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2016年09月02日
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カテゴリ: 広井勇&八田與一
高木玉太郎君 我々の級には文久二年生れの者が三人いた。そのうち高木君が一番兄分で一月生れ、太田君が八月、広井君が九月という順で、入校当時は皆一六歳の青年であった。入学規則によれば、志願者は一八歳以上たるべしとなっていたため、願書には生年月日を偽って通過したが、卒業の時には本当の年が判明したので、開拓使の役人共がこれら漸く満二〇歳に達したばかりの青年学士の処分には余程弱ったと聞いた。しかし皆一様に開拓使御用掛を申し付けられ月俸金三〇円を給され、それぞれの志望に従って職を与えられた。高木君は頭脳が明晰であった上に勉強を怠らなかったため、終始優秀な成績を挙げていた。君は化学に対し熱烈なる趣味を起し、ペンハロー教師の指導の下に、学課外の時間は化学講堂に入りびたり種々な分析や実験の手伝いをしていたので、卒業の頃はその学識も上達し、我が校における未来の農芸化学の教授たることを予想せしめた。在校中君はドイツ語の独習を始め、また続いてフランス語をも始めた。このドイツ語の学修は卒業後も継続し、遂にはゲーテやユーゴーをその言語で耽読するまでに進んだ。また鉱物の研究に趣味を興し化学講堂にあった米国より取り寄せた完備した鉱物標本につき綿密な研究を遂げた。鉱物の知識と化学の実験上の経験とは卒業後における事業の成功の基をなしたものである。高木君の父は幼少の時に死去され、また母は他家へ再婚されたため、祖母の手によって養育されたので、おばあさん育ちで我がままのところがあった。また年の割りにませていて、頗る常識が発達していた。広井君の追想文によると「まるで生れながらの老人のようで僕らは君を『小爺(こじい)』とあだ名した」と。君はまた料理に長じていて同室の広井君がよく猟に出かけ鴨など撃って来ると、その肉は君が化学教室から持ってきた磁器皿(ボースレーン・デッシ)やその他の器具を用いて、醤油、砂糖などで味を付け、ストーブの上で、うまい鴨の吸い物を作り、出来上がると隣室にいた僕らに呼びかけ(寄宿舎の建物には全部壁がなく板と紙で室が分割されていたのでよく聞こえた)「宮部君ちょっと来たまえ。内村君は来るには及ばないよ。」とやったもので、実に君の性格の一端を窺い知ることが出来る。君はまた物事に細かい始末屋で、学校よりの支給品は必要の有無にかかわらず規定通りこれを請求して貯めて置いたとのことである。
南鷹次郎君 南君は天性人格者であって、学生時代においては頗る真面目な青年で、ひたすら修養に勤めていた。東京芝口の植木屋旅館で内村、太田、岩崎の三氏と私の四人が立行社という修養団体を組織したが、札幌に着いてからその主義に賛成され入社した者が三名あった。それは南、町村、鶴岩(村岡)の三氏である。明治一一年一月頃と記憶するが、この七人で黒ラシャのオーバーコートを着用して記念写真を撮った事がある。寄宿舎生活中南君の逸話として何も伝えるものはない。卒業の年の春、教頭より卒業後の就職に関し希望を申し出るように申し渡された時、南君は第一希望として獣医、第二としては畜産を選ばれた。学校当局は君の人格と学才とを認め、君の希望に従い、将来の獣医学教授たるべき準備として東京駒場農学校にて二年間獣医学を専攻するため、開拓使御用掛の資格のままにて遊学を命ぜられた。学校へ帰って来てもドクトル・カッターがまだいて獣医学を教えており、君は専らブルックス教師の下に農場の仕事に従事していたので、その方の経験や知識がいよいよ増進した。学校としても農学は本校の大黒柱であれば、ブルックス、ブリガム両教師が帰国後は君をして、その後を引き継がしめ、農学、園芸学の講義や農場の監理を担当させることとなった。獣医学は駒場出身の専門学士が担任することとなった。
足立元太郎君 足立君は純粋な江戸っ子で、気が利き、物解りが良く、気さくで、また親切であった。話をするにも「君アレはアーして、アーなったよ」という調子だから、多くの人々は解からないが、私だけには足立君の話は大概察知出来た。君は学課中、製図、兵式体操、動物学等で優等な成績を挙げていた。在校中から昆虫学が好きで盛んに採集をしていた。卒業の時の希望は第一が畜産学で、第二が昆虫学であった。卒業後は養蚕に一身を捧げ、斯業発展のため大いに貢献された。
太田稲造君 太田君は南部藩の名家新渡戸十次郎氏の三男として生れ、祖父伝氏は最も傑出した人物で、南部領内における不毛の大原野であった三本木の開墾を計画し、十和田湖より疏水し、この土地をして遂に一大沃野と化するに成功した。君の五歳の時、厳父は他界され、少年時代は賢夫人の誉れの高かった母堂の膝下に成育された。祖父は明治四年君の九歳の時逝去されたが、生前より君の将来に嘱望され、教育指導のよろしきを得れば、必ず天下に名を成すであろうといわれた。その遺志に従いまた厳父の実弟太田時敏氏が養子に貰い受けたしとの切望により、同年の秋上京した。次兄道郎氏は明治一七年病歿され、また長兄七郎氏は明治二二年君がドイツ留学中に死去されたため、君は実家を相続することとなり、新渡戸姓に復帰した。君が札幌農学校へ入学した時は僅か一六歳の青年であったが、年に似合わず思慮分別に富み、頭の働きの機敏さには驚くべきものがあった。特に弁舌に達し、また何となく気取るところもあった。時に諧謔を弄したり、また人をからかうことが好きであった。また室内で相撲を取ることを好み、腕節もなかなか強く、私とは好敵手であった。私ども二年生の時、相撲のはずみで私の前歯の義歯をひどく打ち、いためたので、その夏の休暇に治療を受けるため上京したが、その時に内村君も一緒であった。こんなに快活であった君が、卒業の二年前頃から憂鬱症に罹り、余り外出もせず、室に籠ってますます読書に耽った。それで「モンク」というあだ名で呼ぶようになった。この憂鬱症の原因は多読の結果、思想に動揺を来たし殊に神学上の懐疑に陥ったためと知られていた。学課の内、最も力をこめて勉強したものは農学であった。明治九年、明治天皇が東北地方御巡幸のみぎり、三本木にて御昼休み遊ばされ、疏水開墾に尽力せることを聞し召され、その功績を嘉し給い、御褒美を賜りかつ子々孫々よく農事に勤めよとの有難き御諚をかたじけのうしたので、兄弟三人は共に祖父の遺志を継ぎ皇恩の優渥なるに報い奉らんことを誓ったのである。太田君の札幌農学校入学を志願されたのも、そのためであり、また在校中農学に最も力を注いだのもそのためであった。第一年級第一学期の農学の成績は一番であったが、学年成績では三番であった。第二年級の学年の成績は一番で、二番は内村君であった。この努力は一つには故郷の老母を喜ばせるためだといっていた。英語に関する学科の優賞はことごとく君の占めるところであった。一一年振りで母堂に面するのを楽しみに明治一三年の夏、札幌を出立し、途中ゆるゆる諸所を見物しながら、何も知らずに盛岡に着いたところ、二、三日前に母堂が他界されたことを始めて知ったので、君の悲嘆失望は譬えようもなかった。それから札幌への帰途、東京にてはからずも永く求めていたカーライルの「サータス・リサータス」が手に入り、あたかも渇者が水をあえぎ求むるがごとき有様で、それを貪り読んだ。すると、これまでの煩悶憂鬱がさながら雲霧のごとく消え散じ、まるで復活したような気持ちになったと随想録に書いてある。またその頃好んで読んでいた修養書には、プルタークの英雄伝があった。卒業に際し学校へ提出した希望としては、第一は開墾、第二は作物栽培、特に甜菜栽培としてあった。第一の希望、開墾は優渥なる御諚に従い、祖父の遺志を継ぎ、北海道の開墾事業に関する業務に就きたいというので、これは後年、札幌農学校教授時代に北海道庁技師を兼任し、殖民地選定の事務に関与した時に実現され、北海道の拓地殖民に君の貢献せるところは決してすくなくなかったのである。また第二の希望、すなわち糖業に関しては、明治三四、三五年頃、後藤新平伯に懇望され、台湾総督府殖産局長兼糖務局長となるに及んで達せられた。この業績は実に台湾におけるサトウキビ農業の基を置き、その政策を確立し、日本をして砂糖について自給自足ならしめたのであって、実に日本糖業の恩人と認められるに至ったのである。





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最終更新日  2016年09月02日 00時52分36秒
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