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私が1979年9月に渡米し、帯米生活の準備をし、家族が来米したのは1980年2月のことでした。元来、外国での駐在は考えてもいませんでしたので、何の事前準備も出来ず、家族全員が大変でした。私も家内も英会話能力が十分でなく、況して子供達は現地学校に行ってもチンプンカンプンで苦労していました。何とか学校の学期末5月が来て、6~8月迄は長い学期末休暇と言うか夏休み休暇に入りますが、コミュニケーションの出来ない子供達を夏季キャンプに行かせるには自信が持てず、何とか広いテキサス平野では無い、コロラド州デンバーまで飛行機を利用して山岳地帯のロッキー山脈国立公園に連れて行くことにしました。私も家内も30才代で、子供達も未だ一桁代でしたし、若さと言うものはリフレッシュ出来る能力があると言うことなのでしょう、親も子も9月からの生活に臨むことが出来た気がしました。 Moonlight on the Colorado Slim Whitmanたった3泊の初めての家族旅行でしたが、旅行と言うものは、日常の固定観念を解きほぐしてくれる効果がある様です。今では、アメリカ民謡の「コロラドの月(Moonlight on the Colorado)」を当時を懐かしく思い出しつつ聴くことが出来ます!
2019.08.12
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齢をとって来ますと、学校で習った唱歌が、何故か無性に懐かしくなります。フォスターの名曲は多数教科書に掲載されていましたし、「故郷の人々」もその一つだったと思うのですが、歌詞が記憶と違うのです。ネット検索しても出て来ませんが、緒園凉子訳詞の「スワニー河」だったのかも知れません。再検索して、賛美歌訳詞でしられる津川圭一氏の訳詞で学んだことが分かりました。勝承夫訳詞 故郷の人々 「故郷の人々」(Old Folks at Home) が、スティーブン・フォスターが1851年に制作したミントレルソング。別名「スワニー河」(Swanee River)。フロリダ州の公式州歌でもある。1949年には、勝承夫訳詞によって「故郷の人々」として発表され、小学校の音楽教科書に掲載されていた。又、緒園凉子訳詞の「スワニー河」もよく知られている。Way down upon de Swanee ribber,Far, far away, Dere's wha my heart is turning ebber, Dere's wha de old folks stay.All up and down de whole creation, Sadly I roam, Still longing for de old plantation, And for de old folks at home.遥かなるスワニー川 その下(しも)なつかしの彼方よ わがふるさと旅空のあこがれ はてなく思い出ずふるさと父母(ちちはは)います長き年月(としつき) 旅にあればおお つかれしわが胸父母(ふぼ)をしたうよ1982年正月を家族でフロリダ州のDisney Worldで過ごすべく、ヒューストンからインターステート10号線でひたすら東へ行きましたので、途中通過した筈ですが、あまり大きな河で無かったので記憶に残っていません!
2019.08.07
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被爆しながらも、原爆病の治療を研究しつつ、闘い抜いた永井隆博士を讃える「長崎の鐘」を、本当に久しぶりに聴きました。藤山一郎 「長崎の鐘」未だ、全国的には広く知られていなかった1949年に歌われたことから、その悲惨さが知られて、世界的に拡がった原水爆禁止運動に発展する切掛けとなりました。亡くなった家内は長崎県出身ですが、満州の大連生まれで1946年迄新京にいて義父が参事として満鉄のソ連・中国への移管手続きの為留め置かれたこともあって、原爆被害にあっていませんが、親戚には原爆手帳を保持しつつ原爆後遺症で亡くなった方も多くいたのです。作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄: 1 こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る2 召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る3 つぶやく雨のミサの音 たたえる風の神の歌 耀く胸の十字架に ほほえむ海の雲の色 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る4 こころの罪をうちあけて 更け行く夜の月すみぬ 貧しき家の柱にも 気高く白きマリア様 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。作詞依頼を受けたサトウハチローは、永井から贈られた著書を読んで感動し、全身全霊を捧げて作詞したといいます。それは作曲の古関裕而も同じで、短調で始まった曲が、途中で明るい長調に転じ、悲しみに負けないで、未来に希望を持とう、という歌詞のメッセージが伝わってきます。
2019.06.25
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500 Milesと言うフォークソングは、元はシンガーソングライターのヘディー・ウェスト女史(Hedy West 1938 – 2005)の作品で、ピーター・ポール&マリー(PPM)が歌い継いだことで、一挙にアメリカの有名なフォークソングとなりました。当時のアメリカは、ベトナムへの軍事介入も拡大して、世情不安の時代でもありました。フォークソングも元来、反戦色の濃い歌で、ジョーン・バエズ(Joan Baez)女史もシンガーソングライターの一人でした。そんな世の中に価値を見出せず、ヒッピーとも呼ばれる放浪者を輩出することになり、当て所も無い旅人となりましたが、お金もなく、日々の暮らしに精いっぱいの彼等は、故郷を離れると、再び帰ってくることが出来なかったのです。この歌はそんな放浪者の悲しみや故郷への哀愁を歌ったもので、動画が不鮮明ですが、1962年のPPMを聴いてみて下さい。500 miles - Peter, Paul and Mary [Original Audio]Lord, I’m one,Lord, I’m two,Lord, I’m three,Lord, I’m four,Lord, I’m five hundred miles from my home.主よ、私は1 (00マイル)主よ、私は2(00マイル)主よ、私は3(00マイル)主よ、私は4(00マイル)主よ、私は故郷から500マイルも離れてしまったNot a shirt on my back, Not a penny to my name Lord, I can’t go a-home this away私のバッグにはシャツも無く、 金は1ペニーもありません。主よ、私は故郷に帰れません
2019.06.08
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ラスールスーリール(La Sœur Sourire)はフランス語で、「微笑む修道女」と意味で、ベルギー歌手の芸名、本名はジャンヌ=ポール・デッケルス(Jeanne-Paule Marie Deckers)と言うらしい。修道院でギターを習い始め、音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表。このアルバムに収められた「ドミニク(英語版)」が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入る。シングル・アルバムの両チャートで1位を獲得した。彼女は一夜にして国際的なスターとなり、スール・スーリール(Sister Smile)の芸名を名乗った。日本ではペギー葉山やザ・ピーナッツ、東京放送児童合唱団にてカバーされました。Soeur Sourire (The Singing Nun) Dominique 1963Dominique, nique, niqueS'en allait tout simplement,Routier, pauvre et chantantEn tous chemins, en tous lieux,Il ne parle que du Bon Dieu,Il ne parle que du Bon DieuA l'époque où Jean Sans Terre, d'Angleterre était le roiDominique notre père, combattit les albigeois.ドミニク ニクニクそまつななりで旅から旅へ どこに行っても語るのはただ 神の教えよ語るのはただ 神の教えよイギリスならば ジョン王の頃セント・ドミニクの この物語しかし1970年代後半に災いに襲われる、ベルギー政府が彼女に5万米ドルの追徴課税をおこなうと発表した。ジャンヌは、金は修道院に寄付したもので課税の対象外となると主張したが、寄付だったことを示す領収書が存在しなかったため彼女の言い分は認められず、深刻な経済苦に見舞われることとなった。1982年には芸能界への復帰を図って失敗、1985年に彼女は睡眠薬と酒を過剰服用して自殺し、埋葬されました。(La Sœur Sourire 1933年10月17日 - 1985年3月29日)
2019.06.07
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オースザンナは、ジョージ・フォスターが多数作曲したアメリカン民謡とも言える歌の一つ、バンジョーの伴奏もあって、米国の懐かしいメロディーを楽しませてくれます。歌詞もフォスター自身で、元来はプアホワイトの多く住むアメリカ南部の方言が入っている筈ですが、コニー・フランシスの唄うオースザンナは正調と言うか、一般的と思われるアメリカ英語で歌ってくれます。Oh! Suzanna ( Rare ) ( 1848's Cover by CONNIE FRANCIS ) – Lyricsアメリカ東部の鼻に掛ったイギリス調英語でもなく、南部のゆっくりと話す方言や訛りが入った英語でもなく、一般的で平均的な英語ではっきりとメリハリ良く歌っていますので、聴いていて楽しくなります。バンジョーとハモニカ伴奏で、生活が大変でも人生を満喫している開拓時代を思い起こさせてくれる気がします!コニー・フランシス(Connie Francis、1938年12月12日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州ニューアーク出身の歌手・女優。イタリア系。本名はConcetta Rosa Maria Franconero、1960年代前半にかけてヒット曲を連発。1961年にはシングルチャートで女性として初めて1位を獲得した。
2019.06.04
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1976年にカーペンターズが歌った曲で、ボーカルのカレン・カーペンターが最も気に入っていた曲だったと言うことですが、全米チャート最高25位、日本のオリコンで最高62位と振るず、カレン(Karen)も拒食症で1983年に32才で夭折してしまいます。しかし、1995年に日本のTVドラマでエンディングテーマに取り上げられ、大好評を博したことで、日本独自で発売されたベスト・アルバム「青春の輝き〜ベスト・オブ・カーペンターズ」は、350万枚以上を売り上げたのだそうです。青春の輝き【Kei's Echo 訳詞付】- The Carpentersカレンの哀愁を帯びた声で、青春の輝きと言うよりも青春での失恋悔悛を歌っていて、自分の心情を吐露している名曲となりました。アップロードされた動画の日本語訳詞が、自然な日本語で心に染み入る感じがしますので、記載することにしました!The hardest thing I've ever done is keep believing生きていて一番難しいのはThere's someone in this crazy world for meこの狂った世にも、私の為に誰かいると信じることThe way that people come and go through temporary liveうたかたの世界を通り過ぎて行く人々の様にMy chance could come and I might never know私にもチャンスが来るのかしら、どうなのでしょうI used to say "No promises, let's keep it simple"約束はせずシンプルでいましょうと言ったけれどBut freedom only helps you say goodbye気ままさは、別れを早めただけIt took a while for me to learn that nothing comes for free無償で手に入るものなんて無いと気付くのが遅すぎてThe price I paid is high enough for me失ったものは多すぎるI know I need to be in love, I know I've wasted too much time愛が無いと生きていけないと今頃、やっと気付いた私I know I ask perfection of a quite imperfect worldこの不完全な世で、完璧な愛を求めAnd fool enough to think that's what I'll findそれが見つかると思っていた、バカな私So here I am with pockets full of good intentions良かれと思い、色々やってみるけれどBut none of them will comfort me tonight何の慰めにもならないI'm wide awake at 4 a.m. without a friend in sight寝付けないまま朝の4時、身近な友人もいなくてI'm hanging on a hope but I'm all right希望に縋り付いて何とかやっているI know I need to be in love, I know I've wasted too much time愛が無ければ生きていけないと今頃、今頃やっと気付いた私I know I ask perfection of a quite imperfect worldこの不完全な世で完璧な愛を求めAnd fool enough to think that's what I'll findそれが見つかると思っていた、バカな私
2019.06.01
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カール・ベームの最後の録音が、カセット2個セット版として、我が家に残っています。1981年デジタル録音で、カール・ベームが亡くなったのは1981年8月ですから、ほぼ間違いはありません。YouTubeでネット検索していましたら、カール・ベーム指揮するウィーンフィル日本公演、ベートーヴェンの序曲「レオノーレ3番」がアップロードされていました。Beethoven Leonore Overture No.3 Karl Böhm, Wiener Philharmoniker 1977年3月2日 NHKホールでの録画なのだそうで、興味深く拝聴しました。歌劇《レオノーレ》(フィデリオ)の改訂上演のために、その序曲としてレオノーレ序曲第2番を改作する形で作曲された。初演はオペラの上演と同時に1806年3月29日、アン・デア・ウィーン劇場にて行われた。現在ではコンサート・ピースとして、さらにオペラ上演では第2幕第2場の前に演奏される楽曲として、ベートーヴェンの中でも最も有名な序曲の一つとして知られる。私が初めてLPレコードを買ったのは、東大構内の生協店、法文経1号館の安田講堂前広場に面している東側突端にありました。カール・ベーム指揮するウィーンフィルのモノーラル盤で、ベートーヴェン交響曲7番とレオノーレ3番がカップリングされているLPレコードでした。未だ、屋根裏のLPレコード収蔵箱に残っている筈です!
2019.05.28
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昨日、NHKBS「世界の街歩き」はスイスのバーゼル(Basel)でしたが、エメンタール(Emmental)に遠出する「寄り道」編も紹介されていました。Talはドイツ語で「谷」を意味しますので、深い谷間を予想していましたが、エメンタールチーズの名産地で、平原に見えました。小学校か中学校か、定かではありませんが、音楽の時間に歌わされたスイス民謡をふと思い出しましてしまいました。出だしは「懐かしエメンタール、エメンタール麗わし」なのですが、その後の歌詞は記憶の抽斗が故障して、引き出せずに出て来ません。其処で「エメンタール スイス民謡」でネット検索しますと、「アルプスの谷間」と言う題名で次の様に紹介されていました。ヨーデル名曲「アルプスの谷間」/チーズ生産で知られるスイスのエメンタール地方「われらが楽しき故郷エメンタール」が歌い出しの「アルプスの谷間」は、NHK「みんなのうた」で1960年代に放送された曲。作詞は矢沢 保、歌は西六郷少年合唱団により収録された。後半のヨーデル部分はコーラスアレンジで歌われている。「アルプスの谷間」の原曲は、スイス民謡・ヨーデル 『Emmentaler Jodler(Niene geits so schön und luschtig)』(エメンタールのヨーデル歌い)。『Emmentaler Lied』とも表記されるようだ。このスイス民謡は他にも日本語に訳詞されており、『エンメンタール美わし(美しいエンメンタール)』のタイトルで、『アルプスの谷間』とは異なる歌詞で歌われる。結局、学校で歌わされた歌詞にたどり着くことは出来ませんでしたが、懐かしいメロディーを「アルプスの谷間」で楽しむことにしました。Emmentaler Jodler 「エメンタール」 八月真澄広い谷間と山岳がバック画像になっている、ヨーデルも良いものです!
2019.05.15
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1960年の安保闘争の最中、街頭デモを展開する学生達の間で良く歌われておりました。多分、駒場寮の寮歌集にあったものとされていますが、定かではありません。北帰行 旧制旅順高等学校 歌うは緑咲香澄メロディーは微妙に違っていますが、旅順高校とは知りませんでしたし、何か懐かしさを覚えるばかりです。その後、歌詞や節回しを一部変えて小林明・ボニージャックスが歌っていましたが、やるせない焦燥感もあり、安保闘争の挫折感と相まってそれなりのヒットとなっていました。「作詞家・作曲家である宇田氏は旅順高校を退学後。奉天の農業大学の学長だった父の家に行くまでの一週間、市内の旅館に宿泊しました。その時作った歌が「北帰行」でした。別れの日。同級生50人が俄かに覚えたこの歌をバス停で歌って見送りました」との旅順高等学校同期生の証言もある様です。
2019.04.11
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今まで、殆ど聴いていない歌唱曲ですが、ドイツの有名な国立公園の動画をバックにして、青年合唱団が歌う、静謐な歌唱には心惹かれるものがありました。Ave Maria - Wenn ich ein Glöcklein wär - Jugendchor am Schmitthenner Gymnasium in Neckarbischofsheimmit Bildern aus dem Nationalpark Berchtesgadenerlandとなっておりますので、ドイツ最初の国立公園ベルヒテスガルテンの動画がなっていますが、これはミュージカルともなった映画「サウンド オブ ミュージック」の冒頭を飾る動画でもありましたので、見入ってしまいました。2000年春、インスブルックからザルツブルグに向かう途中に、その南側をかすめたのですが、寄ることが出来なかったのは残念なことでした。Wenn ich ein Glöcklein wär,laut (schön) wollt ich läuten.Das sollte rings umher allen bedeuten:Ave Maria, ave Maria, ave Maria!もしも私が小さな鐘であったなら声高らかに美しく歌うのですその音の調べの意味する処はマリア様、マリア様、マリア様と!とでも、訳すのでしょうか?
2019.04.04
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EWI-USBで「Wie schön ist es im Freien」を吹くこのメロディーを聴きますと、小学校の音楽の授業で習った記憶が、うっすらと蘇りました。YouTubeにて「うるわし春よ」で検索しますと、下記の歌詞で歌われていました。うるわし春よ 緑に映えて歌声ひびく 野に山にうるわし春よ 緑に映えて歌声ひびく 野に山にランララ ランララ ララララランララ ランララ ララララランララ ランララ ラララランララ ランララ ラWie schön ist es im Freien,Wenn unter grünen MaienWir singen allzumal,Daß klingen Berg und Thal!Wie schön ist es im Freien,Wenn unter grünen MaienWir singen allzumal,Daß klingen Berg und Thal!La la lalalala la laLalalala la la lalalaLalalalala.原語のWie schön ist es im Freien,で検索しても、合唱が僅か1件出て来るだけで、ドイツでもそれ程歌われることが無く、先人の音楽唱歌への深い熱情があったお蔭で、素敵なドイツ民謡を知ることが出来たのだと感謝するばかりです。
2019.03.28
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昨日のNHKEテレ(2チャンネル)では、N響~伝説の名演奏~として、ギドン・クレーメル演奏のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、1986年3月収録のものが放映されていました。指揮者ホグウッドがAncient Music楽団とヴァイオリン奏者のクレーメルと共に、パルテノン多摩の大ホールでコンサートを開いてくれたのは、多分完成直後の1987年頃のこととなりました。プログラムメニューは、モーツアルトの交響曲とヴァイオリン協奏曲だったと思いますが、何番だったかは記憶に残っていません。駅から遊歩道を経て直近のコンサートホールと言う名目で、小さな多摩市が複合施設を建てたのですが、やはり郊外の悲しさ、集客力に乏しくて音楽興業を成功させるのは難しく、その後は著名なクラシック音楽が演奏させることは、極めて乏しくなりました。近年、開設30年を経過して、劣化が目立って、改修工事が予定されていますが、30億円を高齢少子化の進む多摩市のみで計上することは難しく、近隣の自治体を巻き込んだクラウドファンディングを構築する必要がありそうで、そうで無いと夕張市の様に自治体破産も懸念される状況です。さてYouTubedでは、ホグウッドとクレーメルの共演による、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲はアップロードされていない様ですので、アーノンクール指揮のウィーンフィルとの共演に依る、ヴァイオリン協奏曲3番の第2楽章を聴いてみてください。Mozart - Violin Concerto No. 3 in G Major, K. 216 II. Adagio
2019.03.18
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我が家には、ヨーゼフ・シゲティの芸術と言うアナログLP盤、グルミョーのCD盤がありますが、近頃あまり聴きません。アナログLPを再生する音響機器が無いことと、CD盤は全集版なので、敢えてK296だけを聴くことが無いからです。しかしながら、YouTubeを検索していますと、第2楽章のみをアップロードしている動画が多くありますので、聴き比べてみますと、下記の動画が秀逸でした。Mozart - Sonata for piano and violin K296 II Andante sostenutoピアノのRadu Lupu、ヴァイオリンの Szymon Goldbergのアンサンブルが絶妙なのです。この演奏に同じ思いを抱く人はおられる様で、次の様に表現しています。最近になって、クラシックCDの名盤、演奏家編で唯一推薦しているモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集、ゴールドベルグ(Vn)/ルプー(Pf)盤(英LONDON 4485262)を聴くことが出来ました。期待に違わずそれは素晴らしいものでした! このK296の第二楽章は温かくゆっくりとしたルプーのピアノにゴールドベルグのヴァイオリンが控えめに寄り添って、鳴り始めた瞬間から部屋の空気が清らかで爽やかなものに置き換わったように感じられるほどです。普段、クラシックを聴かない人でも騙されたと思って一度はこの曲を、出来ればこの演奏で聴いてみてください。この演奏は1974年のアナログ録音(ADD)ですが、とても優秀です。オン・マイクで収録されているため弓の弦から離れる瞬間までわかります。また、ピアノはソフトでしかもしっかりした輪郭をもって録音されていて、モーツァルトのピアノ曲の録音としてはかなりの出来映えです。
2019.03.06
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ふとYouTubeを検索していましたら、お薦めの動画としてベートーヴェンの弦楽4重奏曲9番がリストアップされていました。確かに、Googleでは個人情報を集積管理している様で、恐ろしくなって来ました。これらが政府権力に提出されますと、国家によってあまねく国民支配がされると言う異常事態に発展してしまう懸念が大きくなりました。ベートーヴェン中期の名曲とされるラズモフスキー3番で、演奏はオライオン弦楽4重奏団(Orion String Quartet)、2008年サンタフェ室内楽フェスティバルに演奏された生録音の様です。The Orion String Quartet Plays Beethoven op.59 #3 IV第4楽章はAllegro Moltoのソナタ形式ですが、フーガ形式と渾然一体となって、大きな雪崩の如く、全てを吹き飛ばしてしまう迫力に満ちています。その楽章の作曲スケッチには、「お前が此処で社会の渦巻の中に突進する様に、あらゆる社会的な障害に屈せず歌劇を書く様にせよ! お前の聾唖については、最早何の秘密もあるまい。芸術についてもまた」と決意表明していて、このあとに着手された第5交響曲「運命」に繋がって行くらしいのです。凄まじいベートーヴェンの決意と人間力に感嘆するばかりです。
2019.02.27
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星の界(よ)と言う唱歌を教えられたのか否か、定かではないので、ネットで調べてみましたが、記憶は蘇りません。私の中学時は1954~1962ですので、杉谷代水の歌詞の筈ですが、こんな格調高い文語調の難しい歌詞には覚えが無いのです。明治時代の先人の和魂洋才と言う生き方に、改めて感嘆するばかりです。チャールズ・コンヴァースによって作曲された"What a Friend We Have in Jesus"という賛美歌312番、日本では「慈しみ深き 友なるイエスは」と歌われます。わが国では、杉谷代水が宇宙の雄大さをテーマとした「星の界(よ)」という歌詞で、1910年発行の『教科統合中学音楽(二)』に掲載され、文部省唱歌として歌い継がれましたが、1970年に川路柳虹による「星の世界」という題名で音楽の教科書に載るようになりました。若い世代の方は「星の世界」の歌詞で習っている筈です。しかし「星の界」の歌詞の方が格調高く味わい深い気がします。星の界(ほしのよ)/星の世界 【カラオケ】月なきみ空に、きらめく光、嗚呼(ああ)その星影、希望のすがた人智(じんち)は果(はて)なし、無窮の遠(おち)に、いざ其の星影、きわめも行かん雲なきみ空に、横とう光、ああ洋々たる、銀河の流れ仰ぎて眺むる、万里(ばんり)のあなた、いざ棹(さお)させよや、窮理(きゅうり)の船にかがやく夜空の 星の光よまばたく数多(あまた)の 遠い世界よふけゆく秋の夜 すみわたる空のぞめば不思議な 星の世界よきらめく光は 玉か黄金(こがね)か宇宙の広さを しみじみ思うやさしい光に まばたく星座のぞめば不思議な 星の世界よ
2019.02.23
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私には絶対音感が無い代わりに、記憶力には多少自信がありましたので、中学校の音楽授業では、覚えなければならないメロディーはドレミの音符で覚えることにしていました。メリー・ウィドウワルツも、授業で歌わされたのでしょうし、その歌詞の方は記憶の彼方ですが、それから65年経った今でも、「ソドレミソドレミ ファミレ・・」と音階音符は口ずさむことが出来ます。FRANZ LEHAR - THE MERRY WIDOW WALTZクラシック音楽の範疇なのでしょうが、作曲年代は20世紀初頭の様です!メリー・ウィドウ(原題Die lustige Witwe 英訳名The Merry Widow)は、フランツ・レハールが作曲した3幕からなるオペレッタ。日本ではもっぱら英訳の題名「メリー・ウィドウ」で呼ばれるが、原題のドイツ語「ルスティゲ・ヴィトヴェ」は日本語に訳すと「陽気な未亡人」となる。作曲:フランツ・レハール原作:アンリ・メイヤック『大使館付随員』(L'Attache d'ambassade)台本:ヴィクトル・レオン、レオ・シュタイン言語:ドイツ語初演:1905年12月30日、アン・デア・ウィーン劇場指揮者:フランツ・レハール
2019.02.20
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昔、ナルシソ・イエペスの演奏するアランフェス協奏曲のLPレコードを購入した際、B面にカップリングされていたのを聴いたのが最初でした。ヴィヴァルディは急・緩・急の3楽章を持ち、主に第1楽章において全奏による繰り返しと独奏楽器による技巧的なエピソードが交替するリトルネッロ形式をもつ独奏協奏曲の形式を確立した人物として知られる。ヴィヴァルディは、「協奏曲長」としてヴェニスのピエタ音楽院に奉職しつつ、サンタンジェロ劇場をホームベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始め、ピエタ音楽院の為には協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2~3回ほど指導する契約を交わした程、必要不可欠な人物でもあった。ヴィヴァルディのギター協奏曲は、元来リュートの為の協奏曲で、コードを指定してアルペジオ奏法を駆使する曲であったらしいのですが、現在はリュートで演奏されることは無い様です。ヴィヴァルディの曲は、平易で陰影が少ないことで知られていますが、このギター協奏曲の第2楽章は、しっとりとしたメロディーをゆっくりと聴かせる曲風にて、出色の出来栄えの様に思われます。Vivaldi guitar concerto in D major 2ºmovement
2019.01.29
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生まれながらの国際人であるコルトーは、ピアニストとして成功してからは呼ばれるままに世界中で演奏活動を行ったことが、第2次大戦後にナチス協力者として裁判にかけられることとなり、歴史に翻弄されたと言っても過言ではありません、晩年は病身に加えて目が見えなくなると言う不幸にも見舞われました。コルトーにとってドイツとは音楽と文化であり、ゲルマン精神やその野心については何も興味がなかった。後年、ナチスによる残虐な行為を知らされたコルトーは沈黙のなかに逃げ込み、言葉を失ったと言う。戦後、コルトーは対独協力者として裁判にかけられ、暫く音楽活動を中止しなければならなかった。復帰後は歓迎と抗議の嵐に晒される。80歳を超えても演奏活動を行ったが晩年は恵まれていなかった。亡くなる4年前の81才でのコルトー最後の演奏会は、不世出のチェロ奏者であるカザルスとのデュオ演奏会で、ベートーヴェンを選んでいますが、1958年と録音が古い所為か、何か覇気に欠ける様にも感じられてなりません。Cortot Last Concert: Cortot & Casals Beethoven Magic Flute Variationsベートーヴェンも、この魔笛と言う音楽が好きだった様で、荒唐無稽な脚本の歌芝居(SingSpiel)がモーツァルトによって芸術に高められたことに感銘を受け、魔笛の主題による変奏曲を2曲、作曲しています。
2018.12.28
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BWV727はバッハのコラール前奏曲で小品ですが趣き深い曲、私はクリスチャンではありませんので、宗教的な受難と言うことに拘ることも無く、9年前に亡くなった家内を思いつつ、心静かに落ち着いて聴くことが出来ました。フランスのオルガン奏者Marie=Claire Alainの演奏で聴いてみて下さい!バッハ: コラール《心より われ こがれ望む》BWV727 アラン1997年オランダHaarlemで購入したCDからアップロードし、滞在の思い出としてブログにしたのは2011年のことでしたから、もう7年以上前のこととなりました。アラン女史は2分半の演奏ですが、2011年にアップロードしましたPiet Kee氏のSt. Bavoでの演奏は3分を超えたゆっくりとしたもので、私にはこちらの方が好みです。 Herzlich tut mich verlangen-わが心の切なる願い我は、切に幸福な死を願うこの世は、試練と不幸が取巻けば我は、悪意の世との別れを熱望す我は、永遠の喜びに憧れるおおイエスよ、はやく来たれ!
2018.12.25
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この民謡は、大学の友人に教えて貰ったと記憶していますが、1960年代に数多くあった歌声喫茶で覚えたものかも知れません。何れにせよ、自然豊かな草原や海浜で、育つ人々の姿は心を和やかにすることは間違いありません。これは、五島列島の新上五島町の矢倉岳から観た海浜、国立公園の範疇には入っていませんが、人の営みと自然が共生している風景と思われます。1938年に王洛賓が新疆のカザフ族の民謡をもとに編曲・中国語作詞をして発表、中国を代表する民謡として世界中で知られている。日本でも1961年6月にザ・ピーナッツにより発表されたこともあり、この歌はよく知られていて、訳詞が「はるかはなれた、そのまたむこう」で始まる青山梓・劉俊南のものが歌われている。 日本では青海省の民謡ということになっていて、これは作者の王洛賓が青海省で映画作成プロジェクトに協力している時に、チベット族の美しい娘さんに会い、感動してこの歌曲を作ったという話が広く流布されていることによる。草原情歌 - 胡美芳在那遙遠的地方,有位好姑娘,人們走過了她的帳房,都要回頭留戀的張望。人們走過了她的帳房,都要回頭留戀的張望。はるかはなれた そのまたむこうだれにでも好かれる きれぃ娘がぃるだれにでも好かれる きれぃ娘がぃる她那粉紅的笑臉,好像紅太陽,她那美麗動人的眼睛,好像晚上明媚的月亮。她那美麗動人的眼睛,好像晚上明媚的月亮。明るい絵えがお お日さまのようくりくりかがやく目は お月きまのようくりくりかがやく目は お月きまのよう
2018.12.16
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昨日の12月5日はモーツァルトの命日、何かを聞きたいとYouTubeで検索していましたら、K.250ロンドを伝説のヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーが演奏するSP盤がアップロードされていました。Fritz Kreisler - Mozart : Rondo in D K.250 (1938)1938年の演奏で、発売の年度は分かりません、咽び泣く様な雰囲気がSP盤にはある様で、自慢の再生装置方法を駆使しているのだと思われました。セレナード第7番ニ長調K.250は、モーツァルトが1776年に作曲した管弦楽用のセレナードである。「ハフナー」という愛称を持ち、「ハフナー・セレナード」とも呼ばれる。8楽章構成で、第2楽章から第4楽章までは、独奏ヴァイオリンが活躍し、ヴァイオリン協奏曲の性格も持つ。その内、第4楽章Rondoはクライスラーがヴァイオリンとピアノのための楽曲に編曲したことで知られている。
2018.12.06
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元々は、稗(ひえ)を臼に入れ杵でつくときに歌った作業歌だった様で、平家の落人伝説に置き換えられて、悲しいロマン溢れる歌詞やメロディとなった様です。ビクター少年民謡会の少女達の唄う歌が、民謡の由来にマッチした素朴さと悲しいロマンを表現出来ている様に思われます。ひえつき節 ビクター少年民謡会庭の山椒(さんしゅう)の木鳴る鈴かけてヨーホイ鈴の鳴る時や出ておじゃれヨー鈴の鳴る時や何と言うて 出ましょヨーホイ駒に水くりょと言うて 出ましょヨー那須の大八鶴富おいてヨーホイ椎葉たつ時や目に涙ヨー平家の落人伝説:平安末期1185年の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、一部の平氏残党が日向国椎葉へ逃れた。源頼朝の命を受け、那須与一の弟大八郎は、椎葉村へ残党追討に向かった。そこでは、平氏残党は実直に農耕に勤しむ農夫となって暮らしを築いていて、その健気な姿に、幕府には討伐した旨の報告を行い、自分もこの椎葉村に留まる決意をした。落人達との交流を深めていくうちに、大八郎は平清盛の末孫とされる鶴富姫と恋に落ち、逢瀬を重ねた。何年か経った後、大八郎は鎌倉より帰還命令を受けたその時、鶴富姫は大八郎の子を身ごもっていた。大八郎は「男の子なら連れてこい、女の子ならここで育てよ」と太刀と系図を与え、鎌倉へ帰っていった。鶴富は女子を生んだ。成人後は婿を取り、その婿が那須下野守を名乗って椎葉を治めたという
2018.11.27
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11月も後半となりますと、紅葉も少し色褪せて来ました。10月末に撮ったアメリカ楓も、今は葉を半分以上落としてしまって裸木となり、少し侘しさを感じさせてしまいます。「秋深し隣は何をする人ぞ」ではないのですが、今朝は、小学唱歌の「里の秋」をPCで聴いています。里の秋_川田正子さん元来は「星月夜」と言う唱歌であったらしいのですが、敗戦後の情景を現すべく、又戦後の復興生活を取り戻す為に、改変された唱歌の様です。夭折してしまった川田正子さんの透き通った声で、静かな里の秋を、母と二人きりの囲炉裏端で栗の実を煮ながら、戦地から未だ帰らぬ父の戻るのを待っている情景がしみじみと伝わって来ます。
2018.11.17
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これは我が家にある「マタイ受難曲」、オットー・クレンペラー指揮のLPレコード4枚組セット、多分40年以上も前に購入したものですが、3時間を超える大曲なのであまり聴いた記憶はありません。1981年に夭折したカール・リヒター指揮の「マタイ受難曲」が、数多くアップロードされていましたので聴いてみました。その中で、39番アリア「憐れみたまえ わが神よ」が聴きものでした。独唱者はアルトのユリア・ハマリ女史、40年も前の演奏と独唱でしたが、非常に魅力的でした。Bach - Julia Hamari - Matthäus Passion - Erbarme dichErbarme dich, mein Gott, 憐れみたまえ わが神よUm meiner Zahren willen ; 滴り落つるわが涙のゆえに。Schaue hier, Herz und Auge 此を見たまえ、心も眼《まなこ》もWeint vor dir bitterlich 御身の前にはげしくもだえ泣くErbarme dich, ernarme dich. 我を憐れみたまえ 憐れみたまえ
2018.10.22
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Dinu Lipatti - J S Bach corale prelude bwv 639絶望と救いの無さに対して悩む人々が、主イエスキリストに救いを求める感情を、静謐なタッチで、良く表現されている様に思われます。ディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti, 1917~1950年)は、ルーマニアのピアニスト。彼は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることで、純粋に徹した孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。33歳で、ジュネーヴ郊外でこの世を去った死因は白血病と言われるが、実際はホジキンリンパ腫である。我が母も、80才の時に、半年の闘病後、悪性リンパ腫で1993年に亡くなりました!コラール前奏曲BWV639"Ich ruf zu dir,Herr Jesu Christ."「我汝を呼ぶ、主イエス・キリストよ」 Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ,Ich bitt'; erhor mein Klagen;Verleih' mir Gnad' zu dieser Frist,lass mich doch nicht verzagen,Den rechten Weg, o Herr, ich mein',Den wollest du mir geben, Dir zu leben,Meinem Nachsten nutz zu sein,Dein Wort zu halten eben.私は呼びかけます、主イエス・キリストよ、どうぞ、私の嘆きをお聞きください暫くの間、私に恵みをお与えください、私を怯えさせないでください。 私は正しい道を信じ、主よ、 私に与えることを望んでいると、 あなたの為に生き、 私の隣人に役立ち、 あなたのお言葉を守る為に。
2018.10.19
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松島詩子女史(1905年5月~1996年11月)は、1955年にヒットした「喫茶店の片隅で」でよく知られている歌手ですが、それよりおよそ20年も前の1937年に和製タンゴ「マロニエの木蔭」を歌い、ヒットさせたことでも知られています。松島詩子 - マロニエの木陰 SP盤再生1936年の暮れ、キングレコードのディレクターから「マロニエの木蔭は歌うのが難しいが、誰に歌わせたら良いだろうか」と相談を受け、そのディレクターの机の中で三年間も眠っていたその曲を、松島詩子がピアノで弾いて口ずさむと、「いい曲だわ、私に歌わせて!」と言った。その曲が「マロニエの木蔭」であった。松島詩子女史は、声楽家としては遅咲きで、変わった経歴の持ち主で、20才代後半に学校の教諭から転身、自己研鑽に努めて類い稀なる歌唱力を身に付けた様です。1931年文検に合格し、広島県忠海高女教諭。しかし声楽家への道を志望して上京、浅野千鶴子、原信子等に師事。1932年「ラッキーセブンの歌」でデビューし、レコード大賞特別賞受賞。「潮来の雨」(1934年)、「マロニエの木蔭」(1937年)、「喫茶店の片隅で」(1955年)などがヒットした。又、各地の小学校での歌唱指導で「月の砂漠」の流行に功があった。1937年初のリサイタルを開き「蝶々夫人」を歌った。1938年歌劇団パヴォーを組織し、オペラ「ボッカチオ」を公演するなど、歌謡曲以外でも活躍した。
2018.09.23
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マリー=クレール・アラン女史(Marie-Claire Alain, 1926年8月10日 - 2013年2月26日)はフランスのオルガニスト、亡くなってから5年以上経ちますが、熟練したレジストレーション、威厳に満ちた演奏にて、20世紀最上のオルガン奏者に位置付けられています。アランの解釈は、一連の経歴においてかなりの変化を遂げてきた。特定の作品に「これっきりという言葉」はないというのが信条であったそうです。又、驚異的な記憶力の持ち主で、演奏予定の曲目の楽譜を携えずに演奏旅行に出たとされています。2003年の来日予定に対して、コンサート予約をしていたのですが、体調不良にて来日中止となってしまったのは残念でした。教会カンタータBWV147のコラール「Jesus bleibet meine Freude」をYouTubeで聴いています。Marie-Claire Alain, Bach Jesus bleibet meine Freude from Canatata BWV 147僅か4分足らずの演奏ですが、悠揚として威厳があることでしょう!BWV147「心と口と行いと生活で(ドイツ語: Herz und Mund und Tat und Leben)」は、バッハが1723年に主の母マリア訪問の祝日のために作曲した教会カンタータ。全10曲からなり、終曲のコラールは「イエスは変わらざるわが喜び (Jesus bleibet meine Freude) 」で、英訳されたタイトル「Jesus, Joy of Man's Desiring(主よ、人の望みの喜びよ)」として広く親しまれている。
2018.09.09
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先日、阿佐ヶ谷の名曲喫茶で紹介された、タンゴ音楽バンドネオンの演奏を「ペドロマフィアPedro Maffia」でYouTubeで検索しますと、19世紀生まれで1930年代に活躍した演奏家にも拘らず、少なからずアップロードされていました。その中でも、「Bien Amigo(良き友)」と題されている演奏を聴いてみました。Buen amigo - Pedro Maffia y Pedro Laurenz (dúo de bandoneones)Pedro MaffiaとPedro Laurenz によるバンドネオン(bandoneone)の2重奏で、1925年3月録音とされていますので、もう93年も前のことですが、デジタル化されていることも無く、スクラッチノイズもありません。昨日今日は、台風の影響か雨模様ですので、喫茶店で聴いたスクラッチノイズを思い起こしながら、自宅のPCで大人しく楽しんでいます!
2018.09.03
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17世紀後半、ドン・コサックの首領ステンカ・ラージンは、ロシアからの独立をめざして反乱を起こしましたが、弾圧されて捕らえられ、モスクワの赤の広場で、四つ裂きの刑で殺され、その結果として、コサック族は皇帝への忠誠を誓わされ、その自治権は大幅に奪われてソ連時代にも至っていた悲しい歴史物語です。しかし、民衆蜂起の英雄としてステンカ・ラージンの足跡は民衆の中に記憶され、長く民謡として歌い継がれている様です。1939年のソ連映画「ステパン・ラージン(Степан Разин)」のスチール写真を背景にした、「ステンカ・ラージン」には聞き惚れてしまいます。【ロシア音楽】ステンカ・ラージン (Из-за острова на стрежень) (日本語字幕)ポーランド出身のアンナ・ゲルマン女史(Anna German, 1936年 - 1982年)の歌唱は、悲劇的な絶唱にも思えてなりません。中学校の音楽の授業で歌わされた「ステンカ・ラージン」、こんな悲しい歴史物語だとは、ついぞ考えたことがありませんでした。
2018.06.01
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これは、40年前に購入したカセットテープのジャケット、古くてテープも劣化しているでしょうし、音がまともに出るか否か定かではありません。イタリアからスペインに渡り、才能に恵まれながら、処世術に欠け、最後は貧困の中で亡くなったとされる作曲家のボッケリーニ(Boccherini)のギター5重奏曲、やはり白眉は4番第4楽章のファンダンゴ(Fandango)でした。ファンダンゴ(Fandango)はスペイン起源のダンス、それと共に歌われる歌あるいは音楽。元来はギターと手拍子またはカスタネットで伴奏する活気あふれるダンスで、起源は定かでないが、ポルトガル起源とも言われ、18世紀始めのスペインの記録に見える。18世紀末にはスペインのみならず全ヨーロッパで知られ、バレエやオペラにも取り上げられ、クラシック音楽でも多数の作品に残る。先日、YouTubeでカスタネット伴奏でのファンダンゴ(Fandango)の動画を見つけました。2015年11月、ロンドンの王立美術館内で録音・録画されたもの、残念ながら良い演奏場所では無かった様で、室内に音響が篭って良い音質ではありません。 Fandango from Quintet no. 4 in D major - Luigi Boccherini (Isabel Martínez, guitar)しかし、スイス生まれのフラメンコダンサーのニナ・コルチ(Nina Corti)のカスタネット捌きが見事で、ギター5重奏曲に花を添えていました。これが、本来のファンダンゴ(Fandango)のかも知れません!
2018.05.17
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昨日は夏日、町田市の薬師池公園の菖蒲田はどんな様子なのか、観に行ってみました。菖蒲は花芽が立ち上がっている株もありましたが、開花には早すぎた様でした。それでも、初夏の花、卯の花(宇津木)やヤマボウシが咲き始めていて、目を楽しませてくれます。 卯の花が咲き始めますと、何故か小学唱歌の「夏は来ぬ」を思い起こしてしまいます。「夏は来ぬ」は1896年に発表された日本の唱歌、作詞が万葉時代を尊重する佐佐木信綱氏で、歌詞が明治時代の風潮に依るものか、文語調で難解の様ですが、七五調で口ずさみ易い特徴がある良い歌だと思っています。夏は来ぬ ひばり児童合唱団1.卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ2.さみだれの そそぐ山田に 早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ3.橘の 薫るのきばの 窓近く 蛍飛びかい おこたり諌むる 夏は来ぬ4.楝(おうち)ちる 川べの宿の 門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して夕月すずしき 夏は来ぬ5.五月(さつき)やみ 蛍飛びかい 水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて早苗植えわたす 夏は来ぬ
2018.05.13
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バーンスタイン最後のコンサートと言うYouTubeを見つけました。ボストン交響楽団を指揮してのベートーヴェンの第7番交響曲、残念ながら動画はありませんが、何とも悲しげな響きのゆったりとした演奏で、通常は40分弱なのですが、45分以上掛けているのです。逝去2ヶ月前のことで肺癌もかなり進行していて、途中指揮棒も握れなくなり、目による合図で何とか演奏を終え、急遽ニューヨークの自宅に戻って、病状を自覚しての引退宣言をし、2ヶ月後に82才で永眠となったそうです。Beethoven Symphony No.7 Bernstein FINAL CONCERT自分の生命の衰えを自覚しての白鳥の歌とも聴こえて、寂しげで、こんな悲しいベートーヴェンの第7番交響曲の演奏は始めてであり、もう出て来ないのでしょう!我家にあるバーンスタインのベートーヴェン交響曲全集、1981年発売版ですが、第7交響曲の演奏は39分に過ぎません!タングルウッドでのボストン交響楽団を指揮しての1990年8月19日の録音、最後のコンサートとなりました。そのコンサートでは体力の消耗が激しく、最初の「ピーター・グライムズ 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとり、何とか第4楽章までを終え、その後の打ち上げパーテイーもそこそこ、二ューヨークに飛んで帰り、全ての予定をキャンセルして引退宣言を行った。「遅いテンポでよれよれの演奏」と評す人も居ますが、それはタイトルからの先入観であり、ボストン響の充実した音響も楽しめる骨格のしっかりした立派な演奏です。同年10月14日にバーンスタインは亡くなってしまいました。
2018.05.06
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YouTubeを観ていましたら、「Brendel Farewell」と言う動画がアップされていましたので、吃驚して検索してみましたら、Alfred Brendel氏は2008年12月18日のウィーン・フィルとの公演を持って引退したと言うことが分かりました。もう10年も前のことで、ピアニストは老齢になっても引退する例は殆どありませんし、77才の決断だったのですが、何があったのでしょう!我家にあるPhilips盤の指揮者マリナー氏との協演による、モーツァルトのピアノ協奏曲全集です。1985年発売のCD10枚セットで、多分ロサンゼルスのMusic Shopで購入したと記憶するのです。録音は1970~1984年となっていて、1980年代ではデジタル録音が主流となりましたので、それ以前のアナログ録音と混在しています。普段はあまり聴かないピアノ協奏曲第15番を聴いてみましたが、第3楽章は非常に魅力的に思われました。 W.A. Mozart Piano Concerto No.15 in B flat major K450, Alfred Brendelモーツァルトは第15番から第17番までの3曲を「大協奏曲」と呼んで第14番と区別している。第15番は、ピアノのテクニックや表現上の可能性の拡大が試みられているだけでなく、オーケストラの編成が増強され、オーケストラに独立した役割を与えていて、終楽章ではフルートが使用されている。
2018.03.14
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モーツァルトのミラノ四重奏曲は1772~1773年に6曲セットとして作曲された四重奏曲、6曲ともディヴェルティメント的に自由に変化させたイタリア風の3楽章形式で書かれており、楽想もイタリア的な歌唱的旋律性にて、翌年1773年に作曲された4楽章形式のウィーン四重奏曲に較べて、価値が低いものともされている様ですが、どうなのでしょう?モーツァルト研究の碩学アインシュタイン氏は次の様に、両者を評しています。K.168 から K.173 までのウィーン四重奏曲セットは、番号と成立年代からすれば前述のK.155 から K.160 までのミラノ四重奏曲セットとあまり隔たっていないが、それはもはやイタリア的、ミラノ的四重奏曲ではなく、オーストリア的、ヴィーン的四重奏曲なのである。 モーツァルトはその6曲全部を1773年の晩夏に作曲、この1773年のヴィーン滞在はモーツァルトの発展に決定的な役割を演じた。ミラノ四重奏曲の5曲目は、第1楽章にAndanteと遅いテンポを用い、第3楽章にRondoを採用していて、不思議な魅力を感じています。Barylli Quartetの演奏は1955年にマイナーレーベルWestminsterにてのモノーラル録音ですから、音質も宜しくなくないのですが、懐かしいウィーンの香りが感じられるのです!Mozart String Quartet No.6 K.159 - Barylli Quartet首席奏者のワルター・バリリは、1959年に演奏家にとっては致命的な右肘を痛めてしまい、バリリ四重奏団としての活動を停止せざるを得なかった悲しい出来事があり、1969年以降はウィーン市立音楽院で後進の指導に当たっているとのことです。
2018.02.24
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アニュエル・ブンダヴォエと言うフランスの女性ピアニストは、20世紀の偉大な演奏家としての素晴らしい演奏で知られるものの、録音が少なく、また希少であることから「幻のピアニスト」と呼ばれています。画像はYouTubeから借用いたしました。彼女は1922年10月生まれ、30才代に関節リュウマチを発症、指の自由が利かなくなって、その活動中心を後進の指導に移さざるを得なくなり、国立ヴェルサイユ楽団に入団、その後の30年をピアノ指導に尽くすことになりました。惜しくも2015年2月に逝去となりました。. Agnelle Bundervoët plays Bach Concerto D Minorこの動画はリューマチ発症の数年後、1962年12月のラジオで放送された演奏で、何処でも販売されておらず、YouTubeで楽しめる様になっていますのは幸いなことです!チェンバロ協奏曲第1番ニ短調は、1738年から1739年頃にかけて作曲されたと考えられ、その原曲は、消失したヴァイオリンのための協奏曲であるとされている。第1楽章、第2楽章はカンタータ第146番『われら多くの苦難を経て』に、第3楽章はカンタータ第188番『われはわが信頼を』の序曲に転用されている。バッハのチェンバロ協奏曲の中で最も完成度が高く、両端楽章で繰り広げられるチェンバロの名人芸は、その華やかな魅力によって聴き手を捉えて離すことがない。
2018.02.08
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「バガテル(Bagatelle)」は、つまらないものという意味で、面白いメロディーを作った、ピアノソナタに組み込もうとしたが出来なかった、仕上げようとしたが小曲のままだったとかの作品を言い、有名な「エリーゼのために」もバガテルに分類されています。ベートーヴェン最後のバガテル曲集(Op.126)は、組曲としての構成で作られていて、ドイツバイエルン州ドナウ川河畔にあるシュトラウビング(Straubing)市の市庁舎ホール(Historischer Rathaussaal)での“支援での喜び(Freude durch Helfen)”と題されたチャリティコンサートで、アンナ・ラドゥチェンコ女史(Anna Radchenko)によって演奏された動画が印象的です! L. van Beethoven - Six Bagatelles op.126 Anna Radchenko1823年から1824年にかけて作曲され、ベートーヴェンの晩年に書かれた最後のピアノ作品として知られる。またベートーヴェン自身が「自分が書いた最高のバガテル」と書き残している。6曲のバガテルから構成されており、1曲目のスケッチの欄外に「小曲の連作Ciclus von Kleinigkeiten」と書き込まれていることから、6曲通して演奏することを意図してある。演奏時間は6曲で約20分。
2018.01.05
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自己主張の権化ともされるベートーヴェンですが、若い時にはモーツァルトのディヴェルティメントに感化されたのか、娯楽的でサロン向けの音楽を作曲しています。中でも七重奏曲作品20(Septet Op. 20)は、初期の傑作とされ、今でもクラシックファンに広く親しまれています。7つの楽器による室内楽曲で、明るい旋律と堂々としたリズムをもち、作品が公開された当初から広く親しまれたとされる。作曲されたのは1799年から1800年に掛けてで、作曲人生の中では古典派音楽の勉強と自らの独自性を模索する時期とされる。旋律やリズム、構成の面などでその後のベートーヴェンらしい作品の登場を予感させる部分も随所に見られる。第3楽章はメヌエット(Tempo di Menuetto – Trio)主部はピアノソナタ第20番の第2楽章からの転用。トリオでは管楽器が活躍する。第4楽章は主題と変奏曲(Tema con variazioni)主題は民謡からの引用、第一変奏は弦楽器のかけ合い、第二変奏は弦楽器と管楽器の対話、第三変奏は管楽器のかけ合い、第四変奏はホルンが中心の短調の歌、が展開する。ベートーヴェンは、この作品がもてはやされ続けるのを拒んだとされ、「あの七重奏曲のベートーヴェンさん」と形容されるたびに不快感を示したとされる。ベートーヴェンにとって、この作品が大衆迎合の域を出ておらず、自分の追い求める音楽とは違っているということの意思の現れとされている。ピアノソナタ第20番は作品49-2、第19番と共に1805年1月にウィーンの美術工芸社から出版されましたが、完成は第20番が先で1796年であると考えられるそうです。第3楽章はメヌエット(Tempo di Menuetto – Trio)の動画をご覧ください! Ludwig van Beethoven Septet op.20. III: Tempo di minuetto. Kölner Kammersolisten
2017.12.20
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12月5日はモーツァルトの命日でしたが、没後226年と言うことで何の節目でもありませんでしたので、何の話題になることも無く過ぎました。私も高齢化と共に、感覚が平板になって、肝に銘じて彼の音楽を聴いて、感動を新たにする習慣が衰えてしまっているのは残念なことで、オーディオでCDやテープ再生することもしませんでした。手軽にパソコンで、探してみて、久しぶりにハイドンに触発されて作曲した「ハイドン四重奏曲」と呼ばれる6傑作群の最後を飾る、不協和音四重奏曲K465を聴いてみることにしました。若い時代は、Westminsterと言うモノーラル廉価版が発売されていて、多分アマデウス四重奏団の演奏だっただろうと言う記憶から、Amadeus Quartetの動画を見つけました。Mozart - String quartet K.465 - Amadeus SQ 1954録音は1954年ですので、音源はWestminster盤かも知れませんし、音質も痩せているのは仕方がありません。音楽の友社の「名曲解説全集11(室内楽曲)」は次の様に記載されています。モーツァルトの後期10曲の中で、序奏を持つのはこの1曲だけであるが、この序奏が冒頭から解決されない不協和音を響かせると言う大胆な、と言うより理論的には間違った和声法に特徴づけられている処から、「不協和音」四重奏曲と呼ばれている。この和声法は、ロマン派の時代でも謎であり、フェティス、ウリビシェフと言った19世紀の研究者は、耳を傷つける響きを理論に則って改善しようと試みている。一連のハイドンセット四重奏曲を通じて和声表現を探求して来たモーツァルトは、内面の葛藤と努力の象徴的表現に他ならず、此処で調性概念自体を表出させる意図を従えていると言えるだろう。
2017.12.08
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バッハのシチリアーノの中でもヴァイオリンソナタ4番(BWV1017)の第一楽章は特に切ない曲です。我家にはPhilipsレーベルのSzering/Walchaが演奏するアナログLPが残っていますが、最早楽しむことが出来ません。YouTubeを検索しますと、Gould/Menuhinが演奏する古いTV動画がアップロードされています。Glenn Gould-Yehudi Menuhin-J.S. Bach-Violin Sonata No.4 (HD)中々の演奏風景なのですが、グールドは自己主張が激しい演奏家ですので、巨匠メニューインも押され気味で、ピアノソナタと聞こえなくもありません。一方、ヴァイオリンを全面的に主張させ、ピアノは通奏低音風の伴奏に徹する動画もアップロードされています。Duo Concertante - Bach Violin Sonata BWV 1017 in C minor こちらの演奏スタイルの方が、ヴァイオリンによる切ないシチリアーノが際立って聴こえて来て、バッハの意図した演奏と思えるのです!
2017.11.26
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小学校の同窓会には、2010年秋と2012年春に出席してから、この処出席していません。1951年小学4年生春の遠足は高尾山でしたが、多分ケーブルカーには乗らずに、山頂まで登ったのではないかと思うのですが、記憶は殆ど無く、途中にある中腹の薬王院階段での記念写真が残されているばかりです。2010年秋の同窓会、年齢は70才直前ですが、女生徒であって出席された皆さんは至って健康な様子で、男性よりも平均寿命が長いと言うことが現実に分かる気配でしたすると、幹事が懐かしい歌を唄いましょうと呼びかけ、「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」を唄い出したのです。小学生当時は、焼け跡が多く残っていて遊び場となっていましたし、上野まで行ってみますと戦災孤児が浮浪児となって屯して、戦後の混乱が治まっていない時代でした。とんがり帽子 (鐘の鳴る丘) ♪川田正子 残されている映像に写されている児童は私より少し年上ですが、皆が貧乏な時代だったのです。「鐘の鳴る丘(かねのなるおか)」は、菊田一夫作のラジオドラマで、1947年7月5日から1950年12月29日までNHKラジオで放送され、放送回数は790回に及ぶ。1948年から1949年には松竹で3作、映画化もされている。
2017.10.23
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ひえつき節は、宮崎県東臼杵郡椎葉村地方で、稗をつくときにうたわれた仕事歌を由来とする民謡で、哀愁のあるメロディーで良く知られています。椎葉村は平家の落人部落ともされる秘境で、隣町の綾町までしか行ったことはありませんが、綾の大橋の上流は愕くほどの住む人の少ない山村でした。平家討伐を命じられた源氏の武士那須大八と平家の娘鶴富姫の情話にまつわる歌詞が人気を博し全国に広まったとされています。 稗搗節【ひえつきぶし】九州地方の代表的民謡。宮崎県東臼杵(うすき)郡椎葉(しいば)村で歌われてきた。本来は、焼畑のヒエ畑から穂先だけを刈り取り、木の臼(うす)に入れて杵(きね)で搗(つ)いて脱穀するときの仕事唄(うた)である。ヒエを常食してきた農村、岩手県の北上山系地帯や熊本県の山地では、ヒエを搗くおりの仕事唄がいまも残っているという。宮崎県の椎葉村でもヒエやアワを栽培し常食とし、冬の農閑期に一つ家に集まり、ヒエを搗きながら唄を歌う。男女が集まれば恋の唄の掛け合いとなる。椎葉村のこの仕事唄は、ダム工事に村に入った工事関係者たちから広められ、1953年レコードに吹き込まれてから全国的に普及した。とりわけ那須(なす)大八郎と鶴富(つるとみ)姫とのロマンスを盛り込んだ歌詞は、若い人たちにも受け、秘境の観光宣伝とともに、訪れる人たちの口から広められて行った。YouTubeにアップロードされている内で、ビクター少年民謡会の唄うものが秀逸で、その他にも優れた歌唱が多く、五木の子守唄も絶品とされています。ひえつき節 ビクター少年民謡会
2017.10.17
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32才の父親が、別れ話を切り出されて逆上し、母子6人を殺傷し、部屋にガソリンを撒き放火すると言う、信じられない様な事件が起きました。母は33才、子供達は11才の長女、7才の長男、5才の次男、3才の双子兄弟と言うのですから、何とも痛ましい限りです。将来を閉ざされ、心無くも殺されてしまった子供達の冥福を祈るより仕方がありませんし、鎮魂歌として次の歌謡曲を静かに聴いています。七里ヶ浜の哀歌 松原操1910年1月23日:逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した。1910年2月6日: 逗子開成中学校にて追悼大法会開催。 鎌倉女学校生徒らにより、鎮魂歌としてこの歌謡曲が初演された。作詞者: 三角錫子(1872年-1921年) 作詞当時、系列校である鎌倉女学校の教師、東京都目黒区にあるトキワ松学園中学校・高等学校の設立者でもある。作曲者: ジェレマイア・インガルス1881年-1891年に刊行された米国賛美歌集で、「The Lord into His garden comes」で始まり「When we arrive at home.」で終わる天国での来世に希望を託す歌で、三角錫子女史は替え歌として作詞し、死亡した生徒への鎮魂歌としたのです。この歌謡曲によって、再びキリスト教賛美歌に使用され、日本福音連盟『聖歌』623番、『新聖歌』465番、聖歌の友社 『聖歌(総合版)』(2002年)669番の『いつかは知らねど』とされるに至っています。
2017.10.08
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「森の水車」は、1942年に高峰秀子が歌ってレコード発売されたのですが、時代風潮に合わずと受け入れられず、発禁処分となりました。しかし、戦後の1951年、第2回NHKのど自慢大会で優勝したNHK専属歌手の荒井恵子がNHKラジオ歌謡で「森の水車」を歌うと、次第に人気が高まって行きました。高峰秀子のアイドル的な人気が高まった為に1941年に企画された「高峰秀子の車掌さん」をバックした歌がアップロードされていますが、17才の高峰秀子の初々しさが生かされている作品となっています。森の水車/ラジオ歌謡高峰秀子さんが歌っていないのはレコード発売・発禁処分の1年前なので当然なのですが、どうも芹洋子さんが歌っているのを被せた感じです。せめてこの歌を全国区に広めた荒井恵子さんだと良かったのですが・・ドイツの作曲家アイレンベルク(Richard Eilenberg/1848-1927)による1885年の楽曲「Die Mühle im Schwarzwald(黒い森の水車)」、米山正夫作曲による日本の歌謡曲「森の水車」と部分的にまったく同じメロディが随所に登場する。両曲の冒頭部分の主旋律が部分的にほぼ一致、そして「森の水車」の1番終了直後の間奏部分で、「Die Mühle im Schwarzwald」の主要なメロディがほぼそのまま登場することについて、作曲家の米山正夫氏も後年、「米英のメロディは禁止となるので、同盟国ドイツのメロディを参考にした。」と認めているで、その引用は確からしい。
2017.09.17
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この「メアリー二世女王の為の葬送音楽」と言うクラシック曲は、17世紀のイギリスの作曲家だったヘンリー・パーセルが、自らが亡くなる1695年に、その前年に若くして病気で崩御したイギリスのメアリー二世女王の葬儀の為に作った曲なのだそうです。パーセルは英国では偉大な作曲家とされていましたし、この曲も素晴らしい曲なのですが、多くの人々の記憶の中から消えていたクラシック音楽の一つでした。 時は経ち、その約 280年後、1972年にこの曲が再び、シンセサイザーで演奏された音で、スクリーン上に「時計仕掛けのオレンジ(Clockwork Orange)」のオープニングテーマとして登場します。しかも、葬送曲だったこの曲が、世の若者たちに「過剰なバイオレンスの時代の幕開け」を告げるテーマとして登場したのです。「時計仕掛けのオレンジ(Clockwork Orange)」では、シンセサイザーに依る大音量ですので、純クラシック風の演奏でお聴きください!PURCELL - Music for the Funeral of Queen MaryJohn Eliot GARDINER, Monteverdi Choir & Equale Brass Ensemble00:00 : I. March02:13 : II. "Man that is born"06:01 : III. Canzona07:44 : IV. "In the midst of life, we are in death"13:40 : V. Canzona14:33 : VI. "Thou knowest, Lord, the secrets of our hearts"16:54 : VII. Marchしめやかに葬儀を行うのには素晴らしい名曲で、MozartのRequiemにも引けをとりませんが、タイトルの「メアリー二世女王の為の葬送音楽」と言う特定の人に対する献呈曲であることで、他の人の葬儀には使いにくいのでしょうか?
2017.09.13
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バッハのキーボード協奏曲の中で、最も好みな作品はBWV1056へ短調、短調の調性ですが、楽しく聴くことが出来ます。グレン・グールドがピアノで演奏するBWV1056を、レコードで聴いたのが切掛けで、メリハリの利いた楽しそうに弾いている様子だったからでした。しかし、バッハの時代には、未だPianoforteは登場しておらず、Harpshicord又はCemballoで演奏されていました筈で、原曲の様子を聴いてみることにしました。ズザナ・ルージチコヴァー(Zuzana Růžičková)はチェコの有名なチェンバロ奏者、1927年生まれですから御年は90才となりますが、録音は1966年ですから40才前後で、油の乗り切った素晴らしい演奏でした。J.S. Bach, Harpsichord Concerto No.5 in F minor BWV 1056, Růžičková / Neumannしかし、ルージチコヴァーは往時のCemballoではなく、近年音量が大きく出来る様に改造されたAmmer Cemballoを弾いていますので、厳密には原曲の風情は無いのかも知れません。第2楽章はカンタータ第156番“わが片足すでに墓穴に入りぬ”のシンフォニアで、「バッハのアリオーソ」として親しまれており、映画「恋するガリア」の中でも使われたそうです。
2017.09.01
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NHK教育TVのクラシック倶楽部で“究極の演奏形態”といわれる弦楽四重奏が解説と演奏が披露されました。現代を代表する二つの弦楽四重奏団の熱演とインタビューからその魅力をひもとき、切り詰められた形に潜む無限の可能性に迫り、現代音楽と古典音楽での4重奏演奏が放映されます。古典音楽紹介では、エマーソン弦楽四重奏団が今年6月4日にNHKスタジオCT102で録音した演奏が放映され、好きな曲目でもあり、改めて結構な感銘を受けました。-ベートーベン「弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品95“厳粛(Serioso)”」-モーツァルト「弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K. 421」ベートーベンが唯一標題を付けた弦楽四重奏曲であり、モーツァルトの代表作「ハイドンセット」6曲の内、唯一の短調曲なのです。直近の演奏ですから、YouTubeにはアップロードされていませんので、ベートーベン「弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 作品127」の第1楽章をお聴き下さい!Beethoven Quartet No. 12 in E-flat, Op. 127, Mvt. 1: Emerson String Quartet Parlance Chamber Concerts
2017.08.22
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多分、ヘンデル作曲の「調子の良い鍛冶屋」は中学校の音楽授業で以下の様な歌詞で歌わされた様ですが、もう60年以上ともなりますと、残念なことに検索出来ません。いつでも陽気な あの掛け声よトンカン トテカントンカン トテカン村の鍛冶屋の 槌音チェコ出身のチェンバロ奏者であるズザナ・ルージチコヴァー女史(Zuzana Růžičková , 1927年1月14日~)が演奏する「調子の良い鍛冶屋(Harmonious Blacksmith)」は出色と思われます。Handel: "The Harmonious Blacksmith" - Zuzana Ruzickova, harpsichord彼女の演奏するチェンバロはアンマーチェンバロ(Ammer Cembalo)と呼ばれる近代チェンバロ、ワルヒャ(Helmutu Walcha)も好んで使ったと言われています。古代楽器のチェンバロは元来弦を弾く楽器ですので、強弱の音量調整は難しいのですが、アンマーチェンバロ(Ammer Cembalo)は改良を加えて、ピアノの様にダイナミックに演奏することが出来るのです。しかし、近頃は本来の古代楽器であるチェンバロを使って、当時の演奏音質を再現する様に変化している様です。
2017.06.09
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アウルシティ (Owl City) とは、アメリカ人のミュージシャン「アダム・ヤング」 によるソロプロジェクトとされています。Grave of the fireflies amv - Fireflies (Owl City)「火垂るの墓」は、家を焼かれ母親を亡くした兄妹が親戚宅を離れ、二人で生きようとしたにも拘わらず、、その希望は敵わず、二人とも衰弱死すると言う悲しいストーリーですが、淡々と蛍の乱舞する様子を歌うことが、妙にマッチしている様にも思われます。You would not believe your eyes きっと君は目を疑うだろうねIf ten million fireflies 数えきれないホタルがLit up the world as I fell asleep 僕が眠っている間世界を照らす'Cause they'd fill the open air 辺りが光に満ち溢れAnd leave teardrops everywhere 涙の雫がいたる処にこぼれ落ちるYou'd think me rude 君は変だと思うかなBut I would just stand and stare でも僕はただ立ってよく観るI'd like to make myself believe 僕だって自分を信じたいThat planet Earth turns slowly 地球はゆっくり回っているIt's hard to say that I'd rather stay 悪いけど僕はこのままでいたいAwake when I'm asleep 眠ってなんていられない'Cause everything is never as it seems 二度と同じ時間は訪れないから'Cause I'd get a thousand hugs From ten thousand lightning bugs 沢山のホタルの光が僕を包むAs they tried to teach me how to dance 僕にダンスでも教えようとしているA fox trot above my head 僕の上で社交ダンスを披露してA sock hop beneath my bed ベットの下ではじけたダンスを披露し、A disco ball that's just hanging by a thread 糸で釣られたミラーボールがある
2017.06.04
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一昨日、大江戸線の築地市場駅近くにある浜離宮朝日ホールで、杉谷昭子ピアノリサイタル2017が開催されましたので行って来ました。数年前に女性に多く発症する脊椎の圧迫骨折を災い、痩せて背中が少し曲がり、歩き方もよちよちの婆さん歩き、腰掛ける椅子の上にはあるスポンジクッションは患部の痛みを和らげる為なのでしょうが、ピアノ演奏はしっかりしたものでした。前半はバッハの平均律2曲とベートーヴェンのピアノソナタ17番「テンペスト」、クラウディオ・アラウ最後の弟子とされるだけあって、やはりベートーヴェンは強音も弱音もメリハリが利いていて、その夜一番の聴きものでした。後半は彼女が好きな曲を、何故好きなのかと言う解説を入れて、弾いていました。-カッチーニのアヴェ・マリア-アルビノーニのアダージョ(杉谷女史によるピアノ版編曲)-シューベルトのハンガリー風メロディ-ブラームスの間奏曲1番-ピアソラのチキリン・デ・バチン-ドニゼッティの「人知れぬ涙」-ショパンの幻想ポロネーズ近頃は、ショパン演奏に傾倒しているとのことで、アンコールは「子犬のワルツ」等でした。肩肘ばらない、気軽な演奏会でした。
2017.05.21
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