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死んだ友人Hのこと



僕の(日本の)大学時代の一番の親友は、僕らが3年生になって3ヵ月目に自殺した。自動車に排ガスを引き込んでの自殺であった。

実のところ、僕は彼が自殺の準備をしていることを知っていた。
彼は、自殺したその日、自殺で使うためのホースやガムテープを購入し、これから死ぬつもりだと言って僕の下宿を訪ねてきたのだった。

僕と彼は当時、共通の悩みを持っていて、お互いの下宿でよく語り明かす間柄であった。ちなみにその悩みというのは、「現実感の欠如」ともいうべき実に深刻なものであった。
今振り返れば、当時の僕らは「就職活動→卒業」を一年後に控えつつも、人生に特にこれといった楽しみも目標もなく、生きる目的を喪い未来に希望もなく、要するに絶望していた。

周囲の友人からは、ボーッとしたちょっとアブナい奴ら、くらいに思われていたのかもしれない。でも当人にしてみれば、絶望にある人間がよくそうであるように、世の中で起こっているすべてのことが、自分自身をも含めて、まるで自分には関係のない絵空ごとのように感じられ、日常生活への適応に大変な困難をきたしていたのであった。たとえば、世の中のすべては馬鹿々々しい冗談のように思え、何もする気が起こらなかった僕は、1、2年後にビジネス・スーツを着て満員電車に揺られ、毎日労働するなんてとても不可能だと痛感していた。

僕らはたまに、自殺の意思についても語り合ったことがあったが、自殺を決意したらお互いに引き止めっこなし、ということで合意していた。僕自身、自殺を決行できるだけの元気さえあれば、とっくに自殺しているつもりであった。

彼が自殺したその日の2週間ほど前に、僕は彼から具体的な自殺の意思をすでに聞かされていた。…ある晩、彼は薬局で買った睡眠薬を服用し、おまけにタバコを4本食べてベッドに入った。しかしあいにく翌日の朝、スッキリと目が覚めてしまった…と彼はその日笑いながら僕に語り、僕もその時はそれにつられて笑ってしまった。--要するにその時点では僕は彼がまったく本気だとは思っていなかったのだと思う。

しかしそれから数日後、僕は彼の意思が真剣であることを知った。その晩、彼はタバコを実に2パックも食べて、しばらくして耐え切れずに少し吐き、そのあとで僕に電話をしてきた。受話器の向こうで経緯を話す彼は、無気力に笑っていた。何か知らないが鼻血が流れてきよった、と笑いながら語っていた。あまりにも残酷な彼の情況に悲しみが襲ってきて、僕は受話器のこっち側で目に涙を浮かべていた。

その電話があった次の朝、僕は大学の講義をすべてサボり、電車とバスで2時間半かけ、当時は両親の元で暮らしていた彼の自宅へ向かった。彼を引き止めるために、である。自宅を訪れると、彼はひとりで居た。玄関に現われた彼は、食べたタバコのせいで体じゅうに発疹が生じ、とても見られぬ状態だった。何しに来たのか、と問う彼に、僕は、彼がこれから何をするつもりであれ、ついて行く、と答えた。彼は、自殺の決意はお互いに引き止めない約束だったことを僕に憮然と告げたが、僕は今彼に死なれては困る、という利己的な理由で彼を引き止めると告げた。

彼は、会社を経営する親の金庫から金をすべて持ち出し、散々遣いまくってから自殺する腹を決めていた。しかしその日金庫のカギはどこにも見つからず、とりあえず彼はサラ金から金を借りられるだけ借りることにしたらしく、自動車に乗った。僕は、僕を振り切ろうとする彼のその自動車に無理矢理乗り込み、彼は諦めたのか、結局助手席の僕を無視して自動車を運転し始めた。彼は数件のサラ金のオフィスを訪れ、僕もそれについて行ったが、どのサラ金も彼が学生であることを理由に金は貸さなかった。
彼の車に乗っている最中、僕を無視し続ける彼に対して、僕は冷静に言葉少なに、淡々と説得を続けた。邪魔だから車を降りろ、と訴える彼に、僕は彼がどこまで行くにしてもついて行く、と答えた。

数時間後、どうやら彼が折れた。それまでムッとして憮然と僕を無視し続けていた彼が、どこかの人気のない港で車を停めると、タメ息をつき、『…まったく、お互いに止めへん約束やったやろうが。』と苦笑しながら言い、車から降りた。外はもうすでに夕刻であった。
もう今日は自殺はやめとく、と言う彼に、僕はまだ心配だからと告げ、その晩僕は彼とともに彼の自宅に帰り、彼の部屋に泊まった。彼の自殺の意思など夢にも思わない彼の両親に対し、僕は事の経緯を告げなかった。

その晩、床に入ってから彼と語り合ったことを僕は部分的に覚えている。
僕らは確かに現在にも未来にも絶望し、いつ死んでもいい状況に生きている。しかし、「とりあえず」、を凌げる程度の楽しみはあるんじゃないか、というのが僕のセコい論点であった。
「とりあえず」、の例として、僕は彼と以前冗談半分に語り合ったあることを引き合いに出した。――当時、ある著名な霊能者が、その年の9月13日に東京に壊滅的な大地震が起こることを予言しており、僕らは壊滅的な打撃が社会に引き起こすであろう大波乱が、束の間でも僕らに生きた心地を与えてくれるのではないか、という話をしたことがあった。
しかしその晩彼は、仮にその大地震が起こったとしても、生命力の強い人間どもは、「戦後の焼跡」と同様に、何事もなかったような顔でものの2、3年ですべてを元どおりにしてしまうだろう、と笑いながら言った。
それでも「その日」まではまあどうにか頑張って見るわ、と彼は言った。

しかし頑張りは1週間と続かなかった。
それから1週間ほど経ったある日、僕は彼の両親から、彼が失踪したのだがそちらに邪魔していないか、との問い合わせの電話を受けた。その時僕は 「もしや今度は...」といった不気味な戦慄に襲われた。
それから一両日中、不安な気分で過ごしたあと、ある日大学から帰宅すると下宿のドアに明らかに彼の筆跡で『また家を出てしまった』とだけ走り書きしたメモがドアに挟んであった。僕はとりあえず彼が生存していることを知り、それでもこのメモを書いた後いつ自殺していてもおかしくないことを思い、複雑な心境にあった。

数時間後、下宿に誰かが訪ねて来た。彼であった。
僕はその時、まるで生き還った死者に再会したような、不気味な戦慄を感じたことを覚えている。
部屋に入った彼は、今自殺の準備のための道具を買い揃えてきたこと、そしてもはや生の実感がなく、何か物を触っても実感がないことを語った。それまでの彼とはまるで様子が違っていた。今思えば、すでに死相が出ていたのかも知れない。
僕はと言えば、まるで阿呆のように、1週間前に彼に訴えかけたことを繰り返すほかなかった。もはや何を彼に言えば良いのか、まるで見当がつかなかった。

そうこうしているうちに電話のベルが鳴った。彼の両親からであった。
受話器を僕から受けた彼は、両親とごく冷淡に口論したあと、家にはもう帰らないと告げて一方的に受話器を置いたようであった。今思えば、その時の彼の様子から察するに、その電話が彼の腹を決めさせたように思える。
しかしその一方で、僕は自分の説得が効を奏したことを信じ始めていた。

そのあと僕らは、それまでもしばしばそうしたように、一緒に銭湯に行きサウナで汗を流した(銭湯から出て全身鏡を見た彼が、ひと言ボソリと『やっぱりどうしても身体の(タバコの)毒、抜けへんかったな。』と言ったことを覚えている)。

そして、近所のラーメン屋で夕食を摂った。
彼は、どこか北のほうの知らない町へ行って、新しい生活を始めるつもりだ、と言った。馬鹿だった僕は、そんなテキトーな彼の話を信じ、彼がそう決めたのなら仕方ないと思い、彼を見送るつもりでいた。今思えばどう考えても無理なそんなウソを、僕は真に受けていた。

ラーメン屋を出た後の、それまでになかった彼の妙な態度を、僕は印象的に覚えている。
僕らはラーメン屋を出て商店街の中を下宿へ向かって共に歩いていた。彼は何も言わず歩を止め、薬局へ入っていった。僕はそれに気付かず歩を進め、やがて彼の不在に気付き振り返ると、彼は薬局の前で強壮ドリンクをあおっていた。妙に毅然とした態度で。

僕らが下宿に戻ってから何を話したか覚えていない。ただ彼は、その後下宿を去り際に、これからの旅路に読みたい本がある、と言い、太宰治の『人間失格』を貸してくれと申し出た。僕は快く承諾した。そして、下宿の前に駐めていた自動車に乗り込む彼を追い、彼が好きだったRCサクセションの『トランジスタラジオ』や『雨上がりの夜空に』の入ったカセットテープを持って行くように差し出したが、こちらのほうは断わられた。

翌日の早朝、彼の両親が突然僕の下宿を訪れた。僕は彼らに、彼が昨晩去ったこと、どこか北のほうへ行って新しい生活を始めるつもりだと言っていたことなどを話し、彼らは途方に暮れた様子で帰って行った。

彼が、僕の下宿を出たあと、車で30分足らずのところで排ガスを引き込み自殺を遂げていたことを彼の両親からの電話で知らされたのは、その日の晩のことであった。彼の死の助手席には、太宰の『人間失格』が置かれていた。

電話でその知らせを受けた時、僕は悲しかった。
しかし、不思議にも、1週間前にタバコを2パック食べ、鼻血を流し笑いながら彼が電話してきたあの時ほどは、悲しくなかった。きっと、その時の方がはるかに悲惨で残酷だったからであろう。

彼の自殺の知らせを聞いて、僕はもちろん大変なショックを受けていたのだが、その時僕は妙な体験のことを思い出していた。彼の両親が下宿を訪れる数時間前の早朝、僕は夢うつつの状態で、ちょうど自動車の排気音のような不気味な音が不安気に耳元に響くのを確かに感じ、さらにその直後RCサクセションの『トランジスタラジオ』の音楽が妙に鮮明に、そして解放感に満ちて脳裏に広がるのを聴いていたのだった。

残された者にとって、彼の自殺はとても痛ましい出来事であったのは言うまでもないが、その妙な体験のせいか、彼はその空虚な苦悩から解放され、楽になったのではないか、という確信が僕の心のどこかにあった。

彼の葬儀はその翌々日、6月末の蒸し暑い快晴の日に行われた。棺の中に横たわる彼の屍を僕はじっくりと見ることができたが、その死顔はまるで寝入った子供のように安らかに見えた。葬式を終えて移動された棺の後ろには、不思議にもどこから迷い込んだものか、子猫が座っていた。

その出来事のあと、僕は大学でもバイト先でも努めて冷静で快活であるように振る舞ったつもりであったが、ショックは強く尾を引いた。それから数日後に始まった前期末試験も、当然ながらとても勉強などには集中できず、散々な結果であった。

僕は翌年、大学を休学した。

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