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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.11.20
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 徳川忠長は江戸時代初期の大名で、1606年に秀忠の3男としてて江戸城西の丸に生まれ、母は浅井氏、幼名は国松、通称は駿河大納言と言われました。

 ”徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇”(2021年7月 吉川弘文館刊 小池 進著)を読みました。

 徳川2代将軍秀忠の3男、3代将軍家光の弟で、駿河・遠江・甲斐・信濃など55万石を領し駿府城を居城として、駿河大納言と呼ばれた徳川忠長の生涯を紹介しています。

 誕生日は5月7日説(徳川幕府家譜)、6月1日説(慶長見聞録案紙)、12月3日説(幕府祚胤伝)など、諸説があります。

 徳川家康の孫にあたり、父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも、容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといいます。

 竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがありましたが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着しました。

 父母の寵愛を一身に集め,兄の家光をさしおいて世子に擬せられましたが、実現しませんでした。

 秀忠より庶子扱いされ、松平姓を与えられ松平を称しました。

 徳川姓が許されていた叔父の徳川義直や徳川頼宣には、宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていましたが、この時点の忠長にはまだそれがありませんでした。

 小池進さんは1960年千葉県我孫子町生まれ、1985年に東洋大学大学院文学研究科修士課程を修了し、東洋大学文学部助手となりました。

 2000年に同大学大学院文学研究科博士後期課程を修了し、博士(文学)の学位を取得しました。

 現在、東洋大学非常勤講師・聖徳大学兼任講師などを務めています。

 徳川忠長は1616年(あるいは1618年)に甲府23万8000石を拝領して甲府藩主となり、のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられました。

 藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられました。

 しかし、元服前で幼少の国千代が実際に入府することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われました。

 1620年に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長としました。

 1623年に家光の将軍宣下に際し権中納言に任官し、織田信良の娘の昌子と婚姻しました。

 1624年に駿河国と遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは、駿河大納言という名称で呼ばれるようになりました。

 忠長は自分が将軍の実弟であることを理由に満足せず、大御所である父の秀忠に、100万石を賜るか自分を大坂城の城主にして欲しいという嘆願書を送ったといいます。

 しかし、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始めようになりました。

 忠長の要求を知った家光からも、かつて敵対した豊臣家が所有した大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われるようになりました。

 1626年に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行しました。

 これと前後して忠長は弟で後の会津松平家開祖となる保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたといいます。

 しかし、最大の庇護者と言える存在であった母の江が死去したのを機に、忠長は深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始め、自身が気付かぬ内に家光との確執を深めていくことになりました。

 1626年に家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛ける際に、大井川に無許可で施工したことが問題視され、家光の不興を買ってしまうこととなりました。

 さらに駿府では、武家屋敷造成のために寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係にさらに大きな摩擦を生じました。

 1630年の浅間神社付近の賎機山の猿狩りでは、禁止されている神社付近で殺生を行ないました。

 そもそも賎機山では、野猿が神獣として崇められ殺すこと自体が禁止され、また浅間神社は祖父家康が14歳の時に元服した、徳川将軍家にとって神聖な場所でした。

 そのような場所で猿狩りを行うのは、将軍家の血を引く者といえども許されないことでした。

 止めるよう懇願する神主に対し、忠長は反対を押し切って狩りを続け、1240匹もの猿を殺したとされています。

 さらに、その帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行にびました。

 これらを聞いた家光を激怒させ、咎められています。

 1631年に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長が寺で休息した際、小姓が雪で濡れていた薪に火を付けられなかったことに癇癪を起こし、手打ちにしてしまったといいます。

 事態を知って悲憤に駆られた小姓の父親が幕府に訴え出て、忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に忠長を勘当し、処分を家光に一任しています。

 家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促して忠長もこれに同意し、一時平静を取り戻しましたが、結局は回復しませんでした。

 これまでの乱行の数々もあって、遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまい、忠長は甲府への蟄居を命じられました。

 その際に秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞いましたが、許されませんでした。

 1632年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞いましたが、これも許されませんでした。

 一説では、秀忠本人からも面会を拒絶されたとしています。

 秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収されました。

 同年10月20日に、安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下されました。

 その際に、朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されました。

 1633年12月6日に、幕命により高崎の大信寺において切腹し、享年28歳で亡くなりました。

 墓は43回忌にあたる1675年になって大信寺に建立され、2021年現在、高崎市指定史跡となっており、硯箱、切腹に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されています。

 忠長は将軍家に連なる兄弟であったにもかかわらず、自害に追い込まれたのはなぜでしょうか。

 世継の地位が決まらぬまま兄と同等に育てられた幼少期、兄弟の蜜月関係が保たれた駿府藩主時代、乱行から改易・自害に至るその全生涯を追い、幕藩政治史のなかに位置づけています。

 これまで、徳川忠長を真正面にすえた研究はほとんどないといってよかったです。

 多くは江戸幕府政治の展開過程のなかで、とくに家光政権の成立との関わりのなかで間接的にふれられているにすぎません。

 そのなかでは、忠長が改易された理由に関することが多く言及されてきました。

 忠長が改易されたのは、その粗暴な行動が武家諸法度に抵触したもので、幕府にすれば、将軍の弟でも厳正な処分を下すことを天下に明示するねらいがあったとしたなどです。

 また、元和・寛永期は幕府の大名強圧時代で、大名にとっての恐怖時代であり、大名を改易するために、罪状が明瞭を欠くものや軽微なものでも、それを口実とした疑獄性の強い改易が行われました。

 忠長の改易は幕府の法度に触れたもの、さもなくば嫌疑に触れたるものとされました。

 その後、社会経済史研究が主な対象となり、幕府政治史や制度史の研究は後景に退いていました。

 そうしたなかで、家光のライバル忠長という図式が定着されてきました。

 家光にとって忠長はライバルであり、怖い存在だけに前からの予定行動であったにちがいないといいます。

 家光の親政開始にあたり幕府権力強化のために、生まれながらの将軍権力を行使して改易したものとします。

 また、寛永段階では国主の資格を問題にする必要はなく、忠長はその思想的基盤をととのえるための、きわめて重要で、しかもなくてはならない無法者にされたのであり、デッチあげられたという考え方もあります。

 「兄弟は他人の始まり」という、今日でもそれまで仲のよかった兄弟が親の遺産をめぐって泥沼の裁判を繰り広げるといった話はそれほど珍しいものではありません。

 また日本の歴史を振り返っても、たとえば皇室では穴穂部皇子と崇峻天皇、天智天皇と天武天皇、武家においても源頼朝と義経、足利尊氏と直義といった、兄弟による権力闘争の例は枚挙にいとまがありません。

 江戸時代においても、これらにならんで仲のよくない兄弟として、真っ先に思い浮かぶのが徳川家光と忠長の兄弟ではないでしょうか。

 家光はよく知られた人物ですが、いっぽうで弟の忠長については、それほどという向きもあるかも知れません。

 この二人の確執ついては、忠長の自害からおよそ半世紀後には、早くも世上に流布していたようです。

 新井白石は『藩翰譜』のなかで、まだ家光が竹千代、忠長が国千代といったころ、父の将軍秀忠は弟の国千代をふかく可愛がり跡継ぎにしようと考えていたとしています。

 これを知った竹千代の乳母春日局が、家康の側室お勝の方を介して駿府の家康にその旨を訴えたところ、驚いた家康は急ぎ江戸に下り、何かにつけ兄の竹千代を優先し弟の国千代を押し下がらせました。

 また秀忠に対しても、庶子を世継に立てることは天下が乱れる基であると教え諭しました。

 すると秀忠の考えも改まり、竹千代が世継に決まりましたが、このゆえに兄弟の仲も険悪になり、ついには忠長は殺害されたと世人は伝え、書物にも記されています。

 しかし、新井白石は家光と忠長の不仲・確執はまったくの虚構だったとしています。

 そうだとすれば、じっさいに二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

 いっぽうで、秀忠夫妻の兄弟に対する接し方はいかなるものだったのでしょうか。

 そして、なぜ忠長は領地を没収され、ついには自害までしなければならなかったのでしょうか。

 本書は、兄の家光との関係に留意しながらも、弟の忠長の方に視点をあてて、誕生から死去に至るまでの生涯を、二人の生きた時代の政治・社会状況を視野に入れながら明らかにしようとしています。

 また、諸問題を再検討するとともに、忠長の改易から自害に至る事件を幕藩政治史のなかに位置づけてみようとしています。

兄弟の確執?-プロローグ/「越前事」-元和八年の危機/確執の始まりと家臣への道/駿府徳川藩と蜜月時代/自滅への道/改易そして自害へ/「代替わり」の危機とその後の忠長-エピローグ

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Last updated  2021.11.20 06:49:43 コメント(1) | コメントを書く


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Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20)  
cozycoach  さん
いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など簡潔に掲載していただきありがとうございます。楽しく読んでいますので、これからもよろしくお願いします。 (2021.11.28 19:21:51)

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