いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2007.08.27
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科学・非科学 「言葉」(番外編) として、発表したものです。

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 今回は、コメントに質問頂いた内容に頑張ってお答えしたいと思います。

 その前に、まずは私からこんな質問を・・・。

 皆さんは、「信じる」と聞いてどの様なイメージを持ちますかね?内容はともかく、恐らく複数の答えが返ってくると思います。そして、その返ってきた複数の答えそれぞれに対して、また、同様の質問をしてみたらどうでしょう?そして、それを繰り返していったら・・・  私は、それを考えただけでも「文字」や「言葉」に信頼が置けなくなります。

 ほぼ統一されているのは「文字面」・「言葉面」に留まっている様に感じられます。 私は、人と話をする時、「言葉」に集中しようとすればするほど、言っている意味が理解できなくなります。むしろ、その人の声の調子に気持を寄せる様にすると、頭の中に映像が浮かぶように伝わってきます。

 言い方を変えれば、一度映像に置き換えないと理解できない様です。 私にとって、「言葉」は「聞く」ではなく、むしろ「見る」感覚です。よって、話を聞いている時は、在らぬ方向を見ているようで、人からはよく、「話聞いてるの?」って言われてしまいます。言われてみれば、少なからず、皆さんもそんな感覚を持っていませんか?私だけ?

「信じる」と「共感」の違いは・・・「共感」は感覚的なもの「信じる」は意志ですか。動物にも「共感」はあり、「信じる」は動物にはありえないことなのだということでしょうかね?

 という質問を頂きました。まずは 「動物・・・」 から触れていきます。

 動物には、とても深く、強く、そしてデリケートに人の「想い」が絡んでいる様に感じています。その扱い方によっては、その人自身のプライド(世界観)を深く傷つけてしまう様に感じています。以前に、ブログ内で少し触れた事がありましたが、「乱暴な表現になりますが・・・」と、前置きしたのはそのためです。

 私なりに感じている事はありますが、「動物」と「死」に対しては、今は私だけの「世界観」(自己満足)としておきます。良い表現ができそうに感じたらトライしてみたいと想います。

 ちなみに、私にも、5匹の可愛い家族がいます。

 1匹紹介しておきます。P-ちゃんです。

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「信じる」と「共感」の違いは・・・「共感」は感覚的なもの「信じる」は意志ですか・・・

 「共感」は感覚的なもの「信じる」は意志・・・まさにその通りだと思いますよ。おそらく私だけでなく、多くの人から、それこそ「共感」を得られる定義だと感じます。ただ私は、今回「共感」し(共感する)という括りにして、そこにも「意志」を加えています。(文法上、その遣い方が正しいかどうかは判りませんが、あえてそうしました)

 私の感覚から定義してしまいますが、「気」には「感じた」、「気功」には「感じる」といった、「意志」の有無で分けています。定義の是非はともかく、その有無には大切なモノを感じています。本来「他世界観」に自覚して浸るには、自分とは異質なモノに気持を寄せるわけですから、そこには「意志」(自覚・責任)が不可欠に感じています。

 そして、「信じる」も「共感」も、「文字」や「言葉」の1つですね。私があの場で伝えたいと想った違いは、それぞれが遣われた時に、それらが背負うと感じられる「想い」(責任?)の重さや質です。そして「文字」や「言葉」(自己主張)には時に、抑えている「ワガママ」を通す「言い訳」(自己防衛)的質が含まれていることも少なくないように感じます。

 また「質問」に対しては、私の気質上、「相手を怒らせないように」と言った気遣い(?)が優先して働きます。ゆえに、嘘はつきませんが、必ずしも本意が含まれる自信もありません。その内容よりも、その先にあるその人の「想い」に「気」を惹かれてしまいます。そして、ここでも「信じる」に、強い懸念を感じてしまいます。

 私にとって「文字・言葉」(他世界観)は、信頼や疑いを置くものでなく、単に自己主張に大切なモノです。(07.7.27著)

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 得てして人は頭で理解出来ない力(他世界観)に関しては、自分以外のモノに対しての方がその存在の確信を強め易い様に感じます。

 面倒な事は何でもヒトのせいにした方が楽ですからね。(失敗しても自分の根底のプライドは守られるという事でしょう)自分で「世界観」を築くよりも、他人の築いた「世界観」に便乗した方が、色々な意味で楽ですよね。確かに「信じる」をしている内は、その「世界観」の力にも便乗できると感じます。

 ただ、結局は他人の「世界観」であるので、否定的な他人の「世界観」などにより、人によっては生じた「矛盾」により、便乗していた「世界観」を保てずに、「不信」にかわってその力を失う事になりかねないように感じています。さらに「裏切られた」に変わると他の人も巻き込んで、今まで便乗していた「世界観」を積極的に潰そうとしたりするように感じます。

 どんな「世界観」も「矛盾」を必ず背負うように感じます。その「矛盾」をどう位置づけていくかも、その「世界観」を色々な意味で強くする大切な要因と感じます。とても大変なことですが、本来自分の感覚によって確信を強め、自分の「世界観」を高めて、自分特有の力を得る事が大切と感じます。ただ、それは常にそれぞれで行われていると感じています。

 皆同じ世界観に生きているようでも、やはり細かいところでズレを感じていませんか?自覚が無く、責任を自分に置く事が怖いのでしょう。私のような気質の人間には、自分の感じていること(自分の真実)によって「世界観」を高めることで真の自信・確信(責任)が生まれ、満足度も増し、本当の意味で他人を受け入れられると感じています。

 そして、色々な意味での今の自分の「プライド」と、どう折り合いを築けるかだと感じます。

 ただ、どんな人にも「弱音を吐かせてくれる」「理解しようとしてくれる」といった、頼り切れる人・モノの存在は、とても大切に感じます。つくづく「責任」の置き場には難しいものを感じています。そんな事から考えると、故人の世界観や人以外のモノに、その責任を被せてしまう方が色々な面でリスクが少ないのかもしれませんね?「想い」は廻ってしまいます。

 私に限っては、「責任」の基本は自分において、どうにも辛くなったら他人の「世界観」にドップリ浸かり、その「世界観」を『楽しむ』ようにしたら良いかなって感じています。その様な感覚に、私は「共感する」を選んでみました。そして「信じる」は、自分の「世界観」に。「信頼する」よりも「共感する」でしたかね? 

 中には、(私の感覚で)危険を感じられる「世界観」を創り上げていると感じられる人もいますが、元をたどると、自分の「世界観」を「ないがしろ」にされたような「想い」も時に感じられます。「世界観」(自己主張・自己防衛の形)はまちまちですが、人が求めているモノの根本(欲求)は、皆そんなに差は無いように感じられます。

 確かに、自分の「世界観」に対しての「共感」はほしいですが、それよりも、今行われている様な、他人の「世界観」を潰すことで、自分の「世界観」を守るようなやり方は悲しいと感じています。そして、私の「世界観」も、例外無くその質を自覚しています。(07.7.29著)

陶器10

 全ての能力の基は、自分を表現し守るために全ての人が既に備えているように感じます。

 そして必要に応じて、時には無意識に導き出していると感じられます。自分の中に「気付く」(築く)ものだと感じます。自分がどうなって行きたい「理想」という『想い』(想像力・創造力)こそ、とても大切な要因と感じます。「理想」と共に自分の「世界観」もまだまだ変化し、見える景色も変わって行くと感じています。

 また、他人が創り上げた世界観をそのまま全面的に受け入れられる柔軟なプライドと、他人と同じ事を嫌い、自分で創り上げたと思える世界観でないと受け入れられない硬いプライドが在るように感じられます。 ただ、いずれにせよそれには他の「想い」に関わり、色々な意味で影響を受ける事が不可欠の様に感じます。

 私はいったい何様のつもりでしょう? 私も、こうして「自己主張」を続けていると、周りに「気」が配れなくなり、調子に乗ってしまいます。自分を戒めるためにも、「質問」ではなく、批判も含め、皆さんが自由に感じた「意見」を期待しています。 私の「本意」よりも、ここから感じる皆さん自身の感覚を優先して頂ければ、それが私の「本意」になると感じます。

 なかなか自分以外の世界観を受け入れる事は難しいですね。私は長い時間を費やしています。ただ、もっと心の柔らかい皆さんでしたら他人と同じ景色を見たいと思う時、自分のプライドを傷つけ無いように一時的に自分の世界観を心の片隅にそっと鎮めて、他人の世界観を時には楽しむようにドップリ漬かってみたら良いのではないでしょうかね?

 なによりも一番難しいのは、自分のプライドと折り合いを付ける事と感じています。

「この世は修行の場」・・・修行を重ねて、周りが立派な人ばかりになってしまったら、私は今より生き辛くなります。

「立派な人」・・・確かに私なりにイメージできますが、だからといって、私の真をそこへ変えられる自信もありません。

「運命・カルマ」・・・受け入れてしまったら、私は今より生きることが空しくなります。

 人は皆、「立派」という画一的なイメージに最後には個性をはめなければならないのでしょうかね?私は少し窮屈さも感じますし、「ムキ」になって何かに逆らって生きている人達を見ると正直、どんな立場であれ羨ましくなります。自分を表現し守るには、少なからず「競い」を伴うと感じます。

 一人が主張する側、主張を理解する側、いずれにも偏り過ぎることで歪が生じるように感じます。ただ私は時に、「より強い満足感」を得るためにその歪さえも何処かで求めているように感じられ、その是非は解りません。そしてまた既にどんな存在にも上下は感じられませんし、運命やカルマも悲しすぎます。

 人生、全ての人にとっての修行の場ではなく、また、ポジティブ・ネガティブを含め、本質は、単に存在を感じ合う場であると考え、願っています。 違うのは、それぞれの存在が認められていると感じられる満足度と、その主張の強さや方法で、それが色々と周りに影響を与え合っている様に感じています。

 今回は、だいぶ自分の「想い」をちらかしてしまったようです。まとまりも無く、自分で書いていて気分が悪くなりました。 
また、この私の「世界観」を表現することで気にかかっている事もあります。いずれも既に感じ取って頂ける気もしますが、それは最後の日記にとっておきます。(07.7.31著)


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Last updated  2009.11.25 17:05:35
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