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三沢光晴が理想を求めて2000年に旗揚げしたプロレスリング・ノア彼は全日時代に興業したファン感謝デーのようにファンに楽しんでもらえるイベントを企画した。それが年末に行われるノア・クリスマス興行である。これは毎年恒例のイベントでディファ有明で開催され大会内容は観客の抽選で決定する試合カードや2日間に亘るトーナメント戦があるだけでなくノアの選手によるドラマのパロディーや選手への「どっきり企画」などのVTR作品が目白押し。選手の入場の際にはレスラーがサンタの格好で観客にプレゼントを撒いたり仮装でファンを喜ばせたりした。中でも2004年のクリスマス興行では三沢がグリーンのタイガーマスクで入場し14年ぶりに三沢がタイガーのマスクを被るというプロレス界でも伝説となる話題も!極めつけはノアの選手たちによるVTR作品でJR東海のCMパロディー、三沢光晴が先生を演じた「3年N組三八先生」やヒーローものパロディ「ディファ有明戦隊ノアレンジャー」と楽しいVTRを気合い入れて作り会場のビジョンで流した。最後は会場に雪を降らせ興行は終わり宴タメ形式でノア今年度の試合興行は幕を閉じるというものであった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】 PRO-WRESTLING NOAH 復活!小橋建太 ~蘇るGRAND SWORD~ 【DVD】
2014.12.25
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SWS崩壊後、天龍源一郎は己の意地と信念を貫き通すため新団体WARを設立した。1992年7月14日、後楽園ホールで旗揚げ。SWS時代から友好を保っていたWWEの選手を招聘し、特に当時の世界王者だったリック・フレアーに天龍が挑戦した。この時、越中詩郎らの平成維震軍が参戦して来た事を契機にWAR勢は新日本プロレスに積極的に参戦しFMWをはじめとするインディ団体、UWFインター、女子団体LLPWなど幅広く交流を進めた。またWAR団体内における対抗勢力として冬木弘道が邪道、外道らと共に冬木軍を結成し天龍と対決。「理不尽大王」の異名で脚光を浴びた。この反体制ユニットは「相撲軍団」「反WAR軍」も登場し団体内対抗戦が充実するだけでなくLLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や6人タッグのベルト設立、一連の抗争劇による武井正智社長自身の試合出場など幅広い路線でインディー団体の中ではかなり話題を振り撒いていた。またビックイベントは日本武道館、両国国技館、横浜アリーナ、大阪城ホールと大会場で興行し、いずれも満員となる成績を残している。天龍源一郎のシングルマッチでは藤波辰巳、橋本真也、蝶野正洋、ザ・グレートムタ、北尾光司、ヨコヅナ、バンバン・ビガロなど強豪レスラーとの意地の対決が注目を浴びた。WARは1995年の東京ドームで開催された週間プロレス主催の「夢の懸け橋」で参加65を表明せず、当初より決定していた後楽園ホール大会を優先した。ファンを大切にするWAR側の興行には新日本プロレスから長州力、越中詩郎が参加し、満員を記録。会場に入りきれないファンのために後楽園ホール内の別の場所でクローズドサーキットによる同時上映も開催した。まさに天龍の男気を主張した団体であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス/格闘技】天龍源一郎格闘生活50周年記念作品 W.A.Rクロニクル 天の章 [DVD5枚組]【あす楽対応】【あす楽_土曜営業】【あす楽_日曜営業】【楽ギフ_包装】
2014.12.18
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超世代戦士・三沢光晴が遂に全日本の頂点に立った。1992年、ジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされエース不在の全日本にトップの座に名乗りを上げたのが三沢であった。まず三沢は川田利明と組み、当時タッグチームの頂点に立っていたテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの保持する世界タッグ王座に挑戦し見事王座を奪取。鶴田、ハンセンと並ぶ全日本3大トップレスラーのテリー・ゴディとのシングルマッチではエルボーからのエビ固めでシングル初勝利。全日本の巨大な壁を破った三沢に実況の福澤朗は「三沢が超えた」と涙ながらに絶叫した。そして1992年8月22日、日本武道館時の三冠王者・スタン・ハンセンに挑戦。今まで三沢はハンセンに幾度となく倒され三冠挑戦は4度目となり正に背水の陣での勝負である。試合はハンセンのラフファイトに三沢がエルボーで応戦。ハンセンのウェスタンラリアートに耐えながらも三沢が渾身の力を込めたエルボーを叩き込み24分4秒、体固めでハンセンを破り第10代三冠ヘビー級王座に輝いた。左肩の故障という困難を乗り越えまさに執念で掴んだ勝利とも言えた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】三沢光晴/三沢タイガー伝説~虎仮面7年の咆哮~DVD-BOX
2014.12.11
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天龍源一郎を中心に全日本プロレスと新日本プロレスから選手を集めて作られ米国のWWEとの提携と軌道に乗った感のあるメガネスーパーの大型団体SWS。しかし僅か2年で崩壊するという最悪な事態を迎える事となる。その原因は、まず相撲に因んだ部屋別制度を採用した事で、天龍源一郎率いる「レボリューション」若松市政率いる「道場“檄”」ジョージ高野率いる「パライストラ」の3つが試合カード編成を会場ごとに取り組んでおり天龍派にマッチメイクなど主導権を握られていた反天龍派の不信感は根強かった。各道場は対等な立場であるのが本来の姿であるがマッチメイク担当を集客的な面もあって天龍派が天龍中心のマッチメイクに傾向する形が強かった。これに対して反天龍派の一部の選手は田中社長に直訴する事で決定事項が覆る様な事態も少なからずあったと言われ遂には選手会長だった谷津のSWS退団発言で一気に対立が表面化する形となった。谷津が天龍を批判した事で天龍派と反天龍派の亀裂修復は不可能となりこれ以降、崩壊までの大会では道場間の対抗戦は組まれず、天龍派と反天龍派がそれぞれカードを組む形で興行が行われる形となった。そして、もうひとつの原因としてSWSを批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」の存在である。これは裏切りを許さないジャイアント馬場が同誌編集長だったターザン山本にSWSバッシングを影で指示しており「SWS=金権プロレス=悪」という批判的な論陣を張り天龍源一郎の引き抜き並びにその後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持されSWSは厳しい立場に立たされる事となった。こうしてSWSは1992年6月19日長崎国際体育館大会をもって興行活動に終止符を打った。最後の試合は天龍&阿修羅原&Uドラゴンvs ザ・グレート・カブキ&キング・ハク&ジェリー・エストラーダであった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] Mr.プロレス 天龍源一郎
2014.12.04
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1990年代、女子プロレス界に旋風が起こった。その愛らしい容姿からアイドルとして人気を集めたキューティー鈴木の存在である。クラッシュギャルズの試合を見てプロレスラーになることを決意した彼女は全日本女子プロレスのオーディションに応募、結果は不合格となる。しかし1986年3月、ジャパン女子プロレスが旗揚げする事を知りオーディションを受け見事合格。9月19日、徳島市立体育館プラム麻里子戦でデビューを果たす。そして尾崎魔弓との抗争が次第に白熱し受け身のうまさと打たれ強さから尾崎の技を掛けられ苦悶の表情で耐える彼女の構図が観客に受け人気を博した。その後、グラビア、歌手、ラジオ、写真集、ドラマ出演とアイドルとして売り出されイメージビデオもヒットした事から人気が一気に爆発する。1992年1月、ジャパン女子が解散。彼女はプロレスを辞める決意をするが尾崎と共にJWP女子プロレス旗上げに参加する事にした。この時期の彼女は新団体を引っ張るという責任と自覚が芽生えていた。1993年、彼女は宿命の転機を向かえた。女子プロレス対抗戦ブームの中、同年代のライバル、井上貴子との出会いである。試合にライバル心を燃やすこの二人の対決は美系アイドル対決と言われた。1998年、29歳で引退を正式表明し12月27日、後楽園ホールで現役生活を終えた。「やるべき事は全てやったし、もう後輩に教える事もない」彼女は自信の役割、責任を果たし完全燃焼した。90年代、青春まっしぐらで輝き走り抜けたキューティー鈴木同年代にとって共に成長した彼女は良き思い出となるレスラーでもありました。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】キューティー鈴木/キューティー鈴木 キューティーコレクション
2014.11.27
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完全無欠のエース・ジャンボ鶴田が怪物と呼ばれた。超世代軍の奮闘で新時代を築き上げていた全日本プロレスに巨大な壁として立ちはだかったのがスタンハンセンとジャンボ鶴田であった。ジャンボ鶴田は1990年6月、三沢にフォールを許したが3ヶ月後、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度、三沢光晴と戦い、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。1991年1月19日ではスタンハンセンを破り、第8代・三冠ヘビー級王者に返り咲きその後は三沢光晴、スティーブ・ウィリアムス、川田利明が鶴田の三冠王座に挑戦。全て完勝といっていい内容で退け、ジャンボ鶴田は誰も勝つ事が出来ないほど強い“怪物”と呼ばれた。また後楽園ホール大会で川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された直後、鶴田は目の色を変え、大迫力のエルボーで川田を戦意喪失させ半失神状態に追い込んだが鶴田の怒りは収まらず、無理矢理起こして次の攻撃を続け顎へまともに入るジャンボ・キック、場外でのボディスラム、座面ではなくステンレス部分でのイス攻撃などを川田に繰り出す壮絶な攻撃であった。怒ったジャンボの怖さはこれだけではなく大阪大会で鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し三沢は鼻骨を骨折してしまい鼻を負傷しながらなおも試合を続ける三沢に鶴田はその鼻に狙いを絞った攻撃を徹底するダーティファイトを繰り広げまさに超世代軍の壁であったとも言える。 怪物と呼ばれた1991年の鶴田は全日本プロレス中継で三沢との三冠戦後のインタビューで「一回でいいから世界最強といわれるハルク・ホーガンと負けてもいいから思いっきり闘いたい」と発言し対戦したい相手として他に前田日明、藤波辰巳の名も挙げ鶴田怪物時代を物語る最強ぶりであった。しかし古傷の左足首の故障で1シリーズを全休した事を機に1992年11月、鶴田はB型肝炎を発症し長期入院を余儀なくされてしまった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★プレミアムセール[DVD] 全日本プロレス中継 世界最強タッグ列伝
2014.11.21
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WWEスーパースターズ三度集結。藤原組との業務提携、WOWOWの定期放送とプロレス界の軌道に乗ったSWSは年末のビックイベントとして1991年12月12日2度目の東京ドーム進出として「スーパー・レッスルin東京ドーム」を開催した。今大会はWWE選手同士で行われる世界タッグ選手権ホーガンvs天龍で争われるWWE世界ヘビー級選手権とまさにビックイベントに相応しいカードとなった。しかし大会目前でホーガンが王座転落。WWE世界王座が空位となってしまい急遽、ノンタイトル戦となった。この経緯はWWEサイドが日本レスラーでのタイトル戦を行わないという策略ではないかと囁かれている。しかし今大会は大盛り上がりで成功しており後のパンクラスを旗揚げする船木誠勝、鈴木みのるが参戦し格闘技ルールで勝利している。第6試合はメキシコで修行を積んだ浅井嘉浩がウルティモ・ドラゴンとして凱旋帰国しEMLLのジェリー・エストラーダと対戦。10分15秒、マヤ式原爆固めで勝利。続く第7試合はデービーボーイ・スミス&阿修羅原vs谷津嘉章&キング・ハクのタッグマッチで16分57秒、首固めでスミスの勝利。第8試合はジョージ高野&高野俊二の兄弟がM.ジャネッティ&S.マイケルズのザ・ロッカーズと対戦。不協和音だったロッカーズは仲間割れ寸前で10分55秒、ロッカーズの誤爆により高野兄弟の勝利。第9試合はかつてエリック王国の黄金カードであったテッド・デビアスvsケリー・フォン・エリックでケリーがデビアスの女マネージャーに気を取られている隙に丸め込まれ9分16秒、デビアスの勝利となる。第10試合は新設されたSWSジュニアの王座決定戦でSWSの佐野直喜とWWEのリック・マーテルが激突。試合は7分29秒、ジャーマンスープレックスで佐野が勝利し初代王者に輝いた。 第11試合は藤原喜明と相撲からレスラーの道を選んだ維新力とのシングルマッチ。11分12秒、足掛け腕固めで藤原が貫禄ある勝利を収めた。第12試合はWWE直輸入カードが実現。WWEタッグ選手権試合、アニマル&ホークのザ・ロードウォリアーズにアースクエイク・ジョンテンタ&タイフーンのナチュラルディザスターズが挑戦。試合は9分15秒、巨漢のタイフーンをダブルインパクトで見事決め王者チームが王座防衛を果たした。そしてメインイベント 60分1本勝負 “超人”ハルク・ホーガンと天龍源一郎のスペシャルシングルマッチが実現。かつて猪木、アンドレを倒した無敵のホーガンと全日本で鶴田と名勝負を繰り広げた天龍の全日イズムと新日イズムの意地を掛けた戦いである。試合はオーソドックスな展開から技の駆け引きが展開へ。最後はホーガンのアックスボンバーが決まり13分57秒、天龍を下した。なお、この試合は東京スポーツのプロレス大賞にてベストバウト賞に選ばれている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村那須の自然で育まれた絶品ジェラート。ギフトに最適。ミルクの美味しい那須から色々な味を試せるフルーツアイスクリームセットをお取り寄せ!【東京ドームでのイベントで大行列】那須で生まれた絶品いちごジェラート含む選べる6個のアイスセット 送料込【フルーツ|ふるさと祭り|ご当地スイーツ|アイスクリーム|贈り物|ギフト|お取り寄せ|お土産|お歳暮】【RCP】[10P25Oct14]
2014.10.30
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1991年、全日本プロレスは選手大量離脱、超世代軍の奮闘で危機を乗り越えるべく春の祭典・チャンピオンカーニバルが10年ぶりにリーグ戦形式として復活させた。今回は復活という事もありAブロック、Bブロックに別れてのリーグ戦となった。Aブロックはスタン・ハンセン、三沢光晴 、ダイナマイト・キッド、小橋健太、ジョニー・エース、ダグ・ファーナス、テキサス・ターミネーター・ホスBブロックはジャンボ鶴田、川田利明、田上明、ダニー・スパイビー、ダニー・クロファット、ジョニー・スミス 、カクタス・ジャックという顔ぶれ。中でも注目の選手は「まだ見ぬ強豪」の外人レスラーで後に“ハードコア”路線で活躍するカクタス・ジャックが初来日している。10年ぶりのリーグ戦復活とあって鶴田以外は全員初出場であった。この年のリーグ戦はAB両ブロックとも1位は全勝、2位は1位に敗れた以外3位以下に全勝、3位は1位2位に敗れた以外全勝最下位は全敗という珍しい星取りとなった。そして4月16日、愛知県体育館の決勝戦Bブロック1位のジャンボ鶴田、Aブロック1位のスタン・ハンセンの間で優勝決定戦が行われた。試合は鶴田が12分53秒、ルーテーズ直伝のフライングボディーシザースドロップからハンセンに見事フォールし、11年ぶり2度目のチャンピオンカーニバルを制覇した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【楽天ブックスならいつでも送料無料】PRO-WRESTLING NOAH GREAT VOYAGE'09 in TOKYO&OSAKA ~Mitsuharu Misawa,always in our hearts~ 三沢光晴追悼大会 [ 潮崎豪 ]
2014.10.23
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前回のレッスルフェストで大成功したSWSは第2弾の企画として1991年4月1日神戸ワールド記念ホールにてレッスル・ドリーム in 神戸を開催した。SWSはWOWOWでテレビ中継されるなど団体として軌道に乗った感じがあったがここである事件が起こった。それは第8試合、北尾光司vsジョン・テンタ戦で起きた。いわゆる「北尾事件」である。北尾光司(双羽黒)とテンタ(琴天山)は元大相撲力士であり、横綱だった北尾は幕下のテンタを格下と見ていた傾向にあり前回の負け方に納得がいかなかった。今大会での対決はゴング開始からしばらく睨み合いが続き、試合というよりも本気の喧嘩が勃発しそうな雰囲気で包まれた。北尾はサミング攻撃を仕掛ける様なポーズを取りテンタも怒りを露わにしサミングで応戦しようとする。慌てたレフリーが北尾を制止するが北尾はレフリーを蹴り反則負けを宣せられた。北尾はリングを降りてマイクでテンタに「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はその会場のみならずプロレス業界全体を騒然とさせた。セミファイナルでは天龍源一郎vsランディ・サベージのシングルマッチ1年前の日米レスリングサミット以来、2度目となる試合で、今回も天龍の熱き男の戦いとサベージのアメリカンスタイルの戦いで8分3秒、パワーボムで天龍が2度目の勝利そしてメインイベントはWWE世界ヘビー級選手権王者:ハルク・ホーガン vs挑戦者: 谷津嘉章試合はホーガンの完全ペースで7分54秒アックスボンバーからの片エビ固めでホーガンが防衛に成功した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村B.B.MOOK1110 週刊プロレスS【1000円以上送料無料】日本プロレス事件史 2
2014.10.18
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フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング通称・FMWは元全日本プロレスの大仁田厚が1989年に5万円の資金で設立し日本で初めての男女混合団体でハードコア・レスリングの先駆的存在である。当初はキックボクシングや柔道、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており異種格闘技的な要素が強かったがこれらと並行して行ったのがデスマッチ、ストリートファイトマッチなどであるこれは当時、全日本プロレスが“明るく、楽しく、激しい”をスローガンに王道プロレスを築き上げる為、それまでテリー・ファンクやブッチャーが繰り広げてきたデスマッチを排除し元・全日の大仁田厚はそれを引き継ぐかの様にデスマッチを数々行ってきた。大仁田はプエルトリコで行われていた有刺鉄線デスマッチを日本で初めて敢行し1990年8月4日に東京・汐留で行った大仁田厚vsターザン後藤の究極のデスマッチノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチでFMWは一躍注目を浴びるようになった。その後、大仁田はミスター・ポーゴと有刺鉄線バリケードマット地雷爆破デスマッチ有刺鉄線電流地雷監獄リング時限爆弾デスマッチを行いテリー・ファンクとは川崎球場でノーロープ有刺鉄線電流爆破超大型時限爆弾デスマッチを行った。大仁田はいつしか邪道と呼ばれるようになりメジャー団体からは「認められない」と揶揄される事になったが感動を呼ぶ大仁田劇場でファンを魅了しまた大仁田信者が急増した事で新日本プロレス、全日本プロレスに匹敵する第三勢力となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村FMW伝説 ノーロープ有刺鉄線 電流爆破デスマッチ 【DVD】
2014.10.10
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豊富な資金を元に全日本、新日本の大量選手を引き抜き「黒船」としてプロレス界に激震を引き起こしたメガネスーパーの新団体、SWS。1990年10月9日、横浜アリーナにて「闘会始'90」で旗揚げ戦が行われその後、SWSは1990年11月20日に全日本との交流ラインに失敗した米国のWWEと業務提携を発表し1991年3月13日には新UWF藤原組と業務提携し団体の枠を大きく広げた。そして1991年3月30日、WWEが米国での一大イベントを直輸入する形でSWS、東京ドームとの共催である「レッスル・フェストin東京ドーム」を開催した。参加外人レスラーはハルク・ホーガン、アルティメット・ウォリアー、テッド・デビアス、ブレット・ハート、ランディ・サベージとWWEの主力選手を揃えた豪華メンバー。観衆6万4618人の超満員 第1試合は冬木弘道&アポロ菅原&折原昌夫&北原辰己vs鶴見五郎&ドン荒川&新倉史祐&大矢健一 ダイビングボディーアタックから片エビ固めで5分37秒、冬木組が勝利第2試合はケンドー・ナガサキvsジム・ドゥーガンは2分49秒、トラースキックから体固めでナガサキの勝利第3試合はスマッシュ&クラッシュという2代目デモリッションvs高野俊二&仲野信市5分22秒、合体殺法から体固めでスマッシュの勝利第4試合はブレット・ハート&Jナイドハートvsジャネッティ&マイケルズ(ザ・ロッカーズ)WWE直輸入のカードであり、14分40秒ブレット・ハートがショーン・マイケルズを抑え勝利第5試合はジョン・テンタvs北尾光司という相撲出身のカードであり、6分10秒ヒップドロップから体固めでテンタが勝利第6試合はテッド・デビアス&キング・ハクvsグレート・カブキ&石川敬士でバックドロップでデビアスが勝利 第7試合はWWE直輸入のメイン級カードアルティメット・ウォリアーvsサージャント・スローターこの試合は元々、WWE世界選手権として王者のウォリアーが日本来日を調印したのであったが来日前に王座転落、その報復として観客を蹴散らし場外乱闘を仕掛けた。7分14秒、ウォリアーが勝利を収めている。第8試合は船木誠勝vs佐野直喜10分23秒、腕ひしぎ逆十字固めで船木の勝利第9試合はWWEインターコンチネンタル選手権カート・へニングvsケビン・フォン・エリックで6分59秒、反則勝ちでエリックが勝利するものの反則裁定でへニングの王座防衛となる。第10試合は谷津嘉章&維新力vsジミー・スヌーカ&バーバリアンで10分00秒、腕取り岩石落とし固めで谷津がバーバリアンから勝利第11試合はランディ・サベージvsジョージ高野13分42秒、ダイビングエルボーでサベージが勝利第12試合はザ・ロードウォリアーズvs天龍源一郎&ハルク・ホーガンという夢のカードで14分3秒、ホーク・ウォリアーがリングアウトでホーガンから勝利を奪っている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村マーベルグッズ ☆USディズニー(DisneyJakks 激レア☆アメリカ直輸入品!【送料無料】【アメリカ直輸入品!】ハルクWWE Superstars Uncovered - Hollywood Hulk Hogan WWEのスーパースターは、屋根無し - ハリウッドハルクホーガンディズニーグッズ☆ 【並行輸入品】【レア商品】プレゼント ギ
2014.10.03
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1990年、全日本プロレスは天龍源一郎を中心に大量選手が離脱しメイン級選手不在という危機を迎えた。この騒動により全日本プロレスは天龍vs鶴田という当時の黄金カードを失いまさに崩壊寸前に追い込まれてしまった。そんな全日本プロレスの危機に一人の若手レスラーが立ち上がった。後にプロレス界の堅主となる三沢光晴である。彼は二代目タイガーマスクとして活躍していたが1990年5月14日、東京体育館で三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。その後、三沢はジャンボ鶴田率いる鶴田軍に対し新世代を唱えるべく川田利明、小橋健太、菊池毅らと共に超世代軍を結成した。まず三沢は1990年6月8日、日本武道館で全日本No,1の男、ジャンボ鶴田とシングルマッチを行い見事勝利を収め一気に鶴田のライバルとして躍り出た。川田は鶴田の新パートナーで発展途上中の田上明の前に立ちふさがる強敵な存在として全日本を盛り上げ小橋は外人レスラーで巨大な壁であるスタン・ハンセンに真っ向から立ち向かい菊池は全日ジュニア最強の渕政信にがむしゃらに挑み続け、全日本は超世代軍の中心レスラーとして活躍した。この超世代軍と鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなり特に超世代軍は明日に希望を見る若い世代に人気が高くそれまでプロレス会場に足を運ばなかった女性が観戦するという新たなファン層を獲得し新生・全日本プロレスに大きな収益をもたらした。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【レビューでメール便 送料無料】 キングオブプロレスリング 第7弾 BOX開封商品はCBOXで!キングオブプロレスリング 第7弾 ≪三沢光晴 超世代軍≫(PR)『第10弾 販売中! トレカ トレーディングカード』☆BOX開封商品☆【コード未登録商品】{あす楽対応}
2014.09.26
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1990年5月、全日本に最大の危機が勃発した。第3のメジャー団体を目指したメガネスーパーの新団体・SWSが全日本の主力選手を大量に引き抜いた。まず全日本のメイン選手であった天龍源一郎が契約満了と同時にSWSに移籍。ファンやマスコミ記者の度肝を抜いた。天龍に至っては馬場との会談により円満退社という形で離脱が成立したが問題なのはその後!まずメイントップレスラーの谷津嘉章が怪我を理由に引退、そのままSWSで直ぐに復帰を果たし事実上の移籍。ジャンボ鶴田の新パートナーとして世界タッグ王者になったザ・グレート・カブキが王座奪取から1日後に離脱。川田利明のタッグパートナーである人気レスラーの冬木弘道が天龍を追い離脱。若手で馬場から期待されていた高木功、高野拳磁、仲野信市、北原光騎中堅からは鶴見五郎練習生の折原昌夫の9選手が全日本との契約を残したまま離脱した。この契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際馬場は「話が違う」と激怒。この件で馬場は辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げない方針を固めた。崩壊危機となった全日本プロレスだがジャンボ鶴田は残された全日選手に対して「出ていった選手たちに、全日本に残っていたら良かったな~と思わせるような団体にしていこう」と再出発する意向で励ましまた馬場は憤慨していた鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と諭したという。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 【新品】【書籍・コミック スポーツ・乗り物】全日本プロレス外国人選手大図鑑 全日本プロレス40周年特別企画 全日マット40年の歴史を彩った全624人を網羅!
2014.09.18
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日米レスリングサミットのメインイベント米国の超スーパースター、ハルク・ホーガンと日本の超大物外人レスラー、スタン・ハンセンの全日本vsWWE、超大型対決が実現。ホーガンはかつて、新日本時代にハンセンのタッグパートナーとして活躍し1981年の第1回MSGタッグリーグ戦では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争う先輩後輩の仲である。まず最初に入場したのはスタン・ハンセンリングインするやいなやリングアナウンサーを蹴散らし大暴れ。コールは米国で使用していたスタン“ザ・ラリアット”ハンセンそして万を期してハルク・ホーガンが入場。いつもなら入場曲は「ギャラクティカ」なのだがWWEマットという事もあり「リアルアメリカン」が会場に流れた。リングアナウンサーのコールと共に一番ポーズを披露。ゴング開始と同時に実況の倉持アナウンサーは「このハルク・ホーガンこそ明るく・楽しく・激しい全日本プロレスのリングに相応しい男」と全日本常連外人レスラーとして迎えたい意向をアピール。試合はWWE代表ともあってホーガンはアメリカンスタイルで闘うかと思いきや日本ファンが好むストロングスタイルで応戦しその為、ホーガンの防戦が目立ったが途中、ハンセンが場外乱闘に持ち込みラフファイトでホーガンを攻めまくる。ここでハンセンは必殺のウェスタンラリアットを狙うがホーガンはボディアタックでラリアットを封じアメリカでの必殺技、ギロチン・ドロップを狙った。しかし、今度はハンセンに交わされ五分五分の試合展開となる。ロープ際にホーガンが寄りかかった所で再びハンセンがラリアットを仕掛けるがホーガンがカウンターのハイキックで防御、最後はホーガンのアックス・ボンバーでハンセンをマットに沈めた。試合後、リング上ではホーガンのマッスルパフォーマンスで会場は盛り上がり更に一番ポーズでファンの声援に応えた。大成功で終わった日米レスリングサミットその後、全日本はアンドレの獲得に成功し全日本=WWEラインが成立するかと思ったが約束を中々守らないマクマホン・ジュニアに対し契約問題にシビアな馬場は信用出来なくなった為、このラインは消滅している。なお、全日本プロレスの創成期から実況アナウンサーを担当してきた倉持隆夫はこの日のホーガンvsハンセン戦が最後のプロレス実況となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村マーベルグッズ ☆USディズニー(DisneyJakks 激レア☆アメリカ直輸入品!【送料無料】【アメリカ直輸入品!】ハルクWWE Hulk Hogan, Brutus 'The Barber' Beefcake, Jimmy Hart Limited Edition Classic Series WWEハルク・ホーガン、ブルータス「バーバー
2014.09.12
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1990年に開催された日米レスリングサミットよいよセミファイナル60分1本勝負を迎えた。 WWE世界タッグ王者、ザ・デモリッションズにアメリカマット界のスーパースター、アンドレ・ザ・ジャイアントと日本の主峰、全日本プロレスの総帥、ジャイアント馬場が初タッグを組むスペシャルカードが実現した。大巨人の異名を持つアンドレは新日本の常連外人レスラーとして来日し、アントニオ猪木の宿敵である押しも押されぬWWEのスーパースター。 ジャイアント馬場は若手時代、海外遠征で創成期のWWEマットに上がりMSGではババ・ザ・ジャイアントの名でメインイベンターにまでなったWWE最古参の超ビックスターである。対するザ・デモリッションズのアックスは覆面レスラー、マスクド・スーパースターの名で新日本プロレスの常連外人レスラーとして来日しアントニオ猪木のライバル的な存在でパートナーのスマッシュはバイオレンスタッグチームザ・ラシアンズのクルスチェフとして全日本マットに上がったレスラーというまさに全日本、新日本の混合タッグチームの戦いがWWEマットで実現した。先に入場したのはザ・デモリッションズそしてテーマ曲は「王者の魂」へと変わり大歓声の中、馬場&アンドレの大型タッグチームが東京ドーム狭しと入場した。試合は馬場がスマッシュと絡み、そしてアックスことマスクド・スーパースターと夢の初対決今度は馬場がアンドレにタッチ、4年ぶりの日本来日でファンはアンドレに大声援。試合の流れはWWEスタイルかと思いきやオーソドックスな日本スタイルで運ばれ最後は馬場の16文キックからアンドレのエルボードロップで6分39秒、勝利を収めた。ジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントはこの日以降1992年まで「大巨人コンビ」として全日本プロレスを舞台に活躍する事になる。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【新発売!!】アンドレ・ザ・ジャイアント半袖TシャツAND543S Big Purp
2014.08.27
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米国大メジャー団体・WWEが日本で開催した「日米レスリングサミット」その注目のカードの第9試合。「プロレスは男の詩、そして熱き戦い」を追求した風雲昇り龍 天龍源一郎とアメリカを象徴するWWEの超大物レスラー“まだ見ぬ強豪”マッチョマン:ランディ・サベージの日本の熱い闘いvs派手なアメリカンスタイルという異色のシングルマッチが実現。威風堂々のテーマに乗ってランディ・サベージが女マネージャーのシェリー・マーテルを従えて入場。派手なコスチュームでアメリカをそのまま輸入した感のあるサベージはリングアナウンサーの仲田龍とレフリーの和田京平にちょっかいを出す。そしてサンダーストームのテーマが流れ会場は大興奮の渦に包まれた。天龍源一郎の入場である。天龍はリング下からレボリューションシャツをリング上のサベージ目掛け投げつけ早くも挑発。試合は序盤戦、サベージのインサイドワークが目立ったが天龍が怒りのチョップの連打で応戦し会場は興奮の坩堝に包まれた。途中、女マネージャーのシェリーが乱入し特別解説者の徳光和夫と口論状態に・・・典型的なアメリカン・プロレスのサベージと無骨なタイプの天龍の試合はミスマッチかと思われたが互いの持ち味が存分に引き出された好勝負となり最後は天龍のパワーボムで10分49秒勝利を収めた。この試合は今大会のベストバウトとなり後に天龍は意外と噛み合った試合で「禁断の実を味わった」と評している。そして今大会の12日前、レッスルマニア6で王者・ハルク・ホーガンが王座から転落。第15代WWE世界王座に輝いたのはまだ見ぬ強豪 アルティメット・ウォリアーという世代交代の激震が走った。第10試合は急遽、WWE世界タイトルマッチとなり王者アルティメット・ウォリアーに全日本常連外人レスラーだったテッド・デビアスが挑戦。デビアスは全日本時代、スタン・ハンセンのタッグパートナーとしてインタータッグ、PWFタッグ王座となりシングルでは天龍を破りUN王座に君臨している。しかしWWEではミリオンダラーマンという金満キャラでマットに上がっており日本のプロレスファンは「これがかつてのデビアスか?」と疑う程、イメージを変えてきた。試合はゴング開始前にデビアスが奇襲。しかしウォリアーはパワーで圧倒WWEスタイルのプロレスが展開される。だが日本のプロレスファンは見慣れないアメリカンスタイルに飽きがきたせいかウォリアーが攻撃を仕掛ける時は「うぉりぁ~」デビアスが攻撃を仕掛ける時は「でびあ~す」と会場が一世に掛け声で両者に声援を送り楽しみ始めた。デビアスが徐々に日本のプロレススタイルを取り戻しつつあったが、最後はウォリアーのアルティメット・スプラッシュで6分12秒、勝利を収め世界王座防衛に成功した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス/格闘技】WWE Ultimate Warrior (アルティメット・ウォリアー) Parts Unknown ジムバッグ【あす楽対応】【楽ギフ_包装】
2014.07.30
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1990年4月13日 東京ドームで開催された日本vs米国のプロレスの祭典「日米レスリングサミット」その第5試合で米国夢のカードが日本で実現。シングルマッチ20分1本勝負ザ・グレート・カブキvsグレッグ・バレンタインテキサス州ダラスを主戦場として米国で一大センセーショナルを起したカブキNWAの主要であるクロケット王国のミッドアトランティック地区を主戦場として数々のタイトルを獲得したバレンタインテキサス、ノースカロライナのトップレスラー同士が戦う事は実現不可能とされ米国プロレス誌は夢でしか実現しないカードとしてプロレスファンに報道していた。この二人がWWEマットで遭遇日米レスリングサミットで試合が実現し結果は7分16秒・エビ固めでカブキが勝利した。そしてWWE直輸入のカードが第6試合シングルマッチ20分1本勝負ジェイク・ロバーツvsビッグ・ボスマンニシキヘビ「ダミアン」をマットに持参し打撃技・DDTを開発者した正統派・ロバーツと警棒と手錠を凶器に用いるヒール・ボスマンというWWEドル箱カードが日本で実現。試合はロバーツが10分25秒、DDTからの体固めでボスマンから勝利。試合後は愛蛇ダミアンを披露し観客は度肝を抜いた。続く第7試合では新日本プロレスの頂点対決IWGPタッグ選手権試合が実現。チャンピオン・マサ斎藤&橋本真也vs挑戦者・長州力&蝶野正洋米国や維新軍の参謀格として活躍し巌流島で行われたアントニオ猪木戦で死闘を繰り広げたマサ斎藤かませ犬発言から一躍革命戦士となり猪木越えを果たした長州力闘魂三銃士として頭角を現した蝶野と橋本新日本を象徴する黄金カードはマサ斎藤がバックドロップで13分0秒、蝶野から勝利を取り王座防衛に成功している。そして第8試合、全日本vsWWE第3戦タッグマッチ60分1本勝負ジャンボ鶴田&キング・ハクvsリック・マーテル&カート・ヘニング当初、鶴田のパートナーは谷津嘉章であったが負傷欠場となった為、急遽全日本出身でWWEマットに上がっていたキング・ハクが務める事となった。対戦相手は鶴田からAWA世界王座を奪取した宿敵・マーテルとAWA次代の主役候補と言われ全日本所連外人だったミスター・パーフェクトことカート・ヘニングという元・AWAコンビ。全日本vsAWAがWWEマット実現し凱旋帰国となったキング・ハクは鶴田と息の合ったタッグで相手を責め最後は鶴田が10分53秒「思いで作りの」バックドロップでマーテルから勝利を奪った。ちなみに鶴田はNWA、AWA、WWEと世界3大メジャー団体のマットに上がる偉業を成している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村送料無料!!【DVD】後楽園ホール in 西口プロレス~史上最大のワルふざけ~/長州小力/他 [NGPW-10004] チヨウシユウ コリキ/ホカ
2014.06.02
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新日本プロレス、全日本プロレス、WWEの合同興行「日米レスリングサミット」1990年4月13日 東京ドーム開催が決定し前夜祭パーティでは出場選手がインタビューで対戦相手を挑発し、更に出場しないアントニオ猪木がかつてのライバルだった ハンセン、ホーガン、アンドレ、アックス(マスクド・スーパースター)と再開。かくして観衆53,742人を集めた東京ドーム試合前のインタビューでハルク・ホーガンは「東京ドームではホーガン1番、ハンセンのウエスタンラリアット2番」とホーガン節を炸裂させた。記念すべき日米レスリングサミット第1試合は6人タッグマッチ20分1本勝負 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット&ジョー・マレンコvs川田利明&サムソン冬木&北原光騎この試合はファーナス&クロファットの全日常連外人カンナム・エクスプレスと天龍同盟の川田&冬木のフットルースというアジアタッグ争奪戦真っ只中の対決にU系シューターのジョー・マレンコと修斗出身の北原光騎という全日本中堅黄金カードで試合結果はクロファットが11分26秒北原からフォール勝ち。第2試合 シングルマッチ20分1本勝負 獣神サンダー・ライガーvs野上彰という新日本ジュニア戦線の黄金カードでIWGPジュニアで激闘を展開した両者が日米レスリングサミットで再び激突。結果はライガーが8分37秒で野上から勝利。そして全日vsWWEの第1戦である第3試合 タッグマッチ20分1本勝負ジミー・スヌーカ&ティト・サンタナvs渕正信&小橋建太全日本常連外人選手だったスヌーカと新日本常連外人のサンタナというWWE所属選手が日本メジャー団体の枠を超えタッグを組み全日本のジュニア王者の渕と当時、新人だった小橋建太が挑む対決となり結果はスヌーカが8分28秒、渕からフォール勝ち。ここで世界のマスコミが注目した日米超世代対決が実現!第4試合 シングルマッチ20分1本勝負二代目タイガーマスクvsブレット・ハートこれは後に超世代戦士として三冠ヘビー級王者となり全日本で大出世となる二代目タイガーこと三沢光晴とニュージェネレーションとしてWWE世界王者となりMSGで大出世するブレット・ハートが日米の垣根を越えた世代対決が実現している。しかし二人の攻防に20分1本勝負という戦いの時間は短すぎ、時間切れ引き分けという煮え切らない結果となってしまいこれが時間無制限の対決なら世界的歴史に残る素晴らしい試合だったに違いない。その後、三沢はタイガーのマスクを脱ぎ、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンの首を狙い日本プロレス界のリーダーとして活躍しブレット・ハートはホーガン、フレアーを超え米国プロレスのリーダーとして活躍した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] WWE グレイテスト・ライバル ショーン・マイケルズ VS ブレット・ハート
2014.05.16
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アメリカ合衆国の超大型プロレス団体・WWEWWEは1952年に設立され、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを拠点として全世界に通用するプロレスを展開するビンス・マクマホン王国である。WWEは力道山の日本プロレス、馬場の全日本プロレスと一時期、友情参戦的な業務提携を行っていたが1974年に新日本プロレスと正式に業務提携を結んだ。WWEが認定するインターナショナル・ヘビー級王座、インタータッグ王座、ジュニアヘビー級王座は新日本で数多くの名勝負を生み1979年にはアントニオ猪木が第9代のWWE世界ヘビー級王座に君臨している。しかし1985年10月31日、WWEはハルク・ホーガンを団体のエース格に据えて、テレビ中継を柱とした全米侵攻に乗り出した事もあり新日本プロレスとの業務提携を解消した。それから5年後、WWEのビンス・マクマホンは再び日本進出を企て、新日本との復縁よりWWE発足の頃すでに大スターで少年の頃から知人のジャイアント馬場率いる全日本との業務提携を狙っていた。そんなWWEは全日本プロレス、新日本プロレスと合同興行として企画したのが1990年4月13日開催の「日米レスリングサミット」である。この企画にいち早く動いたのが元・全日本所属の佐藤昭雄であり、当時WWEのフロントに入っており古巣の全日本に交渉を願った一人である。この佐藤昭雄は三沢光晴が尊敬するレスラーでジャイアント馬場からも信用されている。しかし実際はビンス・マクマホンによるWWEの日本マット界を傘下に治めようとする計画の一つであり日本での興行に全日本と新日本を協力させようとしたが両団体はそれを良しとせず、協議の結果3団体の合同興行のような形となった。馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦した時に子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。そしてこの興行はマクマホンが馬場とのラインを重視すべく団体同士の対抗戦をWWEと全日本プロレスだけとして新日本プロレスは所属選手同士の対戦カードを提供するに留まった。参加選手は全日本からジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、タイガーマスク(三沢光晴)川田利明、小橋建太新日本からは長州力、橋本真也、蝶野正洋、獣神サンダー・ライガーWWEからはハルク・ホーガン、ブレット・ハート、アンドレ・ザ・ジャイアントら日本で馴染みの深い外人レスラーを中心に全日本ファンが期待する「まだ見ぬ強豪レスラー」超合金戦士:アルティメット・ウォリアー、マッチョマン:ランディ・サベージが初来日。しかし開催2日前、当初メインイベントはハルク・ホーガンvsテリー・ゴディのWWE世界ヘビー級王座選手権試合が予定されていたが大会12日前の「レッスルマニア6」でハルク・ホーガンがアルティメット・ウォリアーに敗れ王座から陥落した為、WWEはノンタイトル戦としてホーガンvsゴディが行われる事を決定した。だが、WWE世界王座挑戦という実績を無視されたテリー・ゴディがこれを不服としビックイベント興行の出場を土壇場でキャンセルした。そこで全日本プロレスの関係者はかつてWWEマットに上がり尚且つホーガンと旧知の仲で先輩格であるスタン・ハンセンに出場を要請しこれをハンセンが了承してメインイベントがハルク・ホーガンvsスタン・ハンセンに決定した。と、されているが実際は前売りチケットの売り行きが芳しくないため、WWEが急遽対戦カードを変更したと云うのが真相とされているが・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村※GW期間限定【300円,100円クーポン】【メール便送料無料】SALE OFF!新品DVD!WWE ANDRE THE GIANT!アンドレ・ザ・ジャイアント名勝負!
2014.05.01
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昭和後期、全日本プロレスに革命の嵐を巻き起こした天龍源一郎の「天龍革命」その歴史の第2幕とは・・・1987年、天龍は阿修羅原とのコンビである龍原砲がスタン・ハンセン&オースチン・アイドルからPWF世界タッグ王座を獲得し更に天龍が鶴田にシングルマッチで2連勝する。1988年には天龍がPWF王者のスタン・ハンセンと統一戦を制し、PWF・UNの二冠王となり同日に川田と冬木のタッグチーム「フットルース」がアジアタッグ王座を獲得、その直後には天龍とインターナショナル王者ブルーザー・ブロディとの間で史上初の三冠統一戦、8月には龍原砲が世界タッグ王座を獲得するなどまさにこの時期の全日本は天龍同盟を中心に回っていた。 しかし'88世界最強タッグ決定リーグ戦開幕戦の後楽園ホール大会前に記者会見が開かれ馬場の口から「生活態度の問題」により原の解雇が発表されてしまう。これによりパートナーを失った天龍は若手で骨のある川田利明とのコンビで出場した。1989年にライバルであったハンセンからラブコールを受けて「龍艦砲」を結成する。そして天龍は6月鶴田をパワーボムでフォールし三冠ヘビー級王座を、龍艦砲としては世界タッグ王座を獲得。更に最強タッグでは史上初の全勝優勝を果たすが次第に同盟の意義は薄れていく。 1990年3月、殺人魚雷コンビとの世界タッグ戦での敗北をきっかけに天龍とハンセンが仲間割れ。そして4月に天龍は「革命は完了した」として同盟の解散を宣言し川田らを全日本本隊に戻す。4月19日、鶴田の保持する三冠王座に挑戦するも敗北した天龍は試合後「もう終わったと思ってる」とコメントしこの試合を最後に全日本を退団し新団体SWSに移籍した。同盟の解散には「自分がいなくなった後に残った者の居場所が無くならないように」との天龍の思いやりからの意味もあった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2014.04.17
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“怪物”ジャンボ鶴田“風雲昇り龍”天龍源一郎俺たち世代の全日本代表としてインタータッグ奪取、世界最強タッグ覇者と名誉を上げ、マスコミから鶴龍コンビと呼称されハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビ、長州力&谷津嘉章のジャパン勢ザ・ロード・ウォリアーズ、ラシアンズのアメリカを戦慄させたタッグチームと熾烈な戦いを展開し、名タッグとして名を馳せた。しかし1987年、長州力らジャパンプロレス勢が全日本との契約を一方的に破棄して新日本プロレスに復帰。全日本はハンセン、デビアス、ウォリアーズ、タイガー・ジェット・シンを中心とした以前のようなアメリカン・スタイルに戻す事に。しかしこの事に納得できず、危機感を抱いた天龍は活性化を図るためライバルかつ堅友の阿修羅・原と龍原砲を結成し鶴田や輪島大士らに抗争を仕掛けた。この龍原砲の姿勢に共感した川田利明、冬木弘道、北原辰巳、天龍の付き人の小川良成が加わり「天龍同盟」を結成し、鶴田、谷津、輪島の「鶴田軍」との対決姿勢を打ち出した。そしてジャンボ鶴田と天龍源一郎のハードコアなレスリングスタイルでの熱き「鶴龍対決」がスタートした。ジャンボ鶴田vs天龍源一郎は全7戦行われその第1戦は1987年8月31日、日本武道館天龍がリングアウト勝ちこの試合は東京スポーツ新聞社が発表するプロレス大賞で年間最高試合賞を受賞している。第2戦は1987年10月6日、日本武道館天龍が反則勝ち第3戦は1988年10月28日、横浜文化体育館鶴田が反則勝ちそして三冠統一王者が誕生した1989年4月より全日本はリングアウト、反則などによる判定や引き分けを排除し、完全フォール決着制を導入。そのため鶴龍対決第4戦からハードとなり1989年4月20日 大阪府立体育会館三冠ヘビー級選手権 鶴田がパワーボムからの片エビ固めで16分3秒、ピンフォール勝ち天龍を完全失神に追い込んでの勝利。第5戦では1989年6月5日、日本武道館にて2度目の三冠ヘビー級選手権が行われ天龍がパワーボムからのエビ固めで24分5秒、鶴田から勝利し第2代・三冠ヘビー級王者となる。この試合は2度目となる年間最高試合賞を受賞。第6戦 1989年10月11日、横浜文化体育館鶴田のリターンマッチとなった三冠ヘビー級選手権試合は天龍がパワーボムを狙ったが鶴田が珍しくルチャリブレの技であるウラカン・ラナを使用しピンフォール勝ち鶴田の三冠ヘビー級奪還となる。第7戦 1990年4月19日 横浜文化体育館で行われた三冠ヘビー級選手権では試合前に天龍と仲間割れしたスタン・ハンセンが乱入しウエスタンラリアットで天龍にダメージを与えこのダメージが試合に大きく響き鶴田が12分32秒、バックドロップ・ホールドで天龍からピンフォール勝ちを収めている。いずれも全日本の頂点対決に相応しい“明るく”“楽しく”“激しい”戦いが繰り広げられ東京スポーツ、サンケイスポーツ、スポーツニッポン、デイリースポーツ、東京中日スポーツ、日刊スポーツ、スポーツ報知、週刊プロレス、週刊ゴングが審査するプロレス大賞・年間最高試合賞を2度も受賞するという日本プロレス史に残る熱戦となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【定価より20%OFF】★DVD/スポーツ/天龍源一郎クロニクル ~アメリカ武者修行篇~/SPD-1338
2014.04.03
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インターナショナルヘビー級王者・力道山PWFヘビー級王者・ジャイアント馬場UNヘビー級王者・アントニオ猪木日本の代名詞である名レスラーがかつて巻いたこの歴史的なチャンピオンベルトを全日本プロレスはひとつに統一する計画を発表した。選手たちの意思を通して1988年4月15日、大阪府立体育会館インターナショナル王者のブルーザー・ブロディとUNヘビー級・PWFヘビー級の二冠王者である天龍源一郎との間で史上初の三冠ヘビー級王座統一戦が行われた。しかしブロディの計算高いレスリングスタイルと天龍の本気で激しい戦いが噛み合わず両者リングアウトで王座の統一は実現しなかった。 そして統一戦2回目となったのは半年後の10月17日、広島県立体育館ブロディを破り第18代インター王者となったジャンボ鶴田と、天龍を破り第27代UNヘビー級と第14代PWFヘビー級の二冠王者となったスタン・ハンセンの間で王座統一戦が行われた。しかしここでも鶴田の天才レスリングスタイルとハンセンのパワーで押すブルファイトが全く噛み合わず引き分けで王座統一は実現せず。この結果にファンが黙っておく訳がない!1989年4月16日、後楽園ホール大会において再びインター王者・ジャンボ鶴田とPWF&UNヘビー級王者のハンセンとの試合が行われた。だが・・・鶴田が長く試合を引っ張った挙句、両者乱闘の引き分けという不透明決着に当時、UWFの完全決着制度に慣れていたファンが激怒し会場が騒然となる事態にまで発展。この事態に鶴田は「次こそは決着を!」とマイクでアピールしたが全日ファンどころか真のプロレスファンにまで「帰れ!」コールを浴びせられる事になり後楽園ホールは暴動寸前。この大事件に鶴田は背水の陣で二日後の4月18日、大田区体育館でジャンボ鶴田とスタン・ハンセンの間で満を持して三冠統一戦、再々戦が行われた。今度のルールは鶴田がエキサイトして椅子で攻撃しようが、ハンセンが逆上してレフリーを倒して何しようが、リングアウト、引き分け、反則決着がない完全決着フォール制の新・全日本ルールが採用された。即ち、反則&場外で逃げようとも逃げられないアルティメットルールでの戦いである。このテキサス・アマリロのファンクス道場の同級生である鶴田とハンセンの同期対決はハンセンがウエスタン・ラリアットを鶴田に仕掛けたが、避けられた揚句ハンセンがロープに激突し一瞬の隙ができたハンセンを鶴田が片エビ固めで丸め込みフォール勝ち。決して噛み合わない試合展開で完全決着とは言えない勝利であったが初代三冠統一王者となった鶴田は「誰の挑戦でも受けてやる!」と豪語。その先には天龍源一郎だけではなく他団体の藤波辰巳、前田日明の名も言葉には出してはいないものの満面の笑みでファンに応えた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【中古】 ジャンボ鶴田 第二のゴング /黒瀬悦成(著者) 【中古】afb
2014.03.28
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超獣ブルーザー・ブロディブロディは師匠であるフリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国。以降、全日本プロレスの常連となり馬場&ジャンボ鶴田のインタータッグ王座に挑戦。そんなブロディがシングルとして開花したのが1981年10月、ドリー・ファンク・ジュニアから日本の至宝インターナショナル王座を奪取、第11代王者に君臨した。以後このベルトを巡ってドリー、鶴田、天龍源一郎らと抗争を繰り広げる。そしてブロディは第16代インター王者のジャンボ鶴田からベルトを奪回すべく1988年3月27日、東京・日本武道館で挑戦。ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から初来日時よりウェイトを落として臨んだ。試合は鶴田がジャンピングニーパット、バックドロップでブロディを攻めフライングボディシザースドロップで一気に畳みかけるがブロディにかわされ誤爆。リングに倒れた鶴田に対しブロディは必殺技・キングコングニードロップで鶴田から完全フォール勝ち。約6年ぶりのインターヘビーを奪還した。ブロディは野獣ギミックのキャラを守り通したがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、涙を流しながらバックステージに戻っていった。その後、ブロディは4月15日、当時のUN&PWFの2冠王者だった天龍と大阪府立体育会館で三冠統一決定戦を行ったが両者リングアウトで引き分けた事によりブロディは幻の三冠王者として語られている。その4日後の4月19日、宮城県スポーツセンターで再び日本の至宝を奪還すべく今度は鶴田が挑戦。ブロディはトップロープからのキングコングニードロップを狙ったが鶴田にデッドリードライブで投げ飛ばされ最後はブロディの背後を狙って走り出した鶴田が必殺技・バックドロップで完全フォールブロディは敗れ王座から陥落した。その後、ブロディはプエルトリコのWWCに参加ブロディはプロモーターとの衝突が絶えずWWEのゴリラ・モンスーン、WWAのディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など壮絶なエピソードには事欠かない人物であった為WWCのカルロス・コロンとの間でもトラブルが発生し、そのカルロスの配下であるレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスの怒りを買いブロディはドレッシングルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7月17日出血多量により死亡。プエルトリコで帰らぬ人となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【5000円以上で送料無料】【VHSです】回帰! ブルーザー・ブロディ フォーエバー [ブルーザー・ブロディ]|中古ビデオ【中古】
2014.01.30
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全日本プロレスの看板タッグタイトル米国メジャー団体のNWAが認可する世界4大タッグタイトル・インタータッグ王座タイトル管理組織・PWFが認可するPWF世界タッグ王座ジャイアント馬場はこの2大タッグ王座を一本化しNWAとPWF双方から了解を得て統一する事を発表した。インターナショナル・タッグ王座は1966年、ジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシス組を破って第2代インタータッグ王座について以来、その後、ジャイアント馬場&アントニオ猪木、ザ・ファンクス、馬場&ジャンボ鶴田、大木金太郎&キム・ドク、鶴田&天龍源一郎、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、長州力&谷津嘉章らの手に渡り日本を代表するタッグベルトとして幾多の名勝負を生んだ。そしてPWF世界タッグ王座はPWFの認定に加え、NWAとAWAからも併せて認可を受けたとの権威付けがなされ1984年に王座決定リーグ戦が行われNWA代表のスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ全日本代表の馬場&ドリー・ファンク・ジュニアジャンボ鶴田&天龍源一郎AWA代表のグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルの4チームによる争奪戦となり初代王者はハンセン&ブロディの超ミラクルパワーコンビであった。その後はハンセン&テッド・デビアス、ジャンボ鶴田&タイガーマスク(三沢光晴)、天龍源一郎&阿修羅・原の天龍同盟鶴田&谷津嘉章の五輪コンビと俗に言う“俺たち世代”で闘争を繰り広げた。そして1988年、当時のインタータッグ王者であるロード・ウォリアーズとPWF世界タッグ王者であるジャンボ鶴田&谷津嘉章が6月10日日本武道館で統一戦を行った。この両タイトルの特徴はリングアウト、反則でも王座の移動が認められておりこれは気を抜いたらチャンピオンの資格を直ぐにでも剥奪できる完全防衛制度を取っている。試合はロード・ウォリアーズが防戦一方で五輪コンビを圧倒しまくったがそのままウォリアーズの攻撃がエスカレートし暴走したため、五輪コンビが13分48秒反則勝ちを収め初代世界タッグ王者となった。その2日後に渡米したジャイアント馬場はNWA・PWFのトップと会談を持ちここに統一タッグ王座を世界タッグ王座と称する事になった。 この世界タッグ王座は当初、世界最強タッグ決定リーグ戦の時期になると王座を返上し優勝したタッグチームが改めて王者になるという形式が取られていた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村◆現品限り◆さんまのまんま 永遠のスター編【中古】【バラエティDVD】全4巻SET さんまのまんま 永遠のスター編/明石家さんま, 横山やすし, 横山ノック, ジャンボ鶴田, ジャイアント馬場 LTA691[レンタル落ち]【メール便OK】
2014.01.24
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超獣ブルーザー・ブロディが全日に帰ってきた。ブロディは1985年にWWEを建前に新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍し、アントニオ猪木とは東京・大阪・札幌・ハワイで7度シングルマッチで対決2勝1敗4分けでピンフォール決着は一度もなかった。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが新日本プロレス側の藤波辰巳&木村健吾を全面プッシュした体制にトラブルを起こし宮城県スポーツセンターでの決勝戦出場を突然ボイコットし帰国。新日本プロレスからは追放処分となった。その後、一度は新日本プロレスと和解し1986年8月に再来日を果たすもアンドレ・ザ・ジャイアントや前田日明とのシングルマッチも予定されていた'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前にキャンセルし、再び新日本プロレスから永久追放を宣言された。この様にブロディはプロモーター、ブッカーとトラブルを起す問題児ではあったが全日本のプロモーターのジャイアント馬場に関しては「馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした」と悔いていた。この様な反省もあり1987年10月2日、ブロディは全日本プロレスに電撃復帰する。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦にも参加は決定していたが、かつてのパートナースタン・ハンセンはこの頃、テリー・ゴディをパートナーとして起用していた為ブロディとのタッグは実現できないと語りそれならばブロディはジミー・スヌーカと組み最強タッグに出場を申し出た。ここにミラクルパワーコンビの同士対決が実現した。場所は11月22日、開幕第2戦目の後楽園ホール超夢のカード・公式戦30分1本勝負ハンセン&ゴディvsブロディ&スヌーカタッグマッチながらハンセンとブロディの日本における最初で最後の対戦が実現した。試合はいきなりハンセン、ブロディの激突となり お互い意識し過ぎたせいか組み合わずだが両者はリング狭しと走り回りハンセンが自らロープに飛んでラリアットを仕掛けるも不発、続いてブロディがキックを仕掛けるも不発そのままタックルで両者が激突しお互い場外までぶっ飛んでしまった。しかしハンセン、ブロディの絡みは前半のみでその後は4選手がエキサイトする形で乱闘となり17分14秒、両軍リングアウトで引き分けに終わった。この試合、今でも語り継がれる昭和プロレスの代表的な試合であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] 全日本プロレス中継 世界最強タッグ列伝
2014.01.17
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1987年、長州力が全日本との契約を解除して一方的に独立する方針を表明し僅かなジャパンプロレス勢が新日本プロレスにUターン移籍した。裏切りや契約には人一倍厳しかったと馬場は長州の勝手な行動に激怒し追放を発表、ジャパンプロレスは崩壊した。そして長州無き後の全日本プロレスはかつてのように日本人レスラー対外国人レスラーという構図がメインになりつつあった。しかし、それを潔しとしなかった天龍源一郎は全日本を活性化するためにジャイアント馬場に「阿修羅・原とタッグを組みたい」と直訴した。天龍と原は1981年に国際プロレスの崩壊で引退を決意していた原が天龍とリック・フレアーのNWA世界ヘビー級選手権試合の決定を聞いて「同じようなキャリアなのに不公平だ、天龍、俺と戦え!」と申し入れた事から接点があり当時、敵対していた天龍と原だったが天龍の原に対する思いが非常に高くこの直訴から馬場から原とのタッグ結成の了承を得た。2人のタッグは“龍原砲”と呼ばれ同じ日本人レスラーであるジャンボ鶴田や輪島大士、タイガーマスク(三沢光晴)と激闘、地方でも試合時間20分に及ぶ手を抜かなく技ひとつに対しても本気を出す姿勢などファンから絶大な支持を受けマスコミはこの一連の行動を「天龍革命」「REVOLUTION」と呼んだ。天龍と原はリング外でも対立構図の意識化を徹底し移動も全日本本隊と共にせずリング屋のトラックに乗ったり独自に電車などを調べ移動しておりまたマスコミやテレビインタビューに置いて天龍は「何も言う事はない・・・」と憮然とした答えを出し、頑固一徹なイメージがファンの共感を呼びこの姿勢に共感した川田利明、サムソン冬木、北原辰巳、天龍の付き人の小川良成が更に行動を共にする様になりこの6人の軍団は「天龍同盟」と呼ばれた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] 天龍源一郎 DVD-BOX
2014.01.09
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1985年10月、長州のジャパン軍団が登場しラッシャー木村の参戦に伴う国際血盟軍、更に新日本プロレスと提携していたWWEも参戦し勢いがついた全日本プロレス。日本テレビはプロレスブームから“全日本プロレスブーム”到来を確信し土曜19:00~19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへの復帰が決定した。発表記者会見にはジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎の全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。全日本がゴールデン復帰の切り札として用意したのが他団体対抗戦による日本人同士の抗争と世界3大メジャー団体のチャンピオンクラスの日本招へいであった。ゴールデンタイム進出として全日本は集大成シリーズ「ワールド・チャンピオン・カーニバル」を開催。参加選手は長州力、谷津嘉章、アニマル浜口、キラー・カーン、ラッシャー木村の他団体勢に世界3大メジャー団体のうちNWAからはNWA世界王者のリック・フレアー、テキサス・エリック王国のテリー・ゴディ、ロサンゼルスのチャボ・ゲレロ、AWAからはAWA世界王者のリック・マーテル、シューティングスタイルのビル・ロビンソン、AWAタッグ王者のザ・ロードウォリアーズ、WWEからはヒールタッグチームで活躍し全日本では絶大な人気を誇るザ・ファンクス、WWE全米侵攻サーキットに参戦していた仮面貴族ミル・マスカラス日本からは全米ドル箱スターの“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ、三沢光晴の2代目タイガーマスクが参加。馬場“全日本”を含む計6団体が激突するという全世界が実現できなかった世界最大のビックイベントが開催された。ゴールデン復活第1回大会となる開幕戦、10月19日に行われた後楽園ホール大会は生中継でノンタイトルながら長州vsマーテル、鶴田vsフレアーというビック対決が実現。そして10月21日・両国国技館で世界初NWA、AWAのダブルタイトルマッチリック・フレアーvsリック・マーテルが実現。これはアメリカマット界では不可能な対決を馬場全日本が実現させる大快挙を成し得た。結果は34分3秒、両者リングアウトに終わったが純粋なファンはマーテルの前線を評価しマニアはフレアーの防衛技術を評価した。10月22日、京都府立体育館ではフレアー&マーテルの世界王者タッグチームが実現。迎え討つは全日本のジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビで試合は天龍が17分42秒、マーテルからリングアウトを取り勝利している。この時期から全日本プロレスは新日本プロレスの日本人大量離脱や新日本離脱選手の全日本参戦、WWEとの提携解消で低迷したテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」よりも視聴率で上回るようになっていた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] WWE リック・フレアー ネイチャーボーイ
2013.12.26
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1986年、新日本で一世風靡したスーパーストロングマシンが全日本プロレスに来襲した。マシンは1984年8月にマネージャーの将軍KYワカマツ率いる「マシン軍団」として覆面レスラーのストロング・マシーンで登場しアントニオ猪木、藤波辰巳、前田日明と闘争を繰り広げた。そして藤波辰巳との決着戦をワカマツがパウダー攻撃でぶち壊した為に仲間割れし藤波の試合後に乱入したワカマツを蹴散らして救出したが藤波から「お前、平田だろ!?」とマイクパフォーマンスで公然の秘密を暴露されマスクを脱いで立ち去った。その後、スーパーストロングマシンに改名し同じ新日本のヒロ斎藤、高野俊二と「カルガリーハリケーンズ」を結成して1986年に全日本プロレスに参戦した。この時期の全日本は馬場、鶴田、天龍を加え長州力率いるジャパンプロレスラッシャー木村率いる国際血盟軍海外からNWA、AWA、WWEと世界3大メジャー団体の参戦で全日本戦国時代を迎えていた。マシンは阿修羅・原と組みアジアタッグ王座を獲得したのを皮切りに天龍源一郎のUNヘビー級王座に挑戦。奪取には失敗したものの全日時代の名勝負として語られている。また先に新日から移籍した長州と抗争し決着戦でも決着がつかず1986年9月に行われた試合ではエキサイトの余り自らマスクを脱ぎ長州に叩きつけた。セコンドの高野俊二がタオルで素早く頭を覆い素顔を隠したがその試合は「全日本プロレス中継」で生中継されたがマスク脱ぎの場面はCM中であったために放送されず、EDの提供クレジットで脱ぎ捨てられたマスクが映し出された。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【悪用禁止】ストロングマシン 超限定 セミレプリカマスク パールラメ/金ラメ【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし】【楽ギフ_のし宛書】
2013.12.18
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第54代横綱、輪島大士がプロレスラーに転向した。1981年3月場所中に大相撲を引退し定年退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋を継承したが当時抱えていた他の金銭トラブルや現役時代からの私生活での豪遊ぶり等不興を買っていた事が原因で1985年12月に廃業した。大相撲を離れた輪島は1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力こそ高かったが大相撲のクセが抜けずに倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまうという致命的な欠点があった。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったこともありそういった経験不足の状態でありながら馬場とタッグを組んでアメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合体させて開発したというオリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝した。そして1986年11月1日、輪島の地元である石川県七尾市総合体育館で日本デビュー戦が行われた。相手はジャイアント馬場、アントニオ猪木を苦しめたインドの狂える虎、タイガー・ジェット・シン試合は開始のゴングより前に輪島がシンのサーベルでメッタ打ちにされそのまま場外乱闘となる。シンの防戦一方となるが試合中盤より輪島が怒り、相撲の突っ張りと回し投げでシンを翻弄し追い込んだが最後はレフリーを挟み込んでの乱闘となり5分55秒、両者反則となった。怒りが収まらぬ両者は乱闘を続け場外へ降りたシンに輪島はコーナーポストから黄金の左手を突き出し挑発した。この一戦は話題となり輪島の名勝負として語り継がれている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【全品ポイント5~10倍+3000以上で送料無料~12/16迄】【マラソン201312_送料無料】【送料無料】【冬の贈りもの(お歳暮)】輪島大士塩ちゃんこ鍋 P-NW 輪島大士塩ちゃんこ鍋P-NW【ラッピング不可】
2013.12.13
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全日本プロレス3度目の他団体対抗戦全日本vsジャパンプロレスその頂上決戦が実現した。全日本のトップレスラー・ジャンボ鶴田ジャパンのトップレスラー・長州力藤波辰巳、天龍源一郎と共に「俺たち世代」「鶴藤長天」と呼ばれ新世代の扉を開いただけでなくジャイアント馬場、アントニオ猪木の次世代としてニュー・リーダーと呼ばれ仮想、馬場vs猪木と位置付けで話題となった。二人は対戦が決まる前から口論となっており長州は鶴田を「ぬるま湯に浸かっている」「アイツはレスラーじゃない、ただのサラリーマン」と散々酷評し、一方の鶴田はジャパンプロレス勢が攻めばかりでスタミナが極端にない事に対し長州と対戦する度に「今日はカラータイマーだから」とジャパン勢共々、揶揄した。両者はシングルが決まった記者会見でもバトルを繰り広げる等、その思いは熱かった。決戦の舞台は1985年11月4日、大阪城ホール先に入場したのはジャンボ鶴田続いて長州力がパワーホールのテーマ曲に乗って入場。試合はゴング開始と同時にレスリングスタイルで勝負。序盤は総合格闘技のようなグランド主体での攻防が進み25分過ぎ、鶴田がジャンピングニーパットを繰り出しその後、鶴田は足4の字固めを狙い、長州はサソリ固めを狙いお互いスタミナを消耗するような攻防が続く。 50分過ぎ、ここで長州はリキラリアットからバックドロップ更にサソリ固めに入るが鶴田は両脚の力で跳ね返され残り1分で長州はジャーマンを出すもこれを返した鶴田は逆エビ固めに入りそのままの体制で60分フルタイムドローで終わった。鶴田はゴングが鳴ると両腕を突き上げ更にコーナーポストに上がって大きく両腕を突き上げた。試合後、ロッカールームで全く動けなかった長州に対し鶴田はシャワーを浴びて大阪市内へ飲みに出かけたと言う伝説を作る。また、鶴田はこの一戦はリング中央でどっしりと構え自身の周りを長州が動き回るようにファイトする事を意識し「あれは僕の作戦勝ちでしょ」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えでありまた自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったものだった。一方の長州はマスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら俺の負けだったな」「彼には勝てないよ」と語り以後、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この試合は1985年のプロレス大賞の年間最高試合賞を獲得した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】力説 [ 長州力 ]
2013.11.11
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1985年、全日本プロレスは大戦国時代を迎えた。新日本プロレスを離脱した長州力、マサ斎藤らジャパンプロレス勢が参戦しジャンボ鶴田、天龍源一郎と熱き世代闘争を繰り広げ6月21日、日本武道館で天龍源一郎vs長州力のUNヘビー級選手権試合が実現し闘争心をむき出しにして戦いあった。長州らジャパン勢はアメリカンスタイルと言われた「受けて勝つ」全日本のプロレススタイルにイデオロギー闘争を仕掛け、長州力らのさっさと蹴散らしてしまうハイスパートレスリングでその後の全日本の主力・中堅陣にも影響を与えている。前年の世界最強タッグ決定リーグ戦では馬場のパートナーにUWFを離脱したばかりで国内第3のメジャー団体・国際プロレスのエースラッシャー木村が就いたが名古屋大会で木村の造反により鶴見五郎、剛竜馬らと国際血盟軍を結成し馬場と木村の遺恨試合が続いた。馬場のイラストが入ったTシャツを踏みつけたりかつての国際軍団ではほとんど用いなかったマイクアピールで試合後の馬場を挑発するなど新日本参戦時とは毛色の異なった数々のパフォーマンスが次第に注目を集めていった。 6月21日、日本武道館で木村は馬場の持つPWFヘビー級選手権に挑戦したがピンフォール負け。しかしフィニッシュの時点で木村の片足がロープにかかりそれでもレフェリーが3カウントを数えてしまった事から遺恨を増幅させる形となった。全日本は日本人対決による熱き戦場へと移り変わっていったが、それだけでは終わらなかった。全日本が加盟していたNWAから世界チャンピオンリック・フレアーを中心にザ・ファンクス、ハーリー・レイス、トミー・リッチ、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、テッド・デビアスらNWAの大物レスラーが来日しもうひとつの米メジャー団体・AWAからは世界王者のリック・マーテルを中心にザ・ロードウォリアーズ、ニック・ボックウィンクル、ジェリー・ローラーとAWA主力選手も来日しさらにもうひとつの米メジャー団体・WWEからトップレスラーで世界タッグチャンピオンのダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスが来日。全日本、国際、ジャパンの3団体だけでなく世界3大メジャーの所属選手がひとつのマットで勢揃いするという米国プロレス界だけでなく世界のプロレスマット界の常識では考えられない事が馬場全日本・王道マットで実現した。そのため毎日がビックカードでありフレアーvs長州、ブルドッグスvs鶴田&天龍、ロードウォリアーズvs国際血盟軍など実現し地方興行とは言えども超満員であった。またこの時期にロサンゼルスオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイル馳浩がジャパンに入団しまさに全日本が天下を取った年でもあった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村闘将 ラッシャー木村 ~ファイト & マイク メモリアル~ 【DVD】
2013.10.17
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1985年3月21日、超獣ブルーザー・ブロディが電撃移籍した。それまで全日本プロレスの外国人トップレスラーとして馬場、鶴田、天龍と数々の名勝負を繰り広げてきたブロディだったが・・・実はブロディの移籍にはある人間不信から始まり若手時代にレスラー兼プロモーターだったビル・ワットに格安のギャラで働かされた事やギャラの支払いが無かったりしていた事でプロモーターを一切信じていなかった。馬場のような普通なら絶対に信頼に値するプロモーターでもブロディは信じていなかった。またハンセンの移籍の際にブロディは「俺が居るのに何故これ以上全日にタレントが必要なのか」「俺だけでは不足なのか」「そんなに信用できないのか」と全日本に対する不満が溜まりその後、ザ・ロード・ウォリアーズが先輩であるブロディよりギャラが高く、プライドを傷つけられこのような事柄を繰り返してきた為、ブロディのプロモーター不信は蓄積されてしまった。その結果、ブロディは新日本プロレスに引き抜かれる形で電撃移籍した。長州、前田らの大量離脱で低迷していた新日本は1985年4月18日、両国国技館に初進出しメインイベントにアントニオ猪木vsブルーザー・ブロディの夢のシングルマッチが実現した。これは馬場、鶴田に勝ったブロディに猪木がどれだけの強さがあるのかをファンがブロディと言う物差しで当時実現できなかった馬場、鶴田vs猪木の戦いを図る良い定規と期待しながら観戦していた。この両者の戦いは全7試合が実現し1985年4月18日、両国国技館A猪木(26分20秒 両者リングアウト)Bブロディ1985年7月28日 大阪府立体育会館Bブロディ(16分38秒 反則)A猪木1985年8月1日 両国国技館Bブロディ(21分24秒 反則)A猪木1985年8月3日 米ハワイ州アロハ・スタジアムA猪木(8分40秒 両者リングアウト)Bブロディ1985年10月4日 札幌中島スポーツセンターA猪木(21分41秒 両者リングアウト)Bブロディ1985年10月31日 東京体育館A猪木(27分4秒 反則)Bブロディ1986年9月16日 大阪城ホールA猪木(60分時間切れ 引き分け)Bブロディアントニオ猪木の1勝2敗4引き分けと完全決着の着かないまま負け越している。余談であるが猪木が一番扱い辛いレスラーがブロディでブロディは試合直前にギャラアップを求めアップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからと仕方なく承諾し後に猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と評しそれを物語ってか新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろかタッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] 新日本プロレスリング 最強外国人シリーズ 超獣伝説 ブルーザー・ブロディ DVD-BOX
2013.10.03
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ジャイアント馬場が創設した全日本プロレスアントニオ猪木が創設した新日本プロレス創立当初はミュンヘン五輪レスリング日本代表の鶴田友美(ジャンボ鶴田)を馬場が吉田光雄(長州力)を猪木が共にスカウトし馬場が米国3大メジャー団体のひとつNWAと提携猪木はもうひとつのメジャー団体WWEと提携そして鶴田、藤波の後継者育成と両団体は興行的に切磋琢磨していた。しかし日本が誇る2大メジャー団体が1981年、興行戦争の激化に伴い外国人レスラーの引き抜き合戦を仕掛けるようになった。まず新日本が全日の外国人悪役トップレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜きその報復として全日本は新日の悪役外人レスラーのタイガー・ジェット・シンを引き抜き更に新日本とNWA・フロリダが新設したインタージュニア王座と当時チャンピオンだったチャボ・ゲレロをベルトごと引き抜いた。そして新日本は外国人だけでなく日本人にも着手全日本プロレス第3の男・タイガー戸口を引き抜き逆に全日本は猪木、坂口と抗争を繰り広げたフリートップレスラーの上田馬之助を引き抜いた。そしてこの時期、もうひとつのメジャー団体国際プロレスが倒産し、所属レスラーは両団体に分散される形で参加国際プロ主流外国人レスラーは全日本が引き取った。しかし引き抜き合戦は歯止めが効かない状態になりファンクス、ロビンソンに次ぐ人気外国人レスラーのディック・マードックが新日本に移籍しその報復として全日本はファンクスを通じてスタン・ハンセンを電撃的に移籍させた。続いて新日本はワフー・マクダニエルを引き抜き全日本はハルク・ホーガンを狙ったが移籍寸前でホーガンがキャンセルし失敗に終わった。しかし全日本は先に引退したタイガーマスク(佐山聡)をメキシコで武者修行していた三沢光晴に二代目を継がせる事によりタイガーマスクが全日本マットに登場した。激化する引き抜き合戦だがハンセンを奪われ大打撃を食らった新日本が折れる形で馬場に停戦を申し入れた。2月7日、ホテル・ニューオータニ新館の一室で馬場と猪木会談が実現している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村ホエイ+カゼインのWたんぱくを使用したプロテインです。【5250円以上送料無料】MRP PRO 65g《海外発送Welcome宣言》4972174351591☆★【取寄商品】【smtb-k】【YDKG-k】【kb】【1koff】
2013.09.26
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「俺はお前のかませ犬じゃない」新日本プロレスの体制に反旗を翻してマサ斎藤、キラー・カーン、小林邦昭、谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成した革命戦士・長州力。長州力は1985年、全日本プロレスに電撃参戦した。放漫経営だった新日本の社長・アントニオ猪木に対して営業部長であった大塚直樹は新日本を退社し理想の興行会社を設立する意向を固めた。 他団体の興行も請負う「新日本興行」を立ち上げこの事を知った全日本プロレスの取締役会長ジャイアント馬場が新日本興行へ接触し興行の請負を打診。この結果、長州力、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラー・カーン、谷津嘉章が加わり一大勢力となっていた。更に栗栖正伸、永源遙、保永昇男、新倉史祐、仲野信市が合流し最終的にはキラー・カーン、マサ斎藤らを含め13名の選手が集結。新日本興行は「ジャパンプロレス」に改称し全日本プロレスと業務提携する事で全日本マットを主戦場とすることになった。その皮切りとして1984年12月8日、愛知県体育館84世界最強タッグ決定リーグ戦の公式戦後ジャパンプロレス勢は突如、乱入。全日のセコンド陣と睨み合い、両者罵倒する中ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎が登場。長州は全日本勢を挑発し、戦う姿勢を見せあわや乱闘となる一歩手前となった。その後、長州は全日本の印象について「俺達はロックで、あいつらはワルツ」「全日とはイデオロギーの闘いだ」と発言し長州力率いるジャパンプロレス勢は団体対抗戦として全日本マットを主戦場とする事になった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料選択可!】激白 ~長州力の30年 / プロレス(長州力)
2013.09.19
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1984年2月23日、ジャンボ鶴田が「世界の鶴田」になった。鶴田はNWA、AWA、WWEと並ぶ4大世界タイトルのひとつインターナショナル王座を獲得しており日本人として世界最強の座に一番近い存在であった。しかし鶴田はアメリカ3大メジャー団体の世界王座を視野に入れリアル世界王者を目指した。鶴田が選んだ王座はAWA世界ヘビー級当時の王者はダーティーファイトで長きに渡り王座を防衛し続けたニック・ボックウィンクル鶴田は過去、ニックに4度挑戦しており1978年2月14日、ハワイでAWA世界初挑戦。試合は鶴田がニックへコブラツイストを決めたがニックが近くにいたレフリーを殴り反則負け反則の為、タイトルの移動はなし。1980年6月22日ではAWA圏内のミネアポリスで鶴田が2度目のAWA世界に挑戦。ニックが鶴田へドロップキックを放つもレフリーが巻き込まれダウンしてしまいレフリー不在の中、ニックのマネージャーであるボビー・ヒーナンが乱入し鶴田を攻撃した為ニックが反則負けを喫したがAWAルールにより反則勝ちによる王座移動はなし。鶴田3度目のAWA挑戦は1982年2月4日母国日本である東京体育館で行われた。試合は鶴田がニックへエアプレンスピンを仕掛けるもニックにロープを掴まれ両者場外転落、そのまま両者は場外戦となったが鶴田が場外でもエアプレンスピンで攻撃を続け両者リングアウトでニックが引き分け防衛。 4度目の挑戦は1983年7月13日 北海道の千歳市スポーツセンターで行われこの試合でも鶴田がコブラツイストを決めてる時に近くにいたレフリーのジョー樋口を殴り反則負け反則裁定のため王座移動せずニックがまたもAWA王座を防衛した。そして1984年2月24日、蔵前国技館鶴田はこれが最後のAWA挑戦という思いで自身が保持するインターナショナル王座を賭けAWA世界、インターのダブルタイトルマッチとなった。完全決着を求められたこの試合、ニックのダーティーファイトを食い止めるべくレフリーにはニックの暴挙に耐えられる意味も込めて当時引退していた元レスラーのテリー・ファンクを起用した。試合は鶴田が攻めるもニックのねちっこいレスリングでペースを崩されていたが30分過ぎ、ニックは鶴田を背後から突き飛ばすが鶴田の体はレフリーのテリーに激突してしまい鶴田とテリーを場外に転落。場外に突き飛ばされた鶴田がリングのエプロンに上がるとニックがロープ越しのブレンバスターを仕掛けるが鶴田は空中で体を入れ替えてバックに回りニックの左腰から抱えてバックドロップからそのままブリッジしてピンフォール。遂に日本人初のAWA世界王座奪取という偉業を成し遂げた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】 WWE レガシー・オブ・AWA 【DVD】
2013.08.12
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1980年代、全日本プロレス第3の男として君臨していたのが風雲昇り龍・天龍源一郎である。彼は1976年10月に全日本プロレスへ入団し大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されていたが人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低くタイガー戸口が全日所属だった時は戸口よりも格下扱いであった。しかし1981年7月30日、天龍に転機が訪れる。ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインタータッグ王座へ挑戦した事を契機に何かを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクした。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。この頃から新日本のアントニオ猪木が得意としていた延髄斬りや卍固めを使い始め全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが1982年秋頃からタイツを紫から黒へそして黄色の紐のシューズという現在まで続く天龍のスタイルに変更。鶴田と次期ダブルエースの座を確立し第3の男としてタイトルを狙い始めた。1983年4月7日、ケリー・フォン・エリックの虎の子タイトルであるミズーリ州ヘビー級に挑戦。時期NWA王者候補のタイトルとして名高いミズーリ州ヘビー級に挑んだが結果は両者リングアウトでタイトル移動なし。そして10月14日、ジャンボ鶴田が返上したUNヘビー級の王座決定戦でテッド・デビアスと対戦。結果はデビアスの勝利に終わった。1984年に天龍はUN王座の挑戦権を得た。チャンピオンはデビッド・フォン・エリックしかしデビッドの急死により空位となったUN王座をリッキー・スティムボートと争う事となった。1984年2月25日 蔵前国技館天龍はセレモニーの際、リッキーのチャラチャラした態度に苛立つも最後はグランドコブラで勝利。第25代UNヘビー級王者となった。その後、天龍源一郎が長きに亘ってベルトを保持し天龍の代名詞と言われるまでになった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料選択可!】Mr.プロレス 天龍源一郎 / プロレス(その他)
2013.07.25
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1983年からテレビ東京系列局で放送されていた「世界のプロレス」とは主に海外のプロレスを紹介の対象としたプロレス番組である。当初は毎週土曜 20:00から放送されておりアメリカのNWAテリトリーからはジム・クロケット・プロモーションズのノースカロライナ地区、エリック王国のテキサス州ダラス、ジェリー・ローラーのテネシー地区、ミネアポリスを主戦場とするAWA、ミッドサウスエリアを主戦場とするアメリカ第4の団体・MSWAメキシコのルチャリブレの試合を日本で実況:杉浦滋男、解説:門馬忠雄により付け加えて放送していた。また番組の実況スタッフがニューヨークのWWEやNWAフロリダ地区など現地に出張して実況を行う事もあった。放映権料の関係でWWEの試合は多くはなかったが1986年の「レッスルマニア2」を3週に渡って全試合が放送されている。ナレーターに山田康雄、小倉智昭を向かえまだ見ぬ強豪として注目されていたロード・ウォリアーズの試合をいち早く放送するなど未来日選手の人気を高める事に貢献し後に全日本プロレスが来日させる切っ掛けを作り上げた。また海外を主戦場にしていた頃のザ・グレート・カブキ、ケンドー・ナガサキ、ミスター・ポーゴなど日本人レスラーの試合も紹介され逆輸入という形で日本マットに凱旋している。本作は放送曜日が月曜19:00に移行されてからは前田日明のUWFの試合も数回放送された。不定期放送を繰り返しその後1986年4月14日からは再びレギュラー放送が復活1987年3月まで枠を変えながら続いた。また本作の主題歌はケリー・フォン・エリックの入場テーマ曲にもなった「アイ・オブ・ザ・タイガー」であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] 世界のプロレス カリブ篇#1
2013.07.18
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1984年、熱き魂でファンを魅了し続けたテリーファンクが引退した。テリーは1970年代後半から1980年代前半にかけて日本のプロレス界で最も成功した外国人レスラーの一人で1977年のオープンタッグ選手権・決勝戦において凶器攻撃を繰り返すブッチャー&シーク組に持ち前のテキサス魂で真っ向勝負を挑む姿が男女を問わず熱狂的なファンを魅了し親衛隊も生まれた。悪役レスラーからの凶器攻撃に耐えたが感情を抑制出来ず癇癪を起こす事が多かったがこれが理由で1980年「私の膝は皆が思っている以上に状態が良くない。動ける内に身を退きたいので、3年後の誕生日に引退する」と突如発言しファン、プロレスマスコミを驚かせた。1983年の引退試合の前に来日したグランド・チャンピオン・カーニバルIIIには「テリー・ファンクさよならシリーズ」と銘打たれ日本各地を周った。そして8月31日、蔵前国技館テリーは兄・ドリーと組みスタン・ハンセン&テリー・ゴディと引退試合を行った。大歓声に包まれザ・ファンクスが「スピーニング・トーホールド」のテーマ曲に乗って入場。弟子でありながら宿敵にまで上り詰めたスタン・ハンセンとテキサス州ダラスを主戦場に頭角を現してきたテリー・ゴディと激突。試合はテリーファンクが集中的に攻められ流血。何度、倒されても這い上がるテリーの姿にファンは大声援を贈る。最後はテリーがゴディをローリングクラッチホールド(回転エビ固め)で決め有終の美を飾った。テリーファンクは最後に「forever、さよなら」をファンに連呼しリングを去った。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【在庫あり★即納可能】キャラクタープロダクト テリー★ファンク 完成品フィギュア
2013.07.11
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1984年8月31日、ジャンボ鶴田が悲願を達成した。鶴田は脱・善戦マン、そして次のステップとして虎の子タイトルであるUN王座を返上。次の目標としてNWA、AWA、WWEに並ぶ世界4大タイトルであるインターナショナルヘビー級王座獲得を目指した。インターナショナルヘビー級王座は長きの間、NWA王座に君臨していたルーテーズの功績を称え贈呈された世界王座でありこのルーテーズを倒し二代目チャンピオンとなったのが怒涛の男・力道山である。世界王座に君臨した力道山は防衛を重ね以後、インター王座は日本の至宝となった。力道山亡き後は豊登、ジャイアント馬場、大木金太郎、ドリーファンクJr.に受け継がれ鶴田が挑戦しようとしていたこの当時のチャンピオンに君臨していたのが超獣ブルーザーブロディであった。この頃のブロディは馬場、ドリーの超大物レスラーを倒し通算1年4ヶ月、10回連続防衛という、外国人レスラーとしては稀に見る長期政権を樹立しまさに勢いに乗った最強レスラーとして名を馳せていた。鶴田は4度ブロディに挑戦したがいずれも奪取出来なかった。しかしこの時期、鶴田に転機が訪れていた。レフリーとして来日していたルーテーズが鶴田にバックドロップを伝授したのだ。迎えた1984年8月31日、蔵前国技館必殺技・バックドロップを引っさげブロディのインター王座に挑戦。鶴田とブロディは一進一退の攻防であったがブロディがややリード。しかし両者は激闘の末、流血してしまいスタミナを消耗。20分過ぎ、両者は場外に転落。ブレーンバスターを狙ったブロディだが鶴田は体を変わしブロディをダウン。いち早くリングに戻ろうとしたブロディを鶴田はずり落としリングイン、21分33秒、鶴田がリングアウトでブロディに勝利。鶴田が第14代インター王座に輝き11年ぶりに日本人の元に王座が帰ってきた。王座奪取後のロッカールームで馬場から「今日からお前がエースだ」と祝福されここから鶴田の怪物伝説が始まった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[レンタル落ち][ケース交換・検品をしています][合計5000円以上で送料無料][代引手数料無料継続中]【VHS】全日本プロレス中継メモリアルファイトコレクション ジャンボ鶴田 怪物十番勝負 VOLUME-2 スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ■ 【中古】
2013.07.04
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1983年、全日本プロレスはシングル世界一をリーグ戦で決める春の祭典チャンピオンカーニバルに代わる新シリーズとして「グランドチャンピオンカーニバル」をスタートさせた。これはNWA、AWAの世界チャンピオンを3期に渡り日本に招き各地で防衛戦を行うというハイグレードなシリーズであり、新日本プロレスのIWGPリーグ戦に対抗する興行戦争の一環であった。第1ー2シーズンを終え、全日本プロレスはテリーファンク引退後の新たなる外人レスラー発掘のためアメリカマットを遠征した。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎の全日本スリートップがアメリカサーキットを周る事となり日本テレビはこの海外遠征を「グランドチャンピオンカーニバル海外シリーズ」と銘打ってこの模様をテレビ中継した。全日本の遠征先はジム・バーネットのジョージア州とエリック王国であるテキサス州ダラスのNWA2大テリトリーでありまず馬場らは6月12日、ジョージア州サバンナを訪れ 馬場は天龍とタッグ組みジェイク・ロバーツとゴールデンボーイ・グレイ組と激突。引退を間近にしたテリー・ファンクは後のWWE王者となる若き日のブレット・ハートと対決し地元の英雄ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコのブリスコ兄弟は新日本の常連外人、ボブ・オートンJr&まだ見ぬ強豪のジミー・バリアントとタッグ戦そして3大タイトルマッチとしてインタージュニアヘビー級選手権・チャボゲレロvs渕正信 インターナショナル選手権・ブルーザ・ブロディvsジャンボ鶴田USヘビー級選手権試合・グレッグ・バレンタインvsリック・フレアーというビックイベントな大会となりいづれもチャンピオンが防衛を果たしている。続く6月17日、テキサス州ダラスでは 5大タイトルマッチと言う超豪華な大会を実施しUNヘビー級選手権・ジャンボ鶴田 vs テッド・デビアステキサスヘビー級王者決定戦デビッド・フォン・エリックvsジム・ガービンPWF認定ヘビー級選手権ジャイアント馬場vsキングコングバンディNWA世界ヘビー級選手権試合ハリー・レイスvsケビン・フォン・エリックアメリカン・タッグ選手権試合ファビュラス・フリーバーズvsブルーザー・ブロディ&ケリー・フォン・エリックこれは全日本vsエリック王国のWCCWという団体対抗戦を彷彿させるビックカードとなった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス/格闘技】WWE Mattel Legends 6 Kevin Von Erich (ケビン・フォン・エリック) 【あす楽対応】【楽ギフ_包装】
2013.06.27
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1981年、アメリカマット界に一大センセーショナルが巻き起こった。歌舞伎をモチーフにしたオリエンタルなレスラーザ・グレート・カブキの登場である。カブキは1964年、日本プロレスに入団。同年10月31日、山本小鉄戦で高千穂明久のリングネームでデビューを果たす。1970年、アメリカ遠征に出発した高千穂はデビル・サトのリングネームで活動するが1972年、日本プロレス崩壊の危機に際し帰国。ジョニー・バレンタインを下し坂口征二がかつて保持していたUNヘビー級王座を獲得するが翌月に日本プロレスが崩壊し全日本プロレスに移籍。再び米国遠征をした際、テキサス州ダラスにおいてゲーリー・ハートのアイディアでザ・グレート・カブキに変身。顔にペイントを施し、着物や能面を着けた姿や連獅子姿のほかに、鎖カタビラに日本刀を携えた忍者をモチーフとしたコスチュームでも登場しヌンチャクを操り毒霧を吹くという東洋系のヒールキャラクターが受けてアメリカ各地のNWA加盟団体で活躍。その一方で1982年10月に馬場はレイスに敗れてPWF王座を転落した事でレイスを追って1983年2月、セントルイスへの遠征を理由にNWA会議の出席のため、全日マットが“馬場抜きシリーズ”を強いられてしまった。馬場がいない全日本の興行が不信にならない為フロントサイド及び馬場はプロレス紙である月刊ゴング、月刊プロレスで賑わっていた高千穂明久ことザ・グレート・カブキに目を付け馬場は自身がいなくなる「エキサイトシリーズ」で高千穂に帰国命令を出し、ここにザ・グレート・カブキの全日本に凱旋帰国、そして初来日が決定した!1983年2月11日、カブキは現役レスラー兼世界的手腕を持つブッカーのジム・デュラン(現・J・J・ディロン)と対決。フィニッシュ・ホールドである正拳突き(フィスト・ドロップ)で勝利。そしてシリーズ大一番である2月25日、愛知県体育館における悪役レスラーのインドの狂える虎:タイガー・ジュエット・シンとのシングル一騎打ち!この模様はゴールデンタイムの単発特別番組枠である土曜トップスペシャルで中継され試合は上田馬之助がリングサイドに姿を現しカブキが気を取られている内にシンが暴走、制止に入ったレフリーを突き飛ばし大乱戦。8分31秒、両者反則の判定が下った。このカブキの凱旋帰国は馬場が欠場していたが興行収益で全日本設立以来初の黒字となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村/プロレスQ KING
2013.06.20
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2009年6月13日、試合中リング禍によりこの世を去った三沢光晴彼は1990年、天龍源一郎をはじめ複数のレスラーが全日本プロレスを退団、SWSへ移籍した事により5月14日、東京体育館で行われたタイガーマスク&川田利明vs谷津嘉章&サムソン冬木戦でタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻りポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成。そんな超世代軍を特集したのが1991年・夏放送の「全日本プロレス中継・特別企画~超世代宣言」である。三沢光晴を中心に川田利明、小橋健太、菊地毅にインタビューを織り交ぜてそれぞれの試合を振り返る。1990年6月8日、全日の強さの象徴だったジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め天龍に代わる鶴田のライバル格として注目を浴び巨大な壁である大先輩に挑むその姿に若いファンは自分と三沢を投影させた。以来、超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。同じく巨大な壁として立塞がったのは外国人レスラーのスタン・ハンセンとテリーゴディの巨漢レスラーであった。世界タッグ選手権試合では1991年6月7日千葉公園体育館で三沢光晴&川田利明がスタン・ハンセン&ダニー・スパイビーの王座に初挑戦。そして1991年7月24日、石川産業展示館にて新世界タッグ王者テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスに三沢光晴&川田利明が挑戦し三沢がゴディを倒し第17代世界タッグ王者となった。超世代軍は高い人気を獲得し全日本プロレスに大きな収益をもたらし三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。 この結果、全日本には若い女性ファンが急増し新しいファン層作りに成功したのであった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村Sports Graphic Number PLUS【1000円以上送料無料】プロレスに殉じた男三沢光晴
2013.06.13
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1982年開催の世界最強タッグ決定リーグ戦はハンセン参入によりファンクス、馬場らと因縁、波乱が起きた戦国大会であった。優勝戦の蔵前国技館の公式戦でハンセン&ブロディとファンクスが激突、パワーで圧倒的に押しまくった超獣コンビハンセン&ブロディだったが最後に暴走し反則負けファンクスが逆転で優勝をさらった。 しかし、この結果にドリー&テリーのファンクス、ハンセン&ブロディが納得せず、世界最強タッグリーグのリベンジマッチを直訴した。1983年、春のシングルリーグ戦であったチャンピオンカーニバルに代わる形で世界のチャンピオンクラスの大物を招き全日本のリングでバトルを繰り広げる新シリーズ「グランドチャンピオンカーニバル」その大会で前年度の世界最強タッグ上位3チームザ・ファンクス、ハンセン&ブロディ、馬場&鶴田が総当たり2回戦で実現したのが賞金10万ドル争奪世界最強タッグ決定リーグ戦リマッチである。ルールは勝ち2点、引き分け1点 負け0点の世界最強タッグと同じであり公式戦はまず4月16日、愛知県体育館にてファンクスと馬場&鶴田が激突。結果は45分時間切れ引き分けとなり両者1点4月20日、東京体育館ではハンセン&ブロディの超獣コンビが因縁の相手ファンクスと対決13分55秒、ブロディがテリーからリングアウト勝ちを収め超獣コンビが2点4月22日、札幌中島体育センターは引き続きファンクスvs超獣コンビ2回戦が実現16分30秒、ドリーがハンセンに反則勝ちここでファンクスは3点となる。4月24日、大宮スケートセンターのファンクスvs馬場&鶴田2回戦は26分5秒両者リングアウトとなりファンクスは総合3点4月26日、富山市体育館では馬場&鶴田vs超獣コンビの対決となり9分54秒、鶴田がハンセンから反則勝ちを拾い馬場&鶴田は3点、超獣コンビは2点となった。そして4月28日 京都府立体育会館馬場&鶴田vsハンセン&ブロディの2回戦馬場組が勝てば5点、時間切れ引き分けでも4点なので優勝に王手を掛けた試合となった。試合はハンセンが鶴田にウェスタン・ラリアットを決めて13分9秒、体固めでフォールしハンセン&ブロディが4点で逆転優勝を飾った。 超獣コンビは全日本一大ムーブメントとなり新日本の猪木シングル最強という独り歩きを華やかな最強タッグチームによる魅力で打ち勝ちプロレス界全体をユニットブームで牽引する事になった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村永遠の不沈艦。己の名を旗に刻み、四角いリングに仁王立つ!!!!UNSINKABLE BATTLESHIP(永遠の不沈艦)Tシャツ【 スタン ハンセン × HARIKEN × GPS 】hansen-01 -A- STAN HANSEN ハリケン プロレス コラボTシャツ メンズ レディース ユニセックス
2013.06.06
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全日本プロレス春の祭典「チャンピオンカーニバル」その激闘は数知れず、優勝争いに世界各国の強靭なレスラーが集結した。1981年大会では全日本代表でジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、石川隆士、グレート小鹿、大熊元司、ロッキー羽田、プリンス・トンガ(キング・ハク) NWAからはフロリダを中心にマット界を血の海に染めていたアブドーラ・ザ・ブッチャーテキサス・エリック王国のブルーザー・ブロディ元NWA世界王者のジャック・ブリスコデトロイト地区のキラー・ブルックスカナダで活躍していたジ・アベンジャー後にWWEで活躍するホンキー・トンク・マンことウェイン・ファリスが初来日を果たしている。公式リーグ戦はホンキートンクがキャリア不足もあってブロディに秒殺された試合は語り草ともなり元NWA世界王者ジャック・ブリスコは失点が響き決勝進出を果たせなかった。ブッチャーvsブロディは悪役世代交代とも言うべきアウトローな試合展開を見せ、実況の倉持アナは「血を呼んでいます」と実況した。そして馬場と鶴田がトップで並び、ブッチャーとブロディが1点差で追う展開で大阪府立体育会館での優勝戦。まず鶴田とブッチャーが両者リングアウトに終わり脱落。続いて登場した馬場は逆転優勝を狙うブロディをフライング・ボディシザース・ドロップで下し6度目の優勝を果たした。翌年に行われた1982年大会では全日本代表にジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、マイティ井上、ロッキー羽田、プリンス・トンガ、石川隆士、佐藤昭雄、グレート小鹿、大熊元司エリック王国で活躍していたブルーザー・ブロディWWEでミリオンダラーマンとなる次期NWA候補のテッド・デビアスシューティングのビル・ロビンソンバック・ロブレイ、ビル・ハワードそして国際プロレスの大物常連外人だったモンゴリアン・ストンパー、アレックス・スミルノフが参加した。このリーグ戦には特別レフェリーとしてルー・テーズが参加しまた出場予定だった阿修羅・原は身内に不幸があったためシリーズ序盤を欠場、リーグ戦消化が困難となり棄権した。連覇を狙う馬場はストンパー戦、ロビンソン戦と立て続けに無得点試合に終わり出遅れるがロビンソンは膝を痛め脱落、ブロディと鶴田が星を潰し合い最終戦へ。優勝戦はまず鶴田が初出場の天龍と引き分けに終わり馬場はブロディの反則暴走で勝ちを拾い逆転で連覇を達成、通算7度目の優勝を果たす。しかしチャンピオンカーニバルはこの年を最後に優勝争いの形式はいったん終了し復活するのは9年後の1991年大会である。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村アントニオ猪木&ジャイアント馬場!!【タイガーマスク】ファイティングコレクション PART4 全6種セット
2013.05.30
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前年にハンセン引き抜き事件のあった「世界最強タッグ決定リーグ戦」82年の開催はハンセンがブロディと超獣コンビを結成し話題を呼んだ。参加チームはドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクジャイアント馬場&ジャンボ鶴田スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディハーリー・レイス&ディック・スレーター天龍源一郎&阿修羅・原リッキー・スティムボート&ジェイ・ヤングブラッド上田馬之助&スーパー・デストロイヤー今大会の注目はハンセン&ブロディの超獣コンビミッドアトランティック地区で活躍していたハーリー・レイス&ディック・スレーター後の天龍革命でコンビを組む天龍&原の龍原砲ノースカロライナの人気タッグチームリッキー&ヤングブラッドと世界で活躍するタッグチームが集結している。特に注目されたのがハンセンでもブロディでもなくジュニアヘビー級のジェイ・ヤングブラッドであり開幕戦でいきなりハンセン&ブロディと激突。超ヘビー級のハンセン&ブロディに小柄のヤングブラッドは持ち前のガッツで二人に立ち向かい応戦。観客はそのファイトに酔いしれたが最後はハンセンのラリアットに沈んだ。ハンセン&ブロディは別名ミラクルパワーコンビとも呼び日本におけるこのコンビの入場テーマ曲はハンセンの「サンライズ」とブロディの「移民の歌」を何度も交互に流れるように編集させたものであり「ミラクルパワーコンビのテーマ」「超獣コンビのテーマ」などと呼ばれた。また二人とも同格であるという事を意識してリング・アナウンサーによる選手紹介の順番は必ず日替わりでどちらかが先に呼ばれる事になっていた。そして2度優勝経験のあるファンクスが迎え討つ12月13日・蔵前国技館、最強タッグ優勝戦対戦相手は前年度のリーグ戦で因縁を持つハンセン&ブロディの超獣コンビこの一戦は引退を間近にしたテリーが弟子であるハンセンへの査定マッチでもあり試合内容は超獣コンビに一方的に攻めあっれながら反則決着でファンクスが辛うじて優勝を拾った。しかし、この優勝に不服を持った超獣コンビは全日本サイドにクレームを出した。その続きが翌年春に起こった・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】【smtb-u】【fsp2124-2h】【中古】フィギュア ブルーザー・ブロディ (中腰ポーズ) アクションフィギュア【10P17May13】【fs2gm】【画】
2013.05.23
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1979年、第54代・NWA世界ヘビー級王者 ハーリー・レイスが全日本プロレス秋の大一番ジャイアントシリーズに王者として来日。ジャンボ鶴田、アブドラ・ザ・ブッチャーを退け防衛を繰り返し「ミスタープロレス」の称号を日本のファンに見せつけた。そして10月31日、愛知県体育館 NWA世界ヘビー級選手権試合にてレイスは今度は全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場の挑戦を受けた。レイスはヘッドバット、ブレーンバスターで応戦するもダイビング・ヘッドバットを狙ったレイスがコーナーに上がった所をを馬場がデッドリー・ドライブでマットに叩きつけ、立ち上がったところへランニング・ネックブリーカー・ドロップを決め18分29秒体固めで馬場が第55代王者となった。しかし1週間後の11月7日、尼崎市体育館レイスのリターンマッチとなったNWA世界選手権では20分58秒片エビ固めでレイスが馬場から 王座を奪回し第56代王者となる。 そして1980年、第2次サマーアクションシリーズでレイスが再びNWA王者として来日、鶴田、馬場、マスカラスとの防衛戦を果たしに来た。9月4日、佐賀スポーツセンターで行われたNWA世界ヘビー級選手権試合での馬場との防衛戦。試合は馬場のフライングボディシザースドロップの先制攻撃するもののレイスのブレーンバスター、ダイビングヘットバット、パイルドライバーが繰り出される。だが馬場はパイルドライバーから大技であるフライングネックブリーカードロップで14分5秒体固めで馬場が第57代王者となり11ヶ月ぶりに最強の座に復帰した。しかし9月10日、大津市皇子が丘公園体育館で馬場はレイスのリターンマッチであるNWA世界ヘビー級選手権を行い試合は馬場が攻撃しようとコーナーポストに上がりレイスに足を引かれバランスを崩しコーナー金具部に急所を打ってしまいダウンそのままレイスが押さえ込み11分58秒片エビ固めでレイスがタイトルを奪回第58代NWA世界ヘビー級王者となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 【1000円以上送料無料】ハーリー・レイス自伝 キング・オブ・ザ・リング/ハーリー・レイス/ジェリー・トリッツ
2013.05.16
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1981年12月、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦においてブルーザー・ブロディ・ジミー・スヌーカチームのセコンドとして登場したスタン・ハンセン。試合後、ザ・ファンクスのテリー・ファンクとの乱闘を繰り広げた事から急遽、馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発。しかし、このハンセン乱入劇には裏があった。1981年、全日本と新日本はアブドーラ・ザ・ブッチャーの引き抜きを皮切りに有名選手の引き抜き合戦の最中にあり新日は全日の人気外国人レスラーだったディック・マードックを引き抜いた事により全日は新日のトップ外人レスラーであるスタン・ハンセンに白羽の矢を立てた。1981年初夏にハンセンの師匠であるテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した。ただしハンセンの移籍は秘密裏に行われており12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず当時のマスコミやファンを非常に驚かせたハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。しかしハンセンの盟友ブロディは移籍報告をハンセン本人から直接状況説明を聞かされブロディは「スタン、それは喜ぶべきニュースだが俺が居るのになぜこれ以上全日にタレントが必要なのだ?俺だけでは不足なのか?」と不服そうに語った。だがブロディはハンセンが全日本登場直前に「スタン、この時点で馬場は俺達に君のことを何も報告していないんだぜ? 俺やスヌーカはそんなに信用できないのか?」と不審を募らせた。ハンセンはオーナーであるジャイアント馬場の意向をブロディに聞かせ納得させたがブロディは長くファンクスに対し不信感を持つ事となった。かくしてハンセンは1982年「新春ジャイアントシリーズ」に特別参加として1982年1月15日千葉県木更津市倉形スポーツセンターで阿修羅原相手にシングルマッチで登場。そして1982年2月・東京体育館PWFヘビー級選手権試合でジャイアント馬場vsスタンハンセンの初対決が実現。馬場は既に45歳であり当時は限界説、引退説が囁かれている時でありマスコミ、ファンからは馬場圧倒的不利、負けるのは確実と言われたカードであった。しかしゴングの後、序盤から繰り出す16文キックで動きも晩年では考えられないほど軽い馬場。そして馬場は猪木を挑発するかのように豪快な腕折りを連発、執念を見せる壮絶な戦いで全盛期を彷彿とさせる動きを見せハンセンと互角に渡りあう。そして馬場は日本プロレス時代に出したフィニッシュ技のひとつ、32文ロケット砲まで出し限界説を払拭しただけでなく引退説をも否定した。だがハンセンが馬場にウエスタン・ラリアットを決めロープに近く馬場は場外へ。ハンセンが追いかけ場外での殴り合いとなった所に止めに入ったジョー樋口レフリーが巻き込まれてダウン結果は12分39秒両者反則による引き分け終わったが死闘を繰り広げたこの試合年間ベストバウトを獲得した名勝負であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] 新日本プロレスリング 最強外国人シリーズ 不沈艦伝説 スタン・ハンセン DVD-BOX
2013.05.07
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1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピア戦でデビューしたジャンボ鶴田1972年12月10日、世界三大メジャー団体AWAにてデビュー戦を飾ったリックフレアージャンボ鶴田はUNヘビー級、インタータッグ、リックフレアーはミッドアトランティック・ヘビー、NWA世界タッグ、USヘビー級と共に若くしてベルトを奪取し鶴田は大器の片鱗を見せ馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位に着きフレアーはNWAミッドアトランティック地区のトップスターであり共に出世していた。ほぼ同期である二人が対決したのが1978年4月、全日本プロレスのエキサイトシリーズ。フレアーは次期NWA世界王者候補として注目を集めジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した。フレアーの入場曲は「ギャラクシーエクスプレス」で全日初参戦から使用していた。両者の初シングル戦は鶴田の勝利に終わりフレアーは同シリーズに参戦していたディック・マードックと同等以上の大物扱いを受けた。その後、ダスティ・ローデスを破り第62代NWA世界ヘビー級王者となったフレアーは1981年10月、全日本プロレスの創立10周年を記念したジャイアント・シリーズにNWAチャンピオンとして特別参加。10月9日・蔵前国技館にてジャンボ鶴田の挑戦を受け2度目の対決はフレアーが勝利を収めている。以後、フレアーはNWAチャンピオンとして鶴田と攻防戦を繰り広げる事になった。1982年6月8日、NWA世界ヘビー級選手権リック・フレアーvsジャンボ鶴田ダブル・フォールによる引き分け1983年6月8日、NWA世界ヘビー級選手権リック・フレアーvsジャンボ鶴田3本勝負、1本目鶴田先取2本目60分時間切れで鶴田が勝利(王座移動なし)1983年12月10日、最強タッグ夢のシングル戦リック・フレアーvsジャンボ鶴田30分時間切れ1985年4月24日、NWA世界ヘビー級選手権リック・フレアーvsジャンボ鶴田両者リングアウト1985年10月19日、特別試合リック・フレアーvsジャンボ鶴田15分時間切れ1987年5月10日、NWA世界ヘビー級選手権リック・フレアーvsジャンボ鶴田鶴田反則勝ち(王座移動なし)二人の戦いは鶴田の3勝1敗4引き分けうち2勝は反則、時間切れ勝利とほぼ互角の試合であった。その後フレアーは2002年3月1日、WWF横浜アリーナ興行「スマックダウン・ツアー・ジャパン」でリング上で挨拶を行った際、過去に日本で対戦したライバルレスラーの中でジャンボ鶴田の名を1番に挙げていた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[DVD] WWE リック・フレアー ネイチャーボーイ
2013.05.02
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サッカー、野球、バレーと日本対韓国の壮絶な試合は数々の名勝負を生んだ。プロレス界にも日韓対決が存在し1973年、大木金太郎がトップレスラーだった日本プロレスが崩壊した事にそれは始まった。崩壊後、大木は日本プロレス選手と共に全日本プロレスに入団するが対等合併と仲介者に聞かされていたのに実質吸収合併であり当時保持していたインターヘビーの防衛戦もなく馬場がザ・ファンクスのインター・タッグに挑戦した時、パートナーが大木ではなく新人のジャンボ鶴田が起用されマッチメイクで冷遇された事から退団。 その後、新日本プロレスに参戦して蔵前国技館にて猪木とのシングル戦を行い、地元ソウルで猪木の挑戦を受けてインターヘビーの防衛戦を行った。これは猪木唯一のインター戦である。 1975年10月には蔵前国技館にてジャイアント馬場とシングル戦を行い、馬場は大木の頭突きを受け猪木と大木の試合時間13分13秒の半分の時間6分49秒でフォール勝ちを収め格の違いをアピールした。 その後、大木は全日本を主戦場とする様になりオープン選手権及び力道山十三回忌追悼興行で頭突き世界一決定戦のアブドーラ・ザ・ブッチャーと対決。日本プロレス時代に大木の付き人を務めていたキム・ドクと韓国師弟タッグを結成し1976年10月に蔵前国技館でジャイアント馬場&ジャンボ鶴田からインターナショナル・タッグ王座を奪取。ここより全日本プロレスvs大韓プロレスの他団体対抗戦が勃発した。インタータッグ王座は1977年11月7日にも韓国のソウルにて馬場&鶴田を下し再び戴冠しており12月には世界オープンタッグ選手権に韓国代表で参加。大木&ドクの韓国師弟コンビと馬場&鶴田の日本師弟コンビの抗争はこの時期の全日本のドル箱カードでありキム・ドクはジャンボ鶴田のライバルと目され鶴田との抗争を展開、1978年9月の愛知県体育館におけるUNヘビー戦は全日本初期の名勝負に数えられ60分フルタイムの後に5分の延長戦が組まれ引き分けとなった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村[キャンぺーン30%セール中]韓国ソウル宿泊キレイで安全 フルオプション・120室ルーム完備、便利な施設ゴールデンウィークに韓国ソウルで楽々旅! 激安江南宿泊!韓国旅行
2013.04.24
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大激震となった1981年の全日本プロレス。それは嘗ての堅友・アントニオ猪木が率いる新日本プロレスが全日常連外人レスラーを引き抜いた事に始まる。年末恒例「81世界最強タッグ決定リーグ戦」その参加チームは全日本プロレス代表チームジャイアント馬場&ジャンボ鶴田天龍源一郎&阿修羅・原大熊元司&グレート小鹿オープンタッグ、78最強タッグ覇者ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクAWA世界タッグを奪った伝説のタッグチームハーリー・レイス&ラリー・ヘニングNWA、WWEを戦場とした野獣コンビブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ新日本プロレスの悪役チームタイガー・ジェット・シン&上田馬之助全日本プロレスの悪役チームザ・シーク&マーク・ルーイン怪奇派のブレーンクローコンビバロン・フォン・ラシク&キラー・カール・クラップこのメンツを見て分かるが毎年参加しているアブドーラ・ザ・ブッチャーがいない。それは全日、新日の興行戦争によりブッチャーは新日本プロレスへ引き抜かれ移籍、全日本はその報復の為、猪木のライバルタイガー・ジェット・シンを引き抜く更に新日は全日のNo3であるタイガー戸口を引き抜きその代わりに全日は上田馬之助を引き抜くも新日は全日の人気外国人レスラーで鶴田のライバルディック・マードックを引き抜いた。マードックの引き抜きにより馬場は新日の大物外国人レスラーの引き抜きを考えた。さて本大会は全体的にラフファイター揃いの大会となりファンク、レイス、ブロディ、シン、ラシクの海外他団体選手同士の夢の対決など実現しておりシンvsシークの凶悪直接対決が話題を呼んだ。そして注目の最終戦、優勝を掛けた大一番ファンクスvsブロディ&スヌーカブロディのテーマ曲「移民の歌」が流れる中そのセコンドとして全日本に登場したのが猪木のライバル、スタン・ハンセンだった。ブロディ、スヌーカと共に現れたハンセンを見て日本テレビの解説を担当した山田隆は「ハンセンですよ!!」と絶叫した。ハンセンの移籍は秘密裏に行われており当時の関係者やファンを非常に驚かせた。最初はセコンドとして大人しかったハンセンだったが試合中盤、場外に落ちたテリーにラリアットを見舞いKO、会場は騒然となった。ドリーが一人でブロディ、スヌーカを相手にする形になり最後はブロディのキングコングニードロップでドリーからフォールを奪いブロディ&スヌーカが初優勝。しかし試合後、ハンセンがドリーに手を出し大乱戦荒れたリングに馬場、鶴田が乱入しハンセンと大乱闘を繰り広げた。この時に馬場が放ったチョップでハンセンが流血し普段よりも数倍速く威力があった為、馬場がキレた数少ない場面として知られている。流血したハンセンは控室で大荒れ馬場も記者に対し怒りのコメントを発しこの遺恨は翌年に持ち込まれた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村《送料無料》全日本プロレス中継 世界最強タッグ列伝(DVD) ◆20%OFF!
2013.04.20
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