているのではなく、中の手がやることだけれど、モーセも。ダビデも、パウロも手袋に過ぎないのです。彼らの中にいる主のみ業です。私たちにできるのは主が入る隙間を作ることです。そうすればどこにいても奇蹟がおきます。 一人の青年が言いました。「あぁ、そのためには聖書の学校に行かないと」 「いいえ、十字架の前に立つだけでいいのです」 アフリカの刑務所で死刑が確定した受刑者のことを知って私は面会を申し出ました。3人の兵士が同行することで面会が許されました。独房の天上は高く、採光用の小さな窓があるだけです。飾り気のない部屋です。ただ床の上に、背の低い小さな棚がありました。その棚の上に、一週間後の死刑を言い渡されたアフリカ人の青年が座っていました。2人きりでいるように、自然体でいたかったけど、兵士がいて動揺しました。銃を持った男のそばにいると落ち着かないのです。話すうちに彼の名がキミヨであること妻子がいることを知りました。キミヨは十字架のこともイエス様が皆の罪のために死んだことも知っていました。 「誰のせいでここにいるの?」と私はキミヨに聞きました。彼は政治犯でした。すると彼の眼に暗い憎しみの色が浮かんできました。彼はいいました。「全員の名前を言おうか」 「彼らを赦せる?」 彼は 「無理だ」と。 私は「家族は一人の男の裏切り者のせいで4人が刑務所で命を落としました。私も世界最悪の収容所を3つも経験しました。でも私は裏切った人を赦せます。決して私の力ではなく、主のおかげです。主の愛が聖霊のおかげで心に満ちるのです。主が赦すためのお力を与えてくださるのです。そして、彼を赦すと,解放感を覚えました。」 「あなたはもうすぐ死にます」 彼は答えた。 「あぁ。あいつのせいで俺は妻と子にもう会えない。」 「わかるわ、キミヨ。もしあなたが彼らを赦さないと、天の父もあなたを赦しません。だからキミヨ、彼らを赦して。あなたにできなくても聖霊にならできます。一緒に祈りましょう」 「イエス様、主の愛を御霊を通じ私の心にお運びくださり、感謝します。主よ、私の憎しみよりも、強い愛をくださり、感謝します。」 他にキミヨと話したことは覚えていないけれど、それ以降私は3人の兵士の存在を感じませんでした。代わりに独房の中には天使がいました。その後、私はキミヨが妻への手紙の中に、 「俺をここに送った奴らを愛し、俺たちの中にるイエス様を通し、彼らを赦そう。」彼は世界の嘆きにとらわれていました。でもそこから抜け出す方法を知ったのです。
2009年06月23日
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DVD中のコーリー・テン・ブームの証より抜粋。 「今からお見せする映像は、受刑者たちのために特別に作られたものです。神様は世界中の刑務所で奇蹟を起こしています。今、この瞬間も多くの囚人たちがイエス様に救いを求めています。 祈り続ける重要性を示唆しながら、何百もの刑務所で上映されています。これを見るときは覚えていてください。囚人は必ず牢屋にいるとは限りません。イエス様に人生を委ねられない人たちは、彼らもある意味、何かにとらわれています。多くの人たちは苦しみと憎しみの感情に縛られ、あるいは利己的になってしまったり、悩みや間違った人生観、傲慢さにとらわれているのです。 この映像を通じてあなたがたに、主の御言葉が届くように心から祈ります。 Corrie ten Boom 「私はコーリー・テン・ブーム。人は「主のための放浪者」呼んでいます。それはきっと私が64ヶ国で、キリストの福音を伝えているからでしょう。ベトナムでは2倍年取ったおばあちゃん、そう見えるかしら? 確かに私は年老いています。でも刑務所の仲間の人格を判断してはいけません。牢獄にとらわれるということがどんなことか私にも分かります。私が53歳のとき初めて刑務所に入りました。あれは1944年のことだった。第二次世界大戦の真っ最中です。あなたたちは生まれてもいないですね。大昔のことだけど、事実には変わりない。 ヒトラーの軍がオランダに攻め入って5日間の戦闘の後、私たちは降伏し、そしてドイツの支配下に置かれました。他の占領国と同じように、反ユダヤ人政策をとられ、毒に満ちた宣伝活動が行われました。忠誠なオランダ市民の私たちは‘オランダ人 と‘ユダヤ人 に分けられてしまい、隣人や友人がどこかに連行され、帰らぬ人となっていきました。 2年以上地下組織の一員として、私たちはナチスの大量虐殺を逃れたユダヤ人を家にかくまいました。けれど、1944年2月28日、密告者により私たちの活動はゲシュタポに伝わり、家族は兵士に連行されてゆきました。最初の一週間は4,5人と一緒に収容されました。私が胸膜炎で具合いが悪くなると、刑務所の医師は肺結核の可能性を恐れ、私を独房にいれ、隔離することにしました。他の収容者が感染しないようにするためです。 あの時、私は人生で初めて本当の孤独を味わいました。私の命も侵略者の手中にあったのです。殺されるか、拷問にあうか そのまま放って置かれるのか、知る術もありませんでした。 夜は厚い壁を通し 遠くで爆音が鳴り響くのが聞こえ、ゲシュタポの拷問による悲鳴も聞こえました。 地獄絵図を見るようでした。私が歌うと守衛が扉をたたいて止めました。闇の監房に入れられるときも脅され・・・闇の監房では水の中で立たされるのです。時の流れは遅くなり、耐え難いものになります。いつ彼らが私を連れにきてもおかしくない状態でした。 独房の外で足音が聞こえるたびに「私を拷問にかけるの?私を殺すの?」と思いました。 ある日独房の壁を背に立ちすくみ、あまりの恐怖にいたたまれず、壁を押しのけられたらと手を広げました。 「主よ、私には試練に耐える力はありません。信仰心も強くありません。」 すると何日か前から見かけていた蟻を見つけました。 濡れた布で床を拭くとその水滴を感じた蟻は、壁にあいた小さな穴にあわてて駆け込んでいきました。濡れた布も自分の足の細さも気にする間もなく、隠れ家に一直線。 「 コーリー。 蟻の足のようなか細い信仰心を気にするな。 彼らの残酷な所業のことも考えるな。 わたしがお前の隠れ家だ。 壁に隠れた蟻のように お前も私に隠れればいい。」 それを聞き、初めて心が安らかになりました。当時、私は53歳でした。イエス様を知っていたけど、独房の中で理解するようになりました。イエス様は暗闇の中に光を灯して下さるお方だと。 誰もが勇気をなくすことがあるでしょうけど、あなたは他の人のためではなく、主とあなた自身のために生きているのだと そして聖書を読み、イエス様の御言葉である「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう」これを信じれば誰かがあなたを気にかけ、一人の人間として心配していてくれると気づくでしょう。 聖書は空想物語ではなく、哲学書でも、想像の産物でもない、真実を語っています。イエス様がその御霊を通し、ここ地球に私たちと共におられるという偉大なる事実を物語っています。 これを見て(姉の写真を見せながら・・・)彼女が姉のベッチィ。私と同じ収容所にいたけど、会うことはできませんでした。数ヵ月後、オランダの大型刑務所に移動させられ、そしてそこから、牛のように貨物車で運ばれ、ドイツのはずれに収容されました。 ナチスは各地の刑務所から、囚人たちを男女を別々に収容所に送りました。私と姉は何千もの囚人たちと共にラベンズブルックに送られました。そこは強制労働収容所でした。収容所につくと私たちは身包みはがされました。私は聖書を背中にあててドレスの中に隠しました。 「主よ、天使を送って私をお守りください」と祈り、天使は透明だから私を隠すことはできないと気づき、見つかることを恐れました。恐怖におびえながら祈りました。 「主よ、今日だけ天使を不透明にし、私をお隠しください。」 祈りは通じました。前にいた女性の後、私の後ろにいた姉が調べられ、私は調べられませんでした。 収容所のバラックは200人用だったけど、700人もの人たちが詰め込まれました。寝台は天上にまでそびえたち、一人数センチの幅で寝ました。壊れたトイレも含めると全部で8つ。神の御言葉を伝えるのは禁じられていました。守衛に見つかれば惨殺されます。でも一日2回の第28班の聖書読書会が、守衛に見つからなかったのはノミとシラミのおかげで、守衛が部屋に入ることがなかったからです。主は天使としらみを使われ、聖書をお守りくださいました。生活は快適ではありませんでした。悲観したときもありました。ある夜、バラックの外にいると、美しい星が光っていました。そして私はこう呼びかけました。 「主よ、あなたはどんな星でも見放さないのに、わたしとベッチィを見放されました。」 すると、ベッチィは 「いいえ、見放しません。聖書の中でイエス様は、(世の終わりまで私たちと共にいる。)と言われました。一緒に居られることを信じて感じるのではなく、信じるのです。」 そして私はゆっくりと自分自身と、信仰心や感情と、主を信じることを学んでいったのです。感情には起伏があり、あてになりません。聖書の御言葉が私たちを地獄から守ったのです。 続く~
2009年06月23日
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数億年の時間をかけて、海底の珪藻類が堆積して出来たのがブラックシリカ(黒鉛珪石)。太陽のエネルギーによる天然ミネラルをふんだんに蓄積し、遠赤外線やマイナスイオンなど、様々な波動エネルギーを半永久的に放射するパワーがあります。人間の血液や細胞自体を活性化させ、さらに新陳代謝を促進し、生命力を高めます。 大昔、ブラックシリカが埋蔵されていた地にナウマン象が来て、水を飲んだり傷を癒していた。それを見た人々が同じように傷を治したという言い伝えがある。ブラックシリカ(神明石ともいう)のエピソード■かつて、NASA(航空宇宙局)による「宇宙船内における人間の生存条件」の研究で、宇宙の条件下での船内で人間が生存するために必要なファクターを調べた結果、太陽光のうち波長8~15ミクロンの赤外線が生物の生存に欠かせないことがわかりました。ブラックシリカは、素材の開発において、ちょうど4~14ミクロン(育成光線)の波長を発する鉱石として調査対象にもなったことがあります。■ブラックシリカの原産地、平成上ノ国鉱山一帯の地域だけが、異常に雪解けが早いため、大学の研究者が調査したところ、遠赤外線を発するブラックシリカの埋蔵地であることがわかりました。又近所の農家が融雪剤として粉末状にして使っていました。 ブラックシリカは、現代病を克服できるとして最近注目されているマイナスイオンや、体内の浄化作用、血液の循環などに大いに効果が期待できる、まさに神からの贈り物ともいえる計り知れないエネルギーを持つ天然鉱石である。また、それに加えて科学的な解明は、まだされたわけではないが、ブラックシリカ岩盤浴で病気を回復した事例も多く報告されている。最も効き目に作用しているのは、波動エネルギーという治癒波動が、イオン・遠赤外線と相乗効果をもたらすことのようで、そのため免疫機能やガン・糖尿病などに対し治癒力があるようだ。 神天石(ブラックシリカ)とは、北海道桧山郡上ノ国町で産出される黒鉛珪石と呼ばれるとても珍しい天然鉱石のことで、多くの天然ミネラルを含み、遠赤外線・マイナスイオンなど、様々な波動エネルギーを放射発散する特徴があります。「上ノ国ブラックシリカ」は特に良質な原石として評価されています。 ■ ブラックシリカの主な効果●発汗を促進する。 ●暖め効果がある。 ●重金属類・水銀等を放出する効果がある。 ●安眠効果を高める。 ●脱臭効果がある。 ●防菌・防かび・防湿効果がある。 ●植物などを活性化する。 ●水が軟水化する。 ●水道水のカルキ・塩素を除去する。 ●野菜・魚などの鮮度を保持する。 ●コンクリートなどに混ぜると強度が増す。 ●空気を正常化する。 ブラックシリカ成分分析表元 素分析値(%)炭素3.4%二酸化ケイ素77.0%酸化マグネシウム1.9%酸化アルミニウム13.0%酸化カリウム2.8%酸化チタン0.7%酸化鉄1.0%その他0.2% ■ 遠赤外線目に見えない赤外線の中でも赤から遠い4~1000umの波長のものを指します。その中でも特に4~14um程度の波長は通称「生育光線」と呼ばれ、ブラックシリカは常温(39.9度)の状態で約90%の放射率を保持しています。生育光線の働きは、生物がみずから発するものと、外から放射される生育光線とが共鳴し、水分子の活動が活性化され、クラスター(水分子の要因)が小さくなります。また、生育光線によって体内の水分子が振動を起こすと、共鳴吸収により熱反応となり皮下深層に作用します。生育光線は水分子に働きかけるので、生物の成長のほか、食べ物、飲み物、空気中の水分にまで影響を及ぼします。 ■ マイナスイオンマイナスイオンはご周知のとおり、空気のきれいな森林や海岸、滝の周辺などで多く発生します。ブラックシリカも高い数値を占めており、磁鉄鉱が含まれており、磁気エネルギーが放射されています。 ■ 波動エネルギーどんな物でも分解をしていきますと分子になり、最終的に原子となります。現在原子核の周囲を電子が回り、その原子は固有の振動をもっていることが解ってきました。この振動(微弱エネルギー)が「波動」と言われます。近年この波動を測定する装置(MRA・MAX等)が開発され、医療分野をはじめ様々な分野で「波動理論」の実用化が進められています。 ↑この石が いつも行くスーパー銭湯に新しくお風呂とサウナに入れられていた。 ふ~ん、気休め程度?と思いつつ入浴。ところが入浴して数分後、ものすごい発汗に驚き! 私は日曜日夕方から必ず近くの銭湯に通っている。 土日は透析に行けない分、月曜日の朝まで体に水分が(食事を含め)取った分だけ体内にたまっていくので、塩サウナやサウナで汗を流して、その分、透析で引く水分を調節している。 このブラックシリカのお風呂とサウナを交互に入ったわけだけど、汗が噴出してきて、体がほっかほか。サウナの後、水風呂に〔いつもは足だけにしている〕ほてってたまらず、水風呂にザッブ~ン!!!娘も一緒に入ったが、体の芯まで熱くなった・・けど、おかげでこの暑さの中、余計暑くなったみたい・・笑) 遠赤効果、恐るべし.これは主人の体にもよさそうなので、早速注文。楽しみです。
2009年06月21日
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私は仕事を始めるときちょうど子供が親を信頼するような心を持って 「おぉ、私の神よ。あなたはいつも私と共にいらしてくださいます。今、私はあなたのご命令に従ってこれらの世の事柄に心を用いなければなりません。どうぞあなたの臨在の中に絶えずおいていただく特権をお与えくださいますようにお願いします。どうかこのために御助けを持って私を祝福し、私のすべての働きを受け入れてくださり、私のすべての愛情を所有してください。」 と申し上げました。いよいよ仕事に取り掛かっても、なお、創造主と絶えず親密に語り続け、神の恵みを求め、すべての私の行為を神に捧げました。 私は仕事を終えてから、どのようにその責任を果たし得たかを自分自身で検討してみます。もしよくできたら神のものとして感謝してお返しし、失敗があったら神の許しを請います。そして失望することなく、すぐ心を取り直し、一度も神から離れたことがない者のように神の臨在を思う練習を続けました。このようにして、失敗から立ち上がり、しばしば信仰と愛の行為とを新しくすることにより、以前は神について思うことが困難でしたが、今では神について考えないことの方がかえって難しい状態になりました。 「敬虔な生涯」 ブラザー・ローレンス
2009年06月19日
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E姉妹とY姉妹が会われるのははじめてのことだった。 はじめは私だけでE姉妹のところに行く予定だった。当初行く予定だった日には行けず、改めて16日になった。 Y姉妹は仕事の都合上、お休みが決まっていない。メールのやり取りの中でふと、16日はおやすみ?・・と本当に思いついたように聞いたのがきっかけ。 おやすみであることを知ってびっくり。 その後改めてY姉妹から連絡をいただいた。 「そのままで行きなさい。そこにわたしがいる」 と主から語りかけを受けたと、交わってくださった 交わりが近づくにつれ、私自身楽しみなんだけど・・、実は恐れのほうが大きかった。 怖いという思いではなく、二人の姉妹の中で生きておられる神の清らかないのちの流れに触れ、その交わりに私などふさわしくないようにすら感じていた。 「主よ、あなたが引き寄せてくださる交わりに、どうぞ憐れんでくださりふさわしいものとしてください。」 主は祈りに答えてくださった。 前日の月曜日、いつものように透析を終えたのだけれど、いつもより疲労感がひどかった。一晩眠れば明日は元気になるだろうと横になった。 ところが、どうしようもなくだるくて眠れない。AM2時・・3時と時間が過ぎていった。ところが、内側は静かな喜びが満ちていた。 ただ横たえているしかないのだけれど、弱さの中に主が置いてくださったこと、それはあの「ふさわしいものとしてください」という祈りに主が答えてくださったとわかったからだった。 喜びを感じながら、もう気持ちは富士山に飛んでいた。 一睡もできないまま朝を向かえた。 名古屋の地下鉄で途中気持ちが悪くなりかけたが、富士見についたらすべて吹っ飛んでいた。 交わりは喜びをもたらし、体にまで及び、家に帰ったらすっかり元気になっていた。 Y姉妹も話してくださった。 本当に行っていいのか・・どきどきだったこと、そしてさらに、主が背中を押してくださったことを改めて証してくださった。 交わりの祝福、それもすべては十字架を通して。 主ご自身がその名の下に磁石のように引き寄せてくださる。 十字架は御父と御子の交わりの喜びへと引き寄せる力。 心から感謝します。
2009年06月18日
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神様がわたしたちに答えを下さらないときは、信仰の厳しい試練のときかもしれない。けれども聖書を学ぶにつれて神様は決して間違いをなさるお方ではないことを理解できるようになる。そして天国ではすべてが分かるだろう。 人生は 神とわたしの間で織り成される織物 色を選ぶのは私ではない 神がたゆみなく働かれる 時折神は悲しみを織り込まれるが 愚かなプライドのうちにいる私は 忘れている 神は表側を 私は裏側を見ていることを そのとき私は姉のベッツィーのために祈っていた。彼女は重病で入院していた.バラックの不潔な寝棚でも労働の時も、昼も夜もベッツィーと一緒にいられるのは喜びでありなぐさめであった。だが、今彼女はみずぼらしい病院に入っている。彼女を愛する友人たちと私は、彼女の癒しのために主に祈った。けれども点呼の後、私が病院に戻って窓をのぞいた時には、彼女はすでに亡くなっていた。私の人生で最も暗黒のときだった。 私にはなぜ神様がいのりに答えてくださらなかったのか理解できなかった。 数日後、私は列の外に呼ばれ、釈放されることを聞かされた。事務所を通って出て行かなければならなかったが、そこの人たちには姉の死が知らされていないようだったので、尋ねてみた。 「姉はどうなるのでしょう?」ベッツィーがまだ生きていたらどうなったか知りたかったからだ。彼らはいった。 「お前の姉はここにいなければならない。戦争が続く限りな。」 「私のここに残っていてはいけないのですか?」 「だめだ。直ちに出て行くんだ!」 私は祈りが答えられなかったことを感謝し、主を褒め称えた。もしも姉が癒されて一人地獄でラヴェンスブルックに残らなければならなかったとしたら、一体どうなっていただろう。それに私はたとえ故郷に戻っても、姉の苦しみを思い夜も昼も拷問のような苦しみを味わうことになっただろう。私は刺繍を神様の側から見たのである。
2009年06月18日
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「神様に助けてもらおうと思ったら、神様の御手をくすぐらないといけないのよ。」わたしの後ろのベッドに座っていた人が言った。 「違うわ。本当に主を知ったら、あなたにもわかるでしょう。わたしたちが祝福を求めようとするずっと前から、神様には祝福する用意ができているの。神様は私たちを愛しておられる。聖書は言っているの。「あなたがたは神の畑」(コリント第一3:9)って。」偉大な著述家であったC・Hスポルジョンはこのことを実にはっきりと表している。 天の耕作に任せるのだ。 人のたましいを、一つの畑として 荒地ではなく 主の庭になり 恵みに囲まれ 教えによって植えられ 愛の訪問を受け 天の訓練の手入れを受け 神の力で守られるように このように目をかけられた人のたましいは 整えられて 神の栄光の実を結ぶ 庭が多くの働きをするわけではない。花と実をつけるだけである。責任を持つのは庭師である神なのだ。神は私たちを祝福し、恵みで満たし、訓練してくださる。私たちが望むと望まないとにかかわらず、神は働かれる。私たちに必要なのは明け渡すことである。すると神は、私たちの人生を荒地から神の庭へとつくり上げてくださる。神はそのように願い、またそうおできになる。すばらしいことではないか。
2009年06月17日
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昨日はこんな風に見える予定だった富士山・・でも 快晴よりもさらに麗しい祝福の雨がわたしたちを潤した 「なぜなら、私の名のもとに二人あるいは三人が集まっているところでは、彼らのただ中に私がいるからである」 マタイ18:20 Y姉妹とともにE姉妹のところへ♪主がその名の中へと引き寄せてくださった交わり。それを実感する交わりだった それぞれに経験の中で味わった主の麗しさに共に浸る。降る雨さえ心地よく感じ、ふと会話が途切れるその時も、もはや気を使う必要すらいらなかった。言葉以上の喜びが静かに流れていたから。交わりの余韻というには言葉が足りませんが、主によって引き寄せられたあの必然、交わりの中心が主である幸いな時間は、心の中に広がる甘さ、その喜びが消えることなく内を満たしています。 第一の天はわたしたちのただ中からすでに始まっており、主がすべてであることを分かち合う喜びも、その前味に与っているのだと思わされて、喜びが止まりません。わたしたちがそれぞれに今も経験しつつ、そしてこれからも経験する十字架といのちの喜びが増し加えられるほどに、交わりさえも成長し、その深みを増して行くこととますます主に期待しています。 このような交わり、少し前には想像すらしていませんでした。 それぞれまったく違う場所、環境の中にいながら、主によって手を引かれ集まることができた不思議さ。私のような者が・・とおののきながら集った弱さの中に現される主のいのちの甘さ。主をもっと経験したいという願いは、わたしたちの中でさらに増していった。 主がここにいる。深い喜びは消えることがない。
2009年06月17日
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私と同じ曜日に透析に通っている体の不自由な女性がいる。 まだ30代前半ぐらいの方。でも左半身が麻痺していて、毎回タクシーの介助を受けながら透析に来られている。 不自由な体で透析に通うことはどんなに大変なことかと思う。 そんな彼女と看護士さんの会話がふと透析中聞こえてきた。 「お父さんが怖い・・」 「お父さんがどうして怖いの?」 「もう死ねっていわれた。・・・」 彼女が抱えている悲しみや辛さを思い、涙が溢れて祈らずにはおられなかった。 神様の愛を伝えたいと思った。 何もできないけど、それでもただ、そばにいたいと思った。 主よ、どうぞ憐れんでください。あなたの憐れみの御手を伸べてください・・
2009年06月15日
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「人生とは刺繍のようなもの」私たちが自分の人生を見る時、それは多くの場合、混沌としています。喜びや楽しみに、悲しみや苦しみが唐突に混じり合い、一見すると非常に混乱したものに見えます。 時には「何でこのような事が起きるの?!」と、人生の不条理に悩むことさえあります。しかしコーリーさんによると、人生の目に見える部分は「刺繍の裏側である」と。刺繍の裏側は、糸がほつれたり玉になったり、およそまともな模様は見られず限りなく混乱しているように見えます。ところが、これをひっくり返して刺繍の表側を見ると、そこには見事な模様が描かれているのです。これが私たちの人生です。目に見えない部分で見事な模様が織りなされている 確かな完成に向かってひと針、ひと針時間をかけ、 しかも丁寧に、 イエスに似た模様が刺繍されつつあるのです。
2009年06月15日
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コーリー・テン・ブームさんとその家族は、第二次世界大戦中、オランダでたくさんのユダヤ人をナチスの手からかくまっていました。しかし、やがてナチスはブーム一家は逮捕され、強制収容所に送られることになります。そこで、ひどい虐待を受けました。結局、親も姉も、収容所の中で亡くなります。ある時は、服を全部はぎ取られ、裸で外に立たせられました。女性にとって、それは惨めで耐え難い屈辱です。それを7度も経験したのです。あまりの惨めさと寒さで、コーリーさんは、そばにいたお姉さんに「もうこんなこと、耐えられない」とつぶやきました。するとそのとき、突然、十字架にかかったイエスさまのイメージが脳裏に浮かびました。イエスさまは、ローマ兵に着物をはぎ取られ、裸で十字架につけられていました。イエスさまが、自分と同じ苦しみを味わってくださったということを知ったとき、コーリーさんの心に、言いようもない喜びがわき上がってきたのです。その後も、イエスさまはコーリーさんやお姉さんと、いつも一緒にいてくださり、彼らがイエスさまに語りかけると、不思議な声が答えるのを確かに聴くことができました。地獄のような苦しみの中で、まるで天国にいるかのような喜びを味わわせてくださったのです。子どもの頃、コーリーさんはお父さんにこう言いました。「お父さん。私、イエスさまのために死ねるかどうか、心配なの。そんなに強くなれないんじゃないかしら」。すると、お父さんはこう答えました。「コーリー。お前が汽車で旅行することになったとしよう。お父さんはお前にいつ旅費を渡せばいいかな。3週間前かい?」「ううん。出発する時」「神さまも同じだよ。今日、イエスさまのために、試練に耐える力がなくてもいいんだ。実際に試練にあって、その力が必要になったら、ちゃんと神さまはお前にその力をくれるから、心配しなくていいんだよ」。そして、イエスさまは、お父さんの言ったとおり、収容所の地獄のような苦しみの中で、その苦しみに耐える力を与えてくださいました。それどころか、天国の喜びまでも体験させてくださいました。まさに、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のもの だからです」(マタイ5:10)と書かれているとおりです。
2009年06月15日
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