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2016年09月02日
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カテゴリ: 広井勇&八田與一
(八)同級生の思い出(七六頁)
我が二期生の組は、最初一八名から成り立っていたのであるが、その後私費生が二人加わったので一時二〇名になった。その私費生は奥田直張という華族の令息とその付添人の川口宗晴君であった。しかし二人共中途退学をした。川口君とは明治五年一月横浜の高嶋学校の火災の節同室におったことが判り、深く奇遇を感じた。川口君はその時避難するためいち早く窓より飛びおりて暫く入院したとのことである。西村規矩君も中退退学し、又後に永井於莵彦、毛受駒次郎、伊藤英太郎、伊藤鰹太郎の四君が退学した。佐久間信恭君は心臓病のため四級時の時一箇年休学をした。なお同級生の二人は卒業試験の結果が思わしくなかったので元級に留まることとなり、一時二〇名であった第二期生の組が卒業の時はその半数に減った。
四年間の学業成績を通算して得た成績のよる卒業の順位は左の通りである。内村鑑三、 宮部金吾、高木玉太郎、南鷹次郎、足立元太郎、太田稲造、廣井勇、藤田九三郎、岩崎行親 町村金弥これら一〇名が札幌入学当初の数え年を記してみると、高木・新渡戸・廣井の三君が一六歳、内村君が一七歳、私が一八歳、南、足立の二君が一九歳、町村、藤田の二君が二〇歳、岩崎君が二一歳であった。不思議に思われることは、年少者の方が、年長者に比べ、英語がはるかに上達していたことである。これは当時政府の方針が定まらない過渡時代に遭遇し、米国式の教育を受けたからである。第二期生の一大特徴は在校中からそれぞれ一つの学科を選んで、学業の余暇に、これを専修し、これにより国に尽くそうという考えであった。そしてこのクラスのモットーは、わが札幌をしてスコットランドのエジンバラのごとく学芸の淵源地たらしめねばならぬ、この地を“Athens of the North”〔北のアテネ〕たらしむるのが、我らのねがいであると常に論じあった。
内村鑑三君 内村君は確かに日本の生んだ天才の一人であった。その七〇年の長き生涯中に我が宗教界、思想界に遺された偉大な感化は、今さらここに、あらためてのべる必要もないと思う。私は幸い同君の青年時代(一七歳より二〇歳まで)に札幌農学校の寄宿舎で、四年間同室で暮らすことができたので、同君の性格については、よく知り尽くしていた。 同君は武士の家に生まれ、厳格な訓育の中に成長されたので、廉恥を重んぜられ、正直であり、かつ約束は堅く守られた。神仏に対する敬虔の念は確かに厚かった。君はまた友誼の徳の讃美者であり、したがって友情に富み、友人の忠告をよく受けいれる賀量をも持っていた。しかし一方にははなはだ烈しい性質があって、多くの人と衝突喧嘩をしたが、不思議なことには、同室におったにもかかわらず、私とは四年間一度も喧嘩をしたことがなかった。ある時のごときは誰かと喧嘩をして癇癪を起し、ふうふういって室に入るや否や、「宮部、土瓶を割るぞ」と断り、それを床にたたきつけ粉みじんにこわし、ああこれで気が清々したといい、後をよく掃除して、それで満足した様子であった。この癇癪も信仰生活が進むに従い段々と薄らいだ。内村君は頭脳がすこぶる明晰であり、その記憶力の強大なる事は、実に驚くべきものがあった。勉強は規則正しく、その努力も人一倍であったが、試験の成績を見るに、ほとんど各学科にわたり最高点を取らないものはなかったほどで、おそらく札幌農学校開始以来、内村君ほど最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思う。ある時、植物学の試験があった際、今度こそは僕が最高点を取らねばならぬと一生懸命に勉強したが、試験の成績が発表になったのをみると、僕は九三・六点で内村君は一〇〇点ではないか、実に驚かざるを得ないのである。内村君は僕らのように試験間際になって、急に勉強をするというようなことは決してなく、試験の丸一週間前には、すべて準備ができていて、授業が済むと一人で散歩に出かけ、歩きながら頭の中で、答案を練って置き、不審なところがあれば、帰ってからノートや本を見るというふうで、大体の準備は平素学期の半ば頃より、始終前の方からの復習を怠らなかった。それであるから試験場に入り、教師が黒板に第一の問題を書くと、後の問題などかえりみることなく、直ちに筆をとり、大きな字で非常な速度をもって、答案を書き始め、いつもその紙数は我々のものの、ほとんど倍はあった。この習慣、すなわち「規則正しい勉強」と「予め準備をして置く」ということは、内村君の一生を通じて常に変らずに保たれた。これは確かに同君の偉業の基をなした要素の一つであったと思う。明治七年に外国語学校に入学された時は四級であった。佐藤昌介君より二組上であり、私よりは六組も上であったのを見ると、当時英語の力が相当にあったのが判るが、内村君の話によるとその頃柔道の稽古をしておったので、ある日強い相手に「締め」の手を掛けられ、ひどく胸部をしめられたために肋膜炎に罹り、一年以上も休学していたとの事で、明治一〇年に我々と同級になった訳である。また開拓使の官費生を志願した時、身体検査で引掛ったのは内村君一人である。医者が胸部に何か故障を認めたので、頻りに調べていたが、大したことではなかったと見え、注意だけで無事に通過したので、友人共も安心をした次第である。私どもの級では在学中に各自それぞれある特別の学科を選んで学業の余暇にその研究に努めていた。内村君は動物学を選び、特に水産に興味を持っており、卒業式の演説には邦語で、「漁業も亦学術の一なり」との演題のもとに滔々とその識見を述べられた。漁業に対する水産学はちょうど農業に対する農学の如く一つの科学として発達せねばならない。日本の如く水産物に富める国ではその研究をおろそかにすべきではないと力説された。当時我が国は勿論欧米でも未だ頗る幼稚であった水産界の趨勢に対し、実に時勢に先んじた卓見というべきであろう。寄宿舎内では親しい者の間ではよくあだ名で呼び合っておった。内村君のあだ名は「ロン」といっており、卒業後同君より寄せられた多くの手紙に必ずLonと署名してあった。これは Long shank 長脛(ながすね)の省略である。ある人の著書に内村君の「ロン」というあだ名は論客であったからそう付けられたのであると書いてあったが、その当て推量には驚き入る外はない。また同君は世事慣れないところがあり、一見粗野なところもあったので、「不意気」というあだ名も付けられていた。





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最終更新日  2016年09月02日 00時05分35秒
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