全3812件 (3812件中 1-50件目)
6月24日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(22)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「悲しき十一才」(2)つまり、わがくにでは、この国ぜんたいのことを英国だのイギリスだのと呼びならわしておりますし、このわたくしにしてからが、煩雑さをさけるためにとは申せ、便宜そのような俗称でもってお茶を濁しているのですが、この国は日本の三分の二程度の面積しか持ち合わせていないにもかかわらず正式の国名を「グレイト・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Britain and Nothern Ireland;UK)と言い、ほんとうは恐ろしく複雑にして難解な性格をもつ、れっきとした複合国家だからです。いや、この国ばかりではない。スイスにしてもドイツにしても、それぞれ連邦国家であり、なるほどこれでは占領軍が進駐してくるや否や日本の中央集権制度をエラク気にしたはずだわいと、このごろつくづくと思い当っている始末です。 (つづく)
2024.06.24
コメント(0)
6月24日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(360)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(12)(前日)このような時期のどれか一つを飛び越えたり、また、一層ありがちのことですが、慌てすぎてその時期の特質を十分に利用しない人は、あとからそれをとりもどそうとしても、それはめったに出来ないこと、いや絶対に不可能なことだと言ってよいでしょう。そういう人は常に、その人柄全体に、ひと目でそれとわかる欠陥をとどめているものです。(よりつづく) そのことを防ぐのが、比較的若い時代には、もっぱら教育の任務です。しかし、わたしはここでそれについては語りません。しかし、年がすすむにつれて、そのことは、まさしく自己教育の主眼点の一つとなります。人間は、その人の生涯の真の成果を主として自己教育によります。たとえ他人がその人のために何をしてくれても到底自己教育を越えるものではないでしょう。 (つづく)
2024.06.24
コメント(0)
6月24日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。歳を忘れる方法忘年会などの宴会を催し年忘れをする人々がいるが、これは言葉だけであって年をその悔いの多かった年を忘れることは出来ません。本当に年を忘れたいのであればまず善行をしなさい、お金のある人はそのお金を施(ほどこ)しなさい、知恵のある人はその知恵を使って人を助けなさい、力のある人はおしみなくその力でボランティア活動をしなさい、そしてはじめて悔いの多かった年を忘れることが出来るのです。悔いは酒でもってはらすことは出来ません、善行を積むことによってなくなるのです。慈善活動は悔いを忘れる一服の薬に匹敵します。さあ年末に際して大量にこれを服用し元気になりましょう。
2024.06.24
コメント(0)
6月23日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(21)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「悲しき十一才」(1) ゼミナールの紳士?淑女?のかたがたよ、きょうのわたくしは、いささか風変わりな場所から御挨拶を申し述べる栄光を有するものであります。シテイまでお金を引き出しにやってきたついでに、お昼まえより銀行集会所のライブラリーに潜りこんでいるのです。そして、いっそのこと、ここで手紙を書いて帰ろうという魂胆なのです。いつもは、ホテルの自室で低いテーブルの上に屈みこみながら、したためていますので、背骨が痛くなってしまいます。それで、きょうはここのデスクを活用させていただければと思うのであります。 このライブラリーは、規模こそあまり大きくないものの、経済書だけは、かなり揃っています。それに第一、客種(だね)が良い。「居ハ気ヲ移ス」とか言いますし、いつものように与太をとばしていては大家(おおや)さんに申し訳ない。きょうのところは、ビジネスライクな態度で終始したく思いますから、あなたがたも我慢していただきたい。内容も、かねがね懸案になっていた英国の教育制度―その第一部と参りましょうか。しかし、そのためには、ここであらかじめ若干のまえおきを試みておくことを必要とします。 (つづく)
2024.06.23
コメント(0)
6月23日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(359)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(11)(前日)老年は単に慰めのない衰頽期ではなくて、むしろ、自分の性格のあるがままの過去を静かに肯定し、あるべき将来を達観して、さらに今後の偉大な発展のために準備する時期と老年はなりうるのです。これが、まさしく老年にふさわしいその使命なのです。(よりつづく)このような時期のどれか一つを飛び越えたり、また、一層ありがちのことですが、慌てすぎてその時期の特質を十分に利用しない人は、あとからそれをとりもどそうとしても、それはめったに出来ないこと、いや絶対に不可能なことだと言ってよいでしょう。そういう人は常に、その人柄全体に、ひと目でそれとわかる欠陥をとどめているものです。 (つづく)
2024.06.23
コメント(0)
6月23日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。信仰と伝道信仰は生命です。ですからその生命を維持するためには増殖しなければなりません。増殖を止めれば生命は死にます、同じように伝道を止めれば信仰もなくなります。自分一人清くあればいいのだと思ってその信仰を人に伝えることをしなければその信仰はすでに死んだも同じです。人に伝えることは信仰を存続させるために必要なことなのです。人に広めなければ、その人自身の信仰は死んでしまうでしょう。そう思って世の中をみますと、なんと私の信仰を伝える範囲のひろいことでしょう。わたしは、感謝します、わたしの信仰を伝える範囲の広いことを、これなら自分の家に一人籠もって窒息するようなことにはならないでしょう。さあ、新しい年です、わたしの信仰を多くの人に教え広めたいと思います。
2024.06.23
コメント(0)
6月22日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(20)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(20)先日熱を出して以来、どうもまだ心身ともに本調子だはないと見え、こうして筆をとっていても、もうひとつ気分が乗りません。頼まれもしないのに、寝る時間までも割いて、こんなことをしていると、そのうち芹沢光治良氏の小説の題名ではないが、「ロンドンに死す」というブザマなことになってしまうのでは、あるまいかとも、思えてきたり、いたします。フト、そんな気持に襲われたりするというのも、やはり秋に入ってからでしょうネ。秋らしい風情は、いっこうに感じられない、虫の声ひとつ聞こえてこない、索漠たるここロンドンの宿ですけどもネ。では、今夜は、これで。日本では、まだまだ残暑がきびしいかと思います。どうぞ、お元気で。 敬具 九月七日 午後一ニ時 (つづく)
2024.06.22
コメント(0)
6月22日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(358)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(10)(前日)速成の多収穫を目指して栽培された、いじけた木にみのる果実は、十分に成長した樹に熟した果実ほどの品質はなく、おそらく滋養の点でもおとります。(よりつづく)したがいまして、人生のそれぞれの時期は、その時代に固有の成果を蓄積して、これをその人格のなかに残さなければならないのです。子供の時代は子供らしい無邪気さを残すべきであり、これなしには誰でも他人にいい影響を与えるような完全な人間とはなりえません。また青年時代は、活動力を生み出すような新鮮さと、精神の高揚とを残さなければなりません。さらに壮年時代には、男女ともに、あらゆる思想と感情の円熟と、すでになし終えた仕事によって鍛えられた性格の堅実さを残さなければなりません。このような場合においては、老年は単に慰めのない衰頽期ではなくて、むしろ、自分の性格のあるがままの過去を静かに肯定し、あるべき将来を達観して、さらに今後の偉大な発展のために準備する時期と老年はなりうるのです。これが、まさしく老年にふさわしいその使命なのです。 (つづく)
2024.06.22
コメント(0)
6月22日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。 宇宙の精算宇宙は正義の活動のための精算機関のようなものです。ですから、宇宙のなかで善をなしてその報いを受けられないということはありませんし、また悪をなしてその刑罰を蒙らないということはないです。宇宙は広大ですので善悪にたいする反応が直ちにそれを行った方向からこないかもしれません。しかしながら東に向ってなした善が西の方より報われ、北に向かってなした悪が南の方から罰せられたりするのです。宇宙は大銀行のようです、貸借関係の帳尻は一円たりとも違うことはありません。ですから、この信用の置ける宇宙の銀行に善を積むことがよいでしょう。そして、善を積むというのは、惜しみなくすべての人に向って善をなすことなのです。
2024.06.22
コメント(0)
6月21日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(19)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(19) それにしても、日本におけるクスリの野放しぶりは、外人にとって、とても心配なことらしく、道中の船のなかで、アメリカ人から、 「日本では、医師の証明書がなくてもトリコマイシンが買えるそうだが、ほんとうかい?」と尋ねられました。そこで、“Don’t trouble yourself about that,because everybody of Japanese is a doctor”(心配ヲシテクレナクテモ、ヨロシイノヨ。日本人ハ、ヒトリヒトリガ、ミンナ、オ医者サンナノヨ)と答えましたところ、そのアメリカ人は、“Oh ! Terrible ! “ (アラ、オソロシヤ)と肩を竦(すく)めておりました。 (つづく)
2024.06.21
コメント(0)
6月21日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(357)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(9)(前日)模範的に経過する生涯は滅多にあるものではなく、どの人の生涯にも、避ければ避けられた過ちがあり、あとからではもはや埋めることのできないすき間があるものです。(よりつづく) というわけは、人生のおのおのの時期が、それぞれその目的と任務とを持つからです。春には、木はなによりもまず成長して、おわりに花を咲かせなければなりません。ですから、春の内に実を結んではなりません。たとえば、近頃のように自然の成長をわざと抑制し、ただ速成の多収穫を目指して栽培された、いじけた木にみのる果実は、十分に成長した樹に熟した果実ほどの品質はなく、おそらく滋養の点でもおとります。 (つづく)
2024.06.21
コメント(0)
6月21日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。仰望の秘術世の中の教師はいいます、「まず、自分のことを清くしてそして世の中を清くしなさい」と。しかし神はおっしゃいます「なんじらわれを仰ぎ望め、そうすれば救われるだろう」と(イザヤ書四十五章二十二節)。私自身を清めようと一生努力してもそれは不可能でしょう。しかし、神の子羊であるイエスキリストを仰ぎ望んで、即座にわたしたちは自分自身の霊魂を清めることが出来るのです。去れ、世の教師ども、あなたたちは私に自省の心を植え付け、そのため私はいままでの半生を苦しみ悩みました。わたしは、今からは神を仰ぎ望んでそのすばらしい教えによって清められていきます。
2024.06.21
コメント(0)
6月20日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(18)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(18) わたしなどには、こういうお節介好きの商人のほうが有難いのですが、ことクスリに関するかぎり、いっぱい抱えていないと、どうも心細い。だから、「こんなことでは、困るなァ、日本から取り寄せなければ、どうにもならないなァ、面倒なことよノオ」と、いささか憂鬱になっていましたところ、そこはよくしたもので、トットコ、トットコと歩いていますうちに、とてもいい綜合ヴィタミン剤や綜合感冒錠を気前よく売ってくれる店を見つけました。日本のものに比べると三倍くらいの値段ですし、それに乱売合戦などという気の利いた催しがありませんために、たいへん高くつきますが、それでも日本から航空便で取り寄せることを思えば、うんと廉いはずです。思いきって五万円ぶんほど、いっぺんに仕入れましたので、これで安心をして冬を迎えることができます。君たちも安心して下さい。 (つづく)
2024.06.20
コメント(0)
6月20日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。(よりつづく)しかし、内的に健全な人間生活であるならば、必ず明らかに認められるようななんらかの発展をともないます。一方また、その発達の途中でまったく気まぐれな飛躍や中断が起こると言うこともないのです。しかし、それと同時に、まったく模範的に経過する生涯は滅多にあるものではなく、どの人の生涯にも、避ければ避けられた過ちがあり、あとからではもはや埋めることのできないすき間があるものです。 (つづく)
2024.06.20
コメント(0)
6月20日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。智者いずくにある智者はどこにいるのであろうか、学者はどこにいるのであろうか、聖者はどこにいるのであろうか、君子はどこにいるのいるのであろうか。わが国にはいません、かといって外国にもおりません、そうです全世界を探してもどこにもおりません。智者は天にいらっしゃいます、神と共にいらっしゃいます、いや彼が神そのものなのです、イエスキリストその人なのです。イエスキリストこそが智慧であり聡明(さとり)なのです。彼に至らなければ光はないのです。わたしが何をしようと、四方八方探し回わろうと智者を探しえないのです。キリストはわたしたちの天上にいらっしゃるとともにわたしたちの心にもいらっしゃるのです。わたしはイエスキリストにより、自分自身はもちろんのこと全世界をその光で照らそうと決心したのです。
2024.06.20
コメント(0)
6月19日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(17)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(17)だいたいが、この国の商人というのは、このクスリヤのオバサンに限らず、お客であるわたしに対して、ツベコベ、ツベコベと、お説教を試みようとする習癖がある。夕方に、ヤオヤで卵を四個書おうとしましたら、 「オマエハ、コノ卵ヲ四個トモ今夜カ明朝ニ食ベテシマウノカ?」と聞くのです。 「今夜ニ一ツ、明朝ニ一ツ…」と答えると、 「ソレナラバ、二個ニシテオクガイイ、無駄ナコトダ。アスニナレバ新シイ、卵ガクル、ソシテコノ卵ハ、半ペンス値ガサガル」と言う。 「では、ソウスルヨ」と答えると、さも満足そうにニッコリ笑って、「ベェリ、グウド」と誉めてくれました。店に入ると、たいていの場合、“May I help you?”と言いながら歩み寄ってくるから、売りたくないのでもないようですが、専門家としての自負心をもっているというのか、国民性のしからしめるところなのか、妙にカウンセラー気どりのところがあります。 (つづく)
2024.06.19
コメント(0)
6月19日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)この場合まず第一に言いうることは、どのような人生行路にもすべて段階があるということです。そして、およそ価値ある生涯ならば、たとえば牧場をさらさらと流れる澄んだ小川のようにまるで変化のないものではなく、あるいは、人工の運河のように始めから終りまで一直線に走ってゆくものでもないということです。(よりつづく)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。 (つづく)
2024.06.19
コメント(0)
解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。独立教会の建設監督より建てられた協会があります。宣教師によって立てられた教会があります。しかしわたしたちは神の聖書を直に学んで神によって教会を建てようと思っているのです。聖書はドイツにルーテル教会を生みました、英国においてはメソヂスト教会を生みました。そういう同じ力が日本においても、純粋な日本独自の教会を生まないわけはありません。わたしたちは、外国の人たちの助けをうけず日本人だけで強固なキリストの教会を建てることが出来ると信じるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.19
コメント(0)
6月18日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(16)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(16)ここ英国は、さすがに名にし負うスモッグの国だけあって、日本で言えば浅田飴のようなノドのオクスリだけは、タバコ屋の店頭にまで色とりどりの箱に入って並べたてられておりますものの、クスリらしいクスリとなると、入手が仲々に面倒です。クスリ屋の店先で簡単に買えるものはと言えば、カゼグスリならアスピリン、保健剤ならエビオスやワカモトなみの酵母剤の程度であって、それ以上のクスリになると医者の処方箋が必要らしい。『ドリクソン』という名のビタミンC発泡錠(十錠入り)を、やっと売ってもらい、これが大層気に入ったので、八日目に、「ザ・リドクソン・イズ・ナイス」と呟きながら二個目を買い求めに出かけましたところ、アレハ、一日ニ、一錠ノメバ充分ダト、言ッテオイタデハアリマセンカ。ナクナルノガ早スギマスゥ」と、叱られてしまいました。 (つづく)
2024.06.18
コメント(0)
6月18日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(355)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(7)(前日)それは、これまでたくさんの人が歩いた道でありながら、しかし誰にもよくわからないこの人生の道の途中で、旅人が疲れかかると元気をつけてやり、また、今の道を歩き続けるのが不安になり、予想した方向から逸(そ)れたような気がする時その迷いを解いてやるのに、役に立つでしょう。(よりつづく) この場合まず第一にいいうることは、どのような人生行路にもすべて段階があるということです。そして、およそ価値ある生涯ならば、たとえば牧場をさらさらと流れる澄んだ小川のようにまるで変化のないものではなく、あるいは、人工の運河のように始めから終りまで一直線に走ってゆくものでもないということです。 (つづく)
2024.06.18
コメント(0)
6月18日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。効果ある禁酒禁煙自分の力の不足を感じる人が刺激物を必要とします、たとえばタバコのようなあるいはアルコールのようなものです。これらは、生きるのに疲れた人によって用いられます。しかし、これらは力の源である主に接してまったく要のないものとなります。わたしたちは、「神に酔う」快楽を知って、酒に酔う快楽を忘れます。わたしたちの禁酒禁煙は義務として強制されるのではなく、不必要となるのです。まったく必要を感じなくあってはじめて、わたしたちは禁酒禁煙をつづけることが出来ます。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.18
コメント(0)
6月17日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(15)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(15)ところで、カゼで思い出しましたが、天地自然の摂理がどうの、自然科学が害毒がどうのと、偉そうな御託(ごたく)を並べたてながら、このわたしには、四年生の諸君なら御承知のとおり、クスリを浴びるほどに服むという甚だもって憂慮すべき道楽があり、日本に居るときにも、月に四、五千円はクスリ代に充てておりました。クスリとは言っても保健剤にカゼ薬の程度ですが、新聞広告を見ると、あれもこれも、みんな試用してみたくなるのだから始末がわるい。 そこで、こちらに参りますさいにも、どのメーカーにも不公平にならないようにと、一通りの銘柄を、ことごとく取り揃え、金額にして二万円ぶんくらいは用意してきました。もしも税関でスウツケースを開けさせられていたら、「こいつクスリの注文とりではあるまいか」と、きっと怪しまれたことでしょうネ。しかし、あんなにたくさん用意してきたはずのクスリ類も、ほかにこれと言って口に合う物とてない英国の生活ゆえ、主食がわりにポリポリと食べておりますうち、もうすっかり平らげてしまいました。 (つづく)
2024.06.17
コメント(0)
6月17日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(354)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(6)(前日)伝記作者がその体験の意味すら十分に理解しえない場合があるからです。一方そうした体験を物語うるはずの自叙伝も、たいてい、著者の虚栄心によって汚されていて、時には、逆に伝記のなかで最も真実の少ないものとなっています。(よりつづく)ですから、このような著作では個人的性格が強く出ており、人生の正しい道を行く「方法」といったものはおよそ存在しないのだ、と考えて大体さしつかえないでしょう。なおこの場合でも、最も役立つものは、おそらく、すぐれた人たちがたまたま残したごく実際的な言葉でしょう。それは、これまでたくさんの人が歩いた道でありながら、しかし誰にもよくわからないこの人生の道の途中で、旅人が疲れかかると元気をつけてやり、また、今の道を歩き続けるのが不安になり、予想した方向から逸それたような気がする時その迷いを解いてやるのに、役に立つでしょう。 (つづく)
2024.06.17
コメント(0)
6月17日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。隷属の民武力をもって勝利しても、もし霊魂でもって勝つのでなかったら我々は勝者ではなく、負けて隷属している人民であります。もし信仰でもって独立していないなら、わたしたちの独立は偽りの独立です。わたしたちは欧米の将校を自分達の国の陸海空軍のトップにするだろうか。しないであろう、しかし、自分達の霊魂をわたしたちは欧米人の牧師のもとに置いているではありませんか。恥じるべきことです。日本の多くのキリスト信者たちは、いまだ自立の人民ではなく、欧米人に隷属する人民と言うべきでありましょう。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.17
コメント(0)
6月16日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(14)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(14) わたしたちは、いまや即刻、宇宙そのものに主体をおく東洋的な世界観に立ち帰るべきです。東洋思想の下にあっては、人間と自然との対決といったような思い上がったことは、もともと考えられぬ性質の事柄であり、自然というものは、人間にとってその故郷(ふるさと)をなすものとして観念されてきたはずです。虫の声云々から、一転、二転して、いやに大袈裟な話になってしまいましたけれど、とにかくコンクリートは、いけないなァ。わたしは、このヨーロッパへ『会計学と風土』の研究に罷り越してきておりますものの、「風」のほうだけは、毎日フトコロのなかにまで吹きこんでくるために充分に堪能(たんのう)させて戴いておりますが、「土」にゼンゼン恵まれないために、研究がアンバランスになり、とても苦労をしておりますの。 (つづく)
2024.06.16
コメント(0)
6月16日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(353)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(5)(前日)彼の論文には、人生におけるより高貴なものを目ざす自然の健全な常識が、ゆたかに含まれています。そして、このような健全な常識を青年の心に育てあげるのが、いわゆる「古典的教養」の、何物にもかえがたい主要な目的なのです。(よりつづく) こういう種類の著作で比較的後世のものとしては、イギリスの偉大な清教徒時代の作品であるバンヤンの「天路暦程」と、その約百年前に書かれたユング・シュティリンクの「郷愁」とをあげることができます。元来、すぐれた人々の伝記というものは、同時代の人や後世の人のために、人生の道案内の役目を果たすべきものでしょう。しかし、残念ながら、この種の著作ですぐれたものや、完全に真実なものはほとんど無いのが実情です。なぜなら、伝記作者は、彼らによって描かれる人物の最も内密な体験を知っているとは限らないからです。しかも、そうした体験はしばしば小さな出来事でありながら大きな結果を伴うことがあったりして、伝記作者がその体験の意味すら十分に理解しえない場合があるからです。一方そうした体験を物語うるはずの自叙伝も、たいてい、著者の虚栄心によって汚されていて、時には、逆に伝記のなかで最も真実の少ないものとなっています。 (つづく)
2024.06.16
コメント(0)
6月16日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。ただキリストに聴かんのみトルストイ一人の偉大さはロシア一億三千万人の人々より大でありましょう。キリスト一人の偉大さも世界中の十三億人の人々より大でありましょう。今、アメリカのルーズベルトとイギリスのチェンバレンは戦争が世の中に益をもたらすのだと言いますが、そんな説明に耳を貸す必要はありません。今、全世界の新聞記者が戦争による殺伐とした現在の状態を擁護していますが、そんなことに惑わされてはいけません。わたしたちは、ただイエスキリストが語られた数々の言葉に耳を傾ければよいのです。今、世の中がこぞって戦闘の勝利に酔っているとき、わたしたちは天からつかわされたイエスキリストの言葉によって心を鎮めなければならないのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.16
コメント(0)
6月15日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(13)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(13)二十世紀後半の人類というのは、やれ原水爆だの、それ人工衛星だの、ほれロケットだのと、大自然が予期してもいない珍妙なものを、さきを競って打ち上げ合い、宇宙のバランスを破壊することに懸命ですが、地表をコンクリートで覆い包んでしまうということもまた、天地自然の摂理を肯定し、これに謙虚に頭を垂れつづけ暮してきた東洋人の生き方とは、無縁のものであると申さねばなりますまい。 西洋では、古来、因果律をむしろ悪用して、自然の征服に憂き身を窶(やつ)しつづけて参りました。そしてその結果もたらされたものはと言えば、自然科学の恐るべき独走、自然科学と人文科学との深刻なアンバランス。この二十世紀に入って二度も世界大戦を経験せざるを得なかったのも、この自然科学なるものの独走に、その究極の原因があり、そこにこそ、この二十世紀後半における人間存在の不安の真の根源があると思います。 (つづく)
2024.06.15
コメント(0)
6月15日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(352)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(4)ストア派の人達は、その原則を奉ずる完全な賢者と、その反対の悪徳者だけしか認めないのですが、これに対して、プルタルコスは、その論文でもわかりますように、大体からいって、キケロ派の折衷主義の意味での折衷主義者です。どんな読者でもすぐ気づくように、この論文には、特に深さが欠けています。そういう深さというものは、当時まだほとんど世に知られていなかったキリスト教によって初めて道徳のなかに入ってきたのであり、また今後も常にそれによってのみ入ってくるでしょう。しかし、彼の論文には、人生におけるより高貴なものを目ざす自然の健全な常識が、ゆたかに含まれています。そして、このような健全な常識を青年の心に育てあげるのが、いわゆる「古典的教養」の、何物にもかえがたい主要な目的なのです。 (つづく)
2024.06.15
コメント(0)
6月15日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。思想の所在わたしは、思想を得ようと思って手当たり次第多くの本を読み終えました、しかしわたしには思想らしきものは何も得られませんでした。わたしは、ちょっとした人助けをしました、するとわたしの心に新しい思想とよべるものがどっと湧き上がってきました。それによって、わたしは知りました、思想と言うのは知識ではないことを。思想は行動でした、そうです、愛の行動でした。愛の行動がなくて真の思想と呼べるものはないでしょう。ですから、思想を求めるのであれば書籍によるよりはむしろ労働によるほうが確実に得られると思います。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.15
コメント(0)
6月14日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(12)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(12)因みに、よく「日本の土を踏む」などと申しますわネ。しかし、あれは、単に日本に帰り着くというだけの意味でなく、コンクリートの地面の国から土のある国に立ち戻るという、とてもとても味わいふかい言葉ですのよ。日本人は、せっかく鉄筋のアパートに入所してみても、直ちにマネービルにとりかかり、一日も速やかに庭のある家を手に入れようと努めますネ。あれは、土が恋しいからですの。その点、このロンドンでは、かりに地面に降りてみたところで、やっぱりコンクリート張りになってしまっていますから、ビルの屋根裏にお住まいになっていても、いっこうに下界を恋しいともお感じにならないようです。だから、日本でも、住宅の高層化、都市の立体化を本当に推進しようとお考えになるのであれば、下界に未練を感じさせないように地面にコンクリートを張りめぐらしてしまうくらいの心意気でないと、成功しますまい。しかし、君たちよ、地表をコンクリートで押し包み、土を封じ込めてしまうことが、果して健康的なことであるかどうか? (つづく)
2024.06.14
コメント(0)
6月14日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(351)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(3)(前日)用語も、もとは非常にいい意味をもっていたのに、今では大部分の人々にそうした意味は失われてしまいました。おそらく、近い将来にほかの言葉におきかえられるにちがいありません。(よりつづく) 心の段階的発展を述べたもので今なお残っている著作のうち、古典的古代から由来するものがただ一つあります。それはギリシャの哲学教授のプルタルコスのものです。彼は紀元五○年頃ポイオティアに生れ、一二○年から一三○年の間にローマで死んだ。ローマでは、ほかの仕事もしたが、のちの皇帝ハドリアヌスの師になったと伝えられています。大小百以上にも及ぶ彼の著作のうち、今日では「英雄伝」くらいしか読まれていません。これさえ、学校などでもっと読まれていいと思われるのに、それほど読まれていない。彼のその他の著作は、普通、「プルタルコス道徳論集」という総題のもとに一括されているが、そのなかで最も読む値打のあるものの一つは、トラヤヌス時代の執政官ソシウス・セネキオにささげた「道徳的進歩はいかにして認められるか」という論文です。 (つづく)
2024.06.14
コメント(0)
6月14日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。改心と変質キリストの真似をしてもキリストのようになれるものではありません。それは、肉体は霊魂の真似が出来ないからです。それは石が木の真似ができないのと同じことです。われわれは、キリストのように変わることは出来ません。すなわち、うわべだけキリストのようになることはできません。ただ、やみくもに更正するのではなく、実験的に自分を改造するのです。キリスト信者とは単に心でキリストを信じる人間です。そうではなく、「キリストによって、新しく造り直された人間」で、キリストの性質を身に帯びた人間になるのです。救済は単なる心を改めることでなくて心が変質することです。キリストと同じように永遠に生きながらえるほどの霊魂と体を具える人間になることです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.14
コメント(0)
6月13日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(11)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(11) まあ、そのことは、いずれ詳しく御説明申上げるとして、要するに、ロンドンに虫とは、あまりにも超現実的であって、残念ながら頂きかねます。尤も、このロンドンだとて、蠅くらいなら目につきますワ。しかし、秋の虫などという風流なものは一匹もいませんの。土が殆んどなく、あたり一面、カチンカチンのコンクリートづくめですもの、育つはずがないではありませんか。土が欲しいなァ。土の香りを嗅ぎたいなァ。 (つづく)
2024.06.13
コメント(0)
6月13日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(350)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(2)(前日)以前から、たいていの説教が、人間的存在の到達しうる理想の状態をそれぞれかなり詳しく描いてみせながら、そこに到る道をはっきりと示すことが出来ない欠陥がありました。(よりつづく)しかし、本来こうしたことをすること(理想に到る道を示すこと)、しかも、いくぶん個人的な道案内をすることこそ、教会が現代の人々のために果たすべき使命でしょう。これが、つまり「魂の世話」という、わたしたちとしてはいささか頂きかねる名でよばれているところの、教会の仕事なのです。そういう魂の世話がまだとにかく行われている場合にも、今の教会では、それがあまりにも営業的とは言わないまでも、ひどく職業的になってしまっています。自由と個性とがとりわけ大切な、このような内面的な事柄においてさえ、一種の技術がつくりあげられてしまって、それに関する用語も、もとは非常にいい意味をもっていたのに、今では大部分の人々にそうした意味はうしなわれてしまいました。おそらく、近い将来にほかの言葉におきかえられるにちがいありません。 (つづく)
2024.06.13
コメント(0)
6月13日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新生物学キリスト教は道徳を学ぶものではありません、むしろ生物学といえるでしょう。道徳を伝えて人を教えようとするのではありません、イエスキリストの全生命を投げ出して人を教えようとするのです。イエスが次のようなことを言っていますが、言葉の表面的な意味だけで驚いたり拒否したりしてはならないのです。「イエスキリストいいけるは誠に実(まこと)になんじらに告げん、もし人の子(キリスト自身のこと)の肉を食わず、その血を飲まざればなんじらに生命なし」(ヨハネ伝六章五十三節)。キリストは道徳という薬を処方して人の心の病を癒そうとはしません、神様自らの生きている命を与えて人の心の病気を追い出すのです。キリストは人間の罪悪を清める血清療法です。神様の生命力でもって人間の死に打ち勝つ方法です。しかし、残念ながらキリストの教えをこのように理解出来る人は大変少ないのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.13
コメント(0)
6月12日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(10)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(10)拝啓 先月の二〇日ごろに早くも寒波に見舞われてしまったロンドンですが、その後は気温が、多少もち直しました。しかし、空模様は、ますます不景気なことで、あれほどに鮮やかな色をみせてくれていたゼラニュームの花びらも、このところ、めっきり精彩を欠きはじめつつあります。 どなたかが、「先生も、近頃は、ロンドンで虫の声に耳をかたむけておいでのことと思います」だなんて書いて下さっていますけれど、君たちは、どうして、このように少しずつズレたことばかり仰るのでしょうネ。尤も、明治のはじめに、いちはやく日本の『小学唱歌集』に採り入れられた『庭の千草』(The Last Rose of Summer)や『故郷の空』(Comin’ thru’ the Rye)にも、♪庭の千草も虫の音も…だとか、♪月影落ちて鈴虫鳴く…だとかと、たしかに虫が登場しています。しかし、一口に英国の民謡だとは言え、前者はアイルランド、後者はスコットランドの民謡にほかならず、もともとこの英国というのは連合王国ですから、アイルランドもスコットランドも、ロンドンのあるイングランドから見れば、半ば外国のようなところですの。 (つづく)
2024.06.12
コメント(0)
6月12日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(349)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(1) わたしたちの内的生活をいくつかの段階にわけて説明したり、または、いろんな駅や滞在地を経て、さまざまの障害に出会ったりする旅行にたとえて述べようとする考えは古くからのもので、実際非常にもっともな考え方です。それにもかかわらず、そういう記述で、現代の要求、ことに教養のある階級の要求に適合するものは、なかなか見当たりません。また、以前から、たいていの説教が、人間的存在の到達しうる理想の状態をそれぞれかなり詳しく描いてみせながら、そこに到る道をはっきりと示すことが出来ない欠陥がありました。 (つづく)
2024.06.12
コメント(0)
6月12日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。天才と聖霊天から授かる天才は慕うべきすばらしいものです。しかしながら、天から与えられる聖霊のすばらしさにはとても及びません。天才は一時的な贈り物ですので、使ってしまえばなくなってしまいます。しかし、聖霊は終身年金のようなものです、死ぬまで受けられるのです。天才はごく限られた人にしか与えられませんが、聖霊は誰でも受けることができます。天才はむしろ神様を拒否する人に与えられ、聖霊は天の父なる神様を信じその愛にすべてをおまかせする人に与えられます。天才は貴族的であるのに対し、聖霊は平民的です。だからわれわれは心を低く保ち、天より恩恵を受けられるよう願うことです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.12
コメント(0)
6月11日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(9)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(9)ただ、それら既成の学問が徒らに実用知識の城に低迷することなく、科学としてのこんにちの体系を整えあげることのできたのは、それにかかわりをもつすべてのひとびとが、そのときどきの当面の問題点の解決策の案出にあまんじることなく、志操を高くもち、幾代にも亘って終始地道な沈潜をつづけたればこそであります。やがては、まぎれもなく二十一世紀の科学としての光栄を荷うことであろう会計学の座に連なる君たちが、自己の専攻する学問に誇りと愛情とをもって、日々たくましくその究明に献身して下さるよう、ここロンドンの空の下から切にお願いをしてやみません。それでは、けさは、とりあえず、これまで。 不一 九月五日 あさ (つづく)
2024.06.11
コメント(0)
6月11日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(348)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(50)(前日)そうした道を歩けば、時としてなお「道に獅子」が待ち伏せしていることもあります。しかし、この論文で勧められる小径には、そのようなおそろしいものは出て来ないのです。(よりつづく)いうまでもなくあなたは、つねに決意する用意をおこたってはいけません。なぜなら、ただ「勝利を得る人のみが、これらのものを受け継ぐでしょう」。不決断な人は、まったくの無信仰者と同じく、どんなに都合よくいった場合でも、その人格的生命の没落が、近くかつ確実に、予期されるだけです。 (つづく)
2024.06.11
コメント(0)
6月11日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。奇異なる現象今日、非戦論者は無神論者の中に多く、キリスト教信者は概して主戦論者が多くおります。神様などいないという者が平和を唱え、神様は愛なりと叫ぶ者が戦争を謳歌しているのです。キリスト教は、もう陳腐なものとなったのでしょうか、あるいはキリスト教信者が堕落してしまったのでしょうか。これを解決するためには、キリスト教を捨てるか、キリスト教信者を退けるかの二つにひとつです。わたしは、キリスト教は捨てることは絶対にしません、ですから、止むを得ないことですが、今日の世の中のキリスト教信者と言っている人たちを排除したいと思うのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.11
コメント(0)
6月10日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(8)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(8)さて、お説教はこれくらいにして、きょうはゼミナール再開の初日のことでもあるから、ガウンの襟と袖とを正して、ひとつ励ましの言葉をも申しおくっておきたいと思う。 君たちが専攻されつつある会計学というのは、いまだ未成熟の段階にあるとは言え、あたらしい社会秩序の形成に役立ちうる実に豊かな学問領域をもっているのです。天文学→宇宙物理学→理論物理学と発展してきた自然科学にしたところで、その発端にあっては、どのような気象の下で種子を蒔くべきかということを知るための、農耕上の必要からは発足したものにほかならなかったのであり、学問的な関心の芽生え出るに至る最初のいとぐちというものは、おしなべて、そのような卑近な願望からであります。 (つづく)
2024.06.10
コメント(0)
6月10日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(347)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(49)(前日)あなたたちもまた、そのような衝動を多かれ少なかれ感じているでしょう。そうでなければ、同じようにその衝動から生れたこの本を手にすることはなかったでしょう。いずれにしましても、そうした衝動を手軽に追い払ってはいけません。その衝動は、あなたの本質のよりよい部分から発しているからです。(よりつづく)むしろ、みなさんは次のような一つの助言を受け容れてください。つまり、まずキリスト教の序説、つまりキリスト教が自明だとしているその前提条件を、いっそう綿密に吟味してください。そして、ある限りの力でその条件に沿って生きようと決心することができましたら、その上で初めて、キリスト教の教義を学ぶのです。たしかに、今話したことと反対の行き方が世間普通のものであり、わたしたちの学校や教会の宗教教育で一般に指示される道もまたそうです。しかし、そうした道を歩けば、時としてなお「道に獅子」が待ち伏せしていることもあります。しかし、この論文で勧められる小径には、そのようなおそろしいものは出て来ないのです。 (つづく)
2024.06.10
コメント(0)
6月10日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。世論と神意 世論は神様からの声だと思ったら大間違いです。神様の声はつねに世論に反対します。昔の預言者はことごとく世論の反抗者と言ってもいいでしょう。人類とはそもそも何者でしょうか。聖書にいわく「主天より人の子を望みて、悟る者、神を研(あず)ぬる者ありやと見給いしに、みな叛き出でてことごとく腐れたり、善をなす者なし、一人もなし」と(詩篇十四篇ニ、三節)。神様に叛き神様より去った人類の世論は神意をつたえるものではありません。私は、神様の言葉であります聖書に耳を傾けて、悪人が多数占める社会の世論なぞには従いません。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.10
コメント(0)
6月9日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(346)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(48)(前日)キリスト教こそ人間を幸福にするまことの、唯一の真理だと言うその高い自負が、果たして正当であるか、また、それがどこまで正当であるか、を検討しようというわけなのです。(よりつづく)読者のみなさん、あなたたちもまた、そのような衝動を多かれ少なかれ感じているでしょう。そうでなければ、同じようにその衝動からうまれたこの本を手にすることはなかったでしょう。いずれにしましても、そうした衝動を手軽に追い払ってはいけません。その衝動は、あなたの本質のよりよい部分から発しているからです。 (つづく)
2024.06.09
コメント(0)
6月9日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。キリストによる神政の特質キリストによる政治は王政ではありません。ですから、王侯貴族は存在しません。キリストによる政治は共和制ではありません。ですから多数を頼む必要はありません。キリストによる政治は神政と呼んでいいでしょう。無形の神様による政治、無形の神様を信頼する政治です。キリストの政治は国民一人一人が真に独立をすることを奨励します。一人一人が神様とともにたとえ全世界を相手にしてもひるまない人間を作る政治です。一人一人が国を支えることができるようにする政治、国の土台、基礎をしっかりするような政治を目指します。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.09
コメント(0)
6月8日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(6)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(6)なお、わたしがヨコハマを発った日に出来た会報(第五巻第一号)を未だに受け取っていないというOBが非常に多いのは、どういうわけなのか?こうも矢鱈にロンドンくんだりまで苦情が多く届くところを見ると、届かないのか、それとも発送していないのか。邪魔くさいから束にして、ドブかゴミタメにでも棄ててしまったと違うかい?OBが、とても憤慨しているよ。そういう心掛けだから、会費の集まりも芳しくないのよ。とにかく、万事なにごとによらず、どうもだらしがなくって、いけません。 (つづく)
2024.06.08
コメント(0)
6月8日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(345)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(47)(前日)現世および来世にわたる大問題について、キリスト教以上の確実性を有するものはどこにも存在しないということです。(よりつづく)そしてまた、「自然科学」の往々にしてまだ極めて不確定な個々の結論に満足して、それ以上の諸問題、たとえば全体としてみた万物の関連とか、人類の生活と繁栄とを強く左右する道徳的世界法則などについての問題を、かんたんに人類の思想のなかから追放すればそれでもう十分だというわけにはいかないことは、確かです。このようなやり方は、けっして長い間にわたって成功するものではありません。いや、むしろ、このような瑣末な目標にすべてを局限する単なる現実主義の時代の後には必ず、まだ浅薄になりきれない人や、官能的世界にすっかり溺れてしまえない人たちの心に、あらためて、キリスト教の真偽をたしかめたいという衝動が押さえがたい強烈な力でわき起こってくるにちがいありません。つまり、キリスト教こそ人間を幸福にするまことの、唯一の真理だと言うその高い自負が、果たして正当であるか、また、それがどこまで正当であるか、を検討しようというわけなのです。 (つづく)
2024.06.08
コメント(0)
6月8日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新生命と新事業新しい事業を何かしようとあれこれ考えるよりは、新しい生き方を求めなさいと言いたいのです。新しい事業を始めるからといって必ずしも新しい生き方、新しい生命力を得たとは言えないでしょう。しかし、新しい生き方、新しい生命力を求めて得れば必ず新しい事業が伴ってくるのです。成功の秘訣を自分の外に求めるのは誤りです、自分自身の内に求めるべきなのです。そして、自分自身の内より発生した事業は常に健全です、また常に永続します。わたしが人に新しい生き方、新しい生命力を説くのはなにも宗教のためだけでなく、みなさんが事業に成功するためでもあるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.08
コメント(0)
全3812件 (3812件中 1-50件目)