育~iku~ 宇宙から、育む わたしを超えて、育む。

育~iku~ 宇宙から、育む わたしを超えて、育む。

2007.11.26
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カテゴリ: 日々を記す
今日はサマンサのダンシングフリーダムというダンスワークショップへ。


今日も素晴らしい体験をした。


解放の時間。
体にまかせて踊りきる。
踊れるだけに、次に動きたい形というのがビジョンで浮かんで、
それを追う、ということをしがちだけど、
だんだん、体から動いていくという感覚が得られるように。
マインドがはずれて、ただ体が自由に踊っていく感覚。

この間のビオダンサのクラスで得られたその感覚が、今回、自然と訪れていた。
体にまかせて、踊りきる。
だんだん苦しくなってくるけど、少ししたら突き抜けて、
どんなに激しい動きでも楽に動かせるようになってくる。
かなりのトランス状態。
かなり激しく動く、ただただ体を動かし、踊る。
そのうちに気づく。
どんなに激しく動いても、頭をぶんぶんふって、上と横がわからなくなっても、
誰にもぶつからないし、
転びそうになったりも、歪んだりも、よろけいたりもすることはまったくなく、
ずっと足はしっかり地面を捉え続けていて、

それは流れとして完璧で、体としても完璧で、存在としても完璧である、
という状態だった。
どんなにめちゃくちゃに体を動かし、踊っても、
絶対に大丈夫だった。
自分のセンターから、どんなに不要なものを手放していっても、

わたしは完璧な状態でそこにあり続けていた。
そのとき急に、強い衝動としての気づきがおりてきた。

“わたしは、つねにわたしのままだ”

正確な言葉を忘れてしまった。
でもそのようなにかだった。
その感覚、強い衝動の、そのエナジーのまま、わたしは踊り続けた。


自分という存在であるために、
今まで大事に抱えていたものを手放そうとするときに、
自分が自分でなくなってしまうのではないか、
わたしが溶けて消えてしまうのではないか、という恐怖がある。
けれども、どんなに手放しても、すべてを捨てても、
わたしという存在のセンターは、絶対になくならない、
そしてその存在は完璧で、
誰にも何にも傷つけられることもなく、
誰にも何にも侵されることもなく、
わたしという存在に不可分はなく、
ただもう完璧なのだという感覚に打ちひしがれた。

そしてわたしはその衝動に包まれたまま、泣いた。


そのパートが終わって、完全に頭がいってしまっていて、戻ってこれなかった。
端っこで丸まっていたら、また、あのエネルギーが上がる感じがやってきた。
尾てい骨のあたりから、頭へ抜けて行くあのエネルギー。
大きな解放があると、その空いたスペースへ滑り込んでくるかのように、
新しいエネルギーがやってくる。
(過去の体験
http://plaza.rakuten.co.jp/iiikuuu/diary/200701080001/
http://plaza.rakuten.co.jp/iiikuuu/diary/200701300000/
http://plaza.rakuten.co.jp/iiikuuu/diary/200705220000/

たくさん人がいるときに起こることは滅多にないんだけどな。。
でもこれ、受け入れないと終わらないから・・
はたでみんながダンスワークをしている横で、
縮こまってがくがくしているわたし。。
少し回りが気になって集中できない。。

ファシリテーターのサマンサが気遣って傍に来てくれる。
何度か起こっている解放で、慣れているし心配ない、と告げると、去っていく。

エネルギーをどうやったら受け止められるのだろう?と考えたら、
仰向け、っておりてきたので、仰向けになる。。

そこである存在と、あるやりとりを交わす。。
それは、わたしがわたしであるということを受け入れるということだった。。
“特別だ”
という存在からのメッセージ。
“特別って?”とわたし
“ただの役割だ”
役割に徹すること・・
ここ最近感じていたこと。
333のメッセージ、アンドロメダのメッセージ・・
自分がマスターであるということ・・
なにも偉いとかそういうことではない、
わたしがただその役割をすると決めてきただけのこと。
そして役割に優劣もない、
それぞれが役割に徹することで、ある大きなひとつの仕事が行われる。
だから、役割に徹すること。。
特別、という言葉に妙に反応してしまうわたし。。
特別でありたい自分と、
特別意識なんか持っていたくないと感じるわたしと、
そもそもすべての存在は特別なのだ・・
それを超えた特別なんて、あるわけがない・・
特別ってどういう意味?

やりとりをしながらわいてきた、わたしの感情(マインド)は、
“わたしはふつうでいたい・・”
泣きながら感じる。
でも、そのような思いを認め受け入れていて、そしてそれは自然と昇華していく。
わたしは役割に徹するということを、受け入れつつある。
この肉体を持って、肉体にとどまりたい、
どこかにとんでなんて、行きたくない・・
特別になんて、なりたくないから・・


その一曲のパートが終わり、まだ頭がくらくらしている。
でも、誰かと繋がること、話すことで、戻ってくれる、グラウディングできる。
みんなの輪にもどる。

そしてパートナーとペアになり、
自分にとってのアクマと、パッションと、ギフトに名前をつけて、
それについてシェアしてください、とのこと。

なんだろう・・?と思ってすぐに、思い浮かんだ。
実はみっつともすべて同じものだった。

それは“怖れ”

怖れはアクマで、
怖れはパッションで、
怖れはギフト。

怖れがあることで、むこう側へ辿り着くことを、阻んでしまう。
だからアクマ。

怖れを抱くということは、むこう側に、なにか得たいものがあるということ、
そこまで突き動かす衝動、パッションがあるから、怖れがある。

そして、その怖れがあることで、その先に得たい何かがあると、教えてくれる。
怖れが、求めるものへ辿り着く場所を、教えてくれる目印になる。
だからギフト。


怖れはわるいものでも、なんでもない。
怖れを感じられるということは、とても健全なこと。
怖れは消すべきものではない。
超えて向こう側にいくことだけ。
怖れを無視すると、パワーに依ってしまうから、気をつけないといけない。
怖れがあることで、わたしたちはたくさんの恩恵を得ているのだと思う。


最近、気づいてきた。
どんな怖れも幻想なんだって。
それはここ最近の自分のワークや、
ビオダンサなどのダンスワークで気づきを得ていっているのかもしれない。

自分の怖れがただの怖れで恐くなくなったとき、
どんな状況にいて、
どんな人と接していても、わたしは正面向かって接することが怖くなくなった。
だって誰もわたしを傷つけることはできない。
そして、誰かが自分を傷つけているように思えるのだとしたら、
誰かが自分を侵そうとしているように見えるのだとしたら、
それは相手の怖れを感じているのに過ぎないのだと。
そしてその怖れは、その人が、その人そのものである、という本質の光を、
ただ抱きしめることを怖れているだけだとわかったときに、
相手を攻撃したり、批判したりすることなく、
その人の奥にある光が見えるようになった。
そしてその怖れも、その光も、どちらも同じように、自分の中にあるということも。


わたしはつねにわたしであり続け、
どんな存在によっても、なにものによっても、
わたしをわたしという存在でなくすることは、できないのだと知った。

もし、自分という存在が揺らぐと感じるのなら、
それは、自分で自分の存在を、手放そうとしているときなのだと。

だけどセンターはいつもしっかり、このわたしのど真ん中にあって、
そしてみんなのど真ん中にあって、
わたしたちはいつだって、望めば、ここに還ってこれる。
必ず、還ってこれる。


還る場所はたしかに、自分の真ん中にある。





サマンサのダンスワークショップは来週以降も続きます。
来週のテーマは風、第四、第五チャクラ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24960379&comm_id=302845
詳細はミクシィ内






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Last updated  2007.11.27 02:53:09
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