2007年09月12日
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今日のまとめ

1. ベトナム人の一部はもともと中国から流れてきた
2. 植民地支配に対抗する考えとして共産主義が台頭した
3. ベトナムはフランスにも米国にも中国にも勝ったという自負がある
4. 欧米の制度に対する猜疑心は根強い


■ベトナム人の由来

 べト(Viet=越)人は3000年ほど前に揚子江の南の地域から移ってきたと言われています。南に移住したべト人だからベトナム(VietNam=越南)というわけです。彼らはレッド・リバー(紅河)デルタ、つまりハノイ周辺地域に定着しました。中国との地理的な近さもあってベトナムは常に中国からの支配を受けましたが10世紀に中国の政治が弱体化した隙に独立を果たしました。その後9世紀に渡ってベトナムは独立を保ち、中部ベトナムのチャム族を支配下に入れ、さらにメコンデルタをカンボジアから奪い、ラオスの大部分も傘下に入れました。こうして19世紀にフランスが出てくるまでベトナムは独立を維持しました。


■フランスの登場とホー・チ・ミン

 この間、ベトナムは中国と15回戦いを交えており、その度ごとに中国を追い返すのに成功しています。しかしフランスに対しては屈し1887年に植民地となりました。ベトナム人はこの屈辱を深く根に持ち、フランスに支配された以降も民族主義的なリーダーが次々に登場して植民地からの脱却を試みました。そのような独立を模索する動きの中で次第に西側の個人主義的なリベラルさを主唱するグループとホー・チ・ミンに代表される共産主義を唱えるグループとに分かれたのです。ホー・チ・ミンは若い頃にベトナムを離れ、商船の給仕係として世界中を訪れ、1917年にフランスに渡っています。第一次世界大戦で疲弊したフランスを自分の目で見て、ベトナムを支配している宗主国がいかに弱体化しているかを実感するとともに欧州における当時の最先端の労働運動に次第に関わってゆきます。特にフランスの左翼活動家達との交流はホー・チ・ミンを単なる愛国主義者から世界の思想の潮流をちゃんとわきまえた近代的な革命家へと変えました。ホー・チ・ミンは写真館で写真の修正の仕事をしていましたが、在仏ベトナム人愛国者団の中心メンバーとしてその名声を次第に高めてゆきました。それまで「バ」という名前だったのを「グエン・アイ・コク(阮愛国)」に変えたのもフランス時代です。当時のパリの雰囲気は戦時下で経済はボロボロ、折からモスクワではボルシェビキ党が政権を握ったというニュースが入ってきました。パリのカフェでは左翼のインテリが夜遅くまで革命論議に熱中するという具合です。ホー・チ・ミンはスイスから帰ってきたアナルコ・サンジカリストでレーニンとのコネもあるジュール・ラボーと親交を深め、フランス革命のルーツなど革命思想の理論的、歴史的背景をしっかり勉強する機会に恵まれました。こうしてホー・チ・ミンはフランス共産党の創立メンバーに名前を連ねるほど中心的な位置で活動したわけです。植民地主義に対抗するための手段は共産主義以外に無いという彼の考え方はこのような経験から醸成されたのです。


■北と南

 長い海外生活から帰国したホー・チ・ミンは1941年にべトミン(ベトナム独立同盟=つまり共産党の前線)を組織します。当時のベトナムはドイツと同盟関係にあった日本が、ドイツに占領されドイツの実質的な傀儡政権となった仏ヴィッシー政権と共同管理するという形式を取っていました。第二次大戦後、列強は疲弊した自国の復興に忙しく植民地では力の真空状態が生じます。それまで機が熟すのを待っていたべトミンはこれを機会にベトナム民主主義共和国(Democratic Republic of Vietnam=略してDRV)を樹立します。べトミンは北ベトナムの市民をセルと呼ばれる組織単位で再編成し、隣人の相互監視や密告、自己批判など中国の共産党が援用していた手法を実施しました。それまでの村々の長は解任、粛清され、農業の共同管理が始められました。1954年から56年にかけて実施された農地改革では裕福な地主から土地や財産を没収しました。このときは約50万人にのぼる国民が刑務所に収容されたり強制労働に従事させられたりしました。推定では10万人近い市民が処刑されたといわれています。このため地主の多くは南ベトナムに逃れました。こうした共産党のやり方に反感を持つ勢力は南に第二政府を樹立します。これがDRVの北ベトナムに対する南ベトナムというわけです。フランスは共産主義国ではないので当然この第二政府の方を支持しました。そして北の内紛に乗じて軍隊を北ベトナムに派遣し、一時は共産党をハノイから追い出し山の中まで追い詰めました。しかしその後形勢が逆転し1954 年にフランスはディエンビエンフーの戦いで敗れ、正式にベトナムから手を引くことを定めたジュネーブ協定を結びます。


■べトコンの由来

 共産党はハノイに戻り、一旦は「民主主義共和国」を名乗って共産党以外の党派を懐柔し、協調するかのように見せました。しかし、ひとたび権力の座につくと血なまぐさい粛清で共産党以外の勢力を一掃してしまいます。一方、暫定的な境界を形成していた17度線以南の南ベトナムではバオダイ(保大)帝を奉りベトナム国(State of VietNam)が成立します。その後首相のゴ・ディエン・ジェムはバオダイを退け、大統領制、議会政治に基づいたベトナム共和国(Republic of VietNam)に名称を改変します。こうして北ベトナムも南ベトナムも自分が唯一の正当な政府だと主張するに至ったわけです。北ベトナムは世界の社会主義国、共産主義国の支持を得て、一方の南ベトナムは西側諸国の支持を受けました。さて、ベトナムはジュネーブ協定により1954年に独立し、統一選挙を実施するはずでした。しかしジュネーブ協定は細目が不明瞭でいろいろな解釈の余地を残していたばかりでなく協定の実施を監視するはずの国際管理委員会がカナダ、インド、ポーランドからなるメンバー国間の意見の不一致で統一選挙そのものすら実施されませんでした。こうしてなしくずし的に分断に合意する協定が調印され、フランスは南ベトナムを去ったのです。さて、北ベトナムは限られた耕地面積に比べて人口密度が高く、さらに農地改革の際、その土地にもっとも適した耕作を行う知恵を蓄えた農民の多くを農地から追い出してしまい、農業の経験に乏しい共産党による共同管理は深刻な減産を招きました。これが深刻な食糧危機を招き、北ベトナムは豊かな南ベトナムに影響力を伸ばすため1956年くらいからしばしば南で政府の転覆を狙う活動を展開します。これが1960年から 62年にかけての解放のための戦争(War of Liberation)へと発展するのです。このように南ベトナムに潜伏し、政府転覆活動に従事する北の活動家のことをべトコン(VietCong=越共、南ベトナム解放民族戦線)と呼びます。


■米国の関与




■泥沼化

 南ベトナムに潜入してくる北のテロ分子を、南ベトナムの軍隊を訓練してこの掃討に努めるという作戦が成果を上げないことにしびれを切らした米国は1965年に北爆を開始します。こうしてゲリラ戦争は大掛かりな全面戦争へと拡大したのです。その後、テト攻勢、フエ事件を経て米国は再び1972年に大掛かりな北爆を敢行します。1973年にお互いに厭戦気分になった北ベトナムと米国はパリ協定を結びアメリカ軍は完全撤退しました。その後も北ベトナムと南ベトナムの戦争は続きましたが米国の後ろ盾を失った南ベトナムは次第に劣勢となり、1975年4月に南ベトナムは無条件降伏します。


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最終更新日  2007年09月18日 18時24分35秒


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