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紫式部の「光る君へ」の大河ドラマが始まり、源氏物語の本も書店に積まれております。大変、喜ばしいことです。サイデンスティッカーの英訳文と中国訳を原文で読んでおります。今は、大炊御門宗氏(むねうじ)自筆の源氏物語の読み下し文、英訳文、中国語訳をしております。楽天では、木版の慶安3年「源氏物語」を用いておりますので、それを紹介いたします。「源氏物語」のうち「宿木」の原本です。<薫(かおる)の君を>・・・・<そうした席へ連ならせるのはあまりに高貴なふうがあって心恥ずかしく大臣には思われるのであるが、婿君と親密な交情を持つ人は自分の息子(むすこ)たちにもないのであったし、また一家の人として他へ見せるのに誇りも感じられる薫であったから伴って行ったらしい。平生にも似ず兄とともに忙しい気持ちで六条院へはいって、六の君を他人の妻にさせたことを残念に思うふうもなく、何かと式の用を兄のために手つだってくれるのを、大臣は少し物足らぬことに思いもした。 八時少し過ぐるころに匂宮(今上帝の皇子)はおいでになった。寝殿の南の間の東に寄せて婿君のお席ができていた。高脚(たかあし)の膳(ぜん)が八つ、それに載せた皿は皆きれいで、ほかにまた小さい膳が二つ、飾り脚のついた台に載せたお料理の皿など、・・・・<見る目にも美しく並べられて、儀式の餠(もち)も供えられてある。> 与謝野晶子・訳与謝野晶子の著作権は公表後、50年を経過したため、引用掲載することができます。原本の枠がやや右に傾いているのは、原本が作られた時代の技術に基づくものです。
2024年02月24日
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浮舟は匂宮(今上帝の皇子と薫の君(女三の宮の子)という2人の貴族に愛され、2人の男の間の板ばさみとなり苦しみます。匂宮が薫の君を装って浮舟の寝所に侵入したことが発端です。「女君(浮舟)は、あらぬ人なりけり、と思ふに、あさましういみじうけれど、こゑ(声)をだにせさせ給(たま)はず」と原文に記されています。薫の君と匂宮という2人の男からの求愛に苦しんだ浮舟は、「鐘の音のたゆるひびきに音(ね)をそへて、わが世つきぬと君に伝へよ」という母君への別れの手紙を託します。現代語訳にすると「寺の鐘の音が絶えていくように、私の生命も終わったと母君にお伝え下さい」となります。浮舟は、僧都(そうず)に助けられます。「手習」の巻に「尼になしたまひてよ。さてのみなん生くようもあるべき」とあります。現代訳にすると「私を尼にして下さい。そうすれば、生きていくことができます」と出家を願い出るのです。匂宮が薫の君を装って「浮舟の寝所に侵入する場面」と「浮舟の母君への別れの手紙」の場面を描いた2点の原文の写真をページに追加して公開しました。
2023年05月13日
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海外から貸し出し申請が相次ぎ、ずうっと「蔵」の中にこもり、海外展示のための発送作業に追われておりました。ようやく落ち着き、ほっとしながら、高欄に寄り添いノートパソコンのメールを開いています。これから、英文と中国語訳も日記に書いていきたいと思います。毎日、200通ちかくも来るメールの全部を読みきれません。今読んでいるのは2週間ほど前のメールです。99パーセントが海外からのメールです。このため、日記の更新も相当遅れております。以前は、毎日更新していたのですが。高欄に寄りかかりながら、ふと源氏の君のことを思い出しました。愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、 眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所から源氏の君へあて 手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 下の原文の写真2行12字目から4行2字まで。「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれておりますので、 ユネスコの画像を下にご紹介します。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。
2022年07月28日
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今上帝と明石中宮の皇子(みこ)匂宮(におうのみや)は、 浮舟に淡い恋心を抱きます。匂宮は浮舟の所在を知らず その行方を探していました。 ある年の春、浮舟から中の君あての手紙が届きます。 中の君に仕える小さな子が、その手紙を届けようとして 小走りに中の君の元へ行こうとしている時、 そばにいた匂宮は、「誰からの手紙だろう」 と不審をいだきます。 原文には、次のように記されています。 「みや(匂宮)、大将(薫の君)のさりげなく 志(し)なしたる文(ふみ)にや」 現代語訳は、次の通りです。 「匂宮は、ひょっとしたら、薫の君があらぬ体裁をつくろって 寄こした手紙ではないかと疑う」 薫の君からの手紙ではないかと疑った匂宮は、中の君との間で、 次のようなやりとりを交わします。原文の9行目から末尾まで。 (匂宮)「あ(開)けて見んよ。ゑんじや志(し)給(たま)はんや」 (中の君)「見ぐるしう。なにかは、その女どちの中に か(書)き(記)しかよはし・・・・」 現代語訳は、次の通りです。 (匂宮)「手紙を開いて読みますよ。おうらみなさいますな」 (中の君)「どうして、そんなみっともない真似をなさるのでしょうか。 そんな女同士の内輪の手紙を・・・・ どうしてご覧になる必要があるのでしょうか」 結局、匂宮が見た手紙は、薫の君から浮舟へあてたものではなく 浮舟から中の君へあての手紙でした。 しかし、浮舟を探していた匂宮は、この手紙をきっかけに 浮舟の所在を知ることとなります。 やがて、薫の君のふりをして浮舟の寝所へと忍び込み 後の浮舟に悲劇をもたらすことになります。
2021年03月23日
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(オックスフォード大学・演習・テキスト用)Genji could not forget Utsusemi. With Kokimi as guide, he returned to the governor's mansion. It was a hot summer night. Genji made his way through the door and blinds. Utsusemi had been playing Go with another lady. One panel of a screen just inside had been folded back, and the curtains thrown over their frames, because of the heat. The view was unobstructed. Utsusemi was a small and rather ordinary woman. But the other was very handsome and tall. 源氏の君は、愛する空蝉(うつせみ)に何とか近づこうとします。 しかし、空蝉(うつせみ)は源氏の君にあこがれている一方で、 老齢の夫のいる身であることを考え、源氏の君の接近を阻(はば)んでいます。 しかし、源氏の君に味方をする者があらわれます。 空蝉(うつせみ)の弟の小君(こぎみ)です。 源氏の君が、空蝉(うつせみ)の部屋に入りやすいように、部屋に通じる障子を開けておく場面が「空蝉(うつせみ)」の巻に記されています。 「此(この)さうじ(障子)ぐち(口)に、まろは ね(寝)たらん。風ふきとを(通)せ、とて、 たたみ(たたみ)ひろ(広)げて・・・・」 原文の現代語解読文は次の通りです。 「この障子口に私は寝ているよ。 風が吹き通って気持ちがいいからね、と言って 上敷きを広げて・・・・(横になられた)」 空蝉(うつせみ)の弟の小君(こぎみ)は、 源氏の君が空蝉(うつせみ)の居る部屋に入りやすいように 障子を開けていたのです。障子を開けていることに不審を 抱かれないように、小君はわざと空蝉(うつせみ)や 部屋にいるほかの女たちに聞こえるように大きな声で言い、 障子口に横になっていました。しかし、空蝉(うつせみ)は、 衣(きぬ)ずれの音で源氏の君の接近を知り、 軒端荻(のきばのおぎ)と入れ替わってしまいます。
2019年06月16日
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ふと、平安時代の源氏の源氏の君のことを思い出しました。 愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、 眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所から源氏の君へあて 手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。 「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれております。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。
2019年04月06日
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今上帝と明石中宮の皇子(みこ)匂宮(におうのみや)は、 浮舟に淡い恋心を抱きます。匂宮は浮舟の所在を知らず その行方を探していました。 ある年の春、浮舟から中の君あての手紙が届きます。 中の君に仕える小さな子が、その手紙を届けようとして 小走りに中の君の元へ行こうとしている時、 そばにいた匂宮は、「誰からの手紙だろう」 と不審をいだきます。 原文には、次のように記されています。 「みや(匂宮)、大将(薫の君)のさりげなく 志(し)なしたる文(ふみ)にや」 現代語訳は、次の通りです。 「匂宮は、ひょっとしたら、薫の君があらぬ体裁をつくろって 寄こした手紙ではないかと疑う」 薫の君からの手紙ではないかと疑った匂宮は、中の君との間で、 次のようなやりとりを交わします。原文の9行目から末尾まで。 (匂宮)「あ(開)けて見んよ。ゑんじや志(し)給(たま)はんや」 (中の君)「見ぐるしう。なにかは、その女どちの中に か(書)き(記)しかよはし・・・・」 現代語訳は、次の通りです。 (匂宮)「手紙を開いて読みますよ。おうらみなさいますな」 (中の君)「どうして、そんなみっともない真似をなさるのでしょうか。 そんな女同士の内輪の手紙を・・・・ どうしてご覧になる必要があるのでしょうか」 結局、匂宮が見た手紙は、薫の君から浮舟へあてたものではなく 浮舟から中の君へあての手紙でした。 しかし、浮舟を探していた匂宮は、この手紙をきっかけに 浮舟の所在を知ることとなります。 やがて、薫の君のふりをして浮舟の寝所へと忍び込み 後の浮舟に悲劇をもたらすことになります。
2018年07月15日
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「源氏物語」 「若菜・下」の巻に、源氏の君の前で、 明石御方、紫の上、女御の君、女三の宮が合奏をする という場面が描かれております。それぞれが源氏の君に愛された女性たちです。四人の女性たちが集い源氏の君が秘蔵するそれぞれの名器の楽器を渡されて、四人の女性たちによる合奏が始まります。この合奏を「女楽」といいます。 今までとは、少し違った原文の紹介をします。 原文の全文の「読み下し文」をつけました。 原文の読み下し文を1文字ずつ正確に記します。・・・くけたかきことさへいとならびなし。 ひさし(廂)の中の御さうじ(障子)をはなちて、 こなたかなたみきちゃうばかりをけぢめにて、 中のま(間)は、院のおはしますべきおまし(座)よそひたり。けふ(今日)のひゃうし(拍子)あはせには、わらべをめさんとて、右おほい(大)殿の三らう(郎)、かん(尚侍)の君の御はらのあに(兄)君 さう(笙)の笛、左大将(夕霧)の御たらう(太郎)よこ(横)笛とふかせて、 すのこにさぶらはせ給(たまふ)。 うちには、御志とねならべて、御こと(琴)共参(まゐ)りわたす。 ひ(秘)し給(たまふ)御こと(琴)共、 うるはしきこんぢ(紺地)のふくろ(袋)どもにいれたるとりい(出)でて、 あかし(明石)の御かた(方)にびは(琵琶)、紫のうへ(上)にわごん(和琴)、 女御のきみ(君)にさう(筝)の御こと(琴)、みや(宮)には、かく・・・ 今日の日記は、海外向けになっております。
2017年09月11日
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「源氏物語」「葵(あおい)」の巻に、夕霧の「出産祝い」のことが記されています。「葵」の巻の原文(下の写真右から7行目ー10行目)に、「ゐん(院)をはじめ奉(たてまつ)りて、みこ(親王)たち、かんだちめ(上達部)のこるなきうぶやしなひ(産養)どものめづからにいかめ(厳)しきを夜ごとに見のの志(し)る」と記されています。現代訳は次の通りです。「源氏の君と葵の上との間の御子(のちの右大将夕霧)のご出産を祝い、桐壺院(前・桐壺帝)を始めとして、親王方・上達部(かんだちめ)が残らずお越しになられ、多くの珍しくご立派な出産のお祝いを夜ごとに見て大騒ぎをしている」原文の「夜ごとに」は、複数の夜を表しています。これは、生まれた子を祝い出産後三日、五日、七日、九日目の祝宴が開かれていたことによるものです。また、この原文の中には、一条御息所(みやすどころ)のねたみが記されています。10行目以下の原文には、次の通り記されています。「かの宮すどころ(御息所)は、かかる御おりさまをき(聞)き給(たま)ひても、ただならず」自分の愛する源氏の君の子を、他の女性が選んだことをねたましく思っている様子が短く描かれています。
2017年06月27日
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頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。
2017年01月23日
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頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。
2016年08月10日
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今日は五月一日。外を歩くと、新緑の木々からかぐわしい春の香りが漂ってきます。街の中にも匂いや香りが漂っています。 地下鉄のエスカレーターを上っているとき、ふと、かぐわしい香りが漂ってきました。香りの漂う方を振り向くと、下りのエスカレーターの女性だと気づきました。見えたのは後(うしろ)姿だけです。「源氏物語」には、「香り」や「匂い」のことがたくさんでてきます。源氏の君は、優雅な香りを漂(ただよ)わせていました。それは、遠く離れた所からも源氏の君とわかる香りでした。源氏の君の子息・薫の君も「薫中将」と呼ばれる通り、いつもほのかな香りを漂(ただよ)わせていました。 でも、二人の香りの中身は違います。 源氏の君の香りは、多くの唐櫃(からひつ)の中に収められている花や香木などの木々の香りが衣(ころも)に移った人工的なものでした。 今で言えば、香りの「移り香」のようなものです。 しかし、薫の君の「香り」は、身体(からだ)から発する「人香(ひとが)」と呼ばれる「芳香(ほうこう)」でした。 薫の君の身体から発する「芳香」は、「百歩離れた場所からもわかるようだ」と「匂宮(におうのみや)」の巻に記されています。 下の原文の写真1行15字目から2行9字目まで。 「まことに、百ぶ(歩)のほか(外)も、かほ(香)里(り)ぬべき心ちしける」 原文の現代語訳は次の通りです。「薫の君の人香(ひとが)の芳香(ほうこう)は、ほんとうに百歩離れた所まで香るように感じられる」 薫の君の身体から発する芳香(ほうこう)は、薫の君がどこにいてもわかるほどなので、あえて草花のような「香物」を使用してはいません。つまり、薫の君にとって、香水などは不要ということです。下の原文の写真4行6字目から6行末尾までにおいて、そのことが記されております。「ひと(人)にまさらんとつくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまでうち忍び立(たち)よ(寄)らんも、 物のくま(隈)も志(し)るき ほのめきかくれあるましきに」 原文の現代語訳は次の通りです。「薫の君は、人香(ひとが)の芳香を漂わせているので、 忍んで歩いてもどこにも隠れようがない。 そのことをわずらわしいと思っているから、 あえて香(こう)をたきしめることもない」備考:唐櫃(からひつ)は、衣(ころも)入れる大きな衣装箱のことです。
2016年04月30日
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10月に入ると紅葉の色が少しづつ秋の気配を感じさせます。夕暮れ時に澄んだ秋の空気の中で「かがり火」が燃えるのを見ると秋の深まりと共に「寂しさ」や「わびしさ」をかもし出します。「源氏物語」の中にも「かがり火」のことが出ています。 「源氏物語」のなかの「篝火(かがりび)」の巻の箇所です。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。最近、茶道の話をする機会が多くなりました。ツイッターからのメールが毎日千通を超えています。ロシア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語などが混在しています。
2015年10月07日
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源氏の君の長男が夕霧です。夕霧の友人が柏木。柏木が病に臥せ、夕霧が見舞いに出向きます。しかし、起き上がることもできません。夕霧に最後の言葉を残したのち、柏木が「あわ」のようにこの世を去っていきました。柏木の最期の場面として「源氏物語」の中では広く知られております。ツイッターのフォロワーの多くが海外の大学生ですがよくメールをいただきます。最近、また多くなってきたのが、次のような内容のメールです、「源氏の君は、いつ亡くなったのでしょうか?」ツイッターの原文と平行してゼミを進行させている海外の大学もあります。おそらく、その影響もあるのかと思います。授業のゼミの進行と「柏木」の最期の場面と「源氏の君」の最期の場面を合わせたのでしょう。「源氏物語」の「幻(まぼろし)」の巻の最後は、源氏の君が正月の元旦に親王方や大臣などへの正月の贈り物をご用意なさるよう指示する場面で終わります。「幻(まぼろし)」の次の巻が「匂宮(におうのみや)」で、その冒頭は次の言葉で始まります。 下の原文の写真1行目冒頭から11字目まで。「ひかり(光)かくれ給(たま)ひし後(のち)・・・」 原文の現代語訳は次の通りです。「この世の光であった源氏の君がお亡くなりになられた後、・・・・」 「幻(まぼろし)」の巻の最後の言葉から「匂宮」の巻の始まりまでの間、8年間の空白があります。 この間に源氏の君が亡くなっているということがわかります。 源氏の君の最期(さいご)について、具体的に記していないのは不自然だという学説が古来からあります。 そのため、「幻」と「匂宮」の巻の間に「雲隠(くもがくれ)」という巻名があったのではないかという説もあります。 しかし、現物がないので何ともいえません。「源氏の君の死」については、「源氏物語」「匂宮」の冒頭において「わずか1行」で触れている程度です。 その原文の箇所の写真を上に公開しました。
2015年08月22日
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今日(8月6日)は、広島原爆投下の日。70年前の暑い朝、原爆が投下され多くの人が命を失いました。朝から多くの人たちが、亡くなった人たちのことを思い起こしています。ふと、平安時代の源氏の君のことを思い出しました。愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、 眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所から源氏の君へあて 手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 下の原文の写真2行12字目から4行2字まで。 「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれておりますので、 ユネスコの画像を下にご紹介します。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。
2015年08月06日
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ツイッターは毎日更新しておりますが、現在は柏木の巻です。病に臥す柏木を夕霧が見舞う場面です。この部分は、「源氏物語絵巻」にも描かれている有名な箇所です。ツイッター「源氏物語の世界」はこちらです。柏木の巻は、大人になった夕霧が描かれています。ツイッターの現代語訳文は、「源氏物語」原文の箇所と完全に一致しております。サウジアラビアなどの大学生がよくツイッターを見ています。先日は、大学の教授から「うちの大学生が300人程フォローしておりますよ」というメッセージをいただきました。「ブログの夕霧の誕生の場面を思い出しますね」というコメントもいただきました。「夕霧の誕生の場面はどこ?」というコメントも多くいただきました。「葵(あおい)」の巻に、夕霧の「出産祝い」のことが記されています。「葵」の巻の原文(下の写真右から7行目ー10行目)には、「ゐん(院)をはじめ奉(たてまつ)りて、みこ(親王)たち、かんだちめ(上達部)のこるなきうぶやしなひ(産養)どものめづからにいかめ(厳)しきを夜ごとに見の志(し)る」と記されています。現代訳は次の通りです。「源氏の君と葵の上との間の御子(のちの右大将夕霧)のご出産を祝い、桐壺院(前・桐壺帝)を始めとして、親王方・上達部(かんだちめ)が残らずお越しになられ、多くの珍しくご立派な出産のお祝いを夜ごとに見て大騒ぎをしている」 原文の「夜ごとに」は、複数の夜を表しています。これは、生まれた子を祝い出産後三日、五日、七日、九日目の祝宴が開かれていたことによるものです。また、この原文の中には、一条御息所(みやすどころ)のねたみが記されています。10行目以下の原文には、次の通り記されています。「かの宮すどころ(御息所)は、かかる御ありさまをき(聞)き給(たま)ひても、ただならず」自分の愛する源氏の君の子を、他の女性が選んだことをねたましく思っている様子が短く描かれています。
2015年05月23日
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葬式は、寺で行い、安産祈願は、神社でというのが一般的です。しかし、昔は、安産祈願も寺の僧侶が行っておりました。「昔」と言っても、千年程前の話です。特に「源氏物語」の中には、安産の祈りや出産祝いに僧がかけつけてきます。そこで、「源氏物語」の中の「出産祝い」について紹介します。「葵(あおい)」の巻に、夕霧の「出産祝い」のことが記されています。「葵」の巻の原文(下の写真右から7行目ー10行目)には、「ゐん(院)をはじめ奉(たてまつ)りて、みこ(親王)たち、かんだちめ(上達部)のこるなきうぶやしなひ(産養)どものめづからにいかめ(厳)しきを夜ごとに見の志(し)る」と記されています。現代訳は次の通りです。「源氏の君と葵の上との間の御子(のちの右大将夕霧)のご出産を祝い、桐壺院(前・桐壺帝)を始めとして、親王方・上達部(かんだちめ)が残らずお越しになられ、多くの珍しくご立派な出産のお祝いを夜ごとに見て大騒ぎをしている」 原文の「夜ごとに」は、複数の夜を表しています。これは、生まれた子を祝い出産後三日、五日、七日、九日目の祝宴が開かれていたことによるものです。また、この原文の中には、一条御息所(みやすどころ)のねたみが記されています。10行目以下の原文には、次の通り記されています。「かの宮すどころ(御息所)は、かかる御ありさまをき(聞)き給(たま)ひても、ただならず」自分の愛する源氏の君の子を、他の女性が選んだことをねたましく思っている様子が短く描かれています。
2015年04月11日
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ツイッターには、ダイレクトメールでたくさんのメールが来ます。99パーセントがアラビア語、フランス語、英語などですが、翻訳ソフトを使って読んでいます。最近、フォロワーの中には公式ツイッターが多くあり、大学教授などが専門的なことを質問してきます。「篝火(かがりび)」について聞かれました。数年前に同じような質問を受けたことがあることを思い出しました。「源氏物語」のなかの「篝火(かがりび)」の巻の箇所です。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。
2015年03月27日
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「香り」と「匂い」の使い方の区別が難しいという話を聞いたことがあります。10年ほど前、アメリカの大学教授と「香り」と「匂い」の使い分けについて話をしたのを思い出しました。「源氏物語」の中にも「香り」と「匂い」についてよく出てきます。今上帝と明石中宮の皇子・匂宮と源氏の君と女三の宮の子である薫の君の話はよく引用されます。世の人々は、「匂う兵部卿(ひょうぶきょう・匂宮)、薫る中将(薫の君)」と噂をしていました。源氏の君と女三の宮の子(実は柏木との不倫の子)である薫の君は、その身体から発する「芳香」に恵まれていました。 今上帝と明石中宮の皇子(みこ)兵部卿(匂宮)は、薫の君の身体から出るほのかな香りをうらやんでいました。そこで、ありとあらゆる香りのする木々や草花を集め、自分の身体や衣(ころも)に染みつけようとします。「匂宮」の巻には、次のように記してあります。 下の原文の写真3行11字目から5行19字まで。 「兵部卿(ひょうぶきょう・匂宮)なん、 ことごと(他事)よりもいとましく覚(おぼ)して、 それをわざと萬(よろす)のすぐれたるうつしを 志(し)め給(たまふ)」 原文の現代語訳は次の通りです。 兵部卿(匂宮)は、ほかのこと以上に香(かおり)のことで、薫の君と競い合うようになり、あらゆるすぐれた香物(こうもの)を集めている」 原文には、続いて春には梅の花園、秋には女郎花(おみなえし)、萩の露、藤袴(ふじばかま)など、あらゆる香りの草花を用いて、薫の君と競ったことが描かれています。以前、の掲示板に、「かおりさん」が、「匂宮は薫の君の香りに対抗して衣(ころも)に香をたきしめた所から匂宮と呼ばれたのですよね」と記しておりました。「薫中将」は、「薫る中将」とも書きます。
2015年03月03日
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「源氏物語」「絵合(えあわせ)」の巻に「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」のことが記されています。下の原文の写真1行21字目から3行15字目まで。「あべ(阿部)のおほしがちぢ(千々)のこがね(金)をすてて、ひねずみ(火鼠)のおも(思)ひにき(消)えたるもいとあへなし」原文の現代語訳は次の通りです。「かぐや姫と結婚することができるようにと、阿部のおおしが大金を投じてせっかく買った火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)が、簡単に燃えて消えてしまったのはあっけないものです」 「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」とは、竹取物語の中のかぐや姫が五つの結婚の条件として手に入れることを目標とさせたうちの一つです。「火鼠(ひねずみ)」は、体は牛よりも大きく体中が長さ60センチの剛毛で覆(おお)われ、猛火の中でも生きていることができるという伝説の生き物です。 その「火鼠(ひねずみ)」の皮衣(かわごろも)を手に入れた者が、かぐや姫と結婚することができるという話が「かぐや姫」の中に出てきます。 かぐや姫との結婚を夢に見た「阿部のおおし」は、唐の商人から大金を投じて「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」を買い求めました。しかし、かぐや姫が試しに火をつけると燃えないはずの「皮衣(かわごろも)」が燃えて消えてしまったのです。 大金を投じて買った「火鼠(ひねずみ)」の「皮衣(かわごろも)」はニセモノだったのです。 この箇所の原文は、かぐや姫と結婚することのできなかった者の愚かさについて記しています。 「源氏物語」の中に記されているかぐや姫が出した結婚の条件の一つである火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)の話の内容に関わる原文の写真を公開しました。備考:(1)・かぐや姫に求婚した「あべのおほし」は、一般的には、「阿部のむらじ」と記されますがここでは、原文を尊重し「阿部のおほし」としました。(2)・「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」は「燃えない布」のことで「アスベスト(石綿)」で、できていました。奈良時代に伝来し、正倉院に収蔵されております。 かぐや姫の作者は、「燃えない布」が朝廷に献上されていることを知っていて書いたと推定されています。 江戸時代、平賀源内が「火浣布」を作りました。 10センチ四方という記録が残っております。
2015年02月25日
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今上帝と明石中宮の皇子(みこ)匂宮(におうのみや)は、浮舟に淡い恋心を抱きます。匂宮は浮舟の所在を知らずその行方を探していました。ある年の春、浮舟から中の君あての手紙が届きます。中の君に仕える小さな子が、その手紙を届けようとして小走りに中の君の元へ行こうとしている時、そばにいた匂宮は、「誰からの手紙だろう」と不審をいだきます。 原文には、次のように記されています。下の原文の写真6行目から7行目。「みや(匂宮)、大将(薫の君)のさりげなく志(し)なしたる文(ふみ)にや」現代語訳は、次の通りです。「匂宮は、ひょっとしたら、薫の君があらぬ体裁をつくろって寄こした手紙ではないかと疑う」 薫の君からの手紙ではないかと疑った匂宮は、中の君との間で、次のようなやりとりを交わします。原文の9行目から末尾まで。(匂宮)「あ(開)けて見んよ。ゑんじや志(し)給(たま)はんや」(中の君)「見ぐるしう。なにかは、その女どちの中にか(書)き(記)しかよはし・・・・」現代語訳は、次の通りです。(匂宮)「手紙を開いて読みますよ。おうらみなさいますな」(中の君)「どうして、そんなみっともない真似をなさるのでしょうか。 そんな女同士の内輪の手紙を・・・・どうしてご覧になる必要があるのでしょうか」 結局、匂宮が見た手紙は、薫の君から浮舟へあてたものではなく浮舟から中の君へあての手紙でした。 しかし、浮舟を探していた匂宮は、この手紙をきっかけに浮舟の所在を知ることとなります。 やがて、薫の君のふりをして浮舟の寝所へと忍び込み後の浮舟に悲劇をもたらすことになります。
2015年01月29日
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最近ツイッターを始めていますが、「リツィート」の記録がわかります。ここ最近、つぶやきの「リツィート」は、1回のつぶやきが8100回を超えます。「リツィート」は「RT」のマークで誰が「リツィート」したかがわかるようになっています。99パーセントが海外の方からのリツィートです。源氏物語に対する海外の人々の関心の高さをうかがい知ることができます。「源氏物語の世界」のツイッターはこちらです。源氏の君は、桐壺帝の皇子(みこ)です。 皇族にふさわしい邸に住んでいました。 桐壺帝の皇子・源氏の君が、板葺(いたぶき)の 粗末な造りの小さな家に泊まったことがあります。 小さな家に住む夕顔と共に過ごしたのです。 夜が明けると、隙間(すきま)の多い板屋造りの家の中に 朝の光が射し込んできます。 長屋住まいの隣り近所から、 町の人々の声が聞こえてきます。 「どうも、商売はうまくいかないねえ」という長屋住まいの家の人たちの声が、「源氏物語」「夕顔」の巻に記されています。下の原文の写真1行目冒頭から、2行8字目まで。 「たのむ所(ところ)すくなく、 ゐなか(田舎)のかよ(通)ひも思ひかけねば、 いと心ほそけれ、 きたとの(北殿)こそ、 き(聞)き給(たまふ)や」 原文の現代語解読文は次の通りです。「頼みとする商売もうまくいかないねえ。 田舎への行商もあまりあてにはできないし。 北隣りさんよ、どうだい、聞いていなさるのかねえ」 長屋住まいで壁越しに話しをしている 庶民の会話が源氏の君の耳に聞こえてきます。 千年前も今の時代も変わらないような会話です。
2015年01月20日
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ツイッターのフォロワーが1万6千を超え、その9割がアラブ産油国からです。ダイレクトメールが連日来るので、アラビア語のソフトで読んでいます。時々、翻訳ソフトを使いアラビア語で返事を書いています。「源氏物語の世界」のツイッターはこちらです。メールは手紙と同じです。手紙といえば、源氏の君は頻繁に手紙を書いていました。また、逆に多くの女性からも手紙をいただいています。 愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、 眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所から源氏の君へあて 手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 下の原文の写真2行12字目から4行2字まで。 「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれておりますので、 ユネスコの画像を下にご紹介します。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。
2015年01月05日
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あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。現在、「源氏物語」のうち「柏木」の巻をツイッターで更新をしています。私のツイッター「源氏物語の世界」はこちらです。年賀状には、手書きがまだまだ多いです。筆文字で書く人も少なくありません。当然、書く前には手習いをします。「源氏物語」には、習字の場面が出てきます。次の箇所です。 紫の上は、幼いころ若紫(わかむらさき)と呼ばれていました。 その若紫に源氏の君が習字を教えます。 源氏の君は、若紫に、「をし(教)へきかえんかし」 (私が教えてあげますよ) と言って、習字を教えてあげます。 この箇所は、「若紫」の巻に記されています。 下の原文の写真1行6字目から14字目まで。 若紫は、源氏の君が下書きをした和歌を手本にして手習いをします。 しかし、書き損じてしまいます。 下の原文の写真5行3字目から同行末字まで。(若紫)「か(書)きそこなひつ」 はぢ(恥)てか(隠)し給(たま)ふ 原文の現代語訳は次の通りです。(若紫)「書きそこなってしまったわ」 と恥ずかしそうに書いたものをお隠しになられた。 幼い若紫の姿を生き生きと描写しています。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2015年01月01日
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冬至を過ぎると、少しずつ陽が長くなってきます。今年も残すところあと2日、ホームページを開いてから10年が過ぎました。3年余り休んでいたツイッターをまた始めました。アラブの国の王室の皇族の方がフォロワーしてくれたおかげでフォロワーが急激に増加しました。「源氏物語の世界」あるいは、「gejien」で検索閲覧することができます。源氏の君と明石の君との間に生まれた女の子が明石の姫君。のちに今上帝の后となって匂宮を生むことになる女性です。帝の皇子・源氏の君との間に生まれた明石の姫君は、皇族の姫君として都に住む必要がありました。このため、明石の君は可愛い姫君を京に住む源氏の君の元に手離さざるを得ませんでした。源氏の君の姫君は明石の地にとどまることはできなかったのです。姫君との別れの日が近づくにつれ明石の君の涙は止まることはありませんでした。こうした日々を過ごしているうち、十二月(しわす)もあと2日となりました。明石の君が姫君との別れの来る日を過ごしている日々の出来事を「薄雲」の巻の中で記しております。下の写真の原文1行1字目から3行8字目まで。 「(泣きつつ)・・・すぐすほどに志はす(十二月)になりぬ。雪あられ(霰)がちに、心ぼそ(細)さにまさ里(り)て、あやしくさまざまに物(もの)思ふへかりける身かな」 「明石の君は、泣く泣く日々を過ごしているうちに十二月になってしまった。雪や霰(あられ)のちらつく日が多く、心細さもいっそうつのり、不思議なほど、さまざまな思いをしなければならない身の上です。」
2014年12月29日
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今年も残すところ、あと4日。正月にはあちらこちらで祝いの舞い歌が謡われます。 平安時代から行われている祝いの舞歌についてご紹介いたします。 「源氏物語」の「真木柱(まきばしら)」の巻。下の原文の写真1行17字目から3行19字目まで。 「御前、中宮の御かた(方)、朱雀院とに参りて、夜いたう更(ふけ)にければ、六条院には、このたびは所(ところ)せしとはぶき給(たま)ふ」 原文の現代語解読文は次の通りです。「踏歌(とうか)の一行は、冷泉帝の御前、秋好中宮の御前、そして朱雀院(前・朱雀帝)の御所にそれぞれ参ったので、夜が更けてしまったこともあり、源氏の君の居る六条院に行くのを省くことにした」 写真の原文をより見やすいようにするために原文の箇所3行文をさらに拡大しました。それが、下の写真です。 ツイッターを3年ほど更新しておりませんでしたが、最近、更新するようになりました。「ツイッタ-」「源氏物語の世界」或いは「genjien」で検索できます。フォロワーの8割がアラブ産油国、1割がアメリカやフランスなどの国々、残りの1割が日本からです。ダイレクトメールの9割以上がアラビア語などです。フォロワーの中に産油国の王族がおられて、日本文化に精通していることに驚いております。「源氏物語の世界」のツイッターはこちらです。
2014年12月27日
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京都市北区紫野に雲林院という寺がありました。元は淳和天皇の離宮で、後に仁明天皇の皇子常康親王が住まいとしていたものです。常康親王の出家後、寺にしたと言い伝えられております。藤壺中宮との間で心が揺らぐ源氏の君は、秋も深まるころ雲林院に参詣に訪れます。藤壺中宮との間で苦しむ愛の葛藤をいやすために秋の紅葉を見に参詣がてら訪れたのです。「賢木(さかき)」の巻に記されております。下の写真の原文1行6字目から3行7字目まで。 「紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなどみ(見)給(たまひ)て、ふるさと(古里)もわす(忘)れぬべくおぼ(思)さる」 原文の現代語訳解読文は次の通りです。「紅葉がとうとうあたり一面に色づきわたって、秋の野のまことにおごそかな景色をご覧になって源氏の君は、都のわが家のことも忘れてしまうご心境になられた」秋が深まるころの京都はとても美しい。特に清水寺から眺める紅葉の景色が好きです。
2014年12月26日
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「源氏物語」を原文で読むことを「素読(そどく)」と言います。 現代語訳では、ごくありふれた言葉が、原文で読んだ時に誰もが一瞬、顔を見合わせたり、微笑んだり、苦笑いをしたり、あるいは大きな声で笑う箇所があります。これは、千年前と現代の日本語とでは、その言葉のもつ意味が違っている場合があるからです。そこで、一つの例をあげます。「手習(てならい)」の巻の中の一場面で、誰しもが思わず微笑んでしまう箇所の原文があります。入水した浮舟は、横川の僧都(そうず)に命を救われます。静養していた浮舟のために、周囲の人々が横笛を奏(かな)でたりして、浮舟の心を少しでも慰(なぐさ)めようとしています。横川の僧都の母で、八十歳になる大尼君(おおあまのきみ)は、中将の君が奏(かな)でる下手な横笛が聴くにたえないので、周囲の尼たちに琴を持ってきて奏(かな)でるように勧(すす)めます。原文の箇所は、下の写真9行7字目から22字目まで。現代語訳にすると次のようになります。「どうしたのですか、あなたがた。さあ、琴をとってきて弾いておあげなさい」 原文が記している箇所の「原文の読み下し文」を、後に記したのには理由があります。 原文の「素読」をしている時に、この箇所の原文を初めて読んだ人の多くが微笑んだり、苦笑いをしてしまいます。時には大きな声で笑う人もいます。 9行目7字以下の原文の読み下し文は、次の通りです。「いづら、くそたち、きん(琴)とりてまいれ」この「くそたち」という言葉は、「代名詞」で、千年以上も昔に使われていた言葉です。ごくごく親しい仲間うちで、目上の人が目下の人に敬愛を込めて使う言葉で、「あなたがた」あるいは、「あなた達」という意味で使います。この場合、大尼君は目下の尼たちに言った言葉になります。 千年前と現代とでは、使用する意味が違っているために、原文で読んだ場合、つい笑みがこぼれてしまう箇所の原文になっています。
2014年08月06日
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「ブログは、大学の講義のようだ」というメールをいただくことがあります。実際、このホームページは海外の大学の講義のテキストとして使用されております。海外からのリンクは16ヶ国になります。オックスフォード大学のアーカイブは、ユネスコの「源氏物語」の英語版を入力している関係上よく意見の交換をしております。かつて、「帝の衣の色」についての講義があるので、関係する原文を公開してほしいという要望をいただきました。そこで公開していたのが、「2000円札の冷泉帝」です。2000円札の表に「紫式部」裏面に「源氏の君と冷泉院」の「親子対面の場面」が描かれています。冷泉院は、冷泉帝の譲位後の院号です。その冷泉帝は、「大原野」に行幸しております。「行幸(みゆき)」の巻の原文には、「そのしはす(12月)、大原野行幸にて」「雪ただいささかうち散りて」と記されています。(「行幸」は「御幸」とも書く」)冷泉帝は、桐壺帝の女御で先帝の四の宮・藤壺中宮を母として生まれました。本当の父は、源氏の君です。冷泉帝は、大原野行幸に源氏の君を誘いますが源氏の君は断ります。自分が本当の父であるということを言い出すことができない遠慮があったからです。冷泉帝のその美しさについて、「源氏物語」「行幸」の巻では次のように記しています。下の原文の写真9行4字目から10行末尾まで。「みかど(帝)のあか(赤)色の御ぞ(ころも)奉(たてまつ)りて、うるはしううごきな記(き)御かたはらめに、なずらひ聞(きこ)ゆべき人なし」 現代語訳は次の通りです。「冷泉帝は、赤色の衣(ころも)をお召しになり、端整で麗(うるわ)しいご様子で、凛々(りり)しいそのお姿は、世に並ぶ者がないほどです」 平安時代、晴れがましい儀式のおりの、天皇は赤色の衣(ころも)をお召しになられます。原文の7行3字目から10字目まで。「にし(西)のたい(対)のひめ君」と記されております。「西の対の姫君」とは、夕顔を母とする玉鬘(かずら)の姫君です。玉鬘の姫君の視線から冷泉帝のお姿が描かれております。オックスフォード大学の学生たちがこのホームページの原本を読んでおります。
2013年03月03日
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桐壺帝の中宮・藤壺は帝の子を産みその子は東宮(皇太子)になり、将来の地位が約束されています。しかし、実際は桐壺帝の子ではなく源氏の君の間の子でした。何事もなければ、源氏の君と藤壺中宮の2人だけの秘密として将来の帝の地位は保証されていました。藤壺は宮廷の中にいる間、先帝の皇子(みこ)・源氏の君と会わない訳にはいかず、2人だけの秘密がいつの日か露見することを恐れています。そこで、藤壺中宮は出家を決意します。その後、桐壺帝が亡くなってから1年が過ぎていました。そして、この日、桐壺帝をしのび藤壺中宮主催の「御八講」が開かれました。原文には、次のように記されています。下の写真1行6字目から2行11行目まで。 「中宮の御八かう(講)なり。いみじうたうた(尊)し」 原文の現代語解読文は次の通りです。「桐壺帝をしのび藤壺中宮主催の御八講が開かれる。とても華麗で荘厳なものである。」桐壺帝をしのぶ御八講の後、藤壺中宮は出家します。このことにより、源氏の君は藤壺中宮に言い寄ることができなくなります。こうして、2人の秘密は守られ2人のこどもは桐壺帝の子としてのちに帝の地位につきます。それが冷泉帝です。冷泉帝の肖像は、2000円札に描かれております。
2012年10月27日
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ユネスコで公開している慶安3年「源氏物語」の英文訳の入力をオックスフォード大学が行っている関係で、「源氏物語」についての照会がよくあります。つい最近、イギリス文学における夢と源氏物語の夢についての比較研究をする目的での照会がありました。「源氏物語」の中には夢の話がよく出てきます。内大臣(昔の[頭とうの]中将)の姫君・雲井雁(くもいのかり)と源氏の君の子である夕霧の幼い恋は、内大臣が養育先の母・大宮の元から自分の邸へと連れ帰ることで一旦は終息します。 源氏の君の子である夕霧との交際を、なぜ内大臣は認めなかったのでしょう。「源氏物語」「少女(おとめ)」の巻にその理由が記されています。下の原文の写真6行4字目から7行3字目まで。「わくらはに、人にもまさることもやとこそ思ひつれ」 原文の現代語解読文は次の通りです。「もしかして、この雲居雁(くもいのり)を帝の元に后(きさき)として入内(じゅだい)させることができたかもしれないと思っていたのに」 源氏の君の親友であった頭(とうの)中将は、内大臣に昇進後、自分の娘を帝の后(きさき)に、との夢を抱いていたのです。 以前、「夕霧と雲居雁の淡い恋」が、内大臣の父の意向によって裂かれた箇所の原文の画像を公開しました。 以前、海外在住の「areaさん」と「Administrationさん」から「源氏の君と葵の上の息子である夕霧との結婚は、娘をもつ親なら誰しもが望むはずなのに雲居雁の父はなぜそれを裂いたのでしょうか?」という趣旨のメールが寄せられました。理由は、原文の中に記されている通り、「娘を帝の后(きさき)」というもっと大きな夢と野望があったからです。 原文は、「もっと良い人に」とも訳せますが、古来、この箇所の原文には次のような読み方が定着しています。「もし、まれにも雲井の后(きさき)にもやと思ひ給(たま)ひし也」(湖月抄) (「湖月抄」は、江戸時代の「源氏物語」の注釈書です。)余談ですが、慶安3年「源氏物語」の絵が、1点7,000,000円でアメリカで落札されました。絵は、原本を元に描かれておりますが、その絵の元になるのが原文です。その原文も絵の価格上昇と共に上がっております。いずれ、海外での評価が日本にもやってくるような気がします。そういえば、棟方志功さんが日本では評価されず、イタリアの国際版画展で入賞してから日本で見直されました。地元の美術展で出品した際に落選してことは今ではあまりにも有名です。棟方さんの作品を審査して落選させた「審査員」よりも落選させられた棟方さんの作品の方が今でははるかに高く評価されております。ふと、そんなことを思い出しました。
2011年08月16日
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わが家には、「三国志」の原本があります。 海外展示のために貸し出しをしており、それが一部戻ってきました。 屏風に貼って読んでいたものです。端に「杉田玄白」の落款があります。 杉田玄白が読んで仙台藩の侍医であった大槻玄沢に譲ったものです。 所蔵経緯は、「源氏物語」と同じです。「劉備玄徳」の名前が出ています。 午後から海外の大学に展示のために貸し出す「源氏物語」の翻訳の作業をしております。今日、翻訳をしていた原文は「源氏物語」のなかの「篝火(かがりび)」の巻の箇所です。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。
2011年08月16日
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4年ぶりの「日記」更新となりました。海外の多くの大学でテキストとして活用されておりますため私のブログでありながら、教科書にも利用されているため、なかば公的なものになってしまいました。今後少しずつ更新をと思っております。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よく、海外では、額縁だけで展示されるのでしょうかという質問をいただきます。掛軸で展示される場合もあります。わが家の掛軸をご紹介いたします。徳川第11代将軍の姫君で、尾張名古屋の藩主の正室となった「淑姫」が書いた自筆の書です。正確には、古今集の講義録を「淑姫」が臨書したものです。下の写真が海外展示中の掛軸と原本の拡大写真です。「掛軸写真」「原本の拡大写真」(古筆原本の読み下し文)<読み人知らず>・・・よめりと見るべしちゞ(千々)の色にうつろふらめどしらなくに心し秋のもみぢ(紅葉)ならねば(国家大観番号726) 是(これ)は人の心はいろいろにうつりかはるらんなれど其(その)心は秋の紅葉の如く色に出て見えねばしられぬと云(いふ)也(なり)、小町が色見えでうつろふものはよの中の人の心の花にぞ有(あり)けると云(いふ)歌の類(たぐひ)也(なり) 小野小町蜑(あま・海人)のすむ里(さと)乃(の)しるべにあらなくにうらみんとのみ人のいふらむ(国家大観番号727)是(これ)は海士(あま)の住(すむ)里(さと)のしるべする物にこそいでその(其)浦見んとはいはめ、それにもあらぬ我をなどうらみんとは人の云(いふ)らんと也(なり)、浦見んと云(いふ)てうらみんをそへたり、此(この)歌は人の我をうらみんと云(いふ)事をいひおこせしか、又は人づてに聞(きき)てよめる成(なる)べし古筆の左上の脚注・六帖にわたづみはつらき心やふかゝらんあまてふ蜑(あま・海人)のうらみぬはなし右の2首の和歌のうち、「小野小町」の国家大観番号727番の和歌の原文の現代語訳文は次の通りです。「私は漁師の里の案内人ではありませんのよ。それなのに、どうして「浦見ん」とばかり言っているのでしょう」出典・日本古典文学全集「古今和歌集」心変わりのためにうらまれたのでしょうか。相手を拒否しておいて、私は「うらまれることは何ひとつしておりませんのに」と言って軽くあしらった歌と解釈されております。「下の写真は、拡大断層写真です」海外展示では、茶室がもうけられ、その脇に「茶道具」のひとつとして展示されました。
2010年10月26日
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このブログは、海外の多くの大学のテキストとして利用されているため更新が遅れてしまいました。世界中で利用されているのは感謝です。ところで、わが家に「紫式部日記」の古筆があります。室町時代に書かれた古筆です。そこには次のように記されております。(原文)・・・いかに見ぐるしかりけんと、のち(後)にぞおかしき。御いたゝき(頂)の、御くし(髮)おろし奉(たてまつ)り、御いむこと(戒言)、うけ(受)させ奉(たてまつ)り給(たま)ふほど(程)、くれまど(惑)ひたるこゝち(心地)に、こはいかなること(事)と、あさましうかな(悲)しきに、たいらかにせさせ給(たまひ)て、のち(後)のこと(事)またしき・・・・(原文の現代語訳文)《寛弘五年(1008)九月十二日明け方、藤原道長の邸に宿下がりをしていた一条天皇の中宮・彰子のお産が近づいた。安産祈願の散米(さんまい)が雪のように降りかかって着物がくしゃくしゃになり》・・・・どんなに見苦しかったろうと、あとになって考えるととてもおかしい。安産と魔除けのために中宮さまのお頭(つむ)の髪をほんの少しお剃(そ)ぎ申し上げる間、途方にくれた心地で、これはまたどうしたことかと、茫然と悲しいおりしも、やすらかにご出産あそばされて、後産・・・・・・《のこともまだすまない間、安産感謝の祈りがあたりに響いた。》「紫式部日記」古筆の重要な箇所です。一条天皇の中宮・彰子の出産の場面を実際に見聞していた紫式部の経験は、「源氏物語」を描く上で役にたったもの思います。「紫式部日記」の中で、安産の祈祷のために多くの僧がやってきます。12人もの僧が入れ替わり安産の祈りを夜通し続けます。そして、また出産祝いも華やかに行われます。そこで、「源氏物語」の中の「出産祝い」について紹介します。「葵(あおい)」の巻に、夕霧の「出産祝い」のことが記されています。「葵」の巻の原文(下の写真右から7行目ー10行目)には、「ゐん(院)をはじめ奉(たてまつ)りて、みこ(親王)たち、かんだちめ(上達部)のこるなきうぶやしなひ(産養)どものめづからにいかめ(厳)しきを夜ごとに見の志(し)る」と記されています。現代訳は次の通りです。「源氏の君と葵の上との間の御子(のちの右大将夕霧)のご出産を祝い、桐壺院(前・桐壺帝)を始めとして、親王方・上達部(かんだちめ)が残らずお越しになられ、多くの珍しくご立派な出産のお祝いを夜ごとに見て大騒ぎをしている」 原文の「夜ごとに」は、複数の夜を表しています。これは、生まれた子を祝い出産後三日、五日、七日、九日目の祝宴が開かれていたことによるものです。また、この原文の中には、一条御息所(みやすどころ)のねたみが記されています。10行目以下の原文には、次の通り記されています。「かの宮すどころ(御息所)は、かかる御ありさまをき(聞)き給(たま)ひても、ただならず」自分の愛する源氏の君の子を、他の女性が選んだことをねたましく思っている様子が短く描かれています。
2006年11月20日
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毎月23日は、「ふみの日」です。特に7月は、「文月(ふづき)といい、この月には、記念切手が発売されます。昨日(7月21日)「ふみの日」にちなむ「百人一首」の記念切手が発売されましたのでその切手をシートで買ってきました。50円切手と80円切手の2シートがあります。最近は、メールばかりでしたので、久々に手書きの手紙を書いて記念切手を貼り、投函をしたいと思います。手紙といえば、源氏の君は頻繁に手紙を書いていました。また、逆に多くの女性からも手紙をいただいています。 愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所(みやすどころ)から源氏の君へあて手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 下の原文の写真2行12字目から4行2字まで。 「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれておりますので、 ユネスコの画像を下にご紹介します。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。額縁は、以前、海外展示の際に使用された額縁です。貴重な慶安3年「源氏物語」の原本にふさわしいという額縁をということで、仲介した美術会社が提供した額縁です。日本では見ることができません。
2006年07月22日
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このところ、海外展示のための貸し出し作業が続いております。時差の関係で、深夜から早朝までの間、メール交換をしております。このところ、1ケ月ほど更新をしておりませんでした。理由は、海外の大学でテキストとして使用されているためアクセスの関係で、更新をしておりませんでした。イギリスの大学の知り合いからメッセージと共に朝顔の花を「花束」にした画像が届きました。わざわざ選んでくれたものです。そして、「千年の時を超えて」とのメッセージが添えられておりました。この花束の画像は、源氏物語」の中のある情景を想起させます。長い間、「源氏物語」に親しんでいる方なら、ピンときます。桐壺帝の弟・式部卿の姫君である朝顔の君に摘んだばかりの新鮮な花束に添えて手紙を書き送ります。「朝顔」の巻に描かれています。手紙には、次のように記されています。「み(見)しお里(り)のつゆわすられぬあさがほ(朝顔)のはな(花)のさかりは過(すぎ)や志(し)ぬらん」下の原文の写真右から8行目から9行目に記されています。現代訳にすると、「昔、見たあなた(朝顔の君)のその美しい姿を、私はいつまでも忘れることができません」 上の原文の写真、3行目下段から次のように書いてあります。「あさがほ(朝顔)のこれかれにはひまつはれて、あるかな記(き)にさ(咲)きて、匂(にほ)ひもことにかはれるを、を(折)らせ給(たまひ)て奉(たてまつ)れ給(たまふ)」現代訳に要約しますと、「色とりどりの朝顔の花の中から、一番良いのを選び、召使に折らせて朝顔の君の元に差し上げられた」という内容になります。朝顔の花と共に、源氏の君の思いがつづられた手紙が朝顔の君に届けられた場面の原文です。
2006年06月26日
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ひさびさに「篝火(かがりび)」をたきました。そして、「篝火(かげりび)」の煙にむせました。昔、かまどでご飯を炊いていたころ、「火吹き竹」と呼ばれる竹筒で空気を送ると「かまど」の灰と一緒に煙が顔にかかりむせんだことをふと思い出しました。「篝火(かがりび)」から立ち上る「煙」をしばしながめていました。「源氏物語」の中にも、このような光景を描いた箇所があります。よく知られている「源氏物語」のなかの「篝火(かがりび)」の巻の箇所です。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。
2006年05月27日
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近くのペットショップの前を通ると、アメリカショートヘアの可愛らしいネコがケージの中で眠っておりました。「源氏物語」の若菜・下の巻に女三の宮の愛するネコについての記載があります。ある日、庭を歩いていた柏木がふとしたことから美しい女三の宮を垣間見ます。それがきっかけで女三の宮を愛した柏木との間に出来た子が、薫の君です。女三の宮は朱雀帝の姫宮で、源氏の君の正室です。薫の君はいわゆる不倫の子です。柏木が初めて女三の宮を見初めるきっかけとなったのが、女三の宮のネコです。女三の宮の元からネコが走り出す。その時、ネコについていた紐が御簾(みす)にひっかかったために御簾が開かれ、ネコを追っていた女三の宮を垣間見た柏木の心臓が高鳴り、女三の宮を愛するきっかけとなったのです。源氏の君は、女三の宮からネコを借りて自分で大事にしております。しらばくしてから東宮(皇太子)の方からネコを返すようにいわれるのですが、柏木はこれを無視して返しません。今日は、その箇所の原文をご紹介いたします。 今日は、少し趣向をかえます。現代語訳文は、「与謝野晶子・訳」をそのままご紹介いたします。原本は、海外展示を終えた原本です。左下の落款は、「玄白」と記されております。「玄白」は杉田玄白のことです。この箇所の本文を杉田玄白が読んでいたことがわかります。原本の裏面には、2種類の糊の痕跡があり、以前「屏風」や「掛軸」として鑑賞の用に供されていたことがわかります。(1)「原文の読み下し文」・・・・とて鳴く音なるらむこれも昔の契りにや」と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。御達などは、「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」と、とがめけり。宮より召すにも参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君をば、なほ昔のままに、疎からず思ひきこえたまへり。心ばへのかどかどしく、気近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまやかに隔てたるけしきなくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎(しげいさ・明石の女御)などの、・・・・・ (2)原文の現代語訳文≪汝よ≫・・・何とて鳴く音なるらん」これも前生の約束なんだろうか。顔を見ながらこう言うと、いよいよ猫は愛らしく鳴くのを懐中に入れて衛門督(柏木)は物思いをしていた。女房などは、「おかしいことですね。にわかに猫を御寵愛されるではありませんか。ああしたものには無関心だった方がね」と不審がってささやくのであった。東宮(皇太子)からお取りもどしの仰せがあって、衛門督はお返しをしないのである。お預かりのものを取り込んで自身の友にしていた。左大将(髭黒)夫人の「玉鬘の尚侍(ないし)」は真実の兄弟に対するよりも右大将(夕霧)に多く兄弟の愛を持っていた。才気のあるはなやかな性質の人で、源大将の訪問を受ける時にも睦まじいふうに取り扱って、昔のとおりに親しく語ってくれるため、大将も淑景舎(明石の女御)の方が・・≪羞恥を少なくし打ち解けようとなさる≫(訳・与謝野晶子)
2006年05月25日
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海外に多くの文化財を貸し出ししております。主に大学等で展示されております。海外の美術商が仲介に入ることもあります。かなり長い間の関係であるため、マイクロフィルムの番号だけ指定されてその原本だけを直接お送りすることもあります。海外展示の作品は、展示の前に和紙の組成状況・年代測定など顕微鏡や断層写真などを科学的な技術を駆使して鑑定されます。鑑別・鑑定を経たのちに展示されます。以前、展示をされ日本に戻った後、再展示のために発送する場合もあります。マイクロフィルムの番号だけを指定してきて発送をするというのは以前、海外展示をしたために「再鑑定」を必要としないものです。ただ、ときおり、予想もなかったことに遭遇することもあります。「日本外史」の自筆を所蔵しており、全文が「漢文」であるため一見しただけで中身がわからないものがあります。というより、一瞥しただけで、つまり流し読みをしてその内容を理解しているつもりの場合もあります。5年ほど前から海外展示されている漢文の古筆があり、漢文の読み下し文を作成して、「これは織田信長と本願寺の僧の争いをした件について記している」と判断いたしました。「光佐」と「光寿」という僧の名前が見えました。信長と対峙していた、高僧とはわかっておりました。それが、最近になって、「光佐」と「光寿」は親子で、東本願寺と西本願寺がトップであることがわかりました。「石山戦争」のことを、最近、ある住職の方から教えられました。漢文を正確に訳し、解読文まで作っていたのに、その詳細な内容と時代背景について十分調べてはおりませんでした。さて、海外展示の要望が増えており、「蔵」の中でも生活が多くなっております。先日、久々に「扇の舞」を鑑賞しました。「扇の舞」といえば、毎年、1月初めの名古屋の熱田神宮や大阪の住吉大社で「踏歌(とうか)神事」という行事があります。 舞人や笛役など10人ほどの人が「扇の舞」の披露から「祝詞(のりと)の奏上を行います。この時に演奏される鼓(つつみ)の音色から、その年の豊作を占うものです。 この行事は、平安時代から行われ、「源氏物語」の「真木柱(まきばしら)」の巻にも記されています。下の原文の写真1行17字目から3行19字目まで。 「御前、中宮の御かた(方)、朱雀院とに参りて、夜いたう更(ふけ)にければ、六条院には、このたびは所(ところ)せしとはぶき給(たま)ふ」 原文の現代語解読文は次の通りです。「踏歌(とうか)の一行は、冷泉帝の御前、秋好中宮の御前、そして朱雀院(前・朱雀帝)の御所にそれぞれ参ったので、夜が更けてしまったこともあり、源氏の君の居る六条院に行くのを省くことにした」 写真の原文をより見やすいようにするために原文の箇所3行文をさらに拡大しました。それが、下の写真です。 「源氏物語」の中の「朱雀院(前・朱雀帝)」を記した原文を公開しました。今まで、原則として「源氏物語」以外のものは紹介しておりませんでしたが、たまに海外展示の古筆などについても画像入りでご紹介をしたいと思います。
2006年04月29日
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「源氏物語」の中の男の美しさといえば、源氏の君と薫の君。そして、冷泉帝があげられます。2000円札の肖像画として源氏の君と共に描かれているのが冷泉帝です。源氏の君と冷泉帝の「親子対面」の場面の絵として広く知られておりす。冷泉院は、在任中「冷泉帝」といいました。帝が都を離れることを巡幸といいます。日本の終戦後、昭和天皇が日本の各地を巡幸されたことはよく知られております。平安時代、「行幸」(または、御幸)と言いました。日本の歴史には、天皇の行幸が幅広く記録されております。京都の西郊外、右京区に大原野があります。この地は、昔から天皇の「行幸」の地として知られております。延長6年(928)12月5日、後醍醐天皇が「大原野」に行幸された記録が残っております。また「大鏡(おおかがみ)」には、「この日、雪があった」と記されています。「源氏物語」には、冷泉帝の「大原野行幸」につい記しております。「行幸(みゆき)」の巻の原文に、「そのしはす(12月)、大原野行幸にて」「雪ただいささかうち散りて」と記されています。このことから、紫式部は、後醍醐天皇の「大原野行幸」を知識として知っていた上で書いていることがわかります。(「行幸」は「御幸」とも書く」) 冷泉帝は、桐壺帝の女御で先帝の四の宮藤壺を母として生まれました。本当の父は、源氏の君です。冷泉帝は、大原野行幸に源氏の君を誘いますが源氏の君は断ります。自分が本当の父であるとは言い出しにくい遠慮があったからです。 冷泉帝のその表情や顔の美しさについて、「源氏物語」「行幸」の巻では次のように記しています。 下の原文の写真9行4字目から10行末尾まで。「みかど(帝)のあか(赤)色の御ぞ(ころも)奉(たてまつ)りて、うるはしううごきな記(き)御かたはらめに、なずらひ聞(きこ)ゆべき人なし」 現代語訳は次の通りです。「冷泉帝は、赤色の衣(ころも)をお召しになり、端整で麗(うるわ)しいご様子で、凛々(りり)しいそのお姿は、世に並ぶ者がないほどです」 平安時代、晴れがましい儀式のおりの、天皇は赤色の衣(ころも)をお召しになられます。 原文の7行3字目から10字目まで、「にし(西)のたい(対)のひめ君」と記されております。「西の対の姫君」とは、夕顔を母とする玉鬘(かずら)の姫君です。 玉鬘の姫君の視線から冷泉帝のお姿が描かれております。
2006年04月03日
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地下鉄のエスカレーターを上っているとき、ふと、かぐわしい香りが漂ってきました。香りの漂う方を振り向くと、下りのエスカレーターの女性だと気づきました。見えたのは後(うしろ)姿だけです。「源氏物語」には、「香り」や「匂い」のことがたくさんでてきます。源氏の君は、優雅な香りを漂(ただよ)わせていました。それは、遠く離れた所からも源氏の君とわかる香りでした。源氏の君の子息・薫の君も「薫中将」と呼ばれる通り、いつもほのかな香りを漂(ただよ)わせていました。 でも、二人の香りの中身は違います。 源氏の君の香りは、多くの唐櫃(からひつ)の中に収められている花や香木などの木々の香りが衣(ころも)に移った人工的なものでした。 今で言えば、香りの「移り香」のようなものです。 しかし、薫の君の「香り」は、身体(からだ)から発する「人香(ひとが)」と呼ばれる「芳香(ほうこう)」でした。 薫の君の身体から発する「芳香」は、「百歩離れた場所からもわかるようだ」と「匂宮(におうのみや)」の巻に記されています。 下の原文の写真1行15字目から2行9字目まで。 「まことに、百ぶ(歩)のほか(外)も、かほ(香)里(り)ぬべき心ちしける」 原文の現代語訳は次の通りです。「薫の君の人香(ひとが)の芳香(ほうこう)は、ほんとうに百歩離れた所まで香るように感じられる」 薫の君の身体から発する芳香(ほうこう)は、薫の君がどこにいてもわかるほどなので、あえて草花のような「香物」を使用してはいません。つまり、薫の君にとって、香水などは不要ということです。下の原文の写真4行6字目から6行末尾までにおいて、そのことが記されております。「ひと(人)にまさらんとつくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまでうち忍び立(たち)よ(寄)らんも、 物のくま(隈)も志(し)るき ほのめきかくれあるましきに」 原文の現代語訳は次の通りです。「薫の君は、人香(ひとが)の芳香を漂わせているので、 忍んで歩いてもどこにも隠れようがない。 そのことをわずらわしいと思っているから、 あえて香(こう)をたきしめることもない」備考:唐櫃(からひつ)は、衣(ころも)入れる大きな衣装箱のことです。
2006年03月12日
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わが家には、「三国志」の原本があります。 海外展示のために貸し出しをしており、それが一部戻ってきました。 屏風に貼って読んでいたものです。端に「杉田玄白」の落款があります。 杉田玄白が読んで仙台藩の侍医であった大槻玄沢に譲ったものです。 所蔵経緯は、「源氏物語」と同じです。「劉備玄徳」の名前が出ています。夕方、「三国志」の中の「かがり火」について話題になりました。「源氏物語」の中にも「かがり火」のことが出ています。 「源氏物語」のなかの「篝火(かがりび)」の巻の箇所です。 頭(とうの)中将と夕顔の姫君である玉鬘(たまかずら)は、源氏の君に庇護(ひご)され、源氏の君の邸である六条院に住むことになります。 花散里(はなちるさと)の居る御殿の西の対(たい)に住みます。 ある秋の日、庭先で篝火(かがりび)が焚(た)かれ煙が空に立ち上っています。篝火(かがりび)のもと、源氏の君は玉鬘(たまかずら)への恋する思いを歌に託して打ち明けます。「源氏物語」「篝火(かがりび)」の巻で、次のように記しています。下の原文の写真6行目から7行12字目まで。「かが里)火に たちそふ恋の けふり(煙)こそ 世にはた(絶)へせぬ ほのほ(炎)なりけれ」They burn, these flares and my heart,and send off smoke. The smoke from my heart refuses to be dispersed. (英訳・サイデンスティッカー) 現代語訳は次の通りです。(源氏の君)「篝火(かがりび)のように一心に立ち上るあなたへの恋の思いは、いつまでも絶えることのない炎と同じですよ」 源氏の君の恋の告白に対し、玉鬘(たまかずら)は自分の気持ちを歌で返します。原文の写真10行目から末尾行まで。「行(ゆく)方(へ)なき 空にけ(消)ちてよ かが里(篝)火の たよ里(り)にたぐふ けふり(煙)とならば」If from your heart and the flares the smoke is the same, Then one might expect it to find a place in the heavens. (英訳・サイデンスティッカー)現代語訳は次の通りです。(玉鬘)「あなたの恋の炎は、行方も知らない空へと立ち上る篝火(かがりび)の煙のようにやがては消えてしまうものなのでしょう」 玉鬘(たまかずら)は、源氏の君の恋の告白を体(てい)よくあしらったのです。 これを聞いた源氏の君は、「くはや」という言葉を残してその場を去ります。「これは、これは」という意味です。 源氏の君が、苦笑いしながら退散する様子を想像することができます。海外展示のための貸し出し作業に追われ、更新が遅れております。大変、申し訳ありません。当分、このような状況が続きそうです。にも、かかわらず、アクセスが多くあることは感謝の限りです。海外の大学のテキストに使用されているため、「源氏物語」の演習が始まると急激にカウントが増えます。重ねて、感謝の限りです。
2006年02月19日
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「源氏物語」 「若菜・下」の巻に、源氏の君の前で、 明石御方、紫の上、女御の君、女三の宮が合奏をする という場面が描かれております。それぞれが源氏の君に愛された女性たちです。四人の女性たちが集い源氏の君が秘蔵するそれぞれの名器の楽器を渡されて、四人の女性たちによる合奏が始まります。この合奏を「女楽」といいます。 今までとは、少し違った原文の紹介をします。 原文の全文の「読み下し文」をつけました。 最初に原文の写真(額入り)を紹介します。 原文の読み下し文を1文字ずつ正確に記します。・・・くけたかきことさへいとならびなし。 ひさし(廂)の中の御さうじ(障子)をはなちて、 こなたかなたみきちゃうばかりをけぢめにて、 中のま(間)は、院のおはしますべきおまし(座)よそひたり。けふ(今日)のひゃうし(拍子)あはせには、わらべをめさんとて、右おほい(大)殿の三らう(郎)、かん(尚侍)の君の御はらのあに(兄)君 さう(笙)の笛、左大将(夕霧)の御たらう(太郎)よこ(横)笛とふかせて、 すのこにさぶらはせ給(たまふ)。 うちには、御志とねならべて、御こと(琴)共参(まゐ)りわたす。 ひ(秘)し給(たまふ)御こと(琴)共、 うるはしきこんぢ(紺地)のふくろ(袋)どもにいれたるとりい(出)でて、 あかし(明石)の御かた(方)にびは(琵琶)、紫のうへ(上)にわごん(和琴)、 女御のきみ(君)にさう(筝)の御こと(琴)、みや(宮)には、かく・・・ 次に、原文の紙質を見るための拡大写真を公開します。 原文の右上を拡大したものです。紙の繊維を見ることができます。 今日の日記は、海外向けになっております。
2006年01月20日
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古来、男女の仲本人同士の愛よりも周囲の家同士のしがらみなどでなかなか思い通りには進みません。最近こういう話は耳にしませんが。でも、こういう話は「源氏物語」の中で頻繁に描かれております。特に望みもしない結婚を押し付けられたうえ、突然の破局にいたる場合もあります。美しい浮舟がそうです。浮舟は、結婚が決まっていましたが突然破談になります。相手の左近少将がもっと条件の良い娘との結婚を望んだからです。 その女性は、よりによって自分の義理の妹でした。 浮舟は、母の連れ子です。浮舟の母・中将の君が常陸介(ひたちのすけ)の後添いの後に生まれたのが浮舟の妹です。 浮舟は、常陸介(ひたちのすけ)の実子ではありません。 左近少将は、常陸介(ひたちのすけ)の実子である妹に乗り換えたのです。それが破談の原因でした。 浮舟の母・中将の君は、中の君に対し、浮舟を庇護(ひご)してくださるよう手紙を書きます。「東屋(あづまや)」の巻に記されています。 下の原文の写真最終行7字目から末尾まで。 「うちな(泣)きつつか(書)きたる文(ふみ)をあはれ・・・・」 「中将の君が泣きながら書いた手紙を、 中の君はかわいいそうにと・・・<ご覧になる>」浮舟の母・中将の君は、これ以上常陸介(ひたちのすけ)の邸に浮舟を置いておくことはできないと考え、親戚の中の君に庇護(ひご)を求めたのです。しかし、このことが今上帝と明石の君の皇子(みこ)匂宮と薫の君の2人の男性から愛されたために自らを追いつめる悲劇の中におちいってしまいます。あちらを選べば、こちらが悲しみ、こちらを選べばあちらが悲しむという状態です。
2005年12月09日
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このところ、海外展示のための貸出し作業に追われておりました。 今、机の上に「緒方洪庵」や「杉田玄白」の自筆の書や、かつて 読まれた「適々斎」(緒方洪庵の号)や「玄白」落款(印譜)のある「康煕字典」などの書をめくっております。かつて、洪庵や玄白が手にとり読んでいたことに思いをはせております。話は、「源氏物語」に戻ります。 一人の女性(葵の上)に落ち着いていられない性分の源氏の君について、葵の上は、「さだめなき御心」と半ばあきらめています。 そのうち、葵の上がご懐妊(かいにん)されます。 原文には、「心ぐるしきさま」と記しています。 妊娠の「つわり」により、苦しんでいる葵の上の様子を記しています。続いて原文は「心ほそげなり」と葵の上の不安な様子を記しています。これは、「心細い」という現代の意味とは少し違います。 平安時代には命を落とす危険をはらんでいた為、「死の恐怖」に対する不安の意味をも含んでいます。「葵」の巻に記してありますので下の写真で原文の箇所を示します。 「さだめな記(き)御心」・・・・原文の1行3字目から9字目まで「心ぐるしきさま」 ・・・・・・原文の 3行19字目から4行1字目まで「こころほそげにおほいたり」・・・原文の4行14字目から五字目まで 写真原文の内容(要旨)は次の通りです。「葵の上は、源氏の君の浮気心にあきれ、いくら言っても始まらないことなのでおとがめにはならない。 葵の上は、ご懐妊により身体の不調を訴えている。 源氏の君は、葵の上のご懐妊を喜ぶ一方で、万一のことを考え安産のご祈願をなさる」 源氏の君の浮気心に悩みながらも、妊娠の喜びと死の恐怖とに心が揺れ動く葵の上の心のうちをあらわしています。
2005年12月08日
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今年は、「古今和歌集奏覧1100年」「新古今和歌集奏覧800年」の記念の年にあたります。このため、海外から貸し出し申請が相次ぎ、ずうっと「蔵」の中にこもり、海外展示のための発送作業に追われておりました。ようやく落ち着き、ほっとしながら、高欄に寄り添いノートパソコンのメールを開いています。といっても、一日に200通ちかくも来るメールの全部を読みきれません。今読んでいるのは2週間ほど前のメールです。9割以上が海外からのメールです。このため、日記の更新も相当遅れておりました。以前は、毎日更新していたのですが。高欄に寄りかかりながら、ふと源氏の君のことを思い出しました。愛する葵の上が亡くなったあと、 源氏の君は葵の上をしのび供養の日々を送ります。 しばらくすると、若い紫の上が恋しくなり、 一人寝も寂しくなり、 眠れない夜も多くなります。 秋が深まったころの霧が立ち込めた朝、 源氏の君は、高欄(こうらん)に寄り添い 庭に咲く草花を眺めていました。 そこへ六条御息所から源氏の君へあて 手紙が届けられます。 この箇所は、「葵」の巻に記されています。 下の原文の写真2行12字目から4行2字まで。 「君は、にしのつまのかうらん(高欄)に をしかか里(り)て、 志も(霜)がれのせんざい み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳は次の通りです。「源氏の君は、西の高欄に寄りかかって霜に枯れた 庭の草花をご覧になっておられる」 源氏の君が高欄(こうらん)に寄り添って 庭の草花を眺める場面は、 絵巻にも描かれておりますので、 ユネスコの画像を下にご紹介します。 高欄に寄り添って庭の草花を眺めているのが源氏の君。 右側の童が六条御息所の手紙を持っております。 手紙は菊の花に結ばれております。 亡き葵の上をしのびつつ 若い紫の上に思いをはせ、 源氏の君を慕う六条御息所からは、 手紙が寄せられる。源氏の君のまわりには、 常に華やかな女性たちがいます。
2005年11月07日
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2000円札の裏側に描かれているのが、源氏の君と冷泉帝の親子の対面の場面です。2000円札の冷泉帝の肖像を見ながら、ふと冷泉帝と玉鬘(たまかずら)のことを考えました。内大臣(前・頭[とうの]中将)と夕顔の姫君・玉鬘(たまかずら)に対し、蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)は、愛する思いを告白します。しかし、玉鬘(たまかずら)は、あっさりと断ります。蛍の宮は、あきらめきれずに玉鬘(たまかずら)に恋文を出します。玉鬘(たまかずら)は、「しぶしぶにみ(見)給(たまふ)」とその心境を語ります。現代語訳にすると、「玉鬘(たまかずら)は、仕方なくその手紙をご覧になられた」となります。玉鬘(たまかずら)が、蛍の宮からの手紙を読んでいた時、冷泉帝が玉鬘(たまかずら)の部屋を訪れます。「源氏物語」「真木柱(まきばしら)」の巻に次のように記してあります。下の原文の写真7行13字目から8行末尾まで。 「いとおしうおもて(面)あか(赤)みて聞(きこ)えんかた(方)なく思(おも)ひゐ給(たま)へるに、うへ(上)わたらせ給(たまふ)」 原文の現代語訳文は次の通りです。「蛍兵部卿宮からの恋文に玉鬘(たまかずら)の姫君が困惑し、顔を赤らめているところへ、冷泉帝がお越しになられた」「うへ」とは「冷泉帝」のことです。 玉鬘(たまかずら)は、頭中将と夕顔の姫君です。頭中将の正室が夕顔をいじめた為に夕顔は玉鬘(たまかずら)と共に頭中将の前から消息を絶ちます。 源氏の君は、偶然、夕顔のことを知り、玉鬘(たまかずら)を養女として引き取ります。 そのことを内大臣に昇進していた父の頭中将は知りません。玉鬘(たまかずら)の姫君の美貌は、またたく間に世間に広がり、とうとう冷泉帝までもが、玉鬘(たまかずら)に恋心を抱く事態にまで発展してくるのです。
2005年10月05日
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わが家には、代々伝わる経典類がたくさんあります。今、机の上で読んでいるのが、天海という江戸時代の大僧正が持っていたものです。「天海蔵」という落款が入っております。天海は徳川家康の知遇を得て、家康の没後、日光・東照宮を建立したことで知られております。上野・寛永寺も開きました。そうしたこともあり、京都や奈良の寺に思いをはせております。京都市北区紫野に雲林院という寺がありました。元は淳和天皇の離宮で、後に仁明天皇の皇子常康親王が住まいとしていたものです。常康親王の出家後、寺にしたと言い伝えられております。藤壺中宮との間で心が揺らぐ源氏の君は、秋も深まるころ雲林院に参詣に訪れます。藤壺中宮との間で苦しむ愛の葛藤をいやすために秋の紅葉を見に参詣がてら訪れたのです。「賢木(さかき)」の巻に記されております。下の写真の原文1行6字目から3行7字目まで。 「紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなどみ(見)給(たまひ)て、ふるさと(古里)もわす(忘)れぬべくおぼ(思)さる」 原文の現代語訳解読文は次の通りです。「紅葉がとうとうあたり一面に色づきわたって、秋の野のまことにおごそかな景色をご覧になって源氏の君は、都のわが家のことも忘れてしまうご心境になられた」秋が深まるころの京都はとても美しい。特に清水寺から眺める紅葉の景色が好きです。手元の経典は、すべて漢文です。天海大僧正も手にして読んだ本を今、私が読んでおります。昔の古い経典を読みながら、「天海という人はどんな人だったのだろう」と考えております。
2005年08月30日
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源氏の君は、愛する藤壺中宮に手紙を出します。 しかし、藤壺中宮はいっさい返事を出しません。 おかげで、源氏の君は泣きながら寝て暮らしています。「との(殿・源氏の君)におはして、な(泣)きね(寝ふ(臥)し くら(暮)し給(たまひ)つ」(下の原文の写真1行目冒頭) 藤壺中宮が返事を出さなかったのは理由がありました。 源氏の君の子を妊娠していたのです。 下の原文の写真9行12字目から11行末尾まで。 「御心ち(地)れいのやうにもおはしまさぬは、 いかなるにかと、 人志(し)れずおぼ(思)すこともありければ、 心うく、いかならんとのみおぼ(思)しみだる」 原文の現代語訳は次の通りです。「藤壺中宮は、体調が思わしくないのは、 どうした訳なのだろうかと考えたとき、 心ひそかにおもいあたることがあったので、 これから先いったいどうなるのだろうかと不安にかられ、 心は思い乱れるばかりです」 藤壺中宮の体調の異変は、妊娠による「つわり」が原因です。 藤壺中宮は、源氏の君の子を宿したことを知り、急に不安にかられたのです。 藤壺は、桐壺帝の中宮です。 桐壺中宮の子は、桐壺帝の子ではありません。 源氏の君との不倫の子でした。 桐壺帝はこのことを知らず、藤壺中宮の子を愛し、東宮(とうぐう・皇太子)としました。 やがて、朱雀帝の譲位後、冷泉帝として即位します。
2005年08月07日
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しばらく更新をしておりませんでした。理由は二つあります。海外の大学で、前2日分の日記をテキストにして講義をされ試験として出題されていたからです。こういうことがときおりあります。学生が迷わずにアクセスできるように配慮しております。更新を続けて先に進んでいくと見落とす学生がいたりしてご迷惑をおかけするかな、というちょっとした配慮です。もう一つの理由は、海外からの貸し出し申請が多くその準備に追われていたということもあります。海外展示で最も多い原本の箇所は、ユネスコの絵の元になる箇所です。絵と原文とを照合することができるので、理解しやすいのでしょう。ユネスコの絵の元になる原文をご紹介いたします。紫の上が恋しくなった源氏の君は、一人寝が寂しくなり、ときおり朝早いうちに起きて庭を眺めています。秋も深まり、霧があたり一面にたちこめているある朝、まだ咲きかけた菊の枝に濃い青鈍い色の紙にしたためられた一通の手紙が届けられました。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)から源氏の君へあてた手紙でした。この箇所は、「葵(あおい)」の巻に記されております。下の原文の写真2行12字目から4行2字目まで。 「君(源氏の君)は、にし(西)のつま(妻)のかうらん(高欄)にをしかか里(り)て志も(霜が(枯)れのせんざい(前栽)み(見)給(たま)ふほどなりけり」 原文の現代語訳文は次の通りです。「源氏の君は、西の妻戸の高欄に寄りかかって、霜よって枯れた庭の草花をご覧になるところである」この場面は、絵に描かれておりますので、ユネスコの画像をご紹介します。 英文の日本語訳文は次の通りです。(内容の要旨)「源氏の君は、左大臣家で葵の上をしのび喪に服していました。葵の上を偲び熱心に供養のお勤めをしておりました。紫の上のことが恋しくなり、ひとり寝がさびしく眠れない夜もありました。秋が深まり、霧がたちこめているある朝、まだ咲いたばかりの菊の枝に結ばれた濃い青鈍色の紙に記した手紙が届けられた。六条御息所から源氏の君へのお見舞いの手紙でした。六条御息所の<もののけ>に対面していた源氏の君は、そらぞらしい手紙に思えるのでした」高欄に寄りかかる源氏の君に六条御息所からの手紙を届ける場面が描かれております。
2005年07月21日
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