不思議な表現があるものだ。
どうも死んだオヤジが、留守に母親の持ち物をこそっと持ち出していたらしい。もっとも実家は、オヤジの所有物だし、母親の持ち物とてオヤジが持ち出して悪いというものばかりではない。私物といってもほんとうに個人の持ち物というような繊細なものではなく、こまごましたものが持ち去られてオヤジの居宅から発見された。他愛ないものばかりなのだけれど、遺族の我々の失笑をかっている。
たとえば、身の回りの身づくろいをするような糸針のたぐいだ。いまどき、百円均一のショップででもコインで買えるようなものをわざわざ交通費をかけて、母親の留守のあいだに立ち入ってこそ泥並みに息をひそめて持ち出すという感覚が可愛い。どうしてそんな糸針、指貫のたぐいにこだわりがあるのだろう。
母親の解説によると、祖母が常々言っていたらしい。女郎買いの「拾いわらじ」というのだ。
江戸時代から、つたわる俗諺らしい。博徒や遊興にうつつを抜かす遊蕩三昧の遊び人は、性根が腐っており遊郭で女郎と閨房事には大枚をはたくことに躊躇がないが、その帰路夜道で落ちている朽ちた草鞋を片足だけでも勿体無いとばかりに拾ってかえり、自分の耕している田圃にほり投げて穀物のための肥やしにしようなどというさもしい行いをするものなのだという。
なるほど、わがオヤジは百姓農家の長男惣領でありながら、野良仕事を嫌い都会出奔。商売で一時期儲けたがその金をひたすら酒宴と、艶福をために蕩尽し、家族をかえりみずにひたすら俄かに戦後派新興大尽ぶりを極めんばかりの散財ぶりだった様子。これはわずかに残った資料や郵便物などをもとに推量できる。いわゆる富裕層の定義をいえば、可処分所得が手厚く有価証券等金融資産が5000万円を越えるものとされるそうだが、それならばなるほどかろうじて合致するのかもしれない。
しかし、その身の回りの衣料品や下着、ウエアのたぐいの趣味の悪さには格好の哄笑の的であって、しばらく残された家族もたっぷりと笑いのめして愉しめる。わが父親ながら、可愛い人だったのである。しかも侘しくその身づくろいをちまちまと下手な針仕事で手直しをしていて、道具箱ごと母親の住む実家から無断で持ち出ししているのだから、拭いがたい貧乏性というものは滲みいって肺腑にまで至っていたのだろう。よく言えば、戦中派内務班体験者なのだから自助精神を備えていたとも言える。
しかし、俚諺とはいえ痛烈だ。
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