2011年06月09日
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乙女鉱山の歴史は、明治政府の水晶山開発推奨政策で盛んに採掘されるようになり、当初は水晶鉱山、その後重石(タングステン)、ガラスに加工する珪石(石英)を産出する鉱山として明治・大正・昭和の約110年間にわたり採掘された。十菱駿武教授の研究によると、太平洋戦争に入ってから敗戦後にかけて日本国土・中国・朝鮮のタングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者になっていた時期もある。昭和34年の『鉱山名簿』には、倉沢鉱山、鉱種珪石、鉱業権者児玉誉士夫、鉱山労働者46人とある。その後乙女鉱山株式会社(塩山市千野)が経営にあたったが採掘量が減少し、最終期には鉱山長以下4・5人で操業、倒産により昭和56年に閉山された。





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最終更新日  2011年06月09日 10時14分03秒
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