おいでやす。郡山ハルジ ウェブサイト。

ヒッチハイクで北欧へ(1992)その2

Oslo2

(その1からのつづき)

【ノルウェーを発つ】
その後私は1日かそこらオスロに佇み、オスロを発つ前にあれこれ考えごとをしたり、旅中に読もうと思って用意していた三島由紀夫の『豊饒の海』を読んだりした記憶がある。

ヒッチハイクの予想以上の苦労にうんざりしていた私は、当初オスロからニューキャッスルの間を運行しているフェリーでイギリスに渡ろうと考えていたが、調べてみると便数が少ない上に金額が予想をはるかに上回っていた。そこで私は、Kにも告げたとおり、また往路をヒッチハイクで引き返さねばならなかった。

しかし、幸いにして、ヒッチハイクのコツを呑み込みつつあった私は、往路の半分近い期間でオランダまでの復路を戻ることが出来た。
まず、オスロを後にして間もなくつかまえた運転手は、ノルウェイから一路スウェーデンへ向かうところであった。彼はノルウェイ在住のスウェーデン人で、挙動が明らかにエキセントリックな20代後半~30歳くらいのちょっと躁病がかった男であった。彼は言った。「これから実家に帰るんだ。こうしてたまに車で国に戻るんだよ。何んでノルウェイに住んでいるのかって?僕はこんなちょっとクレイジーな性格だから、家族とか親戚とかからは離れて暮らした方がいいんだよ。はははは。」

彼はその後私以外のヒッチハイカーのひと組をピックアップした後、一路ハイウェイを南下し、私を(往路の時に入国したのと同じ)ヘルシンボリだったか、あるいはさらに南下してマルメで降ろしてくれた。

もう薄暗かったヘルシンボリかマルメの港のフェリーの待合室で、私はトラックの運転手らしき人物を次々と当たって、デンマークに渡るまで助手席に乗せてくれるように頼んだ。そして、何人目かの運転手に声を掛けた時、いかにも人の良さそうなその男は言った。「うーん、僕は以前好意でヒッチハイカーを乗せちまったがために、金を強奪されて逃げられたという苦い経験があるんで、それ以来ヒッチハイカーは乗せないようにしているんだよねえ。キミ、まさか私を強盗するつもりはないよね。」
私は言った。「まさか、ノー。私は人畜無害な東洋人だ。東洋人のヒッチハイカーが強盗したなんて話を聞いたことがあるかい?」
すると彼はしぶしぶ私の同乗を承諾してくれ、そして言った。「まあ、東洋人のヒッチハイカー自体、聞いたことがないけどね。」

【ヒッチハイカーの友、トラック野郎】
その夜私は、彼のトラックに同乗してフェリーに乗り込み、デンマークのシェラン島のどこかに着いた。降船するとすぐ、フェリーから降りてくる車を狙って、親指を立てて運転手にアピールしたが、暗闇に立つ得体の知れない人影をピックアップする奇矯な運転手はやはりおらず、その晩の移動を諦めた私は、フェリー埠頭のある構造物の陰でダンボールに包まって眠った。

翌朝は、何とか乗せてくれる自動車をつかまえてシェラン島をドイツ方面に向かって南下できたが、一度人里離れた森の中で車を降ろされた時には困った。降ろされたところは一応ハイウェイ上だったので、自動車は通ることは通るのだが、やはりデンマークのお国柄なのか、その時は炎天下で同じスポットで3~4時間も待たざるを得なかった。それでも、その後ようやく停まってくれた老夫婦は、私を乗せて比較的長距離移動してくれた。今でも鮮やかな印象に残っているその移動の際に見た絶景は、シェラン島本島からその南方の小さい島に掛けられた長橋の上からの眺めである。長時間アスファルトの上で待ち続けた挙句のことだったからかも知れないが、その時見た橋の色と、太陽の光を浴びた海の深い青と、森や畑の緑の組み合わせは、私を幸せな気持ちにした。

その日の午後に辿り着いた、ドイツへと渡るフェリーが繋留されたその港には、2~30台くらいのトラックが出国手続きとフェリー乗り込みのために列を成していた。長距離トラックはまさに「ヒッチハイカーの友」である。私は乗船待ちのトラックを一台一台当たり、程なく同乗を了承してくれるトラックの運転手を見つけた。これがラッキーだった。この若い運転手はオランダ人で、日々スウェーデンやデンマークとオランダの間をトラック輸送の仕事で往復しており、今はまさに一路家路への途上にあるのであった。また、彼にしても同乗者を持つメリットがあった。それは、しばしば彼がそうしていたように、助手席のシートの下に個人密輸の酒瓶をいくつか隠しており、その席の上に誰かが座っていれば、出国や入国の際、税関にそのシートを開けてまで検査される可能性が小さくなるのであった。
彼は名前をミシェルといい、「オランダでは発音はミシェルだが、イギリスで言えばマイケル、ドイツで言えばミハエルだ」と英語で私に説明した。

オランダへ向かって彼のトラックに同乗していた10数時間の間、私は英語の達者な彼と(彼は仕事上、英語以外にもデンマーク語やスウェーデン語も話すらしかったが)、かなり「ディープ」な話をした記憶がある。具体的に何を話したか漠然としか覚えていないのだが、例えば「この世に偶然はない」とか「意識下で我々はみな繋がっている」とか、日本的な文脈で言えばかなり「ぶっ飛んだ」部類に属する、当時の私が考えていたこととほとんど同じことを、オランダ人のトラックドライバーである彼が口にするのを聞いて、私は驚くとともにとても感激した記憶がある。

我々は無事ドイツに入国し、途中ブレーメンあたりでトラック運転手向けの家庭的なハイウェイ・レストランで休憩し、いかにもドイツらしい、ソーセージと卵とイモと野菜のプレートの食事まで奢ってもらった上、その日の深夜にはそのままオランダまで辿り着いてしまった。彼は、アムステルダムまで列車一本で行けるらしいある小さな町の駅前のロータリーまでその大きなトラックを乗り入れ、「今晩は妻(だかガールフレンドだか)が久しぶりに私のズボンを脱がすのを待ち構えているので、あいにくきみをうちに泊めてやることは出来ないんだ」とか言って、私を降ろしてくれた。私は彼に心から礼を言い、もはや電車の発着のない深夜の駅のプラットフォームのベンチで夜を明かすことにした。

【イギリス人青年の執念】
翌朝、私はたぶん駅員に起こされて目覚めた。チケットを購入して朝早い列車でアムステルダムまで移動し、今度はそこからロッテルダム方面に向けてヒッチハイクを始めた。ロッテルダムだがハーグのあたりからは、イギリスへ向けてフェリーが出ているはずであった。その行程で比較的長い間リフトをくれた男は、いかにもドラッグをやっていそうなハードコアなパンクファッションの男だった。私ははじめ彼を少し警戒していたが、外見を別にすれば彼の話すことはごくふつうで、おまけに妻も子もいるような話を聞いて、驚いたことを覚えている。

その日のうちにフェリーに乗り込むつもりであった私にはロッテルダムを観光する暇は無かったが、街の中を歩いて感じたのは、「ニューデリーのようなインドの都市を清潔にした感じだな」ということであった。きっと、街のつくりや建物の感じが似ていたのかも知れない。
いずれにせよ、私はたぶんロッテルダムあたりからフェリーの埠頭までの比較的短い距離を電車で移動し、日暮れ前にフェリー乗り場に着いた。ちょっとした小型の国際空港程度の規模のある比較的大きなそのフェリーターミナルで、その夜に出るフェリーのチケットを購入しようとして私が知らされたのは、「満席」の事実であった。私以外にも、イギリス人のバックパック旅行者やら、大阪出身だという日本人の男2人と女1人のグループの旅行者も、チケットを入手できずに途方に暮れていた。しかしもちろん、そこで諦めるような私ではもはやなかった。私は例の「ヒッチハイカーの友」である乗船待ちのイギリス人トラックドライバーを当たり始めた。ところが、彼らは北欧での時とはいささか反応が異なった。私が「多少の金は出すからさ、お願い」とか言って粘っても、「Well, I’m not supposed to.(ヒッチハイカーは決まりで乗せられないんだ。) 」とか言って、埒が開かないのである。
そのうち日が暮れ始め、大阪出身のグループはその日のチケットを諦めて宿を取るために市街に戻る決心をしたようだった。私とイギリス人ヒッピーは、もう少し様子を見るためにそこに留まることにした。このイギリス人ヒッピーの乗船への執念は凄まじかった。彼は私に言った。「もう一日だって我慢できない。一刻も早く国のガールフレンドに会いたくて気が狂いそうだ。意地でも今晩のフェリーに潜り込んでやる。」

我々の、というより彼の執念は実を結んだ。フェリーのチケット売り場に何度となく掛け合いを続けた彼は、フェリー出港の間際になって「キャンセル分」のチケットが売りに出され始めたことが判ったのだ。かくして我々は最後の最後になってフェリーに乗り込むことに成功した。彼の喜びようは、私がそれまでに知るポーカーフェイスのイギリス人の姿からは想像もつかないような、直接的かつ感情的な表現であった。

【ついにイギリス上陸、しかし...】
翌朝、私はかくして、ロンドンから北東に200キロくらい離れたハリッジかどこかからイギリスに上陸した。実を言えば私はその時、Y夫婦の電話番号を知らずにいた。彼の連絡先を得るための手段としては、唯一手元にあった彼の「大阪の実家」の電話番号だけが頼りであった。私は、リフトをくれたドライバーに降ろされたロンドン方面へ向かう途中のハイウェイの休憩所から、図々しくもコレクトコールで彼の実家に電話し、ロンドンの彼の電話番号を尋ねた。しかし驚いたことに、彼の両親は息子がどこに住んでいるのか良く分からない様子だった。母親から受話器を受け取った彼の父は受話器の向こうで言っていた。「あー、Yねえ、結婚してねえ、あーそう、ロンドンかどこかに住んでるのかねえ、うーん、全然連絡してこないんでねえ…。」

少なくとも私はYから受け取ったハガキだか手紙の封筒から、彼らの住所だけは知っていた。ロンドン近郊までこぎつけた後、私はどこかの道端で「アイルランド系の肉体労働者の群れを乗せたマイクロバス」にリフトしてもらった。そして、行き先としてその手紙の住所を彼らに見せたところ、彼らはなんとY夫婦のアパートの目の前で私を降ろしてくれた。

その日はたしか週末だったと思うが、アパートに友人夫婦は不在だった。そのアパートは紛れもなくYから受け取った手紙の住所と一致しており、しかも私は彼に「アメリカから遊びに行くこと」を事前に手紙で知らせていたはずなのだが、アパートはひっそりしていた。
どうしようか途方に暮れていると、このアパートの階下の住人が顔を出した。私は自分の薄汚れた格好や異様な風貌が不信感を抱かせることを心配したが、彼女は至って親切そうであった。私は「イギリス人女性と結婚した日本人の友人がたしかこの住所に住んでいるはず」で、自分が「彼らに会うためにアメリカから訪れた」ことを説明すると、彼女はアパートの部屋に私を招き入れ、茶を勧めてくれた。アパートの居間には彼女の夫が座っていた。彼も不思議と私の風貌に違和感を示す様子はなかった。

彼らの説明によると、このアパートはYの妻の兄のものであり、Y夫婦は渡英してからしばらくの間ここに居候していたらしいこと、そして最近アパートを見つけ引越した可能性があることが明らかになった。私はそんなこととは少しも知らなかった上に、イギリスには彼以外にやっかいになれそうな知り合いがいないことから、またしても途方に暮れてしまった。
すると夫婦は私に提案した。今晩アパートの上階に住むYの義兄が帰宅したら、Y夫婦の連絡先を聞いておいてあげるから、明日またうちに電話をしてきなさい。
私は夫婦に礼を言い、アパートを後にした。

【ロンドンで途方に暮れる】
行くあてのない私は、とりあえずロンドンの中心にあるビクトリア駅に移動し、駅前の花壇の縁に腰掛けて、頭を抱えていた。実はその時点で、私の所持金はたぶん100ドルを切っていた。つまり、当てにしていたYに会えないとなると、イギリスまでわざわざやって来た意味もなければ、開き直って観光をするにも足代や宿泊費がなかったのだ。アメリカに戻るために一旦アムステルダムまで戻るためのフェリー代を考えると、私はどこにも身動きが取れなければ、宿代さえ払う余裕がなかった。

日が暮れ始めた。私はその頃、駅周辺で野宿する腹をほぼ決めていた。しかしながら、ロンドンは私のようなヒッピー旅行者が野宿をするような街ではなく、実際駅のそばで野宿をしている人間がいるとすればそれは浮浪者であったし、それは決して安全な選択ではなかった。私はとりあえず駅のベンチやコンクリートに掛けてボーっとしたり、過ぎ行く人々を眺めて時間をつぶしていた。
すると、私と同年代らしいひとりの男が話し掛けてきた。怪しそうな人物ではなかったので、私は暇つぶしに会話の相手をした。話してみたところ、彼自身ロンドンの出身ではなく(たしかニューキャッスルの出身とか言っていたような気がする)、何かの用でロンドンに来ているらしかった。彼は、私が会いに来た友人と会えず、今晩は泊まるところがないことを知ると、私にある提案をしてきた。自分も今晩は泊まるところがないのだが、もし我々ふたりが宿代を半額ずつ出し合えば、安い宿に一部屋借りることができる。私の知っている宿は、1泊30ポンドくらいだから、ひとり15ポンド(約30ドル)足らずで泊まれる。
私は、この提案に非常に戸惑った。というのは、この男が落ち着いたごく誠実そうな人物である一方、話のタイミングが良過ぎて、何かのカモにされるのではないかという不信感があったためだ。私はためらいつつも彼の話の中味をいろいろと確認し、結局彼について宿に歩いて行くことにした。彼は体格も大きくなかったので、いざとなれば走って逃げるなり、腕力でも太刀打ちできそうであった。

彼に案内された宿は古びてはいたが、さいわい怪しそうな所ではなさそうだった。我々はツーベッドの部屋に通され、それぞれベッドに横になった。それでも私はまだこの男に対する不信感は解けず、すぐ眠る気にはならなかった。彼もすぐ眠る様子はなかったので、結果的に我々はベッドに横になったままでいろいろな話をした。話したことはたぶん、私が訪問しようとしているYについて、私が日本を出るまでの経緯、退屈な日本の大学生活や、自殺した親友のことなどであったと思う。
話しつづけるうちに、いつしか我々は眠りについていた。

【Yとの再会】
翌朝私は何事もなく目覚め、この男とともに宿をチェックアウトし、ビクトリア駅に移動した。この男は、ビクトリア駅の公衆電話から知人らしき誰かに電話を掛けて話をしていたが、電話を終えると「すぐ戻ってくるから、ここで待っていてくれ」と言い残しその場を去った。しかし彼はしばらく待っても戻ってくる様子はなかった。私は昨日のイギリス人夫婦に電話し、運良くもY夫婦の電話番号をつきとめた。話によると、Yの義兄は旅行中か何かで留守であり、たまたま彼のルームメートがY夫婦の引越し先を知っていたために、何とかその番号を知ることが出来たらしい。
私はすぐにYのアパートに電話をした。はじめに電話を取ったのはYであったか、その妻であったかは記憶にない。とにかく覚えているのは、電話に出たYが、私がロンドンに居ることに大して驚いた風でもなければ、感激しているといった様子でもなかったことである。彼は、とりあえず私に家に来るように言った。最寄の地下鉄の駅名を尋ねると彼は私に言った。「タクシーで来て。代金は俺が出すから。金は心配しなくていいし。今、そこそこ実入りはいいんだ。」

タクシーで15分くらい走ったロンドン郊外のアパートの前で、Yは私の到着を待っていた。

Yは日本の大学の美術サークルの1年後輩で、私と同い年であったが、当時はまだ私を学生時代の延長で「さん付け」で呼んでいた。彼は大学では「国際政治学」専攻であったが、もともと第一志望は「美術系の国立大学」で、一浪後、共通一次試験が1000点満点だった当時に900点近くを取っていながら、二次試験の実技で落とされてしまい、私の在籍していた私立大学に入学したという変り種であった。その後彼が大学2年、私が3年生の時に同じ美術サークルに入部してきた2人の後輩と4人で「殿様の生活」という名前のハードコア・バンドを組み、Yのボーカルの奇矯な歌詞と絶叫パフォーマンス、私の基礎を無視した渾身のドラムス、そしてルックスの良い2人の後輩のギターとベースが奏でる邪悪な音楽をして、彼が卒業して東京の大手建設会社に就職するまでの2年間、京都のアンダーグラウンドで自己陶酔のバンド活動を続けた仲であった。

1990年に彼が就職し、同年の暮れに私が留学のために渡米してから、再会するのはこれが初めてであった。渡米後、私は彼に3~4通の手紙を出していたはずだが、しばらくの間彼からは返信がなかった。そして、渡米後1年半近く経って彼から初めて送られてきた手紙は、いきなりこんな文面であった。「私は今、イギリス人のHちゃんととても愛し合っています。本気で結婚を考えています。カメイカさんはアメリカの大学で楽しい生活を送っているかもしれないけど、私はHちゃんとラブラブ・ハッピーです。」
その後、何ヶ月かして届いた手紙には、彼が退社して「Hちゃん」と渡英して結婚することを決心したこと、イギリスへ向かう途中に東南アジアでバケーションを取るつもりであること、などが記されていた。最後にもらった手紙はイギリスからで、日本での勤務先の同業他社に仕事の口が見つかりそうな話であった。

私が彼のアパートに到着した時はすでに昼食の時間だったが、初めて会うその妻の「Hちゃん」はまだ寝間着のままであった。Hは香港に1年くらいと東京に数年、英語を教えながら生活していたそうで、上手な日本語を話した。それでも「イギリスではYとは英語でしか話さないようにしている」そうで、Yが彼女に日本語で話し掛けると彼に「English!(英語で!)」と注意を促し、あえて英語で応えていた。
YとHはたしかに「ラブラブ」らしかった。テーブルに飲み物を置くとか、席を立つとか、ちょっとした動作ごとにいちいちキスをしていたような記憶がある。私はその時点でアメリカに1年半も暮らしていたので「いちいちキス」には馴れていたが、日本にいた時はどちらかと言えば「夫唱婦随」的なYが鼻声で妻に呼び掛け、べたべたしている様子には何か落ち着かないものを感じた。

【失言-"I hate him…"】
その日しばらくの間、Hは自分に気兼ねせずに我々が心置きなく日本語で話せるよう、なるべく我々ふたりとの同席を避けているようであった。それでも、夜になってYが作った夕食(Hは「私は料理が下手だから、いつもYが調理し、私が食器を洗うの」と言っていた)を一緒に食べる席になると、我々3人はようやくそろって英語で話すことになった。我々の話はいつしかふたりの「馴れ初め」に及んだ。ふたりはどうやらYがよく訪れていたいわゆる「外人向けバー」か何かで知り合い、そのうち気が付くとカバンに荷物を詰めたYが会社の寮からHのアパートに転がり込み、同棲を始めていたらしい。やがて、会社と日本での生活に居心地の悪さを感じていたYと、日本語の上達がそろそろ頭打ちに来ていると感じ帰国を考え始めていたHの双方の条件が一致し、「じゃあ、ふたりでイギリスで暮らそうか」という話になったという。

どういう訳か、あるいはもしかするとそんな話を振った張本人は私であった可能性もあるが、3人の話はやがて「セックス」に及んだ。Hは、3人兄姉の父親がすべて別人物であるという複雑な家庭に育ち、アーチストの兄はゲイで、姉は「病気のために女性器を切除したが、結婚する時に整形外科手術によって『人工性器』をつけ」たのだが、いかんせん人工なので「何も感じない」のだと言っていた。末っ子の彼女自身はピューリタン道徳的な意識の乏しい、至ってリベラルな考えの持ち主のようであった。いつしか彼女は、自分の15歳での初体験の話や、日本で痴漢にあった体験や、Yと出会うまでに付き合った、アジアに住んでいた時のボーイフレンドたちについて語り始めた。「Yと出会う前に東京で付き合っていた男は保守的な日本人男性で、いくら私が断っても食事や交通費だのを私の分まで当然であるかのように払った。」「ある日ふたりでホテルに入り、彼が下着を脱ぐと、彼のペニスはこーんなに小さかった」。「香港人のボーイフレンドも小さかったし、Yのも『レギュラー・スモール』だが、彼のは『ほんとにほんとに』小さかった」そう言いながら彼女は人差し指と親指の間を2センチくらい開けて示して見せた。

隣に座るYは、妻の豊富な性体験や『レギュラー・スモール』発言に、明らかに顔をつぶされたという表情をしていた。
私は知っていた。Yはルックスも頭も良かったし、日本にいた時は英語学校だのサークルだの幅広い活動をしていたので、女友達が複数いたが、決して性的に積極的な男ではなかった。バンドを始めた頃に付き合っていたAちゃんとは性関係があったようだが、それまでの20余年間、彼は童貞であった。これは彼自身が以前そう言っていたのだから間違いなかった。
しかし、妻の手前、彼は自分自身の性体験について、事実とは違う話をし始めた。例えば、彼が10代の頃から女性といろいろな実験を試みたような話を。

それを聞いていて、私はつい、彼の話を早口の英語でさえぎった。おい、違うだろ、我々が出会った20歳の頃、おまえは童貞だったよな。たしか初体験はあのAちゃんだったはずだよな。
そこまで一気に言って、しまった、と思った。
はじめは私の発言に反駁を試みようとしていた彼はすぐに押し黙り、表情が変わり始めた。例の、カッと見開いたマジな目を剥いて、口だけ笑っているあの「ヤバい」表情である。
彼はその表情のまま、私を見つめてつぶやき始めた。「I hate him… I hate him…(彼が憎い…。…彼が本当に憎い…。)」彼の目には涙が浮かんでいた。
すかさずHが割って入った。「Oh, poor Y. It’s O.K., it’s O.K.(可愛そうに、Yったら、大丈夫、大丈夫)」Yの頭を抱いて、頬をさすり始めた。
その後、たぶんHは私に向かって罵り始めたように思う。
その晩は気不味い状態で会話を終え、彼らは寝室に入り、私は居間のソファで眠った。

それでも私はY夫婦のアパートに計3晩くらい泊めてもらったであろうか。
翌日の日曜日は我々は機嫌を直し公園で3人でバドミントンをしたり、夜はHの知り合いのバンドがプレーするライブハウスに行ったりした。
翌々日は彼らが仕事に行っている間に、私は日本の大学4年時に短期留学したことのある、ロンドンから鉄道で1時間くらい南下したイーストボーンという街を3年半振りに訪問した。隠居した老人とこどもばかりで、その間の若い世代が見当たらないこの海岸ののんびりした小さな街は、この3~4年の間に何も変わっていなかった。しかし、私が4ヶ月くらい通っていた語学学校を訪れたところ、もはや知っている先生及びスタッフは2名しか残っていなかった。それでもどちらも私の名前を覚えていて、私の「アメリカなまり」の英語を冗談半分に嘆いていた。

【塀と、置き忘れられた1ダースのクシ】
さて、KとY夫婦のもとを訪問するという二つの目的を消化したその時点で、時は8月中盤になろうとしていた。大学の秋学期の開始はたしか8月20日頃であったし、私の所持金ももはやアムステルダム空港まで到達するのがやっとというところまで減っていたので、私はイギリスを発つことに決めた。

翌朝、私は出勤するY夫婦とともにアパートを出、鉄道だったかヒッチハイクだったかその組み合わせだったか忘れたが、とにかくアムステルダム方面へのフェリーの出る港まで移動した。
しかしその日、フェリーはまたしても「満席」であった。そして、今回は出航ぎりぎりまで待っても「キャンセル」は出なかった。私を含め、フェリーからあぶれた10人くらいの若い旅行者の男女がフェリーを見送るハメになった。そしてそのうちの何人かは、翌日まで野宿を決めたようであった。

我々野宿組は、とりあえず屋根のあるところで雑魚寝の準備をしていたが、あれは夜の10時頃であったろうか、フェリー埠頭の鉄道駅の駅員だったかフェリーターミナルの職員だったか忘れたが、制服姿の中年男が自宅への帰り掛けに通り掛かり、「今晩泊まる所がないんだったら、うちに泊まってもいいよ。」と声を掛けてきた。我々は顔を見合わせて、この見知らぬ男の好意に応えるべきか否かを思案し、うち何人かはこの男を無視する腹を決めていたようであったが、私を含む数人(たしか私とイギリス人女性二人組)は思い切ってその好意を受けることに決めた。自分ひとりだったらまだしも、自分以外にも誰かいれば大丈夫だろう、という判断があったに違いない。

この男の車に乗せてもらったものか、徒歩であったか記憶にないのだが、着いた彼のアパートはいかにも独身男らしい雑然とした住いであった。彼は、我々を安心させる目的だったのだろうが、「これまでにうちに泊まっていった旅行者が残していった品物の数々」だといって、1ダースもあるいろいろなデザインの汚れた櫛だとか、衣類の数々だとかを見せてくれた。どうやらこの男は、フェリーにあぶれた旅行者たちに声を掛けては、いつも好意で泊めてあげているらしかった。おまけに彼が庭の向こうを指して言うことには、彼の隣の家ではいつも妙な旅行者を複数泊めている隣家を警戒して、最近頑丈そうな塀を立ててしまったということであった。我々3人は、顔を見合わせてにっこり微笑み、その時点でようやく彼に対する警戒心を解いたのであった。

果たして、翌朝無事に目覚めた我々は、この親切な中年男の用意した朝食をごちそうになり、アパートを後にして無事その日のフェリーに乗船した。

【アムステルダム駅前の闇鍋】
フェリーには、ヨーロッピアンを主とする私のような貧乏な若い旅行者がたぶん20人は乗船していた。乗船中に話をしたそんな旅行者たちの中で覚えているのは、年季の入ったオランダ人バックパッカーのカップルや、4、5人のグループで移動しているイタリア人の若い男女、そしてこの後アムステルダムでサバイバルのために助け合うことになる旧東ドイツ出身の若者である。この若者はたしかまだ20歳になるかならないかの年齢で、友人と二人でイギリス北部を自転車で周遊していたらしい。ところがその友人が旅行中に事故で自転車を大破させてしまい、帰国を余儀なくされてしまったため、残りのルートをひとりでツーリングし、ようやく大陸への帰途に着くところであった。

前述したように、私はすでに余分な金がなかったため、アムステルダムに到着次第すぐアメリカに発つつもりで、すでにフェリーの中から航空会社やチケット会社にフライト確保のために電話しまくっていた。しかしあいにく、オランダに到着し下船する時点ではまだ席を得ることはできなかった。

私はアムステルダムの中央駅までこの旧東ドイツの青年とともに移動し(彼は何かの用でアムステルダムに少し滞在した後、鉄道でドイツに帰るらしかった)、あとは空港のチケットカウンターで直談判すれば何とかなるであろうとの考えから、即座にひとり空港へ向かった。「直談判すればなんとかなる」というのは、様々な困難にもめげずそれまでの行程を何とかクリアしてきた私のささやかな信念ではあったが、あいにくこの時ばかりは事情が違った。航空会社のカウンターのおばさんは、私の必死の懇願に対し頑なに空席のないことを主張し、「搭乗時間ぎりぎりになれば、キャンセル待ちのチケットが手に入るなんていうのはおとぎ話よ。待つなら勝手にしたら。」などと冷たく言い放つのであった。私は言われたとおりその日の搭乗時間ぎりぎりまで粘ってやはり空席のないのを確認し、さらに空港のベンチで一夜を明かして翌日も搭乗時間までキャンセルを粘ったが、まったく前日と同じ状況であることを知った。カウンターのおばさんは言った。「だから言ったとおり、向こう5日は空席はないんだから。」私はようやく諦めて、一旦アムステルダム中央駅に引き返した。

その時期のアムステルダム中央駅は、金がないか、あるいは満員のホステルからあぶれたヒッピー系の若い旅行者で溢れていた。「溢れていた」というのは決して誇張ではなく、駅舎の中はもちろん、駅の周りにも毎晩50~100人近いの旅行者どもが寝袋に包まって寝起きしているのだった。私も帰りのフライトが見つかるまで、この野宿野郎どもの群れの中に紛れて野宿するしか選択肢がなかった。そして、この野宿野郎の群れの中には、フェリーで出会った旧東ドイツの青年が居た。

私はそれから何日かの間、日中は航空会社とチケット会社に交互に電話して空席状況を確認し、あとは金がないのでどこを訪れることも出来ず、駅にバックパックを預けて駅周辺や公園でただボーっとして過ごさざるを得なかった。
私の金不足は実に深刻だったが、まだアムステルダムに到着して最初の2日くらいは食パンとジャムとか牛乳を買うことが出来た。そして、私はそれを例の東ドイツ青年や、たまたまその場に居合わせたほかのヒッピー野郎どもと分け合って食した。今でも覚えているのは、駅前で野宿をはじめて2日目くらいの晩であったか、すっかり暗くなった駅前の埃っぽいコンクリートの上で、私と東ドイツ青年は食べ物を分け合ってささやかな晩餐を開こうと、缶詰や食パンを地面に並べ、彼のキャンピング用のガスコンロとなべで湯を沸かそうとしていた。すると、近くに居たフランス人の2人のヒッピーどもや、どこから現れたものかオランダ人の美人のお姉ちゃんが寄って来た。彼らも多少の食べ物を提供し、我々と食事を分け合う用意があるらしい。我々はスープを作るつもりであり合わせの野菜やら何やらをなべに入れようとしていたが、このフランス人ヒッピーどもは何やら干からびた植物をカバンだったかバックパックから取り出すと、ダシだかスパイスだとか言ってへらへら笑いながらなべの中に放り込んだ。このフランス人の2人組は、とにかく始終ふたりしてへらへら笑っていた。この干からびた植物とは、ほぼ疑いの余地なくマリファナの葉か何かに違いなかった。おかげで、この日の晩餐は野宿のみじめさも忘れ、陽気でにぎやかなものになった。

【どうする?-とんだ“プロポーザル”】
東ドイツの青年は、駅周辺での最初の数日をともにした後、自国からの送金を受け取ったか列車のチケットを入手できたようで、アムステルダムを後にした。そして私は依然フライトが取れず、おまけにいつしか食パンを買う金さえなくなっていた。私は1日せいぜい1ドル分程度の予算で「キットカット」のたぐいのスナックを駅の自販機で買って食べることで、何とか飢えをしのいでいた。いや、1日何回かキットカットを齧るくらいで飢えを凌げるはずはなく、夜は空腹のためろくに眠れず、昼は駅周辺を徘徊する元気さえなかった。

ある晩、私は駅構内のすでに閉店した店のショーウィンドウの前にひざを抱え、飢えと戦っていた。もうフラフラで、立ち上がることもままならなかった。
すると、ある中年紳士が近寄ってきた。オランダ訛りの目立たぬ流暢な英語で、タバコの火を貸してくれと言う。私のライターでタバコに火をつけたこの身なりの良い中年紳士は、駅で寝起きしている私の境遇を聞き出し、同情したようであった。
「良かったら、コーヒーに付き合わないか。奢ってあげるから。」
その時私の頭には、例の「見ず知らずの人間の好意に対する不信感」が首をもたげつつあった。私は少しためらったが、それでも私の空腹は「タダのコーヒー」の誘惑に抗う力を失っていた。私は男の後ろにふらふらと付いていった。

男は駅から100メートルと離れていない、運河沿いのカフェに入った。テーブルに就くと、男はコーヒーとちょっとしたスナックをオーダーした。私は運ばれてきたコーヒーに、ミルクと砂糖をたっぷり入れ、惜しそうにちょっとずつ啜り始めた。はじめ我々は旅行の話や、日本の話などをしていたと思うが、彼が私にこんな話を切り出すまでに、大した時間は掛からなかったと思う。彼のその提案とは、こうだった。きみが今、金も帰りのフライトも寝るところもなく、困窮していることはよくわかった。そこできみに提案(たしか彼は「Proposal」という単語を使った)がある。これから一緒に私の家に来なさい。寝心地のいいベッドもうまい食べ物もある。ただしこれには交換条件がある。私の目の前でマスターベーションをして見せて欲しい。(これを聞いた時私は我が耳を疑った)。見せるだけでいい。私はそれを見ているだけだ、きみに触ったりはしない。---そう、この中年紳士は、それが目的で私に声を掛けてきたのであった。
この提案を聞いて、私の瞬間的な反応は「まさか。」であった。人前でマスターベーション、しかも中年のオッサンの前で、である。一方で、過去数日間駅前のベンチやコンクリートの上で浅く短い睡眠をとり、数切れの食パンと牛乳やスナック菓子で飢えを凌いできた私は、彼の言う「寝心地の良いベッド」や「うまそうな食べ物」をつい反射的に頭に描いてしまっていた。私がすぐさま断定的に「ノー」の返事をしないことを、彼は見逃さなかった。彼は、「食べ物」と「見るだけ、触らない」を繰り返し強調した。
しかし私の理性は、私にこう訴えていた。まず、いくら身なりの良い紳士だと言っても、一旦部屋に引き入れたが最後、変態趣味の(たぶん)独身中年が、外国にひとりで居るおまえの身をどうするかなんて知れたことではない。そもそももし彼が「手を出そう」とした時、空腹なおまえに抵抗する元気があるか。答えはノーだ。それに現実問題、おまえに今マスターベーションをする元気があるか。これも答えは明らかにノーだ。
私はコーヒーの礼を言い、彼の申し出を丁重に断った。彼は、席を立ちながら、私から期待した返事がもらえなかったのは残念だが、飢えた旅行者にせめてでもコーヒーを奢るという善行を行ったことに満足している、などと言っていた。

【領事館から金を借りる-パリの日本人】
次の日、航空会社とチケット会社の両方に電話した私は、向こう数日アムステルダム発アメリカ行の便には空席の望みが薄いことをあらためて聞かされた(何んせたった160ドルで入手した、制約だらけのチケットである)。しかし、チケット会社からは「パリ発の便であれば、空席の見込みがある」との情報を入手した。もはや駅でこんな生活を続けるのはこれが限界であった。それに、このままでは大学の秋学期が始まってしまう。私は決心した。パリへ移動しよう。私はパリまでの長距離バスの片道料金が60ギルダーやそこらであることどこかから聞き出していた。
もちろん、その時私には長距離バスのチケットを買う60ギルダーはおろか、スナック菓子を買うお金さえ無くなり掛けていた。そんな私に残された最後の手段は「日本領事館から金を借りる」ことだった。実は「領事館からの借金」という手段は、ほかの旅行者から一度提案されたこともあり、頭のどこかにはあった。それでもそのオプションを実行しなかったのは、領事館から金を借りればおそらく請求書は私の「実家の住所」に送られ、結果的に私が夏学期に講義も受けずにヨーロッパを放浪していたことが親にバレてしまうことを避けたいがためであった。
しかしいまや「生きるか死ぬか」「ホモの中年前でマスターベーションするか否か」という究極の状況にまで追い詰められた私に、もはや選択の余地はなかった。

その日はたぶん休日であったのかも知れないが、私はツーリストインフォメーションかどこかでその所在地を聞き出した日本領事館へ、アムステルダムを発つヒッピー旅行者から譲り受けた市内交通の「回数券」を使って訪れた。
到着した領事館の受付で私がオランダ人職員から告げられたのは、ある限度額以上を借りたいのであればまた翌日来なさい、しかし限度額で良ければ、今この受付で貸してあげましょう、ということであった。---果たしてその限度額とは、私の記憶が正しければ60ギルダーとか100ギルダーとか、---つまり、パリまでのバス代の片道分丁度くらいか、それに毛の生えた程度の額であった。私は、もうパリまでのチケットを買う金さえあればもうほかに何も考えられなかったので、その限度額を受け取り、借用証らしき書類にサインし、礼を言って領事館を後にした。

私はたしかその日のうちにアムステルダム郊外の長距離バス乗り場まで移動し、何らかの理由で(空席がないとか、その日のバスがもう出たとか)その日のパリ行きバスには乗れず、その晩はそのバス停のベンチで寝た。そして、その翌日ついにパリ行きのバスに喜び勇んで乗り込んだ。バスに乗り込む前に、アムステルダムにバスで到着したばかりのヒッピー旅行者に、私自身が別の旅行者から譲り受けた例の「回数券」を譲り渡して。

バスはベルギーへの国境を越え、アントワープかブリュッセルの街中を通り、やがてフランス国境を越えて、夕方にはパリに着いた。私はその日の飛行機に乗れる可能性が無いのを承知で、バスを降りるとすぐにシャルル・ドゴール空港に直行した。パリにはイギリス留学中にほんの2日程度滞在したことがあったとは言え、いずれにしてもその時の私にはパリを観光するなどという精神的余裕も経済的余裕もまったくなかった。空港に向かう途中にあった出来事の唯一の記憶は、何らかの乗り物で同乗した(イギリス留学中らしい)日本人旅行者のグループがすぐイギリスに帰る予定であると聞き、パリの公共交通機関に共通で使える「カルネ」というコインを譲ってもらったことである。「カルネ」を譲ってください、と私が頼むのを、「カネ」を寄越せ、と聞き間違えた彼らは、旅先で一緒になったこの怪しい風貌の日本人に一瞬警戒の色を濃くしていた。

【ドゴール空港のコジキ】
シャルル・ドゴール空港に到着後、私はそこでたしか2泊かそこらを過ごした。もちろん、寝起きしたのはベンチの上である。
空港に到着した翌日に電話したチケット会社から、私はその翌日に空港ターミナルでニューヨーク行きチケットを渡すことを告げられた。私の財布にあったその時の全財産はおそらく日本円に換算して1000円に満たなかったはずである。ご存知のとおり、空港内の物価は空港の外の1.5倍はする。飲み物が200円、サンドイッチひとつがゆうに300円はしたはずだ。無論今さらパリ市内に戻る交通費はなかったので、ようやくアメリカに戻れる見通しがついたとは言え、私のヨーロッパ最後の数日間はまたしても「キットカット」を齧って飢えを凌ぐハメになった。

ドゴール空港で寝起きしていた時には一度えらい目にあった。ある日、することもなくベンチで時間をつぶしている時、驚いたことに「乞食」が現れた。街中で乞食を見ても驚かない。しかし、ごく近代的で清潔な建物であるシャルル・ドゴール空港のターミナル内に、肩まで届く蓬髪で、薄汚れた顔をし、ボロを身にまとった男が、ゴミひとつなさそうな空港のリノリウムの床の上をはだしでペタペタと歩きながら、私の方に両手の手のひらを上に向けて突き出し、「マネーマネー。」と言いながら近寄って来たのだ。慌てながらも、私はたぶん英語で彼に言った。金が欲しいのは俺の方だ。おまえにやる金なんてない。冗談はよせ。--私の言うことを理解したのか、乞食はその場を後にし、入り口の向こうへと戻って行った。それにしてもドゴール空港の警備員は乞食を空港のターミナルから退場させる権限を持っていないのか、それともそんなことにそもそも興味がないのだろうか。悪臭を放ち金をせびって周るこの男に誰も文句を言わないらしいことが、私には不思議であった。

さて、私の言う「えらい目」はその日の夜の間に発生し、次の朝に発覚した。
朝、目を覚まし、トイレに行こうとベンチから身を起こして靴を履こうとすると、床の上には何もなかった。まさか空港で靴を盗む者もあるまいと思い、寝る前にベンチの下に脱ぎ捨てていたものが、盗まれていたのである。私の頭にすぐ浮かんだのは、昨日の「乞食」である。過去1ヶ月余りに及ぶヒッチハイクと野宿の積み重ねで汚れかつ痛んでいたはずの二束三文のスニーカーを、盗もうという気になる人間がいたとすれば、それは「靴を持っていない人」以外には考えられなかった。私はこの乞食を見つけたら、ぶん殴ってやろうと思った。
さいわい、私はその靴をアメリカを発つ前にニューヨークかどこかで買った際、その時に履いていた古い靴を捨てようか否かさんざん迷った末結局バックパックの底に入れていた。この貧乏性のおかげで、私ははだしでアメリカに上陸するという最悪の事態を免れた。

【エールフランスのヒッピー乗客】
パリを発つ前の日、チケット会社のエージェントが約束どおり空港ターミナルに現れた。現れたのはエージェントの男だけではなく、私と同じようにこの会社の安チケットでヨーロッパに渡り、アメリカに帰ろうという10数人のアメリカ人を中心とする若者たちも指定された場所に集まっていた。うち何人かは、私と同じように、帰りのフライトがとれずに過去数日ヨーロッパで足止めを食っていたようであった。私はアメリカ英語に囲まれただけで、もう半分アメリカに戻ったような気がしていた。

我々が搭乗したのは、エールフランスのいわゆる「臨時便」であった。その前日だか前々日のニューヨーク行きの定期便が何らかの理由で欠航し、この臨時便が用意されることになったのであったが、それを待つ余裕のない乗客は別のフライトですでにアメリカに帰ってしまったために、われわれ「エアヒッチ」旅行者にその大量の「空き」が回ってきた、というわけである。
そのフライトはたしか深夜遅くか早朝にパリを発った。我々が「正規のルート」でチケットを購入した乗客ではなかったからであろうか、実際に出国手続きを済まして搭乗するまでに我々エアヒッチ旅行者だけが空港のターミナルをあちこち連れ回され、テイクオフの時間さえ知らされずにやたら長い間待たされた記憶がある。
このエアヒッチ仲間で記憶に残っているのは、待ちぼうけを食わされている間にクッキーを分けてくれたフィラデルフィアの大学に通っているというアメリカ人男性と日本人女性のカップルと、国を後にしてすでに何ヶ月も旅行しているという、昨日の「乞食」さながらに薄汚れた蓬髪のオーストラリア人である。このオーストラリア人は、どちらかと言えばやや社会的に上層の人たちを主な乗客とするエールフランスのジャンボジェットに、ボロ同然の格好で搭乗し、席に着くなり靴と靴下を脱ぎ、周囲に臭いを放っていた。さらに、機内食が配られるとスチュワーデスに遠慮のない思いっきりのオージー訛りで追加のスナックやら飲み物を注文しまくっていた。

【間に合った新学期】
果たして、私はアメリカに生還した。
アメリカは私にとって留学先の「異国」であったはずだが、ニューヨークに到着した時、私は「家に着いた」と感じた。アメリカに留学したばかりの頃、すでにそれまでにヨーロッパ各国を見て周っていた私は、アメリカが洗練を欠いたダサい国であると感じ、居心地の悪い気持ちを抑えきれなかったものだが、その時はじめて日本よりアメリカが恋しいと感じる自分を自覚した。

私はノースキャロライナに戻る前に、ニューヨークに一泊くらいしたかも知れない(夏の間実家に帰っていたニューヨーク出身の大学の友達の家に電話した記憶があるので、きっとそうだ)。私はさすがにニューヨーク市内からヒッチハイクを開始することに危険を感じたので、グレイハウンド・バスでフィラデルフィアだかワシントンDCまで移動し、そこからヒッチハイクを開始した。そこからのヒッチハイクは楽勝だった。フィラデルフィアだかワシントンDCからリフトをくれた黒人のおっさんとは、仕事からの帰宅途中だったか、日本の性風俗産業について1時間くらい話をする程度の距離しか移動できなかったが、そこからリフトをくれたヒスパニック系の紳士は国道95号線をマイアミまで南下する途中であったため、95号線とシャーロット方面に向かう85号線との分岐点まで一気に乗せてくれた。彼の話によると、この紳士の娘は私と同年齢で、学生時代に良くヒッチハイクで帰省したり旅行したりしていたらしい。したがって、彼自身もヒッチハイカーを見るとつい親切にしてあげたくなるということであった。彼はアメリカにおけるヒッチハイクの危険性についても触れ、娘が事件に巻き込まれなかったことを非常に幸運に思うといったことを語ったが、それに対し私はお世辞のつもりで「私も過去1ヶ月以上いろいろな国をずっとヒッチハイクで周りましたが、たぶん『良い人間は良い人間を引き付ける』ものなのではないでしょうか。」などと言っておいた。彼はその私の意見に納得していた。

彼が私をノースキャロライナのローリーだかダーラムで降ろしてくれた時、すでに日は暮れていた。私はヒッチハイクを諦め、たまたま街中でリフトをくれた南部紳士にグレイハウンドのバス・ディーポまで乗せてもらった。シャーロット行きのバスは翌朝までなかったので、私はその旅最後の夜をバスディーポで過ごした。私は翌朝一番のバスに乗り、往路ではヒッチハイクで6時間以上は掛かったであろう道程を約2時間で踏破し、朝靄に煙るシャーロットの大学のキャンパスに帰還した。秋学期開始のたった2日前であった。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: