いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.06.14
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 評論家にそう言われてしまうとそこに乗らないと不安ですよね。そんな所(流行)に敏感な人達は時には安心を得るようにチェックを着始めるのでしょうかね。ただそんな専門家の言葉に乗って周りが皆チェックを着出すと、これまた恥ずかしくなったり感じませんかね?少なくとも私は抵抗を感じるので、専門家の言葉を耳にした時点でそれは避けますかね。

 ただ例え同じように「流行に敏感」であるが故にそれを避けたとしても、皆がやっている時に一緒になってそれをやってはじめて「流行に敏感」が成り立つようにも感じますね。なんだかんだ言っても皆と同じことをやってはじめて認められることも少なくないように感じますね。そして「流行」と「新しい」は必ずしもイコールではないようですね。

 結局私達が昔していたことを若い人達がしていたり、その私達の昔もそのまた昔の人達の真似をしていたり・・・。その度ごとに多少のアレンジは感じますが、基本的な所は常に巡っているように感じますかね。各種芸術的表現方法も基本形はかなり出尽くしてきているように感じられ、後から生まれて来るほど真の自分独自の表現は難しくなりますかね。

 そして人間全体として見れば、おそらく「流行」にのっている人間の方が少数派になるのでしょうがね?(08.12.9著)

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 「自然の美しさにはかなわないね~!」

 自然の造作物には想像を出来ないような形や色がありますかね。ただ私は、建物や都市風景の方が好きだったり、自然の線よりも機械や定規で画かれた線、植物においても剪定された植木の方が美しく感じるのですよね。また時には直接見る風景よりも、写真で切り取られた風景の方が美しいと感じたりもしますかね。写真には事実+α(想い)的力も感じますかね。

 人の手が加わることで、自然もまた美しさを増すことも少なくないと感じます。また人工物が自然の風景を壊すと言いますが、例えば緑の中の真っ赤な神社や太鼓橋などは、色やデザインが個性的で派手ですが美しい風景に感じますけどね。そこには「神」や「歴史的」な崇高なイメージ、また専門家や主張の強い人による「刷り込み」などの力の助けも感じますかね。

 色やデザイン以前に、その人の「想い込み」や人間関係の「感情」的なモノも「美しい」に強く影響していたりしますかね。

 反れますが、自然素材のモノは体に優しいといいますが、例えば薬品(毒)など、人工のモノより自然界で作られたモノの方が何倍も強いというようなことも耳にしますね。天然健康食品などで健康を保とうとして、逆にエネルギーの出し場も考えず必要以上の栄養を摂って溜め込んでしまい、体調を悪くしているような人も少なからず感じますかね。

 時にその溜まったエネルギー(ストレス等も含め)を吐き出すために無意識に病気(咳や熱等)の形をとる・・・といった世界観もあり、かなり共感も出来ますが、自分が病気と闘っている立場で考えると、少し腹も立ちますかね。もっとも都合の悪い本音を突かれたりしても腹が立ちますけどね。(09.5.14著)

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 「その程度でいいなら私にも出来たよ」

 最近評価を得られている作品には、どちらかと言うと一見技術よりも感性を重視したモノが多いようにも感じますが、そういった作品を見て放たれた言葉です。その人にはその発想が無かっただけだったり、そういった発想や技術は在っても自分の感覚には合わないので(下手と感じて)あえてその表現方法を避けた結果、その言葉が発せられたりもするでしょうね。

 また、とある展示会のポスターにおいて、デザインの一環として出展者の名前が羅列されているのですが、二人の名前だけ唐突に別の場所に配置されていましてね・・・知人の絵画教室の先生はそれを見て、「なんでこんな所に二人だけ・・・」といった疑問をそのポスターの作者にぶつけ、作者は「ポスターの隅々まで目を惹きたかったから」と答えました。

 その絵画教室の先生は、スタンダードで上手な絵を描く人ですが、何処かそのレイアウトに素直に気持ち悪さを感じてしまったのでしょうね。ただ作者のコンセプト(理屈)を聞けば「なるほど!」との感動も覚えると感じますかね。私は正直その二人の名前が書かれた場所はほとんど余白的で、特に目を惹いてまで見せるモノも無かったように感じましたがね。

 ただそうした事により、他人の関心を引いて、その作品を印象付けたことは間違いなく、ある意味思惑通りになり、自分の感性を出せたことになりませんかね。そして作者のその配置の理由も、「単に関心を引きたかったから」で充分とも感じましたが、少しズレていても、コンセプト(理屈)が、その作品にいっそう深みを与える効果になっていると感じますね。

 芸術とは単に上手・綺麗といった感動だけではなく、時には他人に疑問・嫌悪を与えてでも関心を残す事に強い意味を感じたりもしますかね。そして技術を持っていてもその表現方法を恥ずかしくて、または気持ち悪くて発表出来なかった(発表する勇気がなかった)ということも含めて、その人には出来なかった作品であったと言うことなのでしょうね。

 そして同じモノ造り好きにも、褒められたり時には批判を受けてもとにかく他人の目を惹いてストレートな気持ち良さ(感性)を優先したり、特に他人の目を惹かなくとも誰の批判も受けない上手(本物そっくり・無難)な絵を描いて安心(技術)を優先する人がいるように感じますね。(10.6.12著)

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 「パクリ」

 某隣国の露骨で時には完成度の低いソレを目にすると、怒りを通り越して笑いすら出てしまい、そこまでして金儲けしたいかとも感じてしまいますが、そもそも我々日本人も、彼等のように経済成長の過渡期には間違いなく欧米の「パクリ」をしてきた・・・というよりも、特に芸術・デザインなどの分野においてはいまだに「パクリ」が続いていると感じますがね?

 車などのデザインなどは比較的顕著だと感じますが、外国車に似た車はいまだに消費者に受けも良いように感じますね。私は「外国車のデザインそのままに、日本のエンジンを積んでくれれば最高!」なんて感じ・・・。そして科学的世界観も含め、逆輸入(外国評価)に弱かったりするんですよね。日本製の車に日本語のモノが少ないものそんな顕れのように・・・。

 また最近アイドルなどの「パクリ」が報道されていますが、日本国内を見ても、一つ流行りモノが出ると次々と同じようなモノが便乗するように現れてきますよね。そしてパクられた日本のアイドルのテレビに映ったCDジャケットを見れば、パクった某国の民族衣装的なモノを着たデザインになっていて・・・なんか変な話しですよね?

 個人的には著作権・特許のようなシステムもちょっと違和感はありますかね。三ツ星を貰うような立派な料理屋において、「お客様の喜ぶ顔が何よりも嬉しい」と言っておきながら、「それ以上は企業秘密です」とか言う言葉を聞くと「お金儲け」的なモノがちらつき、いくら技術・アイディアが高い人でも人間的にがっかりさせられることも少なくないのですがね。

 また「そんなのオレは10年前にもうやっていたよ♪」的な言葉も聞きますね。私も若い頃は他人と同じ事をするのが何よりも嫌で、色々な事をやってきたのでそんな言葉にも共感を持てることも少なくないのですが、例え今大流行しているモノであっても、過去のその時々のニーズに合わ(流行ら)なかったモノは、やはりセンスに問題があったということでしょう?

 ただそれが周りの流行を素早く感じたためにあえてソレを避けたと言う意味では、流行に敏感であったということにはなりますかね?そして誰にも理解されないことに少なからず優越も感じていましたかね?完成度を除けば、学生時代にアイディアの基本は出尽くしていたように感じますね。今振り返えると消し去りたいモノも少なくないですけどね。(笑)

 とにかく色々な意味でモノ(表現)が溢れる今の世の中では、何を表現しても見るヒトがみれば「・・・に似ている!」になってしまうようにも感じますけどね?某隣国に対する「パクリ」の声の中には、自国のパクリ気質を棚に挙げた先進国的差別のようなモノも少なからずあったりしませんかね?(11.10.6著)



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Last updated  2012.06.24 19:41:44
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