宇宙は本の箱

     宇宙は本の箱

遥かに行ってしまった青年



「あの夜、君は何を話しにきたの?」

君はいつか目覚めて、私に笑いかけてくれるだろうか。
きれいな歯で、
目の覚めるようなきれいな眉毛で、
おばちゃんに出会えて良かったと、また言ってくれる時があるだろうか。

いつだったか手紙に、僕もここまで来るには、色んな人と巡り会ったけど、まだおばちゃん以上の人には巡り会いませんと言ってくれたのに、私以上の人間に巡り会わない?おお、なんて可哀想な人生なんだ!って書いて送ったりしたんだ。



ごめん。
あの夜、あそこに坐っていたのは半年ぶりの出張から帰ってきた人だったんだ。
だから彼だって君より早くに帰りたくなかったし、
そうでなくても、意地でも椅子を譲るような人ではないんだ。
君が少し沈んでいたのは分かっていたけど、
国際交流の為の書類を袋にいっぱい持っていたし、
君はかつてどんなに悩んでいる時でもなにかを言ったことはなかったから、
一緒に帰りたがっていたのは分かっていたけど、
またすぐに出張先に行ってしまう人を無げには出来なかったんだ。


あの夜、君は何を言ったんだっけ。。。
「おばちゃん、俺、車はつくらない」そう言ったんだった。
車が好きで、本田宗一郎が好きで、頑張って大会社に入ったのにやめてモロッコに行って、
それが・・・「車つくらない」と。

「俺、物理勉強しやなあかんねん」
「物理ー?理論物理学?」
「実践用。今やってる事あって教えてもろてるけど、もっと知らなあかんねん」
「そう、車やめて、もっと違うものやってんだ」
「俺、とろくさいし、アホやから・・・」
Mさんがいる前ではそのくらい言うのがせいいっぱいだったのか、
それからはもうずっと黙って反対側に立っていたね。
帰る方向が一緒のMさんが椅子から立ちあがる筈はなく、
君は諦めたように帰って行ったんだった。


私はその夜の君が気にはなっていたけど、Mさんはもう明日には行ってしまうし、
君は遠いといっても二時間かければまた逢えるし、本当にそう思っていたよ。
それでその月の通信を送った時に手紙を入れた。
君から返事はなかった。

その次の月にも。
その次の月にも。
もう手紙も、詩も、君は書いて送ってくれなくなった。


君はそんなにも頑なにするほど、何をあの夜話そうとしていたのだろうと、
あの夜は、そんなにも大切な夜だったのかと・・・私はずっと考えていた。
「俺、おばちゃんの通信の永久会員第一号。一生会員でいるよ」
そう言ってくれたのに、もうあいたくもない、もう手紙も書きたくないって?
あの夜はそれくらい許されないことだったんだ。

ねえ、君はなぜモロッコからとうの昔に帰ってきていたくせに、
今日空港に降立った人みたいにして来たの?
それからあと君はなぜお父さんやお母さんを連れてきたりしたの?
本当はああいう理由じゃないでしょう?
だからあんなにお父さんは一時間おきに狂ったようにFAXを送ってきたんだ。


盆と正月と、帰省した時はおみやげを持ってわざわざ来てくれた。
なのにモロッコには黙って三年行っていた。
帰って来た日にはじめて知ったっていうことは一体どういう事なのかって聞いたけど、
夕陽を見るたび思い出していたよ、おばちゃんをここに呼びたいと思ったよ。
おばちゃん、フランスで暮さない?自由な国だからおばちゃんに似合うと思う。
そう言って煙にまかれた。

知ってるよ。君はいつも立派でありたかったんだ。
知ってる。男らしくありたかったんだ、
知ってる。


死は運命だ。
でも、君はあの夜、一体なにを話したかったんだろう。
何を話そうとしてずっと待っていてくれたんだろう。
そして、それはやがては死んでしまうほど大切な事だったんだ。
死は運命だ。
でも、それほどに大切な夜だったことが私に分からなかった。。。
なぜだ、なぜ分からなかった???

私は今でも君に話し掛けるときがあるよ。

君はあの夜、私になにを聞いて欲しかった?
目覚めていたら教えて欲しい。








© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: