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「信長公と家康と長沼山城守」(皆川城に生えていた低木。木イチゴだど。 昔、うちの近くの山に、こんなんがみっちり生えててな。 虫かごいっぱい取ったな~。木イチゴ取り、おんもしかったなw なつかし~) 今日も『皆川広照』の話だど。 あれ? でも、タイトルは『長沼山城守』ってなってるよ? そう思った人、いんべかな? 実は『長沼山城守』ってのは、『皆川広照』のことなんだ。 『皆川氏』なのに『長沼』って、ややこし~な~。 だども、当時は、しゃ~ない出来ごとだったんだ。 この時代の皆川氏は、知名度がすご~く低くてな。 名前や出身地を間違えらることなんか、ちょっちゅうだったらしい。 『長沼』っていうのは、『皆川氏』の本家、っつうんかな。 大本になった家の名前でな。 当時は『皆川氏』よりも『長沼氏』のほうが、有名だったんだと。『長沼氏』はまだ勉強してないんで、あんまし知らないんだけんど。 勢力や権力も、『皆川氏』より強かったんだべな。 そんだから、『皆川氏』じゃ~なくって、 長沼の人だよね? って、言われることが多かったらしいど。 たとえば、な。 こないだの 信長公に馬っこさ送った件じゃ~な。 信長公は礼状に、『長沼山城守』へ って、書いちゃったw。 おまけに信長公は、皆川荘を常陸国(茨城県)にある と、思ってたらしくてな。 ほんとは『野州皆川』って、書かなきゃ~なんないのに、『常州蜷川』って、書いちゃったww。 おかげで広照は、『信長公記』のなかに『関東下野国蜷川郷長沼山城守』 って、記載されちまったんだと。 ちなみに『皆川』が『蜷川』になった理由は、『徳川家康』のせいかもしんないど。 本には、最初に誰が『蜷川』って字をあてたのか、書かれてないんだけんど。 家康の書状に『蜷川』って、書いてあったんだと。 これは、室町幕府の政所代に『蜷川氏』という人がいたから。『皆』よりも『蜷』の字が、馴染み深かったせいらしい。 それが信長公に、伝わったんかな? だども、誰も間違いさ、気づかなかったんかな? それとも、気がついても、2人が恐れ多くて、 直せなかったとかw。・・・たぶん前者だべな~。 なんつっても、日本で一番目立たない県だかんな、栃木県は。 昔っから、地味だったんだべな~。 そだ。そういえば。 広照のお兄さん『皆川広勝』も、『長沼弾正』って、呼ばれてたって聞いたど。 広勝は、ほとんど資料が残ってないっていうから、 ほんとかどうか、わかんないけんど。 お父さんの『皆川俊宗』も『長沼なんとか』って、呼ばれてなかったけ? ちょっと未確認なんだけど。違ったかな? 代々、『長沼』って呼ばれてきたんだべか。『皆川』なのにな~。 でも、文句さいえないとこは、栃木県人ぽいかも、な。《参考》【送料無料】下野の中世を旅する価格:1,890円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.30
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「信長公と智積坊と広照のつながり」(これは皆川城内でみっけた、セイタカアワダチソウ。 秋になっと、平地じゃ~群生して、一面真っ黄色になることもあんだよ) んと。昨日のブログでな。『織田信長』に『皆川広照』が、馬っこさ送ったって書いたけど。 ちょこっと、補足すっことがあんで、書いとくど。 広照が玄宥の文を添えて、馬っこさ送った時期なんだけど。 年代は天正9年(1581)10月の出来事らしいべ。 広照の使者として、出向いたのは『皆川家の重臣・関口石見守』って人。 そんで、『智積坊』っつうお坊さまが、付き添っていったんだと。『智積坊(ちしゃくぼう)』は、広照の伯父さんでな。 当時は『紀州・根来寺』で、学んでたんだけどな。 広照のために、わざわざ『皆川城』さ戻ってきて。 使者の『関口石見守』を、『安土城』さ、案内したんだって。 お、すると、『智積坊』と『玄宥上人』は、知り合いだった可能性さあんな。『智積坊』を通じて、『玄宥上人』と『皆川広照』が、 親しくなったって考えても、おかしくないど。『智積坊』が、広照を売り込んだんだべか? あとは、昨日ブログさ書いたように。『堀秀政』に会って、文と馬っこさ献上したんだ。 信長公は黒芦毛の馬っこが、たいそう気にいったらしくてな。 当時の『浜松城主・徳川家康』に命じてな。『関口石見守』が下野国に無事帰れるように、 とり計らうよう、命じたんだと。 懇切丁寧な信長の対応に、家康は驚いたらしいべ。 そんなに、気に行ったんだべか。 よっぽど、いい馬っこだったんだべなw。 《参考》【送料無料】下野の中世を旅する価格:1,890円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.29
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「信長公と玄宥と広照のつながり」 写真さ整理してたらな。やたらと道の写真が多いことに、気がついた。 これは『竪堀1』へ登る階段。電雷神社の横にあんだよ。 土塁好き→堀好き→狛犬さま好き、ときて 次は、道・階段好きになんだべかw。 どうなるか。これからのお楽しみ、だなw。 さてさて。今日は、玄宥さんの勉強の続きさ、すんど。 時代は、天正6年(1578)。『上杉謙信』が亡くなったあとの話だべ。 このころ、皆川氏を始め下野国の武将たちは、『上杉謙信』に従ってたらしいんだけど。 謙信が亡くなっちまったもんで、あちこちで、騒ぎが起こったらしい。 佐竹氏につく者と、北条氏につく者に分裂しちまって、 騒動になった、って感じだな。 んで、皆川氏は、っつうと。 この頃は、宇都宮氏の配下になってたもんでな。 宇都宮氏と共に、佐竹氏についてたんだと。 だども『皆川城主・皆川広照』には、佐竹氏よりも、 もっと興味がある武将がいたんだ。 それが、『織田信長』だど。 どうもこのころ、広照は、佐竹氏よりも、信長公の元へ行きたかったらしいんだ。 けどな。当時の広照は、宇都宮氏の配下の小領主って立場だったから、 勝手な行動を取る、って訳にゃ~いかねかったんだと。 だども、信長公と、お近づきになりたい~。 さ~て、どうすべか。 ここで、広照は、信長に3頭の馬っこを、送ることにしたんだ。 でもな。田舎の無名の小領主がな。 いきなり信長公に、馬っこさ送っても、 ま、受け取ってもらえないべな。 そこで、2人の仲介さしたのが『玄宥上人』だったんだと。 本には書いてないけど。もしかすっと。 お弟子の『瞬秀』さんも、関わってたかもしんないな。『瞬秀』は、皆川城の側の持明院にいたし、 幼少の広照に指示した、って話もあるし。 広照と玄宥の間を取り持った可能性は、高いんじゃ~ないけ? さて。話さ進めっと。 当時は、紀伊の根来寺にいた『玄宥上人』は、 まず、『堀秀政』に宛てて、文さ書いだ。 『堀秀政』は、『玄宥上人』の文を見て、本物と信用し、 また、玄宥の評判も聞いてたらしくてな。 取り次いでも大丈夫だろう。 って、判断したらしいど。 んで。 広照の献上した馬っこと、玄宥の文を、信長公の元へ届けたんだ。 2頭の馬は、並み程度だったらしいけど。 1頭は黒芦毛のすぐれものでな。 この黒芦毛の馬が、 信長公を大層喜ばした、一品だったらしいど。 広照は、お礼として、 織物100反、虎革5枚、紅緒50結び、 あと、お礼状を貰ったんだと。 んでな。このお礼状は、今も残っててな。 昔、博物館の特別展示で、実物さ見たんだけどな。 素人にゃ~、なんて書いてあんのか、わかんなかったっぺ。 でも、確かに、信長公と広照の間に、 馬っこの取引があったって、証拠だど! 広照は、信長公の家臣『滝川一益』とも、繋がりさあったって聞いたけど。 それも、信長公に馬っこさ送ったことが、効いたんだべか。 『玄宥上人』のおかげだべな。 あとは、信長公が、もう少し長生きさ、してたら・・・ もしかすっと、信長公の家臣に中に、『皆川広照』の名前が 残ったかもしんない。 って、いうのは、ちと、想像さしすぎかなw。 《参考》 下野戦国史~皆川広照の生涯~ 大森隆司・大阿久岩雄 下野新聞社 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.28
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「玄宥上人」(これは、皆川城の本丸から降りてきたとき撮った写真。 本丸周辺を取り巻く、曲輪? 武者走り? 細い通路みたいな場所で、奥に続いてた。 遠くから、段々に見えたとこだどw) 今日は『玄宥上人』って人について、勉強してみっかな。 あ、最初に言っとくと。『玄宥上人』は『皆川広照』に関わりのある人物でな。 とくに、広照にとっては、 重要な役割さする、恩人みたいな人なんだど。『玄宥上人』享禄2年(1529)~慶長10年(1605)。 下野国の吹上城主・膝付又太郎の息子でな。 若いときに『皆川持明院』の『宥日僧都』に師事し、 紀州などで修行したあと『皆川持明院』の住職になったんだ。 だども、『瞬秀』っつう弟子に住職の地位さ譲って、 再び修行さ行っちまうんだ。 ええと。『皆川持明院』っていうのはな。『皆川城』の北東にある寺院でな。今も存在してるど。 地図で見ると、1キロメートル離れてないみたい。 広照や重臣たちも、ここで修行したって噂だべ。 そん時の住職が『瞬秀』さん、なんだと。 さて。その後の『玄宥上人』さんは。 さらに修行さ重ねて、『紀伊・根来山の智積院主』になる。 そして、天正13年(1585)。 根来山は、豊臣秀吉の軍に攻め込まれ大混乱に、なんだけど。『玄宥上人』は『高野山浄智院』へ、逃げっちまったんだw。 その後もな。あちこちと流れ歩いて。 京都の北野で、暮らすようになったんだ。 慶長5年(1600)前後のころ。『徳川家康』の援助を受けて、 京都東山の豊国神社境内の土地を寄進され、 智積院さ再興したんだと。 波乱万丈、だな。 お坊様って、もっと、落ち着いた静かな場所で静かに暮らしてる って、イメージさあったんだけど。 かなり、行動的だったんだな~。 で、な。『玄侑上人』が『皆川広照』と、どう関わるかっていうと、な。 う~ん。 長くなっちまったんで、今日はここまで、だな。 次のブログさ、続くど~!《参考》 下野戦国史~皆川広照の生涯~ 大森隆司・大阿久岩雄 下野新聞社 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.26
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「西虎口」『竪堀2』の階段さ降りてきたら、途中で西に向かって曲がってた。 長っ! どこまで続いてんだべか。 もう、足さこわくなっちゃったんだけど。 歩けっかな~? だ・ど・も。 両脇に迫ってくる土壁は、土塁だべか? それとも、山さ削った切り岸? それとも・・・堀? 高さは2~3メートル、ってとこかな。 うわ~!って驚くほど、高くはないけんど、 ちと、押しつぶされそうな、感じだべ。 先は、ど~なってんのかな? 疑問さ解く方法は、歩くべし! っつことで。 ゆっくりと、左右の土壁さ楽しみながら、歩いていくと 階段が、藪んなかさ、飲み込まれてる・・・ 近づいてみたら、それほどじゃ~なかったんで、 足元さ気~つけて、登ったど。 そして、登ったら 降りるんだな~w。 あ、目の前に、舗装道路。 あれは、『皆川城』の周りに巡らしてある、散歩道だな。 すると、皆川城全域をほぼ、歩き終えたってことだ~。 は~。おつかれさんでした~。 振り返ると、道の左右に、小高い土塁がみえた。 ここが『皆川城の西虎口』だどw。 実は、知らずに通ってきちゃったんだけど。 出てきたとこに、案内板さあってな。『西虎口』って書いてあって、知ったんだw。 案内板にはな。『門のような崖や土塁で挟まれ、狭くなっています』 って書いてある。 振り返って、思い出してみっと、確かに。 細い道と、左右を挟む土塁が、続いてたな。 この細さと、土塁の高さを利用して、 敵の進入を困難にさせて。 さらに上から攻撃出来るように、なってんだって。 な、なるほど。 だから、それほど高い土塁じゃ~なかったんだね。 あんまし高いと、見張るにはいいけど。 弓や槍で攻撃出来なくなっちまうもんな。 左右から、迫ってくる感じがしたのも、 もしかして、計算してあんの? 最後に、すげ~もん、みちゃったな~。『皆川城』には、もう一つ。『東虎口』って場所があんだけど。 ここは、公園内地図には、載ってなかったな。 整備されてないんかな? 『東あじさい平』って場所あたりが、怪しいんだけど。 どうなんだべな。『西虎口』が、こんだけ綺麗に残ってるって知ったら、『東虎口』も、気になっちゃ~な~。 そうそう。 太平山の麓にある『山田の大中寺』には、『皆川城の搦手』から移築した門が、残ってんだよ。 今は『大中寺の山門』に、なってんだ。 (山門のブログは、こちら) あれ? 『皆川城の搦手』って、どこだんべ? 正面の『皆川地区公民館』から入ってくる道、じゃ~ないよね。 あそこに門があったとしたら、『搦手』じゃ~なくって、『表門』だろうし。『東虎口』が『搦手』なんかな? うわ~!ますます『東虎口』が 気になっちまうよ~。 どんなんだろ~な~。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.25
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「皆川広照」『竪堀2』の上は、曲輪の広場になってたど。 写真さ、撮ったはずなんだけど。 みっかんないんで、これ! 曲輪からみた、『山頂・本丸跡』だど。 ここからの眺めも、いいな~。 さてと。 ここで一休み、しよ。 ちょうど東屋風の休憩所も、あっしな。 だども、ゴミさ、捨てちゃ~だめだど!『罰金とるど~!』 って、看板さあったかんな。 必ず、持ち帰えっとこれね。 さてさて。話さ変わっけど。 皆川城の城主さ勤めた人ん中に、『皆川広照』って人がいんだ。 このかた、結構有名らしいんだな。 幼少のころは、どんなだったか、 わかってないらしいんだけど。 いろんな逸話が、残ってるみたいだべ。 たとえば、『織田信長』に馬を献上し、お褒めを貰ったとか。 天正18年(1590)の小田原の戦いでは、 北条側についてたんだけど、戦が始まる寸前に、投降した、とかな。 『徳川家康』の時代になっと。家康に仕えて、な。 家康の6男『松平忠輝』の守役をまかされたりしてる。 んで、忠輝関係のごたごたで、改易されちまったり、な。 でもな、起死回生をかけて、復活すんだど。 細かく書くと長くなっちまうから、簡単にまとめたけんど。 簡単すぎっかな? だどもな~。広照さんは、80歳まで生きたかただかんな。 それを、こったら短いブログで、全部紹介すんのは、無理! っつうか、情報が・・・知識が・・・ない。 話さまとめる、才覚も・・・ないもんで、 こんなもんしか、書けません。 興味がある人は、ネットで検索してみとこれね。 そうすっと、いろんな情報さ入ってきて、 それが、みんなちょこっとずつ違ったりするもんだから、 ああ~!わがんね~! って、なるかもしんないけんど。 がんばっとこれね~! さてさて、さて。 帰りは『堅堀2』の西側に、並んだ階段さ下ってくど。 あれ? 先がない? あの先は・・・?(つづく) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.24
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「竪堀2」 地面さ見てたら、綺麗な花さ、咲いてた。 すみれかな? だども時期さ違うような? ちっこい花さみとれてたらな。 ちっと気分さ、落ち着いてきたど。 あくせくしないで、ゆっくりいくべ。 そのうち『竪堀2』さ、つくべ~。 ってな。余裕さ戻ってきたど。 そしたら、周りの景色も、はっきり見えてきた。 お花さんに、感謝だなw。 遠くの山や、緑の地面さ長めながら、 とことこ、歩いて行くと こったら、地面の裂け目にぶつかった! あぶね~な~。もちっとで、落っこちるとこだったど! ・・・って、おや? もしかして? これが『竪堀2』なんけ! 上さみっと、行き止まり。 これは、自然に出来たもんじゃ~ないな。 下さみっと、急激な坂。 階段の先が、落ち込んでてみえないど。 これは、下から見たとこ。 はっきりとわかんな。 ここが、『竪堀2』だど~! あ、案内板さある。 これによると、『幅9メートル、深さ4~5メートルの空堀を復元したもの』 なんだと。 んで、『竪堀は、堀の中心から外に向かって造られたもの』っで、『攻め込んできた的の左右の連絡を断つ』ために こしゃったもんなんだと。(注:現地案内板から、抜粋しました) なるほど。『竪堀2』の右側と、左側に分れて攻め上がってきた敵は、 堀に邪魔されて、連絡さ出来なくなっちまう、ってことだな。 おまけに、右か左の隊が不利になって、負けそうになっても、『竪堀2』さ越えらんないから、援護も出来ない。 こったら堀誰が考えたんだべな。 すごいな~! 上からみたとこ。『竪堀2』は、まっつぐじゃ~ない。 途中で曲がりくねってんだ。 もしも、敵が『竪堀2』の中さ進んで上がってきても、 曲がりくねった堀のせいで、前方さ見えなくってな。 待ち伏せした兵たちに、討ち取られっちゃう って、仕掛けらしいど。 すごいな~! 長いな~! 広いな~! ええ~と、どうやって向こう側さ、いこうかなw。 渡れっとこさ探して、上さ向かって登ってみたど。 下は・・・階段が、おっかなかったから・・・なw。 だども、 こったら堀さ、はじめてだっぺ! これ全部、手堀り、だよね。 みんなで、毎日、鍬や鋤で、えっちらおっちら。 どんぐらい、かかったんだべな~! うん! やっぱし『皆川城』の一番のみどころ、って言われるだけあんな! がんばって、山の斜面さ縦断してきたかいさ、あったど~! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.23
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「くねくね道」 土塁の壁を周りこむと、こんなとこさ出た。 こないだの『井戸曲輪』から、一段下がったみたいだど。 正面に見えるのは、こないだ紹介した、『丸っこい曲輪』だど。 あの上が、『見はらし台跡』の崖。 だいぶ下がったみたいだな~。 さてさて。 次の目的地は、『皆川城』最大の見所!『竪堀2』! ここさみなくっちゃ~、『皆川城』さ来た理由がない! っつうのは、言い過ぎかもしんないけんど。 半分ぐらいは、お楽しみが減るどw。 ん~と。現在地さ、地図で確認してみっぺ。 大体、赤丸で囲んだあたりだど。 はっきりここ、っていえない理由は、な。 この辺で迷っちまったからなんだw。 だってよ、こったら坂道、下ってよ。 ぐるっと、折り返して、 また、こったら坂道、下ってさ。 でこぼこした小山さ、乗り越えていったら、 どこに『竪堀2』があんだか、わかんなくなっちまったんだ。 あ、案内板! え~と。よくわかんない。『竪堀2』の案内は、ここにはなかった、と思う。 たぶん西のほうだよな~。 歩き出したのは、いいんんだけんど。 後ろも気になる。 振り返ると、今降りてきた道が見えた。 左っかわの山沿いに、うっすらついてんのが、道だど。 遠くに見える鉄柱は、見覚えさあんな。 最初に、山裾沿いの散歩道さ歩いて行ったとき、 道沿いにあったもんだっぺ。 たしか、向こうには、堀は無かったど。 ってことは、こっちの西へ向かう道で、いいんだべな。 てくてくと、歩いて行くと。 新たな曲輪に出た。 ここは、見たことないな。 っつうか、道、無くなってっけど? だいじか~? 先までいったら、崖だった~ ってことは、ないべな~? ふ、不安だな。『堅堀2』~! いったいどこさ、いったんだ~! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.22
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「井戸のある曲輪」 昨日の道さ進んできたら、広い場所さ出たど。 ここも、曲輪の一つみたいだべ。 地図によると、ここには『井戸跡』があんだって。 だども、曲輪の名前は、ついてないみたいだな。 ん~。説明しづらいんで、仮に『井戸曲輪』ってしとこうかなw。 地図で確認してみっかな。『井戸曲輪』は、赤丸で囲んだとこだど。 復元図だと、西側の小山で、上から二番目の広い場所だっぺ。 んで、これは、上の『見はらし平』からみた『井戸曲輪』 ちょこっとへこんだとこが、ひょうたんみたいだな。 ちょっとわかりづらいけど。 手前の崖が『見はらし平』のふち。 真ん中の、植木が植わってっとこが『井戸曲輪』のふち。 んで、その向こうに見える緑の部分が、さらに下の地面で、 薄い黄緑色んとこが、『皆川地区公民館』。 ここも、なかなかの見所だな。『井戸曲輪』から西を向くと、崖。 この崖の上が『見はらし台跡』があったとこ。 んで、崖の下さ、目をやると・・・ 小さいけんど、整備された曲輪がある。『井戸曲輪』から、直接行けるような道が、 見あたんないんだけんど。 あそこさ行くには、どうすればいいんだべな。 いったん降りなきゃ~、なんないんかな。 とりあえず、曲輪への道はおいといて。 ここで絶対見とかなくっちゃ~なんないもんさ、探すべか。『井戸』と『池』跡があるはずなんだけど。 ざっと見渡したとこ、それらしい跡は、みつかんないど。 おや、あったらとこに、看板さ立ってんど。 後ろの崖は『見はらし平』だど。 その崖の前に、一段高い場所さあってな。 草が生い茂って、藪になってるとこさ、あったんだ。 あそこかな~? んで、段差を上がって見たんだけんど。 この段差、ほぼ垂直なんじゃ~ないんけ? って疑いたくなるぐらいでな。 足場もない。 なんもなかったら、骨折り損だな~。 と、悪態さ付きながら、 えっちらおっちら、どっこいしょ! 登りきったら、ああ!よかった。あったど!『井戸跡』 埋まってっけどなw。 そして『池跡』 小さいけんどなw。 これ、雨水かな? 湧き水かな? 覗いてみたけど、水が濁ってて恐かった。 危険! って看板もあるし。 遠くから観察して、おしまいにしとこ。 しかし、不思議だな。 こったら山の頂上に、水さあるなんて、な。 地面の下は、どんなんなってんだべな~。 井戸があったってことは、下のほうに、水源になるもんが、あったんかな。 そして、もっと不思議なのは。 なんで、井戸んとこだけ、一段高くなってんの? 地形の関係? それとも、なんか建物さあって、その配置の関係? まだ、不思議が増えちまったな~。勉強しなくっちゃ。 な~んて、ことを考えながら、ほげほげ歩いてたら、『井戸曲輪』の終点さついた。 こっから、下へ行けるみたいだど。 ここの入り口も、土塁の壁みたいになってんな。 急カーブで、向こっかわがみえない・・・てことは、 下からきた進入者からも、こっちさ見えないど。 待ち伏せするには、いい場所だべな。 ちなみに、振り返ると 上に向かう急階段! ここさ登ると、本丸さ行けんだな~。 はっ! もしかして、これって、皆川城の仕掛けなんけ? 下から、やっとこさっとこ登ってきた進入者は、 さっきのカーブさくっと、まず、この急な坂道が目に入るはず。 もうすぐ本丸だぞ! って、勢い混んで進入してきた敵は、上に気をとられて カーブの土塁に潜んだ兵に、気がつかない。 進入者がカーブさすぎて、坂道にさしかかったとこを 背後から狙い撃ち! 素人なんで、実際に上手くいく戦法かどうか、見当もつかないけんど。 どうだべな。 ここは、いろいろ想像してみんのが、楽しい場所だべなw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.20
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「曲輪から曲輪へ移動中」『見はらし平』から、下さ降りる道。 左右を土の壁に囲まれて、先さ見えないど。 これは土塁なんかな? 上は曲輪の地面になってるから、 ここんとこだけ掘り下げた、崖っていったらいいんかな。 う~ん、呼び方がわかんないけんど、 昔っからの通路みたいに見えんど。 あ、もしかしたら、曲輪に出入りする『虎口』 って呼んでもいいんかな。 位置はこのあたり。 上の赤い矢印んとこだど。 印の通りに、道は下りながら、東に向かって曲がってんだ。 さてさて、先は、どうなってんかな。 あせっちゃ~だめだど。 見た目よりも、坂は急だかんな。 小さいでこぼこも、あるし。 一歩づつ、ゆっくり下っていくべ。 そうそう。話さ変わっけど。『結城合戦』って、知ってっけ? 永享12年(1440)に『結城氏朝・持朝』親子が『鎌倉公方・足利持氏』の遺児『安王丸』と『春王丸』を擁して 反乱を起こした事件だど。 こんときな。『皆川城主・長沼(皆川)秀宗』は幕府軍に味方してたんだと。 だもんだから、 敵方の『岩松持国』や『桃井憲義』っていう武将に、な。 皆川城さ、攻め込まれっちゃったんだ。 でもな。 秀宗は、両武将を撃退したんだと。 すでに、今みたいな地形になってたかどう、かわかんないけんど。 どんな戦法さ、使ったんだべな。 今歩いてるみたいな、くねくねした道さ利用して、 敵さ追い込んだんだべか? それとも、入り込む間もなく、敵さん、やられたんかな? ここの山道は、鎧や兜さ装備して、 槍や弓さ抱えて登んのは、しんどいど。 敵も、味方も、苦労したんべな~。 曲がり角さ越えると、とたんに目の前が広くなったど。 どうやらここも、曲輪の一つみたいだな。 けど、そったらことより・・・ うわ~!本丸側の小山が、ど~んと、迫ってくるど~! 足元の道さ、目で追うと・・・ 本丸に吸い込まれるように、くねくねしながら続いてる。 なんか、よくわかんないんだけんど、な。 感動しちまって、足さ動かなくなっちまったよ~。 しばらく、ぼーっと眺めてた。 で、あわてて、写真さ撮りまくったwww。 『皆川城』、すごいな~! こったら城跡、初めてだっぺ~! もう、他になんていっていいか、わかんないや。《参考》【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別)最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.19
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「見晴らし台」 曲輪さ北に横切ると、もう一つの入り口さある。 舗装された道から『本丸跡』の階段さ登らずに、まっつぐ来ると、 ここさでんだよ。 ちょっと坂道になってんね。 ここは昔からの、入り口だったんかな? それとも、あとでこしゃったんかな? どっちだべ? 入り口さすぎて、曲輪の縁さ沿ってさらに西の奥へ進むと、 上に上がれる階段さあった。 ここが『見はらし台跡』 たぶんここに、下さ見張るための施設かなんかが、 あったんじゃ~ないかな。 どんな景色さみえんかな~。 ここは、他と違って、登りづらい。 階段さ古いんかな。 えっちらおっちら。 ってみた感想は・・・林と藪で、なんも見えん! あ、だどもな。 木々の隙間から、『見はらし平』の全体は、見えたな。 だから、木さとっぱらったら、周りの景色さ現れて、 見張り台の役目も、出来たかもしんないど。『見はらし台』から降りるとき、北っ側の斜面さ、見えたんだけど。 北っ側は、整備さされてないみたいでな。 林と急な斜面になってた。 だども、目さこらして、じ~っと見てっとな。 なにやら地面に、意味ありげなでこぼこが・・・見えたような・・・ こっち側も、整備さしたら、 表側みたいに、うねうねした曲輪が出てくっかもしんないど。 それとも、敵の進入さ阻止するための、仕掛けとか。 なんか、想像さ刺激されっちまう、崖だったな。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.18
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「見はらし平」『皆川城』は遠くから見っと、 東の本丸部分と、少し低めの西の小山の部分と 2つの山がくっついたような形に、見えんだけんど。 今日は西側の『西の丸』って言われてっとこさ、いってみんど。『本丸跡』の木々さ、かき分けて 下さ覗いてみっと、こんな風に、たくさんの曲輪がみえる。 段々畑みたいだなw。 たくさんある曲輪ん中で、 まずは『見はらし平』って名前さついてっとさ、目指すど。 場所はここ。 西の小山の天辺だっぺ。 道順は、元の坂道さ降りて、歩道さ進むか 途中にあった急階段さ降りる道か、 どっちでも、いけるんだけど。どっちさいこうかな? で、どっちさ進んだか、っつうとな。 赤い矢印の道。急階段さ、降りてみたw。 実際に降りて見ると、最初に見たほど、恐くなかったど。 やっぱし、杖さあったからかな。 階段は、補強されててな。全部が土ってわけじゃ~ないから、 ゆっくりと、一段ずつ降りれば、滑ったりしないど。 だども、慎重に、落ち着いて、降りないと、危ないな。 足下さ集中してたから、よく覚えてないんだけんど。 階段も、直線じゃ~なくって、山に沿って曲がってたみたいだしな。 くれぐれも、怪我さしないように、気をつけとこれね。 階段をほぼ降りたとこで、一休み。 振り返ってみると、『本丸跡』が、あんなに遠い。 そして、渦巻き状の段々が、ちゃんと見える。 面白いな~www こっちの道さ来て、正解だったなw。 階段を降りきって、右手・西方向さ曲がっと、『見はらし平』だど。 第一印象は、ひろ~い草っぱら! 広さは『本丸跡』よりも、広い感じさすんな。 地面も、『本丸跡』は、でこぼこしてたんだけど。『見はらし平』は、平べったい。 こっちは兵たちの、詰め所だったんかな? だども、一番の違いは、草が一面に生えてたことだべなw。 こったら秋の草花が、曲輪一面を覆ってたんだど。 なつかし~な~。 昔は道端に、みっちりと、咲いてたもんなんだけどな。 今はみんな舗装道路さ、なっちまったかんな~。 なかなか、お目にかかれなくなっちまったんだよ。 これって、黄色い小さな花が、めめこいんだけど。 花に見とれて歩いてっと、いつのまにか、 黒くて細長い虫ピンみたいな実さ、くっつけられちゃうんだよね。 この花の名前は『コセンダングサ』っていうんだと。『センダングサ』の小さい種類って、意味らしい。 城跡に、戦団け? んじゃ~、攻撃さされないように気をつけて、 遠回り、遠回りw。 こんなんも、咲いてた。 これは『イヌタデ』。あかまんま、とも言うんだど。 赤い実みたいな花さつける、秋の野草だど。 いいな~ここ。野草さ、いっぱいだ~。 植物園なんかじゃ~、絶対引っこ抜かれっちまうもんな。 踏んづけないように歩くのは大変だけど。 このまんま、抜かないで、 ずっと、秋の雰囲気さ楽しめるといいな~。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.17
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「皆川陣屋」 そろそろ『本丸跡』をでて、次さいこうかな。 と、思ったら。 新しい情報さ見つかったもんだから、 今回も『本丸跡』に、いんだw。 そして、始まりは、この写真。 これで3回目だけんど、ここに『皆川陣屋跡』が ちょこっと写ってだんだよ。 ええと。場所はな。 写真の右っ側に、四角い空き地みたいな場所さ、見えっかな? 写真さ、印つけてみたど。 紫の矢印が『本丸跡』 緑の矢印2つは、皆川城の腰曲輪のだんだん。 んで、青い矢印が『皆川地区公民館』でな。 前にブログで紹介した『皆川氏館跡』だど。 (皆川氏館跡のブログは、こちら) そんで、赤い矢印が、中学校の校庭部分なんだけど。 この辺りに『皆川陣屋』が、あったんだって。 話は『皆川城主・皆川広照』が、移封したあとの出来事でな。 まずは、元和元年(1615)。 皆川城周辺は、隣の『榎本領主・本多忠純』の支配になんだけど。『本多忠純』は皆川に屋敷さ、こしゃらなかったんで、 まだ、陣屋はたってないど。 ちなみに『本多忠純』のお兄さんは、『本多正純』っつってな。 宇都宮城で、『将軍・家光暗殺疑惑(釣り天井事件の元ネタ)』さおこして 失脚した人だど。『忠純』も疑われたみたいでな。幕府から呼び出しさ受けたんだと。 だどもな。 利根川の中田の渡しんとこさきたら、 対岸の栗橋に、忠純召補の用意さ、されてたんだって。 んで、船の上から、対岸の様子さ知った『ぞうり取りの半助』が 主人の忠純さ刺し殺して、自分もあとを追ったんだと。 な、なんか、よくわかんないけんど。 兄弟って、大変だな。 無実だったかもしんないのに・・・ 半助さん、ちと、早とちり、しちゃったんじゃ~ないんかな? このあと、どうなったんかな・・・あとで、調べてみよっと。 さてさて。『皆川陣屋』の話に戻るど。 う~んとな。 寛永17年(1640)から、寛文5年(1665)ごろ。 能見松平氏が陣屋さ構えた、って説があんだけど。 これは、証拠の記録が見つかってないらしくってな。 ほんとかどうが、はっきりしないらしど。 はっきり記録に、残ってるやつだとな。 元禄12年(1699)に、『米倉昌尹』って人が、下野国内に五千石さ貰ったんだどもな。 そんなかに、皆川が入っててな。 ここに、陣屋さこしゃったらしいど。 だども。 享保7年(1722)になると、 米倉氏は武蔵金沢に屋敷さ移しちまってな。『皆川陣屋』は、廃止になったんだと。 もひとつ、おまけ。 写真の右手、陣屋跡から西の方向には、『金剛寺』があんだけど。 ここには、代々皆川家のお墓があんだって。 状態も良く、城跡から500メートルぐらいしか離れてないらしいから、 行ってみとこれね。《参考》 【送料無料】近世栃木の城と陣屋改訂増補価格:1,995円(税込、送料別) 【送料無料】栃木の城増補改訂版価格:2,039円(税込、送料別)最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.16
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「本丸3・第2次皆川氏と皆川城築城」『本丸跡』にはな。 周辺の山を紹介する、案内板があんだ。 たとえば、こんなの。 これによると、『太平山神社』や『太平山城』が見えるんだと。 これ。昨日載せた写真なんだけど。 正面奥の山が、どうやら『太平山』だったらしい。 おお~!こんなにはっきり見えんだ~。 感動~!! すこし東さ目を向けると 赤い矢印は『筑波山』なんだ。 肉眼だと、もちっとはっきり、見えたんだどもな~。 こっち方向には、『栃木城』も見えるらしいど。 雲さかかっちまって、よく見えないけんど。 さすが山城!遠くまで、見渡せんだな。 さてと。今日こそは、『皆川城』築城の話さしなくっちゃな。 んと。まずは皆川氏の話。 応永年間(1394~1428)ごろ。『長沼義秀』と孫の『長沼憲秀』が、皆川荘に進出してくんだ。 で、『皆川城築城説1。長沼憲秀・築城説』 可能性は低いらしいんだけど、あり得ない話じゃ~ないみたい。 ほんとうだったら、『皆川城』は応永年間に築かれた、 ってことになんな。『皆川城築城説2。長沼秀宗・築城説』 これが今一番、有力な説らしいんだけんど。 『憲秀』の息子『長沼秀宗』が築城したって説。 永享12年(1440)に『長沼淡路守(秀宗)』が、皆川城を本拠地にしている、 って記録が、残ってんだって。 んで、他の資料なんかとあわせて、 15世紀前半に、『長沼秀宗』が築いたって話になったんだと。 そして『皆川城築城説3。皆川氏秀・築城説』 永享の乱(1438~1439)の前後に、『長沼秀宗』の息子『皆川氏秀』が築いたって説。 このころに名前も『長沼氏』から『皆川氏』に変わったみたいだな。 完全に、皆川荘を納める立場になった、ってことなんかな? これ、本によってまちまちらしいんだけど。 中には研究途中の古い推測も、入ってんかもしんないど。 だから、『皆川城』の築城年代は、はっきり言えないんだけんど。 15世紀前半ごろ、って言っていいみたい。 築城者は、『長沼秀宗』が本命かな。 だども、もしかしたら。 憲秀が、城の基礎さこしゃって、 秀宗が、曲輪さ整備して、 秀宗が、さらに改良さ加えて、 現在の『皆川城』さ、完成! ってことは、ないべかな~? だってよ。いっくら小さい山っつってもな。 一気に削るわけにゃ~いかんべ。 ちぃ~とづつ削って、堀さ整えていったら、 結構時間さ、かかんじゃないかな~。 親子3代の築城・・・ありえないかな~。 さてさて。空想話は、ともかく、な。『長沼秀宗』が皆川氏を復活させたって話は、ほんとだど。 ほんで、皆川氏は『長沼秀宗』から、最後の城主『皆川広照』まで続くんだけんど。 この一族を『第2次皆川氏』って、呼ぶんだと。《参考》【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.15
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「本丸跡と 第1次皆川氏」『本丸跡の石碑』だど。 頂上まで登ってきたぞ~、って気分になんべ! なんか、後ろの展望台さ、じゃまっけだな。 どうも夏の頃に、こしゃったみたいなんだけんどな。 ただでさえ、狭い『本丸』が、 窮屈になっちまったっぺ。 あんまし展望台って、登ったことがないんだけんど。 上から見る眺めは、綺麗なんだべな。 ちょっと、登って見れば、いかったかな? さてと。 昨日の続きさ、書いてみっかな。 長沼荘から皆川荘さ移って、館さ構えた『皆川宗員』だどもな。『宗員』の跡は二男『宗村』が相続して、ずっと続いていくんだど。 ところが、 元亨3年(1323)、『宗員』から6代目の『宗常』のときにな。『鎌倉幕府の執権・北条高時』に背いた、って理由でな。『宗常』は自害。 所領は没収。 皆川氏は、断絶したんだと。 ええ~と。そんでな。 ここまでの、宗員から宗常までの時代を『第1次皆川氏』っていうんだと。 このころ、すでに皆川城があったんかどうかは、はっきりしないんだけど。 どうも、今みたいな山城は、なかったみたいだど。 昨日、ちょこっと書いたけど。 平地にこしゃった、居館だけだったみたいだな。 んじゃ~、『皆川城』は、いつ築かれたんだ? 皆川氏は、どうなったんだべな? 調べてみたら・・・なんか、複雑。 いろんな説が出てきたど。 頭さ、こんぐらかってきちゃったから、 もちっと、調べてから書くべかな。 これは、『本丸』から南のほうさ広がる景色だど。 下にちょこっとだけ、公民館がみえんな~。 昔の皆川荘は、この辺かな? やっぱし、こったら感じに、家々が広がってたんかな~。 《参考》【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別)最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.14
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「本丸跡と、皆川氏のはじまり」 さあ、もう少し。 この階段さ登れば、『本丸跡』だど。 だども、階段さ、さらに細く、急になってんな。 ここだけ見っと、山登りみたいだな。 さてと。 ここ『皆川城』は、造られた時代ってのが、 よくわかってないらしくてな。 いろんな説があるらしいど。 一番古いんは、小山氏の一族、長沼氏の支族が移り住んだって説。 寛喜年間(1229~1232)ごろ、『皆川四郎左衛門尉宗員』って人が、築城したって記録があんだって。 小山氏の一族で、長沼氏の祖となった『長沼宗政』って人が、いんだけど。『宗政』の息子に『時宗』って人がいて、な。『時宗』の長男が『宗員』っていうんだ。 この『宗員』が、嫡子だったはずなんだけど、 なんか理由さあったみたいでな。 長沼氏の荘園・長沼荘を継がずに、皆川荘さ移って。 皆川氏を名乗るようになったんだと。 だどもな。 こんとき『皆川宗員』がこしゃった建物は、 今に残る『皆川城』じゃ~、なかったみたいなんだ。『皆川城』から南東の場所に、『白山台』っつう標高約72メートルの台地さあってな。 そこに、こしゃった、居館のことらしいんだ。 1辺が約200メートルある、方形館だったらしいど。 んじゃ~、誰が、こったら複雑な城さ、こしゃったんだべな~? な~んて、つぶやきながら、休憩したあとは、 気合いさ入れて、 階段さ、登んど~。 だども、焦っちゃ~危ないかんな。 杖をたよりに、時間さかけて、ゆっくり登ったど。『本丸跡』さ到着~! ここまでかかった時間は、たぶん1時間以内だと、思うど。 運動不足の足にゃ~、もっと時間さかかったような気がしたけんどな。 は~、疲れたべ~。 だども、案外狭いもんだべな。 山のてっぺんだから、しゃ~ないんかな。 お、ここの案内板は、『縄張り復元図』がくっついてる。 どのへんさ、歩いてきたんかな~。 地図とにらめっこしながら、しばし、休憩。 とりあえず『本丸』攻略、したど~。 やったな~♪《参考》 【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別)最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.13
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「本丸へ登る階段」 小山さ周りこむと、案内板さあった。『本丸まで、75メートル』だと。 よしよし。もちっと、ってことだな。 左に曲がれば『本丸』さ行ける。 ちょこっと安心したっくれな。道の先さ、気になってきたど。 どんなんなってんだべな? 小さな出っぱりさあって、道の向こう側さ見えないもんだから。 ちょこっと寄り道して、覗いてみた。 お? 広場だ。 っつうことは、『曲輪』の一つだな。 写真じゃ~、奥さ白くなっちまって、わかりづらいけんど。 そんだけ、今いる裏っ側と、曲輪のある表っ側の 日の当たる加減さ、違うってことだど。 ま、まあ。 写真の取り手が、へたくそだって理由も、あっけど・・・なw さてさて。 今は『曲輪』よりも、『本丸』が先だっぺ。 もっぺんさっきの案内板とこまで、戻って。 左の道さ行く・・・? 一応、階段さ整備されてっけど・・・急だっぺ。 先さ、見えない。あそこさ、どうなってんの? っつうか、手すりさなしで、登れんけ? しばし、中断。 どうやって登ろうか、迷っちまったんだ。 おおっ、そうだ! 今回の城跡散歩には、強え~味方さ、いたんべな! これこれ! 登山やトレッキングに使う、杖だど。 近所で安売りしてたんで、買ってみたんだ。 最近は、は~。膝だの腰だの、すぐにこわくなっちまうかんな。 転倒防止にも、いんじゃないか、って思ってな。 こいつさ使って、ゆっくりと。 一歩づつ登ってみたら・・・おう!いい感じ。それに楽だど! よ~し、よし! これなら、どんな崖でも、登ってやっと! かかってこい! なんてなw。 そったらこと、考えてたせいか。 また、先の見えない階段さ、現れた。 あ・・・あそこも、急な、坂道なんかな? さっきの威勢は、成りを潜めちまったみたいだなw。 恐る恐る、足下さ確かめながら、前に進んだんだ。 ここは、もう頂上の『本丸跡』が、すぐ目の前んとこなんだけど。 周りの景色は、木々にふさがれて、見えない。 かすかに、さっき通って来た道と、手すりが見える。 っつうことは。 ここは、昨日のブログさ載せた、崖の上ってことだべな。 途中で登り階段さ、曲がってたから、 上んとこで、回り込んで、崖の上さ来たみたい。 ちょっと、下からみた崖の風景さ、思い出しちゃってな。 足さすくんじまったよ。 だってここには、手すりさないし。 道幅だって、人一人分ぐらいしかないんだど。 落っこちたら・・・? 考えんの、やめよ。 振り向いたら、崖の反対側さ、目にはいって、また、どっきり! ちょうど2つに道さ分れててな。 こっちは右に、向かう、道・・・なんだべな。 崖さ滑り落ちるような、階段、なんだけど。 ここさ、通るひと、いんのかな? 景色はいいな~。 遠くの家々が、よく見えるど~。 下に見えんのは、さっきちょこっと覗いた『曲輪』だべか? 足下さえみなければ、最高の場所だべなw。 さてさて。 恐くなって、動けなくなっちまうまえに、『本丸』さ、いくど~! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.12
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「裏っ側」 曲がり角をすぎると、山の裏っ側さ入っちゃった。 正面からみた『皆川城』は、腰曲輪の段々がはっきり見えて、 日光も当たって、明るく、広々してたけんど。 裏っ側は、木がみっちり生えた森になっててな。 ちと、寂しい感じさ漂ってたど。 分かれ道さでた。 今度はどこさ、いけんかな? 左へ伸びる道は、土の道。 ちょこっと背伸びしてみたら、ベンチさ見えた。 広場さなってんかな? 右に伸びる道は、いままで通ってきた道と同じ。 整備された道。 案内板では『本丸』さ行く道は、こっちみたいだべ。 んじゃ、右の道さ、行くべ。 ずんずん進んでいくと、こったら場所さでた。 崖だ。 表っ側と、かなり雰囲気さ違うな~。 道に右っ側も、こんな感じ。 木さ生えて、草も茂ってるせいか、 果てしなく深い崖に見えた。 落ちたら戻ってこらんないんじゃ~ないかな? って、余計な心配さしちまってな。 疲れが倍増しちまったよw。 実際は、手すりさあって、落ちないようにガードされてっから、 安心して道さ歩いて、だいじなんだけんどな。 あ、また、曲がり道! あそこの丘さ、ぐるっと回ったら、 今度こそ、『本丸』だべか。 いよいよ、頂上到着かな~? んじゃ~、もうひとふんばり。 がんばっぺ! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.11.11
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「腰曲輪の道」 昨日に引き続き、坂道をほげほげと登ってんだけど。 この道があっとこは、『皆川城』の『腰曲輪』らしいど。 登り道になってっとこは、昔は道じゃ~なかったんかもしんないな。 ええっと。 今まで歩いてきたとこは、一番下にあたる『腰曲輪』なんだけど。 曲輪の先には、分かれ道さあってな。『本丸』さ行く道と、東の『あじさい平』へ向かう道になってんだ。 今回は、時間と体力の関係で『あじさい平』へ、行けなかったんだけんど。『あじさい平』も曲輪の一つなんだべか? 地図でみっと、山裾に広がる空き地みたいだど。 あじさいが綺麗なんかな? 花さ咲くころ、も一回来てみっかな。 だいぶ上まできたど。 崖ごしに、山が見える。 方向は、栃木市のほうなんだけど。 あれは『太平山』なんかな。『城山』さ、見あげっと、『本丸』は、まだ高いとこにある。 そだな~。 段々を、あと2つぐらい越えないと、つかないかな~。 皆川城内には、こんな立派な案内板が、あちこちにあんだ。 心強いな。 んで、案内板の示すとおりに、本丸さ目指して進んでいくと、 道っこが、荒れてきたど。 おまけに、いままで見えてた『本丸』も、 手前の崖に阻まれて、見えなくなった。 なんか、一気に、心細くなっちゃったな。 奥に林が見えてくる。 道は、林に向かって、ずんずん進んでっと。 あん中さ入んけ? ほんとに、本丸さ、行けんだべか。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村
2012.11.10
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「皆川城入り口付近」 さっそく、『皆川城』さ、進行すっと! っと思ったら、道案内の立て札がある。 おや? 行く手は、道が3本に分れてるみたいだな。 真ん中の道は、小さい山や丘を越えて、山頂さ続いてる。 だども、斜面さ這い上がってくみたいな階段が・・・ だみだ。登れん。 左さ行く道は、ちと、寂しげだし・・・ 案内番によると、右っ側の道が『本丸』に続いてるみたいだべ。 やっぱしお城さきたら、『本丸』さ行かなくっちゃな。 ってことで。 小さな小山さまわりこんで、山の右斜面に沿って歩いてくことにしたど。 『皆川城』が築かれた山は、通称『城山』っつってな。 標高が147メートルあんだって。 城の大きさは、 東西・約430メートル 南北・約480メートル。 東っ側の山頂に当たる部分に『本丸』さあって、 いくつかの曲輪が広がる、中世の山城なんだ。 入り口の小山を回り込むと、細い山道が下へ続いてた。 ふむむ? これは何かな?『虎口』かな? 隣の小山は『横矢』かな? この辺は、公園として整備されたとき、 ちょこっと改装されちまった、って聞いたから、 意味ない道かもしんないけんど。 なんか、想像を刺激する道だなw。 こういう不思議って、面白いから、大好きだべ~。 こっから先は、こんな感じに整備された道を進んでく。 お? ここはちょうど『堅堀1』の上んとこだ。 右んとこに、下さ降りる道が見えっかな。 あそこが『堅堀1』の、終点だど。『堅堀1』の土塁に沿って上がってくっと、ここに繋がってんだ。 現在位置さ確認してみっかな。 地図でみると、ここ。 赤い矢印の道さ、進んできたんだど。『堅堀1』は、矢印より、ちょこっと先だな。 道から下に向かって茶色い線が延びてっぺ? あそこが『土塁の坂道』だかんな。 ええと。地図によると。 この先に、上に登る細道があるはず。 ・・・って、ここも急だべな~。 ここさ上がると『梅林』って名前がついた『曲輪跡』に、出るみたいなんだけど。 まずは、『本丸』攻略が先! 本道さ、進もう! って『本丸』。 あんなに、遠いんだけど。 た、たどりつけっかな・・・。『皆川城』は、別名『法螺貝城』って言われててな。 本丸や曲輪を取り巻く、土塁や堀や腰郭が 複雑に絡みあった山城なんだ。 斜面の傾斜や地形を、うんまく利用してんだね。 そんで、遠くから見っと、 曲輪の段々が、法螺貝の渦巻きみたいに見えっから『法螺貝城』って、いうんだと。 話によると。 敵軍は、『本丸』目指して登っていったはずが、 堀や土塁に阻まれて、方向転換しているうちにな。 狭い場所さ、追い込まれっちまうらしいど。 ・・・って、そんじゃ~気楽に歩いてたっくれ、『本丸』さ、行けないんだべか? この道・・・だいじかな? 心配になってきちゃったっぺ。《参考》 【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村
2012.11.09
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「皆川城・館跡と神社」『皆川城』には、案内板がある。 ここで、ちょこっと、注目してもらいたい部分があんだ。 地図の左上に、写真さ載ってんべ? これは『皆川城の復元模型』の写真なんだ。 前に『栃木県立博物館』さ、皆川城の模型さあんど~ って、ブログに書いたことが、あんだけど。 ここに写ってんのが、博物館所有の模型の写真なんだ。 (栃木県立博物館の記事は、こちら) 相変わらずの、ぼけぼけ写真なんで、細部まで見えないかもしんないけんど。 山に沿って、複雑に張り巡らせた細い曲輪が、みえんべな。 この模型さ見るたんびにな。 こったらとこさ、登っていけっかな? って、不安さなっちまってな。 いままで『皆川城』さ、これなかったんだけど。 ここまできたら、行けるとこまで ・・・いくっきゃないべ! だって、引き返したっくれ、絶対後悔すんもんな! さてと。 肝も据わったことだし、まずは神社さお参りしてくっぺ。 『雷電神社』 由来とか、わかんないんだけど。 無事に頂上さつけるよう、お賽銭さいれて、お祈りする。 頭さあげたら、 山頂が見えた! うっすらと建物がみえんべ? あそこが『本丸跡』って言われてる山頂なんだ。 遠いな~。 こちらは、『厳島神社』。 立派な池さ囲まれて、ちょこっと雰囲気恐そう。 こちらにも、お賽銭さいれて、お祈り。 周りの池が深そうで、そろそろと前進! そして、さっと撤退! 神社さ恐くないど!水が恐かったんだ! 変なもんは、いないと思う・・・けど・・・ なんか、こっちの神社は、苦手だべ~。 挨拶参りも、無事すんで。 散歩道さ歩き出す。 この辺りは、綺麗にならした道になってっから、 のんびり歩けるど。 緩やかなカーブさ曲がれば、 やっと山ん中に、進入~♪ 目の前には、土塁のような、小山も見えてきた! だども、ちょこっと、まっとこれ! 先に行きたい気持ちは、痛いほどわかっけど、 ここでも一つ、見といてほしい場所があんだ。 ちょこっと、城から目を離して、後ろさ振り返っとこれね。 広場さあんな。 これは『皆川地区公民館』の敷地なんだ。 左に写ってる建物が、公民館だど。 ここは、重要な場所でな。 昔、『皆川氏の館』があった場所なんだ。 写真じゃ~、とぎれっちまってんだけど。 敷地の西っ側(写真右)と南っ側(写真上)には 堀と土塁の跡が、今も残ってんだど。 今回は近くまで、いかなかったんだけど、 道からでも、土塁のような土手っこが、 よくみえたっぺ。 皆川氏は、平時はここにこしゃった館に住んで、 戦になっと、山城さ籠もる、って生活さしてたらしいど。 ふむ。結構お城よりの場所に、住んでたんだな。 最後に『皆川城』の写真を一枚。 道さ登り切ると、こんな景色が目の前に広がってくるんだど。 わ~!! こったら山城、はじめてだ~! いったいどっから攻めたら、いんだべな~。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村
2012.11.08
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「堅堀1」『皆川城』さ行くにはな。『金剛寺入り口』っつう看板のとこさ曲がれば、よかったみたいだど。 ところがこの看板が、曲がり角んとこにあるもんだから、 看板さあるのに、曲がるべき道を見落とす形になっちまってな。 は~、苦労したべ。 その後は、細い道をたどって 『皆川地区公民館』っつう看板とこさ曲がれば、やっとこ、到着だっぺ。 車は『皆川地区公民館』のとこに、駐車スペースがあっから、 ここさ止めとこれね。 長距離運転と迷走で、疲れっちまったもんでな。 一休みしてっと、こんなうれしいもんが目に飛び込んできたど。 お手洗いw。 いやいや、そっちじゃ~ねくって、こっち、こっち。 お手洗いの横に、ピンクの小さな花さつけた木があったんだど。 綺麗だべ~。桜みたいな花だけど、時期さちがうな。 なんだべな? わかんないけど、気分がほぐれんな~。 疲れも取れて、準備さできたら、さて、出発!『皆川城』の入り口はここ。 お手洗いの裏っかわさ、回り込むように続いてる坂道を、上がってくんだど。 っと、ちょっとまった! はやる気持ちさ、ちょこっと押さえて、まっとこれね。 実はここに、『皆川城』のみどころポイントが一つ、あんだよ。 上の写真にも、写ってんだけど、わかっかな? お手洗いじゃ~ないどw。 道の隣に看板さ、たってんべ。 あそこだど。 正面から見っと、こんなんなってんだ~♪『皆川城』の特徴でもある、『堅堀』だど。 ええと、説明上『堅堀1』ってしとくな。 横から見っとこんな感じでな。 堀の横に土塁みたいな盛り上がりがあんだ。 こったらでっけ~堅堀さ、初めてみたど! おまけに、土塁つき! こういう造りの『堅堀』って、全国にたくさんあんのかな? それとも、珍しいもんなの? そったらことより、な。 ここの土塁は、登れるようになってんだど~。 うれし~な~♪ さっそく、うきうきしながら、登ってみたど。 上は、長~い登り坂になってんだ。 ちょっとうねうねしてて、登りづらいかな。 幅も狭めなんで、うきうき気分で歩いてったら、落っこちそうだっぺ。 気持ちさ引き締めて、ゆっくりと、登んべか。 道の横は、深い堀。 草や木が生い茂ってんで、どんぐらい深いんか、わかんねな。 う~ん。3メートルは、ありそうだど。 でもな。 覗き混むと落っこちそうで、あんましじっくりみられなかったよ。『竪堀1』さ登りきると、広い道にでた。 んで、上から『堅堀1』を覗いてみっと これがまた、おっかね~。 こったらとこ登って、兵たちは、攻め込んでくんだね。 すごいもんなんだな~『堅堀』って。 さて。『堅堀1』は、ここで行き止まり。 やっとの思いで登ってきた兵は、がっかり。 これが『皆川城』の戦法なんだな。きっと。 そんでな。 上から覗くと、まっすぐに断ち切られた『堅堀1』の壁が見れるど。 あんまし、体さのりだすと、落っこちそうだけんど。 こったら場所は、お目にかかったことさないもんで、な。 繁々と、みいっちゃったよ。 やっぱし来てよかったな~『皆川城』 って、まだまだ『本丸跡』までは、長い道程があんだけど。 なんか、この『堅堀1』だけで、満足しちゃったな。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中だど!にほんブログ村
2012.11.07
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「皆川城・全景」 11月5日(月)に、『皆川城』さ行ってきた。 だもんで。今回は、『皆川城』について、書いてみんね。 場所は、『栃木県 栃木市 皆川城内町』 山が密集してる、地域だと。『皆川城』の近くには、細いけんど、 75号線つう道が通ってっから、 迷わないな~ って気楽に家さ出てきたんだけんど・・・ 思いっきし、迷っちまったよw。 おまけに、Uターン出来るような場所が、なかなか見つかんなぐってな。 このまんま、『唐沢山』まで行っちゃうんじゃ~ないかって、ひやひやしたど。 あ、この75号線て道はな。 皆川町の東側、栃木市から進んでいくと、『皆川城』さ通って、 山をいくつか越えたあと、『唐沢山』の東に抜けるんだ。『唐沢山城』と『皆川城』は、山を越えたお隣さん、ってわけ。 けんど、道の先にある山々を越えるには、 そんじょそこらの苦労じゃ~、無理だべな。 あんまし、近いお隣さん、て感じじゃ~ないな。 んで、な。 今回は、東の方向から75号線さ、進んで来たんだけんど。 どこで、迷ったかっつううと。『皆川城』の真ん前だっぺ。 これまでも、城跡近くにくっと、 道が入り組んでたり、街道から城跡が奥に入り込んでてわかんなくって、 立ち往生したことが、何度もあったけど。 今回の『皆川城』も、は~、難関だったど~。 何回、75号線さ、行ったりきたり・・・したんべな~? 城への入り口が、わがんねかんたんだよ。 あげくに、畑道さ入り込んじゃってなw。 だども、いいこともあったよ。『皆川城』の全景だっぺ! 誰もいなかったんで、車さ止めて撮ったんだ。 白いタンクみたいな奴が走ってっとこは、『東北自動車道』だど。 その向こっかわに、75号線があんだ。 あ、今。地図さ見てて、気がついたんだけんど。 ここで、振り向くと、背後に『太平山』が見えたみたい。 『太平山』は、皆川氏の支城って言われてる『富士山城(太平山城)』が、あったとこだど。 こっちは、南方向に、山一つ越えたあたりだから、『唐沢山城』より、うんと近いっぺ。 なんだか、城の密集地みたいだな。 おっと。『皆川城』の話さ、戻んど。 全景は、東の栃木市方向から来た場合、建物の影になっちまってな。 見えないんだ。 だども、西の唐沢山方向から進んでくっと、山さ越えたあたりで、 こんな風景が、ど~んと見えてきて、・・・感動!!すんど!! あ、でも、この写真はな。南側からみた『皆川城』なんだ。 だってよ。道路の途中で、車さ止めるわけにゃ~いかなかったから。 東側からの写真は、ないんだ。 東側の眺めは、ちょうど写真の左っかわからみた形になっから、 手前に小さい小山さあって、 奥に頭一つ分高い山が、控えてるって形だべか。 こっちの景色も、迫力さあって、いかったど~。 これも、道さ迷って、75号線さ往復して、わかったことなんだけど。 迷ったかいさ、あったべなw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村
2012.11.06
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「落ち武者像」(これは、『鑁阿寺』のイチョウ。今頃は、紅葉してるかな)『栃木県立博物館』で、『足利尊氏展』さ、やってんだけど。 尊氏公といえば、かならず、頭に浮かぶ映像があんだ。『落ち武者像』っつってな。 昔は尊氏公の自我像、って言われててな。 歴史の教科書に、デ~ンと乗ってたもんなんだ。 今回の『足利尊氏展』では、本物が見れるんだけと。 公開は、11月4日までだったべかな。 そのあとは、模写が展示されるみたいだど。 んで。『落ち武者』の実物さ、初めてみたんだけんどな。 掛け軸みたいに、綺麗に表装されててな。 紙の4分の3ぐらいに、 髪さダラリと垂らした落ち武者が、書かれてんだ。 武者は身分の高いかたらしく、頑丈そうな鎧さつけて、馬に跨がってる。 兜は落したのか、とられっちまったのか。 絵の中には、書かれてない。 昔、教科書で見たときも、 自画像だったら、変な絵だべな~、って思ってたんだけど。 本物見ても、やっぱし、変な絵だっぺ。 いったいなんの目的で、描かれた絵なんだべな? だども、一番変なもんは、武者の頭の上さあったんだ。 ええと。何つったかな。花押だっけ? 当時の武士が、手紙の最後に書き入れるサインがあんべ。 あれが、武者の頭の上さ書かれてんだ。 模写の絵には、花押は書かれてない。 昔、教科書で見た尊氏像にも、こんなんなかったど。 手抜きだなw。 実はこの花押が、『落ち武者像』の謎をとく、手掛かりになったんだ。 頭上に書き込まれた花押の持ち主は、『足利義詮』。 尊氏の息子のもんだど。 もし、武者が尊氏を描いたもんなら、 息子の花押が、頭の上さあったら、とっても失礼なことになんだ。 だもんで、研究者の間では、かなり昔から、 あやしいど~ って言われてたんだそうだべ。 そして、さらに細かい点さ調べていくと。 腰に吊した太刀の目貫や馬具の紋が、足利家の『二つ引両』紋じゃない。『輪違紋』っつって、高家の家紋だったんだって。 だもんで、『足利尊氏像説』は否定されてな。 今は『高師直』か息子の『高師詮』説が有力になってんだと。 ふんふん。そうすっと、どうなんだ? 『高師直』が、逃げてくとこさ描いて、 どんな効果さ、狙ったんだべか。 さっぱし、わかんないけんど。 歴史に詳しい人なら、わかんかな? ちなみに、この『輪違紋』。 模写のほうの『落ち武者像』には、描かれてないらしい。 手抜きだべ~ww。 手抜きっつっても、模写はかなり細かいとこまで書き込まれてんで、 見応えはあんだけど。 本物のほうが、迫力さあったっぺ。 驚いて、立ち止まったように見える馬なんか、 見入っちゃ~べ。 本物は、なかなか見れないかも、しんないけんど。 機会さあったら、是非。 見といたほうがいいど。《参考》 「足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝 (開館30周年記念特別企画展・図録)」 (栃木県立博物館で購入) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.11.03
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