【失言-"I hate him…"】 その日しばらくの間、Hは自分に気兼ねせずに我々が心置きなく日本語で話せるよう、なるべく我々ふたりとの同席を避けているようであった。それでも、夜になってYが作った夕食(Hは「私は料理が下手だから、いつもYが調理し、私が食器を洗うの」と言っていた)を一緒に食べる席になると、我々3人はようやくそろって英語で話すことになった。我々の話はいつしかふたりの「馴れ初め」に及んだ。ふたりはどうやらYがよく訪れていたいわゆる「外人向けバー」か何かで知り合い、そのうち気が付くとカバンに荷物を詰めたYが会社の寮からHのアパートに転がり込み、同棲を始めていたらしい。やがて、会社と日本での生活に居心地の悪さを感じていたYと、日本語の上達がそろそろ頭打ちに来ていると感じ帰国を考え始めていたHの双方の条件が一致し、「じゃあ、ふたりでイギリスで暮らそうか」という話になったという。
それを聞いていて、私はつい、彼の話を早口の英語でさえぎった。おい、違うだろ、我々が出会った20歳の頃、おまえは童貞だったよな。たしか初体験はあのAちゃんだったはずだよな。 そこまで一気に言って、しまった、と思った。 はじめは私の発言に反駁を試みようとしていた彼はすぐに押し黙り、表情が変わり始めた。例の、カッと見開いたマジな目を剥いて、口だけ笑っているあの「ヤバい」表情である。 彼はその表情のまま、私を見つめてつぶやき始めた。「I hate him… I hate him…(彼が憎い…。…彼が本当に憎い…。)」彼の目には涙が浮かんでいた。 すかさずHが割って入った。「Oh, poor Y. It’s O.K., it’s O.K.(可愛そうに、Yったら、大丈夫、大丈夫)」Yの頭を抱いて、頬をさすり始めた。 その後、たぶんHは私に向かって罵り始めたように思う。 その晩は気不味い状態で会話を終え、彼らは寝室に入り、私は居間のソファで眠った。