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串本・太地・紀の松島・那智の滝・熊野三山・熊野の古道(2024年5月3日~4日) 6
敦賀半島・中池見湿地・池河内湿原と加賀の旅(2022年5月) 5
安曇野ちひろ美術館・安曇野散策・無言館(2019年5月21~22日) 4
志度・屋島・高松・琴平・善光寺・丸亀城・銭形・父母ケ浜(2019年5月3~4日) 7
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43%の棚氷で体積減少 南極 温暖化主要な要因か最近25年間南極を取り囲むように分布する162の棚氷のうちの71で最近25年間に体積が減少したことがわかったと、英リーズ大学などの研究グループが米科学誌『サイエンス・アドバンシズ』(10月12日付)に発表しました。地球温暖化の影響による可能性が高いとしています。棚氷は、南極大陸を覆う氷床から延びて周辺の海を覆っている氷です。棚氷が存在することで、氷床が海へと流れこむのを遅らせる働きがあります。研究グループは欧州宇宙機関(ESA)の地球観測衛星が撮影した10万枚以上の画像を解析し、162の棚氷の体積の増減を調べました。その結果、約43%にあたる71の棚氷の体積が、1997年から2021年までの25年間に減少したことがわかりました。西南極(西半球)にある棚氷のほとんどで体積が減少した一方、東南極の棚氷では体積がほとんど変化しないか、増加したといいます。南極周辺の海底の水温分布。西南極(左側)の周辺では氷が解ける2度近くまで上昇しています(©Dr Benjamin Davison, University of Leeds)体積の減少が特に顕著だったゲッツ棚氷では1兆9000億トンの氷が失われ、パインアイランド棚氷も同じく1兆3000億トンの氷が失われました。体積が減少した棚氷で失われた量は約67兆トン、体積が増加した棚氷で増えた量は約59兆トンで、全体で約7兆5000億トン(東京ドームの約600万倍)の氷が減ったことになります。人工衛星がとらえたゲッツ棚氷(©European Space Agency)西南極で体積が減少した理由について研究グループは、海流によって暖かな海水が棚氷の下に流れ込んでいるためと説明。気候パターンの自然変動によるものであれば見えるはずの、回復の兆しが見られないことから、地球温暖化が主要な要因である可能性が高いと結論づけています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年10月16日付掲載南極を取り囲むように分布する162の棚氷のうちの71で最近25年間に体積が減少したことがわかったと、英リーズ大学などの研究グループが米科学誌『サイエンス・アドバンシズ』(10月12日付)に発表。体積の減少が特に顕著だったゲッツ棚氷では1兆9000億トンの氷が失われ、パインアイランド棚氷も同じく1兆3000億トンの氷が失われ。
2023年10月24日
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マヤ文明の貯水池 水の供給を持続可能にマヤ文明の貯水池は、長期にわたって大勢の人々に水を供給した自然で持続可能なシステムの原型だったと、米イリノイ大学のリサ・ルセロ教授が科学誌『米科学アカデミー紀要』電子版(9日公表)に報告しています。マヤ文明は、紀元前1000年ごろから16世紀にかけて、中米のメキシコ南東部からグアテマラ、ホンジュラスなどで栄えました。マヤ地域の各地に都市を築きましたが、水が豊富でないところも多く、そうした都市には大規模な貯水池が設けられました。西暦600年~800年に最大8万人が住んでいたとされる、グアテマラ北部の大都市ティカルには、90万立方メートルの水を蓄えられる貯水池がつくられました。1年の半分近く乾期が続く中でも、人々に飲み水と農業用水を供給することができました。貯水池に咲くスイレンの花を頭にかぶった王を描いたマヤ文明の容器=Courtesy the Bost on Museum of Fine Arts (www.mfa.org)貯水池には、ゼオライトという火山性の鉱物の砂などが、不純物や病原菌をろ過するのに使われたほか、水中の窒素やリンを吸収するアシやスゲ、ガマが植えられました。ゼオライトは30キロメートル離れた場所から運ばれました。貯水池は定期的に清められ、その際に出た泥や植物は畑の肥料として用いられました。ルセロ教授は、マヤ地域南部で集められた証拠によれば、貯水池は1000年以上にわたって機能し、西暦800年~900年の間の最も厳しい干ばつの時期を除いて水を供給し続けたと強調。将来の水需要に対処するための教訓となりうると指摘しています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年10月13日付掲載西暦600年~800年に最大8万人が住んでいたとされる、グアテマラ北部の大都市ティカルには、90万立方メートルの水を蓄えられる貯水池が。1年の半分近く乾期が続く中でも、人々に飲み水と農業用水を供給することができた。ゼオライトという火山性の鉱物の砂などが、不純物や病原菌をろ過。水中の窒素やリンを吸収するアシやスゲ、ガマが植えられ、貯水池は定期的に清められ、その際に出た泥や植物は畑の肥料に。
2023年10月14日
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プラレタリウムで無重力睡眠セミナー開催!無重力睡眠セミナーチラシ-1 posted by (C)きんちゃん【プラレタリウムで無重力睡眠セミナー開催】日時:10月21日(土)16:30~19:05場所:青少年科学館・ドームシアター対象:18歳~69歳の神戸市在住、在勤、在学の方で睡眠の悩みを抱えている方、睡眠に興味をお持ちの方定員:200名参加費:無料参加方法:WEB事前申込制2023年9月12日(木曜)9:00 ~ 2023年10月2日(月曜)23:59:59当日は大きめの手荷物をおみやげとしてお持ち帰りいただきます。なお、付属の専用バッグで簡単に持ち運びが出来ますのでご安心下さい。無重力睡眠セミナーチラシ-2 posted by (C)きんちゃん「ザ 爆睡!」”眠れない人 プラネタリウムに集まれ~” 素敵なおみやげ付き睡眠に問題があると勉強や仕事に支障を来たし、日々のパフォーマンスの低下につながるなど、日常生活に大きな影響を与えます。睡眠に関する学びとリラックスをご提供できるよう、寝具ブランド「テンピュール・シーリー・ジャパン」との共催で無重力睡眠セミナーを開催します。プログラム【睡眠に関する講演】 「寝具ブランドが教える正しい寝具の選び方」(テンピュール・シーリー・ジャパン) 「睡眠医学を学ぼう!」~身体と心の健康のために~ 講師:谷口 充孝氏(大阪回生病院副院長 睡眠医療センター部長)【眠りのためのマインドフルネス体験】 講師:池埜 聡氏(関西学院大学人間福祉学部社会福祉学科教授)【熟睡プラネタリウム視聴】(45分)マインドフルネスとは今、この瞬間の体験に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること。自然発生的に生じるネガティブな感情(マイナス思考)や痛みに支配されず、とらわれのない「こころのあり方」を育てるための具体的な方法をご提供します。僕自身は、睡眠に対しての悩みはありませんが、人生の3分の1から4分の1の睡眠時間。睡眠を医学の立場から学んでみたいですね。抽選なので当選すればの話しですが。当落の返事が来る10月4日~10日の間。まだ返事は来ていません。
2023年10月05日
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関東大震災100年 多様なタイプの地震② 房総沖で発生 活断層型も高い津波特殊な地下構造をもつ関東地方では、さまざまなタイプの地震が起こるとされています。大正関東地震と同じタイプの地震のほかに注目されるのが①千葉・房総沖を震源とする津波地震②関東地方周辺にある活断層による地震です。津波地震は、房総沖の浅い深度に位置する、太平洋プレートと北米プレートの境界で発生します(図1)。図1 千葉・房総沖の津波地震を引き起こすプレート境界のイメージ図海洋研究開発機構(JAMSTEC)の堀高峰・地震津波予測研究開発センター長は「津波地震の特徴は、揺れは弱いのに高い津波が発生することです。この震源域では現在、ひずみが蓄積されています」と指摘します。1677年の房総沖を震源とした津波地震では、陸上での弱い揺れ(最大震度2~3程度)に対し、津波の高さが4~8メートルに達したと考えられています。津波地震の対策として現在、房総沖には防災科学技術研究所の地震津波観測網(S-Net)が設置されています。観測データは気象庁による緊急地震速報や津波警報・注意報などに使われています。堀さんは「S-Netを使った情報をもとに地震や津波への備えができると考えています」と説明します。予測困難関東地方では、浅い地殻内にある活断層も多数あります。政府の地震本部の長期評価では、今後30年以内で、M6・8級以上の地震発生確率が3%以上の活断層を「S」、0・1~3%未満を「A」とランク分けしています(図2)。堀さんは「30年以内の確率の値が数%でも十分発生する可能性はある」と指摘します。図2 関東とその周辺域の主な活断層で、図に示す四つがSランクの活断層帯および活断層群(出典:地震本部『活断層及び海溝型地震の長期評価結果一覧』)堀さんは「どのような地震・津波が起こり得るかはわかってきていますが、いつ起こるかの予測は困難ですので、いつ揺れが来ても大丈夫なように、建物の耐震対策や室内の家具転倒防止策などを進めるとともに、津波からの避難への備えも進めていただきたい」,と力を込めます。震災後の浅草。「浅草十二階」といわれた凌雲閣(国立科学博物館提供)「超高層」など対策もさまざまこの100年で首都圏では、建物の耐震化などが進む一方、大正関東地震のときにはなかった高層建築物が急速に増加。都心部では、高さ60メートルを超える超高層ビルやタワーマンションが所狭しと立ち並んでいます。こうした高層ビルや高速道路、橋梁(きょうりょう)などの巨大構造物では、大きな地震の場合、2~20秒に1回といったゆっくりとした揺れ「長周期地震動」の被害が懸念されています。特に高層ビルは大きく長く揺れ、高層階の方がより大きく揺れる傾向があります。また地震が発生した場所から遠く離れていても、大きく長く揺れる性質があります。2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のときには、東京でも被害が発生しました。「高層階では、揺れの影響を大きく受けるため、コピー機や冷蔵庫なども移動したりします。また短い周期の地震では、木造家屋がよく揺れます」と堀さん。「さまざまなタイプの地震に対する耐震対策が重要です」(おわり)「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年9月16日付掲載1677年の房総沖を震源とした津波地震では、陸上での弱い揺れ(最大震度2~3程度)に対し、津波の高さが4~8メートルに達したと。津波地震の対策として現在、房総沖には防災科学技術研究所の地震津波観測網(S-Net)が設置。観測データは気象庁による緊急地震速報や津波警報・注意報などに使われて。この100年で首都圏では、建物の耐震化などが進む一方、大正関東地震のときにはなかった高層建築物が急速に増加。都心部では、高さ60メートルを超える超高層ビルやタワーマンションが所狭しと。特に高層ビルは大きく長く揺れ、高層階の方がより大きく揺れる傾向が。
2023年09月28日
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関東大震災100年 多様なタイプの地震① “大正の壊れ残り”の危険関東では、これまで1923年の大正関東地震と同じ震源域でマグニチュード(M)7~8級の地震が繰り返し起きてきました。また関東の地下は、世界でも特殊な構造であるため、専門家は「さまざまなタイプの地震が予想される」と警鐘を鳴らします。(原千拓)三層構造関東地方は、世界で最も地震の多い場所の一つです。その理由は、関東地方を載せた北米プレート(岩板)の下に、フィリピン海プレートが沈み込み、さらにその下に太平洋プレートが沈み込むという、複雑な構造になっているからです。フィリピン海プレートと太平洋プレートは、年間3~10センチメートルほどの速さで日本列島に近づいており、これらの境界部や内部では「ひずみ」が蓄積されています。ひずみが限界に達し、もとに戻る際の弾みで地震が発生します。こうした地震はプレート同士の相互作用で発生するため、関係するプレートが多いほど発生する地震の数も種類も多くなります(図1)。図1 関東の地下構造と地震が起こる場所(①~⑤)なかでも代表的なものが、大正関東地震と同じタイプの地震です。大正関東地震の震源域は、陸の北米プレートと相模トラフ(海溝)から沈み込むフィリピン海プレートの境界です(図1②)。同じプレートの境界で起きた1703年の元禄関東地震は、大正よりも規模が大きい地震だったと推定されています。図2 元禄関東地震以降の地震履歴(出典:地震本部『相模トラフ沿いの地震活動の長期評価』【第2版】)現在、懸念されている領域は、千葉・房総半島南端から沖合。これまでの観測や調査結果から、元禄では大きくすべった(破壊された)領域ですが、大正では、ほとんどすべっていません。震災後の銀座「西を望む 遠方に日比谷公園と帝国ホテルが見える」(国立科学博物館提供)活発化も海洋研究開発機構(JAMSTEC)の堀高峰(たかね)・地震津波予測研究開発センター長は「関東地震の“壊れ残り”であるこの領域ではM7級規模の地震が起きる可能性があると推定されています」と説明します。一方、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は、大正関東地震と同じタイプを除く、相模トラフ沿いを震源域とするさまざまなタイプのM7級の地震については、今後30年以内の発生確率を70%程度と予測。元禄関東地震から大正関東地震までの220年間を見ると、後半に地震が多く発生しています(図2)。地震本部は、今後、次の関東地震の発生に向けて地震活動が活発になる可能性があると警告しています。(つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年9月15日付掲載関東地方は、世界で最も地震の多い場所の一つ。その理由は、関東地方を載せた北米プレート(岩板)の下に、フィリピン海プレートが沈み込み、さらにその下に太平洋プレートが沈み込むという、複雑な構造になっているから。現在、懸念されている領域は、千葉・房総半島南端から沖合。これまでの観測や調査結果から、元禄では大きくすべった(破壊された)領域ですが、大正では、ほとんどすべっていません。海洋研究開発機構(JAMSTEC)の堀高峰(たかね)・地震津波予測研究開発センター長は「関東地震の“壊れ残り”であるこの領域ではM7級規模の地震が起きる可能性があると推定されています」と説明。
2023年09月27日
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「雪玉地球」にも生物いた 中緯度付近に証拠発見かつて地球全体が氷に覆われていた時代にも、生物は中緯度付近で生きていたことを示す証拠が見つかったと、中国地質大学などの国際研究グループが、4月4日付の科学誌『ネイチャー・コミュニケーションズ』に発表しました。遺伝学的研究などから、生命は40億年前ごろ誕生して以来途切れることなく現在の生物につながっていると考えられています。その間に何度か経験したとされる「スノーボール・アース(雪玉地球)」の時代にも生物が生き延びられる場所が広い範囲に存在したことを示すものとして注目されます。マリノアン氷期後期の地球の想像図。赤道付近と中緯度に氷が解け、海面が見えているところがあります(©DrHuyueSong)雪玉地球だった時代の一つが「マリノアン氷期」で、6億5400万年前から6億3500万年前まで続きました。研究グループは、中国中部の湖北省にあるマリノアン氷期後期に海で堆積した地層を詳しく調べました。その結果、海底に生息する藻類に似た化石が存在していたほか、海面付近の海水では酸素が豊富だったことを示す化学的証拠が見つかりました。マリノアン氷期の地球は赤道付近に筋状に氷が解けた場所があるスラッシュボールと呼ばれる状態で、生物が生き残ることができたとする説などが提案されています。今回、調べられた地域は、当時北緯30度から40度の中緯度に存在したとみられています。研究グループは、今回の研究結果が、マリノアン氷期後期には赤道付近だけでなく、中緯度にも生物が生きていける場所が存在していたことを示すものだとしています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年4月5日付掲載「マリノアン氷期」とは原生代の後期。まだ、多細胞生物が生まれる前の時代だが、すでに大気中には酸素が存在していた。全地球凍結という過酷な環境のもとでも、古代から生命が脈々と受け継がれてきたことに感動しますね。
2023年04月06日
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天気図を読んでみよう 空見上げるのが楽しく気象予報士・太田絢子さんおおたあやこ 愛知県出身。ウェザーマップ所属。気象防災アドバイザー、防災士。CBCテレビ「チャント!」に出演中。2月16日は「天気図記念日」。1883年のこの日、日本で初めて天気図が作成されたことに由来しています。今や毎日目にするようになったこの天気図、実は簡単に読み解くことができます。気象予報士の太田絢子さんに「天気図の読み方」を書いてもらいました。天気図はたくさんの線や記号のようなものが並び、専門知識がなければ読めないものと思われるかもしれません。実は簡単な読み方を知ることで、誰でも天気図を読み解くことができるようになります。一般的に天気図というと、テレビや新聞で目にする地上天気図のことを指します。地上天気図には、等圧線や高気圧・低気圧、前線などが描かれ、日本付近の大まかな天気の傾向が分かるようになっているのです。まず、等圧線は気圧が同じ地点を結んだ線のことで、1000hPa(ヘクトパスカル)を基準に細い実線は4hPaごと、太い実線は20hPaごとに引かれています。等圧線からは、気圧だけでなく風の吹き方も分かります。風は大まかに気圧の高いほうから低いほうへ吹き、等圧線の間隔が狭いところほど気圧の差が大きいため、風が強く吹くことが読み取れるのです。イラスト 『もっとすごすぎる天気の図鑑』(荒木健太郎/KADOKAWA)高気圧と低気圧この等圧線が輪のように閉じた、まわりより気圧が高いところを「高気圧」、低いところを「低気圧」と呼びます。高気圧では、上空から地上へ向かう下降気流がある一方、低気圧では、空気が集まったり温められたりすることで、上昇気流が発生しています。このため、高気圧では雲ができにくく晴れやすいですが、低気圧のあるところでは雲ができ、雨が降りやすいです。高気圧や低気圧の中心位置は「×」で示され、その周りに中心気圧の値が「hPa」で書かれるほか、進む方向や速度が記載されています。なお、「○hPa以上であれば高気圧」というように、高気圧や低気圧に数値の基準はなく、あくまでまわりと比べて相対的に気圧が高いか低いか、で決まります。前線は暖寒境目また前線は、暖気と寒気の境目に描かれます。性質の異なる空気が接するところでは、上昇気流が生まれるため雲が発生します。これにより、前線付近では低気圧と同じように、天気がくずれやすくなるのです。前線は、温暖前線、寒冷前線、停滞前線、閉塞前線の4種類に分けられます。温暖前線は、寒気よりも暖気の勢いが強く、暖気が寒気の上をはいあがることにより、横方向に乱層雲(雨雲)が広がります。このため、しとしとと長い時間雨が降ることが多いです。一方、寒冷前線は暖気よりも寒気の勢いが強いために、寒気が暖気の下にもぐり込むように進みます。すると、暖気は勢いよく上昇するため、縦方向に成長する積乱雲(雷雲)が発生します。このため寒冷前線が通過するときには一時的に狭い範囲で強い雨が降り、落雷や突風などの激しい現象を伴うこともあるのです。停滞前線は、暖気と寒気の強さが同じくらいのときに発生し、どちらにも動かずしばらく停滞します。日本に長雨をもたらす梅雨前線や秋雨前線もその一種です。閉塞前線は、進むのが速い寒冷前線が温暖前線に追いつくことでできます。地上天気図を見かけたら、ぜひご自身でも天気を予想し、答え合わせをしてみてください。空を見上げるのがより楽しくなりますよ。「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年2月15日付掲載等圧線からは、気圧だけでなく風の吹き方も分かる。風は大まかに気圧の高いほうから低いほうへ吹き、等圧線の間隔が狭いところほど気圧の差が大きいため、風が強く吹くことが読み取れる。「○hPa以上であれば高気圧」というように、高気圧や低気圧に数値の基準はなく、あくまでまわりと比べて相対的に気圧が高いか低いか、で決まる。また前線は、暖気と寒気の境目に描かれる。性質の異なる空気が接するところでは、上昇気流が生まれるため雲が発生します。これにより、前線付近では低気圧と同じように、天気がくずれやすくなる。しとしと雨の温暖前線、急な雨の寒冷前線、長雨の停滞前線。天気図を見る楽しみが増えました。
2023年02月19日
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バンドー神戸青少年科学館 第25回 鉄道模型であそぼう鉄道模型であそぼう001 posted by (C)きんちゃんと き:2023年2月11日(土・祝)・12日(日) 9:30~17:00ところ:バンドー神戸青少年科学館鉄道模型2000輌が科学館にやってくる!鉄道模型であそぼう002 posted by (C)きんちゃん◆新館4階・特別展示室鉄道模型のデモ運転鉄道模型を走らせながら、スタッフがその電車について詳しく説明します。(タイムスケジュールあり)一部で体験運転もできます。10:00~17:00Group9KANSAI Nゲージ…約1200輌JORC関西 Oゲージ…約200輌ゼネラルトレインズクラブ HOゲージ…約300輌日本トロリーモデルクラブ HOゲージ…約300輌鉄道模型の大きさ比較さまざまな大きさがある鉄道模型を一堂に並べ展示します。協力:JORC関西NゲージNゲージモジュール「シカゴL」の展示全国高校生鉄道模型コンテストで文部科学大臣賞(最優秀賞)を受賞した作品です。制作・協力:灘中学校・高等学校鉄道研究部◆1階通路鉄道スクンプラリースタンブをあつめて、オリジナルグッズを手に入れよう。なにがもらえるかは来てからのお楽しみ♪9:30~ ※各日先着700名※小人一人一回限りとさせていただきます。(小人:幼児~高校生まで)鉄道会社グッズ販売コーナー鉄道会社の協力ブースが今年も登場!お気に入りのグッズを手に入れよう!10:00~17:00協力:神戸市交通局/神戸電鉄株式会社/能勢電鉄株式会社/阪神電気鉄道株式会社パネルの展示鉄道写真ギヤラリー「百花繚乱!神戸の電車」一枚の写真が、いつか貴重な思い出になる……そんな気持ちから電車にカメラを向ける高校生たちによる、地元神戸の電車の地道な記録をご鑑賞ください。9:30~17:00協力:神港学園高等学校鉄道研究部◆屋外【星の広場】のりものに乗ろう! ※雨天中止ポートライナー・六甲ライナーの形をしたバッデリーカーに乗ろう!2月11日(土)・12日(日)10:00~12:00/13:00~15:00協力:神戸新交通株式会社◆ポートライナー車両基地電車の洗車体験ポートライナーに乗ったまま洗車体験しよう!2月11日(土)11:00~/11:30~(約30分)当日9:30~科学館1階通路にて整理券配布※なくなり次第終了【各回先着100名】場所:ポートライナー車両基地(科学館東側横断歩道を渡ってすぐ)協力:神戸新交通株式会社◆本館1階第1展示室実験ショー手作り鉄道模型で科学を楽しみまショーオリジナルな車両がもりだくさん。ここでしか学べない科学の知恵で鉄道模型を動かすよ!10:00~10:45/15:00~15:45※実施時間内で、1回あたり5分~10分のミニ実験を繰り返し行います。◆新館地下1階・地下ホール駅員さんに変身!写真撮影会駅員さんの制服を着て写真をとることができます。電車パネルの前ではい、ポーズ!9:30~12:00/13:00~17:00協力:神戸市交通局/神戸新交通株式会社/神戸電鉄株式会社/山陽電気鉄道株式会社/能勢電鉄株式会社/阪急電鉄株式会社/阪神電気鉄道株式会社※カメラは各自でご持参ください。※大人のみの参加はご遠慮ください。ワークショップ工作マグネットレインすすめ!くるくる?ぴた!磁石のチカラで動かしてみよう!10:00~12:00/13:30~15:30参加費:1個100円※材料がなくなり次第終了します。※最終受付は各回20分前どれも、お楽しみです。子どもだけじゃなく、おとなも楽しめそう!
2023年02月10日
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神戸市ポートアイランドのバンドー神戸青少年科学館がリニューアルバンドー神戸青少年科学館 posted by (C)きんちゃん2022年4月2日(土)リニューアル子どもも大人も夢中に科学館で最先端の科学技術に触れてみよう青少年科学科学館001 posted by (C)きんちゃんプラネタリウムなど施設のリニューアルを進めている青少年科学館。リニューアル第一弾として、4月2日(土)に最先端の科学技術に触れられる展示が新たに加わります。子どもも大人も科学の世界を楽しく体感してみませんか。ロボットやAI(人工知能)の仕組みを学び、未来を考えよう青少年科学科学館002 posted by (C)きんちゃんロボットコーナーでは、ロボットの仕組みや私たちの暮らしにどのように役立っているのかを、展示物や操作体験を通して学べます。Alコーナーでは、展示を見て・触って・働きかけて、Alを知ることができます。科学への興味が広がる映像空間を体感しよう青少年科学科学館003 posted by (C)きんちゃん横幅約12mの壁面と床面に、宇宙・空・海・森・街をイメージした色鮮やかな映像が投影され、まさにその映像の中に入っているような感覚に浸れます。また、通る人の動作により、アニメーションが展開していきます。プラネタリウムのリニューアルは7月予定です。[問]青少年科学館(電話:302-5177 FAX:302-4816)お楽しみですね!!
2022年03月24日
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3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間③ 残る謎 未来への一歩台湾から与那国島に到着し、歓喜の瞬間を迎えた丸木舟チーム。「とりあえず黒潮を横断してたどり着くことができた」と、海部陽介プロジェクト代表は実験航海が成功したと評価。今回は当時の技術として最も優れている丸木舟を採用しましたが、「3万年前の人がもっと原始的な舟を使っていたら、航海はもっとタフになる。それが想像できたという意味で学ぶことが多かった」と話します。一方、未解明の謎として「ナビゲーション(航海術)の難しさが残る」と海部さん。「航海計画を立てるにあたり、(天気予報や地理的な情報など)現代の知識を入れている。それでも難しい。昔の人はどうやって行ったのだろう…」○航海する丸木舟チームこぎ手チームの7人。本番の実験航海に乗船したのは男性4人、女性1人。左から3人目が原康司キャプテン、同4人目が田中道子さん(写真はいずれも3万年前の航海プロジェクト提供)丸木舟チームの原康司キャプテンは到着後に、GPS(全地球測位システム)で記録した航跡をみて「イメージ通り。ほぼ完壁だ。黒潮が思ったより遅かったが、必ず島が見えてくる確信があった」と話します。黒潮を越える航海について原さんは「舟ができたことが成功だと思う。今回はコンディションが難しく大変だったが、天候さえ整えばまた行ける」と、自信をのぞかせました。海部さんは、3万年前に大陸と陸続きだった台湾から琉球列島に渡った旧石器時代人について「丸木舟があったとすれば、日常的に使っていて操作はお手の物。台湾がホームグラウンドで地理感覚もあり、よく知っていたと思う。きょうは流れが速いとか、危ないから帰ろうとか、的確な判断ができたのではないか」と話します。日本列島人の祖先が危険を冒して海を渡った動機も大きな謎。かじ取りを担当した田中道子さんは「成功したよりも多くの人が海で命を落としたと思う。それを越えてでも、何かを見つけたいという強い意志があったのだろう」。海部さんは「何度も危ない経験をして、行けるという自信があったのではないか」と思いを巡らせます。もし3万年前にタイムスリップしたら航海するか。原さんは「難しい質問。到達したときの幸福感があるので行くかもしれない」。○大陸から日本列島への移入ルートは、①対馬②沖縄③北海道の三つ。今回は、台湾から島づたいに北上した沖縄ルートの最初の航海を再現したにすぎません。琉球列島では、石垣島、宮古島、沖縄島などで当時の人骨化石が見つかっています。宮古島から沖縄島に渡るには、見えない島に向かって海流に乗らずに200キロメートル以上航海する必要があります。原さんは次の実験航海へ意欲満々。「ようやく日本列島人の最初のルーツがわかった。この先も深く知りたい。ルーツを知ることは、未来に向かって大事な歩みを始める第一歩。これからが本番。長い旅の始まりだ」(おわり)◇国立科学博物館(東京・上野)は9月8日まで、3万年前の航海プロジェクトの速報展示を開催中です。黒潮を越えた丸木舟「スギメ」の実物や、櫂(かい)、旧石器時代の石斧(せきふ)の複製、短編動画などを公開します。「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月26日付掲載今回の挑戦は、大陸から日本列島への移入ルートのひとつ沖縄ルートの最初の部分にすぎない。これからが本番。次の実験航海にご期待を!
2019年08月30日
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3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間② 島の光!? 幻覚を見た沖縄・与那国島をめざして台湾を7月7日午後2時半すぎに出航した丸木舟チーム。かじ取りを担当した田中道子さんは、台湾の陸地を振り返っては方角を確かめ、東をめざしました。「丸木舟は真っすぐ進まず、いつも振り子のようになっている」。ゆらゆら進む舟で、陸が見えないときは太陽、月、星を頼りに進み、太陽が高いところにあるときにはうねりの方向を参考にしました。初日の夕方、北風で海が荒れました。三角波が立ち、丸木舟に海水が浸入。原康司キャプテンは「じゃぶじゃぶ入ってきて、これはまずいなと。普段の練習ならこの状態で引き返した」と振り返ります。本番の航海では2回までは転覆しても頑張ると決めていた原さん。「夜に転覆すると危険だ」と不安が頭をよぎりましたが、排水を続けてギリギリのラインでかわしました。○航海する丸木舟チーム(3万年前の航海プロジェクト提供)※黄色は日中、赤紫色は夜夜半から凪(な)いだ海で迎えた翌朝、西の雲の間に、台湾の陸地が思ったより近く見えました。原さんは「あまり陸から離れていないのではないか」と感じましたが、このころ黒潮の本流を抜けていたことが後の航路解析で判明します。黒潮を抜けたころ、伴走船から見守っていた海部陽介プロジェクト代表は、丸木舟が一気に東へ進み始めたことで「いちばんハラハラした」瞬間を迎えます。「与那国島のはるか南側を通過してしまうのではないか…」しかし午後、丸木舟の動きは、海部さんの心配とは違う展開に。東へ進んだ後、北へ、そして北東へと向かったのです。このとき丸木舟の原さんは、戦略通り与那国島を探す作業に入っていました。伴走船でGPS(全地球測位システム)を確認した海部さんは「いい方向に進み始めた」と一安心です。午後8時ごろ、日没直後に雲が出て星が見えなくなりました。心配する海部さんをよそに、原さんは「全員休憩」の指示を出しました。このとき、丸木舟では「日中の暑さが半端でなく、こぎ手は疲労困懸(こんぱい)していた」と田中さん。原さんの判断の裏にはある勘違いもありました。日没間際、島を探していた方角から明かりが見えたのです。このまま流れに乗って島に近づける、と思った原さん。しかし後の航路解析によると、舟は、島が見えるはずのない遠いところにいました。島の明かりは幻覚だったのです。丸木舟チームにとって幸運なことに、このとき海の弱い流れが島に向かっていました。○3日目の明け方、見張り役が灯台の光を見つけました。与那国島から40キロメートル。舟は、3万年前には存在しない光の方に向かって流れていました。空が明るくなると、丸木舟チームは島を覆う特徴的な雲をめざしました。そしてついに島影をとらえ、9日正午前に与那国島に到着しました。海部さんは「航海で多くのことを学べた」と意義を強調しつつ、続けました。「いまだに頭の中では謎の部分が残っている」(つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月25日付掲載与那国島はかなり近づかないと見えないけど、台湾の方はだいぶん離れてもまだ見えている。その分の距離感をつかみづらい問題も。今回は潮の流れとか幸運に恵まれたこともあったのですね。
2019年08月29日
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3万年前の冒険 台湾→与那国島 丸木舟の45時間① 黒潮越えへ練った戦略「3万年前の祖先たちは、のほほんと暮らす“原始人”ではなかった。新しい世界を切り開いた開拓者だということを、プロジェクトを通じて発信できた」。7月、丸木舟で2泊3日かけて台湾から沖縄・与那国島に渡ることに成功した、国立科学博物館「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」の報告会見が日本記者クラブで開かれ、代表の海部陽介・人類史研究グループ長が、こぎ手たちとともに実験航海を振り返りました。冒険でみえてきたこと、そして残された謎とは―。(中村秀生)与那国島に到着した丸木舟チーム(3万年前の航海プロジェクト提供)「見事に舟を操って精神力と忍耐力と判断力でここまで来れた」45時間かけ225キロメートルを走破し島に渡ったこぎ手5人の奮闘を、伴走船で見守った海部さんはたたえました。実験航海は、3万年前の旧石器時代人が、どうやって大陸から琉球列島に渡ることができたのか、困難をどう克服したのかーという大テーマへの挑戦。遺跡に残らない“失われた人類史”を復元するプロジェクトです。当時の技術(石斧=せきふ)で丸木舟をつくり、GPS(全地球測位システム)もコンパスも時計ももたず、こぎ手の交代なしという航海に臨みました。台湾の出航地から与那国島まで直線距離で206キロメートルあります(3万年前の航海プロジェクト提供の図から)○出航地から与那国島までの直線距離は206キロメートル。航海の大半は島影が見えません。太陽や月、星を見て方角を知り、経験と勘を頼りにかじを取ります。行く手を阻むのが、最大で幅100キロメートル、秒速1~2メートルという世界最大級の海流「黒潮」です。北向きの黒潮に流されながら、うまく北東の島に向かわなくてはなりません。黒潮に入ったかどうかは、北風が吹いたときに立つ三角波、南からの大きなうねり、深い群青の海の色などで判断しますが、航海を指揮した原康司キャプテン(47)は、舟上で黒潮の流れを感じ取る難しさをこう説明します。「深いところから地面が一緒に動いているようなものなので、陸が見えない状況で流れているのを判断するのはすごく難しい」どうやって与那国島を目視できる50キロメートル圏内に入るか―。シーカヤックで世界を航海した冒険家の原さん。黒潮のスピードはわからなくても、舟が沖合にどれくらい進んだかをつかむ自信はありました。そこで最初の24時間は東へ進み、沖合100キロメートルに出たところで北東方面に針路を変えながら島を探すという戦略を立てました。「100キロメートルを超えてさらに東へ行くと、与那国島の南側を通り抜けてしまう可能性があった」海部陽介さん原康司さん田中道子さん○丸木舟チームは6月25日から天候などの条件が整うのを待ちました。沖縄地方は平年より梅雨明けが遅れ、あいにくの天候不順。ようやく出航期限(7月13日)目前の9日牛後に風がやみ、出航を決断しました。「やっとこぎ出せると、解放感に満ちていた」と、丸木舟チーム唯一の女性で、かじ取り担当の田中道子さん(46)は、そのときの気持ちを話します。出航後にはアホウドリやアジサシなどと遭遇。「イルカ、クジラを見たときは眠気が吹っ飛んだ。感動した」しかし丸木舟チームを待っていたのは数々の過酷な試練でした。(つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月24日付掲載改めて、丸木舟で台湾から与那国島へ渡ったことの実証事件。今でこそ、206キロ先に島があると分かって漕ぎ出すわけだが、3万年前、最初は何もわからずに漕ぎ出した。その挑戦心はすごいものだと思う。
2019年08月27日
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フェーン現象が南極棚氷壊す?南極半島の東側の海を覆う巨大な棚氷が山から吹き下ろす暖かな風で崩壊するかもしれないと、米メリーランド大学などの研究グループが地球物理学誌『ジオフィジカル・リサーチ・レターズ』(11日付)に発表しました。南極半島は南極の最北端に位置し、気候変動にとりわけ脆弱(ぜいじゃく)な場所と考えられています。すでに、南極半島東側の海の最北端にあったラーセンA棚氷が1995年に、その南にあったラーセンB棚氷も2002年に崩壊しました。ラーセンB棚氷のさらに南にあるラーセンC棚氷も16年に亀裂が走っているのが確認され、17年には一部が氷の塊となって分離したことが確認されています。人工衛星がとらえた南極半島周辺。青く見えるのはラーセンC棚氷の上にたまった水©NASA EARTH OBSERVAORY/Lauren Dauphin研究グループは、1982年から2017年までの35年間にわたって人工衛星の観測データと気象観測データを解析しました。南極半島には山脈が連なっており、南極半島の東側では夏の終わりから初秋にかけて山脈を越えてくる暖かくて乾燥した風が吹くフェーン現象が起こります。研究グループによると、南極半島の東側でフェーン現象が起こると気温が15度以上も上がり、棚氷の上に積もった雪を解かし、棚氷の上に水がたまり、棚氷の構造を不安定にする可能性があるといいます。解析の結果、15年から17年にかけての3年間、南極半島の東側のフェーン現象が強まったことがわかりました。研究グループは、今後、ラーセンC棚氷もラーセンA棚氷やラーセンB棚氷と同じ運命にさらされる可能性があるとしています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年4月14日付掲載南極でもフェーン現象って起こるんですね。南極の棚氷の崩壊。地球温暖化とは別で、自然現象なので、どうしようもないですね。
2019年04月16日
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人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀③ 骨“運”の無さが大逆転人類学者 土肥直美さんに聞く―10年あまり先島諸島で先史時代の人骨を探し続けたのに見つからず、日本一骨運がない人類学者と言われた土肥さん。ところが、2007年に石垣島の新空港建設予定地で約2万年前の人骨が見つかったのをきっかけに、日本ではこれまで例のない、多数の旧石器人の人骨と出会うことになりました。白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で人骨を最初に発見したのは沖縄鍾乳洞協会理事長の山内平三郎さんたちで、人骨を大学に持って来られました。山内さんとは琉球大学に赴任したころ、以前医学部長だった先生の紹介でお会いしてからの洞窟仲間でした。「沖縄に来たんだったら洞窟を知らないとだめです」って言われて。探検部だったので、洞窟に潜ったことはありましたが、行くと落差が20メートルもある。高いところは怖いけれど「下に人骨があるから」って言われると行っちゃう。人骨が見つかると持って来られて、一見古そうなのですが、年代を調べてみると数百年前ぐらいというのが多かった。その時も、古そうでしたが、「年代を調べないと」と言いました。人骨と一緒に見つかったネズミの骨の年代を調べたら約2万年前で、これはたいへんということで頭骨の一部でしたが人骨も調べたら、これも約2万年前でした。2010年と13~16年に県立埋蔵文化財センターが中心になって、私たち形質人類学者や考古学者だけでなく、DNA人類学などさまざまな分野の研究者が参加する画期的な発掘調査が行われました。合わせて1300点もの人骨が見つかっています。これまでの分析で、少なくとも19人の旧石器人の骨を含んでいることがわかっています。人骨の出土状況から、調査の最初のころから風葬の墓だと考えていましたが、15年の調査で決定的証拠が見つかりました。一番古い約2万7000年前のもので、最初に復顔できた4号人骨です。骨の位置から、亡くなった後、あおむけで両腕と両足を折り曲げた形で安置されたことを示していました。頭骨(中央)を発掘する人たち(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)4号人骨が安置されたときの姿勢を示す想像図(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)次の地へ―白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった多数の人骨は、現在、土肥さんたちが一つひとつ付着した石や土を取り除くクリーニングという作業や、つなぎ合わせる作業を進めています。こういう人骨が出てくるような遺跡が今後、いつ見つかるかわからない。そこで発掘ができて、今こうやってクリーニングやクロスワードパズルを解くようにつなぎ合わせる作業を行わせてもらっている。たぶん、日本で一番幸せな人類学者かもしれないですね。これで若い人類学者が大きくなってもらいたいし、育ってほしい。河野さん(河野礼子・慶応大学准教授)が若い人類学者のチームをつくってくれて頭骨以外の部分の研究も緒についているので、どんな成果が出るか楽しみです。それと、白保竿根田原遺跡は墓だということがはっきりしたので、では生活の場はどこだったのか。近くにあるはずなので、ぜひ探したいと願っています。(おわり)「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月15日付掲載同じ沖縄でも探す場所を変えるってことで洞窟へ。すると2万年前、旧石器時代の遺跡がざっくざっくと…頭骨をつなぎ合わせる、答えの用意されていないジグソーパズル。
2019年01月28日
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人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀② 沖縄・アイヌ 骨格似ず人類学者 土肥直美さんに聞く王族の顔―1992年に単身琉球大学に赴任し、沖縄のあちこちの発掘調査に参加。数万年前から沖縄の島々で生きた1000人もの人骨と向き合い、その移り変わりを目の当たりにしてきました。中でも浦添市の王陵(王の墓)「浦添ようどれ」で出会ったある人物の顔が印象に残っているといいます。浦添ようどれは沖縄が北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三つに分かれていた三山時代の13世紀後半、中山王英祖(えいそ)がつくり、後に琉球王国の第2尚氏7代王尚寧(しょうねい)が改修した墓で、調査の結果、英祖王陵には100人以上が葬られていることがわかりました。英祖とその一族とみられます。英祖王陵の石棺の一つに納められていた頭骨を来る日も来る日もつなぎ合わせる作業を続けた末、出来上がったものを見たときは本当にびっくりしました。王族ということで想像していた顔つきと異なり、歯が前に突き出していました。突顎(とつがく)といって、本土では鎌倉時代から室町時代によく見られますが、沖縄では初めて見る顔つきでした。沖縄では、本土の縄文時代にあたるころから狩猟採集生活を中心とした貝塚時代が長く続いていましたが、11世紀ごろ突然、石垣を築いてつくった巨大なグスク(城)が各地に出現します。グスクをどんな人々がつくったか謎でした。英祖王陵に葬られていた突顎の人物は、沖縄の外から人々がやってきたことを示しています。国立科学博物館の篠田謙一さん(人類研究部長)による尚寧王陵の人骨のDNA解析では中国南部や東南アジアとの関連がみられ、琉球王国の成立にこれらの地域の人々との交流が重要な役割を果たした可能性があると考えられます。頭骨を観察する土肥直美さん説明困難―日本人の成り立ちを考える仮説に、1991年、東京大学の埴原和郎教授(当時)が提唱した「二重構造モデル」があります。日本人は、古くから日本列島にやってきていた縄文人と弥生時代の初めに大陸からやってきた人々が混血してできあがったとするものです。辺縁部に位置する沖縄や北海道は混血の影響が及びにくく、縄文人の形質が残ったとされています。土肥さんは、沖縄で見つかる人骨の研究をする中で、それだけでは説明できないと考えるようになったといいます。1993年から94年にかけて札幌医大の百々(どど)幸雄教授(当時)たちとアイヌ、本土、沖縄の古人骨の比較をしました。その結果、沖縄の古人骨の顔立ちはアイヌの古人骨に比べ平たんで、必ずしも両者がよく似ているとはいえないことが明らかになりました。沖縄では、骨が残りやすい地質のところが多く、約2万年前の港川人をはじめ非常に古い人骨が日本で唯一と言っていいぐらい発見されていますが、近世とその間をつなぐ先史時代の人骨はあまり見つかっていません。特に、宮古・八重山といった先島(さきしま)諸島の先史時代の古人骨が重要なのですが、この地域ではそれがまったくと言っていいぐらい見つかっていませんでした。そこで、1997年ごろから先島諸島のあちこちで先史時代の人骨を探す発掘調査に取り組みました。しかし、これがまったく当たらない。2000年ぐらい前からの生活の跡がたくさん見つかっている宮古島の浦底遺跡でもだめでした。何年やっても当たらないので「日本一骨運のない人類学者」と言われたほどです。(つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月13日付掲載弥生人との混血が少なかったと言われる沖縄とアイヌだが、その骨格が似ていない。その違いはどこにあるのかが興味深い。
2019年01月27日
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人骨に向き合って 沖縄で研究 四半世紀① 生と死の近さに驚いて人類学者 土肥直美さんに聞く人類学者の土肥直美さん(73)は、憧れの西表島での調査をきっかけに沖縄に移り住んで四半世紀あまりです。これまで、古くは2万7000年前の旧石器時代から、100年ほど前の近代まで1000人もの人の骨と向き合い、先人たちの声なき声に耳を傾けてきました。(間宮利夫)顔を復元―昨年、東京・上野の国立科学博物館で開かれた「沖縄の旧石器時代が熱い」の展示で、訪れた人の目をひときわ引きつけたものがあります。土肥さんたちが復元した石垣島白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった2万7000年前の旧石器時代の人の顔です。旧石器時代の人の顔が復元されたのは、日本では沖縄・八重瀬町の港川人(みなとがわじん)以来2例目です。保存状態がよかった四つの頭骨の一つです。保存状態がよいとはいえ、欠けた部分もありますから完全ではありません。国立科学博物館の河野礼子さん(現慶応大学准教授)と、コンピューターで欠けた部分を補うデジタル復元という新しい技術を使いました。その方法で完成した頭骨に、DNA解析に基づく情報や石垣島の気候などを考慮して肉付けしたり肌の色を決めたりして復顔しました。通常、骨が完成すればそれでよしということになるのですが、やっぱりどんな顔か見てみたい。かっこいい、きりりとした顔立ちだったので大満足です。まわりからも、沖縄ではけっこう見かける顔だと言っていただき、ほっとしています。白保竿根田原洞穴遺跡4号人骨の復顔像。左はもとになった頭骨模型(2018年4月、撮影協力:国立科学博物館)ほぼ全身の骨格が残っていた4号人骨(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)ある衝撃―1990年代初め、九州大学医学部で助手として人骨の研究をしていたとき、西表島でダムの建設に伴って古いお墓が沈んでしまうらしいという話を聞いて初めて沖縄へ。そのとき受けたある驚きが、単身沖縄へ移り住み、研究を始めるきっかけになったといいます。学生時代は理学部で生態学を専攻しました。京都大学の人たちがアフリカで類人猿の研究を始めたというのを聞いて、自分も人類進化の研究をやれたらいいなと思ったのですが、九大理学部にはそういうコースがなく、マイマイ(カタツムリ)にマニキュアを塗って印をつけ、生態を追う日々でした。学生時代にかなりのエネルギーを注いだのが探検部です。当時、顧問だった医学部解剖学教室の永井昌文教授が私のことを覚えていてくれて、後に助手に採用してもらい、念願だった人類学の研究をスタートすることができました。探検部のころイリオモテヤマネコが発見され、西表島はみんなの憧れの場所でした。案内してくれた方は「夕方迎えに来るから」って言うので、1人でスケッチしたり、写真を撮ったり、丹念に観察しました。集落の裏山の岩陰の草むらに人骨がごろごろという状態で、生と死がすごく近い感じでカルチャーショックを受けました。18~19世紀の墓だと思いますけど、これをダムで沈ませていいのだろうかと、怖い物知らずで県の教育委員会へ行き「何とかなりませんか」って言ったら、水位を下げてくれたんです。その後、ほかの人類学者と何度か調査しましたが、その時は沖縄で職があるとはまったく思っていませんでした。ところが、1年後に琉球大学医学部に赴任することになったのですから、人骨が呼んでくれたのかな。(つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月12日付掲載日本本土の様に酸性土壌でない沖縄の地層だから2万年前の旧石器時代の人骨が残っている。それにしても、人骨の調査のために沖縄に移り住むっていうんですから、すごいですね。
2019年01月26日
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全国地震動予測地図 北海道東部で大幅上昇 南海トラフ沿い 微増続く政府の地震調査委員会は26日、2018年版の「全国地震動予測地図」を公表しました。今後30年以内に震度6弱以上の揺れが起きる確率は、昨年12月公表の千島海溝沿い巨大地震の長期評価を受け、北海道東部で大幅に上昇。南海トラフ地震の発生が近づいていると予想され、関東から四国の太平洋側は微増が続きました。今後30年以内の震度6弱以上の確率地震調査委公表都道府県庁所在地の市役所(東京は都庁)や北海道振興局の所在地付近では、今後30年の震度6弱以上確率が釧路総合振興局(釧路市)で昨年の47%から69%に、根室振興局(根室市)で63%から78%に上がりました。全国トップは千葉市の85%で昨年と変わらず、横浜市の82%、水戸市の81%が続きます。大阪北部地震は地図作成基準日が1月1日のため反映されず、大阪市の確率は昨年と同じ56%。近くの断層帯との関係がはっきりせず、来年以降に公表する近畿などの活断層長期評価で検討します。地震調査委の平田直委員長(東京大学教授)は、東京都庁の確率が千葉や横浜より大幅に低い48%なのは、たまたま地盤が硬い台地にあるためと説明。大阪北部地震を踏まえ「一般に都市は平野などの揺れやすい場所にある。耐震性の低い家屋の補修や家具の固定など、地震に備えてほしい」と話しています。三大都市圏 強い揺れ 対策念入りに2018年版の全国地震動予測地図は、内陸にある活断層などの地震で東京、名古屋、大阪の三大都市圏が強い揺れに襲われる可能性を改めて示しました。專門家は家屋の耐震補強や避難先の確認など、事前の準備が重要と強調します。広井悠・東京大学准教授(都市防災)は「地震の被害はどれだけ対策が進んだかで変わる」と指摘。「海溝型地震は発生場所がある程度予測でき、長期的に対策が取られるが、海溝型の被害予測が少ない地域は備えが進みにくい」と分析します。広井准教授は基本的な地震対策として、家具の固定▽耐震補強▽初期消火▽避難準備―の4点を挙げました。都市部では出火件数が消防の能力を上回って延焼する危険性が高く、消火器の使い方などの訓練を勧めています。NPO法人「耐震総合安全機構」(東京)常務理事で1級建築士の中村茂さんは、耐震補強には筋交いを入れて強度を増す方法や、柱に炭素繊維を巻いて揺れに対して粘り強くする方法があると説明します。耐震補強には費用がかかりますが、自治体の助成金制度も活用できると呼び掛けています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年6月27日付掲載震度6弱の地震は、全国どこで起っても不思議ではないと認識すべきですね。地震の被害を最小限に抑えるため、対費用効果が大きいのが「家具の固定」「初期消火」億劫がらずに準備しましょう。
2018年06月27日
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花しょうぶの隣に白鳳時代の史跡 三ツ塚廃寺跡 【6月9日】三ツ塚廃寺跡_01 posted by (C)きんちゃん三ツ塚廃寺跡_02 posted by (C)きんちゃん建物は再建されていませんが、建物が建っていた跡は発掘されて分かっています。左から、東塔、金堂、西塔の跡です。三ツ塚廃寺跡_03 posted by (C)きんちゃん金堂の跡。金堂としては最小規模だそうです。三ツ塚廃寺跡_04 posted by (C)きんちゃん東塔の跡から、金堂、西塔の跡を望む。三ツ塚廃寺跡_05 posted by (C)きんちゃん金堂の跡。三ツ塚史跡公園_01 posted by (C)きんちゃん花しょうぶ園と三ツ塚廃寺跡が合わせて史跡公園です。三ツ塚史跡公園_02 posted by (C)きんちゃん児童公園もありました。
2018年06月10日
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ネアンデルタール人も洞窟壁画描いてた?国際研究グループネアンデルタール人も洞窟壁画を描いていたことがわかったと、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際研究グループが、23日発表しました。今回の発見は、ネアンデルタール人が現生人類(ホモ・サピエンス)と同じような芸術的能力をもっていたことを示すものだといいます。研究成果は、科学誌『サイエンス』電子版(22日付)に掲載されました。ラ・パシエガ洞窟壁画 ©C.dStandish,A.W.G.PikeandD.L.Hoffmannラ・パシエガ洞窟壁画の模写 ©Breuiletal研究グループは、洞窟壁画が描かれていることで知られているスペインの三つの洞窟で壁画をおおう非常に薄い炭酸塩(炭酸カルシウム)の膜の一部を採取し、年代を測定しました。含まれている放射性のウランとトリウムの比率をもとに測定するもので、これまで洞窟壁画の年代を調べるのに使われていた放射性の炭素より古い時代を正確に出すことができるとされています。測定の結果、これらの壁画は少なくとも6万数千年前に描かれたものであることがわかったといいます。30万~20万年前ごろアフリカで誕生したと考えられる現生人類がヨーロッパに進出したのは4万数千年前で、壁画が描かれた当時、スペインに住んでいたのはネアンデルタール人だけでした。研究グループは、このため、今回調べた三つの洞窟の壁画を描いたのはネアンデルタール人だったとしています。洗練された能力を示す研究グループが調べたのは、スペイン北部のラ・パシエガ洞窟と、スペイン西部のマルトラビエソ洞窟、スペイン南西部のアルダレス洞窟。これらの洞窟の壁には、主に赤い色の顔料で動物や点、幾何学模様、さらには手形などが描かれています。壁画を描くには、場所の選択、光源の計画、顔料の混合などの洗練された行動が必要とされています。今回の測定年代が正しければ、ネアンデルタール人がこうした能力を備えていたことになります。研究グループのメンバーで英サウサンプトン大学のクリス・スタンディッシュ博士は「ネアンデルタール人が一般に信じられているより洗練されていたことを示すすばらしい発見だ」と説明しています。三つの洞窟は互いに数百キロ離れています。英ダラム大学のポール・ペティット教授は「西ヨーロッパ各地のほかの洞窟で見つかっている洞窟壁画もネアンデルタール人が描いた可能性が高い」と指摘しています。(間宮利夫)「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年2月24日付掲載放射性のウランとトリウムの比率を用いた新しい年代測定法で、より古い遺跡の年代測定ができるようになった。意外にも、ネアンデルタール人に美的感覚があったなんて、親近感を感じますネ。
2018年02月25日
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地殻・マントル境界掘削 大昔の海洋プレートで初成功 日米欧チーム・オマーン日米欧の国際掘削チームが、アラビア半島の東端オマーンで進めている陸上掘削プロジェクトで、大昔の海洋プレート(岩板)を構成していた「地殻」と「マントル」との境界の掘削に成功したことが分かりました。海洋研究開発機構が8日、本紙の取材に答えました。科学掘削で地殻・マントル境界を掘り抜いたのは史上初めて。掘削したのは、1億年前の海洋プレートの断片が丸ごと陸に乗り上げたものだと考えられている「オマーン・オフィオライト」と呼ばれる岩体。オマーンからアラブ首長国連邦にかけて長さ500キロメートル、幅80キロメートルの広い範囲に分布しています。掘削チームは、オマーン・オフィオライトの地殻からマントルに椙当する岩石の連続的なデータを得るため、2016年12月~昨年3月に第1期掘削を実施。昨年11月に第2期掘削を開始していました。海洋研究開発機構によると、今年1月、地殻・マントル境界を含む長さ計約700メートルの岩石コア(円柱状試料)の採取に成功しました。第2期掘削は3月中までに完了し、詳細な分析が進められる予定です。地球の深部にある地殻・マントル境界の物質構造は、これまで誰も見たことがなく、地球科学の大きな謎となっています。掘削チームで日本メンバーをまとめる道林克禎静岡大学教授は「これまで知られていないような地殻・マントル境界の実態解明のヒントが得られる可能性がある」と、今後の分析に期待しています。“地球史”の謎に迫る日米欧によるオマーン陸上掘削プロジェクトで得られた地殻・マントル境界の岩石コア(円柱状試料)は、地球の進化史の謎に迫るための大きな手がかりとして期待されます。マントルは、地球の中心部にある核と、地球表面の地殻との間にある層。地球の体積の8割以上を占めます。地殻の厚さは、大陸で平均35キロメートル、海洋でも約6キロメートルあるとされ、マントルに直接到達するのは至難の業。いまだ人類は“生のマントル物質”を手にしたことはありません。接岸する地球深部探査船「ちきゅう」=2015年11月、横浜港本牧ふ頭オマーン陸上掘削の作業の様子(©Oman Drilling Project)今回のプロジェクトは、海洋地殻とマントル最上部からなるかつての海洋プレート(岩板)の断片が陸に乗り上げた岩体を調べることで、1億年前の海洋底の深部構造と形成過程を明らかにすることをめざしています。第1期掘削で得られた、海洋地殻やマントル部分に相当する岩石コアは昨夏、海洋研究開発機構の地球深部探査船「ちきゅう」に運ばれ、船上の最先端機器で分析されました。掘削チームの道林克禎静岡大学教授は、熱せられた海水が地殻内を循環する「熱水循環」の詳細が明らかになるなど「驚くべき結果が得られている」と手ごたえを語ります。第2期掘削の最大の焦点は、地震学的な境界「モホロビチッチ不連続面」(モホ面)と地殻・マントル境界との関係を探ることです。これらが一致するのかどうかをめぐって、長年論争が続いてきました。今回、地殻・マントル境界がどのような物質境界なのかを詳しく調べます。地球の内部構造(地殻・マントル・核)はゆで卵(殻・白身・黄身)と似ているのか、それとも地殻・マントル境界とは別に、マントル物質中に変成作用の境界があり、それがモホ面なのか―。大きな謎に迫ります。一方、海底下の“生のマントル物質”を掘削する計画は、米アポロ計画と同時期の1950年代にスタートした、地球科学者にとっては半世紀の夢です。「月より遠い」とさえ言われる人類未到のマントルを探査船「ちきゅう」で掘削する計画が、10年先を見すえて進められています。(中村秀生)「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年2月9日付掲載地震の時に話題になるのが、海洋プレートが大陸プレートに沈み込む部分で接触する面のところ。そのあたりは、よく掘り出して観測されてきた。それより深い部分、「地殻」と「マントル」との境界は初めて。興味津々ですね。
2018年02月10日
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7万年前に現生人類 インドネシア・スマトラ島 130年前発見の歯を再検討インドネシア・スマトラ島の高原に7万年以上前、現生人類(ホモ・サピエンス)がいたことがわかったと、オーストラリア・マッコーリー大学のキラ・ウェスタウェイ上級講師たちの国際研究グループが9日付の科学誌『ネイチャー』電子版に発表しました。オランダの人類学者ウジェーヌ・デュボワが130年近く前に見つけていた人類の歯などを再検討した結果わかったといいます。デュボワは、スマトラ島の隣にあるインドネシアのジャワ島で19世紀末にジャワ原人の化石を発見した人類学者です。スマトラ島中部のパダン高原には、デュボワが1887年~1890年にかけて調査を行った洞窟があります。デュボワは、そのとき人類の歯を発見しましたが、それがいつごろ生きていたどんな人類のものなのかは、はっきりしていませんでした。研究グループは、さまざまな人類やオランウータンのものと比較するなどした結果、デュボワが見つけた歯が現生人類のものと確認。さらに、さまざまな方法を組み合わせて年代を測定したところ、7万3000年前~6万3000年前のものであることが明らかになったとしています。左上がデュボワが発見した歯で左下はX線画像。右はオラウータンの歯 ©Tanya Smithabd Rokus Awe Due現生人類は20万年前ごろアフリカで誕生し、8万年前~6万年前ごろアフリカを出て世界各地に広がったと考えられています。オーストラリアには6万5000年前ごろ、現生人類がいたことを示す遺跡が存在します。しかし、これまで、移動経路にあたる東南アジアの島々には、それに該当する遺跡は知られていませんでした。遺跡の北約400キロのところにあるトバ湖は、7万3000年前ごろ、過去200万年間では最大級の噴火を起こし、現生人類を絶滅寸前に追い込んだともいわれるトバ火山がつくりだしたカルデラ湖です。同じころ、スマトラ島に現生人類がいたことは、現生人類の世界への広がりをめぐって新たな議論をよびそうです。「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年8月11日付掲載ホモ・サピエンスが、全世界に広がっていった過程。島しょへの広がりは以外にも早かったことが分かった。大事な事ですね。
2017年08月14日
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オオカミ 人の食べ物に依存 別の種への進化もタイリクオオカミ © Doug Mclaughlinオオカミが、人為的食品への依存を強めていることがわかったと、オーストラリア・ディーキン大学などの研究グループが科学誌『バイオサイエンス』(5日付)に発表しました。人為的食品に依存するオオカミの集団は、そうでない集団から分かれ、別の種への進化の道をたどるかもしれないと指摘しています。発表によると、イランに生息するタイリクオオカミの餌を調べた結果、ほとんどが人に飼われているニワトリやヤギ、さらに人がごみとして捨てた食べ物でした。また、オーストラリアに生息するディンゴ(タイリクオオカミの亜種)も廃棄物処理施設から餌を得ていました。人為的食品に依存するようになった集団は、移動する範囲や餌の好みが変化。遺伝学的にも、人為的食品に依存しない集団と違いがあったといいます。研究グループは「人為的食品に依存するようになったオオカミの集団は、そうでない集団から隔離され、時間の経過とともに遺伝学的構造を変化させたと考えられる」と説明しています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年4月8日付掲載日本ではすでに絶滅しまったオオカミ。そのオオカミが、人間に接近して人間の食べ物を食べることで別の種に変わってしまうって、複雑な気分ですね。
2017年04月08日
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サルの脳の大きさ 決めるのは食べ物米研究グループ霊長類(サル)の脳の大きさの違いは、社会的複雑さではなく食べ物によることがわかったと、米ニューヨーク大学の大学院生アレックス・デカシエンさんたちの研究グループが、27日付の科学誌『ネイチャー・エコロジー・アンド・エポリューション』に発表しました。霊長類が比較的大きな脳をもつことについての従来の説明は、集団内での社会生活の複雑さがもたらしたとする説が有力でした。果実を食べるチンパンジー © Dr James Higham研究グループは、ヒト以外の霊長類140種以上について、それぞれの集団の大きさや社会システム、雄と雌の配偶行動の違いと脳の大きさとの関係を調べました。その結果、どの社会尺度とも脳の大きさは関係が認められなかったといいます。一方、それぞれの種の進化的近縁度や体の大きさを考慮したうえで、食べ物と脳の大きさとの関係を調べたところ、果実を食べる霊長類は、葉や草を食べる霊長類に比ベ、脳が約25%大きいことがわかりました。研究グループは、果実がいつどこになっているかや、果実をどのように食べるかを認知することと、果実が葉や草よりも高エネルギーであることが脳の大きさに関係しているのではないかと考えています。この研究について、同誌にコメントを寄せたイギリス・レディング大学のクリス・べンディッチ博士は、チンパンジーの集団が21~187匹まで幅広いことなどを指摘し、一集団の大きさを社会尺度とすることに疑問を示すなどし、「残されている問題はまだ多い」と述べています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年3月28日付掲載意外な発見ですね。人間の脳は重さでは体重のわずか2%ぐらいだけど、25%のエネルギーを使うっていわれます。果物を食べて、より多くのエネルギーを摂取できることで脳が大きくなったことだということ。
2017年03月29日
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2018年 月一周の旅「2001年宇宙の旅」ってSF映画があったが、実際に民間人の月一周の旅が現実のものに。2018年 宇宙の旅_01 posted by (C)きんちゃん2018年 宇宙の旅_02 posted by (C)きんちゃん米宇宙企業スペースXが開発。民間人はすでに多くの費用を払い、今年後半から訓練に入るとか。地球周回軌道を離れて月周辺に人類が到達すれば、1972年の最後の月面着陸に成功したアポロ17号以来、46年ぶりとなる。
2017年02月28日
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スラウェシ島に謎の人類? インドネシア 10万年以上前の石器発見国際研究グループインドネシアのスラウェシ島で、10万年以上前につくられた石器が見つかった―。オーストラリアやオランダ、インドネシアなどの国際研究グループが、13日付の科学誌『ネイチャー』電子版に発表しました。スラウェシ島でみつかった石器 (c)Erick Setiabudiスラウェシ島はアルファベットの「k」に似た形をしていて、1万を超える大小の島で構成されるインドネシアで4番目の大きさがあります。研究グループは、2007年から12年にかけて以前石器などが見つかっていたスラウェシ島南西部のワラナエ盆地で発掘調査を行いました。その結果、4カ所で新たな石器を発見しました。これまでの石器はいつごろのものかわかっていませんでしたが、今回の調査で、少なくとも11万8000年前のものであることがわかったといいます。スラウェシ島には約4万年前に描かれたとみられる洞窟壁画が見つかっています。このため、少なくともそのころにはスラウェシ島に現生人類(ホモ・サピエンス)がいたと考えられています。今回の発見は、それよりも前からスラウェシ島には人類がいたことを示しています。人骨などは見つかっていないため、石器をつくったのがどんな人類だったかはわかっていません。現生人類が誕生の地アフリカを出たのは6万年前ごろだったと考えられています。スラウェシ島は、地球が寒冷化して海面が低下したときにもアジア大陸などと陸続きになったことはありません。しかし、スラウェシ島のすぐ南にあって同じような条件のフローレス島では100万年ほど前の石器が見つかったり、身長が1メートル程度のフローレス原人が1万数千年前まで生きていたことがわかっています。研究グループは、スラウェシ島にも非常に古い時代に人類が海を越えて到達し、長い間居住していた可能性があるとみています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年1月14日付掲載僕はセレベス島の名前が印象があるのですが、インドネシア独立後はスラウェシ島が正式な名称。大陸でなくって、島国のインドネシアで、フローレンス原人など、古い時代に海を越えて人類がやってきたことに興味がそそられますね。
2016年01月14日
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チンパンジーを追って50年(3) 絶滅の危機から守るタンザニア・マハレの森で日本の調査隊アフリカ・タンザニアのマパレにすむチンパンジーが見せるさまざまな行動は、半世紀にわたって研究者の目を引き付けてきました。その成果をどう活かすかが、今後の重要な課題の一つになっているといいます。京都大学野生動物研究センターの中村美知夫准教授たちは、1972年から2012年までの41年間に16歳になる前に母親を失った雄のチンパンジー37頭のその後の記録を追いました。その結果、約7割に当たる26頭が孤児になった年齢の期待寿命(母親が生きている雄のチンパンジーも含めた年齢ごとの平均余命)まで生きられませんでした。チンパンジーのおとなの雄母親の役割重要授乳期だけでなく、子ども期から青年期にかけての雄のチンパンジーに母親が重要な役割を果たしていることを示すもので、ヒトの親子関係の進化を探る上でも重要な知見だといいます。中村さんは「ほかにも、1年、2年で見ているのではわからないことがわかってくると期待している」と話します。チンパンジーは今、アフリカ全域で急激に減少し、絶滅が心配されています。生息地の破壊や狩猟などが主な原因です。マハレの研究者が中心になって設立した「マハレ野生動物保護協会」は、今ではチンパンジーをはじめとしたマハレの野生動物を見る機会もなくなっている地元の人々に、かつて祖先が培ってきた伝統的知識を伝える活動に取り組んでいます。中村さんは「地元の人たちが自然に対する豊かな知識を築いてきた自分たちの文化に誇りを持つことで、多様な生き物たちが暮らしている状況を今後も守っていきたいと考えるようになることが大切だと思う」と指摘します。マハレでは観光客との接触が原因とみられる病気で多数のチンパンジーが死ぬ例が何度か起こっています。マハレ野生動物保護協会が呼びかけて、観光客にマスクをしてもらう取り組みが定着しています。データで示して中村さんは「これから50年先、チンパンジーそのものがいなくなってしまう危険性がある。私たちがこうすればチンパンジーを守っていけるということをきちんとデータとして示していくことも大切だと考えている」と語っています。【日本の“サル”学】日本で“サル”の研究が始まったのは1948年でした。京都大学の無給講師だった今西錦司博士(後に京大名誉教授)が伊谷純一郎さん(同)たち2人の学生とともに宮崎県の幸島でニホンザルの群れの調査を始めたのです。その後、全国各地で調査が行われ、ニホンザルの群れをつくる個体間には順位があることなど、今では広く知られるようになった事実が初めて明らかになりました。幸島のサルがイモを洗って食べることもこの研究の中で発見され、世界を驚かせました。日本のチンパンジー研究は、その成果の上にたって始まりました。アフリカ各地で数年間調査を行い、マハレに派遣されたのが、今西さんと伊谷さんの研究室の大学院生だった西田利貞さんでした。(間宮利夫)(写真は中村さん提供、おわり)「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年1月5日付掲載日本のサルの研究は意外と新しいのですね。それでも、これだけの研究と発見があるってすごい事。これからは、研究だけでなくて、チンパンジーなどを絶滅から守る取り組みも求められます。
2016年01月07日
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チンパンジーを追って50年(2) 時代とともに変わる社会タンザニア・マハレの森で日本の調査隊アフリカ・タンザニアのマハレで半世紀にわたって行われている野生のチンパンジーの研究。思ってもみなかったチンパンジーの姿を描きだしてきました。しかし、それも時間とともに変わりうることが明らかになってきたといいます。多彩なあいさつチンパンジーが見せるさまざまな行動の中でも、あいさつ行動の多彩さは研究者の目を当初から引きつけてきました。あいさつは、それまで見慣れてきたニホンザルには見られない行動だったからです。チンパンジーの集団を構成する個体間にはニホンザルと同じように順位があります。しかし、食べ物をどちらがとるかで見分けられるニホンザルと違い、チンパンジーの場合どちらの個体の順位が上か下かを判断するのは簡単ではないといいます。食べものをどちらがとるかは、そのときの状況で異なるからです。唯一の指標と考えられているのがパントグラントと呼ばれるあいさつです。ある個体が別の個体に近づきながら「オッオッオッ」と声を出すこのあいさつは、順位が下の個体から上の個体に向かって行われます。K集団が消失(3日付で紹介)した後も調査が続けられているミミキレ(M)集団では1979年から95年にかけてントロギという雄が計15年間第1位の座を占めてきました。恵まれた体力と駆け引きの能力をもつントロギは、どの個体からもパントグラントを受けて集団に君臨していたことが記録され、多くの論文が書かれてきました。現在、マハレ調査隊の代表を務める京都大学野生動物研究センターの中村美知夫准教授は、「ントロギによって、第1位の雄はこういうものだというイメージをわれわれが持ってしまった可能性がある」と指摘します。94年に初めてマハレで研究を始めた中村さんが見たのは「ントロギ時代」の終わりごろでした。それでもントロギは第1位の雄としての圧倒的な姿を見せていました。しかし、その後、M集団で第1位になった雄はントロギのように絶大な力を持つものはいませんでした。3頭の雌どおしが毛づくろいをしているところ。左端の雌のおなかには子どもがしがみつています。雌どうし集まり中村さんが2度目のマハレ入りをしたのはントロギがいなくなった後の96年です。それまで、チンパンジーの集団は第1位雄を中心に雄が集まって核をつくり、子持ちの雌は核から離れて単独で動くものとされていました。ところが、2度目にマハレ入りした中村さんが見たのは、子持ちの雌どうしが集まりをつくって移動する様子でした。雌どうしが集まるようになったことが、ントロギがいなくなったことと関係しているかは不明ですが、「チンパンジーの社会は変わる」というのが中村さんの実感だったといいます。雄に比べて雌は臆病で研究者の前になかなか姿を現さない個体も多く、雌の研究はあまり進んでいません。中村さんは「別の集団から移ってきて移籍先で一生を過ごす雌が、ほかの雌とどのような関係を築くかを知ることは、ヒトに特有とされる非血縁の個体どうしの共存や協力の進化を考えるうえでも非常に興味がある」と話します。(間宮利夫)(写真は中村さん提供、つづく)「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年1月4日付掲載雌どうしが集まるっていうのも、珍しい事なんですね。人間の社会構成体が変化してきた様に、チンパンジーの社会も変化するのでしょうね。
2016年01月06日
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チンパンジーを追って50年(1) 顔を覚えて名前をつけタンザニア・マハレの森で日本の調査隊今年の干支は申。アフリカ・タンザニアのマハレで続けられている日本の研究者による野生のチンパンジーの研究は今年、51年目を迎えます。(間宮利夫)【マハレ】タンザニアの西端に南北に長く延びるタンガニーカ湖に突き出したマハレ半島にある国立公園(正式にはマハレ山塊国立公園)。アフリカを東西に引き裂こうとする地球の運動がつくりだした大地溝帯の一角で、世界第2位の深さを誇るタンガニーカ湖と標高2460メートルのンクングウェ山などにはさまれ、森林が広がっています。まだ明けきらないマハレの森。チンパンジーがあちこちで「フーホフーホファー」と呼び交わす声が響きます。研究者たちは、夜明けとともに地元で生まれ育った助手と一緒に、声などを頼りにチンパンジーのいるところへ駆けつけます。「目指す個体を探し出し体力の続く限り暗くなるまで追跡し、行動を細大もらさず記録していきます」。こう語るのは、現在、マハレ調査隊の代表を務める京都大学野生動物研究センターの中村美知夫准教授です。中村美知夫准教授翻弄されながらマハレでのチンパンジー研究は、1965年10月、タンガニーカ湖に面したマハレの浜に京都大学の大学院生だった西田利貞さん(後に京大名誉教授、国際霊長類学会会長など歴任)が上陸し、始まりました。西田さんは、自由気ままなチンパンジーに翻弄されながらも、半年後、畑のサトウキビなどを食べにくるようになった群れを間近でじっくり観察し、念願の個体識別に成功します。「私は昨日の長い観察によって、顔だけでなく、体全体の特徴、その姿勢や動作の個性がかもしだす雰囲気というものを知らぬうちに覚えてしまっていたのだった。もう名前をつけていいのだ」(西田利貞著『精霊の子供たち』から)一頭一頭に名前をつけるのは、日本の霊長類研究が編み出した“お家芸”です。個体識別できたことで、チンパンジーには決まったメンバーの複数の雄と複数の雌からなるグループ(単位集団)があることが初めて明らかになりました。また、チンパンジーの集団は父系で、雄は生まれた集団にとどまる一方、雌は子どもを産める年齢に達すると別集団に移る傾向があることもわかりました。タンガニーカ湖の浜から見たマハレ山塊地域で文化多様同じタンガニーカ湖畔のゴンベでマハレの5年前からイギリスのジェーン・グドールさんがチンパンジーの研究を始めていたことも、プラスに働きました。ゴンベでチンパンジーが植物の茎でシロアリを釣るのを発見すれば、マハレでは木の枝でオオアリを釣るのを発見します。「ゴンベとマハレ、二つの調査地が互いに刺激しあうことで、それまで思いもよらなかったチンパンジーの行動が次々明らかにされていった」と中村さんはいいます。マハレに滞在する研究者は当初、多くても2、3人でした。75年、それまでの研究成果をもとにマハレの国立公園指定に向けた国際協力事業団(JICA=ジャイカ、現国際協力機構)のプロジェクトが開始され、研究は活発化しました。アフリカ各地に調査地が増え、あるところで行われていることが別のところでは全く見られなかったりすることがわかってきました。たとえば、マハレでは見られなかった堅い木の実を石で割るという行動が西アフリカ・ギニアのポッソウなどでやられていました。99年、科学誌『ネイチャー』にこれらの成果をまとめた論文が掲載されました。チンパンジーに文化が存在するだけでなく、地域によって違いがあることを世界中の人々が知るようになりました。中村さんは「ようやく欧米でも、ヒト以外の動物に文化が存在することを認めるようになったことを示すできごとだった」と語ります。チンパンジーの文化の違いは道具使用に限りませんでした。マハレのチンパンジーは、向かい合って座った2頭が、頭の上で手を握り合い、余った方の手でお互いのわきの下を毛づくろいします。「対角毛づくろい」と名づけられた、この行動はたまたまマハレを訪れたゴンベの研究者が発見しました。マハレの研究者は見慣れていて、マハレ独自の文化であることに気づかなかったといいます。木の上のろうに細い枝を差し込んでオオアリ釣りをするチンパンジーチンパンジーを追跡し行動を観察する学生集団の消失確認日本の研究者たちが半世紀にわたって見続けたマハレではさまざまなできごとがありました。とりわけ衝撃的だったのは、西田さんが最初に個体識別し調査を始めたカジャバラ(K)集団が80年代に消失したことでした。アフリカ全体でも集団の消失が確認されたのはほかに1例あるだけです。マハレのチンパンジーだけにみられる「対角毛づくろい」集団消失の理由はまだはっきりしません。別の集団に殺害されたとみる研究者もいますが、中村さんは「K集団は調査を始めた当時から若い雄が少なかった。おとなの雄が年をとって次々死んだことで集団が消失した可能性も考えられる」と説明します。50年たった今も新たな発見が続いています。中村さんたちは、チンパンジーとはどんな動物なのか、その謎に迫ろうとしています。(つづく)(写真は中村さん提供)「しんぶん赤旗」日刊紙 2016年1月3日付掲載類人猿が道具を使う事はよく知られれいますが…。チンパンジーに文化が存在するだけでなく、地域によって違いがあるってこと。地元の研究者が気づかないことを、他の地域の研究者が発見するってこと。類人猿とホモサピエンスとの不思議な共通点かな。
2016年01月05日
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ネアンデルタール人と現生人類 5万5000年前に混血?国際研究グループが新説現生人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人の混血は5万5000年前にイスラエルのあたりで起こった可能性がある―。イスラエル・テルアビブ大学などの国際研究グループが28日付の科学誌『ネイチャー』電子版に発表しました。マノ洞窟の内部 ©IsraelHershkovitz,OferMarder&OmryBarzilai最近まで、現生人類とネアンデルタール人は混血していなかったとする説が有力でした。ネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)が解読され、その一部が現生人類のゲノムに受け継がれていることが2010年に報告され、一変しました。研究グループは、イスラエル北部、地中海沿岸に近いところにあるマノ洞窟で見つかった化石化した人類の頭蓋骨の一部を調べました。後頭部にある突起の特徴から現生人類のものと判明。頭蓋骨に付着していた鉱物を利用した年代測定で5万5000年前ごろ生きていたと推定されました。マノ洞窟があるレバントと呼ばれる地域は、アフリカで20万年前ごろ生まれた現生人類が、アフリカからユーラシア大陸へと出て行った通り道の一つだったと考えられています。一方、ヨーロッパから西アジアに分布していたネアンデルタール人が地球の寒冷化に伴って避難してきた地域でもあり、5万5000年前ごろレバントの別の洞窟にネアンデルタール人が住んでいたことがわかっています。これまで、現生人類とネアンデルタール人が混血したのは、現生人類がヨーロッパに進出した4万5000年前以降だったのではないかとみられていました。研究グループは、今回の研究結果は混血が5万5000年前ごろ、レバントで起こっていたことを示すとみています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年1月30日付掲載ネアンデルタール人の現生人類との出会いは、さらに1万年前だった。興味深い発見です。
2015年01月30日
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人類の出アフリカ 13万年前か従来の定説より早く■オーストラリアへ現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生の地であるアフリカを初めて出たのは13万年前ごろで従来考えられていたより早かった―。ドイツとフランス、イタリアの研究グループが21日公表された科学誌『米科学アカデミー紀要』電子版に発表しました。これまでは現生人類がアフリカを出たのは1回だったとされてきましたが、今回の研究は複数回だったことを示しています。現生人類はアフリカで20万年前ごろ誕生し、その後、アフリカを出て世界各地へ広がったとする説(アフリカ単一起源説)が有力です。これまでの研究では、アフリカを出たのは5万~7万5000年前の1回だけだったとされてきました。しかし、最近、アフリカを出た現生人類が最初に足を踏み入れたと考えられるアラビア半島で13万年前ごろの遺跡が見つかるなどしたため、もっと早かったとする説も提唱されています。研究グループは、アフリカ、アジア、オセアニアに住んでいる現生人類の10の集団について遺伝子や頭蓋の形を比較し、これまで提唱されている説のどれと最もよく一致するか調べました。その結果、アフリカを13万年前ごろ出てアラビア半島に渡って海岸沿いに進んだ人々と、5万年前ごろレバント(現在のイスラエルなど)を経てユーラシア大陸の北部に進んだ人々がいたと考えるのがよいことがわかりました。13万年前ごろアフリカを出た人々はオーストラリアの先住民などとなり、さらに5万年前ころアフリカを出た人々と混血することでアジアの各地に住む人々が形成されたといいます。「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年4月23日付掲載【ホモ・サピエンスのアフリカ出発、10万年前か アラビア半島に現生人類遺跡(2011.12.5)】【寒さに強い遺伝子~ネアンデルタール人がくれた(2014.2.1)】新しい説ですね。興味深いです。我々ホモサピエンスと、ネアンデルタール人や旧人との混血はあったそうですが、同じホモサピエンスでも、先に出アフリカをした人々と、遅れて出アフリカをした人々も混血していた可能性があるんですね。地球上の暑いところから寒いところまで、乾燥したところから湿ったところまで、いたるところに生存している現生人類。その、生存力の高さは、そういった歴史的背景があるのかもしれませんね、。
2014年04月24日
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寒さに強い遺伝子~ネアンデルタール人がくれた現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカを出た後ネアンデルタール人と混血し、それによって受け継いだ遺伝子がアフリカ以外の厳しい環境に適応するのに役立った可能性があるとする研究結果を米・ハーバード大学などの国際研究グループが科学誌『ネイチャー』電子版(30日付)に発表しました。現生人類とネアンデルタール人が混血していたことを示す研究結果が最近相次いで発表されていますが、受け継いだ遺伝子に関する発表は初めてです。研究グループは、1000人以上の現生人類のゲノム(全遺伝情報)にネアンデルタール人のゲノムがどのように寄与しているか調べました。その結果、現生人類とネアンデルタール人は4万~8万年前に混血し、皮膚や髪の毛にかかわる遺伝子が存在する領域にネアンデルタール人のゲノムを構成するDNAが高い頻度で存在していることがわかりました。アフリカを出た現生人類が世界各地に分布を広げるには寒冷な気候に適応することが必要でした。皮膚や髪の毛は、そのために重要な役割を果たします。研究グループは、早くからアジアやヨーロッパの寒冷な地域に住み、そうした遺伝子を持っていたネアンデルタール人との混血によってすばやく適応できた可能性があるとみています。一方、2型糖尿病や狼瘡(ろうそう)、クローン病などのリスクにかかわる遺伝子の変異がネアンデルタール人のゲノムに由来することもわかりました。また、米・ワシントン大学の研究チームは、600人以上の現生人類のゲノムについてネアンデルタール人のゲノムの審与を調べた結果を米科蛍誌『サイエンス』電子駈(30日付)に発表しました。アフリカ人以外の預生人類ではネアンデルタール人由来のゲノムの割合は個人だと2~4%程度ですが、それぞれが異なる部分を受け継いでいるため、現生人類のゲノムに残存するネアンデルタール人のゲノムは約90%であることがわかりました。人類の成り立ち複雑現生人類は、20万年ほど前にアフリカで生まれ、5万~8万年前にアフリカを出て、全世界に広がったとする説(アフリカ単一起源説)が有力です。現生人類がアフリカを出たときには、アジアやヨーロッパにネアンデルタール人や原人(ホモ・エレクトス)などが住んでいました。アフリカ単一起源説では、現生人類がこれらの人々と完全に置き換わったとしていました。今回の研究にも関わったドイツ・マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ぺーポ博士たちは1997年の時点では、ネアンデルタール人のミトコンドリア(細胞内小器官)のゲノムを解読した結果、現生人類と混血したと考えられる証拠は見つからなかったと発表していました。そうした状況が一変したのは、ペーポ博士たちが2010年にネアンデルタール人の核のゲノムの解読に成功し、ネアンデルタール人と混血した可能性が高いことがわかったと発表してからです。その後の研究では、現生人類がネアンデルタール人の姉妹種とされるデニソワ人や原人とも混血していた可能性を示す結果が得られています。今回の研究結果は現生人類の成り立ちが従来考えられていたよりかなり複雑であることを改めて示すとともに、ネアンデルタール人のゲノムに由来する遺伝子が現生人類の環境適応や特定の病気へのかかりやすさに影響を及ぼしていることを示しました。ネアンデルタール人は3万年ほど前に絶滅したとされています。しかし、今回の研究結果は、ネアンデルタール人が遺伝子を残すという形で今も現生人類の中に生きていることを示したのかもしれません。(間宮利夫)「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年1月31日付掲載僕が学校で習った時の説(1975年ごろ)では、アフリカから出た原人、旧人、新人(ホモサピエンス)。それぞれが、古い種を滅ぼしていったという「殺りく」の歴史だったという事でした。しかし、新しい研究では、新人(我々ホモサピエンス)が原人や旧人であるネアンデルタール人と一緒に暮らしていたという事です。原人や旧人(ネアンデルタール人など)が絶滅したのは、新しい種の人類に滅ぼされたのではなく、新しい環境に生きていくことができなくなって、自然に絶滅していったと考えられますね。【参考(小柄な「フローレンス原人」 祖先はジャワ原人か)】
2014年02月01日
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小柄な「フローレンス原人」 祖先はジャワ原人かインドネシア・フローレス島で2003年に化石が発見された小柄な「フローレス原人」は、初期のジャワ原人が孤島に渡って体が小さくなった可能性が高いと、東京大学と国立科学博物館の研究グループが17日、科学誌『英王立協会紀要』電子版に発表しました。脳の大きさを精密に測定して分かりました。フローレス原人の女性の復元模型=2010年6月16日、国立科学博物館フローレス原人は7万4000年~1万7000年前に同島に生息したことが遺跡調査で判明。食料が少ない熱帯雨林の島で「島しょ化」と呼ばれる現象が起き、身長が約1メートルまで小さくなったと考えられていますが、祖先は謎とされていました。東アジアと東南アジアには以前からジャワ原人や北京原人など、アフリカから進出してきた大柄で進歩した原人「ホモ・エレクトス」がいました。東大の久保大輔特任研究員や同博物館の河野礼子研究主幹らは約2万年前のフローレス原人の成人女性頭骨化石について、X線コンピューター断層撮影(CT)で内部を精密に測定し、模型を作製。壊れた部分を粘土で修復しました。その結果、頭骨内部の脳容量は426ccと、従来推定の約400ccより大きいことが分かりました。研究グループは初期ジャワ原人の脳容量・860cc程度で差が縮まったことなどから、初期ジャワ原人が祖先の可能性が高くなったとみています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年4月19日付掲載原人などは島に渡った者たちは「島しょ化」ということで、小柄になったのですが…。我々ホモサピエンスは、島に渡った者たちには、「島しょ化」現象は起こらず、大きいままだったのですね。原人の場合は、アフリカから出て、各地で進化したようですが、ホモサピエンスは肌の色や体格の違いはありますが、全世界で同じ種です。これって、すごい事なのかも。
2013年04月21日
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阪神淡路大震災との関連も… 淡路島中部 未知の断層が活動政府調査委~“阪神大震災と関連”兵庫県・淡路島で起きた最大震度6弱の地震について、政府の地震調査委員会は14日、文部科学省で臨時会合を開きました。阪神大震災の余震域南西に近い部分にマグニチュード(M)6・3の本震や余震の震源が集中分布していることから、深さ11~18キロの所に南北約10キロに及ぶ未知の逆断層型断層があり、西側が東側に対して隆起した可能性が高いと結論付けました。本蔵義守委員長(東京工業大名誉教授)は記者会見で「地表で痕跡が見つかっていないが、今まで知られていない断層があるに違いない」と述べました。阪神大震災から18年がたちますが、調査委は関連があるとの見解でほぼ一致。大震災の影響で周辺にひずみがたまって起きたとして、広い意味での余震とする見方もあったといいます。本蔵委員長は「大地震が起きた後、周辺で再び大きな地震が起きないわけだはない。1920年代以降、西日本内陸部ではM6以上の地震がかなり活発に起きており、防災活動が大事」と注意を呼び掛けました。今回の震源断層の南東には「先山断層帯」があります。過去約30年間はM2以上の地震がほとんど起きていませんが、調査委の長期評価ではM6・6程度の地震が起きる可能性があります。事務局の矢来博司文科省企画官は「今回の地震が全く影響しないとは考えられないが、どの程度か見積もることは今の技術では難しい」と話しました。【建物の被害2300棟余】兵庫県・淡路島で13日に最大震度6弱を記録した地震で、県は15日午後、建物の被害が2300棟余りになったと発表しました。総務省消防庁によると、負傷者も兵庫県で重傷者が1人増え、大阪、兵庫など5府県で計27人となりました。兵庫県の重傷者は6人で、半壊した建物は洲本市で39棟。一部損壊は洲本、淡路、南あわじの3市がそれぞれ1711、508、55棟となりました。「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年4月16日付掲載以下、気象庁のHPからの画像データです。2013年4月13日午前5時33分の地震の震度観測データ。平成25年04月13日05時48分 気象庁発表13日05時33分頃地震がありました。震源地は淡路島付近(北緯34.4度、東経134.8度)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は6.0と推定されます。 各地の震度は次の通りです。なお、*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。兵庫県 震度6弱 淡路市郡家* 淡路市志筑* 震度5強 南あわじ市広田* 南あわじ市湊* 淡路市久留麻* 震度5弱 洲本市小路谷 洲本市五色町都志* 南あわじ市福良 淡路市中田 淡路市富島 震度4 豊岡市桜町 神戸兵庫区烏原町* 神戸兵庫区上沢通* 神戸長田区神楽町* 神戸垂水区日向* 神戸北区藤原台南町* 尼崎市昭和通* 明石市中崎 明石市相生* 芦屋市精道町* 加古川市加古川町 加古川市志方町* 三木市細川町 三木市福井* 高砂市荒井町* 三田市下里* 兵庫稲美町国岡* 播磨町東本荘* 加東市天神* 姫路市豊富* 姫路市本町* 姫路市網干* 姫路市白浜* 赤穂市加里屋* 上郡町大持* たつの市御津町* 南あわじ市北阿万* 南あわじ市市* 淡路市岩屋* 震度3 豊岡市出石町* 豊岡市日高町* 豊岡市城崎町* 豊岡市竹野町* 養父市広谷* 兵庫香美町香住区香住* 朝来市和田山町枚田 朝来市生野町* 朝来市和田山町柳原* 朝来市山東町* 朝来市新井* 神戸東灘区住吉東町* 神戸灘区八幡町* 神戸須磨区若草町* 神戸北区南五葉* 神戸中央区脇浜 神戸西区竹の台* 西宮市宮前町 西宮市平木* 西宮市名塩* 伊丹市千僧* 西脇市上比延町* 宝塚市東洋町* 三木市吉川町* 川西市中央町* 小野市王子町* 三田市下深田 加西市下万願寺町 加西市北条町* 猪名川町紫合* 篠山市北新町 篠山市杉* 篠山市今田町* 丹波市春日町* 丹波市柏原町* 丹波市青垣町* 丹波市山南町* 丹波市市島町* 多可町中区* 多可町加美区* 多可町八千代区* 加東市社 加東市河高* 姫路市神子岡前 姫路市安田* 姫路市家島町真浦* 姫路市安富町安志* 姫路市香寺町中屋* 姫路市林田* 相生市旭 市川町西川辺* 福崎町南田原* 兵庫太子町鵤* 佐用町下徳久* 宍粟市山崎町中広瀬 宍粟市山崎町船元* たつの市龍野町* たつの市新宮町* たつの市揖保川町* 兵庫神河町寺前* 兵庫神河町新田* 震度2 豊岡市但東町* 養父市大屋町* 養父市八鹿町* 養父市関宮* 兵庫香美町香住区三川 兵庫香美町村岡区神坂* 兵庫香美町小代区* 新温泉町浜坂* 新温泉町湯* 西脇市黒田庄町前坂* 丹波市氷上町* 姫路市夢前町前之庄* 佐用町上月* 佐用町佐用* 佐用町三日月* 宍粟市波賀町* 宍粟市一宮町* 宍粟市千種町*神戸市中央区の僕の部屋では棚から何も落ちませんでした。職場の事務所(神戸市兵庫区)では、置物の人形が倒れたり、3階のパソコンのディスプレイが床に落ちたりしました。阪神淡路大震災で大きな被害のあった神戸では、エレベーターが止まったり、JRが止まったりする程度で、大きな被害はありませんでした。続々と入る情報によると、淡路島3市にわたり建物の半壊、一部損壊などが広がっています。心が痛みます。問題は多くを占める「一部損壊」の家屋。現在の「被災者生活支援法」では枠外とされてしまいます。2300戸という多くの暮らしに救いの手を差し伸べるのが政治の責任だと思う。
2013年04月17日
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ホモ・サピエンスのアフリカ出発、10万年前か アラビア半島に現生人類遺跡 現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカを出たのは10万年以上前だったー。英・バーミンガム大学のジェフリー・ローズ博士率いる国際研究グループがアラビア半島で発見した多数の遺跡を調べた結果わかったと、11月30日付のオンライン科学誌『プロス・ワン』に発表しました。現在広く受け入れられている説より3万年以上早まるといいます。 研究グループは昨年と今年、アラビア半島南東部のオマーン各地で発掘調査を行った結果、100カ所以上の現生人類の遺跡を発見しました。遺跡からは、これまでアフリカ北東部だけで見つかっていた10万年以上前の現生人類がつくった石器と同じタイプの石器が多数出土しました。 現生人類は20万年前から十数万年前、アフリカで誕生したとする説が有力です。その後、アフリカ北東部から紅海をはさんで対岸のアラビア半島南部を通って世界各地に広がったと考えられています。オマーンの遺跡で見つかった現生人類がつくった石器 (c)yamanduHilbert 細胞内小器官であるミトコンドリアDNAを使った研究などから、現生人類がアフリカ北東部からアラビア半島南部に渡ったのは7万~4万年前の間だったと推定されています。しかし、研究グループがオマーンで見つかった遺跡の年代を調べた結果、最も古いものは10万6000年前だったことがわかったといいます。 また、従来の説では現生人類はアラビア半島の海沿いを通ったとされていますが、今回発見された遺跡はすべて内陸でした。これらの場所は、遺跡がつくられた当時も内陸だったと考えられます。研究グループは、10万年前ごろのアラビア半島は雨量が多く緑の草原が広がっていて、水も動植物も豊富だったことから、現生人類は内陸でも十分食料をとることができたとみています。「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年12月2日付掲載次々と発掘される人類の歴史。ホモ・サピエンス(現生人類)の様に歴史の近いものから、アルファール猿人(ルーシーなど)、ラミダス猿人(アルディなど)の様な古いものまでいろいろですが、発見されるたびに興味をそそられますね。
2011年12月05日
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