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昨日、鎌倉武士の念死修練と言う言葉を知りました。
鎌倉武士はいつ死んでも良いように、常に修練を常に重ねていたそうです。
1.昼と夜の一日中、24時間
2.昼間の間、12時間
3.昼間の半分
4.食事の時
5.一膳の時間(お椀一杯食べる間)
6.半膳の間も
7.食を一口飲みこむ時間も
8.一息(息を吸って吐く間)
それくらいの生きざま、生死一体の生き方だったと知りました。すごいと思うと同時に、聖書の言葉を思いました。
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。ローマ書14:7-8
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。ピリピ書1:21
イエス・キリストとともに死に、イエス・キリストともに生かされている恵みに感謝しつつの、今日もまた天国の一日です。
ローマ書
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。