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2007年10月06日
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「感覚の共有」などと言葉では言えるが、簡単なことではなさそうだ。

そもそも、感覚と呼ばれる事柄は、普通は個々人の属人的な領野のもの。かなり幼い子供でも「自分のもの」であれ、「他人(周囲)のもの」ではないということを会得しているらしい。感覚などと言葉を与えて、すかして考える習癖は確かに後年に待つとしても、乳幼児期から人間は、感覚に自己所有された「もの」としての統覚がそなわっていると思う。


具体的にいえば、


I HAVE TO PEE. オシッコせねば。オシッコしたい。



こういう英語は、習わなかったがテレビで外国映画をみていると飛び出してくる。

なるほど、オシッコには痛烈に感覚があって外化して一瞬たりとも早く開放されたいという取付くような感覚がある。これを子供たちや乳幼児ですら「張りついているもの」として意識をしているために、彼我の差ありと瞬時に見抜けるわけである。



この感覚を共有するなどといいだす部課長は、いってみればアホである。まして、この感覚に傾斜性があり、その傾斜性をそれぞれ吟味しながら言い当てるというこれまた統覚(ある種の高次な感覚)が、登場するまで感覚を共有するなどということは実は不可能なのである。

感覚の変異を察知する統覚は、感覚であって感覚ではない。これには人間の作為というのか、努力というのか、感覚の方法化というのか、ようするに「態度」を要求される。この辺の事情は、どうも西洋人のほうが上手らしい。日本人は、感覚は最初から共有されるものと思い込みしたい動悸があるように思う。つまり、動機の強要こそが、感覚の共有というメッセージの裏の真相なのだ。



実は、この強要はながらく日本では成功してきたらしい。その証拠に、自分の近親には強要を強要とも思わずに今だに幸せな暮らしを維持している人たちも多い。ところが、自分ら戦後、とりわけ昭和三十年代に思春期を過ごした世代以降では、この共有やら強要が日常茶飯事で、どれほど酷いハードルを繰り返し乗り越えてきたことかしれない。いわばハードルリレーの錬度では、日本の歴史でも最大の体験をこうむってきたように思う。ところが、今度はそのハードルを越え続けて、妙に錬度が高いという感覚が、忌避されているのを実感するようになった。つまり、人々が組織や地域の中で、内向だか閉塞だか停滞している時代には、感覚の差異性について、みょうに統覚を鍛えていることが不利なのだと感じはじめている。


見ざる、言わざる、聞かざる。







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最終更新日  2007年10月06日 22時05分04秒
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