「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.02.03
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カテゴリ: 美術館・博物館



ポール・ゴーギャン(ゴーガン)
Paul Gauguin ​​

Eugene Henri Paul Gauguin
​​​ウジューヌ​・アンリ・ポール・ゴーギャン


ゴーギャンゴーガンどっちが正しいの


ゴーガンは、フランス語の発音に近いそうです


最近は、ゴーガンを採用しがち・・・みたいですよ


​ゴーギャン・・・とは?​
(ゴーガン)

印象派後の「ポスト印象派」の画家・彫刻家。


1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没)


ファン・ゴッホより、5つ年上でした。


ゴーギャンの人生は、波乱万丈であり


伝えられるエピソードには、誤解が多いのだそうですクール


​​​ ゴーギャンの特異な生い立ち ・・とは?​​


​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ゴーギャンは、 ​1848年6月7日​ にパリで


フランス革命(1848年2月23日〜1848年12月2日)


二月革命の時に生まれます。


父=クロヴィス は、共和派のジャーナリスト。


母=アリーヌ ​は​ 、19世紀前半に社会主義の女性作家として


活躍したフローラ・トリスタンの娘だった。


ゴーギャンの周囲には・・・


生まれながらにして、平等を重んじる思想と


貧しい人々に対する関心が息づいていたと言える。


こうした生い立ちに新たな展開が加わる


​1849年​ ゴーギャンが生まれた翌年、共和派への弾圧を避けるため、


一家は南米ペルーのリマに赴くのである。

ペルーのリマでは・・・


アリーヌ の大叔父が副王として権勢をふるっていた。


ペルーに向かう船上で父は、急死するが


アリーヌ と幼い姉弟は温かく迎えられた。


南米の気候と風土手書きハート


インカ時代の陶器など手書きハート


西洋とは異なるさまざまな品々手書きハート


さらに黒人の召使いたちが出入るする


貴族的ともいえる雰囲気手書きハート


ゴーギャンは、この異国の地で、


幼年時代の6年間を過ごすことになる。


『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』




​大作の幼児は誰・・・?​


「遺書」 として描かれた大作の中央下の幼児。
子どもは静かな横顔で・・・
​​​​​​​
両足を揃えてひとり座り・・・果物を口にあてる


そばには猫と山羊。


ゴーギャンは、この絵を説明した手紙で


​「我々は、どこから来たのか」​ という問いに


​「源泉、幼児、共同生活」​ と記している。


画中の幼児は、 人類の「幼年期」 を暗示するとともに


ペルーで過ごした ​彼の幼年期​ に重なる。


大作に残された「問い」は・・・


ゴーギャンの特異な生い立ちにも由来する。


​​1855年 ​(ポールが7歳の時​)​ 一家はフランスに戻り、​


父方の祖父を頼ってオルレアンで生活を始めた。


ここは、ゴーギャン家が、昔から住んでいた土地であり、


スペイン語で育ったポールは、ここでフランス語を身につけた。


ポールは、地元の学校に通ったあと、


ラ・シャペル=サン=メマンの格式ある


カトリック系寄宿学校に3年通った。


1861年 (13歳の時) ​​パリの海軍予備校に入学しようとするが​


試験に失敗しオルレアンに戻ってリセ・ジャンヌ・ダルクを終了した。


そして、商船の水先案内人見習いとなり世界中の海を巡る


​1867年7月7日​  母が亡くなったが、ポールは


数ヶ月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知らなかった。


​1868年​  兵役でフランス海軍に入隊、


​1870年まで​ 2年間務めた。


1871年 (23歳)​ パリに戻ると、母の裕福な交際相手


ギュスターヴ・アローザの口利きにより、


パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになった。


その後、11年間にわたり実業家として成功し、


1879年 には、株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに


絵画取引でも同程度の収入を得ていた。


​​ ​=ゴーギャンの年表= ​​​


1848年6月7日 (ゴーギャン〜0歳)​ パリに生まれる。

2月、二月革命が起こる。

12月、ルイ・ナポレオンが大統領となる。

翌年にかけて共和派を弾圧。


1849年 (1歳)​ 弾圧を逃れるため、一家は、母:アリーヌ の

大叔父:トリスタン・デ・モスコンが副王に就くペルーのリマに赴く。

父は、船上で急逝するが(享年38歳)、残された家族は

リマで歓待される。(6年間、同地に滞在)


1855年 (7歳)​ 父方の祖父の死去に伴い、

遺産を相続するために一家はフランスに帰国、

オルレアンに住む。

第1回「パリ万国博覧会」が開催される。


1860年 (12歳)​ 母は、パリに出て洋裁店を開く。


1862年 (14歳)​ オルレアンの中等神学校を退学、

母の住むパリに移る。


1865年 (17歳)​ 船員となり、

翌年にかけてリオ・デ・ジャネイロに航行、

さらに南米など、世界各地を航海する(〜1867年)


1867年 (19歳)​ 母:アリーヌ が41歳で死去。

ゴーギャンは、航海中で看取れなかった


1868年 (20歳)​ 海軍に入隊し、エーゲ海や地中海、

バルト海などを航行(〜1871年)

(日本=明治維新)


1870年 (22歳)​ 普仏戦争開始(ナポレオン3世が降伏し敗北)

共和制宣言(第三共和制)


1871年 (23歳)​ 海軍を除隊となり、帰国。

母の家が戦災で焼失したため、パリの借家に住む。

後見人となったギュスターヴ・アローザ(実業家で美術収集家)と

親しくなる。

パリ・コミューンが起こるが、市街戦を経て鎮圧される。

​​​​​​​
​​
・・・・・・・・・・・・・・・


​​​​​成長してのち、ゴーギャンは・・・


船員として再び南米の地に赴く。


徴兵に際しても、海軍を志願して航海に出ている。


彼にとって、ヨーロッパは以外の世界に


関心を寄せてゆくのは必然ともいえることだった。


晩年、ゴーギャンは・・・


生涯を回想した文章を残した(『前語録』)。


彼は、両親と祖母フローラ、


ペルーの親族に至る母方の家系について語り、


リマで育った幼年期を詳細に述べている。


​「私は、眼の記憶が抜群に良い」​ というが、


そこには想像も加わっているだろう。


しかし、重要なのは、ゴーギャンが


自らの芸術の原点をこのような生い立ちに


つまり出自にかかわる思想的背景(平等を重視する思想)と


幼少期の記憶に見出していることである。


ゴーギャンは手記『アリーヌ のための手帳』


この手帳は、母の名前をとって


アリーヌ と名づけた最後の娘に残されたもので


自身を次のように定義している。


「私は共和主義者である。

 なぜなら、社会は平和に

 暮らさねばならないと考えているから。

(・・・)私は高貴さ、

 美しさ、繊細なな趣味、

〈位高ければ、徳高木を要す〉

 というかつての格言を好む。

(・・・)だから私は、

(なぜとは知らず、直接的に)、

 貴族なのだ」。


(参考資料:東京美術もっと知りたいゴーガンより)
(参考資料:Wikipediaさまより)

(写真撮影:ほしのきらり。)

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最終更新日  2021.02.03 08:15:59
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