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6月24日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (32) 作歌机辺私記(97年7月)「文学の血」昭和九年五月五日、中村憲吉が尾道市千光寺山腹の病気療養のために借りて住んでいた寓居で死去します。その家が長く荒れたままとなっていたのを市が補修、「憲吉終焉の家」として公開、保存されることとなりました。たまたま、わたしの八十四歳の誕生日でもありました。家は千光寺に登る急な坂と石段の途中にあり、尾道水道を眼下に見下します。「千光寺に夜もすがらなる時の鐘耳にまぢかく寝(い)ねがてにける」の歌碑が地元の人らによりすでに建てられています。四女の裕子さん、五女の礼子さんも参加され、共にテープカットをしました。山はつつじが咲き盛っていました。式の後、市の小会館の一つで記念講演をすることとなっていて、そのために、久々に憲吉の全作品を予め読み返す機会を持つこととなりました。そうして、そのようにしながら、わたし作品生涯に、憲吉の歌の影響というべきものが、最も底のところで意外に深く滲透しているのを、改めて気付くことともなったのでした。わたしが「アララギ」に入会したのは昭和六年末、憲吉選歌として作品がその誌面に掲載されたのは翌七年二月号のころだったでしょうか。その最初の師でもあるべき憲吉は間もなく病状悪化のため選歌を止め、九年には死去します。わたしが実質的に師事したのはそのわずかな間だったのですが、わたしの作品の最低辺のところに今もある影響とは何なのか。そのことを思い、歌集を読み返し、一種の感慨を抱いてその日の小講演の壇に立ちました。その『馬鈴薯の花』から『林泉集』『しがらみ』『軽雷集』から遺歌集『軽雷集以後』に至るどれも、歌を作ろうとする初心の日に傾倒として読んだものとして、わたしの今日に至る全作品の原型とも知らずなっていたのでしょう。その一つが、対象を、その微細な部分においてうたい把える技法の機微ともいうべきものではないでしょうか。それを「写生」ということばで憲吉は語らうとします。「散るときも牡丹の花は美しき一日のうちに重なりて散る」の「一日のうちに重なりて散る」の部分です。最初の師の憲吉の死後、わたしはわたしなりの作品生涯をたどり、わたしの短歌世界は憲吉のそれと大きく隔たるものとなったと人は見るかもしれませんが、そのことと別に、抜き難いまでに受け継いで来たものがあったはずです。「文学の血」としてかって書いたことがあります。わたしが憲吉から承けたその「文学の血」であるものを、今、有難いものとして思い返そうとしています。あわただしい日程の中、尾道の町に出掛けた思いもその中にあります。わたし自身はその憲吉に連なる最も末端の門人のひとりでもあったのです。(1997・7)
2024.06.24
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6月24日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(22)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「悲しき十一才」(2)つまり、わがくにでは、この国ぜんたいのことを英国だのイギリスだのと呼びならわしておりますし、このわたくしにしてからが、煩雑さをさけるためにとは申せ、便宜そのような俗称でもってお茶を濁しているのですが、この国は日本の三分の二程度の面積しか持ち合わせていないにもかかわらず正式の国名を「グレイト・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Britain and Nothern Ireland;UK)と言い、ほんとうは恐ろしく複雑にして難解な性格をもつ、れっきとした複合国家だからです。いや、この国ばかりではない。スイスにしてもドイツにしても、それぞれ連邦国家であり、なるほどこれでは占領軍が進駐してくるや否や日本の中央集権制度をエラク気にしたはずだわいと、このごろつくづくと思い当っている始末です。 (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(6)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(5)わたしの名前(一九八三)(3)隣席の女項垂れて降りゆきぬつぶやきひとつ床におとして餌を売る自販機ありてどの鯉も肥満体なり忍野八海帰省せる息子の注ぐ酒をひと息に呷りて夫は饒舌となるあたらしき戦場の夢か耳馴れぬ敬語など言ふ夫はねごとに (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(ニ)「国ありて始めての時」まで(1)その唯一の青春歌集でもある第一歌集『ふゆくさ』の、浪漫性、ないし西欧的リリシズムとも呼ぶべき世界の自己否定の上に、土屋文明が、壮年の都市生活者知識人として実人生に立ち対う、あらあらしい現実主義短歌を模索し確立し展開していく時期が、それにつづく第二歌集以後、すなわち『往還集』『山谷集』『六月風』、さらに『少安集』の相次ぐ刊行の間であったとするなら、その期間は同時に大正末年から昭和十六年太平洋戦争開戦に至る、日本の近代史の、激動と、暗澹とした悲劇下の一時代でもあったと言い得る。そうであればそこでうたわれるべき作品は、もし土屋文明が真正の詩人であるならばその生きる現実から逃れてあるはずはなく、その生きる歴史と関わらずしてあるはずもなかった。みずからの文学の自己否定といい、模索、確立、展開といい、すべて同様である『ふゆくさ』の世界を脱し『往還集』以後『少安集』にかけての制作の経路は当然屈折し、作品自体もまた多様であるが、それらの間を縫い、それらの間を通してうたわれていったものが何かを把え出すことが、土屋文明という一現代歌人の意味を考えることともなろう。『往還集』が刊行されたのは昭和五年であるが、作品は大正十四年に文明は長野県の中学校長の職を捨て上京、法政大学予科教授となる。三十五歳。以後、都市生活者としての人生がつづくはずだが、それはどういう日であったのか。年表によれば、大正が昭和と改元された翌年、金融恐慌が発生、さらに昭和四年にはアメリカのニューヨーク株式市場暴落に起因する世界恐慌がこの国に波及する。日本に経済不況がひろがり、農村は貧困にあえぐ。そうして、その中から兆されていくものを恐れる国家権力による、三・一五事件、さらに四・一六事件などという陰惨な思想弾圧がつづく。治安維持法が大正十四年に公布されている事実もこの時点で象徴的なのであろうか。しかも、そのような間において「日本無産者芸術聯盟」が生まれ「プロレタリア作家同盟」が結成され、弾圧による共産主義思想の退潮に一見逆流するかのようにプロレタリア文学運動が隆盛する。短歌の場合も同じである。「プロレタリア歌人同盟」が生じたのは昭和四年、当時青年歌人が競って参加した。昭和初年、生き方を求め苦悶する日本知識階級にとって、いわゆるマルキシズムは良心の問題であったという歴史を見過ごしてはならない。繰り返せば、その時期が『往還集』の作品の日々であった。休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす巻頭の一首であり、それに始まる、感傷を断った、表面無感動ともいえる歌集の日常生活詠その他の作品の世界を、何のゆえにという問いと共に絶えずそうした歴史背景と重ねて見ていかなければならないのであろう。かぜひきて食欲のなき夕食に塩鮭を買ひ焼くをたのしむ蕨汁に鰊を入れて食ふことを妻も子供もよろこびとせず父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く日常生活詠、あるいは小市民生活詠ともいえよう。都会の一隅に、その生活を守って生きる小市民としての思いが乾いた感情としてうたわれているが、それはそのまま、次の『山谷集』或いはそれ以後の歌集にもつづく。 (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)短歌集(316)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(17)疎まれつつ死にゆきしかばみ冬づく庭の牡丹も囲ふ人ぞなき韮にら切りて逝ゆく春の日の疾風ときかぜよ埃ほこりをあげてただに吹きゆくはたざをを培つちかひたりし吾が過去の何ぞ鰊にしんを焼けば思ほゆ悲しみは悲しみをさそひ果てしなし来りて仰ぐ紅梅こうばいの花職を求むる若き数多あまたにたじろげば怒いかりは何に向ひ放はなたむ (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)現代俳句(抜粋:後藤)(80)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日杉田久女(2)足袋つぐやノラともならず教師妻久女は大正のはじめに育った新しい女性でありました。彼女の我の露骨に現れた句です。お茶の水時代に燃やしたであろう青春の夢を捨てて、田舎教師の妻としての日々のなりわいに追われている姿が、そこに浮かんでいます。谺(こだま)して山(やま)時鳥(ほととぎす)ほしいまゝ前書き:「英彦山」女らしくない雄渾な句です。女流俳句にありがちな低俗な台所臭さを感じさせません。やはり久女の俳句の特異さです。ただ、現実世界とは次元を異にする高次の作品の世界に移調する力において欠けています。 (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月) 昭和萬葉集(巻十三)(182)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(20) 過疎化する農村(20)米づくり(4)本田南城田植ゑ終へて早苗振(さなぶ)り酒に酔ひし夜は泥の匂ひを持ちて眠りぬ神吉幸子冠水にいたみし苗を差し替へて今年の永き田植も終る吉田恵弘植ゑ終へて並びよろしきさみどりのいや濃き早苗風に揺らるる中井正義股引(ももひき)をふかく濡らして田舟曳く夕べかなしもみづからの呼吸(いき) (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(360)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(12)(前日)このような時期のどれか一つを飛び越えたり、また、一層ありがちのことですが、慌てすぎてその時期の特質を十分に利用しない人は、あとからそれをとりもどそうとしても、それはめったに出来ないこと、いや絶対に不可能なことだと言ってよいでしょう。そういう人は常に、その人柄全体に、ひと目でそれとわかる欠陥をとどめているものです。(よりつづく) そのことを防ぐのが、比較的若い時代には、もっぱら教育の任務です。しかし、わたしはここでそれについては語りません。しかし、年がすすむにつれて、そのことは、まさしく自己教育の主眼点の一つとなります。人間は、その人の生涯の真の成果を主として自己教育によります。たとえ他人がその人のために何をしてくれても到底自己教育を越えるものではないでしょう。 (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。歳を忘れる方法忘年会などの宴会を催し年忘れをする人々がいるが、これは言葉だけであって年をその悔いの多かった年を忘れることは出来ません。本当に年を忘れたいのであればまず善行をしなさい、お金のある人はそのお金を施(ほどこ)しなさい、知恵のある人はその知恵を使って人を助けなさい、力のある人はおしみなくその力でボランティア活動をしなさい、そしてはじめて悔いの多かった年を忘れることが出来るのです。悔いは酒でもってはらすことは出来ません、善行を積むことによってなくなるのです。慈善活動は悔いを忘れる一服の薬に匹敵します。さあ年末に際して大量にこれを服用し元気になりましょう。
2024.06.24
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6月23日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (31) 作歌机辺私記(96年8月)「赤彦の骨格」小さな文章を求められて書くことがあり、そのために、久々に島木赤彦の歌集を読み直す機会を持ち得た。『馬鈴薯の花』『切火』『氷魚』『太虗集』ないしは遺歌集『柹蔭集』などがあるが、赤彦独特の世界が確立していくのは『氷魚』以後、むしろ『太虗集』『柹蔭集』の時期と思ってよいであろう。わたし自身の回想をいえば、それらの歌集を、遠く少年期、短歌という一詩型を文学として知っていく最初の日に啄木や茂吉らのものと同様に読み、そのことをわたしの短歌生涯の出発点ともした。否、今さえ、赤彦の短歌は遥かな時を隔てて、わたしの短歌の、抜きがたい原点の一つともなっているのではないかとさえ思っている。その久々の歌集を読み返しながら思ったことに、短歌の「骨格」とも呼ぶべきものがある。赤彦の晩年の作品にかけて形成されていく、その「骨格」の意味である。三十一音律の一詩型の上に、作品一首、ゆるぎない完成のことであり、「骨格」の正しさ、「骨格」の厳しさ、ないしはそこに自ずから具わっていく気韻ともいうべきものであろうか。それを知り、それを求めて晩年にかけての赤彦は「写生」ということをいい、「鍛錬道」ということをいい、あるいは「寂寥所」「寂寥相」などということをいい、そのためにまた周囲に誤解と反感を生みながら孤独な求道者としての一短歌作者であることの道を自らに課し、自らに律し、『太虗集』『柹蔭集』の諸作品をわたしたちに残した。その赤彦の作品世界は、その日において、言い換えれば日本の近代短歌史の大正から昭和初期にわたる時期にかけて、一つの典型ともされていき、やがて、読むことがやや忘れられかけようとしているともいえる。それら峻厳な自然詠、人生詠が、同時に免れ得なかった自己限定の狭さともなり、その死後において、わたしたち読者の側も昭和初期の歴史激動を見て生きなければならなかったためもあろう。わたしの若くして所属した「アララギ」内部においても、土屋文明を中心において、かって赤彦、ないしは赤彦によって統率された歌風に対して批判、反撥がひそかにあり、そのことが、自ずからな評価の仕方ともなっていったことがあったのではなかろうか。それは短歌の世界全体にわたって、同じくひそかに、今日に続いているともいえる。だが、そのことと、赤彦作品に具わる、短歌一首完成のために求道者のような厳しさのうえでの「骨格」の意味とは違う。わたしたちはすでに赤彦のように湖の氷の上の三日月の峻厳世界はうたえないのかもしれないが、そこにあった短歌一首完成、ないしその「骨格」ということの示すものを、やはり学び、自らの作品のこととして見定めておかなければならない。(1996・8)
2024.06.23
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6月23日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(21)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「悲しき十一才」(1) ゼミナールの紳士?淑女?のかたがたよ、きょうのわたくしは、いささか風変わりな場所から御挨拶を申し述べる栄光を有するものであります。シテイまでお金を引き出しにやってきたついでに、お昼まえより銀行集会所のライブラリーに潜りこんでいるのです。そして、いっそのこと、ここで手紙を書いて帰ろうという魂胆なのです。いつもは、ホテルの自室で低いテーブルの上に屈みこみながら、したためていますので、背骨が痛くなってしまいます。それで、きょうはここのデスクを活用させていただければと思うのであります。 このライブラリーは、規模こそあまり大きくないものの、経済書だけは、かなり揃っています。それに第一、客種(だね)が良い。「居ハ気ヲ移ス」とか言いますし、いつものように与太をとばしていては大家(おおや)さんに申し訳ない。きょうのところは、ビジネスライクな態度で終始したく思いますから、あなたがたも我慢していただきたい。内容も、かねがね懸案になっていた英国の教育制度―その第一部と参りましょうか。しかし、そのためには、ここであらかじめ若干のまえおきを試みておくことを必要とします。 (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(5)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(5)わたしの名前(一九八三)(2)コンプレックス持ちつづけゐしわが名前堂堂と書く傘寿の色紙に梅雨の雲霽れて棗の梢に差す日はさらさらとさらさらと午後東北なまりのガイドの声になごみつつわれのみのバス終点に着く頬ずりの痛き記憶のかなしけれ父はうぶ毛のごとき髯剃る (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(3)茂吉と文明の間に八歳の年齢差がある。だが、明治から大正初年にかけて、彼ら二人の少年期、ないしは精神形成期を生きた時代の推移は急である。自然主義を内面体験として経過したかしなかったかは、両者の文学の根底であるものを分けることになる。青年となった土屋文明は出京、伊藤左千夫を頼ってその牛舎で働こうとし、翌日、すでに東京帝大医科大学生となっていた茂吉と出逢う。「アララギ」の先進とし、新鋭の歌人とし、文明はその奔放な詩才の前に最初に立たなければならないこととなる。文明の上京は明治四十二年、後に『赤光』として世にむかえられることとなる茂吉の青春作品がようやく絢爛とした開花に向かおうとしていた時期であった。そうして、その茂吉の文学の上に文明が見たものは何か。ないしは眩惑としたものは何か。いうまでもない。そこにあった西洋世界の香気であろう。茂吉の場合、わたしはそれまでの日本詩歌にはうたわれようとはしなかった人間の内面的なもの…内面性と端的に考える。あるいは、茂吉自身、後年「写生」の「生」ということばで語ろうとしたものであったかもしれない。そうであれば、文明もまたそこから歩み出さなければならぬ。その、未知であったものの眩惑を全面的に受けて、といえる。楢原の春の若芽に灰ふる日木の間にうすき影をふみつつなどの初期の作品から、鼻をよせ口をゆがむる汝がくせの幼きにしては淋しきものをのごとき後期作品に兆されていくものへの第一歌集『ふゆくさ』の歌風の遷移の過程も、それを、茂吉の影響と、そこからの脱出の苦渋の経過として見ていくことが出来よう。『ふゆくさ』に、ひとすぢに南に向ふ白道をわれは歩めりゆふべといふにという一首がある。大正八年の作であるが、それに対比させて茂吉の『あらたま』の中の歌を引例する。あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけりたまたま、「道」という素材が一致するだけで、それ以上に意味はないが、ここからも両者に共有されるものと、相反し、隔絶していくはずのものとが見出し得る。茂吉の、具象というよりはむしろ抽象に近い、描線を消してしまったような表現を通してうたわれる内面性、むしろ瞑想性ともなすべきものに対し、文明の場合、あまりにも明晰であり、理知がまとう。茂吉に近付こうとしながら、茂吉の全身的な詩の陶酔とついに無援のところで文明はついに迷い歩まなければならなかったのであろう。そうして、その脱出、ないし脱皮が『ふゆくさ』から『往還集』への転化だった。第二歌集『往還集』は大正十四年の次のような作品に始まり、それはそのまま、たとえば「擬輓一連」などを含む世界につづく。休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ脱皮を現実主義、自然主義的なものへの転化というなら、むしろ、それらにつづく以上の諸作品を例示した方がわかりやすい。
2024.06.23
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6月23日(日)短歌集(63)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(16)かなしみは極(きは)まらむとす風さやぎ月の光の乱るるたまゆらしろじろと砂に光の流るればなべては過ぎてゆきしごとしもこの夕べ如何(いか)なることより思ひつき紙縒(こより)を作り始めしならむ作り並べし紙縒を見ればかすかなるものとし思(も)へど一人飽(あ)かなくに天(あま)の川(がは)かたむく夜半(よは)に縁(えん)に覚(さ)めこころは遠し一つ蜩(ひぐらし) (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)現代俳句(抜粋:後藤)(84)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日杉田久女(1)朝顔や濁りそめたる市の空大正期の代表作。澄み切っていた初秋の空が、市の喧騒がきこえだすとともに濁りを帯びてきたのです。作者は庭に咲いた朝顔の一抹の清純の気に触れながら、人煙・塵埃の発ちそめた市の空を眺めています。け遠いような心で、お音をきいているのです。け遠いような心で、市の音を聞いているのです。夕顔を蛾の飛びめぐる薄暮(はくぼ)かなこの夕顔の句はもっと淡い情趣です。夕顔の花をめぐって蛾がはたはたと飛びめぐっているだけなのです。ついでに付記すれば、大きな雀蛾の一種に、俗に夕顔別当と言われるものがあります。 (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日) 昭和萬葉集(巻十三)(180)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(19) 過疎化する農村(19)米づくり(3)水島伸介畦を塗る足より姪が吸いし血の泥足ゆえに殊(こと)更(さら)赤し三上久子水盗む百姓の所作も知りつくす盗まれつつもわれも盗めり佐藤正憲「稲が可愛さうで見てゐられない」うまいことを言ひながら水盗みあふ一ノ瀬 光暗き雨吹き荒るる新開田植ゑ急ぐ今日は冗談を言ふ者もなく板宮清治苗代の泥濘(でいねい)の中にひと日ゐて日の沈むころ虫歯が痛む (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(359)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(11)(前日)老年は単に慰めのない衰頽期ではなくて、むしろ、自分の性格のあるがままの過去を静かに肯定し、あるべき将来を達観して、さらに今後の偉大な発展のために準備する時期と老年はなりうるのです。これが、まさしく老年にふさわしいその使命なのです。(よりつづく)このような時期のどれか一つを飛び越えたり、また、一層ありがちのことですが、慌てすぎてその時期の特質を十分に利用しない人は、あとからそれをとりもどそうとしても、それはめったに出来ないこと、いや絶対に不可能なことだと言ってよいでしょう。そういう人は常に、その人柄全体に、ひと目でそれとわかる欠陥をとどめているものです。 (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。信仰と伝道信仰は生命です。ですからその生命を維持するためには増殖しなければなりません。増殖を止めれば生命は死にます、同じように伝道を止めれば信仰もなくなります。自分一人清くあればいいのだと思ってその信仰を人に伝えることをしなければその信仰はすでに死んだも同じです。人に伝えることは信仰を存続させるために必要なことなのです。人に広めなければ、その人自身の信仰は死んでしまうでしょう。そう思って世の中をみますと、なんと私の信仰を伝える範囲のひろいことでしょう。わたしは、感謝します、わたしの信仰を伝える範囲の広いことを、これなら自分の家に一人籠もって窒息するようなことにはならないでしょう。さあ、新しい年です、わたしの信仰を多くの人に教え広めたいと思います。
2024.06.23
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6月22日(土)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (30) 作歌机辺私記(96年3月)「観念世界の開拓」この文を書いている今日は一月十三日、1996年の新年の後である。そうしてわたしはこの年、八十三歳になろうとする。すでに人生の老年であるのはまぎれもない。その1996年新年詠として朝日新聞に次のような歌を作っておいた。風に立ち掌に包む小さき炎とも英知を思え生き向かう未来このときに世界史を思う無明より人間が見て来し「知」の信頼に「ケ」と「ハレ」ということがある。新聞などのために作る新年詠などはその「ハレ」の歌であるべきだというわたしの考えがある。そうしてそのことの上にひそかにうたい続けようとするものがあることはかって旧著「歌い来しかた」のおいて触れておいた。その上で、このような歌を観念の歌、観念世界の作品というのであろう。新年詠にかぎらず、わたしの作るものにそうした作品が多くなろうとして来ていることは、たとえば若い加藤治郎なども指摘してくれている。ひそかに、そのことを意図しようとしているといえなくもない。一つには、老来、いきて触れていく世界がしだいに狭くなろうとし、逆に、関心の範囲が自らの内面に向けられていくのが多くなろうとしていることがあるであろう。それを「思想」と呼ぶことばでいっていいのかもしれぬ。うたうべき表現の衝迫の世界が、しだいにそこに向かおうとしているのを、わたし自身は長く生き、長く歌を作って生きたことの上の自然な方向のようにも思っている。その上で、その方向に、まだほとんど未開拓な、一つの歌の世界が切り拓かれていけるのではないかとも思っている。観念世界の歌であり、「思想詠」であるべきものと思っている。それは今までに、近代短歌の先進らによりうたわれることが少なく、むしろ、うたうことが避けられていた領域だったといってよい。あまり人の作品を読むこともなくなった中で、「アララギ」の、小暮政次さんの最近の歌に注目している。たとえば、 敢てねがふ尚しばし間の安らぎとその安らぎを包めるものをなどがある。小暮さんはわたしより五歳年長、夫人をもなくされた。その歌はしだいに自分の内面とだけ向かい孤独な自問自答を繰り返しているようなものになろうとしている。いわば、外部世界を絶った観念の歌であり、わたしたちの先進によってはうたわれなかった領域ともいえる。すなわち、老年の先に、まだまだそのような世界が未開拓の荒野のように残されているということを、同じ「未来」の、老年を迎えようとするみなさんにも思ってもらいたいことである。何も観念の歌、思想詠に限らない。(1996・3)
2024.06.22
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6月22日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(20)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(20)先日熱を出して以来、どうもまだ心身ともに本調子だはないと見え、こうして筆をとっていても、もうひとつ気分が乗りません。頼まれもしないのに、寝る時間までも割いて、こんなことをしていると、そのうち芹沢光治良氏の小説の題名ではないが、「ロンドンに死す」というブザマなことになってしまうのでは、あるまいかとも、思えてきたり、いたします。フト、そんな気持に襲われたりするというのも、やはり秋に入ってからでしょうネ。秋らしい風情は、いっこうに感じられない、虫の声ひとつ聞こえてこない、索漠たるここロンドンの宿ですけどもネ。では、今夜は、これで。日本では、まだまだ残暑がきびしいかと思います。どうぞ、お元気で。 敬具 九月七日 午後一ニ時 (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(4)2014年5月25日も発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(4)わたしの名前(一九八三)(1)つよくなれ祖父のつけたる名を長く生きてまはりにだあれもゐないわが名前略字に書けば金偏に失ふなれば金運拙し「高価にて金を買ひます」わたくしの名前の金は非売品です「鐡は金の王なる哉」ゆゑ気に病むな後藤直二氏ハガキくださる (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(2)ただし、これら二つの挽歌を対比させるためには、素材の共通という一点を別にしていくつかの留保条件を置かなければならない。一つは、茂吉の「死にたまふ母」の制作が大正二年であるのに対し、「擬輓一連」が作られたのが昭和十四年、その間二十六年という歳月の経過があり、しかもそれは単に歳月の経過という意味だけではないということである。言い替えれば、大正初年がまだひとりの青年の詩的陶酔を許した時代であったとすれば、昭和十四年はもはや日本が戦争の苛酷な歴史に向う日である。その間の時間を、わたしたちは見ずして二つ連作の世界の違いを考えることは出来ない。同様に、「死にたまふ母」を作ったときに茂吉は三十代に入って間もない青春の年齢であったのに対し、「「擬輓一連」の文明はやがて五十歳に至ろうとする。あるいは、五十歳の壮年に至るまでの人生遍歴を重ねている。生母の死という事実に向けて抱かれていく悲しみの内容はすでに同一平面のものではない。しかも、それらの留保の上に両作品の間には隔絶し合う世界がある。むしろ、対極として立つ何かがある。何なのか。文学の、質の違いであり、そのことは、その作者相互の文学質の相違として捉えていかなければならないはずのものなのであろう。「「擬輓一連」は昭和十四年の作品であるが、それに先行して、たとえば、『往還集』に「六月二十六日」として、酔ひしれてかへり来りし暁に仏のふみよむ何故となく父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼くあるいはその直前に、親しからぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手ふれぬ遠々と来て診たまへる君がまへにくどくど病を云ふ父を聞くなどがある。昭和三年から四年にかけて、同じく血縁である父の病、ないし死を素材としてうたわれており、その父は「彼はただ貧困の中に自らの物欲をあふりあふり生を終へたと言ふべき種類の人間であった」と作者みずからによって後年に回想されていることにより作品の輪郭を明らかになし得る。ついでに例示すれば、やはり昭和三年、「祖母を悲しむ」として、たてまつる枕花は損料といふかなや長き一生は足りし日なしに仏づくりかがまる骸ををさめまつる棺に虫くひの孔をさびしむ があり、死の悲しみでありながら、そこに詠嘆を介在させない現実凝視は「「擬輓一連」へそのままにつづく。ここでは血縁ということを越えて、さびさびとして人間の事実が突き離した眼で見定められている。そうして、そのことを理解する一つの鍵として、同じく「「擬輓一連」のなかに次の作品があるのをわたしたちは知る。すなわち「この母を母として来るところを疑ひき」から「自然主義渡来の少年にして」とうたいつづく最初の少年回想詠の一首の意味である。生母の死の事実に向かいながら、土屋文明はそのみずからの出生を疑った少年の日の追憶と共に、それが日本の「自然主義渡来」の時期と重なったという感慨を告白として告げる。文明が、自身の出生ないし少年期をやや語っているものとして第一歌集『ふゆくさ』の巻末雑記の文章がある。さらに、それは後年にわたり、たとえば次のような回想作品として幾度にもうたい繰り返されている。年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ 『少安集』夜ふかく父母争ふを見たりける蚊帳の眠よ幼かりけり 『往還集』父の罪に警察に偽証せし幼き夜の記憶打ち消しがたし 『山谷集』大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな 『白流泉』彼の生地は群馬県榛名山麓の農村、生家は「生糸や繭の仲買」を兼ねた小農であった。父はやがて石灰焼きなどの事業に手を出し、没落して都市流出者となって死ぬ。そうして、その少年期に、祖父である人が、「博徒に身を持ち崩した揚句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」と同じく『ふゆくさ』の後記に記される一家の秘密をも知る。無言の周囲の指弾でもあったはずである。日本の、「自然主義渡来の日」がもし明治三十年後半、日露開戦前後にかけてとするなら、同じ時期に文明はそうした出生を負ったまま小学校から高崎中学生となり、その文学覚醒へとつづく。すなわち、彼が最初の覚醒とした文学とは、明星浪漫主義退潮の後に波のごとく海彼から押し寄せ、渡来して来た自然主義思潮であり、繰り返せば歌人としての出発はその日に重なる。負って生きる出生ゆえに、それは体ごと浴びた波だったとも言える。そうして、そのことを文明は作歌生涯の原点とし、茂吉はしなかったともまた言い得る。たとえば『赤光』に、書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭呉れたまひたりはるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑になどがある。日露戦争を背景とする初期の作品ではあるが、茂吉の場合、将来された自然主義は真正面からあびる波ではなかった。 (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)短歌集(327)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(15)妥協なりて涙ぐみゐる若き四五人あり呆然ぼうぜんと見てゐる薄明はくめいの空そら窓あけてふれる白霜淡々と見てゐるこころ人には言はず (以上『黄茋集』より)氷こほりたる沼ぬまの上を吹く昼の風枯かれ葦あしむらにとよもして過ぐ荷車引き上のぼりなづめる馬を打つ人弱々し冬光ふゆかげの中冬の月の光さえざえと射す夜半の厠かはやにて吾が涙もよほす (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)現代俳句(抜粋:後藤)(83)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日鈴木花蓑(2)紫陽花あぢさゐの浅黄あさぎのまゝの月夜かな浅黄は七変化の色の変化の初期です。薄い空色、月光に昼の色の浅黄をそのまま保って咲いています。単純ですが、目もさめるような色彩美があります。月光に消されない色の浅黄が鮮やかに印象的です。晴天せいてんやコスモスの影撒まきちらし「撒きちらし」がいい。庭に生い茂ったコスモスの花や葉の淡々しさ、はかなさを、地上に撒きちらすようにくっきりと落した影によってとらえています。雨上る地ち明あかりさして秋の暮秋の夕暮れです。雨上がりに、日がさすというほどではないですが、地面のあかるさがまた戻ってくるのです。ほのかな光の感じをとらえています。花蓑は光の感覚が鋭いようです。 (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(180)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(18) 過疎化する農村(18)米つくり(2)高野せいぎ田掻き馬川に洗へばふたすぢの鞭打ちしあと熱もちてをり冷害の稲の穂しごき田の畔の水に浸せばみな浮かぶ籾飯塚可男代掻ける田泥の波は畦越えて隣り田の澄む水を濁しぬ山本節子かがまりて田に水を引く吾の背に幼眠りて重さ増し来る橋本 顕一日置きに乏しき水を譲り合ひ隣田の友と畦塗り励む (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(358)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(10)(前日)速成の多収穫を目指して栽培された、いじけた木にみのる果実は、十分に成長した樹に熟した果実ほどの品質はなく、おそらく滋養の点でもおとります。(よりつづく)したがいまして、人生のそれぞれの時期は、その時代に固有の成果を蓄積して、これをその人格のなかに残さなければならないのです。子供の時代は子供らしい無邪気さを残すべきであり、これなしには誰でも他人にいい影響を与えるような完全な人間とはなりえません。また青年時代は、活動力を生み出すような新鮮さと、精神の高揚とを残さなければなりません。さらに壮年時代には、男女ともに、あらゆる思想と感情の円熟と、すでになし終えた仕事によって鍛えられた性格の堅実さを残さなければなりません。このような場合においては、老年は単に慰めのない衰頽期ではなくて、むしろ、自分の性格のあるがままの過去を静かに肯定し、あるべき将来を達観して、さらに今後の偉大な発展のために準備する時期と老年はなりうるのです。これが、まさしく老年にふさわしいその使命なのです。 (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。 宇宙の精算宇宙は正義の活動のための精算機関のようなものです。ですから、宇宙のなかで善をなしてその報いを受けられないということはありませんし、また悪をなしてその刑罰を蒙らないということはないです。宇宙は広大ですので善悪にたいする反応が直ちにそれを行った方向からこないかもしれません。しかしながら東に向ってなした善が西の方より報われ、北に向かってなした悪が南の方から罰せられたりするのです。宇宙は大銀行のようです、貸借関係の帳尻は一円たりとも違うことはありません。ですから、この信用の置ける宇宙の銀行に善を積むことがよいでしょう。そして、善を積むというのは、惜しみなくすべての人に向って善をなすことなのです。
2024.06.22
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6月21日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (29) 作歌机辺私記(95年12月)「重ねていく」「未来」も四十幾巻かの誌齢をすでに重ねて来た。そうして、それぞれに参加して来られたみなさんの多くも、誌齢と共に自ずから年齢を重ねて来られた。わたしも無論である。さいわい、わたしたちの雑誌には絶えず若い作者らが加わり、それがつねにみずみずしいエネルギーを満たして下さって来ているのも事実だが、同時に、長く共に歌を作って来た人らが、老いを増していかれるも止むを得ない。選歌をしながら、そうした長い作者らが、作品としての低迷を見せていくのに気付くことがある。この人もうたうことを失って来ているのではないかと思うことがある。うたう世界を失っていること、うたう感動を失っていくのではないかと思うことがある。ないしは「詩」であるものの枯渇といえるのか。作歌者として長く生き、老いというものがそれだけのことであったなら寂しいではないか。老いとは、世に長く生きてきたことであり、世に長く生き、その間にさまざまな人生を重ね、それをくぐって来たことでもある。そうして、とりわけてわたしたちが生きた人生とは、戦争と戦後激動とをはさんで、わたしたちの前に生きた人らも知らず、わたしたちの後に生きる人らも知るはずのない、大変な歴史の時でもあったとも思ってよい。その中でわたしたちには生きてくぐって来たことがあり、見て来たことがあり、知って来たことがり、当然、それらの上に思ってきたこともあるはずである。思ってきたものの上に抱かれるものが「思想」でなくて何か。それをうたえよ、といっているのではない。だが、みなさんの短歌が何らかの意味において自己表現であるならば、みなさんのうたうもののすべての底に、そのようにしてくぐり、そのようにして見、そのようにして知り、更には思いとして来たはずのものを、つねに、ひそかに重ねていくことを思われてよいのではなかろうか。ひそかに重ねていくことを、といった。ひそかに重ねていくために、そこにはみなさんの日常があり身辺があり、それら小些事の世界があるのであろう。否、老年というのは、しだいに世との関わりを絶って自らの周辺にのみこもっていくことであり、うたうことのすべて、その範囲になっていくことを逃れ得ない。それにも拘わらず、うたうものが自分ひとりの個のことであるなら、自分ひとりの個の心の世界が必ずあるはずであり、自分ひとりの個の思いの世界が必ずあるはずである。その心であり思いであるものの底に自ら重ねるべきものが何かをわたしは言ってきた。それは容易とはいえない。だが、容易でないからこそ、立ち対うに値するものなのであろう。老いの歌というなら、わたしたちにとってもまだまだ未達成の世界である。(1995・12)
2024.06.21
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6月21日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(19)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(19) それにしても、日本におけるクスリの野放しぶりは、外人にとって、とても心配なことらしく、道中の船のなかで、アメリカ人から、 「日本では、医師の証明書がなくてもトリコマイシンが買えるそうだが、ほんとうかい?」と尋ねられました。そこで、“Don’t trouble yourself about that,because everybody of Japanese is a doctor”(心配ヲシテクレナクテモ、ヨロシイノヨ。日本人ハ、ヒトリヒトリガ、ミンナ、オ医者サンナノヨ)と答えましたところ、そのアメリカ人は、“Oh ! Terrible ! “ (アラ、オソロシヤ)と肩を竦(すく)めておりました。 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(3)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(3)何祈るらむ(3)小綬鶏のするどく鳴きてまなかひを羽毛にまみれし猫よぎりゆくうつすらと塵浮く卓に幼児の手のあと残し家静もりぬすれちがふ人に告げつつ足どりのかろし行手に虹を見てより夢に来てこゑなく語る亡き人の喉ぼとけのみさめておもへり木守柿喰ひちぎりては風の中にとび立つ鳥の声の鋭き (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(1)土屋文明に「擬輓一連」と題される一連の小連作がある。この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ父の後寛かに十年ながらへて父をいひいづることも稀なりきこの母ありて吾ぞありたりし亢ぶり思ふべきことにもあらじ吾を待ち待ちつつ言に言はざれば待ち得て次の夜にむなしも葡萄をばよろこびとりて惜しみつつ西瓜おきたるを長くと思ひき枕なほれば歌をえらみて夜を通す弟三人酔ふにもあらず今日のため乞食一躯敬ひて鉦のこゑあり吾はぬかふす意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに拾ひあへるかもすすみ寄りその白きをば吾が抱く清らに今はなり給ひたり歌集『少安集』の中にあり、昭和十五年の発表作品とされる。昭和十五年の『短歌研究』一月号掲載とされているから、制作はその前年、昭和十四年末と想定される。すなわち、作者四十九歳のときの作品である。一連はいうまでもなく、その母の死のために作られた挽歌である。年譜によれば昭和十四年十一月七日、生母ヒデ、七十九歳で東京深川の弟筆司の家で没している。わたしは土屋文明の短歌について語らなければならない場合、しばしば、この「擬輓一連」の作品を、同じように生母の死を悲しんで作られた斎藤茂吉の「死にたまふ母」を想起し、対比することから始めていくのを例とする。なぜなら土屋文明の文学、ないし文学生涯ともいうべきものを確認する一方法として、わたしはつねに彼の先進者であった茂吉の存在を一方に置いて考えることが有益であり、必要でもあると知って来ているためである。茂吉の「死にたまふ母」がどのような作品であるかは記すまでもない。それがまた、詩人茂吉の出発にどのような意味を持ったかは語るまでもない。ただ、考察の必要のため一部だけを引例しておく。はるばると薬をもち来しわれを目守りたまへりわれは子なれば寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の辺の我が朝日には見ゆ死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆるのど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなりさらに、文明の一連のうちの「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」ないし「すすみ寄りその白きをば吾が抱く」に対比させるために次の二首も付記しよう。火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうたかなしく歌ふ灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり何が言えるのであろうか。土屋文明の場合、母の死に集るものは「弟三人酔ふにもあらず」とうたわれる肉親らであり、彼らは「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」と詠まれる作者と共にひそかにその骨を寄って拾い合う。その場面は無論、都会の片隅の火葬場か何かなのであろう。一連を通して、血縁の死への悲しみは人生の日常の中に冷え冷えとした自己凝視を置いてうたわれている。それに対し、茂吉の弟は「現身のうたかなしく歌ふ」弟であり、「朝日子ののぼるがなかに」遺骨を拾う感傷である。母の死の時間の中には「遠田のかはづ」の声が天に満ち、「のど赤き玄鳥ふたつ」がその屋梁から見守っている。すなわち、繰り返せば一方が日常現実の間における血縁の死という事実の冷厳な凝視であるのに対し、他はそのことを「詩」という別次元に置いてうたった詠嘆なのであろう。「遠田のかはづ」も「のど赤き玄鳥」も、ここではすでに、現実のものでありながら同時に現実だけの世界ではない。あるいは、前者にあるものがリアリズムとするなら、後者を覆うのはそれを包んだ豊な詩的浪漫性と言えよう。 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)短歌集(312)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(14)枕(まくら)より頭もたげて吹きすぐる風をし聞けば早眠らえず暁(あかつき)の風をさまりししばらくをしとしと露(つゆ)霜(じも)おりぬべしかすかなる火種(ひだね)おこして虚(むな)しきに論(あげつら)ふ声いきほひながら包丁(ほうちやう)をとぎつつ思ふこの日ごろ何かしてないと心危いのを足袋(たび)にそへ賜(た)びし小豆(あづき)ををしみつつ掬(すく)ひ飽かぬかもこの年の暮 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)現代俳句(抜粋:後藤)(82)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日鈴木花蓑(1)雪の嶺(ね)の霞に消えて光りけり彼は胸の病を持ち、何か暗い孤独の翳があった。ひとたび霞の中に消え入った遠くの雪嶺が、ほど経て一閃(いっせん)の光となってその存在を示すのである。彼には凝視の力があった。この雪嶺の光を見とめたのもそれであった。すばらしい感覚的な冴えをみせている。薔薇色(ばらいろ)の暈(かざ)して日あり浮氷(うきこほり)石田波郷の初期の句「寒卵薔薇色させる朝ありぬ」の名句の前に、花蓑のこの句があります。池か湖に漂っている浮氷も薔薇色の日に映えている。薄曇りの空、何か物憂いような感銘がある。 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)昭和萬葉集(巻十三)(179)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(17)過疎化する農村(17)米づくり(1)浅井喜作霜白き田に打うち初ぞめの幣ぬさたててあけぼのくらき空ををろがむ沢畑 実よしあしきとやかくいはずわれの田を心に足らふ肥土となすべし小島千代子代しろ掻きて泥平ならされし苗代に蛙の卵ちぎれちぎれに浮く中平彦作掻きし田のなめらかなるを田螺たにしあまた殻曳きずりて動き初そめたり (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(357)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(9)(前日)模範的に経過する生涯は滅多にあるものではなく、どの人の生涯にも、避ければ避けられた過ちがあり、あとからではもはや埋めることのできないすき間があるものです。(よりつづく) というわけは、人生のおのおのの時期が、それぞれその目的と任務とを持つからです。春には、木はなによりもまず成長して、おわりに花を咲かせなければなりません。ですから、春の内に実を結んではなりません。たとえば、近頃のように自然の成長をわざと抑制し、ただ速成の多収穫を目指して栽培された、いじけた木にみのる果実は、十分に成長した樹に熟した果実ほどの品質はなく、おそらく滋養の点でもおとります。 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。仰望の秘術世の中の教師はいいます、「まず、自分のことを清くしてそして世の中を清くしなさい」と。しかし神はおっしゃいます「なんじらわれを仰ぎ望め、そうすれば救われるだろう」と(イザヤ書四十五章二十二節)。私自身を清めようと一生努力してもそれは不可能でしょう。しかし、神の子羊であるイエスキリストを仰ぎ望んで、即座にわたしたちは自分自身の霊魂を清めることが出来るのです。去れ、世の教師ども、あなたたちは私に自省の心を植え付け、そのため私はいままでの半生を苦しみ悩みました。わたしは、今からは神を仰ぎ望んでそのすばらしい教えによって清められていきます。
2024.06.21
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6月20日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (28) 作歌机辺私記(95年11月)「二首を一首に」月々の幾首かの作品を作ろうとするとき、それらが自ずから連作のかたちをとっていくのは、そのことを意識するかしないかは別として、今日では普通のことなのであろう。事実、連作という手法を用いて、短歌という小詩型のうたい得る世界が広がったことだけはいえるのであろう。何かで小説である人の、小説の書き方とでもいうべき文章を読んだことがある。小説を書き終えた後、その原稿の、書き出しの数枚と、書き終えるあたりの数枚を削除するという勧めである。そのことは短歌の一連の作品を作るときにも同じくいえる。みなさんはそのようにして短歌を作ったときに、少なくとも最初の一首か二首、ないしは終りのあたりの作品を、割愛することを試みられるとよい。そうした作品にはしばしば、全体の一連のための、説明だけであるものが交じりがちである。それは一連の完成のために無駄な部分であり、連作の効果のためには弛緩の箇所となりがちである。皆さんの作品を見ていく場合、とりわけて、終りの方の一首か二首、むしろ無い方がよいのではないかと思うことが多い。それらの作品にはどうしても理が入りがちになるものでもある。文章でもそうである。文章もまた、いかに筆を終えるかというのは大事なことでもある。延々と一文の総括などをするものではない。その一連の作品を作り終えた後に、見直し、二つ並んだ作品を併せて一首としてしまう、といった配置も必要である場合がある。たとえばその一首の上の句と、それにつづく作品の下の句とをつなぐ、といった工夫である。なぜなら、いくつかの歌をつづけて作ろうとする場合、それぞれの作品が、辻褄が合ってしまったものになるというのがしばしばであるからである。そうした作品には理が入り、作品一首であることの緊張感ともいうべきものが希薄となりがちである。二首を一首としてしまうことにより、むしろそれによる作品の辻褄が合わない何かが詩としての面白さとなっていくことが、よくあるものである。こんなことを書くとみなさんは、それでも少ない作品がますます少なくなっていくのをなげかれるのであろう。だが短歌とは、そのような少ないことばとしてのかたちに、自らを攻め、自らを攻めして作っていく、そのような詩のかたちのことであるべきなのでもあろう。そのようにして作った作品を、書きとどめ、書き綴り、手もとにおいてつねに読み返していく。そうしたときに、たちまちに思い浮ぶ一首がある。一瞬に生まれる一首といってよい。わたしの場合、自ら満足する作品は、そのようにして生まれたものの方が多い。そうであればやはり一連の歌のためにかける或る一定の時間というものはどうしても必要なのであろう。(1995・11)
2024.06.20
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6月20日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(18)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(18) わたしなどには、こういうお節介好きの商人のほうが有難いのですが、ことクスリに関するかぎり、いっぱい抱えていないと、どうも心細い。だから、「こんなことでは、困るなァ、日本から取り寄せなければ、どうにもならないなァ、面倒なことよノオ」と、いささか憂鬱になっていましたところ、そこはよくしたもので、トットコ、トットコと歩いていますうちに、とてもいい綜合ヴィタミン剤や綜合感冒錠を気前よく売ってくれる店を見つけました。日本のものに比べると三倍くらいの値段ですし、それに乱売合戦などという気の利いた催しがありませんために、たいへん高くつきますが、それでも日本から航空便で取り寄せることを思えば、うんと廉いはずです。思いきって五万円ぶんほど、いっぺんに仕入れましたので、これで安心をして冬を迎えることができます。君たちも安心して下さい。 (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(2)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(2)何祈るらむ(2)わが裡の玻璃のかけらはときをりにきらめきみせて寝ねがたき夜妥協しつつ今日を終はりぬ八重咲きのまだらの椿朽ちしを払ふ真夜起きて星流るるを仰ぐ娘の何祈るらむ露にぬれつつおのづからゆれはじめたる木蓮のはらりとおとす花のひとひらくちなしの葉裏にすがる青虫の動くともなし夏の終はりに (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十五)よりそのあとに、今日に至る長い老年がつづく。文明の歌に内面性ともいうべきものが深く増し、老年の心境を述懐する。それが日本の詩歌伝統のトータルの上の「詩」の美しさにおのずから連なるとき、至りついた一つの世界がある…八十幾年かの生と、文学とをこのように概括してみた。そうした生涯の文学において歌いつづけられて来たものは何だったのか。さまざまな作品に拘わらず、生きていく日に、その生きていく思いをみずからのうちに問いつづけ、語り出すことばだったと文明の場合に言えよう。その生きていく日は繰り返せば明治末年から今日に至る歴史の激動の時代であり、あらあらしい音を立てて何かが崩れていく時期でもあった。その中に、ことに戦前と戦争と戦後との三つの時があり、文明もまた苦しんでそれらの時を潜って来た。彼の短歌はそうした歴史の時を、「如何に生きるか」との問いに生きることばであるべき「詩」として歌われた、とわたしは大きな筋として思う。さらにそのような日に、彼は日本の知識階級者であった。それは同時に生活を曳きずる貧しい都会の一小市民の人生であることを意味する。問いつづける「生き方」の思いであり「詩」であるものはその二重の「生」を負うことでもあった。文明がリアリズムの歌人であったという意味はいまそのことの上にのみいえる。そのことの上にのみ厳しい現実凝視があり、現実凝視の上に表現があった。文明にとり短歌であるべきものである。そのような作者にとって、表現とは認識であることを意味する。表現者である文明は当然認識者であった。何の認識者なのか。いうまでもなく、わたしたちの生きていく「生」を含めた、現実と呼ぶ「歴史」の意味であろう。文明の作品の中に、ことに戦争から戦後にかけて冷厳に見据えられていた「歴史」があったとすれば、そのことを「思想」とすでにいい代えてよいのであろう。(1976・12『土屋文明論考』より)
2024.06.20
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6月20日(木)短歌集(298)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(13)しらじらと漂(ただよ)ふごとき日本の国帰り来て心しづめてをれどついばみつつやさしき鶏(とり)を相手としこもらふ我を妻のいやがるひとつかみほど唐黍を持ち来たりついばむ音に心かなしむとどろきて風のふきゆくよもすがら折々にして目を開(ひら)くはや私(わたくし)を超(こ)えてひろごる悲しみの何(いづ)れの日にか消(け)ぬるにやあらむ (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)現代俳句(抜粋:後藤)(81)著者:山本健吉(角川書店)発行:昭和39年5月30日富田木歩(3)面影おもかげの囚とらはれ人に似て寒し大正九年作。前書き:「病床未だ離れがたき身の声風が手すさびに写真を撮りて」(注)声風:新井声風上眼づかいの丸刈り頭に、悲しい囚人の表情を連想したのか。足なえで家にこもったままの自分の境涯を、囚人によそえて思うこともおおかったのであろう。そう言えば顔つきまで囚人に似てきたという思いに、一抹の膚寒さを感じたのだ。自嘲もあり、自己憐憫の気味もこもっている。秋風の背戸せどからからと昼餉ひるげかな大正十年作。さりげない諷詠ぶりだが、生活の哀愁はにじみ出ている。侘しい昼餉だ。目刺しか畳鰯の匂いがしてきそうである。「秋風の」でちょっと休止するごとくして続いている。「背戸からからと」が索漠の感を深めている。二十七の短命、二十歳代にしてこのような特異な完成した境地を打ち立てた作家は、後に芝不器男があらわれるまではだれもいない。 (つづく)
2024.06.20
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6月20日(日)昭和萬葉集(巻十三)(179)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(16)過疎化する農村(16)農薬萩原淑子幾度も水替へすすぎし作業衣に農薬のにほひかすかに残る仲 宗角農薬の残効期限が切れしより血の清まるか眩暈めまひ遠のく嘉戸瑩子呑めば死ぬ毒薬背負ひ噴霧器の先ほとばしる霧の中ゆく古屋利之農薬のけぶりに霞む地平にてけふの入日は黄に濁りたり長田芳江農薬の故かと云へり波の間の死魚を見て佇つ農婦の友が (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。(よりつづく)しかし、内的に健全な人間生活であるならば、必ず明らかに認められるようななんらかの発展をともないます。一方また、その発達の途中でまったく気まぐれな飛躍や中断が起こると言うこともないのです。しかし、それと同時に、まったく模範的に経過する生涯は滅多にあるものではなく、どの人の生涯にも、避ければ避けられた過ちがあり、あとからではもはや埋めることのできないすき間があるものです。 (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。智者いずくにある智者はどこにいるのであろうか、学者はどこにいるのであろうか、聖者はどこにいるのであろうか、君子はどこにいるのいるのであろうか。わが国にはいません、かといって外国にもおりません、そうです全世界を探してもどこにもおりません。智者は天にいらっしゃいます、神と共にいらっしゃいます、いや彼が神そのものなのです、イエスキリストその人なのです。イエスキリストこそが智慧であり聡明(さとり)なのです。彼に至らなければ光はないのです。わたしが何をしようと、四方八方探し回わろうと智者を探しえないのです。キリストはわたしたちの天上にいらっしゃるとともにわたしたちの心にもいらっしゃるのです。わたしはイエスキリストにより、自分自身はもちろんのこと全世界をその光で照らそうと決心したのです。
2024.06.20
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後藤瑞義 入選歌・入選句自己主張することのなき父なりきことわざなども常に用いて 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 花山多佳子 選)高くたかく揚げ復興鯉幟 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 橋本榮治 選)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (27) 作歌机辺私記(94年12月)「水脈の名残」歌舞伎というものなど、ほとんど見ることもなくなってしまったが、その歌舞伎のことで、一つの文章に出合った遠い記憶がある。名優と呼ばれる、ひとりの女形の役者がいた。或る舞台で、その女形が出演した。それは舞台の上手から出て、下手に入る、ただそれだけの役であった。そうでありながら、科白一つなく、仕草一つあるわけでなく彼が歩み過ぎた後に、舞台にはしばらく水脈のようなものが漂い残り、観客は息を呑んだ。それだけのことであった。何の舞台であったか。何という女形だったのか。ないしは書いた劇評の文章はだれのものであったかもすべて忘れてしまった。そうして、わたしたちの短歌において、「詩」というものも、そのような水脈の名残のようなものではなかろうかと言う感想を、同じ遠い日に、わたしもまた書いたことがあったと思う。それは一首読んだ後に残る、何かかたちないかげのような何ものかであり、かすかなそのゆらぎともいえるものなのであろう。わたしは陰翳ともいうことばでそれを語ろうとしたこともある。すなわち短歌一首の「詩」ともいうべきものは、そこにうたわれている事柄にあるのでなく、ことばことばにあるのでなく、ましてその意匠などの範囲にあるのではなく、一首そのものにある。たとえばひとりの名優の女形が幕のかげに消えた後に舞台に漂い残る水脈の名残のようなものであり、かすかな陰翳のようなものであり、その感動であり心ゆらぎであるべきものなのであろう。短歌一首作るとは、それらをどのように一首の後にうたい残していくかということなのでもあろう。そのためには、作品がどのように寡黙であるかが大事なのであろう。むしろ、つつましく、さりげないままであるべきなのであろう。いたずらに「詩」らしい事柄を連ね、「詩」らしいことばで飾り立てるのとは別のことなのであろう。舞台を過ぎていく女形はその間何の科白も語らず、何の仕草も残さなかったといった。やたらに飾り立て、やたらに饒舌なのは田舎廻りの役者のすることともいえる。更に、同じく短歌において、その作者がプロかアマかを分けるのもそのことにあるのであろう。すなわち、たとえば茂吉などの場合において、何とつまらないことをうたっているのだろうと思って読んでいって、あとにいいようなく胸にからんでいくかすかな感情を知っていくことがある。心のゆらぎ、とわたしはいっており、それを「詩」と呼ぶものと思っている。繰り返せば短歌を作ることとはその「詩」を一首の中にうたい秘めていくことであり、プロとは、そのことを知って歌を作るもののことであろう。或いは、そのことの技法であり秘密であるものをひそかに秘めて、といえるかもしれぬ。(1994・12)
2024.06.19
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6月19日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(17)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(17)だいたいが、この国の商人というのは、このクスリヤのオバサンに限らず、お客であるわたしに対して、ツベコベ、ツベコベと、お説教を試みようとする習癖がある。夕方に、ヤオヤで卵を四個書おうとしましたら、 「オマエハ、コノ卵ヲ四個トモ今夜カ明朝ニ食ベテシマウノカ?」と聞くのです。 「今夜ニ一ツ、明朝ニ一ツ…」と答えると、 「ソレナラバ、二個ニシテオクガイイ、無駄ナコトダ。アスニナレバ新シイ、卵ガクル、ソシテコノ卵ハ、半ペンス値ガサガル」と言う。 「では、ソウスルヨ」と答えると、さも満足そうにニッコリ笑って、「ベェリ、グウド」と誉めてくれました。店に入ると、たいていの場合、“May I help you?”と言いながら歩み寄ってくるから、売りたくないのでもないようですが、専門家としての自負心をもっているというのか、国民性のしからしめるところなのか、妙にカウンセラー気どりのところがあります。 (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(1)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(1)何祈るらむ(1)霜よけて植ゑかへしたるはまゆふの莟みつけて夫のよぶこゑ土の上に散りこぼれたるさざんくわの花白じろと瞑れども見ゆわたの実のおのづとはじけまざまざとさらす白さよ凍土の上きれぎれのオルゴールの曲聴きゐつつつひに告げざること思ひをり風響りのとほくよりきて戸を鳴らし吹きゆくはてを闇に思ひぬ (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十四)より土屋文明という、明治、大正、昭和の三代にわたって短歌と関わった歌人を概観するために、その文学を、生きた生涯と共に時の経過の上にたどってみた。推移するものと、推移の間に重ねられていくものと、さらにそれらを通して一人の文学に本質として流れつらぬかれたものを知るために、それが一番ふさわしい方法と思ったからである。その過程において文学と呼び思想となすものに出来るだけ接近して見ることがこの概説的作家論の目的であった。明治の終りが大正へと替わる日に文明は知的憂愁をたたえた一少年リリシズム歌人として出発した。発足したばかりの「アララギ」一同人でもあった。それにはこの国の短歌史の歩みの上に「近代」と呼ぶ西欧文芸思想の世界が初めて淡い影をおとしていた、といえよう。だがその大正が昭和に移るとき、文明はリリシズムの少年詩人でなく、冷厳の眼を現実にむけるリアリズムの作者に推移する。すでに生活者である文明は、生活を通し、生きる現実即物的な表現の中に歌う。昭和になり日本は経済恐慌とそれに重なるマルキシズム思想の嵐の時期を通過し、そのあとに戦争とファシズムの時代が迫り寄る。そうした日に文明は一人の生き方であるべきものを文学として問い求め、その思いを重く、あらあらしく、苦渋の作品として歌い重ねる。それは戦争の時代にもぎりぎり守り抜かれる。求められては戦争賛歌を作ったという事実を逃れられないが、文明の戦争詠の多くはその時に生き、その戦争をたたかう日本の無名の市民の「個」の運命の関心の上にだけ抒情として作りつがれた。そうして、戦後の時代に彼は同じように戦後の荒廃に生きる思いを歌う。敗戦を歴史の中に凝視し、一人の疎開者である位置から日本に推移するものを歌った。その視野の中につねに民衆があり、民衆の呼び交う歌があった。「生活即短歌」という言葉が自らの文学主張を明らかにするものとし、歌論としてこの日に語られる。(つづく)
2024.06.19
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