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イルミネーションマッチ大会で軍団抗争完全決着戦となるWWE秋の祭典である「サバイバーシリーズ'92」は異例のシングル、タッグによる決着戦が主流となった。今大会、唯一のイルミネーションマッチはナスティ・ボーイズ&ナチュラル・ディザスターズ vs マネー・INC&ビバリー・ブラザーズであった。どちらかと言えば、全大会のサマースラムにて因縁を作った試合の完全決着マッチとなり、ジ・アンダーテイカー vs キマラのコフィン・マッチビッグ・ボスマン vs ネイルズの警察官と囚人のナイトスティック・ポール・マッチそして、サマースラムにてランディ・サベージvsアルティメット・ウォリアーのWWE世界戦をリック・フレアー乱入で滅茶苦茶にされた結果、サベージとウォリアーは共同し、「アルティメット・マニアックス」を結成した。レイザー・ラモン&リック・フレアーと対決が決定していたがここで、アルティメット・ウォリアーがWWEを離脱。タッグパートナーを失ったサベージは奇妙な行動に出た。パートナーはヒールなのにレスリング技術に長けており喧嘩にも強いストロングスタイルのレスラーを名指しした。元AWA世界王者:ミスター・パーフェクトことカート・ヘニングである。サベージの男気の行動にヘニングは期待に答えランディ・サベージ&ミスター・パーフェクト vs レイザー・ラモン&リック・フレアーが実現した。そしてメインエベントは、ハルク・ホーガンというスーパースター不在の中、WWEは新たなる世代レスラーを誕生させた。天龍離脱で同じ境遇に立たされた全日本プロレスが三沢光晴、川田利明を中心に超世代軍が奮起し新たなるファン層の獲得に成功した事をヒントにWWEでも新世代戦士を作り上げた。それが、WWE世界王者となったブレット・ハートとインターコンチ王者となったショーン・マイケルズの新しい感覚同士の世界タイトルマッチである。この試合、米マットでは見られないハイスパートレスリングでファンにスリルを覚えさせ、それまでの少年ファンの多かったホーガン政権から、青年を中心とした新しいファン獲得に成功している。【4/28 20時から5/9 10時まで★ポイント10倍★☆期間限定】WWE ショーン・マイケルズ ボーイフッド・ドリーム [字幕]|中古DVD
2017.05.11
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1972年10月、会社経営に大きな不満を持ち、日本テレビに関係が近かった馬場が日本プロレスから独立して創設したのが王道・全日本プロレスである。全日本プロレスはアメリカンプロレスの源流を置きこの時期に鶴田を輩出してミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場し、人気を呼んだ。しかし、1990年には天龍源一郎をはじめとする多くの選手がSWSに移籍して存続が危惧される。これは、新日本の猪木がトップから退かないという理由で長州力、前田日明らが脱退したのとは別の理由で、慎重すぎる物事の進み方と、サラリーマン化した全日本マット界により、馬場体制に不満を持った選手が新団体・SWSに移籍したという経緯である。だが、事態は2度繰り返してしまう。2000年6月、馬場死去後、社長に就任した三沢が全日本改革と馬場夫人の全日本伝統保持の主張がぶつかりあい三沢を含めた選手26人、大半の職員が全日本プロレスを離脱。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレスの株式も手放す。その後、天龍の復帰、フリー、他団体、馬場時代からの常連外国人選手の参加により全日本プロレスは運営を維持していたが2002年2月26日、新日本を退団した武藤、小島聡、ケンドー・カシン、WWEを退団したカズ・ハヤシが移籍、新生・全日本プロレスとして生まれ変わり数々の名勝負で人気を何とか維持し続けた。しかし、2011年5月、VOODOO-MURDERSの不祥事で武藤敬司が社長辞任し、スピードパートナーズの社長白石伸生が全日本プロレスの株式を取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立して新しい運営会社としてスタートを切った。白石はfacebookで問題発言を繰り返した事により新日本プロレスを中心に、抗議と反感を呼んでしまい結果として全日本の分裂騒動の発展となった。その後、白石の強権執行により、2013年6月1日に新役員体制が発表され、白石が新社長に就任すると共に、武藤敬司は取締役会長を辞任。武藤本人によれば「もともとワンマッチ契約というか、契約までいかない覚書みたいので出てたから」という立場であったとの事で、会長辞任と同時に全日本を退団していた事も後に明らかになった。その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが交渉が不調に終わった事から退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手、スタッフを中心に全日本プロレス退団を呼びかけで船木、河野、KAI、真田聖也、中之上靖文、浜亮太、田中稔、カズ、近藤、大和ヒロシ、アンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明。一方で大森、諏訪魔、ジョー・ドーリング、征矢学、SUSHI、バーニングの5人が全日本への残留を明言した他、ケア、レフェリーの和田が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにするなど、白石による新体制を支持する選手、スタッフも少なくはないが、全ての練習生とスタッフの大半が退社しており、武藤側が作り上げた体制は全日本プロレスからほぼ消滅した。【数量限定】SR全日本プロレス ファンが選んだ人気レスラー+J馬場 /全7種セット
2017.04.27
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1960年代のプロレスには、米国メジャー団体による4大世界タイトルが存在した。米国最古のプロレス団体・NWAの世界王座NWAを脱退して設立された・AWAの世界王座と同じくNWAを脱退して創立した・WWEの世界王座、そして先の団体と共にアメリカの一角を占めロサンゼルスで大成功していたWWAの世界王座である。NWA世界王座は「ゴッチの後にゴッチ無し」と謳われたフランク・ゴッチが、ライバルのトム・ジェンキンスとのアメリカン王座を巡る連続防衛やヨーロッパ王者のジョージ・ハッケンシュミットとアメリカン王座のダブルタイトル戦に勝利し1905年10月、NWA世界王座が、ここに誕生した。AWAはシカゴ、オマハなどにも存在したが、バーン・ガニアがAWAを統一し当時、NWA世王者であったパット・オコーナーを初代・AWA世界ヘビー級王者と認定した。WWEはニューヨークのMSGを拠点としてプロレス、ボクシングの興行を行っていたプロモーターのビンス・マクマホン・シニアがドル箱レスラーのバディ・ロジャースを初代WWE王者に認定し、その後、ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレス、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、ブレット・ハート、スティーブ・オースチン、ランディ・オートンなど次々とスーパースターを生み出した。そして第4のメジャー団体として登場したWWAはエドワード・カーペンティアやフレッド・ブラッシーをはじめ世界チャンピオンに力道山は東洋人レスラー初、デストロイヤーは覆面レスラー初、ライトは黒人レスラー初の世界ヘビー級王者であるなど、他地区とは一線を画す独自のマッチメイクを展開していた。このWWAは日本とのパイプが強く、グレート東郷を始め、外国人招聘ルートの主軸となりロサンゼルスのマットに登場したレスラーは日本マットに上がっている。しかし、WWA消滅後の王座はアメリカス王座に降格し代わりに第4の世界王座に選ばれたのがかつて力道山が保持していた日本の主砲、インターナショナル王座で、4大メジャータイトルになってからはジャイアント馬場を筆頭に、ジン、キニスキー、大木金太郎、ドリー・ファンク・ジュニア、ブルーザー・ブロディ、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンがこの王座を巡り、大攻防線となった。WWE Winged Eagle ベルトバックル
2017.04.13
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WWE夏の祭典「サマースラム'92」この年のサマースラムは米国からロンドンのウェンブリー・スタジアムへ進出し観客動員数80,355人を記録している。今大会は4大メインイベントとしてWWEタッグ、WWE世界、インターコンチの3大タイトルマッチに加え因縁のシングルマッチという豪華なカードがロンドンにて開催された。これは、WWEが世界進出を狙っていた時期でプロレス中継をイギリス、日本、イタリア、韓国、ドイツ、メキシコ、ブラジルなど全国でテレビ中継、ビデオをコンテンツとして売り出されまず、ヨーロッパでの人気に注目したWWEはロンドンへ進出し、成功する事で日本への進出も図った。WWEタッグ王座戦ではジョン・テンタ&タイフーンのジャイアント馬場を踏襲した王道イズムの王者コンビに富裕層のゲイの兄弟を新しいギミックとして活動していたブレイク&ボウの自称・兄弟コンビビバリー・ブラザーズと対戦。何気ない王道・全日本vsWWEの図式であったが王者チームの勝利に終わっている。WWE世界ヘビー級王座戦ではランディ・サベージvsアルティメット・ウォリアーの因縁の対決がロンドンで実現した。これは、ロイヤルランブル'90、レッスルマニア7にてプロレス湾岸戦争のひとつとして悪=サベージvs善=ウォリアーのアングルで名勝負を行ってきた二人をWWEが評価しロンドンでカードを組んだ形跡がある。しかし、試合途中、この日にカードを組まれなかった次の世界戦挑戦者のリック・フレアーが乱入し試合は混乱した揚句、カウントアウトでウォリアーが何とか勝利を収めるも、ルールにより王座移動はなし。これは、この試合後に決定していた日本での次々挑戦者の天龍源一郎がタイトルを奪取するのをWWE幹部が恐れていた為、天龍に強いリック・フレアー有利にする為の画作とも言われている。そして、ジ・アンダーテイカーvsキマラでは全日本から移籍してきたジャイアント・キマラに対し不死身のアンダーテイカーという、ホラーvs原住民の変わった二人が対戦し、話題を呼んだ。そして、今大会のメインイベントとなったのが米国ではセミファイナル扱いだったインターコンチ王座戦で挑戦者がイギリス出身のデイビーボーイ・スミスでWWEインターコンチネンタル王座戦は義理の兄である王者 ブレット・ハートにブリティッシュ・ブルドッグことデイビーボーイ・スミスが挑戦する身内対決となった。スミスの妻はダイアナ・ハートでブレット・ハートの妹でありウェンブリー・スタジアムに観戦していたダイアナの見守る中で試合は行われた。試合内容はメインに相応しく、レスリングの攻防戦となり最後はブリティッシュのスミスが勝利しロンドン大会を熱く閉める内容となった。【ポイント20倍】ジュエリーシール ステッカーキティ世界旅行ジュエリーステッカー ロンドン サンクレスト DC-53KT
2017.03.30
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国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持ち新日本プロレスでは国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノアではマイク・パフォーマンスで親しまれたのが静かなる闘将・ラッシャー木村である。大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団し、翌1965年4月2日のリキ・スポーツパレスでデビュー。豊登の付き人をしていた関係から1966年に東京プロレスの旗揚げに参加し東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍し、ラッシャー木村に改名する。1970年8月に、日本初の金網デスマッチを行うも第2戦となるオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負う。1973年6月19日、当時の国際プロレスのエースだったストロング小林に挑戦状を突きつけ、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった。1975年、マッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得、6月にアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ12月にはジャイアント馬場にも挑戦を表明し全日本プロレスとの団体対抗戦を行う。以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで6年間に渡ってエースとして活躍した。1981年10月、国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。しかし、田園コロシアムの興行で木村は集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い「こんばんは」と丁重に挨拶を行なった所、ファンを拍子抜けさせ、会場の失笑を買い世間にギャグとして広まってしまった。この、新日本での戦いで印象深いのは猪木vs木村&浜口&寺西のハンディマッチ戦でこれは、その後の3WAYマッチの基本となった。1984年、新日本プロレスで勃発した内紛によって新間寿に請われて前田日明らとUWFの旗揚げに創設メンバーとして参加する。UWF離脱直後に全日本プロレスへ移籍し'84世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場のタッグパートナーとして抜擢されたにもかかわらず、愛知県体育館での試合中に謀反した。以後、国際プロレスの残党である剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。全日本軍、ジャパンプロレス勢と敵対し試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが注目を集めた。その後はフェイスターンし、馬場との「義兄弟コンビ」で1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされ、馬場の事を「アニキ!」と呼び、後に百田光雄を加えて「ファミリー軍団」を結成、悪役商会を相手にユーモラスな前座試合を展開。この時のマイクパフォーマンスは馬場への「兄貴」渕正信への「独身ネタ」永源への「おちょくりネタ」大熊、泉田、ディートンへの「イジリネタ」などバラエティに富んだ内容となっており、当時の全日本プロレスのコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」を担った。馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛を経てプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加。2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言し翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが2004年7月10日、体力の限界を理由に東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明した。2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。ノア主催のお別れの会ではアニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ。日本プロレス、東京、国際、新日本、全日本、UWF、そしてノアとメジャー団体の全てに参戦したミスターメジャー、ラッシャー木村。あなたの激しく、明るいプロレスは今なお、忘れる事はありません。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村送料無料/国際プロレス・クロニクル 上巻
2017.03.09
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「青春の握りこぶし」「絶対王者」小橋建太が2013年3月17日、引退した。ノアの役員を退職した時点でレスラーとしてはフリー契約となっている為、引退興行は「小橋建太&プロレスリング・ノア共同開催」となっている。開会宣言は、かつて小橋を追い求めた元・FMWのハヤブサが務め、小橋建太引退セレモニーでは川田利明、蝶野正洋、百田光雄、野田佳彦元内閣総理大臣、伍代夏子、徳光和夫、テリー伊藤、福澤朗、井浦新、倉持明日香、馳浩、力皇猛、田上明が花束を贈呈しレターメッセージではWWE副社長であるジョン・ロウリネイティスことジョニー・エースが小橋にメッセージを送り、VTRではスタン・ハンセンがコメントした。試合の方は小橋に所縁のある選手が登場しノアマット初登場と思われる渕正信、天龍源一郎、小川良成のレボリューション新日本からは永田裕志、小島聡、棚橋弘至全日本時代から凌ぎを削ってきた高山善廣&大森隆男のノーフィアーが参戦。そしてメインイベント「FINAL BURNING」8人タッグマッチ 60分1本勝負小橋建太&武藤敬司&秋山準&佐々木健介vsKENTA&潮崎豪&金丸義信&マイバッハ谷口小橋建太、最後の花道でGRAND SWORDが鳴り響き大観衆が、コバシコールで応える。小橋の腰にはGHCのベルトが巻かれていた。試合は逆水平とチョップの応酬という、意地と意地の張り合いとなり更にローリングク・レイドル、拷問コブラツイスト、ハーフネルソン・スープレックス、コーナーでのマシンガン・チョップ、そして剛腕ラリアットと続く。武藤がムーンサルトを披露すると小橋を指差し小橋はそれを受けて”青春の握りこぶし”で応え、最後はムーンサルト・スープレックスで勝利を収めた。リング上でインタビューを受ける小橋に途中観客から、三沢コールもおこり、四天王プロレスという一時代を築いた偉大なレスラーに最後の幕であった。私もあなたを見て、職場で燃えようと思いました。あなたがいてくれたから、努力しようと思いました。あなたが先輩越えを果たしたから、頑張りました。あなたが後輩たちに追われる立場になったから私も後輩に対して厚い壁を作らなければと思いました。小橋建太は私にとって、社会では、こうあるべき、また、どんな時でも熱く戦わなければならないという使命感、責任感、冷静さを教えてもらいました。本当に感謝しております。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村小橋建太引退特別号 2013年6月1日号2013年6月1日号【電子書籍】
2017.02.23
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1992年に行われたWWE春の祭典「レッスルマニア8」はダブルメインイベントを目玉に据えてプロモーションが展開された。ひとつはランディ・サベージの妻であるエリザベスと、ロイヤルランブルを制してWWE王座を獲得したリック・フレアーの不倫騒動の因縁試合。サベージとフレアーはエキサイトしフレアーの大流血試合となってしまい最後はサベージが勝利しWWE王者に返り咲いた。そしてホーガンの後継者として後押しされてきたシッド・ジャスティスによる、ロイヤルランブルでの裏切り行為を切っ掛けとしたホーガンによる制裁マッチであった。ホーガンは、試合前からシッド戦を最後に「新日本へ行く」など、引退をほのめかしていた為、マスコミからの注目も非常に高い試合となった。最後はパパシャンゴが乱入し、試合はでホーガンが反則勝ちとなった。ここで、半年ぶりに解雇となっていたアルティメット・ウォリアーがホーガンを助けにこのバトルに参戦した。WWE王座戦が組まれた大会としては本大会がレッスルマニア初のノンタイトルのメイン戦となった。なお、この試合は映画界へ転身をはかっていたハルク・ホーガンの一時的な引退試合という位置づけでもあった。この後、ホーガンは新日本のマットへ上がりシッド・ジャスティスもWWEに不満を持ち「全日本へ行く」と言い残しWWEを去っている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★メール便送料無料★Justice ジャスティス 球をかつぐおじさん【ロックTシャツ バンドTシャツ パンクTシャツ ライブTシャツ サマソニ ビッグTシャツ】smk125 10P03Dec16
2017.02.09
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2012年1月2日、全日本プロレスにおいて現役引退を表明した黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・ファンクス、大仁田厚、アントニオ猪木など引退試合を経てプロレスマット界を去るのが通常だがブッチャーはハンセン、鶴田、ラッシャー木村のようにセレモニーやコメントで幕を閉じた。ブッチャーは1961年、ゼーラス・アマーラと名乗りザ・シークの牛耳るデトロイトで、NWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開。1970年、日本プロレスの8月興行で初来日し無名のブッチャーは、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。馬場の持つインタ王座に挑戦し、ワールドリーグ戦では優勝決定戦に進出するなど一躍大物の仲間入りを果たした。1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。その後は全日本の外国人選手を束ねるなどの権力を持つようになり馬場にとってブッチャーは欠かせない存在となった。1975年、力道山十三回忌追善特別大試合では頭突き世界一決定戦と題された大木金太郎との一戦や1977年の世界オープンタッグ選手権ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させザ・ファンクスと抗争を展開するなど記憶に残る試合を行った。1979年、最強タッグで、地獄突き誤爆に怒ったザ・シークの火炎攻撃を受け仲間割れ、シークとは幾多の流血戦を繰り広げた。1981年、新日本プロレスに移籍し、アントニオ猪木を標的とする。この移籍は全日本と新日本の外人引き抜き戦争の発端となった。新日本ではハルク・ホーガン、ワフー・マクダニエル、ダスティ・ローデス、ディック・マードックといった強豪レスラーとも対戦し、猪木とのシングル対決では蹴りの連打からブレーンバスターで新日本移籍以来初のフォール負けを喫した。1987年11月に全日本プロレス復帰し、どの会場でもブッチャー人気が爆発して、大「ブッチャー」コールも起きるようになった。タイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」や「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン&アンドレと対戦。1996年には東京プロレスに突如移籍し、高田延彦との異次元対決が実現。その後、天龍源一郎率いるWARグレート小鹿の大日本プロレスに参加した。2001年のジャイアント馬場三回忌追悼興行を機に、三度全日本に復帰し、2010年には新日本マットに25年ぶりに参戦している。代表的な入場曲「吹けよ風、呼べよ嵐」はブッチャーの代名詞となる曲でありこのテーマに乗ってブッチャーが入場するシーンを我々は忘れる事はないだろう。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【新発売!!】黒い呪術師 アブドーラ・ザ・ブッチャーラグランTシャツ GRAY
2017.01.26
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全日本プロレスが新春に恒例としてバトルロイヤルを行っているが米国・WWEも1月にビックイベントして時間差バトルロイヤルを決行している。WWE・冬の祭典「ロイヤルランブル」の第5回大会にあたる1992年は、秋のPPV大会で空位となったWWE世界ヘビー級の王座決定戦として開催された。今大会は全日常連外国人レスラーが殆ど占めておりデイビーボーイ・スミス、テッド・デビアス、リック・フレアー、ジェリー・サッグス、キング・ハク、ケリー・フォン・エリック、リポマン、ニコライ・ボルコフ、ビッグ・ボスマン、ハーキュリーズ、ロディ・パイパー、リック・マーテル、マイク・ロトンド、ジミー・スヌーカ、ザ・バーザーカー、新日系外国人レスラーはハルク・ホーガン、シッド・ジャスティス、ジェイク・ロバーツ、グレッグ・バレンタイン、アイアン・シーク、スキナー、サージェント・スローター、ティト・サンタナ、ジム・ドゥガン、SWS系の常連外国人レスラーはランディ・サベージ、ショーン・マイケルズ、ジ・アンダーテイカー、バージル、ザ・ウォーロード、ザ・バーバリアン、このメンバーにより、かつて全日本プロレスで繰り広げられた夢のカードがWWEで実現する運びとなった。更にNWA王座を巡ってリック・フレアーとの因縁があるレスラーが多数、参加しているのも興味深い。注目はハルク・ホーガンとの頂上対決であり、引退を考えていたホーガンとの抗争は今一つ盛り上がらなかったが、ホーガンサイドに付いていたジャスティスが弱肉強食のマット界の掟として、裏切りホーガンを場外へ投げ出し、失格させたがこの行為に怒ったホーガンは逆にジャスティスをリング外から引っ張り、ずり降ろした為フレアーがロイヤルランブルで優勝。この試合に懸けられていたWWE世界ヘビー級王座を獲得し保持していたNWA世界王座と合わせて米国4大メジャータイトル2冠王となった。ちなみに先に4大メジャータイトル2冠王となったのはAWA、インター王座2冠となったジャンボ鶴田である。試合後はホーガンとジャスティスの喧嘩が始まり収拾のつかない乱闘となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★大柄なので大迫力!★【 証明書・保証書付き 】【直筆サイン入り写真】ベン・アフレック (バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 映画グッズ/Ben Affleck)
2017.01.05
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かつて、全日本プロレスがシリーズ最終戦で必ず使用していた会場が日本武道館。ライバルメジャー団体・新日本プロレスが東京ドームを使用していたのに対し全日本は日本武道館を超満員、フルハウスにし新日本との差をつけていた。そして日本武道館は全日本プロレスの聖地とも呼ばれた。全日本プロレス中継はその功績を讃え特別企画として「日本武道館名勝負集」を放送した。1966年12月3日、インターナショナル・ヘビー級選手権ジャイアント馬場vsフリッツ・フォン・エリックここからプロレスが日本武道館を使用した記念すべき試合となった。1975年12月11日、力道山13回忌大木金太郎vsアブドーラ・ザ・ブッチャー1985年6月21日、PWFヘビー級選手権ジャイアント馬場vsラッシャー木村1986年3月13日、全面戦争、全日本vsジャパンジャンボ鶴田vsアニマル浜口1986年12月12日、最強タッグ決定リーグ戦馬場&輪島vsリック・マーテル&トム・ジンク1987年3月12日、NWA世界ヘビー級選手権リック・フレアーvs輪島大士1987年6月9日、インタータッグ選手権ロード・ウォリアーズvs鶴田&輪島異種格闘技戦、馬場vs ラジャ・ライオン1988年3月27日、インターナショナルヘビー級選手権ジャンボ鶴田vsブルーザー・ブロディ1989年(平成元年)3月8日、NWA世界ヘビー級選手権リッキー・スティムボートvs二代目・タイガーマスク1990年6月8日、ジャンボ鶴田vs三沢光晴1990年9月1日、三冠挑戦者決定戦ジャンボ鶴田vs三沢光晴1991年6月1日、ジャイアント馬場復帰戦馬場&木村&渕vsブッチャー&キマラ&キマラII武道館の熱いバトルをハイライトで綴りこれぞ全日本を象徴した番組となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★テレカ テレホンカード★小橋健太 [三冠選手権防衛記念 1996.10.18日本武道館] テレホンカード 50度数 未使用品 【中古】 P11Sep16 テレカ テレフォンカード i0470
2017.01.02
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抜群のセンスを持ち、インディ出身のレスラーでメジャー団体のトップレスラーから高い評価を経たレスラーがハヤブサである。ハヤブサは大仁田厚が代表を務めるFMWに入団し昼間はアルバイト、夜に練習をする生活を送っていた。当時より「若手の中では素質がズバ抜けていた」と師匠の大仁田は語っている。1991年5月5日にデビューし、海外遠征に出発。メキシコのプロレス団体WWAを中心に活動していた。1995年5月5日、FMW川崎球場大会において大仁田の引退試合の相手を務め、電流爆破マッチに初挑戦。その後は「新生FMW」のエースとして団体を引っ張る立場となり、大矢剛功とのタイトルマッチに勝利し大仁田由来のベルト・世界ブラスナックル王座を奪取する。しかし、1996年には肘がパンクしてしまい、手術のため長期離脱となるが選手不足ともあり短期間で強行復帰せざるを得なかった。5月の川崎球場には田中正人と組んで登場したがテリー・ファンク&ミスター・ポーゴ組に敗れる。そして、ハヤブサは標的をFMWの中からではなくメジャー団体・全日本プロレスの小橋建太へ向けた。この心意気に大仁田が全日本プロレス社長のジャイアント馬場に掛け合い、馬場はかつての愛弟子である大仁田の頼みを邪険に扱う事なく、ハヤブサの全日参戦を承諾した。そしてハヤブサは馬場同席で全日参戦発表の記者会見まで馬場のお膝元であるキャピトル東急ホテルで開かれた。「'97チャンピオン・カーニバル」より全日にスポット参戦後、全日本マットで新崎人生とタッグを結成し小橋建太&志賀賢太郎組に勝利。FMWの川崎球場大会では、王道・全日本が参戦し小橋建太&太陽ケアと戦い、自らが小橋のラリアットに敗れた。年末には人生と共に全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦。強い格付け意識を押し出した当時のメジャー団体の中で戦績は2勝7敗と振るわなかったが、多くの好勝負を展開。この年はFMWと全日本プロレスをまたにかけた活躍が評価された。1999年2月、人生とのタッグでアジア・タッグ王座を奪取し全日本プロレスから22年ぶりにベルトが流出した。、その後、FMWマットで田中&黒田哲広相手にアジア・タッグ防衛戦が行われた。しかし、2001年10月22日、ハヤブサは試合中ラ・ブファドーラの失敗というアクシデントにより頚椎を損傷の重傷を負った。ハヤブサは治療とリハビリに臨むために長期・無期限の休業を余儀なくされその後、リハビリにより、自力で立ち上がり、補助付きで歩けるまで回復した。2014年には「5年後(2019年)、レスラーとして再びリングに立ちます」と宣言したが2016年3月3日正午、くも膜下出血で死去した。同世代で私の勝手な思いであるが一緒に時代を駆け抜けたハヤブサあなたの努力は私の努力でもありました。ハヤブサよ、永遠なれ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【新品・メール便 送料無料】 キングオブプロレスリング 第13弾 BOX開封商品はCBOXで!キングオブプロレスリング 第13弾 ≪ハヤブサ FIGHT with DREAM≫(R)☆ 18弾 販売中☆【コード未登録商品】{あす楽対応}
2016.12.22
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1983年8月31日に全日本プロレスのリングで現役を引退したテリー・ファンクに続き2008年3月1日、全日本プロレス両国国技館にてドリー・ファンクJrが引退試合を行った。グレート・テキサンことドリー・ファンクJrは父・シニアの英才教育の元、1963年に初マットを踏み1969年2月11日、フロリダ州においてジン・キニスキーを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得。4年3か月間にわたる長期政権を築いき日本ではジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二と防衛戦を行っている。実力世界一と謳われたドリー・ファンクJrは全日本プロレスの常連になると、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ホースト・ホフマン、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディらと好勝負を残している。弟・テリーと1977年、世界オープンタッグ選手権、1979年・1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝し、1981年にはインターナショナル・ヘビー級王者にも輝いている。全日本への参戦は1990年代半ばまで続きその間1983年と1985年の最強タッグにはジャイアント馬場とコンビを組んで出場し1984年にも馬場とのコンビでPWF世界タッグ王座決定リーグ戦に出場している。2001年10月には新日本プロレスに初参戦、7日の「無我」後楽園ホール大会では弟子の西村とシングルマッチを行い8日の東京ドーム大会にはテリーとのザ・ファンクスで出場、藤波辰爾&ボブ・バックランドのチームと対戦した。2008年3月1日、全日本プロレス・両国国技館大会でドリー&西村vs天龍源一郎&渕正信にて引退試合を行った。指導者として多くの後進を育成してきており門下にはジャンボ鶴田、天龍源一郎、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、テッド・デビアス、ディック・スレーター、ティト・サンタナ、ジョニー・エース、ジェフ・ハーディー、マット・ハーディー、テスト、ジャイアント・シルバ、クリスチャン・ケイジらがいる。全日本に継続参戦している頃はコーチ役も受け持っており三沢光晴らの成長に一役買った。このプロレス界における功績により2009年4月には弟・テリーと共にWWE殿堂入りを果たした。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【楽天ブックスならいつでも送料無料】史上最強 オールスター外国人烈伝 DVD-BOX~昭和の外国人100撰~ [ ドリー・ファンクJr. ]
2016.12.08
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「とんねるずのみなさんのおかげです」にて石橋貴明があるレスラーのモノマネをした事でプロレスファン以外に知名度が高まった。そのレスラーの名は悪役レスラーとして活躍し流血大王の異名で呼ばれたトーア・カマタである。トーア・カマタはハワイ州ホノルル出身で日系人らしく見せる為にトーア=東亜カマタ=蒲田と、ネーミングしたと言われている。日系人レスラーのトージョー・ヤマモトのパートナーとして太平洋戦争で被害者が多かったテネシー州にてNWA南部タッグ王座を奪取。次にミツ・アラカワとタッグチームを結成しAWAとWWAの世界タッグ王座の統一王者として1年間にわたって長期政権を築いた。その後、派手な着物をまとった日系ヒールとしてカナダの主要テリトリーを転戦し、アブドーラ・ザ・ブッチャーと流血の抗争を繰り広げた。1975年5月に国際プロレスに初来日しラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。金網デスマッチでも雌雄を決している。1978年5月には全日本プロレスに初登場。ジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦し38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り第2代のPWF王者となる。世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年に大木金太郎、1978年後半戦と1980年には因縁のアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで参加。1980年にはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクスと並んで最後まで優勝戦線に残っている。1979年のチャンピオン・カーニバルではブッチャーと対戦して引き分けているが、カナダ時代のような抗争アングルには発展せず全日本ではブッチャーのパートナーに回った。1980年、ディック・マードックとの対立アングルが組まれ3月2日に後楽園ホールで行われたシングルマッチではマードックを相手に大流血戦を演じた。馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座にはブッチャー、グレート・マーシャルボーグ、タイガー・ジェット・シンとそれぞれ組んで挑戦。1982年は1月3日に後楽園ホール、7月9日に熊本にて、ジャンボ鶴田のUNヘビー級王座にも2回挑戦した。最後の来日を果たした1987年に現役を引退。その後、石橋貴明により再び人気を得たカマタにフジテレビがカマタ招聘を企画したが、相談を受けた全日本プロレス側が当人の体調面の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがあるとの見解から実現には至らなかった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】悪役レスラーのやさしい素顔【電子書籍】[ ミスター高橋 ]
2016.11.17
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ホーガンの虎の子タイトルWWE世界王座が移動した。先の「サバイバーシリーズ'91」で挑戦者アンダーテイカーに王座が移動した事で世界中の話題となったこの試合はリターンマッチを行う事になった。1991年12月3日に行われた「チューズデイナイト・イン・テキサス」である。この大会の目玉は新たなる因縁を持ったランディ・サベージとジェイク・ロバーツ戦で夏の大会である「サマースラム」にてエリザベスと結婚式を挙げたサベージにご祝儀としてヘビが送りつけられサベージが蛇に噛まれてしまい入院するというハプニングが起こった。この経緯によりサベージはロバーツに復讐試合前からケンカ状態で試合が進みロバーツが必殺のDDTを連発しサベージをKOにまで持って行ったがフォールせず、大蛇を出して再び餌食にしようとさせたが、サベージの妻エリザベスの制止とWWE社長の命令によりノーコンテストとなり、泥試合となった。そしてWWE世界戦のリターンマッチは試合は好戦であり、途中までは技対技であったがNWA世界王者のリック・フレアーがホーガンにちょっかいを出し、ここで制止していたWWE社長のジャック・タニーがイス攻撃に巻き添えを食ってしまい更にアンダーテイカーの反則攻撃に怒ったホーガンがベアラーの骨壷を奪いアンダーテイカー目掛けて灰を投げ掛け最後はギロチンドロップで勝利を収めWWE王座を奪還した。しかし、それを目撃したタニー社長はこの王座移動を認めず、王座は剥奪。WWE世界王座は空位となった。この王座空位劇は、この後、日本で開催された「スーパーレッスル」で天龍源一郎がホーガンのWWE世界王座に挑戦が決まっていたが日本での世界戦を許さなかったフロント陣が無理やり空位にさせたという説があった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村お気に入りのコンチョでオリジナリティーを出そう!!クラフト社 レザークラフト用金具 ネジ式コンチョ 5個セット テキサススター Φ28mm 21373-01
2016.11.03
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かつてザ・シークが席巻したデトロイトでWWEが秋の祭典を興行した。1991年11月27日開催のサバイバーシリーズ'91第5回を迎えた今大会は恒例のイリミネーションマッチを4試合にWWE世界選手権を取り入れた大会となった。第1試合は因縁の対決を終結させた遺恨マッチで当時、米国の最大団体・WCWから移籍した世界マットの超大物、リック・フレアーが初参戦。リック・フレアー&ザ・マウンティー&テッド・デビアス&ザ・ウォーロードvs ロディ・パイパー&ブレット・ハート&バージル&デイビーボーイ・スミスのサバイバーマッチで注目するのがフレアーとパイパーの永遠のライバル対決で20代の頃から凌ぎを削ってきた二人が大ベテランとなってWWEマットで遭遇した。第2試合はサージェント・スローター&ジム・ドゥガン&テキサス・トルネード&ティト・サンタナvsカーネル・ムスタファ&ザ・バーザーカー&ハーキュリーズ&スキナーの異色対決。そしてWWE王座戦では超人・ハルク・ホーガンに墓掘り人・ジ・アンダーテイカーが挑戦。この頃のWWEはホーガンが休業を語り始め新世代戦士を育てようとした時期でもありその新世代戦士だったアルティメット・ウォリアーがWWE解雇となった為、急遽浮上したのがアンダーテイカーとシッド・ビシャスであり今大会はホーガンがアンダーテイカーに王座を明け渡す事になったが本題は、この後に行われたPPV大会で判明する。気を取り直した第4試合ではタッグチーム同士の対決でナスティ・ボーイズ&ビバリー・ブラザーズvsザ・ロッカーズ&ザ・ブッシュワッカーズそしてメインイベントはザ・ロードウォリアーズ&ビッグ・ボスマンvsナチュラル・ディザスターズ&アーウィン・R・シャイスター(IRS)の対決となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村WWE ディファイニング モーメント アンダーテイカー
2016.10.20
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「格闘技を超えたもの、それがプロレス」かつてジャイアント馬場が語った名言である。総合格闘技はUWF、PRIDE、K-1と一般にメジャー化してきている中、本格的な格闘技を目指したパンクラスが全日本マットに登場した。まず、U系のレスラーが全日マットに上がったのは高山善廣、垣原賢人、中野龍雄が最初でその後、リングスの長井満也、藤原組の藤原喜明、Uインターの安生洋二らが参戦した。そしてパンクラスはプロレス部門として「パンクラスMISSION」を立ち上げ、鈴木みのるが新日本、ノアに参戦。小橋建太、佐々木健介らと対戦し、2006年に全日本プロレスに参戦、4月のチャンピオン・カーニバルより全日本を主戦場とした。札幌大会で太陽ケアを破り三冠ヘビー級王座を奪取。鈴木は持ち前の毒舌で太陽ケア・NOSAWA論外・MAZADA・TAKEMURAと共に「GURENTAI」を結成した。2009年全日本プロレスの両国大会ではパンクラスのエースだった船木誠勝がプロレス復帰しメインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋&鈴木みのる組と対戦。そして全日本マットでパンクラス時代にライバルであった鈴木みのると15年ぶりのシングルマッチが実現。ここで、決着はつかず、2010年、両国大会で「金網マッチ」で船木vs鈴木が実現王道マットで総合格闘技のデスマッチが行われた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村送料無料【オープンフィンガーグローブ】【ポイント5倍!10/1(土)20:00~10/6(木)1:59まで】【パンチンググローブ】マーシャルワールド パンクラスオフィシャルグローブ PGPA3【05P01Oct16】
2016.10.06
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血が血を呼んでいるルール無用の試合があった。1979年12月「世界最強タッグ決定リーグ戦」終戦地上最凶悪コンビ・ブッチャー&シーク組は抗争を展開していたザ・ファンクスと激突。地獄突き誤爆に怒ったザ・シークはブッチャーに火炎攻撃を仕掛け仲間割れを起こした。以降、ブッチャーはトーア・カマタとコンビを組みシークとは幾多の流血戦を繰り広げた。元々この二人は師弟関係にあり、プロモーターにスカウトされたブッチャーはザ・シークの元で修業をし、カナダ各地を主戦場にした。一方のザ・シークは巨大組織・NWAのデトロイト地区プロモーターとして活躍しアラブ人で火炎攻撃専門の狂乱系ヒールとして一時代を築いたレスラーである。ザ・シークはプロモーターの手腕としては非常に高くカナダ、ロサンゼルス、テキサスにパイプを持ち更にはWWEと提携を組むまでに発展した。このブッチャーとシークは仲間割れした5ヶ月後、1980年5月2日、後楽園ホールにて遺恨試合が行われた。入場と同時に二人は場外で凶器を持ちながらケンカ状態で取っ組み合い、試合と言うよりも殺意に満ちたケンカとなった。レフリーのジョー樋口も仲裁に入るも凶器攻撃でレフリーをもふっ飛ばしリングインしないまま、3分30秒 両者反則となった。それでもケンカはまだまだ続き、実況席の倉持隆夫アナウンサーがザ・シークに襲撃され額を割られ救急車送りにされるという前代未聞のアクシデントになった。この試合、日本テレビの判断で未放送となった。同年暮れの世界最強タッグでシークはグレート・メフィストを連れて参戦、ブッチャー&トーア・カマタとの最終戦で両者リングアウトに持ち込みブッチャー組の優勝を阻止している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】十二因縁 縁~神様君と願いの絵馬【電子書籍】[ 友麻碧 ]
2016.09.22
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左腕を振りぬいて相手の首を刈り倒すウエスタン・ラリアット前傾姿勢で突進し、その圧倒的な強さで「不沈艦」と形容されたスタン・ハンセン1973年、ファンク道場で同期のジャンボ鶴田、ボブ・バックランドと苦楽を共にしアマリロ地区にてデビューする。ブロディとのコンビでUSタッグ王座を獲得しWWEマットでは時の世界王者であるブルーノ・サンマルチノの首を骨折させ一躍有名となる。1977年、新日本プロレスに初参戦しアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、1981年9月には田園コロシアムにおいてアンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。1981年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブロディ&スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した。ハンセンの移籍は秘密裏に行われており当時の関係者やファンを非常に驚かせた。全日本への公式移籍後は馬場、鶴田、天龍と闘うが鶴田との試合は旧知の間柄である事もあって噛み合わない試合が多かったがブロディと組んだ「ミラクルパワーコンビ」は圧倒的な強さを誇った。その後、デビアス、ゴディ、天龍らを新パートナーに世界タッグ王座を数回獲得し、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。1985年12月、リック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取。1990年の新日本・東京ドーム大会では目玉の一つとなった「新日本vs全日本」の一環としてIWGP王者であったベイダーに挑戦。4月13日の日米レスリングサミットではメインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。以後6月まで、レンタルという形で再び新日本プロレスのリングに立ち、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士とも対戦。全日本では天龍、鶴田が去った後も、プロレス四天王の壁として強さを見せ続けた。チャンピオン・カーニバルでは2連覇を達成し1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年・1999年と最強タッグで2年連続準優勝を果たし不沈艦健在を見せつけた。両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。2001年1月28日、東京ドームで引退セレモニーが行われた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例の事であった。引退後はPWF会長を務め、日本を主戦場としていた為アメリカでは評価は高くないと思われがちだが関係者やレスラーからは大変尊敬されており2016年にはWWE殿堂入りが発表され日本とアメリカを股にかけて激闘を展開したベイダーがインダクターを務めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】日は、また昇る。 男の引き際と、闘うべきとき THE SUN ALSO RISES. TIME TO MOVE ON, TIME TO FIGHT.【電子書籍】[ スタン・ハンセン ]
2016.09.15
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格闘技の殿堂といえば日本武道館、両国国技館、そして米国ではマディソン・スクエア・ガーデン。WWEが1991年に開催したサマースラムはプロレスのメッカ・MSGで行われた。今大会は8割がタイトルマッチという豪華な大会でインターコンチネンタル王座戦では米国の超世代戦士ブレット・ハートがAWA世界王者にもなったカート・ヘニングに挑戦。全日本常連外人だったテッド・デビアスが勝手に新設したミリオンダラー王座戦ではかつて自分の部下であったバージルが反旗を翻しデビアスに牙をむけた試合もありWWEタッグ王座戦では異例のストリートファイト形式で若手のタッグチーム・ナスティボーイズにベテランのザ・ロードウォリアーズが挑戦。そしてメインイベントには湾岸戦争完全決着戦ハルク・ホーガン&アルティメット・ウォリアー vs サージェント・スローター&カーネル・ムスタファ&ジェネラル・アドナン2対3のハンディキャップマッチであるがホーガン、ウォリアーのWWE最強コンビの前にイラク軍も敵わなかった。本来ならここで今大会は終了なのだが、先のビックイベント「レッスルマニア7」でアルティメット・ウォリアーとの敗者引退マッチにて30分以上の死闘を繰り広げ敗退したランディ・サベージが元マネージャーのエリザベスと復縁する事になりもうひとつのメインとしてエリザベスと結婚式を挙げた。実際には2人は1984年に結婚しているが、ストーリー上では恋人同士の関係という事になっていた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【デザイン T ロックTシャツ バンドTシャツ ROCK Tシャツ T-shirts メンズ トップス アメカジ カジュアルTシャツ ユニセックス Elizabeth Alexandra エリザベス2世】☆在庫一掃セールメール便送料無料☆ICONIC HOMME デザインプリントTシャツ Elizabeth Alexandra エリザベス2世【ロックTシャツ バンドTシャツ デザインTシャツ】ico010 10P03Sep16
2016.09.08
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2005年1月、新日本プロレス執行役員の上井文彦が新日本を退社して個人事務所「ビッグマウス」を設立。K-1を主催する谷川貞治と手を組み「WRESTLE-1 GP」行う事を発表した。同時にビッグマウスのスーパーバイザーとして長らくプロレス界を離れていた前田日明が就任。プロレス界のナンバーワンを決めるトーナメントで全日本、新日本、ノアのメジャー3団体を始め多くの団体が参加した。ザ・グレート・ムタvs曙、佐々木健介vs長州力、ボブ・サップvsジャイアント・バーナード、秋山準vs柴田勝頼、諏訪間vsザ・プレデター、天龍源一郎vs村上和成のトーナメント戦が実現。更にミル・マスカラス、テリー・ファンクという往年の名レスラーがスペシャルマッチに参戦が決まり8月4日に両国国技館で開催。テレビ局との交渉は不調に終わり結局、PPVチャンネルでの中継となったが秋山の試合だけは日本テレビのプロレスリング・ノア中継で放送された。10月2日、第2戦を国立代々木競技場で開催しスペシャルマッチにはドリー・ファンク・ジュニア、ジャイアント・キマラ、アブドーラ・ザ・ブッチャーが出場。この開催においてK-1の谷川は三沢光晴と対面しノア事務所を訪ねて全面協力を依頼しておりノアが全面協力する代償としてK-1からサップが日本武道館大会で小橋建太とシングルを行う事になっていた。その結果、三沢が小川良成とタッグを組み曙&スコーピオ組と対戦するスペシャルマッチが実現。トーナメント2回戦はジャマールvsドン・フライ(天龍の代打)ムタvs健介、サップvs秋山、みのるvs諏訪間が行なわれムタ、サップ、みのる、ジャマールが勝ち上がった。第3戦が決勝トーナメントとして12月に横浜アリーナで開催される事が決まっていたが全日本、新日本の会社体制が急変した為、ノア以外に話せる状態ではなく事実上の中止を示した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村コイツを装着すると気分はボブ・サップだ!ザ・ビーストハンド・ドリンクホルダー ■ アメリカ雑貨 アメリカン雑貨
2016.08.25
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ジャイアント馬場が創立し、王道と呼ばれた全日本プロレスは、三沢らの大量離脱により「王道」の肩書は三沢が創立したプロレスリング・ノアに移行してしまった。しかし、武藤敬司の移籍により全日本はいつしか、王道からプロレスLOVEへと進化した。そんな時期に第64代・横綱、曙太郎が全日マットに登場した。曙は若乃花(花田虎上)、貴乃花、力皇猛と同期入門であり、1992年5月場所千秋楽で幕内初優勝を果たし、大関の地位で2場所連続優勝を果たして、遂に外国出身初の横綱に昇進した。2001年、持病となった両膝のケガの悪化により全休。両膝の回復がこれ以上見込めないなどの理由により、突如現役引退を表明した。現役引退後は曙親方として後輩の指導をしていたが日本相撲協会の体制ややり方に不安を抱き格闘家へ転向し、格闘技K-1参戦が発表された。しかし、K-1における曙の勝負は厳しく1勝9敗の結果となり、ボブ・サップ、ドン・フライ、ホイス・グレイシーら一流の格闘家にに負けるのは兎も角としてタレントのボビー・オロゴンに負けてしまうなど、酷評される結果となった。そんな曙が不死鳥の如く再生したのが武藤敬司率いる全日本の存在で、曙はWWEの日本興行にてプロレスデビューを果たしW-1でグレート・ムタと対戦、ムーンサルトプレスで敗れた。これを機に武藤敬司をプロレスの師匠と仰ぎ、全日本プロレスに参戦する事を発表。以後、全日本を「武藤部屋」と呼び始める。9月2日、全日本プロレスの地方巡業にも全試合帯同、参戦する事を武藤に直訴し、代々木大会では悪の化身「グレート・ボノ」として登場。そして、曙は全日本プロレス冬の祭典世界最強タッグ決定リーグ戦2005に武藤とタッグを組み「武藤部屋」として最強タッグに初出場し、準優勝を果たす。この「武藤部屋」の指導で曙は完璧復活を果たしW-1で三沢光晴とタッグで対戦し、ノアで小橋建太と夢の対決を実現しただけでなく新日本プロレスでブロック・レスナーの保持するIWGPヘビー級王座に挑戦し、ハッスル、プロレスリングZERO1、DRAGON GATEに参戦した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村メール便発送可 (出演) 武藤敬司 ブードゥー・マーダーズ 曙太郎 蝶野正洋 小島聡【バーゲンセール】【中古】DVD▼全日本プロレス コンプリートファイル 2005 2ndステージ ‘曙・武藤部屋入門’スペシャル▽レンタル落ち
2016.08.18
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1991年3月24日に米国のWWEが開催した年間最大の興行が「レッスルマニア7」である。今大会は2つのビッグマッチが組まれ、まず、当時アメリカと開戦中であったイラクに心を売ったWWE王者のスローターに対してハルク・ホーガンが挑むメインイベント。ホーガンはロイヤルランブルで優勝しオールアメリカンとしての王座挑戦となった。今大会は当初の予定で大規模なスタジアム会場にて開催されるはずであったが、サージェント・スローターとハルク・ホーガンの湾岸戦争アングルが全米のマスコミからバッシングを浴び急遽中規模会場での開催に変更された。また、前年のレッスルマニアでホーガンを破りWWEの看板選手になったアルティメット・ウォリアーと彼が王座陥落をした切っ掛けになったランディ・サベージの因縁の一戦。ウォリアーはロイヤルランブルでのサベージによる乱入・王杖での頭部への攻撃で、スローターに敗北した事により全日本プロレスが昔、得意としていた遺恨試合が実現した。試合後はサベージと元・マネージャーのエリザベスが復縁するという感動劇もあった。他にも、億万長者のデビアスに対し、彼の召使であったバージルが反旗を翻し一矢報いた試合や、蛇男ロバーツと元AWA王者のマーテルとの「目隠しマッチ」なる特異な試合も組まれた。また、当時のWWEがSWSと業務提携していた事もあり天龍源一郎と北尾光司が日本人として初めてレッスルマニアに出場し、デモリッションを相手に勝利している。両名は本大会までにWWEには未登場であった為当日の試合前には紹介のインタビューが流された。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【WIP03】 ROTHCO ロスコ ストール シュマーグ スカーフ サバゲー アウトドア キャンプ ミリタリーROTHCO ロスコ 88533 DELUXE SHEMAGH TACTICAL SPARTANアフガンストール 湾岸戦争以降 アフガンやイラク戦などで米特殊部隊や英SASなどが 直射日光や他砂塵を防ぐことに使用【WIP03】 0601楽天カード分割 532P16Jul16
2016.08.11
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馬場、全日本時代になかったものそれはジュニアヘビー級のメインイベントである。馬場は自身がジャイアントという事もあり小柄のジュニア戦士は特別な扱いをしなかった。1997年に日本武道館大会で世界ジュニア戦が行われたがタイトルマッチにも拘らず第2試合にされるという屈辱の扱いをジュニア戦士は受けた。これに反論したのが三沢光晴で、ジュニア戦士の底上げを重視し、小川良成をパートナーに迎え、全日本活性化を目指した。このジュニア戦士の底上げが可能となったのが三沢が立ち上げたプロレスリング・ノアであり百年に一人の天才と呼ばれた丸藤正道がジュニア活性化だけでなく、メインを張る存在になった。丸藤は新日本・全日本・ノア、メジャー3団体のジュニアヘビー級の王座を全て獲得した唯一のレスラーでジュニアの体のままヘビーに挑戦しノア創立以来史上初のGHCヘビー・ジュニア・タッグ・ジュニアタッグ・ハードコアと全王座獲得を達成した。そしてもう一人、名勝負製造機と呼ばれジュニア戦線で飛び技でなく蹴り技を駆使したKENTAがジュニア戦線を活性化させた。この両者はシングルで対決すれば必ず名勝負となり2006年、KENTAが持つGHCジュニア王座に丸藤が挑戦し、ハイグレードな試合展開によりこの勝負は年間最高試合賞を獲得した。2008年には古巣の全日本プロレスで丸藤は高校時代の先輩である土方をポールシフトで破り世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。そして10月27日、日本武道館大会で丸藤の持つ世界ジュニアヘビー級王座とKENTAの持つGHCジュニアヘビー級王座のダブルタイトル戦が方舟マットのメインで行われた。60分時間切れ引き分けに終わり両者防衛成功となった。この興行はノアの主催であったが、試合はPWFルールで、場外カウント10という方法がとられ、レフェリーは和田京平が裁いている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【新品・メール便 送料無料】 キングオブプロレスリング 第7弾 BOX開封商品はCBOXで!キングオブプロレスリング 第7弾 ≪丸藤正道 時代を創る対決≫(C)『第10弾 販売中! トレカ トレーディングカード』☆BOX開封商品☆【コード未登録商品】{あす楽対応}
2016.08.04
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米国のNWA各テリトリーやWWEなど各団体で実績を築き、王道・全日本プロレス、闘魂・新日本プロレスで活躍したのが伝説の超大物・ブルーザー・ブロディである。右腕一本で豪快に投げ飛ばすブロディ独特のワンハンド・ボディスラム、無重力状態と例えられたギロチン・ドロップ右腕を高く突き上げて予告した後にフィニッシュホールドとして使用したキングコング・ニー・ドロップを得意とした。独自のレスリング哲学を持っており、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びはジャイアント馬場やジャンボ鶴田も認め、「誰にも負けない、俺がNo.1だ」という気持ちプライドは誰よりも強いのがブロディである。ブロディはテキサスの帝王と異名をとるフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ1973年にヒューストンでデビュー。1974年8月、スタン・ハンセンとタッグチームを結成しNWA認定USタッグ王座を奪取。1976年7月、WWEに参戦し、時の世界王者であるブルーノ・サンマルチノに連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高めメインイベンターとしての地位を築く。そして1979年1月、全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績を残した。1980年より全日本の常連外国人レスラーとなりインタータッグ王座にも挑戦し、1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアから世界4大タイトルのひとつで日本の主砲と呼ばれたインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。以後このベルトを巡って鶴田、天龍らと抗争を繰り広げ1982年からは全日本に移籍したスタン・ハンセンと「超獣コンビ」としてタッグ再結成を果たした。ハンセンとのコンビでは全日本冬の祭典世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝し、1984年に新設されたPWF世界タッグの初代王者となった。1985年3月21日、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍アントニオ猪木と7度シングルマッチで対決WWE王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしアンドレ・ザ・ジャイアントや前田日明とのシングルマッチも予定されていた。新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。1987年10月4日、全日本プロレスに復帰。世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの日本における最初で最後の対戦が実現した。ブロディはジャンボ鶴田を特にライバル視しており初来日で鶴田のスタミナについていけず、2度目の来日では鶴田へのライバル意識から初来日時より20kgもウェイトを落として臨んだという。1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックのキャラクターを守り通したブロディがこの時ばかりはファンと抱き合って歓びを分かち合った。同年4月19日、鶴田にピンフォール負けを喫し王座転落、3日後の4月22日の川崎市体育館におけるトミー・リッチと組んでの天龍源一郎&阿修羅・原とのPWF世界タッグ王座戦が日本での最後の試合となった。1988年7月16日、プエルトリコでのWWCの興行中、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスと口論を起こしドレッシング・ルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7月17日、出血多量により死亡した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【メール便 送料無料・新品・BOX開封品】キングオブプロレスリング 第12弾 ブルーザー・ブロディ 超獣 SP 箔押しサイン
2016.07.28
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三沢と川田、高校時代の先輩後輩であり、共にその人生を語る上では切っても切り離せない。二人は全日本プロレスで四天王として数々のい名勝負を生み、ファンを熱くさせてきたが2000年、全日本を脱退し理想を求めた三沢光晴王道死守という信念を曲げなかった川田利明二人は袂を分かった。もう二度と見る事が出来ない二人の対決だったが2005年4月24日、ノア・日本武道館大会でフリーとなった川田利明が来場した。「ノアのファンのみなさん初めまして川田利明です。ここで少し自分に時間を下さい。三沢さん、いたら出てきて下さい」このマイクアピールに三沢がリングに登場。川田は「ありがとうございます。自分はプロレスファンの望むカード、そしてそのプロレスファンを満足させる事、それがプロのレスラーだと思っています。三沢さん、自分からは何も言う事はありませんただ、7月18日(ノア・東京ドーム大会)その日は空けておきます」とアピール。三沢は「川田、ドームのリングで待ってるよ」と川田とファンの期待に答えた。2005年7月18日、プロレスリング・ノアの東京ドーム大会で5年4か月振りに三沢光晴vs川田利明が実現した。しかし両者(特に三沢)のコンディションが非常に悪く超世代軍、四天王時代から時代が流れている事もあり共に技を失敗するなど衰えを見せ、全盛期とはほど遠い内容となったものの、超危険技を互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利。放送の解説を務めていた天龍源一郎は「あの三沢の無尽蔵のようなスタミナはどこから来るのか分からない」とコメントを出している。ここで川田は、試合直後のリング上のマイクで「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」と意味深長な言葉を述べ、再戦を匂わせた。だが、事前の取り決めなくマイクが先行する形での試合アピールを非常に嫌う三沢は川田のこの対応に激怒しノア経営陣は「ノアマットへの継続参戦は不可能になった」ノア取締役の仲田龍はプロレス格闘技DXで、「川田をノアのマットに二度と上げる事はない」と断言した。なお、川田はこの試合後、控え室の敗戦インタビューで「5年間やってきた事がこの1試合で台無しとなった」とコメントしている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村リクエストマッチ 三沢光晴 特集2 特別試合 三沢光晴VS川田利明 2005年7月18日 東京ドーム
2016.07.21
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第4回大会を迎えた「ロイヤルランブル'91」は冬の祭典に相応しく新たなる戦いが始まった。湾岸戦争真っ只中の今大会でWWE王者のアルティメット・ウォリアーにイラク軍に魂を売ったサージェント・スローターが挑戦。会場はUSAコールで埋め尽くされアルティメット・ウォリアーへの声援が高い。試合はウォリアーがパワーで有利であったが防衛後は次の挑戦者にランディ・サベージを指名したが試合途中にこのサベージが乱入しウォリアーへ凶器攻撃、そして気絶したウォリアーをスローターがフォール勝ちしてしまい、WWE王座はイラク軍の手に渡るという結末となった。そしてロイヤルランブルでは全日本常連外人が殆どマットに上がっておりケリー・フォン・エリック、リック・マーテル、ハーキュリーズ、ジミー・スヌーカ、デイビーボーイ・スミス、シェーン・ダグラス、ザ・ロードウォリアーズ、ジョン・テンタ、プリンス・トンガ(ハク)、カート・ヘニング新日本常連外人はハルク・ホーガン、ブレット・ハート、ディノ・ブラボー、トニー・アトラスだけであった。プロレスマニアの間ではWWEのロイヤルランブルを全日vs新日の交流戦(オールスター戦)と見ている。試合は正統派から悪役に転向したデモリッションとザ・ロードウォリアーズのバトルやマーテル、ヘニングの元・AWA勢とケリー、ダグラス、スヌーカの元・NWA勢、ハート義兄弟、スミスのカナダ勢アトラス、ブラボー、ホーガンのWWE勢が乱戦となる図式が行われており18番目の入場者はランディ・サベージであったが先のWWE世界戦で会場のファンから相当な恨みを買われ、入場が困難となった為、棄権という形で不参加となっている。最後は正統派同士の対決でホーガンとタグボートの一騎打ちとなり、ホーガンがオーバー・ザ・トップロープで勝利を収めている。ここから、レッスルマニアに向けて新たなる戦いの火蓋が切られた・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村イラク 国旗柄 手帳型カバー iPhone6s イラク iPhone6s 国旗柄 手帳型ケース iPhone6s 国旗柄 手帳型カバー 国旗 イラク 手帳型ケース【メール便送料無料】iPhone6s Plus 手帳型 ケース(合革 合皮/PUレザー)【ケース/カバー】iPhone6s Plus 手帳型 カバー(ブック 手帳型 ダイアリー) iPhone6s Plus ケース カバーアイフォン6sプラス ケース カバー【10P26Mar16】
2016.07.14
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前年成功を収めたノア・東京ドーム大会リスクを伴うにもかかわらずそれに見合う収益を得られないドーム大会を毎年の恒例とする予定は無いと発表していたがファンや業界関係者から開催が期待されノアは2回目の東京ドーム大会を決定した。今回のテーマは「運命」であり元師匠と元付き人で、その後15年離れ離れになっていた師弟関係が再会する天龍源一郎vs小川良成同じようなレスリングスタイルを持ち共に剛腕からのラリアットを必殺技とする小橋建太vs佐々木健介高校時代からの先輩後輩で、切っても切り離せない二人の再会対決三沢光晴vs川田利明がメインとなっている。観客動員は前年を上回り、62,000人超満員今大会の目玉は健介オフィスを設立した佐々木健介がノアのリングに初登場。この試合のカードは同年4月に発表されていたが健介は試合まで一切コメントを出していなかった。小橋建太vs佐々木健介は両者が5分以上、200発以上の逆水平チョップを繰り出し共に胸を腫らせ内出血させながら戦った。このチョップ合戦については、同スタイルの両者の対戦が発表されてから、多くのプロレスファンが期待しておりそれは、ファンの予想を大きく上回る壮絶なものであった。この試合は、新日本プロレス離脱後、WJを経てフリーとしてプロレス大賞のMVPを受賞するなど実績を上げてきた佐々木健介の中でも屈指の名勝負といえる。剛腕対決は小橋が制したが健介は試合後にリング上から小橋、ファンに感謝のメッセージを送り、放送の解説を務めていた高山善廣と握手、更に退場花道では妻の北斗晶、中嶋勝彦と抱き合い、手を繋いで引き上げた。健介は興奮が冷めず、控え室でチューブトレーニングなどを行った。翌日、小橋は「佐々木選手が試合があると聞いたので負けられないと思って道場に来た」と練習を開始し健介は試合はなく、雑誌の取材を受けていたが小橋が「健介は今日も試合があると思ってトレーニングをしていた」という発言を聞き帰ってすぐトレーニングに励んだ。小橋と健介の友情が生まれた試合としても大きな意味合いを持つ試合となりこの試合はプロレス大賞でベストバウトを受賞。小橋は2003年、2004年に引き続き、3年連続での受賞となった。今大会の大成功に東京ドーム経営者は恒例となっている1月4日の新日本ドーム大会が観客動員の減少や話題性の問題でその在り方が問題視されていた為、次回の1月4日プロレスドーム大会をプロレスリング・ノアで行いたいと申し出ている。しかし、カードの乱発を招き、リスクを伴う可能性がある為に、この打診を断っている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村リクエストマッチ オールスター大集結編! 小橋建太vs佐々木健介 2005年7月18日 東京ドーム
2016.07.07
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武藤の社長就任で新体制となった全日本プロレス通常の興行は橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEとの対抗戦後、TAKAみちのく率いるRO&Dが参戦。その後、TARUが率いるVOODOO-MURDERS、佐々木健介、中嶋勝彦、鈴木みのる、NOSAWA論外、MAZADA、TAKEMURA、再び全日本リングに参戦している高山善廣にケアを加えたGURENTAIの定期参戦、元大阪プロレスの菊タロー、K-1から曙らの参戦により新たなファン層の獲得にも成功した。ファン感謝デーや武藤祭は非常に好評で、芸能人を使ったF-1タッグ選手権などファンに楽しんでもらえる事を中心に構成されている。全日本プロレスの主要大会と言えば日本武道館だったが資金の関係で2004年2月22日を最後に撤退しその後は代々木第2体育館に加えて両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる、複数の企業から出資金を募り1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催。その第1回大会が馳浩引退試合で元内閣総理大臣の森喜朗を招いてのプロレス大会となりその後、WWEのスーパースター達が続々登場し川田利明、小島聡、太陽ケアによる激しいプロレス菊タロー、荒谷望誉、渕正信の楽しいプロレス武藤敬司、VOODOO-MURDERSの明るいプロレス佐々木健介、鈴木みのる、船木誠勝など全日本に関わる事が難しかった人物を招いだ新しいプロレスで「プロレスLOVE in 両国」は盛り上がりタイトルマッチをメインとした豪華な大会であった。そして、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組が開始され地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キングオブプロレスリング 第2弾 トレカ トレーディングカード BOX開封商品はCBOXで!キングオブプロレスリング 第2弾 武藤敬司 プロレスLOVE C トレカ トレーディングカード BOX開封商品 【コード未登録商品】 {あす楽対応}
2016.06.30
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第4回大会となったWWE秋の祭典「サバイバーシリーズ'90」はエリミネーション・マッチの勝者を集め更にエリミネーション・マッチを行うという完全、生き残りマッチの大会である。第1試合はWWE世界王者のアルティメット・ウォリアーにアニマル&ホークのザ・ロードウォリアーズと元NWA王者のケリー・フォン・エリックのユニットザ・ウォリアーズに対し相手は元AWA王者のミスター・パーフェクトとアックス&スマッシュ&クラッシュのデモリッションのユニットザ・パーフェクト・チームが対戦。こちらはアルティメット・ウォリアーが生き残りに成功。第2試合はテッド・デビアス&ジ・アンダーテイカー&リズム・アンド・ブルース(ホンキー・トンク・マン、グレッグ・バレンタイン)のミリオン・ダラー・チームに対しダスティ・ローデス&ココ・B・ウェア&ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)のザ・ドリーム・チームが対戦。全日本常連外人のテッド・デビアスが生き残りに成功。第3試合はリック・マーテル&ザ・ウォーロード&パワー・アンド・グローリー(ハーキュリーズ、ポール・ローマ)のヴィジョナリーズに対し、ジェイク・ロバーツ&ジミー・スヌーカ&ザ・ロッカーズ(ショーン・マイケルズ、マーティ・ジャネッティ)のヴァイパーズが対戦し、こちらは何とヴィジョナリーズが全員生き残りに成功した。第4試合はハルク・ホーガン&ジム・ドゥガン&ビッグ・ボスマン&タグボートのハルカマニアックスに対しジョン・テンタ&ハク&ディノ・ブラボー&ザ・バーバリアンのナチュラル・ディザスターズが対戦。こちらの目玉は全日本所属のジョン・テンタとハクことプリンス・トンガがタッグを組むというWWEvs全日本の対抗戦を彷彿させるカードとなった。試合はハルク・ホーガンが生き残りに成功した。第5試合はニコリ・ボルコフ&ティト・サンタナ&ザ・ブッシュワッカーズ(ブッチ、ルーク)のジ・アライアンスに対戦相手はサージェント・スローター&ボリス・ズーコフ&オリエント・エクスプレス(佐藤昭雄、タナカ)のマーセナリーズが対戦した。この頃は湾岸戦争が勃発した時期でもありスローターが「フセインに魂を売った男」として米国の敵キャラの大ヒールに転向し、かたや対戦相手のニコリ・ボルコフはソビエト連邦の崩壊による冷戦終結を機にベビーフェイスに転向したレスラーで一転して親米派になり、愛国者キャラクターとしてスローターとの善悪逆転抗争もスタートさせていた。また、全日本所属の佐藤昭雄が新日本の留学生パット・タナカとコンビを組んだのも話題となった。試合はティト・サンタナが生存に成功。そしてグランド・フィナーレ・マッチ3対5のエルミネーションマッチフェイス・チーム(ハルク・ホーガン&アルティメット・ウォリアー&ティト・サンタナ) vsヒール・チーム(テッド・デビアス&リック・マーテル&ザ・ウォーロード&パワー・アンド・グローリー)こちらは荒れた試合となり、ホーガンと新世代戦士のウォリアーがパワーファイトでヒール・チームを蹴散らし、最後はホーガンがウォリアーに花を持たせる意味で勝利を譲っている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】WWE サバイバーシリーズ 2011/プロレス[DVD]【返品種別A】
2016.06.23
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2005年、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに天龍源一郎が参戦。三沢光晴とリングアナの仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに天龍を全日に参戦させようと働きかけていた。しかし、当時は全日本を脱退したレスラーの復帰、裏切り者は許さないとするジャイアント馬場の方針を株式を保有していた馬場元子が引き継いだ為、天龍参戦を認めなかった。時は経ち、三沢がノアを発足し、天龍の参戦を実現させようとしたがしばらく参戦のタイミングが合わなかった。天龍は2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱した事でスケジュールに余裕が出来、ノア参戦が実現した。三沢&力皇vs天龍&越中で電撃参戦し18年ぶりに三沢と天龍が対戦した。3月5日に天龍&鈴木みのるvs秋山&森嶋でジャンボ鶴田のテーマで入場して来た森嶋を一蹴しその後、秋山準が「REVOLUTION 2005」と称し天龍同盟を復活させるような動きを見せた。4月24日の天龍&秋山vs小橋&潮崎では小橋のチョップで天龍の胸板から流血。壮絶な試合となった。7月18日のノア 東京ドーム大会で元付き人の小川良成と対戦し前哨戦で小川が天龍に対して椅子を投げるなど挑発を何度も行い、それに対し天龍は「あんな態度の悪い奴を付き人にした覚えはない。俺が再び躾けてやる」「弟子の躾けは師匠の責任」と天龍節を吐いた。他にもKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補ともシングルで対戦している。また、三沢&小川vs天龍&秋山では試合後、天龍が花道からリング下の三沢にペットボトルを投げつけると三沢が天龍にペットボトルを投げ返し試合後、三沢は「やっぱりダテに年を重ねているだけあって人の怒らせ方を知っているよ」と天龍との一騎打ちを決意した。11月5日に三沢vs天龍のシングル戦が実現したが天龍は試合後、「お互い気負い過ぎて、一番後悔している試合」と語った。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村天龍源一郎引退記念 立体手形パネル[トイズトイズ]【送料無料】《取り寄せ※暫定》
2016.06.16
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全日本を離脱した三沢光晴ノアを旗揚げし、全日本とはその方針から交流がなく絶縁とも言われた。しかし、武藤の新日本脱退、全日本の社長就任で両者の交流が可能となりプロレスリング・ノアの東京ドーム大会で武藤と三沢のタッグマッチが行われた。このタッグ対決に勝利した三沢光晴に試合後のインタビュー中、全日本に移籍した小島聡が訪れて対戦を直訴。この小島の対戦直訴に三沢が応え古巣に呼び寄せる形で三沢が4年ぶりに全日本プロレスへの参戦を果たした。2004年7月18日 全日本・両国国技館大会で三沢光晴vs小島聡が実現した。ここでレフリーの和田京平と再会し試合は三沢光晴がタイガードライバー91で小島聡をマットに沈めた。その後、武藤は「夢の続きを見ませんか?」と三沢にメッセージを送り、問いに答える形でドリームタッグを結成する事になった。10月31日、全日本・両国国技館で武藤敬司デビュー20周年記念興行として三沢は武藤とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村メール便発送可 (出演) 武藤敬司 三沢光晴 西村修 天山広吉 佐々木健介 小島聡 川田利明【バーゲンセール】【中古】DVD▼全日本プロレス コンプリートファイル 2004 2ndステージ▽レンタル落ち
2016.06.09
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「日米レスリングサミット」開催後に行われたWWEのビックイベント「サマースラム'90」は遺恨試合が勃発した過激な祭典である。まず、インターコンチネンタル王座戦で元・AWA王者であるミスター・パーフェクトに元・NWA王者のケリー・フォン・エリックが挑戦という夢の対決が実現し、二人はこの試合を切っ掛けに王座を巡り抗争を開始している。日本初来日を果たしたランディ・サベージは新日本常連外人だったダスティ・ローデスと米国を象徴する二人の因縁の対決が実現した。WWE世界王座から転落したハルク・ホーガンは全日本出身のジョン・テンタと対決。WWEは「日米レスリングサミット」を通じて日本マット界と提携を結ぶ計画があり全日本所属選手でWWEに遠征しているジョン・テンタをメイン級のレスラーであるハルク・ホーガンと対決させる事によって信頼関係の距離を近づけようとしたと思われる。この二人の超ド級対決は巨漢のジョン・テンタをホーガンがボデョスラムで場外へ叩きつけカウントアウトによりホーガンが勝利している。この後、日本ではジャンボ鶴田が「世界で一番強いと言われているホーガンと戦いたい」とコメントを残している事から、ホーガンの全日本来日の期待が高まったが実現はしなかった。そして新ヒーローであるアルティメット・ウォリアーがライバルのリック・ルードを相手にスティール・ケージ・マッチ形式で行うWWE王座戦がメインを張った。ウォリアーとルードはセミクラス時代からお互いライバル関係であり、因縁の発端はロイヤルランブル'89のボディビル対決からでレッスルマニア5ではルードがマネージャーのボビー・ヒーナンを使ってウォリアーからフォール勝ちを収め、インターコンチ王座を奪取。ここから遺恨はヒートアップし、ルードの試合にウォリアーが乱入しルードもまたウォリアーの試合に乱入するなどお互いが周到に追いかけまわすという表裏一体な感じの行動でライバル関係となった。試合はやはり乱闘となり、お互いえげつない攻撃で相手を窮地に追いやったが、最後はウォリアーがルードをマットに沈める事に成功しWWE王座防衛を果たした。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 ★DVD/スポーツ (海外)/WWE アルティメット・ウォリアー ~アルティメットコレクション~
2016.06.02
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2004年7月10日、ノアが東京ドームに進出した。ノアは王道・ジャイアント馬場の影響を多大に受けた団体である為、ビッグマッチの乱発や大会場での興行は控えめであった。ドーム大会はあくまで「行う時期になったら」というスタンスを保っていたが各方面からの後押しもあって前年暮れにドーム大会発表し、ドーム大会を頻繁に開く事なく十分な準備期間を置いていた。そして開催当日は58,000人の超満員で埋め尽くされ全10試合、5大タイトルマッチが行われた。その中で大きな話題となったのがノア設立後、それまで一切交流が無かった全日本勢が初めてノアのリングに上がり1990年代に全日本・新日本で共に「天才」と称され三沢と武藤の初対決であった。メーンでは、ノアの新たな黄金カードとなっている小橋建太と秋山準のシングルマッチが行われた。秋山準の入場前には歴代の入場テーマをバックに小橋とのデビュー戦、有明コロシアム大会でのシングルマッチのVTRを流しまた、小橋の入場前にはVTRの中で日本テレビ・平川健太郎アナが「崇高なる絶対王者・小橋建太入場」とコールを入れている。カード発表は前年から行われており既にその時点でメーンで行われる事が決まっていたが小橋がGHCベルトを所持しており防衛失敗となれば無冠試合となる所であったが3月に行われた防衛戦では新星・力皇と4月の防衛戦では高山との死闘を制し期待通りGHC戦として行われた。断崖技などの危険技を共に敢行し小橋は場外で血を吐くなどの死闘となったが大変な声援が飛んだ。この試合はプロレス大賞で年間ベストバウトを獲得している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村リクエストマッチ ノア頂上対決 特集 王者:小橋建太VS挑戦者:秋山準 GHCヘビー級選手権試合 2004年7月10日 東京ドーム
2016.05.26
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人の努力では至らないレベルを秘め生まれつき備わった優れた天性の才能それが「天才」である。プロレス界にも天才はいた。ズバ抜けた運動能力と体力を持ち2代目タイガーマスクに抜擢された王道全日本の天才・三沢光晴ズバ抜けたレスリングセンスを持ち米国でグレート・ムタの名で大成功した闘魂新日本の天才・武藤敬司この二人はマスコミに比較され王道と闘魂の厚い壁によりファンの間では叶わぬ夢の対決と囁かれた。しかし、時代は変わり二人は対決の時を迎えた。三沢は全日本プロレスを退団してNOAHを設立武藤は新日本プロレスを退団して全日本へ入団。一時期は交流はあり得ないと考えられたノアと全日本プロレスとは三沢らの全日本プロレス離脱の一因となった馬場元子が全日本の経営から離れて武藤が社長であるなどの理由で交流する事になりこの結果、三沢と並ぶ天才としてプロレスファンから対戦を熱望されていた武藤との対戦アングルが開始された。そして、2004年7月10日 NOAH初の東京ドーム大会でそれは実現した。GHCタッグ選手権試合三沢光晴&小川良成vs武藤敬司&太陽ケアその試合に実況アナはこう解説した「日本のプロレス界がまだ、2大メジャーと呼ばれていた頃、その世界には二人の天才がいました。ふたりは共にその団体の頂点に君臨し王者であり、エースでありました。しかし、歴史は二人を引き合わせる事は許しませんでした。昨日までは・・・」こうしてプロレス界の盟主とプロレスLOVEの対決が実現した。これで三沢は新日本出身のいわゆる闘魂三銃士と全て手を合わせた事になった。試合は武藤が三沢の必殺技であるエメラルド・フロウジョンを三沢が逆にシャイニング・ウィザードを繰り出すなどサプライズも見られた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村リクエストマッチ 三沢光晴 特集2 王者組:三沢光晴&小川良成VS挑戦者組:武藤敬司&太陽ケア GHCタッグ選手権試合 2004年7月10日 東京ドーム
2016.05.19
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WWE春の祭典「レッスルマニア6」で大番狂わせの世代交代劇があった。WWE世界ヘビー級&インターコンチネンタル王座のダブルタイトルマッチ、ハルク・ホーガンvsアルティメット・ウォリアーこの試合は前回のPPV大会のロイヤルランブル'90とサタデーナイトメインイベントでベビーフェイス同士の二人が壮絶な仲間割れ、新政権、天下取りを掲げたウォリアー絶対王者、政権維持を掲げたホーガン人気を二分する両者が戦うのは当時の米マットではまったく考えられない事であった。お互いのファイトスタイルは似ておりウォリアーは相手の必殺技を食らった後体を揺さぶりながら立ち上がりロープを掴んで上下にブルブルと揺らしディンゴダンスで相手の技は効かない事を示して最後はリフトアップ・スラムからアルティメット・スプラッシュで勝利する。一方のホーガンもピンチに陥った際、相手の必殺技を受けてた後、全身を小刻みに震わせつつ自身の戦意を高揚させ無敵の状態で殴りかかってくる相手のパンチを受け止め仰向けになった相手の喉にレッグドロップで勝利する。また、お互いがパワースタイルという事もあり戦いは力と力の攻防戦となり、ホーガンがウォリアーをパンチで責めた時、ウォリアーは体を揺さぶりながら立ち上がりウォリアーのフィニッシュスタイルでホーガンから大金星を狙った。しかし、アルティメット・スプラッシュを返され今度はホーガンが全身を小刻みに震わせてハルク・アップコンビネーションに繋いでいった。今度はホーガンがウォリアーを倒し政権維持続行という場面が見られたが最後のレッグドロップを交わされ咄嗟にウォリアーがボディ・プレスを放ち勝利。見事、ウォリアーが第16代・WWE世界に輝き同時にインターコンチ王座防衛という2冠王という快挙を成し遂げた。この試合はレッスルマニア名勝負トップ10において9位にランクインし、PWI紙においても1990年の年間最高試合に選出されている。また、後に11度の世界王者となる16歳のエッジは本大会の客席のリングサイドから11番目にランス・ストーム、クリスチャンと共に観戦しプロレスラーとなる事を決意した。このウォリアー政権交代劇の裏に次大会である「日米レスリングサミット」でWWE王者vs全日本レスラーの図式を崩す為敢えてホーガンを王座転落させたという疑惑もあった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村仮装コスチューム ハロウィンTNAインパクトレスリング ハルクホーガン 大きいサイズ 3ピースセット /コスチューム コスプレ衣装 (二次会、結婚式、仮装、パーティー、宴会、ハロウィン) 大人 男性用
2016.05.12
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王道vs闘魂の戦いは2004年まで続きその後、交流は途切れるが、2005年5月の新日本の東京ドーム大会に三沢が参戦し約10か月ぶりの交流が実現した。そのバーターとして棚橋弘至が同年7月のノア東京ドーム大会に参加した。しかし、2006年にサイモン・ケリー猪木が新日本プロレス社長就任会見で「ノアとの交流は白紙にする」との発言を受け、ノアの仲田龍が日本テレビとテレビ朝日の間で交わされた交流戦に関する覚書を一方的に白紙にされたと指摘。その上、最大のスポンサーである日本テレビに立つ瀬が無いとして2006年5月13日の東京スポーツ紙上において正式に新日本プロレスとの交流断絶を表明した。しかし、サイモン社長が新日本プロレスの社長辞任し2007年にノア事務所を表敬訪問し和解した。この結果、2008年9月に交流戦は再会しプロレスリング・ノアの大阪府立体育会館大会に高橋裕二郎、内藤哲也が参戦。2009年1月4日、新日本プロレス・東京ドーム大会では三沢光晴、秋山準、杉浦貴、佐野巧真が参戦し佐野は古巣・新日本にノアの選手として登場する。同年5月5日、新日本プロレス・後楽園ホール大会に森嶋猛、杉浦貴、青木篤志が参戦。続く5月6日、プロレスリング・ノア日本武道館大会に天山広吉、獣神サンダー・ライガー、金本浩二、岡田かずちかが参戦した。更にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにノアの所属選手として菊地、青木の2名が初参加している。10月12日、蝶野のデビュー25周年記念試合で蝶野&武藤&小橋がトリオを結成。中西学&小島聡&秋山準がトリオを結成して対戦。ノア、新日本、全日本のメジャー3団体による豪華な6人タッグマッチが行われた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】 PRO-WRESTLING NOAH~VS 新日本、ZERO-ONE~ 【DVD】
2016.05.05
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全日本の三冠王者・川田利明の新たなる敵それは新日本、WWE、総合格闘技と幅広いレスラーが挑戦してきた。ここで元・全日本所属選手であった大森隆男がカンバックし、過去の実績により2004年7月18日、東京・両国国技館で川田との三冠戦が決定した。しかし、先輩である川田は大森に対し「シングルでの実績がない」と厳しい評価をした。大森は進化した自分を知ってもらう為、試合は実現した。アックスギロチンなど大型の技を繰り出したが22分36秒、座っている大森へのランニング顔面回し蹴りで川田が防衛している。9月3日、横浜文化体育館では無我の西村修が挑戦。27分12秒、西村へのランニング顔面蹴りで川田が勝利。10月31日、両国国技館では純潔な王道対決として太陽ケアが挑戦したが、26分44秒パワーボムにより川田が勝利を収めている。12月5日、両国国技館では新日本の天山広吉が挑戦天山が川田をトコトン追い詰めたが32分21秒 天山へのランニング顔面蹴りにより川田が防衛に成功している。2005年1月16日、大阪府立体育会館では宿敵、佐々木健介と対決した。健介とはIWGPを巡って対決した因縁の相手でありWJからフリーとなった健介と再会した。試合は23分27秒、座っている佐々木へのランニング顔面蹴りで川田が防衛に成功し最多防衛回数、最長保持期間の記録保持者となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キングオブプロレスリング 第4弾 【RR】 川田利明(第32代三冠ヘビー級王者)[BT04-014]
2016.04.28
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プロレス冬の祭典といえば新日本プロレスの東京ドームであるが米国WWEの冬のビックイベントといえば30人参加の時間差バトルロイヤル「ロイヤルランブル」である。1990年1月21日開催の「ロイヤルランブル'90」は全日外国人レスラーvs新日外国人レスラーというオールスター対決が実現している。全日本からはテッド・デビアス、ロディ・パイパー、ハク、アキーム、ジミー・スヌーカ、ジョン・テンタ、リック・マーテル、ホンキー・トンク・マン、カート・ヘニングといった顔ぶれで新日本からはアンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデス、バッド・ニュース・アレン、ブレット・ハート、マスクド・スーパースター、ディノ・ブラボー、ティト・サンタナ、そしてハルク・ホーガンが参加した。また、今大会は次回のビックイベントレッスルマニアへの布石をうつ因縁が生まれダークマッチではホーガンの弟分であるブルータス・ビーフケーキとザ・ジニアスのシングル戦が組まれ、ビーフケーキが失神しているジニアスの髪を切ってしまいカート・ヘニングと大乱闘を起こしている。そして「サタデー・ナイト・メイン・イベント」でWWE世界王者のハルク・ホーガンとセミクラスのインターコンチ王者であったアルティメット・ウォリアーが世代交代を巡り、仲間割れをした事によりウォリアーがホーガン相手に下剋上を掲げロイヤルランブル戦で正統派同士の対決が実現した。試合は60秒または90秒おきに1人ずつ入場してバトルロイヤルを行なっていき入場順は出場者本人によるくじ引きで決定される。自分以外の他の全てのレスラーをリングのトップロープから外に放り出すオーバー・ザ・トップロープで勝敗が決まる。今大会はアンドレ・ザ・ジャイアント、ジョン・テンタなどの大型選手はレスラーが5人掛かりでリングの外に追い出すと言った事となりホーガンに至ってはウォリアーが1対1の対戦を望みウォリアーがホーガン以外の選手を全てリング外に放り投げている。ウォリアーはホーガン相手に同等の対決を果たしたがリック・ルード、バーバリアンらに追い出されてしまう。最後はハルク・ホーガンがヘニングを破り初優勝を浚っているが、ウォリアーとの仲は後の「メイン・イベント」大会で壮絶な仲間割れをしこの因縁はレッスルマニアへと持ち越される事になった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村仮装コスチューム ハロウィンTNAインパクトレスリング ハルクホーガン 大きいサイズ 3ピースセット /コスチューム コスプレ衣装 (二次会、結婚式、仮装、パーティー、宴会、ハロウィン) 大人 男性用
2016.04.21
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王道と闘魂が交流を深めた。ZERO-ONE旗揚げ戦からノアの秋山と新日本の永田が親交を深めた事を皮切りにノアと新日本プロレスが急接近した。この交流戦を実現するにはノアと新日本の会社同士の話し合いだけでなく日本テレビのノア所属選手の肖像権、テレビ朝日の新日本所属選手の肖像権の問題があった。この問題にテレビ朝日と日本テレビで行われたのが「ノアの選手が新日本に上がったら新日本の選手がノアに上がってもらう」というバーター契約が取り決められた。見事、問題をクリアした両団体は2001年10月18日、新日本プロレス東京ドーム大会に秋山準が参戦し2002年4月7日にノア有明コロシアム大会に中西学、吉江豊が参戦し交流戦はスタートした。同年5月2日、新日本プロレス東京ドーム大会に三沢光晴が参戦し、蝶野正洋とシングルで対決!四天王vs三銃士の注目の対戦が実現した。その後、三沢―蝶野ラインを中心に行われ同年8月29日、新日本プロレス日本武道館ではIWGPジュニアタッグ選手権が行われ挑戦者の金丸義信&菊池毅が獣神サンダー・ライガー&田中稔を下しIWGPジュニアタッグ王座を獲得。王道選手初の闘魂ベルト獲得に成功している。ノアマットにエル・サムライ、成瀬昌由獣神サンダー・ライガー、金本浩二が参戦しノア初のIWGPジュニアタッグが実現した。そして、2003年5月2日、新日本プロレス東京ドーム大会GHCヘビー級選手権・小橋建太vs蝶野正洋四天王vs闘魂のベルトを掛けた対決が実現し小橋が蝶野を下し王座を死守した。同年9月12日にはノアに永田裕志が参戦し四天王のひとり、田上明から勝利を奪っている。また11月30日、北海道立総合体育センターで永田裕志&棚橋弘至が小橋建太&本田多聞のGHCタッグ王座を獲得。ノアのベルトが他団体に流出した。永田裕志、棚橋弘至はその後、防衛戦を行い獣神サンダー・ライガーが参戦した2004年7月のノア東京ドーム大会まで本格的な交流が続いた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] PRO-WRESTLING NOAH VS 新日本プロレス
2016.04.14
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ZERO-ONEの橋本慎也が怪我による三冠返上により急遽、三冠王座決定戦が行われトーナメントで大谷晋二郎を破り見事、三冠王座を全日本に取り返した川田に新しい試練が待ち構えていた。それは今まで戦った事のないレスラーが続々と挑戦してきたのであった。今までは同じ全日本所属だった三沢や小橋、ハンセンやベイダーなど分かりあえた選手が次々と挑戦してきたが今回は全日本所属レスラーが極薄という事もあり他団体の最強レスラーが名乗りを上げてきた。まず、アルティメット、総合格闘技から全日本に初登場したドン・フライが挑戦。川田はストレッチプラムで17分05秒レフェリーストップにより完全勝利した。1994年に初めて三冠を取って以来、引き分け防衛はあったものの勝って初防衛するのは初めてでこれには9年もの年数がかかった。続いて大阪府立体育会館で師匠の天龍源一郎と対戦17分59秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利そして全日本プロレスの台所事情により最後の日本武道館大会となった三冠戦は最後を締めくくる意味を込めて闘魂三銃士の橋本真也と防衛線。試合は負傷していた橋本が根性を見せたが最後は19分57秒、TKOにより川田が勝利している。そして全日本初となる他団体での三冠防衛戦神奈川・横浜アリーナにおけるハッスル3大会挑戦者は当初、世界最強のゴールドバーグであったが来日が不可能となり急遽、元・WWE王者だったカクタス・ジャックことミック・フォーリーが挑戦。川田とミックは過去、全日本での対戦が実現していたが川田は「まったく覚えていない」と挑発する。試合はハードコア路線のミックが凶器を三冠戦に持ち込むという荒技に出たが最後は12分56秒、顔面キックによりミック・フォーリーから勝利している。 そしてジョニー・エースの紹介で元・WWE選手だったジャマールが全日本に登場、愛知県体育館で5人目の挑戦者となった。ジャマールがWWEらしいプロレスを展開したが川田の王道スタイルには勝てず18分01秒、ストレッチプラムで勝利している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村武藤敬司/天龍源一郎/S・ウイリアムス/蝶野正洋/川田利明。srv5019 全日本プロレス 三冠王者列伝 Vol.2 武藤・黄金時代編 2001.6.8~2002.2.24【VHS】【中古】【ビデオです】
2016.04.07
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日本プロレス界における秋の祭典は全日本のジャイアントシリーズが有名だが米国・WWEの秋の祭典といえばエリミネーション・マッチを中心としたサバイバーシリーズである。夏の祭典・サマースラムから新たなる因縁が生まれた抗争に完全決着を目論みサンクス・ギビング・デーと銘打ったのが「サバイバーシリーズ'89」である。イリノイ州で行われた今大会はチーム名が付けられダスティ・ローデス&ブルータス・ビーフケーキ&ティト・サンタナ&レッド・ルースターのザ・ドリーム・チームとビッグ・ボスマン&バッド・ニュース・ブラウン&リック・マーテル&ホンキー・トンク・マンのジ・エンフォーサーズが対戦。この試合は各自が各レスラーと因縁を持ちかなり試合は難航するものと思われたが最後はローデスとビーフケーキが生き残った。第2試合はランディ・サベージ&アースクエイク&ディノ・ブラボー&グレッグ・バレンタインのキングズ・コートとジム・ドゥガン&ブレット・ハート&ロニー・ガービン&ハーキュリーズのフォー・バイ・フォーズが対戦。この試合で注目したいのが全日本からWWEに参戦したアースクエイク・ジョン・テンタで全日本vsWWEの抗争第1弾とも言われていた。第3試合はリック・ルード&ミスター・パーフェクト&ファビュラス・ルージョーズのルード・ブルードvsロディ・パイパー&ジミー・スヌーカ&ザ・ブッシュワッカーズのロディーズ・ラウディーズでパイパー率いる野生軍団にファンは大声援し一番盛り上がった試合となった。第4試合がアルティメット・ウォリアー&ジム・ナイドハート&ザ・ロッカーズのアルティメット・ウォリアーズとボビー・ヒーナン&アンドレ・ザ・ジャイアント&ハク&アーン・アンダーソンのヒーナン・ファミリーが対戦。この試合はアンダーソンのパートナーであったタリー・プランチャードがWWEを突如解雇され急遽、マネージャーのヒーナンがレスラーとして久々に登場した。第5試合はハルク・ホーガン&ジェイク・ロバーツ&デモリッションのハルカマニアックスとテッド・デビアス&ゼウス&パワーズ・オブ・ペインのミリオン・ダラー・チームが対戦。この試合はプロレスの事が分かっていないゼウスが試合中暴走し仲間のデビアスらが慌てて止めに入るなど、試合は大混乱した。ゼウスは途中、反則で強制退場させられ最後はホーガンがデビアスを抑え勝利している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★合計6,980円以上で送料無料、合計10,000円以上で代引き手数料無料★5ピース サービングセット 大小プレート5pc Serving set パーティ 誕生日会女子会 プレゼント ギフトイースター サンクスギビング 572611
2016.03.31
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橋本真也率いるZERO-ONEが戦局に有利を迎えた。闘魂三銃士の中で初めて四天王の三沢光晴と戦い旗揚げ戦では新日本の永田裕志とタッグを組みノアの三沢光晴&秋山準と対決。この初顔合わせはプロレスファンの注目を集めたがその後、ノア勢が新日本に参戦するなど団体間の垣根は急速に低くなった。しかし、2003年にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。橋本は史上4人目となる三冠、IWGPのメジャータイトル奪還成功者となる。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて小川と組み武藤&小島聡と対戦し勝利したが試合後に川田利明が乱入。そして7月、橋本&小川vs武藤&川田の試合で試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトを返上した。そしてZERO-ONEは全日本との団体戦争で佐藤&横井のアジアタッグ戴冠など団体の実績を積み上げその小規模故の身軽さが幸いし、現在あるようなメジャー間での交流参戦や団体の看板を背負ったといえる試合が見られた。ここで思わぬアクシデントが起こり当時PRIDEに参戦していたマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題に端を発し橋本とアントニオ猪木は再び袂を分かち更にコールマン引抜き騒動により猪木と橋本間のトラブルは悪化し猪木派であったバトラーツの石川雄規は猪木からの利益を最優先するためにZERO-ONEとの提携を解除、発表済みカードを消滅させてしまった。この件に関し三沢光晴は「筋が通ってない」「自分の尻も拭けないのか」「あれじゃ、橋本が可哀そう」等とバトラーツの姿勢を批判した。これを見かねたプロレスリングノアは急遽、ZERO-ONE救済に若手を派遣し団体関係の良好に修復がみられた。このためバトラーツはプロレスファンの批判にあい三沢に対し石川が逆ギレした事で選手の離反を招く事態となり経営は悪化、2003年に活動を休止をした。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【税込み】【3500円以上で送料無料】【レンタル落ち中古DVD】全日本プロレス ZERO-ONE 激闘史 PART.1【中古】
2016.03.24
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新日本所属選手として三冠ヘビー級王座世界タッグ王座を獲得、最強タッグを制するなど2001年の日本武道館大会のメインを務めた武藤敬司が2002年9月30日に社長に就任した。これは格闘技路線に重心を移した新日本プロレスでは自身の実績を潰されると考えた武藤が小島聡、ケンドー・カシン、新日本のスタッフ5名と共に新日本プロレスを突如退団し更にWWEから移籍したカズ・ハヤシと共に全日本プロレスに入団する。この時、武藤は「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶって頂たいと思います」という名言を残した。日本武道館大会で川田、天龍と共に次期社長の座を掛けたプロデュース興行を行い10月に馬場元子社長から全日本の株式を譲り受けオーナー兼社長となった。しかし、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、オーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、渕正信とレフェリーの和田京平の生え抜き役員が武藤側に回り、渕、川田利明、レフェリーの和田の3名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEの副社長、ジョニー・エースとの繋がりでジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦し「日本人レスラー対外国人レスラー」を受け継ぎつつ「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴である。2002年11月17日には全日本初の横浜アリーナ大会で「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を開催、第2弾は2003年1月19日に東京ドームで行われ武藤はこの世界を「ファンタジーファイト」と表現した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【メール便送料無料、通常24時間以内発送、午後1時までは当日発送】【中古】 全日本プロレス代表取締役社長武藤敬司 / 武藤 敬司 / 扶桑社 [単行本(ソフトカバー)]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2016.03.17
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プロレス夏の祭典といえば新日本のG1クライマックス全日本のサマーアクションシリーズノアのSummer Navigがある。米国WWEが放つ夏の祭典サマースラムでかなりの話題と盛り上がりを見せたのが「サマースラム'89」である。1989年8月29日ニュージャージー州で開催され話題となったのはアメリカンドリームダスティ・ローデスのWWE復活であり水玉模様のコスチュームで登場し対戦相手はホンキー・トンク・マン。試合はローデスがトンクマンにギターを脳天から叩き落としエルボーで勝利。またテッド・デビアスvsジミー・スヌーカというかつて全日本プロレスで行った目玉カードも実現。そして今大会の名勝負となったのがインターコンチネンタル王座戦リック・ルードvsアルティメット・ウォリアーであり二人の因縁はロイヤルランブル'89のボディビルマッチレッスルマニア5における王座戦でルードが卑怯な攻撃でウォリアーから王座を奪取しそれ以来、ウォリアーはルードの試合に乱入しルードもウォリアーの試合に乱入するというお互い遺恨にまで発展する。試合は名勝負を繰り広げ最後はゴリラ・プレスからアルティメット・スプラッシュでタイトルを奪還する。そしてメインイベントとなったのは超人ハルク・ホーガンと実弟ブルータス・ビーフケーキがミス・エリザベスをマネージャーに付けランディ・サベージと破壊王ゼウスがセンセーショナル・シェリーと共同したタッグマッチである。レッスルマニア5で完全に仲間割れをしたメガパワーズのホーガンとサベージは正義と悪となりホーガンは新パートナーに当時、実弟と名乗っていたブルータス・ビーフケーキとコンビを組みサベージはホーガンの映画「ゴールデンボンバー」でライバルとして登場した警備員兼俳優のゼウスことトム・ティニー・レスターをレスラーにしてコンビを組んだ。映画で敵役のゼウスはリングでも敵役となったがプロレスを理解していないせいか周りの言葉も耳に届かず暴走してしまう。しかし最後はホーガンがゼウスからフォール勝ちし勝利を収めた後、ホーガンがシェリーにアトミックドロップを仕掛け、ビーフケーキが大型ハサミでシェリーの髪を切り落としてしまうという今なら大問題な結末で今大会を締めくくった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村iPhone5/5s 用デコケース キラキラ アメリカンドリーム
2016.03.10
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数々の名勝負を残し女子プロレスを牽引した最強のデンジャラス・クイーン、北斗昌1985年6月12日にデビューし、連戦連勝で翌年には全日本ジュニア王座を奪取、同期では最も早い戴冠だった。1988年には同期のみなみ鈴香と海狼組を結成しリングネームをウルトラマンAの北斗星司と尊敬していた前田日明の名前から北斗昌に変更する。団体対抗戦では神取忍と血みどろの抗争を繰り広げデンジャラスクイーンと呼ばれるようになり試合後の毒舌マイクパフォーマンスも人気を呼んだ。1994年、東京ドームで開催された「憧夢超女大戦」で日本選手権トーナメントでの戦いを最後に引退すると表明したがトーナメントに優勝し撤回。1995年、アントニオ猪木の主導により北朝鮮で行われた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」に出場しこの時、佐々木健介と出会い婚約する。健介と結婚した後にフリーとなりWCWを経てGAEA JAPANに入団。1998年に長男を出産し、一時リングを降りていたが翌年復帰を果たし、日本初のママレスラーとなった。引退直後は主婦業に専念していたが2003年のWJプロレス退団後、苦労する夫・健介を支えるべく健介のマネージャー役としてプロレス界に復帰、鬼嫁キャラとして健介の復活を支え「埼玉の主婦の喧嘩」と称して試合をする事もある。2005年11月15日に健介officeを株式会社化し代表取締役社長として会社経営に携わる事となりプロレス興行とタレントマネジメントを兼ねた実業家として運営している。しかし、2015年9月23日、乳がんで入院、右胸全摘手術をする事を明らかにした。病中の北斗に友人やファンが励ますなどその人柄でいろんな人に愛され続けまた、家族の支えもあり北斗が完全復活する日は近い。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キッチン用品・食器・調理器具 キッチン用品・雑貨・エプロン エプロン 大きいサイズ メンズ 5L【送料無料】【大きいサイズメンズ 5L】 うちの嫁は鬼嫁 エプロン 532P26Feb16
2016.03.03
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絶対に混じり合ってはいけない禁断の対決明るく楽しく激しいをモットーとした王道・ジャイアント馬場格闘技路線などでプロレス最強を謳いあげた闘魂・アントニオ猪木二人の仮想対決は弟子たちが実現させ鶴田vs長州、天龍vs藤波、三沢vs橋本、川田vs武藤など枠を超えた戦いが繰り広げていた。しかし、プロレスvsアルティメットという団体ではなくジャンルを超えた対決が実現してしまった。切っ掛けはZERO-ONE旗揚げ戦で橋本と三沢が激突し、試合後に小川直也が乱入。「三沢、落とし前をつけてもらおうじゃないか」このマイクパフォーマンスに三沢がブチ切れセコンド巻き込む大乱闘となり秋山はアマレス時代から知っている藤田に田上は相撲時代から知り合いの安田と乱闘している。この乱闘からZERO-ONEの橋本が勝負に出た。2001年4月に小川直也&村上和成vs三沢光晴&力皇猛が実現。三沢と小川の対決は力皇を捕らえている時に三沢がカットに入り、エルボーを食らったのが初遭遇。食らい慣れていないエルボーに村上も同様であったが一撃で膝をつき暫く動きが止まってしまう。立ち直った小川はスタンド状態から三沢に挑みミドルキックをいなされると片足にタックルを仕掛けた。三沢はこれを制し、がぶる事なく小川の首を上から押さえこみ主導権を取ろうとグランウンドで動き回る小川に対し的確に背後に取るといったレスリング技術を見せつけた。短い時間ながら組み付いた状態での両者の巧みな攻防の末、ようやく小川が大腰で三沢を投げる事に成功した。マウントを奪った小川のパンチを上から浴びせらる三沢はガードに徹しマウントからは自力で脱出しようとせずタッグマッチという事を活かし力皇にカットさせるといったプロレスラーとしての一日の長を見せた。試合はその後、カットされ場外へ逃げた小川を力皇が追い二人が争ってる最中にリング上で村上が三沢のバックドロップを受け身を取る事が出来ずそのまま3連発を食らって完璧なフォール負けを喫する。当然暴れ足りない小川はゴングが鳴った後、リングに上がり三沢に殴りかかった。小川に対し反撃をしない三沢だったがノアの選手が上がってきて小川は袋叩きにされ橋本らもリングに上ってきたが力皇らに押さえ込められ挙句にはノア陣営全員で勝ち名乗りをされ圧倒されてしまう。これに小川はマイクを取り「数さえ揃えば勝てると思ってるんじゃねえぞこの野郎!」とマイクを投げつけた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【2/26 10:00~2/29 9:59 ランク別ポイント変倍】一人一人別々に測定結果を登録【送料無料】【あす楽対応】デジタル握力計 体力測定 相撲 野球 総合格闘技 握力計 EH101-SL【532P26Feb16】
2016.02.25
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1989年4月2日にアメリカのWWEが開催した年間最大の興行「レッスルマニア5」今回は前年同様ニュージャージー州トランプ・プラザで開催された。今大会の最大の目玉はハルク・ホーガンとランディ・サベージの宿命の対決でまず、ハルク・ホーガンとのタッグチーム「メガ・パワーズ」を結成し8月のサマースラム第1回大会のメインイベントでアンドレ・ザ・ジャイアント&デビアスの「メガ・バックス」と対戦した。しかし、ホーガンがサベージのマネージャーエリザベスを巡る三角関係のアングルとなりサタデーナイトメインイベントでメガ・パワーズとツインタワーズ(アキーム&ビッグ・ボスマン)との対戦でホーガンが気絶したエリザベスを介抱し試合中にも拘らず控室へ戻ってしまった。この一件に腹を立てたサベージは試合後、控室でホーガンと乱闘となりコンビは解散。遂にサベージが保持するWWE世界ヘビー級を掛けてホーガンとの抗争に発展していく。レッスルマニア5のメインであるサベージvsホーガンは技と力の攻防戦となり技で責めるサベージに対しホーガンは力で圧倒していく。そして最後はホーガンのギロチンドロップで勝利を収め約1年ぶりにWWE世界王座に返り咲いた。またその他の試合ではブレーン・バスターズ (アーン・アンダーソン&タリー・ブランチャード) vsストライク・フォース (リック・マーテル&ティト・サンタナ)が正統派のマーテルとサンタナが仲間割れをし蛇使いのジェイク・ロバーツと大の蛇嫌いのアンドレ・ザ・ジャイアントとの因縁のシングルマッチ更にインターコンチネンタル王座戦でアルティメット・ウォリアーとリック・ルードのライバル対決が実現、ルードが卑怯な戦法でウォリアーから勝利し、遺恨を生む形となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【世界中に一大ブームを巻き起こしたNWOのロゴTシャツ】NWO ロゴTシャツ 復刻版/WCW/ハルク・ホーガン/ケビン・ナッシュ/ランディ・サベージ/
2016.02.18
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インターナショナル王者・力道山PWFヘビー級王者・ジャイアント馬場UNヘビー級王者・アントニオ猪木その3本のベルトをまとめ上げた三冠ヘビー級王者・ジャンボ鶴田日本の伝統かつ全日本の主砲である三冠ヘビー級王座は2001年新日本の武藤敬司に流出されてしまった。その為、挑戦者は新日本のレスラーが多く全日本のマットで蝶野正洋との三冠戦新日本マットで三冠戦が行われいくら全日本が三沢らの選手大量離脱により興行的に窮地に立たされたとは故全日本にとっては、かなり屈辱的な事態ではあった。その一方で全日本のエースであった川田利明は逆に新日本のリングに上がり続けて天山広吉や小島聡とのシングルマッチで勝利を収める等、団体のエースとして孤軍奮闘の働きをしていた。この、よじれマット界の影響で次第に新日本の武藤が太陽ケアとのコンビで全日本に上がる機会が多くなり川田と戦う事も多くなってきた。そして、2002年2月24日の日本武道館当時6冠王であった武藤と三冠選手権試合が実現した。団体のトップレスラー同士が戦う歴史的な試合は天才・武藤が勝つか、川田が奪還するかファンの注目だけでなくマスコミも騒いだ。試合は武藤が自身の技、ムーンサルトやシャイニング・ウィザードなど繰り広げ川田を追い込むが川田も意地を見せ、王道スタイルを崩さずに試合を運びかつて三沢にパワーボムを狙いウラカン・ラナで交わされそうになった所を強引に逆さ釣りにして脳天直撃パイルドライバーで失神KO寸前に追い込んだ幻の技を同じ条件で武藤敬司に浴びせた。これで武藤の息の根が止まり、最後は川田がパワーボムで勝利し、三冠王座を全日本に取り返した。試合後、武藤を破ったリングの上で「これも、全日本プロレスです」と大会の最後を締めくくった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キングオブプロレスリング 第4弾 【RR】 川田利明(第32代三冠ヘビー級王者)[BT04-014]
2016.02.11
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平成版・馬場と猪木と評された全日本の秋山と大森それまで全日本のスタイルにはなかった暴言アピールで秋山を追い抜いた大森だが戦場を全日本からNOAHへと移した時、秋山の逆襲が始まった。それまで実力で上へと登り詰めた秋山は実力者から危険な技を繰り出し相手をマイクで毒づく辛口キャラへと変貌した。それは秋山の尊敬する小橋に牙を向けまず、旗揚げ戦ではチョークスリーパーで小橋を失神させ、徹底的に挑発する。若手を率いて「STERNNESS」を結成し秋山はライバルである高山善廣と共同しNOAH活性化を目指していたが同じく共同を求めていた大森はライバルとの共同を拒否し、秋山の元パートナー小橋と共同するという旨を発表した。しかし最終的には大森も小橋を裏切り秋山と一時的ではあるが久しぶりにタッグを組む事になった。解散後、秋山はライバル・大森に噛み付き何かと言えば「大森が!」「まだまだだよ」など周到に挑発した事から、大森は「大森、大森って、うるせぇんだよ」とかなりの剣幕で秋山を激怒していた。また、大森は高山との方向性の違いも表面化し「あばよ!」の言葉を残してタッグチームを解消した。周りを盛り上げて王国を築きたい秋山に対し比較されず我が道を行きたい大森は2002年6月に渡米。ハーリー・レイスの元に預けられアメリカマットを転戦。旗揚げしたばかりだったTNAのPPV大会に参戦し遠征第1戦目でNWA王者ケン・シャムロックに挑戦米マットの破格の扱いに強烈なインパクトを残しその後は初のシングルタイトルも獲得し2003年2月に帰国した。しかし大森は秋山より自分を評価をしている元・新日本の永島勝司らに誘われる形でWJプロレスに入団を決意する。ノアを退団し、三沢は「大森が今後、ノアのマットに上がることはない」と断言し秋山は「クソ、アックスボンバーがよ!」とライバルの突然の裏切りとその寂しさを怒りに変えて大森に最後まで毒づいた。馬場と猪木同様、秋山と大森も袂を分かつ時が来てしまった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【在庫あり★即納可能】モグラハウス 高山善廣×大森隆男 フィギュア【新品★未開封品】
2016.02.04
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武藤敬司が史上初の6冠王者となった。米国・WCWで活躍していた武藤が2001年より新日本に復帰。1月28日、馬場3回忌と銘打った全日本プロレスの東京ドーム大会に参戦。全日本の生え抜きレスラー・太陽ケアと対戦しドラゴンスクリューからの足4の字固めという独自のスタイルで勝利する。予てから新日本に疑問を抱いていた武藤は以後、定期的に全日本に参戦する事になる。そして武藤は太陽ケアと共に団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT」を結成した。武藤は第26代・三冠王者の天龍源一郎に勝利し全日本の主砲である三冠ヘビー級王座を奪取。新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げスティーブ・ウィリアムスに勝利し10月には全日本のリングで新日本プロレス所属同士で蝶野正洋と三冠戦が行われた。そして武藤はばく進を続け、太陽ケアとのコンビでIWGPタッグ王座、世界タッグ王座を奪取し史上初の六冠王者となった。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトでその時点で保持していないのは過去に自らも保持していたIWGPヘビー級王座のみとなり更に全日本プロレスの年末恒例の大場所である世界最強タッグ決定リーグ戦も制して同年のプロレス大賞MVPに選ばれた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キングオブプロレスリング 第2弾 【C】 武藤敬司(プロレスLOVE)[BT02-058]
2016.01.28
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