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二万カウント越しました!!!・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆ ・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆ ・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆ ・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆ ・:*:・゚'★,。・:*:♪・゚'☆ パチパチありがとうございます!!m(_ _)m1万回の時には確かゲスト様だらけで、どなたか分かりませんでした。今回はリンクしている方が殆んどでした!!!●二万回カウントと近辺の皆様●20002 2006-01-31 15:24:57 にゅうじー☆さん 20001 2006-01-31 15:24:23 ♪ ski ♪ o(^∇^*)/さん 20000 2006-01-31 15:21:32 にゅうじー☆さん 19999 2006-01-31 13:15:05 ***.bbtec.net 19998 2006-01-31 12:54:45 ちきんたったさん ジャスト2万番目はニュージーランドが大好きなにゅじー様でした!!!せっかくなので前後賞の前後賞も入れました。ありがとうございます~~m(_ _)m今回は希望者の方に手描きの遊び文字をプレゼントさせて頂きます。何と言う文字が良いのかお知らせ下さいましm(_ _)m私の遊び文字で宜しければなんですが。私はイヤ~~~~な事や辛い事や、軽く見られて憤慨した時等に一人、心の中でつぶやく言葉があります。私はそれを長~い間、誰にも言わずにこっそりと心の中でつぶやいていました。何しろ駄洒落も通じない硬い所があったりする私です。いえかなりふざけた人間なんですが、私ったら駄洒落にはとんと疎くて駄洒落マンの夫をしら~~~っと見てしまうんです。そんな私ですから人には言えなかったんです。内心ムッとした時に思う言葉「バカにすなぶくろ!!」それを先日、ついうっかり娘(中1)に言ってしまったんです!!そしたら予想以上に大受けいたしまして、娘は床にうづくまって笑っていました。そんなに面白いの?と聞きましたら背中を震わせながら笑うんです。「バカにすなぶくろって、バカにすなぶくろって!」それから娘は時々「バカにすなぶくろ」と言っては丸くうづくまって震えながら笑います。丸い背中をプルプルと震わして娘が笑うので、それならばと手描きで遊び文字を描いてみました。こんな物です。こんな物で宜しければ、描きますのでご注文下さいましm(_ _)m
January 31, 2006
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危ない危ない!もうすぐ二万ヒットになりそうです!!!ブログを始めて9ヶ月。ここまで続けられたのも皆様のお陰です。ありがとうございます。ご希望の方がいらしたら、二万と前後の方に手描き文字をプレゼント致します。その方の名前とか、ご希望のものを描きます。まだ貧乏生活中なので、そう言うもので記念にさせて頂きますm(_ _)m
January 30, 2006
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●息子の逆襲● ↓手描き文字で表現しました(((((^m^) 昨夜11時過ぎに、夫と娘が寝た後、息子(高3)から友人宅を出てからの帰途に電話がありました。近くの大型スーパーに友達の紹介で履歴書を出して決まったらしいです。息「髪切れって言われた」私「切らなきゃね」息「毛先だけ切ってごまかす」私「それじゃ済まないと思うよ」息「いんだよ。適当で」私「切り直せって言われるから 始めからキチンと切った方が良いよ」息「いいよ別に」私「食品を扱う所では見た目の清潔感が大事だから いい加減では通用しないと思うよ」息「大丈夫だよ」私「大丈夫じゃないよ」なんて話をしました。息子はキチンとした事が嫌いです。息子が帰り着いてから、ご飯を食べて音楽の話なんかをしました。またバイト先での話しになりました。私「いい加減にしていると辞めさせられるかもしれないから 始めからちゃんとやった方がいいと思うよ」息「そしたら、また探す」私「そんないい加減に考えてていいのかな?」息「良いんだよ」その後で突然こう言いました。息「俺は自分のために生きる」私「え?」息「俺はもう人に振り回されてばかりがイヤになった」私「学校で?家で?」息「家で」私「お父さん?」息「も、ある」私「私も?」息「うん」私「・・・・・・。 いつも八畳にいて好きな事をしてると思ってたけど」息「一緒にいると色々言われるからね。 だから八畳に逃げて行くんだよ。知ってた?」私「半分知ってた。私もうるさい?」息「もう俺ね、自分の事だけで生きて行こうと思う」私「そんなに大変?」息「お母さんは真面目過ぎる。重い」私「うん。私は真面目過ぎるとは思うよ。 悪い事嫌いだし、不公平も嫌いだし、 いやらしいのも嫌いだし、戦争もK1も嫌いだし」息「俺、教え込まれた事を全て消したいよ」私「そんなに辛かった?」息「一度切れてみたいよ」私「暴れるって事?」息「思いっきり暴れて切れたら、気持ち良いだろうなあ~」私「その体格で暴れたら大変だ」息「俺は日本が嫌いだ。外国に行きたい」私「行けばいいんじゃない」息「保育士はその足がかりのためで、金を貯める。 俺はサラリーマンは嫌いだ。背広着て、きっちりしてて 決まりに押さえつけられて、俺は絶対サラリーマンには ならない。会社を作る。外国に行く」私「うん、したい事すれば良いよ。 外国ってどこに行きたいの?」息「う~~ん。ヨーロッパかな」私「ヨーロッパって歴史が古くて緩くはないんじゃない?」息「ふ~~ん」私「本気で行くなら歴史を調べた方が良いよ」息「韓国は近いからイイヤ。アジアか・・・ オーストラリアはどうかな?」私「ニュージーランドもゆったりらしいね」息「日本はうるさいよ。髪型一つでうるさいよ」なんて話をしました。息子がこんなにあからさまに話をするのは珍しいです。私は息子とは仲が良いと思っていたのでちょっとショックだったのです。息子が二階に行ってからしばらく不快感と暗い落ち込み感に沈んでいました。何か毒を吹き掛けられたような不快感。仲が良いと思っていたのは私だけで息子は私の色んな所がイヤだった。そうか~~。そう言えば私は細々とうるさいです。暴力シーンになるとチャンネルを切り替えたくなるし、息子の好みと合わない事も沢山あるし。でも、まあまあ仲が良い方だと思っていました。それが「うるさい」ので逃げていたと言う意識でいたんですね。確かに息子が小さい時から躾はとてもうるさくて悪い事、してはいけない事をみっちり仕込みました。それが今、息子の意識を抑圧する物になっているので消してしまいたいと言っていたんですね。それほど重いとは思いませんでした。なにしろ息子は「バレなきゃいいじゃん」と言うタイプです。私と夫と娘は正義感が強くてバレなくても悪い事は自分の良心が許さないタイプです。息子は自分で適当にはしょっているからそれほど苦しくは無いだろうと思っていたのでした。どこかで息子も良心を持っているんでしょうか。嘯(うそぶ)いてみせても、実は心の奥で良心が息子にささやくんでしょうか。それは間違っている。それは正しくない。それは悪い事だ。でもしたいしのびのび気楽に生きたい。だから息子は苦しいんでしょうね。でも、こうして日記を書いていたら昨夜の息子の話はまるで酔っ払いの愚痴みたいだと思いました。もしかしたら息子は単に私に愚痴を言ったのかもしれません。「心をもっと外に出さないと苦しくなるよ」といつも彼に言っているんですがそれを実行したのかもしれませんね。ふ~~む。少し気が楽になりました。●私の左耳●相変わらず私の左耳はカラカラと反響しています。それを手描き文字で表現しました。<左耳カラカラ>(((((^m^)
January 30, 2006
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昨夜、教育テレビでETVワイド・ともに生きる「女性を"うつ"から救え」と言う二時間番組をしていました。私はいつも集中して見る自信が無いのでビデオに録って置いて時間のある時にゆっくり見ます。ビデオなので急用が出来ても、人が来ても、お茶を出すために席を立ったりしても、家族から何かを頼まれても、止めておけば困りません。それで私はいつも絶対見たい番組はビデオに録ります。午後からそのビデオを見ました。女性でうつ病になる人は男性の2倍、という所から始まりました。何故女性の方が多いのか。多様化した現代の女性の状況や、持って生まれた真面目で優しい心。そんな感想を持ちました。ピー(娘中1・13歳)が一緒に見ていました。ピーは小学5年の6月から不登校です。私も一緒に登校して授業を受けていたのですが体調不良が出て来て、これは自律神経失調症か心身症だと思って登校を止めました。それからはたまに行事の時に行く位で殆んど家で過ごしています。車に乗ると酔うようになり、朝起きられなくなり、夜寝付けなくなって何時間も点々とするようになりました。小児精神科に紹介されて通院していましたがただ話を聞いて薬を処方するだけでした。1年通って体の調子が幾らか良くなった頃に嫌な思いの決定打があったのでピーに確認を取って通院を止めました。相変わらずピーは昼夜逆転だったり、40時間起きていたり、ちょっと寝て起きたりですが、規則正しくない生活を楽しく過ごしています。そんなピーがうつ病の番組を見ながらこう言いました。「ワシもうつ病だったのかもしれない」「そうなの?憶えているの?」「うん。暗い気持ちでイッパイだったし 何もしたくなかった」ピーは自分の状態を憶えていたんですね。ピーは過去の自分を客観的に見る事が出来るんですね。次にはこう言いました。「うち、全員がうつ病だったんじゃない?」「え?全員?」「うん」「いつ頃思ったの?」「ずっと前に感じていたけど、今考えると みんなオカシクなっていたと思う」そうか~~そうだったんだ~~。いえ、私は結婚したばかりの頃に大うつ病に苦しみ、ここ14年くらいはいろんな事で苦しんで来ましたから私はうつ病です。掃除が出来なくなって、洋裁も出来なくなって、絵も描けなくなって、生理整頓も出来なくなりました。でも着替えが出来るようになったので軽くなった所もあるわけです。夫も1年半くらい前からおかしくなっていたし思えば息子も小学4年頃から具合が悪かったのです。でもはっきりと言葉にするとちょっとビックリしました。家族全員でうつ病。そりゃあ大変だ。「ヤバイところだったね」とピー。なかなか客観的に見てるじゃないか、娘!よしよし。それなりに成長している事を確認した今日でした。娘に教えられた今日でした。皆で前向きに少しずつ進んで行きたいと思いました。息子は21日に保育科の専門学校を受験しました。首尾を聞くと「神のみぞ知る」と一言。ふん。31日に結果が分かります。●く~たんの尻尾●く~たん、落ちちゃうよ!!! く~たんの尻尾ふゆっふゆっふゆっ~♪ ふゆっふゆっふゆっ~♪ 尻尾っぽ~~~♪ く~たんの尻尾っぽ~~♪♪ ふゆっふゆっふゆっふゆっふゆっ~♪ 尻尾っぽ~~~~♪ く~たんの尻尾は楽しそう~~♪♪♪
January 29, 2006
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●今読んでいる本●「長い夜の果てに」バーバラ・ヴァイン(ルース・レンデル)著 榊優子/訳・ストーリー(文庫本の後から抜粋)イギリスの田舎町の協会に勤める青年ティムはかつて古生物学者のイヴォーと知り合い、男同士の恋に落ちた。しかし次第に彼を疎ましく思うようになったティムは共に参加したクルーズ旅行の寄港地で魅力的な女性に出会ったことから、ある重大な罪を犯してしまう。そして今、ティムの元にはその罪を告発するかのような差出人不明の手紙が次々と舞い込み、いつしか彼は亡霊の影に悩まされるようになった。巨匠ヴァインが紡ぎ出した悪夢と幻想のタピストリー!・題名とカバーイラストに惹かれて借りたものの苦しそうな流れに16ページで逃げ出した。まだ「照柿」の重さから自由になっていないようだ。「少年たちの沈黙」ジャン・バーク著 渋谷比佐子=訳・ストーリー(文庫本の後から抜粋)新聞記者と警官の夫婦アイリーンとフランクはお互い相手の職業に厭わしさを感じはじめていた。その日の朝も二人は派手な夫婦げんかをはじめ未決着のまま出勤した。夜、食事もせずにアイリーンは夫の帰宅を待っていたが彼は帰ってこない。不安に駆られる彼女の元に夫の同僚から連絡が入る。フランクが行方不明になっていると言うのだ。しばらく後、夫の車がアイリーンの勤務する新聞社の駐車場で見つかった。車には血痕とテロリストグループ<ホーカス>が彼を拉致した事を示すメモが・・。シリーズ第5弾!・こういう普通のサスペンスものは、あまり考えもせずにスルすると読めるので楽です。シリーズ5弾という事で設定もきっちりしているようだ。主人公のアイリーンが行動的で歯に衣着せぬ性格がとても人気のようだ。私はこの人の小説は初めて読む。・扶桑社の「少年たちの沈黙」
January 29, 2006
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●息子との電話●わかばの会で思った事の一つに「共感が大事だと思い過ぎて、ピー(娘)に指導を全くしていないのではないか?ピー任せにし過ぎているかもしれない」がありました。全くああしろ、こうしろと言っていません。ピーが起きたい時に起きて寝たい時に寝て、やりたい事をやっています。でも最近ピーは無料のオンラインゲームにのめり込んでいて、一日中オンラインゲームをしています。ご飯の時とトイレの時意外はノートパソコンにへばりついています。時々「目が悪くなるから休憩してね」とか「電磁波が身体に悪いから離れようね」とか「やり過ぎだよ」とか「歯磨きは絶対してね」とか言いますがあまり効き目はありません。絵を全く描かなくなりました。部活にも行かずに、とにかくパソコンでゲームです。ああ、先日電磁波とネットについての講和を聞いて来たばかりなのにぃ~。何にもなりゃしない。あの事をどう反映させる事が出来るんだろうか?でもピーはこちらの一方的に言う事には勿論納得しないしさりとて感情が中心となれば納得しても行動しないし。納得して行動もするためにはピーが必要を感じなければならないけれど、それが一番難しいんです。なんてモンモンしていた私です。それで昨日の朝の事ですが午前九時過ぎに「パソコン貸して」とピーに言いました。ピーは夜の9時に起きて、ご飯とトイレ以外はずーーーっとゲームをしていたらしいんです。なのになかなかピーは私にパソコンを渡しませんでした。その間私はせっせと家事をしていました。家事をしながら、ピーに何も手伝いをしてもらわないのはやっぱりまずいんじゃないか、とか十時間以上ゲームって目にも脳にも絶対良くないよ~~とかモンモンしていました。でも下手に言うと「外的コントロール」になってしまうんじゃないかな?とか「うまくピーがその気になるようにどう言えばいいかな?」とかモンモンしていました。そのうち段々カッカとして来てパソコンを渡された11時過ぎにはもう~~私はぷんぷんしてしまっていました。ようやくお風呂に入るように言ってそれは成功したのです。そう、お風呂も滅多に入りません。アトピーなのにお風呂が大嫌いなんです。益々モンモンしていたのでブログのコメントの返事なども書けずにウロウロしていたら息子から電話が来ました。昨日はテストの最後の日でお昼には学校が終わったんですね。私の声を聞いた息子は息「寝てた?」私「ううん起きてたよ」息「声がおかしいね。 寝てたんじゃないなら何かあった?」私「え?どうして?」息「声のテンションが低過ぎる」私「ん~~~~~。 ピーが昨夜からゲームをし続けていたから 貸してって言ったんだけど、 2時間経ってやっとよこしたんだよね。 他に何にもしなくてゲームだけってのが心配なんだよね。 でも下手に言っても抑圧になるかな~とか だけど絵さえ描かなくなったのはまずいしな~~とか モンモンと考えていたからだと思う」息「ふ~~ん。 言っちゃえ、言っちゃえ~~。 お母さんは時には言っちゃった方が良いんだよ。 言っちゃえ!」私「絵も描かないのがね~」息「言う事も必要なんだよ、あいつには」私「ふ~~~。上手く言えないしね」息「良いんだよ、上手くなくても」私「声で私が落ち込んでいるって分かるんだねキミは」息「声のテンションが低過ぎたかね~」なんて会話をしました。息子と電話で長く話すのは大変珍しいです。息子は用事がないと電話はしませんし用事も二言で終わりますから。こんなに長く話したのは珍しいのです。しかも声の調子で私の体調や精神状態を見極めるなんて社会人になったらお役立ちアイテムになるだろうと思っています(- -ヾ(親馬鹿っス)息子には嘘は付けないのです。見抜かれますから。人の微妙な表情やその場の状況、それ以前の流れで推理して見抜くんです。ですから夫と闘っていた時は息子が頼りになる同士でした。ああ、そう言えばピーは今「スランプだから絵は描けない」と言っていたのを思い出しました。そうか~だから絵すら描かないんだ?いつかスランプは抜けるでしょうけどね。待ちましょう。●今日のBGM●★Daryl Hall/John Oates(ホール&オーツ) 試聴・Abandoned Lunceonetteこのアルバムは爽やかな夏の風が吹き抜ける大好きなCDです。是非試聴して下さい。★Prefab Sprout(プリファブ スプラウト)Andoromeda Heights試聴は発見出来ませんでした。別のアルバムの試聴はあるんですが。プリファブ スプラウトはどこかしら怪しい魅力があって不思議なバンドです。/38 Carat Collection/38カラット・コレクションの試聴です。
January 28, 2006
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今日の夕方にアップした日記は勢いで書いて載せましたが個人攻撃になってしまった感があるので一部変更しました。今後はこういう事のないように注意します。●ある集まりの会の感想●ある不登校児の親の集まりに行った感想を書きます。ここに書いたものか悩みましたが思った事を書きます。挨拶をされた方が、料理を作っている最中にうっかり指を切った事を「自傷行為」と言った事がひどく引っ掛かりました。生きるために止むに止まれぬ思いで自分の身体を傷付けずにはおれない程追い詰められた人が手首や腕や首を切るのと、うっかり怪我した事を同じレベルで並べる事は認識が甘過ぎるのではないかと思いました。その思いをここに書くのはためらわれました。でも、子供たちが生きるためにどれほど必死なのかを本気で考えて頂きたいと思い後々気まずくなるかもしれない事を覚悟で今日は書きました。教育関係者だけではなく世界中の大人が本気で考えて欲しいです。生きるために闘わざるを得なくてどうしようもなくて自分を切ってしまう子たち。死ぬに死ねない、生きるに生きれない、行き場所がない、居場所がない、助けてもらえない子達。注目して欲しくても出来ない。同情してもらえない。もうどうしようもなくて心の傷を自分で見なくちゃいけなかったんじゃないかとそう思います。実は私も高校2年の時にリストカットしました。人前では笑っていた16歳でした。誰にも言えない。誰も助けてくれない。辛い事ばかりが降りかかって来て友達にも裏切られどうして良いか分からなくなって私は自分の心の傷を目に見えるものとして確認せずにはいられませんでした。どんなに頑張っても誰も認めてくれない。利用ばっりされて、私が傷つく所を見て喜ぶ友達がワザと罠をかけて来た。辛い気持ちを誰にもぶつけられない。自分で慰めるしかない。自分で助けるしかない。生きていかなくちゃいけない。泣きながら右手に安全カミソリを持ち、左手首を力を入れて切りましたがこれが情け無いほど切れないんです。何しろ安全カミソリですから。惨めな気持ちと裏腹の間抜けな展開。二箇所、三箇所と切りつけても血が少し滴るくらいでした。でも、自分の手首に付いた見える傷と血を見てとても慰められた記憶があります。「ああ、自分はこんなに傷ついている。私の心は血を流すほどに傷ついている」そう思って納得しました。自分の心の傷を自分で確認してさあ、これからはこの傷を頼りに生きて行こうと思いました。その時の血を拭いたガーゼを宝物にしました。いつも見えるように、本棚の上の皿に入れて置きました。その後も惨めで悔しくて逃げ場がなくなった時にリストカットをしました。確か半年くらいの間に3度くらい切りました。右手首も切りつけました。自分で「痛ましい自分」と思いました。誰にも慰めてもらえず、同情してもらえないので、自分で慰めと同情を与えました。その血を拭いたガーゼを大事に眺めていたのにある日、母が勝手に「ゴミだ」と言って捨てていました。自分を支える物だったのに。人の気持ちなんか思いやりもしない母が私の思惑なんか知るわけも無く知っていても捨てたかもしれないけれど、捨てられてしまってひどく心細くなりました。夏の玄関先にやって来た美しいウスバカゲロウも宝物として同じ皿に乗せていました。時々日にかざして虹色に光る羽を眺めていたのにそれも母に捨てられました。その頃に、私は母に対して希望を持つ事を止めました。そして外に出て行きました。外にしか行きようが無かったのです。そして不良と言われました。泣きながら毎日を過ごしていた高校生時代。後に仙台の大学に行き、寮生活をしました。22歳の頃、仙台の人から「ぶりっ子」と言われました。山形では「不良」で仙台では「ぶりっ子」。人の見る所なんていい加減です。何を見ているのだろう?どこを見ているのだろう?だから自分がしっかり見ていないとすぐに間違ってしまいます。私は間違ってしまったのですが。そんな私でも今は色んな事が見えて来て何が大事かも少しずつ分かるようになりました。だからリストカットする子達の苦しみがどうしようも無い様が良く分かってしまうのです。それで怪我を「自傷行為」と笑いながら言った事に対してひどく心が反応したのでした。責めると言うのではなく、これを期にリストカットをしないと生きられない子達の思いを本気で考えて欲しいと思いました。もしも挨拶をした方がこれを読んで気を悪くされたらゴメンナサイ。でも出来たら本気で考えて頂きたいです。笑って言う事ではないと思います。私はあれから30年以上経った今でさえあの頃の事を思い出すと淋しさに身を焦がし、孤独感と惨めさとどうしようもない怒りを抱えて泣くしかなかった思いが沸き立って来ます。あれは笑いながら言う事ではないと思います。やっと出しているSOSなんです。本人は大した事無いよと笑っていても心は泣いているのです。リスカをせずにはいられない子達の元に幾らかでも私の愛が届きますように。・注 人によって事情や感情や思いは違います。 ここに書いたのは私の経験です。 詳しくは下に記したHPを参考にしていただければ幸いです。 これはごく一部なんですが。参考HP★自傷とは★http://homepage3.nifty.com/~mariko/jisho1.htm★自傷行為関連英語学★http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/selfcut_english.htm★自傷行為~自分を傷つける行為と心理~★http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/26ki/kadair30.htm
January 27, 2006
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珍しくも朗報です~。●夫の仕事が決まりました●またもや私のおしゃべりから派生しました。(今住んでいる家を見つけたのも私のおしゃべりが始まりでした。女性のおしゃべりを馬鹿にしてはいけません)我が家の現状を話していたら、挨拶をした夫の心象が良かったらしくて勧誘されました。支部事務所に行って見学をし、次には支社に面接に行きました。今はかなり厳しい採用状況らしく、去年の10月からは一人も雇用されていないそうです。47歳と言う年齢も、支店長をしていた事も、パソコンに詳しくて資格があることやソフトを作る事や営業に対する心構えなど、今まで書類で落ち、面接で落ちた要点が全て良い方に作用しての雇用のようです。ありがたい一方で、営業とは言えこれまでやった事のない業種のため一から勉強せねばならず、心構えも半端ではやって行けないらしいのでこれからも我が家の緊縮生活は続きます。ただね~~夫に「宣伝宜しく!!!」だの「妻の強力が必要」とか言われてビビッています。私は人に頼み事をするのがすごいストレスになりますから。私も営業?恐怖でムカムカと吐き気がしました。それに夫は2月からの10ヵ月振りの始動に張り切っておりそれを私にも要求するので困りました。私は今はまだ心の整理中で行動力には直結していないので辛いです。夫も自分が動けなかった時を思い出して人に強要しないように努力して欲しいです。自分が調子が良いと忘れるらしいです。自分が出来る事だけさっさとやって「後は宜しく~」と言って去って行きます。例えば私が具合が悪くて転がっているとご飯を作ってくれるのは本当にありがたいのですが「後宜しく~~」と言って去って行きます。私がその後動けるかどうかはお構い無しです。いつも聞かないんです。「後宜しく~~」と言って去るんです。「どうかな?」じゃないんです。相談じゃなくて言い切って行ってしまうんです。ここまでと線引きするのは夫のすごい所です。これが私は出来ないんです。私は「どうかな?」と相手の状況を聞きます。時に自分を犠牲にして頑張ります。だから私は自分の事を主張出来ないんでしょうか?でも自分の事だけ言って去ると言うのは相談にならないと思うんですね。この「あと宜しく~」がどうも宜しくないな~と気になっていたんですが何が宜しくないのか最近気付いたんです。「後は大丈夫かな?」じゃなくて「後は宜しく~」の何が腑に落ちないにかを。ああ、愚痴になってますかこれ?愚痴かな?いや、ある意味の発見です。そんなこんなで浮かれてはいない私です。(朗報っぽくないですね。この1年で鍛えられました!)●夫の姪が回復しつつあります●脳腫瘍で長く闘病をしていた姪が(夫の姉の次女です)意識不明に陥り退院をして、義姉が仕事を辞めて看病していたのですが徐々に意識がはっきりして来て反応するようになっていました。それが夫が電話をした所なんと姪は歩くまで回復したそうなんです!!!ビックリしました。これは何でしょうか?すごい事ですよね!義姉の愛が伝わったのでしょうか?愛を込めて呼び掛けて話し掛けたのが脳に届くんじゃないでしょうか。病院だけが万全と言うわけではないと言う事を感じました。愛が奇跡を生んだんでしょうか。●興奮く~たん●興奮してソファーと座蒲団の間にはまり込んでカバーをガシガシかじったり蹴ったりしていた今日のうちのく~たんです。 娘の手に攻撃を仕掛けるく~たん!娘の手には穴が開きましたとさ。
January 25, 2006
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●先週のあおばの会の感想●先週の火曜日(17日)に「わかばの会」に行って来ました。「わかばの会」は宮城県教育事務所で主催している不登校児や登校渋りの子供の親達がカウンセラーのI先生を中心に状況を話し合ったり講和を聞いたりする集まりです。2年3ヶ月前に初めて行った時には不登校児の親が集まって自分の不安や不満を話し合ってどんな建設的な事になるんだろうと、かなり懐疑的な思いで出掛けたのでした。所が行ってみるとI先生が脳の造りと心や体の作用について話したり客観的に分析していました。長年子供の事で苦しんで来たけれど逆に自分の生き方を見つめるいい機会になってこれまでは目の前の事しか見ていなかったが、子供と一緒に秋の紅葉を見る事の喜びを経験出来るようになった事はうれしい。なんてとつとつと話している方がいたり、話しているうちに泣きながらも何とか子供を助けたいと必死で頑張っている方もいたりでとても気持ちが広がりました。何よりI先生が客観的で専門的な知識を元にとても前向きで明るい兆しを見せてくださる方なのでこの方なら話を出来るかもしれない、とI先生を見込んで一対一のカウンセリングを予約したのでした。あれから2年3ヶ月が経ち、I先生とお会いする度に目からウロコを経験し、自分の歪みや思い込みを知り、少しづつ自己改変をし始めて今や夜も寝る事が出来てパニック症状も治まり、恐怖症におののく事も減って精神安定剤と坑鬱剤を飲まない実験が出来るようになりました。十年以上、安定剤と坑鬱剤のお世話になり病院もあっちこっちと掛け持ちし、人に会う事が恐くて、着替える事すら辛くて、体中が痛くて床を這って移動し、週に2~3度風邪を引いて、夏も長袖を着て手袋をし、歩き回ると過呼吸に倒れ、常にテレビやラジオを付けていないと過去の記憶に苛まれ寝る時間が恐くて吐き気がするまで眠くなるのを朝方まで待ち、些細な事を後悔してくよくよくよくよ悩み、人に謝ってばかりいて、心の隙間に疑問が入り込まないように色んな物を詰め込んで辻褄をねじり合せてかろうじて生きて来たこの十数年の私の間違いをI先生は決して責める事無くけし掛ける事も無くおだてる事も無く質問と事実で話をして私を解放させて下さったのでした。こうしなければならない。こうでなければならない。我慢しなければならない。黙っていなければならない。飲み込まなければならない。耐えなければならない。と言う自分の作った思い込みから解放させて下さったのでした。だから、よくぞ娘よ不登校になってくれた、と本当に感謝しています。そうして夫と一緒に行った今回のわかばの会では私も聞き役の方が多くなって「うんうん」と初めて来た方の苦しみを聞いていたのですがI 先生に急に「○○さんはどう思いますか?」と質問されて私ってば頭の中が真っ白になりました。(- -ヾ「え?は?・・・・え~~~~~と」私はブログにはしっかりと自分の考えを書いていますが私ってば考えるのに時間が掛かる人なんですね。何時間か、何日間か、何年間か、考えないと分からない人なんです。鈍いんです。何しろ小学生の頃にいじめられていた事に気付いたのは24歳頃です。鈍いにも程がある鈍さです。その鈍さを今回はしっかりと自覚しました。そこに人の話があるとそれがそこにあります。そして私の考えはこちらにあるのですり合わせがすぐには出来ないんです。それは皆さんのブログにお邪魔してもコメントを書けない事がしばしばある事からも知ってはいたんです。どうコメントを書いて良いのか解らなくて数時間考えて思いついて書いたり二日経って思いついたりするんです。鈍いにも程があります(- -ヾこんな私ですがこれからも宜しくお願いしまする~m(_ _)m●bobozさんの真似をして今日のBGM●・EARTH WIND & FIRE アースウィンド&ファイヤー「ELECTRIC UNIVERSE」(ひゃっほ~~スカッと元気!!)・TONY RICE UNIT トニーライスユニット「MARE WEST」(爽やか~~~!)・UVERworld「just Melody」(ギターの音がキレイ。TAKUYA君の声が癖になる)
January 25, 2006
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今日の本の感想は自分の覚書です。他の人への配慮はしてありません。---------------------------------------------------------------高村薫著「照柿」の感想高村薫の「マークスの山」はインパクトの強い小説で私の中では大きな存在だ。それでinalennonさんの所で高村薫の「照柿」terigakiの存在を知って早速図書館から借りて来た。とても分厚い本だった。読むのに時間が掛かってしまった。(ネタばれになるかもしれないので これから読みたい人は読み飛ばしてください)●ストーリー●本庁捜査一課の合田総一郎が移動中の電車が止まる直前に男女がもみ合いながら走って来て弾みから女性が線路に落ちて轢かれた所を目撃した事から始まった。男性は佐野敏明。女性は中国人だった。佐野の後から誇線橋から現れたのは佐野の妻美保子。美保子を呼び止め、尋問するもそのまま帰してしまった合田。灼熱の炎夏の東京。18年振りに幼馴染の野田達夫と出会い達夫と合田と美保子の軌道が狂い始めた。―396ページの合田の気持ちを抜粋―拝島駅で偶然に遭遇した轢死に始まり、そこで出会った一人の女美保子、跨線橋の通路で見た一点の血痕、美保子が握った手帳についた血、その美保子に一目ぼれした自分、その美保子と不倫をしている野田達夫との18年振りの出会い、大阪での男同士の醜い争い、嫉妬に駆られて達夫潰しを狙った末の、自分の不正。美保子の身辺に漂う事件の臭い。美保子を接点にして明らかに三者がつながり、美保子の血の臭いが男二人にも降りかかっているのは、予感を通り越して現実に近くなりつつあった。---------------------------------------------------高村薫の文章は簡潔ですごく分かり易い。この通りに進んで行く。●感想●夏なのに重い空気に支配された小説だった。醒めた感覚の思いが積み重ねられて行く。達夫の仕事の手順が詳しく何度も何十ページも書き連ねてある。単純に高村薫の取材能力の高さと濃さに感動した。部品製造工場の熱処理炉の工程が何度も出て来て達夫の人生の明暗を指し示すかのような炉の色の変化が何度も出て来る。高村薫は野田達夫と言う人物を作り上げる時にどれほどの思いと取材を重ねたのだろうかと感動した。それほど徹底して熱処理炉の工程が書き連ねてある。暑い夏の熱い熱処理炉の仕事。部下とのギリギリのやり取り。職場で走り回る達夫の奮闘振りが繰り返し繰り返し出てくる。達夫が段々追い詰められて行く緊張感とまだ起きていないかもしれない事件の予兆とで読んでいるのが苦しくなった。合田もまた狂い始めた思考の方向に翻弄されて美保子に出会った事で決定的に踏み出してしまった。合田と達夫の長い間のその場限りの辻褄合わせの人生がどんどん矛盾を孕んでいくのが見えて来て私は何度か読むのを放棄しようかと思った。それほどこの一冊は甘さの全く無い人間の感性を切り刻んだような話だった。半分まで読んでも面白みが分からなかった。苦しくて逃げたかった。どうしてこんなに逃げたいのかとふと考えてみた。すると見えたものが恐ろしかった。私の辻褄あわせの人生を振り返らされていたのかもしれないとそう思ったのだ。私も辻褄合わせの人生を過ごしているから合田と達夫の苦しさが分かってしまうのだ。そうして生き延びて行くほどに矛盾が大きくなって行き、引き返せないほどにねじれて行く事を本当は自分が一番強く感じているのかもしれない。そう思ったら愕然とした。そして多分、気付きたくなかったのだろう。だから読み進みたくなかったのだ。私は合田と達夫の日々の足掻きとのたうつ様が自分の事の様に思えたので苦しかったのだ。そう分かったとたんに物語りは滑り出し疾走し始めた。今度は逆に読み止める事が出来なくなった。ずるずると一緒になって谷間に落ちて行く。高村薫の容赦無い筆が合田と達夫の生活のズレた支点を抉り出して行く。こんなに人の心の揺れ動きを克明に描き出すのは何故なんだろうと思うほど容赦無い。結婚生活の破綻に至る様々な出来事。振り返って初めて気付く己の踏み後。何故、何処で捻じ曲がってしまったのかを一つ一つ拾い上げて行く。照柿の赤。達夫の父の絵の青。美保子のブルーのワンピース。夏の太陽。感情と傷を色で置いて行く。一冊の中にぽつんぽつんと赤や青が織り交ぜられ「照柿」が仕上げられた。重たい本だった。「マークスの山」の感情移入は「照柿」では出来なかった。「照柿」の登場人物の誰にも感情移入が出来なかった。唯一、合田の同僚でアトピーに苦しみつつ寡黙に仕事をする森義孝には応援したい思いを持った。重くて心を占領され、森を応援したい思いがある事さえ今の今まで気付かなかった。私は私の人生を何とかしないといけない、と心から思った。壊れる前にちゃんと自分を見つめないといけないと思った。
January 24, 2006
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●私の宝物その2●私は小さい時からプリズムが大好きです。母の実家に預けられていた頃、電気スタンドの軸?の真ん中の所にガラスを大胆にカットしたものが取り付けてありました。それを外してもらって、出窓に座って光を当てて長い時間プリズムを楽しんでいた記憶があります。それは4~5歳の記憶ですがそれ以来プリズムが大好きです。私の家には掌大の水晶がありました。見事なカットをしたような尖がった水晶が沢山突き出た自然の物でした。それは祖母の長火鉢の下の引き出しに入っていました。祖母はキツイ人なので、当然触らせてもらえませんでした。でも祖母は日中いつも外に出歩いていたので留守中にはこっそり持ち出して、光をかざしては眺めていました。こちらはプリズムが上手く出なかった記憶があります。でも美しい形が好きでした。祖母は晩年認知症になり入院しました。病院で亡くなったのですが、長火鉢の引き出しの水晶も無くなっていました。大人になってから見た事が無かったので残念でした。誰も知らないと言いました。父や母も存在すら知らなかったそうです。祖母の葬式の時みんな笑っていました。意地悪婆さんだったので仕方のない事でしたが可哀想になり、私は泣いてしまいました。若くして未亡人になり、苦労して子供を育てて子供達を奴隷の様に扱い、プライドの高さと自己中で人を傷付け、自分の目論見だけのために家族を犠牲にしたおゆうさん。意地悪婆さんのおゆうさんの葬式で泣いたのは私だけでした。ああ、また昔話しをしてしまった。私は子供を生んだ後では仕事をしなかったのでお金を使うのは引け目を感じていたので大きい買い物をした事は無かったのですが万華鏡とクリスタルだけは買って大事にしています。と言っても三千円くらいのクリスタルなんですけどね。私にとっては大事な宝物で、身に付ける宝石類より大事です。いつもバッグに入れているので光の強い日や出先の照明の明るい場所で取り出してプリズムを楽しんでいます。自然の恵みと人間の知恵の合作ですね。先日リンクしていただいているinalennonさんの所でコメントを書いたら褒めていただいたので、その気になって写真を載せようと思いました。 直径2センチです。欲張って沢山の写真を載せてしまいました。絞り込めない私です。でもプリズムが上手に出ませんでした。楽天で一番近いのはこれでしょうか?
January 23, 2006
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ブログを始めて9ヶ月。このスカ人生の私の元に香りのプレゼントを頂きました!!!その名も「☆第2回ようこそski花好きさんへ☆ 知らないあいだにアクセス100000回記念争奪 ちびは新年もデブで賞」に参加を申し込んだんです。とても沢山の常連さんが参加されました。だから絶対に外れる自信満々でした。そしたらちびが(お花屋にいるskiさん(←クリック!)のお店に毎日やって来る毛がもじゃもじゃの大きなメス猫ちゃんです。お店のアイドルです。渋いにゃんこです。迫力ある眼差しがたまりません)私を選んでくれたんですって!!!!!!ビックリです。うるうるうるうるです。(TT)ありがとうちび!!!ありがとうskiさん~♪♪♪私はくじを引くとティッシュしか貰った事がありましぇん!!初めてです。しかもブログでGETも初めてです!!!驚きです。どうしよう~。昨日、研修会に行っている間にskiさんのプレゼントが郵便局に引き返していました。ひいいぃーーーっ!!!((( ;゚Д゚)))ごめんなさいskiさん!せっかく素早く送って下さったのに。今日、本局に直接取りに行って来ました。外側までskiさんの思いやりに溢れていました。 包装紙はオシャレなオリーブ色の英字プリントでした。優しいリボンがかけてありました。うるうるうる・・・;;。 蓋を開けたらバラの香りがパーーッと広がりました。賑やかなピンク色が脳に届いて喜びました。ピンク色がイッパイでした。石鹸やカードが入っていました。まるで一足先に春を頂いた気持ちがしました。 私は香りに敏感なんです。そして一番バラの香りが好きなんです。 いつもskiさんのアレンジは夢見るようなため息の出るものばかりなんです。「ちびは新年もデブで賞」も夢見るような香りと色彩のプレゼントでした~~~~~っヽ(´▽`)ノ”幸せを頂いてしまった気がします。★。.:*:・゜★。.:*:・゜★。.:*:・゜★。.:*:・゜★。.:*:・゜★。.:*:・枕元に置いたり、タンスに忍ばせたり楽しませて頂きますm(_ _)m外れてしまったみなさん、ごめんね。バラの香りに満ちてうっとりしているふゆゆんでした。ヾ(´▽`*)ゝ
January 22, 2006
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昨日、PTA主催の「子ども達のケータイ利用の実態と保護者の責任」と言う講和の研修会に行って来ました。一昨日、担任の先生から電話が来てうちの中学の参加者が少ないそうで数合わせのために行きました。そしたらとても内容の濃い話でした。講師はNPOカレッジねちずん村のインストラクターの下田毬子さんでした。お子さんが5人いるお母さんでした。5年前に森首相のツルの一声で日本中の家庭がパソコンを子供部屋に置いた。そこからインターネットの危険について沢山調べだしたそうです。アメリカでも10年前にクリントンのツルの一声で子供達にネットを使わせようと言い出した時、アメリカの親達は疑問をぶつけたそうです。なんの歯止めも無いインターネットを子供に無制限に使わせて子供たちが悪影響を受けたらクリントンは責任を取ってくれるのか。アメリカではそれから話し合いがなされ、子供達を有害情報から守るための法律が沢山作られたそうです。ところが日本では何の制限も無くなんの話し合いも無しです。最近日本ではインターネット付きのケータイが一般的になっており、小中学生たちも使っています。私はケータイ電話を使わないので危機感はあまり知らなかったのです。この、インターネット付きケータイを小中学生が使っているのは世界で日本だけだそうです。知りませんでした。持ち歩く何処でもアクセスできるケータイでいつでもネット、が日本の小中学生だけですって!アメリカの小中学生はケータイを使わないそうです。ドイツは音声のみのケータイ。韓国では躾が厳しくてケータイを使わせない。イギリスではケータイから出る電磁波を心配して16歳以下はケータイを使わせないそうです。そして世界中は日本を見守っているそうです。世界中でただ一つのインターネット付きケータイを使う日本の小中学生達がこの先どうなって行くのかを見守っているそうです。日本は世界の実験場だそうです。これにはゾッとしました。日本以外の小中学生はパソコンでインターネットを使っているそうです。確かに若い人が巻き込まれたインターネット関連の事件が急激に増えています。出会い系サイト・援交・アダルトサイト・自殺サイト・裏仕事サイト・有料ゲーム・ワンクリック詐欺・中傷・卑猥な写真の売り買い・チェーンメール・・・。「インターネットは自己責任の世界 判断 自制 責任能力」分かっているつもりでしたが、自分が分かっていても子供達とも確認した方が良いなあ~と再認識しました。パソコンは家のみんなのいる所にあり、今の所は娘は私に色んな話をしてくれるので危険性についても話したりしています。でもケータイを持っている小中学生がどこで何をしているか把握できない話も沢山聞きました。危険な事を知らないかもしれない。実際、事件に巻き込まれた話を聞きました。そう言えばニュースで扱っていた事件ばかりでした。総括的にまとめると危険性が見えて来ました。みんな親の知らない所でネットを使い巻き込まれていました。・ネット付きケータイを小中学生が使っているのは 日本だけ。・その小中学生たちがどうなるか 世界中が注目している。・日本は実験場。恐い話でした。●NPOカレッジねちずん村のHPです
January 21, 2006
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先日、BS11で深夜にやっていた映画「マルコビッチの穴」はとっても不思議で可笑しな映画でした。(マルコビッチの穴←HP)知ってはいたのです。可笑しい映画だって。でもじっくり見たのは初めてでした。しかも録画して2回も見てしまいました。まあ、私の常でパソコンや光線治療やナンプレをやりつつでしたが。その中でも特に気に入った言葉がありました。「世界が私のサイズに合わない」おおおお~~~~っ!!!いびつな私や今の世の中が居心地の悪い人や不登校の人間達になんてぴったりな言葉なんでしょうか!!世界のサイズに私が合わせる事しか考えていなかったので苦しいんですね。なにも無理に合わせる事はないんですね。私のサイズに合わせて行けば良いわけですね。実際には難しいですが「世界が私のサイズに合わない」だけなんだもの。とっても気持ちが楽になり思わず娘に向って叫んでいました。「そうだよ! ピーはピーのサイズで生きていれば良いんだよ!! 何も世の中に合わせる事は無いんだよ! サイズが違うだけなんだよ~~!!」そうなんだ。みんな自分のサイズで生きて行けば誰も苦しまずにそれなりに心地良く生きて行ける、かもしれない。皆が幸せになりますように。●うちの幸せ者●舌だしく~たんです。珍しいです。しかもディスクパソコンの隣で偉そうにしていました。甘えたポーズで偉そうなんです。うふ。おかしいく~たん。 下から見あげてみました。変。(((((^m^;
January 21, 2006
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三日続けて高校時代の事を書いています。暗~い気持ちになっています。書きながら思ったのですが、多分私は高校生の自分を許していないのかもしれません。幼くて無知で無垢で知恵が無くて自己主張の出来なかった自分を嫌いなんだと思います。そのためにもちゃんと書こうと思います。私がマツオカ先生に守ってもらわなければいけなくなった発端の事件・32年生の秋にKちゃんたち4人が問題を起して退学になりました。その事件を調べる時に、私は何度も何度も相談室に呼び出されました。私はKちゃん達と学校以外では付き合っていないので分からないと何度言っても信じてもらえませんでした。女子の付き合いなんて、些細な事で変わるのが分からなかったんでしょうね。だから先生方は、私がKちゃん達を操作して容疑を免れたとでも思っていたのだと思います。何をしてもしなくても先生方には色眼鏡で見られました。私はKちゃんとクラスが一緒になってからは逆に放課後は付き合わなくなっていました。いえ、それは正しくありません。私は断わる事が出来ない子だったのでKちゃんに誘われて引っ張られたら幾らひどい目に合うと分かっていても断われずに一緒に行ったと思います。危ない所でした。また自覚無しに、問題を起していたかも知れない所でした。たまたまKちゃんが私に対して積極的に関係しようとしていなかっただけでした。私はKちゃん達が何を起して退学になったのかも知りませんでした。大人になってから、偶然4人のなかの一人のYちゃんに会った時に一体何があったのか?を聞いてみました。「お母さんが浮気をしている事を知ってショックを受けたYUちゃんが、『お母さんがそんな事をしているんなら私もする!』って言ったから、私とKやれやれーってふざけて言ったの。まさか本当にやると思わなくて言ったの。そしたらKが斡旋したらしい」そんな内容でした。哀しいYUちゃん。YUちゃんは素朴な少女でした。異性不順交友なんて縁の無い少女でした。ヤケになったんでしょうね。母親の行動に対して何かしないではおれなかったんでしょうね。そして隣りにKがいた。事の重大さに気付かずに「けしかけた」YちゃんとKちゃんは自覚も無しに自主退学させられ遠い親類の家に身を寄せたのだそうです。なんてこった。気の毒な役回りの同級生達。もしかしたら先生達は私がKを操作した裏の立役者とでも思っていたんでしょうか?私はあの頃Kが私に興味を持っていなくて良かったと思いました。Kと付き合う事の危険性を改めて知ったのでした。Kが私に勧めたのはタバコと不良と言われている人達との付き合いだけでしたが訳の分からない子供の私がそそのかされたら何をするか分からなかったかもしれません。高校1年2年の頃は私は物凄く幼くて何をするか分からなかったと思います。そうして私はSちゃん先生が危惧していた状況の中で日々を過ごす羽目に陥っていました。そんな危険が隣り合わせになっていた生活の中でいつもマツオカ先生は事ある毎に私と話し合いをしました。私のねじれた心を真っ直ぐにしたり薬を塗ってくれました。「私はMYを信じているよ。MYは何を信じている?」「大人の矛盾にばかり目を向けているけれどMYの矛盾はどうするの?」私の幼い感情に何度も付き合ってくれました。泣きながら話す私に真剣に答えてくれました。マツオカ先生がいたので高校を頑張って卒業しようと思いました。親は私を理解せず、受け入れてもくれないけれど、私を信じてくれるマツオカ先生に応えたいと思いました。私は2年生の終わり頃には深夜に家を抜け出したりたまり場で皆で騒いだりしていました。親に見つかると殴られました。「子供は言っても分からないから身体で教え込む」「手で叩くと痛いから」と箒の柄で殴られました。まともに話合いなんかした事もないくせに両親は一方的に命令して怒りました。人間扱いされている気がしませんでした。絶対言う事を聞くまいと思いました。私と言う人間を全く見ていない親の言う事なんか聞くものかと思いました。親が大事なのは自分達の評判だけでした。しかも内容ではなく表の顔でした。私は未だにそう言う事には敏感です。母は、母のために一生懸命家事を始めた娘の気持ちなんか一度も考えた事がありませんでした。だから、親が怒っても殴っても絶対言う事を聞くつもりはありませんでした。ただ、1年生で行方不明事件を起してからは門限が5時半になり、それは守っていました。この辺が私らしいな~と、今思い返すと思います。だって反抗するならいっそ何もかも反抗するだろうに5時半と言う早い門限を守っていたのです。なんかな~~~。私って大ボケ者ですよね。マツオカ先生と話し合いをしたのは私だけではありませんでした。問題を抱えている生徒と何度も話合いをしました。マツオカ先生と話合いをした後はみんな泣いて反省をしていました。自分の甘さやいい加減さや視点の違いについてとても感じる所があるので泣いてしまうのです。でも一週間すると忘れてしまって「マツオカうるさい」と呼び捨てを始めるのです。それが私には分かりませんでした。話合いをして感じたり思ったりした事をすぐに忘れて本気で心配してくれた人をバカにするってどうなっているのか私には分かりません。いわゆる「喉元過ぎれば何とやら」だったんでしょうか。そのうち仕方がないのか?と思うようになりました。でも私は忘れない。マツオカ先生の本気と思いやりと信じてくれる愛を私だけは忘れない、と思いました。マツオカ先生は私と話し合いをして私を励ますだけでなく、職員室で何かと話題になる私をかばってくれていたのでした。私は何もしていない、と先生に言うと「MYは立っているだけで目立つ」と言われました。私は小さい頃から目立ちたいと思ったりはしない子供で人から見られてどうか、なんて考えた事がなかったので目立つと言う意味が分かりませんでした。応援団を3年間やってるから目立つのか?生徒会執行部委員だから目立つのか?学級委員の仕事で人前に出る事があるから目立つのか?友達がみんな美人でスタイルが良いのに私だけぽっちゃりだから目立つのか?本気でそう思っていました。でも全部人からさせられた事ばかりで自分でしたくてしている事なんかないのに。友達の中で私だけ異質だからなのか?本当は今も分かりません。高校の同級生で一人だけ今も付き合っているOちゃんに聞いた事があります。「私がずっと学級委員に選ばれたのは何故?」するとOちゃんは「え、そうだっけ?」憶えていませんでした。彼女とは高校時代は親しくなくて大人になってから仲良くなったのです。彼女にとってどうでもいい事だったようでした。つまり忘れるくらいの事なんでしょう。それは、誰もが嫌がる学級委員を断われない私にやらせたって事なのかも知れないと思いました。もしかしたら理由がなかったのかな~~。つまり女子の多いクラスなのでその時の流れ?みたいな。女子の気持ちは侮りがたし。私には計り知れないナゾです。私は学級委員をしてとても大変でした。人前で話をし、クラスの行事を率先してやりまとめたり叱咤激励したり。余りに非協力的なので泣いてしまった事もあります。それなのに「学級委員だと思って威張っている」と言われた事もあります。すごくイヤでした。威張るなんて考えられない事でしたから。人に意見するのはすごく抵抗がありましたから。そう言えば人前に立つ仕事ばかりさせられていました。断われないばっかりに色んな仕事をしました。でも、それで度胸は付いたかもしれません。いい事もあるものですね。そう言えば、私はずーーーっと高校時代については不快な印象だけで思い出していたのですが大人から見たら、そう、とても不安定で分からない子だったかもしれませんね。大人から見たら、どんな女子高生だったのか今までその視点で考えた事がなかったので、これからは別の視点からも光を当ててみようと今、思いました。ようやく心が落ち着いてきました。高校時代を思い出すと不快な気持ちとマツオカ先生に出会えて「あんな大人になるのであれば死ぬ必要は無い」と思った事が強く溢れてきます。毎夜ベッドで泣いていた高校時代。人前では笑っていた高校時代。マツオカ先生に助けられてなんとか過ごした高校時代。大学に行くと、誰も私を色眼鏡で見る人はいなくて私がそのままでいられました。普通にしていると普通に見てもらえました。目立つと言われませんでした。だって変な人が沢山いたので私なんかさっぱり変り者じゃありませんでした。○○先生の娘と言う人もいませんでした。感想文なんて誰も気にしません。そこはのびのび出来て居心地が良くてようやく人間として生きる事を知ったのでした。思えば高校というのは実に狭い世界なのにそこにいる限りはそこしかないように思わされて抑圧され苦しめられた世界でした。本当は広い広い世界があったのに。外に行けばごくごく些細な問題だったのに目付きが悪い、態度が悪い、教室に溜まっていた。では、教室から出てバス停で話をしていると「バス停で溜まっていた」では、バスターミナルで話をしていると「ターミナルで溜まっていた」では、と私の家に行って女子だけ6人でインスタントラーメンを食べていたら「MYの家に溜まって何かしている」女の子なんか意味のないおしゃべりをしているだけなのにどんどん行き場が無くなって深夜に抜け出すしかなくなって行って。今思うと馬鹿馬鹿しいです。罪を作り出すだけの環境だったと思います。私は受け入れてくれる人なら誰でも良かったんですね。私は淋しくて淋しくて、誰かに受け入れて貰いたかったんですね。男性とも付き合いましたがそれも悲惨な事態を招きました。心の穴を埋めようとしてやる事はつまりネガティブな行動で自滅を促すようなものでした。子供は親に認めてもらえないと心に大きな穴を開けたまま生きて行くのでその穴を埋めようと必死でやる事は的外れで結局の所、自分で自分を追い詰めてしまう・・・。イコール、生きていくのが難しくなる。穴は大分埋まってきた最近の私です。その後マツオカ先生とは人間同士の付き合いをするようになりました。最近は音信不通ですが。私はマツオカ先生のような知的な大人になりたいと思いました。持っていないものほど欲しくなるのです!!だけど私は単なるお人よし~~~♪好奇心だけは旺盛なほにゃららです。ヽ(。_゜)ノ
January 20, 2006
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昨日の続きを書きます。私がマツオカ先生に守ってもらわなければいけなくなった発端の事件・2高校生活は元に戻ったように見えてじわじわと影響が出て来ました。家では怒った両親の棘に刺されていました。優しい校長先生が怒らないように、と言ってくれたせいで直接には怒られず、殴られる事も根掘り葉掘り聞かれる事も無かったのですがその代わりに無言の怒りの棘を全身から突き出した母が苛立ちを体中から発散させた父の怒りが毎日私を突き刺すようになりました。調度その頃両親は、全額借金で家を建てて鬼のような祖母から逃げ出した所でした。ですから私は両親の喜びに水を差したのでした。運動会で、競技と応援の両方が優勝と言う強い1年生に喜んでいた先生方や純粋に喜んでいた1年生たちにも水を差したのでした。そんな不愉快な存在になった私達でした。勿論いけない事をして皆の喜びを台無しにしたのでした。そんな中で、神社で一緒に打ち上げをした仲間は許してもらえる仲間だと思っていたのですがある日その中の数人から呼び出されました。「運動会の後で何をしていたのかお前が皆にぺらぺらと話しただろう」と言われました。知らない、と言っても「お前がしゃべっていたと聞いたぞ」と言われました。「ある事無い事、皆に喋りまくっているのはお前だろう!」と言われました。私は誰にも何も話していませんでした。濡れ衣もいい所でした。でも私はやっぱり何が何だか分からなくてぽか~~んとしていました。何が起きたのか、誰が何をしたのか、私がどんな立場に置かれたのか、さっぱり分かりませんでした。これは後になって知ったのですがある事無い事しゃべりまくって全てを私のせいにしていたのはKちゃんでした。結局の所、私は先生方、親、同級生、仲間全部から悪者として見られる事になってしまいました。自覚無しのうちにそうなっていました。鈍いにも程があります。私は孤立したものの、元々特別助けてくれる人もいなかったので悔しいけど平気だと思っていました。ある日、国語のSちゃん先生から呼び出されました。Sちゃん先生は30代後半くらいの女性で筋の通ったさばさばした感じの先生でした。Sちゃん先生は私を外に連れ出して正門の近くにある前庭に一緒に座りました。「実は校内読書感想文コンクールの発表があるんだけどMY(私)が1位なんだよ。でも今発表するとMYの名前が先生方に悪いイメージと重なって記憶されるから少し遅くなってからにしようと思う」と言われました。私は幼くてSちゃん先生が言っている意味が分かりませんでした。きっとSちゃん先生は私が先生方に悪く記憶される事を幾らかでも薄れさせたいと思っていたのでしょう。一晩家出した子が読書感想文で1位になったとあればやはりこの子がリーダーだろうと先生方は先入観を濃くするであろう事は疑いの無い事です。でも当時の私には全く想像も付かない事でした。それに、感想文は実の所、母が添削したのです。母は国語の教師で、赤ペンでしっかり添削しました。勿論私が頼んだ訳では無く、母が「こんな文は出せない」と言って勝手に添削しました。だから私としては感想文が1位になったのはうれしい事ではありませんでした。だって母が添削したんですから。荒削りの私だけの文章だったら1位にはならなかったかもしれませんから。それで尚の事本気にはなれずにボンヤリとSちゃん先生の話しを聞いていたのでした。Sちゃん先生はさばさばした人でしたが、なぜか私を擁護してくれました。大人になってから知ったのですがSちゃん先生も孤独で親と闘ってきた人でした。だから私の孤独や苦しみが見えたのかもしれません。それで私を助けてくれたんだと思います。校内読書感想文コンクールの授賞式は3学期になって行われました。せっかくのSちゃんの画策もあまり効果はありませんでした。2年生の春に修学旅行に行ったのですがある夜にクラスの女子達に呼び出されて責められました。何を責められたのか、もう憶えていませんが感情をぶつけられる理由が分からずやっぱり何が何だか分かりませんでした。2年生ではKちゃんも同じクラスでした。Kちゃんと私と、私達と仲の良い数人がクラスの女子に囲まれて責められました。未だにこの時の事は分かりませんが多分集団心理みたいなモノだったんじゃないかと思います。その後私はKちゃん達とは余り付き合わなくなりました。私は色んな出来事を吟味する事も無く暮していました。Kちゃんと付き合わなくなった理由は多分「何となく」です。仲良くする理由も、付き合わなくなる理由もその頃は確定したものはありませんでした。でも、付き合わなくなるまでに私はKちゃんから良くない事を沢山吹き込まれました。ある日、喫茶店でKちゃんが私ともう一人の女子にタバコを勧めました。私はそれまでタバコは大人のものと思っていたのでビックリしました。高校1年生がタバコを吸う事が出来るのか?何しろ運動会のあった秋に、Kちゃんに引き回されてたまり場に初めて行き初めて本物の不良を見たのでした。内心「高校3年生ってタバコ吸ってもいいんだ~」と驚いたのでした。タバコは大人のモノという認識しか無かったので私には吸うも吸わないも無かったのでした。そのしばらく後では高校1年生がタバコを吸っているのを見て「1年生もタバコを吸うんだ!」と驚きました。それでKちゃんにタバコを勧められてビックリしたものの、自分にとってタバコとは?なんて考えた事がなかったので勧められると「うん」と言ってもらってしまったのでした。考えない事の危険性を学ぶ事ができますね。私は考える事が無いと理解も判断も出来ない人です。私は家に帰ってお風呂場の湯船の中に浸かってタバコを吸ってみました。感想は「むせない」でした。こうして私は不良になろうとしました。なぜかと言えば、一晩の行方不明事件の後で皆から不良と言われたのでそんなに言われるのなら、何もしてなくても悪い悪いと言われるのならいっそ本当に不良になってやろう!!と思ったのでした。真面目に生きて行く事に見切りをつけたのでした。もういいやって。いいや、どうせ何をしたってしなくたって悪く言われるんだもの。高校の教師達はいつも冷たい目で私を見ました。先入観の目で見ました。2年生の後期から私は学級委員に選ばれました。男子を差置いて何故か私が選ばれました。さっぱり分かりませんでした。ずーーっと疑問でした。何故私が学級委員?少し前まで私は女子から弾かれていたのに?クラスのまとまりの邪魔をしているとみんなから責められたのに?勉強もしない、部活もいい加減な鈍くてボンヤリのこの私が?もしかしたら、その頃また読書感想文コンクールの授賞式があって私は2位でした。それが皆の思考に何か作用したのかもしれません。私としては母の添削にも関わらず2位になったので内心仕返しをしてやったりという気分でした。1位じゃないぜ、ふん。みたいな。学級委員になると、色んな用事があって職員室に行ったり相談室にプリントを貰いに行ったりします。その時に一部の先生に会うと「おうMYまた何かやったか!」と意地悪な声を掛けられました。それは3年まで続きました。私は1年の時にしか事件は起さなかったのに。ずーっと言われました。人間の先入観、思い込みは真実を捻じ曲げる力があります。<< 続く >>
January 19, 2006
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昨日の続きを書きます。私を守ってくれたたった一人のマツオカ先生。そのマツオカ先生に守ってもらわなければならなかった発端の事件について書きます。この話は多分全部を形にするのは初めてです。人にはなかなか言えない事でした。私は高1の秋の運動会で応援団に選ばれました。生徒会執行部の応援団員でもあったので選ばれました。私の入った高校は男女共学で、運動会は学年ごとにまとまって対戦するものでした。色んな準備を沢山しました。応援合戦用には「黄色いさくらんぼ」を選び、スコート姿の女子が高い壇の上で踊る事になりました。男子が少な目の割合だったので、女子が中心になりました。ぼうっとしている私は手伝い役でした。中心になっていたのは活発ではきはきしているKちゃんでした。Kちゃんは小柄でぽっちゃりタイプの大変なおしゃべりで行動的でした。誰もKちゃんにはかないませんでした。何がかなわないかと言えば、かなりマセていたため何も驚かないスレた少女だったのでどんな時にも誰もかなわないのでした。でも一見すると、小柄で可愛らしく振舞うため本性はめったに見えません。そしてその本性を見たのは私だけだったのかもしれません。特に大人はころりと騙されました。Kちゃんを中心にして男子が行動し、1年生連合は上級生を差し置いて競技も応援も両方が1位になりました。それですっかり浮かれてしまった私達運動会の応援団はちょっとしたお菓子や飲み物を持って近くの神社に行き10人くらいで打ち上げをしました。私の家は帰り時間についてはうるさかったのですが浮かれていたのですっかり大胆になってしまいワイワイと大騒ぎをしていました。今となっては何をしていたのかはっきり覚えていないのですがとにかくこっちの数人と騒ぎ、あっちの数人と騒ぎ、2人だけで話をし、又数人で騒ぐを繰り返していました。林に囲まれた人の来ない神社では時間も常識も遠くに感じて、私は時間なんかどうでもいい気分になって行きました。気付いた時には帰らなければいけない時間をとっくに過ぎていました。これが生まれて初めての反抗だったのだと思います。帰りたくない家なので、帰りそびれたらどうでも良くなってしまったのでした。どうせ遅れて殴られるのなら、もっと遅れたって殴られるのだし、どうでもイイヤと捨て鉢な気持ちでした。そのうち一人帰り、2人帰りして残ったのは男子が3人と私とKちゃんでした。多分11時近くに高校の近くで男子達と別れて私とKちゃんは歩いていました。すると国道の手前で男子達が警察官に職務質問されているのが見えました。Kちゃんが瞬時に近くの店の看板の陰に隠れました。私もつられて一緒に隠れました。後になって考えると、この時が大事な「選択」の分かれ道でした。私は何も考えずにKちゃんの真似をしただけでした。全く何も分かっていませんでした。何故隠れたのか?隠れる必要があったのは何故か?Kちゃんは警察官を見て何を考えたのか?Kちゃんはどんな少女だったのか?私は素朴な幼い子供だったので何も分かっていませんでした。あの時隠れずに警察官に見つかっていたら怒られただけで済んでいたかもしれません。やがて男子達から話を聞いた警察官はこちらに向かって来ました。私たちの隠れている看板の前を通り過ぎて高校の方へ行ってしまいました。Kちゃんはしばらくしてから国道の方に歩き出しました。すでにその時には家に真っ直ぐ帰れない気持ちになっていました。なんだか分からないけど警察に追われているのですから「遅くなってゴメンナサイ」だけでは済まないような気がしてとにかく逃げなければいけないと思ったのでした。おかしなもので、殴られる覚悟で帰ろうとしていたのに追われていると分かったら逃げなければならないと思ったのです。Kちゃんは「国道を歩いていると見つかるから」と言って脇道に入りました。そして一晩中2人で畑や田んぼの中を歩きました。今思えば、人に見つからないようにとKちゃんが人気の無い所を選んでいたのが分かります。私は眠くて眠くて、モウロウとしながら歩いていました。この時歩きながら寝る、を経験しました。ひたすら歩いていました。明るくなりかけた時にKちゃんは国道に出ました。その頃の事は眠くて私は殆んど憶えていません。Kちゃんは手を挙げて車を止めました。止まった車の後部座席に乗せてもらいました。その後は2人ともドロのように眠りました。時々目が覚めて見た景色や前に座っている三十代の男性二人の会話から車は新庄を抜けて庄内地方に入り酒田で用事を済ませてUターンして山形を通り過ぎて夕方に上山で止まりましました。上山の旅館では二階の座敷にご馳走を並べてありました。私とKはセーラー服のまま2人の男性と一緒に二階に行きご馳走を頂きました。私は疑いを知らない子供だったのでその男性たちがやたらとビールを勧める理由が分からず「ビールはお父さんの晩酌を少し飲んだ事があるよ」なんて無邪気に浮かれて話していました。何しろ前日の夕方に家に帰りそびれてから非現実的な出来事の連続となっていたので私には何がなにやら掴めずにいたのです。Kがトイレに行き、私一人になると男性の態度が一変しました。私の手を掴んで無理矢理隣りの部屋に引き摺り込もうとしたのです。すると、隣りの部屋には布団が敷いてありました。その頃の私は男女間の性については全く疎くて本当に何も知りませんでした。でも布団が敷いてあるのを見た時に鈍い私の中で危険信号が鳴り響きました。何だか分からないけど、とにかく全力で抵抗しました。暴れて騒いでいるとKがやって来て押入れの中から学生カバンを取り出し次いで私を引っ張って助け出すと階段を駆け下りました。Kに助けられて泡を食って逃げる私の目にそこの旅館の家族が一階の茶の間で団欒をしているのが見えました。5人くらいでお茶を飲みつつテレビなんかを見ているのが逃げる私の目にくっきりと焼き付きました。旅館の団欒の一瞬は日常的。布団に引きずり込まれそうになって逃げ出す私は非日常的。日常と非日常の一瞬の出会いの瞬間を私はとても強く記憶に刻み込みました。私にとってそれは晴天の霹靂でした。私が女だなんて、自分で意識した事も無く自分でそれを他人に許したことすら無いのに知らない中年の男性に踏みにじられそうになったんですから晴天の霹靂としか言いようがありませんでした。自分でも知らない事でしたから。自分が男性から見たら女だなんて知りませんでしたから。何しろ学校の廊下の水道で頭を洗って水を滴らせて平気だった少女です。後頭部を虎刈りにしてしまっても平気で歩いていた少女です。その後、肉体を憎んだ少女です。知るわけ無いじゃないですか、男性の肉欲なんて。旅館の外に転がり出るとそこにはタクシーが待っていました。そのタクシーに乗って逃げ出しました。Kはトイレに行った振りをしてカバンを押入れに隠し、タクシーを呼んでいたのです。なんと用意周到な16歳でしょうか。あの雰囲気からKは危険を察知していたのです。Kは何もかも知り尽くした16歳でした。片や私は何も知らない素朴な15歳でした。(誕生日が3月なので、いつも1歳若いんです)そうしてKと私は上山駅に行って下りの電車ホームに立っていました。何故そこでKが帰る気になったのかそこで逃避行を止める気になったのか。でもそこで帰っていなければ、又どんな危険な事に遭遇していたのか分かりませんからとにかくよくぞ帰ったと思います。私はと言えば、あまりの非現実的な出来事に圧倒されて本来の判断力の無さを倍増した無知になっていましたから帰るとか帰らないとか、そんな事を判断する状況には無かったのです。ただ、Kちゃんの先を見通す観察力と判断力に驚いていたのでした。するとそこへ私を布団に連れ込もうとした男性が来て私とKに千円ずつを握らせて「この事は黙っててくれ」と言って帰って行きました。電車の中ではKがいわゆる「口裏を合わせる」ために私に色々と教え込んでいました。一晩中歩いていて山形の近くまで行って電車で帰って来た事にしよう。と。車に乗せて貰って恐ろしい目に合った事は言わないようにしよう。と。高校のある駅で降りると、調度ホームに同級生達がいました。仲の良い子が私達を見つけると駆け寄ってきました。そしてそのうちの一人が「心配させてバカ!!!」と言って私とKちゃんの頬を叩きました。心配したために愛情から叩かれたのは初めてでした。親が言う事を利かないからと言って叩く往復ビンタとは違ってどこか甘い愛が感じられました。「私は今、愛情で叩かれた」と自覚できました。だから痛くありませんでした。叩かれて感動したのはこの時だけです。泣きながら叩いた友達を見ていて初めて私達が帰らない事で皆に心配を掛けた、と知りました。それまでは皆がどんな思いでいるかなんて考えてもみませんでした。親が怒る。親に殴られる。それしか考えていませんでした。高校に行くとすぐに校長室に連れて行かれました。親も来て、狭い校長室は沢山の先生方とでギュウギュウ詰めになりました。校長先生はとても優しい穏かな方なのであまり騒ぎにはなりませんでした。Kは先生方の前でわんわん泣いていました。涙をボロボロこぼして泣き続けました。大人の前では泣いていた方が反省しているように見えて受けがいい事をKちゃんは知っていたのです。そして当時の私はそんな事は考えてもいませんからとにかく非現実的な出来事の連続に神経がすっかりやられてしまってボーーッとしていました。その姿は教師達から見ると泣きじゃくるKが素直な子に反応の無い私はふてくされた子に写っていたようです。それでそれ以後、私がボスでKが着いて行ったと判断されたようです。何しろ優しい校長先生は余計な事を聞くなとオフレを出していたようで、細かい事は一切聞かれませんでした。それで先生達は見た所を情報源に考えを広げていったのです。だから私がボスでKが子分、と言うわけでした。何しろ私が教師の娘と言う事と知能指数がすごく高いと言う事が悪い方に取られました。でも大袈裟ではなく私は物凄く幼かったのです。多分、今の小学高学年より幼いと思います。不良が本当にいる事も知りませんでしたから。Kちゃんと仲良くしている事がどれほど危険な事か全く知りませんでしたから。あまりKちゃんが泣くので校長先生の計らいで「しばらく2人だけにしてあげよう」と言って全員が校長室から出て行きました。2人だけになると泣きじゃくっていたKちゃんがぴたりと泣き止みました。そして目に当てていた手を外して私を見ました。私はまだ意味が分からずKちゃんを見ていました。するとKちゃんはペロッと舌を出して「上手だろ」と笑って言いました。直前までKちゃんは泣きながらわんわん涙を流していたのです。私は意味が分かりませんでした。ただ「あれは嘘泣きだったんだ」と気付きました。そして何故嘘泣きが必要だったんだろう?と考えました。でもその頃の私には大人の事も事の裏側の事も全く解らず、Kちゃんのしている事の意味が解りませんでした。長くなったので続きは明日書きます。
January 18, 2006
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最近のセキス○ハウスのCMで「私が年を取っても今より幸せにしてくれますか」と女優さんが夫役の俳優さんに言うのを見ると実はひどく腹が立ってきます。夫だって妻だって一人の人間なので何が幸せなのかなんて、自分以外の誰に分かるんだろうか?と思ってしまうのです。まるで十代の頃に色んな知り合いに「何か面白い事ない?」と聞かれた不快感と同じです。あなたにとって何が面白いかを私や他人が知るわけ無いだろうと思ったので、何故人に聞くのか私には全く理解できませんでした。人が何に喜びを見出すのか、誰が分かると言うのか?それなのに何故沢山の人が同じ事を言うのか?まさか皆が同じだと思っている訳ではあるまいしと、理解不能に陥っていたわけですが、その時の不快感と同じ匂いがして来るんです。「今より幸せにしてくれますか?」と妻は夫に言うんですよ。まるで自分では何もしないみたいです。働き者で優しい夫を見つけたら後はベルトコンベアーに乗って行きます。みたいな。あのCMは男性にも女性にも失礼ではないんだろうか?と思ってしまいます。それに、男性だってあんな風に全てをオンブされたら重くないだろうか?本人にしか分からない「幸せ」の価値観さえ夫にお任せしてしまうんだろうか?そんなに守ってもらわないといけないほど女性は弱いんだろうか?自分を持っていないんだろうか?と感じて仕方ないんです。そう言えば、最近気に入って聴いているUVERworldの「CANCE!」の中に「君を守るため」と言う歌詞がありますがそれを聞いても複雑な気持ちになります。私の経験ではそんな事一度もなかったですね。十代の夢見る年頃でさえ男性から「君を守る」なんて甘い言葉を聞いた事がありません。私が強くなるために用意されたような事しかなかっです。まあ、第一子の長女で我慢や飲み込む事ばっかりしていた女の子なので守る必要も見えなかったのかもしれませんが。でも一人だけ私を守ってくれた人がいました。その人は高校3年間の担任のマツオカ先生でした。マツオカ先生は三十代後半から四十代の知的な女性でした。美術部の顧問の先生でもありました。何度も何度も話し合いをしました。初めて私の話を正面から聞いてくれて初めて私に正面から答えてくれた大人でした。私の母と何度かこっそり会って話をしていたようです。母が言うにはマツオカ先生は私を沢山褒めてくれたそうです。でも当時の母には何も伝わらず言う事を聞かない子供、勉強をしない子供としか写っていなかったんですが。マツオカ先生が私を何から守ってくれたかと言えば、外圧と心無い教師達の目からでしょうか。私は高校1年の秋に問題を起してそれ以来先生方から目を付けられたのでした。どんな問題かと言えば長くなるので次回にします。今日の午後、「わかばの会」があるのがたった今分かったので急いで準備をしなければならなくなったのです。ちょっと中途半端な文章ですが今更新しないと、又別の事を書きたくなるかもしれないので更新いたします。●万華鏡●先日の万華鏡の続きです。 「万華鏡キラキラ」と言う曲もあるのはご存知ですか?RYTEMという2人組の女性が美しいハーモニィーで歌っています。万華鏡キラキラ←試聴です。キレイな声です。聴いてみて下さい。CD持ってます(笑)
January 17, 2006
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落込むと、人には言えないんですが「死にそうだ」といつも頭を巡る弱い私です。今日は具合が悪い上に精神的にもやられていましたが最近お気に入りのUVERworldの2枚目を入手していたのでそれを聴いていたら随分と励まされました。アニメの「BLEACH」の一番目のオープニング曲だった「D-tecnoLife」がヒットしたUVERworldですが私は二枚目の「CHANCE!」にやられました。でもCD中古店で手に入れたのは一枚目でした。聴いてみると一枚目も素晴らしい出来でした。特にヴォーカルのTAKUYAが作詞作曲・打ち込みをするのを知りバンド皆でアレンジをやり、6人のメンバーのうち3人が幼稚園からの幼馴染という仲良しバンドと言うのを知り、尚の事ファンになりました。二曲目にはラップだけの曲がありますが歌の時とは打って変わって低音の声。三曲目は甘い声の歌。低音のラップ。声を曲で使い分けているので驚きました。アレンジもすごく好きです。ギターが二本なのでギターの音が沢山聴こえてハードです。思った以上に好みです。毎日聴きました。二枚目は緊縮生活中につき我慢していたのですが一枚目の素晴らしい出来に感動して我慢できなくなりました。それでこっそり買ってしました~~~~♪でも聴かないでいたんです。私だけ楽しい事にお金を使ったのが後ろめたかったのでした。でも、落ち込み激しい今日は自分を励まそうと思ってポータブルCDプレイヤーを使って寝転がって聴きました。夕方まではとても日記を書けそうも無く参っていたのですが、音楽を聴くうちに段々元気が出て来ました。その曲名も「CHANCE!」と言うだけあって曲調も柔らかくも元気な曲です。しかも私はこの曲を聴くとドキドキしてくるんです。こんな私だって何か出来そうかもしれないからまだ諦めないでいようね、って気になってくるんです。それで娘がノートパソコンを解放した深夜からちまちまと日記を書いています。遅い時間に更新です。今月の25日には3枚目が出ます。「just Melody」←試聴初回限定版悲しい時に音楽があって良かった。
January 16, 2006
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昨日は沢山の方にいたわりの言葉を沢山頂きありがとうございました。m(_ _)m昨夜は何時間も光線治療していました。少しは楽になりましたが痛み止めも効かずにもだえ苦しみました。保険無しで入院か、手術かと怯えました。うなっていました。今朝、生理になって分かりました。私は去年から子宮内膜症です。最近は楽になっていたので、内膜症の光線治療をしていませんでした。それで多分一箇所だけだった内膜細胞が他の所にも増殖したらしいんですね。だから今までにないほどの痛みに苦しんだようです。吐き気もしました。お腹全体が膨らんであっちもこっちも色んな所が痛んでしまったのでした。今、内蔵の子宮内膜細胞が増殖した所では出血しているわけです。お腹の中で、出口の無い内出血状態になっているわけです。だから腫れるんですね、お腹が。考えると恐ろしいです。ああ~~~。終わってしまえばいいのに生理なんて。やっぱり男性がいいかな~~。女性は肉体の変化を受け入れる許容量が必要です。午前中には起き上がれない痛みで苦しんでいたので寝転がってネットを見ていました。するとホワイトバンドについてのこんなものを見つけてしまいました。「日本版ホワイトバンドって何?」↑これって本当なんでしょうか?私はホワイトバンドを買いませんでしたが(売っている所に行かない)(売っている所を知らない)でも貧困な国に対する日本人の思いやりを掘り起こすのはとっても良い企画だな~と思っていたのです。ホワイトバンドの次にはカラーバンドが流行るらしいと言うのを読んで、流行かい!と突っ込んでみたんですが。でも、貧困で大変な国への思いやりを日本人の若い人達に目醒めさせると言う点では成功でしょうか。ですが、集まったお金の使い道については正しく知らせるべきではないかな~と思いました。だって困っている人のためになると思って買うんでしょうから他所の国にまでは届きませんって知らせないのは、それでは詐欺みたいだと思うのは私が敏感過ぎるんでしょうか?NPOで使われるのなら悪くは無いけど・・・・・・。これが本当なら、やっぱり何に対しても猜疑心の塊りになってしまいます。●朝日●お天気の良い日の朝日です。こんな、物を浮き立たせる朝日も元気が出ますね。●あご出しく~たん●壁際のテーブルの上にはデスクトップのパソコンやプリンターやFAXが置いてあります。そのFAXの手前に座るのが最近のく~たんの新しい場所です。 それでこんな事になります。
January 15, 2006
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昨夜腹痛が始まり、いつもの過敏性腸症候群だろうとタカをくくっていたら今朝も痛くて治りません。いえ悪化して動けませんでした。おかげでテレビ奉行なのに今朝のアニメ類と俳句王国を録画予約失敗しました。悔しい~~~。俳句王国が~!!根性で予約したのにビデオテープを入れるのを忘れると言う初歩的な失敗です(*´д`*)~З明日のアニメと仮面ライダーは絶対失敗しないぞーー!でも光線治療でいくらか腸が動き出したもののご飯どころか水も飲めません。一日に3リットルほどのお茶を飲んでいる私。今日は一滴の水も飲んでいません。腸内で何が起きているんでしょうね。頭も痛いので風邪がお腹に行ったんでしょうか。痛いです。お腹が痛いです。頭も痛いです。何も出来ません。コメントも無理かも~~。日記を書くためにようやく起き上がりました。寝ながらブログ巡りします。こういう時ノートは楽ちんですね。ああ~~。では皆さん、明日は回復していたいです~~。あ、昨日まだこんなにひどくなると思わないでいた時の私は「私のお腹はむくくくく~~♪」とのんきに歌っていました。お腹がぶくぶくに腫れて膨らんでいたのです。それを娘が聞いていて大笑いされました。く~たんのむくくと私のむくく。私のむくくが迫力勝ちです。ふふん~♪10日の日記のく~たんのむくくの写真も見て下さい。息子も風邪を引いて昨日学校を早退してきました。今も微熱と頭痛でマグロの様に転がっています。沈没・・・。
January 14, 2006
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10日(火)の午後に電気の検査に来たおじさんが「何か変わった事ありますか?」と聞かれたので「ありません」と答えた私。するとおじさんは「でもブレーカーが落ちるとか?」と笑って言いました。そう言えば最近、ブレーカーが原因で火事になったと言うニュースを見たような見なかったような。それで現実を直視した話をしました。「良く落ちます!!だから炊飯器のスイッチを入れる時はあちこち切ったりするんです。忘れて電子レンジをチンしてブレーカーが落ちてゲームが消えて息子が泣いたり、チャットが切れて娘が泣いたりしているんです。」「ああ~なるほどね。幾らなの?ああ~20ね。20じゃあ小さいね~」「そうなんですよ~。引越してきた時に工事すれば良かったんですがまさか20しかないなんて気付かなくて。でもお金が掛かるからもったいないので我慢してます」「ああ、30までなら無料で上げられますよ。30にしても落ちるんなら、そん時また考えれば良いからとりあえず30まで上げてみたら良いんじゃないですか?」「ええっ!無料ですか?!!!10万位掛かるんじゃないですか?」「そうですよ。30アンペアまでは無料で工事出来るんですよ」「知りませんでした~~~」「皆さん知らないようなんです。30以上の工事は○万くらい掛かりますけどね」↑○の中の数字をはっきり憶えていません。何しろ「無料!」が頭の中で響きまわっていましたので。そしたら早速翌日にNTT関係の方から電話が来て昨日来て工事をして行ってくれました。それも電気を切ってブレーカーを交換するだけの5分くらいの工事でした。バッチンバッチンと落ちるブレーカーに耐える日々は何だったのーーっ!!!というくらいに簡単でした。無知って恐いですね。いえ、勘違いって悲しいですね。だって私の実家でブレーカーを変えた時にすんごく掛かったんですよね。あれはとても大きい容量にしたって事だったんですね。皆さん。ブレーカー工事は30アンペアまでなら無料ですよー!!!!!うちは台所とリビングと下に6畳二部屋・8畳一部屋、二階が6畳と8畳の5LKです。なのに20アンペアしか使えなくてそれはそれは大変でした。節約にはとっても良いんですけどね。●息子が珍しく早めに行動を起したらしい●11日(水)に訪問した息子の学資保険関係の保険屋さんと話をしていたら一人の方の息子さんが同じ高校3年で、「10日に受験の申し込みをして来た」と言うのでぎょっとしました。看護士を目差しているそうで「同じ学校じゃないですか?」と言われて「どこを受けるか知りません」と言ったらものっすごく驚かれました。だってどう生きて行くのか本人にしか決めようの無い事だし、親に口出しされて嫌な思いをしていた私ですから。夕方帰って来た息子に聞くと「明日言って来る」と珍しく用意周到です。そうよね~高校3年ですものね~。有り難い、有り難い。そしてその「明日」である所の昨日の朝、出掛けに「お父さんにここ記入してもらって~」と息子。「え?今日書類を出しに行くのに今頃?お父さんは今日面接に行くって言ってたから間違いないようにしてね」「OK~」のんきな息子です。そして夕方帰って来てから「写真を貼るのりは?」と聞いて来た。まだ貼っていなかったんだ~。「時間大丈夫なの?」「駅に行ってから決める」そんな頼りない~~~~っ。私がネット検索して仙台に行く時間を調べました。昨日はとっても寒い日だったので駅まで送って行きました。途中で「学校に寄って」と言われました。「何で?」「忘れ物した」近いからいいけどね。早めに家を出たからいいけどね。学校から駅に行って息子を降ろして図書館、クリーニング店に寄って家に帰ると娘が言いました。「お兄ちゃんから電話があって、忘れ物を届けて欲しいって。でもお母さんが帰って来ないからお父さんが持って行ったよ」何ですと~~~~~っ!!だって学校に忘れ物って言って高校に寄って行ったじゃないの~?家にも忘れ物があったのぉ~~?だって家を出る前に「忘れ物無い?」って聞いたらニヤッて笑ってたじゃないの~~っ?何がどうしたの?夜に凍えて帰って来た息子に聞くと「え?学校?・・・担任の名前の漢字が分かんなくて見に行った」「え?家の忘れ物?・・・学校の調査書」ええーーーっ?!何それ!!大事な事じゃないの?それって直前にジタバタする事なの?なあ~~~んだ。やっぱり「流石は高校3年生」じゃなかったんだ~。やっぱり流石にうちの息子だったんだ~~~。でも間に合って良かったです。そして今日、「そう言えば願書受付って昨日までだったの?」と聞いてみたら「違うよ。まだ日にちがあるよ」なあ~~~んだ、うちの息子にしては早めに願書を出すなんてやっぱり流石に高校3年生?だけど「それであなたが受験する専門学校ってなんて言うとこ?」と聞いてみると「駅の近く」答えになってなぁ~~~~~い!!!それで実は息子が受験する専門学校が何処なのか知らないアフォな親です。(- -ヾあの息子にしてこの親ありでした。ヽ(。_゜)ノちなみに受験日は21日だそうです。えっすぐじゃないの?でも漢字の練習さえすれば大丈夫、と言ういい加減な息子のセリフを真に受けるとしても漢字練習用に買って来た漢字のドリルは今じゃ夫が使っています。息子よ~~~、本当に大丈夫なのか~~~?お~~~~い。だめなとこだけ似なくても良いんだぞ~~~~~。●隅っこく~たん●台所に行くドアの角にいたく~たん。何故?何故ドアの隅っこにいたの? 何をしていたのでしょうねく~たんは?●ピーとく~●珍しくピーに抱かれて、くり目目のく~たん。
January 13, 2006
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自分が一番正しくて、他の人はみんな愚かだと思っていた私の母は自分の子供にも沢山の事を要求して押し付けました。大変キツイ人だったので私はなかなか言い返せませんでした。ガミガミガミガミ怒る人でした。小学4年生の頃に、弟と私は両親の前に呼ばれて正座をさせられました。そして厳かに父がこう言い渡しました。「これから我が家はスパルタ式でやって行く」小学4年の私と2年の弟は何を言われたのか解りませんでした。所が2人でケンカをしているとケンカ両成敗と言って家の隅まで追い詰められて往復ビンタをされました。事情を聞きもせずに殴るという親の行為は私には愚劣な事にしか思えませんでした。だから絶対謝りませんでした。殴られても睨んでいました。私にとって泣かない、睨むというのがたった一つの自己表現だったんですね。悪かったら謝るけど、悪いかどうかを検討もしないで叩くのでは私は納得できませんでした。それ以前も居心地が悪かったのですがその「スパルタ式教育方」を取り入れてからと言うもの私の中には矛盾が膨らんでいきました。多分、父が何処からか仕入れて来てこれは良い!と思ったんでしょうね。父は父親のいない子供時代を過ごしたので私達が大きくなって来たら、どう父親をやっていいのか解らなかったんでしょうね。それでビシバシとスパルタ式を取り入れると子供が正しく育つと思いついたんでしょうね。父は短絡な思考の人なので仕方がないと言えば仕方ない事ですがそれを止めるのが妻じゃないか!!とか突っ込みたいです。結局それ以後に家の中の土台はどんどん傾いで行った気がします。いつも忙しくてイライラしていて怒っていて感情的な母に理性的な話をしても無駄だと私は段々気付いて行きました。でも一度だけ母に正面から立ち向った事があります。それは中学1年の時でした。字がとても上手な母は字が下手な私と弟にいつもガミガミ言っていました。書き方をこうしろああしろと言いましたが私と弟の字は上手になりませんでした。何しろ母は「この辺で私より字が上手な人は○さんと○さんくらいだ」と言っている人でした。「どうして私の子供が2人とも字が下手なんだ」と怒っている人でした。今思うと、とても傲慢な人で父はこの人のこういう強い所が好きだったんでしょうか?私が母に一度だけ立ち向ったのは中学1年の春か秋でした。私は2Hのシャープペンシルで宿題を書いていました。奥の六畳に私達4人家族の部屋があって宿題もそこでしていました。勉強机は部屋の外の広い廊下のような所にありました。でも何故かその時は自分の机ではなく六畳にいたのです。その頃は家族と一緒にいる事の方が良かったのでしょうか?私がノートに字を書いていると母が言いました。母「なんでそんな薄いペンシルで字を書いているの! あなたは字が下手なのだから濃い鉛筆で字を書きなさい!!」私「私はこれでいいの」母「字が下手な人は2Bの濃い鉛筆で書かないと 益々字が下手になるんだよ!! いつも言ってるじゃないの。なんで2Bを使わないの?!!」ガミガミガミガミガミガミ・・・・・・・・・・。自分だけが正しい母は私の言う事なんか全く聞く耳を持っていません。しかも、母が私を叱って自分に火の粉が飛ばないと分かると弟がしゃしゃり出て来て母に加勢してワイワイ口を出します。自分も字が下手なのに弟は自分は傷付かないと分かると攻撃態勢に入るのです。そしていかに薄い鉛筆で字を書くと字が下手になるか、濃い鉛筆を使うと上手になって行くかを2人掛かりでこんこんと言い続けたのでした。その頃の私は中学1年ですからペンシルの芯の濃さくらいは自分で選びたいわけです。私「私は字を書くとき力を込めて書くから 濃い鉛筆で書くと字が手に摺れて、 ノートが汚くなるから薄いので書いてるんだ」と幾ら言っても全く聞く耳を持たない母と弟。私は段々腹が立って来て追い詰められてしまいました。鉛筆の濃さまで母に従わなければならないのかと思うと腹が立ち、自分が怒られる状況に無いから加勢する弟の卑屈さに腹が立ち、ブッツンと切れてしまいました。そして私は自分に理由があるのにも関わらず、私の言い分を全く無視される事が悔しくて、泣きながらノートと2Bの鉛筆を持って来て泣きながら字を書きました。ガミガミ言っていた母と弟も私の剣幕に驚き、私の字が力のこもった字で2B以上に濃く書き残りそれを左隣りの行に字を書き連ねていくとどんどんすれて汚くなって行くのを見ていました。そして4~5行書いて「ほら!」と見せると母は腑に落ちないと言う顔で仕方無しに「ふ~~~~ん」と言いました。弟は黙って母や私の様子を見ていました。私は初めて泣きながら訴えたのでした。自分の考えを言い通したのでした。でも母は汚い私のノートを見ても自分が間違っていた事を認める事が出来なかったのです。だから「ふ~~~~ん」です。なのに「ふ~~~~ん」です。「『あらゴメンネ。言い過ぎたね』くらい言ってみろってんだーーーーっ!!!」って、その頃言えたら良かったのに。私は泣きながら理不尽な思いを胸に溜め込んでもうこの母親と弟には関わるまい、真に受けるまいと心に堅く誓ったのでした。ですからそれ以来、私は母に正面から持論をぶちまけた事はありません。一度頑張って闘ってみて、こんな人と闘うのは無駄だと見切りをつけてしまったのです。諦めないで闘い続ければ良かったのに。私ってすぐに諦めてしまうんです。人と争うのがイヤだったんです。自分が無視すればいいんだと思っていたんです。私の闘いで、もしかしたら母も変わったかもしれないのに。(夫は劇的に変わりましたから)今もあの時の母と弟の態度や顔付きをはっきり憶えています。自分の感情を剥き出しにしてしまった悔しさも憶えています。私にとって、泣きながら人に自分の考えを訴えるという状態はとても苦痛でした。もうこんなのはイヤだと思ったのでした。今では母も認知症で何を言っても笑って誤魔化す老婆となってしまいました。弟に至っては昔の事は皆忘れたそうです。ただ私に馬乗りにされて惨めだった事は憶えているそうで何故私が馬乗りなったのか、自分が大嘘吐きでずるくて卑怯なヤツだった事も恐がりでいつも泣いていた事も、威張り散らして私に「後ろを歩け!」と命令していた事もみんな忘れたそうです。いいなあ~忘れるって。都合の悪い事はみい~んな忘れるんだ~~。ふ~~ん。でも弟は高校2年の夏に私が仙台から帰ってきた時「恥ずかしいから昔の俺の事は言わないでくれ」と言っていました。だから高校2年の時は自覚があったんですね。この間馬乗りの話になった時に弟に言えば良かったのに、私はまた飲み込んだのでした。馬乗りになった理由を。だって修羅場になるのが嫌なんですね。やっぱり飲み込んでしまうみたいです。弟は自分が嫌な話をされると怒って立ち去り、その後数年間口を利かないと言う前歴があるんです。だから下手な事を言っても、と思ってしまったのです。何とかちゃんと口に出して言うようにしないと。でも口にすると、長い間に積もり積もった苦しみを一緒に噴出してしまうんじゃないかと恐いんですね。平常心で口に出せるのかどうかがとても不安なんです。少しずつだせるようにしないといけないですね。人に嫌な思いをさせたくはないんです。それが甘いのかなぁ。●ポンスケ●今日の夕方の娘の発言。娘「ワシに何か甘い物を・・・」私「良いよ~。何か探してきて」八畳の食品を入れている食器棚に向う娘。しばらくしてきぃーきぃー声で叫びながら戻ってきた娘。娘「ポンスケ!ポンスケ!!ポンスケ!!!」何事かと見ると、娘の手には100円のお菓子が。その名も「ポンスケ」だったーーーっ!!!ボックス型の揚げせんの名前が「ポンスケ」!!!面白くないですか?写真を撮りましたので笑って下さい。その名も「ポンスケ」!!!ああ~ずっと買っていたのは私なのに気付きませんでした~~~~っ!悔しい~~~。こんな素適なネタに気付かないなんて。娘にお株を取られた私でした。(- -ヾ
January 12, 2006
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昨日の教育事務所でのカウンセリングは主に夫が話していましたがそれでも随分気付かされました。例えば娘が自動車学校の壁画について抵抗があった時、娘は私に何に対してどう抵抗があるのかを話しました。その話をI先生にしていたのですが「気持ちを口に出して言えるようになった」と言う事に気付いたのでした。そう言えば娘は貝の様に口を閉ざしてしまうのが常でした。泣き出してから、何がどうしたのかを聞き出しても気持ちを言葉に出す事が出来ないのでした。それで何が問題なのか、何が辛いのか解らなかったのです。事情を知るまで何日間も掛かったり1年後に聞くと言う事もありました。でもこの度は、娘が抵抗を感じた理由を口に出して話していました。それは随分成長したものだとようやく気付いたのでした。しかも昨日は脳が半覚醒状態だったので夕方に担任の先生と電話で話しているうちにもっと認識したのでした。鈍い事この上ないです。まあ、娘は少しずつ成長しているって事ですね。でも私はこの純粋な娘をどう助けて行ったら良いのか本当に解らないのでI先生に聞きました。「娘の心にある事を言葉にして行く」これは娘だけの事ではなく私にも必要な事です。私はやっぱり無意識の内に自分の思いを飲み込んでしまうらしいのです。そうして溜め込んだ思いを自分でも意識していない時に吐き出してしまうようです。私の中に2人の人がいるようだ、と夫に言われた事があります。どうも溜め込んだ思いを噴出してしまうんですね。普段はなんでも許してくれそうなのに突然シャットアウトするらしいです。私も自分の心に何があるのかをしっかり認識して行きたいと思いました。子供の頃、私の家では子供の発言権はありませんでした。一度だけ中学3年の時に大人の話に口を出した事があります。母が胃癌の全摘出手術のために入院中、傲慢な祖母が益々傲慢な態度を取っていました。そして父にガミガミと説教をしていました。父はいつものように嵐が去るのをじっと耐えていました。あんまり悔しくて、私は祖母に対して楯突いたのです。だって父は間違っていないのに、祖母が理不尽な事を要求するのをただ耐えているのが悔しかったんです。でもすぐに父が「黙ってろ!!」と私に叫んで私の初めての反乱は終わったのでした。祖母には何も言えないくせに私には怒鳴る父が情けなかったです。父の育ちも大変だったので気の毒な所もあったのですが闘わない父は私にも闘ってはいけない事を刷り込んでしまったんですね。その事に今頃気付いて闘っている私です。心を認識する事。気持ちを意識する事。自分で自分の心を理解してあげる事。自分の気持ちを許してあげる事。を自分のためにしてあげようと改めて思いました。●冬を迎えた街角のトウモロコシ●夏に仙台の街角で見かけたトウモロコシを車窓からですが写真を撮りました。かなり淋しくなっていました。 無残にも棒になっていました。でも誰も折ったりしなかったんですね。根性大根みたいな目に合わなかったんですね。健気でする~~~~(涙)●冬の仙台●以前、仙台に住んでおられたにゅーじーさんに喜んでいただけるかな~~と思ってグレイの空でパッとしませんでしたが写真を撮ってきました。 4号線を多賀城方面に向うと青空が見えました。海の方向はいつも空が青いです。●今朝の朝焼け●今朝は6時45分頃に起きました。優しい朝焼けを見ました。右側の家の窓に朝日が反射していました。でも小さくしたら解らないかもしれません。 gizz様。今朝は早起きして少し得しました。でもgizz様より遅い時間かもしれませんね。
January 11, 2006
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今日から高校が始まりました。寝不足のまま頑張って作ったお弁当を「いらない」と言われガクッとしつつも体調不良から横になり、それから仙台の教育事務所に夫と2人で出かけました。睡眠不足がたたって話の内容をうまく把握できませんでしたがそれなりに目からウロコがありました。そして、普通に暮していると見逃す事が多いなあ~と思いました。でも今日はダウンしそうです。眠いです。なかなかパソコンを使えなかったので遅い更新となりました。今日は電気漏電の検査がありました。そう、細々と頑張りました。息子の目論見は当てが外れました。6時間授業でお弁当が必要だったんですって。ふふん~♪息子は友だちに少しずつ恵んでもらい飢えて帰ってきました。そうそう、仙台駅前に行って大手銀行に健康保険の支払いをして来ました。その時に夏に見たとうもろこしのその後を見ました。写真も撮ったのですが、モウロウとして限界に近いので明日アップします。もう、らめらあぁぁあぁあぁ~~。昨日のコメントの返事も明日頑張ります。m(_ _)m●私の大好きな『むくく』●く~たんの口元は『むくく』としています。これが私の大好物です。最近彼女はテーブルの上から私を睥睨しています。それを下から見上げたら、彼女の『むくく』がスペシャルむくくでした。んで、私の常として沢山写真を撮りました。私の大好物の『むくく』をご賞味下さい。 く~たんの『むくく』具合はいかがでしたか?ほ~っ・・・。これで安心して寝ます。おやすみなさい。ヽ(´▽`)ノ”
January 10, 2006
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誘拐されていた赤ちゃんが50数時間振りに無事に保護されて心からホッとしました。生まれて間もない赤ちゃんをお金目的で利用するなんて卑怯極まりないです。犯罪は押しなべて卑怯ですが。ニュースを見る度に知っている所が出るので最初は驚きました。赤ちゃんが誘拐されたスペルマン病院は19年前、私が息子を妊娠中に巨大なグレイ猫に左手を噛まれて化膿してしまって通った病院でした。妊娠中なので化膿止めや痛み止めを飲めないと言われ皮膚の下のグチャグチャの所にガーゼを入れるだけの治療でした。傷が心臓より下に行くとひどく痛むので左手を「ハ~イ♪」みたいに肩まで上げて車を運転しました。脅迫電話をしたという所の多くはとても近い所でした。しばしば通る所でした。東警察署は一昨年、追突されて二度ほど行きました。赤ちゃんが保護された国立病院には一昨年まで娘を連れて通院していました。赤ちゃんが入院中の仙台市立病院は私の甲状腺癌の手術を行った病院で、今も定期健診で通っています。しかも極めつけは誘拐犯の住んでいる所は20~18年前の2年間住んでいた所でした。今も親しい友達がいるのでしばしば訪れている所です。今月も行ったばかりでした。そうすると、とたんに現実感が薄れてきて何か信じたく無いような不思議な感情が湧いてきました。生まれたての赤ちゃんを誘拐するなんて。しかも仙台なんて。と思っていたら、どんどん近付いて来て余りに身近な所での卑怯な犯罪に心が拒絶反応を示したようでした。まさか自分の生活圏内でひどい犯罪が起こるなんて。その辺で脅迫電話を掛けて、その辺で刑事さんやおまわりさん達があの寒い中で探し回っていたなんて。ここでは今までそれほどひどい犯罪は滅多に起こらないのでとても驚いているんだと思います。卑怯な誘拐事件でこんな反応をしてしまうんですから例えば内戦なんかが起きた所ではそれまでの平和な生活の上におぞましい殺戮が練り重ねられて行くのでさぞかし非現実的で納得行かない日々なんだろうなとそんな事を考えました。とかく私は色んな事に感情移入をしてそこから出られなくなる事があります。これを非情ではなく、事実を客観的に受け入れると言う事が出来るようになりたいと思います。今はまだ難しいです。赤ちゃんが無事で何よりでした。それしか言葉になりません。私は最近また風邪を引いて頭と背中が痛くて寝込んでいます。風邪を引くと普段より益々惨めさが増してしまいます。自分を否定したい気持ち。私なんか、と言ういじけた気持ち。自分の存在を受け入れられない気持ち。人が悲しんでいるのを見ると一緒に悲しみに飲まれそうになったり世界中の苦しむ人と悲しんだり。自分の足で立てますように。自分を自分で支えられますように。日本海側の雪対策と皆さんの生活の大変さを思うと応援しか出来ませんがもうすぐ収まるかもしれないですからしばらくの辛抱かもしれないですね。私が25年前に経験した大雪の時にはバスで30分の隣りの市まで行くのに4時間掛かりました。バイト先に行ったのですがすぐに帰るようにと言われて社長さんに送ってもらいました。それも3時間掛かりました。車での移動は大変な覚悟が必要でした。チェーンがないと踏み越えられないでこぼこだかけでした。除雪車が間に合わなくて色んな所が雪で埋まっていました。車もしばしば動けなくなります。すると前後の車、対向車の人達がわらわらとスコップ片手に下りて来てタイヤがはまった所を掻き出してみんなで車を押し出して、また何事もなかったように自分の車に乗って去って行くのです。それは見事な連携でした。それまで東北の田舎町の嫌な所ばかりを感じていたので困った時ほど田舎は素晴らしい!!と感激しました。それはたまにそういう助ける活動が行われるのではなく動けなくなっている車があると必ずみんなが助け合うのです。ダーーーッ!!と集まって来てバーーーーッ!!!と掘り出して動かしサーーッ!と散って行くんです。生きて行くのが大変な所ではみんな親切になるものだと思いました。見て見ぬ振りをする人はいませんでした。だっていつ自分が困るか解らないので全く人事ではないんですね。それで私は大雪の大変さには人の暖かさも一緒に思い出になっています。ああ、明るい方向に向って終わって良かったです。地面を掘り返して潜って行きそうでした。●私の宝物の万華鏡●私は万華鏡が大好きです。コツコツと集めていました。地味な物ばかりでしたが、通販オタクだった母が一昨年に勝手に高価な万華鏡を注文していました。そして私にプレゼントしてくれました。でも、思えばその頃から母はおかしかったのです。母の所に届いた一つ目の万華鏡を私の所に持って行った、と母は頑として譲りませんでした。私は貰った事を記憶していないし母に言われて家の中を探しても見当たらないし私は忘れたとしてもピー(娘中1)は忘れないからピーもお祖母ちゃんが持って来た事は知らないと言っているのでやっぱり貰っていないと思うよ、と何度も電話でやり取りをしました。「失くしたんじゃないの?!!」と怒る母。そして数ヵ月後に一つ目の万華鏡が実家で見つかったのでした。思えばその頃から自分の考えに固執する所があってしかも物忘れがひどくなっていた事を認識していませんでした。そんな複雑な思い出のある万華鏡の一つですが撮影できたのでアップします。キレイなブルーが撮れました。上から見た所です。 覗く所を見たものです。 ブルー系の万華鏡です。 右目左目、両方で見て右脳左脳の両方に喜びをあげます。
January 9, 2006
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★伊藤★さんから『性転換バトン』と言うのが来ました。「男性は女性になりきって、女性は男性になりきって考えてください。今、この時点で自分が異性に生まれ変わったものとして、以下の質問に答えてください。」つまり私は女性なので、もしも男性だったらと言う視点で書くんですね。質問1:朝起きたら最初にする事は?・私が男性でもトイレに行くと思います。質問2:貴方の学校(職業)は何ですか? ・やっぱり座ってコツコツやる仕事がいいです。 よく匠の仕事をテレビで見るんですが、 象嵌とか、ああ言う仕事をしてみたいです。 あ、性は関係ないですね。(- -ヾ 質問3:どんな相手と付き合ってみたいですか? ・心のキレイな人。 尊敬できる人。 これも性は関係ないですね。質問4:自分の自慢できるところはどこですか? 私が男性に生まれていて自慢する所ですか? やっぱり性には関係ないですが・ジグソーパズルが得意。・因数分解が得意。・地図を頭の中で立体的に組み立てる。・こまい仕事は任しとけ!・おはじきがすごく得意だった!(ハンデで左手でしても完璧だった)・猫や犬と遊ぶと超興奮させる(良くない事か?)質問5:どんな格好をしてみたいですか?・ゲットバッカーズの十兵衛 真ん中の男性が十兵衛です。これしか絵を見つけられませんでした。この人、強いんです。クールなんです。(私の対極です)(いつもハイネックの紐付きジャンパーを着ています。 サングラスが似合います。 いいなあ~私がサングラスを掛けると お笑いのネタになってしまうんです)・背広にネクタイ(きりりとしている戦闘モードの男性は ちょっと健気でいいです)質問6:どこに行ってみたいですか?・男性だからこそ行きたい所は・・・ 海かなぁ? 上半身裸で楽そうです。 飛んだり跳ねたり、身体を使うのが楽しそうです。質問7:もし自分が本当に生まれ変わったとしたら今の自分と付き合いたいですか?・自分と同じ性格の人はいやだなあ~。 自分に無い物を持っている人がいいです。 付き合うなら友人ですんごく気の合う親友となる? 似すぎていて近寄らない?質問8:このまま生まれ変わったままでいたいですか?・男性なら男性として生きますが 女性に生まれたので女性で生きていきます。 あ、生理がない分男性の方が楽かな? あ、ブラを着けなくていいから男性は楽なか? でも赤ちゃんを産めないから、女性でいいです。質問9:このバトンを5人の友達に回してください。・人に頼むのが苦手なんです~~。う~~。 でも、この間muckyさんのバトンをしたので muckyさんにお願いします~m(_ _)m あ、この間gizzさんもやってくれたので もし気が向いたらやって下さい。 ちきんたったさんも気が向いたらやって下さい。 娘にも頼んでしまおうかな。バトンをお願いする人m(_ _)mmuckyさんgizzさんきちんたったさん娘(生うさぎ)●息子の懐猫●息子の手に掛かるとおとなしくなるく~たんです。 私が抱くとふーーっと怒る~たんです。なんで息子の言う事は聞くんでしょうね?ね?・・・ね?
January 8, 2006
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●エデンプロジェクトのご案内●Pepepewさんがコメントでストーンヘンジの事を書いておられました。私はイギリスなら他にウェールズの森と、そう言えばエデンプロジェクトに行って見たいな~と思い出しそれなら日記で紹介しようかなと思い付きました。イギリスのコーンワォールの丘陵地帯に広がっている蜂の巣のようなドームハウスや沢山のハウスの巨大植物園とでも言いましょうか。世界中の気候を作り出して世界中の植物を集めて育てたり保護したり研究したりしている所です。私は2年ほど前でしたかNHKの番組で見ました。あまりのスケールに驚き、流石に植物を大事にするお国だと感心しました。自分の国や地域の事だけではなく地球規模で行動している大きさに感動しました。それで一度行ってみたいと途方も無い希望を持ったのでした。写真を見ただけでスケールの大きさが伝わると思います。是非、載せた所のペパーミントグリーンをクリックして見てください。植物という素晴らしいものをクローズアップしたでも声高に地球を守ろうとか植物を守ろうと言うのではない良いものの認識を新たにして行こうと言う以外に地味で実直な意図が心に響きました。■edenproject.comのHP■eden projectここはエデンプロジェクトのHPです。■TECHNOLOGY 2002年1月16日付けの記事■「イギリスの新名所:地球上のさまざまな気候帯を再現する巨大温室(上)」― エデン・プロジェクトの基本的なテーマは「植物と人間の密接な関係、そして持続可能な発展の必要性」というものです。―と言った記事と写真が載っています。■素敵な宇宙船地球号 [第319回]2月1日放送■「生命を宿す巨大ドーム」すでに放送していたんですね~~。知りませんでした。■BIOCITYの記事■「アートと新しい生態学」建造物としてのハニカムドームを取り扱っています。■世界の庭を訪ねて・イギリス■http://www.gardeners-club.net/world_niwa/uk/2002_8_23/vol.6/uk_6.htm「エデンプロジェクト」■北海道技術士センター,2003/02,コンサルタンツ北海道No99,28-34■「エデンプロジェクト ―人間と植物の関係の再生を考える―」是非クリックして眺めてください。
January 7, 2006
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目を閉じると何が見えますか?私は一日に何度か目を閉じます。すると直前まで見ていた残像が見えます。テレビ大好きっ子の私は大抵テレビのふざけた画面が残像として脳裏に甦ります。それは脳に刻むにはあまりに悲しいので私がいつも自分の気力ですり替える映像は遠くになだらかな線を見せている山並みと真っ青な真夏の空です。雲一つ無い真夏の青い空。私は根性で残像を切り替えます。すると爽やかな青空に心が洗われます。そして遠くの山並みに心を癒されます。気持ちが落ち着いてすっきりします。これはいつもそうです。毎日数回行います。多分、心を静めようと思い浮かべる風景はきっと自分の原風景なんじゃないかと思います。皆さんの原風景はどんな景色でしょうか?世界は常に一定の速さで動いていますがそれを切り取るには写真という手がありますね。でもこれを憶えていたいと思った時はその瞬間に目を閉じると残像が残って脳に刻み込まれるんじゃないかと思っています。不思議ですね。動いている事も一瞬一瞬の連続なのに目を閉じた瞬間だけが脳に刻まれるのは。私は印象深い事はビデオテープのように映像をはっきり憶えています。友達に「この時にあの人がこう言ってそしたらあなたがこう言って、次にこの人がこう言ったので私がこう言ったんだよね」と言うと「なんでそんなにはっきり憶えているの?」っていつも言われていました。多くの人があんまりはっきり憶えているわけではないとその頃初めて知ったのでした。人によってそんなに違うなんて記憶って面白いですね。皆さんは目を閉じて思い起こす風景って何かありますか?●じゃれるく~たん●く~たんは息子のネックレスに目がありません。チェーンに指輪が二個ぶら下がっている物です。とっても堪らないらしいんです。置いてあるのを見つけると必ずチョイチョイします。 何度も何度もじゃれて下に落として追い駆けてチョイチョイします。 もう絶対じゃれます。何がそんなに面白いのかなぁく~たん。
January 6, 2006
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●ふゆゆん亭の由来●「ふゆゆん」という単語は全くの造語です。今日は「ふゆゆん」の由来を書いてみようと思いました。と言いましても、ノリでわいわい騒いでいる我が家ですから大層な由来では全くありません。うちの娘(中1)は色んな単語で気持ちを表現します。最近は「プーー!!」と高音で激しく言うとお腹がすいたよ!っていう意味です。低音で「プー」と言うとパソコンを使いたいよ、と言う意味です。他にも色々「プーー」で表現します。私は状況と声の高さや表情を見て判断しています。娘は「プー」しか言わないのに私が当てると「どうして解るのぉーー!!!」と騒いだりします。ふふん。伊達に13年一緒に暮して来たわけじゃないもんね~~~~ヽ(。_゜)ノそんな風にピー(娘)にはピー独自のピー語があるんですね。そして4年~2年前頃のピー語は「ふゆ~~~」でした。激しく叫ぶ「ふゆ~~っ!!!!」落込んでシオシオしている「ふゆ~・・・」↓↓↓↓↓楽しげにうきうきしている「ふゆっふゆっふゆっ」いじけている「ふ~ゆ~~」そんな風にいろんな場面で使うバージョンが沢山ありました。それで私の生活の中では「ふゆ~」が沢山沢山溢れていました。そんな中でパソコン生活を始めた3年前にピーと私が応援しているLeadのファンサイトに初めてお邪魔して書き込みをする時にハンドルネームを書かなければならず想像力も発想力も貧困な私はすんごく困ってしまっていつもピーが表現の素となっている「ふゆ~」を使ってしまおうと思い立ったわけでした。でも「ふゆ~」では心許なかったので「ふゆ」になにか付けようと思い語呂の良いところで「ゆん」を付けちゃって「ふゆゆん」にしたんですね。その場だけで付けたネームが3年もの間使い続けてしかもブログの名前にも付けてしまう事になるなんて思いもよりませんでした。ブログも内容や意図が解らずに始めたため何と言うか、その場しのぎに付けた名前です。そう、一度もバイトをした事さえないんですが喫茶店が大好きなんですね。人がそれぞれの生き方を抱えながら喫茶店で一時の安らぎや楽しみを感じてそしてまた自分の生活に帰って行くと言うのがとってもいい感じがして、一度やってみたいのが喫茶店なんです。それで「亭」を付けました。まさか沢山の人が来て下さるとかコメントを下さるなんて思ってもいなかったので沢山の人と関わりを持っている今がすごいなあ~と思っています。単に読書のメモを書いておこう位にしか思っていなかったのです。こうして「ふゆゆん亭」になった訳でした。しばしば苦しい事も書きますが自己改変中に付きお許し下さい。そして今後も宜しくお願いします~★m(_ _)m★●冬越しのカモミール● タネを蒔くのが遅かったらしくて成長が季節に追いつかずに未だに花も咲かせず7~8センチ止まりのカモミールです。●舌出しく~たん● 珍しく舌をチロッと出して寝ていたく~たんです。舌を出している写真は初めて撮りました!!! アップでしゅ~~~♪●猫だ!● 最近めっぽう猫らしくなって来たく~たんです。 首輪はお友達が組み紐とビーズで作ってくれたものです。 最近こんな風にじっとしているようになりました。大人になったんですね。
January 5, 2006
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muckyさんから「17歳バトン」が来ました。ヒイィィィ~~~ッ!!!!遠いですね、17歳を思うと。言いがたい思いがどっしりとやって来ます。挑戦してみますね。●17歳バトン●【Q1】17歳の時、何をしていた? 高校3年生でした。 混乱の生活の中、いろんな事をしていました。 幼くて愚かな若者でした。ヽ(。_゜)ノ 【Q2】17歳の時、何を考えてた? 親への反抗心から、真っ直ぐに考える事が出来なくて 友達とも精神的な話が出来る人がいなくて孤独でした。 一人の時はいつも泣いていました。 自分を理解してくれる人を渇望していました。 それで架空の友人を作り出して話し掛けていました。 毎晩本を読んでいました。 友人知人から頼られていました。 毎日人の事で奔走していました。 世の中は狂っていると思っていました。 子供の私が解る事が沢山あるのに 戦争ばっかりしている、不公平で理不尽な 狂った世界だと思っていました。 小学4年で思った「汚い大人になる前に死ななければならない」 をまだ思っていました。 20歳になる前に死なないと、心の汚い大人になってしまうと 本気で思っていました!!!【Q4】17歳でやり残したことは? 音楽。 好みが一緒の人を本気で探してやれば良かったな~~。【Q5】17歳に戻れたら何をする。 心の平安を取り戻すために正直に心を出す。 我慢ばっかりしていて、感情を飲み込んで一人で泣いていたので 親に何を言われようと殴られようと叩かれようと 非難されてバカにされようと罵られようと 思った事を口に出して本気をぶつけて闘えば 私は少しは変わったかもしれない。【Q6】17歳に戻っていただきたい5人 やっぱり人に頼むのが苦手なので やっていただける方がいらしたら是非にやって下さい。m(_ _)m
January 4, 2006
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風邪のために昨日は一日ゴロゴロしていました。今日もほぼゴロゴロしていました。下手に動くとぶり返すんです。悪化しないだけ以前よりは元気になってきました。以前は週に2~3回風邪を引いていました。つかりほぼ毎日風邪を引いていました。●ゴロゴロしながら今日見たテレビ●「笑ってコラえて地球上の不思議な所で大あばれSP」の再放送を見ていました。所さんのこの番組は暖かくて大好きです。この番組を見ていると日本人っていいなあ~と思います。番組の中で外国で活躍している日本人を勝手に表彰してしまうコーナーがあります。この時は、ネパールで長年果物を育てる指導をしていた近藤さんという80代の男性を表彰していました。この方は50代でネパールの果物指導を始めて67歳で退職した後に自発的にネパールに渡って貧困に苦しんでいたヒマラヤの麓のムスタンと言う草も生えない所に出掛けて行って日本の米を育てる指導を頑張った方でした。果物指導をしていた時にムスタンに一度訪れてあまりの貧困さを見て何とか助けたいと思ったそうです。それで退職した後で出かけて行き草も生えずに肥料気が無い農耕をした事の無い山岳地帯のムスタンでまずは肥料を作るための牧草作りから始めて米が取れるようになるまでに6年ほど掛かって頑張りぬいて、世界一高い所で米が取れるようにしたそうです。ネパールでは「果物の魔術師」と呼ばれていたそうですが米を取れるように指導を始めて「米作りの魔術師」と呼ばれるようになったそうです。しかも毎年一校ずつ学校を作って近藤さんがネパールで作った学校は今では16校もあるそうです。他にも病院を作ってネパールの人達の幸せのために頑張っています。「肺結核を患ったために戦争に行けなかったので、友達の戦死の知らせを受け続けていて自分だけ生き延びたので誰かのために役に立てたらと思っていました。ネパールに果物指導で行って私が役に立てる事が解ったのでネパールの人が幾らかでも幸せになったらと思ってすぐに戻りました。」と言うような事を話していました。以前にもこの番組は見たのですが何度見ても泣けてしまいます。なんて利他的な人なんだろうと思います。それで忘れないようにここに記しておこうと思いました。日本人でもこんなに利他的に豊かに行動して喜びに満ちた生き方をしている人っているんだな~と思いこんな素適な人を教えてくれた番組に感謝しました。悲しい番組やニュースが多い中、喜びや幸せを教えてくれる番組がいつまでも続くといいなと思います。私に足りない物。それは目標。漠然と日々を過ごしているから何も生す事無くだらだらと生きているんだろうと思いました。●ゴロゴロしながらチク縫いした子枕カバー●起きて動けなかったのでゴロゴロしながらもう一つ破けて悲惨さを露呈していた小枕の惨状を救わんと頑張りました。昼寝用の小枕?とでも言う物です。 私の怠慢な日常が現れている悲惨な小枕です。今回はこの布の切れ端で作る事にしました。ピーのクッションに使った布はもうありません。 これも俵型です。手でちくちくとチク縫いしました。 小さいので寝ながらでも簡単に出来ました。 ピーのクッションと比べるとこんな風です。 今年のゴロゴロしつつ仕上げた仕事二つです。●昨日の夕陽は柔らかでした●冬の夕日は優しげでした。 夜になったら雲一つない星空でした。●今日のく~たん●耳が尖ってこちらを気にしているく~たんです。最近「ウーー」と口を閉じて密かに鳴くく~たんです。●ゴロゴロしながら頑張ったナンプレ●具合が悪くて頭が働かなくても脳が要求します。何かをしたい、と。それでゴロゴロしつつ出来る楽しみ「ナンプレ」をします。数字のパズルです。数字が関係した物が大好きです。ソロバンも好きでした。これが普通のナンプレです。 こんな風に数字を生めて行きます。この変形ナンプレが一番するする解けて楽しいです。 去年間違って「難問ナンプレ」を買ってしまい一問を解くのに4~5時間も掛かってしまってちっとも楽しくなかったのでした。やっぱりするする解けないと苦しくなりストレスが増えるんです。この「ナンプレマガジン」はやりやすくて楽しいです。本当は夫のリハビリにと思って取っておいたのですが夫がなかなかしないので私がやっちゃいました。●今日は雪が少し降りました●雪のアップを撮りました。本当は結晶を映したかったのですが余り寒くないので結晶までは出来ていませんでした。
January 3, 2006
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昨日は夜から寒さを感じたせいか、今日は具合が悪いです。風邪を貰ったみたいな感じです。腰や足が痛いです。昨日公園をうろついたからかもしれません。かなり丈夫になって来たと思っていたのにやっぱり弱い私はまだ乗り切っていませんね。まあ、寝込んでばっかりの日々でないだけかなり回復して来たのですが。昨日は息子の要請に応えてカラオケに車で送り迎えをしました。歩いて出掛ける前は息子はコート無しでした。トレーナーとGパンに毛糸の帽子とマフラー姿でした。私「それじゃ寒いんじゃない?」息「暑いよ」私「夜になったら絶対寒いよ」息「いいよ」私「だって暑かったらコートを手に持っていればいいよね。 それじゃ寒いよ」息「手に持つとかって俺嫌いだ」私「じゃあ腰に巻くとか」息「イヤだ」私「風邪を引くよ」息「イヤ引かない」なんて言ってトレーナーで出かけたんですよ。その後電話を掛けて来て「カラオケまで乗せて行って」うちの所はカラオケ店まではどこもかなり遠いんですよね。調度空白地帯なんです。友達と3人でいた息子は歩きで40分がイヤだったらしいです。甘い母の私は行ってあげました。少し前まで、友達を見せないようにしていた息子です。親に見せても大丈夫だと思うようになったんですね。以前はもしかしたら私が色々注意をしたかもしれません。だから友達に会わせたく無かったんですね。私も変わって来て、良い関係になった実感がありました。夜も8時過ぎに電話を寄こして「迎えに来て下さい」と低姿勢の態度でした。(笑)昨日の友達は先日泊まりに来た人達とは違っていて中学の同級生達でした。私に対してキチンと挨拶をしたり、敬語で返事をしてくれたりしました。誠実な態度で接してもらうととってもうれしいですね。それで昨日の「かくし芸」に出ていたLeadを見れませんでした。(;_;)再放送に賭けます!!!娘に頼んでビデオには録っているんですけどね。滅多に出られないテレビ出演ですからね。●冬の公園● 昨日行った公園です。 昔は桜の木が沢山あるだけの沼のある公園でしたが今は大きな立体的な玩具があちこちにあったりバーベキューが出来る所があったり、立派に整備された大きな公園になりました。●カモさんかな?●私は鳥には詳しくないので明言できないんですがカモ、じゃないでしょうか?昨日の喧騒の中で、何故か外れた所にいました。それでとても気になりました。 そして二羽のカモさんが胸をつき合わせてむぎゅむぎゅしていたんです。 最初は仲良しなのかと思ったんですが良く見ると怒っていたみたいです。ケンカしていたカモでした。みんなから外れた所でひっそりとケンカしていたカモさん二羽。これが印象深かったです。●カゴ猫●洗濯物を畳んでカゴに入れておいたらく~たんがちゃっかり入り込んで落ち着いていました。ピーのTシャツの上で寛いでいました。 あ~~あ~~~。毛だらけになるよ~~。 と言っても誰も除かさないんですけどね。今熱を測ったら微熱が出ていました。ああ~やっぱり風邪を引きました。頭が悪いです。しっかり考えられないです。でも買い物があるんですよね。光線治療します。皆様お休みなさい~~~♪
January 2, 2006
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今日は娘のクッションカバーを作りました。中のパンヤがはみ出てボロボロになったのを息子が持ってきました。「もうダメだ」と笑う息子。それでカバーを作りました。ミシンは重いし移動が大変なので手縫いにしました。時間は掛かりますが手縫いの方が好きです。以前は洋裁が大好きでした。でも最近は何かを作るという気力が無くなってしまいここ2~3年は何も作りませんでした。すごく久久の洋裁でした。ちくちくちくちく・・・・・。手で縫っていくのは楽しいです。 放っておいたらぼろぼろになっていました。 布は私が勝手に強そうな布地を選びました。 残り布なので端っこを縫い付けました。 俵型のクッションです。二重に縫いました。 これで仕上がりました~♪しばらくは持つかと思います。楽しい初仕事でした。●白鳥にパンをあげに行きました●冬鳥が飛来する沼に行きました。食パンを持って出掛けました。物憂げな弱い日差しの冬の太陽が心細げに照っていました。 沼の半分は凍っていました。冬鳥が沢山いました。 白鳥は少なくて他の鳥が沢山いました。パンの取り合いで壮絶な闘いになりました。 白鳥にパンを投げると、小さい他の鳥が先に食べてしまい白鳥はなかなかパンを食べれません。それで手からパンを白鳥に差し出すと指ごと食べられました。私の指は強かったので平気でしたが娘の柔らかい指はかなりダメージを受けました。だけどここには白鳥が少ないんですもん。対岸の奥の方にはきっと沢山の白鳥がいると思います。今度はそちらに行って白鳥にパンをあげようと思いました。鳥を見るために沢山の人達が来ていました。えびせんをあげていました。「えびせんて鳥の身体にいいのかな?」と娘は聞きました。「塩を沢山使っているから良くないね」と言うと「油も使ってる」と娘。ですがこちらの立派な公園に来る人達は沢山の白鳥には会えないんですね。実は対岸の住宅街の端っこに沢山の白鳥が潜んでいる事を大抵の人達は知らないんですね。その住宅街に住んでいる人達しか知らないと思います。その町内会では学校給食の残りを貰って来て白鳥に与えているようです。今度は沢山の白鳥の写真を撮ってきますね。
January 1, 2006
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