浜松中納言物語 0
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「南京旅情72」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の旅の中でも雨花台には日本人はあまり訪れない場所であると聞いた。中国人の間では雨花台は有名であり特に新民主主義革命の記念碑が知られる。記念碑が立ち並ぶが記念碑と記念碑を結ぶ遊歩道には自然の木々の風景に心和む。雨花台へ行く前に近代革命史を勉強して行くと良いが中々時間が無く大変である。雨花台は国民党に反発する革命家や共産党員ら約10万人が処刑された場所であり処刑された革命烈士達の冥福を祈る場でもある。 写真は1979年に造られた「烈士群彫」である。中国の革命の為に亡くなった人達を記念する。写真でも分かるように皆の表情は厳しい。そして皆の見つめる先には明るい未来があり革命のために命を捧げた人々である。両手を縛られ自由を奪われているが皆の目には死んでも屈服しないというような国を愛する志士の姿を見るようであった。
2011.04.28
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「南京旅情71」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台革命烈士紀念碑で沢山の鳩が観光客の撒く豆を求めて集まっていた。私は中国人の若者にポーズを取らせてシャッターを繰り返し押していた。革命烈士紀念碑の石段を下りて行くと重点文物保護や青少年教育基地などの社会主義教育の重要施設があった。写真の「拍照」の意味は「写真を撮る」で「禁止拍照」の意味は撮影禁止の意味。中に入ると全てが撮影禁止でフラッシュを光らせ撮影していた中国人が2人の警備員に捉まれ追い出されていた。私はどうしても撮影がしたくポケットに準備していたリモコンをカメラに取り付けた。警備員から死角になる所でリモコンコードを袖口から入れ込んでカメラを首から下げシャッターを切るときは軽く腕組みをした。フラッシュは使わず広角で撮影したがブレた写真になっている。広角画像をトリミングして見れるように調整した。上の絵は毛沢東の若い頃、江西省安源へ向かう姿を学生が卒業制作として描いた作品。この「毛主席安源へ赴く」の絵は後に高い評価を受けた事は言うまでもない。
2011.04.27
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「南京旅情70」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台は革命烈士の陵園と言われる程に革命のために死んで行った烈士の像が多く立ち並び歴史を知る者に取っては堪らない場所ではないかなどと思う。雨花台には毛沢東の伝説が保存される革命烈士紀念館や革命のために命を散らせた烈士の像の烈士群彫。雨花台革命烈士紀念碑の要塞のようなコンクリートで出来たスペースに入ると全国重点文物保護単位の毛沢東の銅像や胸像が少なからず置かれていた。写真は平和を象徴する「鳩」である。だが中国や香港での鳥料理の中でポピュラーな鳥が「鳩」であり驚いた。私が初めて鳩を食べたのは香港だった。中国のお客様から「美味しいでしょう」とレストランで出されたのが鳩だった。鳩が目を閉じ、じっと私の方を向いており、私は暫しの間、何とも言えない気分だった。鳩が飛び交い人懐っこい鳩を撮影した後後ろを振り返ると広大な雨花台烈士陵園の姿が目前に広がりシャッターを切った。
2011.04.26
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「南京旅情69」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。ホテルを出て南京の市バスで雨花台へ行ったが雨花台バス停は幾つもあった。以前訪れた雨花台へは団体ツアーでバスの中で眠っていようが問題なく雨花台へ着き無駄な時間は無かった。だが一人旅でタクシーを使わずに市バスを乗り継ぎ雨花台へ行った。タクシーに乗って行けば簡単だが市バスに乗り皆の生活空間の中に身を置く事で何となく癒されていた。私が着いたバス停は雨花台南門だった。だが実際には雨花台北門のバス停へ行かなければならなかった。北門と南門とでは正反対であり観て回るコースも全く違っていた。やっと雨花台革命烈士紀念碑の前に来た。雨花台は国民党と共産党との戦争による犠牲者を祭るのが本来の目的では有る。だが中国人は1984年以降、中国の教科書の改ざんで旧日本軍に殺された中国兵士を弔っていると歪められ理解されていた。
2011.04.25
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「南京旅情68」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台の路上で売られている雨花石。私が始めてこの地を訪れたのは2001年の初夏の事だった。雨花台のあちこちで見かけ雨花石。どの売り場へ行っても大きな容器に水を一杯にして、その中に雨花石がひしめくように入れてあった。ほとんどの観光客が水の中に手を入れ下の方に、もっとカラフルな雨花石が有るのではとかき回していた。その光景は、どこの売り場に行っても同じであり、売られている雨花石も同じようにガラス細工に見えたものだ。雨花石は昔から多くの人に愛されて来た。雨花石は天然の芸術品であると共に見ていると様々な模様に見飽きない。だが3回目となる雨花台では売られている雨花石が本物か偽物か分かるようになる。写真の雨花石は真っ赤な偽物である。偽物と納得して買えば腹も立たないが、写真のガラス細工を雨花石と思い買えば後で後悔し腹立たしくなる。雨花石は生きている化石と言われて来た。今まで多くの人が採掘し規制がかけられ希少価値な雨花石である。写真の雨花石は1つで2元(28円)で売られ中には3つで5元で売られている所もある。
2011.04.24
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「南京旅情67」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石博物館を出て30mほど歩くと前方に水の少なくなった川原で母親と子供たちが雨花石を拾っているのが見えた。私はレンズを向け、綺麗な雨花石は拾えましたかと聞きながらシャッターを切る。母親が「博物館で見た色鮮やかな雨花石は見つかりませんが・・」と掌の中の拾った石を見せてくれたが柄も色も良くなかった。私が水の中に浸せば綺麗に見えますよと受け売りの言葉を話していた。少し歩き振り返ってみると雨花石拾いは止めたようで川原を3人で見ていた。一人旅の私は先を急ぐことも無く歩いて行くと「雨花石の歌」と彫られたモニュメントの前に出た。モニュメントは六角形で24枚の花崗岩を磨いて張り合わせてあり、その上にはステンレスで作られた8分音符などが雨花石の歌の字と上手く調和していた。私がシャッターを押すころには先ほどの川原で雨花石を拾う親子も来ていた。「雨花石の歌」は中国観光地の歌曲大会で第一位を獲得した記念としても写真のモニュメントが作られたと聞いた。雨花石の歌の歌詞の一部夜明けを迎える度に喜びを分かちあいたいその思いを満たすために土壌に埋まった私は今日も貴女のやさしい手で拾われるのを待つ。モニュメントから左に折れ丘から流れる水の音に呼び寄せられ暫くたたずむ。入場チケットの裏側を見て次の革命烈士陵園に向かったが、前方に先ほどの親子が歩いていた。他に観光客が歩いてなく道が広く感じた。
2011.04.23
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「南京旅情66」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石博物館は1988年に着工し、1990年にオープンしたが1997年に博物館はリニューアルされた。雨花石博物館は5つのホールに分かれているが、始め分からずに出口から入って行ったので第1ホールへ案内された。第1ホールには雨花石の絵が展示されていた。写真は第3ホールで撮影した雨花石だが本当にニスが塗られているような光沢だった。写真は、いくつもの棚に仕切られた中に貴重な雨花石が展示されている光景。第2ホールに雨花石が展示されていた。また古い雨花石の展示、そして有名人が雨花石を持つ写真と雨花石の詩が綴られ第3、4、5ホールには百数十件の石が展示されており撮影は禁止されていた。詳しくは読めなかったが唐代からの大量の雨花石の文献が記載されていた。
2011.04.22
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「南京旅情65」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。20年ほど前は雨花石が沢山拾えたと話す。だが、最近では観光客が多くなり雨花石を買って行くので業者が増え現在では探すのも難しくなったとの事。雨花石は天然の瑪瑙メノウの一種である。昔は雨花台でも採れたが、今では隣接する南京の六合や儀征の一帯で採っている。雨花石は奇異な筋模様や透き通ってきれいな性質が世に知られている。写真は雨花石博物館の中で撮影した。1990年4月に南京雨花石博物館が正式に対外開放された。雨花石博物館では雨花石の文化を広めるために石を収集して保存や研究また展覧が主な役目である。館内には多くの雨花石が展示され始めて見るような石を観て回った。だが、30分ほどの間、観光客は誰も入っては来なかった。
2011.04.21
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「南京旅情64」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石はパワーストーンと言われている。石や岩が人の願いを叶えるとされておりまた石や岩は独特の波動を放つとされその波動は人々の願いに同調してより大きな波動となり別の世界に向け発信し願いを叶えるとの事。その話を聞いたとき、私は思わず吹き出して大きな声で笑ってしまった。だが実に不謹慎と反省もしているが本当なら私も願いたいものだ。雨花石(うかせき)は昔から多くの人に愛されて来たのは天然の芸術品であると共に、見ていると様々な絵に見えて来る。その絵は人物や花、風景、また動物など多数あり、実に生き生きとした姿が見れる。それは自然が造り上げた芸術品であり全く人の手が加えられていない。
2011.04.20
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「南京旅情63」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真のブロンズ板は雨花石の伝説を彫刻であらわしたものである。南北朝である6世紀初めのころ南京郊外の丘で説法をする高僧を彫った。真ん中で説法する僧は嵩山の少林寺で達磨に面会し弟子入りを請うた慧可であり禅宗の悟りを開いたことでも知られる。伝説によると慧可(エカ)が丘で説法する話を聞いた天が説法の内容の素晴らしさに感動し綺麗な花を雨のように降らせたという。また花がひらひらと舞い散ると色鮮やかな石になったという。その舞い降りた色鮮やかな石を雨花石と呼ぶようになったということだった。慧可が説法を行った丘を雨花台と呼ぶ。雨花台は、その後革命家を処刑した事でも世に知られるようになったが景勝地として多くの観光客が訪れるようになっている。五色の小さな石になった伝説から「雨花石」の名前の由来にもなった。
2011.04.19
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「南京旅情62」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区のゲートの中へ入ると文化区の中央に池があり、池の上を木造の七曲橋があり、池の中に目をやると雨花石が沢山あった。雨花石は水に浸かると石独特の色合いがにじみ出ると言われている。だがこの小川のような池の中に敷き詰められた雨花石には色合いもくすんで見えたが、今は貴重な雨花石を誰でも取れるような所へ置いておく筈もないと思いながら撮影した。この敷地内に雨花石博物館があり博物館の中へと入って行ったが中には光沢のある色模様の雨花石が並べられており一部許可を得て撮影した。
2011.04.17
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「南京旅情61」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区の中に入り観光客を見掛けないために、なんとなく異様な雰囲気を感じていた。その異様な雰囲気と天に手をかざす手の平のモニュメントも手伝い第二次大戦で1千万もの中国人が命を落とした事より日本人による30万人大虐殺の事が気になった。モニュメントは天より花が雨のように降ったという伝説を表現したものである。だが、天より降り注ぐ花を掌で受けているモニュメントだが、私にはそのモニュメントがもうこれ以上私たちを殺さないでと懇願しているように思えてならなかった。
2011.04.17
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「南京旅情60」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国へ来た当事の1994年の事であるが南京の事はほとんど知らなかった。と、いうのも南京大虐殺のことで中国の人から攻められる事がよくあった。私にとって南京大虐殺の知識はそれほど多くはなく返答に困った。本来なら雨花台の画像のページで南京大虐殺の話を持ち出すべきではない。それは分かっていてもモニュメントを目の前にし、どうしても結びつけてしまう。南京大虐殺30万人とは中国共産党とアメリカ政府が原爆投下を正当化するためでっち上げたものだと論議されている。だが、そんな事を中国人に弁解してもどうなるものではなかった。
2011.04.16
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「南京旅情59」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区と彫られた石碑の前に来た。中国人のツアーバスで参加する人たちは雨花台の正面ゲートより入る。私は、一人の行動で勝手に市バスに乗り着いてみれば雨花台でも全く反対側のゲート付近で降りてしまった。入るときに以前来た雰囲気と相当違うので不思議にも思ったが、一般観光客はこのゲートからは入らなかった。 また現在私が立っている雨花石文化区は時間のある人が、立ち寄るところだと後になってから聞いたが笑うしかなかった。一人旅で時間に制限があるわけでもなくのんびりと雨花台の中を見ることができた。上の写真の岩に彫られた「天降花雨」の文字は文字通り、天から花の雨が降って来た伝説を岩に文字で彫り表したものである。
2011.04.15
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「南京旅情58」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台と書いて「うかだい」と読み雨花石と書いて「うかせき」と読む。だが、日本語読みの場合はそうだが中国語では雨花台をユーフアータイと読み雨花石をユーファースーと読む。日本の25倍の広さがある中国の中でも南京の雨花台一帯でしか採れないという。雨花石の名前の由来は雨花台で採れたので雨花石と呼ばれるようになったとか。雨花石は330万年前の火山活動で瑪瑙に微元素が入り込み長い年数を掛け、写真のような模様が生まれた。 雨花石の表面は光沢があり、人工的に色を塗りニスをふき付けたようである。半透明のガラス細工にも見える石だが余りにもカラフルな感じの雨花石は偽者のガラス細工であるので注意が必要である。雨花石を採り研磨する前の石を見て感じたことだが、磨く前は石がくすんでいるが水に浸して見ると、その美しさが出てくるようだ。だから売られている雨花石のほとんどが水を一杯にした容器の中に入れられている。
2011.04.14
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「南京旅情57」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台は南京南駅の近くに位置する。中華民国時代の革命烈士の処刑場であり多くの革命家たちが処刑された。予定の行動では、雨花台の入口ゲートを潜ると革命烈士群像が見えてくる筈だった。 写真でも分かるとおり生態密林区の中へ入って来たが何となく迷い込んだ感じがした。雨花台は国家AAAA級風景区に認定されるが表側入口ゲートを入った所の建物を総して4A級風景区に指定されているのではと思った。つまり予定していた雨花台革命烈士紀念碑や烈士群彫、革命烈士紀念館などを認定している。私が南京路線バスに乗って来たが、遊2のバスに乗れば、正門入口に来れた。だが、観光客が歩いていない遊歩道を一人だけで歩くのもまた風情があると思った。
2011.04.13
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「南京旅情56」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京市内路線バスを乗り継ぎ雨花台へ向かったがタクシーなら20分ほどの道のりを1時間掛けて来た。雨花台は南京の南部の丘にあり歴史を紐解けば紀元前5世紀まで遡る。春秋時代に浙江省の辺りにあった国の越王勾践が雨花台辺りに築城した。雨花台の公園内には古代の史跡もある。雨花台の名は、南北朝の時代に僧侶の感動的な法話を聞いた神が花を雨のように降らせたという伝説に由来するようだ。 雨花台の公園内へ入ったものの予定の入場ゲートから入らなかったのでガイドブックの道順とは違ってしまった。雨花台の広さは150万平方メートルとかなりな広さの公園で、どうやら私は予定していた雨花台入口ゲートとは相当離れているようだった。だが、ここも雨花台の入口ゲートには違いないので観光客の少ないゲートを通り抜け中へと入って行った。
2011.04.12
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「南京旅情55」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文の陵墓である中山陵の観光を北京の大学生と共に観て回った。大学生はツアーに合流するために中山陵からバスで南京駅へ向かった。私は別れた後、バスで夫子廟近くのホテルまで帰って来たが、秦淮河の夜景を撮影するため途中で降りホテルまで歩いて帰ることにした。秦淮河の灯船は秦淮河の有名な景色で船はイルミネーションで飾られている。流れ行く灯船には観光客の話し声の他音楽や歌なども聞こえて来たいた。鎮淮橋一帯の秦淮河にある船と楼閣では毎年旧正月初日から30日までの1ヶ月間秦淮河の夫子廟一帯で金陵灯会を行う。夫子廟は南京市内の秦淮河北岸の貢院街に位置ししている。孔子を祭っている場所であるが一般的には李香君故居、江南貢院や王導謝安紀念館など秦淮河周辺から建康路周辺の地域を夫子廟と呼ぶ。夫子廟は南京の有数な歓楽街でもあり夜遅くまで賑わっている。夫子廟近くの広場では多くの若者が集まりダンスのレッスンをしていた。夜9時頃にもなると冷え込んできたが彼らはリズムに合わせ踊っていた。翌日は中国国民党と共産党との内戦の記念の雨花台へ行くためホテルへ帰った。
2011.04.11
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「南京旅情54」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文と15歳で結婚した大月薫は冨美子を生むが養子に出した。冨美子は養子先の宮川家で更に婿養子を取り長男東一を生む。大月薫が外孫の宮川東一と栃木の寺で会う事になったのは冨美子の計らいでもあり薫62歳の時だった。孫文の事を知る宮川東一だったが、初めて聞く孫文の事に戸惑うと共に孫文の知識に疎いため漠然としていた。孫文と中華民国の歴史を紐解くと1911年の辛亥革命の後1912年元日南京を首都とし中華民国を建国する。孫文は自らの軍事力を確保するためソビエトからの支援を求めた。孫文の弟子だった蒋介石は1923年孫文の指示によりソ連の軍制を視察。孫文のもう一人の弟子の毛沢東は1921年7月上海で行われた第1回中国共産党大会に出席した。孫文は1925年3月闘い半ばにして北京で死去し亡骸は南京中山陵へ。国民党の後を継ぐ事になったのは蒋介石であり中山陵造成も指揮をする。1945年日本敗戦後、中華民国が台湾を編入し実質上中華民国の領土となる。蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との内戦が続いたが1949年10月1日に共産党に敗れた蒋介石は台湾へ失脚。台湾は中国から離脱し中華民国となる。
2011.04.10
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「南京旅情53」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文は盧慕貞と夫婦であったが革命に失敗日本へ亡命し1903年から3年間大月薫と結婚していた。盧慕貞とは1915年までの30年間夫婦だったが離婚し宋慶齢と結婚。孫文と大月薫の結婚は束の間の事だった。孫文の子供を宿した薫は自分ひとりで冨美子を出産した。孫文は子供を抱く事もなく革命のために帰国した。その後孫文とは連絡が途絶えてしまった。冨美子は乳児のまま横浜の商家の宮川家に養子として出されたが、大月薫の親は薫を不憫に思い他家へ嫁に出すことにした。歳月は過ぎ冨美子は多摩から宮川家に婿養子として迎えた吉次と結婚し長男に宮川東一を授かる事となる。宮川冨美子には生みの親が一体誰なのか危険な情勢下のため知らせなかった。冨美子が薫と別れ初めて会ったのは栃木県の寺で実に48年後の事だった。冨美子の長男の宮川東一もこの時初めて自分が孫文の孫と知る事となる。
2011.04.09
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「南京旅情52」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。大月薫は再婚したが、孫文からの連絡を生涯待ち続け1970年没、享年82歳だった。大月薫の娘の名は冨美子と呼び、冨美は孫文の文の訓読みから付けた。孫文は医師として世に出るが革命思想を抱くようになり革命に敗れては、しばしば日本に亡命したが、1911年に辛亥革命後1912年に中華民国を建国する。革命に失敗しては海外や日本へ逃亡。乾ききった孫文の心に少女の薫は安らぎを与えたに違いないだろう。大月薫の家は一般の家庭で、後の妻である宋慶齢の実家のように大財閥で孫文の革命に資金を捻出出来なかった。ゆえに大月薫は歴史の中に埋もれ2009年2月まで世に知られなったのかも。
2011.04.08
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「南京旅情51」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。2009年2月の人民日報上で孫文に日本国籍の妻がいたと記事を掲載。孫文の妻は盧慕貞、宋慶齢、陳粹芬の3人とされてきたが、大月薫名の日本国籍妻がいたと公表した。横浜で大月薫と出会った孫文は美しさに心を奪われ求婚した。孫文36歳、大月薫14歳と22歳離れ親から断られた為1年後、直接求婚。2人は横浜市内で結婚式を挙げた。1906年2人の間に娘が生まれたが娘を見ないまま孫文は中国に帰国しその後、日本に戻ることはなかった。娘は生まれてまもなく養女に出された。1925年、革命未だ成らずの言葉を残して北京で永眠。孫文の棺の天井には国民党の党章のシンボルマークがある。
2011.04.07
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「南京旅情50」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の孫文の祭堂に入った。祭堂の中央に大理石製の孫文坐像が置かれている。写真では祭堂の暗さに露出が合い孫文像が白トビを起こしている。堂内の壁は黒の大理石に孫文直筆の「建国大綱」の文字が刻まれている。内部は墓室になっており大理石の孫文の寝姿の下の棺に孫文の遺体が安置されている。中国革命の父と呼ばれた孫文の中国名は「孫中山」と呼ばれる。 中華民国では国家の父と呼ばれ中国でも近代革命の先人として国父と呼ばれている。中国では尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中国広東省広州にある大学で中山大学や台湾の中山大学は孫中山の名前から付けられた。
2011.04.06
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「南京旅情49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石段を登りつめた所に孫文の直筆の「天地正気」の額が掛かっている門が見えてくる。「天地正気」とは天地の中に正気があるが流動的なものでこの正気は地上では河や山となり人に乗り移つると高揚として士気があがり胸中一杯となる。「正気」は天地宇宙の根源となるエネルギーであると考えられる。「孫子・軍学」に正々堂々との言葉がある。「正正の旗」を討つなかれ、「堂堂の陣」を討つなかれと教えた正々堂々である。整然とした軍隊や士気が上がり進軍して来る軍隊には迎え撃つなとの意味である。孫子は、戦う将兵の士気が上がっている敵には決して迎え撃つなと教えている。下の写真は祭堂の前から中山陵の牌坊を遠く望んだがココまでで392段だが降りる時に再度確認した。
2011.04.05
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「南京旅情48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石坊前の広場の南端に孫文像が立っており石坊の後側に長く広い墓道が続いている。墓道を上がった所に祭堂に入る門があり、祭堂の南側のアーチ型の3つの門がある。門の上には民族、民権、民生の文字が記されており「民生」門の上には孫文の直筆の「天地正気」の額が掛かっている。石段を上るのに段々足がだるくなり休み休み上ったが、何段あるかなど脳裏から消え去り大学生に任せた。
2011.04.04
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「南京旅情47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石段を上って行くと孫文の国民党葬が行われた事を記す碑が造られていた。中華民国18年6月1日と記されており中華民国元年は1912年であるので中華民国18年は西暦では1929年である。中山陵造成には3年の歳月を要した。完成した年に国民党葬が行われた。孫文の碑堂を抜けると何段もの石段を上らなくてはならないが、その先に孫文の祭堂があり、奥に墓室がある。 陵墓は1926年1月に起工し1929年の春に完成した。敷地内には広場や墓道陵門、碑亭、祭堂、墓室などがある。敷地は鐘の形で鐘の頂上にあたる部分は半月形の広場になっている。広場の南端には孫文の銅像が建っている。
2011.04.03
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「南京旅情46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵へ着いたのが午後4時頃でその事もあってか人出は少ない。以前来た時は午前中という事もありまた秋の行楽日和だった事もありコンクリートが見えないほどだった。午後5時で閉門になるために私たちは先を急ぎ歩いて行った。中山陵は孫中山(孫文)の陵墓であり清朝を滅ぼし中華民国を建てた孫文にまつわる言葉が掲げられている。孫文の祭堂を上がっていく石段の前に門が建てられており上には天下為公の文字が彫られ掲げられていた。天下為公は古典「礼記」の一節で天下は権力者の私物ではなく公(民衆)の為のものであるという意味である。政治的判断を下す上で政治家が念頭に置いている言葉でもあり為政者の政治理念を説く言葉の「天下為公」に由来するものである。日本でも同じことが言えると思う。最近の政治では「公」が持つ意味が不確かなものになているような・・。政治に携わる人々は、常に念頭に置き行動して行ってほしいものである。
2011.04.02
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「南京旅情45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の入口の脇でチケットを購入中国人の大学生と二人で中へ入った。私は中山陵へは今回で3度目になる。始め来た時に中山陵の石段が何段あるのか数えながら上がった。途中で何段目なのか数を読み違え340段ほどかと思っていたが392段あるとの事がわかった。2回目に中山陵を訪れた折に再度、石段の数を数えてみた。だが、350段ほどしかなかったので、また数え違いをしてしまった位にしか思わなかったが、今回学生にも伝え数えてもらうことにした。孫文の陵墓を造った折、中国の人口が3億9千2百万人で392段とした事を告げた後、石段の数を確認して行った。
2011.04.01
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江蘇省---南京旅情44「南京旅情44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上の写真は南京の鷲峰禅寺の傍の金網のフェンスが少し破けておりその穴から川へ行き撮影した。冬でもあり少ない観光客であったがそれでも中国語が時折聞こえてくる。時には笑い声が聞こえる中で川岸の静かなたたずまいの雰囲気を撮影。雰囲気は伝わるだろうか・・。 午後3時過ぎほどに中山陵へ向かった。中山陵は中華民国の父の孫文の陵墓で1929年に完成し墓の規模は大きい。孫文は中国では孫中山と呼ばれている。封建制度を打開し民主国家建設への扉を開いた人物の墓に相応しい。歴代の皇帝の陵墓が並ぶ中であるが中山陵は歴代皇帝の陵墓に劣らない。
2011.03.31
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「南京旅情43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京鷲峰禅寺の本殿から四天王殿へ入ったが木材を上手に彫り繋ぎ合わせて四天王の姿に出来ていた。彫刻職人の手により彫られた各パーツがボルトで止めてあるのが分かった。原色の塗料が四天王の体や衣服に塗られた鮮やかな姿もよいが木目の浮き出た四天王の姿にもまた新鮮な印象を持った。日本でも中国でも四大天王の名前は同じであり広目天・多聞天持国天・増長天の四天王である。欲界の六欲天の中の諸天で天に住み仏教における4人の守護神。四枚の写真で広目天は特殊な力を持った眼と四方を守る広目。多聞天は単独では毘沙門天と呼ばれ持国天は東方を護る守護神である。増長天は宝剣を持っている。
2011.03.30
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「南京旅情42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国禅寺本堂の中の造りは北方地方でも南方地方でも全く同じ造りになっている。だが釈迦牟尼世尊像の表情や観世音菩薩の表情などはそれぞれ違っている。写真は観世音菩薩の姿である。観世音菩薩は釈迦如来像の裏側に安置されている。龍の子供の背中の上に乗り多くの僧侶を従えている。素晴らしい魅了される彫り物は鮮やかな色で塗装されおり多くの人達が手を合わせて祈りを捧げている。別の観音菩薩像や高僧の像にはマントが着せられていた。
2011.03.29
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「南京旅情41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。鷲峰禅寺の本堂は撮影禁止との事。他のガイドが撮影を制止していた。私は本堂の外から望遠で撮影した。だが手ブレを起こしてしまうのでレンズを入れ替え中で素早く撮影した。本堂には三尊形式の仏像が安置されていた。左に観世音菩薩、中央が釈迦如来が安置右側は弥勒菩薩が安置されている。過去世・現在世・未来世から見ると釈迦如来は過去の仏で観世音菩薩は現在の仏、弥勒菩薩を未来の仏である。釈迦はインド菩提樹の下で悟りを開き弟子たちにお教により説法を続けた。始めは簡単な教えの小乗仏教から入り弟子たちが分かって来たところで大乗仏教へと教え導いた。だが弟子たちの悟りのとらえ方が皆それぞれ違ってしまった。現在でも仏教は多枝に分かれ統一など全く出来ないが、弥勒菩薩の誕生は未来の仏として説きあらわしている。
2011.03.28
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「南京旅情40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。白鷺州公園の中に建立された明代や清代の由緒ある鷲峰禅寺の中へ入った。鷲峰禅寺の名前の由来は唐代に南京の地を訪れた名僧・鷲峰の名前が由来である。鷲峰禅寺がある白鷺州公園の歴史は古く380年ごろ東晋時代の東府城の頃の事。鷲峰禅寺は明代の天順年間に放生池の傍らに建立され、その後規模を拡大した。鷲峰寺は中国の文化遺産保護制度の一つで国務院が制定した文化遺産保護制度の中で国家級の文化遺産に対して制定されている。由緒ある寺という事もあり撮影禁止との事。私一人で行動していたので素早く撮影した。前頁の寺の門の写真で左右に獅子像があり禅寺の壁は黄色で塗られ統一されている。本殿の前の何段もの高炉を撮影した。古くは瑠璃瓦と呼ばれていた釉薬瓦が高炉の色と溶け合っていてホッとする。
2011.03.27
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「南京旅情39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園と太平天国歴史博物館を巡ったあと白鷺州公園の中に入って行った。公園沿いを流れる河沿いに明代や清時代の建造物が建てられていた。河の中ほどにある台座の上には当時の煌びやかな衣装を着た人形が飾ってあり幻想的な雰囲気がした。他の人達は河巡りのため20分程遊覧を楽しんだが私は歩いて公園内を散策した。七重の白壁の塔が見えて来たので撮影したが全体の姿は近くでは入りきらないので広角に替え撮影した。この塔は白鷺塔と名づけられており塔の前に日本語の説明立看板があった。説明には1431年明代に大報恩寺を建設する残りの材料を利用して旧院と東園の間で回光寺を建てた。また塔を建立し白塔と名づけたとある。白鷺塔の前の道を少し行くと鷲峰禅寺という寺の入口に出た。
2011.03.26
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「南京旅情38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の中にある太平天国歴史博物館へ入って来たが太平天国の乱は中国の清代に起きた大規模な宗教反乱である。ブロンズ像の洪秀全は科挙の初期試験に失敗し1ヵ月半ほど病床に臥したが老人から破邪の剣を与えられる夢を見る。勧世良言のパンフレットを手にし夢の意味を理解しキリスト教に目覚める。洪秀全はキリスト教の教えの中で特に上帝が唯一神であることを強く意識し偶像破壊を熱心に行った。 中国では儒教・道教・仏教の廟が多く破壊し上帝だけを崇める事を求めたがだがその革命は成功はしなかった。洪秀全は効果的な布教方法を模索し行き着いたのが布教文書を著した。各地で反発が強く内乱を引き起こした。太平天国の乱で2000万人の戦死者を出す。旧日本軍兵士の大戦戦死者が300万人でその事から考えると犠牲者数が多い。ちなみに文化大革命では3000万人の犠牲者が出たが文革は中国全土である。
2011.03.25
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「南京旅情37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。書画は書作品と絵画作品の総称で書と絵画という意味ではある。書と絵画が一体化した芸術である。東洋において書と絵画は一つのフレームに表現される事が多い。絵画の作者自らが賛を作品に書き入れる事を自画自賛と言う。馮智教授は南京美術家協会の会員で江蘇省花鳥画研究会の副事務総長を担当し役所の特別招聘の絵師である。馮智教授の作品は中国全国で何度も受賞し江蘇テレビ局で特別報道番組を持った事もあり香港東方書画芸術院の画集に入っている。今回弟子たちの作品を瞻園の中で展覧していたので撮影した。
2011.03.24
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「南京旅情36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の庭園造りは人工池の周りに回廊を造ってある庭園であり蘇州や杭州、上海などで見かける。幅が一間(1.8m)のものを単廊と呼び幅が二間(3.6m)のものを複廊と呼ぶ。日本での回廊も中国での回廊なども複廊であり中央から両側に回廊が設けられている。回廊の柱の色が朱色で塗られているが日本では神社に多く朱色が使われ鳥居など見事な朱色だと思うほど。中国では回廊の柱はほとんどが朱色である。日本の厳島神社の朱色の柱は目に鮮やかだが、中国の朱色はエンジ色が強い。朱色は硫化水銀を漆に混入し赤い色の塗料になり、防腐や防水など木材の腐食を防ぐ目的として塗られている。私が絵を描く時に赤を主体にして描くことが多いが赤色が放つ生命力の力強さや神秘性をも赤色から感じている。
2011.03.23
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「南京旅情35」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京市内にある瞻園の中での撮影も終盤に近づきだした所でやっと瞻園の文字が入った門を撮った。二人の女性は瞻園の中で友達になったものの毎回シャッターを押して下さいと便利に使われていた。瞻園へは夫子廟から歩いて来れるが急ぎ足で20分程掛かってしまう。夜は彼女たちと食事に出掛けたがバッグを持った方の女性が飲みすぎてしまった。ホテルまで送って行く事になり後悔した。勿論、もう一人の彼女と一緒に部屋へ入ったので問題はなかった。私の後悔とは帽子を被った方の彼女がホテルが違うのでタクシーで送り飲みなおそうとバーに行った。そこでの勘定が1700元(23800円)と予定していなかったお金が掛かった。あまり羽を伸ばし過ぎると熱いお灸をすえられてしまったという話しだ。
2011.03.22
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「南京旅情34」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。日本での庭園造りは奈良・平安時代で自然は大自然の中で獣たちがはびこり人々の生活に危険を及ぼすものだった。日本では自然美を見ようとしはじめ仏教の流布により仏像と寺の意識の中で庭園の思想が生まれて行った。中国では日本以前に仏教が流布したが庭園の意識は日本より劣っていた。日本が鎌倉や室町時代には寺院が多く建立される時期に入り庭園造りは今まで以上に盛んに造られた。中国では宋時代や元時代であり仏教寺院や石仏が多く造られたが庭園の充実までには至っていない。日本が江戸時代に入り戦国の世も終焉を迎え庭園造りに拍車が掛かった頃中国では明や清朝に入っており本格的な庭園造りの到来となる。
2011.03.21
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「南京旅情33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海などの庭園と南京の庭園はほとんど造り方が似ており瞻園でも同じような造り方であった。人工池が造ってあり、その回りに回廊が造られている庭園である。蘇州の庭園で築山が多く造られているが瞻園でも築山が半分近くを占めている。日本の庭園と中国の庭園造りとどちらが良いかとの質問を運転手が私に投げかけて来た。私自身日本での庭園は、あまり見たことがなかったと思い。日本での庭園の写真を思い浮かべたが、運転手に日本と中国の庭園にはそれぞれ良い所があるから一概に日本が良いとか中国が良いなど言えないと答えておいた。確かに日本の庭園の方が手入れが行き届いており日本人である私には日本庭園の方が心和むと思うが何とも言えないところである。
2011.03.20
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「南京旅情32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の瞻園は600年以上の歴史がある。明建国の第一の功臣徐達の府邸である。徐達は明の将軍で娘は永楽帝の皇后で朱元璋の旗揚げ時から協力し元を追って新王朝を立てるのに大きな功を挙げた。朱元璋と行動を共にして紅巾軍に参加し朱元璋が王になると徐達も大将軍に任命された。徐達は軍人としての才能に優れ江南の平定がなり明が建国された。徐達はその後も元との戦いに活躍するが、功績を立て過ぎたことにより朱元璋に疎まれるようになっていた。徐達は軍内において人望は高かった。その有能さと名望を王の朱元璋に恐れられ毒殺されたようである。朱元璋時代の明の都は南京にありその後北京に遷都するが徐達の邸宅は瞻園と太平天国歴史博物館」として現存し受け継がれている。
2011.03.19
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「南京旅情31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の中に入ると緑の多さに冬でありながら快ささえ感じる。塀の丸い出入口から庭園の緑を撮影したが思うようには撮れていない。瞻園は総統府の中にある煦園と同じく賞される庭園である。総統府の煦園より瞻園の方が大きい庭園でもあり、金陵第一園といわれる。明朝のはじめからあった庭園であり太平天国の乱のときには瞻園に太平天国の乱の指導者の洪秀全が住んだ。始めは私も分からなかったが庭園に隣接して太平天国歴史博物館があるので運転手より説明を受け納得した。 観光客が少なかったが人気がないのではなく冬でもありシーズンオフで人出が少なかった。
2011.03.18
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「南京旅情30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。古秦淮を秦淮河沿いに歩いた後、秦淮河の畔の瞻園路に足を運んだ。明の初期に造られた瞻園へ入った。瞻園は南京に現存する最も古い庭園で朱元璋が功臣のために造った。清朝に乾隆帝が南方を視察したおり庭園に泊まり瞻園と親筆した。後に藩台役所内の花園となった。瞻園は昔から築山でよく知られており築山がその半分近くを占めている。回廊も特色があり、南北に曲がり門を入ると仙人峰の石峰が目に入る。宋の時代花石綱の遺物といわれたが瞻園は何度も破壊されたが修復された。瞻園は山水が美しく独特の特色をもち南京の有名な古典庭園の一つであり日本の盆栽にも似たものも沢山ある。
2011.03.17
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「南京旅情29」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。秦淮河は揚子江右支流で南京では長江を除くと最大の川である。全長は100キロ余りの長さがある。秦淮河には南北二つの源流がある。北の源流は句容河で南は?水河である。南北の二つの源流が合流し方山を過ぎて北西へ向けて流れ南京城内へ入る。南京城の通済門外の九龍橋で秦淮河は内秦淮河と外秦淮河に分流している。写真の古秦淮は、秦淮河沿いに造られた町並み通りである。南京の夫子廟から近い事もあり大勢の観光客で賑わいをみせている。古秦淮の通りには老舗が多く入っており古い客層も多いが、それとは逆に新しいファッションショップやファーストフードの店も増えてきた。
2011.03.16
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「南京旅情28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。天下一という言葉は南京に限らず、中国の何処へ行っても見る。また日本でも多く見られた言葉だ。夫子廟から車で5分ほどの所に秦淮風味の食事を味わうことができる。肉料理と精進料理や好みにより色々な料理が用意してある。夫子廟の軽食は軽食宴や軽食会席まで中華料理の中で軽食づくしである。五味卵やシャオビンや雨花石団子など秦淮八絶軽食はもう南京軽食の代表で食事していて影絵芝居などが見られる。メニューには桃花、揚州前菜四種と海老の黒酢炒め、秦淮春大菜 フカヒレスープ 豚バラ肉の醤油煮その他8品目で450元(6300円)桜花は揚州前菜五種 クラゲとウドの和え物や鶏レバーの香辛料煮大正海老と唐辛子入り強火炒めその他10品目で600元(8400円)瓊花(けいか)となると揚州前菜六種海の幸の唐辛子入り特製沙茶醤炒め金陵ダックやアワビと新筍のスープ煮その他12品目で750元(10500円)この料金は2人分であり一人ではとても食べ切れるものではない。
2011.03.15
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「南京旅情27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真の秦淮河は南京城内を流れる河でその向う岸には龍が作られていた。また秦淮河の両岸には居酒屋が立ち並び歌い女たちが、歌を歌っていた。国王は国防には興味が無く、詩歌や芸術そして酒と美しい女性を愛して止まない。国王が酒や女に入浸りとなれば国は乱れ終には軍隊が攻め込んで来て国は滅亡した。痛ましい由来を歌にしたものが沢山ある。だが歌い女たちはそんな由来なんて詳しくは知らなくとも楽しく歌う。南京は歴史上11回に渡り都となった。古くから秦淮河あたりは優れた文人が集まり商家が立ち並ぶ地となっていた。今でも酒楼や茶屋が多くひしめき合い女性遊びも華やかに行われている。中国の法律では買春は違反でありテレビカメラも入って摘発されているがそれでも後を絶たずイタチごっこである。
2011.03.14
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「南京旅情26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私が宿を取ったのは夫子廟から徒歩で1分程の所にあり、何かと行動するには便利と思ったが宿で5泊する事となった。写真の咸亨酒店は、浙江省紹興市が始まりで老舗の居酒屋として有名である。紹興市といえば紹興酒のふるさとで魯迅をはじめ多くの人に愛されてきた。私は日本にいるときは紹興酒を飲んだ事はなく中国へ来てからである。始めは少し薬っぽい味に慣れなかったが何度も飲むうちに美味いと思えるようになり今では紹興酒無しでは落ち着かないほど。旅に出ると必ず紹興酒を探し求めホテルの部屋に買い置きをするほどだった。だがアルコール度数は17度ほどあり飲みすぎてしまうので注意をしている。
2011.03.13
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「南京旅情25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京中華門をあとにして建康路の夫子廟から少し行った所にある河へ出た。南京を代表する水路でもある秦淮河の横に造られた参道のような所へ出た。秦淮河に架かる橋を渡り参道を歩いていると李香君古居の前に出た。李香君は「桃花扇」舞台劇に登場し一躍世に名を知られるようになった。「桃花扇」は、清初の劇作家の孔尚任が1699年に完成した戯曲で「長生殿」と並ぶ清代の戯曲の代表作である。明朝の滅亡を背景に、文人の侯方域と名妓の李香君との悲恋を描いている。登場人物のほとんどが実在の人物で、史実に基づいた歴史物語になっている。李香君は抗清の名将楊之浩の娘であり南京に逃亡するが媚香楼に売られる。彼女は美人で芸に長けており当時秦淮で最も有名な歌妓の一人であった。李香君故居は夫子廟の西南に位置し、夫子廟から10分程の所にある。
2011.03.12
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「南京旅情24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京城の中華門は明代には雨花台のある聚宝山の名前をとり聚宝門と呼ばれていた。だが、1930年頃に現在の中華門に改名された。中華門は南京城墻の一部で南京城最大の城門で東西南北の長さは約130mである。写真の中華門は東門で観光バスなどはこの門より中に入ることが出来る。中華門は南京防衛の要であり南京大虐殺の映画「南京!南京!」では、この城門を旧日本軍が門を破壊し中国軍が肉弾での攻防を破り入場した。中華門は城門であったが規模としては要塞に近い様相を構えていたといえる。中国軍事史における現存する貴重な実物資料でもあり現在は中国各地より多くの観光客が訪れている。中国の映画や学校教育で過大提示された旧日本軍による南京破壊事件を中国人が口々に見たような事を話している。一般の公園とは違い夜8時まで開いている上の写真は実習と書かれた下に解説する所と観光客が訪れた折に中華門の説明をしている。
2011.03.11
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「南京旅情23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。明代の南京城を守った中華門の反対側を下って行くと当時の装束姿で明の旗を右手に持ち立つ姿が見られた。この明の時代も現代と同じように3時間の交代で歩哨に立つのだろうかなどと思いながら下って行った。南京は金陵と呼ばれており古都5000年の文明史の中で数多くの歴史的な文化遺産を保持している。現在の中華門は1368年に完成している。明朝の南京城の造営に伴い造られた。秦淮河が東西に横断しており、もとは聚宝門と言ったようである。辛亥革命後、現在の名に改称された。今は城壁の一部しか残されていないが手で触ってみても強固な造りである。提灯が幾つも繋がれ吊るされていた。運転手は、この提灯がない方が、より一層昔が偲ばれるという。
2011.03.10
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