全64件 (64件中 1-50件目)
「今年にはいって12回ホールインワンを出した女性」の姿をみて感じた事です。 ビギナーズ・ラックと言う言葉がありますが、興味事に奥深さを求める事は、ある意味「難しい」と言うイメージを背負う作業でもある様です。それも自分のやっている事、すなわち自分自身のプライドの形の1つだと感じますが、その「難しい」イメージを持っていない初心者が、時にはベテランを上まわる成果を上げてしまう現象だと感じます。 その女性の姿から伝わってくるモノも、「自信」と言うよりも「難しさに気づいていない」と言った様な、どこか無邪気な感覚でしたね。おそらく最初はビギナーズ・ラックで始まり、そのままのイメージを無意識に保ち続けているのでしょう。又、今世間で活躍している人達にも(若くして活躍している人達は特に顕著に)その意味での「無邪気さ」を私は感じとれます。 「気」の治癒にもそう言った「無知」・「不確信」なモノに大きな要因と力を感じる事があります。逆の例として、自分の病気に対してとても深い医学的知識を持っている人は、治癒に比較的時間を費やす場合が多く感じます。ここにも「難しい」イメージの力をかんじます。ただし、そういった人の「意識」が切り替わった時にこそ顕著な変化が見られますかね。 そして「無邪気」な人には真似できない深くて強い世界観を創り出す力を感じられます。 また「無敗」・「負け知らず」な選手が1度負けを経験してしまうと、時にその後しばらく負けがこんで、「負け癖」がついたようになってしまうようなことも感じられます。そういった選手程、1度の「負け」のイメージも強く残し、立ち直りが遅かったりするようにも感じます。無邪気な人達へのバッシングにも同じような事(戸惑い)が感じられます。 スポーツに限らず、小さい(無邪気・素直な)頃から「勝利」・「成功」などのイメージばかり刷り込ま(経験・教育さ)れていると、いざ「敗北・失敗」した時に自分自身で修正していくことが難しいこともあるように感じます。(07.6.16著) この記事は過去の関連日記: 「ビギナーズラック」 に収めてあります。時間が許しましたら過去の記事ともども通して読んで頂けると嬉しく想います。御手数お掛けします。 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2011.12.23
スポーツ 「スポーツマン-1」 「スポーツマン・シップ」という言葉・・・ 気を弱くすると・・・ 「ハングリー精神」も耳に遠く・・・ 「卑怯者!」・・・ 「スポーツマン-2」 水泳の○島選手が・・・ 「褒められると伸びる」タイプの・・・ 「素直な子は伸びる」・・・ 「環境が悪い・・・ 「ビギナーズ・ラック」 今年に入って12回ホールインワン・・・ 北京オリンピックのおかげで・・・ 「無欲の勝利」って・・・ 「限界」 日本にある「武(精神)道」にも・・・ 「我慢は美徳」・・・ 「余計な事は考えるな!」・・・ びっくり人間大集合!・・・ 「個人プレー」 嫌々少年野球チームに・・・ WBCに感動して・・・ 格闘技は興奮する・・・ 「チーム・ワーク」 胸の形がはっきりと・・・ 「日本のお家芸」が・・・ 「神の手」・・・ 「本能」 「頭で考えず、体で覚えろ!」・・・ 「○○をすると足が速くなる・・・ 「脱!精神論・・・ 「無」 他の「気」の世界観に触れて・・・ ホシイモノガ無イ・・・ やりたい事を探そうか・・・ メディア 「立場-1」 「超能力の有無検証」番組を見て・・・ 見事にスプーンを曲げて・・・ 地球に優しい・・・ 環境問題の話し合いも進展なく・・・ 「生態系を壊すな!・・・ 「立場-2」 犯罪を犯す人の気が知れない・・・ 「万引きGメン」と言う仕事・・・ 「日本人が死刑に・・・ 「○○反対!・・・ 「戒め」 「昨今の異常気象は人の悪い営みに・・・ 「真面目にやっている人も・・・ 「消えた年金」・・・ 「バンザ~イ!バンザ~イ!・・・ 有名人とスキャンダル・・・ 「嫉妬」 ’07を象徴する漢字は「偽」・・・ 「エイ・エイ・オー」・・・ 「甘ったれるな!」・・・ 森林火災救済のチャリティーに・・・ 「給料泥棒」・・・ 「幸せ」 「24時間テレビ」が終わり・・・ 「波乱万丈」な人生に・・・ 100年に一度の経済危機!・・・ 「沖縄に基地は要らない!」・・・ 「癒し」 「おバカキャラ」がウケて・・・ 「ポジティブ」に物足りなさを・・・ 「やっぱり我が家が一番・・・ 「日本に生まれて良かった・・・ 「100円あればお腹いっぱいに・・・ 「運命」 「運命は変わる」・・・ 「霊視はデモンストレーション・・・ 「自由って素晴らしい!」・・・ 「全てに意味がある・・・ 「男運が悪いのよね~・・・ 「責任」 「自分の力の確信を・・・ いよいよ総選挙・・・ 18歳から成人に・・・ カウンセリングを受けたけど・・・索引2へ続く また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。
2009.11.19
芸術・文化 「デザイン-1」 学生時代、建築のデザインを・・・ 毎回自作の陶器を・・・ 「遣いづらいわね~・・・ 「気に入った家を建てるには・・・ 「デザイン-2」 「今年の流行はチェック柄」・・・ 「自然の美しさには敵わない・・・ 「私にだってできるよ・・・ 「パクリ」・・・ 「価値」 久しぶりに「美術館」に・・・ 子供の画いたような絵が・・・ 「三丁目の蕎麦屋は美味しい・・・ 「○○鑑定団・・・ 「好み」 「有名人の家のデザインに苦情・・・ 「人を見掛けで判断しないで!・・・ 「乗り換えるならエコカー・・・ 最近の女子高生の顔が・・・ ”This is it”・・・ 「ブラボ~!・・・ 「日本」 日本のドラマや映画が苦手で・・・ 優秀なギターリストも・・・ 見えない所まで綺麗に・・・ 日本女性はミーハー・・・ 日本人俳優の評価も・・・ 「漫画」 「(TV)漫画」で情操教育・・・ 「スポ根」モノが好きで・・・ 昔の漫画の実写映画化・・・ ディズニーランドが苦手で・・・ 最近涙もろくて・・・ 「アニメキャラは裏切らない・・・ 「気遣い」 京都では、長居をしていると・・・ 「本当の気遣いとは・・・ 「日本のしきたり」を・・・ 「まったく、うちの嫁ときたら」・・・ なかなか本音って・・・ 「面白い味ですね」・・・ 「バランス」 陶器を作るきっかけは・・・ 片付けが苦手で・・ 休日も制服で遊ぶ・・・ 日本はナメられている?・・・ ’11を象徴する漢字は「絆」・・・科学・非科学 「研究」 とうとう「不死細胞」なる・・・ 「男は必要ない!?」・・・ 「光は1秒間に地球を7週半・・・ 「ホンマでっか!・・・ 「ルール」 「タイムマシン」のテレビを・・・ 「手の温かい人は情に厚い」・・・ 「究極の選択」・・・ 「全ての物質は・・・ 「矛盾」 考古学など歴史の研究に・・・ 「原因が解った♪・・・ 「地球は丸い」・・・ 衝撃映像100連発!・・・ 「自由」には「責任」が・・・ 「モノ-1」 ダウジングがブームに・・・ 「占い」に関わっている知人に・・・ 「自分のせい」・「ヒトのせい」・・・ 「パワースポット」が・・・ 「モノ-2」 私の愛車は、昭和46年型のクラウン・・・ 「ATMでお金が振り込めない!」・・・ 「石に不思議なパワーが・・・ 植物に携わる仕事で・・・ 「宇宙人」を信じますか?・・・ 「この薬を飲めば直ぐに・・・ 「モノ-3」 「財産を投げ出しなさい!」・・・ 「10回払いで買っちゃった♪・・・ 「円高を止めて・・・ 有名人の億を超える義捐金・・・ 「文字」 「言葉」や「文字」から感じる「気」・・・ 「数字」や「図形」から感じる「気」・・・ ラブレターが捨てられない・・・ 「高齢者マーク」を変更・・・ 「言葉」 「クチコミ」という・・・ 政治家達が噛合わない議論を・・・ 最近の若者は言葉が乱れて・・・ 「コジキ」を連発・・・ 「伝達」 「呪い」や「言霊」など、古くから・・・ 「寝る子は育つ」・・・ 2012年人類滅亡!・・・ 「お父さんはダメね~」・・・ 「意識-1」 運転中に考え事をしてしまって・・・ 「気のせいだよ」・・・ 私は優柔不断・・・ 「意識-2」 よく霊を見るという人から・・・ 「怖い話」の季節・・・ 「とても神秘的な体験・・・ 霊は優しいヒトに寄ってくる・・・ 「意識-3」 人の中に複数の「意識?」・・・ 「ミッシング・ツインズ」・・・ 死んだらどうなる?・・・ 深層心理を当てられて・・・ 「病」 特に女性の会話に・・・ 自分の頑張りを認めて・・・ 「理解できる能力」よりも・・・ 索引3へ続く また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。
2008.12.23
生活 「関心」 生まれて初めて四葉のクローバーを・・・ 「またここにシワができた!」と・・・ 「宇宙エネルギー」・・・ 「嘘から出た真」・・・ 「サーキットの○」・・・ 「想い込み」 「夢」をコントロール・・・ 「健康オタク」という・・・ 食品の消費期限・・・ 「思った通りに・・・ 「理屈」 「愛」の定義って・・・ 「人は平等である・・・ 「無償の愛」って・・・ 「むっつりスケベ」って・・・ 「話せば解る・・・ 「感情」 新しく若い大阪府知事が・・・ 私のシャツは女性モノ・・・ 自分と逆気質のパートナー・・・ 「お姉ちゃんを見習いなさい・・・ 「ワガママ」 TVに出演するような上司を・・・ 有名人達が強いバッシングを・・・ 「頑張って!」という言葉・・・ 皆さんは「寛容」ですか?・・・ 自分のことは棚に上げて・・・ 「無邪気」 いつも周りに人が集まっている知人・・・ 「あっ、ゴキブリっ!・・・ 今日も楽しそうに作業を・・・ 「頭固いわね~!」・・・ 懐メロを聴いていると・・・ 「やっぱりね♪」・・・ 「あまのじゃく」 タバコは吸いません・・・ 「ルールを守りましょうよ!・・・ 気に入らない子が・・・ 「目から鱗が落ちた!・・・ 「納豆は食べられへん・・・ ヤンキーが新体操・・・ 「八方美人」 血液型をよく間違われ・・・ チャーハンが苦手・・・ 「○○さんたらさ~ぁ・・・ 「暴走族はダサい族・・・ 「理由になっていないぞ!・・・ 「プライド」 自分の手で建てた家が・・・ 「夕食何にする?・・・ 「プライドなんか捨てなさい!・・・ 「そんなの赤飯じゃない!・・・ ♪ナンバ~ワンにならなくてもいい・・・ 「信頼」 ためらわず薬をポンっと・・・ 潜水士をやっていた・・・ 初心者運転の助手席で居眠り・・・ 「麻薬は人生をダメにする・・・ 「100%そうかもね?・・ 「あなたは神を信じますか?・・ 「体質」 今日も大食いの○○さんを・・・ 「エネルギー」も曖昧な存在・・・ スポーツ選手の体型変化は・・・ ピアスはしない・・・ ※ あくまでも個人の感想・・・ 「気質」 気功師の中にも超能力・・・ 「我が巨人軍は・・・ 「潔癖」と「雑」な人の討論・・・ 「俺はお酒に強い♪・・・ 「動物」 先日P-ちゃんが逝きまして・・・ 「猫派」・「犬派」?・・・ 炎天下に亀が放置され・・・ シラサギが川で・・・ 伝染病で家畜を処分・・・ 「仕事」 公務員の待遇に・・・ 「楽して稼ぐ」・・・ 「二世議員は認めない!」・・・ 賃金の上限を・・・ 「子供」 小学校前の兄弟が・・・ 「息子が車両事故を・・・ 「30歳にもなって・・・ 逆子なんだって・・・ 「子供は国の宝」・・・ 「両親」 母の作品を・・・ 父は出不精で・・・ 「泣く子はいね~か~!・・・ 「尊敬する人物は両親・・・ 「私」 「生きる目的」が探せなくて・・・ 色々と日記にしてみて・・・ 「独身貴族」って・・・ 「自分が解らない・・・ 「不思議」 「解らない」と不安に・・・ 「解った」でも不安に・・・ 「男性も肌ケアした方が・・・ 「1・2・3・ハイ消えた!・・・ 「崇高」 気功師にも「精神的成長」が・・・ 僧侶が「精進料理」を・・・ 「神様」ってどんな存在?・・・ 「勝ち組・負け組」も・・・ 女神様は嫉妬深い・・・ ご利益がありますように・・・ 「気」 身近で「気」という世界観に関わり・・・ 感覚によって世界観が構築され・・・ 「真の気」ってどんなモノ・・ 大病をきっかけに・・・ 「想い」 「信じる」と聞いて・・・ 頭で理解できない力に・・・ 自分以外の世界観を・・・ 「悟り」 感じ方の「ルール」は・・・ 全ての「想い」が存在するために・・・ 一人の中にも・・・ 存在を感じあう・・・ 後のご挨拶 「有難う御座いました」 おつかれさまです ’07・・・ おつかれさまです ’08・・・ おつかれさまです ’09・・・ おつかれさまです ’10・・・ おつかれさまです ’11・・・ 索引1へ戻る また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。
2008.12.22
「スポーツマン・シップ」という言葉がありますね。 私が持っているこの言葉のイメージは「正々堂々」ですが、いくら自分との戦いとは言っても大抵のスポーツは他人と競い、形上相手を負かす事で成り立っているように感じています。それには相手の考えを読んで相手の嫌がる事をしたり、裏をかいたり(騙したり)といった能力にたけている者こそ優れたスポーツマンだと感じ、その精神とはズレを感じます。 また、負けた相手の目の前でのガッツポーズなど喜びをあからさまに表現したり、怪我をして試合に出場することは、相手からの気遣いを考えれば避けることがその精神のように感じます。ただ、そういった気質が集まり、またそういった気質に陥りやすい環境だからこそ、「スポーツマン・シップ」をいちいち掲げる必要があったのかもしれませんね。 「勇気」は、その人の気質によってその形を変えるように感じます。怖くて喧嘩できない人にとっては喧嘩をする事が単純に「勇気」だと感じますし、逆に喧嘩っ速い人にとっては喧嘩を我慢する事が「勇気」だと感じます。前者は単純に争い事に対する「恐怖」、後者は「弱者」に思われる事に対する「恐怖」に対して立ち向かう行為だと感じます。 まさにスポーツ選手は「勇気」の塊の様です。自分に自信のある人なら、あえて他人と競う必要もないでしょう。本来、弱い気質を持ち合わせた人ほどスポーツにその存在の価値を求め、そして、優れたスポーツ選手になっているように感じます。 人は、自己主張する時「気」を強く(高く)し、他人の主張を理解しようとする時「気」を弱く(低く)していると感じます。 前記した「相手の考えを読んで・・・」は、もともとは、弱い気質の人の才能のように感じています。そして優れたスポーツ選手は、その強弱(高低)の切り替えにたけているように感じます。(07.9.16著)・・・・・・・・・・ 「気」を弱くすると、他の「意識?」(想い)に繋がりやすいと実感しています。 今スポーツで活躍している人達の中にも、ある程度自分の中に確信を得るまでは精神面で強く親や他人(コーチ)・モノ(ゲン担ぎや時には薬)のサポートを受けていたり、また子供の頃に各立場で「いじめ」などに関わりがちだった人も少なくない様に感じます。そして、奥さんが年上だったり・・・これには、より自分に集中できる環境であることも感じられます。 また、弱い気質の根底にこそ高いプライドを感じられる事が多いです。ある意味プライドが高すぎるため、それが傷つくのを恐れ、気が弱くなるのかも知れませんね。 そして弱い気質の人が確信を得た時、他人が揺るがす事が非常に難しい強い世界観が出来上がると感じています。「優柔不断」な人ほど完璧主義であったり、根は頑固だったりするように感じます。 「無邪気」という才能を持った気質の人が時々気まぐれの様にやってきて、そういった弱い気質の人達の高いプライドを打ち砕いていってしまうことがありますね。弱い気質の人が大切にする強くなるプロセス(世界観)など気にしないで、とにかく楽しんでいってしまうんですよね。ただ誰の根底にも少なからず「無邪気」という才能は感じられます。 そして時々顔を出しては、想いも寄らない成果を上げているように感じています。また私には体育会系の人が営業職においても活躍しているイメージが強くあります。今何かと騒がれている元官房長官もああ見えて、なかなかのスポーツマンだったんじゃないですかね。気功に関っている私には最も好きなジャンルですし、恐らく母も負けていないと言うでしょう。 子供の頃はクラスで選手に選ばれ、強いプレッシャーを感じると、よく試合前に体調を崩したり怪我したりするんです。そうすると負けた時の言い訳(特に自分自身に対しての)が出来たせいか、プレッシャーが弱くなって、逆に良い結果が出たりするんです。そして今となって考えると、さぞかし相手の選手や審判はやりづらかったでしょうね。(笑)(07.9.17著)・・・・・・・・・・ 「ハングリー精神」も、なかなか最近は耳に遠くなったように感じますかね。 昔は特に経済的に恵まれない人など、「お金」や「見返してやる!」的卑屈な想いなどが成功を手に入れるためのモチベーションのイメージが強かったように感じますかね。そして上り詰める過程での練習や、やっている事自体に楽しさ的なモノも感じられなかったり、目的を果たしてしまうとモチベーションも長続きしにくかったりするイメージもありますかね。 今の優秀な才能を持つ若い人達などをみると、逆に比較的経済的に恵まれた家庭に育った人も少なくないように感じますかね。金銭的余裕は気持にも余裕を創り、リスクのある仕事の選択もし易くなったり、求めるモノは同じ名誉的でも「見返してやる!」とはちょっと別質の「褒められたい」モノが、より直接的なモチベーションになっているようにも感じますかね。 また最近の才能のあるスポーツ選手達は容姿も美しい人達が、また例えば高学歴のお笑い芸人などが増えてきているように感じますかね。彼らは小さい頃から褒められる「気持良さ」を知っていたり、元々目立つことも好む気質でもあるのでしょうから、スポーツやお笑い的なモノでも体裁よく目立てると知れば、才能を伸ばし易い気質でもあるように感じますかね。 「卑屈的ハングリー」よりも比較的悲壮感も感じず、むしろ時には到達点も高いように感じますね。少子化なども小さい頃からチヤホヤ(褒める)できる要因にもなりますか、「楽しめる」的気質が根底にあり、上り詰める過程において辛さの感じ方も変わってくるのでしょうかね。比較的自分の中に「限界(到達点)」を築きにくいようにも感じますかね。 私が子供の頃は、勉強ができなかったり、容姿が良くない人間が活躍する場がスポーツやお笑いでもあったようにも感じますが、今の美しい容姿の才能豊かな選手達はちょっとズルい気もしますかね。他でも十分活躍できるでしょう。(笑)そして今でもスポーツ選手や芸術家には言葉による直接のコミュニケーションが苦手な人は少なくないように感じますかね。 でも営業職に適している元スポーツマンも少なくないか?またパターンにハメたがる悪い癖が出ました。どんな分野にも様々な気質(世界観)が存在して始めて「切磋琢磨」(競い)が成り立っているようにも感じますからね。(09.10.1著)・・・・・・・・・・ 「卑怯者!」 ドラマを見て知人が言いました。格闘家役の主人公が素手であるのに対して、相手役が武器を使って喧嘩を挑んでいました。確かに素手に対して武器を使うのは「正々堂々」ではないような気もしますかね?ただ喧嘩となればその手段より結果が問われるように感じますし、時には卑怯な手段で出来る限り相手に悔しい想いをさせて勝利することにその意味も感じますかね。 ただ、もし格闘の素人だった時、格闘経験者に対して素手で戦うことが本当に「正々堂々」(公平)と言えますかね?例えば相手は好きで日頃から体を鍛えているのに対して、自分は暴力的なことを嫌い、生涯において格闘的なモノを避けてきた場合に、そういった場面に出くわした時に素手で身を守らなければならないのですかね?肉体が武器の相手に対して・・・ 私の父も空手をやっていて、小さい頃はよくイタズラをしてはこっぴどくやられましたね。自業自得を自覚していますので、そのこと自体に不満はないのですが・・・私は格闘技自体はとても好きで、必ずTVなどは見るのですが、自分がやることには抵抗がありましてね・・・過去の父との関わりからくる恐怖的トラウマや、相手に怪我をさせることも怖くて・・・ 自分が体力的に強くなると、他人に優しくなれる・・・弱さから相手に「媚びる」ような優しさはどうかと感じますが、「力」的裏打ちがある優しさもちょっと違和感がありますかね。今の私は体力的な弱さの立場もありますが、元々の気質的にどちらかと言えば前者を選択しますかね?また、格闘家などは普段はそういった技術を封印しなければならないようですが・・・ 私が力を身につけたならやっぱり最終的には遣いたくなっちゃうので止めておきます。(10.11.12著)姉妹日記「スポーツマン-2」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.21
先日TVで「超能力の有無検証」番組を見ました。 私としましては、久しぶりのこのジャンルの番組でしたが、相変わらずマスコミの興味は「有無」に有るようですね。と言いながら私もすごく興味をそそられ最後まで楽しく見入ってしまいましたね。(単純にこのジャンルは楽しくて良いですね) 皆さんは能力者と否定派A氏とどちらにその存在感を強く感じましたかね?私はA氏の方ですが、あの様な自己主張の強さを競うデモンストレーション的なモノの場合、「真実は一つ」とする今の主世界観においては「気」(世界観の信念)の強い方が弱い方を淘汰する性質がある様に感じています。そして強さが拮抗した時、矛盾の形をとって現れると感じます。 この検証方法には、A氏側のアイデアを強く感じます。またこの検証には、A氏が負けた場合「$100万を支払う」という提示がなされています。そこには、自分に気合を入れ、同時に少なからず「能力者は金目当て」といったイメージを与える事で視聴者の「気」をも味方につけ、能力者にプレッシャーを与える力を感じます。 増して今回の能力者の、「他意識?」(彼の世界観で言う「精霊」)に繋がると思われる能力の場合、一時的に自分の自己主張する「強い」質の「気」を鎮め、相手の主張を理解しようとする「弱い」質の「気」を必要とする様に感じます。 結局能力者が負けてしまいましたね。A氏の「負けられない」と言った強い「意識」に能力者が繋がったと考えれば、今回の結果は、ある意味彼の能力を証明した事になりますね。捉え方次第でどうにでも解釈出来ますが、自分が今まで見ていた景色(今の自分の世界観)を変えるヒントがそこにあると私の経験から感じます。 科学的に検証されてしまうと、全て科学の「世界観」の一部に取り込まれて、せっかくの「他世界観」の持つ力の特性を失う様に感じます。「不思議」(≒無知)はその人の世界観(理屈)からハズれるモノとも比較的易く折り合いを付ける強い資質と無限の可能性を感じます。 そしてA氏や他の否定派の人達と、出演している肯定派の人達の間には同じ質の「気」を感じる事が多いですね。お互いにその自己主張する「気」の強さにある種の「嫌悪感」を覚えている様で、「プライド」(世界観)のぶつかり合いの様です。 ただ私は、否定派の人達やマスメディアにこそ「不思議な世界」を激的に切り開いていく大きな力を感じ、期待しています。 色々な方向・立場(世界観)から物事を見て感じる事が「他意識?」に繋がって行く様に感じられ、色々な景色を見せてくれます。またいわゆる「気が弱くて優柔不断」な人は、無意識にそれをやっている様に感じられます。「気」を弱くすると「他意識?」と繋がり易くなると実感しています。今回の陶器は同じモノを別の角度から映してみました。(07.6.20著)・・・・・・・・・・ 超能力等には強く否定的な立場の芸能人が、超能力者と言われる人達と変わらず見事にスプーンを曲げていました。 後に彼がタネ証しをしていましたが、能力者が曲げるのを傍で見ていて「腕力・握力」で曲げる「コツ」を掴んだそうです。ちょっと能力者に対しての皮肉も感じますかね。ただ一緒に出ていた司会者の男性は、「腕力・握力」を遣っても曲げるのに苦労していましたね。おそらく本人も「コツ」を掴む前と後では、力加減に変化を感じているように感じます。 私は「腕力・握力」で曲げたか「超能力」で曲げたかという事よりも、「コツを掴む」(確信を得る)ことにより、広い意味で「力が強くなった」(力が変化した)ことに惹かれてしまいます。スポーツ等で練習を積むことによって、自分自身に上達した確信(コツ)を得て、記録が伸びていく(力が変化していく)ことに類似しているようにも感じます。 見方を変えれば、スプーンを曲げられないでいる我々多数派の人間の方が、小さい頃からの教育などによって刷り込まれた本来柔らかいモノを固くして使う超能力を無意識に遣っているのかも知れませんね?(笑)(08.6.22著)・・・・・・・・・・ 「地球に優しい」としてエコが強く叫ばれていますね。 知人は早速エコカーに乗り換えましたが、高速道路1000円乗り放題も助けてか、走る距離は乗り換え前よりもかなり増えたようです。ガソリンの消費やタイヤ等の消耗も増えそうです。私の家もトイレを節水タイプの新しいモノに変えましたが、自動洗浄やウォシュレット等の多機能にもなり、下手な使い方をすると結果的に電気・水量も増えてしまいそうです。 補助金などが国から出てエコ的なモノに買い替えも進んでいるようですが、結局そこで消費が進んだり、エコ商品に必要な新素材が品薄で、その確保のために新たな環境破壊が進んでしまったら元も子も無いように感じますね。少なくとも私に限っては「地球に優しい」という言葉によって自分をも誤魔化して消費もし易く、遣い方も雑になったように感じますかね。 「地球に優しい」は、自然への思いやりや人間のエゴに対する自身の戒めなど『崇高』も感じますが、地球(自然)は環境が悪くなったなりに生きて(変化して)いくだけでしょう?人間以外の存在にも自分や家族・仲間を思いやる能力があったとしても、「自分の種を守る」という概念を持ち合わせていますかね?結局の所、「困る」と感じるのは人間自身でしょうね? まして他種(種の保存)をも思いやれるのはヒトのみが持つ『能力』のようにも感じますが・・・もっともそれが大切(崇高)なモノなのかもしれませんがね。こんな事を客観的(他人事)に言えてしまう私にはそんな『能力』があるのかも疑問ですがね。そして個人的には人間以外の存在に人間の想いを投影(具現化)する質の「気」を強く感じますからね。 反エコ的人間の本音には、悪い事と思っていないにしろ自分達だけ得や楽してきた負い目なども少なからずありましょうから、人間以外の存在(自然)にも負な想いは投影され易いと感じます。反エコ的人間の想い・営みに嫌悪を感じ、「地球に・・・」や自然の姿に人間の想いを投影して体裁を整え、エコ的人間も自分の想い・営み(好み)を通しているように感じますかね。 時に「人間が地球(自然)を救う」という『崇高』も、形を変えた人間のエゴのように感じますけどね。私も以前はエコ派的立場に共感でしたが、それが主流(威張る)になると反発したくもなりますかね。そして結局エコ派にも反エコ派にも付けず、事が進んで行かないもどかしさも感じたりして、どちらでも良いから偏れる生き方を羨んだりもしていますかね。 植林したりして直接のエコ活動に参加されている人達には負い目も感じますかね。そして活動の内容に限らず「やりたい事」・・・まして体裁まで良いモノが見つかっているということには嫉妬も感じますかね。ただそれが主流になると反発したくもなり・・・常識でいう「正義(生命)」が必ずしも私の生き方の選択の基本にはなっていないようです。 そして「幸せ」自体よりも「不幸」な所から「幸せ」に移っていく過程の「やり甲斐」を人生に欲していたりする人も少なくないと感じますかね。また時に、「エゴ」と「崇高」に因果を感じますし、「エゴ」にも生きて良く上で大切な役割も感じますかね。その存在の是非ではなく、お互いに本気で嫌悪を感じ、拒絶し合うことも生きる営みの1つなのでしょうかね。 どんな方向であれ、想いが偏って増え、強まって行くことが具現化(現象)に繋がるようで怖さも感じますかね。よくある諭し的表現にもなり、ドライな自分自身に気持悪さや怖さも感じますが、どうか皆に嫌われませんように・・・(09.12.7著)・・・・・・・・・・ 環境問題改善の話し合いも一向に進展しませんね。 先日ある番組で、少し経済界寄りな評論家のこれ以上の経済の締め付けは破綻をもたらすような発言に対し、有名な司会者が「地球が危ないのにそんなこと言っている場合ではないでしょ!」といったような趣旨の発言をしていましたかね。その司会者は、ある宗教団体とも関わりがあると聞きましたが、正義感のある言葉にも聞えましたし、評論家もタジタジでした。 さてここでその二人の立場を借りまして、私なりに議論を進めていきたいと想います。評論家:「失礼ですけど、あなたは一般庶民より良い暮らしをしているように見えますが、庶民程度まで生活水準を落として、浮いたお金を貧しい所に回すような考えはお持ちではないですか?」司会者:「世間がそうなれば、勿論その覚悟はありますよ。」評論家:「周りがやらないと出来ないのですか?」司会者:「私だけやっても意味ないと感じますし、不公平でしょ。」評論家:「まさにそれと同じようなことが世界規模で行われているのではないですかね?」司会者:「・・・」(09.12.20著)・・・・・・・・・・ 「生態系を壊すな!」 最近では海底油田施設の事故など、またヒトによる外来種の持ち込みなど、ヒトの営みによって生態系が崩れ、今でも多くの種が絶滅の危機に瀕しているようですね。他の動物のせいというよりも、どうもヒトが増えたことに一番大きな原因があるようにも感じますかね?他の動物が増えすぎると駆除もするのに、子供を増やし、高齢者の手当てを厚くしようと・・・ 戦争などによって自ら、また逆に天災などの自然の力によって間引かれていますかね・・・個人的には全ての物事にヒトの「想い」的なモノの関りを感じますので、これら自虐的な表現には少なからず真理も感じますが、おそらく他種の保存を意識出来るのもヒト特有の能力と感じますし、「神」的目線に嫌悪も感じますかね。何より体裁も悪いですし・・・ また何度も豪雪や台風などの自然災害や基地などの事故や騒音の人災に見舞われているにも拘らず、「故郷」的なモノに拘りますよね?私はその感覚が無いので羨ましくもあるのですが、例えば自然を守り、無駄な設備(道路や公共施設等)を減らす名分で、都会の住宅も余っているようですし、国の補助の基でヒトが一所に集って暮らすって言うのはどうですか? 私はあまり他人との関りも得意としませんが、かえって人混み(都会)の方がプライバシーを得られ易いとも感じますし、正直日常的には自然の美しさとかを欲してもいないので名分無しでもOKですがね。基本は都会で暮らして、欲しくなった時だけ自然に出向けば良いかなって・・・田舎でなければ得られない生活となると、「自然を独り占め」的感覚ですかね? それ以外はヒトの「心がけ」次第で全て都会でも得られそうな気もしますからね。ただその「心がけ」がヒトとして一番難しいことのようにも感じますけどね。ヒトの関りがもう少し柔らかくなる方法でも見つかればね。個人的にはヒトの歪にも生きていく上で欠かせないモノも感じますかね。 そして単に自然(物質的)を守るためにはそこからヒトを遠ざけることがベストと感じますが、その自然に価値を当てているのはそのヒト自体でありましょうし、そのヒトが自然から離れてしまったらその価値を誰が感じていくのだろうかというジレンマも残してしまいますね?(10.5.22著)姉妹日記「立場-2」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.21
私は学生時代、建築のデザインを学んでいました。 当時の教授が「できるだけ多くの他人の作品を見なさい」と言っていました。その頃は、「他人の作品を見て良い所を取り入れ、自分なりにアレンジしてより良いモノを造る」というように捉えていました。そうやって出来た作品は、確かに他人受けが良いのです。ただ、自分の中には何か「負い目」のような感覚が残っていて、素直に喜べなかったりするんですね。 やはり元は「人真似」ですからね。元々雑誌に取り上げられるような作品から引っ張り出してきたものなら、受けが良くて当たり前ですね。自分の中で「いいなぁ!」と感じたモノは、元々自分の中にもある感覚のように感じています。むしろ、「なんだコレ?」と感じたモノに、「やられた!」という感覚が残るのです。 他人には受け入れられない感覚って、本当の意味でその人だけの感覚に近づいているように感じ、今は教授の言う「できるだけ多くの他人の作品を見なさい」は、「他人と同じものを作らないように」と捉えています。多くの他人の作品をみて、自分の中にある同じような感覚を削ぎ落とし、既に生まれた時点で存在する自分だけの感覚を探し出す作業とでもいいますか。 やはりモノを作る時、「皆に認めてもらいたい」とも想うのですが、それとは別に、自分だけのモノも追い求めてみたくなるんです。自分だけの感覚・・・自分だけ満足できて、他人には理解できない感覚・・・。それを考えると、モノ作りが辛く、ついつい遠ざかってしまうのも事実です。まさに、一生をかけての作業のように想います。 それが出来た時に生きている意味も失いそうで、「悟り」とは究極の自己満足とも感じてしまいますかね。(07.9.22著)・・・・・・・・・・ 毎回自作の陶器を一緒に掲載しまして、時々褒めていただいて、嬉しく想います。 ただ私のこのモノ作りに関しては、前回に記したものとはまた別の意味合いもあります。モノ作りを生活の糧にしていると、買って頂く為に少なからず「他人受け」を気にしますかね。そういったモノ作りを続けていると、どうしてもストレスが溜まってきます。そういった時に、機能やデザインの「他人受け」を、一切気にしないでモノを創ってみたくなります。 自分の中に溜まった「ワガママ」を吐き出すような、いわば排泄的なモノ創りなので失敗もなく、ある意味とても気持ちよいです。いくらでも創造できますね。前回の「自己満足」とは、また別の性質のものですね。ただ、それは、他人の評価を気にしなくても良いので、大概は頭の中で完結し、それで満足してしまいます。 よって毎回掲載している作品のように形にするには、例えば誰かに貰って頂くといったような「名目」が必要で、そこには、少なからず「褒めてもらいたい」の質が入っていますね。(笑)この日記も少なからずそういった質のモノである自覚はあります。また、自分の作品が、それを遣う人それぞれの感覚で、どう遣われ(変化し)ていくのかが、とても楽しみです。 いわゆる他世界観を楽しむためです。ゆえに後期の作品は、モノを蓄える機能だけ備えて自分の感覚において上下裏表が無いように(全て正面)作っています。家を設計するときも、なるべく住む人が、その時々のシチュエーションに合わせて変化できる事を第一に考えていました。私自身が飽きやすく、また何度でもその家に訪問したくなるようにですね。 ただ、残念なことに日本人は、得てして技術的な事に趣を強く置くようです。「本当に良いモノは一つ」とか言ってですね。また、日々の生活に追われ、なかなかその様な余裕もないようです。事実私がそうですからね。(笑)(07.9.23著)・・・・・・・・・・・ 「遣いづらいわね~」 デザインを優先してしまって、本来の機能を損なってしまったり・・・。建築など特に機能を蔑ろには出来ませんね。むしろ日本では、機能を優先したモノが評価され易かったりしますかね。いわゆる「機能美」と言うヤツですかね。機能を突き詰めることで想わぬデザインが生まれたりもしますが、最終的には画一的なデザインになってしまうって理屈ですかね? 一つの考え方として、まずデザインを先に生み出して、そこに機能を持たせるために突き詰めるアプローチもありますかね。確かに前記に比べ機能は落ちますが、「自分だけのモノ」的な、機能にも勝る満足感もあったりしますかね。時に「遊び心」とかいって「贅沢」を味わえたり、また時に「これどうやって・・・」とか遣い辛さにより会話がうまれたり・・・。 また曲線って、わりとその人それぞれの美的センスが出易かったりするんですよね。ただある意味完成度(個性)が高く、他のモノとの相性が悪かったり、後に他人が手を加えようとしても難しかったりするんですよね。直線や完全な円、45や90度の角など、ある意味それぞれは個性が薄いモノの方が変化の応用も容易で、遣い方の個性を生んだりもしますかね。 ただ日常的に遣うとなると、いずれも鬱陶しかったりするんですけどね。そして周りが皆複雑に個性を主張し始めると、逆に単純に無個性なモノが「個性的」になってしまいますけどね。(09.5.12著)・・・・・・・・・・ 「気に入った家を建てるには2・3軒建てないと・・・」 私も家を建てる時、色々とやりたいことが膨らんでしまい、まとまらず、結局水周りを除いて1・2階総吹き抜け(大空間1部屋)の建物になってしまいました。住みながら追々手を加えていけばいいかな・・・って感じで後の改装の為に今も所々体裁良く下地も残しています。個人的には建物の骨(躯体)にこそ美しさ(機能・構造美)も感じたりしますので・・・。 また家具や階段にまでキャスターを付け、急なレイアウトの変更にも対応できるようにしています。そしてそれらが必要の無いときは全て無くせたり、また他のモノに転用出来るように分解・変形出来る事を基本に作製しています。私は集中は深い反面飽きっぽく、欲張りで多機能にしないと満足もできないのですよね。「一石二鳥」とか大好きな言葉ですね。(笑) 大概のモノは自分で造りますが、モノを購入する時は本来の用途は無視して選んだり、逆に全く用途のないモノにも惹かれたりしますかね。他人の思惑に従わされているような感覚に嫌悪を多少なりと感じたりもすることもありますかね。また造っている最中にはすでに次のことを考えているので計画変更もざらで、他人に制作を依頼する事はほぼ不可能です。 と言うよりも、申し訳なくて変更を頼めないので自分でやってしまっている所もありますかね。いざ住み始めると面倒になって、せっかくの多機能も宝の持ち腐れになりがちですがね。(笑)(09.12.10著)姉妹日記「デザイン-2」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.18
車を運転中、思わず考え事をしてしまって、気が付いたら目的地の近くまで来ていた・・・ なんて経験が皆さんは無いですかね?その間、道を曲がったり、信号で停止したりといった運転の諸作業はどうやって行われたのでしょう。ちなみに私は、そんな危険な運転はしませんがね。(裏切り・笑)私の頭の中は、常に色々な映像が次々に現れ、かぶさる様に瞬時に変化しています。 視覚を邪魔するようなモノではないのですが、とても頭の中が煩くてしょうがありません。確か坂本龍一氏が、常に頭の中に音楽が流れている様な表現をしていたのを記憶しています。ここで、少し私の母に触れておきます。 基本的に自分から話はしたがらない母ですが、施術中の患者さんの質問に対してだけは、何か自分の心に問う様にして答えを導き出し、伝えていました。患者さんはその答えに妙に納得し、その時点からみるみる症状が良くなって行った様に見えました。まるで「こう言ってくれたら気持ちを直す方向に向けられるのに」と無意識の中で想っている事を言い当てた様でした。 私が、「気」の施術において患者さんから伝わって来る感覚に、1. その人のプライドに触れないような間接的(比較的表層的)なモノ2. 直接その人のプライドに触れてしまう(深層的な)モノとが在ります。前者は、いわゆる「病気」やその「原因」などに直接関わるイメージですが、母は主にここに繋がっている様に感じます。後者は「寂しい」とか「悔しい」などの感情に似た感覚ですが、私は最近ここばかり強く伝わってきて少し困っています。子供の頃の感覚が戻って来る様な感覚です。一度後者に繋がると、前者には繋がり難くなりますね。 そして、初めから後者に触れると大概はプライドを傷つけ事態を悪くしてしまいます。私は経験ありますが、人と話している時、特に自分の都合の悪いプライドに触れる話で、核心(本意)をつかれたと(後から考えると)感じる時に限って、ひどく怒ったりしていませんか?ただ、子供の頃の感覚とは少し違った感覚もあるのですよね。 施術中に伝わってくる「寂しい」や「悔しい」の「気」は健気で、いとおしく感じられるような心地よいモノです。普段の生活の中で他人と関わる時の「気」は、同じ人であっても必ずしも心地の良いモノだけではありませんね。(07.7.22著)・・・・・・・・・・「気のせいだよ」 「気のせい」というと、一般には「勘違い(錯覚)」的意味に遣われていますかね?少なくとも「気」の世界観においては「気の影響で・・・」的に扱われていることが多いように感じますかね。ところで皆さんは、意識(関心・想い等)が別の所に向いてしまって、痛さや痒さなどの症状(感覚)が一時的にも消えてしまった経験の一つも無いですかね。 そして医者に再検査して貰ったら、病気が治っていたり、良い方向に向かっていたり・・・といった不思議な経験は無いですか?むしろ再検査して変わっていなかったり、悪くなっていたりの方が不思議ですかね。原因が在るにも拘らず、一時的にも症状が消えてしまったと感じるのですからね。そもそも症状(感覚)って何によって創られるのでしょうかね? 今流行の脳科学などで言えば、症状が消えたことが脳の引き起こす「錯覚」とか言うことになるのでしょうかね?脳内物質等の発生のメカニズムの研究は進んでいても、その物質が何故「錯覚」を起こすかという根本の解明はなされていないようにも感じますがね?また時に脳が「偽」を見せる(感じさせる)のなら「真」の判断はどうなされるべきなのですかね。 その時々で利害が一致した多数派の似通った感覚ですかね? また例えば初めて同じ色を同時に見て、そこでその色が「赤」であると約束を交わし、後に同じモノを見せればその約束により皆「赤」と答えるのでしょうが、それが皆同じ「赤」を見ている証明になるのでしょうかね?極端に言えばAさんの「青」がBさんの「赤」だったりしていることは無いという証明になっているのですかね?色の好みも人それぞれですし・・・ 「色盲」とかもあったり・・・まして焦点(意識)の反れている視界にあるモノに関してはとても曖昧なように感じますがね。意識が反れて症状を感じなかった事実は物質的な立証も蔑ろになっているようにも感じますが、「錯覚」とか「偶然」・「個人差」のように科学の逃げ道的に遣われるモノにこそ大切(真)なモノが在るような「気」がしますがね?(09.11.12著)・・・・・・・・・・ 私も「優柔不断」な方でしてね・・・ 自分一人を考えれば答えは直ぐに出ているんですよね。ただ複数の人が絡んでくると、全ての人を満足させられる答えが見つかるまで答えられないんですよね。それぞれの相手の立場になってシミュレートしている感覚ですかね?そして私の行為により一人でも不満を感じる人が出るようなら、なにもしない方がマシ・・・的に大概は心が収まってしまいますかね? 一部の人だけが幸せになったことで他に不幸のシワ寄せが行くのであれば、皆で不幸でいようよ・・・的に。大勢で背負えば不幸も少しは軽減できそうですし、皆が公平に不幸であれば、それは不幸では無くなってしまうようにも感じますしね?ところで皆さんも自分の中に複数の自分が同時に現れて、初めの自分の判断の邪魔をするような感覚は無いですかね? 「多重人格」と言う症例を聞きますが、一人の人間が瞬時に別の人間の様に変わってしまうようですね。ただそれって複数の人格にスムーズに移行できている訳で、本人にも演技(嘘)の自覚も無いようですし、個人的にはより一人の人間的感覚ですかね。中には前世・言語等も含めそれぞれの過去の事実と合致する記憶を持っていたりする例もあるようですが・・・ 私は今ある「輪廻転生」的世界観そのままの肯定者ではありませんが、前にも少し書きましたが、科学で言う「死後は無」的世界観にもいまひとつ違和感がありましてね・・・そもそも「無」と言うモノ自体も感覚的に理解できず、生まれてから今までの記憶でさえほとんどが忘れ去られている訳で、生まれる前には何もなかったと言いきることも難しく・・・ ただヒトは追い詰められると並外れた能力を発揮するようで、そこに記憶力も含まれたりして・・・例えばサヴァンと呼ばれ、一度聞いた音楽や風景などを一瞬に記憶してしまう人達がいたりして、過去に何気なく目にしたモノが突然よみがえったり、ましてヒトは強い「想い(自己主張や自己防衛等)」により、物質や現象をも創り出してしまう力も感じますかね。 そして言葉なしで相手にそれを伝える力も感じますし、肯定的研究者には「共鳴」的力も芽生え易かったり・・・ヒトは都合良く(無意識に)記憶も書き換えてしまう能力も感じますので、どこまでが本当の過去の記憶なのかは自分でも解らないと感じます。そもそも「今」から振り返った記憶は、詳細まで見ればほとんどが今創ったモノのように感じますかね。 また「悪魔憑き」や「催眠術」なども、普段から開放的な人は勿論、根は素直で普段我慢強く抑圧されているような人にとっても、そういった儀式をきっかけに汚い言葉を吐いたり恥ずかしいことをして、祭・酒同様に無意識な欲求不満の解消の場になったり、また術師に対しての無意識な気遣い(期待に応えなきゃ!)的な気質を感じることも少なくないですかね。 俗に「気遣い」と言われるような、相手の気持ちに沿うように気持ちを合わせることが「気功」などでも言われる「キヅカイ(気を操る)」とも大きく関りを感じますかね。そして何回も遣いました「無意識」自体が他人や時に自分自身に対しての体裁・プライド等を守ってくれる都合の良い他意識なのであると感じ、多くは幼い頃に身につけているように感じますかね。 厳密には欲求(自己主張や自己防衛等)を満たすために、人格を変える際に無意識に自分にする言い訳・・・結局ここでも無意識が発生してややこしくなりましたが、ニュアンスは伝わりましたかね?個人的には前記した「優柔不断」的人間の方が同時に複数の人格的なモノが存在する訳で、むしろ「多重」という意味においては近いように感じますかね。(10.11.14著)姉妹日記「意識-2」・「意識-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.17
よく霊を見ると言う人から、「疲れ」を感じる事が多々あります。 疲れから自己主張する「気」が落ち着いた事により「他意識?」と繋がり易い状態になり、もともとその人が持っている世界観が「他意識?」を霊の形に変え、見せている様に感じられます。そして疲れ切っている時の「何かに頼りたい」「何も考えられない」様な感覚が無意識に「他世界観」にドップリ漬かる感覚に近づいているのではないでしょうかね。 そしてまた時に、自分の「想い」を無意識に「他意識?」の様に変えて見せる(自分自身に嘘をつく)力も感じます。個人的な「霊」の感覚(特に悪い質のモノ)の多くは、「生霊」と呼ばれる質のモノであると感じますがね。生きているヒトの強い想いが見せる(感じさせる)、主張の形の一つ・・・特に女性や子供にはそのような能力を強く感じます。例えば・・・ 小さい頃から信仰の深い環境に育ったり、大好きな家族を亡くして寂しさのあまり自分の中に他意識的な家族のイメージを創ったりして霊的世界観を無意識に築き上げるように感じます。そして大きくなるまでそれを比較的矯正されない環境にある人は、他人の「意識?」(想い)、または自分の想いを一度その世界観(霊的)に置き換えて感じるような能力も感じます。 そしてまた、そういった霊的世界観を遣ったカウンセリング等を受ける側も、自分の「想い」として受けるよりも、亡くなった大切な人だったり、霊という崇高なイメージのモノからのメッセージとして伝えられた方が、時には自分のプライドを保ちながら受け入れ(確信を得られ)やすかったりするように感じます。 「気」や「意識」、「霊」など、その人の「世界観」によって見え方は様々のようですが、何かが「伝わっている」、「繋がっている」感覚は極めて近い様に感じています。そして、その中の「意識」という「世界観」を借りて例えれば、様々な「意識」の視覚的形の1つが「人」のように感じます。 また、「幻覚」や「暗示」にも今の主世界観(科学)の中で過ごしていくための大切な力と役割を感じますが、主世界観(科学)でその表現を遣う時に、未知に対しての「逃げ」の資質も同時に感じられてしまいます。(07.7.23著)・・・・・・・・・・「怖い話」の季節でしたね。 あちらこちらで心霊の番組を見ますが、霊にも性格があるようですね。「寂しい」だったり「怖い」だったり、特に外国では「陽気」な霊もあったりするようです。そして不思議なことに、霊能者によって扱うタイプが偏っているようにも感じます。まるで霊が、それを扱う霊能者の気質(世界観)を映し出しているように。彼等の言う「共鳴」というモノでしょうかね。 ちなみに私は、もう亡くなられた宜○愛○さんが好きでして、あの人が扱う件の霊はいつもやさしくて寂しい感じでしたね。霊の存在云々よりも彼女自身やそこに関る人達の人柄が心地よくていつも楽しみに見ていました。晩年は有名な超能力者や歴史学者などと一緒に出演していたようですが、特に「テレパシー」(他意識と繋がる)的な能力が秀でていたようです。 霊に限らず、人間以外の存在には、そこに関る人の「想い」を映し出す気質を特に強く感じます。そして人は、「関心」や「想い込み」によって見えるモノ(各種感覚を含め)や記憶も変わるようですし、「想い」を映像化(具現化)する力があるように感じます。また映像技術がここまで進み、一般化されると、心霊写真やビデオもあまり意味を成さないように感じます。 ただ、霊の世界観にも、科学やその他の世界観同様大切な役割も感じますね。どうやら私には霊の世界観は根付いていないようですが、少なくとも霊を通してそこに関る人を理屈無く楽しめる(感じられる)大切な世界観ですね。バチがあたりませんように・・・。(08.8.9著)・・・・・・・・・・ 「とても神秘的な体験でした♪」 46年ぶりの皆既日食を悪天候で見られなかったにも拘らず、現地で体験した人達が涙を流して感激していました。科学において月が地球に影を落とす現象として原因がハッキリしているにも拘らず、人に「神秘」的感覚を与えるのだから自然現象って不思議ですね。地域によって良いイメージや悪いイメージをも与えるのですから、これも不思議に感じますかね。 『昼間』に暗くなる体験がそんな感激を生んだ大きな要因とも感じますが、『夜』が暗いのも地球自身の影な訳で、私だったら大金をかけたにも拘らずあの悪天候では無理(無意識)にでも「神秘」的にも感じなければ自分の気持を治め切れなかったでしょうかね?(意地悪い?)時にヒトは自分自身にも嘘をつくと感じますし、ヒトの感性こそ不思議に感じますかね。 また日食のレポートにおいて「宇宙から見れば人間なんてちっぽけな存在・・・なんだかんだ言っても人間の営みなど大したことではないですよ・・・戦争や環境破壊なども、宇宙的視点から見ればとても小さなこと」と、いつも説教的な発言をするTVのコメンテーターが言っていました。ただですよ・・・その「宇宙的視点」から見ているのも人間ですよね? 宇宙という世界を見せているのも人の中にあるモノのように感じますし、全て人間(意識・想い)的なモノから発生しているようにも感じますが。であるとすれば、人間(意識・想い)的なモノは宇宙よりも大きな存在(影響力)のように感じますがね。ちょっと傲慢な捉え方で、体裁も悪いので自分自身でもいかがなものかとも感じていますがね。 ただそうやって何か大きな存在の一部であるという捉え方によって、例えば過去にやってきた悪い営みなどの責任を、あやふやにすることで楽にもなりますかね。時に人の「想い」を投影するような大きな存在(宇宙・自然等)の気質を利用して、人間個々の「想い」(意識)的なモノを高め、様々な現象も体裁よく起こしているようにも感じますがね。(09.11.16著)・・・・・・・・・・ 霊は優しい人に寄って来る~ 確かに私はとてもドライなので、子供の頃から一度も霊というモノを見たことが無いのでしょうかね?ただ私の感覚から言うと、よく霊を見ると言う人には自己主張(気)の強い人も少なくないように感じますかね。でもそういった人は得てして感覚的に行動する人でもあったりして情にも厚かったり・・・「情に厚い」と言えば一種の「優しさ」かもしれませんね? 個人的に言えば「霊」も普段から私達が見ている・・・例えばコップなどの物質・現象と同じように、子供の頃から代々刷り込まれる(信じ込む)環境によってソレを見ることが出来るようになり、大人になるまでその感覚を矯正されずに今に至り・・・脳科学の「脳は時に無いモノも見せる・有るモノも見せない」的に各々の都合で創り出す世界観のようにも感じます。 そして霊やその他のヒト以外の存在にはヒトの想いを反映する気を感じ、またヒトは他人の「意識?」(想い)、または自分の想いを一度そのヒト以外の存在(霊等の世界観)に置き換えて感じるような能力も感じます。時には「霊」が見えることでチヤホヤされて、怖いと言いながらも無意識に優越感をえられ、その気持ちよさを忘れられずにいたりして・・・ そしてまた「霊」の世界がこの世の中の「真理」的な表現をして、「霊」が見えない人に対して優越を感じているようにも見えて腹が立ったり・・・そもそも夢の中でもモノを見たり、触ったり、臭いを感じるなどの五感が存在するわけで・・・そんなことを考えれば、この世の中の「真理」とはむしろ「無」であるといった方が正しいのではないのですかね? ただ個人的にはそこにも違和感はあるのですがね。(笑)ヒトの想い込みによって全ての感覚を生み出せる・・・「無限」とでも言いましょうか?そしてそれよりも私の感覚からすると単に「霊は優しい人に・・・」は腹が立つ表現でもありますかね。こんな表現をきっかけにヘソを曲げて、「私は一生『霊』を見ないぞ!」なんて少なからず感じていたりもして・・・ そんな「想い」が今まで「霊」を見られないでいる一因になっていたりして・・・「霊」が見えるヒトにとってはそれが・・・見えないヒトにとってはそれが少なからずそれぞれの今現在での真実と感じます。どちらかの感覚を「真理」と決め付けることが反発を生み、よりその感覚の間を広げてしまうことも感じますかね。「真実」はヒトの数だけ存在すると感じます。 そして他人の世界観に興味を持ったり、気を遣ったり(譲ったり)して、時には自分の世界観を抑え、相手の世界観に歩み寄るようなある意味自己での「刷り込み」(自己暗示的)などが出来たとき、他人と同じような景色が見られたりするのではないですかね?そういった面では「優しいヒトに~」もまんざら間違いでは無さそうですがね。(笑) また死者を敬うよう(人間・自己戒め的)な意味で霊の存在を否定しないような気質が大切なのかも知れませんが、バチが怖いからとか、自分に力(幸せ)が欲しいという理由でも墓参りしてしまったりしているのですよね?私は墓参りも怠っているのでそれ以下ですがね。ホントに私はドライですね。霊どころか人間まで寄ってきてくれそうにもありませんね。 ただ私には表向きにはそれらを隠せる術も小さいときから刷り込まれてきていますので・・・そして私だって初めからドライだった訳ではないのに生まれて一度も霊を見たこと無い訳ですからね?そしてまた「優しい」は好きな異性の条件で常に上位にあるようにも感じますが・・・この場合は主に「自分にだけ優しい」という意味で遣われていますかね? 確かに肉体や金銭的関わりだけを期待して誰にでも優しく接する人も少なくないと感じますが、特定の人だけに限定し、割り切って使い分けてしまえる人の「優しさ」にもいまひとつ違和感や不信は残りますかね?個人的には「優しさ」を感じる有名人に「不倫は文化」の人を感じたりしますが・・・女性を敵にまわしたかな?(10.8.15著)姉妹日記「意識-1」・「意識-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.02
知人の知人(他人ですね)のお宅にお邪魔した時の話です。 そこには、小学校前の兄弟がいました。兄は物静かで人との関わりが不器用な感じ、弟は活発で誰にも愛想振りまく要領の良さを感じました。弟は我々とも直ぐ馴染み、兄は目を合わすこともほとんどありませんでした。 弟の居ないちょっとしたタイミングに、「ああいう弟を持つと、兄貴は色々と大変だろう?」と声を掛けると、クルッとこちらを向き、目をキラキラさせました。その後少し大人な会話をして、その兄弟達とは別れました。あのキラキラした目が今も焼きついています。私も彼らの頃は、既に周り(特に大人達)を気にしながら、イタズラなどしていた記憶があります。 そこには「親の目を惹きたい」の質が含まれていたりもしますかね。私自身は、「親の目を惹きたい」よりも、それ以外の単に自分の欲求を満たす行為と、自分(プライド)を守る行為が多かったように感じます。結局のところ、「親の目を惹きたい」も欲求の形の1つでしょうがね。そして逆にそこに自分(プライド)を守る目的も多分に含まれると感じます。 「気」の治療に限った事ではないと感じますが、子供さんの場合、調子の悪さをその両親(気を惹きたい人)の前で認めてあげたとたんに症状が急激に変化したりします(子供に限った事ではないと感じますが)。また社会的にある程度の地位にいる両親を持ってプレッシャーを感じ、また親のプライドを他世界観から守る様に子供が無意識に自ら病気を背負ったり・・・。 家族を自分自身(プライド)とみなしている子供も多いようです。親の側にも言えますね。自分の成し得なかった夢を子供にかけたり、自分の自慢をするのに子供の話を出してきたりしますね。自分が創った作品のように。そして時には自分の命まで投げ出せるんですかね。まさに自分自身です。 人により「創造物」や「仕事」・「趣味」・「動物(ペット)」なども、自分自身になりますね。私などはそのタイプですが、自分の子供を持てばやはり何よりも優先しそうです。自分の子供の頃は棚に上げて厳しく接したり、自分のやりたい事を我慢して当たってみたり・・・いや、やりたい事を優先するでしょうかね?どちらにしても子供を持った自分が怖いです。 私は、子供の頃の記憶やこれまでの関りから、特に話しをする時など、大人と区別した付合いが難しいです。最初は子供から戸惑い(例えば、「子供らしく」しなくて良いのかな?)を時には感じますが、後にはむしろ大人同士の会話よりしっくりいくモノも感じます。親以外の大人などに対しては、かえって正直になれることもあるように感じます。 特に子供からは、相手(特に親)の自分に対する扱い(教育・躾けなど)から感じて、自分の立場(大人っぽく・子供らしく、時には別人格的なモノ)を無意識的に創り上げる力を強く備えているように感じます。そこには自己防衛を基本に、「好かれたい」・「好きでいたい」とかいう自分自身の呪縛、時には親の面子も背負っているようです。 私も時には子供を鬱陶しく想うこともあります。ただそんな時こそ他の大人達と同等に子供と関われているとも感じてしまいます。そして子供の頃の環境に、良くも悪くも個々の世界観の構成に多大な影響を感じます。 色々と言葉の足りなさも感じてます。「子育て」を放棄した人間の「言い訳」としてどうか多目に。(07.12.5著)・・・・・・・・・・ 「息子が車両事故を起こした。」と知人が嘆いていました。 普段から良くない運転をしていて、「そのうち事故でも起こすからね!」と注意していたようです。そして言った通りの結果になって「ほらみろ!言った通りになった。」とも息子に言ったらしいですね。また知人は普段から「感が良い」(先の事が解る)と言う自覚があるようです。歳に関係なく、子供は特に親の「言葉」にはとても強く影響を受けるように感じます。 子供の頃などは、親の言付けを守って(素直に)行動していると、それなりの結果が得られるように感じます。そういったことが積み重なると親子には特に「言った通りになった」(予言)的「信頼関係」が根付いてくるように感じます。前記の知人の件も、「そのうち事故でも起こすからね!」の言葉は息子の心の何処かに常に引っかかって意識されると感じます。 そして事故後の「ほらみろ!言った通りになった。」でさらにその呪縛が強まっていくように感じます。普段の様子から、おそらくその知人は「ほらみろ!言った通りになった。」が息子達に対して口癖のようになっていると感じます。そのようにして、病にも多くの親子の呪縛的原因を感じられることがありますね。(08.7.15著)・・・・・・・・・・ 「30歳にもなって、親のせいにするな!」と罪を犯した人間に対して芸能人コメンテーターが言っていました。 例えば、子供の頃から親に敷かれたレールに沿って素直に育ち、また自分(親)のやり方がベストとして親以外の大人から学ぶことも教えない環境に育った人間がある程度大人になり、想った通りの結果にならなかったことから親の都合で「ここからは自分の力で生きていけ」なんて見放されて、誰もが自立した大人としてすぐに自分自身で修正がきくものですかね。 まして子供の頃の失敗やワガママはまだ受け入れられますが、ある程度成人になってからのソレには世間は冷たいですからね。最近はこんな世情のせいか特に厳しいものも感じますね。勿論全てに当てはまることではないと感じますが、おそらくゼロから人間を形成していく(ルールを刷り込む)訳でしょうから、初めに関る特に親の影響は大きいと感じますね。 もっともその親もまたその親から、またまたその親もその親・・・といった具合に代々引き継がれてきて来ているモノに影響されているのでしょうけれどもね。厄介な呪縛連鎖のように感じますが、その是非は私には解りませんね。ただ、気功の施術中にする何気ない会話にも、年齢を問わず親との関り的な内容が出てくることも少なくないように感じています。 ヒトはいくつになっても「子供」を少なからず残していますし、前記したような子供の頃の環境によって、いつまで経っても「子供」でいられるように感じます。特に行き詰ったり、病気など自分の想うように周りが動かなくなってくると、そういったヒトのせいにしたくなったり、ワガママになったりといった「子供」的気質が顔を出しますね。時に本音だと感じます。 そしてその「子供」気質が顔を出したとき、良い意味でも大きな力を発揮することが少なくないと感じています。 今テレビに出演できるような、ある程度順調に事が進んでいる時期にあると考えられる人たちにはあまり言われたくない言葉でもありますかね。それなりの努力は認めますが、ある程度自分のやりたい事(ワガママ)を通した形が今のテレビ出演にも繋がっていると感じますし、そこには少なからず他人(子供気質)の助けもあったように感じますがね。(08.7.18著)・・・・・・・・・・ 「お腹の子、逆子なんだって」 知人の娘が検診においてそう医者から告げられたと悩んで、知人(母親)に打ち明けてきたそうです。知人は「あなたも逆子だったけど後に元に戻ったから大丈夫よ」と伝えたそうです。するとすぐその後の検診において「逆子が直っている」と告げられたそうです。未知のモノに対しては、経験者のアドバイス(言葉)が強く影響を及ぼしたりするように感じますね。 まして母親(家族)の言葉だったりするとその効果も絶大だったりしますかね。ただ大人になると家族の言葉(気)は、切羽詰りもしないと逆に他人以上に届かないことも少なくないように感じます。身近であるが故に普段から嫌な所やだらしない所なども同時に見てきているため、プライドも拮抗していて素直に言葉に従えなか(信頼できなか)ったりもするようです。 ただ親の言葉は何処か(無意識)に引っかかっていて、ふとした所で表に噴出したりもしていると感じますね。それとも母の言葉により娘の「想い」が強まり、お腹の子に伝わりましたかね?二人の関係も既に親子ですからね。(笑)(09.9.24著)・・・・・・・・・・ 「子は国の宝」 「子供は社会で育てよう」と、子供手当てや授業料の無料化などの政策がなされていますね。また保育施設の増設なども叫ばれているようですね。確かにその政策によってお金が出来て、また保育施設が増えることで子供達から手が離れ、共働きもし易くなりますから、親にそのつもりはなくとも、結果的に保育所(社会)で子供は育てやすくなりますかね? もし保育所の支払いのためだけに共働きになってしまうのだったら育児放棄的で本末転倒にもなりそうですが、個人的には最近一人っ子も増えてきましたので、出来るだけ小さい頃からそういった施設に入れて団体生活を強いることは比較的賛成ですかね。全ての子供が最下~最上級までの色々な立場を経験し、我慢や思いやる能力も養え易くなるとも感じますのでね。 兄弟姉妹関係だけでは得られない立場を全ての子供達が、より小さい内に経験出来る訳ですからね。ただ少なからず天才とかスーパースターとかいった才能の芽を摘むことにもなりそうですかね?個人的には「ワガママ」を強く感じる才能なのであまり好みませんが、時に強いワクワクをくれますので、その才能の持ち主が居なくなってしまうのも寂しいですかね? 今の自分がそういった人間にはなれない嫉妬が強い自覚もありますかね。私はあまり賛成もしませんが、経済的なことや育児仕事の負担のことを考えるなら、やはり昔のように親との同居ですよね。それでもお互いが人間関係の鬱陶しさを優先してそれを避けるのなら、あまり国にお金のことで強く言うのもちょっと筋違いのようにも感じますけどね? 「子は国の宝」・・・将来の「労働力」的に当てにされるのであれば気持ちの悪い言葉ですがね。将来的にその子供達が皆この壊れかけた国を背負ってくれる保障はありませんしね?それなのに今までしっかりと働いて税金を納めて来た高齢者達の年金や保険料などが削られ、それが子供に流れたりするのでしょうから理不尽を感じている人も少なくないでしょうね? むしろそうやって結果を出して来た高齢者の方が「宝」であるようにも感じますがね?またスポーツ選手などの年俸アップの理由に「子供に夢を与えるためにも・・・」と言っている評論家もいましたが、そこにも気持ち悪さも感じますかね?確かにお金を稼げる意味では「仕事」でしょうが、他より「趣味」的要素も強く感じたりもしますからね。 (10.8.1著)姉妹日記: 「両親」・「私」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.11.30
「文字」や「言葉」には特に他人の強い「気」を感じます。まずはこんな話から聞いてください。 私は子供の頃、よく人の中に居て吐き気を感じることがありました。そんな時は、近くに必ず機嫌の悪い人がいましたね。また、自分では、「これで間違いない!」と答えが出ているにも拘わらず、自分の発言を遮られる様な周りの感覚に何も言えなくなったりして人との付き合いが辛かったことを記憶しています。 いわゆる「気の弱い少年」ですが、とにかくその場の雰囲気を壊す(極端に変化させようとする)人の「気」に、とても敏感に反応していた様に感じています。そして、自分の本意を抑えてまでも、その場の雰囲気を保つ事を最優先して「気」を使い、努力していましたね。(結局は自分が心地良いと感じる「気」を守ろうとしたにすぎませんがね) 私の場合、自分の名前の意味に親の強い「想い」を感じ、自分を表現するのに障害を感じています。今では、親にはそこまでの「想い」も無く、自分自身での呪縛に変化した様にも感じますが、そんな事で自己表現する時は自分自身の呪縛を「崩す」ような意味合いを込めて「イロヲ」を遣っています。上記の事もふまえ、私の本名が解りましたかね?(笑) また他人(ヒトのせい)にすることで自分から責任を外し、普段抑えている「自己主張」(時にはワガママ等)を少し出し易くする効果も感じられますかね。そして子供にとっては、そんな人騒がせな親の「想い」が、時には後々まで尾を引き、苦しむようですね。 私の基本「気質」は他人の目を気にする「弱い」質のようで、「言葉」や「文字」で自己主張する「強い」質の作業はひどく疲れます。増して、自分で感じていることですら周りへの配慮を考えると、ストレートな表現は出来ずに言葉を選ぶ様になります。それでもいざ「自己表現」をすると、他人の世界観を侵してしまう表現が多々出てしまいます。ストレスです。 ただ、「自己表現」なくして、存在の意味も見出せませんね。「言葉」や「文字」では、真の伝えたいことが伝わっているか実感が無く、信頼も難しいです。最も難しい「気」だと感じています。ただその「不確かさ」に今の世の中に存在できる大切な役割も感じています。「想い」は巡ります。ホンと、疲れます。よってブログも頻繁に更新出来ない次第です。・・・・・・・・・・ 芸術作品などに添えられる「コンセプト」によって改めて自分の中でその価値をあげた経験は無いですか? また各種「免許証」や「修了書」、そして極端な例では「預言書」などにも文字の力を感じますね。そういった書類によって一種の先入観(想い込み)という力を生み、様々な効果を上げていることも少なくないように感じます。そしてまた、科学などの「数式」(数字)や、宗教・儀式に遣われる「図形」にも力を感じます。 「数式」や「図形」には、それぞれの世界観の「矛盾」をひとまず置いといて、先駆者のルールに外見上従った(信頼した)人達にとっては、スポーツ選手の体型変化や、気功師の施術時に顕れる各種感覚と同様、自分の「想い」に確信を与える役割を感じます。まして「数式」は、答えが必ず1つだけ導き出せるので、得られる確信も非常に強いと感じます。 そして他世界観の人達には、「苦手」(曖昧・不思議)的感覚を生み、「何だか解らないけど、専門家が言うなら間違いないだろう」的信頼を与える役割も感じます。そしてまた「数字」や「図形」のようにある意味単純なモノには、「何か意味在り気なモノ」(曖昧・不思議)的感覚を生み、色々な「力」の存在を置き易いように感じます。 (07.7.13著)・・・・・・・・・・ 昔のラブレターが捨てられなくて・・・ どこにしまったかは覚えていませんので大切にしている自覚もありませんが、何かのひょうしに偶然見つけてしまったとしても、おそらく捨てられないでしょうね?同じような内容でも携帯メールによるモノなら割と抵抗なく消去出来てしまうんですけどね。ある意味その人の作品的感覚なんですかね。手紙を渡すまでに色々な手間がかかっていたりするでしょうしね。 文字の癖や消し跡などにも色々感じるものがあったり、私もモノ創りが好きなのでそういったものに置き換えて感じるのかも知れませんかね。悪く言えば重いモノではありますがね。私の学生時代にも携帯電話があったら、男女のコミュニケーションももっと軽くなり、良くも悪くも変わっていたと感じちょっと羨ましくも思いますがね。 そして「面と向かって」だったり「言葉」で表現すると、ちょっと敏感な人にはやはり目や言葉の調子などで知られたくない本音などを見透かされてしまったりしますかね。「手書き文字」や「文章」などには少なからず気質(性格)が現れると感じますが、「本音」を見透かすことは難しく感じますかね。まして活字や電子文字になってしまうと特に・・・ 私は本など活字を意識するとページを行ったり来たりしてしまい、1冊きちんと読み終えたことは無く、活字を読む機会もほとんど学校の授業(教科書)に限られていましたね。特に法律モノや試験問題の「言い回し」が苦手で、「引っ掛け」とか「誤魔化し」とかいうイメージや、「矛盾」ばかり浮かんできて、何回読んでも質問の内容が頭に入って来ないんです。 ただ国語の授業は別で、文章を「見」て質問に対して答えることは好きでした。本来、その人の感性によって複数の答えが存在して良い質のモノで、窮屈さも少なかったからでしょうか。活字に捉われないように眺めるようにして感じる?試験になると、質問者の求める答えと自分の感じた事にズレを感じ、泣く泣く求められている答えの方を選んで記載していました。 そのようにストレスを感じることも多々ありましたが、自分で文章を書くと自分の苦手な難しい「言い回し」になってしまうんですよね。これらのネジれた自分の性格も含め、よく大学まで進めたものです。結局文字として残るモノになってしまうと、最悪ヒトの目にさらされることも考えてしまい、体裁を整えて素直なこともかけなかったりしますかね。 ただそれも私自身の感じ方のルールの一つと感じますがね。たとえ活字や電子文字でも、それをきっかけにして相手のことを意識できれば本音も伝わってくると感じますがね。全盲のリーディング的超能力者などが居ますが、目から入ってくる情報は過剰なため、ヒトに迷いを生む大きな要因になっていると感じます。文字もそんな力を少なからず感じますかね。 本来「言葉」や「文字」は本音(比較的体裁の悪い欲求)を体裁よく表現する手段にもなると感じますし、まして「文字」は人目にさらすまでに色々と整える時間も出来る訳ですから、相手の本音が解り辛い・・・というよりも時に「解らないでいてあげて良いモノ」・・・単に自己主張として変に信頼や逆に不信も置いたりする必要ないモノのようにも感じますかね。 今の若い人達の間では、メールを返す早さも重要らしいですが、あまり考える時間も無いのでしょうから手紙などよりも本音が出てしまったりするのかもしれませんがね。 (09.12.14著)・・・・・・・・・・ 車の「高齢者マーク」のデザインが変更に? 「もみじマーク」とかも呼ばれていますかね。おそらく初めは単に「若葉マーク」の対義語的に発想されたモノと感じますが、後に他の人が紅葉→枯葉のようにもっと連想を進めて高齢者に対して失礼なイメージが定着してしまったことがデザイン変更の要因になってしまったのですかね?そもそも初めから「若葉・紅葉」も現状のデザインだけで連想できましたかね? 「若葉マーク」はおそらくネーミング(若葉)が先に生まれ、そこから連想されたデザインだと感じますが、初めにその図形に高齢者・初心者も含めた「運転技術が未熟」的な別のネーミングを付けていれば、現在の「若葉マーク」のデザインだけで済んだようにも感じますかね。今からでもデザイン変更に税金が遣われるような話が出ればどうなるか解りませんがね? 芸術作品なども含めデザイン・図形などは、後に文字や言葉を足されて初めて・またはより強くその意味や価値を変化させることも少なくないと感じますね。 (10.8.8著)姉妹日記「言葉」・「伝達」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.09.27
基本的に、その「世界観」特有の力を多く受けるには、その「世界観」に出来るだけドップリ浸かる事が大切に感じます。 ゆえに、ある程度のその世界観に対する「信頼」というモノも大切と感じています。 TVなどに出て、能力を示したりするのも初対面の人から「信頼」を得る1つの手段でしょう。しかし、私の母の気功治療には、それがなくても全く初対面の方でも変わらず変化が表れます。 母とも少し話したことがありますが、そこには、「クチコミ」という信頼のおける人間間の強い「想い」の連鎖を感じます。少し意地悪い言い方に変えると、「信頼をおける仲間から外れないための気遣い」と言う意味合いもありますかね。そこにも少なからず治癒との因果関係を感じます。ただ母には、それとは別に他人の信頼を呼び込む能力があります。後ほど・・・ また、私がとても注意している言葉の一つが、その「信じる」(信頼)でもあります。一見とても素晴らしい言葉で、前記もした様に、とても強い「気」(力)を背負う資質を感じます。しかし、それだけに「言葉」にしたとたん、本当に責任感の強い人にとっては、何よりも重いプレッシャーとなります。 そして、そのプレッシャーに負けたり、単に気が変わったりして期待にそぐわない結果になると、「信じる」が「裏切られた」という、より強い「想い」に変化したりします。そこから、さらに「恨み」や「妬み」に進むと、人の存在も潰すほどの「想い」(力)になると感じています。得てして人は負のイメージの「想い」の方が容易に強められる様です。 また、スポーツなどの実力差がある勝負などにおいて、実力の上の人が「勝って当たり前」的プレッシャーを感じ(負のイメージの「もしかして(想い)」を強め)、同時に実力の下の人が「負けて元々」的リラックスを感じ(正のイメージの「もしかして(想い)」を強め)た時に、想いもよらない番狂わせが起こったりするように感じますね。 「信じる」(期待する)は、良い意味で責任に「鈍感な人」には良い後押しの「力」になりますが、悪い意味で責任に「敏感な人」にとっては、「信じない」(期待しない)事が、逆に良い後押しの「力」になったりもする様です。一個人が感じた「良い」イメージの事が、全ての人の「良い」に常に当てはまるとは限らないようです。 「文字」や「言葉」のニュアンスは、遣う人(特に受ける側)それぞれの微妙にズレた「世界観」や、その時の精神状態によって不安定に変化し、「想い」に影響する様に感じています。 よって私は信頼しきれません。ただ、「文字」や「言葉」には「ワガママ」(欲求)を通す言い訳的質を感じます。だとすれば不確かで信頼しきれないで良いのかもしれませんね。 そして「他世界観」に関しては、「信じる」よりも「共感」し、時には楽しむように一時的にその世界観にドップリ浸かってみるような感覚で良いのではないでしょうかね? (07.7.14著) ・・・・・・・・・・ 討論番組で政治家達や専門家がかみ合わない議論をしていました。 相手の発言中にも拘らず自分の意見を被せたりしていましたが、自分は全て把握していたり、皆とは違った考え方が出来るとかいう自慢を含め、単に自分の意見(主張)を吐き出すことで満足感を得ている人も少なくないようですね。そして特に反対でもない意見に対しても過剰に反応して自分を守るように何度も同じ議論を繰り返しているような人もいたようです。 私も自分の主張が相手に理解されている感覚を得られないと、どうしても相手の発言で終わらせられない、ある意味負けず嫌いの気質が強くありますね。もどかしさもありますが、相手の主張の内容よりも自分の主張を理解させる一方の議論をしてしまうこともありますかね。普段の生活においても人が話をする時は必ずしも意見や答えを求めているとは限らないようです。 また今の総理は庶民的でなく失言も多いようですね。ただ政治家の本質に正直さを強く望みますよね?おそらく本音(正直)が出てしまっていることも少なくないと感じます。そして時に私は、あの強引な「言葉」に強いリーダーシップを感じ、安心感を得ているのも正直な所でして、また庶民的でない環境で育ったために培われた気質によるモノのようにも感じます。 確かに聖職的政治家のイメージから考えれば元々の人間性に違和感もありますが、皆(様々)の気持ちを本当に理解できる人に強いリーダーシップ(決断)が取れるのか疑問も感じます。自分の中にジレンマも感じてしまいます。そして「言葉」は本音が伝わらないから安心して付き合えることもありますかね。「言葉」は色んな意味で大切と感じますね。(08.11.22著)・・・・・・・・・・ 最近の若者は言葉が乱れていますかね。 「チョ~○○」も大分耳に慣れてきましたかね。記憶が正しければ、私が中~高校生だった頃にチョ~流行った漫画がきっかけではないですかね。(Dr.○○ンプでしたかね)その頃から、私よりもう少し下の世代が遣うようになったように記憶していますがね。ただ昔から「超大型」とか「超○○級」とか遣われていましたよね。名詞の前に付けるのがルールとか? 付けたことで違和感がある名詞も少なくないと感じますかね。特に遣い方に違いも感じませんがね。であるならばその人それぞれの感覚次第で何に付けてもルール違反ではないように感じますけどね。何かあるんでしょうね。ただ時間(慣れ)が解決してくれるようにも感じますがね。ただそれでも言葉遣いに限らず、想わず突っつきたくなる事ってありますよね。 新しくて理解できないモノ(感覚)への不安、自分の世代のルール(感覚)の主張、自分を抑えてまで正しいと信じて守ってきた前世代のルール(感覚)に従わない「自由さ」への嫉妬などもあったりしますかね。今の「正しい」日本語も、それより前に遣われていた日本語に煩わしさなどを感じたり、文化的遊びなどにより乱れ(変化し)たモノのようにも感じますがね。 間違いなく私の若い時も上の世代からそう言われ、下の世代にも同じ事を言っていますよね。「マジで」(笑)また世代を問わず、各界で外来語が沢山遣われていますが、簡単にインパクトを与える力と共に、意味を曖昧にして、いざと言う時には責任を回避する質も感じたりしますかね。日本車に日本名が少ない事には対外国評価への弱さも感じますかね。(09.10.19著)・・・・・・・・・・ 「差別用語」 テレビでコメンテーターが、「コジキ」を連発していました。司会者は慌ててそれを制していました。コメンテーター自体もその言葉は「放送禁止用語」であることは自覚があったようですが、あることを説明するのに有名な文学作品からの引用として仕方なく出したものらしいです。結果的には不謹慎な発言として謝りを入れていましたね。 ただその引用された作品はとても文学的に評価されているものであり、おそらく差別に見識のある人達も全ての人達に読むことを薦めることになると感じますし、そうなると皆「コジキ」を目にするわけで、目にすれば当然その意味も調べることになったり・・・普段遣われている言葉にも遣う人により差別的想いを強く背負うモノが沢山あると感じますがね。 私は高校生の時の授業で、周りの人達によって差別を受けているある地域の人達の話を聞きましてね・・・歴史的な背景があって、今もそれが一部の地域に引き継がれてきているようです。私はそれを聞いてしまった事で正直意識してしまいましてね・・・そんな話を聞かなければ何も無く普通にその人達とも付き合えたのにと疑問も持ちましたかね。 ただ「知らずに関る」のと「知っていてあえて関る」のではその意味合いも変わってきて、例えば人間的な成長・大きさなどの・・・人間的な大きさ?結局そんな感じで他人よりも上に立ちたいと感じてしまい、ある意味生きていく上で「差別」的なモノが常に基本に必要とされて・・・「言葉」(自己主張)には基本にその資質があると感じますがね。(10.5.2著)姉妹日記「文字」・「伝達」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.09.24
考古学など歴史の研究に、時々その時代にそぐわない異物が見つかったりしますね。 たしか「オーパーツ」とか言うように記憶しています。いわゆる「矛盾」の形の一つだと感じますが、これがよく厄介な事を引き起こしてくれます。 私は小さい頃から、自分の感覚から周りの人とズレを感じながら、波風立てないように、他人に合わせていた記憶が強く残っています。皆同じ場所にいて同じモノを見聞きしているのにどうして違う応えが返ってきてしまうのか、世の中に奇跡や偶然・矛盾や例外そして個人差は、なぜ起こってしまうのかいつも不思議で、これにも生き辛さを感じていました。 科学という主世界観の中で時には楽しく過ごしていましたが、やはり心にしっくり来ない事も多く、よくそれを他の世界観(超能力・心霊等の不思議な世界)で埋めるように過ごしていました。しかし、いずれも他人の創った世界観であるためか、心(自分の感じている事実)にしっくり来ない事が出てきてしまい、結局自分を抑えるように過ごしていました。 それぞれの世界観の中でもまた個々は別の景色を見ている様に感じられ、お互いの理解は微妙にズレたまま一致する事は無いのだろうと人付き合いに諦めも感じていました。 物事を吸収し易い小さい頃から矯正的に同じルールを詰め込んで来たものの、細かい理解は個々の世界観でやっていて、なんとなくお互い理解した気になっていただけなのだと感じています。 ただ、そんな感覚から、「真実」は、それを求める世界観の数だけ存在し、「真実」は1つとする今の主世界観のルールにより、相対する「真実」が存在する場合、信念の強い「真実」が弱い「真実」を淘汰し、強さが拮抗した時に「矛盾」の様な形をとって現れると感じます。 歴史の研究も、学会という大きく、強い世界観のルールにより、多くはそこの枠内に落ち着くのでしょうが、研究の性質上、強い信念を持つ個人の世界観も現れやすいように感じます。 そして今は、昔苦しめられていた矛盾や奇跡等を、全ての世界観(プライド)が存在するためにとても大切なモノであると感じられる様になり、そのズレを少し楽しめる様になりましたね。 結局の所、今回の私の表現も、自分の感覚からの1つの世界観という事になりますので、是非は別として・・・意味は伝わりましたかね?もっと良い表現が見つかったら、またトライしてみます。(07.9.6著)・・・・・・・・・・ 「原因が分かった♪」 知人が晴々として尋ねてきました。彼女は調子を崩しては医者に診てもらい、病気の原因を頂いては安心を得ているようです。頂いて数日は調子が良いのですが、また同じように調子を崩し、別の医者によって別の原因を頂いてまた安心を・・・といったことを繰り返しているようです。そしてインターネットによって自分で医学的知識を詰め込んでもいるようです。 そしてまた「占い」など非科学的なモノも深く興味を持っているようで、そういった文献にも多く目を通しているようです。医学とそれらは相対する価値観(理屈)に位置することも少なくないようですし、同じ医学においても様々な原因を頂いているわけで、ある意味自分の中に矛盾を創ってしまって、いずれも信用できなくなっているようにも感じます。 気功に深い医学的知識を持って尋ねて来られる人もいますが、やはり治癒には長い時間を費やしてしまいますかね。そしてその医学的知識の通り(素直)に症状を進行させ、ある意味「想った通りになった」という満足感さえ感じられる人も時に居たりしますかね。ただ逆にこういった一つの世界観に偏った人程、切り替わると変化も顕著だったりするんですよね。 何でも認められる(否定できない・どっちつかずの)人間よりも、ある意味深く「信頼」することに慣れているといいましょうか・・・ただ、多くの世界観から同時に認められることも大きな「信頼」になると感じますがね。(09.9.8著)・・・・・・・・・・ 「地球は丸い」 大昔は世界は平らだったんですよね・・・丸く(サイクルに)すれば「無限」になって、とりあえず平面世界の矛盾も治まって・・・そしたらあらゆる方向に世界が広がって、今度はどうやって宇宙(世界)の矛盾を治めるつもりかな・・・ここまで来てしまったから、私はこれからも他人の世界に便乗し続けて、いつまでも矛盾(不満)を抱えながら生きるのかな。 内の宇宙(世界)も広がって・・・相対するモノが共存する世界全て認めることは、全てを否定することでもあり・・・正直に生きてもその度逆の正直が生まれて「無限」になって・・・私はどうやって内の宇宙(世界)の矛盾を治めるつもりかな・・・ここまで来てしまったから、私はこれからも他人の世界に便乗し続けて、いつまでも矛盾(不満)を抱えながら生きるのかな。 ただ矛盾がなくなってしまったら、色々な意味で内にも外にも窮屈になるんだろうな。「無」にして(逃げて)しまえば治まる(楽な)のかな?(09.12.23著)・・・・・・・・・・ 衝撃映像100連発! 最近多いですよね。そのプログラムのなかの1つに、「次の4つの映像のうち、本物の映像はどれでしょう?」というクイズ形式のコーナーがありまして・・・どれも信じられない映像なのですが、1つだけCGや演出・加工無しのモノがあって、それを当てるのですが、多くの回答者が見分けも付かず、騙されていましたね。ちなみに私は全部当てましたが・・・(笑) 私はクイズ形式のように「騙し」が前提としているモノに対しては特に、問題(映像)自体よりも問題(映像)の製作者や答えを知っていると思われる司会者などを意識して見るようにしています。だからといって漠然と答えが解るということではなく、映像の荒さなどの視覚的違和感としてしっかり認識できます。映画など普段から映像には関心も持っていますがね。 それも含め、そういった「関心・意識」が違ってくると、同じ時に同じモノを見(感じ)ても、違った見え方(感じ方)をしてしまうような『矛盾』が起こるように感じますかね。おそらく素直に製作者の意図(騙し・想い)に合わせて感じる人と、直接「騙し」という裏に合わせて感じる私とは見え方に違いも出てくるように感じますかね。 初めは「想い(信じる)」の強さが拮抗しているため、『矛盾』として複数の感覚が成立すると感じますが、後に研究者などの既存のルール(理屈)などによってその感覚が一つに矯正され、それを納得することで今まで感じていた自分の別の感覚(真実)を自ら失っていくように感じます。クイズとして初めに正解を用意されていなければ、私の感覚が誤りであったかも? 別のコーナーでは、「恐怖の映像!」と称して心霊映像を紹介していましたね。出演者や観客の間から悲鳴のような声も上がっていましたが、前のコーナーであれほど映像加工の技術を見せ付けられたのに「その恐怖映像も偽物じゃないの?」的な疑いが真っ先に出てこないのが不思議で・・・気のせいか、映像技術の発達と共に鮮明な幽霊画も増えてきていませんか? 別に霊の存在の真偽がどうのではなく、そういったことで怖さも軽減できると感じましたけどね。UFOなども含め、これだけ映像技術が進んでしまうと、今ひとつそういったモノに証拠の力もなくなってしまいそうですがね?アメリカなどの一流の映像会社などで働く専門家に検証してもらったことで、その映像は本物であると鑑定もされたりしていますが・・・・・・例えば私がお金や本当に誰にも負けない技術を持っていたとすれば、表舞台には出ようとせず、単に私が裏で創ったモノで世間が振り回されている光景を見て楽しんだりするような選択もありますかね?ただ私は映像にはそのヒトの「想い」の反映(念写)的要素も感じますので、全てがそういった科学的トリック的なモノばかりではないとも感じていますがね。 極端に考えを進めれば全ての映像はヒトの創り出す偽り(想い)にもなってしまいますか?映像ばかりではなく、普段から見ている景色などにもそういったモノ(想い込み等)によるその人にしか見ることの出来ない一種の偽り(想い)が含まれていることも少なくないと感じますがね。そしてそういった偽り(想い)に真理・摂理があったりして・・・?(10.9.19著)・・・・・・・・・・ 「自由」には「責任」が伴う・・・ ヒトが究極的に求めるモノとして有名なスピリチュアルな芸能人が言っていました。複数の個(世界観・意識等)の存在する場では、各々が素直に自己を表現しただけでそれなりの反応(反発)が返ってきてしまい、私に限って言えば、他人に嫌われたくないので「自由」もその時々の周りに共感の持たれる比較的体裁の良いモノを選択しなければならない・・・選択? 私も他人に何でもかんでも「自由」に行動されてしまうとちょっと怖さを感じますのでその言葉には共感もありますが、責任が伴ってくるとどうしても行動に制限が課され、やはりそれでは現状となんら変わりなく感じ、少なくとも私の欲する「自由」ではないように感じますかね。結局少なくとも継続できる「自由」は手に入らないモノのように感じてしまいますかね。 またその芸能人は「運命」のような表現もよくされていますが、「責任」を口にする人間が「運命」をも口にすることに違和感もありましたかね。また起こってしまった自殺などにも「カルマ」などを遣ってある意味そこ(運命)から外してしまったり・・・勿論立場上体裁が悪いのも分かりますが、私のような人間は矛盾や、時に無責任を感じたりしますけどね。 ヒトは得てして何らかの形で責任を外さないと、なかなか先に進めないと感じます。その意味では「運命」と言う言葉が便宜的で大切なモノになっているとも感じてはいますがね。「自由」に本質的に当てはまるものは「ワガママ」と感じますし、そこに正義を当てはめて行われている悪も少なくないと感じますがね(11.11.12著)姉妹日記「研究」・「ルール」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.09.11
「タイムマシン」のテレビをやっていたようですが、見逃してしまいました。 そのうち信念の強い科学者が創り出すんでしょうね?ただ、その機械を使って、過去や未来に行ける様になったとして・・・行った本人からすれば、それって「過去や未来に来ている」といった『現在』に過ぎないように思いますね。その人がそこに存在するという変化だけでも、その過去や未来に起こったということは、それはまさに『今』のように感じますが。 過去に戻りたいと思ったら、その時を思い出すという行為のほうが、そこに今の自分が存在しないだけでも、より過去に近づけるように感じます。今から関わる過去や未来は常に『今』の延長(連続)のように感じます。ただ、それが『今』の延長であっても、そこで起こる出来事は楽しそうなので、「タイムマシン」には期待しています。 時間や距離、物質など、主に科学者の創った今のルール(世界観)の中で、科学者本人ほどそのルールも理解せずに、なんとなくそのルールに信頼を置き(便乗し)、時にはそのルールからハズれる「事実」(矛盾)が起こっても、偶然や例外として受け流し、特に気を寄せることも無く過ごしていますね。「偉い先生が言うんだから間違いないだろ」ですか? 「気」の世界観に「遠隔治療」というものがありますね。直接患者さんに触れることなく、また電話などにより遠くの人に「気」を飛ばして癒す方法ですかね。私の母も時々やっていますが・・・そもそも「遠隔」という言葉のイメージは、物質や時間・距離といった今の主世界観で創られている様に思います。 人によっては(特に受け手側に)そのイメージ(ルール)に縛られない柔軟な(都合の良い)世界観を構築し、確信に変えられていると感じます。幸いにも、「今の主世界観のルールをしっかり理解せず、なんとなくそのルールに信頼を置き」が都合よく、かろうじて心の何処かでは、そのルールに縛られずに済んでいるのでしょうね。 私もついつい都合の悪い時に遣ってしまいます「偶然」や「例外」、「幻覚」・「暗示」・「思い込み」などにこそ、大切なモノが隠されているように感じます。これらの言葉を科学者の立場で遣うのは、それこそルール違反ですよね。(笑)そして、今存在する人の記憶に無い過去は、未来同様に『今』から創造されているように感じますね。(07.10.2著)・・・・・・・・・・ 「全ての物質は更に小さい物質によって構成されている」 私の学生の頃に教わった科学の基本ルールの1つと記憶しています。最新の科学では解りませんが、このルールからすると永遠に最小の物質は発見できないように感じます。というよりも発見してしまうと、このルールが成り立たなくなってしまいますね。そして根本が証明されていないのにそれを信頼して、科学の世界観に表面上信頼を置いていることになりますかね。 いずれのルールも、その度ごとにある地点で「理論」という不確定な約束事でとりあえず設定され、その根本の解明は後回しにして、たまたま起きた(個人的には何かしらの「意識・想い」が作用していると感じますが)現象に対してそのルールを当てはめ、研究者の信念(想い)によりそれなりの根拠(物質等)を創り出し、積み重ねて(便乗して)いるように感じます。 「占い」などにうさん臭さを感じたりしますが、元々実際に起きた現象・事象(事実)を集め、それを統計学的に(理屈無く)処理されたモノであるとすれば何よりも信憑性のあるモノであるように感じますかね。むしろ不確定な推測を含む「理論」(理屈)が根底にある科学の方がよっぽどうさん臭く感じられてしまうこともありますかね。 個人的には1例でも例外がある世界観に全てを当てはめることは難しいと感じますし、科学に限らず、全ての世界観にはどこまでも「矛盾」(例外)が憑いて回る(必要)と感じます。そして「世界観」自体が「力」なのではなく、どの世界観であっても広い意味での「信じる」ということに、それぞれの色々な意味での「力」と繋がりを感じます。 「世界観」の構築は、「信じる」し易くするための手段のようなモノでもあると感じます。そして前記の最小の物質の件も、例えば昔は物質として捉えづらかった「光」・「波」・「揺らぎ」など、曖昧なモノに移行していかなければならなくなるようにも感じます。そうなると今まで信頼をおいている感覚(特に触覚)も信頼できなくなりますかね。 「物質でない(何も無い)モノが集る(密度が高まる)と物質になる」なんてことになったら反則ですよ!科学者さん。(08.8.6著)・・・・・・・・・・ 「究極の選択」 いずれも選択することに疑問を覚える要素を含む2つの極端な選択肢から、ルールとしてどちらかを選ばなければならなかったりする質問のように感じます。例えば「遊び」として皆のなかに同意や割り切りなどがあるシチュエーションであったりすると結構その場が盛り上がったり、少し偏りは感じますがその人の考え方がより明解に出る質問方法ように感じますね。 ただ例えば子供などの「教育」などが絡んでくると、個人的には2分の1の選択を基本ルールと厳しく定められていたにしても、両方が大きな疑問を含む選択肢ならば、あえてそのルールから外れ、他の選択肢を考えるという答えが沢山自然に生まれてくることを望みますね。ルールって「安心」も「不安」も備えていますよね。(08.11.22著)・・・・・・・・・・ 「手の温かい人は情に厚い」・・・? 「気」にも主に「温かい」イメージが強く付いているのではないですかね?事実私の母の手も温かいですかね。科学的にも「温かい」方から「冷たい」方へエネルギーが伝わっていくイメージが根付いているように感じますね。一般的な「気」のイメージもエネルギーの(物質)伝達的イメージが強いようですし、確かに私の母も感情の起伏が非常に激しいように感じます。 逆に「手の冷たい人は心は温かい」とかも耳にしますかね。私の経験上では、手の冷たい人は他人の目を気にする人が多いように感じます。私は施術の時は意識して手を冷たくしています。その方が相手から色々と伝わってくる感覚が強まるのです。人形に触れられているようで異性に触れるときも何かと体裁が良いようです。そんな気遣いにも顕れているように感じます。 私は普段から自慢できるくらい手が冷たいのですが、施術の時はもっと冷たくなります。初めは患者さんから違和感を得ますが、患者さんの体から感じたことを基に何気ない会話をし始めると、患者さんはジワジワ汗をかきだしたりして、良い方向へ感覚も変化して行きますね。そしてまた、気功師の患部の認識法にもよくこの温度差が遣われるように感じます。 ただ「冷たい」・「温かい」的も含め、認識法はその人それぞれで学んできた(信頼する)「気」(世界観)のルールによって異なるように感じます。そして大切なのは、いかにして患者さんの信頼を得て、治る方向に気持ちを変えて(気持ちの後押しをして)あげられるかだと感じますね。結果的(本質的)に自分を変化させられるのは自分だけ(自己治癒)と感じます。 そして時に「ヒトのせい」にすることよって「信頼」(確信)は得られ易いことも少なくないと感じます。また人は無意識に都合よく感覚も変え(選択し)、信頼する人間間ではその感覚も共有(共鳴)できる力も感じます。相手の体温より温かい手で触れれば汗ばむのも不思議ではなく、むしろ私の様に冷たい手で相手が汗ばむ方が不思議な感じがしませんか? もっとも人により緊張はあると感じますがね。また「いつも周りに気を張っていて頭に血が集るから末端まで血が通わない(手が冷たい)」・・・?こんな理屈に「なるほど!」と感じた人は、おそらく私の施術において顕著な変化が現れるでしょう。ただこれも私自身をも納得させる個人的ルールの1つと感じています。 またマニュアル的に(自分自身で感じてみることなく)その「個人的ルール」に乗ってしまって、想わぬ「歪」を生んでしまう懸念も感じます。そしてその「マニュアル」による「先入観」や「想い込み」も時に、良い力の基となるとも少なからず感じます。「手の温かい人」・「手の冷たい人」的いずれの表現も、結局「良い人」って事で・・・。(笑)(08.9.22著)姉妹日記「研究」・「矛盾」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.09.03
「今年にはいって12回ホールインワンを出した女性」の姿をみて感じた事です。 ビギナーズ・ラックと言う言葉がありますが、興味事に奥深さを求める事は、ある意味「難しい」と言うイメージを背負う作業でもある様です。それも自分のやっている事、すなわち自分自身のプライドの形の1つだと感じますが、その「難しい」イメージを持っていない初心者が、時にはベテランを上まわる成果を上げてしまう現象だと感じます。 その女性の姿から伝わってくるモノも、「自信」と言うよりも「難しさに気づいていない」と言った様な、どこか無邪気な感覚でしたね。おそらく最初はビギナーズ・ラックで始まり、そのままのイメージを無意識に保ち続けているのでしょう。又、今世間で活躍している人達にも(若くして活躍している人達は特に顕著に)その意味での「無邪気さ」を私は感じとれます。 「気」の治癒にもそう言った「無知」・「不確信」なモノに大きな要因と力を感じる事があります。逆の例として、自分の病気に対してとても深い医学的知識を持っている人は、治癒に比較的時間を費やす場合が多く感じます。ここにも「難しい」イメージの力をかんじます。ただし、そういった人の「意識」が切り替わった時にこそ顕著な変化が見られますかね。 そして「無邪気」な人には真似できない深くて強い世界観を創り出す力を感じられます。 また「無敗」・「負け知らず」な選手が1度負けを経験してしまうと、時にその後しばらく負けがこんで、「負け癖」がついたようになってしまうようなことも感じられます。そういった選手程、1度の「負け」のイメージも強く残し、立ち直りが遅かったりするようにも感じます。無邪気な人達へのバッシングにも同じような事(戸惑い)が感じられます。 スポーツに限らず、小さい(無邪気・素直な)頃から「勝利」・「成功」などのイメージばかり刷り込ま(経験・教育さ)れていると、いざ「敗北・失敗」した時に自分自身で修正していくことが難しいこともあるように感じます。(07.6.16著)・・・・・・・・・・ この2週間、北京オリンピックのおかげで毎日楽しく過ごせました。 今回は沢山の世界新記録が出ていましたね。もう何年も前から「これで人間の限界」と言われていたモノも少しずつ少しずつ塗り替えられていますね。あと数ミリ・数秒・数グラムと、わずかずつ目標を上げていくことで、自分の中に築いている「限界」のイメージに対してある意味「ゴマカシ」のような力が作用し、「難しい」を和らげるように感じます。 また先駆者と呼ばれる人達が苦労して出した成果も、次の世代になると難なくそこのレベルまではクリアしてしまいますね。前世代が時間をかけた(失敗したり迷ったり)過程を、ある程度省ける「継承」に大きな要因を感じますが、誰かがすでに出してしまった成果に対しては、「限界」の力も薄らいでいくようですね。「アイツに出来るなら俺にだって・・・」 特にそこまでの苦労(難しいイメージ)を知らない人(次の世代・若者等)にとっては、そこまで到達することもそんなに苦ではないように感じますね。また、人柄・国柄によって、「難しい」イメージを築きにくかったり、なんでも「楽しい」してしまえる人(無邪気等)もいるようで、時にとんでもない記録を何の苦もなく出してしまったりするように感じます。 「技(技術)は目で見て盗め」・・・主に完成された(伝承)と理解される技に対して遣われる言葉でしょうか。確かに自分で見て考え、時間をかけることによって、そこまで到達するまでに色々副産物を得られることも少なくないですね。ただ技によっては、前世代の「限界」まではあっさり教えて、次世代の新境地追求の時間を稼いであげることも必要と感じますね。 また、卓球の○ちゃんが、「サーッ!」の掛け声を封印していると聞きました。ただ、自然に体から出るモノ(広い意味でワガママ)を抑えると、少なからず本来の力も抑え込んでしまうと感じます。(08.8.23著)・・・・・・・・・・ 「無欲の勝利」とか言いますね。 「あともうちょっと・・・」とか欲をかいて余計な事をしたり、粘りすぎて引き際を見失い、チャンスを逃してしまったり・・・。またほぼ勝利を手にして「守り」に入ってしまい、体が硬くなって大逆転・・・なんてこともありますかね。「守り」というと、どこか「抑制」的イメージもありますが、時に勝利を得るための強い執着(欲)のようにも感じますね。 ただ勝利に限らず、欲しいモノを手に入れるには、やはり強い「欲」が欠かせないように感じますね。よくビギナーズラックに「無欲の勝利」を当てることも多いと感じますが、初心者には「欲」が無いのではなく、失敗した経験が少なくて持っている「難しい」イメージもベテランより弱いことや、「背負っているモノ」(プライド)の差にも要因を感じますね。 よく失敗した後に「やっぱりな~」とかいう想いが残ったりしますが、ベテランであるが故に持つ多くの失敗経験や、自分のやっている事に「奥深さ」(プライド)を求めることの裏返し的想いも、「失敗」が発生するの1つの意味であるようにも感じますかね。ある意味「期待した」(想った)通りになったと言うことでしょう。 「難しい」事への挑戦の方が満足度も高く、何かと体裁も良いと感じる人も少なくないでしょう。(09.6.30著)姉妹日記「限界」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.09.01
今年も「24時間テレビ」が終わりました。 今回のランナーは、○○はるみさんでしたね。彼女は昔からランナーに選ばれることを望んでいたようですね。人生のチャンスも感じているようですが、彼女からは無意識に「厳しさ」(苦)から「満足」(幸せ)を感じる気質を感じましたね。そして男性(特に父親)との関りにそこに繋がるモノも感じますかね。 毎回「愛は地球を救う」と謳って感動的な場面をいくつも演出されていますが、裏番組ではこの番組をパロディー化(茶化)したお笑いの番組も多かったように感じますね。考えてみれば私もその裏番組を見ていた時間の方が長かったように感じます。同番組でも、軽い内容のプログラムもありましたしね。「笑う角には・・・」とかも言いますし・・・ そしてまた、戦争に関っている人や、病気や障害と闘っている人達に、時に嫉妬を感じていた時期もありましたね。その頃は世の中、物質的にも表現的にも沢山あふれていて、自分だけのモノを見出すことが難しく感じられました。他人の真似も悔しくて出来ず、動けずにいました。人生の目的を何も見出せずに自ら命を絶つような現代であるようにも感じて・・・ そんな時に見た戦時下に生きる人達の「とにかく生きる」といった人生の明解な目的に嫉妬を感じたりしていましたかね。また宗教的な捉え方により、戦争を「聖戦」とか位置づけられていれば、何よりも尊い生き方として誇りさえ感じながら殺し合いもするでしょう。そして周りの国も「その国の価値観の問題だから」とかいって、その善悪もしっかり示せませんしね。 また病や障害を持つ人の芸術的表現が健常者のそれより優遇されているように感じられたり、いざとなると全ての人が彼等の味方に回ってしまうように感じられて、ここでも嫉妬していましたかね。そして、彼等のする事全てに頑張りを感じて何も出来ないでいる自分に「負い目」を感じたり・・・とにかく自分を感じている余裕が無かったように感じます。 だからといって「平和な時代に生まれて幸せだ」とか「健康が一番」とかも言いうことにも色々な意味で気が引けますかね。そして彼らが自分の立場を、常に不幸と感じているとは感じられませんしね。少なくとも私の立場で決めることではないと感じますし、どんな立場の人であってもその時々で変化するモノでもあると感じています。 私もいざその立場になると、前の立場の方が良かったと感じることも想像できますし、それでもそういった事を繰り返して感じていくのであろうと感じています。今までも少なからずそうやってきているように感じています。不便な頃の日本が良い時代だったと恋しかったりもしますし、でも一度便利を経験してしまうと・・・ね! ただそこには時に、便利な(新しい)モノについていけない時の「嫉妬」が絡んでいることも少なくないですかね。とにかく「幸せ」は「平和」や「便利」の中だけにあるモノではないようですね。自分が「幸せ」的に満たされた中に居ると、「幸せ」の感覚も麻痺して、自分の中での感覚や定義も変化してしまうように感じます。 「戦争・不幸」時に「平和・幸福」を求めるように、特に行き詰まりを感じると、単に変化を求めるようにその逆もまた生まれるようにも感じますかね。自分では常に「平和」や「幸福」・「正義」を求めているように感じていても・・・。今回もまた中傷的表現がありましたね。すいませんでした。(08.9.1著)・・・・・・・・・・ 「波乱万丈」な人生にどこかで憧れていたりしますかね? 何気ない日常の会話においてある知人が「苦労話」を始めると、他の知人が「私なんかね・・・」と言った具合に「苦労話」を被せてきました。何か「自慢話」のように時には楽しそうに見えたりもしましたね。そのうち内容がエスカレートしまって、聞いている方が恥ずかしくなって「もうそのくらいに・・・」とか気を遣う空気になったりもしますね。(笑) 「苦労」(不幸)した事って通り過ぎてしまうと、何よりも体裁の良い「自慢話」になったりしませんかね。周りからは労われたり、時にはドラマチックな人生を羨ましがられたり・・・その経験がお金に繋がったりする幸運な人もいますよね。「苦労は買ってでもしろ!」と言いますが、「あの時の苦労に比べれば」や「思いやり」的力にも繋がったりもしますかね。 ただ「苦労」(不幸)は逆に人を「卑屈」にしてしまう力も感じます。ある程度バックボーンのしっかりした環境(生れ付き金銭的に恵まれていたり、最終的には助けが得られる保障がある)にある人間にこそいえる言葉のようにも感じますね。歴史において崇高される人物などの生い立ちも、元々そういった恵まれた環境に育った者も少なくないように感じますしね。 私などは他人に良く見られたいたちでもあり、ついつい厄介な事を引き受けてしまうのですが、労いの言葉の一つも掛けてもらえれば喜んで背負っちゃいますよ。 (笑)ただ確かに苦労して得たモノはそうでないモノ以上の満足感を得られたりしますが、苦労を損と感じたり苦労しなくても同じような満足感を得られる人も少なくないように感じます。 話を最初に戻しますが、最近特に何気ない日常の会話において感じることに、皆が自分の「苦労」を競うようになっているように感じますね。本来家庭などにその労を労う役割の人が1人ぐらいいるべきなのでしょうが、核家族化や共働きなども増え、家事・子育ての助けも得られなかったり、家庭も「苦労」を競う場になっているようですね。(08.11.1著)・・・・・・・・・・ 100年に1度の経済危機! 少し前までは知らなかった政治や金融のカラクリもマスコミによって少し見えてきましたね。ただそれらを知っても我々にはなかなか改善する動きも起こせなかったりしますかね。「日本人は大人しいから」とか言われますが、仕事や子育てなど日常生活をしながらは大変ですよね。働き詰めでそんな意欲を失わせるのも国のカラクリの1つのようにも感じますけどね。 インフルエンザ流行の不安が高まると、マスクに関る紡績会社の株が急騰したようですね。最大の景気対策は戦争とか言う極端な声も聞きましたが、皆が願っている経済の復興には、必ずしも全ての人の幸せがついてくるとは限らないように感じますね。結局紡績会社の株も一定の高騰の後に「利益確定」とかいって急落したようですが・・・これもカラクリ? 損害のほとんどは金融機関が被り、潰れた金融会社もあり自業自得のように伝えられたりもしていますが、それまでに受けた多大な恩恵の蓄えが個人にはあるようで、職を失っても裕福な暮らしを続けている人も少なくないようですね。なにかどうしようもない嫉妬や理不尽さが増すばかりで、むしろ「知らなければ幸せだった」かな?どう想います? 「100年に1度・・・」と言いますが、そもそも100年・200年前に同じ経験をしてきているということ・・・?でないとすれば、いずれ元の経済状態に戻るという言葉にもカラクリを感じますかね。少しでも生活改善は欲しいですが、例え今のカラクリのまま元に戻ってもあまり意味を感じませんかね? 戻っても同じ輩が恩恵を受けるだけでしょうし・・・。 カラクリ(システム・組織)も人為的な発生のモノばかりではなく、また個々の責任でカラクリの問題ではないとも言いますが、カラクリには個人をあやふやにして責任を何処に求めたら良いか判らなくしてしまう「隠れ蓑」的強い資質を感じ、なかなか改善できなかったり、逆に組織を守るために個人が蔑ろにされたりしてとても厄介なモノのように感じますけどね。 ただ時には責任をあやふやにすることで事態を収めてくれたり、そのカラクリにうまく乗れている立場であったらそのカラクリに対する印象や発言も変わらない自信もないですけれどね。そしてこうやって体裁よく文句を言える今の立場もある意味幸せなのかも知れませんがね。でもどこかでそれを「シメシメ♪」とか思われていたり・・・きりが無いですね。 私は特に「生きがい」を持たないので、そういった(不公平)事にいっそう気が回ってしまうのでしょうかね。ただそういった「嫉妬」的感覚まで無くなってしまったら、私は本当に生きる上で何も無くなってしまうようにも感じますかね。そして表向きの見え方に違いはあると感じますが、何をやるにもこの「嫉妬」(憧れ)的感覚が人の基本にあるように感じます。 また「人間のモラルに頼らずに、不正を許さないシステムを創ることが大切」と、学者さんが言っていましたが、そのモラルがしっかりしていないとそのシステムも生まれるようには思えないし、遣い手次第で「網の目」はどんなモノにも付いて廻りますよね。そして誰のモラルをモデルにすれば良いのでしょうかね?自分自身のモラルにさえ自信がないのに・・・ なによりも「人間のモラルに頼らずに・・・」自体で全て終わってしまっているようにも感じますがね。(09.11.3著)・・・・・・・・・・ 「沖縄に米軍基地は要らない!」 我が国でも軍事力による抑止力の話合いもされてきていますね。本当に核兵器でなければ抑止力にならないのであれば、数千の海兵隊では抑止力としての意味を成さないということですから核兵器を持ち込めない日本の海兵隊の基地は要らなくなってしまうことに・・・また数千の海兵隊が抑止力になるのなら核兵器は必要ないということに・・・? お互いの国が核兵器を所有することで平和を維持できて・・・軍事的バランスが取れているのでお互いに攻め込めないから・・・でも新しく核兵器を持とうとする国は許さずに・・・だからと言って(バランスが崩れていても)攻め込むわけでも無く・・・単純に「我が国は攻め込まないからお互い核兵器を全廃しよう」という方向の話合いにもならないようで・・・ 例えば日本に外国の基地がなくなったとして・・・「戦争の放棄」も掲げるこの国にそれでも攻め入ろうとするのか世界中の国々に一度ストレートに尋ねてみたいものですね。今までアジアで飛び抜けて欧米と仲が良かった訳で、他のアジア諸国からは少なからず嫉妬も受けてきたことでしょうし、基地が無くなった事で威嚇も無くなり、友好的になれたりして・・・? 例えばそれでも何処かの国が日本に攻めてきたとして・・・結果的に日本から基地を追い出されたことになった国は、日本が侵略されている姿を見ても見ぬ振りをしますかね?となれば今の「友好国」や欧米の「正義」という位置付けも怪しく、他の利害関係による結び付きであったり、欧米の自国防衛や雇用確保のために体裁よく利用もされていたりして・・・? 例えば他国に攻め込まれ、大切な人の命が危険にさらされているとして・・・我が国は「戦争の放棄」を掲げてしまったので反撃しないことを貫けますかね?自衛は戦争ではありませんか?それでは今までの戦争は全て侵略者同士の戦いってこと?ちなみに私は迷わず反撃しますがね。やっぱり核を持たないなら国民に徴兵を義務化するべきですかね? ただ私は「国の為」という名分では戦いませんがね。また戦時下では軍と民間を区別した攻撃も難しく感じますし、時には自分では大切なモノを守ろうとした行為が「テロ」と呼ばれてしまったりしたことは無かったのでしょうかね?でも他国の価値観の違いには不安も残り、自分に矛盾と共にヒトの倫理観に対して楽観的であるも感じますがね。(10.5.15著)姉妹日記「癒し」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.25
私は小学校の頃、嫌々少年野球のチームに入っていました。 ただ、スポーツ自体は嫌いではなく(むしろ最も好きな分野です)、中学校に進み、野球部に入る選択もありましたが、皆が同じユニフォームを着て、同じ頭をして、同じ掛け声をかけてランニングしているのを見て諦めました。 少し話は反れますが、私はランドセルが嫌いでした。皆が同じモノを身につけて歩いている姿にとても抵抗を感じていました。そんなことを感じながらランドセルを背負っていると頭痛がするのです。そうやって皆と違う手提げカバンで通学する名分が出来ました。ただ、今も肩に負荷が掛かると決まって頭痛がします。ワガママの代償が今も残っています。 団体競技になると、味方と敵の「想い」が入り混じって気持ち悪いんです。特に味方の・・・相手の「想い」(責任)を背負ったり、自分の「想い」(責任)を背負わせたり・・・純粋に勝負を楽しめないのです。個人競技の部活も試してみました。個人プレイでは、それなりに想った通りの結果が出るのです。敵の「想い」と自分に集中すれば良いことですから。 ただ、今一つ満足に欠けます。「想った通りの結果が出た」だけなんです。また、良い結果にある程度喜んでいるのは結局ほぼ自分だけなんですね。まして負けて落ち込んでいる相手の目の前では、嬉しい感情も表には出来ません。家に帰って良い結果を報告しても、我が家ではそれで当たり前。貰ってきた賞状も引き出しの中にしまわれるだけです。 そして部長を任されたりして「他人の想い(責任)」という負担ができ、結局辞めるハメになります。そんな感じで、本格的なスポーツからは遠ざかっていきました。大人になってから父が、「そう言えば進学の時、小学校の時の監督が、もし野球を続ける気があるなら面倒見たいって言っていたなぁ。」って・・・。それを聞いて、今でも後悔が残っています。 そんな感じで社会人になり、業社対抗のソフトボール大会がありました。当時私は新人で、否応なしに参加することになりました。試合中は案の定、周りにイライラし、そして結局試合には負けてしまいました。ただ、負けたにも拘らず気持が良かったんです。想う通りにならなかったのに・・・それが今まで以上に必死になったこともあるでしょうかね? そして負けて悔しいのですが、その感情を皆で想いっきり表に出して分かち合えるんですね。そこに気持よさと充実感を覚えました。今はスポーツに限らず、自分一人で成す100%の成果よりも、皆で成す50%の成果の方が満足度が大きいこともあると感じています。そして自分の想う通りにならない(先が見えない)ことにやりがい(充実感)を感じます。 それ以来団体競技の方が好きになりましたね。今でもつい他人の失敗にはイラってきちゃいますけどね。自分の失敗は棚に上げて。そして今は、まず周りが楽しんでいないと感じると自分が楽しめず、世話係りにまわってしまったり、そんなことで悩んでいます。(笑)「個人」も「団体」も共に大切さを感じます。今回は少し自慢も出来てよかったな~。(笑)(07.12.7著)・・・・・・・・・・ WBCには私も興奮させて頂きましたね。 今回も日本(アジア)人の「国のため」(ヒトのため)的団結力が、欧米の個人技に勝ったようですね。その中において調子を落とした日本の一流プレイヤーもいましたね。特に「チームリーダー」(チームプレイ)的な気質に相性の悪さも感じられませんでしたが、やはり高い個人技(成績)、スター性には「ワンマン」(自分だけに集中)的気質が大切と感じますかね。 今回のWBCの結果により、アジア野球の(主にチームプレイ的)質の違いとその力も浮き彫りになりましたかね?またそのことにより、同じプレイヤーにおいても、日本とアメリカで上げた成績は、そのプレイヤーの気質により単純に比べることも難しいと感じますかね。外国的なプレイスタイル(気質)との相性も個人の成績に大きく影響するようにも感じますかね。 例えば観客やサポーターを比べても、日本は最後まで諦めずに応援するのに対し、アメリカは勝敗に見切りがつくと試合途中であっても席を立ってしまう光景も見られましたね。そんな気質をアメリカ人の主な国民性としてあてられるなら、所属するのが優勝などから縁遠いチームだったりすると、わりと個人の成績を上げることに集中し易かったりしますかね。 また例えば、FAでアメリカに行くような選手は、日本に居れば年齢的にチームをまとめていく立場でもありますが、アメリカにいけば新人として扱ってもらえますかね?また移籍したチームに、別の日本選手がすでに在籍していたなら、コミュニケーションの不都合も少なく、これらもわりと成績を上げることに集中し易い材料にもなりますかね。 その他にも勝負云々よりもむしろ、よりドラマチックな場面やお祭り事が好きである気質も感じますし、勝負に拘る日本のようにバントや敬遠も少なく、素直な勝負を好むようなことも耳にしますかね。皆をまとめる時と、自分の成績を上げる時に必要な気質には相対するモノを感じ、今一流と呼ばれる人であってもその切り替えは容易ではないと感じますね。 何はともあれ最後は素晴らしいドラマチックな結末に私も大きな感動を頂きましたね。そういった大きな感動を貰うためには、やはりスター(ワンマン)選手ならではの(チャンスとの巡り合わせも含め)気質が欠かせませんよね。(09.4.7著)・・・・・・・・・・ 格闘技は興奮しますよね。 命をはった真剣勝負がスポーツよりも緊迫感を生むのですかね。私も強くやってみたいと感じる分野でもありますが、相手を怪我させるかも知れないのが怖いのですよね。なんだかんだ言っても相手が立てなくなるまで痛めつけることが必要とされるのですよね。少なくとも勝負の最中は相手を殺さないように手加減を考えているようにも感じませんし・・・ 自分がやられるのも恐怖でしょうし、試合中は精一杯の力で殴ったり蹴ったりするのでしょうから、いくら双方合意の上で殺意までは無いとは言っても万が一もあり、そうなれば時には後悔も残るでしょうしね。兵士の多くも「殺したい」より「守りたい」なんでしょうし、戦争の多くは一部の国の上の人達の都合(プライドや雇用問題など)によっても起きるのでしょう? 敵対する国の代表が時に仲良く会食したりお土産交わしたり、以外に上の人同志はそれぞれの立場・都合も理解出来ていていたり・・・また中には「聖戦」として教育され、何よりも尊い生き方(生き甲斐)として戦争をしている人もいるでしょうからね?色々と国の都合もあると感じますが、出来るだけ外交の当事者の個人戦でお願いしたいものです。 本気で喧嘩もすれば時に深い友情に変わったりもするのでしょ?格闘技・スポーツは「平和」的イメージも強いようですが、その取り巻く環境や心理状態はある意味戦争と変わらないように感じますし、そう考えるとそれらを推奨することによって戦争の抑制もできそうですかね。そしてまた政治などとも切り離して考えるべきとかも言われていますが・・・ 「平和の祭典」とか「平和・・・」をつけた時点で、自ら政治に介入してしまっているように感じますがね?とても話が大きくなってしまいましたかね。(09.12.16著)姉妹日記「チーム・ワーク」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.23
「おバカキャラ」がウケているようですね。 あの無邪気で嘘のなさそうなところに、また何も知らない(自分より劣る)ところに安心や癒しを感じるのでしょうかね。ただ、彼らよりも少なくとも勉強を頑張ったのにあまり報われていない感覚のある人にとっては良いイメージばかりでは無いでしょうね。彼らも別のことで人並み以上に頑張ってきていると想いましょうね。(笑) また彼らからは、自分の世界観の強さを感じられ、無意識になかなか他人の話(世界観)を受け入れられないモノ(ワガママ・頑固)を感じられることも少なくないですね。おそらく彼らの中には、「おバカ」なイメージとはかけ離れた、特に努力を必要とせずに得た超才能の1つや2つ持っている者もいるように感じますね。「天才」や「サヴァン」のように・・・。 皆さんは何に「癒し」を感じます? 例えば動物や子供など「可愛い」モノですかね?「可愛い」って、ある意味「自分より劣る」を感じるモノに多く当てられますかね。最近では「キモカワイイ」とかいって不細工なモノにも当てられているようにも感じます。そして大人や尊敬する人・強いモノがふと見せる「弱さ」・「子供っぽさ」などにも「可愛い」(癒し)を感じますかね。力が抜ける感じですね。 また「楽しい」(楽)なことに「癒し」を当てられることが多いと感じますが、私などは逆に「厳しい」(苦)なことをしているときにも「頑張っている」(満足)的「癒し」を感じたりします。「強いモノがふと見せる弱さ・・・」や、「美しい・美味しい」などの感動も含め、マンネリを感じる生活とのギャップにも「癒し」を感じることも少なくないように感じます。 そして私は周りが先に弱音を吐いてくれるとほっとして、逆に力が湧いてきます。普段頑張っている人がふと見せる「弱音」や「愚痴」にとても安心(癒し)を感じたりします。私もこの日記において、自分の「プライド」と折り合いをつけながら出来るだけ自分の嫌な所・弱い所(本音的)を出すようにしていますが、少しは皆さんの「癒し」になっていますかね?(笑) そして「癒されたい」って、個人的にはあまり人前で口に出したくない言葉でもありますかね。少なからずそこには、身の周りの人達からストレスを受けているといった意味を含んでいますし、その言葉を「気軽」に出せる気質の人に限って周りにストレスをかける人が少なくないように感じています。(08.9.5著)・・・・・・・・・・ 私は時に「ポジティブ」に軽さや浅さ、物足りなさを感じます。 また、偉業を成す人が自分だけに気を集中して遣える(ワガママ)気質だったり、周りに広く気を散らしてしまう(気遣い)気質の人がうだつが上がらなかったり・・・一芸だけに秀出ている(不器用な)人が日の目を見て、何でもそこそここなす(器用な)人が便宜的に遣われて浮かばれなかったり・・・バランスも感じますが、ちょっと表面的な不公平は感じますかね。 解り易さに違いはありますが、人間的価値に何も違いは感じませんね。日記上でもあえて皆に好かれたり尊敬されるような気質を下げて表現してみたり、嫌われるような気質を上げて表現もしてみました。そしてそこに「スッキリ」や「安心」的『癒し』を感じませんでしたか?ちょっと不健康的で感心しません?たまには「ネガティブ」でも優越を感じちゃいましょうよ。 「ポジティブ」を意識して(自分に言い聞かせるように)口にする人の根本は「ネガティブ」と感じます。根っから「ポジティブ」(無邪気等)な人はワガママを通すために口にしたり、「ポジティブ・ネガティブ」の分別すらないと感じます。時にそんな鈍感さにイライラもしますかね。一度「ネガティブ」を味わう(身に憑く)とその気質は変わらないと感じます。 「ネガティブ」も一つの人生の楽しみ方だと感じますけどね。あれっ、これって「ポジティブ」?(笑)(08.9.8著)・・・・・・・・・・ 今日もTVの旅番組で温泉が紹介されていましたね。 無邪気な知人は「私も温泉に行って癒されたい♪」とかよく口にしますが、世間でも「温泉」には「癒し」のイメージが強いですかね。私はダメですね。少なからずそういった所に出掛ければ複数の人との関わりが発生してしまうので、気持が休まることは無いですね。一人旅ならまだマシですが、環境が変わっても気持をリフレッシュしている余裕が無いですかね。 ただその知人も「温泉」から戻ると、「やっぱり我が家が一番!」とか言っていますので、行く前以上に疲れているようですが。(笑)そしてそういった「癒し」で溜まった疲れが仕事中などに噴出して、「楽しくない事をすると疲れる」とか言って疲れの原因を仕事に擦り付け、無意識にも仕事中に力を抜いて体力を回復させている人も少なくないように感じますね。 また私など「疲れ」を感じて初めて「満足」(癒し)を感じたり、運転や他人の世話をすることで相手が見せる「満足」そうな顔を見て自分の「満足」(癒し)を得られたりもしていますけどね。(笑)(09.8.18著)・・・・・・・・・・ 「日本に生まれて良かった」 先日ボランティアの医師として世界を廻っている人の講演(?)を聞きに行って来ました。恥ずかしいことに知り合いのお付合いでチケットを購入したもので自主的なものではなかったのですが、弾き語りやユーモアのある語り口に、期待していた以上に楽しめ、今の自分の環境に安心や癒しも感じましたかね?内容からすると不謹慎な言い方かもしれませんがね。 元々彼もボランティアの「他人のために・・・」というイメージに違和感を持ち、また、せかせかした日本を離れて外国で暮らす若者達に憧れや、彼らを見て豊かな国に暮らすことにも負い目のようなモノも感じていたようですね。そしてそこに暮らす貧しい人や戦火にさらされる人達を見て、「日本に生まれて良かった」が本音だったそうです。 ただそこで彼らと触れ合っているうちに「ここに来て本当に良かった」と気持が変化して行ったようです。スライドで現地の様子を紹介していましたが、確かにそこに写っている子供達の顔はとても生き生きしているんですよね。中には手足を失ったり、病気を抱えていたり、ゴミの中に暮らしているのに、むしろ日本の子供達より幸せそうにも感じましたかね。 「生きたくても生きられない貧しい国」と「自分自身を消したくなる裕福な国」、もし次に生まれてくるとしたらどちらを選びますか・・・どんなに辛くても「生きたい」と感じられる方ですかね・・・ただ私は今、後者に近い環境で生きているのでそう言えるとも感じますし・・・どちらでもなく程々の・・・程々ってどんな感じだろ?刺激も薄く詰まらなそう・・・ 貧困や戦争の撲滅を訴えたりして一番幸せそうに見えたのは彼本人でしたね。そしてそれを見て自分の中に嫉妬と負い目を感じ、同時に貧困や戦争の存在の是非もあやふやになってしまいましたかね。「ここに来て本当に良かった」・・・そんな不幸な国が世の中に無かったら、彼は生きていく上でそんな気持を与えてくれるモノに出会えたのだろうかって・・・ あっ、「生きたいと感じる裕福な国」という選択肢を忘れていました。私は根が「ネガティブ」なようですが、やっぱり「ネガティブ」に深く生きている感覚や魅力も少なからず感じてしまいますかね。そして人がする行為は結果的に全て自分の欲求を満たすためモノ(自分の為)と感じていますが、やはり基本に「他人の為」的想いを望んでもいますかね。(09.10.6著)・・・・・・・・・・ 「100円あれば子供たちに腹いっぱい食べさせられるのですよ!」 飢餓に苦しむ母国のために募金を呼びかけている組織の偉い方がテレビでそう訴えていました。100円あれば・・・あれ、その立派なスーツを着たその組織の人の立派な事務所には立派な観葉植物が・・・日本でも非営利団体が活動資金難で困っているようで、末端はボランティアで頑張っていても、組織の中央は安くともやっぱり給料を必要とするのですよね? その活動に専念(組織・個人の生活維持)するためには仕方の無い事ですよね。ただそこで何にも代えがたい遣り甲斐や満足をも得られているのでしょうし、困っている人達に届くまでにどれだけの人間が群がって、集った善意を吸い上げてしまうのか・・・ボランティアと名乗る以上は関る人間全てがそこに徹して初めて・・・ 私はそんな裏ばかり拘って、積極的に活動に参加もしないのですよね。そんな現状でも善意の多くは確実に届き、多くの人達が助かっているのでしょう?私なりに正義(理屈)を優先しているつもりでも、ある意味そこに群がる人間達よりも劣るのでしょうね。それでも他人の不幸によって儲けている人間や、満足を得られている人間の笑い顔がチラついて・・・ でも困っている人を助ける事(命)が優先・・・でもそこにつけこんだ不正が要因でいつまでも貧困も無くならないようにも感じられ・・・こんなこと考えている時点で何をやっても偽善になり・・・偽善でもやれば結果的に(命が)助かる人がいて・・・であればどうせ給料が必要で、今でも企業のイメージアップに慈善を利用しているならそこで義務化した方が・・・ 義務化は体裁も悪いのでやっぱりボランティアや慈善でやる意味に拘りますか・・・でも今そこにある命が最優先ですよね?あれっ、いつの間にか立場のようなものが入れ替わってしまったように感じますかね。政府や企業を動かすには時間もかかりますから、私はコンビニの買い物で出たお釣りを募金すること位はこれからも続けられるかな。 財布にお釣りを戻すのが面倒であるという本音も少なからずそこに含まれていても、良い事をしたという癒しを自分自身に感じてもよいですよね?(10.6.20著)姉妹日記「幸せ」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.23
昨晩の「古武術」の番組を見て思い出したことを記したいとおもいます。 私も他の「気」の世界観に触れてみたくて、ちょっとだけ合気道を習ったり、気功の学校に通ったりしていました。呼吸と力の関係など相い通じる事も多く在りましたが、私が強く惹かれたのは、最終的に思いもよらない大きな力を出すときに使われる「無」と言う表現でした。 不思議なんですよね。「何も無い」「何も考えない」様にすればするほど逆に色々なモノが体に入って来る感覚が強まるんです。「想い」が無意識の中で逆に強まって行く感覚なんです。その世界観の人からみれば集中できていないと片付けられてしまうのでしょうし、確かに武道で必要とされているモノとはズレを感じます。 ただそこで得たのは私の感覚で言えば、「無」とは、何でも受け入れられる心の懐の深さを表す様に感じられ、「何も無い」と言うよりもむしろ「全て在る」と言った「無限」の意味を強く感じとれる体験でした。どの「気」の世界観にもそれぞれ特有の力と大切な役割を感じます。ただ自分の感覚にも嘘はつけず、お互いの世界観を潰し合わない距離を心がけています。 どんな世界にも多様性が大切と感じています。また昨晩の古武術の先生の「余計な事は考えないで」の表現には、前記した意味の「無」の他に、今成し遂げようとしている事を打ち消してしまうような逆のイメージの「想い」を指している様に感じとれます。得てして人は、負のイメージの「想い」の方が容易に強められる様です。 「無」には、科学等の主世界観の中に存在をしなければならない「気」の世界観の立場上、想った様な結果が得られなかった時に自分を守るための「保険」の様な役割も感じます。他世界観の人がその世界観に浸かるために必要な「心のアジャスター」の様な、その世界観の創始者の深い意図も同時に感じとれます。 良くも悪くも「想い」は、その信念(気?)の高まりによって確信に進み、具現化されていく様に感じます。(07.7.6著)・ ・・・・・・・・・ホシイモノガ無イイキタイトコロモ無イヤリタイコトモ無イア~腹ヘッタ腹ガヘッテタスカッタソンケイスルモノガ無イソンケイサレルワケデモ無イソレヲノゾムワケデモ無イア~腹ガタツ腹ガタッテタスカッタ「親友の声」より・・・・・・・・・・やりたい事を探そうか・・・何がしたい・・・誰もやったことが無いこと・・・それじゃ外には無いね・・・じゃあどうする・・・在るモノ全て否定してみるか・・・上手くいけば何か残るかもね・・・最悪「無」でも気持は納得するか・・・他人のまねよりはね・・・「親友の声」より(09.12.23著)姉妹日記「本能」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.18
「昨今の異常気象は、人間の悪い営みに対する自然からの警鐘」と、ニュースキャスターが表現していました。 例えば、「自然」というモノに「意識」があって、人に対して上目線から戒めを与えているとしたら・・・「人間的」な「意識」だなって感じますよね。見た目・形は違っても、「意識」の質に、何の違いも感じないどころか、結局最後は力・・・って、興ざめも感じます。まさに「人間的」。私は、人間以外の存在に、人間の「想い」を反映する「気」(力)を強く感じています。 時には、人間自身にもその質を感じます。そして人には、自分の「想い」を無意識に「他意識?」の様に変えて見せる力も感じています。 人は、自らを戒めようとする時、戒めてくれる対象に、自分より立派だと思える存在を求めるように感じます。単純に、プライドが傷つく事を恐れるからだと感じます。 そして究極には、「偉大で」・「神秘的で」・「清らかで」など、崇高なイメージの人間以外の存在にその役を求め、創り出し、それが多くの人々の「無意識?」の合意によって、時には具現化されているように感じます。 私には、「昨今の異常気象」は、むしろ人が人に対する・・・例えば「嫉妬」や「自責」のような「想い」の形のように感じられます。 例えば、森を切り開いたり、大気を汚しながら、一部の人だけが金儲けをしている事への世界的規模の「嫉妬」だったり、もっと広い意味での人が人に対してやってきた悪事だと考えている事(戦争等)に対しての世界規模の「自責」のような「想い」の集まりのような、また自己主張の強すぎる「世界観」に対する「嫌悪」だったりするように感じます。 自分の犯した罪を自ら「苦」を背負って帳消しにしようとしている様のように見えます。そうやって「罪」を償ったつもりになって、また似たような営みを繰り返してゆくのでしょう。結局のところ、「自然」に価値をつけているのは人間のように感じますし、気象や森・海・生物などの「物質的自然」より元に「変化(流れ)的自然」があるようにも感じています。 ただ、そこに含まれると感じられる広い意味での「自分だけで生きているわけではない」といった「想い」には、崇高なモノを感じられますね。そしてまた、もう少し「関り」がスムーズになって、人が散らばらずに集まって暮らせるようになると解決してくるモノも少なくないように感じられますね。ただ個人的には、「関り」の歪にも大切さを感じてしまいます。 また、悲しいかな、「命の尊さ」を強く感じられるのが「死」だったりするんですよね。それも身近で大切なモノや「弱い」・「純粋」・「正義」なモノならなおさらです。そして、それを失った側の立場に自分を置き換えられる想像力がとても大切に感じます。(偏った置き換えには懸念もありますが)私も子供の頃は、ためらわずに生き物を殺めていたものです。 そして、自然界で起こる「自然の営み」(弱肉強食)にも「嫌悪」を感じたり、広い意味での「争い」描写のない映画に物足りなさを感じたりすることも正直なところです。「平和」(善)や「戦争」(悪)の定義も人間で成され、いずれを求めるにも「争い」がついてまわっていると感じますし、一方がなくなっても他方が存在できるのか疑問を感じてしまいます。 ただ、このまま「不公平感」が広がり、多くの人の想いに「リセットしたい」が強まらないように願っています。そして病気の原因にも似たような「想い」(戒め)の作用を感じられる事があります。(07.9.7著)・・・・・・・・・・ 「真面目にやっている人もいるんだから・・・」 公務員などの不正の話になると決まってこんな台詞が出て、話が振り出しに戻ってしまいますね。テレビの討論番組に自ら出るような政治家達には比較的立派な思想を持った人もいると感じますが、そんな真面目(純粋)な人間を「隠れ蓑」にしているズルい輩も多いと感じますね。「真面目にやっている人も・・・」はそういった討論の場では割り切らないと・・・ね? そして同じように国籍問題などでの「子供に罪は無い」という言葉も、先を考えていなかったり時にズルい大人の都合などの「隠れ蓑」にされたりしてますかね?その子供達を目の当たりにしてしまうとちょっとこれに関しては割り切りは難しいモノを感じますがね。またエコな活動なども時に企業の「隠れ蓑」に遣われたりもしているように感じますかね。 ただ私は買い物にいっても迷うことなくプラスチックバックを頂きますし、一切純粋な気持でエコな活動には積極的に参加することもしていないので、そういった企業にも劣るのかもしれませんがね。「子供達の将来のために・・・」的思想には崇高さも感じ、私達世代の義務的考え方とも感じますが、何も問題ない未来に生きる目的を見出す難しさも少し感じますかね。 またエコな活動が広がってプラスチックバックの会社が潰れてしまったり、公務員の数が減らされたり、結局働く場を減らすようなことになってしまったら、「子供達の今は・・・」とかも考えてしまいますね。こんなご時世では給料も働く場も上手く分け合えるといいのでしょうがね。慣れた今の生活レベルを落とす不安もわかりますし、特に子供などを持つと・・・ね? その場だけを考えた狭い視野で、私も結局割り切りが出来ていないようですね。そして私もよくそんな「純粋」なモノを拠所にしていますかね。ただ「純粋」なモノがズルい人により奉られて利用されたりも少なくないですが、逆に「純粋」なモノに予測不能(振り回される)な感覚を強く持っているズルい人も少なくないように感じていますね。(08.12.13著)・・・・・・・・・・ 「採算が合わないから施設売却?」 そもそも公的な組織で利益を生むようなことをして良いのですかね?であれば税金取らずに自分達で稼げば良いでしょう。利益を生めないが、なければならない公的サービスだけに税金は遣われるのでしょう?国には借金があり、集めた税金・年金を浮かしておくのはもったいないからとかいって箱物を増やしたり投資にまわして損していればしょうがないですよね。 「消えた年金」・・・私が年金を貰えるようになる頃には、貰える額はいったい納めた額の何%になってしまうのでしょうかね?若い人達には頑張ってもらわないとね・・・って、あれ?「若い人がその時々の年金受給者を支える」って、とても体裁は良く聞えますが、そんなことしなくても「自分で自分の将来のために」でいいじゃないですかね。 子供の数も一定である保証ないし、税金遣い込んで「若い人が・・・」とか体裁の良いモノに変えちゃったんじゃないの? 「法を犯すようなことはしていない!」・・・政治献金など、お金や権力絡みでよく政治家が遣う言葉の一つですかね。確かに法の枠内であるようですが、その法を創ったのはどこの誰で、突っつかれれば直ぐに廃止とかあっさり提案されてしまえる「献金」ってどういうモノなのですかね。いまだに企業との利害の絡み・癒着もあるんじゃないですかね~? 社会貢献とも言えましょうが、そもそも企業って会社に利益のないモノに企業のお金を遣うことはいけないって・・・? 弁護士のタレントも増えてきましたね。法律をよく知っているのでズバズバと自分の意見が言えたり・・・私も彼らが言っている事には理性的に受け止めれば共感も持てることも多いですが、今一つ自分の持っている正義感に対しての自信ありげな真っ直ぐさに怖さも覚えますかね。1つのケースでも弁護士で全く違った解釈・立場にもなってしまってもいるようですし。 「人権」と言って凶悪犯弁護をしたり、正義を外れた(金銭・名誉)質だって少なからずあるんじゃないですかね? 権力や金のある人達に「体裁良い(他人のため・法律・正義等)」まで遣われてしまったら勝ち目なく、泣き寝入りですがね。そういったことを考えると、「体裁良い(他人のため・法律・正義等)」って時に厄介ですよね。(09.7.28著)・・・・・・・・・・ 「バンザ~イ!バンザ~イ!」 いつも選挙が終わると見られる光景ですよね。二週間あまり全力で頑張ったことが実り、嬉しいのも解りますが、参院選は6年に1度(?)と聞きますし、6年間の内の2週間の頑張りがどれ程のモノなのか疑問も感じますがね。むしろこれで6年間は高給で生活も安泰ですかね。今の日本の状態を真剣に考えれば、政治家になる事は逆に気もすすまないと感じますがね。 自ら「立候補」と聞けば、とても責任感が強いイメージもありますが、そういった人程あまり深く先を考えていなかったりして、時にはあっさりと責任を投げ出してしまえる人も少なくないと感じますかね。かえって「立候補」を避けるような人程その責任の重さや人目を感じていて、いざ責任を与えられると最後まで務める人も少なくないように感じますかね。 前任の総理大臣も、最後はおかしな演出をして数ヶ月で辞めて行きましたが、これで歴代の首相として名も残せて末代まで自慢も出来るでしょうし、実家もお金持ちでこれからの生活も心配ないですし、「自分が現役の間だけやり過せれば」的なモノも感じられ・・・任期をまっとう出来なかった人間は、歴代の首相の名から外してしまえば良いと感じますがね? そして彼らが言う「勝ち負け」の意味も今ひとつ・・・「生き甲斐」がそういった白黒事によって実感され易いのは解りますが、他人のお金(税金)を遣ってそれをするのは程々に願いたいですよね?また先に「数ありき・・・」的な今の政党というモノが権力を生みやすい訳でしょうし、本来全ての政治家が各々の政策を持ち、その個別政策毎に集るべきですよね? 全ての個別政策が一致する人はまず居ないでしょうからね?というより各々が自分の政策を創らずに、彼等の本来の仕事が何処にありますかね?そして他人の政策に便乗するような「給料泥棒」のような議員も弾かれていくことでしょう?もっともそんな事は理解していて、その結果(建前)として「政党」をそこに置いているのでしょうけどね?(10.7.10著)・・・・・・・・・・ 多くの人に尊敬されていた有名ゴルファーがスキャンダルで騒がれていますね。 関係を持った女性達やパパラッチ(マスコミ)がおそらくお金目当てにハイエナのように群がっていましたね。有名人の行いに非難の声があがっていたり、奥さんや子供に同情の声があがっていたり・・・ただその家族達は今まで経済的にも不安の無い裕福な生活をしてきたのだろうし、後に離婚になっても、彼らは結局私達庶民よりも裕福な一生を送るのでしょうね。 また芸能人のスキャンダル写真を撮る日本のカメラマンの話しで・・・彼は元々戦場カメラマンであるようで、現地の貧しい子供達の悲惨な日常を見てきて、日本で煌びやかに沢山のお金を稼ぐ芸能人からスキャンダラスな写真などによってお金をぶん取って、その子供達のために役立てたいと感じたそうです。勿論皆がそんな綺麗なきっかけではないでしょうがね。 一人で何百億円も持てば嫉妬を受けるのも解りそうなもので、マスコミの力によって人気(権力等)を得、間接的に皆に「稼がせて貰った」訳で、時には24時間営業(プライベート無し)もやむを得ないと感じますし、パパラッチ(マスコミ)や自分にも非のある人間関係などは、そういった所にも利益の分配があっても罰は当たらないと感じますがね。(10.10.10著)姉妹日記「嫉妬」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.18
「運命は変わる」 先日、偶然(?)つけたテレビで、有名なスピリチュアルな人が言ってました。私は、あの番組を見ると苦しくなるので避けていましたが、突然その場面に出くわしました。書籍ならともかく、テレビでその発言を聞いたとき、「不安」と「安心」が混じったような複雑な驚きを感じました。以前から触れよう迷っていましたが、この機に想い切って触れてみます。 皆さんは「運命」という言葉に心の中でどんな定義をしています?変わってしまってもそれは「運命」として受け入れられる定義をしておられます?私はすっかり「定められて変えられないモノ」こそが一般的な「運命」の定義だと感じていました。「変わる」と「運命」は一緒に遣われてはいけないモノと一般的には定義されていると思い込んでいましたかね? ちなみに私は、「事が起こってしまってから後を振り返り、色々な意味で自分にその事に対してする意味付け(言い訳)の1つ」を「運命」と定義していますので問題ないですが。 以前より「運命」は、「輪廻転生」や「人を(楽に)導く」的な世界観においては、とても大切な概念の一つと感じていました。ただ、少なくとも私などは、「先が決まっているなら生きていることに何の意味がある?」と感じます。追い詰められれば「どうせ生まれ変われるなら、死んでもう一度やり直せばいいか」と考えを展開する人も出てくるでしょう。 そこで「カルマ」という抑止の概念(正しく遣われていますかね?)が必要になるのでしょうね。ただそれも含めて結局「運命」という概念から、「初めから決められた、役付けられた」というところに引き戻され、生きることを空しく感じたり、「自ら命を絶った」という結果を「運命」から外してしまう矛盾により、その世界観に不信を感じる人も現れるでしょう。 言葉を解釈する側は、私も含め勝手なもので、後にどんな意味づけを加えても「運命は変わる」と言われた事で、個々の世界観の理屈に照らしあわせ、矛盾が生じると、今まで信頼を置いていた他世界観に不信を生むように展開していく事も感じられます。そこに「不安」を感じますが、同時に私は前記したような事からも「安心」を感じました。 「運命」には、物事が「想い」通りに進まなかった時に、自分や他人から「責任」を外す(プライドを守る)大切な役割も感じます。そして彼が言ったもう一つの表現・・・「霊視はデモンストレーション」という表現にも同じような、「不安」と「安心」が混じったような驚きを感じました。(07.11.4著)・・・・・・・・・・ 「霊視はデモンストレーション」・・・TVで有名なスピリチュアルな人のこの発言も不信を生みかねない表現ですね。 ただ私は勇気ある表現だと感じましたし、とても本質的だとも感じました。そこには、「結局自分を変化させられるのは自分だけである」という意味が含まれているようですね。本当(直接)の意味で自分の力で変化させられるのは、自分だけとも感じます。私はとても共感していますが、同時に、どんな外からの影響にも、人の根本は変えられないことも感じています。 私も「気」で施術のときは、相手に手を当てるようにしています。そうすると、確かに色々な反応(感覚)が自分の中に生まれてくるんですね。ただそれは、相手から伝わってくる「想い」を無意識に、わざわざ1度そういった信頼を置く世界観の反応(感覚/ルール)に置き換えて意識上の自分に「伝わる」確信を与える作業のように感じてしまいます。 「能力」とは、本質は単に自己表現する力、「デモンストレーション」と感じます。その「デモンストレーション」を見て、個々が色々な「想い」を無意識に感じ、それぞれで(その時の精神状態の勝手な「想い」の選択で)自分自身を変化させていると感じます。時にはその関係が、お互い相手とエネルギーの伝達(出入)的感覚を生んでいるように感じます。 デモンストレーションによって起こした現象が、その能力の確信を強め、またそこから新たな可能性の発想が生まれ、更にその能力を強めていく無限のサイクルを感じます。スポーツなどにおいて限界と思われた記録もゆっくりとではありますが、いまだに更新され続けていますね。気功の「手を当てる」ことも「デモンストレーション」の形の1つと感じられます。 そうでなければ、同じ「気」の世界観に存在する「遠隔治療」を否定することにもなってしまいますね。「手を当てる」ことで、視覚や触覚という能力の助けを借りて、何かが「伝わっていく」ことを、お互いにより易く感じさせられていると感じています。むしろ私には施術の合間にする「会話」に強い治癒の力(要因)を感じてしまいます。 私も含め様々な(勝手な)世界観を持つ多くの人達の「信頼」や「想い」を背負うと、時には、自分の世界観を緩めないと吸収しきれないこともあると感じます。全ての世界観に矛盾は必ず付いてまわります。その矛盾をどう位置付けるかが、その世界観を強くする鍵のようにも感じています。有名なスピリチュアルな人のこの2つの発言から私が受けた「安心」は・・・・・・そのスピリチュアルな人から伝わってきたモノ・・・嘘です。(笑)(07.11.6著)・・・・・・・・・・ 「自由って素晴らしい!」 学校の規則や親の管理から外れた瞬間は、時間やお金の遣い方が自分の自由になってとても「楽」で嬉しかった記憶がありますね。就職しても会社の規則や待遇・人間関係、その束縛的感覚が嫌になって会社を辞め、その瞬間は開放感や次への期待を得ていましたが、そのうち自分自身での決断やその行動の責任の重さ、そして将来への不安を感じるようになりますね。 色々な意味で支配されていた時は、厄介な決断などで迷ったときは支配者に委ねてしまえばよかったですからね。そしてよく就職することで「自立」したような感覚になっていましたが、結局他人が立ち上げた会社に負んぶに抱っこしていただけでしたかね。自由な立場になってはじめて支配されていた時の安心感や「楽」を感じたりするんですよね。 想ったようにならない人生にも「運命」という、なにか大きな存在・力によって「定められた人生(支配)」的に捉えてしまえば、色々な意味で自・他にプライド(体裁)を守りながら「諦め」の名分を築けたりして、一時的に力を抜きやすくなって「楽」を得られたりしますかね。個人的には「運命」には生きる上で強い違和感はありますがね。 ただ普段から色々と自由に選択(決断)してはいますが、結局どんな選択にも他人の想いが関ってきて常に何かしら制約が付いてまわり、そういった意味では常になにかしらの支配を受けている感覚はありますかね。そして支配下にある時にも「自由」は感じられたりするんですよね。「自由」もその人によって曖昧な感覚ですかね。 「自由」に不安が付いてまわったり、「支配」に安心が付いてまわったり・・・そして両方で「楽」を得られたりして、少なくとも私は生きていく上で交互にそれらを求めていくように感じますね。大切なサイクルですかね。(08.12.1著)・・・・・・・・・・ 「全てに意味がある」 また「全ての人が役割を持って生まれてきている」と言われますかね?であれば事故や事件・戦争など、自分の意に反して死んでしまった人の意味や役割とは何?他の人にその死を通して色々と感じさせることですか?という事は意に反した死ではなかったということですかね?「運命」・・・そう意味付ければ確かに少しは悲しみも治まり、楽にもなりますかね? 個人的には「運命」とは、事が起きてしまった後に、後ろを振り返って自分にする「言い訳」的なモノのように感じますけどね。また全ての事(現象)に原因(意味)があるようなことも言われますが、個人的には、初めは先に事(現象)があって、原因(意味)を後付しているように感じますけどね。ただどうして起こるのか解らないと不安ですよね。 そこで研究者が信念(想い)によって原因を創り出し、周りがそれに便乗(信頼)して同じ現象を再現している・・・あえて先に原因(意味)的なモノを当てるならヒトの「想い(欲求)」的なモノであって、それが周りの様々な「想い」の影響によって様々な現象を起こすように感じますかね。基本的に世の中は全ての「想い」は叶うように出来ていると感じます。 ただ複数の違った方向の「想い」が同時に存在するため、「想い」の実現にはその強さや、時に強さを増幅するために周りを巻き込む(共感を得やすい)体裁のよさなども大切な要因と感じますかね。そのヒトの想い通りに進んでそれを「運命(予言的)」と呼んだり、また思い通りにならなくても自分のプライドを守るように「運命」であったと呼んだり・・・ 人生にやりたい事や欲しいモノ等の欲求が豊富なヒトにとってはそれが比較的体裁の悪いモノであっても「意味付け」によって体裁よくその欲求を満たすことができたり、また人生にやりたい事や欲しいモノを持てないでいるヒトにとっては建前でも先に「意味付け」をしないと動き出せなかったりして、生きていく上ではとても便利で大切なモノではありますよね。 個人的には「人生には意味も役割も無く、単に各々の存在を感じる場である」と感じていますが、意味を付けた方が人生に深みも出ますし、その「意味付け」にこそ生きる意味も感じますかね?ちょっとややこしくもなりましたが・・・まあ私にもその真理(意味)は解りませんので、「人生には・・・」には希望が含まれてもいますがね。(10.7.18著)・・・・・・・・・・ 「私は男運が悪いのよね~」 女性芸能人達が自分の過去の恋愛話をしていました。過去に付き合った男性を「クズ」と称し、周りからも同情されたりしていましたね。ただその話し振りが自慢げに聞えたり、その芸能人達を目にするのも決まってそういった内容の番組が多く、そういったスキャンダルのお陰で芸能界とも繋がれていられるようにも見えてしまい、切なくも見えてしまいましたかね。 そういった男性に捕まって(?)しまう女性にはどこか姉御肌(主導権を握っていたい)的な気質を感じることも少なくなく、また自分を引き立たせるためや自分のダメさを誤魔化すために無意識に自分よりダメな異性を選んで安心を得ているような感覚も少なからず伝わってきたりしますかね。事実何度も同じような異性を選んでしまったりもしているようですから。 そしてそこによく自分の親に似た異性を選んだりする例も少なくないようですかね?ファザコン・マザコンなど、ストレートな憧れからくることも多いと感じますが、時に両親の嫌な所へのあてつけ的な裏腹・仕返し的なモノも感じたりすることも少なくないですかね。時に経済的なバックボーンにもよると感じますが、無意識な「不幸」の選択も無きにしも・・・? そういえば手相や風水などによって「金運」を上げ、宝くじを当てるような番組を見ましたが、宝くじの当たり券には数の限りがある訳ですし、皆がその「金運上げ」をやってしまったら誰が選ばれるのでしょうかね?結局は「偶然」ですか?なのに占い師や風水師のあの自信は何処から?ただ私も「運」の多くは引き(想い)込むモノと感じていますがね。(10.10.24著)姉妹日記「責任」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.05
久しぶりに「美術館」に絵を見に行ってきました。 「絵画」や「造形物」などのモノ(世界観)にも、人の「気」(想い)を強く感じますね。私は正直「美術館」が苦手です。内容にもよりますが、長く居ると頭痛がします。ただ、「美術館」に行くと、「私も頑張ろう!」と自分を奮い立たせて貰えるんですね。普段、周りのせいにして自己主張を怠る自分に「自分も何かやらなきゃ!」という具合に。それも頭痛の原因? 皆さんは「ピカソ」の絵を見て、心の底から「いい絵だなぁ~」って感じています?私は正直感じていないので少し不安です。何処かの評論家や気の強い仲間が「いい絵だ」と言ったから、自分のセンスを疑われないように自分の素直な感想を押し殺して合わせたりしていませんか?そんな他人との感性の違いに「絵の見方が解らない」とか苦手を感じていませんか? 自分の中で「いいなぁ!」と感じたモノは、元々自分の中にもある感覚のように感じています。むしろ、「なんだコレ?」と感じたモノ、他人には受け入れられない感覚って、本当の意味でその人だけの感覚に近づいているように感じてしまいます。「ピカソ」なども、初めから今ほどな扱いをされていたとは感じませんね。私も「自由」な感覚に憧れる程度です。 少数の同じ感覚を持ち合わせた発言に影響力のある同業者や評論家が認めたり、あるいは同業者や評論家が自分の感性をアピールするために世間で受け入れられない感性をわざと認めたり、既に周りの感性に合ったモノが認められていた人がやった奇抜な表現スタイルなど、徐々に周りが他人の感性に合わせることも少なくないように感じます。 「有名な評論家(専門家)が言うんだったら間違いない」と言った具合に・・・。そうやってモノの「価値」が創られていくことも少なくないと感じています。特に日本人は技術的なモノに趣を置くように感じ、芸術(感性)的なモノに対しての関心は低いように感じます。必ずしも「美」と「芸術」は結びついていませんしね。 私は、良い意味でも悪い意味でも何気なく足が止まる絵以外は、全て素通りしてしまいます。いつも痛い頭を抱えながら、一緒に行った人を待合室で長い間待っていることになります。後から「有名な人の絵があったね」と聞かされて、損したような気にもなりますかね?想い切り言っちゃいましょうよ。ピカソはヘタクソ~って。(笑)(07.10.7著)・・・・・・・・・・ 最近は子供が画いたような絵が多く評価されているように感じますね。 「子供的」・・・純粋で自由で裏(体裁)が無く癒される感覚もありますかね?私も軽さ(単純)や、独特のアイディアを感じられるモノに惹かれますかね。ただ、評価されている絵の中には、技術的に裏付けられた「子供的」もあれば、単に「子供」(ヘタクソ)な絵も正直あるように感じますね。そして子供の頃は皆そのような自由な絵を画いていたように感じますね。 昔は技術的に「上手い絵」(本物そっくり・体裁の良い絵)に趣が置かれ、そこに矯正されてきたように感じますね。学校教育(特に日本の)において「技術」は優劣を付け易いですからね。そして現代では比較的表現を重視する外国的評価に釣られたりして専門家の自己評価上げ的に遣われたり、個人的には単に「目新しさ」にもその要因も感じますが・・・。 職人的技術を持った親が、我子の抽象的な絵の高評価に対して「何処が良いのか解らない」と漏らしていました。努力して技術を手に入れた人には、子供の頃のまま楽しく画いて良い評価を貰ったような人に対して良いイメージばかりではないでしょうね。逆に子供にとっては親の技術がプレッシャーになり、別のスタイルで勝負しなければならないようです。(08.9.9著)・・・・・・・・・・ 「三丁目の蕎麦屋さん、すごく美味しいんだって!」無邪気な知人が言いました。 彼女は自分の舌に合わないと、「この店、失敗!」とか「もう来ない!」とか、よく後悔もしているようです。私は例えば「蕎麦」など1つのカテゴリーにおいて、店によっての味に優劣を付ける感覚が今一つわからないのですよね。それぞれの店の味の違いは解るのですが、時に感じる「やる気のなさ」も含め、どの味もそれぞれに楽しめると言いましょうか・・・ 別の料理的感覚・・・?知人のような場合、「蕎麦」というカテゴリーを創り、「蕎麦とはこういうもの!」的自分の中の決め付けによって味に優越をつけ、また時に味の感じ方まで無意識に変えてしまうようにも感じますね。初めにそのカテゴリー(決め付け)がなかったら、そのうちの幾つかは「まずい」とは別の感じ方にもなっていたのではないでしょうかね? 「頑固オヤジのこだわり手打ち蕎麦」的店が近所にありましてね・・・めんつゆに天ぷらをつけて食べようとすると「塩で食え!」、残っためんつゆに蕎麦湯を入れて飲もうとすると「蕎麦湯だけで飲め!」と店主に怒られ・・・蕎麦の味どころではなくなって二度と来ないと私は決心しましたが、こういった店は時に行列もできるほど人気があったりするんですよね。 「ソースを付けないで食べて!」無邪気な知人が言いました。 有名なお店のメンチカツを買ってきたから・・・というのがその理由です。私もメンチカツは好きなのですが、お店の拘りよりも単に衣とソースの相性が好きと言いましょうか・・・私にとってはソースがあってのメンチカツなんですね。一応言われた通りに一口食べますが、後は出来るだけ機嫌を損ねないように理屈をつけて、ソースをたっぷりかけて頂きます。 別の日にまたメンチカツが出ましてね・・・キャベツと共に1つの皿に盛り付けられて出てきましたので、例によって自分の側だけソースをかけると、「なんで私の方にはかけてくれないの!」でした。確かに今回のメンチカツは例の「こだわりの店」で買ったものではなかったらしいのですが・・・ちょっと泣けてきますかね。(笑)そんな愚痴はさて置き・・・ 「こだわり・手間」(自信)が、作品の価値を「感覚」的に(良くも悪くも)変えてしまう力も感じますかね。 人により、作者の「こだわり・手間」による自信が直接伝わって味覚に反映されたり、また人により間接的に「こだわり・手間(自信)をかけたモノであれば不味いはずが無い」というある種「想い込み」が生まれ、またそこに「クチコミ」という更なる「想い込み」的力が加わったり・・・また食べ方の指示により作者の世界観を楽しむこともできますかね。 ただ人によっては食べ方(他人の感覚)まで押し付けられる感覚に少なからず反発もありますかね。そしてまた前記のことに関しては、食べることにあまり執着(関心)も薄い私にとっては、そこに原因があるようにも少なからず感じますかね。(笑)そして私も確かに拘っているモノには優劣をつけていますかね。今回も私の正直の中に沢山の矛盾も感じました。 また公平ぶって全てを受け入れてしまうと、例えば他人との会話などが何かと展開していかなくて詰らなかったりするんですよ。好き嫌い(偏り)を創ると話が盛り上がったり(深くなったり)することも少なくないんですよね。そして昔は寛容的に感じられた「ヒトそれぞれだから・・・」も今は寂しく感じますかね。(09.6.10著)・・・・・・・・・・ 「○○鑑定団」 抹茶茶碗が500万円!とても有名な作家の作品で、歴史も古く、希少性のあるモノらしいですね。何よりも「景色」と称し、その形や色・柄の美しさによってもその価値をつけているようですね。ただそういった見た目による感覚的価値となるとプロ・アマ問わず平等なモノであると感じますがね?意図的に他人を真似て、印や名などを添えてしまえば別ですがね。 例えば有名な作家が創った本人が気に入らない作品がたまたま処分されずに後に出てきたとします。おそらく評論家は、そういった作品にも「景色」云々を訴えて高価な値をつけてしまうと感じますが・・・本人が見た目の感覚的に気に入らないモノに高価値をつけてしまうと、結局は名声や評論家の感覚・好みで価値をつけているということになりませんかね? 有名な作家の小さな茶碗が、無名な作家の大きな花瓶より高かったりして・・・作る情熱は大して差は出ないと感じますし、むしろ材料費や製作時間・手間などを考えれば単純に大きいモノの方がかかっているでしょう。作家名を出さなければ花瓶を選ぶ人も少なくないと感じますし、興味の無い人にとってはいずれもガラクタのように扱われてしまっていますよね。 そこに評論家によって高値がつけられれば欲しいと感じましょうが、おそらくお金に替えてしまいたいと考えることでしょうしね。また箱がなくなってしまうと半値にもなってしまったり、だからといって箱だけでは半値ほどの値打ちもつかなかったり・・・100円の品と数万円の品を見分けるバラエティー番組において、多くが見分けが付かなかったり・・・ 玄人受けも大切でしょうが、どんなに有名な作家のモノであっても、素人の気も惹けないで「名作・本物」の定義がどこにありますかね?価値って曖昧ですね。また旦那さんの骨董趣味を嫌い、鑑定によってそれ程の価値がないと解り、奥さんが「いいきみ!」的な反応を示していますが、奥さん自身の財産が減ってしまった訳でもあり・・・ 自分だけの趣味や仕事にお金や労力が流れることも時に、女性に対する浮気以上に嫉妬を買ったりしますので、程々にしたほうが良いかと・・・ただ例えそのお金が奥さんの方へ流れたとしても、結局ブランド品やご主人を除いた友達同士の高級なランチやディナー代など、自分だけに興味のあることに遣われてしまうことになってしまったりもするのでしょうけれどね? 私も骨董品の価値付けには違和感も多く、それなら洋服や旅行代に回ったほうがマシのようにも感じていますが、自分がそこに巻き込まれる当人で無く、それもその人の興味の問題と感じますので、旦那さんのホローも入れて置きますね。そしてなによりもそこまで好きなモノがあることが羨ましく、嫉妬しちゃいますね。(10.10.30著)姉妹日記「好み」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.05
私は、日本のドラマや映画が苦手です。 何ていうか・・・演じている役者さん達の日常(裏)が伝わってくる様な、照れくさい様な感覚に映画のスジに入り込めません。また、役になりきって演技してしまえる人の「才能」にも少し怖いモノを感じられて、ここにも「不信」が生まれ、これまたスジに入り込めなかったりしますね。 それに比べて洋画はそうでもないんです。西洋人のあの目が人形みたいで・・・そう、CGやアニメーションを見ている感覚に近いですかね?もっとも西洋人同志では同じように、「アイツは大根だ」などの会話も普通にあるでしょうがね。早く言えば、より「他人事」なんでしょう。西洋系の人達には、良くも悪くも「純粋」(鈍感)を感じられる事が多いです。 それに比べ東洋系・・・特に日本人の多くには、これも良くも悪くも「裏表」(敏感)を強く感じられます。自分も同じ民族で身近なこともあると感じますが、その「裏表」が映画のスジに集中することへの妨げになっているようにも感じます。制作的な制約に大きな原因を感じますが、そんな国民的気質からもアニメーションが発展する事に妙にうなずけます。 色々な意味での敏感な人が、「純粋」を求める1つの形のようにも見えます。今ではヨーロッパなどで日本のアニメーションが流行っているようですが、またちょっと日本のそれとは別の感覚です。そして「建て前」的な気質に日常的に振り回されることも多いですが、普段の生活においては外国人のストレートな気質よりも過ごし易さも感じています。 音楽の趣味もそこに通じていますかね?元々、学校唱歌、滝廉太郎などが好きですが、ハルメンズや戸川純に出会ってから80年代のニューウェーブ、有頂天・ローザルクセンブルグ・・・etc、とてもお世話になりました。そして、なんと言っても洋楽、レッドツェッペリン(祝再結成)ただ、カラオケで歌うんだったら、演歌ですかね。(笑) 特に日本のドラマや映画・音楽は、非日常的で、大げさで、漫画見たいのが良いです。まあ「嫌いも好きのうち」といいますが、「苦手」には、得てして裏腹の気持もあったりしますかね。(他人に見る嫌な所程、自分の中にも強く感じることがありませんか?)私も日本人ですしね。(笑)(07.10.6著)・・・・・・・・・・ 日本では優秀なギターリストでもそれほど日の目を見ないように感じますね。 どうも「歌」(歌詞・言葉)がないと、日本人にはあまり広く受け入れられにくいようにも感じますかね。言葉は人によって曲に乗せたほうがメッセージ性(関心)も強まり、また曲もそんなに耳に新しいモノではなくても、TV・CM(メディア)また人気歌手などでタイアップされると本来の質(オリジナリティ)以上にウケが良かったりするように感じますかね。 歌詞の内容に自分を重ね合わせたり、その曲が遣われたドラマや映画を思い出したり、その曲が流行った時に自分に起きた出来事を思い出したりして「嬉しい」や「悲しい」だったりして感動するのでしょうね。確かにそこに音楽の力は感じますが、それって少し音楽に対して間接(理屈)的な感動にも感じますかね?もちろん是非の問題ではありませんが、ちなみに・・・・・・私は好きな歌であっても曲名を含め、歌詞の内容を理解しているものはほとんど無いですね。基本的に洋楽趣味ですが、唄える日本語のモノであっても改めて歌詞を追って言葉のみの「調子」に意識を合わせようとしなければなりません。「歌(声)も楽器の一つ」的感覚で聴いているようです。そしてまたメッセージ性よりもオリジナリティを望んでいるようですね。 音楽を通して世界平和を・・・とかよりも、単純に(出来れば新しい)リズムやメロディーで気持ち良さを味わいたいと言いますか。事実、歌詞のない曲で涙が流れますしね。「嬉しい」や「悲しい」ではないんですね。頭から背骨がゾクゾクして勝手に出る感覚・・・そんな時にはそれを客観的に感じる別の自分も感じます。そう、施術の時にもそんな感覚があります。 もっとも皆無意識にも純粋にリズムやメロディーで感動しているのでしょうけれどもね。となると私は損しているようですね?(笑)そして普段は照れくさくて言えない素直で純粋な台詞も、曲に乗せる(作品にする)と比較的表現し易かったり、その時の気持ちを代弁してくれたり、ある意味純粋を求めるような欲求の形の1つなのでしょうかね。 また我々が聞いていた古い音楽も、それを知らない若い世代には新しい音楽として改めて受け入れられたりもしていますかね。そんなサイクル的なモノに早く生まれた優越感や、世の中の基本(無限)を感じたりしますね。(08.10.10著)・・・・・・・・・・ 日本人は見えない所まで手間を掛ける。 先日TVで、日本の下町の工場で働く職人さんを紹介していました。部品の仕上げをするのに、組み立ててしまうと見えなくなってしまう所までキチンと磨いていました。確かに建築の仕事においても日本人の職人さんは、仕上げで見えなくなる所まで手間を惜しまず綺麗に納めますね。隠れるまでに誰に見られるか分かりませんし、技術的プライドも強いですかね。 私も輸入住宅の仕事において欧米の職人さん達と一緒に仕事をしたことがありますが、その辺は雑で、役割分担もハッキリしているようで、仕上げをする(外国人)職人に引き継いでも文句の出ることも少なかったですかね。よく言えば「合理的」なのですかね。「日本製」の品質の高さには、そんな非合理的な手間(想いのかけ方)にも要因があるように感じますかね。 アメリカ人には肩こりが無い? これもまたTVで耳にしたことですが・・・とは言うものの、やはりコンを詰めるとアメリカ人も日本で言う所の「肩こり」の症状は出ると感じますけどね。ただおそらくその度リフレッシュしたりして発散することが上手な気質なんでしょうね。仕事場にリフレッシュ出来る道具を持ち込んだり、企業側がそれらを用意したりすることも珍しくないようですし・・・ また労働時間(拘束感)などに違いもありますかね。ただ私も「肩こり」の感覚が解らないのですよね。結構集中するタチで、他人に触らせると凝っていると言われるのですが辛さを引き摺りませんし、心のどこかで「一時的にもそうなるのは当たり前」・「寝ればリセットされる」ような想い込みもあり、あえて「肩こり」を「病気」的位置にはおいていませんかね。 ただ周りが自分の頑張りに気付いてくれない時や、また何もする事がないと逆に「あ~肩こった!」なんて言ってみたりしますかね?(笑)また、この「肩こり」(疲れ)など、日本のように強い『関心』事になってしまっていると、その『関心』事になっている範囲内では他の所より強く病気の要因に繋がったりするようにも感じますかね。(09.10.15著)・・・・・・・・・・ 日本の女性はミーハーが多い? 私は外国の女性を知らないので言い切れませんが、知人の女性は普段あんなに政治家の悪口を言っていたにも拘らず、「この間○○さん(有名政治家)にあってさ~ぁ、一緒に写真を撮ってもらっちゃた♪」でした。TVなどでキャーキャー言いながら政治家に握手を求めるおば様方もよく眼にしますが、これでは政治家は改めず、いつまでも変わらないでしょうね。 また韓流スターの人気も凄いですが・・・日本人は国内でも田舎と呼ばれる所で暮らす人にはそれだけで純粋なイメージをいだいてしまったりするように感じますが、他のアジア諸国に対しては今だ先進国的優越感も残っているように感じ、そういった心理が他のアジア諸国の芸能人にも少なからずはたらいて、日本の女性も純粋さを感じて惹かれたりもしますかね。 個人的には韓国人に日本人よりも我の強さや金銭的したたかさも感じたりもしますがね。そして主婦さんの「彼等は私の人生の全て!」という言葉には旦那さんに対して同情も感じますかね。(笑)最近の日本の芸能人には、一般人と比べても特に容姿の良さも感じないにも拘らず、人気を得られている人も多いように感じますかね。身近な所が好まれる時代とか・・・ 前記の政治家の件なども直接会うと親近感が湧いて情が生まれたりすることも感じますが、その他芸能人やブランド品などを見ても、単に有名になったモノが好まれ、他人と同じ行為・センスによって安心を得るような意味合いも少なからず感じますかね。特に他人の目を気にする日本人は、皆が騒ぐモノには乗って置かないと不安を感じたり・・・? またCMなどにおいて有名人が時には企業の商品を直接的に褒めたりして広告塔的なことをしていますが、その商品に問題があった時はその有名人達の責任も大きいと感じますがね。単に彼等の言葉だけを信頼して購入する人も少なくないように感じますし、企業や有名人達にもその自覚を感じますからね。「※個人の感想です」ではすみませんよね。(10.8.29著)・・・・・・・・・・ 日本人俳優の世界での評価も上がってきていますね。 ある評価の高い日本の俳優が、「一度役に入り込むと撮影が終わってもしばらく役から抜けられない」と言っていました。また役づくりのために時には全ての周りの人と距離を置いたり、髪や歯を本当に抜いてしまったりするようですね。プロ意識の高さも感じますが・・・本来「演技のプロ」と言うのであれば、逆に1カットが終わる度に普段に戻れないと・・・ 自分の意に反していつまでも役を引き摺って自分自身に戻れない人を、またその場だけを優先して次の仕事に差し支えのある役作りをしてしまうことが本当に「演技のプロ」とか「プロ意識の高さ」と言えるのでしょうかね?時に『不器用』さも感じますがね?今はメイクや映像技術が発達しているのでそういったスタッフを信頼して割り切ることもプロと感じますがね。 もっとも監督も「入り込む役者」の方を望むのでしょうけどね?また名スポーツ選手などにおいても「自分自身に入り込む・酔う」ような演技的才能を感じたりしますかね。名選手に限って歯の浮くようなキザ台詞が言えたり、キメポーズを持っていたりする人も少なくないですよね?日常においてもそういった才能の人も見ますが、多くが世間で認められていたり・・・ 社会的地位が高いところにも居たりして・・・個人的にはそういった結果に羨ましさも感じるのですが、どうしてもそういった人達に客観的に見て気持ち悪さや怖さも感じ、また同じようにして常に複数の自分が同時に自分を見ていて、私は気持ち悪くて1つの物事に入り込むことが難しいのですよね。これもヒトとしては『不器用』ってことですかね。(10.9.12著)姉妹日記「漫画」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.02
京都では長居していると、「お茶漬け」を振舞ってもらえると聞きました。 ただ、そこには「もう帰ってください」という無言で裏腹の意味があるという事を聞いた事があります。京都の知人に確認すると、今は一般的では無いようですが、その様な例えに遣われる慣わしがあったことは確かなようです。 「気遣い」には良いイメージがありますが、本来、他人の目を気にする、悪く言うとズルい人にこそ、その素質を感じます。また、「気遣い」には、必ずしもその人の本意が含まれているとは限りませんし、むしろそこには「嘘」と密接な関係も感じています。そしてそこに敏感な人は、「気遣い」にさえ鬱陶しさを覚えると感じます。 「気遣い」(嘘)に敏感な人ほど、そのモノの気質を強く持っているように感じます。ただ、そこで「嘘」として認識できるのだったら、それって本当の事を伝えてもらったのと同じことなのではないですかね?私はむしろ正直なものの方が怖いです。気遣いも「本当」「嘘」とかいうより、相手の求め方次第のように感じます。 多くの人が、少なからず自分の中に嫌いな所を感じ、「負い目」のようなモノを抱え、生活していると感じます。そういった所まで、ストレートな気質(「天真爛漫」や「無邪気」・「純粋」も含め)な人は、悪気なくストレートな(逃げ場を残さない)表現でついてきたりするんですね。自分で自覚している嫌な所を他人から指摘されることほど、嫌なモノはないです。 「気遣い」は、ある意味「日本の文化(気質)」のようにも感じます。そこに含まれる「嘘」的質に敏感なひとが、「純粋」を求めて、「外国的文化(気質)」にハマったりすることもありますかね。私もそうでしたかね。ただ、今は、外国的ストレートな気質よりも、日本の「建て前」的な気質に「優しさ?」(安心?)も感じます。 また「気遣い」によって疲れてしまいますね。ただ、私は、「疲れ」(頑張った)を感じないと、1日損した気にもなります。そして私は周りが先に弱音を吐いてくれるとほっとして、逆に力が湧いてきます。故に、周りを見て、時には先に弱音を吐くようにしています。プライドとの折り合いが難しい時もありますが、その様な気遣いもありかなと感じます。 「不幸」や「ネガティブ」も、場合によって何よりも他人に「安心」や「勇気」などの力を与えるモノになることも感じています。マイドオ~キニ~、マタオコシヤス~(あっていますかね?)(07.11.17著)・・・・・・・・・・ 「日本のしきたり」(礼儀作法)をクイズ形式で紹介する番組を見ました。その問題の1つに・・・ 「食べ終わった魚の皮の始末として正しいモノはどれでしょう」 1. 身の着いていた側を表におく。 2. 身の着いていた側を裏におく。 3. 皿の隅に小さくまとめておく。とありました。若い女性アイドルが2番を選び、その理由に「見た目が綺麗だから」と答えていました。「正解」は3番でしたが、礼儀作法の先生にその理由を聞くと同じく「見た目が綺麗だから」と答えていました。写真によって3つの状態が質問と一緒に紹介されてアイドルさんも全て目にしていましたし、「不正解」にはちょっと複雑な想いが残りました。 また元々礼儀作法とは、相手への気遣いを基本に考えられているモノが多いと感じますが、今日のように礼儀作法を知らない人が大半を占める世の中になってしまうと、逆に相手に恥をかかせてしまうモノにも成りかねないですね。ただ知らないモノ(他世界観)を知ると良くも悪くも刺激になります。受け入れる・入れないは別にして長く伝えられていくことを望みます。 個人的には、その時々で色々な「世界観」を楽しむように浸りたいですね。(08.5.28著)・・・・・・・・・・ 「本当の気遣いは、相手に気を遣っていることを知られないようにすること」といわれますかね。 ただ私は、結果的(間接的)に相手に「気遣い」が伝わることで、より大きな意味を成してくるとも感じています。そしてまた、その時は気が付かずに後になって説明を受け、より強い感動を受けたりしますね。本人にはそんな気も無いのに、後に他人によって「理屈」付けられてより強い感動を得られる話(深い話)になることも少なくないように感じます。 「理屈」付ける側も、ヒト(相手)を高めることよって自分の感性をも高める術になっていることもあるように感じます。美術品やその他のモノにもそうやって価値が上げられているモノも少なくないように感じます。そしてまた「気遣い」も含め、相手の「想い」を感じて「行動」に移った時点で、全て広い意味での「自己主張」になるように感じます。(08.7.17著)・・・・・・・・・・ 「まったく、うちの嫁ときたら・・・」施術中の会話です。 彼女はだいぶ姑さんに気を遣ってきた自負があるようです。歳をとって今度は自分がワガママを聞いてもらう立場になると想っていたら、迎えたお嫁さんも姑さん同様に気を遣わせられる性格であったようで、自分の人生にとても「不公平」を感じているようです。確かに一人っ子も増えたせいか、あまり我慢を必要とせずに育った若者も少なくないように感じますかね。 私に限っては、「我慢」・「譲る」・「与える」等を一番強く学んだと感じるのは、親との関わりに伴う「キョウダイ関係」だったように感じていますね。ただ両親の「お兄さん(弟)なんだから・・・」はストレス(矛盾)を感じることも少なく無かったですね。特に自由な姉には嫉妬も感じますが、おそらく相手もそれぞれの立場で色々と感じていたと想いますかね。 ただ、一度気を遣う事に慣れて(?)しまうと、相手の性格に拘らず、気を遣わずには居られなくなってしまうようにも感じていますね。私などは、その気遣いによって色々な意味で満足を得られることも少なくないように感じています。ただ、やはり私もたまにはワガママを言ったり、愚痴を吐く側にもまわりたくなりますかね。(笑)弱音を吐ける存在は大切ですね。 彼女に限らず、施術中にそう言った愚痴や弱音を吐けた後には顕著に体調が良い方へ向かう変化を感じることも少なくありませんね。そして「あまり我慢を必要とせずに育った若者」からでないと得られない感動・刺激も少なくなくて、ここでもまたジレンマも感じたりしています。(笑)(08.8.10著)・・・・・・・・・・ なかなか「本音」って表に出し辛かったりしますかね。 「本音」・・・中でもあまり体裁の良くない「ワガママ」や「愚痴」的なモノが含まれると余計に出し辛いですかね。ブログなどにおいてそういったモノを吐き出したりもしていますが、やはり人の目にさらすことでその反応が気になったりして、結局「本音」には至らなかったりするんですよね。だからといって人目にさらさないと満足も得られなかったり・・・。 ブログで本音を書くと、コメントにおいて私が表現した内容がそのまま反対意見のように返ってきたり、普段私が建前的に(体裁良く)他人を諭すように遣う表現が返ってきてしまい、表現の難しさと共に、自分のプライドに折り合いをつけながらあえて本音を書いたのでがっかりさせられることも少なくなく、更に本音の表現をためらうことになったり・・・。 絵や彫刻・詩・音楽やスポーツなど、広い意味での「芸術」(作品)と言う形にして表に出すと、例え直接的なそういった体裁の良くない「本音」(欲求)も、比較的表に出し易かったりしますよね。それどころか尊敬されたり喜ばれたり・・・。ペンネームなども含め、ある意味他人事(作品)にすることで、体裁の悪い事も出し易かったり、受け入れ易かったり。 私が日記を書くときに多用する「・・・ですかね。」も、多くはそんな質のモノですかね。(笑)個人的には「ワガママ」や「愚痴」的なモノを含む時、他人に対して意見や答えは望んでいませんかね。多少理不尽でも同意の言葉を望んでいたり・・・自分でも理不尽さは自覚していますから。そうなると「・・・ですかね。」は紛らわしいですけどね。 昔は「嫌だな~」と感じ、「想い」続けると、よくそれを回避出来たりしていましたね。 会いたくない人や、参加したくない行事など、相手の都合が悪くなったり、天気が悪くなったりといった自然現象に助けられたり・・・自分の方から断らなくても自分のプライドを保つように「嫌」を避けられてしまうんですよね。土壇場ではよく良い方向に転ったり・・・。ただその土壇場になるまでそのことが常に頭から離れなくて辛いんですよね。 ある意味想いを強める行為とその結果でしょうかね。歳を重ね、自分から断れるようになり、確かにその場は「嫌」な想いもしますが、長く引きずりませんかね。「正直・本音」(鈍感)に楽を感じたりもしますかね。ただ私には性に合わない気がします。結局の所自分の体裁を守る質が強いと自覚していても、出来る限り相手に嫌な気持ちになられたくはないですからね。 バレたらより酷い事になるのは承知の上で・・・。そして時に相手にもバレない嘘を望みますかね。周りだけに多大な気遣いをかけますが、もし私が不治の病になったら、その事は私には告げて欲しくないですかね。(09.5.19著)・・・・・・・・・・ 「面白い味ですね」 テレビなどで食べ物を紹介する時に、自分の好みに合わないモノに当たってしまった場合に重宝する言葉だそうです。多くのヒトは「美味しかった」と捉えることでしょうね。後に誰かに「あれ不味かったよ」と言われても、「『美味しかった』なんて一言も言ってないよ♪」なんて返すんでしょうかね?本当のことは言えないが、嘘も付きたくないってことですかね。 時にマナーの見本的に取り上げられる言葉ですが、本質は相手にも自分にも嘘をつく、最もズルい答えのようにも感じますかね?相手を想いやるモノであれば嘘でも悪くない・・・?私もそんな感じで割と多く嘘をつく方だと感じますが、私の場合は「相手が嫌な想いをしないように」というよりも「相手が嫌な想いをしている所を見たくない」といったモノですかね。 私はヒトの不機嫌な時に放たれる「気」が何よりも苦手なので、私に限っては「気遣い」の多くはそれを避けたいがため、自分の心地よいと感じる場を守るためのモノであり、そしてまた嫌な人間に想われたくないと言ったような自己防衛を含め、結局は自分の欲求を満たすためのモノですかね。ただそれでも世の中正直より良いと感じることが多いですかね。(11.9.10著)姉妹日記「バランス」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.08.02
先日生まれて初めて四葉のクローバーを見つけました。 今までにも何度もその様な機会が有ったにも関わらず、決して探し出す事は出来ませんでしたね。そして私の通った跡を後から来る人間が見つけてしまったりするんですよね。自分自身でも、確かに探して見つからなかった同じ場所で、後日探し物が見つかったりします。ただその日は見つけられる「気」がしていました。 その前日、自分の中で大きな決断をして、自分の世界観にも大きな変化を感じていました。私は、これまでも自分の世界観が変わったと自覚した時、見えて来る景色も変化する感覚を、何度となく経験しています。私の母も、大病をした後に「気」の才能を得ています。色々な意味で世界観が変わった事を以前聞いた事があります。 また物事を吸収し易い小さい頃から矯正的に同じルールを詰め込んで来てはいたものの、細かい理解はそれぞれ個々の世界観でやっていて、なんとなくお互い理解した気になっていただけなのだと感じています。微妙にズレているそれぞれの世界観が、それぞれの微妙にズレた景色を見せていると感じます。そして時にそこには「関心」という力の関与も感じます。 母の話題が出たついでに・・・母は、ヘビ・ナメクジなどが大嫌いなのですが、食事中にたまたま点けたテレビにヘビが出ていて食事がその時点で終わってしまい、草むしりをしていて一発目でナメクジと出くわして作業終了・・・といったことが頻繁に起きます。「嫌い」・「苦手」も時に強い『関心』であるようにも感じますかね。 このクローバーは「探し出した」と言うよりむしろ「創り出した」(関心が強まった)感覚です。またクローバーを見つけた前日の決断に当日は少し迷いを持っていたので、葉の虫食い跡がそれを現してくれている様です。(07.6.23著)・・・・・・・・・・ 知人の女性が、「またここにシワができた!」と嘆いていました。 私は何度も「何処?」と聞き返し、色々と詳しく説明を受け、やっと「これ?」と探し出すことができました。また、別の知人が「真っ青な顔」で部屋に入ってきて、他にも何人かいた人達とも軽く挨拶を交わしていたのですが、私が「大丈夫?」と聞いて、初めてそこで「あれっ!どうしたの。大丈夫?」でした。誰も「真っ青な顔」に気付かなかったようです。 普段から見ている景色も、焦点を合わせている所以外はボケて曖昧になっています。科学的に解釈すれば、「脳の処理能力の負担を減らすため」ですかね?一方では、「普段、脳の機能は数十パーセントしか使われていない」と言っておいてですよ。おかしな話です。また、沢山猫を飼っている猫好きな人が、一匹一匹見分けたりしていますね。 人は、そこに「関心」(気)がないと、ボヤけたり、曖昧だったりして、しっかり区別がつかないように感じます。ひどい時には全く見えていなかったりすると感じています。「関心」(気)が生まれることによって、それぞれを個性(姿形も含め)として見分けていると感じます。普段自分に見えていることが、他人にも全く同じように見えているとは限らないようです。 血液型や流行っている診断系の遊びにも「関心」の力を感じます。私も基本的に一例でも例外があるものには全てをそこに当てはめるべきではないと感じていますが、血液型と性格との関係のように、日本中である程度「関心」が高まっているようなモノには、日本(「関心」が高まっているその範囲)ではそこにある程度関係性が生まれてくると感じています。 私は、子供の頃はよく人の中に居て吐き気を感じたり、自分の発言を遮られる様な周りの感覚に何も言えなくなったりして人との付き合いが辛かったことを記憶しています。その時は確かにそんな周りの感覚に、「自然に感じる」感覚を持っていました。今は「本当に他人を感じていたのかな?」って感じています。よく言われる「共鳴」ですかね? 「本当にそこに関心が無かっただろうか?」って感じています。 「自然に・・・」自分以外のせいにした方が何かと都合が良かったな・・・その時の自分を変わりに表現してくれる存在を求めているような・・・自分でするのは恥ずかしいから・・・プライドが傷つくから・・・それが素直に表現できる人への「嫉妬」があったかな? ただ、こうやって解ったように全て自分のせいにする事にも「オゴリ」を感じられ、それを他人のせいにもプライドが許さないとも感じます。自分を理解されたいのも確かですが、他人より下になる感覚が嫌なんですかね?こうやって自己主張をしている時も、少なからずそんなことを感じていますかね。答えは出ませんし、出したくもないです。(笑)(07.11.24著)・・・・・・・・・・ 「宇宙エネルギー」 ある人が「『気』の本を書きたいのでその時は意見を聞きたい」と母を訪ねてきました。その人もそういった世界観に属し、時には頼まれてあちらこちらで講演をする、いわゆる「先生」と呼ばれる立場でもあるようです。そういった世界観の知識も深く弁が立ち、ヒーラーの育成の才能は高いようですが、実際の自分のヒーリングの才能には疑問も持っているようです。 そんなことから定期的に母を訪ねるのも自分の迷いを晴らす意味もあるのでしょうかね。時には母を試すように、調子の悪い知り合いを紹介してはその結果に驚いたりもしていましたからね。そんなことからも自分で「本」を出すにあたって、母の経験談などが欲しいようです。その言い方が「宇宙エネルギーとか波動とか沢山語ってくださいよ♪」なんて。 確かに母も「気」に対しては何か「特別」なエネルギー的存在としても捉えているようですが、「宇宙」とか「波動」とかいう感覚も知識もないようで、ちょっと困って笑っていました。もっと身近な(人間関係的)気持ちの変化などにもその存在も感じているようです。「気」に留まらず、本来「真実」(本質)は身近で当たり前で、時に退屈なモノであると感じます。 ただそれを「特別」(不思議)にあえて置くことで人はそこに「関心」が生まれ、そしてそこにより大きな「力」(エネルギー・変化)が生まれると感じます。その「真実」(本質)を『宇宙摂理』的に定義付け(特別)するならば、それが「宇宙エネルギー」となるのでしょうがね。その人それぞれの世界観の呼び名だけの違いのようなモノなのかもしれませんね。 また彼の説得力のある言葉(理屈)も、母の気功も見た目は違えども相手に変化を与えるきっかけになる点において変わりは無く、同じ「気」(エネルギー・力・才能)であると感じますかね。技術や記録がズバ抜けて優れている選手が、必ずしも優秀な指導者に向いているとも限りませんからね。理屈と感覚の才能には極端な気質の違いも感じますから。(09.7.15著)・・・・・・・・・・ 「嘘から出た真」 普通なモノより神秘的(特別)なモノの方が刺激的で心も動き易く、時には依存(楽)し易かったりもして・・・また時には「ネガティブ」に大袈裟に考える事が「ポジティブ」より深い刺激的を得られたり・・・場合によって人は刺激的であれば嘘(虚像)をも無意識に望むのではないですかね。そして時にその「関心」(想い)の強まりによって真実に変化して・・・ 科学においては「偶然」とされて起こった現象に、理論を設定し研究を重ね、その現象を意図的に再現していますね。初めは理論や理想などの未(?)現実な「想い」(嘘)に始まり、研究や他人の同意(共感)などの積み重ねによりその「想い」の確信を強め、現実化していくようなことも世の中で起こる出来事には少なくないと感じますね。 そして「想い」の強さにより理屈を飛び越えて、「偶然」として生み出されてきたモノも少なくないように感じますね。その「偶然」に起きた現象についてまた科学の世界観を守るように後付(言い訳)的に理論を設定し・・・世の中そんなサイクルが繰り返されているようにも感じられ、多くの現象(変化)の元に「想い」の関りを感じますかね。(09.7.16著)・・・・・・・・・ 「サーキットの○」 先日出先で食事をしようと、お店の駐車場に車を停めたところ、隣にロータス・ヨーロッパが停車して来ましてね・・・。私が子供の頃スーパーカー・ブームがありまして、その火付け役ともなった好きなコミックの主人公が乗っていた車でしてね・・・懐かしい想いもあり、一緒に食事にきた知人にもその旨を話したり・・・特に知人には関心も持たれず・・・(笑) そんなことが頭にチラつきながらの帰り道・・・国産車なのですが、白いボディーのボンネットから屋根・後部トランクにかけての中央より左寄りに一直線に真っ赤なストライプ、そのストライプ上には黒い星印が数個並んだデザインの車とすれ違いましてね・・・今度は前記したコミックの主人公が乗っていたロータス・ヨーロッパのカラーリングそのものなんですよね。 私はちょっと興奮して、隣に乗っていた知人にまたその旨を説明したのですが、特に関心も持たれず・・・(笑)「関心」(想い)が強まると、見え方(感覚)や記憶(能力)などに変化が現れるように感じますかね。そして『偶然』と呼ばれることや、大袈裟に言うと『奇跡』的なことを感じさせる(呼び込む・創る)ような力も感じますかね。(10.4.20著)姉妹日記「想い込み」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.29
皆さんの心の中にある「愛」の定義ってどんな感じです? 「好き」の最上級的な位置づけですかね?ちなみに私は、「好き」は「本能(欲)」で「愛」は「理性」ですかね。言い方を変えれば、表面上の「自分優先」か「他人優先」かですかね。ただ、基本的に「他人優先」ということはありえないと感じます。外目に「他人を優先」しているよう見えても、結局は全て自分の「欲求」を満たしている行為のように感じますね。 皆さんの心の中にある「浮気」の定義ってどんな感じです? 自分を「愛する」と約束した人が、自分以外の異性に対して体やお金・時間を費やすことですかね?ちなみに私はその人が「嫉妬」を感じることなら何でも「浮気」になり得るように感じますが。自分だけが興味を持つ仕事や趣味(宝石・オシャレ・アイドルなども含め)、子供などだけに体やお金・時間を費やすことは「浮気」にはならないのですかね? 私の定義で「愛」を進めていくと、相手が他の異性を心から「好き」になることを望んでいるなら、自分の「束縛したい」(欲)を抑えてでも認めなければなりませんかね。「人間愛」ってどんなモノ?「好き」(欲求)を切り離すようにして、相手によって差別(制限)をつけて行うモノになってしまうと「愛」ってそんなに尊さを感じませんかね。また想いが巡ります。 これ以上話を進めると、「浮気」を肯定しなければならなくなりそうそうなのでやめておきます。(笑)「本能」(欲求)は「理性」(理屈)ではどうにもならないことも多いようです。時に「理性」(理屈)は「ワガママ」(欲求)を通す「言い訳」にすぎないようにも感じます。そして「本意」でない所へ進んでしまい、後戻り出来なくなったりします。 また「気」に限らず、初めは自分の中に「確信」を築くために、「理屈」は大切なモノの一つと感じます。ただその「理屈」で構築された「世界観」(能力・感覚)の更なる「強まり」を求めると、元の「理屈」(制限)が邪魔になることも時に感じられます。「理屈」は状況(矛盾等)により変化し、その時々で自分の心にしっくり来るもので良いと感じます。 また、様々な変化・世界観を受け入れられる心の柔軟性も大切と感じます。 私のような人間には、物事を「理屈」無く楽しめる人と同じように、「理屈」を考えている時が「理屈」無く楽しかったりするんですね。そしてそこから新しい「感覚」や「能力」が生まれることも感じますし、物事を「理屈」で理解していると、急な状況の変化にも他人の知識を頼ることなく、自分自身で対応できる力(応用力)になると感じます。(07.12.11著)・・・・・・・・・・ 「人は平等であることが基本なんだから、たとえ好きな人でも常に優先するのはおかしい」知人の言葉です。 確かに存在的には平等だと感じますが、そこに人の基本があるかはちょっと違和感がありますね。元々(本能的)の人は自分以外の存在に好き嫌いで順番をつける事が自然(基本)のように感じます。ただ、私も彼女の「たとえ好きな人でも常に優先して考えるのはおかしい」には共感もありますね。「一生おまえだけを愛する」・・・って、私は時に不信感を抱きますかね。 「そのうち浮気するんでしょ?」と言うよりもむしろ、同等に問題が起きた時も常に「愛する人」を優先し、他の人間は後回しにしてしまうのですか・・・という不信感ですかね。その「愛する人」より前からの付き合いで、時には一緒に頑張って来たのにそりゃ無いよ・・・とかもあったりしますかね。出来る限り今目の前に居る人を最優先していたいと感じています。 平等的価値観も、これまでの人生において教育(後付け)されたモノであると感じますが、自分の善悪(好き嫌い)等の選択が強く働いていることも感じます。確かに素直な感覚ではありませんが、どこかで自分をコントロールできている満足感も感じていますかね。そういったことに優越感を感じるのも「理屈」(理性)の楽しみ方の1つと感じています。(08.8.18著)・・・・・・・・・・ 「無償の愛」とか言いますね。 与える一方で見返りを期待しないような意味ですかね?「欲」の無い崇高なイメージもありますかね。ただそこにも「与えたい」という気持ちが必要で、それって「欲求」になりますよね?そして「与える」という行為に移った時点で「欲求」を満たしたと言うことになりませんかね?かなり体裁は良いですが、欲しいモノ(満足)を手に入れる行為に変わりませんね。 与える側には例えその気は無くとも、相手には少なくとも「感謝」や時には「負い目」なども与えてしまいますよね。「無償の愛」って時に一番贅沢な「満足」を得られる欲求でもあるように感じますね。ただ、時に「感謝」って、する側にとっても気持ち良い感覚があったりしません?「感謝せずにはいられない」的にそれこそ自然に湧いてくるような・・・。 お互いが同時に欲求を満たせる感覚ですかね。チャラってことで、これがある意味「無償の愛」ですかね?あとは本人が何も意識しないでした事に対して、周りが勝手に「感謝」等の感情を持つことですかね?ただそれって「愛」なのかな?やはり「与えたい」という意識(欲求)を伴って初めて「愛」のように感じますけどね。 私の若い頃は男性が様々な支払いを請け負う雰囲気がありましたが、最近おごられる事を嫌い、割り勘にこだわる女性も少なくないですね。確かに下心も感じますが、相手のプライドを立てて「負い目」を負ってくれても・・・(笑)(08.11.15著)・・・・・・・・・・ 「むっつりスケベ」って言いますよね。 人前では「スケベ」さを隠してはいるが、いざその時になると・・・て言うことですかね?となると基本的に私もそこに当てはまると自覚しますが、あまり良いイメージには遣われていないように感じますかね。普段から下ネタなど「スケベ」さを表に出していた方が嘘がなくて好感を持てるとか?確かに「ギャップ」にも要因を感じますが・・・。 ただ実際に隣にそんな人間が居たらどうですか?少なくとも私は周りの雰囲気を壊さないかハラハラさせられたり戸惑いを感じる方ですがね。へたすれば「セクハラ」とか騒ぎ出す人も居るのではないですか?ただそれが好きな人だったりすると許せてしまったりもするのでしょう?それもある意味むっつりスケベにもなりますかね? 未成年を「好き」になることは、罪に問われるくらい世間では嫌われていますよね。TVのコメンテーターとして罪を犯した人に正義感たっぷりに諭しをしているミュージシャンもいますが、確か彼の奥さんは20以上歳が離れ、16歳の頃には交際をしていたようですが・・・結婚の意志があれば許される?・・・その辺の線引きも微妙なモノがありますかね。 性的下心は切り離して書いてしまいますが、一種の純粋を求める形の1つにも感じますかね。もっともそれを切り離してしまったら語る意味も無くなるのかも知れませんがね。ただ未成年同士の「好き」だったら少なくとも罪に問われたりはしないのでしょうが、かえって若い時の恋愛にも性的興味が強い分、不純だったりすることも少なくないと感じますけどね。 そして性的興味(好奇心)は純粋な欲求ではないという定義が前提になりますかね。 また女性でも未成年のアイドルに群がる光景も多く目にしますが、男性のそれとはイメージの悪さに差を感じますかね。そして芸能界をみると人気の主力はどんどん若年化していますかね。もちろん仕掛け人は大人達でしょうし、売り込む対象も同じ若年層だけであるとは感じられませんかね。少なからずメディア(大人)による煽り的力も感じますけどね。(09.11.5著)・・・・・・・・・・ 「話せば解るよ!」 例えば映画などで「悪を根絶するにはより強い悪が必要」的な表現がありますよね。またヒトの心を動かすには悲惨であればあるほど効果的であったり・・・社会の裏にある不条理を正すのに正攻法でいっても周りには見向きもされなかったり、力でインパクトを与える方法をとると「暴力はいけない」という事に重きが置かれ、身動きとれなくなってしまったり・・・ 皆さんは自分の欲求を全て「話合い(理屈)」で抑え込めます?特に悪いことと理解してあえてやっているヒトに理屈が通じますかね。そして「暴力はいけない」という言葉が出ることを期待し、正義感を逆手にとっていつまでも悪がはびこる事が出来ているとも感じますがね。少なからず私の「子供」の頃は、親の言葉による諭しはほとんど効果は無かったですがね。 もう子供じゃないんだから・・・?悪いことと理解しても欲求が先行して自制が効かない大人の中身は子供のような気質なんじゃ・・・確かに幼い頃からの教育(刷り込み)によって非暴力的な気質に矯正も出来ると感じますが、そこに少なからず「嫌な想い(暴力)」的経験の関与も同時に感じ、まして大きくなってしまってからの矯正は難しいものも感じますかね。 「ハンガーストライキ」なども細かく内容を見直した時に、その非暴力的な方法をきっかけに心を動かされた人達が、末端では暴力的な運動をした結果世界が変わったりして・・・「ハンガー」も結局はヒトの「命」を盾にしているように感じ、純粋に非暴力的な方法が存在するのかは疑問も残りますがね?「理屈」は鬱陶しいと感じたり、喧嘩の後に親友になったり・・・ ヒトの基本に単純に「気持ちよい」を求める広い意味での「自己主張」があり、各々がその違いを表そうとするならば、良いイメージのモノだけでは収まりきれる訳もなく・・・「善~悪」的な共存(幅)が生まれるのが必然なのですかね?個人的には善悪の価値観も生まれながらの環境や教育によって創られるモノで、ヒトの基本に正義があるとは感じませんし・・・ 罪を犯しても自首をすると減刑されることがありますね。つまりヒトの心情としては、そこで逃げてしまうことが普通として考えられているためにご褒美的に減刑があると聞きました。法律的にも本来のヒトは「弱い」を基本に置いているようですし、正義の感覚にもヒトによってズレを感じます。そして正義の根本にも嫉妬やワガママ(欲求)的資質を感じますかね。 「正義は必ず勝つ!」・・・「正義」に勝ち負け的表現が付いて回る事に違和感がありますし、言い方次第かもしれませんがなんか威張っている感じで反発したくもなりますかね。そして現実を見れば、世間で「勝ち組」と呼ばれる人達には、むしろ正義的な印象が薄いように感じられることも少なくなく、その言葉にも時に「上手く扱われている」感があったり・・・ また悪1人を諭すまでに多くの善に犠牲が出たとしても、ヒトとして「話せば解るよ!」に拘りますよね?そして全ての悪を諭すのにどれだけ多くの善の犠牲を我慢できます?その中に自分の身内が居ても我慢できますか?そうなれば私は一時的に悪に成ってもそれを制する・・・ほら、少なくともここに一人「話しても解らない」ヒトがいました。 ♪キミ~が笑ってくれるなら~僕は悪にでもなる~♪・・・定義にもよりましょうが、愛も常に正義なのですかね?私も「暴力反対」ですし、過去の自分に対する「暴力」の経験から決して肯定もできませんが、正義感からというよりもその行為自体に恐怖(気持ち悪さ)や、時には面倒臭さを感じるからで、あくまでも受身的立場な感覚でもありますかね?(10.11.16著) 姉妹日記「感情」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.29
私もテレビに出演するような職人的人物を何人か上司に持った事があります。 彼等からは共通して、とても「自信家」的気質を強く感じられました。とにかく一度こうと決めると多くは「理屈無く」突き進むんですね。そして私の感覚において特にその「自信」に結びつくような根拠を感じられることも少なかったですね。また個人的にはむしろ人間的に参考にしたくない気質を多く備えていたようにも感じています。 ただ私のような気質の人間には、その自信と直向さ・勢いに「安心感」や「手伝ってあげたい」的気質をかりたてられてしまうんです。なにか起こりそうでワクワクしたり、時にはお金儲けの臭いがしたりと、気が付けばその人達の周りには人が集り、奉られるようなことも多いですかね。時に他人の「助け」を得られやすい気質でもあるように感じます。 私の中にも時々顔を出します「ワガママ」という才能(気質)にも、「能力」(特に強い自己主張系の能力)との強い因果関係を感じています。多くの人は、少なからず常に周りの目を気にして「気」を遣い、目的の事に集中しきれず、「気」を分散させて(バランスをとって)いるように感じます。 「ワガママ」気質の強い人(天真爛漫や無邪気なども含め)、またその気質が顔を出した時、周りに対して遣っている「気」を、目的の事により多く注ぐことが出来る分、通常を上回る成果を上げられるように感じます。「天才」や「サヴァン」と呼ばれる人達からも似た感覚が伝わってきます。「自閉」も自分に集中する1つの形のように感じられます。 ただこの気質の人は、その表向きの自由さが嫉妬を受けたりして、ちょっとしたきっかけでも他人の信頼を裏切ったり、「想い」の細かい負の変化に鈍感になって周りの不満を蓄積させ、通常以上に反発を受け、自分自身を潰してしまうリスクを感じます。最近有名人達が受けているバッシングの原因も、品格云々以上にそういった嫉妬的質を強く感じられますね。 また例え偉業を成したと言われる人であっても、「ワガママ」を通した結果には感動は薄れてしまいます。人並み以上の能力を身に着けた人には、その能力(自己主張)を遣う目的の場面以外の人前では、自・他を守るためにも普通の人以上に皆が持っている崇高なイメージの「精神的成長」を装ってでも持ち合わせることが特に日本では望まれているように感じます。 ただし、そこには極端な気質の使分けが必要と感じ、少なからず能力を抑えこんでしまうジレンマも感じます。(07.9.1著)・・・・・・・・・・ 最近各分野で才能のあるとされている有名人達が、強いバッシングを受けているようです。 例えば相撲において、とても強い横綱が「品格が足りない」といったバッシングの対象になっていますね。批評家達の話によれば、元々相撲の最高位は大関であったらしく、その言動は相撲界に限らず多くの人に影響を及ぼすことにより、強さに人間的品格を加えた更に上の位として横綱が設けられたような話を耳にしました。 「横綱は勝って当たり前!」で、そこに+α(他人を想いやる・自己自制的精神の強さ等)が求められているようですね。元々「神事」でもありますし、他人の目を強く気にする古い日本特有の美的感覚もあり、他のスポーツとは一線を引きたいのでしょうかね。ただ多くのスポーツも元は少なからず「神事」的な要素のモノから変化してきていると感じますがね。 また祭りなどの「神事」には、日常生活における抑圧を解き放つ役割のようなモノも感じますかね。「神事」には争いや暴力的で正気ではない内容のモノも少なくないですよね。「神」の名の元にガス抜き的「ワガママ」を体裁よく吐き出す場といいましょうか。究極には宗教戦争など、時には「神・崇高」などは、「ワガママ」の発散を正当化する役割も感じますね。 そして確かに「何が何でも勝つ」的勝利への執着も一流と呼ばれている選手から感じる大きな要素ですし、見る側も「強ければいいじゃない」的解り易い満足感への欲求も感じます。私も基本はそうですし、また私が強さに「品格」を求めるのは、「ワガママ」・「偉そう」・「金儲け」的なモノを感じたときの「嫉妬」が少なくないようにも感じます。(08.10.21著)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「頑張って!」という言葉も最近敬遠されているように感じますかね。 またあまり「我慢」を強いず、「楽」を求めたりする行為が見直されているように感じます。ただ時には心の深い所で「楽」を得るために、体裁整え的に心の浅い所で「苦」を背負ってしまったりしているようにも感じます。私も体裁を守るために具体的にはそこに触れられませんが・・・。そして周りにも少なからず「苦」のシワ寄せが出たりしているように感じますかね。 また表向き「苦」を選ぶ人は比較的いつも「苦」を選んだりその逆だったり、その選択には気質によって偏りも感じますかね。仲間内で一番頑張って(我慢して)いる感覚を得られないと不安を感じる人もいるように感じますね。そして「たまには逆の立場にもなってみたいよ」とかいいながらもそれぞれの立場でそれぞれの欲求(優越感等)を満たしていたり・・・。 いつも「我慢」する側の人がストレスを募らせて精神的に悪い状況を背負いがちに感じますが、むしろいつも「我慢」せずにいる側の人ほど「我慢」に免疫が無く、前者よりひどい状況に陥ったりするようにも感じますね。同様に普段から本当にネガティブな人は、なんだかんだ言って逆境に強いようにも感じますね。心に準備が出来ているといいますか・・・。 ただ、いつも「我慢」する側の人も、長いことそこに気付いてもらえないと、悪い形での主張が現れてきたりもしますかね。私は今でも「頑張って!」が一番力を貰える言葉ですかね。ただ使われるシチュエーションによって「もっと頑張って!」はカチンッ!、また「よく頑張ったね」にも「俺はまだまだこんなもんじゃない!」的にカチンッ!とね。(08.11.29著)・・・・・・・・・・ 皆さんは「寛容」ですか? いよいよ「トラックバック」まで拒否設定に・・・設定の仕方が分からなかったこともありますが、困った書き込みに対してその都度消去することもちょっぴり気持良くて・・・でもさすがに飽きました。コメントも拒否にしましたが、愚痴やストレス解消的ワガママな内容にも何も言わず見守って頂いた方々には感謝もありますね。私はつい諭したくもなりますから。 「寛容」というと私の中では広い意味で「自分と異なるモノを受け入れられる」ようなことですかね。また他人の失敗を許したり、時には諦め的に遣ったりもしますかね。ただ私に限っては、いずれも「寛容」になることによって相手より優位な立場になり、安心や優越を感じていますかね。言葉は体裁よいですが、気持良さを求める他の行為と変わりなく感じています。 「次元が違うんだよ♪」・・・他人に言われると腹が立つ言葉ですよね。ただ私も時にこの言葉を遣って容易に立場を優位にしたりしていますかね。「次元」とか言うモノの設定こそその人その時々で勝手・曖昧なモノのように感じ、確かに上下的な設定ばかりではありませんが、私に限っては、どんな時であれこの言葉には少なからず「上下」が含まれていますかね。 私は次元が低い?理屈によって深く緻密に構築され、それを「次元」のようなカテゴリーに分けるようにして考えられたモノよりも、時に前記した「寛容」の「気持良さを求める他の行為と変わりなく・・・」のように境(次元・カテゴリー)を取り除いて単純にしてしまったモノの方が、「次元」が高くなるように感じられてしまうことも少なくないように感じますかね。 そして理屈によって難しく構築しても、究極は逆転的発想に留まるわけで、それを繰り返して議論するうちに、いつの間にか立場が入れ替わってしまったり・・・。また口に出さない「想い」も、単純な「欲求(ワガママ)」的なモノと、その「欲求(ワガママ)」を体裁良く満たすためにある程度理屈で(複雑に)構築されたモノが感じられますかね。 個人的には素直に(浅く)感じようとすると逆に後者(複雑)な方に、深く感じようとすると逆に前者(単純)に繋がってしまう感覚もありますかね。本質は単純な欲求と感じますので、ある意味深く考えたことは心の浅い所に置かれるように感じます。理屈を盛って体裁よくしたことであれば、無意識にも人目に付き易い所に置きたくもなるでしょうからね。 そして初めから前者にふれてしまうと、大概は機嫌をそこねてしまいますかね。(09.7.22著)・・・・・・・・・・ 「自分を棚に上げてよく言うよ!」 私はとても短気で、ちょっとしたことでイラっとしてしまうのですが、それ以上に冷めるのも速いので感情を表に出す暇も無く、周りからは穏やかな人に見られているように感じます。イラっとした瞬間に「本当にお前(自分)は今まで一度も他人に同じようなことをしたことはないか?」とか「これからもすることはないか?」とか自問してしまうのですかね。 同時に何人もの自分が現れてそんな遣り取りをしたり、自分の怒っている姿が浮かんで情けなくなり、気持ちがなえてしまうんですよね。ただ本来、世間で常識や正義と確信を持っているモノであれば、例え今の時点で自分には出来ていなくても、それとは別に主張してしまっても構わないと感じますけどね。皆が共有する「良いこと(理想)」なんでしょうからね。 ただ皆が共有する「良いこと(理想)」であれば、あえて他人に言われるまでもないことでもあるんでしょうかね?解っていることを他人に言われることほど腹が立つこともないですからね。なかなか欲求には勝てませんかね?最近特にTVなどを見ると政治家や検察などのエリートと呼ばれる人達ほどこの「棚上げ」的才能(鈍感)が大切なようにも感じますね? 「私は運がいい♪」・・・何回も事故に遭ったにも拘らず奇跡的に無事であった事に対して知人が言います。「不幸中の幸い」的な意味合いもありましょうが、本来「運」が良ければ事故自体に遭わないように感じますし、多くは自分の過失らしく、周りには不運を与えていることでしょう?場合によっては不幸の中で「不幸」が棚に上げられてしまうようです。 無意識なミスの誤魔化し・自身の慰めも感じますが、不幸な目にあって初めて幸せを実感できたり・・・(10.11.27著)姉妹日記「無邪気」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.25
私は、基本的にはタバコは吸いません。 ただ、吸わないと決めている訳でもありません。その時の自分の立場によりますが、個人的にはタバコに悪いイメージを固定していないです。確かに、客観的に受けるあの臭いはたまらないものも感じる時もありますね。食事をしているときなんか、隣で吸われたら最悪ですね。なんか「ストレスの塊」的感覚ですか。ストレスの権化のようです。 ただ、嫌な人には「理屈無く」なんでしょうね。 私が「タバコを吸おうと想う時」とは、周りに吸う人が一人も居なくて、申し訳なさそうにして吸っている人を感じた時ですね。ただ、自分で吸ってみると結構気持ち良いものです。あの意識した深呼吸で少し落ち着いたり、周りとの鬱陶しい会話から離れられて集中出来たり、極めつけは周りの人に無言で自分の受けているストレスを表現できているようで。 ただ、好きな人には「理屈無く」なんでしょうね。 私からすれば、「気」の世界観も「科学」等の他の世界観も同等な世界観です。どちらからも「楽しい」や「辛い」といった正負の想いを漏れなく小さい頃から頂いてきましたので。自分のこの能力にも同じことが言えます。ただ、今は「科学」等の世界観が比較的「イバっている」ように感じていましたので、「気」の世界観に少し偏って表現してみました。 逆であったら、「科学」に偏っていたでしょう。(笑) 「あまのじゃく」をすると、想いもよらない(時には本意と正反対の)立場にたたされ、その立場で必死に考えて(感じて)いるうちにその立場の気持ちが理解できたり、想いもよらない「気持ち良い」を体験できたり、あげくの果てには元の立場を棚にあげてしまったり・・・悪くないです。(笑) 「想い」が集まって歪みの大きい「科学」や「気」などの世界観の単位ではなく、個々の単位での世界観でも関わって生きたいと願っています。個人で感じた「正しい」(悪い)は、確かに本人には「正しい」(悪い)ですが、他の人にとって(同じ人であっても)必ずしも「正しい」(悪い)に常にあてはまるとは限らないということを嫌という程かんじてきました。 私のような世界観も、世界観を統一して、ある意味「安心」を得ようとする働きからは、「不信」や「ワガママ」などを生み、協調性を欠く可能性のある危険な存在であることは自覚しています。それがもう一方の「不安」となり、いままで表現をためらう原因でした。そして、調子に乗ると最近特に顕著なとんでもない「しっぺ返し」があることも自覚しています。 人が強く主張する時、得てしてその対極にある主張に対しての嫉妬(憧れ)のような裏腹の「想い」が含まれることもありますかね。戒めていきますので、一連の私の自己主張のことは、なにとぞ大目に・・。(真剣)また、愛煙家の方達には、逆にご迷惑をお掛けする表現になってしまったかもしれません。すいませんでした。(07.11.23著)・・・・・・・・・・ 「ルールを守りましょうよ!」 街で歩きながらタバコを吸う人を、TVキャスターが追い回していました。その人は「うるせんだよ!」とタバコを路上に投げ捨てて行ってしまいました。確かに彼等からすればそんなルールを決める会議に立ち会ったわけでもなく、「勝手に決めるな!」くらいの文句もあるでしょう。元々「タバコを吸いたい」も「タバコは吸わないで」も同じく理屈無い欲求でしょう。 最近では病気とタバコの因果関係(理屈)も定着し、すっかりタバコは悪のイメージも強く、立場も弱いですが、ルール(他人や病気)のせい(強い立場)にしないで、せめて「タバコの煙が苦手なので・・・」とか「タバコの火が危ないので・・・」とか、その人それぞれの理屈(責任)として伝えられたら人の関りももう少し柔らかくなったように感じますがね。 煙草を吸う人にも穏やかを感じられることも少なくなく、また吸わない人にもきつさを感じることも少なくないですかね。想いますね、最初に煙草に健康に悪い原因をみつけた学者って、普段どっちの立場だった人なのだろうって。(08.8.2著)・・・・・・・・・・ 学生の頃、同じクラスに気に入らない子がいました。 ただその子がよそのクラスの子にいじめらているのを見ると、助けたくなるんです。仲間意識が芽生えるのでしょうかね。 よそのクラスがスポーツ大会でよその学校に負けそうになると、応援したくなるんです。仲間意識が芽生えるのでしょうかね。 こんな感じで宇宙人でも攻めてくれば、地球は1つになるのでしょうかね? ただ、いつまで経っても敵対する(競う)存在は必要になりそうですね。(笑)(08.7.15著)・・・・・・・・・・ 「目から鱗が落ちた!」 科学や歴史などの世界観にも相対する理論が同時に存在し、私たち一般人にはどちらもそれなりに受け入れられ、それなりの効果をあげているモノも少なくないように感じますね。また物事の発見などには、行き詰ったときにまったく違った方向(時には正反対)から見たり、考えたりすることで、想いもよらぬ結果を得られたりすることも少なくないと感じますね。 「逆転の発想」って言いますかね。この発想法にはある意味、手っ取り早く人に強くインパクトを与えられたり、信頼を得られたりする力を感じますよね。今までの発想に想い込みが強ければ強いほど、その効果は絶大だと感じますね。俗にいう「深い話」なども他人によって後に「逆転の発想」的に意味付けされたりして、似たような作用を感じることも少なくないですね。 ただこの「逆転の発想」も周知されたりして行き詰って(飽きられて)くると、またその「逆転の発想」・・・つまりは元の発想に戻ったりすることもありますよね。昔のモノが今の時代に見直されていることも少なくないように感じますね。そもそも対極にある2つのモノは、極身近で背中合わせだったりするように感じることも少なくないですね。 直ぐ右隣にいる最も近い人も、左隣で考えると最も遠い人になるように、極近い世界観や「憧れ」ていた人も、それが近いほど・強いほど何かの拍子に最も遠い存在や「嫉妬」に裏返ってしまったり・・・。「無限」(サイクル)を基本と感じる世の中では、正負も元々は同じモノ・発生源・力など感じたりしますね。そして「理屈」の力を感じさせられます。 不幸な時により強く幸せの有難さを実感できたり、死を目の前にして命の尊さを強く実感させられたり、正反対の立場になって始めて強く認識できることも少なくないように感じますね。(08.10.29著)・・・・・・・・・・ 「納豆は食べられへんねん!」関西の芸人さんが言っていました。 私は毎日でも食べたいくらい納豆が大好きなのですが、やはり他人が食べている時のその臭いはたまらなく嫌なモノを感じますね。時には我慢できなくなって、気が付かれないように食べ終わった他人の容器をさっさとかたづけてしまったりしますかね。ある意味、人の味覚や嗅覚等の感覚も含め、「好み」っていい加減(ワガママ)なモノですよね。(笑) そもそもその芸人さんの普段の言動からは、何でも自分が最初・中心で無かったりすることへ反発するような「あまのじゃく」的気質も少なからずうかがえたりもしますかね。子供の頃の周りからの価値観の擦り付けを大きな要因と感じますが、「美味しいのに~」的優位な立場(感覚の押し付け)に少し意固地になって反発していることも少なからず感じますかね。 私の父は外国映画好きの影響もあるのか「葡萄」を食べる時は房に直接かぶりつき、「この食べ方が一番美味いんだぞ!」といって、家族によく反発かっていましたかね。作業の進め方において、「こうした方が早いよ」なんてアドバイスされたものの、その方法を試すことなく「私はこっちの方がやりやすいの!」なんて言ってしまって、苦労したことはないですか? 確かに人それぞれの体格や癖などによって必ずしも1つのやり方がベストとも言い切れませんが、それ以上に素直になれない何かがありません? 「今やろうと想っていたのに!」とか、例え同じ答えを持っていても、先に言われてしまうことで手柄を横取りされた感覚になったり、相手に優位に立たれる感覚が悔しかったり・・・終いには「ほらね。言った通りでしょ♪」 な~んて言われたら・・・(憤)。ただそんな感覚から、より良いアイデアなども生まれたり・・・(09.4.14著)・・・・・・・・・・ ヤンキーが新体操? 昔から不良役は人気がありましたが、特に最近はどんな設定でもドラマの主役は不良ばかりで・・・昔からヤクザ映画も人気がありますよね。義理・人情、「仁侠道?」には私も共感できる所も多いですし、堕ちこぼれたことによって世間にあてつけるようにその世界に入るような分析も耳にしますが、正直人気があるのはもっと表向きな所にあるように感じますかね。 個人的には単に(理屈抜きで)そういった世界に格好の良さ・楽しさを感じて入る人も少なくないと感じますがね。私も良い悪いを別にすれば彼等の様は楽しそうに見えますし、時にバイクや車両のデザインの発想には感心させられることも少なくないですからね。また反体制的で周りに媚びていないようなところが時に男らしく見えたりもしますかね? 表向きの負けを嫌い、直ぐに喧嘩したり、規則を破ってでも自分のファッションを通したり、ひねくれは感じても欲求に素直で表現方法もストレートで解り易いので、ある意味『純粋』さえ感じさせてくれる事もありますかね。まあ彼等の世界の中ではある意味において外の世界よりも規律が厳しくて、そこに従順だったりするんでしょうがね。それもある意味『純粋』? 「人目を気にして・・・」と言う点では一緒ですが、私などは育った環境や教育の影響もあったのか、気が付けば我慢できることに格好良さをより感じるようになっていましたので、彼等のその行動をしている時の様に楽しさ・自由さには嫉妬を感じても、その素直な表現方法には素直に格好良さを感じられないのでその世界にも入り込めずにいますがね。(10.7.3著)姉妹日記「八方美人」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.22
自分の手で建てた家が、10年になります。 そろそろ修復も兼ねて改装を考えていました。母が例によって旅行で家を数日空けるので、そのタイミングで工事しようと決めました。ただ、どの様に改装しようか、かなり前から考え、結局決まらずにその日までズルズル日程が延びていました。周りからの、「そろそろ・・・」のようなプレッシャーも感じ、半ば強引に工事を決めました。 工事の前日、母は旅行へ出掛け、私はまだ納得いかない計画のまま、段取りを始めました。材料を持ち、階段をおりていましたが、最後の1段で・・・ゴキッ!足首を想いっきり挫いてしまいました。今までにない痛みに、急いで足首を冷やしましたが、私の中で、「これで工事をやらなくてすむ口実ができた」という安心を感じていました。 昔から、本当に「嫌」と感じた時は特に、必ず身の周りに何かが起こって避けられてしまうんです。小さい頃は今回のように直接自分自身に変化が現れ、大きくなると間接的な身の周りの変化が増えましたね。会いたくない人など、相手の車が動かなくなったり・・・急に相手側の都合が悪くなったりして、一見自分に責任が無いところで変化が起きます。 その時、自分の中に、自分や他人に対してプライドを保ちながら「嫌」を避けられた「安心感」があるのです。「土壇場」を感じるとそんな事がよく起こるのです。少し反れますが、「火事場の馬鹿力」など、追い詰められることで、固まってしまった自分のプライド(世界観)を傷つけることなく、いろいろな形で別の力を「解放」できることも多いように感じます。 話を戻しますが、そこからは「痛み」との戦いです。これまでも自分の「痛み」と向き合ったことはありましたが、「痛み」や「不安」から悪い方向への「想い」ばかり強まってしまい、結局母の力を借りることになります。ところが今回は、その最後の「頼みの綱」がいないのです。三日間苦しみ、その晩、「今晩痛みが退かなかったら、医者に行こう」と決めました。 正直私の中では「気功に関わる人間が情けない」という気持ちがありましたね。そこで患部に手を当ててみると、1~2分で「痛み」が消えてしまったのです。また「土壇場」でプライドが守られた感じでした。(良い子は真似しないでね。笑) 様々な能力を得るための厳しい「練習」や「苦行」、時には「大病」や「臨死体験」などは、意識的・無意識的に一種の「土壇場」の演出・名分となっているように感じます。そして、全ての意味で「無限」を本質と感じる中で、個々(プライド)がその存在を表現し、時にはそれを守るために個々の理屈で制限を付けて世界観を創り上げていると感じます。 切ったり縫ったり、単純に痛いのが怖いんですが、医者や薬の方が結果的に楽だったりするんですけどね。複数の世界観から認められて「治った確信」になる人も多いと感じます。時にプライド(自分自身)は厄介です。(07.12.14著)・・・・・・・・・・ 「夕食何にする?」 知人はいつも「何でも良いよ。」と答え、相手の機嫌を損ねてしまっているようです。「優柔不断」とか言いますかね。ただ実際は自分だけを考えるなら答えは直ぐに出ているんですよね。他人の評価を気にしたり、複数の想いが関ってくると「この人はこう考え・・・」「こんな人はこう考え・・・」とか瞬時に頭の中で色々シミュレートされているようです。 また自分に自信が無く、とても無責任なイメージも付いていますかね。ただこんな気質の人に限って根(拘りのモノ)はプライドが高かったり頑固だったり、必要以上に「責任」の重さを感じているような人も少なくないように感じます。故に全ての人を満足させられるように考えたり、失敗するのを恐れてなかなか答えが出せなかったりするように感じますね。まあ気心知れた相手になると、ただ単に面倒臭くって「何でも良い」とか言ってしまいますけどね。(笑)(08.11.14著)・・・・・・・・・・ 「プライド(体裁)なんて捨てなさい!」 自殺の名所で志願者を思い止まらせるボランティアの男性の言葉です。確かに私も「プライド(体裁)」に大きな原因を感じますし、時に「自殺」が「自己主張(プライド)」的質を含むケースも感じたりしますかね。ただ逆に「プライド(体裁)」が人を生かしているモノとも感じてしまいますね。それを守り切れなかった結果が自殺に繋がったりもしませんかね? 他人に好かれたり、他人より優れていると感じられて初めて安心を得られたり、生きがいを感じる人も少なくないと感じますからね。その男性もTVにおいて「元警察官」といった肩書き(体裁)の紹介を受けていましたね。情報の出所は本人でしょうし、そのことで少なからず説得力も増して、そういった活動(人生・生きがい)に生かされていると感じますがね。 その男性のモノ言いも割りとハキハキとして、自分の考えに自信を持つタイプのように感じましたが、そういった気質の人も含め、「ワガママ」気質の人が自分の欲求を多く通せるのも、そういった「プライド(体裁)」に縛られるような気質の人間が色々とバランスをとってくれていることもあると感じますがね?皆一斉に「ワガママ」を通すのは難しいですかね? だからといって「ワガママ」気質の人には、逆の役割も期待できないでしょう?そして「ワガママ」気質な人に限って表向きのプライドを傷つけられると手が付けられなくなったり・・・役割は偏らざるを得ないと感じますよ。ただ真にプライドの高い人は「ワガママ」気質に対しての我慢に優越も感じ、逆境にも強く、時には無意識に逆境をも好むと感じますがね。 今回はその男性の言葉面だけ捕まえて私の表現に都合よく意味を捉えました。そして他人に想いを伝える時には、曖昧にならないように色々な意味で偏った表現に成らざるを得ないとも感じますし、私もあの立場では同じような言葉で諭さざるを得ないと感じてもいます。嘘やお世辞の自覚はありませんが、このまとめ方にも体裁整えの質も含まれますかね。(09.8.4著)・・・・・・・・・・・ 「そんなの赤飯じゃないよ!」 同じ呼ばれ方であっても、各地域によって大分異なるモノも多いですよね。TVにおいてレポーターが小豆の入った赤飯を他県の人に見せ、「一般にはこれが赤飯と言われていますが・・・」といって勧め、食べた他県の人達はまずそうな反応をしていましたね。ある人は「知らないモノをむやみに口にするなって言われているから」といって食べもしませんでしたね。 自分の所の赤飯のイメージ(想い込み)を持ったまま食べたことにより、そのギャップに驚いてまずそうな顔になってしまったことも少なからずあると感じますが、ちょっと過剰な反応のように感じますかね。それ以上に「一般には・・・」にプライド的な反発も感じますかね。「常識だから」とか「皆が言うから」・・・ちょっとカチンと来ますね。 せめて自分の言葉(感覚)で勝負して欲しいものです。普段私は「郷土愛」的なモノを自分の中に感じていませんが、いざとなると出てくるものですね。と言うよりも個人的なプライドが置き換わっているだけのようにも感じますがね。皆さんも自分の子供や仕事(趣味)に自分(プライド)を置き換えていませんか?時には「ヒトのため」とかいって・・・(09.10.22著)・・・・・・・・・・ ♪ナンバ~ワンにならなくてもいい~ も~ともと特別なオンリ~ワ~ン♪・・・人によっては癒される言葉ですかね。ただ一番ではないにしろ、ある程度成功を果たした人にはあまり言われたく無い言葉でもありますかね?自分は上を目指しておいて、他人には・・・なんて。ただ特に人生において成功を収めていない私などが同じ言葉を口にすると、負け惜しみ的に扱われてしまったりするのでしょうね? 確かに同じ人は一人としていないという意味では全ての人が既に「オンリー・ワン」なのでしょうけれど、何かを表現して初めて「オンリー・ワン」も認められ(満足でき)ると感じますかね?となれば何かしら他人との差別化(競い)をせざるを得なくなると感じますかね。「オンリー・ワン」・・・他人が既に興味を持っている事に便乗はできないってこと・・・? 野球やテニスなどの既に他人によって創られたカテゴリー(世界観)内において「ナンバー・ワン」になれる才能は「オンリー・ワン」では無い?「オンリー・ワン」になるには新しいカテゴリー(世界観)自体を創造しなければならない?まして「野球やテニス・・・」ではなく「スポーツや芸術・・・」といったもっと大きなカテゴリーを求められると・・・ これだけ表現が多様化してしまった現在では、「オンリー・ワン」を目指すと身動き出来なくなってしまい、かえって「ナンバー・ワン」を狙う方が楽かな・・・?例え新しいカテゴリー(世界観)が見つかっても他人に認められなかったらつまらないし・・・でも認めら(共感さ)れてしまったら「オンリー・ワン」と言える・・・?飛躍し過ぎましたか?(10.5.8著)姉妹日記「信頼」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.22
胃潰瘍の原因は95%が「ピロリ菌」。ノーベル賞?医学者の言葉です。 安心しましたね。これで「ピロリ菌」さえ退治すれば胃潰瘍にならずに済みます。「ストレス」などの曖昧なモノじゃ、どう対処してよいか解りませんものね。不安ですよね。素直にこれで多くの人が救われると感じます。ただ、5%は「ストレス」とも、はっきり言い切られてしまいました。できれば、残りの5%にも具体的な原因を当てて欲しかったですかね。 人は「解らない」と不安になりますかね。 他人の性格があらかじめ解ったなら少なからず対人関係も「楽」(安心)になりますかね。血液型などの性格判断などは、人の表向きのいくつかのパターンに性格を当てはめて、事前にその性格を把握し、その対応に対して「安心」を得ようとした世界観のようにも感じます。人間関係に特に敏感な日本人には関心が高まるのも解るような気もします。 「運命」や、占いなどの「殺界」や「厄年」など、「想い通りにならない人生」(他意識の集まり)的力のような曖昧なモノに対して、そういった「言葉・文字」を当てるだけでも、「楽」(安心)や自分のプライドを守りながら定期的に「弱音」を吐く(休憩の)よい名分を築いてくれます。力の存在の真偽はどうであれ、その「言葉・文字」には大切な役割を感じます。 ID野球で有名な○○監督は、意外と「ゲン」を担いだりするようですね。奥さんの影響も多分にあると感じますが、理屈っぽい人ほど、理屈ではどうにもならない(不思議な)力を強く感じている人も多いように感じます。故に、そういった「ゲン担ぎ」などによってそんな力をも押え、「安心」を得ようとするように感じます。 そして前記の「5%」にも、医学者の立場からのそんな質(個人差等)も感じます。そして、世情が変わらなければ、「ストレス」(想い)のはけ口的な、新たな病気が発生する(必要となる)懸念も感じます。(07.12.12著)・・・・・・・・・・ 美容に関する世界観も多様化していますね。 時には全く正反対の世界観もあるように感じます。そして、それぞれの世界観でそれなりの効果も得ているように感じます。ダイエットなどにおいて、新しい方法を試しているうちはなんとなくそれなりの成果が上がるのに、テレビなど外からの情報を耳にしているうちに効果が下がり、新しい方法に乗り換えるようなことをしていませんか? ほとんど何も「知らず」に信頼を置いていたモノの理屈を知ったために自分に矛盾をつくり、不信を生み、効果を失っているように感じます。そして新たな「知らず」を求め・・・を繰り返したりしていることも多いように感じます。他人が創った「方法」(世界観)には、逆に適度な「無知」があった方が、色々な意味で効果が上がったりもするように感じます。 「専門家が言うのなら間違いないだろう」位で信頼しきってしまうのも、その是非はともかく結果を得る方法の1つと感じています。 人は「解った」でも不安になりますかね。 「気」の治癒にも自分の病気に対してとても深い医学的知識を持っている人は、治癒に比較的時間を費やす場合が多く感じます。特に難病とされるモノに関しては、知識のルール通りに病気を進行させ、「不安」を抱えるようなことも感じます。「解った」ことにより「不安」を増長させて、治ろうとする気持を押し下げてしまうリスクを感じることもあります。 なかなか一度固まった(理解した)世界観を覆すことはとても難しいことでもあるように感じます。ただ、「不思議」」(≒無知)というモノは、時にそれを易く覆してしまう力を秘めているように感じます。「不思議」を易く受け入れられる柔軟さといったほうが良いでしょうか?また、追い詰められると「不思議」を受け入れやすくなったりもしますかね。 私も何度かそう言った場面に出くわしたことがありますが、お医者さんは、医学のルールから外れてまで嘘をつく必要は無いと感じますが、「もう治らない」宣告はちょっと疑問を感じます。ただ、時に医学的治療をやりつくしてから気功にみえる人に顕著な変化が見られることも感じています。「苦しい時の神頼み」や「見返してやる」的プライドなモノも感じます。 そもそも「不信」とは、そこに「力」が無いことではなく、「信頼」の逆方向的な強い「力」のように感じています。いわば「負信頼」とでもいいましょうか?「不思議」には、その「不信」を生む「矛盾」を抑え込む力を感じています。そして「不思議」(解らない)には、無限の可能性が感じられます。また「気」も決して特別なことではないと感じています。 ただ、「気」に限らず、始めはそれを「特別」な位置にあえて置くことで意味や力を生むように感じています。そして自分の感覚から、「不思議」を求めるときの精神の状態には、必ずしも良いモノを感じられているとは言えないのが正直な所です。ただ、今の世情から、「不思議」ということにも大切な役割と力を感じています。 これからも「不思議」という感覚は大切にしていきたいと思います。(07.12.13著)・・・・・・・・・・ 「紫外線対策は万全♪」 アラフォー女性が、二の腕まである手袋をして、顔の隠れるバイザー付きの大きな帽子を被り、日焼け止めで真っ白にして出掛けて行きました。将来的にシミだらけにならないように・・・綺麗なおばあちゃんにもなりそうですが・・・そのために今の若さの綺麗さを隠してしまうのは・・・ちょっと不思議ですし矛盾も感じますかね。 ある程度歳を重ねると、女性は単純に若い時の自分の方が綺麗と感じていると思っていましたので・・・その時々で今の歳よりも若く見られたいってことですかね?それにしても普段外出するときにも隠してしまったらそれすら叶わないことのようにも感じますけどね。ここぞという時に見せる・・・?主に自分自身に向けてのモノなんでしょうけどね。 「男性も肌ケアした方が良い」・・・街角での女性に対してのインタビューで多かった意見です。 中年の男性に対してのインタビューでも臭いや肌ツヤ・コンディションを気に掛けている人が多かったようですね。ただ臭いの件は別として、女性達よりも男性達の方が肌ツヤやコンディションも良いように見えましたね。私の周りでも、ほとんど化粧に関心無い女性の方が、関心ある女性より肌は若々しいように見えますかね。日焼けやシミ・そばかすは別ですがね。 手がカサカサになるとクリーム(油)をつけるのに、歳をとると食べ物は油モノを控え・・・顔の油や毛穴の汚れはマメに取り除くのに、その上から化粧品を塗り込んで毛穴を塞いでしまい・・・いつまでも若く「見られたい」と言って紫外線対策で体全体を覆ってしまい・・・ちょっと私の感覚ではやっている事に矛盾を感じてしまいますね。 また「肌は排泄器官。栄養は要らないと想います。」などと最近コマーシャルで耳にします。ある意味今までの肌ケアとは正反対の理論だと感じますが、理屈的には私の心にしっくり来ますかね。ただどちらもそれなりに効果はあると感じますね。その理論(理屈)に対しての、そのひとの心(信頼)次第だと感じますね。 また人によっては大切な身内のお葬式の時にも、先日の24時間マラソンのように大変な時でも化粧は欠かせないようですね。女性の身だしなみということらしいですけど、服を着ることの延長のようなものなんですかね?ちょっと不思議。そんな風に感じる私にとって、前記の「若々しい」も私の化粧に対する嫌悪的な想いが見せるものかもしれませんね。(08.9.2著)・・・・・・・・・・ 「1・2・3・ハイ消えたっ!」 よくマジックなどでモノを消すときに布などで1度視界から遮りますよね。勿論そこで技術を屈してスリ替えたりするのでしょうね。でなければ皆の目の前でモノを消してしまえば良いことですし、「マジック」と断りを入れる必要も無い訳ですからね。ただ私が超能力でモノを消せたとしてもやはり布などで1度視界から遮る手法をとりますかね。 ある程度成人した人の目に見える病気(皮膚病等)の治癒は比較的難しいと感じています。痛みやかゆみは一瞬に消えても、傷や腫れは目に見える分、一瞬に治って行く過程を意識上でイメージするのが難しいのでしょうかね。そんな時は特に施術中に世間話をしたり、居眠りさせてしまったり、一度意識を患部からハズしてあげると症状が大きく変化したりします。 例えば成長ホルモンは寝ている時に活発に分泌されると言われたりしますが、広い意味で顕著な変化は、そういった意識が外れたときに起こることが少なくないように感じますかね?また小さい頃から植付けられた世界観(主に科学)のルール(固定概念・理屈)が、意識上の顕著な変化を強く邪魔したりもしますかね。 少しそれましたが、そんなことからも、例え超能力でモノを消す時であっても、布などで1度視界から遮る(意識を外す)手法をとった方が、モノが消えていく過程をイメージする難しさが無くなりますかね。自他共に沢山の人にその効果が現れる(成功の確率が上がる)と感じますかね。不思議(理屈無く)を演出してあげることですかね。 また、いかにモノをすり替えるか、いかに相手に意図するモノを選ばせるか、機材や「サクラ」などマジックの技術やアイディアは素晴らしいですよね。そしてまた熟練されてくるとトランプの厚さで枚数の解る人もいると聞きました。ある意味超能力よりも凄い世界だと感じますし、欺くためにその時々で相手の想いを無意識にも感じ取っているようにも感じますかね。 そういった点においては超能力と変わらないように感じますかね。 自称「マジシャン」の使用済みテレカの穴を「超能力」で塞ぐという出し物で、私はある時点で一瞬に塞がったよう(マジック的)に見えたのに、ある人はテープを逆戻しにするよう(超能力的)に徐々に塞がっていったと言いました。その人の事前の心の設定(想い込み)によって、同時に同じモノを見ても違って見えてしまうのでしょうかね。不思議?(09.11.9著)姉妹日記: 「崇高」・「気」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.18
気功師の中にも、超能力的なことが出来る人がいたりと、自分の理想とする世界観を構築する上で必要と強く感じた他世界観を取り入れられる柔軟な人も多いと感じます。 私や母も、テレビを見ては「スプーン曲げ」に挑戦してみるのですが、「やっぱりダメだぁ~アハハ~」で終わります。「やっぱり」や「アハハ」では「必要と強く感じた」という事にはならないようです。腕力で曲げた方が速いですし、今は無くても不便も感じませんしね。確かにそこには「出来なくて悔しい」が少なからず存在しますが、それ以上に「二番煎じは悔しい」なんですね。 母も、私に「後継ぎ」を期待していることは、薄々・少なからず感じていますが、ここでもその「二番煎じ」が引っかかって、なかなか受け入れられないのが正直な所です。そんな事に拘っているようでは、その資格にも疑問がありますしね。本来自分の感覚が、「気功」という世界観に便乗している感覚にも強く「悔しい」なんですね。 個々の中には、「自己主張する強い気質」と「他人の主張を理解しようとする弱い気質」が、対極に存在するように感じ、人によってその偏りの度合いが異なっているように感じています。よって、私は、最近「気」の「質」よりも、その「強弱」に関心を戻しています。強弱も質と感じますが・・・いや、やはり私の中では強弱の偏りこそ「気質」ですかね? 別の「気質」の表現として「やわらかい―かたい」・「あたたかい―つめたい」・「きつい―やさしい」などでも表現されますが、結局のところ、いずれも対極の関係にある表現で言い表されている事には変わりませんし、私の感覚からすると「強弱」や「高低」とも、気を習い(意識し)始めたシチュエーション等による単なる表現の個人差の範疇のように感じます。 個人的には、気の感覚的「質」も、その世界観を創った先駆者達による一種の「刷り込み」によって創られるモノと感じます。 あえて「強弱」と別に言うなら「気」の質とは、個人的には「想い」のようなモノで、人それぞれその時々で、同じモノは1つと無いと感じています。そしてその「想い」の強さによって・・・結局「強弱」に戻ってきてしまいましたね。 そこに「関心」(気)が生まれた時、「個性」(姿形の違いも含め)として見分けられていると感じます。関心が薄いモノは同じ様に見えていませんか? 私の今の基本は「他人の主張を理解しようとする弱い気質」に偏り、固まっているようで、「スプーン曲げ」のような「自己主張」型には、少なからず私の中に「嫌悪」・自分の個性との「差別化」的抵抗も感じます。 ただ、そこには自分に無いモノに対する「憧れ」や「嫉妬」の裏腹を感じます。またそれがプライドに触れ、より強く拒んでいるように感じます。そして、弱い気質の裏には、自己主張に対する強い欲求を感じられます。 また、私にとっては、より「柔軟性」が必要と感じます。こうやって、自分自身を見つめ、「文字」や「言葉」に表し、周りに知らしめる作業が、色々自分のプライドに働きかける作用があることも感じています。「スプーン曲げ」は、私自身の「精神的成長」のバロメーターとして、これからも事あるごとに挑戦していきたいと考えています。(笑)(07.9.30著)・・・・・・・・・・ 「我が巨人軍は永久に不滅です!」有名な台詞ですね。ただ、「永久」と「不滅」って・・・意味が重複していませんか? 私は小さい頃からこの手の事がダメなんです。以前にも話したことがありますが、私は人の話を理解しようと話している内容に気を向けるほど理解が出来なくなるんです。むしろ言葉の調子に気を寄せるようにするのですが、前記のような場面に出くわすと、まだ意味も理解する前に、何かどうしようもない「気持悪さ」が何より先に伝わるんです。 今では「意味が伝わればいいか。皆に尊敬される人の言葉だし・・・」と言った具合に「気持悪さ」を抑えられるのですが、小さいときは難しかったですね。他の人の話では、床の模様(線)にテーブルがそろってなかったり、壁に掛かっている額絵がわずかに曲がっていると「気持悪い」とかいう事も耳にしますね。彼らも何だか解らないけど「気持悪い」そうです。 「神経質」(几帳面)とか言う括りの性格ですかね。(私のヤツは「揚げ足取り」ですか?笑)ただ私などは、興味事や必要性を感じない事に対しては他の人以上に面倒くさがりだったり、大雑把と呼ばれる人にも「なんでそんな所に拘るの?」と感じたりします。誰にも興味事には拘り、興味薄いものにはズボラさを少なからず感じますね。皆さんはどうですかね? 以前に、催眠術の番組で被験者が、「どんな感覚なんです?」と司会者に聞かれて、「恥ずかしい事と解っているんだけど、指示された事をやらないと気持悪くてしょうがないんです。」って答えていた事を思い出します。ある意味のルールを刷り込まれた感覚なんでしょうかね。ルールに縛られたり、逆に奔放だったり、人の言うことに素直な気質時に多いように感じます。 少しそれますが、私は常に自分の周りを把握していたいと感じています。元々お酒は強い方ではありませんで、そこそこ呑むと「気持悪い」になります。ただ、「今回は周りに任せて羽目を外しちゃおう!」と割り切ると、酔い(飲酒量)が違ってくるんですよね。そこでもルールに縛られ、自分を抑える性格の影響も感じます。 「性格」って生まれ持ったモノ(遺伝等)っていわれますが、私は違和感を感じますね。赤ちゃんの「人見知り」も耳にしますが、生まれたばかりでもそんな反応があるんですかあ?もっとも「胎教」とかいうモノの研究もあるようで、生まれ出る前から外からの影響を受け始めているのかも知れませんね。 時に「性格」は、それぞれの「想い」の遂げ方・表現方法の違いのようなモノでもあるように感じます。(08.6.6著)・・・・・・・・・・ 自称「潔癖」と「雑」に別れて、芸能人達が討論していました。 今回「潔癖」な側の拘りは主に『汚い』のようでしたが、他にも細かくキチッと物事をこなしているようです。「雑」な側からすると「それじゃ楽しくないし疲れちゃうでしょ?」と言われていました。それに対しては「キチッと生きることはとても気持ちよい」と答えていましたね。少なくともキチッとしないと理屈無く「気持ち悪さ」は感じているようですから。 確かにある意味あれだけ物事に拘って生きられることには時に羨ましさも感じたりしますかね。ただその受け答え等の他人との関りに関しては、むしろ「雑」さを感じられることも少なくなかったですかね。(笑)結局の所、いずれの性格でも興味事には「潔癖」(拘る)であるようですし、同じように「気持ちよさ」(満足)は得られているように感じますがね。 「拘り事」が日常的に目に付く事柄であるか否かもありましょうし、極端な性格の討論で、あまり噛合っていないようでしたが、相手を否定することでお互い自分の生き方(世界観)を正当化する(守る)ような役割もあるのでしょうかね?そして以前血液型でも同じような討論をしていましたが、今回はいずれの性格にも複種の血液型の人間が含まれていたようですね。 私も何か表立ったモノによる気質の分類方法を探ってはいるのですが、全ての人をきっちり当てはめられるモノは無いでしょうね。偏りは感じますが、特に関わる相手によって全ての人に全ての気質の変化は感じますからね。ただ、同じモノに人の関心が集まった時においては、比較的気質がそろうようなことも少なからず感じたりしますかね。(09.9.29著)・・・・・・・・・・ 「俺はお酒に強い♪」 そう言う知人は今日も沢山お酒を呑んで上機嫌です。確かにいくら呑んでも気持ち悪くならないようですが、大きな声を出したり、見知らぬ人にまでちょっかいを出してしまって、トラブルになることも少なくないですかね?私の周りの「酒豪」には、特にお酒が入るとハメを外せるタイプの人が多かったりしますかね?そして比較的女性も多いですかね? また一見真面目で物静かなタイプの人にも「酒豪」が居たりしますが、このタイプの人も結局は自分の意見を強く持っていて、それ(表向きな頑固)を日頃から迷わず表すことができる人が多く、「自己主張」気質という点においては、前記したタイプの人の部類に入るように感じますかね。広い意味で欲求に「素直」という所にも括られる人ですかね? 逆に私の周りにいる「下戸」と呼ばれる人を見てみると、割と他人の目を気にするタイプの人が多く、「常に周りの状況を把握していたい」的なモノを感じたり、酔って醜態(?)をさらすことを恐れるような強い「自己抑制」気質を感じますかね?一見普段から調子の良い人も居ますが、裏には常に周りを伺っている「したたかさ」を感じたりしますかね。 また、他人に先に酔っぱらわれ(ハメを外され)てしまうと、周りや後のケアを考えてしまって不安になって酔えなかったり、騒ぎの中心に入り込み損なって後から追いかけるように酔うのも二番煎じ的な感覚があって悔しくて酔えなかったり・・・とにかくアルコールによって普段から理想とする自分の姿を崩さないように無意識に抵抗しているようにも見えますかね? せっかく欲求の吐き出しの場を与えられたにも拘らず、葛藤しているようにも見えますかね?もしアルコールにそういった自制を外すような力があるとすれば、そしてまた「下戸」と呼ばれる人がそれでも自制を保とうとするような気質の人であるならば、「下戸」と呼ばれる人の方がむしろ「お酒に強い」ということにもなりませんかね? そして前記したストレスなどの精神的なモノの他に、広い意味で「自分の中に溜めているモノを吐き出す」的なことに「酔い」との関係を感じたりしますかね。個人的には汗(熱)や尿など物質的なモノの代謝が活発な人ほどお酒の量がいけるようにも感じますかね。ただそういった医学(科学)的要因に繋がりそうなモノ(体質)の基には気質的なモノを感じますかね。 小さい頃からルールを刷り込まれるように、起こる現象にいちいち科学的要因に繋がる根拠を残し、無意識にそちらに刷り合わせるように・・・時にはそこに「逃げ道」(責任転嫁)の余地を残したり・・・。そして汗や尿などは、周りを気にする気質の人にとっては時に最も天敵となるイメージのモノだったりして、結局そこでまた我慢が発生したり・・・ そしてまた「自己主張」気質・「自己抑制」気質として大別してみましたが、結局のところいずれもその時々で最良と感じるモノを選択しているわけでしょう?見た目の解りやすさや時に体裁に違いは感じても欲求を満たすという点では変わりなく、いずれも「自己主張」になるようにも感じますがね。(10.12.5著)姉妹日記: 「体質」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.11
先日「P-ちゃん」(写真)が逝きまして・・・。 まだ5歳位でしたかね。もっとも、私が深く関り始めたのは1年位ですが。元々野良猫ですが、小さい頃から人間の中だけで育ったせいか、あまり猫らしく無かったですね。餌や水を摂りに行く途中でも、「カワイイ!」という声が掛かると、くるっと行き先をかえて頭を撫でて貰いに行ってましたね。それ以外はよく人を選んでいたように感じます。 私の見る限り、大人しく、理性的で、穏やかな人が好きなようでした。他の猫や動物、そして子供や気の強そうな大人も苦手なようでした。ただ逃げ損ねると、そういった人間に対してもオベッカつかっていたようです。後で裏に来て、大きな溜息を吐いていましたね。そして寝る時は必ず人間のように仰向けになって、好きな人に並んで体の一部を着けていましたね。 よく複数の人間で話が盛り上がっていると、必ずみんなの中央に来てお腹を出してゴロゴロして見せました。抱き上げて膝の上に乗せ、また話を続けると、自分の話題ではない時など特に、私の唇を引っ掻くのですよね。そしてまた他の人間と仲良くしていると、近くの座布団などを、気が違ったように蹴飛ばして、何処かに行ってしまうんです。 外に出掛けるときは、ドアノブに吊るしてある鈴を背伸びして叩くのですが、忙しくてドアを開けてあげられないと、物凄い勢いで鈴を叩きます。それでも無視していると一度呼びに来て、また鈴を叩いて見せます。時に面倒くさがって叩かないのですが、「P-ちゃん、ちょいちょいは?」と言うとしょうがなさそうに叩いて、開けると「ニャア!」と出て行きます。 まだまだ想い出はありますが、世界で一番可愛い猫でしたね。ペットを飼っている人の定番の言葉ですね。(笑)私が感じるに、ペットって容姿もそうですが、飼い主の性格的なモノや、その時の「想い」のようなモノまで映し出してくれるように感じます。そして時に飼い主に留まらず、そこに関る人間のそれぞれの「想い」も映し出してくれるように感じますね。 占いや儀式に遣われる鉱物や道具、また音楽を聞かせると植物の発育が変わったり、掛ける言葉によって水の結晶の形が変わるなど聞きます。色々と体裁良くないこともあり、必ずしも動物と一緒には扱いませんが、時に人間以外のモノは、人の「想い」を映し出してくれるように感じますね。 また相手に伝え辛い想いなど、例えば「・・・なんだよね~P-ちゃん!」を後に着けるだけで角が立たない意思表示になったりしませんかね。自分の想いを伝える「代弁者」や人間関係の「緩衝」的役割を担ってくれたりします。そして時に、人間の色々な想いやプライドまで背負ってくれるように感じますね。 今回の突然の死に関しても、正直私は、私の人には言えないモノを背負ってもらった感覚がありますかね。そして「動物が好きな人に悪い人は居ない」とか言いますかね。基本的に私もそう(純粋を求める的)感じますが、私も含め、動物や植物などが好きな人やそこに関る仕事に就く人には、時に対人に関することで負のモノも感じたりしますかね。(08.8.10著)・・・・・・・・・・ 炎天下に、裏返しでもがいていた大きな亀がそのまま放置されました。 昔、あるドキュメンタリー番組で見た光景です。ナレーションによると、「そこで人間が手を貸して亀を助けてしまうと、自然の摂理に反してしまう」そうです。確かに理屈では、人間の手が入らないものを「自然」(物質的)と定義付けているのでしょうが、そこに人間が居合わせたと言うことは「自然」(変化・流れ的?)ではないのでしょうかね。 「自然」を敬う意味も感じられますが、人間を他の生物(自然)と分けて扱っていることに、逆にオゴリも感じますかね。最近では日本でも打ち揚げられた鯨など、人の手によって助けられたりして、だいぶその価値観も変わってきているように感じますね。ただ一方では捕獲して食べたり、鯨を守ろうとする団体に憤りを感じたりしていますがね。不思議です。 また、崖っぷちに取り残された野良犬に飼い主の申し出が複数あったようですが、町でふらふらしている同じ野良犬たちは駆除の対象にされていますね。そして処理施設に何匹もの動物がいるにも関らず、ペットショップにはお金を払ってでも飼い主になりたい人が何人もいますね。お金が「情」をつり上げることもありましょうし、またメディアの力も不思議です。 繋いで飼うことに抵抗があったり、やはり死別の度に辛い想いをするので、我が家では迷い込んできた猫しか飼いませんが、そうやって私もそこ(命の違い)から目を背けている人間の一人ですね。そして正直私も人間とそれ以外の存在に対しては、何か異なる(気・意識的)質を感じています。(08.8.20著)・・・・・・・・・・ あなたは「猫派」?「犬派」? 私は「猫派」ですかね。あの気まぐれでなかなか言う事を聞かない所がシャクに触りながらも堪らないんですよね。そして時々ふと見せる甘えも堪らなくいいですね。そしてまた何よりも繋いで飼うことに大きな違和感がありますかね。私も自由的な感覚を何よりも大切にしているので、そんな所を映し出してくれているかのようです。無責任さも自覚していますが。 無邪気でよくリーダーシップを発揮する知人は犬を飼っています。そしてその犬がまた良く飼い主の言う事を聞くんですよね。確かにその犬からはそんな扱いに対して嫌なモノを感じませんが、私にはちょっと・・・。そして良く言うことを聞くことに対して「頭が良い」とか言うんですよね。なんでもヒトの言う事を聞くことって「頭が良い」ですか? 確かに人の要求を理解出来る頭の良さも感じますが、時には理解していてあえて「拒否」出来る事が頭の良さにも繋がったりしませんかね。ただこれっていずれも動物には当てはまらないように感じていますね。あくまでも動物を擬人的に用いたときに言えることだと感じます。動物にはそんなモノを越えた、色々な意味で人とは別の気質を感じますかね。 その人の想いを反映したり、欲求をそのまま純粋に満たしてくれたり、厄介な言葉を遣わず無言で代弁してくれたり・・・。「私、あの人苦手なのよね~」とか気軽に人前で言葉に出せたりする人が居ますね。得てしてそんな人と「あの人」には極めて似た気質が多く感じられたりして、時には人間にもその人を映し出す力を強く感じたりしますね。(08.11.10著)・・・・・・・・・・ シラサギが浅い川で餌を探していました。 水中の藻に長い足を突っ込んで、ガサガサとやっていました。餌の小動物を追い出そうと言うのでしょうね。でもなかなか見つからなくて、ずっとガサガサやっていました。そんな光景を見て、初めは無意識に自分の似た体験の心理に置き換えてみたりして、ほのぼのとなったりして笑いもしていましたが・・・あれ?動物って、『野生の勘』とか持ってるんじゃ・・・ 超音波とか超嗅覚・超聴覚・超視覚とかあるんじゃ・・・擬態とか生きるために必要な特殊な進化とか出来る知能も持ってるんじゃ・・・とか想ってしまい、餌を捕るのに手間取っている野生の動物を見て少しガッカリもしてしまいましたかね? 「人間と違って嘘を付かないから・・・」 動物好きな人から時にそんな言葉を聞きますが、人付き合いを苦手にしている人も少なくないですかね。ただ前記の「擬態とか・・・」も含め、獲物を捕らえる手段を見ても「騙し」(嘘)的質のモノを感じますが・・・本能(生きる)に基いた行動で「嘘(悪)」の自覚も無いだろうから人のそれとは違う・・・人のそれも本能に基いていると感じますが・・・ 動物は本能的能力が強く、人間より気質的にも勝り、嘘が無く純粋のイメージも強いですが、そんな光景を見せられると、色々な意味で人間とたいして変わらないと感じますね。ただ私も細かく感じれば「嘘」なども含め、人のそれらとはちょっと異なる質も感じますかね。擬人的に感じさせてくれる気質と言いましょうか・・・つまりは「嘘」か? 「動物園のライオンは目が死んでいる」 何度もアフリカに旅行して野生の動物達を見ている人の言葉です。「運がよければ、ライオンが餌を狩る場面を見られるわよ♪」とも言っていました。自然の摂理とはいえ、正直私は「弱肉強食」的なモノには強い嫌悪感があり、そんな場面は見たくもないですし、野生の動物の目も「生き生きしている」というよりも「飢えている」ように見えてしまいますかね。 むしろ動物園の動物達の目の方が時に「穏やか」にすら感じてしまいますかね。もっとも私も動物好きですが、私の場合動物そのものよりも様々な形をしたモノに惹かれることもあったり、彼等の自慢そうにアフリカ旅行の話をすることへの嫉妬が動物達の目をそのように見せるのかもしれませんがね。別に旅行自体には興味も持っていないのですがね。(笑) その時のその人の心のあり方によって見え方をも変えてしまう・・・と言うよりもその人の想いを反映する力(気)を動物(人間以外の存在)からは特に強く感じたりしますかね。(09.12.8著) ・・・・・・・・・・ 伝染病で多くの家畜が処分されているようですね。 「家畜も家族同然で、それが殺されてしまうのはとても辛いこと・・・」飼い主が言っていました。私はどうせ大きくなったら食肉の為に元気なうちに殺してしまうので、割り切って育てているものと思っていましたので申し訳なく感じました。だとすると毎回出荷の時はそうとうの辛さを感じているのですね?直接殺さなくても私には絶対に出来ない仕事ですかね。 そして感染が広がってしまったことには政府の対応の遅さに原因もあると感じますが、やはり発生させてしまった原因は、結局の所酪農の現場の管理にあるのでしょうからね。そういった所の責任を考えて管理をすればお金も手間も掛かるでしょうし、私には手におえる仕事ではないと感じますので、酪農に拘る人達には感謝と共に尊敬すら感じますかね。 沢山の野良猫に餌付けをしていた人が訴えられていましたね。フン害など衛生面で近所の人達は迷惑を感じているようですね。捨てた当人でも無い訳ですしね。でも目の前にある命はどう割り切ります?猫好きで無く、直接殺される所を見なければ割り切れてしまいますかね?人が死んでも身近で無かったり自分に置き換えなければ気持ちはスルーしてしまえますかね。 中には「家族同然」に動物を飼っている人も居ますので、万が一の時は他人の子供よりも自分のペットの命を優先してしまってもしょうがないですよね?ただそんな人でもいざとなったら他人の子供の命を優先できてしまう・・・?(願)私も動物好きですが個人的には体裁を気にしてしまいそうですし、動物の存在(命)に対してはヒトとは異なるモノも感じて・・・ また私は食べること自体にあまり執着もないので食肉を止めてもいいのですが(ズルい言い方?)、もう直ぐ食肉だけの培養も出来るようですし、そしたら家畜の食肉は止めますよね・・・?遺伝子操作やなにやらで、やっぱり本物の動物の肉の方が安心ですかね・・・動物に感謝(10.7.25著)姉妹日記: 「仕事」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.07
公務員の待遇(労働時間・福利厚生等)に不満の声があがっていますね。 私も民間の建築関係(設計・工場・現場)の会社で働いてきて、1分1秒の生産効率や釘打ち1本の節約のために色々アイデアを考えたりしてきましたので、「パソコン打ち込み/1日数千タッチ」とかいうことを耳にすると腹が立ちますね。ただし、私の働いてきた民間企業では、そういった努力に後になって見返りがあることも少なかったですね。 私は、直接モノを創ること意外に、仕事において作業時間や材料の効率を考える「段取り」ようなモノが好きで、ある意味「仕事」というモノに生きがい(プライド)を置けるタイプでしたね。こういった人間は社会的には体裁がとても良いようで、周りからも「出来る人間」とかいって一目置かれたりして時には「いい気持ち」していました。 一方、家族や趣味に生きがい(プライド)を置ける、極端に言えば「仕事」はその生きがいのための資金稼ぎの手段と考えるタイプの人も少なくないようですね。昔はそういったタイプの人に「嫌悪」を感じていましたが、結局の所、私のやってきたことも「やりがいをもてること・好きなこと」が直接「仕事」(金儲け)にたまたま繋がっているだけだとも感じています。 そしてまた、自分が勝手に生きがいを置いていたことに、「企業のため」とかいう理屈をつけて一生懸命にやってきたことが、後に「見返り」(認められる)となって帰ってこないことに腹を立て、争い、結局やめることになることもありましたね。最近は想いますね。公務員の待遇を民間に合わせるのではなく、民間の待遇を公務員に合わせて欲しいと・・・。(笑) 中堅の女性アナウンサーが若いアナウンサーのキャッキャと楽しむ仕事振りに、「あなた達が羨ましい」といっていました。どうもその中堅の女性アナウンサーは、「厳しさ」的なモノに自分の仕事に対してプライド(満足)を置けるタイプのようです。最近の若いアナウンサーのように、直接的な「楽しさ」が表に出た仕事ぶりには「嫌悪感」があるように見えます。 そして「あなた達が羨ましい」にも本音(自分の若い時の扱いに対する嫉妬など)を少なからず感じますね。私などはどちらかと言えば中堅の女性アナウンサーに強く共感を持てますが、他の見ている側の人達には、本気で(裏の無い)楽しく仕事している若いアナウンサーの姿に共感を覚える人も少なくないように感じますね。(08.6.15著)・・・・・・・・・ 「楽して稼ぐ」 私のイメージに株のデイトレードなど思い浮かびます。モノを作り出すわけでもなく、熱い・寒い中体をつかって稼ぐわけでもありませんね。ただ、全て自分の判断(責任)において損得を目の当たりにしたり、他人との駆け引きでイライラしたり、体裁悪かったり・・・毎日このプレッシャーに誰もが耐えられるものなのでしょうかね? 企業の利益のほとんどが株主に優先的に配当されるようなことを聞きました。生活に余裕なお金があり、株をやれれば企業に対して待遇等の不満も少なくなりますかね。そして株のやり方さえ解って自分も参加できれば、株のトレーダーへの違和感も無くなりますかね。私の感じている「楽して・・・」は、結局自分が出来ないことに対しての「嫉妬」でしたかね。 駆け出しの芸人はギャラが数百円で、とても「大変な職業」と自分達で言っていました。周りの人達からも「大変ね」と労いの言葉を貰っていましたね。彼らは好きなことを仕事に選んでいるわけではないのですかね?多くの一般の人は、他の仕事で苦労してお金を稼ぎ、そのお金を払って好きなことをしているように感じますけどね。少しでも貰えるなら・・・ またプロ野球選手が「スポーツ選手は選手生命が短いから年俸1億円は安い」って言っていました。確かに頑張っても40歳前後で・・・あれ?40歳以降は働かないつもりですかね?庶民的に考えれば一番働き盛りの年代に感じますし、一般的なサラリーマンが稼ぐのは生涯で2億数千万程と聞きますがね。40歳にして安泰ですね。また「嫉妬」入りますね。 ただ、いずれの仕事も結果的にそれを選択し、それを続けられているということは、なんだかんだしょうにあっているということなんでしょうかね。本当に自分に出来ないと感じたものは無意識にも避けていると感じますし、どんなことにも損得が必ず伴っていると感じます。良い意味でも悪い意味でも「隣の芝は青くみえる」ということで・・・。 好きな仕事(天職)に就けて、無意識にも多くの時間や労力を費やしている人を他人が見れば努力・苦労しているようにも見えますかね。またそのような自分に努力・苦労の自覚がない天職もある意味「楽して稼ぐ」ですかね?(08.8.21著)・・・・・・・・・・ 「二世議員は認めない!」 シガラミや癒着まで前世代から引き継ぐので、キレイな仕事が望めないとか?結局はお金や権力に対する「嫉妬」ですかね?少なくとも私はその「嫉妬」を除けば彼等の仕事に何の魅力も感じませんし、少なからず必要な仕事とも感じます。とにかく人数を減らして働く場を減らす方が大問題と感じますかね。これで「シメシメ・・・♪」とか思われているのかな~? 一般でも親の家業を受け継いでいる人はざらですし、広い意味で技術を学ぶにはこれ以上の環境は無いでしょうね。際立って儲けたり威張っていなければ何の不満も出ないのでは?個人的には単に給料や特権を減らせば済むことですかね。生活不安のない財力を引き継ぐ二世でも、名誉や人気を求めて無償でやってくれるならむしろ感謝・尊敬すらしますかね。 また議員に限らず芸能人やスポーツ選手等においても、お金や権力(人気も含め)の恩恵の格差が無ければ、個人的には今はその仕事自体に魅力は感じませんかね。プライバシーを考えれば、とても大変な仕事と感じますからね。逆に言えばそれらの恩恵を一般の人の何倍も受けているならば、24時間労働(プライバシー無し)も仕方無いですかね。 「元お笑い芸人が総裁に・・・(笑)」 そんな言葉が政治家の口から出て、周りからは「職業差別」といった非難の言葉も出ていたようです。ただね~正直私も普段から職種によって「差別」的な想いも少なからず持っていますかね。なぜなら働くなら何でも良いという訳にもいかず、必ず職業を選択していますからね。そして職種によっても基本給が変わってくるのも「差別」的なモノを感じますけどね。 人気のあるモノに人が集り、沢山のお金が動くので人気商売が高給取りになるのは分かりますが、本来お金以外に「人気」(権力)などの恩恵を強く受けられる職種ほど給料は安くなるべきと感じますがね。皆が嫌う仕事をする者こそ高給で有るべきとも感じますがね。結局高給職になったモノが人気職になってしまえば元も子もないですがね。また巡った! そして他人より頑張っている人が必ずしも金銭的にも報われているとも感じませんしね。またそんなに仕事に生き甲斐を望んでいる人ばかりではないでしょうし、それでも他人のお金や権力は妬ましく感じて・・・。(09.9.15著)・・・・・・・・・・ いっそ一人が一生涯に稼げる金額の上限を決めてしまったらどうですかね? 10億円とか・・・。「優秀な人材が育たない」とも言いますが、お金に拘る「優秀」が創るモノにはあまり良い方向性も感じませんがね。急速に便利になったことで失ったモノも少なくないと感じますしね。むしろモチベーションが下がることで新しい人材の入れ替わりも活発になると感じますがね。実際に新しいモノを創り出しているのは新しい世代ですし・・・。 確かに昔の功績はありましょうし、その「名声」により新しい世代が利益を得られていることも少なくないと感じますが、それ以上にその上前を撥ねてながく上位に居座っている「先駆者」も多いんじゃないんですかね?ある程度満足を得られたら次の世代自身の「名声」によって稼げるように上手に移行してあげるのも「先駆者」の責任・能力と感じますがね。 そして高い志の伴った「優秀」がふるいにかけられていくように感じますがね。ただ、こういった「高い志・・・」的人間こそ、方向性によっては本当に怖い人間にもなったりするんですけどね。そして一度高い地位や暮らし・便利を経験してしまうと、それを少しでも落とすことに恐怖や不安も感じましょうがね。今回もどっちつかずですいません。 また政治家が「事業仕分け」とかいって無駄を失くそうとしているようですが、お金が無いと生活できない今のシステムを続けていく以上、例え「天下り」(既に充分な蓄えがある人は別ですが)であっても事業や働く場は確保すべきと感じますが・・・「天下り」に限らず「高給取り」の役人の大幅減給でしょ。そしてまず初めに政治家が自主的に減らしてみせなければね。 いくら「他の人より頑張っているから」とは言ってもこんなに格差ができる世の中のシステムはやっぱりおかしいでしょうし、まして税収が減っているのに公務員が高給じゃ・・・ローンなどの金融システムの数字的マジック等もからんでいるとは感じますが、出回っているお金の総量が減る訳はないでしょうし、理不尽で極端なお金の偏りもあると感じますがね。 民間でも10億円と言えば平均の3・4倍、本来一生寝ずに働いたところで稼げる額でもないように感じますけどね?寝ながらアイデアを考えたり仕事のシミュレーションをしている人もいるように感じますから、10億円で手を打ちませんか?後は稼がせて貰った皆の為に税金に回して貰って、感謝されるその名誉で満足を得て貰って・・・だめ? 特に創造的才能を自分に感じず、せめて金銭的に他人より勝っていないと不安を感じたり、マネーゲームや他人を傷つけるモノでないと生きる満足感を得られない人も感じたりしますが、私などからすれば、わざわざモノを創らなくても人柄だけで世の中を渡れる(直接的コミュニケーション)才能の方が羨ましく感じますけどね。 そして私も全てが全力を尽くしてまでやりたいことばかりではないですし、皆と同等(公平)ではなく、何でも良いから1つは他人より勝らないと不安だったりして、そんな人の立場にもわりと抵抗無くなれる自分も感じますが、体裁も悪く、想いを進めるとキリがないので線引きをします。(09.12.1著)姉妹日記: 「動物」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.07
今回は、母の作品を内緒で掲載してみました。 高さ40cm位ですかね。柄は、一つ一つ手で穴を掘ってから色土を詰め(ゾウガンという手法だそうです)、更にその上から再び一つ一つ手で穴を掘っています。これはまだ少ない方です。こんな感じの作品が大小含めて数百ありますかね。病的でしょう?他にも、編み物で同じモチーフを編み続けたり。 単純な作業が苦にならないようです。逆にそういった事に没頭することで、何も考えずに済んでいるようです。母は大病後、「気」の鍛錬法として、特に「瞑想」に趣を置いていたようですが、そこに繋がるモノも感じますね。ただ、最終的に確信を強める決め手になるのは、術を受ける側の良い反応の積み重ねと感じます。 テレビの好みは、スポーツやニュース(世情)ですかね。バラエティー(お笑い)も好きです。ただ、意外と昔から不思議系の番組にはあまり興味を示さないんですね。私が見ている超能力番組を見て、自分にも出来るか試して茶化す程度です。もっとも私の関心も能力者本人ではなく、そこに関わっている周りの人々ですが。 そして「強い自己主張」(ワガママ)気質の人を見ては怒っています。ただ、その人達がバッシング(強い自己主張)を受けだすと、バッシングしている側に怒り、時に前者の擁護に回っていますね。自分の中にも抑圧されたそのような気質を強く感じて、「嫉妬」(憧れ)もあるように感じます。そして、遺跡の番組は、かかさず見ていますね。 60歳を過ぎてもなお活発で、姉妹や友人を精力的に誘って、年に1度は海外に出掛けるようにしているようです。エジプトやトルコ・イタリア、最近ではペルーなど、いわゆる「聖地」といわれる世界遺産を好んで巡っているようです。マチュピチュでは頭痛との闘いのようでしたが、今までで一番良かったと言ってます。 なにか惹かれるものを感じているようですが、仕事(?)柄、気楽に誰にでも「頼る」ということも難しいでしょうし、そういった「聖地」という偉大な存在において溜まったストレスを落としてもらう様なリフレッシュの意味も強いように感じます。崇高なイメージのモノから、「パワーを貰う」とか「浄化する」とか言う感覚も含んでいるのでしょうかね。 そして毎回、不思議と行く先々で天候や出来事にも恵まれるようです。(07.10.18著)・・・・・・・・・・ 旅行から帰ってくると早速土産話に華が咲きます。 母は、相変わらず機械に弱く、デジカメなどに馬鹿にされながら、一生懸命話をしてくれます。そんな時父が、さも行って見てきたように話しに割り込んでは、母の反感をかっています。ただ、それが驚くほど詳しかったりするんですよね。 一方、今の父は出不精ですが、私が小さい頃は色々な所へ車で連れて行って貰った記憶があります。そして道に詳しいイメージが強く残っています。初めて行く所だって多かったと思いますよ。また、混んでいるのが嫌なのか、遠回りが嫌なのか、細い道を遣うんですよね。クネクネと。そして車に弱い母が気分を悪くして、よく反感をかっていました。(笑) また昔から本が大好きで、部屋には山のように本が積まれています。旅の本や医学書、科学雑誌や動物モノ、スポーツや武道と、ジャンルも幅広く、あまり話しはしませんが、その知識は相当のものと思います。父の頭の中では、世界一周どころか、内外宇宙一周が完結されているのではないですかね。(笑) テレビの好みは、動物ドキュメンタリーやNHKローカルモノ、洋画。そして意外と日本ドラマがジャンルに拘らず好きなようです。また、見ていた番組がコマーシャルになると別のチャンネルに変え、またその番組がコマーシャルになると元の番組に戻しと、結局両方とも内容が中途半端になるんです。 また、他人が見ていたチャンネルを強引に奪っておいて、本や新聞を読み始めたり家事を始めたり・・・。テレビを見ていないのかと思ってチャンネルを変えると「なんだ!見てるんだぞ!」です。また、自分の興味のない番組を他の人間が見ていると、家事を始めたりしてガチャガチャ音を発てます。ボリュームをあげると「うるさいな!音を下げろ!」って・・・。 これにもまた家族から反感をかっていましたね。そしてまた、私がトイレに入っていると、必ず父が来て扉をたたき、「なんだ、入ってたのか」と言います。とてもタイミングの悪さを感じますが、そんなタイミングの事ほど記憶に残るのです。あたかも無意識に(自分のプライドは守っておいて)その存在を示すように・・・ とても健気さも感じますが、やはり父親にはどうしても「尊敬」を求めてしまい、なかなか優しくはなれませんね。。ある意味いつまでもこの人の前では「子供」であると認めている事なのでしょう。私は父が苦手です。他人に見る嫌な所程、自分の中にも強く感じることがありませんか?心の何処かでとても似ていることを自覚しているようです。 前記の「道」の件も含め、父は、頭の中で色々な経験が積まれ、実際に経験しなくても完結してしまうようです。また、絵や彫刻が上手いですよ。具象(写実)的なモノに限られているようですが、半端じゃないですよ。なかなか家族にも見せてくれませんけどね。これもまた自分の中で完結(満足)しているようです。(笑)(07.10.19著)・・・・・・・・・・ 「泣く子はいね~か~!」 「なまはげ」のように悪いことをしないように抑止的に恐怖を飢え込むような慣わしは、秋田県意外にもあるようですね。「死刑制度」や「体罰」など、抑止についても色々と人によってその是非(線引き)も変わってくるようです。私も個人的な線引きは持っていますが、それを他人に強いる自信はありませんし、自分の中でその線引きが不変である自信もありません。 「愛のある体罰」なら許されます?私も子供の頃はよく弟をいじめて父親に締め上げられていました。締め上げられている時は、正直愛情など微塵も感じられませんでしたし、時に命の危険すら感じることさえありましたね。それでも弟いじめは止められませんでしたね。体罰時に愛情を感じられていたら、私には抑止としての力はもっと薄らいでいたでしょうかね? また逆の立場での自分の感覚として・・・真から純粋で家族同然に大切と感じるペットのイタズラにさえ、そのお仕置きの瞬間には「何故言うことを聞けない!」と言った『憎しみ』が明確に自分の中に感じられますね。そして最後は「力」で抑えつけ、少し時間をおいて冷静になってから優しさで繕い、その感覚に自分自身恐ろしさを感じることもありますね。 今になっては、父親に対する(力を最終手段にチラつかせた正義や優しさ等)トラウマ的反抗心は残りましたが、逆にその時受けた体罰には特に違和感はありませんかね。自分なりに悪い事(自分にだけ利益のある欲求)に対する抑止は強く根付いていると感じていますからね。ただし体罰を反対する現代の家庭や社会的環境には、不公平(嫉妬)的違和感はありますかね。 他人に我子を叱られることは許せなかったりするんですよね?自分自身のプライドを傷つけられるような感覚もあるのでしょうかね?時に子供は自分自身になるようですからね。そうかと思えば、他人のせいにして我子を叱ったりするんですよね。「あのおじちゃんに怒られるから止めようね」といった具合に・・・我子に嫌われたくないのでしょうかね? 若い人の中には、叱られることを心の何処かで望んでいる人もいるようです。気を惹いたり、気を遣われる感覚に違和感・プレッシャーを感じたり、親や大人に威厳(いつまでも尊敬できる存在でいて欲しい)を望んでいる子供も少なくないように感じます。またイタズラ(反発)時に逆に同情を見せられると、反発がすう~っと引けてしまったりもするようですね。 自分の経験から、人は本当に「理屈」だけで抑止力を身につけることが出来るか疑問も感じますかね。ちなみに私自身への抑止力は「自由を奪われる」ことですかね。例えば罪を犯して長い時間拘束されるなら、「死刑」でも構わないと感じます。執行の瞬間はジタバタすると想いますが、故に「死刑制度」自体に抑止力は感じていませんかね。 そしてまた心から「やりたいこと」があるのにそれを我慢してまで生きる意味があるのか・・・とも感じてしまいます。方向性によってはとても危険な感覚ですが、他人を傷つけてまでする事に私は満足感を得られるとも感じませんので、今の所、大きな間違いは起こしていないようです。 そういった抑止の感覚には、子供の頃受けた「体罰」(恐怖体験)の影響も少なからず感じますが、それ以外にも多くの要素の絡みを感じますし、体裁もあり、やはり「体罰」の是非は解りませんかね。(08.9.19著)・・・・・・・・・・ 「尊敬する人は両親です!」 年に数億円も稼ぐ若いスポーツ選手がキッパリと言い切っていましたね。私も若い時はそのように答えていたように思います。今はどうですかね?育ててもらった感謝は当然ありますが・・・正直今は世の中に真にやりたい事や目的も探せずに浮いた感覚もあり、せっかく生んでもらって人生を楽しめていない感覚に「負い目」すら感じられることがありますかね。 どんな親だったら「尊敬」できますかね?自分が持てそうもないと感じる技術や才能・社会的地位を持つ親ですかね?自分を才能豊かに育ててくれた親ですかね?私の今の価値観から考えると、既に他人が持つ才能には反発も感じますし、私に常に「戒め」を感じさせる独自の哲学(理屈)を持つ親ですかね?自分のその時々の価値観を常に壊してくれるといいましょうか。 前記のスポーツ選手の立場を借りれば「ここまで稼がせてもらったら将来は安心だろ。好きなことをさせて貰っているのだし、これ以上の稼ぎは応援して下さるに皆さんに還元しなさい」とか、極端な公平感的なモノも良いですね。芸術やスポーツは経費が掛かるとも聞きますが、やっぱりいい生活しているようですしね?嫉妬も入れておきました。(笑) そしてそんな親を持てば、結局「かなわない」といった「負い目」を背負って生きていくのでしょうけどね。また自分を抑制(我慢)できる人間が立派のように教育され、大人になって周りを見れば自分の欲求に素直(ワガママ)な人間ばかりが尊敬され・・・でも調子に乗ると「我慢が足りない」と言われ、また我慢出来る人間にしか尊敬も置けなくなっていて・・・ 私は父に反面教師的な存在をあてていますが、ある意味これ以上自分に戒めを与えてくれるモノは無いようにも感じていますかね。私の性格上、直接言葉(理屈)で悟されると反発も生まれそうですし、「自分で悟った」感覚がないと自分のプライドを傷つけますかね。ましてそれが父の計算であったりしたら・・・尊敬を超えて恐ろしくも感じますかね。(09.12.19著)姉妹日記: 「子供」・「私」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.26
「有難う御座いました」 おつかれさまです‘07 「理屈無く」を「理屈」で表現することは難しいですね。「矛盾」していますものね。書けば書くほど、前に書いたことを補う(言い訳の)ように次々と記事の種が生まれてしまいます。ライフワークにもなりそうですが、ちょっと疲れました。陶器写真が無くなった事を良い言い訳にしてこの活動から少し離れたいと感じました。(笑) 「経験」してしまえばイッパツだったりするんですけどね。でも、それでは物足りなさを感じるんですよね。結果だけでなく、プロセスを楽しみたいような。そして、そこからより強い満足感を得られたりして。自己満足にすぎないかもしれませんがね。そして、そろそろまた「理屈無く」が恋しくなってきました。 「無」から「理屈」が新しい「力」(世界観)を生み、「理屈無く」がその「力」(世界観)に無限の可能性を与え、そこからまた新しい「理屈」が生まれ・・・といった相乗効果的な「無限」のサイクルも感じています。共に大切な役割を感じます。要は、良くも悪くも複数の「想い」がお互いに影響しあって世の中成り立っていると言ったようなことですかね。 また、個人的には、ヒト(想い・意識的な存在)は既に「完璧」であると感じます。沢山の「想い」が存在し、関るため、なかなか「想った通り」にならないことから「不完全」に感じるように感じます。ただ、この表現はあまり体裁良くないとも感じますので、「完全では無いで人間として完全である」くらいにしておきたいと想います。 人は皆、「立派」という画一的なイメージに最後には個性をはめなければならないのでしょうかね?私は外からどんなに「立派」と言われるようになっても、結局根底は何も変わっていない自分を感じ、「負い目」を持った自分が残る気がします。そして、やはり辛い時はどんなに立派な「理屈」で補っても「理屈無く」辛く、きっと逃げ出したくもなりますよね。 でもやっぱりできれば「立派」って言われたいですかね。(笑)そしてまた昔は、「人それぞれだから・・・」が楽で寛容であるように感じられてよく遣っていましたが、今ではとても寂しい感じがします。私は多少辛い想いをしてもやはり「関わり」が欲しいと今は感じています。「想い」は巡って(無限・矛盾して)しまいます。 よって今回のことをどのように締めたらよいか迷いましたが、それも不要なようです。私はそれなりに満足感を得られました。ただ、私の自己満足に納まらず、私のように「理屈」に憑かれ、プライドの高さから他人の世界観に漬かれず、あらゆる自己主張も出来ずに毎日の生活にいっぱいいっぱいになっている誰かの何かの役に立てばなお幸せに想います。 身近な人間への配慮も含め、自分を守るために今はまだ表現をためらっているモノもあります。世の中の変化も感じ、色々な意味で体裁も整えながら、その時期と感じましたらまた表現したいと想います。また直ぐに書きたくなるとも感じていますが、その前に陶器を作らなければならないようです。別の名分を探そうかな・・・(笑) 始めからこのような「世界観」に付き合って頂いた方には特に感謝しています。そして今回私の世界観を表現するために皆さんの世界観を傷つける表現が多々あった事も自覚しています。本当に申し訳ございませんでした。(07.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘08 私の母の気功も含め、他人の創った世界観に浸ることで安心や癒し・楽を得られる人も多いと感じます。ただそのような人にも自分だけの世界観を感じます。他人の世界観に浸って(理解して)いるように見えて、実際は全てその人独自の理解で創られた微妙にズレた世界観のようにも感じますね。そして依存(素直)的気質の強さ(慣れ)も人により違いを感じますね。 そういった身を寄せられる世界観や気質を持てることに対しては羨ましさも感じますね。そしてまた色々な世界観達の間に挟まって身動きできなくなっているような感覚の人達も感じます。どんな世界観を創っても身を寄せられない・・・今ある全ての世界観の縁を少しずつ溶かす(否定する)ような事をしなければ安心できないようなモノを感じられますかね。 この活動の目的として、そんな感覚の人に触れたり求めたりもありますかね。もっともそういった感覚の人はこういった日記にコメントを書けるような気質とは感じていませんけどね。そして伝わらない人には決して伝わらないと感じますし、そういった気質との人付き合いからでないと貰えない感覚も少なくなくて・・・。共に大切な感覚と感じています。 少なくとも私が心の内で他人に理解して欲しいと感じていることは比較的体裁の良いモノで、そこにはもっと内にある体裁の悪い欲求(単純に気持ち良い)を満たすための隠れ蓑のような役割があるように感じています。この活動も一方通行的質のモノであると自覚もありますし、それを望んでいる自覚もあり、時には見守られることが真に幸せに感じたりもしますかね。 大分調子にも乗ってきましたし、愚痴もいっぱい散らかせたのでまたしばらく立派に思われる人間にならないと自分のプライドが崩れそうです。(笑)それではまた近いうちに・・・。(08.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘09 他人よりも優れているとか、私の方が正しいとかを競うことに生き甲斐を求めるなら別ですが、他人の感じていることを共有したいと想うなら、その真偽を問わず、相手の築き上げた世界観にドップリ浸かってみたらどうでしょう。例えば脳科学では人が見(感じ)ているモノ全てを肯定も出来ないのですから、真偽の判断は人により意味の薄いものかも知れませんね。 また例えばAさんの世界観を信頼しきれればAさんと同じモノを感じられるでしょうし、Bさんの世界観を信頼しきれれば例えそれがAさんと正反対の世界観であってもBさんと同じモノを感じられると感じます。正反対の世界観であるのならどちらかが真で偽であるという理屈に拘るのであれば、どちらかの世界観だけを感じていくのでしょうね。 ただ常にいずれも否定も肯定も出来ない中立的な立場を築いてしまうと、いずれの世界観の感覚をも失うと感じます。多くの他人の感覚を共有したいと感じるならば、その時々で、いずれの世界観にも一時的に偏れるワガママ・理屈無さ・都合良さ(心の柔軟さ)が大切なのではないですかね?ただそこには時に大きなリスクも伴うとも感じますが・・・。 また人によっては自分のプライドとの折り合いの着け方が鍵になると感じますかね。時には一時的にも自分の本意や自分の中に築いた上下観を抑え、お互いの世界観を極力合わせる事が「気を合わせる」(気を遣う)と言うことと感じますし、合わせる「気」が多くなることよって、より大きな力や様々な現象も易く生むことができるように感じますかね。 元々一方通行的質の日記の活動を望むとはいえ、今年は外部からの意見(コメント)を絶ってしまいました。本音で生きると楽になるのかと思っていましたが、何かプライドがズタズタな感じで自分の中に懐が無くなる様で逆に辛いですかね。嘘でも建前でもいいからプライドを守りながら生きる方が幾分生きるのも楽で、自分にあっているようにも感じますかね。 またしばらく日記を休んでその辺の調整をしてきます。本年も有難うございました。(09.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘10 今年も一方通行的に頑張って書いてみましたが、やはり書きたい表現の60%も出せませんね。決して嘘を書いている訳ではないのですが、どうしても他人の目を気にしてしまって、体裁の良い表現を残してしまうのですよね。おそらく私の感じている100%ストレートな表現をしてしまったら、炎上する記事も少なくないことでしょう。(笑) また私が何かを決め付けるような表現をしても、世の中にはそれと正反対のことが成立してしまったりして・・・極端に正反対までは行かなくとも、その間を取るように無数のズレた感覚が成立していて・・・それら全ての感覚にも自分の中に思い当たる節があり、いちいち今自分が発言したことを補うようにして限りなく表現が必要となって廻ってしまい・・・ 言葉で表現しようとすると、その時々である程度偏った立場のモノにならざるを得ないように感じますね。そんな自覚を持っているのでそれに対して反論されると「その感覚も解る!」と言い訳もしたい所ですが、信頼を失いそうなのでそれも出来ず、なによりも反論されたことが悔しくてそのまま突き進み、後戻りが出来なくなってしまうことも少なくないですかね。 もっともそういった遣り取り(議論)自体が時に楽しかったり・・・。私の日記の中にある私自身の多くの『矛盾』にその点を読み取って頂けると嬉しく想いますし、そんなことが私の一番表現したいところでもあり・・・そして私が感じることの本音的表現は、結局自分の死を目の前にしない限り私には無理だとも感じますが、出来る限り頑張ってみたいと想います。 また期限をきらずに少し長く休みに入ります。また始める保障もありませんが、興味を持って頂いた方にはその時はよろしくお願いします。欲を言えば私の表現が誰かのなにかの役に立てば嬉しいと感じています。ちょっと分の悪い場を凌ぐ屁理屈にでも遣っていただけたら・・・(笑)本年も有難うございました。良いXmasと御年を・・・・(10.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘11 5年にわたって自分の感じる世界の真理的なモノを表現しようと書いて見ました。一例でも例外(個人差・偶然等)のある世界観では真理になりえないと感じますが、今存在するどんな世界観も必ず例外を抱えてしまうことからもその例外、つまりは矛盾自体に真理があると感じ、毎回身の回りに存在する矛盾を取り上げて自分なりにつきつめてきたつもりです。 今年も沢山記事は書いてみたのですが、途中からアップを止めてしまいましてね・・・どんな記事を書いても行き着く所が一緒なので、書いていて詰まらないと言いますか・・・一貫していてブレがなかったと捉えれば自分の感覚の確かさの自信には繋がりますし、不変的なモノ(真理)を表現する上では承知・覚悟していた事ですが、とにかく詰まらなくて・・・ 生きていく上においては、真理よりも理想(想い・世界観の構築等)といったある意味その時点では「嘘(不確定)」的なモノの方が大切なように感じますかね。やはり多くの枝葉から幹を求めるよりも、幹から多くの枝葉を求めるような多様性(無限)に楽しさ(楽)があるのかも知れませんね。真理とは本来単純で退屈(苦)なモノのようにも感じていましたので・・・ ある意味「楽」を選択したことにもなりますかね?実質ゼロからモノを創造した事にはならないですからね。ただ前者も私にはしっくりこない生き方とも感じていますがね。最後まで「巡る」しました。(笑)行き着く所が決まった質のモノなので、初めからどこかで区切りを付けようと感じていましたが、五年と言う区切りを受け、今だと感じました。 今年アップしなかった記事と今後の新たな記事は新規アップはせずに、このブログを極個人的な書庫的に活用して、単純に気づいた事の羅列として過去の記事に書き足し、書き溜めていきたいと感じます。それでもお付合い頂ける方にはお手数をかけますが今後もよろしくお願いします。5年間有難うございました。(11.12.23著) 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
水泳の○島選手が世界記録を1秒あまり更新したそうです。 その一方で水着の性能が騒がれているようですね。さて、「スポーツマン・シップ」(正々堂々)を考慮に入れまして、また○島選手の立場をお借りしまして、私なりの水着問題(水着選択)を考えてみたいと想います。(ここでは自分以外は全ての選手が問題の水着を選択したと設定します) 「正々堂々」・・・やはり水着の性能に頼らず泳ごうか・・・そうすれば負けても言い訳がたち、余計なプレッシャーから解放されて100%の力が出て・・・上手くいけば優勝・・・これ以上の結末はありませんね。英雄です。世界記録はもう出しているし、前大会で金メダルもとっているし・・・どちらに転んでも損は無いかな・・・あれ、これって「正々堂々」? 逆に「負い目」まで感じてきました。やっぱり負けても言い訳できないように皆と出来るだけ同じ条件(水着着用)で出ましょうかね。もっとも水着以前に体格差や練習環境の差といった不公平さもついてまわっていますがね。また、例えば平泳ぎの様な特殊な手足の掻き方になると、ある程度水に対する体の抵抗がないと効率よく体を押し出せないようにも感じますね。 上・下半身の強さ、水を掻く・伸びる時間などの差により、選手によって(掻く力の強い選手は特に)例の抵抗の少ない水着も逆効果になったりするような「理屈」も付けられますかね。有名な学者によってそのような「理屈」が広められると、今まで記録を伸ばしてきた選手でさえ水着に対して不信を持ち始め、記録を落としてしまったりするように感じます。 また、中距離マラソン界で国内敵無しと言われた選手がフルマラソンに初挑戦していましたね。以前より自信ありげな無邪気で強気のコメントも聞かれていましたが、結果は途中で体調を崩し、失速してしまいました。でも最後まで諦めずにふらふらになりながらも笑顔で完走していました。マラソンを見ている側からすると通常よりも強く感動を頂きました。 ただ同じように頑張って1位になった選手のことがすっかり霞んでしまったようにも感じました。是非はともかく、私のように「理屈」でプライドまで考える人間にとっては、「棄権」を選択することも1つの「勇気」・「スポーツマン・シップ」の形でもあるように感じます。ただその選択は、強く受けたあの感動を失うことにもなってしまいますね。 そしてあまり考えすぎるとどんな選択をしても「正々堂々」から外れてしまいそうです。結果的に能力に差が無ければ勝敗は着きませんし、個人差を確認するためにもスポーツ等はあるように感じます。少なくともスポーツに限っては、その人それぞれの満足に任せれば良いのでしょうかね。今回も他人を中傷する表現にもなってしまいましたかね?(謝)(08.6.1著)・・・・・・・・・・ 若い人には「褒められると伸びる」タイプの人が増えていますかね。 私はダメなんですよね。そもそも今まで何をやっても納得のいくことはありませんし(少なからず誰もがそうであると感じるので不思議なのですが)、そんな時に「褒める」されてしまうと、その人に対してがっかりしてしまうんですよね。「この人はその程度か」って。先生やコーチ・師匠などの立場にある人に対しては一気に冷めてしまい、信頼や尊敬も置けなくなります。 私の子供の頃は、体育や美術・音楽等で賞を貰っても、家で両親に褒められた記憶がありません。賞をとって当然と言った雰囲気ですかね。貰ってきた賞状やトロフィーなども引き出しにしまわれるだけです。友達の家に行って、飾られたそれらを見るととても不思議でした。また、スポーツをしていると、時に相手の必死な姿を見てやる気が萎えてきてしまうんですよね。 あの頑張った先に何があるのだろう・・・って。おそらく家族で喜びを分かち合ったありするのでしょうね。そんなことを考えるとワザと負けてもいいかなって思えてきます。自分には無用なモノのように感じますのでね。今ではそんな自分も悪くないと感じますが、特にスポーツなどで成功するには、「褒めて伸ばす」的小さい頃からの環境もとても大切に感じますね。 そんな環境で育ったせいか、「負けず嫌い」の形も違いますかね。単純に表面上の勝負での「勝利」よりも、相手の背負っている諸々を感じ、時には表面上負けを認め、そんな自分に勝手に寛容さを感じ、より強く満足し、「勝利」を感じられたりするんですよね。私が得意とする「気遣い」にもそんなイヤラシさ・ズルさが多分に含まれているように感じますね。 「スポーツマン・シップ」は何処へいったやら。そして他人の「弱音」や「愚痴」に安心を感じたりしているのですからね。矛盾だらけです。(笑)ただTVなどでスポーツを見ていると、表向きの勝敗よりも強い感動的な結末を好むように、無意識に演出のようなことをしている人を感じることも少なくないんですけどね。怪我をしている相手に手心が加わったり・・・。 また優秀な選手のなかには、キザなコメントが言えたり、時には「きめポーズ」などを持っていたりする人も少なくないようですし、自分に酔えるような気質も感じられたりしますかね。そういったことからも優れたスポーツマンと役者(演技に関る人)に共通する気質を感じることも少なくないですね。「演技」とか言うよりも「別人格」的な何か・・・(08.8.15著)・・・・・・・・・・ 「素直な子は伸びる」 確かに先駆者に教わるモノは、素直である事が上達の「速さ」に繋がると感じますね。疑問を持たず、言われるがままに練習を積めば、その先駆者のレベルまでは先駆者程時間を費やすことなく辿り着きますかね。そんなことを考えると、子供が大人並みの才能を示すのも、その環境(憧れる大人の強い想い)によってはそんなに驚くことではないのかもしれませんね。 ただ素直であるが故に、先駆者の限界までも引き継いでしまい、時には先駆者を超える才能の育成の妨げにもなりかねない気質であるとも感じますかね。子供の時に「神童」と呼ばれた人の大部分は、大人になって伸び悩んでしまっているようなことを聞いたことがあります。年齢や見た目のギャップが、プラスαの評価を生むことも少なくないと感じますかね。 実際に一流と呼ばれる人達には、独自の哲学を持っている人も少なくないように感じますかね。時にはタブーとされていることをあえて取り入れたりする逆転的発想を持った人も少なくないと感じますね。「誰もやらないことを・・・」的な他人よりも頑張っている感覚を得る手段の1つにもなると感じますが、ある意味そうしたことは素直でない人の才能ですよね。 ただし誰も通った事のない道を進むため、芽が出るまでに時間を費やし、自分を潰したりもしますかね。どちらも大切で、同時にリスクも備えているモノのようですね。もっともそのような理屈に捉われない「割り切り」(柔軟性)こそ重要なのかもしれませんけどね。 そして「素直になりたくない」と感じた時、素直にならないことが欲求に素直であると言うことでしょうね。(09.5.28著)・・・・・・・・・・ 日本はスポーツをする環境が悪い? 確かに他の国を見ると報酬などが桁違いに高かったり、また国を挙げてスポーツに力を入れている所もあるようですね?そして私も日本人の根底にはスポーツに対する感じ方に他国とは異なるモノも感じますかね・・・何といいますか・・・職業(仕事)と言うよりも趣味とか余暇に楽しむモノ的感覚が・・・少なくとも私の中には強くあるように感じますかね。 大部分の人は他の仕事において稼いだお金を遣って趣味などを楽しんでいる訳で、多くの時間を自分の好きなことに割けていて少しでもお金が入ってくるなら恵まれて・・・最も「日本はスポーツをする環境が・・・」という声の多くは選手自体からのモノではなかったりもしますけどね。最近その声を聞いたのは女子サッカーの栄誉に対してのモノでしたが・・・ 本当に日本がスポーツにとって悪い環境であったとしても、ワールドカップで優勝してしまった訳で、その真偽はともかく、必ずしも環境の良し悪しに強さが繋がってくるとは自ら言えなくしてしまっているように感じますがね?(12.1.4著)姉妹日記「スポーツマン-1」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
外国の女性スポーツ選手は、ウエアーの上から胸の形がはっきりしていてもあまり気にしないようです。 その分競技に集中出来るような気質が強さの大きな要因と感じていましたが、活躍しているプレイヤーの多くは、髪やウエアー、アクセサリーなど、オシャレにはむしろ人一倍気を遣っているように感じます。外からの負の「想い」には比較的「鈍感」で、とにかく自分をアピールすることに「貪欲」なようですね。あの体格もそんな気質の表れと感じます。 「ホーム」・「アウェイ」という言葉も定着し、特にスポーツ界では、「気」(想い)という世界観が欠かせないように感じます。日本の選手は、外から受ける「想い」に「敏感」なようで、これが能力発揮の妨げの大きな要因かと感じていましたが、またこれが逆に体格(体力)差というハンディーを埋める「チーム・ワーク」に結びついてもいるように感じます。 特に少し前の日本人選手は、相手の「気」を読むような能力にたけている人が、良い成績に結びついてきたように感じます。そして日本人同士ではそれを顕著に感じます。相手(敵)の「想い」を感じとって、その裏をかいたりが勝負の基本と感じます。また、相手(味方)の「想い」を感じとって、次の動きに繋げることが「チーム・ワーク」と感じます。 特に他人の目(想い)を気にする日本人には、「他人のために」という名目が力になるようですね。私は個人競技の方が得意ですが、自分の力だけではどうにもならない団体競技の方が、より「やりがい」を強くもてますね。そしてまた時に、自分達より力の劣る相手にまで「想い」を合わせてしまい、いい試合してしまったりするんですね。 ただ、結局自己表現に「貪欲」(無邪気?本能的?)な人にはそれもあまり効果なく、コテンパンにされてしまったりするんですよね。単純に「楽しむ」(気持ち良い)されてしまうんです。戦闘機に女性の絵を描いたり、お葬式で歌を歌ったり、国によって偏りは感じますが、外国の人はあらゆる状況で「楽しむ」の出来る気質の人が多いように感じます。 また最近の若い日本人にも増えてきているように感じます。(07.12.6著)・・・・・・・・・・ 「神の手」 サッカーの試合でハンドをしたにも拘らず、それを見逃した審判のミスジャッジにより得点と認められ、大切な試合に後味の悪さを残してしまったりしますよね。おそらくハンドをした選手本人には自覚があると感じますが・・・サッカーの神と言われる程の国民的英雄にもそんないわれがあったりして・・・ただそれが良いイメージ的に伝説になっていて・・・ またワザと相手の反則に見せるようなことをする選手も少なくないようですね。個人的にはとても見苦しく感じますが、専門家の話によれば、それもテクニックのうちなんだそうで、むしろ優秀な選手の条件の1つのようです。確かに相手を騙すこともスポーツで勝利するための基本と考えれば、そこに審判を欺くことも含めて考えるべきなのかもしれませんがね。 そしてチームスポーツになると、例えば故意ではない反則などは色々な意味で自己申告もし辛いですかね?(09.12.11著)・・・・・・・・・・ 先日のアジア選手権で、何十年かぶりに短距離の2冠をとった女性がいましたね。 普段はのんびりとした口調でギャップも感じましたが、感じ方・考え方は独特で、ある意味マイペースということが良い方向に結びついているようですね。リレーでも第三走者目まではいいところにつけていましたが、最終走者の彼女のバトンタッチのミスにより、3冠を取りそこねてしまったようです。日本に帰ってくると、2冠をとったことで彼女は騒がれて・・・ マスコミにチヤホヤもされて上機嫌のようでしたが、リレーで彼女と一緒に走った選手のことを考えると、とても気の毒に感じてしまいましたね?そういえば昔は「日本のお家芸」とされていた「団体戦」がさえなくなっているモノも多いですよね。一人一人の技術・能力は上がっているようなのですが、それが結果に結びついていないようですね。 もともと個人の技術を上げるためには、考え方も含め、自分だけに集中する必要を感じますし、ある意味「チームワーク」を優先すると、時には相手に合わせるように、個々の能力を一時的に落とさなければならない場面も少なくないですからね。個人競技で高いパフォーマンスの若い日本人も増え、それが時に団体戦においては反発に繋がったりも感じますかね。 また「団体戦」になると「仲間の想い(責任)を背負う」プレッシャーが伴ったりしますが、時にそれが一種の充実感につながったり、逆に個々の責任(他人の目・プライド)が分散されることもあり、特に責任に敏感な昔の日本人の気質には相性の良さを感じることも少なくなかったですかね。ガンバレ日本!(10.11.30著)姉妹日記「個人プレー」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
「頭で考えず、体で覚えろ!」 よくスポーツで耳にする言葉ですね。頭から命令を送る前に体が動くように・・・反応速度をあげるといった意味でしょうかね。「覚える」・・・私にはちょっと違和感のある言葉です。「考える」の方が、後から身についたモノのように感じます。いわば、「本能」に対する一時的なブレーキが、「考える」(理性)のように感じています。 『本能』には、「欲求」(純粋に「気持ち良い」を求める)や、私もその定義もしっかり理解しないまま便宜的に遣う「無意識」、それも無数(無限)の「意識」の基のような、時には他との区別も無いような感覚もあります。「英雄色を好む」といった言葉がありますが、人並み外れた「能力」と「本能」(欲?)との間には密接な関係を感じられます。 時々スポーツ選手が「試合中に体外から自分の姿を見た」と表現していますね。その発言は、大概すこぶる調子の良いときに遣われているようですが、まさに「本能」(欲求)という人格(意識)が解放する場を与えられ先走り、「理性」という別人格(他意識)が置き去りにされている様のように見えてしまいます。 そして『本能』には、「天真爛漫」や「無邪気」、そして「ワガママ」などの気質に重なりを感じる事も多いです。その様な気質の強い人は、「理性(自制)的な他人」からは「嫉妬」、「本能的な他人」からは「憧れ」(主に性)的攻撃の対象になりやすい質を感じます。もっとも「憧れ」の裏返しが「嫉妬」と感じますが。 そこで色々な意味で自分を守るために、「理性」という「別人格」(他意識)的なモノを創りだすことが必要になってくるのだと感じます。誰の中にも、「天真爛漫」や「無邪気」、そして「ワガママ」などの気質は顔を出しますね。そして少なからず痛い目を見ていたりしていませんか?(ある意味「守る」も気持ち良いを求める形の1つと感じます) また、演技に関わる人が役に入り込んでしまうと、仕事が終わってもしばらくその役を引き摺るような話も聞きます。ヒトは必要に応じて(自己表現や自己防衛)、無意識?(本能的?)に「別人格」(他意識)のようなモノを創りだす力を持っていると感じます。それも複数の。「覚える」より「想い出す」ですかね。いや、「解放」ですか。 意識的な「解放」には、「研究」や「練習」・「行」等の世界観の気付き(築き)が必要になると感じます。時にはその作業(時には「薬」や「アルコール」)が「解放」する場所を創り、また元から「本能的」な人には不要な作業と感じます。定義はされていませんが、「意識」を通して「欲」と「気」にも密接な関係(世界観的表現の違い)を感じます。(07.11.10著)・・・・・・・・・・ 「お腹にハチマキを巻くと、足が速くなる」先日TVで見ました。 マラソンの苦手なポッチャりした子供でしたかね。ハチマキが腹筋を助け、姿勢が良くなり、歩幅がアップするのが「理屈」だそうです。また他に、右回り(逆だったかな?)に回ると力が強くなったり、一瞬で体が柔らかくなるモノもありましたかね?一見何の科学的根拠の無い「行為」(仕掛け)をすることで、能力が変化してしまうような検証番組をよく目にします。 いずれも1回目は何もせずに記録を測り、2回目にそれらの「行為」(仕掛け)をしてから計測し、かなりの確率で多くの人が記録を伸ばしていましたね。ただ逆に1回目にその「行為」(仕掛け)をしていたら同じような確率でその記録を上回っただろうかとも感じますかね。先に記録(目標)が出来ると「それを超えたい」的心理(気)も生まれ易かったりしますかね。 またTVによって初めからその「行為」(仕掛け)をすると「記録が伸びる」雰囲気を漂わせた検証においては、むしろその「記録が伸びる」という言葉や雰囲気(周りの期待)が大きく能力アップに繋がると感じますかね。特にTVや大勢の前での子供や女性・芸能人(一流スポーツ選手等)には、「周りの期待に答えたい!」という本能的な力の資質を強く感じますかね。 お笑い芸人の「笑いの神様が降りてきた」や、スター選手のチャンスの場面とのめぐり合わせも含め、そんな資質の強さを感じますかね。また一見意味の無さそうな「行為」(仕掛け)→『不思議』的感覚が、人により理屈が生む「矛盾」を一時的にも抑えこみ、またその記録を伸ばした人達を見て触発され、他の人が記録を伸ばしたりするようにも感じますかね。 「クチコミ」(プラシーボ)的効果とか、一種の「気遣い」とでもいいましょうか?そして後に、「その行為(仕掛け)をしたら記録が伸びた」という事実に対して、研究者が信念により自分の世界観(科学的ルール)で理屈を創り、科学的検証結果を生み、ある意味自分の世界観を守る為に『不思議』から「常識」に変えていかなければならないと感じますかね。(09.4.1著)・・・・・・・・・・・ 「脱!精神論」 スポーツ界も昔の「根性」的指導法よりも、理論やデータに基いた指導方法が主流になってきましたかね?確かに私も今の若い人達には理屈っぽさも強く感じたりもしますから、「根性」などの曖昧なモノではなかなか指導者についていくのも難しいモノがありますかね。昔はその指導者の過去の実績(憧れ)だけで充分な説得力もあったように感じますがね。 昔は今より有名人も特殊・少数、メディアも未発達でプライベートもあまり耳にすることも無く、超スーパースターも生まれ易い環境であったようにも感じますかね。今はメディアの発達でスター性も多様化・分散し、親近感のあるスターも好まれているのかプライベートの負な部分も目に付き、昔ほど神(絶対)的「憧れ」のスターも育ち難い環境でもありますかね。 「乳酸」は疲れの原因ではなく、むしろ疲れには良いモノ・・・最近TVで知りましたが、信じていた医学(科学)的常識がその医学(科学)によって後に覆っているモノも少なくないですね。時に腹も立ちますが、理屈は後から(揚げ足取り・逆説的に)構築される新しい理屈によって崩されてしまう質も感じ、単に目新しさに「信頼」の要因も感じますね。 私も指導する立場で、理屈っぽい若い人達に面倒臭くなってつい適当な「理屈」を与えたりしますが、以外にあっさり納得され、結果を出されてしまったりして、特にしっかりと構築された「理屈」に重要性を感じなかったりも少なくないですかね。結局「理屈」は気持を納得(確信)させる手段の1つで、それが精神に働きかけ・・・やはり力は精神(想い)の強さ? 「理屈」は力を出す「きっかけ」の構築法に過ぎないとも感じますが、皆その構築に苦労しているのでしょうがね?また「精神論」(理屈無く・根性)をも身に付けていれば、その信じてきた理屈を失っても、さほど調子を落とさずにいられるのかもしれませんがね。もっとも『論』が付けばそれも「理屈」になりますし、「理屈」が応用力にも繋がるとも感じますがね。 またIDとかいって、データ解析による手法を時に「科学的」裏付けのようにして信頼を得ているように感じますが、個人的には「占い」等の「非科学的」とも根底に違いを感じませんがね。むしろ「占い」の方がその歴史の古さを考えれば、集め処理された過去の現象(データ)の量は膨大なように感じますけどね?いま一つ科学も信頼しきれなくて・・・(09.12.2著)姉妹日記「無」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
日本の「武(精神)道」でも、極限的な力を出す時に「無」と言った表現を遣いますね。 そこには「精神的成長」(理性)のようなモノ(他主張理解能力)に趣が置かれているようですが、個人的には次のような大別も感じます。★「理性」的気質の人が「(無数)意識的な力」→無限(全て在る)★「本能」的気質の人が「無意識的な力」→無(何も無い) 前者は他意識との関わりによる情・想いやりなども含めた「限界(制限)」を伴う資質を感じます。後者は比較的「限界(制限)」を創りませんが、周りの負の「想い」(嫉妬など)を受けやすい資質も感じます。そして文字面での「無」に、極めて近い存在のようにも感じますが、そこには極端な「気質」の切り替えが強く求められるようにも感じています。 ちなみに私はどんなに良い結果が得られても、それが常に意識して得られたモノでなければ今ひとつ満足感に欠けますかね。 また「奥深さを求める」ことは、同時に自分の中に「難しさ」(限界)を築く作業と感じます。「限界」を自分の中に創ることに「弱さ」を当てることも多いと感じますが、私は「無限」を全ての本質と感じる中で、「限界」こそ究極の「到達点」とも感じてしまいます。「限界」を感じられた者こそ幸せなのかもしれませんね。想いは巡っ(無限し)てしまいます。 そしてまた同じようにして、自分の生活にも奥深さ(充実感)を求め、無意識に自分の中に「難しさ」や「忙しさ」、「辛さ」などを自ら築く人もいるように感じます。私などは「疲れ」を感じないと、その日一日損した気持ちになります。厄介な人間ですが、「大変ですね」って一言労ってくれれば喜んで全部背負い込んじゃいますよ。遣いようです。(笑)(07.12.6著)・・・・・・・・・・ 「我慢は美徳」・・・私は特に(少し前の)日本的な価値観だと感じます。 私の学生の頃は、運動系の部活動中は絶対に水は飲ませて貰えませんでしたね。水分を取ると汗をかきやすくなるとかも言われましたが、普段から「限界」的状況を経験させることにより、試合中のいかなる厳しい状況でも諦めない「根性」(我慢)を養うことが主な意図のようですね。「これだけ頑張っているんだから」的、上達のための自己契約的作用もあると感じます。 今では科学(外国)的根拠のもと、価値観も変わり、逆に水分をマメに補充するようになりましたが、ある意味そういった「我慢」を強いないこともまた「力の解放」に結びついているようにも感じますね。やはり「ワガママ」(我慢しない)は、比較的自分に「限界」のイメージを創らず、単純にスポーツで大きな成果を上げるためには大切な気質の一つと感じています。 スポーツや芸能・芸術的世界以外では大きなリスクも感じますが・・・。(08.9.10著)・・・・・・・・・・ 「余計なことは考えるな!」 今、成し遂げようとしていることに集中する・・・時に「無」的に捉えられていますかね。スポーツや武道等の「勝負」で必要とされている感覚の「無」は、時に「他意識にドン感であれ」と言う意味でもあるように感じますかね。他意識にビン感であると、人により「情」や「想いやり」が生まれてしまい、「勝負」に集中出来なくなるようにも感じますからね。 特に「見た目の勝利」の気持ち良さを求めるには「他意識にビン感」は時に邪魔になる才能でもあるように感じます。もっとも「ビン感」に相手の想いを感じ取り、「ドン感」に行動にする・・・極端な気質を遣い分けられれば別ですが、そんな人間は恐ろしくも感じますし、「スポーツマンシップ」や「武道精神」からも外れるようにも感じますがね。(09.7.2著)・・・・・・・・・・ ビックリ人間大集合! そんなTV番組の中で、女性が300kg.ものモノを持ち上げ、少年はオリンピック選手もお手上げの力技で倒立を披露していました。いずれも先天的(突然変異的)な体質(筋肉)を持つようで、筋肉ムキムキな感じで「女性」や「子供」を意識しなければ納得も出来そうですかね?ただ私が気になったのは「子供の頃から(少年)・・・」というところです。 まず子供には、人生の経験も少ないことから負なイメージなこともまださほどないと感じます。大きくなるまでに大人達によって色々と制限(限界・常識等)を刷り込まれるようにして大人になる頃には本来の能力を押さえ込んでいることも少なくないと感じます。人によってはそういった周りからの矯正を比較的受けない環境で育つこともあると感じますね。 女性は親の影響で子供の頃からサーカスのような場所でその才能を披露していたようです。特に子供は親や周りの人達の「期待に応えたい」的な欲求が力として現れたりするように感じます。これは芸能人やスポーツ選手などからも感じられる力ですかね? 少年は兄弟が多く、その中で親の気を惹くためにはどうすれば・・・的な力とかも感じたりしますかね。 その両親も比較的感動しやすく、子供に対しても自然かつ上手に褒めて上げられるような気質に見えましたし、女性は子供の頃から両親だけでなく多くの人達から褒めてもらえる環境に恵まれていましたね。そんな気持ちよさを今でも引き摺るように才能も持続できているように感じますかね。先天的な体質的要因などは科学の後付(逃げ道)的に感じますがね。 少年は2歳の頃にはそういった力の片鱗を見せていたらしく、また女性の子供の頃の映像を見ると特にまだ筋肉ムキムキな印象はありませんでしたが、「筋肉ムキムキ」のように外見的な変化も、まさに成長する過程において大人(専門家)達によって色々と刷り込まれるように怪力の言い訳として後付的に無意識に刷り合わせていったようにも感じますかね? 少し反れますが、よくアリが自分の何倍もあるモノを運んで、それをヒトに例えると何トンものモノを運ぶ事になるような言い方をされますが、私はそんな単純な比較には違和感がありますかね。前記した少年の倒立の力技なども含め、子供の能力にはそんな感覚のトリックも少なからず働いているようにも感じますがね。(10.10.17著)姉妹日記「ビギナーズ・ラック」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
「罪を犯す人は、相手の立場になる想像力が欠けている」とワイドショーでコメンテーターが強く主張していました。 私も同感ですが、後に同じコメンテーターが「私には罪を犯す人の気が知れません」とも強く言っていました。立場もありましょうが、矛盾を感じました。過去に何があろうと大きな「ワガママ」を通してしまった後の人に私も同情もできませんが、同情とは別に「ワガママ」を通す前の立場を想像してみるのは犯罪を根本から減らすために必要な事かもしれませんね。 また、「死刑制度」の是非についても議論が成されていますね。私の正直なところは・・・ ★私が「被害者の立場」(感情的?)で感じようとした時・・・「死刑制度賛成」 自分の大切なモノを奪われた想いから躊躇なく「死刑」を欲求するでしょう。ただ裁判が長引いて徐々に冷静になり、周りの違和感を感じられるようになると「初めから謝罪していれば死刑は回避できたかもしれない」といったような「それ以外の立場」(体裁)の考えに少しずつすり合わせをしていく事でしょう。あくまでも「死刑」が確定した事が前提ですが。 ★私が「それ以外の立場」(理屈的?)で感じようとした時・・・「死刑制度違和感在り」 「犯罪」というモノが一時的にそこから切り離され、「命の違い」・「殺したい欲求の違い」ということに重きが置かれます。ただ、これは生まれながらのモノではなく、教育(体裁)により創られた価値観のようにも感じていますかね。そしてそこには「死刑を望む」人達の強い姿(気)に対する違和感にも後押しをされているところが少なからずありますかね。 ただ、「被害者の立場」にいても、「死刑にしたい」という欲求を意地張って抑えられたとして、加害者の生い立ちに同情的言葉を掛ける事が出来たら、加害者はどんな反応をするだろうとも考えてしまいますね。もっともこの想像も「それ以外の立場」が成せる技なのかも知れませんがね。 結局の所私は、その時の立場による感情・感覚により「理屈」(体裁)を整えながら、出来る限りのその時の欲求を満たそうとするでしょう。そしてこのように書ける自分に怖いものも感じ、そしてまた誰かの感情を逆撫でしていることでしょう。 全ての立場(世界観)を受け入れられる事もすばらしい事だと感じますが、良くも悪くもその時々で、何かしらの立場(世界観)に偏らないと世の中動いていかないようにも感じています。「死刑になりたかったので殺すのは誰でも良かった」も「死にたいなら一人で死ね」も立場は違えども深く絡み合った寂しい言葉ですかね。(08.6.7著)・・・・・・・・・・ 「万引きGメン」と言うのをTVで見ましてね・・・ お店に雇われて万引きした人を捕まえるお仕事ですね。捕まえてお店の責任者に突き出すところまでは良かったのですが、犯人に向かって説教をし始めたときにちょっと違和感をもってしまいましてね・・・確かに悪い事をした人に対してだから当然だとも思うのですが・・・お店の人が説教するのは解るのですよ。直接的に迷惑を受けているのですからね。 何故ですかね・・・こんな不況のなか仕事にも就けていない人(時に万引き犯もここに含まれますか?)がいるのに、万引き犯を捕まえることによって給料を貰い、生活が成り立っているのに犯人に対して説教までしていることがどこか気持悪く・・・「万引きGメン」という職業が成り立つのは、万引きをする人が居るからというジレンマや矛盾からですかね。 「本物の銃が撃ってみたかったので自衛官になりました!」とか「戦車・戦闘機がカッコいいから自衛官に・・・」とかいう言葉を聞き・・・とても純粋で正直な動機であるとも感じますが、ちょっと違和感もありますかね?例えば「国民の安全のために・・・」だとか「正義のために・・・」とかいった言葉が建前でも欲しかったようにも個人的には感じますがね。 また国防に関る政治家や専門家達が軍事に対して語るとき、また例えば学者達が地震などの天変地異などが起こる可能性を語るとき、生き生きした目をしていたりしてちょっと怖かったり、そしてまた世の中が平和になったら軍隊や自衛隊、武器の製造に拘る職場で働く彼らを他に受け入れる仕事量がありますかね?自然災害等の対応のために組織を存続したとして・・・ 決して災害が起こることを望んでは居なくても、救助をするその姿に直接の憧れを感じてその職業を選び・・・結局災害といった他人の不幸に繋がることが起こって初めて成り立つ仕事が、時にその人の人生の遣り甲斐になり、命に関るのでなによりも尊い職業と言われたり・・・「平和」=「幸せ」?「必要悪」とか言われたり・・・そんな事って世の中多いですよね。 例え金銭的公平な世界が訪れたとして、人が皆公平な立場で長く納まっていられるのですかね?自分よりも不幸な人を見たりして他人よりも少しでも上な感覚を得られて初めて自分に安心感や癒し(満足)も得られたり・・・人が目指す「立派」も他の人より「上」って事で・・・「下」があって初めて「上」が成り立つ・・・とても気持ち悪い摂理ですね。 せめて平和的に皆スポーツ選手になりますかね?また時に万引きするのはモノが欲しいからやるのではなく、寂しくて人との関わりが欲しいからやると言う心理分析もされたりしますかね。無意識に見つかる事を望んでいるとか?それも含め、私には違和感・疑問もありますが、これ以上は色々と体裁も悪いので今回は突っ込むのは辞めておきます。(09.12.17著)・・・・・・・・・・ 「日本人が中国で死刑に・・・」 私はちょっと違和感がありましたかね。日本の量刑の感覚からすれば犯した罪に対して罰が重過ぎるとか・・・お恥ずかしいことに、私に限っては外国人によって日本人が処刑されたということ自体に違和感がありましてね・・・犯罪者ということを棚に上げてしまい、「同じ日本人」ということに仲間意識(情)が芽生え、優先してしまったのでしょうかね? 一方、沖縄で米軍兵士による日本人に対しての犯罪がありましたよね。なかなか日本の法律で裁くことも難しいようですね。これに関しても違和感がありましたが・・・基本的に前記の件と立場が変わったということで、自分の正直な感情に矛盾が成立してしまうんですよね。もっとも「同じ日本人」という観点では一貫しているのでしょうけれどもね? 私の基本は情よりも理屈(ルール等)を優先し、表向きは理屈(正義観等)で情を抑えることは難しくないのですがね。情に厚いことが「正義」的イメージがあるようにも感じますが、時にどんな情にも流されないことが「正義感の強さ」であるようにも感じますがね。他国のルールを把握し、意図してそれを破るのであればそれなりの覚悟は必要と感じますが・・・それでもやっぱり違和感は残りますかね。(10.4.6著)・・・・・・・・・・ 「○○反対!」 最近では「原発」などが大きく取り上げられているようですね。推進派からの「原発を止めて足りなくなった電力を何で補う?」に対して、反対派からは「太陽や風などの自然エネルギーに移行すれば・・・」と言ったような議論も聞かれますが、そもそも根本は原発・自然エネルギーに拘らず、電力自体の遣い過ぎなところにあるように個人的には感じますけどね? 電力等のエネルギーの遣い過ぎによって温暖化が進み、地球環境が変化して自然災害が頻発して・・・生む事が安全なエネルギーに移行した時、ヒトはその使用に歯止めが利きくのか怖さも感じます。そしてまた根本にもっとヒトの「想い」(気)的なモノを感じますがね。ヒトの「対立」には、良くも悪くもエネルギー(気・想い)を容易に増大させる資質を感じます。 大概はどちらかに「正義」的なモノの存在が有り、二者には大きな違いも感じますが、それを除いて純粋に感じた時には両者には似た強い「気」を感じますし、ぶつかり合っているうちにそれがさらに強まって、またそれらがメディアに載って周りにも「関心」が広がるとさらにエネルギー(気・想い)を増幅させて様々な現象(物質)が生まれるように感じますかね。 自然などのヒト以外の存在にはヒトの想いを反映する「気」を感じます。大概はその時点で自信(正義・体裁等)の強い側の都合の良い現象が現れるように感じますかね。最近特に世の中では政治などを見ても「先に進まない感」や、「不公平感」・「リセットしたい感」などの想い(気)の強まりも感じられ、負な自然現象等も頻繁になっているようにも感じますかね。 最近携帯電話に「脳ガン」との因果関係が国際的に報告があったようです。特に新しいテクノロジーが背負うと感じるモノに、その時点では体裁の良いモノに移行できたと感じても、そこでまた特定の人間だけが得しているようなことが明るみに出れば、そこで嫉妬などの強い「想い」(気)が発生し、対立・反発(気の増幅)の発生が繰り返されるとも感じますがね。 放射能などの毒も、核開発時の根本に「人殺し目的の道具(原爆)」的なヒトの「想い」の関与がなかったら変わっていたようにも感じますがね?飛躍的ですし、何より今となっては後の祭りですがね?自然エネルギーへの移行と共に、これからのヒトの英知が放射能を無毒化したり、放射能に順応させるのを期待するのはやっぱり無意味なことでしょうかね? また原発反対派に反発する人の中には、推進派ではなくて反対派に正義を感じていても、単に反対派の主張の強さへの嫌悪が反発の引き金になっていることも少なからず感じます。私は、原発は危険であり、ヒトはそれを完全にコントロール出来ないという自覚もありながら、それを有する会社が作り出す電気を遣って快適な生活を送って来てしまいましたので・・・・・・おおっぴらに反対することに負い目も感じますかね。そして皆が公平に「不便」に戻るならその覚悟もありますが、特定のヒトだけが得をするのであればやはり考えてしまいますね。そして対立・反発自体が生きていくうえでの欠かせない営みとなっており、時に何よりも人生に張りを与えてくれるモノになっているように感じますのでジレンマもありますかね。 そして前記した「正義」もその時々のヒトの価値観の変化によって一瞬にひっくり返されてしまう恐ろしさも感じますかね。例えば比較的先進国では「命」こそ最も尊ぶべきモノといった価値観も根付いているようにも感じますが、他の発展途上国のなかにはとてもそれを感じられない文化や習慣が残っている国も少なくないように感じますかね。 日本の戦国時代などを見て、先進国のたどって来た道が発展途上国にあるとするならば、発展途上国のそれにこそヒトの本質的なモノがあると考えることが自然であると感じますし、自然災害などによって先進国的価値観がそこへ何時引き戻されてしまわないともわかりませんかね?現に戦国武将などが多くの人に尊敬されていたりもして、少し怖さも感じますかね。 豊かさ・利便さを知ることがヒトの価値観に大きく影響を与えると感じますかね。対立が激しくなった時こそ、どちらか(特にその時点で優位な立場にいる側)が、一時的にも相手の立場に同情や労いの気持ちを示してあげるだけで、色々と事が良い方向に進むことも少なくないと感じますがね。もっともそれを利用しようとするズルい輩も居ますがね。(11.6.7著)姉妹日記「立場-1」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
‘07年を象徴する漢字は「偽」でしたね。 政治や経済・スポーツなど、各界までに渡りましたね。そして内部告発という、なんとも気持がしっくりこない「正義」が、これから各界の「偽」の抑止力となっていくのでしょうかね。ただ、自分の中に「気持良さ」を少なからず感じていることも正直な所ですね。 最近「嫉妬」・「嫌悪」(不公平感)的な「想い」が蔓延していますね。一部の得(ワガママ)をしている人たちに対する「嫉妬」や、またその「嫉妬」している人たちに対する「嫌悪」や、色んな所にその「想い」が結びついていくようで「自己主張」することが怖いです。そしてまた、「自己主張」するきっかけや、「正義」の根底にも関る「想い」のようにも感じます。 とても本質的な強い「想い」(力)の形のひとつで、時に大切なモノとも感じていますがね。 また霊感商法での被害が出ているようですが、その商法の多くは確かに意図的な「騙し・脅し」(嘘)が含まれているようです。ただ私の世界観もそこに陥り易いモノがあると感じ・・・例えば、薬はその人が効くと想えるモノこそ効果が上がると感じ・・・そして人は「安い薬」より「高い薬」にその想いを置き易いと感じ・・・私には売るモノが無くて幸いでした。 そしてブランド品や宝石には霊感商法的不信感が生まれないのも不思議に感じます。そしてまたお金に執着する人も、お金が無いと「プライド」的に本当に生き辛いのでしょうね。私も世間体的(安心を得る)にはもう少しお金が欲しいかな。ただヒトは、皆がしている(公平)と感じられると、多少の苦労や不便も我慢できたりもするんでしょうね? その人の「正しい」や「真実」は、受け手側の世界観やその時の精神状態で全く正反対のモノにも化けてしまうとも感じています。その人の世界観での「正しい」や「真実」を通すためには、他人の想いの同意は欠かせなく、多くの他人の世界観の利害(欲求)が一致したとそれぞれが感じた時に初めてその時々の「正しい」や「真実」(常識)になると感じます。 「嘘」は元々「正直」(欲求)を通すために生み出されたように感じます。また、世の中「正直」では生き辛いと感じた人が創り出した能力のようにも感じます。私は「正直者」同士が乱した雰囲気を「嘘つき者」が整えている場面も少なくないように感じています。質にもよると想いますが、どちらに偏りすぎても歪みを生むように感じています。(07.12.16著)・・・・・・・・・・ 「エイ・エイ・オー!」政治家達が、他の党を相手に拳を振り上げて叫んでいました。 ちょっと変な光景です。政治家の主な仕事ってそこにあるようですね。その人それぞれ「生きがい」を感じるモノも様々と感じますし、中には本気で志の高い理想を掲げている人もいるようですが、いずれも自分の人生ゲームに他人のお金(税金)を遣うのは勘弁してほしいですね。よく言えば、お金に恵まれる人はそんな所に「生きがい」を求めていくのでしょうかね。 また例えば、直接モノを創らず、他人の生んだお金を主に使う側にいて、それでもなお沢山のお金が流れてくれば、お金に対しての価値観も庶民とは異なりますかね。そんなシステムも基は彼らが造ったモノなんでしょうがね。ただ、周りからこれ程嫌われているにも拘らす、そこまでして続けたいと感じる「生きがい」とその「鈍感さ」には、正直嫉妬さえ感じますかね。 そして政治家に限らず不思議とそんな人の所にお金は集っていくんですよね。単にお金の臭いを嗅ぎつけて集る輩も少なくないと感じますが、好きな事に没頭していると本人にはそんな感覚は無くとも周りからは努力しているように見えたり、多くの助けも得られたりするようですし、必ずしも努力にお金は結びついていないようにも感じますね。(08.7.20著)・・・・・・・・・・ 「甘ったれるな!」と全ての指にデッカイ宝石をつけた女社長が、ワーキング・プアーと称される人達に怒鳴っていました。 お金を稼ぐ努力ややる気が足りないといっているようですが、彼らはその女社長のような裕福な生活も望んでいないようです。とにかく普通に生活できる報酬や、社員と同等に努力したり責任を負っている場合は扱いも同等にして欲しいだけのようですね。私も彼らにはもどかしさも感じますが、デッカイ宝石への嫉妬の方が勝りますかね。(笑) 「金儲けして何が悪い!」・・・確かに「金儲け」自体は悪ではないと感じますが、「お金持ち」でいることは少なくとも善では無い様に感じますかね?お金のようにある程度流通している量が一定しているようなモノは、誰かが沢山所有してしまうと何処かにそのシワ寄せがでるように感じますね。そして世の中にはお金が無くて命にも関っている人が沢山居る訳で・・・ それを知りながらもとても余裕のある生活をつづけていける神経がなければ、「お金持ち」が発生するわけないでしょう?本人には「他人より頑張ったのだから」とか人生ゲーム的な生きがいはありましょうし、今の私の立場からの嫉妬も多分にあると認めますが、命が危ない所にも廻さないなら生活に困らない分は「金儲け」ですら程々にして頂きたくも感じますね。 一般に8時間労働と言われますが、寝ずに働いたとしても24時間・・・3倍ですね。仕事に対してのやる気の違いを考慮に入れても、せいぜい5倍・・・?どんなに多くても10倍もの頑張りの差なんて出ないように感じますね。好んで頑張っている人も少なくないですからね。それが給料には10倍・100倍・それ以上の差が出て来てしまうのだから不思議です。 人や商品(作品)の評価・価値は他人によって与え(上げ)られるモノで、いわば稼がせてもらった(気に入ってもらった)訳で・・・自分の力で稼いだなんて恥ずかしくて私は大きな声では言えませんね。ただ、世間で社長と呼ばれる人達のそういった自信ある気質にはいつも嫉妬させられますし、時には「安心」さえ感じられることもありますね。(08.9.20著)・・・・・・・・・・ オーストラリア森林火災救済のために、世界の有名俳優達がチャリティーを呼びかけていました。 彼等の呼びかけで13億円も集ったそうです。尊敬しますね・・・あれ?13億円って言ったらその俳優達一人の映画1本のギャラにも満たないですかね?ある俳優は離婚の慰謝料450億円とかも言っていましたかね。サラリーマンが生涯で稼ぐお金の平均は2億数千万円程と聞きますし、資産の半分も投げ出しても一生そこそこ高水準の生活も出来そうですがね。 私など多くても5億円も頂ければ先々の安心を得られ、そうなれば私もボランティアで社会貢献出来そうな気もしますかね?まして好きな仕事に就けていたなら、なおさら無償で働けるかな?いや、私のように他人の目を強く気にする人間は「嫉妬」を恐れて、逆に進んで社会貢献をせざるを得なくなるとも感じますね。それでも結果的に沢山の人が救われて・・・ 私も沢山のお金が入り始めると、色々と感じ方(新たな不安等)も変わるようにも感じますし、今困っている人達よりも優先して、そういった「金銭」事に気が行ってしまう自分に気持ち悪さも感じていますしね。ただ確かにその時々で優先順位はあると感じますが、表の体裁の良い事実に拘ることで、裏の体裁の悪い事実が見えなくなってしまう怖さも感じますね。 今問題になっている「格差・貧困」にも、そういった事が原因の一端であるようにも感じますがね。いくら他人より頑張っているとはいえ、一人で450億円も持っていれば、何処かにそのシワ寄せが出るのは当たり前のことでしょうね。もっとも今回の私の場合そんな立派なモノではなく、単に「お金持ち」に対する「嫉妬」が強い自覚もありますがね。 自分に余裕があると周りに気も配り易くなり、呼びかけによって起こった活動自体からは何物にも代えられない感動を得られたり・・・「金持ち」や「格差・貧困」の是非も分からなくなって・・・また裏の事実が見えなくなる。(09.6.23著)・・・・・・・・・・ 「給料泥棒」 私が今まで働いてきた職場にも、「この働きで同じ給料?」と思えるような人が少なく無かったですね。まあ私も正直自分の働きに対して給料が安いと感じていたことが多かったので、彼等の「貰っている給料分以上働くのは損」的考え方も解らないではないのですが、まず自分が頑張っていると感じるくらいやらないと給料アップの交渉も難しいですからね。 そしてどんなに頑張っても一人ではなかなか会社は動かせなかったりするので、やはり皆にも頑張って貰わないと・・・なんて考えながら、いろいろ会社と遣り合ってきましたかね。ただ私は仕事の内容よりも、「他人より頑張っている」とか「会社の不条理と戦っている」とか言うところに直接的な遣り甲斐や満足を感じていたのも正直なところでして・・・ 今では公務員の「天下り」などの問題に対しても、その組織や人数自体を削って働く場を減らすこと自体は違和感があるのですよね。民間の企業においても「給料泥棒」的人間を見てきていますし、私が頑張ってきたのも「会社のため」とか体裁を整えて結局の所自分の欲求を満たしていた自覚もありますからね。人によって「頑張り所」は変わると感じますから。 ただ民間の年収の平均が500万にも満たないのに、その税金で給料を貰っている公務員に民間の平均よりも何倍も貰っている人間が居ることには不条理を強く感じますかね。民間の平均年収層は平均より頑張っている人が多いと感じますから。役職に拘らず多くても公務員の給料は民間の平均程度にして、浮いた税金で公務員も含め仕事場を増やすべきじゃ・・・ 「事業仕分け」と称し、「無駄」を削るなどして頑張ってくれているようですが、そもそもヒトは必ず死ぬ訳でしょうし、ヒトのすることは全て「無駄」とも言えたりしません(飛躍しすぎ)?それでも今の世の中のシステムの中で生きて行くためにはお金も欠かせず、それには無駄であっても事業を起こし、雇用を増やしてお金を回すことが必要だと感じますがね。 むしろ既に多くの給料を貰っている国会議員達がやっている「事業仕分け」自体が多くの経費を喰う無駄な作業のようにも感じますがね?ただ単に民間の平均よりも多く貰っている公務員の給料を一律に下げる打ち合わせを国会内ですれば済むことであるように感じますがね?それにはまず公務員のトップである国会議員自ら賃金カットし(頑張っ)てみせないとね。 寝る間も無いくらい「事業仕分け」を頑張ってくれている議員さんも沢山居るようですが、民間と同等の基本給にその分はしっかりと残業の申請をして貰って・・・「事業仕分け」のおかげで不条理なことが見えただけでもやった甲斐があったと言いますが、個人的には改善されないのであれば知らない方がイライラせずに済むだけマシだったかな? そして結局は仕分けをする側・される側は「同じ穴のムジナ」的共存関係にあるのでしょう?「仕分け」は「いつかやってくれる」期待を煽ることで事を先延ばしにして、長く不条理が存在できる「隠れ蓑」的な術にもなりうるように感じますかね。(10.6.5著)姉妹日記「戒め」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
今日も「大食い」のギャル○○さんをテレビで見かけました。 彼女の容姿からは、非常に「周りの目を惹きたい」気質を感じ取れますね。例えば小さい頃、家族が皆そこそこの「大食い」で、その中で大好きな家族の気を惹くとなれば・・・また、沢山食べたことで褒めてもらったりしていれば・・・そのような小さい頃の環境によっても発達する才能のようにも感じます。食べっぷりも気持ちよいです。 また彼女の場合、おそらく沢山食べても普通に食べても「満腹」を得られない感覚はさほど変わらないように感じますね。「満腹」という満足感よりも、「美味しい」という満足感の欲求が優先するのでしょうかね。食べた物や得たエネルギーも体の中を単に通過するだけで、普通の人よりも長く「美味しい」を感じられるのでしょうかね? 私は「食べる」ことに、あまり執着を感じません。空腹時の手の震えや、イライラを止めるために「食べる」感覚です。好きなことをしているときは、むしろ邪魔な行為ですね。そんな時は空腹感さえ取れれば、薬で済ましても構わないとも想ってしまいます。(皆で楽しく食べるなら別ですが)よって、「食べる」をすると非常に疲れます。 少し前にも「大食いブーム」がありましたね。「大食いバトル」でしたか?当時の彼らから感じたのは、「食べる」=「運動」ですね。乱暴な言い方に変えれば、「食欲」<「自己顕示欲」ですかね。また、「大食い」の人達には「食べる」に「太る」が必ずしも結びついていないようですね。本人達に「運動」の感覚があれば、それも少しはうなずけますかね? 今の世界観では「体質」ということになってくるのでしょう。食べた物がすぐにエネルギーに・・・満腹を感じる中枢が・・・排泄能力が・・・という具合ですかね。ただこれらは、大食いの「原因」的なモノではなく、むしろ大食いであるために体が変化した「結果」的なモノのように感じます。「体質」とは、この能力を確信付ける「後付」(言い訳)の質を感じます。 おそらく熱を感知する機械(検証番組の定番ですね)を通してみると、背中辺りが真っ赤に映るんじゃないですかね?そんな映像が流れて、後に誰かが、「背中が熱くなるイメージをすると痩せる」などと噂をすれば、人によってはダイエット効果が出たりするように感じますよ。実際に似た例を知っていますし。(笑)「体質」・・・結構曖昧な言葉ですよね。 彼女達の場合、元々は小さい頃から単に「太る」というイメージを刷り込まれずに済む環境にあっただけと感じますがね。そして、無意識にそれが自分を表現する手段になると気付いて、その能力に拍車がかかったように感じますが。また時には「太る」にも、「刷り込まれる」とは別の色々な意味で周りの目を惹きたい気質を感じられることもあります。(07.10.9著) ・・・・・・・・・・ 「エネルギー」も、実に曖昧ですね。存在自体も曖昧です。 「エネルギー」って物質が運動をするために必要なモノですかね。例えば「光や熱」自体が粒子(物質)だったとすると、それ自体に運動を働きかけるモノの存在が別に必要になるように感じますがね。「熱や光を放つ粒子(物質)」・・・この場合、物質に含まれていたり、発せられてはいますが、直接物質ではないモノという捉え方になってしまいますかね? ただそうなると物質ではないモノが時には視覚や触覚等の五感で認識・・・?科学の世界観においても物質以外に存在するモノを認めるって事になってしまいますかね。そもそも最小の物質が見つかったとして、物質と物質の隙間には何があるのですかね?ただ最小の物質が見つかると、科学自体の基本ルールが成り立たなくなりますがね。それは置いといて・・・。 少なくとも「熱」や「光」、時には「宇宙」など、それ自体ではなかなか形として捉えづらいモノばかりです。困った時に、色んなモノに当てはめてしまえるように感じますね。そして「曖昧」であるが故に、逆に「可能性」や「信頼」を強く置けることも少なくないように感じます。「曖昧」は不信を生む「矛盾」を抑え込む大切な役割・力も感じます。 また運動をする人(運動好き)にとってはエネルギーが欠かせないという表現になりますが、逆に食事などで溜まってしまったエネルギーを出すために運動をしなければならないというのが多くの人に当てはまる表現のようにも感じます。エネルギーも出し場を考えず摂って溜めてしまうと、時に病気等の形をとって排出されるようにも感じますかね。 スポーツは体に良いイメージも強いと感じますが、スポーツマンには運動による持病を抱えている人も少なくないようですし、活性酸素云々とか・・・特にスポーツに興味関心が無なかったりストレスを感じたり、また普段から摂生ある食生活をおくっているような人にとっては、気分転換的役割を除けば必ずしも体に良いモノでもないように感じますかね。(07.10.10著)・・・・・・・・・・ スポーツ選手がそれぞれの競技によって特徴的な体型の変化を起こしますね。 それによって色々な意味で「上達」を目で確信しているように感じます。そして私は、人並以上に体が硬いのですが、2日で胸が膝に着いた経験をしています。そこには頭の固さとも関係があるように感じています。(この経験に関しては、また別の機会に詳しく)そしてまた私は、就く職業によってもすぐ「体つき」が変わると言われます。 また「食べ過ぎ」(量的には他の人よりかなり少ないと思いますが)を感じると、すぐに体に表れますが、食べ物では最も好きな「米」を夜だけ絶つと太りません。その分、オカズを食べる量はかなり増えますし、他の炭水化物をより多くとっても大丈夫です。その代わり、その期間は、とにかく「米」を絶つことに関してだけはストイックになりますよ。 他人の好意を無にしても・・・位、「ワガママ」でいきます。また全部食べられるのに、あえて(意識的に)少し残したり・・・。(お百姓さん、ごめんなさい)私の中には、そこまでして好きなものを我慢(制限)しているんだから・・・のような契約が自分の中の何かと結ばれているようです。(笑) 「風水」などにも、「何だか解らないけど、専門家が言う決り(制限)を守っているんだから・・・」的信頼のような前記に似た自分との契約を感じます。宝くじを当てる人も、自分なりの様々な制限を自分に加し、それをクリアしていくことで当たる確信を自分の中で強めていく人も多いようです。そして、スポーツや宗教などの「練習」や「苦行」にも同様に・・・。 科学も幾つもの条件(ルール・制限)を整えることで現象を起こす点では変わりませんね。そして他の世界観より表面上の信頼(日本人においては、外国評価に弱い的信頼とでも申しましょうか?)が篤いので、その条件の数も比較的少なくて済むように感じますね。(07.10.11著)・・・・・・・・・・ 私はピアスはしません。 もう沢山の人が当たり前のように着けていますし、直ぐに飽きてしまうので・・・なんて2の次の理屈ですね。1番は単に「痛そう」だからです。痩身や整形の手術・刺青など積極的にできる人がいますよね。歯が痛くなると「ちょっと歯医者にいって抜いて貰ってくるわ」なんて男らしい女性の知人もいます。「痛み」に比較的鈍感な体質もあるのでしょうかね? ただ小学生の頃の予防接種の注射は積極的に1番で受けていましたね。私の頃は1本の注射器で2人を打っていたこともあり、子供心にそれが気持ち悪かったこともありましたが、1番に受けると、ある意味ヒーロー(勇敢)になれるんですよね。また順番を待っている皆に「どうだった?痛くない?」とか聞かれ、言葉で安心させたり不安にさせたり・・・。(笑) 先に待っていると想われる「気持良い」が優先して、目の前の痛み(恐怖)も軽減されるのでしょうかね?また整形手術などをしていつまでも若々しくいる人を見ると、「親に貰った体にメスを入れて・・・」とか言ってしまいますが、自分には怖くて(経済的にも)踏み込めないことへの嫉妬があったり、自分自身を誤魔化しているのが私の実際のところですかね。 同じ「痛み」でも、「酷く痛いんだろうな~」なんて考えを前持っていると大したことなかったり、「大したことないんだろうな~」なんて考えを前持っていると酷いことになったりしませんか?たまには「ネガティブ」も悪くないと感じたり、「痛み」の感じ方にも体質より気質が関っていることも少なくないと感じますかね。(09.11.24著)・・・・・・・・・・ ※ あくまでも個人の感想です。 または ※ 個人差があります。といった注釈が、通販のTV・広告などの隅に必ず書かれていますよね。私などはそれを目にした途端に、そのモノに対する信頼を失くすタイプですが・・・だって例えそれが100人中に1人の確率であったとしても、自分がそこに当てはまらない確証は無いですし、なによりダメだった時の逃げ(ズルさ)を感じるので・・・ 事実そういった「不信」を持ったヒトには「効果」も得られにくいと感じますかね。 例えばダイエットには(ダイエット食を)食べて痩せるといった一見矛盾した(都合の良い・ワガママな)モノもあり、それで結果を得ている人も少なくないようですね。確かに食べる量やカロリーは減っているのでしょうが、個人的にはその食材を薦める専門家の言葉(理屈)や、時に都合の良い・ワガママな気質に体型を変化させる力があると感じますがね。 また「これだけやったのだから、効果がでるだろう」的な自分の中のなにかとの契約(想い込み・信頼)的なモノに要因があると感じますがね。その「これだけやった」の満足度もヒトそれぞれで異なり、中にはたいして努力しなくてもすぐに成果を得られてしまう人も少なくないと感じ、個人的には体型の変化も「体質」というよりも「気質」と感じます。 食べないことによって「我慢」を養うことにも痩せる効果を感じますが、個人的には「我慢」にヒトとしての格好よさを感じてしまう気質になってしまいましたので、例え痩せなくてもそちらの方が意味があるようにも感じてしまいますがね。そしてまた個人的にはテレビなどの痩身企画に参加するのが一番効果が高いようにも感じますがね。(笑)(10.8.22著)姉妹日記: 「気質」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
TVでマジックのスプーン曲げを見て、子供達が本当にスプーンを曲げていました。 その真偽はともかく、人はなかなか自分の感覚(能力)に自信を持てなかったりしますよね。どんな能力者であっても、感じたことを言葉や行為にするなどして自分以外の存在から同意を貰うことで初めて確信に進み、現実のモノになったりするように感じますね。科学者を始め、時には占い師・霊能者・気功師達の自信に満ちた強いアドバイスだったり・・・。 またアドバイスする側も、例えば科学的理論を立証する実験を始め、占いの道具や霊視で言うところの霊、気功師などの言う宇宙意識やエネルギー、そして自分の中に感じる他意識的なモノのアドバイスだったり・・・。感じた自分や相手の想いの確信を得るために自分以外の存在を無意識に創りだしているようなことも少なくないと感じますね。 そして少なからずそこには自分から「責任」を外す(楽を得る)役割も感じますかね。また例えば霊視や透視・占いなど科学的根拠の無い方法によってその時の相手の想い(時には特に悩みに直接関らない過去の出来事等であっても)を言い当てたりする能力を見せられると、「何か特別な存在」的強い信頼を得られやすいことも少なくないように感じますね。 よってその人の発する「言葉」は相手に強く影響を及ぼす力を得ると感じます。アドバイスの通りに行動すれば、その信頼(自信)から言った通りの結果が得られることも少なくないと感じます。時にはそれを「予言・運命」(あらかじめ定まっていたモノ)とか位置付け「楽」を得る役割も感じますが、「言った(想った)通りに事が進んだ」であるように感じますね。 ただ後ろ向きの想い(不安等)をそのまま伝えることによって負の確信をも創り、事態を悪くしてしまうことも少なくないと感じます。本当に相手のことを考えるなら、時には「秘密」(孤独)や「負い目」(嘘)等のリスクを自分に背負うことが必要に感じます。ただヒトの想いは変わりやすく、常に良い方向へ向かう保障はありませんから相当の覚悟がいると感じます。 まして健康や命に関るとなかなか一人ではそのリスクを背負う勇気(責任)も持てませんかね。病気の診断は医学以外では法的にも問題ありますし、時にはそこに関る周りの人まで巻き込み、潰してしまうことにもなっているように感じますね。そしてなによりそんなリスクを常に考える私にはそういった世界観に直接関る資質に疑問も感じますかね。 医学的検査で見捨てられるように悪い結果を貰った後に気功を受け、そこで調子の良さを得た人でさえも後日再び医学的検査で良い結果をもらって初めて本当の安心を得ている人が少なくないようです。どんなに不思議なモノを信じているという人も、結局最後は科学的実験・検査等による物質的・五感的に解り易い立証(主世界観の同意)が欲しかったりするようです。 かえってその人が苦手と感じている方法によってその事態を乗り切ったり、色々な世界観から同時に認めてもらうことでより確信が強まるとも感じます。そして人は何か決断するときに、時には真偽を問わず自分以外の強引な(自信に満ちた)言葉の後押しを望んでいますかね。そして時にその強引な(自信に満ちた)言葉に強く反発したくもなるようです。(08.12.4著)・・・・・・・・・・ いよいよ総選挙ですね。 各党のマニフェストに高齢者の医療費や子供の教育費を無料とか掲げられていますが、「100年に一度の経済危機」の金欠年にそんな約束が出来るなら、もっと前から出来たんじゃ・・・?後出しマニフェストとか正式なマニフェストではないとか、また最近は他党の政策の揚げ足取りや悪口など、相手を貶めて自分を優位にする某外国的演説も増えてきましたね。 昔は日本人が一番嫌うやり方と感じていましたがね? 資本主義・自由主義・民主主義・・・政治家達がそれらを「正義」のように主張していました。ところが彼ら自身は「公務員」という、ある意味それらに反するシステムに自ら望んで入り込み、また逆に社会主義・共産主義の国においても、それらとは反する資本主義的なシステムにおいて莫大な利益を得ている輩も少なくないように感じますがね。 「政治家は国民が選んだのだから国民に責任がある」・・・って、時には政治家自身の口から聞きますね。「国民が政治に関心を持って、よく政治家達を監視していないから・・・」とか言いたいのでしょうが、庶民は自分達の仕事をして税金も納め、そこまでする責任は無いですよね。政治家自身が同じように自分の仕事を極普通に果たせば済むことですよね。 「悪いのは、ほんの一部の人間だけだ」・・・とも言ってますが、同じ職場にいて、その実体を知っているにも拘らずそれを見逃している「大部分の良い人間」(?)には大きな責任があるように感じますがね。「信頼できる人物がいないから・・・」といって投票を棄権すれば無責任と言われ、無理に投票すれば「国民に責任が・・・」と言われ・・・理不尽です。 「世論調査に左右される政治家が多すぎる!」・・・政党を問わず、政治家自身の口からそのような言葉を聞きました。いわば国民の声によって、自分の信念がブレるような政治家は信頼も出来ないと言うことなんでしょうかね。政治の素人である国民の意思が、常に正しい方向に向いているとは限らないという言葉も出ていたように記憶しています。 プロ意識や責任を感じたりもしますかね。ただ彼らは国民の意思を代弁し、国政に反映する「代議士」ですよね。であれば国民の意思の方向性が変われば政治家の信念も変え(調整す)るのが責任(能力)と感じますがね。口を開けば「国益を優先」とか言う政治家達の正しい方向性にも、世界共生的価値観から見れば少なからず疑問も感じますけどね。 某資本主義の大統領選の盛り上がりを見ると、国民の政治への関心や責任の高さも感じますが、沢山の大人達が揃って「Yes ,we can!」を叫び、また何でも「お祭り事」にして、あらゆるシチュエーションでも「楽しむ」してしまえる国民性(気質)に少なからず怖さも感じますかね。他国において靴を投げられてジョークで返すリーダーにも違和感はありますかね。 昔はそんなジョークや熱い国に憧れも感じましたが、今は冷めた大人が多い国に安心を感じることも少なくないですかね。とにかく今回は投票してきます。(09.8.25改著)・・・・・・・・・・ 18歳から成人に・・・? 20歳から引き下げするような議論がなされているようですが、個人的には現代の若者に感じる主な気質からは、むしろ引き上げるべきではないかと感じますかね。たしか「元服」とかいって、昔はもっと早かったですものね?私の成人時もその頃の成人に比べれば幼かったように感じますし・・・平均寿命も伸び、年々成人も晩くなっているようにも感じますかね。 そもそも「成人」(大人)の定義って何ですかね?主に自分の行為に「責任」をとれるってことでしょうかね? 「大人」を画一された定義付けできるなら、誰かが言っていましたが、免許・試験制度により成人を決めるって言うのもありですかね。中には「大人になりたくない」といっていつまでも試験を拒みもしましょうが、成人(自己責任を負う)にならないと常に管理され、広い意味での楽しい(破目を外す)行為も許されないようにすることにしましょうかね。(笑) 「大人」の定義も多様ならば、成人の明解な区切りも不要な気がしますけどね。未成年(子供)の引き起こした犯罪などは罰則も軽減されますが、成人の犯罪も主に精神的には未成年(子供)の気質が起こしているようにも感じ、結果的に未成年(子供)を罰しているように感じますがね。単に「長く生きた」が責任感に繋がるとも感じませんかね。 私も仕事で若い部下を持ちましてね・・・ 私など会社の利益を考え、時には個人的な仕事の完成度(満足)を抑えてでも時間を優先して進めたりしますが、若い部下にはその感覚が伝わらず、逆に「適当」を教える事になったりしましたかね。変に割り切り(諦め)を身につけた大人達よりも律儀で、少し質は違う(個人的プライド)とも感じますが、時に若者の方に責任感の強さを感じたりもしますかね。 やはり早めに成人させて「責任」を負わせる訓練を始めた方が良いですかね?「若い」(純粋・素直)であればあるほどその刷り込みもし易いように感じますし・・・自分で言っておいて恐ろしさや腹立たしさも感じますかね。私も自分の中の「子供」を抑え込む能力はある程度身に付けたと感じますが、根本は子供の頃となにも変わっていないと感じていますね。 個人的には「抑え込む能力」を身につけるのに、小さい頃に他人からの批判・嫉妬などの厳しい抑え込みを沢山経験してきたと感じています。嫌な想いも沢山残し、大切なモノを無くした(損した)感覚もあり、結局の所その是非は分かりませんかね。もっとも相手の「想い」の選択には、想いを受ける側自身の内にも大きな要因を感じていますがね。 またそれと同時に、格好をつけて何でも自分の責任(大人)に捉えようとする自分に煮え切らなさや驕りを感じることもあり、なにかと動き出さない自分に苛立たしさも感じますかね。そして一般に成功を収めて尊敬される人達にも、この「子供」的気質を強く感じられることが多いのですがね。(09.5.5著)・・・・・・・・・・ 「スピリチュアル・カウンセリングを受けたのだけれど・・・」 知人はお金を払って色々と相談をしたようですが、結局「やりたいと思ったことをやり、やりたくないと思ったらやらなくて良い」ような諭しが返ってきたようですね。彼女は自分を抑え、我慢するような生き方を選択しているようなので、ある意味そういった言葉で「安心」や「癒し」、また自分の生き方にある意味「優越」なども少なからず感じたことでしょう? ただ結局の所、普段から私と話していたような内容がそのまま返ってきてしまっただけで、何か変化を望んでいる彼女はあまり進展を感じなかったようです。ただ例えその時望んでいることを読み取って具体的な言葉の後押しをしても、人によって、例えば常に人より上の立場を望んだり、直ぐに結果を欲しがったりして反発や不信・心変わりが生まれてしまったり・・・ 良かれと思ってしたことが、後に「あなたがあの時ああ言ったから・・・」的恨みとなって返ってくる人も少なくないですかね。ただ私も全て基本は「自己責任」的なカウンセラーが言った言葉に賛成ですが、お礼(お金)を貰うとなると、少しは自分に「リスク」を背負ってでも、もっと具体的な(偏った)方向性を示してあげるべきだとも感じますかね。 そういった時にカウンセラー自身にも自分から責任を外せる(信頼を置ける)モノが自分の中にあると、想ったことも口に出し易いですよね。そう、例えば「守護霊がそう言ってるんだから・・・」とか「手相にそう出ているんだから・・・」とか、その人の信じる世界観のルールにより無意識に感覚(五感)化・物質化出来ているモノがあればなおさら・・・(10.9.26著)姉妹日記「運命」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
「今年の流行はチェック柄」とか言っていましたか? 評論家にそう言われてしまうとそこに乗らないと不安ですよね。そんな所(流行)に敏感な人達は時には安心を得るようにチェックを着始めるのでしょうかね。ただそんな専門家の言葉に乗って周りが皆チェックを着出すと、これまた恥ずかしくなったり感じませんかね?少なくとも私は抵抗を感じるので、専門家の言葉を耳にした時点でそれは避けますかね。 ただ例え同じように「流行に敏感」であるが故にそれを避けたとしても、皆がやっている時に一緒になってそれをやってはじめて「流行に敏感」が成り立つようにも感じますね。なんだかんだ言っても皆と同じことをやってはじめて認められることも少なくないように感じますね。そして「流行」と「新しい」は必ずしもイコールではないようですね。 結局私達が昔していたことを若い人達がしていたり、その私達の昔もそのまた昔の人達の真似をしていたり・・・。その度ごとに多少のアレンジは感じますが、基本的な所は常に巡っているように感じますかね。各種芸術的表現方法も基本形はかなり出尽くしてきているように感じられ、後から生まれて来るほど真の自分独自の表現は難しくなりますかね。 そして人間全体として見れば、おそらく「流行」にのっている人間の方が少数派になるのでしょうがね?(08.12.9著)・・・・・・・・・・・ 「自然の美しさにはかなわないね~!」 自然の造作物には想像を出来ないような形や色がありますかね。ただ私は、建物や都市風景の方が好きだったり、自然の線よりも機械や定規で画かれた線、植物においても剪定された植木の方が美しく感じるのですよね。また時には直接見る風景よりも、写真で切り取られた風景の方が美しいと感じたりもしますかね。写真には事実+α(想い)的力も感じますかね。 人の手が加わることで、自然もまた美しさを増すことも少なくないと感じます。また人工物が自然の風景を壊すと言いますが、例えば緑の中の真っ赤な神社や太鼓橋などは、色やデザインが個性的で派手ですが美しい風景に感じますけどね。そこには「神」や「歴史的」な崇高なイメージ、また専門家や主張の強い人による「刷り込み」などの力の助けも感じますかね。 色やデザイン以前に、その人の「想い込み」や人間関係の「感情」的なモノも「美しい」に強く影響していたりしますかね。 反れますが、自然素材のモノは体に優しいといいますが、例えば薬品(毒)など、人工のモノより自然界で作られたモノの方が何倍も強いというようなことも耳にしますね。天然健康食品などで健康を保とうとして、逆にエネルギーの出し場も考えず必要以上の栄養を摂って溜め込んでしまい、体調を悪くしているような人も少なからず感じますかね。 時にその溜まったエネルギー(ストレス等も含め)を吐き出すために無意識に病気(咳や熱等)の形をとる・・・といった世界観もあり、かなり共感も出来ますが、自分が病気と闘っている立場で考えると、少し腹も立ちますかね。もっとも都合の悪い本音を突かれたりしても腹が立ちますけどね。(09.5.14著)・・・・・・・・・・ 「その程度でいいなら私にも出来たよ」 最近評価を得られている作品には、どちらかと言うと一見技術よりも感性を重視したモノが多いようにも感じますが、そういった作品を見て放たれた言葉です。その人にはその発想が無かっただけだったり、そういった発想や技術は在っても自分の感覚には合わないので(下手と感じて)あえてその表現方法を避けた結果、その言葉が発せられたりもするでしょうね。 また、とある展示会のポスターにおいて、デザインの一環として出展者の名前が羅列されているのですが、二人の名前だけ唐突に別の場所に配置されていましてね・・・知人の絵画教室の先生はそれを見て、「なんでこんな所に二人だけ・・・」といった疑問をそのポスターの作者にぶつけ、作者は「ポスターの隅々まで目を惹きたかったから」と答えました。 その絵画教室の先生は、スタンダードで上手な絵を描く人ですが、何処かそのレイアウトに素直に気持ち悪さを感じてしまったのでしょうね。ただ作者のコンセプト(理屈)を聞けば「なるほど!」との感動も覚えると感じますかね。私は正直その二人の名前が書かれた場所はほとんど余白的で、特に目を惹いてまで見せるモノも無かったように感じましたがね。 ただそうした事により、他人の関心を引いて、その作品を印象付けたことは間違いなく、ある意味思惑通りになり、自分の感性を出せたことになりませんかね。そして作者のその配置の理由も、「単に関心を引きたかったから」で充分とも感じましたが、少しズレていても、コンセプト(理屈)が、その作品にいっそう深みを与える効果になっていると感じますね。 芸術とは単に上手・綺麗といった感動だけではなく、時には他人に疑問・嫌悪を与えてでも関心を残す事に強い意味を感じたりもしますかね。そして技術を持っていてもその表現方法を恥ずかしくて、または気持ち悪くて発表出来なかった(発表する勇気がなかった)ということも含めて、その人には出来なかった作品であったと言うことなのでしょうね。 そして同じモノ造り好きにも、褒められたり時には批判を受けてもとにかく他人の目を惹いてストレートな気持ち良さ(感性)を優先したり、特に他人の目を惹かなくとも誰の批判も受けない上手(本物そっくり・無難)な絵を描いて安心(技術)を優先する人がいるように感じますね。(10.6.12著)・・・・・・・・・・ 「パクリ」 某隣国の露骨で時には完成度の低いソレを目にすると、怒りを通り越して笑いすら出てしまい、そこまでして金儲けしたいかとも感じてしまいますが、そもそも我々日本人も、彼等のように経済成長の過渡期には間違いなく欧米の「パクリ」をしてきた・・・というよりも、特に芸術・デザインなどの分野においてはいまだに「パクリ」が続いていると感じますがね? 車などのデザインなどは比較的顕著だと感じますが、外国車に似た車はいまだに消費者に受けも良いように感じますね。私は「外国車のデザインそのままに、日本のエンジンを積んでくれれば最高!」なんて感じ・・・。そして科学的世界観も含め、逆輸入(外国評価)に弱かったりするんですよね。日本製の車に日本語のモノが少ないものそんな顕れのように・・・。 また最近アイドルなどの「パクリ」が報道されていますが、日本国内を見ても、一つ流行りモノが出ると次々と同じようなモノが便乗するように現れてきますよね。そしてパクられた日本のアイドルのテレビに映ったCDジャケットを見れば、パクった某国の民族衣装的なモノを着たデザインになっていて・・・なんか変な話しですよね? 個人的には著作権・特許のようなシステムもちょっと違和感はありますかね。三ツ星を貰うような立派な料理屋において、「お客様の喜ぶ顔が何よりも嬉しい」と言っておきながら、「それ以上は企業秘密です」とか言う言葉を聞くと「お金儲け」的なモノがちらつき、いくら技術・アイディアが高い人でも人間的にがっかりさせられることも少なくないのですがね。 また「そんなのオレは10年前にもうやっていたよ♪」的な言葉も聞きますね。私も若い頃は他人と同じ事をするのが何よりも嫌で、色々な事をやってきたのでそんな言葉にも共感を持てることも少なくないのですが、例え今大流行しているモノであっても、過去のその時々のニーズに合わ(流行ら)なかったモノは、やはりセンスに問題があったということでしょう? ただそれが周りの流行を素早く感じたためにあえてソレを避けたと言う意味では、流行に敏感であったということにはなりますかね?そして誰にも理解されないことに少なからず優越も感じていましたかね?完成度を除けば、学生時代にアイディアの基本は出尽くしていたように感じますね。今振り返えると消し去りたいモノも少なくないですけどね。(笑) とにかく色々な意味でモノ(表現)が溢れる今の世の中では、何を表現しても見るヒトがみれば「・・・に似ている!」になってしまうようにも感じますけどね?某隣国に対する「パクリ」の声の中には、自国のパクリ気質を棚に挙げた先進国的差別のようなモノも少なからずあったりしませんかね?(11.10.6著)姉妹日記「デザイン-1」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
ワイドショーで「有名人の家のデザインに近隣から苦情」を見て感じた事を記します。 苦情は、主に「色」に対しての事の様でした。元々、「色」が背負うイメージにも、人それぞれで、あやふやさを感じています。はたして私が見ている「赤」が、他の人にも同じ「赤」として伝わって居るのか・・・。また、その「色」自体よりも、その色を受け入れる時の、その人の精神状態や、シチュエーションに、好みが大きく影響されて来た様に感じています。 その苦情を訴えている女性達からも、「色」自体への「嫌悪」だけでは無く、相手(施主や建築会社)との感覚(世界観)のズレや、対応に対しての「嫌悪」を、少なからず感じ取れます。恐らく、その女性達の大切にしているモノにも、同じ色のモノの1つや2つは在ると思いますよ。 私は生モノが苦手です。ただ、元々食べ物の好き嫌いはほとんど在りませんでした。「食べる」に興味が薄いといった方が良いですかね。他人との会話で、食べ物の好き嫌いの話題になると話が盛り上がらず、嫌いなモノが多い人に少し嫉妬に似た感覚を持っていました。 また、私は感覚的に父を苦手に感じていて避けるようにしています。 少しあてつけ気味に、父が何よりも好きな「刺身」をしばらく意識して避けていました。ある時、仲間の飲み会で久しぶりに「刺身」を食べたら体中が痒くなり、湿疹が出てしまいました。それ以来本当に生モノには一切手が出なくなりました。似たようにして、今では幾つか苦手なものが出来て好き嫌いの会話がはずむ様になり、楽しく過ごしています。 そんな事からも、モノに対する好き嫌いにも「想い」の影響を強く感じざるを得ません。よく解りませんが、トラウマなどもこんな感じなんですかね? また、よく「センスが良い」・「センスが悪い」と語られますが、センスは「良い」・「悪い」というよりも「合う」か「合わない」かだと感じています。そもそも「感じ方」に正解・不正解があろうはずもなく・・・ その人が「感じた」ことは少なくともその時のその人にとっては「真実」でしょうね。また、その「真実」も他人に強制できるモノでもないように感じます。そして、その個人の「真実」は他人の「想い」に関り、お互いの同意によって共通の「真実」(好み・常識なども含め)に成り得るように感じます。(07.8.15著)・・・・・・・・・・ 「人を見掛けで判断しないで!」 とは言え、個人的にはファッションや音楽・遊び・仕事などの「好み」(見掛け)には、ある程度その人の気質がでるように感じますね。そして同じような「好み」を持った人達には、似た気質を感じられることが少なくないですね。少なくともその「見掛け」が表に現れているその瞬間は、わりと気質を判断する要素に成りえるように感じますね。 ただ、誰の中にも色々な気質を感じますし、その一時の見掛け(気質)だけでその人を画一的なイメージに固定するのはやはり難しいのかな・・・。またどんな時も画一された自分の好きな格好を通す「オシャレ」もあれば、その場その場で自分なりに雰囲気を読んで格好を変える「オシャレ」もあるように感じますね。そしていずれも立派な「ポリシー」と感じます。 私も今の中高生達の格好を見て違和感があったりしますが、そこには自分の学生時代の強い規制と比べての嫉妬的なモノが少なからず感じられますね。その分私も大学に入ると、タガが外れたようにメチャクチャな格好をしていましたし、私の同年代には今髪を染めたりして、後になって何か噴出している人も少なくないように感じますね。(08.10.25著)・・・・・・・・・・ 「次に乗り換えるならやっぱりエコカー!」 燃費も良く、環境にも優しく、補助金も出て良いことずくめですかね。ただこんなに騒がれて皆が同じような車に乗り始めると・・・なんか気持ち悪いですね。個人的には今のエコカーのデザインには格好良さも感じませんし・・・でも今の世情から、エコの波に乗らないとなんとなく損をしてしるようだし、環境を無視した悪い人間と想われそうだし・・・。 でもやっぱり好みの車に乗らないと後悔しそうだし・・・。 ある知人はドライブが大好きで、自分で乗る車は生涯4駆と決めているようです。4駆となれば、その用途を考えれば将来的に見ても「地球に優しい」エコカーとはちょっと縁遠いようにも感じますかね。知人自体は無邪気で純粋な感じが周りからも好かれる気質ではありますが、好きなこと・モノには頑固で、あまり周りに流されない気質でもあるようです。 どんなにお金や手間がかかっても、どんなに周りから非難を受けても欲しいと思えるモノに出会えることが幸せなのかも知れませんけどね。方向性によっては怖い感覚ですが・・・。私は周りの目や評価が頭から離れないので好きなこと・モノを我慢して身動きでずに生き辛さも感じたりしましたかね。本当はそんなに好きなこと・モノなんて無いんですけどね。(笑) 逆に言えば良い周りの目や評価が最も好きなモノですかね?そういえば今「好きなこと」を出来ていると感じられている皆さんは、その「好きなこと」って意識して探して見つけられたモノなのですかね?(09.10.26著)・・・・・・・・・・ 「最近の女子高生の顔は娼婦みたいだ」 いつも辛口で高齢のコメンテーターの言葉です。「○○○アゲハ」とか、ホスト的水商売系の髪形・メイクも流行っているようですが、特に高齢の方はそんなイメージを強く残しているのでしょうかね。ただ髪形・メイクの好みより、そもそもいつから学生のオシャレに対してこんなに寛容になってしまったのですかね?学校や親も気が付いていそうなものですがね。 また携帯電話を持っている小学生も増えているようですね?「防犯のために」という声も多いようですが、私も子供が居たらやはり持たせますかね?常に繋がっていて管理・把握できるようにも感じますし、何よりもその方が色々と楽な気がしますので。私が子供の立場で感じれば、秘密も創り易く色々と軽く悪さも出来易くて嬉しいと感じるに決まっていますけどね。 外見や携帯の機能が原因の青少年を巻き込む犯罪やイジメも増えているようですが、青少年層は大きなマーケットでもあるのか携帯・化粧メーカーもそれに対して積極的な対策もとらないようですし、少子化もあり、学校もあまり締め付けを厳しくすると生徒集めが大変なんですかね?私も出来る限り子供にも気に入られたいですし、大人の都合も多いに感じますかね。 結果的にそこに子供の為(特に金銭的養育)も含まれてしまうことも少なくないですかね。色々立場でジレンマ感じますね。また是非は別として、私の学生の頃の締め付けと比べると、今の学生にはとても嫉妬は感じますけどね。その時々の立場(環境)ならではの苦労もあるのでしょうけれど、私と同年代の親さんは自分の子にそんな嫉妬も感じませんかね?(09.9.22著)・・・・・・・・・・ “This is it” 基本的に音楽は童謡や学校唱歌(滝廉太郎など)が好きですが、高校でニューウェーブやインディーズ、大学でパンク・ハードロック・プログレなど、マイナーだったり複雑・ひねくれたモノを好むことが格好(センス)が良いという環境の中にあり、それに流されてきて・・・ただ気が付くと、M・Jだけは昔からテープなどによって記録されていたりましてね・・・ キング・オブ・ポップなんですけどね(笑)今ではポップなモノの気持ちよさも素直に感じられるようになり、個人的に好きなボーカリストの3本指に入ると堂々といえますけどね。ただ相変わらす今のポップな邦楽は苦手ですが・・・(笑) 彼の言葉に「観客が望んでいるのは非日常的な時間」といったような趣旨のものがありましたかね。確かに彼の中には自分の人種に対してのコンプレックスも強く感じますが、人工的で日常では異質に感じるあの容姿が逆に人間から遠ざかって(ある意味『神』的)ステージでは一段と映えて見えますかね。今回はコンサートのメイキング的映画でして・・・ 彼の色々な拘りが見られて、今までのコンサートフィルムよりも感動も+αでして・・・ただあんなの見せられると何もやる気が失せてしまいますね。比べるレベルがズレているとも感じますが、やはり劣ると解っていて表現する気にもなれませんしね。また映画の中で自然破壊に対する途上国への批判的表現もありましたが、ちょっと興ざめも感じてしまい・・・ 個人的には純粋に彼の特に歌声によっての感動を欲していましたし、彼自身は確かに莫大な寄付もしていたようですが、それでも有り余るような贅沢な生活をしていたようですし・・・ただやっぱり彼のパフォーマンスは格好良くて・・・「それはそれ、これはこれ」・・・とても便利な言葉でヒトの本質であるようにも感じますかね。(09.12.3著)・・・・・・・・・・ 「ブラボ~!」 オーディション番組において、素人さんが一夜にしてスターになってしまったりしていますね。例えば容姿が冴えない人がとても綺麗な声で歌を唄いあげたり、また子供が大人まがいの技を見せて周りの人を驚かせたりして・・・。ただ冷静になって他のプロのヒトが見たりすると、その技だけを見ればその位の人は他にも居ると感じている人もいると感じますかね。 感動を誘った原因は、「子供」や「冴えない容姿」のような元々薄かった(低かった)期待を破られたこと・・・『ギャップ』にあると感じますかね。また、恋人から毎日の様に暴力を受けているのに、極稀に「優しさ」のようにみえるモノを忘れられず、いつまでも別れられずにいる人も居るようですが、『ギャップ』には通常よりも強く人を惹き付ける力を感じますかね。 先日目にした歴史的人物の紹介番組において、高評価であった人物が下げられ、また逆であったりされていました。科学も同様ですが、比較的歴史の分野は学者などの信念の強さが反映(現象・物質化)もされ易く、次々と新しい証拠が創ら(生ま)れ、「過去」を解き明かそうとしていても、実は「今」から創り上げられた「未来」になってしまう要素が強いとも感じます。 世の中の全ての基本に自己主張があるとするならば、既存の価値観を次々と塗り替えていく営みが常であると感じます。またこうした180°変えられて表現されてしまったモノは、既存のモノが行き詰った時など特に説得力を感じてしまいませんか?『逆転的発想』と言いますか、この手法は時にヒトの価値観を易く変えてしまう力を感じてしまいます。(11.10.24著)姉妹日記「価値」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.12.25
「浮世絵」の技法にも今の「漫画」に繋がるモノを感じますかね。 「(セル画)アニメーション」も私の子供の頃は、単に「(TV)漫画」って言ってまして、「アニメ」という言葉のニュアンスには今でも違和感があります。個人的に何か軟弱で気持ち悪い響きなんですかね。そして子供向けとは言え、昔は良い意味でも悪い意味でも内容は重くてストレートでしたかね。 「みなしごハッチ」・「けろっこデメタン」・「樫の木モック」というTV漫画がありまして、「好き」とは別に、ほとんどの情操教育をして頂いた強烈な記憶があります。「いじめ」とか、「差別」色の強い作品でしたが、子供なりに色々感じ、毎回泣きながら見ていたように記憶しています。(竜の子プロでしたかね?ここは好みの作品がいっぱいあった記憶あります) ただ、重くてストレートな表現だっただけに、今では「いじめ」などを助長するとかいって、放映も難しそうなモノも多かったように記憶しています。一方、今の子供アニメの「正義」からは、決められたのイメージへの矯正的な教育のようなモノと「軽さ」も感じられます。是非はともかく、個人的には先入観抜きに色々な立場に感情移入できるモノが良いです。 やっぱり私の子供の頃も「いじめ」はありましたね。ただ幸いなことに、1クラスの中に複数のグループがあり、1つではじかれても他で受け入れられ、決して孤立することはありませんでした。また、調子に乗ると誰もが例外なく「いじめられっ子」の対象になっていました。私も両方の立場になり、また両立場の根底に似た気質を感じることもありましたね。 後にリメイクされた作品もあるようですが、是非オリジナルも見て頂きたいですね。漫画+擬人的表現の作品に、ストレートな表現を緩和する意図も感じますが、より「人」から遠ざけてあったので、小さい頃から世の中に「裏表」を感じていた私には、その分入り込み易かったように感じています。ただ、今はあまり見たいと思いませんがね。(笑)(07.11.14著)・・・・・・・・・ 「スポ根」モノも大好きでした。 昔の漫画に比べ、今のは精神的な描写も深くなって来ているように感じます。他人と関わって、精神的な変化が起きる点では変わりませんが、今のモノは、自分の内面に強くその目が向けられ、それぞれ自分自身で意識的に精神的な変化を起こしていくような感じですね。私の気質もそうなので、共感を持っています。 ただ、昔のひたすら「根性!」の頃は、他人によって無意識に精神的な変化を起こされるような感覚に、今のモノより、他人との関わりの深さを感じられ、憧れを感じているのも事実です。また、今のモノは製作者の世界観は深くなっている分、それを見る側の人それぞれの感覚を画一的な世界観に導入するような、「マニュアル」的な力も感じてしまいます。 「マニュアル」に従う側は、事前に事態を把握したような感覚になり、ある意味「安心」や「信頼」も置き易いと感じますが、様々な所でその「マニュアル」的な対応が歪を生んでいることも少なくないようにも感じます。私は少し窮屈さも感じてしまいますが、今やっていることも少なからずそれに値するので自分の中でジレンマも感じています。 皆さんにも漫画から強く影響を受けている世界観の1つもあるんじゃないですか?そして、昔、「漫画」で想像されたモノが、予想より速いペースで沢山現実のモノになっていますね。想像されたモノの現実化はとても大変なことですが、「無からの想像」にもとても大切さを感じます。(07.11.16著)・・・・・・・・・・ 昔の漫画の実写映画も最近増えていますかね。 私もロボット漫画が好きでして・・・というよりも、動物や怪獣など、色々な形があるモノに惹かれるといいましょうか・・・初代の「○○ダム」も好きでしたね(イデ派でしたが)。放映されていた頃はもう中学~高校生と、いい歳でしたがね。プラモデルを買うために子供に混ざって並んだり、完成したプラモデルを品評会に出展し、賞も貰ったりしていましたかね。 ただその頃は、表立って「○○ダム(アニメ)好き」とは言いづらい雰囲気が強くありましたかね。「オタク」的イメージはとても体裁悪かったように感じますね。今では「アニメ」世代が一線で活躍する歳になり、尊敬や憧れたりする有名人やクリエーターの映画・ドラマ等のマスコミにおける一種の「カミングアウト」のお陰で割りと認知もされてきていますかね。 私も歳をとって、自然に「○○ダム」好きも薄らいでしまいましたが、特に日本のドラマや映画においては、シリアスなモノよりも、漫画のような大袈裟な芝居や世界観のモノを今でも好みますかね。スケール的問題もありますが、シリアスなモノは、特に日本の役者さんは日常(裏)がチラついて、照れ臭くなってどうにもストーリーに集中できないのですよね。 そういえば先日TVの新作映画紹介で、「エウ○○セブン」というアニメを目にしました。元々TVで放映されていたモノらしいですね。その中の表現に幾つか共感出来るモノがありましてね・・・例えば「思考はエネルギー」とか・・・?久しぶりに今(?)のアニメをちょっと覗いて見ようかな。(09.9.10著)・・・・・・・・・・ 私はディズニーランドが苦手でしてね・・・。 デートなどで好きな人を連れて行くぶんには話題に事欠かず、会話も弾んで便利なのですが・・・そこにいるキャラクター達が苦手なんですよ。だって人が入っているんですよ!抱き付いたりしている人も見ますが、信じられない!大人同士ならまだ割り切り(ノリ)もありますが、私に子供がいたら逆に説明に困りそうです。もっとも本物でも困りますがね。(笑) また建物に遣われているコンクリート製の偽石や偽木・飾りの「張りぼて」感がなんとも気持ち悪くて・・・。建築の勉強をしていたこともありましょうが、至る所で偽物的感覚を感じてしまい、あの世界観に浸ることが出来ないのですよね。子供の頃はよくヒーローアトラクションを見に行ったんですけどね。ほんと、スレましたね。感動も減りましたね。(笑) よく女性が好きな男性の条件に「嘘をつかない男性」を上位にあげていますが、言った本人はたっぷりお化粧をしていたり・・・あれ、お化粧は相手に気遣った身だしなみでしたっけ?個人的にお化粧は苦手なのでつい突っつきたく・・・。(笑)反れましたが、私のように「嘘」(気遣いも含め)を多用する人間に限って、他人の嘘に過敏だったりもするんですよね。 また夢のある世界観を創造出来る人ほど裏に厳しい現実(現実主義)を強く知(持)っていたり、理屈(理性的・男性的)人が意外とロマンチックな理想主義だったり、感覚(感情的・女性的)人が意外と物質欲の強い現実主義だったり・・・。夢があったり悪意が無ければ嘘も悪くないってことなんでしょうが、感じる「気持ち悪さ」に嘘もつけず。(09.12.15著)・・・・・・・・・・ 最近めっきり涙もろくなって・・・ 私はとてもドライな性格なので、悲劇のドラマや映画を見てもめったに涙を流しませんかね。私がドラマや映画に求めるモノが主に映像技術やアイディアであることも要因になりますかね。特に日本の役者の演技においてはシラケてしまうことが少なくなく、動物やロボット、アニメーション等の擬人的表現になると感情移入できて泣けてしまったりするんですよね。 私もスタジオジ○リの作品は大体見ていると思いますが、その世界観や丁寧な作品作りなども含めて感動させて頂いています。ただそのアニメーションであっても、戦闘や暴力・災害など、時に「死」にも絡むシーンがないと物足りなさも感じてしまいましてね・・・ほのぼのとした懐かしい世界観や純な恋愛・家族兄弟愛描写等だけでは気持ちが動かないのですよね。 ニュースやドキュメンタリーでは悲劇的なシーンを見ても涙が出ることは無いですね。偏った立場ではなく、同時に複数の立場に常(無意識)に自分を置いているのですよね。ただ涙を流している人を直接見ると私も涙が出てくるんですよ。悲しんでいる原因からくる同情的な「悲しい・悔しい」の感覚はなく、つられるようにとにかく涙が出てしまい・・・ そういえば音楽(歌詞の無いモノが多いですかね)を聴いている時や、施術の時に同じような感覚を得られることがありますかね?そしてまた常にその自分を感じている冷静な別の自分がいるのです。(10.12.8著)・・・・・・・・・・ 「アニメのキャラクターは裏切らないから♪」 TVでオタクと呼ばれる人達が言っていました。私も実写モノの作品よりもアニメーションのモノの方が感情移入し易いと感じていましてね・・・特に日本のモノは役者さんの日常(裏)的なモノがどうしてもチラついてしまいましてね・・・そういった意味においては彼等のそういった発言にも共感も持てますし、純粋さなども感じたりしますかね。 ただそのアニメのキャラクター達もヒトが創ったものですよね。おそらくそれでお金儲けをする意図も少なからず含まれているでしょうし、その対象として当然そのオタクと呼ばれる人達が事前から当てられているでしょうし・・・つまりは実質的には私も含め、そのアニメのキャラクター達に騙されて(裏切られて)いるということになってしまうのでしょうかね? 少し反れますが、最近K-POPが世界中でJ-POPを凌ぐように人気だそうですね。長い時間やお金を賭けてアイドルを育てるそうで、私も確かに日本のそれよりも洗練されたクオリティの高さも感じますかね。ただ日本がアイドルの育成法において遅れているとは感じないのですよね・・・K的育成法は数十年前に既に日本が通ってきた道のように感じますかね。 確かにクオリティの高さに違いは感じますが、メディア等の発達で現在の環境全体のクオリティが上がって、昔よりも高感覚・高クオリティなスタッフが増えただけで、日本の芸能界はある意味成熟してしまったため、次の育成法としてファン参加型のモノに移行し、ある意味素人的・子供的・幼稚的・漫画的なアイドルがウケているひとつの要因のようにも感じますかね。 某アイドルグループの人気ランキング1・2位は、割と普通(素人的で馴染みやすい?)な容姿の子であるようにも感じますかね。まあ財のあるファンが一人で何回も投票している様なので、今の人気の発端の信憑性には少し疑問も残りますが・・・?そしてオタク達によって大きくして貰ったのに、彼等を気色悪がる仕草を目にしたときは、切なさも感じましたけどね。 他の国では子供の大人顔負けのパフォーマンスがウケることはざらに見ますが、日本のように子供が子供そのままに、あるいは大人の子供的・漫画的な一見未熟な表現もウケる国もそう無いと感じますかね。大人でも漫画を普通に読む国民性でもあり、裕福な環境がいつまでも精神的に子供で居させてくれるのか、また建前的気質が純粋なモノを強く求めるのか・・・ 男女問わず基本的なロリコン(純粋を好む?)気質を根本の要因にも感じますが、好き嫌いは別として見れば、今のアイドルの形がある意味日本のオリジナル性を強く具えた一つの形なのかな?(11.12.18著)姉妹日記「日本」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.12.18
そもそも陶器を作るきっかけは、失業でしたね。 会社に対して不信を持ち、争って、結局会社に居づらくなって辞めました。しばらくその不信感から再就職する気持も失せ、家で何もせずにいました。だんだん居心地が悪くなり、少し体裁を整える「安心を得る」ために粘土をいじったのが正直なきっかけです。まして母の大好きな陶芸だったのでその名分には最適でしたかね。 ただ、その期間は必死で作りましたね。ある意味追い詰められていましたからね。ただ、やはり気持(体裁)の悪さは常について回りました。そして、縁があり、再就職する訳ですが、経済的・体裁的に満たされてしまうとモノ創りしたい気持が失せてしまいます。そして忙しくなって「仕事だけ」な感覚になると「変化を得る」ためのモノ創りが恋しくなります。 小さい頃は、やはり存在を「認められたい」・「褒めてもらいたい」的にモノ創りをしていたように感じます。また人との直接のコミュニケーションが苦手であった私にとってはスポーツ等と同様その手段であったことも感じています。ただ、社会人になって仕事でそういった欲求がある程度満たされると、「安心・変化を得る」ような意味合いが強くなったように感じます。 そしてまたモノ創りには、自分にしか理解できない世界観を創ることにより、その世界観の中においては、誰よりも上位で居られるといった「安心感」も得られたりするんですよね。結局この「安心・変化」も「認められ(解ってもらい)たい」ですかね。いずれにしろ、純粋に「好き」といった感覚ではないように感じます。言い訳や溜まったモノを吐き出すような。 美術館に行くと頭痛がするのは、「共鳴」とか言って、そんな自分の感覚を他人の作品に当てはめるからかもしれませんね。もちろん日常的に好きなこと(欲求を満たす)をしている(勝手な私の想い込みですが)人への「嫉妬」は大きいと感じていますが。もっとも、「好き」という感覚も、欲求が満たされた行為・モノに当てられることが多いようにも感じられます。 会社に反抗している時は、仕事よりも「反抗」自体にやりがいを感じていましたね。「変化」を求めるように。そして辞める(変化が起こる)と、今度は「安定」が欲しくなるんですね。これまでの人生、それの繰り返しのように感じています。また、反抗したくなるきっかけも、表向きのモノとそうでないモノとをいつも一緒に感じています。 人は、「変化」も「安定」も求めるんですよね。矛盾しますよね。究極の「安定」(安心)を求める過程が「変化」(不安)とか?でも私は常に刺激が欲しいし・・・。「攻・守」や「活・休」・「静・動」・「陰・陽」とかいうバランスの話になるんですかね?いずれも「欲求」(ワガママ)の形とも感じますがね。「無いモノねだり」と言いましょうか・・・。 少なくともこんな私には、生きていく上で大切な無限の「想い」サイクルであることは実感しています。ただ、「安定」(安心)も「不安定」(不安)からの変化でしょうし、逆も含め、世の中常に変化なんでしょうけどね。(笑)(07.12.15著)・・・・・・・・・・ 私は「片付け」が苦手です。 何か建設的でなくて、とても無駄なことのように感じるんですよね。もっとも仕事となれば別ですが・・・お金になるので、ある意味建設的に感じるのでしょうね。そして一度「片付け」を始めてしまうと止まらなくなるんですよね。部屋の「片付け」を始めると、全く別の部屋になってしまいますね。新しい家具を造り増したり、逆に何も無くなってしまったり・・・。 「片付け」をするにあたって自分の中に建設的な「言い訳」が欲しいようです。そして一度始めると徹底してやらなければ気が済まなく、とても大事になるので始めることがとても憂鬱になってしまうようにも感じます。私の周りの芸術家的気質の人にも同じような癖を感じることが少なくないですね。何かバランスをとるような感覚さえ感じます。(08.9.18著)・・・・・・・・・・ 学生時代に美術の「自由課題」で作品を提出出来なかったことがあり・・・ 完全に自由だったので、どうしたら良いか解らなくなってしまったんですよね。あまりにも選択範囲が広すぎて、創るモノのきっかけが掴めないといいましょうか・・・。その点建築には色々な規則が沢山ありまして、とても計画(計算)的なイメージもありますが、それを一つ一つクリアしていくことで、時に思いも付かないデザインが出てきたりするんですよね。 例えば金属やコンクリートなどで造られた角ばって固いイメージのモノを、例えば布や毛糸など角を出しにくい柔らかい材料で、ある意味無理やり再現してみただけで、なんとも想像もしていなかった別の創造物(オリジナル)のようになったりしませんか?これも「規制」(材料の性質の違い)による一つの効果だと感じますかね。逆転的発想でもありますかね? どうですかね?デザインに拘らず、時にはそういった「規則」の中にいることで、逆に色々なアイデアが広がったりしませんかね。何をやったら良いか迷う辛さもなく、逆に楽に過ごせたりしませんか?例えば・・・「最近の女子高生は、休日でも制服で遊ぶ」・・・先日TVで見ました。普段の制服とは別に、「なんちゃって制服」とかいうモノを持っているようです。 「高校生の時にしか出来ない格好だから」という答えが多い中、ある女子高生のインタビューで「私服になるとどんな格好して良いか判らない」と言っていましたね。自分のセンスに自信がなく、服選びやコーディネートに煩わしさを感じているようですね。ある程度大まかに決められたルールの中で細かい所で個性を出しているようですね。 私は大学生の時は、2日と同じ格好をするのが気持ち悪くて頻繁に髪型や服を変えていましたね。周りの反応も楽しかったのですが、1週間に3度自分でパーマをかけ直して髪の毛がブッツリ切れたり、ズボンを裏返して穿いてみたり、新しいモノを切ったり縫ったり折ったり重ねたりして3日でダメにしたり・・・恥ずかしいから実家には帰ってくるな!って。(笑) そのうちに周りが期待しているような気がして、自分自身で変なプレッシャーを創り、やめられなくなって毎日が辛くなっていましたね。その反動からか今ではもっぱら無地の一張羅で毎日を過ごす事が多いです。ただお店に行くとどうしても派手目な服に目が行くのですが、「何処に着ていくの?」と自問し、昔の派手な服も箪笥の肥しとなっています。(09.7.8著)・・・・・・・・・・ 日本は外国からなめられる? 最近の領土問題に対する日本政府の対応の甘さにそんな懸念も出てくるでしょうね。私も、特にその日本の対応に対しての外国の反応を見ると腹も立ちましたが、国益を守ると称し、主に経済的なモノを最優先したような日本の態度にもがっかりもしましたかね。ただ、日本国民が某国のように他国の旗を燃やすような気質であったらそれもがっかりですかね? おそらく諸外国の反応を見て、「ガキみたいな・・・」的印象を持った人も少なくないと感じますが、日本人の多くは表向きの勝利だけでは全ての欲求を満足できる気質ではなさそうですね?時には「負けるが勝ち」的、もう少し志の高いと感じられる勝利を好んでいたりもしますかね?もっともその「志の高さ」も日本の勝手な価値観であるようにも感じますがね? 自分ではもっと次元の高い所で勝負して勝ったつもりになっているのに相手はそれに気が付かず、解り易い表向きの勝負に勝って喜んでいる相手の姿を見てシャクに触ってみたり・・・ただそれを相手に理解させようと説明することもその「志の高さ」から外れるような気がしてプライドが許さなく、結局自己満足で我慢するしかなくて消化不良になって・・・ 実力のある外国人横綱を「品格が無い!」として追い出した国ですし、おそらくここまで我慢(無関心?)出来る民族は他には少ないと感じますから、今回の政府の対応の結果には国家間のいざこざを治めた「大人な国」として、もう少し理解を示しても良さそうな気もしますがね?ただ政治家からは「志の高さ」よりも自己保守的な対応しか感じませんでしたけどね。 「ガキみたいな・・・」国に認められて嬉しいですか?残念なことに少なくとも悪い気はしなかったりするんですよね?やっぱり自己満足に終わるのではなく、例えそれが尊敬を置かない人達であっても、他人に認められて初めて満たされることが世の中少なくなく、人により生きる意味などがそんなところにあったりもするんでしょうね?また巡りました。(10.11.7著)・・・・・・・・・・ ‘11を象徴する漢字は「絆」でしたね。 大きな震災に対し、全国から沢山の寄付や志が集ったり、現地での秩序ある行動が世界的にも尊敬を受けたりして、日本人全体の気質を褒められているようで誇らしささえ感じましたかね。私は直接被災した立場ではないのでそこに便乗している感があり、同時に少し引け目も感じていますがね。そして同時に「絆」の薄さも露呈してしまったようにも感じますかね。 例えば政治家達の対応ですが、相変わらず自分達の身をほとんど削ろうとせずに、「日本全体で痛みを分かち合おう!」的な体裁の良い名目を掲げ、消費税を上げる話が先に進んでしまっているようで・・・そしてまた、瓦礫の処理に対して他県への協力の要請があるにも拘らず、受け入れ先からは反対の声が少なからず上がってしまっているようで・・・ 前者に関して「日本全体で痛みを分かち合おう!」的な考えで言えば、例えば議員定数などを削る方法では一部の人達だけが痛みを被るので、議員全員の歳費を3分の1くらいまで下げれば良いと感じますがね。そもそもこんな事態でなくても一般の給料の平均が500万円にも満たないのなら、その税金で養われている彼らの給料は3分の1でも多いくらいじゃ・・・? 後者に対しては、表向きは「日本全体で痛みを分かち合おう!」的な対応になっているように感じますが、それによって実際に強く被害(風評等)を被るのは一部の職業の人であって、そこから外れる人達はなにか自分も役に立った感覚に満足も出来そうですが、実質的には「日本全体・・・」というところからは大きく外れてしまっているようにも感じますかね。 私に子供がいたり、風評を強く受ける職業に就いていた立場であったなら、そこを押してでも賛成にまわれる自信もないですかね?というよりも、私の気質上そういった自分の正義観を通せないような立場には最初から身を置かないのでしょうけれどね。そしてヒトの基本に「欲求を満たす」があるのなら、その正義観自体も様々で信用は置けないですが・・・(12.1.7著)姉妹日記「気遣い」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.12.16
とうとう「不死細胞」なるモノが見つかった様です。 発見者の信念の強さには、すごいモノを感じますね。やはりなんといっても、科学と言う主世界観に守られている強みも感じます。少し嫉妬します。今回はちょっと「遺伝」について感じた事を書いてみます。 昔から比べると、子供たちの容姿が親に似ていない様に感じます。昔は、子供の「憧れ」や「尊敬」・「情」などの「想い」の対象が、いつも近くに居る家族に向けられていた様に思います。現代はマスメディアの発達によりその「想い」の対象が広がり、その様な現象が現れている様に感じます。ちなみに私は、よく日本人離れした顔と言われます。 親兄弟、親戚を見回してもこの顔立ちはいません。父の影響もあり物心付いたときには外国モノに触れ、小学生の時は洋画雑誌を愛読していましたね。またこの能力も母譲り(遺伝)として周りは理解される様ですが、正直私自身は根本的な質に違いも感じます。「遺伝」というよりもその能力に対する「憧れ」と、ある意味先を越された「嫉妬」を強く感じていました。 ただその母が起こして来た現象が、私を迷いから何度も引き戻してくれた事は間違いないですね。そういったことから言えば、この能力を身に着けるには他の人に比べ有利な環境と言えますね。ある意味それが遺伝と言うことなのでしょう。 研究者は、自分が属していると思う「世界観」のルール(理屈・言い訳)に沿って研究を重ねることにより、信念を確信に変え、目的のモノ(遺伝子や食べ物等の物質)を具現化していると感じます。研究の過程において行き詰まりを感じ、偶然発見されたモノも少なくないと思います。そしてそれを利用する私達は、その理屈を完全に理解しないままに使っていますかね。 いわば便乗するように研究者の「想い」に極めて近い結果を得ている様に感じられます。「何だか解んないけど、偉い先生が言うんだから間違いないだろう」という具合ですかね?そして皮肉な事に、その理屈が一般に知れてくると逆にその効果が薄れ、目新しい研究結果に飛びつく様なことも多いように感じます。 まず「敏感」な(理屈っぽい)人が、その理屈に対して自分の「世界観」とのズレを感じ始め、無意識に拒否反応が出て、その人を見てまた別の人が・・・という、「不信」の連鎖が起こっているように感じます。根底には「慣れ」や「飽き」・「嫉妬」も感じますがね。人は常に変化を求めるように感じます。科学の世界観の中だけを見ても常識は変わり続けていますね。 「他世界観」を利用する時には、適度な「無知」が必要になると感じています。(07.6.29著)・・・・・・・・・・ 「男は必要ない!?」 マウスの実験で、遺伝子操作により二匹のメスの卵子だけで子供が誕生しているようです。もっとも男性の体は女性の体を基に変化しているようなことも聞きますし、私はあまり不思議な感覚もありませんがね。想像妊娠とかもありますが、強い想い込みによって妊娠も出来るんじゃないですかね?(笑)そうなると「マリアの処女受胎」もまんざら・・・。(笑2) また誕生した地球の海に隕石が衝突したことにより形成されたアミノ酸が生命の基になったと科学番組でいってました。その理論の真偽はともかく、おそらく同時多発的な生命の発生をしていくのでしょうから、そしたら何故、どの時点で生殖活動が必要になったのでしょうね。「隕石の衝突」が地球の生殖活動ですかね。そもそもSEXってなんのためにありますかね? 子孫を残す目的が基本(正しい目的)?・・・少なくとも私は何が何でも自分の血を継いだ子供が欲しいと感じませんが、SEXは生きていく上でとても大切なモノと感じていますね。理屈無い他人との深いコミュニケーションとも感じますし、その後に初めて深いコミュニケーションが築ける感覚もありますし・・・時に「現実逃避的」役割も感じますかね。 自分の人生の保障を得るため?・・・自分を養ってくれる相手を惹き付けておくための手段にも遣えますかね。また「子は鎹」ともいいますが、子供は薄れてきた夫婦間の恋愛的繋がりの代わりに繋いでくれたり、自分の代わりに成し得なかった夢を託せたり・・・私は何でも自分自身で成さないと満足できないので、血を継いだ子供に執着が無いのかもしれませんね。 単純に気持良いから・・・何のために「気持ち良さ」を求めますかね。私は基本(本能)が「気持ち良さ」を求めるようなところにあるように感じますね。「何のため」こそ体裁良く「気持ち良さ」を得るための後付(言い訳)のように感じますね。時には好んで「苦」を背負う人もいますが、結局その後にある「より強い満足(気持ち良い)」を求める行為と感じますね。 男だからでしょうか?・・・個体差でしょうね。(08.10.8著)・・・・・・・・・・ 光は1秒間に地球を7周半する・・・ また「今、目に見えている星の光は何万年も前の光」とかもいいますね。光も粒子(物質)で速度がある(運動している)って事ですよね。一度放たれた光の粒子は、永遠に進み続けると言うことですかね?例えば「合わせ鏡」的な光の粒子を完全に逃がさない装置を造り、1度光を当てると、光源を切ってもずっと光り続けるってこと・・・?モノが伝わるとき波動・波長とか遣いますかね・・・ 「波」って平面や断面といった2次元的表現になるとイメージもし易くなりますが、3次元的・・・例えば太陽の様に放射状にモノ(?)を放っている場合、「波」ってどの様にイメージしたら良いですかね?面的には難しいので、沢山の粒子が各々2方向に行ったり来たりしながら進んで・・・なんか粒子それぞれが干渉しあって波形も難しいような・・・? 仮に最小の物質が見つかったとして(それ自体科学のルールに矛盾しますが、とりあえず置いといて)・・・ その最小の物質と物質の隙間には何があるのですかね?「何も無い」ですか?『ビックバーン』とかいって、元々「無」から物質(有)が発生したのであれば、その時点で無と有が同時に存在すること自体矛盾も感じますかね。それとも隙間なく物質が並んでいるということですか?それはそれである意味「無」(無限)と変わらないような・・・? 夢の中でも各種感覚(五感)がありますよね・・・ 脳科学においても、時に脳は実際にあるモノを見せなかったり、逆に無いモノを見せたりするようなことを言っていましたね。とりあえず脳(物質)を基本において科学に属しているようですが、やっていることは物質の存在自体怪しくするようなモノも含まれていませんかね?ちょっとズルいような・・・?自分で言っていて訳分からなくなりました。 私は学生の頃から化学や物理が苦手で、化学の実験はいつも失敗するし、物理も根底にある理論が少なからず推測を含んでいたり、数式にも何か真実の誤魔化し的質を感じてしまい、今ひとつ信頼が置けなかったりするんですよね。それが失敗の原因?前記の事も含め、関心(信頼)持って最新の科学も勉強すれば納得もできて解決してしまうのでしょうけれどね。 有名な科学者達によって立証もされてきているのでしょうからね。ただ科学の書籍は言い回しが苦手で(自分を棚に上げますが)・・・。(笑)それはどうあれ、そういった個々の勝手な理解力(無関心)や感覚による矛盾から生まれた不信でさえ、時に他人とは別の現象を生んでしまったりするようにも感じますかね。 また自分でも自分自身の理屈っぽさを自覚していて、「研究者」向きな気質であるのかな?・・・とかも考えてしまいますが、ある意味「研究者」には、時には逆転的発想が出来るような柔軟性も必要と感じますが、基本には先駆者の築き上げた偏った世界観にドップリ浸かれる(信頼)資質(都合の良さ)が必要なのかも知れませんね。(09.6.2著)・・・・・・・・・・ 「ホンまでっか!」 最近世界でも認められている様な学者達が、バラエティー番組に出ていますね。ただお笑い芸人の司会者の実体験から来る「それは当たってない!」的な突っ込みに対しては、「あくまでも個人差がありますから・・・」的に交わしてしまうことも少なくないように感じ、そして番組の終わりには「あくまでも一説であり・・・」な注釈が添えられていたりして・・・ 最近の原発の件における専門家達の見解の相違や「想定外」といった言葉も含め、彼らは世界でも有数の学者達のはずですが、「個人差・例外・体質・偶然」のような所に逃げ込むようなことをされてしまったら、いったい誰の言う科学を信用すれば良いのか判りませんよね?そしてそこ(広い意味での矛盾)にこそ大切なモノがあるように感じますけどね? 学者同士の議論の中に、他人の見解に対して「逆に・・・」的に話を被せ、本来なら相手の理論の否定になるような意見が逆に助け(同意)となり、その相対する見解が両者とも成立してしまうことも少なくないように感じます。彼等の言葉に「他人の論理を批判することを否定されてしまったら、科学者の存在を否定されたことに等しい」的な表現があったりして・・・ 科学の理論に限らず、「理屈」とは大概先に示されたモノの方が不利になりますかね。科学者に限らずヒトの根本に自己主張があるとすれば、自分以外のモノを覆していくことが常であり、またヒトは飽きやすいので、そこに目新しく逆説的な理屈を提示されれば時には何よりも説得力を感じ、昔のモノが見直されるような現象も繰り返されているように感じますかね。 また、「理屈っぽい」と聞けば「理系」的イメージも強いと感じますが、私の周りにはむしろ「文系」と感じる人に理屈っぽい人が多いように感じます。そもそも科学は根本がまだ未解決な理論から始まっている訳で、それでもそこから発生した理屈や数式などを「理屈無く」信頼して(従って)しまえる素直さが、「理系」の根本には強くあるように感じますかね。 そして「文系」には、例えば芸術などに携わる人などは縛りを嫌い、常に自分だけの表現を求めたりするために、時にひねくれた思考が求められるようにも感じますかね。その表現の一つに当然言葉(理屈)も含まれてきますからね。私も社会(就職)的に「理系」の方が有利と感じ、無理して「理系」の人生を歩んで来ましたが、間違いなく中身は「文系」ですね。 ただ、科学や数学等も突き詰めると、宗教や哲学的なところに行き着いてしまうようなことも聞きますし、自分を表現するための手段には変わらないようにも感じますけどね?もっと言ってしまえば「科学者」とは、「科学」と言う名の「宗教」の熱烈な「信者」という表現もできるのではないですかね?ちょっと皮肉っぽくて意地悪かったですかね?(笑) 番組の脳科学の人などは特に、若い頃から矛盾に悩み続けてようやくそこにたどり着いたように見えますが、個人的にはまだしっくりしたモノを感じていないようにも感じますかね?(11.6.14著)姉妹日記「ルール」・「矛盾」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.20
昔、ダウジングがブームになっていましたね。 「石や金属を使った振り子」や「L字に曲げられたロッド」など、特にその形状や質に意味を持たないと思われる道具を使ってモノを探し出すアレです。そうそう、親指と人差し指で輪を作り、その指が離れる力具合で物事を判断する「Oリングテスト」もありましたね。私ももれなくそのブームに乗っていました。 姉弟でその道具を作って三択程度の遊びをしていた記憶があります。そして、ハズれた記憶が無いくらいの確立で当てていた記憶が残っています。ただ、自分でやっている時はなかなか気がつけないものですが、他人がやっているのを見ていると、直接道具自体が反応しているのではなく、それを使っている人間の体が反応し、道具を動かしている様に感じていました。 自分自身で無意識に感じたことを、一度自分が信頼を置くモノ(反応)に置き換えて自分に確信を得ているように感じます。得てして人は頭で理解出来ない力(他世界観)に関しては、自分以外のモノに対しての方がその存在の確信を強め易い様に感じます。面倒な事は何でもヒトのせいにした方が楽ですからね。失敗しても自分の根底のプライドは守られると感じます。 だからといって、モノに「力」(気?)が無いとも言いがたいです。私がモノから感じるのは・・・その時の自分やそこに関る人の『想い』をそのまま映し返してくる様な質が特化したもの・・・です。別の乱暴な言い方をすれば、「その気にさせてくれる力」と言いましょうか・・・。 よく良質な「気」を発している物質について語られる事がありますが、私が感じる所では・・・心が良質な方向に向いた時、その人の心が理屈無く(逆にその人の強い理屈の基に)しっくり来て、おもいきり頼り切る事が出来るモノなら何でも・・・です。あくまでも自分自身の「気」の投影的な質のモノと感じています。 また、良質の気場に関して・・・極めて近い世界観を持つ人や、上記の物質に囲まれる事が出来たと思える場所・・・と感じます。(時には似た世界観を持った人ほど距離を感じる事がありますからね)昔、ダウジングで高い確率を出せたのも、一緒にやった姉達が近い世界観を持ち合わせていた事に大きな要因を感じています。 そして「何だか解らない(理屈無い)力」には、今回の「ダウジングロッド」や「石や金属を使った振り子」等の「何だか解らない(理屈無い)モノ」に対しての方が、その力の存在の確信を置き易いように感じます。(07.7.9著) ・・・・・・・・・・ 私の知人に何人か「占い」に関わっている人がいます。 彼女達は、それぞれに信頼を置く占い手法(世界観)にドップリ浸かり(頼り)切る状態を創る事で、まず相手のその時の「想い」に無意識に繋がる様に感じられます。 そして、それを1度信頼を置く占い手法(世界観)のルール、例えば「手相」であれば「シワ」などに 無意識に置き換え(創り出し・見えるモノを選択し)ているように感じます。 意識上の自分自身に確信を与えてから相手に伝えるといった作業が成されているように感じます。よって、後に相手のその時の「想い」が変化すれば、違った「手相」(シワ)を無意識に創り出し(選択をし)、「手相は変わる」という現象が起こると感じます。そして、信頼を置く占い手法(世界観)の役目は、結局は話し出す「きっかけ」のように感じます。 話のほとんどは、相手と接する中で無意識に感じているように感じます。そして回数を経て自分の回答に対して相手の同意を積む事によって確信が増し、自分への世界観へ移り変わり、後に、人によっては「他世界観」や「道具(モノ)」などに頼らずに相手の「想い」に繋がるように感じます。 占いを受ける側も、元々自分の中にあった「想い」(過去の出来事も含め)に触れられたために信頼が芽生え、占い師が創り出した視覚(シワ)を共有し、その後に発する言葉(アドバイス等)に信頼を置き易くなり、自分のその時の「想い」の後押しをされ、「想い」が強まって確信になった時、後に「想い通りになった」(予言的)な結果が得られるように感じます。 あくまでも「未来が決まっていた」ではなく「想う通りになった」という質のモノに感じます。そして時に「選択系」の占いを受ける側の「選択」にも、占い師の意図するモノを無意識に事前に察知する力(手相のシワの創造も含め)を感じ、そこにも大きな要因を感じます。そういった「想い」のやり取りが成されているように感じます。 そもそも同じような世界観に興味・関心を持っている人達が集ってしまうということ自体必然的で、すでに多くの事象・物質すら共有できる環境になってしまっているということでしょうね?また、占いに関る彼女達から共通して伝わってくる感覚は(本人が聞いたら気分を害するかな?ごめんね)、基本にあるのは、とても強く自己表現の場に飢えている様な「気」です。 時に有り余る力から、普段の生活に抑圧も感じます。ただ「占い」に入ると「気」が鎮まり、相手を気持良くさせたり傷つけないように言葉を選ぶなど相手の事を気遣っています。私の中にも強く感じますが、他人の目を非常に気にする質をその根底に感じます。そしてヒトが創り出した「世界観」には、「想い」を増幅させる強い力も感じます。 宗教や占いなど、その世界観の思想に大きく影響されると感じています。共感を覚え、その世界観にドップリ浸かり、精神的に頼りきることで力を得ると感じています。そして時に「他世界観」や「モノ」に、自・他を潰してしまう様なその人の有り余った力を逆にセーブする役割も感じます。 私の「世界観」も私にとっては紛れもない「真実」ですが、心にしっくり来るものが無く、共感を得られなければ他人にとっての「真実」にはなれず、良い力の助けにはならないでしょう。ただ人は、「共感」(信じる・信じない)に拘らず、普段から自・他の気持ちを傷つけたり、感動させたりといった「気」のやりとりを行っていると感じます。(07.7.11著)・・・・・・・・・・ 私も昔はよく、色々な意味で事が調子良く進んでいる時は「自分のせい」(実力)に、調子悪い時は「ヒトのせい」(他力)にしていたように感じます。 調子良く進んでいる時はむしろ「ヒトのせい」(他力)が大きく働いていたり、調子悪い時は「自分のせい」(実力)が働いていたりするようにも感じます。今は何でも「自分のせい」(自分次第)と考えるようになっていますかね。一見立派なように見えますが、単に「ヒトのせい」にすることが何かに負けるような感覚があり、プライドが許さないのだと感じます。 ただ、「自分のせい」に出来ている時は、なかなか事が動き出さない感覚もありますね。気功治療においても、病気の原因が全て自分にあると「悟り」のようなモノを築いてしまっているような人よりも、何でも「ヒトのせい」に出来る人の方が、良い成果が得られることも少なくないようにも感じています。 「ヒトのせい」に出来ている時のほうが、色々な(良い方向・悪い方向を含め)意味で事が転回し易いように感じます。行き詰まりを感じたときは、むしろ「ヒトのせい」・・・他人や他人の世界観(占い・宗教・各種法則等)、物質(鉱物・各種道具等)、本能や無意識(自分の中の他人格的なモノ)・・・に一時的に頼ることも1つの効果的な手段のようにも感じます。 また、精神的に「ヒトのせい」に出来た時は、事を動かすチャンスとも感じますが、その時の外的関わり方がその動き出す方向にかなり影響を及ぼすように感じます。 私のようにプライドが高く、「ヒトのせい」になかなか出来ない人間が、ある意味勇気を出して「ヒトのせい(頼る)」をした時、例えば「他にもっと大変な人はいるんだから・・・」的な諭しや意見はきついものがありますね。あらためて言われなくても解っているつもりですし、あえて変化を求めてヒトを頼っている訳ですからね。かえって反発したくなる言葉ですね。 そして、心にも無い言葉を発してしまって後戻り出来なくなったりするんですよね。確かにその言葉がきっかけになって事は動き出すかも知れませんが、その方向にはあまり良いモノを想像できませんね。そんな時は、ひたすら弱音を聞いてくれたり、時には自分のワガママに気付きながらも単に同情の言葉が欲しかったりするように感じます。 そしてまた逆に、厳しかったり理性(理屈)的に諭されないと(尊敬できる人の言葉でないと)動き出せない人も少なくないようです。それもある意味「ヒトのせい」効果と感じます。とにかくその時々で、自分自身も含め何かしらに「信頼」を置かないと動き出す事が難しかったりする事も少なくないように感じます。(08.6.3著)・・・・・・・・・・ 最近また「パワースポット」という言葉をよく耳にしますかね。 私も若い頃はそういった場所を巡ったものです。確かに当時はそういった所に行くと体中が痺れたり、何か身の周りが良い方向に動き出したりと言ったような感覚を得られたものです。ただ現在は、同じ場所にいってもそのような感覚を得られることはありませんね。私の強い客観視的資質が自分の正直な感覚とのズレ・矛盾によって整理をしてしまいましたかね。 簡単に言うとその矛盾によってそのモノにたいする信頼から「冷める(醒める)・飽きる」と言ったところでしょうかね。「不信」という負の信頼が生まれたとか?現在の私が感じる「パワースポット」(良質の気場)とは・・・極めて近い世界観を持つ人や、その時に強く心惹かれる(信頼を置ける)物質に囲まれる事が出来たと思える場所なら何処でも・・・です。 確かにそれらを信頼している時にはそれなりの感覚を得られていた事実の確信もありますし、また初体験であっても全ての人にその成果があらわれている訳ではないという事実がありますからね。そしてそこには、信頼を置く人間(友人や専門家等)、多くの人間(歴史等も含め)による「クチコミ・マスコミ」による「想い込み(信頼)」的力を強く感じますかね。 つまりは「力」は直接的には場所やモノではなく、「信じる(強い想い)」に宿る・・・と言うよりも、「信じる」することで、各々ヒトが持つ力(欲求・ワガママ等も含め)を解放し易くなると感じます。ただその「信じる」をし易くしてくれるのがまた自分以外の「モノ(言葉・物質・場所)」(ある意味他人のせいにする)であることが少なくないとも感じます。 あえて「力」という言葉を遣って表現するなら「その気にさせてくれる力」とか、広い意味の「個人から責任を外す力」とか。(10.4.10著)姉妹日記「モノ-2」・「モノ-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.20
私の愛車は、昭和46年型のクラウンです。 古い車は愛嬌があって好きなのですが、わがままですね。ただ、年のわりに調子はそこそこ。すこし思い切れば、遠出もがんばってくれます。不思議なもので、あまり調子が良いと、かえって不安になるんですよね。「大丈夫かな?」と想い始めると、案の定、その時点から調子が悪くなるんです。その時の私の心には、「やっぱりね」といった、変な納得が在るんです。 「想う通りになった」という変な満足感というか、「不の信頼」(不信)とでもいいましょうか。 また、やはり癖があって、手間がかかることも事実で(そこが可愛い所でもある訳ですが)、ちょっとした外出には、他の車を使用したりして、愛車からご無沙汰になると、またそのとたんに、車体にサビが浮いてきたりするんです。その時の私の心も、「やっぱりね」なんです。心の何処かにいつも「乗ってやんなきゃな」という負い目を抱えていたりするんです。 ちょっと意味合いは変わりますが、そんなに古くない家であっても、空家になったとたんに、急に寂れてしまいますね。そんなことからも、モノに対する「想い」の影響を強く感じる事があります。これもまた乱暴な表現ですが、植物・動物も含め、広い意味での「自然」にもその(『想い』をそのまま映し返してくる様な)質を強く感じられます。 同じ乗馬風景を見て、私は「背中に人を乗せて辛そう」と見えますが、乗馬好きの友人には「背中に人を乗せて楽しそう」と見えているようです。また、ペットなど飼い主と容姿が似ているモノを無意識に選んだり、容姿と共に性格まで似てきたり・・・自分を映す鏡であったり、時に自分の「想い」を他人に伝える「仲介役」・「代弁者」を担ってくれる力を感じます。 そして他人に見る嫌な所を自分の中にも特に強く感じるなど、時には人間にもその様な質を感じます。話は反れますが、前記の様に普段「当たり前」や「気のせい」として処理しているモノの捉え方を、その時自分が素直に感じているモノに変え、積み重ねて行くことも、その人の今の世界観を変えていく大切な要素と感じています。(07.7.10著)・・・・・・・・・・ 知人の女性が、「銀行のATMで、お金が振り込めない!」と怒っていました。 支払いのため、お金を下ろそうと何度カードを入れても機械が受け付けてくれず、諦めて帰ってきたそうです。どうも話の感じから、1度や2度の経験ではないようです。もう20年近く気功に携わっている私の母も機械が苦手で、よくATMやテレビのリモコン、自動販売機などの機械に馬鹿にされているようです。そして私もよく機械から嫌われることがあります。 私の例として、新しい機械を買って、よく説明書も読まずに使い始めようとするのですが、想ったように作動しません。そこで初めて説明書に目を通す訳ですが、その後、結局特に何かイジった訳でもないのに正常に動き始めるのです。ただ、説明書を読んだ後には私の中に、ある程度その理屈に納得し、機械に対する「信頼」が置けたような感覚があります。 知人の女性も、私や母と同じような「世界観」を仕事としていて、三人とも自分の感覚(世界観)を、特に大切にしている気質を共通して感じられます。自分の「世界観」の理屈に合わないモノには、「信頼」を築く事が難しいといいましょうか・・。ましてはATMなど、お金が絡めばなおさらのように感じます。(笑) また今の主世界観にどっぷり生き、機械に「信頼」を置く人が後にその原因を探したなら、カードが逆だったり、リモコンの接触不良という「事実」を見出し、主世界観(科学)の強さにより「機械嫌い」の人達もそこに落ち着くことでしょう。ただその原因という「事実」よりも、それを無意識に何度も繰り返してしまう「事実」に私は惹かれてしまいます。(07.9.5著)・・・・・・・・・・A子:「この石は不思議なパワーがあってね、身につけていると調子がいいの♪」B子:「私も同じモノ身につけているんだけど、あまり効果を感じないのよね。」A子:「信じていないからじゃない?」B子:「えっ!誰でも効くんじゃないの?」A子:「当たり前よ!医者だって薬だって全ての人に効くわけじゃないでしょ!」B子:「信じることが大切なんだ?」A子:「そう!信じなきゃ♪」B子:「じゃあ、信じられればこの石である必要もないってこと?」A子:「・・・」B子:「それって人のパワーってことじゃないの?」A子:「・・・」(09.8.11著)・・・・・・・・・・ 建設業に携わっていた事から、私も植木を扱う機会も多々ありまして・・・。 ある親方は、常に根回りの土を柔らかく保つことを心がけていました。根が広く張りやすくするためだそうです。またある親方は、機械を遣ってでも根回りを固めることを心がけていました。より強い根を育てるためだそうです。二人は相対する方法(理屈)をとってはいますが、いずれも手間をかけない他の植木よりも良く育ち、綺麗な花も咲かせていると感じましたね。 品種によって扱いの違いがあるという「理屈」もありましょうが、植物は時にその方法を問わず、人の「手間(想い)」の強さに答える(人の「想い」を投影する)ような気質を感じますね。 またコンピューター・プログラマーから植物に携わる仕事に転職した人を何人か知っています。逆転的な質の転職とも感じますが、植物の育成って、割と計算(計画性)が効くモノで、ちょっとロジック的質が感じられ、意外とそういった人達の気質にも通じるように感じますかね。これもある意味「想い」に答える植物の気質を感じさせますかね。(09.8.13著)・・・・・・・・・・ あなたは「宇宙人」の存在を信じますか? 昔の日本では「妖怪」が住んでいると信じられていましたかね。個人的にはそう信じられている期間はその存在を確認できる人も沢山居たようにも感じますかね。例えば脳科学においてヒトが見るモノの全てを肯定出来ないのであれば、その時にそのヒトが見たその時の光景は、少なくともそのヒトのその時においてはそれが全て(正しい)と感じますがね。 そして後に他世界観によってそれが否定され、それを本人が納得し、受け入れた時点で無意識に自ら見え方(感じ方)をも変えると感じますかね。昔から日本人は外国的評価に弱いイメージがありますが、そういった外来的世界観(科学)に信頼も篤くなり、昔「妖怪の仕業」とされていたものが自然現象的に証明され、常識になってきているようにも感じますかね。 もっともヨーロッパなどでも「モンスター」と呼ばれるモノがありますが、それらは科学・医学の発達によりそのまま再現出来そうな(ある意味科学の範疇)のモノのようにも感じますし、やはり日本の「妖怪」などに比べれば基盤には科学的なものが強いように感じますかね。ただ米国などに比べれば日本的で、そこには国の歴史の古さなどに要因も感じますかね。 話を戻しますが、宇宙人否定派の人達に沢山の科学者達が居ますが、自分自身の存在を考えれば「宇宙人」の話って科学的にも肯定せざるを得ないモノのように感じますがね。また「河童」などに宇宙人説が流れたりしていますが、少なくとも「妖怪」を信じていた我々日本人からすれば、「宇宙人」も強く科学的世界観にある存在のように感じますがね。 例えば過去を証明するようなモノが出てきても、それを発見したり、見て(感じて)いるのは何かしらの世界観にドップリ浸かってしまった脳な訳で・・・著名な科学者がそれら非科学的な存在を認め始めると、爆発的にその存在を認識できる人間も増えてくると感じますがね。人の姿も含め、目に見える(感じる)モノの基は変わらないようにも感じますけどね。 何も信じられなくなりましたかね?でも何かしら見え(感じ)ているでしょうから無意識にも何かを信じられているってことですかね?特に小さい頃から植付けられたモノはそう簡単には・・・(09.11.30著)・・・・・・・・・・ 「この薬を呑めばすぐに治るよ♪」 調子を悪そうにしている知人に、別の知人がそう言って鎮痛剤系の薬を渡していました。確かにその薬によって症状が緩和されたことにより、病気が治ったように感じるのでしょうね。おそらく鎮痛剤系の薬それ自体は直接病気を治すものではなく、自己治癒によってヒト自らの力で治す間に発生する症状を、感じることを鈍くしているに過ぎないと感じますがね。 ただ時に、その症状を取り除いて治ったように感じさせる(治る方向に気持ちを向ける)こと自体がとても大切な要因になるようにも感じますけどね。そして個人的には「薬」のあの単純で何処か謎なモノを感じさせる形にも病気を治す力を感じますかね。ヒトは時に何だか解らないモノほどそこに「力」の存在や信頼をおき易く感じたりすると感じますからね。 そしてそこには医者(専門家)の研究・努力の賜物(拘り)的自信から来る「力」も加わって、多くのヒトから信頼を得易くもなっているように感じますかね。「専門家が言うなら間違いないだろう」・・・って?また人によっては、薬に付けられる値段でも効果が変わってしまうように感じますかね。お金は良くも悪くも価値・信頼を変化させる力を感じます。 また広い意味での「クスリ」には逆に、「お酒」等と同様に個人から「責任」を外し、いわゆる「ワガママ(負的欲求)」も解放する場を創る役割を感じます。「酔っていたから・・・」とか「薬を飲んでいたから・・・」として、時に正常時より大目に扱われたり・・・そしてまた時に、副作用には、「薬」に対する依存を防ぐための役割も感じますかね。(10.10.3著)姉妹日記「モノ-1」・「モノ-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2007.11.11
全64件 (64件中 1-50件目)