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《自由主義史観派の人たちは、そうしたギリシア=ドイツ的な「ネーションの自然な在り方」モデルに依拠しながら、(自虐的な見方から)”自由”になろうとしているが、そうしたモデル自体から”自由“になる必要はないのだろうか?》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、p. 152)
そんな高尚な話なのだろうか。藤岡氏が主張している「自由主義史観」とは、戦前の「皇国史観」とも違い、戦後の「自虐史観」とも異なる歴史観、謂わば、「好いとこ取り史観」である。藤岡氏が評価する「司馬史観」は、日清・日露戦争までは良かったが、それ以降日本は道を誤ってしまったとする「半良半悪」の考え方で、どちらの側にも理解と批判を示すことで良い人ぶっているだけである。
《彼らは、近代史における日本の悪行をあげつらうのは日本人として“不自然”だといっているが、文化共同体としての「国民」としての“自然な在り方”を求める言説自体が、ドイツ観念論やロマン主義から借りてきた”不自然”なものであるとは考えないようである。彼らは、アメリカやマルクス主義の悪影響さえ取り除けば無垢の“自然な日本性”が(再び)見出される、と考えているふしがある。こうした発想は、「国民」をめぐる西欧的なエクリチュールを基盤として、“自然な日本らしさ”を再浮上させようとしているという意味で、音声中心主義的であると言えるだろう。言い換えれば、自由主義史観の人たちの言っている“国民的な自由”というのは、ルソー的な「自由な自然人」の1つの変種なのである》(同、 pp. 152f )
「皇国史観」は断じて受け入れられないが、日本は必ずしも悪くはなかった。「自虐史観」には決して与したくはないが、日本には反省すべき点も少なくない。詰まり、「自由主義史観」は、この2つの歴史観の「反動」でしかなく、それ自体に「哲学」があるわけではないということだ。
《しかも、そうした「無垢で自然に自由な日本国民」というイメージを、歴史「教育」を通して次の世代に伝えていこう、というのである。これまで述べてきたように、左翼的な「自然人」教育であれ、保守的な「自然な愛国心」教育であれ、純粋に“自発的”に行なわれるということはあり得ない。自分の文脈に引き入れて、自分のイメージする理想的モデルをいったん相手に押し付け的に提示したうえで選択を迫らない限り、「自由な主体的判断」などあり得ない。子供たちを、自らの「愛国心」的な「コン・テクスト」へと誘導しようとしているにもかかわらず、無限定的に「自由」だというのは”不自然”である。自らの依拠しているエクリチュールの「暴力性」を不可視化してしまうのも、音声中心主義の指標である》(同、 p. 153 )
「自由主義史観」は、「皇国史観」そして「自虐史観」を否定するだけであって、何かそこに独自の歴史観があるわけではない。そこにあるのは「虚無主義」である。
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