育てているのは未来です

育てているのは未来です

私が教会に行くわけ



 私の生まれ育った家は、子沢山な上に父がお人好しで酒好きだったせいか来客が多く、安月給の割には酒代がかさんでいつも貧乏でした。小学校に上がってからも、給食費を払うのがクラスでいちばん最後で、担任の先生からはいつも「明日は給食費持ってきて」と催促されていたのを記憶しています。
 そんな家でしたが私と弟は幼稚園には行かせてもらいました。私は当時南堀端にあったアライアンス松山協同教会裏の「のぞみ幼稚園」、弟は小学校のすぐ横の「番町幼稚園」でした。今のように年少~年長というのではなく、就学前の一年間通うものだったと思います。姉が「しゅはきませり~♪」と歌っていたというので、クリスマスの頃までは通っていたと思いますが、顎下腺腫瘍が出来て手術をしたため、それをきっかけに退園したようです。
 その後、校区の小学校・中学校と進みましたが、小6の春に母が中一の夏に父が病死し、雑貨店をしていた宇和島の母方の祖父母の家に引き取られました。期待されたほど学校の成績が良くなく生意気でもあったので、中学卒業までの3年はなかなか厳しい生活でした。「居候 三杯目には そっと出し」という川柳がありますが、三杯目までいくことはなかったように思います。
 そんな中、学校の帰り道に電柱にかけた「キリスト教伝道集会」のポスターを見つけて、丁稚奉公のような掃除や店番をすませたあと、そっと抜け出して公会堂で行われていた夜の集会に出かけました。中を覗くと薄暗く、舞台だけが明るくなっている会場の様子が見えました。入口では文庫本サイズの新約聖書が配られていて、私もそこで受付の人からそれをもらいましたが、突然その場にいた女性が「○○くん、○○くんよね」と私の名前を呼ぶのでびっくりしました。「そうです」と答えると、その人は「神様のお導きです」と言うと、周りの人目もはばからずひざまずいて感謝のお祈りをしはじめました。しばらくして立ち上がったその人によると、今は宇和島市の伝道所にいるが以前に「のぞみ幼稚園」で働いていたことがあり、その時の私を覚えていたのだということでした。
 8年も前の中途退園した園児の顔を、全く別の町の群集の中に見つけ出したというのは、信仰厚い人にとってはまさに神様のお導きと思えたのでしょう。私は、神様への感謝と言うよりは、その信仰の姿勢に感激して涙が出ました。その後、伝道拠点となっていた伝道所を何度か訪ねましたが、仏教徒の祖父母からは、当然ながら「おまえは耶蘇教か!」とひどく叱責され、次第に足が遠のいていきました。
 中学を出てからは、居候の辛さが身にしみていたので合格していた高校には行かず、すぐに松山に戻って住み込みの酒屋の店員になりました。それから先、いくつだったかよく憶えていないくらい転職を繰り返し世の中をさまよった挙句、たどりついたのが養護施設「信望愛の家」で、その時のエピソードは「高橋菊先生」という表題で別欄に書いてあります。

 そして、これも神様のお導きというべきなのでしょうか、社会福祉法人になったばかりの「あゆみ学園」に就職し、その後一旦退職して家内と二人で始めた託児所は、保護者のご理解ご協力、そして良い子どもたちに恵まれて45年続きました。そしてまた、あゆみ学園の職員に戻って今に至ります。
 受洗したのはあゆみ学園にいたころのことですが、信徒としては今もってまったく未熟で、未ださまようひとりの求道者のままです。

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