
裁判員制度が始まるが、日本国民はそれだけの良識を発揮できるだろうか。それが問われるのでもある。公正な判断ができるだろうか。犯罪はそう単純なものではない。裁判員の人格にもかかわる判断を迫られるのだ。確かにこれまでの専門家の判事の判断というものが、必ずしも市民感情と一致しな点はあっただろう。権力者に迎合した判決もしばしま見られた。それを引き戻すには市民の良識があってもいいだろうが、果して、それだけ国民は民主主義をはじめとする法の精神を身につけていると言えるかが問われもする。
・今朝、徒歩きをして、海の中道大橋を通ったが、幼い子供が3人飲酒運転の犠牲になったことで名の知れた橋でもある。献花台があり、いまでも献花が絶えない場所だ。献花台の場所は事故があった場所ではない。橋の雁の巣側の入り口に設置されている。歩いていると、舗道の上に花束が置かれていた。おそらくここが事故のあった場所だと知った人が置かれたのであろう。立ち止まって手を合わせる人が数人おられた。私も手を合わせてきた。犯人は自分の犯した罪をどう受け止めているのだろうか、と思った。こうして、誰か知らない人が、いまだに3人の幼子の死を悼む人がいるのだ。
・へ2・・・罪を憎んでひとを憎まずというが、犯したした罪をどれだけ認識しているだろうか。偶々運が悪かったと思うとすればば余りにも罪は深いだろう。相応しい罰とは、ただ重刑に処せればいいというものでもない。果して、国の機関は犯人にそのことを自覚させるだけの能力があるのだろうか。私は疑問を持っている。こころから、3人の死を悲しんでいる人たちがいることを忘れてはならない。それがひとのこころでもあるだろう。海鷲だろうか、周辺の空を高く飛んでいる鳥がいた。
>今朝の海の中道大橋で。8月25日が事故の日だ。