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http://homepage3.nifty.com/ureru_rich/mag281.html 「競合店の目の前が最高立地」 というお話でしたが、これには2つの前提条件があります。 1.ライバル店と比べて、互角に戦う力があること。 2.ライバル店とは違ったコンセプトで、互いに補完関係にあること。 先日の日経MJ(8/6)に、 「ラオックス『ザ・コン』来月閉店」という記事がありました。 ヨドバシAkibaが出店して約2年。 ヨドバシAkibaのオープンは2005年9月。売場面積23800平米。開店1年後の売上は930億円。 それまでの「アキバの顔」は、ラオックス『ザ・コンピュータ館』。売場面積2725平米。 私も『ザ・コンピュータ館』で買い物をしたことがありますが、てっきり5000平米くらいあると思っていました。 実際よりも2倍くらい大きく感じたのは、そこが「アキバの顔」として燦然と輝いていたからでしょう。 売上は「ウィンドウズ95」が発売された96年3月期、320億円ありました。 ヨドバシAkibaがオープンし、2007年3月期には売上は46億円、来月には閉店。 ヨドバシAkibaの売上が930億円とすれば、1平米あたり売上は390万円。 現在の『ザ・コンピュータ館』の1平米あたり売上は169万円。 1平米あたり売上でも、『ザ・コンピュータ館』はヨドバシAkibaの半分以下になってしまいました。 編注 開店当時は かのソフトバンクの孫さんが 企画を立てて ラオックスに持ち込み 流通等でバックアップしたもので 私も個人的にも思い出深いところですhttp://kabumatome.doorblog.jp/archives/65585475.html「ジェイコム男」が今度は、アキバの170億円ビルを、ポンとキャッシュで買っていた。そのビルは秋葉原駅から、徒歩3分の中心街に位置し、約800平方メートルの土地に地上6階、地下2階。以前は家電量販店「LAOX」が構えていた。 この優良物件をジェイコム男が手に入れたのが2011年2月22日のこと。しかも不動産登記を見る限り、彼はこの170億円はすると見られるビルを、何と無借金で買っているのである。 退場したと言われていたBNFは今もなお荒稼ぎを続けていたのである。B・N・F氏とはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/B%E3%83%BBN%E3%83%BBF編注 170億というのは オーバーじゃないかという説もありますが634 名前:名無しさん@お金いっぱい。[] 投稿日:2011/07/06(水) 10:04:44.02 ID:qmwUjwRa0ラオックス、固定資産譲渡による特別利益の発生についてhttp://www.laox.co.jp/laox/press2007/070814.pdfザ・コンピュータ館 帳簿価格3,613百万円 譲渡価格6,021百万円652 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:06:23.55 ID:S5qHlWN00>>63460億かよ週刊新潮170億とか適当すぎるだろw660 名前:名無しさん@お金いっぱい。[] 投稿日:2011/07/06(水) 10:07:36.41 ID:FjcMsCs+0週刊誌の取材がいかに適当かわかる記事だな665 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:07:58.03 ID:4ymqqypp0>>652オーバーに適当に書くのが新潮679 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:09:36.45 ID:qmwUjwRa0>>6522007年08月に都内の不動産業者に売却した額が約60億円不動産業者が転売して暴利を得たんだろう681 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:09:55.65 ID:5NLrhirq0>>652ラオックスから直接購入したわけじゃないからラオックス資金繰り悪化で7割の持分売却→新興不動産→新興不動産→アイキャピタルエステートが残りの所有権と隣地を取得→BNFに170億で売却だと思う708 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:14:58.16 ID:fmpqE2uX0>>652いやこれは平成19年8月10日にこの会社の不動産の持ち分を売った時の価格だから。712 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:15:33.68 ID:5NLrhirq0レオパ、時価総額200億だから会社ごと買えちゃうね大家への家賃保証で毎年つんでもない出費になるけど718 名前:名無しさん@お金いっぱい。[sage] 投稿日:2011/07/06(水) 10:16:41.19 ID:3JdsybKL0BNFどんどん遠くへ逝ってしまうなもともと遠かったけど724 名前:名無しさん@お金いっぱい。[] 投稿日:2011/07/06(水) 10:18:12.95 ID:FjcMsCs+0ラオックスのPDF見たが60億ってのはラオックスの持分で全体の7割になってるな、まるごとだと100億だとしてそれでも170億は、本当なのか怪しいな編注 それにしてもザコン館って テナントとは ちがう形であったんですね 意外でした それにしてもヨドバシが強すぎるので 家電量販の総合店は ここに手をださなかったんですねhttp://www.erroneous-order.com/bnf/real-estate/index.html一方、地元不動産業者は「賃料は坪当たり 3 ? 5 万円。1 棟買いなら単純計算で毎月 5000 万円前後の家賃収入で、15 年前後で回収可能」と解説。 「そもそも、利息も担保もゼロの“ニコニコ現金決済”なら、多少の見込み違いも恐るるに足らず。不況時代の投資としては賢明ですが、一般投資家にはまったく参考にならない」と話している。税金や維持費を考慮していない荒い計算ですが、「利息も担保もゼロの“ニコニコ現金決済”なら、多少の見込み違いも恐るるに足らず」はその通りでしょう。 「週刊 SPA! スパ」2008 年 12 月 2 日号より。確かに秋葉原には女性をターゲットにした商業施設が増えている。 10 月、あのジェイコム男が、90 億円のキャッシュで購入したことで話題となった、ファッションビル『チョムチョム秋葉原』もそのひとつ。 4 月にオープンしたばかりのこのビルが、わずか半年で売却されたことは世間の耳目を集めた。 新興デベロッパーで副社長を務める O 氏はその舞台裏をこう分析する。 「売り主のアトリウムが飛びそうって話は噂になっていました。だから、投げ売りをしたのではないかと。90 億円という金額は妥当ではないですからね。想定している利回りは以前の賃料相場のもので、現在はもう下がっているでしょうから、成り立つわけがありません。そんなことから、ひょっとしたらアトリウムを飛ばさないために数字をいじったのかもしれません。ジェイコム男とアトリウムが結託して、買い戻し特約を結んでいるのではないかという話も仲間内では出ています。不動産市況が安定してきたら、アトリウムが買い取る気なんじゃないかと……」 だが、反対の意見もある。 不動産鑑定士である H 氏はこう語る。 「賃料は、月 5000 万円と予想。入札方式でやればおそらく 120 億円はする物件なんじゃないかと。いずれにしても今は現金を持った個人が一番強いですよ。不動産業者はどこもキャッシュ不足ですからね……」編注 この方所有の別のビルについては 上記のような意見もあります ザコン館の方は ぼられたという意見もありますが 個人には 金があっても こんな時期でないとまわってこない案件ですから テナントが埋まれば わるくないかとおもいますが 駅から遠いし アキバ系ショップって これだけの家賃はらえるほどそんなに儲かるものなんでしょうか
2011年11月26日
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http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2011/06/post_1175.html 答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたことをあなたにお話しているにすぎません。 問 どのような情報筋からですか。 答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。編注 本来ならば 佐野真一さんの 阿片王に収録されてしかるべきだが なぜか省かれた点です 児玉機関で 終戦までに貯えられた現金は 機密費のプールされたものではないかという推測でもあります
2011年11月16日
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大和公社と称する企業体は東京都渋谷区上通一丁目五番地 青山学院すぐ隣の鉄筋コンクリート二階建て八軒を拠点として終戦後まもなく 塾顧問三浦義一氏の手より 長谷川君たちも議にあずかって創設されたものである この建物は もと青山学院の所有であったが 戦時中強制疎開処分によって 東京都の管理下に入り 二十年五月二十五日の空襲により半焼けビルになっていたものを同年六月の候 時の内務大臣安倍源基氏の要請により国民義勇隊活動の拠点として三浦氏が西尾都長官から無条件借用をし 修理使用していたものであった占領下の民族派 影山正治著註青山学院 笹森順造という右翼っぽい学長さんがいた関係でしょうか長谷川君 長谷川幸勇 後の大東塾塾長国民義勇隊 大政翼賛会が解散後にできた組織大和公社という企業体が 終戦後設立され それにカモフラージュとして大東塾サイドが合流した形になっていたのですが 影山正治が二十一年五月に帰国後 彼が専務理事になって 大和公社が実質的に 大東塾になったようです義一先生がジローさんと 渋谷に事務所を持っていたのも このあたりの関わりでしょうかね
2011年10月27日
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大和公社と称する企業体は東京都渋谷区上通一丁目五番地 青山学院すぐ隣の鉄筋コンクリート二階建て八軒を拠点として終戦後まもなく 塾顧問三浦義一氏の手より 長谷川君たちも議にあずかって創設されたものである この建物は もと青山学院の所有であったが 戦時中強制疎開処分によって 東京都の管理下に入り 二十年五月二十五日の空襲により半焼けビルになっていたものを同年六月の候 時の内務大臣安倍源基氏の要請により国民義勇隊活動の拠点として三浦氏が西尾都長官から無条件借用をし 修理使用していたものであった占領下の民族派 影山正治著註青山学院 笹森順造という右翼っぽい学長さんがいた関係でしょうか長谷川君 長谷川幸勇 後の大東塾塾長国民義勇隊 大政翼賛会が解散後にできた組織大和公社という企業体が 終戦後設立され それにカモフラージュとして大東塾サイドが合流した形になっていたのですが 影山正治が二十一年五月に帰国後 彼が専務理事になって 大和公社が実質的に 大東塾になったようです義一先生がジローさんと 渋谷に事務所を持っていたのも このあたりの関わりでしょうかね
2011年10月27日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10065572&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 犯罪,刑務所および免囚保護(3-037)大阪毎日新聞 1921.2.19-1921.2.24(大正10)阿片の密売がナゼ多いか (上・下)淳朴な農民の中から近来続々として犯罪者が出て来るようになった阿片の主産地府下三島郡(上) 最近門司の税関其他で発見された大密輸出を始めとして近来阿片の密売買が盛に其筋で検挙される大阪府下就中三島郡は我国に於ける罌粟栽培阿片生産地として有名だが矢張土地柄だけに近来そうした阿片密売買の犯罪が著しく多くなった、何故阿片はソンナに厳しい法律の裏を潜ってまでも盛に密売買されるか、又果して之が取締の方法はないものであろうか 阿片は其含有して居るモルヒネが必要なのである、我国では医薬と長い習慣から之を吸飲しなければ生きて居れないという一部台湾人に対し総督府が特許している 其吸飲料(大正七年現在五万五千七百七十二人、所要阿片価格七百五十万二千二百四十五円)として一箇年約四万五千五百貫(大正八年内務省調査に依る)を要する 処が其中で日本内地で生産されるものといえば僅々五百貫に過ぎなくって四万五千貫(三千三百万円)即ち九割九分迄が印度土耳其等の海外から輸入されて居る、故に当局では之に対して内地の罌粟栽培(俗にいうケシ坊主から分泌する乳汁を採取してソレを乾かしたものが即ち阿片粉末である)を色々と奨励し其結果大正元年には全国で僅に二十二貫しか出来なかったものが大正八年には四百五十貫、昨九年には一千貫以上を生産するようになった、無論之を前記の我国の所要額に比すればお話にもならない少額ではあるが其の産額の殆ど九割(昨年政府への納付高八百四十四貫、台湾総督府への直接納付高を加え約九百貫以上)を出す主産地が大阪府の三島郡一円である事と随って其処に忌むべき密売買という犯罪が間断なしに行われ而して常習者は兎もあれソレが為めに拭うべからざる犯罪者の汚名を蒙る無辜の農民が続出するという事は決して軽視すべからざる一つの問題ではあるまいか、先ず阿片の密売買され易い種々の原因を探究して見ると大体左の四つに分ける事が出来る 一、収益の非常に多い事 二、採取高を胡麻化し易い事 三、取扱に便宜である事 四、常習者の誘惑 政府の最近の生産者に対する阿片賠償価格は百匁(モルヒネ含有量十三パーセントとして)三十円であるが之を密売すれば五十円六十円は普通で百円近くにも売れた時がある、単純に儲かるという上からいえば蓋し農家の一副業として此位にボロイものは恐らく他にあるまい、是第一の原因で第二は同じ政府の監督の下に栽培する煙草は作物が成熟すれば係官が来て一茎に葉が何枚、内枯葉が何枚というような事を検査するから採取に際して胡麻化す事が困難であるけれども罌粟の方はその採取に就いて非常に微妙な技術を要する、即ち子房(俗にいうケシ坊主)に剃刀や小刀で切傷をつけてソレから分泌す阿片となるべき乳汁を採るのだが其切り方の極く僅な上手と下手で採取量に非常の多寡が出来る一例がソレで其他播種の芽生の良否、地味施肥の関係、天候の影響等に依って必ずしも同じ一反歩だからといって一様の産額を見る訳には行かない、其処でよくない栽培者は出来が悪かったという様な理由で五百匁収穫したものを三百匁輸入して残額の二百匁を胡麻化す (下)第三には仮りに一反歩で五百匁採取したものを三百匁しか採れなかったといって残余の二百匁を隠匿していても煙草のような可成大嵩なものならば兎も角阿片の二百匁位は実に小さいもので何処へでも隠して置ける、だから怪しいと睨んで警官が其家宅捜査をするとしても先ず発見は不可能だといってよい、そしてソレを百匁六十円即ち百二十円に密売すれば政府へ渡した倍の収益があるのである、ボロイという事が単純な農民の頭から何物をも忘れさせる、其処へ第四の原因として数えた常習者、その方面では栽培者から百匁二百匁と少量宛を買集めるので俗によせ屋といっているが之がソッと出て来て何処でも買った其処でも買ったというような事をいって密売して了う、一度斯うして旨い味を占めると栽培者の農家の方でも其味が忘れられない、常習者又然りで次から次へと悪習は伝播して正直な栽培者は所謂馬鹿正直だといった風に見られ密売が寧ろ当然であるかの如くに行われて居る 三島郡の栽培は従来郡当局で監督して居たが何うも旨く行かないので昨年から之を警察の手に移し当時の小林茨木署長の(現府高等警察課長)は刷物まで配って極力農家の覚醒を図ったが殆んど何等の効果もなかったと今も小林氏は慨嘆して居る 一方昨年八月一日から阿片法が厳しくなって従来犯罪者は五百円以下の罰金であったものを千円とし新に二年以下の懲役に処すという体刑が加わったけれども犯罪者は依然として減じないのみか寧ろ増加している 試に昨年中府下で検挙された同郡の犯罪者を見ると 茨木本分署三十八名▲府下他署十六名▲合計五十四名 之を二人以上出した町村別にすると 十名安威村▲九名阿部野村▲八名玉櫛村▲六名茨木町▲五名福井村、三島村▲三名豊川村、石川村▲三名溝昨村、富田村 で安威村の如きは栽培者百六十四名中実に十名の犯罪者を出しているのである、犯罪の遣方は反別のゴマ化し即ち一反歩と届出をして置いて実は一反二畝歩耕作すると云った風なのと収量のゴマ化しが最も多い、最近は著しく犯罪者が殖えて本年に入ってから僅に一ヶ月半の間に既に茨木署では五十余名を検挙した、そして目下尚取調中のものが十数名あって其内には一村の名誉職など相当身分のあるものさえ加っている、何しろこの種の犯罪は関係者が悉く罰せられるのであるから売買の間にドンナ事があってもソレを明るみへ持出す訳に行かぬ、だからよせ屋にゴマ化されて持って行かれて了ったのを現品を一塊の土くれと掏替えられたのや代金現品の横領詐欺甚しいのは強盗などいったのが随分ある、現に昨年の如き或村の某が三千円ばかりの阿片を隠匿しているのを知った大阪辺の常習者は三人共謀して某を誘出し其留守宅へ行って女房に「今お前さんの亭主が茨木駅で待っているから阿片を駅まで持って来て呉れ」と女房を俥に乗せて出した途中で俥夫や女を撲り付けて阿片を強奪した事がある俥夫はソンナ事とは夢にも知らないから撲られた事を他人に話した、ソレが警察の耳に入って某夫婦から強奪者まで全部検挙されたというような事もある 兎も角罌粟の栽培阿片の生産ソレ自身は今日農家の裏作として麦を作るよりも凡ゆる点に於て遥に収益が多く一は年々多額の輸入を幾分なりとも防遏するためには一層其の栽培を奨励する事は必要であろうけれども此中から斯くの如く続々として淳朴なる農民の犯罪者を出すというのは誠に寒心すべき事である 笹川良一センセイの故郷は ここに出てくる 大阪府三島郡豊川村ですね 商品先物取引で巨万の富を作り 藤吉男などに担がれて 国粋大衆党総裁になったのですが さて統制経済が強まる中で そんなに先物で金がつくれたか また政治資金にまわすほど安定して稼げたか なぜ総帥になれたのか
2011年10月25日
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http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19450906.O2J.html七 在外日本国資産 日本国ノ現存在外資産及降伏条項ニ依リ日本国ヨリ分離セシメラレタル地域ニ在ル日本国ノ現存資産ハ全部又ハ一部皇室及政府ノ所有ニ属スル資産ヲ含ミ占領軍当局ニ明示セラレ且聨合国当局ノ決定ニ依ル処分ヲ待ツベシ編注 これが昭和20年9月に出されて 11月に 財閥 皇室の資産凍結に拡大されますhttp://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201107300000/午後来訪者 南多摩の伊東八十二 横倉源治 西多摩の原島謙益 松尾 ヘラルドトリビューンのケレーと白洲 安田桑次 郷 遠藤 河野 松尾諸君 夕食 吉田氏宅 帰宅後 辻 児玉両君 鳩山一郎日記 昭和20年9月28日より編注 鳩山一郎日記では曖昧なんですが どうかんがえても辻は辻嘉六 児玉は児玉誉士夫http://www.ndl.go.jp/modern/cha5/description04.html終戦に伴い、翼賛政治体制確立の過程で解散・統合した政党を再結成する動きが始まった。昭和20(1945)年11月9日に、戦前の政友会につながり、戦時中は院内に反東条系の同交会を形成していた鳩山一郎、安藤正純、芦田均らによって日本自由党が結成された。編注 プラチナを新米が出たばかりでカネがある米屋に売りまくり 換金してカネをつくった河野一郎が 辻嘉六の児玉資金の後押しで幹事長になり 芦田が押し出された と指摘する方もいますhttp://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html これはお前らの金で海軍の金ではない、お前たちにはまことに相済まぬと いうことで、海軍からまた金を十万円かお礼としてもらつた。そのときに 大体四千万円くらいの金が(児玉機関に)あつたと思います。(略) 武藤委員長 それはあなた方が自由処分した金ではないのですか 吉田証人 ある程度処分しましたときに兒玉が戰犯関係になつて、戰犯 関係の特定財産ということで自由にならないようになりました。編注 児玉機関の副機関長だった 吉田彦太郎の証言 十二月に児玉センセイが巣鴨送りになった段階の前後に 資産凍結の指示がでたことを伺わせる証言をしている今週号の週刊新潮で 徳本さんが 終戦時の皇室財産の処理について レポートを寄せているんですが 終戦時に 皇室がかかえていた現金が三千万円で 諸説ありますが 児玉機関がかかえていた現金が七千万円で それを地下に散らしてしまったわけです本来 A級戦犯というのは 戦争指導者ということで 直接の実行者とは重ならないんですよね 特務の人間というのは 追放にさえならなかった人間も多いのです児玉センセイの巣鴨送りは 地下に散らした資金の後処理が理由でしょう 残虐行為うんぬんはブラフです
2011年10月09日
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http://d.hatena.ne.jp/kurohige-ossadot/20110912/1315780155なれるSE ネットワーク構築の会社に入り込んだ主人公とコドモ上司の騒動記 著者の実体験をおりまぜつつというところ 個人的には 脇でみていたこともある世界なんで あれはこんなことをといったところがわかり 少し 懐かしい面もあったhttp://scientificclub-run.net/index.php?UID=1234066279ロウきゅーぶ アニメ化もされたモノ いわゆる萌えアキバ系なんですが これとアマゾンの書評をよんでいただくと ちょっと意外な姿が浮かび上がります 個人的には妹が この主人公たちとおなじくらいの年に ミニバスをやっていたのをちょっと懐かしく感じましたhttp://www.booklines.net/archives/409451290X.php羽月莉音の帝国 嵐のようなパワーで八巻目です従来のラノベにないものを 大量にぶちこんだ力作ライトノベルも朝日ソノラマ文庫と コバルト文庫の時代からの 学園と 剣と魔法から変化しつつあるようで 今後のトレンドは 多少 無理矢理でも萌えがあれば なんでもありという形になっていくんでしょうかね
2011年10月03日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/080/0350/08004080350006c.html大富政府委員 まずコンサルタント、主要なものでございますが、フジミ工研、トデック、東日本建設コンサルタント、太平エンジニアリング、ツカサコンサルタント、日本技研コンサルタント、オー工ーエソジニアリソグ、成和コンサルタント、鳳コンサルタント、エスケー技術コンサルタント、環境エンジニアリング、サンコーコンサルタント等でございます。 建設会社の関係でございますが、フジミ工研につきましては前田建設工業が約九九%出資でございます。それからトデックにつきましては日本国土開発が四五%、建設工学研究所の一〇%出資。それから東日本建設コンサルタントにつきましては清水建設が二〇%出資。太平エンジニアリングにつきましては奥村組が一〇〇%出資。ツカサコンサルタントにつきましては大林組の一〇〇%出資。日本技研コンサルタントにつきましては間組の六五%出資。オー工-エンジニアリングにつきましては西松建設が九五%出資。成和コンサルタントにつきましては大成建設が二〇%、成和機工が一五%出資。鳳コンサルタントにつきましては鴻池組が九三%出資。エスケー技術コンサルタントにつきましては佐藤工業一〇〇%出資。環境エンジニアリングにつきましては不動建設が七三%出資。サンコーコンサルタントにつきましては三井鉱山五一%、三井建設が二六%、三井不動産、三池製作所がそれぞれ八%の出資でございます。古川(雅)委員 日本道路公団の方から挙げていただきました二社のほかに、私の方では日本構造橋梁研究所と極東鋼弦コンクリート振興株式会社の関係、それから、もう一つは橋梁コンサルタント株式会社と桜田機械工業並びに駒井鉄工所、トピー工業との関係、この辺を私たちの方で調査をいたしておりますが、この辺の関係については御指摘がございませんでしたので、後ほど御調査をして御報告をいただければよろしいかと思います。 これらの建設会社並びに設計コンサルタント会社、全社とは言いませんけれども、この両者の間に非常に密接な関係がございまして、その所在地それから代表役員を共通している、そしてまた法人の出資率等、非常に注目すべき点がございます。非常に大急ぎで、列挙になりますけれども申し上げてまいりたいと思います。建設省がお挙げになりました会社名に基づいて、こちらで申し上げていきます。最初に所在地、次に五十一年末有価証券報告書に基づきます代表役員の共通している者、これは名前をすべて私の方で調査いたしておりますが、時間の関係で員数だけを申し上げます。そして次に、高級を含めた元公務員の天下りの数、そして最後に建設会社から設計コンサルタント会社への法人出資率というものを挙げてまいります。 まず最初に、フジミ工研につきましては、所在地が千代田区富士見二の十の三十二、これに関係している建設会社が前田建設工業で、所在地が千代田区富士見二の十の二十六、代表役員の共通している人数が四名、天下りが七名、法人出資率が九九・一%。株式会社トデックにつきましては港区赤坂四の七の十四、建設会社が日本国土開発、港区赤坂四の九の九、共通している役員が一名、天下り九名、出資率四十五%。太平エンジニアリングと奥村組、役員の共通している人たちが六名、天下りが八名、法人出資率については一〇〇%。ツカサコンサルタントについては大林組と関連があり、役員が二名、天下り九名、出資率一〇〇%。日本技研コンサルタントにつきましては間組との関連があり、役員が二名共通、天下りが三名、出資率六五%。オーエーエンジニアリング、これは所在地が港区芝西久保桜川町十三、関連建設会社が西松建設、全く同じ所在地であります。天下りが七名、出資率九五%。成和コンサルタント、関連が大成建設で役員の共通が二名。鳳コンサルタントにつきましては、本社は大阪市東区北久宝寺町四、関連の建設会社が鴻池組、所在地がコンサルタントのが中央区銀座六の十一の五、鴻池組の支店の方が全く同じ所在地であります。共通している役員が七名、天下り十四名、九三%の出資率。エスケー技術コンサルタントについては中央区日本橋本町四の八、関連の建設会社が佐藤工業で所在地は同じ、共通の役員は四名、天下り四名、法人出資率一〇〇%。次に、環境エンジニアリングにつきましては、所在地が台東区台東一の二の一、関連の建設会社が不動建設株式会社で、これは支店でございますが所在地は同じ場所、共通役員が三名、天下りが六名、出資率七二・八%。サンコーコンサルタント、これは関係ある建設会社が三井鉱山株式会社で、共通している役員が一名。日本道路公団からお挙げになった二社につきましては、八千代エンジニアリング、これは関係あるのは鹿島道路で、共通の役員が一名。三和建設コンサルタンツにつきましては、豊島区北大塚一の十六の六、関連の建設の会社が北海道ピーエスコンクリート株式会社で、所在地は全く同じ。 以上のような実態になっているわけでございますが、この実態は、官公需の受注に際しまして設計内容の情報をいつでも入手できる状況を物語っているものでありまして、また発注者に対しては先輩官僚としての人脈も持っておりますし、いろいろ便宜を図っているのが実情であるというのが、これはもう、ほぼ常識化しているわけでございます。これが大手建設会社の姿でありますし、結果的には完全に中小企業を追い出す一つの要素になっているのではないかと思うわけでございますが、この点いかがでございますか、建設大臣にお答えいただきたいと思います。太平洋クラブの各コースの設計者をしらべていますと 加藤俊輔さんという方が目に付きますが この方の経歴をみた形では このかたが独立前に手がけた仕事のようですが さて この方が 当時 どこの会社に所属していたのかが分かりません 六甲コースのクラブハウスを鴻池組系の会社が手がけているので そのへんのコンサルタント会社にいたものと思われますが太平洋クラブが どうやって どこから土地を買い 造成 施工 コースデザインにどこが絡んで 間がいくら抜かれたかが 興味深いところなんですが太平洋クラブとか クラウンガスと 平和相互銀行に縁のあるところからから金を集めて 西鉄ライオンズの後を支えた 中村長芳という方が 岸信介の秘書だったこと 岸信介といえば ここではでてきませんが 日本工営というコンサルタント会社との関係で有名で 平和相互銀行事件にもちらっと顔をみせます 太平洋クラブと国会議事録で引いてみますと いろいろな問題があったことがみえてきますが きもはこのへんかなと思います 悪い奴ほど よく眠るでしょうか
2011年09月25日
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仮面銀行を読む平和相互銀行事件の本を幾つか読んで 不思議でしょうがないのが この事件の本質は 数千億の情実融資が いかにして発生したのかが ポイントなのであって 金屏風事件などは 正直 その末端みたいなはずなんですが平和相互銀行の創業者の小宮山英蔵が 戦前は屑鉄屋だったという点についても かれの創業の時点においては たしかにバタ屋さんレベルだったんですが 戦争直前には かなり巨大な会社になっており また戦前のくず鉄を ほとんどの本が まちがってとらえています銀座の復興事業で三十間堀の埋め立てが 行われる時期に ちょうど 小宮山英蔵が 無尽を買収し それを相互銀行にかえたのが平和相互銀行のすべての発端なのですが これもどの本も掘り下げが十分闇の世界の紳士の貯金箱といわれる所以も 徳間書店と廣済堂のオーナーさんが出てこない本が多いです 稲川会の 石井会長と小宮山の間を取り持った人物も どの本をよんでも 特定できないまた 本によっては ネタ元のためか 監査役の井坂が正義派のような立場であったとみるものがありますが 石井会長と組んで 土地ころがしで 間を抜いて 競馬馬と女に費やしたというのを書いていません事件史の本を読んで 思うのですが ネタ元の見方でかかれている場合があるので これは要注意です また あんまり古いことは 関係者もわからなくなっているので めんどうくさくなって調べない場合もあるようです だから金屏風事件などが クローズアップされるわけです仮面銀行 本所次郎 光文社文庫 不満はありますが 平和相互銀行事件の全体像が見えてくる本です
2011年09月22日
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そこで川崎製鉄が川崎造船所から分離独立すると同時に 千葉に銑鋼一貫の製鉄所を建設するという計画をたて 1950年11月 通産省にその計画案を提出した そのための設備資金は163億円で その調達方法は見返り資金八十億円 社債31億円 銀行借入金十億円 増資25億円 自己資金17億円という内容だった 当時の川崎製鉄の資本金は五億円だったが その三十倍以上の資金を投下して製鉄所を作るというのであるからこれは暴挙という以外にはない編注 批判されるコトバであるが これでは一万田のペンペン草が生えるという発言はあたりまえのことで 日銀の反対はあたりまえのことではないか略西山弥太郎は 東大工学部冶金学科を卒業して川崎造船所にはいった技術者であり のちに取締役にまでなったが 技術者として活躍しただけだということでGHQの経済人追放にあわなかった そこで川崎造船所から川崎製鉄が分離した際に社長になった私は1950年代 新聞記者として川崎製鉄を何回も取材し 西山社長にも会ったことがある 当時の川崎製鉄の本社は神戸にあったが 隣の神戸製鋼の本社にくらべても いかにもみずぼらしい木造の建物であった 製鉄所にはカネをかけるが 本社の建物にはカネをかけないという いかにも技術者らしい西山社長の方針によるものだと聞かされた日銀総裁に反対されるような建設計画を進めているのだから 当然のことながら会社の資金計画 そして財務状況について西山社長に質問するのだが 経理のことは担当の役員に聞いてくれというだけである当時 われわれ新聞記者仲間では 西山さんは経理のことはさっぱりわからない だからこそこんな無謀な計画がたてられたのだというのが通説になっていた編注 金策には 誰かフィクサーがいたんでしょうね略この川鉄の計画では 日本銀行が第一銀行(川鉄のメインバンク)に資金を貸し それが川崎製鉄に貸すということになるのだから 日銀総裁がこれに対して警戒するのは当然のことであり ペンペン草発言もそこから出てきたものであった当然のことながら第一銀行も川崎製鉄の計画には慎重にならざるをえない そこで第一銀行の常務であった大森尚則を川崎製鉄の会長に送り込んだ一方 千葉建設計画の資金のうち半分は政府の見返り資金であるそこで政府にも川崎製鉄は働きかけねばならない そのため西山弥太郎は見返り資金を所管している通産省内部にいる一高人脈を利用して工作をした その通産省はもともと川崎製鉄の計画は過剰設備を生むものだとして反対していたが この川崎製鉄の工作によって折れる川崎製鉄はやがて通産省からも天下り役人を迎えるのだが 当時 新聞記者として私は川崎製鉄の政府に対する工作をみききしてきた この工作によってその後 川崎製鉄は世界銀行からの借款にも成功するのである会社はなぜ事件を繰り返すのか 奥村宏 NTT出版よりうまくいったからいいんですけどね 今 それができるのか 許されるのは別で この手法を評して 官に逆らったとするのは まことにおかしな話です 経営史も ハリセン叩いた講釈のような物語が跋扈するんですね
2011年08月30日
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謀略工作は そのための教育を受けた軍人 たとえば中野学校出身者などでなければつとまらない 民間人の それもかっては腕っぷしと度胸だけをよりどころにして右翼運動をやってきた人間に 謀略工作をまかせたなんて論外な話だ 特務機関という字ズラから謀略という言葉を連想し まわりが児玉機関もそんな工作をしたと推理を働かせたにすぎない見えない政府より物資の流通で得られる情報もあると思いますが児玉機関の日本人で 広東語が出来る人間がいたのか右翼辞典をみた範囲で 私塾のようなところで 中国語を勉強していたメンバーがいたようです 児玉センセイ自体は通訳をつかっていたり アルファベットが書けずに苦労したとかいわれていますが人を殺すことが出来るメンバーがいたのかhttp://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51340679.htmlhttp://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51340878.html許斐氏利が 柔道の使い手だったようですが それの背景についてまとめたものです 児玉機関にも 銃に頼らずとも 人を殺せるメンバーがいたはずでしょう国民党や共産党内部に入り込めたかhttp://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201102280001/このなかにでていますが右翼としては 児玉センセイの先輩格で 北原龍雄というかたがいまして このかたが 大陸で児玉機関以前から 特務活動を始めています中野学校出が 謀略工作を主導したという見方に異議はありませんが それだけではコストがかかりすぎます 謀略工作を ビルを建てる現場にたとえると 軍人や中野学校出が ゼネコンの管理担当 こんな人は全体の 全体の数パーセントもいません 下受けの資金融通にあたるのが 里見 坂田機関 とか 児玉機関をどのあたりに置けばいいのかは その工作しだいなんでしょうが大陸浪人特有の大言壮語で語られる場合もあるかと思うんですが大言壮語だけで 極められる世界ではないと思います
2011年08月30日
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M資金や千葉銀行ネタのほとんどは ベースになっているのが 雑誌 真相で これは三一書房から 出ている 復刻版で確認できるようです特に 千葉銀行ネタは 真相からのネタを使っていないのは なんだかさっぱりわかりませんあえて使っていないのか 知らないのかわかりませんが このへんは これをふまえて 読んでみるとおもしろいものがあるかもしれません松本清張の深層海流も 真相がベースになっているようですがいわゆる隠匿の貴金属については よくいわれる数十兆円単位という金額については 骨董無形な気がしますが 児玉センセイがらみのラジウムにしても 最終的に どう処分したかが いまだに不明な点があるということ自体 これらを処理した組織があったことは間違いないと思いますただイデオロギーやアメリカ軍に拘りすぎて 具体的な経済の動きのなかで怪しい資金がどう動いていたかの考察が いままでの研究では ものたりないようには感じます大変なんだろうとは思うんですが
2011年08月21日
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第一の 四谷資金の管理者 ブルノー ビッター神父というのも なかなか興味深い人物である 彼の自伝 マッカーサーの涙 昭和48年 朝日新聞社刊によると ビッターは第一大戦中にドイツ陸軍の中尉として活躍した後 僧職に転じ アメリカ経由で昭和九年に来日した東京の中心を占める上智大学の敷地はポリシャビキの東進を押さえる重要な戦力的拠点であるとの立場から 上智大およびイエズス会の財産管理 カトリック弾圧の回避のため活動した その間 近衛首相のブレーン集団 昭和研究会のとも接触を持ち 昭和12年には近衛の特使として日米開戦阻止のため渡米している終戦とともに ローマ法皇在日使節代行となったビッターはG2のウイロビーと親交を深め GHQの宗教政策についての顧問となった昭和23年ごろ そのブルノー ビッターをめぐって妙な噂がたちはじめた 当時の日本は厳しい 金融 経済 貿易の統制時代である ところが 彼の手を通じると あらゆる種類のパスがとれるというのである 禁制品の運輸 輸入のパス 丸公品のヤミ流しパス 密輸入品のパス 政府納入品の委託加工のパス等々 彼の名前は そのころの東京のヤミ屋のボスの間では帝王のように権威があったという高野孟 M資金よりヤミ屋からのあがりが キヤノン機関にまわっていたということで ライカビルにキヤノンの部屋があり そこにジローさんも来ていたのがこれが理由のようで 元ネタの真相の記事に縛られず 幅広く見ていくのが正しい
2011年08月21日
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まだ幼稚園の頃ですが 両親が まだ共稼ぎだったので 幼稚園が終わったあと 近所の 同い年ぐらいの女の子のいる うちにやっかいになっていたころがありましたおじちゃんとおばちゃんがいて たいへんお世話になったことをおぼえているんですが おじちゃんが夏に諸肌脱ぎになったりすると きれいな模様が見えたのを印象深くおぼえているんですがいま思うと あれが入れ墨だったんでしょう家の近くには 住吉さんの 座布団が上のほうの 建設会社もあるんですが 私の両親は 教師だったので そっち関係ではなく いわゆる昔の職人さんだったのでしょうかね炭坑夫や 沖仲仕などで 入れ墨を入れたりするのも 男意気をしめすというのもあるらしいのですか 裸をみせて 入れ墨を見せ合い 顔が分からない形で 死んだときでも 身元確認も 大丈夫なように だそうですこういう深い話も 時代劇でみたいもんですがおじちゃんもそんな時期があったんでしょうかそんなおじちゃんも ずいぶん前に亡くなりましたが 葬式の日に 偶然 有休だったので 葬儀場に駆けつけたら 久しぶりに会ったおばちゃんは しっかりと わたしを覚えていて 大泣きして 喜んでました ずいぶん小さくなったのか 私が大きくなったのか 地元の学校にいかなかったのが 疎遠になった理由ですが なんだか情けなく 申し訳なくなったのを 覚えていますおばちゃんの葬式のときですか 当然いきましたよ
2011年08月20日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0798/01903300798028c.html齋木委員 そういつた面において、三十社中二十何社は実は木材の木も知らないものが多い。それにもかかわらず、申請しただけでそういうものにこういうふうに割当てた。第一物産には、二十三万一千四十ドル、安宅産業には二十二万二千七百二十ドル、岩井産業には十九万八千ドル、東貿には十二万七千九十ドル、山長に十二万六千五百四十ドル、こういうぐあいにずつと割当てて、あやは商事に三千五百五十ドル割当ててある。これは明確に出ておる。三十あります各商社に対しては、通産省から指令が十八日以後に出ておるはずだ。こういつたような米材の輸入について、三千ドルや四千ドルを割当ててやつたところで、買いつけられるものじやない。失礼だけれども、商社でもないそういうものに一律に、しかも二十社をどう選定して受付けたのか知らないが、これを決定してやつたということは、奇怪しごくた。自分が買いつけられもしないでドルの割当だけをもらつて、このドルはどこに行くのかということをわれわれは考えればならない。みんなドルのやみ売買に行つてしまう。それらを考えていただきたい。こういう取扱いをやつて、三十社に決定した。それを林野庁長官は私の方ではやらないというが、私は林野庁長官がこの原案をこしらえて通産省の方にやつたというように聞いているのです。長官はやらないというから私はそれを信じますが、そうすれは通産当局がどこかの課においてやつておるはずである。 それから米材の問題については、深川であるとか横浜であるとかには二十万石も、日に割れてぱりぱりになつている米材が売れ残つているわけなんだ。これらをも考えてこういうことをやつたかどうか。私どもはふしぎにたえない。それも専門家にやらせるならいざ知らず、何も知らないものにこういうことをやらせ、割当てる。これはちようどやみドルの助長をやつているように私どもは考えるが、これを明確にしていただくことを強く要求するものであります。○岩武政府委員 どうも突然のお尋ねなので、明確に御答弁できる資料を持ち合せていないのをはなはだ残念に思いますか、ただこういうふうに輸入の問題を御了解を願いたいと思います。かりに商社に割当をいたしますときに、どの商社に対してどういうものを輸入をする、金額幾ら、いつまでの期限に信用状を開く、あるいは支払い期はいつまでということで割当をいたしておりますので、御心配のございましたように――その許可証を使いまして銀行に行きまして、信用状を開いて買いつけるわけでございますので、その金が御指摘のありましたような用途に流用されることは、ちよつとないのではないだろうかと存じます。つまり向うから言えば輸入商、こちらから言えば輸出商でありますが、向うのシッパーと契約の上で、その契約に基きましてこちらから信用状を開きます。それにはちやんと木材のどういう規格のもの、数量幾ら、期限いつというふうな信用状を開くわけでございますので、それに基きまして向うから手形を組み、品物を積み出すわけでございます。その信用状で開きました金額のドルがほかの用途に向けられるということは、これはあまりないのではないかと存じております。木材の輸入の外貨割当がおかしいという指摘に対して そんなことはないという答弁 ただ銀行がグルで外資が事実上の治外法権だった講和条約前はどうなるか
2011年08月10日
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29年1月に 千葉県の参議院補欠選挙があって 改進党系から 加納久朗が 吉田自由党から伊能繁次郎が立候補した ところがだ 関西 九州の遊説から羽田に帰り着いたとき 開口一番 吉田はなんといったと思う 加納君は残念だったねといっているんだよ そして 加納を破って当選した自党の伊能繁次郎のことは おくびにもだしていない これには新聞記者たちも不審に思ったらしいつまりこうなんだ 河野一郎の語るところによれば 吉田側近の最近の主なものは 彼らが極秘裏に操作している闇ドルの利益から出ているというのだ その中心になって動いているのが岡田外相の長男太郎 吉田の女婿麻生多賀吉や白洲次郎らしい 闇ドル操作であげた利益が円貨で約三十億円というから大変な額だ その一部の一億五千万円が 加納久朗の応援資金として贈られたというんだ 加納久朗は麻生の叔父だし 吉田とはロンドン時代に 吉田は大使 加納は正金支店長だった 吉田の娘の和子と 麻生の間をとりもったのも 白洲と加納だそうだ だから 千葉の補欠選挙に 加納久朗が改進党系として立候補した自体 吉田一派の陰謀でああったともいえる 麻生から加納へという名目で 改進党買収費を贈る手段だとみることもできるわけだ 河野一郎がアドバルーンをあげるだけの演出効果はあったのだ小説 日本列島 吉原公一郎よりバンク オブ アメリカからドルを調達する担保には 金やダイヤを当てる利息分は随時 担保を売却して当てる この方法をとれば 貴金属の相場に影響を与えにくくできる利益額の根拠が不明ですが 闇ドルというものが 額からすると当時はかなりおおきなものだったようです元ネタは 真相からであろうとおもいますが ほんとかどうかはべつにして 風聞はあったかと思います
2011年08月04日
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午後来訪者 南多摩の伊東八十二 横倉源治 西多摩の原島謙益 松尾 ヘラルドトリビューンのケレーと白洲 安田桑次 郷 遠藤 河野 松尾諸君 夕食 吉田氏宅 帰宅後 辻 児玉両君鳩山一郎日記 昭和20年9月28日よりここに出てくる辻というのは 巻末の辻は人名牽引では辻嘉六なんですが児玉は単に児玉なんですね で 児玉 萩原というコンビも登場しますが これも萩原吉太郎で児玉です 彦ちゃんらしき人も吉田ですこれがあるから わりとオフィシャルな鳩山本にこの時期の児玉センセイが登場しない理由の一つのようですが おかしなはなしではあります児玉センセイが内閣参与で入っていた東久邇宮内閣が十月で崩壊してしまい 治安体制が変わってしまうのを ある程度 見越していれば 9月末までには ダイヤを誰かに売りつけて 貸しを作りたいというところなんでしょうかこの日の会談でその方針がきまったんでしょうかこれ以降から 自由党の第一回の党大会までに換金したとみるが可なんでしょうか またおもしろいのが この当時の一郎センセイには 笹川センセイもいろいろ接触してきているようなんですが 結局 辻嘉六が間にはいって 資金がやりとりされているということで 児玉機関は 実は笹川機関という説は 実はトンデモということがわかりますただ 児玉センセイの自称親分の笹川先生が 鳩山先生の周囲
2011年07月30日
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五郎は第二の説が正しいと思った なぜならGHQの権力は非常に強いため 日本の世論などに動かされるようなことはありえなかったからであるではなぜそのようにアメリカの世論が悪化したのかといえば アメリカ国民が天皇や側近者に抱いていた悪感情をさらに強めるような新しい事件が最近発起して 彼らを激昴させたと見るべきだと五郎には思えた 十一月一日にマッカーサーが近衛を憲法改正問題から排除する声明書で すでに東久慈宮内閣が総辞職し 近衛が副総理を辞めたから自動的に両者の関係が終わったといっているが マッカーサーが内務大臣以下特高警察官の一斉罷免で東久慈内閣を総辞職に追いやったのは 十月四日であった マッカーサーは一斉罷免の要求を突きつけることで内閣が総辞職 ひいては近衛が副総理を降りることも知っていたはずであるそれになのにその十月四日に近衛に憲法改正の仕事を命じていたのであるもしマッカーサーがすでに近衛が下野する事を知っていたなら 十月四日に 憲法改正の仕事など命じるはずはないである 近衛が下野したからというならば 下野してから一ヶ月も過ぎた十一月一日になってから仕事を中止させるのも不思議である 五郎にはどうしてもその問題の理由が分からなかった
2011年07月26日
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ところが十一月一日になると GHQは近衛に対して憲法改正の仕事から手を引かせるような絶縁状を突きつけたのである その絶縁状の内容は次のようなものであった 従来マッカーサーが近衛に対して憲法改正の仕事を命じていたのは 近衛が東久慈宮内閣の副総理についていた関係によるものであったが その内閣が退陣してすでに近衛も野にくだった今日 憲法改正問題でマッカーサーと近衛との間で保持していた関係も また消滅したと解すべきである したがってGHQとしては 目下近衛が憲法改正を進めている問題とは全く無関係であることを明らかにしておくGHQはそのような声明書を発表すると同時に 近衛個人にも今後憲法改正に関する連絡の一切を断つという通達を送ってきたではなぜ十一月一日になってマッカーサーが突然 このような措置を取るに至ったか これには世間に二つの説が流れていた一つの説は主に日本の各新聞社による見解であるが それによると日本国内で近衛を非難する声がはなはだしくなったので マッカーサーがそのような措置を取ったというものであった いうなればGHQが日本の国内世論に動かされた結果であるというのであったもう一つの説は日本の外務省筋の見解というべきもので 最近のアメリカ本国における天皇とその側近者に対する世論が すこぶる悪化したことにマッカーサーが動かされた結果であるというものであった憲法が問題ではなく アメリカとうまく関係を結んで 再び 政権をとりたいという複線があるようで ここに注意
2011年07月25日
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例えば 近衛さんは終戦の直後自分は戦争を 心から欲していなかった しかし そうならざるをえなかったのは はげしい軍部の圧力と 右翼の側面からの攻撃によって これを避けることができなかったによるとこうのべていたようだが それならそれで何故 右翼一方の指導者と目されていた 井上日召氏とか天野辰夫氏に自ら私ショクし 心酔してその意見に耳をかたむけ かつこれらの提言を採り入れ 側近のブレーンとして処遇されたのか あるいはまた日独伊の三国間に軍事同盟を結ぶにあたり 世論をもり上げてこの目的を強力におしすすめる意図から 巨額の工作資金まで放出 右翼を最大限に利用したのはどういうわけだったか悪政 銃声 乱世 児玉誉士夫著より近衛を暗殺しようとした 児玉センセイがいうかという気がしますが血盟団と神兵隊の首領を 用心棒として手元に置いていれば 特高や憲兵の監視を受けるのは 当然の話で この人のことを語る場合に だれを手元においているか振れる本が少ないので 話がおかしくなりますまた 手元に置いておくだけでなく 政策決定のさいに この連中に押し切られるケースが多々 あったらしいのですが近衛が その点を自分の責任として捉えていないようで 戦後もなんとか逃げきれるとふんでいたように思えます
2011年07月25日
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そう言われると五郎としては一言も返す言葉もなかった 当時の五郎には 占領軍の中に近衛の情報を聞き出せる者 というより占領軍の中に一人の知人もいなかったのである それで黙っていると白洲は一層居丈高になって 彼自身が占領軍の大幹部に知り合いが非常に多いことを述べるだけでなく また自分が向こうの大幹部たちと時々食事を共にしながら アメリカの占領政策についていろいろな意見を具申していることを誇らしげに語るのであった今も述べたように この僕はほとんど毎日のように進駐軍に出入りして占領軍の誰かと会っているんだが 占領軍の方では公爵が戦犯に指名されるようなことはありえないと言っている そういう状況であるばかりか マッカーサーのごときはむしろ公爵を頼りにしているような有様だそう言って白洲は さらにこれより先に彼が凱旋して近衛をマッカーサーに面会させたことや その時マッカーサーが近衛に対して 日本の軍隊の武装解除は 自分ら連合国の手でそれをおこなったが 日本人全体の精神的武装解除は 公爵のような人の手によって行ってもらいたいというような好意ある言葉すら漏らしていたなどと語るのであったマッカーサーは近衛に対して 今も僕が言ったようなことを述べているぐらいだから 僕は公爵も安心して なるべく早く新党を樹立する方が良いと勧めているわけだが それなのに君がやれ公爵が戦犯に指名されるのではないか やれ公爵が新党樹立を計画するのは時期尚早ではないかなんて言うのはおかしいとおもうがねそれでどうなったか
2011年07月24日
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白洲がそういう性格であるのを知って五郎は この人物とはあまり議論をしない方が良いだろうと思っていたのに ふとしたことから図らずも白洲と口論する羽目になってしまったことの起こりは新党樹立の問題が話題になっていたときに 白洲が例の大声で近衛に対してしきりに新党の樹立は早い方が良いと勧めたことにあった しかしその近衛の勧め方があまりに押し付けがましく思えたので 五郎はつい何気なく口を出してしまったどうだろうね 今頃から公爵にそんな新党樹立の問題を勧めるのは 何となく時期尚早のようにおもえるんだが酒もはいったせいか いわずもがなのことをいってしまい しまったと思ったが遅かった その途端白洲は五郎の方へ険しい表情を向けて 大きな声で乱暴な調子で食ってかかってきた君はいったい何の根拠があって そんなふうに公爵の新党樹立が時期尚早などというのかね白洲の激しい剣幕に一瞬たじろいだが 問われた質問には答えねばならない僕は 占領軍が公爵をどのように扱うかという問題で 前々から心配しているんだ そうした心配があるのに それをはっきりと確かめもしないで いま急いで公爵に新党を樹立しろなどと勧めるのは 些か時期尚早のように思えるのだが どうだろうこの言葉は白洲の反発心を一層掻き立てたようで 五郎が言い終わる否や また噛みつくような調子で五郎に詰め寄った君が今言った言葉から察すると 君が公爵が戦犯にでも指名されるように思っているようだが いったい君はそんな話をどこの誰からきいてきたんだね よもやそんな話を進駐軍から聞いてきたんじゃあるまいね 進駐軍の方では公爵をそんな戦犯に指名するようなことは 全然考えていないようにきいているんだがねあとから考えると 大笑いな話ではあります
2011年07月23日
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五郎が近衛の動静を確かめてから暫くすると ある夜 例によって長尾の邸で近衛と夕食を共にすることになったが その夜の宴席はどうしたわけかいつもとは違って 長尾の邸でも一番大きな 畳数にすれば 二 三十畳もあるような座敷で開かれていた そこに案内されてみるとすでに正面に近衛が端然と座っており そして向かって右側に富田健治を始めとする いわゆる近衛の家の子郎党たちが三 四人ずらりと顔を並べていた 五郎が指定された席に就くと早速 近衛はその左側に座っていた一人の人物を左手で指し示しながら紹介したこれは白洲次郎君という人ですそう紹介した後にこの白洲君は英語がすばらしくできる人で その英語のうまさということでは 恐らく日本一でしょう五郎は近衛の紹介で初めて白洲次郎という人物を知ったそれから一同なごやかに会食をはじめたが 近衛やその取り巻きたちは酒を飲み交わしながら いつしか新党樹立の話をはじめたので 五郎も近衛の新党樹立の計画が間違いないことを知ったのである一座の者たちがその話題についてかたりあっているうちに どういうきっかけからか 富田健治と白洲の二人が議論を戦わす事態になった 五郎は二人のやり取りを聞いていたが その際白洲の態度で特に気がついたのは 白洲がかなり乱暴な言葉を使って怒鳴るような大声でものをいうことと もう一つ白洲は他人の言葉には全然耳を貸そうとはせず ただ自分の考えだけをどこまでも押し通そうとする強引なところののある男だということであったジローさんらしいですね
2011年07月23日
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唐沢からGHQの動きに関する話を耳にした頃 五郎は近衛の動きについても俄に不審に思える噂を聞くことになった それは近衛とその取り巻きの者たちが 近衛を中心に新政党樹立の計画を進めているというものであった 五郎はこの頃になると 以前ほど頻繁に近衛から呼び出されることがなくなっていたので 近衛の最近の動きは知らなかったそれにしても五郎がこの話を聞いて不審に思ったのは 近衛自身が戦争犯罪人に指名される恐れがあるというのに 本人が一向に無頓着で新党樹立計画などをすすめているということは理解できなかった それで早速情報網を使って近衛の行動をさぐらせてみると その噂は本当で そもそもの動機は当時占領軍に頻繁に出入りしていた白洲次郎とかいう人物の進言によるものだということが分かった海鳴り 内務官僚村田五郎と昭和の群像 下 著者:村田光義著 出版社名:芦書房より 小説仕立てなんですが 村田五郎の回想談をベースに仕立てたようです 憲法を作るだけでなく 新党を作る動きもあったようなんです
2011年07月22日
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当時のわれわれの主な任務は占領地外に存在している物資はどこに何があるか といった日常必需品の需給の動向とか 児玉機関に必要な情報の一切を調べるそれらの情報に基づいて 輸送機関やあらゆる把握している権利を利用して 交換物資の砂糖 塩にしろ こちらが物価の高低を自由にして その利潤の鞘で こちらが欲する膨大な物資を手に入れることができたわけです見えない政府 岩田幸雄の証言よりわかりにくいのですが 私なりに読んでみると こんなかたちです当時の中国大陸は ギャロッピングインフレが進行中で現金の価値が落ちていた そのために 日本軍の物資調達は 現金での仕入れではなく 金を含めた現物をつかった調達がメインになってきた児玉機関もカネをもらい 仕入れをする組織ではなく塩 砂糖 綿糸綿布 米 麻薬などを公定価格で 調達して これには軍の後援だけでなく かなりの地位の文官まで抱き込むことが必要になり そこから 商品の独占または 優先的に 流通する権利をゲットし 販売後はこれをカネにせず それに対応する物資を先方から入手する こんなビジネスを大陸でしていたんでしょう揉めて略奪ということはあったんでしょうが この方法だと 貧乏人相手に略奪をやるような集団ではないはずですが また おおきな組織の背景がないとできにくいですが 現地マフィアの協力と ある程度 商品知識と商品相場のわかる人間がいないと 大陸浪人だけでは 機関が運営できないはずです
2011年07月12日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10064838&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 犯罪,刑務所および免囚保護(5-128)大阪朝日新聞 1933.12.10(昭和8)密輸宝石の故買を自白す服部時計店の主任シリア人ヌーレー・タクラ(四十一年)を主犯とする国際的宝石密輸事件は服部時計店の登場により俄然一大進展を見せるにいたり、八日夜警視庁に留置された同店宝石係主任杉浦孝一について九日早朝地方検事局枇杷田、窪谷両検事、横浜税関より高山税関審査主任、高峰、市村両監視らが警視庁に出張、上京した大阪税関の瀬戸監視とともに八日押収帳簿と対照してタクラとの取引関係につき峻厳な取調を行った結果 両者の取引はタクラが去る八月数万円の宝石を密輸して来朝した直後杉浦は神戸市のタクラ・ホープ商会にいたり八千円余のダイヤを購入し、更にその後タクラの上京に際し帝国ホテルでルビー約四千円を買取り、しかも密輸入品である情を知ってこれを買取ったことを自白した、これによって同時計店の代表者は税関法により一応召喚は免れぬ形勢になって来た、一方タクラの自供によれば服部時計店との取引は昭和四年タクラおよびシャール・ホープ(帰仏中)らが来朝した当時以来一年に数万円ずつ行われていたとの事実も判明するにいたり 事件はさらに進展するものと見ている(東京) 東京府会の涜職にも関係 重要書類発見服部時計店東京本店の家宅捜索の結果意外にも目下東京地方検事局の手で取調を進められている東京府会方面の涜職事件に関係ある重要な証拠物件を発見し、当局はその方面からの追及を準備している模様で例の帝都教育疑獄と府会との関係も噂されている折柄、検挙の手はここにこれら三者を一体として大々的に拡げられるものとその成行きは頗る重要視されるにいたった(東京) データ作成:2009.11 神戸大学附属図書館 注 賄賂用に密輸のダイヤが使われたという話 服部時計がその仲介をやっていたという話http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10065620&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 犯罪,刑務所および免囚保護(6-054)報知新聞 1935.5.11(昭和10)椅子売買の被告三十六名に求刑肥後元視学に懲役六月教育疑獄の公判十一日午前十時から開廷された帝都教育疑獄求刑公判の法廷には広田元視学課長、肥後元学務課長以下三十六名の被告はほとんど背広姿で粛然と着席、塚崎、石渡氏等五十余名の弁護人と被告の関係者らしい二百余名の傍聴人で満員となる、八木検事は同十分から犯罪総論に入った、八木検事は先ず総論において事件の検挙経過を述べるとて帝都初等教育界の腐敗の積弊をあげ、検察当局の発動するに至った経緯を詳述する、次で犯罪事実に入り被告三十六名個々の贈収賄関係を微細にわたり説明するが、予審と公判における被告等の陳述の相違を指摘し心証物証から『否認の否認』に努める、その中でも『先生方お二人様』と書かれた待合茶屋の帳付等は公然と饗応が行われた事実を物語り、例の『盆暮贈答』の内容検討で被告の肺腑をつき、胆を冷させ正午一旦休憩、午後一時続開、八木検事再び起って各被告の犯情論を続け、公判廷においては各被告とも予審供述の一部乃至全部をひるがえしているが、いずれも否認のための否認であると鋭く論及、情状論に入り同三時四十分左の如く求刑した 注 密輸事件当時の文部大臣は鳩山一郎センセイです この構造が戦後に そのまま生き残っているようでhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00076542&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA中外商業新報 1934.10.12(昭和9)金密輸出五千貫更に増大の懸念ロンドン金塊相場の昂騰で内外の差額益々拡大ロンドン金塊相場は既報の如く金死蔵を主因として漸騰し九日は七ポンド二シル九ペンスと新高値となった、ユーゴー・スラヴィア国王暗殺事件はロンドン金塊相場が午前十一時に公定される関係からこの九日の相場には影響していないが、かかる事件は金の死蔵に拍車をかけることは当然で、九日のロンドン市場においても相場公定後に七ポンド三シルの買人が出たといわれているこうした事情から金相場は反落しても暴落は望めず、金高の傾向の持続性については相当根拠があるものといわねばならない、故に我が日銀買入値の引上げが問題となって来るが、これに関する大蔵省日銀当局の態度は再三報道の通りまだ引上げを考慮していないと称しているが、引上論の有力な根拠として挙げられている密輸出の懸念が世界市価との差額拡大によって増大してくるのは注目すべきで、いま某所の推定するところの昭和七年度、八年度の密輸出は次の如く巨額に達し、両年度分を合すれば一匁五円としても二千四百八十八万五千円の巨額に達する 昭和七年 一、四九四貫 同八年 三、四八二貫 九日のロンドン金塊相場を対英為替一シル二ペンスを以て換算すると一匁十四円七十五銭で日銀買上値との開きは一匁につき三円六十九銭となる、故に以上の密輸出額は益々増大する危険があり、この点から当局の何等かの対策が要望されている注 密輸も国際相場の状況に応じて 日本から大陸 大陸から日本にとかわるようです新聞記事文庫 金・銀(12-157)大阪時事新報 1934.11.15(昭和9)金塊二十万円海外に持出す密輸魔密輸ダイヤと引換えに貴金属商から買集む天賞堂に飛火、若主人留置大連星ヶ浦に堂々たる店舗を張っている貴金属商三清洋行から莫大なダイヤが大阪方面に密輸され、大阪一流の貴金属商天賞堂ほか数店から金塊と交換、金の相場の高い支那市場に密輸出して莫大な鞘を取っていた国際経済の生んだ豪商連の犯罪が神戸水上署、神戸税関の協力活動によって白日の下にさらけ出され、内地における金の裏相場の根拠を一挙にして潰滅させた事件は益々拡大する模様で当局は尚も必死の捜査陣を進めている 政府の金の買上げ値段が十一円台であるに拘らず内地の金の相場が十二円十三円時には十三円六十銭にまでも上っている事実の陰には余程の金を密輸して莫大な鞘を取っているものがあるとの見込みをつけた神戸水上署では出入船舶に監視の眼を見開いていたところ去る九月十七日商船扶桑丸の元三等給仕尼崎市昭和通り八丁目三一七肥田常五郎(三九)及び同神戸林田区三船通り一丁目三二中川彦四郎(三七)の両名の行動に不審の点があったので引致取調べたところ 大連星ヶ浦貴金属店代表社員近藤三弥(四四)を中心に同店の専務で元内閣書記官長某氏の甥河田清二(三六)同店員重田俊策(三八)同柳ヶ瀬文二(三一)が支那方面の金の高値に着眼しダイヤと交換に内地の金を集めて一儲けしようと柳ヶ瀬が封筒の中に多数のダイヤを入れて前記扶桑丸のボーイに手紙の如く装わせて密輸し大阪の貴金属商南区塩町三丁目二一天賞堂若主人新本秀雄(二一)ほか 南区高津四丁目桐谷与三郎(三二)南区安堂寺橋通三丁目橋本虎吉(四三)布施町菱屋大上定吉(四五)及び名古屋市中区流川町二二水渓直吉(五〇)神戸市神戸区中山手通一丁目一六三田中正喜神戸市湊東区上橘通三丁目二五七内田吉太郎の 貴金属商から金を買集めダイヤと交換柳ヶ瀬は用心深く直接買集めには走らず神戸市須磨区菊池二丁目一六油紙商大村一郎(三一)をして直接大連の近藤に送らせ最近一箇年間に十五六貫二十万円の金を外国市場に売捌いていたと云う虞るべき事実が判明本月初旬神戸水上署林刑事部長神戸税関竹沢監視等と共に大連に向い大連警察署の応援により首魁近藤、河田、重田を一網打尽に引捕えて大連に異常なセンセーションを捲き起した一味の逮捕で金相場暴落 罰金もタクラの三倍に上ろう稀代のその罪状近藤等のダイヤ密輸は昭和六年ごろからでその罰金だけでも数百万円に上りヌレタクラの三倍に上るという、目下巨魁は神戸水上署に留置取調中であるが天賞堂主人新本氏も近く召喚される見込みで事件は頗る波及性を持ち続々豪商、紳商更に社会的身分高い方面に検挙の手が伸びる模様である、この密輸団検挙の手が延びたと云う丈けで金の売相場が当時一挙八十銭も暴落したと云うことである注 金塊が外に出されて ダイヤが入ってくるということですが ここには 天賞堂とありますが 金の密輸は服部時計もやっていたんでしょう新聞記事文庫 犯罪,刑務所および免囚保護(6-006)時事新報 1934.4.27(昭和9)ダイヤ魔を虜にした我が捜査や優秀密輸団タクラ等有罪と決定為替管理法初の違反昨年暮れから本年一月にかけて全国貴金属商を戦慄させた仏国人神戸市六甲八幡字森後合平地一の四在住ヌーレ・タクラ(四三)大阪市南区鰻谷仲之町三二角谷栄蔵(三七)本郷区坂下町一、三輪豊照(四一)の三名に係る国際的密輸入団の予審は東京地方裁判所吉田予審判事係で審理中の処二十五日予審終結、タクラと三輪の両名は関税法違反角谷は関税法違反並外国為替管理法違反、涜職(贈賄)罪で何れも有罪と決定公判に附されたが、為替管理法違反は金輸出禁止から昨年七月為替管理法敷かれて以来、之が最初である、本件検挙に際しては東京、大阪、神戸の三検事局が管下の捜査官を総動員して犯罪の摘発に努力しただけに検挙困難と目されている国際的なダイヤ密輸入団の片鱗を完全に捕捉し得たことは日本の捜査の優秀性を世界に認識せしめるものと言われ、其内容は探偵小説を地で行くより遥に大きなスケールを有ったものである、決定書に依れば、タクラは仏領シリア生れで仏国人チャールスシャルホープと共同して世界を股にかけてダイヤの密輸入を商売にしていたが 1…両名は共謀して昭和六年十月から七年二月上旬迄にシャルホープが仏国巴里で仕入れたダイヤ七分石十三個九カラット五九、価額四十九万八千五百余円を日本に密輸入するため外国船の乗組員十数名に多額の分前を与えて神戸に携行させ巧みに税関の眼を晦まして密輸入した 2…昭和八年七月頃両名は白耳義アントワープ等で仕入れたダイヤモンド二十数万円を上海に携行して同地で角谷三輪両名に大部分を売却し残りの五万八千余円のダイヤはシャルホープ夫妻が着衣の秘密ポケット特殊の手袋等の中に隠匿して神戸に携行上陸し、前後二回に亘る五十五万余円のダイヤは全国の貴金属商の手に密売されたものである、角谷は上海で買入れたダイヤ二分の一石十一個五カラット十価額二十二万余円を内地に密輸したが此ダイヤ買入れの代金に充てる為、角谷は昭和七年一月から八年十一月迄八回に亘って二十円金貨六百五十枚、十円金貨八十二枚、金塊三十貫匁約四十万円を長崎丸浅間丸上海丸で法網を潜って持出した、然るに七年四月角谷は一万数千円のダイヤを密輸入せんとしたのが発覚し神戸税関で罰金三万円に処せられたが、罰金納付の猶予を請託するために神戸税関観察係長高橋縫三郎に現金二百円を贈賄した 3…三輪豊照は昨年五月以来十数回に亘り大阪市西区四ッ橋広田旅館で逋脱ダイヤなることを知悉しながら二十万八千余円を故買したと云うのである 此一味が如何に大仕掛けの密輸入をしていたかが簡単な決定書の裏に躍動していて一味の公判は国際的な興味を呼ふであろうと見られている 注 ダイヤの出所が 上海にあることに留意http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51321994.html上記のことを考えると これはどういうことかというと金は 国際通貨になり 下手に 大陸に渡ると 蒋介石政府の資金にも回るので 金の流通に統制をかけたということですが ダイヤの重要性がいわれるほど 高くなかったということなんでしょうか東京の貴金属の流通の監視人に 三浦義一がいて 上海に児玉機関が置かれたのですが これはどういうことなんでしょうか今までの流れから考えると 児玉ダイヤとは 全部とはいいませんが この密輸ダイヤが上海に滞留したもので もともと出所が不明なんで 結果として 曖昧に処理されたようにも思えます
2011年07月10日
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http://ameblo.jp/pursang-blog-page/archive1-201009.htmlダイヤモンドと金のどちらが資産価値があるのか? みなさんからの質問が多かった資産運用について、細かい事までは説明できないが、できる限り教えます。ダイヤモンドって、両親が経営してた会社で取り扱いした経験があり、ダイヤモンドについての知識は多少ございます。 ダイヤモンドは大変難しいです。ダイヤモンドを扱う宝石屋さんが偉そうに小生にダイヤモンドのことを話すことがあるが、小生は長年ダイヤモンドに関するビジネスを両親が経営してた会社で手伝ってきただけに知識があり、ええ加減にせいと心の中で思う時がたくさんありますし、腹が立つ時がありますよ。こっちはダイヤモンドのプロだぞと言いたいが、もうね。ばかばかしくて相手にしたくないですね。今は資金力がないので、両親の引退で終わっております。 もちろん、偽物が出回っており、昨今のリーマンショックによるダイヤモンド購入が大幅に減ったようです。 しかし、欧州の大金持ちの購買力は相変わらず健在のようです。以前、プルサンがダイヤモンドに関する記事を何回も載せている。 アフリカで獲れたダイヤモンドは欧米などダイヤモンド市場を通じて世界に販売されております。 小生は「血に染められたダイヤモンド」だと何回もカキコしたはずです。 アフリカで戦争の中でダイヤモンドを発見して、欧米の市場で売られ、そこから世界へ販売していく。 欧米の宝石屋や宝飾店などまばゆい展示でダイヤモンドがあまりにも美しい。※言葉の意味 ま‐ばゆ・い【目映ゆい/眩い】=[形][文]まばゆ・し[ク]1 光が明るすぎて、まともに見られない。まぶしい。 「―・い朝の光」2 まともに見られないほどきらびやかで美しい。「―・いばかりの宮殿」3 恥ずかしい。てれくさい。 言葉の意味の説明終わり。ダイヤモンド市場はNY、アンドワープ(ベルギー)、イスラエル、ロンドン、アムステルダムの5大市場です。 一般の人はは見学できません。 5大市場の共通点はユダヤ系の拠点です。 ダイヤモンドのオークションはほとんどロンドンが多いでしょう。 ダイヤモンドと金は、資産価値があるのはどっちだろうか? ダイヤモンドと金は、どちらも甲乙つけがたい高価な貴金属であるが、実際のところ資産価値で考えるとどちらのほうが価値があるのだろうか?ダイヤモンドの場合には、売値と買値はだいぶ変わってきますよ。 何百万円ものダイヤモンドの指輪をプレゼントされて、質屋に持っていったら、半額以下に叩かれたという話はいくらでもある。 小生の両親が経営してた会社でも質流れの物もたくさん扱っておりました。 偽物が出てきた時は、激怒した事もありますよ。 というのも日本にはダイヤモンドの換金市場もなく、価格には流通コストを上乗せしているのが一般的である。 だから、本来の価格よりも買う時の方が高価な値段がついてしまうのだ。 世界でも希少価値のあるダイヤモンドとなれば話は別だが、一般庶民の手に入る程度のものには期待しない方がいいです。 サラリーマンの3カ月分の給料で買うようなダイヤモンドも期待しない方がいいですね。その本物であれば、おなごや嫁や奥さんや恋人の心を満足させるだけで十分であろう。 逆に金(Gold=ゴールド)の場合には、市場の動きによって価値が日々変化する。 いってみれば株と同じで、相場によって大儲けが可能なのである。 金はもともと通貨として用いられていたため、換金性がよく、世界市場で公正な価格が形成されるのが特徴である。 また、金はいつの時代においても、世界に通用する安定した価値を持つ唯一の実物資産といわれています。 資産価値からいえば、金のほうに軍配があがることは間違いない。 ただし、株と同じように大損の可能性もあるので要注意!騙されて、本物の金を買ったとしても大損した人をたくさん見てきています。 ご注意ください。小生は金(Gold=ゴールド)が大好きで、金を買いたいが重くて保管場所がないのであきらめております。 その代わり、金のネックレスやプレスレットや指輪なら大好きだw 中国人が好んで着けるのは、中国人の慣習からくるおまじないによるものらしい。 特に香港にみられる金持ちの中国人が大量の金を使って風呂を作ったり、ロールスロイスのエンブレムにわざわざ作り替えたりしています。 多分、中国人は風水が好きだろうね。ただ、中国人はダイヤモンドをつけるのはあまり聞かない。 ダイヤモンドはユダヤ系が好んでつけるそうです。 中国人とユダヤ人の違いですね。注 中国人を華僑と読み替えた場合にも 果たして児玉機関があつめられるほど 東アジアで ダイヤモンドがあったのか またダイヤモンドをもっていたのは誰かhttp://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb100.html1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。(※ ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中には、金のない貧乏なアシュケナジー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという)。 ※ 上海のユダヤ人社会に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入 したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。上海へは世界で唯一「入国ビザ」の必要がなかったので、その後、欧州からユダヤ人が続々と流れ込んだ。1939年夏までに、約2万人の ユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。注 ロシア革命からナチスのホロコーストの間にユダヤ人の上海流入が進行して それに連動して 東アジアにダイヤモンドの流通市場が誕生したんだろうと思います
2011年07月10日
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はたして王はそもそもの法幣をどのように手に入れたのか 将校用に下付 支給された大前門やスリーキャッスル ルビークイーンといった煙草をすべて 自分が吸わないで貯えておいて 毎日毎日 買いにくる人たちに売ったらまあ どんどんお金がたまちゃったの それで 中国政府が発行して流通していた中国の法幣を所持していたけど この際 日本の紙幣と交換しておけば三十年くらい経つと骨董品としての価値が出るのではないかと考えて交換したの略1946年6月19日 王は中華民国政府の占領軍の一員として博多に上陸したというその任務に就いた頃 日本国政府は当時 日本人が持ち帰った日本円はただちに銀行に預金させて封鎖し 少しの払い戻ししか認めず 英 米 中 ソなんかの連合国軍人 軍属とその家族に対しては その所持する全額を日本国政府発行の新紙幣である新円と同額ですべて取り替えたの闇市の帝王 王長徳と封印された戦後 七尾和晃 草思社児玉機関は東光公司を基地にして物資の調達に失そうした が それも戦況が有利に動いた昭和十八年前半の頃までである そしてその後は かなりあくどい手口で財産つくりをしたという 当時 上海にあった軍の国策会社 大陸新報の関係者の話からもそれはうかがえる戦争中の中国では 流通通貨は三種類あった 南京政府発行の儲備券 日本軍発行の軍票 そして蒋介石政府の法幣 ところが儲備券は王政府が見境なしに乱発しすぎて 紙屑同然の価値になった 児玉は この紙屑をどこからか集めてきては 三井銀行の上海支店に預けた いくら紙屑といっても 日本円とのあいだには為替レートが一応確立されている そこで三井はこのカネを児玉の東京事務所に送金した 中国人の中には 紙屑ですから どうぞお持ち帰りくださいという者も出てくる 濡れ手にアワのこの商法で 彼の財産は雪だるま式に増えていったわけだ竹森久朝 見えざる政府
2011年07月09日
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http://www.kkc.or.jp/plaza/magazine/201005_14.html?cid=1 パブリックリレーションズの盛り上がりに照応するように、PRが新しい仕事として出発していく。1948年福田渉外事務所(後にジャパンPR)、1949年ジョージア・デイ・アンド・アソシエーツ、1952(昭和27)年ファルコン・アドバタイジング・アンド・ピーアール、1956(昭和31)年日本国際PR研究所などである。 福田渉外事務所の福田太郎は、満州電電、GHQを経由して独立、その後ロッキード事件への関与で有名になった人物である。 ジョージア・デイ・アンド・アソシエーツのデイ婦人について1949年日経が「珍しい職業」として紹介、「官廳(かんちょう)、会社の情報提供、日本の実情紹介に米婦人が開業」と報じた。 ファルコン・アドバタイジング・アンド・ピーアールの社長は、GHQの情報将校(少佐)を退役したローズ・C・フォルケンシュタイン。スカンジナビア航空のPRで兼高かおるを起用、その後「兼高かおる世界の旅」がテレビで人気を博すことになる。 この時期のPR会社のトップはGHQ、外務省、満州に関係のある人物ばかりである。企業や団体の広報活動というのが 諜報の世界と親和性があるといういいサンプル 児玉誉士夫と福田太郎という言い方でなく 福田太郎と児玉誉士夫という見方が正しいのかもしれません
2011年07月08日
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密貿易やくざの組織化
2011年07月06日
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島田氏の話すところをよく聞くと ある若い右翼の男が東京からやってきたのはいいが 思想的な宣伝をするわけではなく 上海駐留の海軍上層部にとりいって さかんに利権漁りをやっているというのである右翼人といっても私が現実につき合い 人物に彫れていた鈴木氏みたいな人ばかりではないらしいのだ 島田氏は憤慨に耐えないような表情で その右翼人がすでに揚子江上流地域の米を一手に扱う利権を手に入れ 着々と莫大な利益を得ていることを私の耳元でささやいたのである妖怪の系譜 小林春男 人間の科学社
2011年06月30日
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http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200912260001/当時 日本軍は戦線拡大によって補給路が伸びきっていた 補給困難の欠陥を補うために 日本軍は占領地での物資の現地調達を方針として 侵略戦争の継続を辛うじて支えていた たとえば上海では 金売買の取締り 食糧の配給 石油 石炭などの統制 綿布の強制買い上げなどといった戦時統制策がとられていた しかし太平洋戦争の勃発によって 日本の資源欠乏にはいっそう拍車がかかり ほとんどパニック状態に陥っていた 当時の日本軍にとって 中国奥地に算する亜鉛 錫 アンチモニー 木材などの豊富な資源が垂涎の的であったことはもちろんである 一方 重慶側では 奥地の綿花生産高が低いため 軍隊内でも 一般の市民生活でも綿布や衣類の不足が大きな悩みで 諸物価中 綿布の値上がりが最もはなはだしいものになっていた 海外からの 場合によっては 日本軍占領地区からでもよかったが ともかく綿布や医薬品 金属製品などの入手が当面の急務であった しかも それにはいくらでも巨利がみこまれた 上海の顔役たちより 徳間書店物価の高い方へ 高い方へと物資は流動して行くものである 物価は日本がもっとも安く 満州 華北 華中という順に高くなって 重慶は最も物価が高いといわれていた 援將ルートは誰が作ったものでもない 強いていえば 日本自身が愚劣極まる 低物価政策を強行して わざわざ適方へ物資をおくりとどけたようなものである大陸に渡った円の興亡 多田井喜生著 東洋経済竹森久朝の見えざる政府では タングステンのほかにダイヤモンドなどの宝石 貴金属 米麦 ミカンまで扱っている 森川哲郎の日本の黒幕は 児玉が 現金でなく綿布糸でくれというと 海軍は膨大な数量の綿布糸をはこんできて 児玉に与えた これを児玉は 公定価格の十数倍の値で売りさばいた その金で 中国大陸の至るところから 膨大な量のダイヤモンド プラチナ 金属資材などを買い集めたと書いている
2011年06月23日
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ロッキード事件以降 いくつかの文書が明らかになった 77年1月26日の毎日新聞はA級戦犯容疑者 児玉誉士夫に関する報告書の内容を伝えている それによると 児玉は米軍フランク オニールの取り調べに対し 次のように答えている児玉機関の資産として終戦当時 六千万円を超える利益があったそのカネは東京の三菱銀行麹町支店に預金していた児玉は敗戦直後 この預金を全部引き出し 現金でもっていた二千万円は自分で取り 残りの四千万は児玉機関副機関長の吉田彦太郎に渡した吉田も取り調べを受けているが かれの話は児玉の供述とは大部違う吉田は現金は半分ずつ分け 自分の分け前は二千万円だった カネは新橋の住友銀行に預金したが 凍結されたと 述べている立石勝規著 児玉誉士夫のダイヤモンド 徳間書店http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html これが欠損するばかりで、終戰前までになくなるはずのものが、あまり 早く戰爭が終つたから金が残つた。残つた金を海軍にもつていきましたら、 これはお前らの金で海軍の金ではない、お前たちにはまことに相済まぬと いうことで、海軍からまた金を十万円かお礼としてもらつた。そのときに 大体四千万円くらいの金が(児玉機関に)あつたと思います。(略) ○武藤委員長 それはあなた方が自由処分した金ではないのですか。 ○吉田証人 ある程度処分しましたときに兒玉が戰犯関係になつて、戰犯 関係の特定財産ということで自由にならないようになりました。 ○武藤委員長 どのくらい処分したのですか。 ○吉田証人 結局建物になつて残つたり、鉱山の設備になつて残つたりして おりまして、そういう不動産は今でも大分残つておりますが、金の方は ほとんど残つておらぬのであります。38年前の貸しを返してもらおうということじゃ 終戦直後 私(岩田幸雄)は当時の日本円で五百万円という大金を赤坂の住友銀行に預けておいた ところが私は上海で死亡したというデマが流れて 先に帰っていた児玉や 高源重吉 吉田彦太郎などがその金を使い果たしてしもうた岩川隆 日本の地下人脈
2011年06月23日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10015258&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA支那事変の勃発以来日本政府は死力を尽して、物価の安定に努力し来った、殊に客年十月商工省が「臨時輸出入品措置法」を施行するに及び、日本政府の物価対策の動向が略々判然するに至ったのであるが、我満洲帝国に於いても日満一体の理念より、これに呼応し「暴利取締令」貿易統制法の改正等続々時局立法が制定せられ、最近に至り物価の統制は倍々強度化し、或種の商品に在りては、既に配給管理制度にまで推し進められつつあるは周知の如くである 如斯従来、専ら自由競争の基礎の上に放置されたる物価に対し、遽に統制ある一定の拘束が加えられるのであるから、其の過程に於てフリクションの起ることは、或る程度已むを得ない次第である、殊に日本の如く、満洲もそうであるが、遠く価格形成の源に溯って物価形成過程そのものに干渉するのではなく、既に出来上って仕舞った結果に対して、国家が干渉を加える現状においては、一層の矛盾と摩擦とが惹き起され勝であって、このフリクションを調整し、物価対策をスムーズに措置せんがなるに伴れ莫大なる取引高となり奉天を中心に綿系布のみにてもその取引尻が無慮一千五百万円を超えると見られて居るが、その他安東における人絹、大連及び哈爾浜における麻袋、全国的に亘るセメント、鉄鋼及び金塊に至るまで有りと凡ゆる重要商品が、這種の仕法により暗取引されて居るのとは驚くべき事実である 而して斯くの如き経紀人を媒介として為す清算取引は、去る大正八、九年の交、欧洲大戦の好影響を享け日本の財界好調に達するや大阪を中心として市内の綿系布業者間、直接解合又は間接解合なる取引の名目の下に為されたことがあり、又独り商品に限らず株式にもこれを応用し、兜町においてしかも天下の東株の向うを張って彼の大正天一坊が東京現株取引株式会社を創設株の清算取引を始めたことは今尚世人の記憶に新なることであろう。この種の事実に対し当時大番院は次の如く判決を下している 「仍て按ずるに各人が自由の意思を以て商品の売買を為し転売買戻其の他の方法に依り相互の関係を定むとも其の取引にして個別的に行わるる限りは何等取引所法違反の行為を構成することなきは勿論なりと雖も若し茲に此等私人間の売買取引を媒介する中心人物ありて多数の人に対し商品相場の報告其の他売買取引の締結に必要なる便宜を与え因て以て其の商品の売方と買方とを接合せしめ其の間に於て同種の定期売買取引を成立せしめたる上斯くして成立したる売買取引に付転売又は買戻を為して取引者間に相殺勘定の基礎を作り履行期に至り一面において最初の権利者若は義務者と最終の義務者若は権利者との間において商品の授受を為し又は解合その他の方法に依りその取引を終了すると同時に他面において転売又は買戻を為したる当事者が各売買代金の差額を授受して損益の計算を為すべき場合においては取引結了の方法が初めより一定すると、後日関係者の協議に依ってこれを定むるとに論なく又取引者が転売又は買戻に依りて最初の売買関係より離退すると否とを問わず、苟くもこれ等一切の取引行為が媒介者を中心として慣習又は契約に因り組織的に行わるるにおいてはその取引は取引所の定期取引に類似する取引なりと謂うべく、その媒介者が組織的に商品の売買取引を成立せしめ之を結了せしむる任務を処理すべき場所の存する以上はその場所の一個たると数個たるとに論なく之を包括的に観察して取引所法第二十六条に所謂市場に該当するものと謂うべし」 右の判例は、従来取引所内に行われおりしところの清算決済法の外に、これに類似する取引内容にも前掲の輪環性決済法なるものが包含する点を指摘し、この方法により、決済せらるべき条件の下に置かれたる一団の売買取引は大量の差金取引を迅速且つ簡易になし得る取引所内の取引とに対比し、その経済的実際機能わおいて殆ど何等の径庭なきことを言明し、取引所法の取締がこれを別個なる市場として取締の埒外に置くことの不可なるを説いたものとして見るべきであろう (下)四綿糸布を始めとし主要商品が奸商投機の対象となり、暗取引の方法により盛んに取引せられていることは以上に依り明かにしたが、金塊に就ては政府は産業統制法や産金買上法、集買人規則等種々の八釜しい規程を設け産金及金塊の集中を図って居るにも拘らず、中銀発表の買上数量を見ても余り芳しくない実績を示しているから、ことの真相を紹介して関係方面の注意を喚起したい 東洋に於ける金塊市場は事変前の上海を推さねばならない、満洲日鮮は勿論、印度海峡植民地方面より東洋に出廻る金塊は一度は上海に御目見得するのである、それで本年五月徐州陥落前、金円対法幣相場は一〇二三元であった。当時満洲に於ける中銀の金塊買入相場は、一匁につき十四円であったが、上海では法幣十八円で取引されておったから、満洲より金の密輸出は種々なる手段と方法とに依り盛行されたのであるが、徐州陥落後は国民政府の信用失墜を反映し、法幣相場は大暴落を演じ、対金円相場は一四〇円を上廻るに至るや、法幣で建てられた金塊相場は、金円に換算すると十二円六十銭に相当した、抜け目のない商人は直に上海において金塊を買付けて、満洲国に密輸入し、大連、奉天を中心に売却して巨利を博した当時上海金塊の満洲国流入は巨大なる数量に達したと謂われて居るこの現象は中支における日本金円の氾濫、その他の事情に因る上海における金円の対英、対米為替のアクチャルレートの悪化により、まぼろしの如く消え失せたが、之に代えるに新戦法による利鞘稼ぎが登場するに至った、夫れは日本に在住する外人又は日本人の物持が預金、利息、信託、株式配当に対する所得税が引上らるるや、之を差引くと利廻り極めて芳しからず、之が放資口に喘いだ結果、案出したのが日本よりの金円の現送による一種の鞘稼ぎと謂うことである 之は決してオーソドリックス的な送金の方法ではなく、飽迄アブノーマルな遣り方で、其の現送したる金円を以て、在上海の外国銀行に持参して輸入ビルを買い取り之を以て日本国内に於いて、歓迎さるべき見込のある舶来品を輸入すると、外国銀行の対英米為替の金円レートは相当叩かれても、之に依り日本に輸入した舶来品が五割乃至十割の利を見ても、羽が生えて飛ぶように売れるから、投資としての利廻りは相当なもので、しかも其の手続も以上の如く文章で書くと極めて廻りくどいことになるが、実際は極めて簡単で為替管理法の裏をかく、最も巧緻なる最新式のゲリラ戦術で、之も時局に因る経済上のフリクションを狙ったものである 五私は最近取引所類似市場が、地下的に横行していることを剔抉して、一般の参考に資したいと思って、本稿を草する気になったのであるが、意外の方面まで手を拡げ冗漫に失したことを愧ついものである、以上によって明かなる如く最近の如く国家は戦時重要施設を次ぎ次ぎと実施することに因り、財界に種々なる形に於いて波紋を描き起すその都度、為政者の予期せざる間隙に乗じ不義の利を貧らんとする徒輩の多きことを歎かわしく思う、と同時に、人間より射倖心の発動を全くチェックせんとすることを考えるのも、余りに現実と掛け離れた議論であることを誨えらるるような気もするのである そこで、西洋に於る取引所発達の沿革を尋ねると、取引所は元来市井投機の跋扈の弊に悩みぬき之れを統制せんがため、投機の組織的仕法を考案し、これを取引所なる機関を介し行わしむるに至り、ここに取引所なるものが発達したこと、恰も私娼の取締に業を煮やし、公娼制度を制定したのとその軌を一にすると説いている、私はこの解説が経済上、取引所の必要性を強調する、理論的妥当性については、遽に左袒はしないが、世の一部の識者が言うが如く投機取引は取引所あるがために生ずる現象なりとし、投機取引より派生する弊害の全部を取引に嫁せんとする論者に対しては現下統制経済下に、投機取引が次第に抑制されて行く反面、既述の如く取引所市場類似の地下的私設取引所が最近到るところ横行する事象に対し如何に之を措置すべきや謙譲なる目で批判されんことを切望するものである(終り)
2011年06月21日
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http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/cgi-bin/TEIKOKU/swt_list.cgi?SESSION=29299& ;SAVED_RID=2&MODE=1&DTOTAL=1&DMY=29358 ○赤尾(敏)委員 もう一つ御尋ねしますが、此の間新聞に發表になりましたが、 兒玉譽士夫と云ふ者が支那で三十三億の金を儲けたさうです、さうして三十億の 財産があるさうですが、大藏省の許可を得て運んだ金が一億圓とか發表されて居る、 どうして一體そんな若僧に何億萬と云ふ金が出來たのか、僕等は小遣にも困つて 居るのに、呆れ果ててしまつた (略) 海軍がやらしたから海軍の責任であるかも知れないが、大藏省の許可を得て一億以上 持つて來た、是は本人が發表したものだ、「マッカーサー」から召喚状が來てから發表 して居るのだから、嘘を言へば却て不利になると思ふのです、それが本當かどうか ○澁澤(敬三)國務大臣 私は其の新聞を讀みませぬでしたが、最近に於てさう云ふ ことがあつたことは全然ありませぬ、(略)ずつと今全部爲替管理をやつて居りますから、 さう云ふことはないと思ひます ○赤尾委員 それは重大なことです、どう云ふ譯で兒玉君だけに一億圓金を運ばしたか、 どう云ふ經緯で許したか、御調べを願ひたい(略)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0284/02404100284027c.html 私の大蔵大臣への質問はこの程度にしておきまして、次に鮮銀の連銀に対する預金債務の資料について、ちょっと事務当局にお尋ねいたします。 私は北支における軍費の支払い状況と連銀との関係についての実際のことは何にも存じませんが、しかしここに言いてある事項は、どうも合点のいかぬことが多いので、一応事実関係をお尋ねいたしますが、北支における日本の軍費の支払いというものは、どういう形で行われたのであろうか、日本政府が送金する軍費を出す場合に、それはどういう形で送金され、その金はどういう方法で出されたのか、単に軍票のみでやられたのか、あるいは連銀券等によってやられたのか、その点の事実をお尋ねいたします。○岩動説明員 御説明申し上げます。北支地区におきます軍費の調達は、資料にも概略説明を申し上げているのですが、まず第一に、所要の軍費の額がきまりますと、その金をまず朝鮮銀行が中国連合準偏銀行から借り入れをいたすことになっております。つまり北支地区におきましては、軍票の発行はいたしませんで、中国連合準備銀行券をもってすべての支払いが行われております。従いまして、北支地区におきます軍費は、すべて連銀券をもって調達され、それによって支払いが行われております。そのような状況におきまして、かりに百億の軍費が必要であるという場合には、百億の中国連合準備銀行券を朝鮮銀行が借り入れをいたします。その次に鮮銀は、この借り入れた連銀券を外資金庫にさらに預け入れをする、つまり預金をいたすわけでございます。その結果、外資金庫が取得いたしました連銀の預金を、さらに政府に納入する、外資金庫は政府に対して預け入れをするのではなくて、政府に納入をするということになっております。その結果政府は、百億円の連合準備銀行券を取得いたしまして、政府の所要資金として軍費等の支払いに充てる、こういう方法をとっておったのであります。○石村委員 そうすると、結局は朝鮮銀行の借入金で現われてくるということになるわけですね。○岩動説明員 最初の段階におきましては、朝鮮銀行は中国連合準備銀行から借り入れをする、つまり連合準備銀行券百億円を調達するために、それと見合いの円の債務を負う、こういう格好になっておるわけであります。しかしこの場合に、朝鮮銀行はあくまでも中間の調達機関として、通り抜けの勘定でやっております。最終的には外資金庫から政府に納入され、政府がこれを処理するという格好のものになると思います。○石村委員 通り抜けにしても、その金額は朝鮮銀行の借入金という形で現われてくるということですか。○岩動説明員 さようでございます。○石村委員 そしてその借入金は、結局終戦によって、この資料に書いてあるように金を渡して処理した、朝鮮銀行の借入金は、この金の売却によって教理がついた、こういう意味なのですか。○岩動説明員 最終的な決済は、ここにも概略書いてございますが、まず第一に、政府の所有しておりました金塊を正金銀行に当時の安い価格でこれを払い下げいたしまして、その結果、正金銀行は安い金塊を取得いたしますが、これを北支における時価で連銀に売ったわけであります。従いまして連銀は、その金塊の代金を正金に対して負うわけでありますが、その決済は、中国連合準備銀行が朝鮮銀行に対して持っております、先ほど例にちょっと引きましたが、かりに百億円といたしますと、その百億円の朝鮮銀行に対する、預金債権をもって弁済をする、つまり正金銀行は、連銀から朝鮮銀行に対する預金債権を取得するという格好で金の決済をいたしたわけであります。その段階において、朝鮮銀行は全く連銀に対する預金債権というものが消えてしまうということになっておったわけであります。○石村委員 どうも頭を冷してよくこの資料を読み、御説明を考えてみないとわからないのですが、朝鮮銀行は初め連銀から金を借りるときに、その借りる金というものは軍費に充てる金である、従って朝鮮銀行に対して、日本政府が借りる場合に、朝鮮銀行に対する送金の形をとっておったのではないのであろうか、こう判断するわけなんですが、いかがですか。○岩動説明員 これはそのような手続等は一切とらないで、ただいま申しましたように、現地において所要の資金を調達するということになっておったわけであります。それが朝鮮の地域におきまする、かりに臨時軍事費を必要とするというような場合におきましては、日本銀行券をまず鮮銀に払い込む、その結果鮮銀は、朝鮮においてそれに見合う鮮銀券を発行するという格好で、一種の送金に似たような操作はいたしておりましたが、北支におきましては全然そのような、送金をするというような方法での資金調達はいたしておらなかったわけであります。○石村委員 朝鮮銀行を通じての送金ということは、北支においては行わなかったというお話ですが、そうすると、朝鮮銀行の国内の公債なんかがたくさんできたのは、今まで為替関係、軍費の支払い関係だ、こういうことだったのですが、朝鮮銀行に送金を依頼した、そうして朝鮮銀行は国内に為替じりの莫大な金が出てきたというのは、朝鮮における軍費というものを送金さしたのですか。○岩動説明員 朝鮮銀行に、国会にこれだけの資産ができた原因は、かねて管財局長から御説明申し上げているように、やはり軍費の送金関係がその主要な原因になっております。これは、北支地区におきますものではなくて、朝鮮、関東州、この両地域に対する臨時軍事費等の送金の結果がここに生まれてきておるというふうに御承知いただきたいと思います。正直いくら読んでも さっぱり不明なんですが 当時 儲備銀行の副顧問として 上海にいた日本銀行の大久保太三郎氏によると 終戦時にはこれの清算のために日本から 金塊がもちだされて十日の夕刻でしたが 儲備券債務の処理について東京から大使館に指示があり 十四日でしたが 正金手持ちの金でもって儲備銀行との預け合い借勘定を一旦決済したんですが その当時の時価で評価したもんですから あの膨大な儲備券借り入れが完済されて なおおつりがきました 大陸に渡った円の興亡 多田井喜生 東洋経済さておつりがどこにいったのか
2011年06月18日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51159700.htmlここの関係から 川越丈雄という人という人をピックアップしてみると川越丈雄という人物がおりまして、この人は皆さん御存じだと思いますが、かつては大蔵政務次官であって、平和相互銀行の会長であった人だ。この人が中央観光株式会社の――これは銀行局長御存じないと思いますけれども、裏話を申し上げます、裏話だけれども事実でありますから。そこで平和相互銀行の会長であった人で、かつて大蔵政務次官であって昨年なくなりました川越さんは、その関係で、中央観光株式会社の役員であった関係上、平和相互銀行との取引が持たれたと、そこで平和相互銀行も、その他の銀行もだんだん手控えるようになったときに東海銀行が乗り出してきたという裏にはこういうお話がございます。これは銀行局長の答弁は答弁として了承いたしますけれども、あなたの答弁の中でも、やっぱり前半のほうはちょっと行き過ぎのような言い方ではありませんけれども、少し金融常識上ちょっと異例のような融資の姿勢、そういうニュアンスは含んでの御答弁のように私は感じましたので申し上げますが、その間の事情は重要です。いま申し上げたように川越丈雄さんがいて、中央観光の役員で、そこである有力閣僚、名前はっきり申し上げます。これは中央観光の社長自身も言明していることだし、それから当時の中央観光の経理部長の滝川さんという人も御存じだし、従業員も知っているし、それから世間に知っている人が非常に多いので申し上げます。これは増田甲子七防衛庁長官が東海銀行に対するあっせんの労をとったということであります。私は、その川越さんという人がかつて上司であって、個人としての義理上政治家として東海銀行にあっせんをするということについては別に悪いこととは思っておりません。そういうことを云々したくはございません。ただ言えることは、政治家というものは一私企業に対してそこまでのあっせんの労をとるべきかどうかということは、政治姿勢としては問題ではあろうと思います。だけれども、川越さんに対する義理として東海のほうにあっせんの労を若干とったということについては、私は大目に見てもいいだろうと思うんです。大目に見ると言ったって、私はどうかわかりませんが、世間の人はどう解釈するかわかりませんが、そう思います。そこで、そういうことでなくて問題は、官房副長官ひとつお聞きいただきたいと思うんですが、こういうことなんですね、この方の経歴を wikiからもってくると 下記の通りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E4%B8%88%E9%9B%84川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日[1])は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。[編集] 経歴鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。1938年1月、大蔵省から中華民国の財政経済の状況調査を委嘱された。退官後、庶民金庫理事長、東北興業会社(現:三菱マテリアル)総裁を歴任。戦後、1946年9月から1951年8月まで公職追放となった。さらに、日本殖産(株)会長、平和殖産無尽(株)会長、平和相互銀行社長、同会長を歴任した今でいうなら 新橋の金融屋に 大蔵次官が会長でくるような感じですかね 誰が 仲介したのか 興味深いです
2011年06月16日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00873432&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 45(132-10584)大阪時事新報 1934.12.7(昭和9)鋼材輸入の脱税問題長銭短銭十二月や正月の結婚月を当て込んで毎年宝石類がよく売れるが、昨今は例のモンゴリアンとかモントゴメリアンとかの金剛石が新聞紙上でやかましく騒がれたのでトンとダイヤモンドの売れ行きが悪い。医者を見れば偽では無いかと心配せねばならぬ事件のあった直後丈けに金剛石を見ると密輸品では無いかとの懸念が祟っているものらしい。 而しながら茲にミル流に云うとダイヤとは、全く其の交換価値は非常な懸隔はあるが、非常時の時節柄になくてはならぬもの即ち使用価値一〇〇%の鋼材密輸問題が起って来た。勿論一部ではデマだと否定しているが、また否定出来ぬようでもある。 何んでもデマ□と云う人達の意見を綜合して見ると的確な証拠がないとのことからである。勿論税関においても目下いろいろと調査を進めているが、真実であろうと思えぬ節がないでもない。勿論これは推定であるが、至極常識的なものであるから或いは真実かも知れぬ。その理由は沢山あるが大体次のような諸点から推定出来る。 (一)新鋼材と古鉄屑鉄の輸入税とがあまりに懸隔しすぎていること、前者は二十余円にして後者は大体平均四円内外(二)日鉄の輸入統制に対して(高関税で)内心不満の意を懐いている向が多いこと(三)カストム・ブローカーの跳梁(四)某大物産会社が某商店をして輸入させた鋼材を部分的に毀損させて屑鉄並みにしたとの噂(五)昨今の鋼材暴騰が密輸乃至は脱税を睹に促進させる心理的閃きを起させること(六)鋼材関税引上げに全般的な反対気運が濃厚であること等々である。 「税は正直物に課す」と云った先人の言を繰り返す訳では無いが、時節柄どうも怪しい気がしてならぬ。鋼、鉄、銅、錫、鉛等の可溶性鉱物はこれまでいろいろの手で脱税輸入がされた例があるから今次の鋼材脱税事件もドウかと思う点が多い結局こんな問題が起るのも保護しなくてもよい製鋼会社を保護するから保護洩れの商人が其の利益均霑に浴せんとする脱法行為で、経済問題では無くむしろ社会問題の域にまで突入している。(春秋子) http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00053271&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA新聞記事文庫 製鉄業(12-147)大阪毎日新聞 1934.12.4(昭和9)鉄鋼景気の余波某大貿易商密輸説鉄鋼景気の連鎖は内地における未曾有の増産と巨額の輸入増を招来しつつあるがこのほど某大貿易商が大阪に屑鉄を輸入の際その中に型鋼、鋼板約五千トンを忍ばせひそかに密輸入しその投売により市価の暴落を来しているとの説伝えられ鉄鋼界を驚駭せしめている これは屑鉄は現在無税であるが右鋼材にはトン二十五円の輸入税が課せられているのでその鋼材を巧みに屑鉄と見違い易き状態に切断して輸入したものといわれ 日鉄の保倉常務は目下大阪で事情を調査中である屑鉄を回収するだけでは 前回のエントリーの位置まで果たしていけたんだろうか
2011年06月12日
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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00214637&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1新聞記事文庫 工業(09-025)台湾日日新報 1938.11.20(昭和13)資本金三千万円の台湾重工業計画中南支南洋より原鉱輸入 鉄鋼五十万瓲其他を製造広東攻略を契機として経済南進の拠点である台湾にその豊富なる電源を利して大工業を興し中南支南洋より原料を輸入加工して島内の自給自足は勿論進んで中南支南洋の広大な市場に販路を開かんとの計画は島内企業家中にもあり又内地の企業家も色々と計画を進め、農業台湾は今や工業台湾へ力強く躍進を始めた観があるが、既報の如くその一つとして東京の小宮山商店常務取締役小宮山英蔵氏が中南支仏印等より屑鉄、鉄及び非鉄金属鉱石を輸入、之を原料として製鉄、製鋼及び各種金属の精錬、之に付帯する加工等を包含する総合的重工業『台湾重工業株式会社』の創立を計画中である小宮山氏は同店の取締役で日本鉄屑統制株式会社の顧問弁護士岡野伊三雄氏を伴い過般来台島内各地を調査企業について関係各方面と折衝中であるが、この程定款、事業計画書も出来たので府商工課に提出諒解を求めつつある、仄聞するに同会社は資本金三千万円二分一払込本社を台北に置き工場は島内適宜の場所を選ぶか地理的関係上高雄が有力視されている、事業計画は左の如く四期に別れて居り十四年三月に建設に取掛り十七年五月完成の予定で完成の暁は年□五十万瓲の鉄鋼を初め各種金属を製造圧延鋼、合金、造船、副産物として硫安、タール、ベンゾール、硫酸等をも製造の予定であるこの当時 まだ二十代なので 社長は親父のようで 英蔵が常務のようです どこまで本気だったか たぶん経済封鎖と開戦でおじゃんになった噺だとおもいますが 戦前の小宮山英蔵という方はおもった以上の大物のようです
2011年06月12日
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http://www.yguppr.net/090802otome/090802otome_main.html乙女鉱山の歴史は、明治政府の水晶山開発推奨政策で盛んに採掘されるようになり、当初は水晶鉱山、その後重石(タングステン)、ガラスに加工する珪石(石英)を産出する鉱山として明治・大正・昭和の約110年間にわたり採掘された。十菱駿武教授の研究によると、太平洋戦争に入ってから敗戦後にかけて日本国土・中国・朝鮮のタングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者になっていた時期もある。昭和34年の『鉱山名簿』には、倉沢鉱山、鉱種珪石、鉱業権者児玉誉士夫、鉱山労働者46人とある。その後乙女鉱山株式会社(塩山市千野)が経営にあたったが採掘量が減少し、最終期には鉱山長以下4・5人で操業、倒産により昭和56年に閉山された。
2011年06月09日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51315840.html○武藤委員長 緑産業というのはどういう会社ですか。 ○吉田証人 それは戰爭中は日南鉱業株式会社と申しまして、タングステン とかモリブデンを採掘する会社です。それを終戰後はタングステン、モリブ デンの必要がないものですから、附帶事業を何かやらなければいかぬ、 あるいは製材とか何か(略)附帶事業の願書を出す時に緑産業という名儀に かえたのであります。(略)いや、これは(利益が出ず)全然だめでした。http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201010250001/大蔵省を通じて中国から移入した一億余円の資金のうち七千五百万円は溝久、鐘打、水鉛、乙女、鮎川各鉱山の開発に投資した。残額二千五百万円は鉱山の跡始末と復員軍人救済育英事業その他に投出し現在手許にあるのは五百九十万円であるが、これを悉く労務者住宅、公衆食堂その他社会事業に投すhttp://ooinarien.web.fc2.com/inarix-site/sooba/speculator/51-106/index98.html 笹川良一が初めて相場を張ったのは、大阪府下、豊川村の村会議員当時だ。堂島の米相場師、「池梅」こと池田梅蔵の店でのことだった。笹川は、父鶴吉が残した3万円という多額の遺産を池梅に管理・運用してもらっていた。ある日、笹川は池梅に相場をやってみたいと申し出る。 だが、池梅は「あかん、あかん、いっぺんに裸にされてしまう。長年やっているわしだって損をしているくらいだから、絶対やったらいかん」とつれない。笹川が「いっぺんだけでええ。やらせてくれんか」と懇願するのには訳がある。池梅が相場でよく損をしていることを知っている笹川は、池梅の反対をやればもうかるはずだ、とひそかに確信していたのだ。山岡荘八が「破天荒 人間笹川良一」の中で書いている。 「池梅は商売人なのに、相場を張ってよく負けている。そこで笹川は『おっさん、あんた、今売っとるのか、買っとるのか、どっちや』と聞いて、『売っとるのや』と答えると、池梅の主人の逆をいって、“買い”に出るのだった。買うといえば売りに出て、池梅の逆、逆といった」 ある時、池梅から「アスオイデマツ」と電報が届く。笹川の建て玉が大もうけになったので手じまいをすすめられる。だが、笹川は応じない。笹川が売れば下がり、買えば上がる。「金なんて、こんなに簡単にもうかるもんかいな」。そう思うとなんだか、急に心の張りがなくなって、手を引いた。笹川は相場のもうけと父の遺産をつぎ込んで国粋大衆党の運動に没頭、相場界から遠のいていく。http://www.earthscience.jp/kaneuchi.html 鐘打鉱山の歴史は1930年(昭和5年)池田梅蔵によってタングステンの鉱業権を設定したことから始まる。4年後の1934年には藤野鉱業(株)が設立され、同社に鉱業権が移った。その後、藤野鉱業(株)は日南鉱業(株)、緑産業(株)と社名を変えた。第二次世界大戦中は採掘が盛んになり、月産30トンを産出する国内屈指のタングステン鉱山に成長した。タングステンは物理的に非常に高い強度をもっており、対戦車砲の砲弾や戦車の装甲板に使用された。それだけにこの鉱山は日本の国策に重要な地位を占めていた。 戦後一時採掘が中止されたが、1948年に再開された。1951年には鐘打鉱業(株)が設立され、一時はタングステンの国内生産の30%を占めるほどに発展した。1958年には日本鉱業(株)の経営になった。発展の影には鉱害問題も発生した。1949年ごろから鐘打鉱山から流れ出る鐘打川の水を使用している水田で稲の発育障害が現れた。鐘打鉱業は対策として沈殿槽を建設したが、1971年には稲や土壌からカドミウムが検出され、1978年から汚染土壌の入れ替えと土地整備が行われた。
2011年06月08日
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http://senmon.fateback.com/syamintou/suematsu_syougen03.htmlこういう例が面白いことには、社会党にもう一人いるんですよ。亡くなった伊藤卯四郎さん、この人は西尾末広氏と一緒に民社党を作った人です。いわゆる社会主義運動の労働組合の発祥地は八幡製鉄所なんでしすよ。製鉄所の労働組合なんですよ。浅原健三が始めてストやったでしょう。溶鉱炉の火は消えたりってね。あの浅原健三がね。3-7.九州政界と八幡製鉄浅原健三というのはもともと職工なんです。あの頃、八幡製鉄(現新日本製鐵)は官営でしょう。ですから全体的にのんびりしていて、昼休みになると卑猥な話ばっかりするんです。ところが面白いことに上の人の悪口をいうことは、軍隊でも同じやけど、話が合うわけだ。その中心が浅原やった。それがだんだんと広がってとうとうストライキをやった。八幡製鉄所はそれまで官営でのんびりしたところがあったわけだが、あのストライキで目がさめた。それで製鉄は守衛にちから入れたんです。コレが限定法なんです。つまり守衛、これに絶対的な権力を与えたんです。そして労働組合をちゃんと抑えたんです。守衛さんに就職を斡旋する権利を与えた。それでそのころからこの守衛さんが毎年の就職に力を持ち守衛が紹介するとだいたい人事課はOKなんです。そうすると、その人たちが選挙のとき「あの人いいよ」と言ったら100%聞くわけです。そういうふうで守衛に偉大な力を与えた。復員軍人、兵役を終えた将校だとか曹長だとか軍曹とか、海軍のいいとこなどが、帰ってくるでしょう。そうすると守衛になる。製鉄の守衛はみんな軍人上がり。だから非常に迫力あるわけ。抑えがきくわけです。これが何万の職工たちをグッと握った。そして製鉄は溶鉱炉に火を止めるなというちゃんとした管理法を作った。職工(労組)に入る人は、守衛さんやらその他の紹介者が入れる。東大出とか専門学校を出た人は中央で人事をきめるわけです。これは日本の企業でいちばん充実した労務管理だった。これを真似したのが大手の各企業です。そんなことで身許のはっきりした人が入りますね。ところがいつのまにか八幡製鉄の浅原健三に選挙の票が入るようになった。そこで浅原勢力に対抗するために亀井さんといって神奈川県から大学の先生をよんだわけだ。この人が民社党のはしりなんです。この人と浅原健三とはものが違うために格差をもって浅原が落ちて、亀井氏が当選した。そのときの一人の弟子が伊藤卯四郎さんだ。この伊藤さんは終戦後一貫して製鉄の、いわゆる左派を除いた票をガチッと握ってトップ当選をいつもやっていた人です。ところがこの伊藤さんの同じ選挙区の戸畑市に、明治鉱業の松本七郎さんという慶應出の大学教授がいた。この人は、世は猫も杓子も社会党の時代だから、戦後の最初のインテリとして社会党を希望したんです。この人が松本治一郎のところに、いちばんに行った。松本治一郎がヒョイと見たら、相手は松本七郎でしょう。「ははあ、こいつうまいこと社会党から出て、当選したら自民党に鞍替えする」と思って松本治一郎が断ったんですよ。だから七郎さんは、行き場がないから同じ選挙区の八幡の伊藤卯四郎さんのところに尋ねて行った。それが12月の暮。そのときにちょうど、たまたま伊藤さんがおられたんです。3-8.当選者を横取りするそして中央で西尾末広、片山哲。地元の伊藤さんの力で松本七郎さんの公認を取った。そしたら松本七郎は伊藤さんの次の得票で当選したんですよ。伊藤さんは製鉄の票と、それから炭鉱に強い票を持っていた。それと、酒屋のおやじとか、一般の商売人がいるでしょう。この人たちに伊藤さんは人気があったわけです。そういう個人的な人気と、それから製鉄、そういう方面と関連企業。そういったキチッとした基盤があるわけなのです。だからどんなものが隣にこようが、同じ選挙区でこようが、微動だもせんという見通しをつけておられた。同じ選挙区に、一方は小学校しか出てないけれども、労働組合で芯からたたき上げた真の労働者、働く者の味方、製鉄の方の指示をも受けているのが、左派の浅原健三。しかし浅原健三はもう落選して、今度はあとがまに青野武一、ところがこの青野武一先生が、初めて当選して・・・ちょうど私が松本治一郎に会った後ですよ。東京でタクシーの運転手を殴ったんですよ。それで青野はパー。「この野郎」ってポーンと殴った。それが新聞にでて次の選挙で落選したんです。その後、製鉄の票は減るけれども、他の票で当選できるということを伊藤さんがちゃんと計算に入れてたから、松本さんの公認を取ってあげたんです。そして当選したでしょう。そしたらこんどは松本治一郎が、同じ松本姓でしょう。これはいいわということで自分の側近に入れたんですよ。だからいつのまにか、松本七郎さんはこんどは伊藤卯四郎さんの敵になったわけです。同じ社会党だけどこっちは左派だから。左派の系統やから。こっちは右派の系統やから。ウマが合わないんだから。将来別れたけれど。そしてその後の票の戦いは、こんどは伊藤さんとの直接対決になったんです。それで伊藤さんの奥さんが言うんですよ。「まあ末安さん聞いてください。私は松本七郎が、先生一つお願いしますといってきましたから、私は寒い中、市場に肉を買いにいって、野菜と肉と豆腐をいっぱい買ってきて、そして鍋を囲んですきやきをしながら、初対面で、これからの社会党はあなたのような毛並みのいい、教養のあるといって、お互いに意気投合して一杯飲んだのは、うちのここですよ」と。その七郎が当選したら松本治一郎の子分になったというんですね。それで奥さんがムクれるんですよ。そして彼は国際局長までなったんです。だが、それから上がらない。弥之助とウマが合わない。年齢が同じぐらいだから。それであの人はとうとう社会党の中におって、継子扱いされて、選挙には8回か10回ぐらい当選したんじゃないですか。二期三期は非常によかったが、だんだん今度は弥之助とライバルになった。そして首脳部から外されましてね。それだからといっていまさら自民党から出馬するわけにもいかんし。私は末路のころ七郎さんと会いましてね。元気がなかったですね。顔色も悪くて。利用されるだけ利用されたんです。あの人は民社党のときに伊藤さんと一緒に出馬すればよかったんですが、松本治一郎が離さないんです。その時点までは側近だった。本来ならば伊藤さんが民社党を作られたときに一緒に民社党にいくべきなんです。そういったところで、七郎さんの人間性が失われたわけ。そしてとうとう末路哀れやったですね。松本治一郎からも捨てられ、弥之助あたりからも捨てられて。本来だったら順調にいったら書記長になる人なんですよ。委員長になる人なんです。それがとうとう中途半端で哀れな末路やったですね。この弥之助にうまーく利用されて追い出された。松本七郎、田英夫、みんな毛並みがいいし、一般のウケがいい。田さんは男爵ですからね。なんであの人が社会党から出なければならんのか、それは社会党のイメージをよくするためです。お坊ちゃんだから利用される。議会の楢崎は、爆弾男でしょう。そういう異名を取っている。だが、彼は心ではなく、頭からものを見ている。だから人は高く評価しているけれども、弥之助がいちばん困るのがこの論文ですよ。
2011年06月05日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204131332014c.html 岡村証人 関係はありません。 田中(健)委員 証人は辻氏のところに兒玉機関の金できておることを御承知でしたか。 岡村証人 知りません。 田中(健)委員 辻氏のところに兒玉機関からきた四千万円のうち約三百万円というものは富士産業の社長から辻氏にきておるということは証人は知らないのですか。 岡村証人 知りません。富士産業というのは 前身は中島飛行機ということですが ここから児玉資金の一部が出ているようで 岡村先生は行田の出で 兄弟分は関根賢親分をはじめ 群馬の方が多い 中島飛行機も本拠は 群馬なんですが さて
2011年05月21日
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兒玉機関がもっていたとされるラジウムの終戦時の処理について エントリーをすでにあげてみたんですが 今度はタングステンについてあげてみようと思います 日本テレビとCIA 有馬哲夫著では 三百万ドルの金が タングステン調達についやされて 児玉機関で隠匿されたとされるダングステンが吐き出されたと書いてあるんですが さて当時の価格がどれぐらいだったか わかりませんが タングステンには 原料価格と製品価格がありまして 先にあげた本のなかには このタングステンの質の悪さが問題になったとありますが これも原料として 純度の低い物の調達がおおかったのではないかと思います原料の価格としては 最近は下記の通りhttp://www.nittan.co.jp/tech/all/detail03.htmlタングステンは市場ではAPT(パラタングステン酸アンモニウム)として10kgあたりの価格で取引されています。価格は2年前の100USドルから現在では2.5倍の250USドル前後で推移しており、高値が続いています。製品の価格としては 最近は下記の通りhttp://qanda.rakuten.ne.jp/qa2743714.htmlタングステンは中国の生産が80%を超え高騰しています。アメリカの取引価格は、32,500ドル/kgとビックリな価格。原料でなく製品の場合です。ちなみに輸出制限がかかっているとのことで、プラチナなみに価格が上がるのかな?原料価格はアメリカのアマゾンの価格で調べれますよ。ちなみに、99.99%は丸棒、99.98%は角棒。大戦時のタングステンの状況については 下記の通りhttp://www.warbirds.jp/prince/pr0005.htmlhttp://www.warbirds.jp/prince/pr0010.htmlhttp://www.warbirds.jp/prince/pr0011.html当時の値段や 状況が事実の羅列のみで よくわからないのですが 児玉センセイがタングステンを隠匿していたのをというような記述がされる場合がありますが それを出したら 用済みです実際は 少量のタングステンを隠匿していて それを差しだし 13階段を昇らないで済むなら あとのエントリーで説明しますが 中国大陸からタングステンを持ってこられるコネクションがあるよということなんでしょう
2011年05月15日
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このころ新会県に 趙其休を首領とする一大盗賊集団があった 趙は密輸大王とも呼ばれ 国民党の官吏や軍隊 香港やマカオの警察などとも結託し 武装快速艇を使って 新会県の銀州湖と香港 マカオで活動していた マカオでは日本人と商売をし 王精衛軍の代表とも連絡を取り合っていたというまもなく日本軍が銀州湖に進攻すると 趙其休は農村の自衛団や密輸仲間とともに戦い その直後にはみずから新会抗日義勇大隊を組織するただし それは自分の事業を保護する目的もあり 依然としてマカオとの間で密輸を継続する1940年春 日本軍は銀州湖を封鎖した すると趙は 裏では 国民党軍の司令官と連絡をとりつつ 王精衛軍に鞍替えし やはり日本軍に向けて 大量に密輸を始めるその頃主要な密輸出品はタングステン 桐油 桂油 豚の毛 食料で他方輸入品は布類 石油などであった 交易の相手はすべて マカオに設置されている日本海軍の物資購入部門だという密輸に使う船には日本海軍から証明書が発行され また日本軍の保護を受けたとくにタングステンについては 趙は新会県の古兜山の麓にある九篤螺という鉱山を押さえていた これはもともと国民党の政府機関が採掘していたものだったが 趙はそのころからすでにこのタングステンを密かに買い取っていた やがて近くに日本軍が進攻して鉱山が閉鎖されると 付近の地主や有力者が勝手に掘り始め それを趙の集団が輸出した南海の軍閥 甘士遠よりこんな状況が 中共の大陸掌握まで継続したとおもわれ 児玉機関も其の世界で動いていた
2011年05月14日
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1935年4月 中国は資源委員会を設置する これは鉄鋼 機械 電力 鉱業などの重工業を中国に建設することを目的とした機関だが その重要な仕事の一つに タングステンの管理があった すでに紹介したように 中国は武器と軍事技術の提供を受ける見返りとしてドイツにタングステンを輸出しており とくにそのためにこの鉱物を政府の管理下に置く必要があった略しかし管理はうまくいかなかった 広東省管理分処の1940年までの統計を見ると 141カ所あった正規業者のうち 管理分処に納入しているのは20カ所にすぎないタングステン鉱の多くが密輸出され しかも多くが広東省から流出していった 政府の買い入れ価格が国際価格に遠くおよぼなかったのと 日本が高い値段でしきりにかいつけていたためである略昭和通商の場合 次のようにタングステンを入手したまず中国人工作員を派遣して 匪賊の頭目と接触する この頭目は蒋介石軍の前線部隊の司令官でもあるという そして 綿布 綿糸硫安などを使って 彼らが保有するタングステンを物々交換で放出させる 買収相手には 陸上の匪賊ではバイアス湾奥地から東方の繊尾にかけて勢力をもっていた廬端慎 海賊では三千人の手下を持ち 拳銃の早撃ちの名手だといわれた呂票などがいたしかし この仕事は非常な危険をともない 同乗していた中国人工作員の手引きによって船がバイアス湾で海賊に襲われ 船員は一名を除いて 全員 射殺され 物資は奪われて船が焼かれてしまうという事件があった南海の軍閥 甘志遠 編 蒲豊彦より
2011年05月14日
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棲息分布という 松本清張の小説が 最近 復刊されています 田中角栄と小佐野賢治がモデルになっている人間が出てきますが 五島慶太 五島昇にあたる人間がでてきますが 東急と小佐野の意外な関係が 浮かび上がってきます静かに酒は飲んでいるが 菅沼幸一(五島昇)には焦りが出ていた 早いとこ用談に入りたい それがすまなければ落ちつかない といった顔色だった 話していても 眉の間にときどき皺が動く井戸原俊敏(小佐野賢治)は もう頃合いだ と思って 杯をおいたさて 今日はお忙しいのにお呼び立てしまして 実はたいへん言いつらいのですが こういうことをお願い申しあげようと思うんです孝一の唇の端がぴくりと痙攣し 経理担当重役の中村は心もち座り直すようにした 二人とも井戸原の口元を見つめているわたしの方には先代の会長(菅沼丑平 モデルは五島慶太)から頂戴した手形がかなり溜まっております いまここにそのリストをつくってきましたから 一応 ごらん願います 上巻 百六十九ページ親父が死んだあとに どうもうちの会社はお化粧をしているらしいということで 実権を親父に握られていた 菅沼幸一が 会社の経理を調べなおして 会社が相当 悲惨な状態になっていたことでかなり愕然 井戸原からの借り入れ三百億で 会社が支えられていたことに気がつくさらに 今度の粉飾剥落で分かったのだが 丑平会長は経理担当重役に命じて簿外経理を作らせていた 銀行筋によらない借り入れ金を販売入金に当てていたのである在庫販売などにより架空の営業成績を上げても 全くの入金がなければ不審を持たれる もともと幽霊販売だから入金があるはずはなく どこかでそのかたちをつくらなければならない それが正常の金融ルートによらない借入金で もちろん これらは正常の帳簿に記入することはできなかったそうしたことで こうした粉飾決算には借入金による販売入金という形がよく取られる このことは主として銀行筋に信用を維持するためであるが 借入金がそれだけに当てられるとは限らず 当然 当面の金ぐりに投入される上巻三十五ページ井戸原は 幸一に もう全額返してくれというが 幸一は これだけの金額はとても一度には無理なので 最終的には 井戸原の条件通り ある会社の株と ビルが譲られることになりますあきらかに東急と国際興業との関係をモチーフにして 清張が小説にしたもの ある意味 終戦直後の隠匿物資がどのようにロンダリングされたかのいい見本でもあるし すこし意味合いも違うが 帝国ホテル 国民相互銀行 航空会社の株というのは 小佐野にとって どういう意味をもっていたかの謎がみえてきます
2011年05月11日
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そのうち島田さんのパージが解けて相談に復帰されたが 二十七年に入ると こんどは吉田会長がやめると言い出した 金つまりだのなんのと問題の多いこの難局に処していくには 私が辞めてパージの解けたベテランの島田さんに戻ってもらうほうが北炭のためになるといって みずから島田さんを二回訪問して再出馬を懇請した なんという巡り合わせか このときも誤解されて 私が島田さんを会長に戻すための策動だと宣伝された 会社では会長の権限というものは大きい それに重役は私一人でなし 他に重役がいるというのに その私が会長に向かって やめてくださいなどといえるかどうかこんなことは常識のはずだが 世間はとかく意地悪く取りたがる私の履歴書 萩原吉太郎よりこのあと 三十年に 会長の島田が体調が悪くなり 萩原が社長になりますが ほんとうは内部でいろいろあったようです萩原吉太郎はかって 前任者の山中社長の秘書をやっていた スキャンダルとは秘書時代のものである 秘書だった萩原は 一部の右翼団体の間では評判がよかった なぜかというと 早い話が カネのバラマき方が派手だったのである 大企業とはいえ 一介の社長秘書程度が右翼に大判振る舞いができるなど 商法違反でただちに逮捕されるのではないかと いまでこそ疑問に思われるだろうが 当時の一部企業には そうした行為が大手を振ってまかり取っていたのだ企業に取り付いて 塗れて泡の代金をかすめ取る側からすれば 萩原という男は カネにルーズな大企業の窓口としては最高である こんな秘書を社長にしてしまえば もっとカネが自由にできる そうかんがえれば 少々あらっぽい手段に訴えても 萩原の社長就任工作を押し進める連中が現れても不思議はない事実 萩原と彼を取り巻く人間たちが 山中社長にピストルを突きつけて 生命を捨てるか 社長の椅子を捨てるか 二つに一つの決断を追ったという萩原自身が 社長の頭にチャカを押しつけて 退陣を追ったんだ暗殺集団 石井一昌 恒友出版より社長制度が敷かれたのは萩原からで かなり疑問もありますが かなりハードな内部抗争もあったようで これをネタに脅しをかけようとした 石井が 児玉先生に 塚本素山ビルに移る前に 事務所のあった 木挽会館に 呼び出されますその部屋には数人の若い男たちが控えており 奥のソファに男がひとり 悠然と腰を沈めていた 後にわかったのだが この男は 当時の銀座警察の首領で 通称 丸ビルの菊池と呼ばれる人物だった菊池はまたの名を水原といい こぎみのよい鋭敏な雰囲気を漂わせていたが そこには同時に 幾度も死線をかいもくってきたすごみも備わっていた 小説 人生劇場の中に 飛車角を殺した男が登場するが この菊池こそ 飛車角を殺した 等の本人である暗殺集団 石井一昌 恒友出版よりなぜ このひと 菊池貞雄がでてくるかというと 大下英治の 黒幕にははっきりと名前がでてきませんが 修羅の時代には はっきりと大和鉱業社長と出てきます 経営者というより一種の用心棒役だったのだと思います立花隆の田中角栄研究の項では 萩原吉太郎が 北炭の社長であった時代までは 児玉先生が 北炭の関連会社を使い いろいろやっていたようだがと指摘しています http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0590/07705120590003c.htmlところが問題になりますのは、新夕張炭鉱というのは、世間周知のように萩原吉太郎が児玉譽士夫に提供して、租鉱山としてやらせている。新夕張炭鉱を一遍、閉山したものを、大和鉱業という名前で租鉱山にして児玉譽士夫一族にやらせておいて、それがやがて新夕張炭鉱株式会社として、また名称が戻る。新夕張炭鉱も食いつぶして、今度は大和鉱業センターというのができて、これが、いまゴルフ場を経営したり、新夕張会館を経営したり、いろいろなものを経営して夕張に拠点を持っておる。こういう、いわくつきの地帯に存在するものであることが問題だと思うのです。
2011年05月06日
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昭和二十一年の春 争議が終わって ほっとする間もなく 組合の勢力が強くなって 今度は重役総退陣の要求を突きつけてきた その末に 私を常務にかつごうという運動がおこった 私としては痛し痒しだが 新しい時代には新しい人間でやるべきだと考えた島田さんは 一応全重役の辞表をあずかることにした 私は秘書部長なので この辞表の集め役を命じられたばっかりに あの野郎とにらまれる貧乏くじを引いてしまった でなくとも島田さんについて北炭に移った人間だから 次々へと誤解が生まれたしかし それがそのままでおさまればよかったが 昭和二十二年になってほんとうに総退陣ということになってしまった あの時の辞表をかえしてくれといったところで それを預かっている元締めの島田さんがやめるんだからどうにもならない 残った私が非難の的になり 特にやめていく重役の線につながる連中から強烈な排斥運動がおこった 人情の常でしかたがないが それまで私を常務に押していたものまでもが反対の立場にたち すっかり私を悪者あつかいした排斥運動の中心になっている夕張の組合長から この際 一応平取締役になり たとえ推薦されても常務は辞退してもらいたいといってきたが それに対して 俺は別に常務なんかになりたくはないが そうかといって諸君の指図は受けたくない 反対なら反対で徹底的に排斥すればいいじゃないかといったものだやがて二月にはいって総会という段になったが 三井の株は全部 持ち株整理委員会に押さえられているので総会は開けない ghqにお百度を踏んだが 総会の当日になっても許可がおりない さぐってみると その原因の一つに私に対する中傷のあることがわかった中に 萩原の常務推薦の影には なんとか商会で儲けた金の一部三千万円を組合にばらまいた事実があるといった投書もあったりして 私をあきれさせたあとではっきりしたことだが 私を引きずり落とすために投書を出させた人間にしてみれば いつかウソ八百がばれても 総会さえ済んでしまえば気の毒なことをしたなぐらいで一巻の終わりにできるというコンタンだったようである なんともひどいはなしであるそんなことから ghqの許可が下りたのは 総会の始まる一時間前であった これには笹山忠夫さん 野田岩次郎さんらが大いに好意的に動いてくれたのである 一時はかなり緊迫した場面もあった それは こういうことだ 野田さんが自分でghqに乗り込み 熱心に真相はこうだと説明してくれたのがきいて それでは議案の中から私に関する一項を除いて 委任状を出すということになった ところがここで島田さんは そんなばかなはなしがあるものか 委任状はよこさなくともよろしい 総会は流会にしよう とばかり デンと腰をすえてしまった普通なら 問題が山積しているおりだから 今回は君も我慢して見送ってくれということなのに ガンとして総会を延ばすことにした一方では島田さんの心意気がしのばれてうれしかったが また一方では立場上ずいぶんつらい思いをした その後もひきつついて 三浦義一さんや 笹山忠夫さんが 彼は断じてそんな人間ではないと説いてくれたりしたおかげもあって 先に述べたように総会一時間前の許可となったのであるさて いよいよ常務就任ということになったら それまであんなに私を推してくれたというのに 投書に盛られた ウソ八百のためにみんなから冷たい目でみられた しかしそんな会社は架空の名前で真相はまもなくわかった この事件のあとで投書家連もやってきて ほんとうにもうしわけないことをした いっぱい飲まされて あんなばかなことをしてしまって とあやまった私の履歴書 萩原吉太郎 より編注 1 かなりの内部抗争が社内であったことに 留意 2 三浦義一先生が面白い場面に登場していることに留意 3 工作費を誰が負担しているか
2011年05月05日
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昭和二十一年の春 争議が終わって ほっとする間もなく 組合の勢力が強くなって 今度は重役総退陣の要求を突きつけてきた その末に 私を常務にかつごうという運動がおこった 私としては痛し痒しだが 新しい時代には新しい人間でやるべきだと考えた島田さんは 一応全重役の辞表をあずかることにした 私は秘書部長なので この辞表の集め役を命じられたばっかりに あの野郎とにらまれる貧乏くじを引いてしまった でなくとも島田さんについて北炭に移った人間だから 次々へと誤解が生まれたしかし それがそのままでおさまればよかったが 昭和二十二年になってほんとうに総退陣ということになってしまった あの時の辞表をかえしてくれといったところで それを預かっている元締めの島田さんがやめるんだからどうにもならない 残った私が非難の的になり 特にやめていく重役の線につながる連中から強烈な排斥運動がおこった 人情の常でしかたがないが それまで私を常務に押していたものまでもが反対の立場にたち すっかり私を悪者あつかいした排斥運動の中心になっている夕張の組合長から この際 一応平取締役になり たとえ推薦されても常務は辞退してもらいたいといってきたが それに対して 俺は別に常務なんかになりたくはないが そうかといって諸君の指図は受けたくない 反対なら反対で徹底的に排斥すればいいじゃないかといったものだやがて二月にはいって総会という段になったが 三井の株は全部 持ち株整理委員会に押さえられているので総会は開けない ghqにお百度を踏んだが 総会の当日になっても許可がおりない さぐってみると その原因の一つに私に対する中傷のあることがわかった中に 萩原の常務推薦の影には なんとか商会で儲けた金の一部三千万円を組合にばらまいた事実があるといった投書もあったりして 私をあきれさせたあとではっきりしたことだが 私を引きずり落とすために投書を出させた人間にしてみれば いつかウソ八百がばれても 総会さえ済んでしまえば気の毒なことをしたなぐらいで一巻の終わりにできるというコンタンだったようである なんともひどいはなしであるそんなことから ghqの許可が下りたのは 総会の始まる一時間前であった これには笹山忠夫さん 野田岩次郎さんらが大いに好意的に動いてくれたのである 一時はかなり緊迫した場面もあった それは こういうことだ 野田さんが自分でghqに乗り込み 熱心に真相はこうだと説明してくれたのがきいて それでは議案の中から私に関する一項を除いて 委任状を出すということになった ところがここで島田さんは そんなばかなはなしがあるものか 委任状はよこさなくともよろしい 総会は流会にしよう とばかり デンと腰をすえてしまった普通なら 問題が山積しているおりだから 今回は君も我慢して見送ってくれということなのに ガンとして総会を延ばすことにした一方では島田さんの心意気がしのばれてうれしかったが また一方では立場上ずいぶんつらい思いをした その後もひきつついて 三浦義一さんや 笹山忠夫さんが 彼は断じてそんな人間ではないと説いてくれたりしたおかげもあって 先に述べたように総会一時間前の許可となったのであるさて いよいよ常務就任ということになったら それまであんなに私を推してくれたというのに 投書に盛られた ウソ八百のためにみんなから冷たい目でみられた しかしそんな会社は架空の名前で真相はまもなくわかった この事件のあとで投書家連もやってきて ほんとうにもうしわけないことをした いっぱい飲まされて あんなばかなことをしてしまって とあやまった私の履歴書 萩原吉太郎 より編注 1 かなりの内部抗争が社内であったことに 留意 2 三浦義一先生が面白い場面に登場していることに留意 3 工作費を誰が負担しているか
2011年05月05日
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ある日岩田富美夫という右翼の大物が 池田成彬さんに面会を求めてきた南京で 居留民が寒さにふるえているというのに 三井物産がその石炭を横流ししたそんな売国奴は許せないと乗り込んできたわけだが 池田さんは島田さんに回し 島田さんは田村秘書課長に 田村さんは馬場課長代理に押しつけてみんな尻込みして会おうとしない お前が行けとういうことになって応接間に顔を出したら 相手は紋付きはかまの出で立ちでにらんでいる結果はどうあろうと れっきとした人間が出てくると思ったのに 名もない私のような私のような若造があらわれたのでよけいおこったらしい用をきいて上司に話したら それは物産の出来事らしいからそっちにいってもらえという といわれても 会うのはこっちだから閉口したそれに若いものが持つ正義感というか ずいぶんひどいことをするもんですね と相手の話に共鳴したから むこうもご機嫌になった それですめばよかったものを これだけ調べるにはかなりも元手がかかったでしょう これでいったいどのくらいになるんですかとやったのがいけなかった岩田富美夫さんはかんかんになってしまった 私は岩田という男を別にえらいともこわいともおもっていなかったが いつまでもにらんでいるので この話しは直接 物産に行った方がケリがつきやすいでしょうと 物産にも話をつけて帰ってもらった その私の裁き方がきにいったらしく それからかれの関係している やまと新聞の相撲のさじきを提供してくれたりしたが その頃岩田の客分をしていたのが児玉誉士夫氏であった 私と児玉さんとのつながりは こうして生まれた私の履歴書 萩原吉太郎より見事に 抱き込まれたことに ご本人が気がついていないのが面白いです
2011年05月04日
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