「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2021.10.02
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​アンリ・ルソーの生涯、フランスの素朴派の画家。税関吏=ルソー、日曜画家=ルソーについて少しだけ語れるようになりました

Henri Rousseau
The Sleeping Gypy 1897

アンリ・ルソー略年譜​​
​Henri Rousseau​
1844年5月21日〜1910年9月2日(66年の生涯)


1844年 5月21日 ​​​​ (アンリ・ルソー=0歳) ​​​

フランス西北部:マイエンヌ県ラヴァル市に誕生。

生家は、中世の城門の名残りであるブシュレス門であった。

父:ジュリアンは、ブリキ職人のかたわら不動産業も営んでいた。

母:エレオノールは、軍人の家系のギャール家の出身。

ルソーには、2人の姉がいた。


1846年 (2歳)​ 弟:ジュール誕生。


1849年 (5歳)​ ラヴァルのリセの初等科に入学、

以後1860年ごろまで在学。成績は芳しくない。


​1851年​ (7歳)

不動産業の商売もいきづまる。

一家は、一時ラヴァル近郊のアヴェーエールに移る。


1852年 (8歳)​ ブシュレスの門、競売。


1853年 (9歳)​ 父の残りの不動産、すべて差押えされて競売に付される。


1854年 (10歳)​ 一家は、マイエンヌ県クトーランに引越す。

ルソーは寄宿生としてラヴァルで学業を続けたものと思われる。


1860年 (16歳)​ このころ、リセを中退した模様。


1861年 (17歳)​ 一家は、メーヌ=エ=ロワール県に転居。

おそくとも、この年にはアンジェに移っている。


1863年 (19歳)​ アンジェの代訴人フィヨンの事務所で働く。

8月〜9月、 働き始めた代訴人の事務所で、



11月、 盗みが発覚。ルソー、裁判で情状酌量を得て、

家の名誉を救うため(感化院行きを恐れて)兵役を志願。

アンジェ駐屯の第51師団に配属となる。


1864年 (20歳)2月、​ 裁判が行われ、禁錮1ヶ月の刑を受ける。

刑に服したのち、軍隊に復帰。


1865年 (21歳)​

メキシコのマクシミリアン皇帝のため、

援軍が送られるが、ルソーは参加してない。


1867年 (23歳)​ メキシコ遠征に赴いた兵士たちが

アンジェの連隊に戻ってくる。

ルソーは、彼等からメキシコの話を聞いた様子。
(これが晩年のジャングル風景のヒントとなった模様)


1868年 (24歳)​ 2月、 父がアンジェで死去。

母の扶養を理由に除隊の申請をし、許可される。

このとき、彼は二等兵のままである。

パリに行き、ルスレ街25番地に住む。

女家主の娘:クレマンス・ボワタールに恋し婚約。

年末ごろから執達吏 (しったつり) のらデス事務所に努める。


1869年 (25歳)​ 8月、 19歳のクレマンスと結婚

義母の家に住む。


1870年 (26歳)​ 5月、 長男:アンリ=アナートル誕生。

7月、 普仏戦争勃発とともに召集を受けて、ドールの第51連隊に加わるが、

9月、 家に帰らされる。セーヴル通り135番に引っ越す。


1871年 (27歳)​1月、 ​長男:アナトール死去。​

12月、 パリ市の入市税関税吏として職を得る。


1872年 (28歳)​ 7月、 長女アントワーヌ=ルイズ誕生。

ただし、幼いうちに死去する。


​​​​​​​​​​​​​1874年 (30歳)​ 1月、 次女:ジュリア=クレマンス誕生。

2月、 3週間で死去。​


1876年 (32歳)6月、​ 三女誕生。

死んだ次女の名前をとってジュリア=クレマンスと命名。

この娘だけが、生涯を全うする。


1879年 (35歳)​ 4月、 次男:アンリ=アナートル誕生。


1884年 (40歳)​ 9月、 セーヴル通りの隣人であったアカデミーの画家

フェリックス=オーギュスト・クレマンの計らいにより、

ルーヴル、リュクサンブール、ヴェルサイユ、

サン=ジェルマンの各美術館で模写するための許可証を交付される。

子供のころから絵には興味を持っていたが、

本格的に描き出したのはこのころからであろう。


ここら辺りから画家として遅いスタート


1885年 (41歳) 5月、 初めてサロンに応募し落選。

落選した 『イタリアのダンス』『日没』 を、

落選者の集まりである ​​ アンデパンダン・グループ展 ​​ に出品。

「現代生活」誌などに酷評が載る。

だが、ルソー自身は・・・

2点がサロンに展示されたとノートに記し、

後々までそう語っていた。

メヌー小路18番にアトリエを借りる。

バイオリンとマンドリンのためのワルツ『クレマンス』を作曲。


1886年 (42歳)​

ポール・シニャックらの勧めで独立芸術家協会

(ソシエテ・デ・ザルティスト・ザンデパンダン)に加入。

8月、 ​第2回アンデパンダン展 ​​

『雷鳴』『ポワン・デュ・ジュールの眺め、夕暮れ』

『カークヴァルの夕べ』『期待』 の4点を出品。


1887年 (43歳)​ 3月、 ​第3回アンデパンダン展​​

『オルセー河岸の眺め、秋』『哀れな男』

『テュイルリーの並木道、春』 の3点を出品。

パリ市に「絵画研究を続けるため」、

補助金交付の申請をするが却下される。


1888年 (44歳)​2月、 画の上で助言をうけた画家:クレマン死去。

3月、 ​第4回アンデパンダン展 ​​ 『別れ』『宴の後』

『サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島の眺め、夜』

『ブローニュの森の眺め』『ピクニック』 の5点とデッサン5点出品。

5月、 最愛の妻クレマンスが結核のため死去。号泣

(子供たちの早死も母親の病気のせいであろうとされる)

娘:ジュリアンと息子:アナトールが残される。

1889年 (45歳)​ 5月、 パリ万国博覧会開幕。

ルソーは、大きな影響を受け、

戯曲『1889年の万国博覧会見物記』を執筆、

シャトレ座に持ち込むが拒否される。

9月、 第5回アンデパンダン展

『父へ』『自殺』『G夫人の肖像』 の3点を出品。

この年、セーヴル街135番地の住居を離れ

メヌー小路のアトリエへ移った。


1890年 (46歳)​

第6回アンデパンダン展 『私自身、肖像=風景』

『イシーの眺め、驟雨( しゅうう) の後の春の印象』

『ビランクールとバ・ムードンの眺め、濃霧の印象』

『B氏の肖像』『私の長男』 の5点とペン画、クレヨン画4点を出品。

12月、 母、アンジェで死去。


1891年 (47歳)​

3月、 第7回アンデパンダン展 『不意打ち』

『ブローニュの森の眺め』『マラコフの平凡な風景』

『バッシイ歩道橋の眺め』『B氏の肖像』『L氏の肖像』

『M家の人々』 の7点とペン画、クレヨン画、素描を出品。

「ローザンヌ新聞」でフェリックス・ヴァロトンに賞賛される。

年末、 「パリ市コンクール。銀賞、アンリ・ルソー。絵画」という

新聞記事を受け取る。これは、同姓同名の別人であったが、

ルソーは名刺に受賞者の肩書きをつけた。


1892年 (48歳)​

3月、 第8回アンデパンダン展 『独立百周年』

『ジャンヌ嬢の肖像』『L夫人の肖像』

『雨上がりのバ・ムードン門』『グルネル橋の眺め』

の5点と素描『荷揚げ人夫』を出品。


1893年 (49歳)​ メーヌ通り14番地に転居。

3月、 第9回アンデパンダン展 『第51師団最後の一人』

『自由』『自由』『雨上がりのヴァンヴ街』

『エストラバード河岸の火事の後、サン=ルイ島の眺め』

『B氏の肖像』 の5点を出品。

この会場で30歳年下の前衛詩人:アルフレッド・ジャリと知り合い

彼を通じて文学者らと交流が始まる。

11月、 パリ郊外バニョレ市の市庁舎壁画のコンクールに

『ラ・カルマニョール』を応募するが落選。

12月、22年間務めたパリ市税関を退職。

1019フランの年金を得て、 画家に専心できるようになる。


1894年 (50歳)​

4月、 第10回アンデパンダン展 『戦争』『装飾鏡』

『子供の肖像』『J氏の肖像』 の4点を出品。

このころアルフレッド・ジャリと知り合い、その肖像画を描く。

娘:ジュリア、父の乱行と貧しい生活に耐えかね、

アンジェの叔父の家に移る。


1895年 (51歳)​ 1月、 リトグラフ『戦争』が

ジャリが係わる版画雑誌「イマジエ」に掲載される。

3月、 「メルキュー・ド・フランス」誌にルイ・ロワが

「孤立者アンリ・ルソー」と題してルソーを激賞。

4月、 第11回アンデパンダン展

『A.J夫人の肖像』 [アルフレッド・ジャリの肖像のこと]

『L夫人の肖像』『B氏の肖像』『子供の肖像』

『バッシイの歩道橋』『セーヴル橋のアーチの眺め』

『ベルヴィュの丘より見た、サン=クールの眺め』

『バ・ムードン島の小岬』『アルゼナル河岸の眺め』

『モンスーリ公園の眺め』 の10点を出品。

7月、 『来るべき世紀の肖像』(第2巻:画家・彫刻家編)

のために自伝的ノートとペン画の自画像を出版社に持ち込むが

結局この本は出版されなかった。

12月、 しばらく前から知り合って恋仲になっていた

ジョセフィーヌの夫が死ぬ。


1896年 (52歳)​

4月、 第12回アンデパンダン展

『M夫人の肖像』 『哲学者』『子供の肖像』

『M嬢の肖像』
『シャラントンの運河、日暮れ』

『ドメーと呼ばれる場所(アルフォールヴィル河岸)』

『ベルヴィュの丘』『城壁の眺め(グヴィヨン・サン=シール通り)』

『ブローニュの森』『セーヴルとサン=クルーの橋』 の10点を出品。


1897年 (53歳)​2月、

同居していた次男のアンリ=アナトールが18歳で死去し、

三女ジュリアも叔父のもとで生活していたため、

ルソーは独り身となる。

4月、 第13回アンデパンダン展

『眠るジプシー女』『EF夫妻の肖像』

『V.B.嬢の肖像』『子供の肖像』

『リヨン、シャラントン間の鉄橋』

『アルフォールヴィルのセーヌ左岸とイヴリー橋』

『アルフォールヴィルの椅子工場とセーヌ左岸』

『野花の花束』『M嬢の肖像』 の9点を出品。

8月〜10月頃まで 住居のないジャリを泊める。


1898年 (54歳)​

4月、 第14回アンデパンダン展 『生存競争』

『アルフォールヴィルのルイ・ブラン街』

『ブローニュの森、秋』『マルヌの岸辺、夏』

『肖像』 の5点を出品。

6月、 パリ郊外ヴァンセンヌ市の市庁舎

大広間壁画のコンクールに応募するが落選。

7月、 生まれ故郷のラヴェル市に

『眠るジプシー女』 を売り込もうと手紙を出すが失敗に終わる。

この年、ヴェルサンジェトリクス街3番地に移る。

この頃、心霊研究会の集会に出席。フリーメイソンに加入。


1899年 (55歳)​ 1月、 戯曲「ロシアの孤児の復讐」を執筆、

再びシャトレ座に持ち込むが拒否される。

9月、 熱愛の末、未亡人:ジョセフィーヌ=ロザリー・ヌーリと再婚​​​​​​​​​​​​​​​

10月、 アンデパンダン展にはじめて不参加。


1900年 (56歳)​1月、 ​ガツサンディ街36番地に移る。​

2月、
娘:ジュリア、アンジェで結婚 ルソー、式に欠席。

11月、 アンダパンダン展に再び不参加。

12月、 パリ郊外アニエール市役所の壁画コンクールに応募するが落選。

自宅や出張教授で絵画と音楽を教え始める。


1901年 (57歳)​2月、 孫娘:ジャンヌ誕生。

4月、 第17回アンデパンダン展

『不愉快な出会い』『春に』『M氏の肖像』

『ヴァンセンヌの城に向かう道』

『ドーメニル湖、日暮れ』

『ヴァンセンヌの森の眺め、パリからの道の右側』 の7点を出品。


1902年 (58歳)​

3月、 第18回アンデパンダン展

『幸せな四重奏』 『子供の肖像』『L嬢の肖像』

『アスニエールの橋、日暮れ』

『アスニエールの岸辺』『アルフォールヴィルの眺め』

『ベルヴュの丘の片隅、秋、夕暮れ』

『サン=クルー河岸の片隅』『花束』 の9点と素描を出品。

この年から、無報酬の技芸振興協会成人教室で絵画などを教え始める。


1903年 (59歳)​ 3月14日、

二人目の妻:ジョゼフィーヌが50歳で死去号泣

同月20日からはじまった 第19回アンデパンダン展

『孤独な人』『赤ん坊のお祝い!』

『アルフォール河岸から見たパリ、日暮れ』

『花束』『マルヌ岸辺(ノジャン)』

『マルヌの岸辺(シャラントン)』

『ブローニュの森』『イヴリー河岸の片隅』 の8点を出品。

7月、 技芸振興協会の正式教授となる。


1904年 (60歳)​

2月、 第20回アンデパンダン展

『虎に襲われるアラビア人偵察兵』

『少女の肖像』『子供の肖像』『花』 の4点を出品。

12月、 画材商:フォワネ商会に対する借金がふくれあがり、

商会から訴えれれる。略式裁判により、

今後月々10フランずつ支払うことを命ぜられる。


1905年 (61歳)​

3月、 第21回アンデパンダン展

『田舎の結婚式』『G氏の肖像』

『ブルトゥイユ通り』 の4点を出品。

7月〜8月、 ターゲル通り44番地に転居。

10月、 サロン・ドトーンヌ 『飢えたライオン』

『オワーズ川の岸から見た風景(マチルド荘)、シャルポール地方』 を出展。

「イリュストラシオン」紙は『飢えたライオン』の複製をかかげる。

この作品の売り上げを政府に申請するが拒否される。

年末、 終の住処となるベレル通り2番地の2へ転居。

この年の前後から、 熱帯の密林風景をしきりに描きはじめる。


1906年 (62歳)​

3月、 第22回アンデパンダン展

『第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神』

『オワーズの岸辺』『F氏の肖像』

『スティーヴン氏の肖像』『スティーヴン夫人の肖像』

の5点を出品。

10月、 サロン・ドートンヌ 『陽気ないたずらものたち』 ​を出展。​

画家:ヴォラールが『飢えたライオン』を200フランで購入。

抽象画家の先駆者:ロベール・ドローネ、

詩人:ギョーム・アポリネールと知り合う。


1907年 (63歳)​

3月、 第23回アンデパンダン展

『平和のしるしに共和国に敬意を表して訪れた列国の代表者たち』

『サクランボを摘む子供たち』

『哲学的思想』『マルヌの岸辺』

『ブルターニュの眺め』

『アルフォールヴィルの眺め』 の6点を出品。

夏、 ルソーの最初の伝記作者となる

画商・批評家:ヴィルヘルム・ウーデ、

ドローネに連れられて、ルソーのアトリエを訪問。

ルソー、ドローネの母より『蛇使いの女』の注文を受ける。

アメリカ人画家:マックス・ウェーバーと知り合う。

10月、 サロン・ドートンヌ 『蛇使いの女』

『アスニエール付近の風景』

『エキゾチックな風景』[バナナ売り]

『エキゾチックな風景』[籠を編む女] を出展。

画商:ブリュメルによって定期的に絵が売れ始める。

  ・ ・・・ここから絵がやっと売れるようになる

ルソーの絵に感銘受けた

イタリアの画家:アルデンゴ・ソフィッチ、

ロシア出身の画家:セルジュ・フェラ(本名=ジャステルブゾフ)、

エッチンゲン男爵夫人(ロック・グレイ)らがコレクターとなる。

10月、 親睦オーケストラで顔見知りだった

元銀行員:ルイ・ソヴァジェによって銀行詐欺事件に巻き込まれる。

11月、 アルフレッド・ジャリが34歳で死去。

12月、 ​銀行詐欺​ 事件が発覚し、逮捕されてサンテ監獄に入る。

ルソーは、予審判事宛に何通も手紙を書いて訴えるが、

12月31日、 知人の市議会議員の尽力で仮釈放される。


1908年 (64歳)​

3月、 第24回アンデパンダン展

『虎と水牛の闘い』『フツトボールをする人々』

『子供の肖像』『風景(V.E.L嬢に)』 の4点を出品。

5月14日、アポリネール宛に最初の手紙を出す。

二人はこの少し前に知り合ったらしい?

アポリネールとローランサンの肖像画に着手。

春頃、 絵が売れ始めて経済的に少し余裕が生まれたため、

自宅で「夜会」を定期的に開くようになる。

このパーティーには・・・近所の知人に混じって

アポリネールを介して詩人や作家、

ピカソ、ドローネらの画家たちが参加した。

10月、 サロン・ドートンヌに 『ジェニエ爺さんの馬車』 を応募するが落選。
11月、 ​モンマルトルの​ ピカソのアトリエで

「ルソーを讃える夕べ」が開かれる。

ウーデがルソーの生前唯一の個展を企画するが、

案内状に会場の住所を書き忘れたため、

来場者は誰もいなかった。


1909年 (65歳)​

1月7日、 ​裁判を前にして再入獄。

​1月9日、​​
詐欺事件の判決が下り禁錮2年、ただし執行猶予付きの有罪となる。

3月、 第25回アンデパンダン展 『詩人に霊感を与えるミューズ』

『肖像(風景)』[ジョセフ・ブリュメルの肖像] の2点を出品。

ウージェニー・レオニー・Vという54歳の未亡人に恋い焦がれ

高額の贈り物をして資産を使い果たすが、受け入れられず

ルソーはこの時、結婚を前提に、

自分の財産をすべて彼女に譲るという遺言まで書いている。

この年から翌年にかけて、 ロシア各地を巡回した

国際絵画展に

『陽気ないたずらものたち』 が展示される。


1910年 (66歳)​

3月、 第26回アンデパンダン展 『夢』 を出品。

3月19日、 「コメディア」紙にインタビューが掲載される。

このころ、アルデンゴ・ソフィッチ、エッチンゲン男爵夫人、

ヤストルプゾフらと知り合い、交際。

8月、 足の壊疸のため入院し、

9月2日、 家主とその妻の二人にみとられ息を引きとる。

9月4日、 葬儀。バニューの共同墓地に葬られる。

イタリアの雑誌「ヴォーチェ」にソフィッチの本格的なルソー論載る。

10月、 ソフィッチのルソー論の翻訳が「メルキュー・ド・フランス」誌に載る。


1911年 4月、​ 第27回アンデパンダン展 でルソーを偲んで

「ルソーの回顧展」が一室をその作品に提供。

絵画45点、素描5点が展示される。

この年、ドローネとクヴァルの努力で、ルソー、個人墓地に改葬される。

ウーデの「アンリ・ルソー」、フィギエール社から出版。

参考資料(八坂書房アンリ・ルソー楽園の夢より)
 (新潮選書、アンリ・ルソー楽園の謎より)

(写真撮影:ほしのきらり)


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最終更新日  2021.10.02 00:10:07
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