無色透明

無色透明

2006.02.06
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カテゴリ: スピリチュアル
今日の屋久島は、強風が吹いている。

春二番?
12月が寒かったので、もう真冬が終わって春を待っている気分。
刻々と春が近づいている感じ・・・

肉体は個別化している。
本能も個別に付いている。
だから争いが絶えない?
とも、限らない。


個々に本能が付与されている。
しかし、彼等は共食いはしない。
個体密度が濃くなると弱いものを食べることもあるらしいが、種の保存のために原則的に共食いはしない。
少なくとも生きたものは食べない。
死体を食べることはあるらしい。
また、カマキリの雄が交尾後に雌によって食べられることもある。
しかし、それは役割を終えて子孫の栄養となるためで、共食いではない。

肉食動物が草食動物を襲うことはある。
それは自然の循環。
自然のシステムに過ぎない。
しかし、肉食動物も同じ種は襲わない。


日常的に共食いをしているのは人間だけだろうか。
いや、人間も実際に食べたりはしない。
ただ殺すだけ。
種の保存のためではなく、自己の保存のために。

殺して食べるのなら、まだ許せるかもしれない。

しかし、人間の場合は、殺すだけ。
別に人肉が欲しいわけではない。
ただ己の安全を確保したいだけ。

動物と人間の違いは何だろう。
個別化した肉体や本能に違いはない。
では、感情だろうか。
しかし、動物も本能的に怒ったり、恐れたりしている。
本能ベースの感情に、そう変わりはない。
では、何が違うのだろうか。
やはり、思考だろうか。

思考が必要以上に恐怖を増幅するということだろうか。
それによって共食いを始めるのだろうか。
人間は思考に振り回されているだけなのだろうか。
まだ思考をマスターできていないということだろうか。

思考が肉体の本能と合体する時、それは個別化された思考となる。
思考自体に個性はない。
単なるシステムであり能力だ。
ところが、それが個別の本能と一体化する時、それは利己心となる。
自我が生まれ、自己最優先となる。

動物たちには自我はない。
自分という自己イメージは持っていない。
人間だけが自分という個別化した意識を持っている。
特に思春期以降、他との比較による自分のイメージが明確化する。
自我は相対的なものであり、比較によって成り立つもの。
絶対的な自我というものは存在しない。
絶海の孤島で一人で暮らしていれば、自我が存在することはあり得ない。

自意識はあるけれども、それは自我ではない。
他との比較によって生まれるものが自我だ。
そういう意味では幼児には自我はない。
幼児は論理的に考えるということはしない。
まだイマジネーションの世界に住んでいる。
イマジネーションの世界に自我はない。
それは自分だけの世界。
比較相対の世界ではない。
比較相対は、思春期以降の論理的思考力の発達によって生じる。
比較こそが、まさに論理的思考力のベースなのだ。

幼児期にも争いはある。
自分の世界に住んでいても、兄弟喧嘩はある。
しかし、記憶力も思考力も未発達なので、それほど尾を引かない。
その場限りで終わることが多い。
成長するに従って、尾を引くようになる。
記憶力と思考力の発達によって、過去が保存される。
過去をベースに生きるようになる。

イマジネーションと論理的思考力が一緒になって、恐怖を増幅する。
過去の恐怖を思い出し、未来の恐怖をつくり出す。
ありもしない恐怖を次々と生み出す。
イマジネーションも論理的思考も幻想の海の中に溺れる。
自分を見失ってしまう。

思考が肉体の自己保存の本能と合体する限り、救いはないのだろうか。
個別化しているものと自己同一化することによって、意識は個別化し、自己の利益のみを追求するようになる。
この構造から脱却する道はないのだろうか。
個別化したものと思考が合体する限り、救いはないように見える。

では、どうすればいいのだろうか。
人類に未来はないのだろうか。
唯一可能性がありそうなのは、聖者たちの軌跡。
彼等は同じ肉体にいながら、肉体の本能を超えていた。
自己保存第一主義者ではなかった。
自分最優先では生きなかった。
そういう生き方もできる。
人類の可能性。
わずかな希望。

それはどのようにすれば可能なのだろうか。
それは個別化したものと合体するのではなく、全体と合体することによって生まれるのだろうか。
意識が肉体の本能・感覚・感情・思考と自己同一化する限り、弱肉強食の世界から脱却する道はなさそうだ。
そうではなくて、個別化していないものと意識が合体する時、全体優先という平和の時代が来るのだろうか。
個別化していないもの?
それは何だろう。

常に全体であるもの。
いかなる時も断片化していないもの。
それは何だろうか。
まず最初に思い浮かぶのは、愛。
無償の愛。
聖者たちに共通に見られるもの。
愛に意識のベースを置く時、人は争うことはない。
愛の中で平和に暮らせる。

聖者たちに共通して見られるもう一つの特徴は、叡智だろうか。
この世の本質を見抜く叡智。
これがあることによって、思考がつくり出す煩悩に翻弄されない。
煩悩の構造を理解し、煩悩から自由に生きられる。
人の意識構造の理解。
それが平和をもたらすのだろうか。

愛と叡智。
それらにベースを置いて生きれば、人は平和に暮らすことができるのだろうか。
個別化した肉体ではなく、常に全体としてある愛や叡智にベースを置く。
それのみが全体の平和をもたらすのだろうか。

では、愛と叡智にベースを置くには、どうすればいいのだろうか。
それは・・・
ホームワーク?

この文章を読み、理解するためには思考力を使っている。
幼児には、この文章は理解できない。
思考力があることによって、このような複雑なことが理解できる。
また共通の言葉によって、同じ理解を得ることも可能になる。
思考力は必要なものだ。
このような言葉を通しての理解だけでなく、科学技術においても必要不可欠なもの。

それには誰も異存はないだろう。
問題は、その思考力がもたらす弊害の方だ。
現状では、思考力のプラス面以上の弊害が生まれている。
そこをクリアーする必要がある。
そのために延々と書き綴っている。
これも思考の為せる技(わざ)?

使っているのは思考。
でも、思考はこんなことはしない。
自己保存の本能と一体化した思考は、みんなのためには働かない。
常に自己の利益最優先。
狭い視野しか持っていない。
個別化した思考には全体を理解する能力はない。
一見それらしく振る舞うことはあっても、所詮、仮初(かりそ)めの姿。
羽織の下には鎧がのぞいている。

思考は道具。
それは使いこなすもの。
けっして使われるものではない。
これまでの人類史は、思考を使って文明を築き、思考に使われて文明を破壊してきた。

それがまさに人類史そのもの。
その人類史を変えることができるだろうか。
破壊を終わらせることができるだろうか。
共食いの文化を永遠に終焉(しゅうえん)させることは可能だろうか。
それが今、問われている。

愛と叡智にベースを置く生き方。
それが可能かどうか、これからゆっくり見ていくことにしよう。

『個別化し 自分本位に 生きてきて 根源的に 変われるだろうか』

『肉体に ベースを置けば いつであれ 自分一人の 利益を求める』

『全体に ベースを置いて 生きる道 可能かどうか 試してみよう』

これが401日目の心境です。






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Last updated  2006.02.06 12:51:26
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Comments

難しいね?@ 人はなぜ生まれてくるのですか その答えを探すためでわ?
emi☆@ タイムリー 先週、ちょっとしたことがありました。 …
風の彷徨者@ Re:そうだったのですか ぴあのさま そういう事情だったのですね…
ぴあの@サファイア @ Re:あれれ??2(06/13) 風の彷徨者さん >今見たら元に戻ってい…
風の彷徨者@ あれれ??2 今見たら元に戻っていました。 こちらのP…
風の彷徨者@ あれれ?? 日記の感じが(テンプレート?)が変わり…
風の彷徨者@ Re:2718日目 - 神聖ゴールデン貫入 石屋…いやいや(笑)水晶屋の 魂仕組みは奥…
ポプラ@ ヒマラヤグリーンDTマスター 私もこの水晶を毎日のように眺めてはぞく…
風の彷徨者@ Re:2716日目 - 運命の水晶 「その秘められた可能性を理解すること…」…
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