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今年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」というテーマで、鎌倉時代が舞台になっています。大河ドラマの主人公は2代執権の北条義時ですので、鎌倉時代の初期のほうのお話ということになります。その鎌倉時代で、8代執権の北条時宗の時代に、当時の中国を支配していた「元」という国が攻めてきたことがありました。元は2度攻めてきたのですが、1度目はなぜかすぐに引き上げてしまいました。そして2度目は1度目よりも多くの軍勢をもって九州の博多に押し寄せました。日本の鎌倉武士たちも奮戦したのですが、あまりにも元の軍勢が多すぎて苦戦を強いられます。そんななか、九州北部を台風が襲って、元の軍船の多くが沈没してしまい、日本はなんとか難を逃れることができたということです。もし、当時に台風が来なかったら、つまり神風が吹かなかったらどうなっていたのでしょうか・・・元の軍勢は博多から上陸しましたが、その一方で別動隊が有明海のほうに回って、日本軍を大宰府で挟み撃ちにして、日本を撃破したであろうとされています。おそらく、元は九州全土を掌握して、元の軍隊は九州に移り住んだであると思われ、九州は元の領土となったと思われます。そうなると、その後の日本の歴史は大きく変わっていくことになったであろうと思われ、ひょっとすると日本全土が元の領土になったかもしれません。まさに神風が吹いたおかげで、当時の日本が守られたわけですね。
2022年10月28日
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高校生のころから日本史が好きで、特に戦国時代には興味があって、その方面のテレビ番組を良く観ています。NHKのBS放送で毎週水曜日の夜に放映されている「英雄たちの選択」という番組を録画して観ています。この番組では、戦国時代だけでなく、日本の歴史に名を残している英雄たちを取り上げて、学者や大学教授などの専門家が議論したり、意見を述べたりします。その番組で、先日取り上げられたのが細川藤孝でした。ちょうど、NHKの大河ドラマの麒麟がくるという番組が終盤になってきて、もうすぐ本能寺の変ということもあって、明智光秀の盟友でもあった細川藤孝が取り上げられたのだろうと思います。その細川藤孝ですが、室町幕府の幕臣であったため足利将軍に仕えていましたが、のちに織田信長に従うようになります。先に信長に仕えていた明智光秀の与力となり、息子の忠興が明智の娘(のちの細川がラシャ)と結婚して両家は親戚となります。明智光秀が本能寺の変を起こした際には、親戚の細川家にも誘いがあったのですが、藤孝は加勢せずに中立の立場をとります。明智光秀としては細川藤孝だけは味方になってくれると期待していましたが、その期待に反したことになります。秀吉が天下を取ってからは秀吉に従い、関ケ原では徳川家康の東軍に属します。その後は今の熊本県を統治して明治維新にいたります。いろいろと主君を変えていきますが、常に勝つほうに参加するというしたたかな武将で、ヒロくんとしては好きな武将の一人です。さらには現代においても、子孫の細川護煕氏が総理大臣にまでなりましたから、名門の家柄と言っても良いのではないかと思います。
2021年01月27日
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年末も押し詰まり、仕事の関係の年末挨拶回りをする時期になりました。その挨拶回りで訪れる必要がある大手町のビルのすぐ近くに平将門の首塚という場所があります。平将門は平安時代中期における関東地方の豪族で、一時は関東を制覇し「新皇」と自らを称し、関東の独立を目指しました。独立を目指したことにより、朝廷から敵とみなされてしまい、新皇と称してから、わずか数か月後に討伐されてしまいました。平将門の乱については、諸説があって、定かではありませんが、当時は藤原氏の全盛時代で、平将門はたいした官位ももらえず不満があったようです。なお、平将門は討たれたのち、その首が都まで運ばれて晒されましたが、3日後に空中高く舞い上がり、飛んで行ったとのことです。飛んで行った先というのが、全国各地にあるようですが、なかでも有名なのが、東京都の大手町にある、この場所ということになります。なお、首塚にまつわるエピソードがあって、ここに建物を建てようとすると、その関係者が次々に不審な死をとげてしまうということがあったそうです。そんなことがあったからでしょうね、大手町のオフィス街のビルが立ち並ぶ一角に、今でも平将門の首塚があって、お参りする人が多いそうです。
2019年12月20日
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NHKの大河ドラマ「真田丸」は今日が最終回です。このドラマは三谷幸喜さんが脚本を書いていて、随所に笑いもちりばめられていて、毎週楽しみに観ています。ただ、三谷作品には必ずといってよいほど登場する、役所広司、佐藤浩市、西田敏行らの面々がついに最後まで出演しなかったのは残念でした。ところで、来年の大河ドラマですが「おんな城主 直虎」というもので、戦国時代に遠江の国の井伊谷あたりを領していた井伊直虎という人物が主人公です。この直虎という人は名前だけを見ると豪傑のようですが、実は女性だったということが通説になっているそうです。ところが、先ごろ新たな資料が発見されて、この直虎さんは実は男だったのではないかということが、日経新聞の記事になっていました。新聞によると、この新しい資料には今川家の家来で関口氏という人の息子を井伊次郎とし、井伊家の領地を与えたということが書かれているそうです。息子ということですから、男ということになりますね。では、直虎という人物はいなかったのかということになると、こちらの人も実在したそうです。実際のところは、今後の研究を待たないとわからないのでしょうが、NHKとしてはショックかもしれませんね。もう12月で、来年1月から新しい大河ドラマが始まるわけですから、かなり収録も進んでいるでしょうし、今さら「男だった」というわけにもいかないですね。ともかく、直虎という名を名乗っていた女性のひとが実在したことはたしかなようですが、それほど多くの記録が残っているわけではないありませんから、真偽のほどは良く分からないでしょうね。まぁ、真実はともかくとして、来年もNHKの大河ドラマを楽しみたいと思っています。
2016年12月18日
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先日の日経新聞に面白い記事がありました。この記事によると奈良の平城京跡で出土した木簡に「破斯清通」という文字があったそうで、その「破斯」という文字は「ペルシャ」を表しているそうです。つまり、この木簡からは、ペルシャから来た人が平城京の役人をしていたということが読み取れるのだそうです。当時の日本では、大陸の大国「唐」から多くの人が渡って来ていたそうで、その唐からの人の中にペルシャ人も含まれていたようです。さて、このペルシャから来た人ですが、木簡からはその後どうなったかは分からないそうです。はるばるとペルシャから日本にまでやって来て、日本のために頑張ってくれたのではないかと思いますが、その後はどうなったのか・・・年齢は何歳だったのか、ペルシャに妻や子は居たのでしょうか、生まれ故郷のペルシャに帰ることができたのでしょうか、それとも日本で妻をめとり、日本で亡くなったのでしょうか・・・ちなみに日本から大陸に渡って、日本に帰ることを希望しながら、結局、帰ることができなかった阿倍仲麻呂のことを思いだしたりと、いろいろと思いを馳せられた記事でした。それにしても、奈良時代にペルシャから人が日本にやって来ていたとは驚きですね。このペルシャ人は陸路で唐までやってきて、唐でしばらくすごし、それから海路で日本にやって来たのではないかと思います。当時からそれなりに日本と大陸との交流が盛んだったということですが、まさか平城京にペルシャ出身の役人がいるとは思いもしませんでした。
2016年10月14日
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今日は8月15日です。今日が終戦の日であることは日本人のすべてが知っていることだと思います。 ご存じのように、日本は、多くの国々を相手に分不相応な戦いを挑み、戦闘員だけでなく、多くの民間人も含めて多大な犠牲を払いました。 今でこそ、非戦闘員に対する殺人行為は非難されますが、当時は当たり前のように、何の抵抗もできない日本の民間人をアメリカの爆撃機が襲いました。 また、広島と長崎には、大量殺りく兵器である原子爆弾が投下され、沢山の命が瞬間的に失われ、また原爆の後遺症で悩む人を生み出しました。 そもそも戦争に至った原因は複雑なものがあると思いますが、少なくとも今の日本が平和であることは確かです。 8月15日、つまり戦争に負けた日のことを、以前は終戦記念日と言っていましたが、最近は終戦の日と言うようですね。いずれにしろ、太平洋戦争での日本国民の辛さが尋常ではなく、日本は二度と戦争をしないことにしました。 とはいえ、日本が戦争を終えた昭和20年から、まだ今年で69年です。69年といえば、長いような気もしますが、ほんの短い期間だと思います。 かつて、徳川家康が幕府を開いたとき、戦国時代を生き抜いてきた人々は、武士だけでなく一般の庶民も「平和」を実感したのではないでしょうか。 その平和な江戸時代は260年ほども続きました。その江戸時代に比べると戦後の69年なんてわずかなものです。 最近は隣国との関係が微妙なものになって来ていますが、戦争の悲惨さを忘れずに、平和であることの幸せな時間が長く続くことを祈ります。 少なくとも江戸時代の260年よりも長い時間が平和であることを祈ります。
2014年08月15日
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沖縄の石垣島では人骨の化石が多く発掘されるそうです。というのも、日本の本土は土壌が酸性で、酸性の土だと長い年月のうちに人骨が溶けてしまうんだそうです。 その点、沖縄地方の土壌はアルカリ性だとのことで、化石が残っていることが多く、沢山の人骨も発掘されているようです。 さて、専門家ではないのではっきりしたことは分かりませんが、昔むかし、太古の世界では、人間は農業を営んでおらず、狩猟生活をしていたと考えられています。 狩猟ということであれば動物を狩るだけでなく、魚を取るということも含まれると思います。また、貝や海藻であれば、魚を取るよりも捕獲しやすいものと思われます。 ということで、初めて石垣島に来た人間は魚や貝などを取っていたと思います。であれば、それは南方の大洋にある諸島の住民たちが、潮の流れに乗って石垣島にたどり着いたのではないかと思います。 また、大陸と日本列島が陸続きになって、大陸や朝鮮半島から人がやってきたということも言われていますが、大陸と陸続きになるということは海水面が下がったということであり、その頃はかなり寒かったと思います。 たしかに大陸の満州や北朝鮮に比べれば、日本のほうが暖かいでしょうから、大陸から人が流れてくるということも充分に考えられます。 とはいうものの、石垣島などの沖縄諸島は日本や大陸と陸続きになったことがないそうですから、大陸から徒歩で人がやって来ることは無かったと思われます。 ところで、沖縄の人の顔つきをみると、堀の深い顔立ちの人が多く、明らかに日本列島の人の顔つきと違うところがあると思います。 であれば、沖縄地方の人たちと日本の本土の人たちとの交わりはかなり後世になってからということになりますね。 古代に想いを馳せることはロマンがありますが、石垣島で発掘された人骨の分析が進んで、日本人のルーツの一端が解明されることを期待したいと思います。
2014年07月23日
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明治37年から38年にかけて日本とロシアが戦った日露戦争ですが、ご存じのように日本が勝利したことになっています。勝利したとはいえ、日本としてはギリギリのところで何とか踏みとどまったという感じで、あともう少しロシアが戦う意思を見せていればどうなったかわからなかったそうです。 仮に日本が日露戦争に負けてしまったら、その後の世界はどうなっていたでしょうか? そもそも日露戦争というのは、ロシアの南下策によるものです。すなわち、ロシアとしては冬でも凍らない港が欲しくて、アジアやヨーロッパで南下政策を採りました。その結果、アジアでは満州から朝鮮半島にかけてロシアが侵略することになります。 日本としては、ロシアが朝鮮半島を占領することにでもなったら、日本の国土そのものが守れなくなるかもしれないということになり、果敢にロシアに挑んだということだと思います。 もし、ロシアが勝っていれば、今の朝鮮半島はまるごとロシアの領土になっていたと思います。また、ロシアは日本に対しても厳しい要求を出してきたでしょうね。つまり、北海道を占領したかもしれませんし、冬が厳しい北海道だけでなく、もっと南にある対馬や九州を占領したかもしれません。 ロシアに敗れ、国力が低下してしまった日本はその後、世界の列強国とはなりえず、第2次世界大戦を引き起こすこともなかったと思います。 またロシアもアジアでの南下政策がうまくいったことになり、国民も豊かになるでしょうから、いわゆるロシア革命も起こらなかったかもしれません。 ともあれ、仮にヨーロッパでドイツが第2次世界大戦を引き起こしてロシアと戦うことになったとすると、朝鮮半島ではこれに呼応した独立運動が起こると思います。つまり、朝鮮半島の民族独立運動です。 北海道などを占領されていた(かもしれない)日本も朝鮮半島の独立運動に加担して、北海道などを取り戻そうとしますから日本と朝鮮民族が協力し合うという構図になっていたかもしれません。であれば、日本民族と朝鮮民族は仲良くなっていたと思われます。 ということは、先だっての東アジア杯の日韓戦でスタジアムに掲げられた「歴史を忘却した民族に未来はない」という韓国サポーターが掲げた横断幕の出番はなかったでしょうね。
2013年07月30日
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少し前の話ですが、メキシコの国立文書館に残された記録によると安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかったそうです。 記録によると日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された「日本生まれ」の人物の名があったそうです。各々の名前は「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性らしいとのことです。 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスという人に、奴隷として3年契約7ペソで売られたそうです。 また、ベントゥーラといわれた人はよくわからないそうですが、ミゲルは1594年にポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスという人に売ったそうです。 この雇い主のペレスという人物がマニラからメキシコに移ったそうで、奴隷だった3人も一緒にメキシコに渡ったらしいとのことです。 1597年というと関が原の戦いが1600年ですから、ちょうど戦国時代の終わりごろということになりますね。この時期には豊臣秀吉はすでに他界しており、キリスト教禁止令も出ていたから南蛮貿易も下火になっていたのではないかと思います。 そんな時期に日本人が人身売買の対象になっていたとは驚きです。「南蛮」といって差別用語で呼んでいた外国人たちに働かされていたとは気の毒です。 日本から遠く離れたメキシコという土地でどんな暮らしをしていたのか?奴隷として過酷な肉体労働に従事させられていたのか、あるいは奴隷とはいえ家族の一員のような暖かい雰囲気の中で生活できていたのか・・・ いずれにしろ、本人の望む人生ではなかったと思いますが、この話には続きがあるようで、その後の1599年に、ガスパールはベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放されたと記録されているそうです。 ミゲルがどうなったのか気になるところではありますが、ガスパールとベントゥーラは奴隷から解放されて少しはまともな人生を歩むことが出来たのかもしれません。
2013年05月17日
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先週の話になりますが、テレビなどの報道によると日本国内で見つかったおよそ1万4000年前の縄文時代の土器に付いていた「おこげ」に、魚の成分が含まれていたことが分かり、その時代の人たちが魚を料理していたらしいということです。 この「おこげ」がついていた土器は北海道の「大正3遺跡」というところで発見されたそうですが、その遺跡は海から離れたところにあるということで、料理された魚は川を遡上してきたサケやマスではないかとのことです。 昔の人間が、食料(たとえば木の実)を集めてきて、ある場所に貯蔵しようとしたのだと思いますが、直接、土の上などに置いておくと、木の実から芽が出たりしたのでしょうね。 ですから、芽が出ないように、入れ物になるようなものを捜して来て、利用していたんだと思います。そのうち、使いやすいように自分で作ってしまえと思った人がいたんでしょう。 そういう人が土器を発明したのでしょうか?そのような人は世界で同時多発的に現れて、いろんな場所で土器が造られるようになったのかもしれません。そのようにして造られた初めての土器を見た人の多くが自分でも作ってみようと思ったことでしょうね。 さらに木の実を貯蔵するだけでなく、その土器に水を入れてお湯を沸かしてみたり、お湯の中に木の実を入れてみたり、ついには魚を煮ることを発見してその魚を食べてみたら、とても美味しかったのだと思います。 それにしても、人類史上初めて土器をいう入れ物を作った人は、どんな人だったんでしょうか。想像していると、それだけでロマンを感じますね。 その当時にはノーベル賞が創設されていなかったのが残念ですが、当時からノーベル賞があれば間違いなく受賞していたことでしょう!
2013年04月16日
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今日12月14日は赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日です。といっても現在の暦では1月30日とのこと。ですから、その当時は東京で雪が降っていてもおかしくない季節ということになります。さて、赤穂浪士の討ち入りについては、芝居や映画などで一度は見たことがあると思いますが、討ち入りに際しては、浪士たちが揃いの衣装で颯爽と主君の仇討を果たしますね。ところが、この揃いのいでたちは、お芝居や歌舞伎のもので、実際にはこんなに目立つ衣装ではなかったといわれています。まぁ、黒くて目立たない格好だったと思います。それに討ち入る浪士たちは、おそらく着物の下には鎧なんぞを仕込んでいたでしょうし、対する吉良方の侍たちは、夜間の襲撃に遭い、鎧などの防具もなく、着物一枚で応戦したに違いないため、少しでも刀が触れるとすぐに傷ついたでしょうね。そういう意味では、討ち入った浪士たちが完勝するのは当然だったかもしれません。さて、この討ち入り事件は忠臣蔵として、江戸時代から大人気を誇り、今に至るも日本人が大好きな物語です。主君が果たせなかった思いを主君に代わって成し遂げた忠臣たちの物語ですが、このような家臣を持った殿様はある意味で幸せ者ですね。さて、今の世にこういう忠臣蔵の家臣のような部下を持っている経営者がどれほどいるでしょうか?むしろ、吉良上野介のように、討たれるがわの人のほうが多いかもしれません。正直言って、「この上司・経営者ならどこまでもついていく」、というよりも、「やっつけてしまいたい上司・経営者がいる」という人のほうが多いだろうと思います。
2012年12月14日
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アメリカの国立海洋局が、7月4日に「人魚は伝説上の生き物だ」という公式見解をウェブサイト上で発表したそうです。 そもそもアメリカの動物専門TVチャンネルで、人魚は実在するという説に基づいた番組が放映され、その放送後に国立海洋局に多数の問い合わせが届いたため、今回改めて見解を発表したということのようです。 問い合わせにいちいち答えるのが面倒になったのかもしれません。あらためて発表するまでもなく、人魚は生物学的にみて、存在するのが難しいと思われます。ところが、人魚伝説はヨーロッパだけでなく、日本でも日本書紀の中に「大阪の漁師の網の人魚がかかった」という記述があるそうですから、世界各地に伝説として伝わっているようです。 ちなみに人類は、猿から進化したと言われていますが、それにしては身体を覆う毛が少なすぎると思いませんか?頭などの一部には残っていますが、全身を鑑みるにほぼ無毛といっても良いかもしれません。 猿だけでなく、犬や猫など哺乳類に分類される動物と比べて、人間の体毛は無いといっても過言ではありませんね。なお、哺乳類で無毛に近い動物がいるかというと、たとえばカバのように水中で生活する動物には無毛に近い動物が多いということです。 となると、仮に人類が猿から進化したとして、進化の過程のなかで海や川のなかで生活するような時期があったのではないかとも推定され、その水中生活をしていた時期の名残で、今の人類には体毛がほとんど消滅してしまったのではないかとも思われます。 そんな水との生活が緊密だった時分に人魚伝説が生まれたため、その伝承が今日まで続いていると考えれば、なんとなく、人類の進化の歴史にロマンを感じるのですが・・・・ そもそも、アメリカ国立海洋局は「人魚はいない」などという無粋な発表をしなくても良さそうなものですが、こういう合理的なところが欧米人の特徴でしょうね。なお、アメリカ国立海洋局が「人魚は絶対に存在しない」ということまでは断定していない点はせめてもの救いでしょうか・・・・
2012年07月10日
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戦国武将のゲームなどで人気の武将といえば、真田幸村とならんで双璧ともいえる伊達正宗は、ご存じ仙台藩の始祖ですね。伊達正宗は、隻眼の武将ということもあり、よく「伊達者」といわれるように軍勢の装束が派手でお洒落であり、また当時としては珍しくグルメ人だったとも言われています。さて、伊達正宗は1567年に生まれています。関ヶ原の戦いが1600年ですから、この時には33歳あたりとなりますね。一方、戦国時代を勝ち抜き天下を平定した徳川家康は1543年生まれですから、伊達正宗との年の差は24歳。ちなみに織田信長は1534年生まれ、豊臣秀吉は1537年生まれです。これらの武将の年齢に比べて正宗は約30歳若いんですね。正宗が抬頭してくるのは、すでに豊臣秀吉が天下を平定する寸前の小田原の北条攻めのころですから、戦国時代も終盤です。そんな「遅れてきた」戦国武将の伊達正宗が、もし30年早く生まれていて豊臣秀吉と同じ年だったら、伊達正宗は天下を獲れたでしょうか?織田信長が本能寺の変で倒れる前のころの時点で伊達正宗が東北地方を平定していたとした場合、そのころには武田は信長に滅ぼされていたので、当時の天下の有力大名は、越後の上杉、関東の北条、三河の徳川、中国の毛利、四国の長宗我部、九州の島津・・といったところでしょうか。さて、伊達正宗が天下を獲ろうとした場合、当時、近畿地区を領土とし、ほぼ天下を平定しかかっていた織田信長を倒さないと、自分が天下を獲ることはできませんね。ということは、関東の北条と仲良くして、三河の徳川を倒しにかかるでしょうね。というのも徳川は織田と同盟していますからね。でも、徳川は織田と同盟しているので、織田からも援軍が来るでしょうから、徳川を倒すのはかなり困難です。仮に徳川を破ったとしても、京都に上るには関東を通らなければならず、そこには北条がいるので、これが邪魔になり、いずれは北条とも一戦を交えなければなら ないでしょう。首尾よく北条を倒したとしても、織田軍団の柴田、丹羽、羽柴、明智、滝川、前田、細川・・といった名だたる諸将を倒すのははなはだ困難だと 思います。結論としては、30年早く生まれていたとしても、領地が東北であるということがネックとなって、伊達正宗の天下獲りは難しい・・・・というところだと思います。しかしながら、東北から関東にかけて東日本のほとんどを領地とする大大名として伊達家が君臨していたかもしれないですね。
2011年11月02日
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昨日に続いて、歴史への勝手な空想です。歴史を検証した結果のものとかいう立派なものではなく、たわいのない戯言ですので、気楽にご覧いただければと思います。ということで、今日は本能寺の変についての勝手な空想です。織田信長が、本能寺で明智光秀に倒されたのは、日本人から誰でも知っていることだと思います。もし、本能寺の変が起こらなくて、織田信長がそのまま生きていたら日本の歴史はどうなっていたか、好き勝手に空想してみたいと思います。さて、信長がそのまま長生きしていれば、ほどなく日本全土を統一したでしょうね。なお、本能寺の変の際に羽柴秀吉は中国地方の毛利氏を攻めていたのですが、本能寺の変のおかげで秀吉は、毛利氏との戦さをやめて、和議を結んだので毛利氏は存続したのですが、仮に本能寺の変が起こらなかったとしたら、毛利氏は滅ぼされ ていたかもしれません。日本を統一したあとの信長の標的は、中国(当時の明国)でしょう。当時の日本の鉄砲隊は世界一の破壊力を持っていたと言われていますし、信長であれば用意周到に準備をして、明を攻めたでしょうね。信長の死後に天下を統一した秀吉も明を攻めようとして、朝鮮半島に侵攻しましたが、信長であれば、朝鮮半島には目もくれず、直接に明を攻めたでしょう。というのも、信長であれば、明を滅ぼせば朝鮮半島は黙っていても手に入ると考えたと思うからです。さて、中国本土を制覇できたら、次はヨーロッパでしょう。いやはや、空想が大きくなってしまいましたが、あながち不可能ではないと思います。たとえば、チンギス・ハーンのモンゴル帝国は中国全土を支配して、最盛期にはイラン、イラク、トルコやポーランドあたりまで領土にしましたからね。ここまで信長が領土にしたら、その後の世界はどうなっていたでしょうか?領土が大きくなるに従い、その土地の 自治を認めるというようなことも弾力的に採用しないといけませんが、信長にそこまでの度量があったかどうか、信長は癇癪持ちで、いわば恐怖政治を敷いていましたからね。まぁ、だからこそ、明智光秀に討たれたわけですし、信長に対して謀反を企てたのは、光秀だけでなく、荒木村重など多くの武将がいましたしね。結局、恐怖政治は長続きしないものです。結果、信長が世界の大部分を制覇したとしても、その栄光は長続きしなかっただろう・・・と思います。
2011年09月14日
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先週の日曜日に放送されたNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」ですが、関ヶ原の戦いへと向かう過程で、徳川秀忠が真田昌幸、幸村親子に抵抗されて、関が原に遅れてしまうという話でしたね。さて、関ヶ原の戦いでは、家康を総大将とする東軍が、名目上の総大将は毛利輝元ですが、実質的には石田三成を中心とする西軍に勝利して、その後の家康の天下取りに大きな影響を及ぼしました。ところで、この関ヶ原の戦いですが、事前の家康の調略による小早川秀秋の裏切りなどがあって、東軍が勝ちましたが、裏切りなどがなかったら西軍が勝ったかもしれないとされています。そこで勝手に空想したいと思いますが、もし、西軍が勝っていたとしたら、その後の歴史はどうなっていたでしょうか?勝ったとして、東軍の徳川家を改易(取り潰し)にできるかというと、石田三成にそこまでの仕置きができそうもなく、結局、徳川家は家康が隠居して、家督を秀忠に譲るという程度で終わるでしょう。むしろ、東軍側になった福島正則、黒田長政、細川忠興などの豊臣譜代の大名で、石田三成と不仲の大名たちが取り潰されたり、減封(領土が減る)されたりして、結果的に豊臣を守ろうとする大名たちの力が減少することになるでしょう。その結果、豊臣内部での石田三成VS福島たちの反三成派の対立構図がそのまま温存され、再度、徳川家が暗躍して、大きな合戦が起こることになり、最終的に徳川家が天下を取るまで、その戦争状態が続くのではないかと思います。結局、関ヶ原の戦いで西軍が勝ったとしても、第2次関ヶ原の戦いが起こることになり、2度の戦いでも徳川家が天下をとれないと、第3次関ヶ原の戦いが起こ り。。。。というように豊臣家から徳川家に天下が移るまで、戦いが続くというのが僕の結論ですが、いかがでしょうか?
2011年09月13日
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毎週日曜日に放送されているNHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」ですが、先週の放送では豊臣秀次がメインでした。豊臣秀次は、秀吉の姉の子供で、秀吉にとっては甥にあたります。ご存じのように百姓から成りあがった秀吉には、一族といえるような家系はなく、妻である北政所(おね)の一族と自分の直系の親族しかいないので、この秀次は貴重な一族の男子でした。秀吉もこの甥の秀次に関白職を譲っていましたから、当初は大切に思っていたのでしょうが、淀君が秀頼を産んでからは、何を思ったのか、秀次に切腹をさせてしまいます。先週の大河ドラマでは、秀次のことを淀君が心配ているような場面がありましたが、僕が知っている、というか以前に聞いたり、読んだりした限りでは、秀吉が秀次を追いやったのは、淀君にそそのかされたためだというものでした。 今回の大河ドラマでは、淀君は「良い人」に描かれているようですね。歴史上の真実はどうなんでしょうか?あまりに通説と異なる場面が出てくると、なにやら、困惑してしまいます。通説と異なると言えば、石田三成はいつも登場しますが、加藤清正や福島正則は一向に現れませんね。それに、この当時、秀吉と親しかった前田利家の姿もありませんし・・・。 ともあれ、豊臣秀次という、あまりテレビや映画で取り上げられることのない人物が、細かく描写されていたことは、僕のような歴史好きな親父としては、喜ばしいことです。豊臣秀次この豊臣秀次は、切腹した時にはまだ28歳だったそうです。男の子もすでに生まれていたとのことで、、この秀次がそのまま関白を務めていたら、その後の歴史も違ったものになっていたかもしれません。
2011年07月29日
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