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頼山陽は、1781年に大坂で生まれ広島で育った江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。 ”頼山陽 詩魂と史眼 ”(2024年5月 岩波書店刊 揖斐 高著)を読みました。 詩人であり歴史家でもあった不世出の文人である頼山陽の生涯について、江戸後期の文事と時代状況の中で紹介しています。 頼山陽は、幼名は久太郎、名は襄、字は子成で、山陽、三十六峯外史と号しました。 有力な漢学者であり、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。 18歳のとき、江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学びました。 20歳のとき、広島藩医・御園道英の娘淳子と結婚しました。 21歳のとき、広島藩を脱藩した罪で一時監禁されました。 その後京都に出て、『日本外史』22巻を書き松平定信に献じました。 これは没後に出版され、ベストセラーとなって尊王倒幕の志士にも影響を与えました。 文学の分野では「鞭声粛々」の詩や、「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などが広く愛誦されています。 美術の分野では、能書家として有名で絵画についても優れた水墨画を残しました。 揖斐高さんは1946年福岡県生まれ、1971年に東京大学国文科を卒業し、1976年に同大学院博士課程を単位取得満期退学しました。 1978年度第5回日本古典文学会賞を受賞し、1999年に文学博士となりました。 白百合女子大学文学部講師、成蹊大学文学部教授等を務め、2017年に日本学士院会員となりました。 現在、成蹊大学名誉教授で、2011年に紫綬褒章、2019年に瑞宝重光章を受章しました。 1999年に第50回読売文学賞(翻訳・研究部門)、2010年に第18回やまなし文学賞、角川源義賞を受賞しました。 頼山陽の父の頼春水は、若くして詩文や書に秀でて大坂へ遊学しました。 そこで尾藤二洲や古賀精里らとともに、朱子学の研究を進めました。 現在の大阪市西区江戸堀の江戸堀北に私塾「青山社」を開きました。 頼山陽はこの頃、飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸=らいばいしを母として同地で誕生しました。 1781年に父が広島藩の儒学者に登用され、現在の広島市中区袋町に転居して同所で育ちました。 頼山陽も父と同じく幼少時より詩文の才があり、歴史にも深い興味を示したといいます。 1788年に、7代藩主が藩士教育のため開いた広島藩学問所に入学しました。 その後、父親が江戸在勤となったため、学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学びました。 頼杏坪は1785年に広島藩儒となり、学問所の職務に精励していました。 山陽は1797年に江戸に遊学し、父親の学友の尾藤二洲に師事しました。 二洲は荻生徂徠に学んだあと朱子学に転じ、大坂に私塾を開いて朱子学の普及に尽くしました。 1800年に突如脱藩を企てて上洛しましたが、追跡してきた杏坪によって京都で発見されました。 広島へ連れ戻され、廃嫡され自宅へ幽閉されました。 山陽はかえって学問に専念して、3年間は著述に明け暮れました。 『日本外史』の初稿が完成したのも、このころのことだったといわれます。 謹慎を解かれたのち、1805年に広島藩学問所の助教に就任しました。 1809年に、父親の友人だった儒学者の菅茶山より招聘を受け、廉塾の塾頭に就任しました。 茶山は少年時代の山陽の才能を高く評価しており、後継者にとの密かな思いを持っていたといいます。 山陽は廉塾にいた1年余りに茶山の代講を行い、茶山の詩集の校正などを任されました。 しかし、三陽には江戸・京都・大坂に進出して、学者として天下に名をあげたいという気持ちがありました。 山陽は、比較的恵まれた境遇にあったものの満足することできませんでした。 1811年に廉塾を去り京へと向かい、洛中に居を構え開塾しました。 1816年に父親が死去すると、その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓しました。 1818年に九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ました。 1822年に京都の上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え、水西荘と名付けました。 この居宅で著述を続け、1826年に代表作の『日本外史』が完成しました。 1827年に、江戸幕府の老中松平定信に献上されました。 1828年に文房を造営し、以前の屋敷の名前をとって山紫水明處としました。 山陽の結成した笑社には京坂の文人が集まり、諸氏の交流の場になりました。 その後も文筆業にたずさわり、『日本政記』『通議』などを完成させようとしました。 しかし、51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどして容態が悪化し、1832年に享年53歳で死去しました。 『日本外史』は山陽が著した国史の民間による歴史書です。 源氏と平家から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されています。 1827年に、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上されました。 そして2年後に、大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行されました。 幕末から明治にかけて、一番多く読まれた歴史書です。 司馬遷の『史記』の体裁にならい、武家13氏の盛衰を記述しています。 1800年の脱藩後の幽閉中に書き、放免後の1826年に推敲を重ねて全22巻12冊を完成させました。 武家政権の成立と展開を跡づけた『日本外史』は、人知を超える勢いが歴史を動かすとしました。 歴史の展開のさまざまな局面に際会した人間が、どのような表情を見せどのような行動を選択して対処したかを平明な漢文で表現しました。 当時は武家政権の崩壊を経て、天皇中心の中央集権国家へという歴史が転換した時期でした。 人々に、歴史の転換期における人間の在るべき姿を指し示してくれる魅力的な歴史書でした。 ただし、歴史考証では難あり議論には偏りがあったため、史書よりはむしろ歴史物語でした。 しかし、独特な史観と動的な表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響はきわめて大きいものでした。 山陽は、歴史における勝者と敗者の姿を具体的に描き、その心情に分け入ろうとしました。 山陽はこの時代を代表する漢詩人の一人で、その詩は人々に愛誦されたと内村鑑三が回顧しています。 天皇中心の歴史書『日本政記』は山陽の遺稿を校正したもので、伊藤博文、近藤勇の愛読書であったといいます。 山陽的な歴史観、国家観は、幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼしました。 山陽の歴史に対する問題意識や歴史著述の方法は、どのようにして生まれたのでしょうか。 また、山陽の漢詩人としてのあり方はどのようなものであったのでしょうか。 詩人と歴史家が同居していた山陽の全体像を、山陽自身の言説をもとにできるだけ具体的に明らかにしたいといいます。 なお、本書は専門的な研究書ではなく入門的な概説書です。1(第一章 生いたち/第二章 脱藩逃亡/第三章 回生の一歩/第四章 西国遊歴/第五章 罪を償う/第六章 山紫水明の愉楽)/2(第七章 山陽詩の形成/第八章 『日本外史』への道/第九章 『通議』と『日本政記』/第十章 「勢」と「機」の歴史哲学/第十一章 歴史観としての尊王/第十二章 地勢から地政へ/第十三章 『日本外史』の筆法/第十四章 三つの『日本外史』批判/第十五章 『日本楽府』-詩と史の汽水域)/3(第十六章 臨終その後) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]頼山陽 詩魂と史眼 (岩波新書 新赤版 2016) [ 揖斐 高 ]頼山陽のことば [ 長尾 直茂 ]
2024.11.23
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竹林の七賢とは、3世紀の中国三国時代末期から晋代初期にかけて老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家です。 ”竹林の七賢”(2024年6月 講談社刊 吉川 忠夫著)を読みました。 中国三国時代末期から晋代初期にかけて、老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家について簡明に紹介しています。 七賢は、俗世間を避け竹林に集まって酒を酌み交わし琴をひき清談をしたといわれています。 阮籍(げんせき)、 康嵆(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)の7人です。 時に漢王朝が滅亡し、儒教の権威が失墜し、政治社会が揺れ動いた魏晋の時代でした。 7人は、葛藤を抱えながら己の思想を貫こうとする者たちでした。 そのなかにはさまざまのタイプの人間が含まれていて、実に個性豊かです。 中には、権力に睨まれ刑死した者もあり、敢えて世俗にまみれた者もありました。 儒教が唯一絶対の価値の源泉であった漢代と異なり、価値が多様化した時代の指標をみとめることができます。 七賢の面々は、ある場合は文学作品や哲学論文によって、ある場合はそれぞれ生き方によって、強烈でしたたかな自己主張を行ないました。 吉川忠夫さんは1937年京都府生まれ、1959年に京都大学文学部史学科を卒業し、1964年に同大学院文学研究科を単位取得退学しました。 専門は中国中世思想史で、東海大学文学部講師、京都大学教養部助教授となりました。 1974年に京都大学人文科学研究所助教授、1984年から教授を務めました。 1991年から1993年まで人文科学研究所長を務め、2000年に京都大学を定年退官し、名誉教授の称号を受けました。 2000年に花園大学客員教授、国際禅学研究所所長、2002年に龍谷大学文学部教授を経て、客員教授となりました。 2006年より日本学士院会員となり、2009年に東方学会会長に就任し、2011年秋まで勤め、現在は顧問となっています。 2013年に文化功労者となり、2022年に文化勲章を受章しました。 3世紀の魏晋の時代には、敬愛すべき人物が少なからず輩出されました。 それらのなかで、竹林の七賢は際立った存在です。 これらの7人が竹林の七賢と呼ばれるようになったのは、4世紀の東晋時代のことでした。 東晋時代の人たちは、七賢に人間の典型を見いだし、自分たちの理想を託しました。 七賢が生きた魏晋の時代に、前漢と後漢あわせて400年の長きに存在した漢王朝が崩壊しました。 このときは、政治的にも思想的にも無政府状態となった中から立ち現れた時代でした。 魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判しました。 偽善的な世間のきまりの外に身を置いて、老荘の思想を好みました。 前漢の武帝は儒教を王朝の正統教学として採用し、それ以後、儒教は王朝に政治理論を提供しました。 儒教に根拠を置く礼教主義は、漢代の人びとの日常生活にも浸透しました。 漢代は儒教があらゆる価値の源泉で、人びとは自由に精神を飛翔できませんでした。 儒教がすべてを基礎づけていた漢王朝が崩壊すると、儒教の権威は失墜しました。 魏晋の人びとは、もはや儒教にのみに人生の指針を見だすことができなくなりました。 そこで、みずからの信ずるところにしたがって、人それぞれに生きる道を模索しはじめました。 このような時代を生きた七賢は、それぞれに自己を際立たせました。 竹林の七賢というものの、中にはさまざまのタイプの人間が含まれていて個性豊かです。 一人の人間についても、性向と行動とは一見すると矛盾するかのように思われる場合すらあるといいます。 山濤は、205年生まれの後漢末年の三国時代の魏および西晋の文人です。 幼少時に父を亡くし、貧窮した生活を送りました。 40歳を過ぎて魏の官途について司馬氏に属しました。 曹爽の台頭により隠棲しましたが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕しました。 西晋代になって、吏部尚書・太子少傅を歴任するなど栄達しました。 老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人と後世に称されました。 嵆康は、223年生まれの中国三国時代の魏の文人で、七賢の主導的な人物の一人です。 幼少の頃孤児となり、魏の末期の政治的に不安な時代を生きました。 自由奔放な性格と魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦めました。 琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたといいます。 老荘を好み官は中散大夫に至りましたが、山濤から役を譲られようとした時、絶交を申し渡しそれまで通りの生活を送りました。 「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していました。 著作は他に「養生論」「釈私論」があり、詩は四言詩に優れていました。 阮籍は、210年生まれの中国三国時代の思想家で、七賢の指導者的人物です。 魏の末期に偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置きました。 蔣済が召し出そうとするも応じず、怒りを買いました。 親類に説得されたためやむなく仕官しましたが、病気のため辞職しました。 司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると、従事中郎に任じられました。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になりました。 大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたといわれます。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対しました。 老荘思想を理想とし、「大人先生伝」「達荘論」などの著作があります。 劉伶は、221年生まれの三国時代の魏から西晋にかけての文人で、竹林の七賢の一人です。 酒を好み礼法を蔑視する生活を送り、世を避けて清談に明け暮れました。 「酒徳頌」などの著作があります。 王戎は、234年生まれの三国時代から西晋にかけての政治家・軍人で、竹林の七賢の一人です。 幼少時から、大人顔負けの聡明さを発揮しました。 鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられ、河東太守、荊州刺史などを歴任しました。 晋の恵帝の時に、三公である司徒となりました。 廉潔な一面をもちますが、利殖にたけて莫大な財産を築きました。 阮籍と交遊し、竹林の遊びと清談を好みました。 七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃から竹林の七賢と呼ばれるようになりました。 隠者と言われることがありますが、多くは役職についていました。 魏から晋の時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行しました。 しかし、当時の陰惨な状況では、奔放な言動は死の危険がありました。 本書は、いずれも激烈に生きた竹林の七賢について、鋭敏な筆致で簡明に描いています。序章 「竹林の七賢」と栄啓期像/第1章 「竹林の七賢」グループの誕生/第2章 見識と度量の人ー山濤/第3章 嵆康の「養生論」/第4章 方外の人ー阮籍/第5章 劉伶の「酒徳頌」と阮籍の「大人先生伝」/第6章 広陵散ー嵆康/第7章 阮籍の「詠懐詩」/第8章 愛すべき俗物ー王戎/終章 なぜ「竹林」の「七賢」なのか[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]竹林の七賢 (講談社学術文庫) [ 吉川 忠夫 ]『世説新語』で読む竹林の七賢 (漢文ライブラリー) [ 大上 正美 ]
2024.11.09
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土倉庄三郎は=どぐらしょうざぶろうは、1840年奈良県川上村大滝に生まれ、幼名は、丞之助、族籍は奈良県平民でした。 父の庄右衛門も林業家で、1856年に父に代わり家業に従事し名を庄三郎と改めました。 ”山林王”(2023年3月 新泉社刊 田中 淳夫著)を読みました。 吉野川源流部の川上村に居を構え、近代日本の礎づくりに邁進し豪商三井と並ぶ財力を持った山林王の土倉庄三郎を紹介しています。 植林から育成、伐採、運搬にいたるまで、独自の造林技術を全国へ広めました。 また、吉野林業の特徴である山の所有者と管理者を分け山を維持する山守制度を築きました。 1868年に紀州藩による吉野川流下木材の口銭徴収反対運動を起こし、民部省に請願し廃止させました。 1869年に吉野郷材木方大総代、吉野郡物産材木総取締役になりました。 1870年に水陸海路御用掛となり、吉野川の水路改修工事に尽力しました。 1873年には東熊野街道の開設に着手し、1887年に街道が完成しました。 1887年から1897年にかけて、群馬県伊香保、兵庫県但馬地方、台湾などの造林も手掛けました。 1899年には鉄道計画にも参加し、吉野鉄道株式会社の設立にも携わりました。 明治期における吉野林業と日本林業の先覚者であり、吉野郡内では山林経営に従事しました。 100年先を見すえて生涯1800万本の樹木を植え、手にした富は社会のために惜しげも無く使い切ったといいます。 田中淳夫さんは1959年大阪生まれ、静岡大学農学部を卒業後、出版社、新聞社等に勤務しました。 その後フリーの森林ジャーナリストになり、森と人の関係をテーマに執筆活動を続けています。 土倉庄三郎は、林業分野とどまらず多方面で活躍した日本林業の父であり吉野林業の中興の祖です。 父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め林業興国を説きました。 庄三郎には卓越した先見の明があり、行動は林業分野にとどまらず、政治、経済、教育など多方面に及びました。 林業における庄三郎の功績として、土倉式造林法があげられます。 父祖伝来の吉野林業の造林技術の上に工夫を加え、通常の3倍近い本数の苗を植える超密植多間伐を行いました。 成長した木は、節がなく真っ直ぐで根元から末口までの太さがほぼ同じでした。 良質な材として全国に知られ、滋賀県西浅井、群馬県伊香保、兵庫県但馬、静岡県天竜など、各地への造林が始まりました。 そして台湾台北県での造林にも進出し、台湾で植林されたものは戦後沖縄に電柱として輸出されるようになりました。 また、庄三郎は林業の要は運搬にありとしてインフラ整備に目をむけました。 林業のみならず地域経済の発展に貢献し、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。 庄三郎は自らの財産を国のため教育のため事業のために3分し、教育にも充分な支援を行いました。 1875年に私費を投じて川上村大滝に小学校を作り、教科書や文房具などを支給しました。 1882年に敷地の隣地に私塾芳水館を開設し、近在の青少年にも受講を認めました。 その後、入塾希望者が増えたため、3年後西河地区に寄宿舎や教師の住宅も備えた学舎を建築しました。 漢学、算術、英語、武道の学科があり、私塾の枠を超え中等教育機関へと発展しました。 1881年に、次男、三男等の教育のため、新島譲と面談して同志社大学の設立に賛同し出資を約束しました。 庄三郎は自身の子供の教育にも熱心で、男女11人の子供のほとんどを同志社に通わせました。 次女のマサは同志社女学校のほか、米国ペンシルベニア州のブリンマーカレッジでも学ばせました。 また、女子の高等教育の必要性を説く成瀬仁蔵の日本女子大学の設立について寄付を行い、1901年に日本女子大学が創設されました。 さらに、1877年頃から自由民権家らと交流し、1880年に中島信行の遊説の際に資金を提供しました。 1881年に大阪で立憲政党が結成されるとこれに加わり、1882年に日本立憲政党新聞の出資者となりました。 1882年に、自由民権運動の中心人物であった板垣退助の洋行費用を提供しました。 1973年にトンネルが開通する前は、川上村に入るには結界の山を登って五社峠を越えなくてはなりませんでした。 帰国後板垣はすぐ、五社峠を越えて川上村詣を行ったといわれます。 ほかに、山県有朋、井上馨、伊藤博文、太隈重信、松方正義、後藤象二郎、中島信行などの要人も、支援を求めて川上村詣をしたといいます。 五社峠を越えたわけは、川上村在住の土倉庄三郎に面会するためでした。 土倉家は代々続く大山主で、所有山林は最盛期で9,000ha、県外と台湾を加えると23,000haに及びました。 山から伐り出された木材は吉野川を下り、和歌山から大阪そして全国に運ばれました。 それらによって生み出された富は非常に大きく、明治初年の土倉家の財力は三井家と並ぶと称せられました。 その経済力とともに、庄三郎という人間の信念と行動力が明治の世を動かしました。 庄三郎は川上村から明治の社会を見据え、時代と四つに組みました。 新たな教育を広め、技術革新を進め、国土の改良に取り組み、政治を揺さぶりました。 武器は林業であり、森から明治という時代を動かしました。 しかし、長い年月の間に庄三郎の事績は忘れられつつあります。 庄三郎に関する資料は少なく、本人直筆の文書も庄三郎について語られた記録も数えるほどです。 そこで庄三郎の生きた時代を洗い直し、交わった人々が残した断片的な記録を拾って再構築する作業を進めたということです。 それらを基に、本書において土倉庄三郎の実像に迫りたいといいます。 筆者が庄三郎を知ったのは、1980年代末に川上村を初めて訪れて磨崖碑を目にしたときだったそうです。 2000年代に入ってから詳しく調べようとしましたが、資料は少なく、実像を知るまでいきませんでした。 基本文献は、一つは1917年に配布された佐藤藤太著『土倉庄三郎ー病臥、弔慰、略歴』でした。 もう一つは、1966に出版された土倉祥子著『評伝土倉庄三郎』です。 前者は簡素であり、後者は記事の多くが真偽を確認する必要があったそうです。 そこで、同時代の雑誌や新聞、吉野の歴史や林業の文献から、庄三郎に関わる点を拾い出すことに注力しました。 少ない資料からなんとか庄三郎の足跡を拾い出し、2012年に『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』を刊行しました。 この本を出版したことで、次々と新資料が寄せられたといいます。 複数の庄二郎の子孫縁戚の方から連絡があり、資料も提供されたそうです。 前著の刊行後10年を超え、新たに得た情報を取り込んで庄三郎の実像を描き直そうとしました。 すると、単なる増補には収まらなくなり、全面的に書き改めることとなったとのことです。序 源流の村へ/第1章 キリスト教学校と自由民権運動/第2章 山の民の明治維新/第3章 新時代を大和の国から/第4章 国の林政にもの申す/第5章 土倉家の日常と六男五女/第6章 逼塞の軌跡と大往生/終章 庄三郎なき吉野/あとがき/年表/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]山林王 [ 田中 淳夫 ]吉野林業全書【電子書籍】[ 土倉梅造 ]
2024.10.26
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道鏡はこれまで、平将門・足利尊氏と並んで天下の三大悪人と称されました。 道鏡は女帝を寵絡した天下の悪僧と呼ばれ、平将門は朱雀天皇に対し新皇を自称し、足利尊氏は後醍醐天皇をないがしろにしました。 ”道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実”(2024年4月 筑摩書房刊 寺西 貞弘著)を読みました。 女帝に取り入って皇位さえうかがった野心家として、様々な謎に包まれ悪評にまみれた奈良時代の僧・道鏡の実像に迫ろうとしています。 戦前は皇国史観が盛んに唱えられ、三人は天皇に弓を引いた大悪人として扱われていました。 しかし、戦後の民主化によって皇国史観が払拭されると、三大悪人に対する見方も大きく変化しました。 とくに足利尊氏については、後醍醐天皇の保守性に対し武家社会の要望に応えた一面が評価されています。 では、道鏡についての評価はどうでしょうか、悪僧との評価がどれほどまでに改められたでしょうか。 本書では、さまざまな伝説を検証し最新資料を検討しています。 すると、道鏡は実際には政治に関与せず天皇への仏教指導に終始した人物という意外な実像が見えてくるといいます。 寺西貞弘さんは1953年大阪府摂津市生まれ、1978年に関西大学文学部史学科日本古代史を卒業しました。 1983年に同大学院博士課程後期課程満期退学し、1989年に文学博士となりました。 1984年に和歌山市立博物館学芸員、同館学芸課長、副館長を経て、2002年に館長となりました。 2015年から有田市郷土資料館学芸員を務めました。 道鏡は700年に河内国若江郡、現在の八尾市の一部で生まれ、俗姓は弓削氏の弓削連でした。 弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族で、複数の系統があります。 道鏡の属する弓削連は物部氏の一族で、物部守屋が弓削大連と称してから子孫が弓削氏を称したといいます。 道鏡は葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていたそうです。 若い頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、奈良の東大寺を開山した良弁から梵語を学びました。 禅に通じていたことから、宮中の仏殿に入ることを許され禅師に列せられました。 当時は第45代聖武天皇の治世の時代でした。 聖武天皇は天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例でした。 このころ、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願い、後に光明子は非皇族として初めて立后されました。 聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、阿倍内親王のみでした。 阿倍内親王は弟の第一皇子が夭逝し他に適任者がなかったため、749年に聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位しました。 孝謙天皇は重祚して、称徳天皇とも称した、第46代天皇および第48代天皇です。 史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇です。 この称徳天皇以降は江戸時代の第109代明正天皇まで850余年、女性天皇が立てられることはありませんでした。 『続日本紀』では終始、高野天皇と呼ばれ、ほかに高野姫天皇、倭根子天皇とも称されました。 母の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂の支援を受けて政治を行なっていました。 758年に母の光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となりました。 大炊王は淳仁天皇として即位し、760年に光明皇后が崩御しました。 孝謙上皇と道鏡が出会ったのは、その3年後の761年のことでした。 761年には平城宮の改修のため、都が一時的に近江国保良宮に移されました。 そのとき孝謙上皇が病気を患い、道鏡は傍に侍して看病しました。 藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めました。 しかし、孝謙上皇はこれに激怒し、孝謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になりました。 孝謙上皇は女性天皇であるが故に、生涯独身である必要がありました。 そして、子がなかったため常に後継問題に悩まされていました。 道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていきました。 そして、病気を治したことから重用されるようになり、その寵を受けることとなりました。 762年に孝謙上皇は、淳仁天皇が不孝であるとして仏門に入り別居し、政務を自身が執ると宣言しました。 淳仁天皇はこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となりました。 763年には慈訓に代わって道鏡が少僧都に任じられ、764年には太政大臣禅師に任ぜられました。 764年9月に、藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した孝謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪いました。 藤原仲麻呂は乱を起こして対抗しましたが、敗れて殺害されました。 そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲いて称徳天皇となりました。 765年に道鏡は法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進しました。 道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達しました。 加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対し、藤原氏らの不満が高まりました。 769年には、宇佐八幡神託事件とも道鏡事件とも呼ばれる事件を起こして失脚しました。 これは、道鏡を天皇の位につければ国家は安泰とする、偽の神託を奏上させる事件でした。 弓削浄人と大宰府の主神の中臣習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのでした。 称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣しました。 ところが和気清麻呂が受けた神託は、皇位は皇族が継ぐもので無道の人である道鏡は早く追い払えというものでした。 怒った称徳天皇は、和気清麻呂に別部穢麻呂という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。 道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みましたが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたといいます。 この事件により道鏡は、女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として日本三悪人に数えられるようになりました。 事件の翌年の770年に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下しました。 軍事指揮権は、太政官である藤原永手や吉備真備に奪われました。 道鏡は長年の功労により処刑されませんでしたが、弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。 道鏡は下野国の下野薬師寺別当に左遷されそこで没し、死後は一庶民として葬られました。 道鏡を研究する際に必要不可欠な史料である『続日本紀』は、古代律令国家が編纂した立派な歴史資料です。 これは古代律令国家が国家の威信をかけて編纂し、天皇とその国家の非を書き記すことは絶対にしないといいます。 そのため、道鏡は、必要以上に悪人として語られてしまっているのではないでしょうか。 本書はこのような観点から『続日本紀』を読み返して、道鏡の評価を再考しようとするものです。 第一章では、うわさの道鏡として道鏡にまつわる伝承を取り扱います。 第二章では、仏教との出会いとして道鏡が出家するまでの過程を検討しています。 第三章では、道鏡と律令国家として、国家政治における道鏡の位置づけを考えています。 第四章では、称徳朝政治と道鏡として、称徳朝における道鏡の政治的立場を検討しています。 第五章では、称徳天皇の崩御と道鏡の左遷として道鏡の左遷に至る経緯を再確認しています。 以上から、道鏡の生涯を総覧すべく述べ来って述べ終わったといいます。第1章 うわさの道鏡(道鏡の生年/道鏡同衾伝説/称徳女帝淫猥伝説/歴史と伝説の間)/第2章 仏教との出会い(道鏡の出自/道鏡の仏教)/第3章 道鏡と律令国家(称徳天皇の即位事情/称徳天皇との出会い/藤原仲麻呂の乱と淳仁天皇廃帝)/第4章 称徳朝政治と道鏡(大臣禅師・太政大臣禅師・法王/太政官政治と道鏡/西大寺の創建と道鏡/宇佐八幡託宣と道鏡)/第5章 称徳天皇の崩御と道鏡の左遷(称徳天皇の晩年/道鏡の左遷と死去)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実 (ちくま新書 1790) [ 寺西 貞弘 ]道鏡 悪業は仏道の精華なり【電子書籍】[ 三田誠広 ]
2024.10.12
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室鳩巣は1658年に室玄樸の子として、武蔵国谷中村、現在の東京都台東区谷中で生まれました。 室玄樸は1616年生まれの備中岡山の人で、剛直な性格で世間と合わず、摂津、江戸で町医者として過ごしました。 ”武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』”(2024年6月 KADOKAWA刊 川平 敏文著)を読みました。 新井白石の推挙で幕府儒学者として召し抱えられ徳川吉宗の享保の改革の相談役となった、朱子学者・室鳩巣の人生を紹介しています。 室鳩巣は諱は直清、号は鳩巣・滄浪、字は師礼、通称は新助、信助、駿台先生と言いました。 1672年に金沢藩に仕え、藩主前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となりました。 1686年に加賀に赴任し廃屋を買って住居としてから、鳩巣の号を用いるようになりました。 以後、加賀・京都・江戸を往来して勉学を続けました。 この間、山崎闇斎門下の羽黒養潜と往来して学問を深め、朱子学者としての定見をもったのは40歳近くになってからといいます。 1711年に新井白石の推挙で江戸幕府の儒学者となり、幕府より駿河台に屋敷を与えられました。 徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、ここで献策と書物の選進を行いました。 吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐し、湯島聖堂において朱子学の講義を行いました。 また、幕臣への学問奨励のため吉宗の命を受けて、八重洲河岸に開設された高倉屋敷でも講義を行いました。 白石失脚後も吉宗の信任を得て1722年に侍講となり、しばしば諮問を受けて幕政にも関与しました。 1725年には西丸奥儒者となり、77歳で没するまでその地位にありました。 著作には、『五常名義』『五倫名義』『駿台雑話』『赤穂義人録』『兼山麗澤秘策』『六諭衍義大意』などがあります。 川平敏文さんは1969年福岡県生まれ、1999年に九州大学大学院博士後期課程を修了し、博士(文学・九州大学)となりました。 専攻は、日本近世文学・思想史で、1998年に柿衞賞を、2000年に日本古典文学会賞を受賞しました。 熊本県立大学文学部助教授となり、2007年准教授、2010年九州大学大学院人文科学研究院准教授、2021年教授となりました。 2015年にやまなし文学賞、2016年に角川源義賞を受賞しました。 室鳩巣という名前は、日本史に興味があれば享保の改革で、古典文学に興味があれば近世の随筆で覚えているかもしれません。 高等学校の教科書にも載る人物でも、実際どのような人物だったか知る人はあまりいないでしょう。 鳩巣は18世紀初頭に江戸幕府に仕えた儒者で、当時の政治・思想・文学・教育などを考えるうえで重要な人物です。 もともと江戸の生まれですが、若いころに加賀藩主・前田綱紀に見出され藩の儒者として仕えていました。 おそらく本人は北陸の一儒者として一生を終えるものと、思っていたのではないでしょうか。 ところが幕府の政治に深く参与していた新井白石の推薦をうけ、幕府の儒者として召し抱えられたのです。 その後、将車が徳川吉宗になり白石は失脚し、政治の表舞台から姿を消します。 このとき、吉宗から大きな信頼を寄せられたのが鳩巣でした。 吉宗の享保の改革は財政・組織・農政・文教など多方面にわたりますが、鳩巣は文教方面の相談役として活躍しました。 陽明学や仁斎学、徂徠学の流行時に、鳩巣は朱子学を墨守して普及に努めました。 朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系です。 朱子の思想は宇宙論から人間論まで幅広く、しかもどのように真理を認識するかという方法論まで含んでいました。 宋において官学とされ、科挙を受験する士大夫の修身・斉家・治國・平天下という理念が強調されるようになりました。 日本などに伝来するうちに、幅広い思想体系と言うより、統治哲学ともいうべき側面のみが発達していく傾向がありました。 日本においては、江戸幕府の封建的身分制社会のイデオロギーとなっていきました。 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。 人は生来備えている良知を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。 日本では江戸時代に、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持しました。 朱子学は権威や秩序を重んじますが、陽明学は心のままに自分の責任で行動することを説いています。 当時の朱子学は、支配階級に都合よく解釈され、本来の理想とは、かけ離れた姿になっていました。 すっかり形骸化した朱子学を憂い、真っ向から否定したのが陽明学です。 仁斎学は、江戸前期の儒学者伊藤仁斎が築いた思想体系です。 総体的に、仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成されました。 朱子をはじめとする先行の注解を排除して、直接、論語、孟子を熟読することを求めます。 こうして聖人の思考様式、文脈を知り、それを通じて儒教の意味、正統思想を理解せよと主張します。 徂徠学は、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派です。 古い辞句や文章を直接読むことによって、後世の註釈にとらわれず孔子の教えを直接研究しようとします。 鳩巣は朱子学や仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する古文辞学を標榜しました。 鳩巣の『駿台雑話』は、鳩巣による江戸時代半ばの随筆であり儒学書でもあります。 朱子学的な観点で、学術や道徳などを奨励した教訓的なものです。 鳩巣による著作物の中でも特に著名なものであり、江戸時代の随筆の中でも代表的なものです。 1732年に成立し、全5巻、仁・義・礼・智・信の五常を5巻に配しています。 鳩巣の生涯の最晩年に、幕儒を引退する間際に書かれた和文随筆です。 鳩巣の政治・思想・文学などについての考えが、門人や客人と談話する形式に寄せて書かれました。 書かれている鳩巣の考えは、18世紀末に老中・松平定信によって推進された寛政異学の禁の骨子をなしています。 寛政異学の禁は、朱子学を幕府の正学とし、幕府の学問所の昌平黌で朱子学以外を教えることを禁じた命令です。 また、なかに掲載されている往古の武士たちの忠義の逸話や、和漢の詩歌を評判した文章は、明治から昭和戦前の国語教科書において頻出教材となりました。 鳩巣は政治史的には新井白石、思想・文学的には荻生徂徠、教育史的には貝原益軒などの同時代儒者たちの影に隠れてしまっているように見えます。 その理由のひとつは、鳩巣がいわば燻し銀のように、目立つことを潔よしとしなかったからです。 鳩巣が信奉していたのは朱子学ですが、朱子学で最も重要とされたのが中庸の精神です。 中庸とは、しっかりした理念のもとに、どこが本当の真ん中であるかを判断しその状態を不断に維持し続けることです。 近世中期から近代前期にいたるまで、日本人の道徳観の涵養や文学観の形成に少なからず貢献していました。 戦後、価値観は大きく変わりましたが、それでも現代のわれわれの道徳観や文学観につながる部分もあろうといいます。 本書では室鳩巣という人物とその著述について、さまざまな角度から光を当てています。 序章では、幕儒になる以前の加賀藩儒時代、鳩巣がどのような思いで過ごしていたかを概観しています。 第一章では、江戸に招聘された鳩巣が幕儒としてどのような仕事をこなしていたのかを考えています。 第二章では、徳川吉宗が鳩巣に編述を命じた『六諭術義大意』が、どのようなやり取りを経て完成したのかを追いかけます。 第三章は、鳩巣の主著ともいえる『駿台雑話』が、どのような社会背景のもとで書かれたかを押さえています。 第四章では、『雑話』における思想的問題を取り上げるています。 第五章は、『雑話』における武家説話を取り上げています。 第六章では、『雑話』における文学論を取り上げています。 終章では、『雑話』を中心とした鳩巣の著述が、後世にどのように広がったかを見ています。 室鳩巣は晩年に、心をよりどころにして近世的な自我意識や、君臣、君民間の契約を論じました。 これは、単に封建的なイデオローグとしてかたづけられない可能性を示したといいます。序章 鳩巣、江戸へー不遇意識のゆくえ/第1章 幕儒としての日々/第2章 庶民教化の時代/第3章 『駿台雑話』の成立/第4章 異学との闘い/第5章 武士を生きる/第6章 文学とは何か/終章 後代への影響ー『駿台雑話』の受容史 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』 [ 川平 敏文 ]『中古』駿台雑話 (岩波文庫)
2024.09.28
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岡倉天心は日本の思想家であり、日本美術の発展の種まきをし耕した人物です。 ”岡倉天心『茶の本』の世界 ”(2024年5月 筑摩書房刊 岡倉 登志著)を読みました。 ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めた岡倉天心が、日本の茶道を欧米に紹介する目的でニューヨークの出版社から刊行した『茶の本』の世界を紹介しています。 明治時代初期に横浜で生まれ、幼少期から英語を得意としてエリート街道を進みました。 官僚となってから日本美術の素晴らしさに目覚めました。 語学力を活かして、日本美術・日本文化の発信者として生きる道を選択しました。 現在の東京藝術大学の前身の東京美術学校の設立に貢献し、のちに日本美術院を創設しました。 近代日本における美術史学研究の開拓者でもあり、明治時代以降の日本美術成立に大いに寄与しました。 代表作は東洋の美術を欧米に紹介した『茶の本』であり、1906年に出版され全米ベストセラーとなりました。 現在では20数種の言語に翻訳され、世界的名著として知られています。 日本国内でも誰もが認める、日本を代表する書といえるでしょう。 岡倉登志さんは1945年千葉県生まれ、1974年明治大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1975年に西アフリカに半年滞在、その後もエチオピア、ジブチ、ケニア、タンザニアで数回の調査・研究旅行を行いました。 1988年4月から2011年3月まで、大東文化大学文学部教授を務めました。 現在、大東文化大学名誉教授、横山大観記念館評議員となっています。 専門はヨーロッパ・アフリカ関係史、日本と西洋の交流史です。 岡倉天心の曾孫にあたり、2002年に天心研究会「鵬の会」を結成し、論文発表や講演活動を行っています。 岡倉天心は1863年横浜生まれ、日本の思想家、文人で、本名は岡倉覚三、幼名は岡倉角蔵といいました。 福井藩士・岡倉覚右衛門の次男で、福井藩は覚右衛門に神奈川警備方を命じて赴任させました。 福井藩は横浜で海外貿易の盛隆を目の当たりにし、生糸を扱う貿易商店石川屋を1860年に横浜に開店しました。 店を訪れる外国人客を通じて、岡倉は幼少時より英語に慣れ親しんでいきました。 1871年に父親の再婚をきっかけに、大谷家に養子に出されました。 里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられました。 寺の住職から漢籍を学び、高島嘉右衛門が開いた高島学校へ入学しました。 1873年に、廃藩置県によって石川屋が廃業となりました。 父親が蛎殻町で旅館を始めたため、一家で東京へ移転しました。 天心は、官立東京外国語学校、現在の東京外国語大学に入学しました。 1875年に、東京開成学校、後の東京大学に入学し、1878年に結婚しました。 1880年7月に東京大学文学部を卒業し、11月より文部省に音楽取調掛として勤務しました。 1881年に、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査しました。 アーネスト・フェノロサは、1853年生まれのアメリカの東洋美術史家、哲学者です。 明治時代に来日したお雇い外国人で、日本美術を評価し紹介に努めました。 1882年に専修学校、現在の専修大学の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献しました。 1884年に、フェノロサとともに京阪地方の古社寺歴訪を命じられ、法隆寺夢殿を開扉し、救世観音菩薩像を調査しました。 1886年から1887年にかけて、東京美術学校、現在の東京芸術大学美術学部設立のため、フェノロサと欧米を視察しました。 1887年に東京美術学校幹事となり、翌年に博物館学芸員に任命されました。 1889年に日本美術学校が開校され、5月に帝国博物館理事に、12月に大博覧会美術部審査官となりました。 1890年10月に天心が東京美術学校初代校長になり、フェノロサが副校長となりました。 同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てました。 1898年に東京美術学校を排斥され辞職し、同時に連帯辞職した大観らを連れ、日本美術院を下谷区谷中に発足させました。 1901年から1902にかけてインドを訪遊し、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ等と交流しました。 1902年に来日した、ボストン生まれのアメリカ医師、日本美術研究家、仏教研究者のビゲローと交歓しました。 1904年にビゲローの紹介で、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられました。 この後は、館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなりました。 それ以外の期間は、茨城県五浦のアトリエにいることが多くなりました。 1905年と1907年に渡米し、美術院の拠点を茨城県五浦に移しました。 1910年にボストン美術館に東洋部を設けることになり、美術館中国・日本美術部長に就任しました。 1911年に帰国し、1912年に文展審査委員に就任しました。 1913年に、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて、9月2日に50歳で永眠しました。 同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られ、戒名は釈天心でした。 『茶の本』は、茶道を仏教、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説しています。 天心没後の1929年に邦訳され、2019年時点で約90年を経て118刷56万部に達しています。 新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期の日本人による英文著書として有名です。 ジャポニズム興隆や日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国でも翻訳されました。 2016年には、世界的な名著を集めたペンギン・ブックス双書にも加えられました。 『茶の本』の解説書はすでに数多く刊行されています。 本書では、『茶の本』の世界を、できるだけ多岐にわたって紹介していきたいといいます。 筆者は天心の人的交流に詳しく、その背景となる天心の書簡・日誌類など一次資料を丹念に見ています。 先行研究の著作を参考にしながら、それらを補足・訂正し新しい視点を提起しています。 また、国際的な文化交流の文脈で、『茶の本』を再考していくことにしたいとのことです。 さらに、筆者ならではの視点から、120年前の『茶の木』を21世紀の現代から見るということです。 序章では『茶の本』が執筆・出版されるまでの経緯ついて述べ、天心のコスモポリタンな思考と類いまれな英語力に着目しています。 第一章では天心の幼少期から振り返りその思想的背景を概観し、六角堂について考察し数々の著名人との関わりについて心論じています。 第二章では『茶の本』刊行100周平記念行事にについて触れ、『茶の本』の成立事情と構成について述べています。 第三章はユーモリストで風流人でもあった天心に着目し、重要な思想的立脚点について論じています。 第四章では清国を視察した天心の中国文化・思想への強い関心をテーマとし、『茶の本』に見える道教、詩歌について考察しています。 第五章では1893年のシカゴ万博について詳しく述べ、天心が内装を手がけた鳳凰殿と併設のティーハウスに注目しています。 第六章は天心の精神的支えであったガードナー夫人の来歴と、10年間にわたる両者の交流について考察しています。 第七章では天心が愛した東洋の詩人たちに注目し、ブリヤンバダ・デーヴィ-、アンリーミショー、タゴールについても論じています。 終章では晩年の天心が多忙な生活の中で夢見た二重の人生や、死への旅立ちを意識した天心の辞世ともいえる詩を考察しています。序章 『茶の本』の世界/第1章 『茶の本』は「茶の湯」の経典か/第2章 宗教と哲学から『茶の本』を読む/第3章 文学・演劇にみるユーモリスト/第4章 中国文化との関連/第5章 万国博覧会と日本の建造物/第6章 ガードナー夫人のサロンに集う人々/第7章 詩で詠む『茶の本』の世界/終章 黄昏 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]岡倉天心『茶の本』の世界 (ちくま新書 1792) [ 岡倉 登志 ]【中古】 岡倉天心『茶の本』を読む 岩波現代文庫 学術302/若松英輔【著】
2024.09.14
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インネパ店とはインド・ネパール料理店の略で、主としてネパール人が手がけるインド料理店を指します。 よく見かける外国人経営のカジュアルなインド料理店は、実は多くがネパール人が経営していることが多いです。 ”カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」”(2024年3月 集英社刊 室橋 裕和著)を読みました。 いまやいたるところで見かける格安インドカレー店について、その急増の理由や稼げる店の秘密と裏事情などを解説しています。 2022年現在、全国に少なくとも2000軒のインネパ店があるといいます。 しかも、その軒数はここ15年ほどで5倍前後になっているそうです。 2022年1月時点の日本ソフト販売による集計では、代表的な飲食チェーン店の国内店舗数は、たとえば松屋は977店、ドトールは1069店、CoCo壱番屋は1238店です。 これらに比べると、インネパ店の2000軒は大きな数字です。 インネパ店の多くは個人経営ですので単純な比較はできませんが、今や有名チェーンの店舗数をはるかに上回っているといえます。 お店のほとんどが、ネパール人による経営なのはなぜでしょうか。 また、どの店にもナンとインドカレー、タンドリーチキンなどの定番メニューが並んであるのはなぜでしょうか。 室橋裕和さんは1974年埼玉県入間市生まれ、両親は共働きで町工場の営業をしていたそうです。 バックパッカーに憧れて、東京の大学に進学後はアルバイトで貯めた資金で中国、インド、中近東などを旅しました。 その後、週刊文春の記者を経てタイに移住しました。 現地発日本語情報誌のデスクを務め、10年に渡りタイと周辺国を取材しました。 2014年に帰国後は、アジア専門のライター、編集者を務めています。 現在は多国籍タウンの新大久保に住み、外国人コミュニティと密接に関わり合いながら取材活動を続けています。 インネパ店には共通する定番のメニューといえるものがあるそうです。 中心に据えているのは、ナン、インドカレー、タンドリーチキンなどです。 中でも多くの店のウリは、バターチキンカレーとおかわり自由なナンです。 10種類ほどあるカレーはスパイスをきかせすぎず、ナンは甘く柔らかいです。 最近では、チョコレートナン、明太子ナン、あんこナンなどのナンを出す店も増えています。 こうした料理は北インド料理がルーツで、ネパール料理ではありません。 インネパ店で出されているのは、北インドのカレーを外食風にアレンジした少し濃い目の味付けのものです。 これは、ネパールではあまり一般家庭で食べるものではありません。 というのは、タンドールという釜がないとナンやタンドリーチキンは焼けないからです。 ネパール人が普段食べているのは、ご飯にダルという豆の汁が主なものです。 カレーの味付けはスパイスの量が少なく、野菜、高菜、アチャールという漬物や発酵ものが多いです。 しかし、メニューにはネパール餃子のモモがあったり、店の内外にネパール国旗やヒマラヤ山脈の写真を掲げていたりします。 メニューは伝統料理ではなく、幅広い層の日本人の好みに合わせたものです。 インドやネパールの食文化にこだわらず、知名度の高いインド料理として出しています。 日本各地に存在するインドカレー店は、インド人がやっているところもありますが、ネパール人が経営していることがほとんどのようです。 ネパールは出稼ぎ国家で、外食産業がネパール人の出稼ぎの手段になっています。 多くが、カトマンズから200キロ近く離れたバグルンという山に囲まれた地域出身です。 インドでコックとして働いてきたネパール人が、さらに大きなお金を稼ぐために日本へ渡ってきています。 法務省の統計では、2006年に7844人だった在留ネパール人の数は、2020年には9万9582人となっています。 バブル期に日本に出稼ぎに来るネパール人が増え、2000年代にビザの取得要件が緩和されました。 また、外国人でも500万円を投資すれば、経営・管理という在留資格を持って会社を経営できるようになりました。 しかし、日本にやって来るのも簡単な話ではなく、店を出すのにも多額の資金が必要になります。 親戚や銀行からお金をかき集め、海を渡って出稼ぎにやってくるネパール人たちが大勢いるといいます。 ネパール人コックは、インネパ店の店主が招聘する形で日本にやってきます。 働く店が決まっていないと、ビザが下りないからです。 来日するコックは、店主または仲介業者に仲介手数料を払うのが商習慣となっています。 来日したコック自身も後に独立して経営者となり、同じように仲介手数料をとってネパール人コックを呼び寄せるケースが多いそうです。 多くは、なんとしてでも稼いで一旗あげるとか、絶対に失敗できないという必死な気持ちで日本にやってきています。 もともと、日本のインド料理店では、ネパール人が多く働いていました。 それが独立して、お店を始めるようになったことからインネパが生まれ始めました。 インネパ店でも、お客がよく入る店とそうでない店の差があるそうです。 あくまで稼ぎに来てるわけで、日本人のお客さんを掴むため、いろいろ考えてメニューを開発しています。 いろいろな改造されたナンは、お客さんを意識して出されています。 これには、ネパール人のしなやかさとか柔軟性の象徴みたいなところがあります。 インド人から見たら許せないのかもしれないものでも、ネパール人は日本人にいかにウケるかを大事にしています。 インドの本場のナンは、日本で作られているナンほど大きくありません。 日本人は映えを意識するから、なるべく大きくしろといわれるそうです。 しかし、現地の人はもっとうすいチャパティとかを食べていて、ナンは外食時の食べ物という感じがするとのことです。 現在、日本では円安問題や経済不況だと騒がれていますが、それでも日本に来たいというネパール人はまだたくさんいるそうです。 カレーの原価率は一般的には20~30%といわれ、他の料理と比べても低いことが特徴です。 また、名物のナンはおかわりサービスをしていても、赤字になるような原価ではありません。 インドカレー店は特殊な厨房機器を必要とせず、最低限の機器を揃えるだけで十分といえます。 さらに、インドカレーは日本人に馴染みがあり人気の高い料理です。 インネパ店はオーナーやスタッフが家族や親戚である場合が多く、身内で経営することで人件費を比較的安く抑えています。 昔は単身赴任の出稼ぎスタイルが多かったようですが、今では家族を一緒に連れてくる人も増えました。 奥さんも働いて家計を支え、子供は日本の学校に通わせています。 一番の問題と感じているのは、カレー屋の子供のことだといいます。 親は経営に追われて忙しく、子供の面倒を十分に見れません。 日本に連れてこられた子供たちは、わけもわからずなかなか馴染むことができません。 また、子供の教育に関心の低いネパール人も少なくないようです。 このような問題があっても、日本が閉ざさない限りこれからもカレー移民は増え続けていく可能性が高いといいます。 本書は、インネパ点のメニューの源流を探し、在留外国人統計からネパール人が増加した歴史をたどっています。 母国からコックを呼ぶブローカー化した経営者や、搾取されるコックたちといった闇にも切り込んでいます。 背景には、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさもあるといいます。第1章 ネパール人はなぜ日本でカレー屋を開くのか/第2章 「インネパ」の原型をつくったインド人たち/第3章 インドカレー店が急増したワケ/第4章 日本を制覇するカレー移民/第5章 稼げる店のヒミツ/第6章 カレービジネスのダークサイド/第7章 搾取されるネパール人コック/第8章 カレー屋の妻と子供たち/第9章 カレー移民の里、バグルンを旅する[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」 (集英社新書) [ 室橋 裕和 ]日本のインド・ネパール料理店[本/雑誌] / 小林真樹/著
2024.08.31
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福沢諭吉は、天保5年12月12日、西暦では1835年1月10日に生まれ、来るべき近代国家の在り方を構想した大思想家です。 ”福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで”(2024年5月 集英社刊 中村 敏子著)を読みました。 慶應義塾の創設者で西洋の学問や思想を日本に広めた福沢諭吉において、儒学の枠組みと西洋がいかに響き合いどう変化したかなどを紹介しています。 幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家でした。 1858年に慶應義塾の前身の蘭学塾、1875年に一橋大学の前身の商法講習所、1902年に神戸商業高校の前身の神戸商業講習所の創設にも関わりました。 代表作の「学問ノスゝメ」は全部で17編のシリーズもので、初編が1872年に、1876年に最後の第17編が刊行されました。 既存の研究では、武士としての前半生はほとんど重視されてきませんでした。 しかし、未知の文明の受容と理解を可能にするため、何らかの器が必要だったはずです。 本書では、福沢は私的領域を含む社会を見据え、西洋思想の直輸入ではない「自由」と「独立」への道筋を示しています。 中村敏子さんは1952年栃木県宇都宮市生まれ、1975年に東京大学法学部を卒業し東京都庁職員となりました。 退職後、1988年に北海道大学大学院法学研究科博士課程を修了し、同法学部助手となりました。 1994年に北海学園大学教養部助教授、1996年同大教養部教授、1998年同大法学部教授・同大学院法学研究科教授となりました。 北海学園大学教養部長、同学生部長、同就職部長なども務め、2018年に同大を定年退職し、名誉教授となりました。 思想史学としての福沢諭吉研究のみならず、政治思想における女性および家族の位置付けや政治理論も研究しています。 福沢諭吉は幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家です。 諱は範、字は子圍、揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」、雅号は三十一谷人です。 豊前中津藩の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました。 2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けました。 14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学びました。 その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵の適塾で学ぶようになりました。 お金がなく途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなりました。 1858年23歳のときに、江戸の藩邸で蘭学塾を開くことになりました。 翌年、外国人の多い横浜を訪れ外国人は英語ばかり使い、オランダ語が通用しないことを知りショックを受けました。 英語を教えてくれる人が近くにいなかったため、英蘭対訳辞書を基に独学で英語を学び始めました。 1860年25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航しました。 アメリカでは、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚えました。 アメリカで英語の辞書のウェブスターを購入し、帰国後は単語集「(増訂)華英通語」を刊行しました。 塾の教育を英学に切り替え、その後も、幕府の使節として欧米を視察しました。 1866年31歳のときに、海外で見てきたことを「西洋事情」という本にまとめました。 1868年33歳のとき、築地の蘭学塾を芝に移し慶應義塾と名付けました。 塾生から毎月授業料を取る形の学校運営は、これが初めてでした。 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる「学問のすすめ」は、1872年から刊行が始まりました。 17冊に分けて1冊の値段を安くして漢字には読み仮名を振り、300万部のベストセラーとなりました。 1879年に東京学士会院、現、日本学士院の初代会長に就任しました。 東京府会副議長にも選出されましたが、これは辞退しました。 1880年に慶應義塾の塾生が激減し財政難に陥りましたが、門下生たちが広く寄付を求めて奔走した結果、危機を乗り切りました。 1881年に慶應義塾仮憲法を制定し、引き続き諭吉が社頭となりました。 1889年に慶應義塾規約を制定し、1890年に慶應義塾に大学部を発足させ、文学科・理財科・法律科の3科を置きました。 1898年に慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立し、政治科を増設しました。 1901年2月3日に脳出血で倒れ死去し、2月8日に葬儀が塾葬とせず福澤家私事として執り行われました。 福沢は、明治期に日本を西洋のような近代国家にしようと奮闘した人物として知られています。 それゆえ、これまで福沢の思想は、西洋からの影響を中心に考察されてきました。 また日本という国家が進むべき方向について考えたことから、国家に関する議論が主たる分析の対象とされてきました。 しかし天保年代に生まれ明治年代に亡くなった福沢は、明治維新をはさみ、前半は武士後半は知識人として生きました。 にもかかわらず、これまでの研究では福沢の明治期の活動が中心で、武士だった時代の影響は重視されてきませんでした。 古い社会を新しい社会へ転換することについて、福沢はどのように考えたのでしょうか。 本書は、幕末から明治にかけての福沢の思想の変化を中心に考察しています。 福沢は、江戸時代から色々な経験をする中で、個人や社会のあり方について考えました。 そこには、江戸時代のさまざまな要素が影響を与えています。 その中で、江戸時代に人々の生活の基盤だった家、つまり家族という集団も福沢の社会構想における考察の対象になっていました。 しかし、政治学の枠組みでは、家族と国家は私的領域と公的領域とに分けられます。 そして、私的領域である家族は社会構想から排除され、考察の対象とされることはありません。 福沢は明治期になってから国家を中心に論じたため、もともと含まれていた家族が後世の研究者による考察対象から省かれました。 そうした偏りをなくし、福沢が家族も含んだ形でどのように社会を構想したのかを示したいといいます。 もうひとつ重要なのは、福沢が若いときに武士の基本的教養である儒学をかなり深く学んでいて、社会構想に影響を与えたという点です。 著者は、福沢が若い頃学んだ儒学の思想枠組みを基礎として持ち、西洋の思想を学んでいったという解釈を採っています。 イギリスでの私的な経験から、外国の事象を理解するためには対応する概念や枠組みを持っている必要がある、と気付いたそうです。 符号としての外国の文字を見るだけでは、外国の観念は理解できないのです。 福沢が西洋を理解するためには、受容と理解を可能にする概念枠組みがすでにあったのではないかと考えるようになりました。 はじめから福沢の思想を読み直した結果、その概念枠組みは儒学だったという結論に至ったといいます。 本書は、再び福沢の思想を儒学の枠組みにもとづき読み直し解釈し直しました。 福沢は、儒学の枠組みを持ちながら西洋の思想を学んだとしています。 その過程で東西の思想はどのように響きあい、どのような変化がもたらされたのでしょうか。 本書では、福沢が最も重要だと考えた「独立と自由」を軸に、思想の変遷を分析し新しい社会において何をめざしたのかを解明したいといいます。はじめにー「議論の本位を定める」(『文明論之概略』第一章)一、福沢の前半生ー「一身にして二生を経る」(『文明論之概略』緒言)二、西洋から学ぶー「文字は観念の符号」(「福沢全集緒言」)三、『中津留別の書』ー「万物の霊」としての人間四、『学問のすすめ』ー自由と「一身の独立」五、『文明論之概略』ー文明と「一国の独立」六、「徳」論の変化ー「主観の自発」か「客観の外見」か七、男女関係論ー「一家の独立」八、理想社会としての「文明の太平」ー「天下の独立」引用文献・参考文献あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで (集英社新書) [ 中村 敏子 ]福沢諭吉「学問のすすめ」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) [ 福沢 諭吉 ]
2024.08.17
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ニセコは、広義には北海道後志総合振興局の岩内郡岩内町、岩内郡共和町、虻田郡倶知安町、虻田郡ニセコ町、磯谷郡蘭越町からなります。 ”なぜニセコだけが世界リゾートになったのか 「地方創生」「観光立国」の無残な結末”(2020年12月 講談社刊 高橋 克英著)を読みました。 世界有数のパウダースノーと美しく壮大な山並みが人気です。 毎年多くの外国人観光客が訪れるニセコという新世界の新しい経済に、観光消滅の苦境から脱するヒントがあるといいます。 ニセコは、後志管内のほぼ中央部に位置しています。 1895年に清川孫太、岩上判七らが西富に入地しました。 1897年に虻田村、現在の洞爺湖町から分村し、真狩村、現在の留寿都村の区域となりました。 この5町のうち、観光客の間で特に人気が高いのは、俱知安町、ニセコ町、蘭越町です。 この3町をニセコ観光圏と称されることもあり、特に倶知安町とニセコ町をニセコ地域ということもあります。 羊蹄山周辺は支笏洞爺国立公園に指定され、ニセコアンヌプリ周辺はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。 北海道遺産には「スキーとニセコ連峰」が選定されています。 ニセコ町は北海道虻田郡にある町です。 現市街付近は真狩川と尻別川が合流する地点にあることから、アイヌ語でマッカリペップトゥと呼ばれました。 尻別川は清流日本一に認定されたことがあり、サケやサクラマスがのぼる川でもあります。 真狩川と尻別川に字を当てると、真狩別太=まっかりべつぶととなりました。 その後1901年に真狩川下流域を分村した際に、真狩別太を略して狩太村=かりぶとむらと命名されました。 1963年に、ニセコアンヌプリ一帯がニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されました。 国定公園ニセコアンヌプリを仰ぐ町として、観光開発、農産業振興など行政上から、名称をニセコ町に変更するべきとの声が起こりました。 そして、1964年に町議会で町名と駅名の変更が議題となり、町名の狩太町をニセコ町に変更されました。 また、駅名については、かりぶと駅をニセコ駅に変更しました。 1964年6月30日付で北海道庁に名称変更を申請して同日に許可され、10月1日を以ってニセコ町に改名しました。 そして、駅名は遅れて1968年にニセコ駅に変更しました。 ニセコの魅力として大きいのは、世界的にも高く評価されている雪質のよさです。 サラサラのパウダースノーで、しかも雪の量が多いです。 ニセコには日本海から吹き付ける北風がアンヌプリを越えて、水分のない雪が降り積もる特徴があります。 この地域の魅力は、スキー場のスケールが大きいことや宿泊施設が充実していることも理由として挙げられます。 ニセコのインバウンド需要が高い理由は、ウィンタースポーツにあります。 スキー場には初心者向けから上級者まで多様なコースを設け、ナイターも充実しています。 国外からの観光客のほとんどは日本の30年以上にわたる経済の停滞により、世界で最も安いスキーリゾートになったために来ています。 インバウンドの隆盛によってお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることです。 高橋克英さんは1969年岐阜県生まれ、1993年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、三菱銀行、現 三菱東京UFJ銀行に入行しました。 1999年に、日興ソロモン・スミスバーニー証券、現シティグループ証券に入社しました。 2000年に、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科で経済学修士を取得しました。 主に銀行クレジットアナリスト、富裕層向け資産運用アドバイザーとして活躍してきました。 2010年に日本金融学会に所属し、2013年に独立して、金融コンサルティング会社マリブジャパンを設立しました。 世界60ヵ国以上を訪問し、バハマ、モルディブ、パラオ、マリブ、ロスカボス、ドバイ、イタリア湖水地方、ハワイ、ニセコ、沖縄など、国内外のリゾート地に詳しいです。 現在、事業構想大学院大学客員教授を務めています。 地元の倶知安町がスイスのサンモリッツと姉妹都市提携を結んで、2021年で57年になります。 ニセコは東洋のサンモリッツから世界のニセコとして、世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっています。 今や世界的なスキーリゾートとなったニセコの源泉は、パウダースノーです。 サラサラしたパウダースノーを体験してしまうと、なかなか他のスキー場には戻れません。 欧州や北米の世界的に著名な超高級スキーリゾートには、サンモリッツ、クーシュペル、ウィスラーなどがあります。 これらのスキーリゾートも、雪質ではニセコには敵わないところがほとんどです。 このパウダースノーを、オーストラリアのスキーヤーが世界に紹介しました。 以来、ニセコにアジア全体や欧州や米国からもスキーヤーが訪れるようになりました。 パークハイアットやリッツーカールトンなどの5つ星ホテルも開業し、アマンも建設されています。 アマンホテルに併設される戸建て別荘の販売予定価格は20億円になります。 今後も、高級ホテルやコンドミニアムの開発が続く予定です。 ニセコには、世界のスキーヤーや富裕層のために外国人による外国人のための楽園ができています。 また、周辺の地域のインフラ整備も着々と進んでいることが心強いです。 2027年には、高速道路が開通してニセコにインターチェンジができる予定です。 2030年には、北海道新幹線の新駅がニセコに設置されることも決まっています。 さらに、コロナ禍があったにもかかわらず、ニセコでは最高級ホテルの建設や公共事業への投資が継続しています。 加えて、中国や韓国資本による新たな開発計画も明らかになっています。 富良野やルスツ、キロロや札幌市内のスキー場なども、設備の更新と外資系ホテルの進出が続く可能性があります。 そうなれば、冬の北海道は、欧州のアルプス、米国のコロラド、カナダのウィスラーと並ぶ世界的なスキーリゾートとなるかもしれません。 なぜ、ニセコだけコロナ禍下でも不動産投資が継続しているのでしょうか。 その理由には、外資系大手や公共事業の計画、世界的な金融緩和、海外富裕層とホテルコンドミニアムの存在があります。 外資系大手や公共事業の計画では、リッツーカールトンが開業しアマンなどの建設が進んでいます。 これらのホテル建設は、香港PCCWグループやマレーシアのYTLグループなどによる大規膜リゾート計画の一環です。 コロナ禍でも、こうした外資系大手による開発、建設、公共事業が、継続しています。 これが地元や中小企業者なども、安心して中長期的視点で営業や投資活動を行えることにつながっています。 コロナショックによる世界的な金融緩和では、日米や欧州で史上最大規模の金融緩和策と財政出勤策がとられています。 雇用と事業と生活を守るため、あらゆる手段を尽くすとの意思表示です。 これまで以上に、不動産や株式にカネが流れ、実体経済が苦戦していても、日米の株式市場は堅調です。 ニセコは他の国内リゾートとは違い、海外観光客ではなく海外富裕層の投資家を強く惹きつけてきました。 ニセコに不動産をすでに所有する富裕層の多くは、経済的に耐久力があり長期・安定保有が目的です。 海外富裕層はすでに資産・資金を十分に持っていて、投資や開発を行うことが可能です。 ニセコの場合、その投資対象となるのが高級コンドミニアムやホテルコンドミニアムです。 金融緩和の恩恵を最も受けることができ、過去5年間で10倍以上に跳ね上がった不動産も多いといいます。 ニセコでは、国内外の富裕層顧客がスキーヤーやスノーボーダーとして集まり楽しんでいます。 良質なホテルコンドミニアムなどが供給されてブランド化が進み、資産価値の上昇と開発投資が行われています。 投資が投資を呼ぶ好循環が続き、消費より投資が牽引する経済社会が到来しています。 本書では、なぜニセコが世界的リゾートとして成功したのか、なぜコロナ禍下でも開発や投資が続いているのかを明らかにしたいといいます。はじめに ニセコの強さ3つの理由/第1章 ニセコはバブルなのか?/第2章 日本の観光投資の敗北と外資による再生/(1)東急から豪州、そしてアジアへ/(2)西武から米国、そしてアジアへ/(3)ラグジュアリーホテル続々開業/第3章 ニセコに世界の富裕層が集まる理由/(1)ホテルコンドミニアムという錬金術/(2)世界的なカネ余りがニセコを後押し/(3)なぜアジア富裕層はニセコを目指すのか/第4章 ニセコの未来/(1)世界最高級リゾートとの比較/(2)「夏も強化」は正論ながら空論/(3)富裕層向けサービスに特化する/(4)新幹線開通と五輪開催/第5章 ニセコに死角はないのか?/(1)「外資VS.住民」と「開発VS.環境」/(2)自然からの警告/(3)縦割り行政の弊害/第6章 観光地の淘汰が始まる/(1)マーケティングより人間の意思/(2)地方創生の幻想と東京/おわりに 2030年ニセコリゾート近未来像/参考文献・資料[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]なぜニセコだけが世界リゾートになったのか 「地方創生」「観光立国」の無残な結末 (講談社+α新書) [ 高橋 克英 ](2)ブックス・フォトブック ニセコパウダー
2024.08.03
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2017年のノーベル生理学・医学賞は、体内時計の研究において遺伝子レベルでのメカニズム解明に功績を残した研究者に授与されました。 受賞者は、マイケル・ヤンブ、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバッシュ士のアメリカの研究者3名です。 体内時計の存在やその重要性が広く一般にも知られ、健康との関わりから関心が高まっています。 ”「2つの体内時計」の秘密 「なんとなく不調」から抜け出す!”(2021年11月 青春出版社刊 八木田 和弘著)を読みました。 体の中の周期を調整する体内時計というシステムについて、その仕組みや生活上のヒントなどを紹介しています。 体内時計は体の中の周期を調整するシステムです。 目から得られる光の情報や、食事などによっても影響をうけます。 人間の体温や心拍などの生理現象は、地球の自転周期の24時間より少し長い周期です。 マスタークロックとサブクロックがこの周期を24時間に合わせてリセットし、体の周期を調整しています。 マスタークロックは脳の視床下部にある主時計で、サブクロックは各臓器にある副時計です。 体内時計が乱れると、さまざまな健康リスクが発生します。 24時間型の現代社会では、夜更かし、暴飲暴食、運動不足、シフトワークなどで生活習慣を乱しやすいです。 体内時計の乱れが続くと、睡眠覚醒リズムが乱れて不眠が引き起こされます。 すると全身に悪影響が及び、引き起こされるのは糖尿病などの生活習慣病や睡眠障害などです。 体内時計と健康は深く関わっており、健康的な体を維持するには、マスタークロックとサブクロックのリズムを合わせることが大切です。 そのためには、食事の時間を意識する必要があります。 八木田和弘さんは、京都府立医科大学大学院医学研究科統合生理学教授です。 1995年に京都府立医科大学卒業後、同大学附属病院第3内科にて研修を受け、同大学大学院を修了しました。 神戸大学医学部第2解剖学助手、講師、名古屋大学理学部COE助教授、大阪大学大学院医学系研究科神経細胞生物学准教授を務めました。 2010年より現職となり、2017年から地域生涯健康医学講座の教授を併任しています。 時間生物学、環境生理学の研究と、生活改善の大切さを伝える活動にも取り組んでいます。 体内時計に関する研究には、犬きく分けて、植物、睡眠、動物、遺伝子という4つの流れがあります。 植物を対象にした研究は、体内時計研究のもっとも古い歴史を持ついわば元祖といってよいものです。 古代ギリシャに遡り、ネムノキが夜に葉を閉じて眠るように見える様子は、当時から不思議に感じられていました。 睡眠を対象にした研究は、医学の分野からはじまりました。 人はなぜ寝るのかという哲学的な命題からはじまり、20世紀初頭に犬の断眠実験が世界ではじめて日本で行われました。 さらに1950年代から、犬を含めた動物の生体リズムの研究が行われました。 ユルゲン・アショフとコリン・ピッテッドリックという生理学者が、学問として形作っていきました。 日本では、北海道大学の本間研一・さと夫妻が、長年にわたってこの分野の研究を牽引してきました。 1960年ころから、生物時計に対する生物学者の関心が高まってきました。 日本でも同様で、1970年代に研究が活発になり生物リズム研究会が生まれ、1990年代に日本時間生物学会へ発展しました。 体内時計研究を決定的に推し進める原動力となったのが、時計遺伝子の発見です。 1970年代初頭に、アメリカのシーモア・ベンザーがショウジョウバエを使って、体内時計を司る時計遺伝子の存在を明らかにしました。 この時計遺伝子を中心にして、時間を測るシステムを解明したのが3人のノーベル賞受章者です。 体内時計を持っているのは人間だけではなく、すべての脊椎動物に体内時計があります。 さらに、ハエなどの昆虫にも、単細胞生物にも体内時計はあります。 少なくとも太陽の影響を受ける生物は、ほとんど体内時計を持っているといってよいとのことです。 それがわかったのはそれほど昔のことではなく、2000年前後のことです。 体内時計とは生物時計とも呼ばれ、生物が生まれつき備えていると考えられる時間測定機構です。 地球上の生物は、地球の自転によってもたらされる約24時間の明暗周期にその活動を同調させています。 生物リズムは概ね1日周期という意味で、概日リズムと呼ばれています。 生物は地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調し、ほぼ1日の周期で体内環境を変化させます。 単細胞生物や培養細胞株、あるいは各組織を構成する細胞の一つ一つが概日時計を有しています。 概日リズムはサーカディアンリズムとも呼ばれ、24時間周期のリズム信号を発振する機構です。 隔離された環境で自由に生活してもらうと、寝付く時刻と目覚める時刻が1日ごと約1時間ずつ遅れることが観察されます。 このことから、ヒトの体内時計の周期は約25時間であることがわかりました。 哺乳類では脳の視交叉上核によるとみなされ、睡眠や行動の周期に影響を与えています。 視交叉上核から、神経あるいは体液性のシグナルを介して、各組織の細胞の概日リズムが同期されています。 生物時計は通常、人の意識に上ることはありません。 しかし睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼし、夜行性・昼行性の動物の行動も生物時計で制御されています。 病院に行くほどではないけれど、心も体もすっきりしないことはありませんか。 そんななんとなく不調の原因は、もしかすると体内時計の乱れにあるかもしれないです。 実は体内時計は縁の下の力持ちのように、私たちの心と体の健康を支えてくれています。 これまでは、夜勤や交替勤務をおこなっているシフトワーカーの方々の健康を守るために注目されていました。 今や、すべての人にかかかる重要な存在になりました。 そのきっかけが、新型コロナウイルスの感染拡大による生活様式の変化です。 不要不急の外出自粛が呼びかけられ、テレワークを導入する企業や、オンライン授業をおこなう学校も増えました。 通勤や通学がなくなったことにより、夜型になったり食事の時間もバラバラになったりしました。 これが生活リズムの乱れを招き、体内時計にも影響を与えている可能性があります。 体内時計には、脳にある中枢時計(親時計)と、全身の細胞にある末梢時計(子時計)の2種類があります。 この2つの体内時計にズレが生じると、なんとなく不調が起こってきます。 その典型的な状態が時差ぼけですが、今は日本にいなから時差ぼけ状態の人が急増しているのではないでしょうか。 体内時計の乱れは心と体のパフォーマンスを低下さたり、さまざまな病気とのかかわりが指摘されています。 高血圧、心筋梗塞、脳卒中、メタボリックシンドローム、糖尿病、不妊、がん、睡眠障害、うつなどです。 本書は、体内時計の仕組みから、なんとなく不調を解決するヒントまで紹介していきたいといいます。はじめに/序章 「なんとなく不調」には体内時計が関係していた!?/1章 脳と細胞にある「2つの体内時計」の秘密/2章 体のなかで体内時計ができる仕組み/3章 体内時計を整える生活習慣のヒント/4章 ベストコンディションをつくる24時間の過ごし方/おわりに/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]「2つの体内時計」の秘密 「なんとなく不調」から抜け出す!/八木田和弘【3000円以上送料無料】睡眠リズムと体内時計のはなし (Science and technology) [ 山元大輔 ]
2024.07.20
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三浦義村は桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男として生まれたとされますがるが、正確な生年は不明です。 義澄は桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、鎌倉幕府の御家人でした。 ”三浦義村 ”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)を読みました。 ごく最近まで未知の存在だった、鎌倉時代初期の相模国の武将で幕府の有力御家人の三浦義村の生涯を紹介しています。 1184年8月に、源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍しました。 これが史料で確認できる初めての従軍です。 この追討軍の参加資格は17歳以上でした。 著者は、義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとしています。 このことから、生年は1168年ころと推定されます。 義村は、父義澄とともに平家追討や奥州合戦を転戦しました。 家督を継ぐと、鎌倉での政争や将軍実朝暗殺、承久の乱を北条氏と共に乗り越えました。 北条義時・政子の死後、執権泰時と協調して新体制を支えました。 高橋秀樹さんは1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1996年に同博士課程を修了し、「日本中世の家と親族」で博士(史学)となりました。 1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となりました。 1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となりました。 2018年から、國學院大學文学部史学科教授を務めています。 三浦義村は幼名を平六といい、「吾妻鏡」の1182年8月11日条に初めて登場しています。 また、源頼朝正室の安産祈願のため伊豆・箱根の寺社に遣わされた使者の中に、平六の名前が見えます。 1190年の源頼朝上洛時に右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉となりました。 1199年に頼朝が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発しました。 梶原景時は、侍所所司として御家人たちの行動に目を光らせる立場にありました。 景時は、結城朝光の御所での発言を謀叛の証拠であると将軍頼家に讒言しました。 窮地に立たされた朝光は義村に相談しました。 義村は和田義盛、安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断しました。 有力御家人66人が連署した景時糾弾訴状を、頼家の側近・大江広元に提出しました。 景時を惜しむ広元は当初は躊躇しましたが、最終的には頼家に言上しました。 これにより、景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退きました。 翌正月、景時は一族を率いて上洛の途に就き、義村は幕府の命で追討軍の1人として派遣されました。 追討軍が追いつく前に、景時一族は駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になりました。 嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も付近の西奈の山上にて自害しました。 1205年に北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により、畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上しました。 時政は2人を成敗することを決断し、義村の命を受けた佐久間太郎らが重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害しました。 さらに、武蔵から手勢を引き連れて鎌倉に向かう重忠の討伐軍が編成されると、義村も参加しました。 両軍は二俣川で合戦に及び、激戦が繰り広げられたのち、重忠は矢に討たれて討死しました。 しかし事件後、謀反の企てはでっち上げであったことが判明しました。 稲毛重成父子、榛谷重朝父子は重忠を陥れた首謀者として、義村らによって誅殺されました。 1213年2月に、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見しました。 義村の従兄弟で侍所別当であった和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛されました。 その後、息子2人は配慮されて赦免になりましたが、義盛は一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請しました。 しかし、胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となりました。 北条氏と和田氏の関係は悪化し、義盛は親族の三浦一族など多数の味方を得て打倒北条を決起しました。 しかし、義村は弟の胤義と相談して直前で裏切り義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付きました。 戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡しました。 1219年1月に、将軍実朝が兄の2代将軍源頼家の子の公暁に暗殺されました。 公暁は義村に書状を持った使いを出し、義村は偽って討手を差し向けました。 公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで、討手に遭遇しました。 激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害されました。 1221年の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとりました。 しかし、義村は使者を追い返した上で義時の元に向かい、事を義時に通報するという行動に出ました。 その後、軍議を経て出戦と決まると、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として行動しました。 東海道を上り、東寺で胤義と相対しました。 胤義は兄に熱く呼びかけましたが、義村は取り合わず、その場を立ち去りました。 その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害しました。 乱終息後の戦後処理でも義村は活躍し、同年7月、紀伊国守護に任ぜられたと推測されます。 このとき、義村自身は紀伊に入らず、孫の三浦氏村が代わりに入国しました。 そして、上皇方の所領の没収、新補地頭の設置などにあたりました。 1224年に北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子の北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした事件が起こりました。 政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わり、北条政子が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意しました。 釈明して二心がないことを確認し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾しました。 1225年夏には、大江広元・北条政子が相次いで死去しました。 同年12月に執権北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任しました。 幕府内では北条氏に次ぐ地位となり、1232年の御成敗式目の制定にも署名しました。 4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えました。 その後、幕府では駿河守、相模、河内、紀伊、土佐の守護、評定衆などを歴任しました。 このように大活躍した義村であったが、ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在でした。 理由は、義村の名は中学校の歴史教科書や高等学校の日本史教科書に登場しなかったからです。 子の泰村は、1247年におきた宝治合戦で滅ぼされた存在としてほとんどの高校教科書に書かれています。 父の義澄も、いわゆる「士三人の合議制」の一人として名を載せている教科書があります。 しかし、北条氏に討たれなかったためか、義村の名を記す教科書はありません。 滅ぼされた、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、二浦泰村は敗者として記述されています。 北条氏の協力者あるいはライバルとみられている義村には、出る幕がありませんでした。 義村の態度は常に北条氏に利益を与え、それによって自らの存在意義を高めました。 一方で、他氏に対しては不遜な行動もあったといわれ、義村に対する無関心、低評価の流れがありました。 このような中で、初めて義村に強い関心を寄せたのが作家の永井路子氏でしょう。 1964年の直木賞受賞作「炎環」で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描きました。 1978年の「執念の家譜」で、その一族の歴史をたどりました。 1999年にはじまった横須賀市史編纂事業による約3300点の史料収集と分析によって、三浦氏研究は一変しました。 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、三浦義村には準主役の役割が与えられました。 これによってそれまでほとんど知られていなかった義村が広く認知されるところとなりました。 しかし、そこで描かれた人物像はあくまで脚本家と演出家・演者が作り上げたものです。 内容は、現在の研究者が史料の分析から導き出した義村像とはかなり異なっています。 本書の主眼は三浦義村の人生をたどることにあるといいます。 まず、義村の活動の前提となる平安時代末期から頼朝の挙兵前後に至る三浦一族の歴史を略述しています。 次に、義村の子や所領などについて、各人・各地ごとにまとめて記しています。 また、義村を語る上で欠かせない文献史料、文化財、史蹟について解説しています。第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]三浦義村(321) (人物叢書) [ 高橋 秀樹 ]英傑大戦 第3弾 EX074 三浦義村
2024.07.06
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喜多川歌麿は姓は北川、後に喜多川と改め、幼名は市太郎、のちに勇助または勇記と言いました。 ”もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品”(2024年4月 東京美術刊 田辺 昌子著)を読みました。 総数約1900点という膨大な多色刷木版画の錦絵を残した、喜多川歌麿の画歴と作品を紹介しつつ、絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えようとしています。 歌麿は生年、出生地、出身地などは不明で、生年は没年数え54歳からの逆算で1753年とされることが多いです。 出身は川越説と江戸市中の2説が有力ですが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もあります。 名は信美、初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号しました。 生前は「うたまる」と呼ばれましたが、19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったといいます。 1782年刊行の歳旦帖「松の旦」には、鳥山豊章、鳥豊章の落款例があります。 俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号し吉原連に属しました。 1790年に絵本の仕事をやめ大首絵を発表して、一躍人気絵師となりました。 遊女から市井の娘まで、歌麿が美人を描けば天下一品です。 名品の数々が、蔦屋重三郎をはじめとした版元と策をめぐらして生み出されました。 田辺昌子さんは1963年東京都生まれ、学習院大学人文科学研究科博士前期課程を修了しました。 永青文庫学芸員を経て千葉市美術館の開設に準備室段階から関わり、現在副館長を務めています。 鈴木春信を中心に浮世絵の研究に携わっています。 2008年に第1回國華賞展覧会図録賞共同受賞、2018年に第34回國華賞を受賞しました。 喜多川歌麿は鳥山石燕のもとで学び、初作は1770年の北川豊章名義の絵入俳書の挿絵1点です。 歌麿名義では、1783年の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初期と言われます。 1788年から寛政年間初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として、狂歌絵本などを版行しました。 当時流行していた狂歌に花鳥画を合わせた「百千鳥」「画本虫撰」「汐干のつと」などです。 1790年から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの美人大首絵で人気を博しました。 「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」などの、大首美人画の優作を刊行しました。 一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとしました。 また、蔦重と連携して彫摺法を用い、肌や衣裳の質感や量感を工夫しました。 やがて「正銘歌麿」という落款をするほど、美人画の歌麿時代を現出しました。 さらに、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられます。 歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘などを対象としました。 歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まりました。 これに対し、江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えました。 歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を描き続けました。 1804年5月に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことから、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けました。 当時は、織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていました。 これ以降、歌麿は病気になったとされ、2年後の1806年に死去しました。 墓所は世田谷区烏山の専光寺で、戒名は秋円了教信士です。 浮世絵師といえば、最初に思い浮かべれるのが喜多川歌麿です。 次に思い浮かぶのは、切手になった作品、婦人相学十鉢のポヘンを吹く娘あたりでしょうか。 歌麿は、現在確認されている数でいえば、総数約1900点という膨大な錦絵を残しています。 その作品をすべて網羅して語ることは難しいものの、本書ではその画歴と作品を早回しで紹介しつつ、この絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えたいといいます。 これだけ有名であっても、歌麿のプライベートな情報には語るべきことがほとんどないそうです。 確実なのは亡くなった文化3年=1806年という年です。 生年については一説に宝暦3年=1753年とされるものの、当時の記録によるものではなく詳細は不明とされています。 少年時代に町狩野の絵師である鳥山石燕の門人となり、錦絵出版界に入りました。 当初は、一般的な新人浮世絵師と同様に、細判の役者絵など安価な商品をまかされるだけでした。 それが版元の蔦屋重三郎に見い出されて、そのプロデュースによって飛躍的な変貌を見せて優れた美人画を出すようになりました。 蔦屋は、吉原の妓楼と遊女の案内書の役割をした「吉原細見」を出していました。 1782年ころ、蔦屋は出版界のメインストリートの日本橋通油町に出店しました。 先に活躍していた鳥居清長の向こうを張るように、大判錦絵、しかもその続絵の美人画を歌麿に制作させました。 そして、天明(1781~1789)後期から寛政(1789~1801)初期に、画期的な彩色摺絵大狂歌本7種を手がけました。 そこでは、美人画家という印象をくつがえすほどの、精緻で写実的な描写で生き物や植物を表わしました。 そして美入画を代表するのが、寛政(1792~1793)頃の錦絵で、顔を大きくとらえた大首絵です。 その題材には、当時美人で評判の市井の娘たちを多く描き、大衆の注目を一気に集めました。 同様に「観相物」と呼ばれるジャンルを打ち立て、その女性の性格や心情に思い至らせました。 しかしスター絵師であるがゆえに寛政の改革で、出版界でも一番に狙われたターゲットでした。 一枚絵に評判娘の名を入れること、それを絵で表すこと、大言絵までも禁じられました。 ついには文化元年=1804年に、罰を受けることになりました。 喜多川歌麿という希代の浮世絵師の画業を振り返ってみると、主に2つの事象が、その作品内容を大きく左右したことに気がつくといいます。 ひとつは蔦屋重三郎との出会いとその活躍、加えてほかの版元の参入も含めた、版元との関わりです。 そしてもうひとつは、寛政の改革による、歌麿をはじめとする錦絵出版界への厳しい統制です。 蔦屋という版元との出会いによって、なぜ歌麿が突然のように素晴らしい美人画を描くことができるようになるのでしょうか。 美人画家だと思われていた歌麿が、なぜ急に精緻な自然観察にもとづく写実的な絵を描けたのでしょうか。 寛政の改革によって、大衆が好む表現というものも、大きく軌道修正せざるを得ない事態がくり返されました。 最終的には処罰され、晩年は力の入った錦絵が見られなくなりました。 それでも筆を折らなかったのはなぜでしょうか。 最後まで歌麿が錦絵界から完全に離れた様子はありません。 歌麿にとって、錦絵に大衆に支持される絵を描くことは、挑戦的な喜びであったようにも思えます。 さらに、大衆を相手にしたビジネスで勝負して、短期間に次々と作品を出しました。 歌麿は、そのようななかで感じる高揚感を、新興の版元とともに得ていたのではないでしょうか。 才気あふれるこの絵師の大量の作品を前にして、まだまだ語りつくせぬドラマがあることを予感するといいます。はじめに/序章 浮世絵師・歌麿の誕生まで/第1章 新興版元 蔦屋との出会い(歌麿の変貌;彩色摺絵入狂歌本の世界)/第2章 美人画革命 大首絵の成功(美人大首絵と寛政三美人;青楼の画家 歌麿)/第3章 蔦屋を追う出版界の動向(蔦屋に対抗する版元たち;日常を活写する眼 蔦屋亡き後の歌麿)/第4章 禁制下の動向(歌麿と寛政の改革;肉筆画の世界)/特集 生涯をかけた大作 雪月花/おわりに[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]もっと知りたい喜多川歌麿 [ 田辺昌子 ]喜多川歌麿 (新潮日本美術文庫) [ 喜多川歌麿 ]
2024.06.22
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日蓮は1222年生まれ、12歳で千葉県の清澄寺で修行を始め16歳で出家して僧侶になりました。 僧侶として出家した日蓮は、仏教界の既成概念を覆すような新しい教えを展開しました。 ”日蓮 「闘う仏教者」の実像”(2023年11月 中央公論新社刊 松尾 剛次著)を読みました。 天台宗ほか諸宗を学び、日蓮宗を開いて法華経の信仰を説き、激動の鎌倉時代を生きた日蓮の生涯を紹介しています。 日本の主要な仏教の流派を研究して、法華経が唯一の真の教義であることを宣言しました。 1253年に南無妙法蓮華経、つまり法華経に帰依するという真言を発表しました。 最初は拒否されましたが、教えは今日の日本の仏教の支配的な伝統の一つを形成しています。 身延山久遠寺の建物や記念碑の多くは、日蓮とその教えに捧げられています。 松尾剛次さんは1954年長崎県生まれ、東京大学文学部卒業後、1981年に同大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。 同年山形大学講師となり、助教授を経て教授に就任しました。 1994年に東京大学文学博士となり、山形大学都市・地域学研究所所長を兼務しました。 2019年3月に山形大学を退官し、東京大学特任教授、日本仏教綜合研究学会会長などを歴任しました。 現在、山形大学名誉教授で、専門は日本中世史、宗教社会学です。 官僧・遁世僧研究を基点に、中世日本宗教史の見直しを行なっています。 日蓮は1222年に安房国長狭郡東条郷片海、現在の千葉県鴨川市小湊で生まれました。 幼名は善日麿、父親は三国大夫の貫名次郎重忠、母親は梅菊女だという伝承があります。 1233年に清澄寺の道善房に入門し、1238年に出家し是生房蓮長の名を与えられました。 1245年に比叡山・定光院に住し、1246年に三井寺へ、1248年に薬師寺、仁和寺へ、1248年に高野山・五坊寂静院へ、1250年に天王寺、東寺へ遊学しました。 1253年に清澄寺に帰山し、4月28日の朝に日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたといいます。 この日の正午に清澄寺持仏堂で初説法を行い、名を日蓮と改めました。 中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受け、清澄寺を退出しました。 1257年に富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経を奉納し、1258年に実相寺にて一切経を閲読しました。 1260年に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。 建白の40日後、他宗の僧らにより松葉ヶ谷の草庵が襲撃されましたが難を逃れました。 その後、ふたたび布教を行いましたが、1261年に伊豆国伊東、現在の静岡県伊東市へ配流されました。 1264年に安房国小松原、現在の鴨川市で念仏者の地頭・東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し門下の工藤吉隆と鏡忍房を失いました。 1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となりました。 日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りました。 1269年に富士山に経塚を築きました。 1271年に良観・念阿弥陀仏等から連名で幕府に日蓮を訴えられました。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけましたが免れました。 その後、評定の結果佐渡へ流罪となりました。 流罪中の3年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。 1274年春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれました。 「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行いました。 その後、身延一帯の地頭である南部実長の招きに応じて、身延へ入りました。 1274年に予言してから5か月後に蒙古が襲来し、1281年に蒙古軍の再襲来がありました。 1282年に病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため、身延を下山しました。 10日後、武蔵国池上宗仲邸、現在の本行寺に到着し、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めました。 10月13日に池上宗仲邸、現在の大本山池上本門寺にて享年61歳で入滅しました。 日蓮の61年にわたる人生は波乱万丈で起伏に富み、魅力に満ちています。 日蓮が活躍した時代は、地震・疫病などの天変地異が頻発し、さらに蒙古襲来という未曽有の危機に見舞われました。 こうした状況は末法に入って200余年後の状況と認識し、正法である法華経を広める活動を進めていきました。 しかし、その活動は激しい他宗批判を伴い、殉教の覚悟をもって行われ、伊豆、佐渡へ配流されることとなりました。 日蓮が生きた時代は法難もあって、さほど多くの信者を獲得できたとはいえませんでした。 しかし、弟子たちの布教活動によって15世紀には京都の町衆に浸透していきました。 江戸時代初期の芸術家の、木阿弥光悦や俵屋宗達らも信者でした。 近代において、国柱会の田中智学や顕本法華宗の本多日生が提唱した日蓮主義は、日本が中国侵略などを進めるイデオロギーの一つとなりました。 日蓮主義は、日蓮の教えを信仰のレペルにとどめることなく、政治・社会・文化運動にまで拡張した点に大きな特徴かあります。 日蓮主義は法華経にもとづいて、天皇を中心とする日本統合と世界統一の実現により、理想世界の達成をめざした活動です。 日蓮主義は大きな影響力をもち、宮沢賢治、石原莞爾、井上日召らも国柱会の会員であり、田中智学の信奉者でした。 また、霊友会、立正佼成会、創価学会といった現在において大きな勢力を有する新宗教の教団が日蓮系です。 とくに、創価学会は現在の新宗教教団の中で最大の信者数を誇り、政権与党公明党を支える在家教団です。 日蓮の宗教は、中世以来、近現代に至るまで人々に生きる力やモデルを与えてきました。 本書では、そうした人々の心を捉え、人々に生きる力を与えてきた日蓮とは何かを考察していくとのことです。 本書は、思想史的な成果に学びつつも、歴史学的な方法論を駆使して、日蓮の実像に迫ろうとしています。 日蓮が生きた中世の宗教状況を明らかにしつつ、その中で日蓮の言説を見直したいといいます。 日蓮がライバル視し、激しく糾弾した鎌倉極楽寺の僧忍性との関わりにも注目しながら、日蓮の実像に迫りたいということです。第1章 立教開宗へ(安房に生まれる/貫名氏の出身 ほか)/第2章 立正安国への思いと挫折(鎌倉での日蓮/『守護国家論』 ほか)/第3章 蒙古襲来と他宗批判(念仏系寺院の展開と法難/伊豆配流 ほか)/第4章 佐渡への配流(文永八年の法難/教団の離散と改宗者の出現 ほか)/第5章 身延山の暮らし(日蓮赦免/身延入山 ほか)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書 2779) [ 松尾剛次 ]日蓮 (山岡荘八歴史文庫 山岡荘八歴史文庫 4) [ 山岡 荘八 ]
2024.06.09
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熊谷次郎直実は1141生まれの平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷、現・熊谷市で活躍した武将です。 下級武士の家に生まれ、治承・寿永の乱で獅子奮迅の活躍をしました。 ”熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん”(2023年12月 ミネルヴァ書房刊 佐伯 真一著)を読みました。 一ノ谷合戦でついに平敦盛を討ちとるに至った、熊谷直実の生涯を紹介しています。 父親の直貞は熊谷郷の領主となって熊谷の姓を名乗り、当初は平家に仕えていました。 石橋山の戦い以降は源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げて鎌倉幕府成立に貢献しました。 熊谷直実は、一ノ谷の戦いで平家の若武者の平敦盛を打ち取りました。 しかし、息子ほどの年齢の若者だったため、戦の無情さや世の無常観を感じて心に深い傷を負いました。 もともと気性が荒く直情型で反骨精神が強く、源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたこともあります。 挙句に領地問題の訴訟に際して頼朝の目前で髪を落とし、出家してしまいました。 その後、法然に弟子入りして蓮生と名乗り、京都・東山で修行を重ねました。 そして熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基しました。 佐伯真一さんは1953年千葉県生まれ、1976年に同志社大学文学部文化学科国文学専攻を卒業しました。 1977年に早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程を中退し、東京大学大学院人文科学研究科国語国文学専攻修士課程に入学しました。 1979年に同修士課程を修了し、1982年に東京大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1982年に帝塚山学院大学文学部日本文学科専任講師、1985年に同助教授、1990年に国文学研究資料館整理閲覧部参考室助教授となりました。 1995年に青山学院大学文学部日本文学科助教授、1999年に同教授となり、2022年に定年退職しました。 1986年に第12回財団法人日本古典文学会賞を共同受賞し、2005年に第3回角川財団学芸賞を受賞しました。 熊谷直実は現代でもなかなか有名な人物です。 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時の6代の孫を称しますが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではありません。 直実の祖父・平盛方が勅勘を受けたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗りました。 熊谷直実は幼名の弓矢丸という名のとおり、弓の名手でした。 幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われました。 1156年7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、1159年12月の平治の乱で源義平の指揮下で働きました。 その後、久下直光の代理人として京都に上りましたが、一人前として扱われないことに不満を持ち、自立を決意して平知盛に仕えました。 源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、1180年の石橋山の戦いまでは平家側に属していました。 以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵されました。 1184年2月の一ノ谷の戦いに参陣し、源義経の奇襲部隊に所属しました。 鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入しました。 しかし、平家の武者に囲まれて、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけました。 この戦いで直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みました。 直実が若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年でした。 直実は死後のご供養をいたしましょうと言って、泣く泣くその首を斬りました。 これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いはいっそう強くなったといいます。 敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していました。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めて、いきなり刀を研ぎ始めました。 驚いた聖覚が法然に取り次ぐと、直実は真剣にたずねたといいます。 1193年頃、法然の弟子となり法力房 蓮生と称しました。 直実の出身地である熊谷市に行ってみると、鎧兜に身を固め馬にまたがった勇ましい武士の像があるそうです。 台座には「熊谷の花も実もある武士道の香りや高し須磨の浦風」の歌が刻まれています。 インターネットで検索すれば、熊谷市観光局が熊谷の偉人として直実を紹介しています。 直実は、郷土の英雄として地域のアイデンティティの確立に重要な役割を果たしているようです。 しかし、熊谷直実のイメージとして勇ましい武士の像を思い浮かべるのは、実は必ずしも伝統的なあり方ではありません。 今から120年あまり以前に新渡戸稲造が「武士道」を著した頃までは、直実は蓮生でもあったが故に有名だったのではないでしょうか。 蓮生の足跡は今も各地に残っていて、直実の屋敷跡には蓮生山熊谷寺が広い寺域を占めています。 また、蓮生は法然のもとで浄土をめざして修行しましたので、その跡を残す寺は京都にも多く、代表的な存在は金戒光明寺でしょう。 寺内の塔頭の一つである蓮池院は、自作と伝えられる蓮生像や敦盛像など、多くの寺宝を蔵しています。 また、京都市の西南、長岡京市にある西山浄土宗総本蓮生は、この地で結んだ草庵、念仏三昧院をもととしています。 蓮生はこの大寺院の開基であり、現在も御影堂の中心に法然像があり、左側には証空と蓮生の像が並んでいます。 京都における蓮生ゆかりの寺院としては、熊谷山法然寺を挙げることができます。 蓮生開基と伝えられ、版本『熊谷蓮生一代記』や巻子本『蓮生法師伝』、掛幅絵『蓮生上人一代略画伝』を生んだ寺でした。 熊谷直実ゆかりの寺は他にも全国各地にあり、たとえば藤枝市の熊谷山蓮生寺はその代表例です。 直実=蓮生は、武士としてだけでなく、浄土信仰の僧としても、近年まで非常に有名な人物でした。 それは、直実が敦盛を討って発心したという物語が、多くの人々の心に広く強く訴えかけたからです。 下級武士として、生活のために血眼になって功名をめざしていた直実が、自分の息子と同年配の美少年を殺害するという行為の非道さを痛感しました。 そのことにより、武士という生き方をやめて信仰の道へと転じたという物語が、無数の人々の共感を呼びました。 直実が有名になったのは、なにしろ、武士であることをやめたからであるといってもよいでしょう。 本書は、この物語については、その史実性よりも、なぜこの物語が非常に多くの人々の心に訴えかけたのかという精神史的な問題を、最大の問いとしたいといいます。 それは、過去の人物の考証を越えて、現代に生きる私たちにとって重要な問題を提起してくれるからです。 実際の直実=蓮生は、僧となってからも、武士らしさを十分に保った人物であったようです。 武士としては剛直に勲功をめざし、そして僧としてはひたむきに浄土をめざしました。 このような直実=蓮生という人物の実像に迫ることもまた、本書の重要な目的です。 第一章では熊谷直実の生い立ちと基本的な資料の扱い方について記述しています。 第二章では『平家物語』に描かれる熊谷・敦盛の物語について述べています。 第三章では合戦後の熊谷直実―蓮生の出家と往生について記載しています。 第四章では直実の死後、日本人がこの人物をどのように語り継いでいったのか、その変化に富んだあり方を見ています。 そして最後に、現代に生きる私たちが熊谷直実から何を学ぶことができるのかを考えて、まとめとしたいといいます。序章 熊谷直実とは何だったのか/第1章 生い立ちと生き方/第2章 敦盛を討つ/第3章 出家と往生/第4章 熊谷直実伝の展開/終章 熊谷直実から何を学ぶか[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん (ミネルヴァ日本評伝選) [ 佐伯 真一 ]【中古】 熊谷直実 中世武士の生き方 歴史文化ライブラリー384/高橋修(著者)
2024.05.25
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川路利良は1834年に薩摩藩与力の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区生まれました。 ”川路利良 日本警察をつくった明治の巨人”(2024年1月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。 薩摩藩の下級武士の家に生まれ幕末の激動の時代を生き国家と警察組織に一身を捧げ初代大警視となった、川路利良の生涯を描いています。 川路家は身分の低い準士分でしたが、16世紀に横川城主だった北原伊勢介の末裔とされます。 北原氏は肝付氏庶流で横川城落城後に北原伊勢介の一族は蒲生に逃れ、川路氏と名乗りを変えたといいます。 重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学びました。 島津斉彬のお伴として初めて江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候的役割の飛脚として活動しました。 大久保利通の腹心の部下で、戊辰戦争に参加しました。 1872年にイギリス・フランスに渡り警察制度を研究し、帰国後に警察を司法省より内務省に移管しました。 1974年に警視庁が創設された際に大警視に就任し、治安維持に尽くしました。 西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、別働第三旅団を率いて西郷軍に大きな打撃を与えました。 欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した、日本の警察の創設者であり日本警察の父とも言われています。 加来耕三さんは1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員として2年間勤務しました。 1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物や組織の復権をテーマに著作活動などを行っています。 講演活動やテレビ番組、ラジオ番組などの出演も数多くこなし、テレビ番組では監修、時代考証、構成も手掛けました。 観光大使としては、2018年に港区観光大使に、2019年に薩摩大使に、2019年に柳川市観光大使に就任しています。 このほか、内外情勢調査会、地方行財政調査会、外交知識普及会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務めました。 1874年に創設された東京警視庁が、2024年に150年目となりました。 東京警視庁は発足3年で内務省警視局に吸収されましたが、今日の警視庁の第一歩は東京警視庁にあります。 これはそれまでの日本になかった、近代的な警察制度です。 ほぼ独力で東京警視庁を創り、今日なお日本警察の父と呼ばれるのが川路利良の存在です。 本書では、薩摩藩下層から出て一代で藩士となり、ついに東京警視庁を創った川路の生涯を紹介しています。 1830~1844年の天保年間は、幕末の入口に相当する時代でした。 幕藩体制は弛緩し、事実上、経済はすでに破綻していました。 夢も希望も抱きにくいこの時代に、遅れていた日本に明治の時代を築く人々が輩出しました。 1840年には隣国の清がイギリスとの阿片戦争を本格化させ、清がイギリスに敗れました。 南京条約を結ばされ、広州・福川・厦門・寧波・上海を開港し、香港を割譲させられました。 その衝撃は大きく、日本の心ある人々は次は日本が狙われると怖気をふるいました。 大半の日本人は悲嘆に暮れるか観するかで、何もしない日常を送っていました。 その中にあって、わずかな人々だけが自国独立の尊厳を守るべく立ち上がりました。 1864年に禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げました。 1867年に藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学びました。 1868年に戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに、薩摩官軍大隊長として出征しました。 上野戦争では、彰義隊潰走の糸口をつくりました。 東北に転戦し磐城浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると会津戦争に参加しました。 1869年に戦功により、藩の兵器奉行に昇進しました。 1871年に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事・典事に累進しました。 1872年に邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察しました。 帰国後、警察制度の改革を建議し、パリ警視庁のポリスを模範とする警察機構を日本に築こうとしました。 ポリスとは終日、市中を巡回したり毅然と街頭に立ったりして、国民の生命・財産を守る人々のことです。 しかし、国民はポリス=警察官をこれまでに見たことがありませんでした。 徳川時代の与力・同心・岡っ引などは今日のような民主的なものではありませんでした。 まったく知らないものを認知させるには、多くの労力が必要でした。 新生日本では国民はポリスは保護者でなければならないと、川路は主張しました。 そのため、警察官一人ひとりに課せられた責務は、重く厳しいものでした。 1874年に警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視に就任しました。 執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといいます。 1873年に政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くがこれに従いました。 しかし、川路は忍びないが大義の前には私情を捨てて、あくまで警察に献身すると表明しました。 大久保利通から厚い信任を受け、不平士族の喰違の変や佐賀の乱では密偵を用いて動向を探りました。 薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、帰郷の名目で鹿児島県に送り込みました。 川路は不平士族の間では大久保と共に、憎悪の対象とされました。 1877年の西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、別働第三旅団の長として九州を転戦しました。 激戦となった田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けました。 5月に大口攻略戦に参加した後、6月に宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍しました。 その後川路は旅団長を免じられ東京へ戻り、旅団長は大山巌が引き継ぎました。 1879年1月に再び欧州の警察を視察しましたが、船中で病を得てパリに到着しました。 当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥しました。 咳や痰、時に吐血の症状も見られ現地の医師の治療を受けましたが、病状は良くなりませんでした。 同年8月に郵船に搭乗して10月に帰国しましたが、病状は悪化し享年46歳で死去しました。 川路は武家の末端に生まれながら、幕末の動乱で名を上げ、明治日本の新国家樹立に参画しました。 自らの命を賭して警察機構を作り上げ、大警視まで上り詰めた川路の生涯は大いに参考になるといいます。序章 幕末の動乱(与力・川路正之進/「貧乏に負くるこっが恥でごわす」 ほか)/第1章 新国家の樹立をめざして(薩英戦争で得たもの/文久の政変 ほか)/第2章 戦火の中の新政府(比志島抜刀隊の誕生/大政奉還から王政復古の大号令へ ほか)/第3章 東京警視庁の誕生(官軍、方向を転ず/“川路の睾丸”の由来 ほか)/第4章 “大警視”の生と死(相相次ぐ長州人の汚職/征韓論争と川路の立場 ほか) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]川路利良 日本警察をつくった明治の巨人/加来耕三【1000円以上送料無料】大警視・川路利良 日本の警察を創った男【電子書籍】[ 神川武利 ]
2024.05.11
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佐々木惣一は1878年鳥取県鳥取市生まれ、鳥取県尋常中学校、現、鳥取県立鳥取西高等学校、第四高等学校を経て京都帝国大学法科大学で学びました。 ”佐々木惣一 ”(2024年2月 ミネルヴァ書房刊 伊藤 孝夫著)を読みました。 大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、戦後は憲法改正案の起草にあたった憲法・行政法学者の佐々木惣一の生涯を紹介しています。 1903年に卒業し、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じました。 1927年からは、退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになりました。 行政法における師匠は織田萬で、憲法における師匠は井上密です。 1921年以来二回法学部長に挙げられました。 厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 弟子の大石義雄とともに、憲法学における京都学派を築きました。 1933年に滝川事件に抗議して辞職し、同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動しました。 1945年には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる佐々木憲法草案を作成しました。 その後、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対しました。 専門は憲法学・行政法で、学位は法学博士です。 貴族院勅選議員、京都大学名誉教授、立命館大学学長を歴任しました。 京都市名誉市民となり、文化功労者、文化勲章を受章しました。 伊藤孝夫さんは1962年兵庫県生まれ、1985年に京都大学法学部を卒業し、1987年に同大学院法学研究科修士課程を修了しました。 専門は日本法制史で、2001年に京都大学により論文博士を授与されました。 1989年に京都大学法学部助教授、1992年に同大学院法学研究科助教授、1999年に同大学院法学研究科教授となりました。 現在、京都大学 法学研究科 教授を務めています。 佐々木惣一は厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 1916年に政党政治への不信が強まっていた時代に、「立憲非立憲」の論文を発表しました。 門地や職業に依て限られた範囲の国民を上級国民と名付けて行われた上級国民の意思による政治は、立憲主義ではないとしました。 一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれると、立憲主義の価値を説きました。 1940年に、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けました。 1933年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の教員とともに立命館大学に招聘されました。 京大事件はいわゆる瀧川事件で、瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものでした。 教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い、免官となりました。 同年12月12日には立命館大学の法律学科部長に、1934年3月9日に学長に就任しました。 1935年には創立35周年記念事業にも取り組みましたが、1936年に1年の任期を残して学長を辞職しました。 当時の天皇機関説問題などを巡る国の動向と、社会の状況によるものといわれます。 そして、1937年からの日華事変の長期化を理由とした、新体制運動の議会否定の思想を批判しました。 近衛文麿は首相として日中戦争を全面化して日独伊三国同盟を結び、国内の戦争体制を整備しました。 ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的であると主張しました。 その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難しましたが、太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣、早期和平実現計画の一員に加わりました。 敗戦直後、マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示し、近衛が相談相手に佐々木を選びました。 佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていましたので、これに応じました。 権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後、ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行いました。 佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画でしたが、実現しませんでした。 内大臣府廃止により憲法改正作業は打切られ、近衛は要綱だけを佐々木は全文を天皇に報告しました。 二人はともに、天皇主権という帝国憲法の国体を維持して、内容を民主主義に改めることを意図しました。 佐々木はGHQの意向を取り入れることを嫌い、天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっています。 注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点です。 近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと、佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対しました。 一方で、皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張しました。 しかし新憲法の内容のデモクラシーには賛成で、新憲法が成立すると国民は新憲法を尊重してこれを守るよう説きました。 公法学者としての佐々本の軌跡は、明治憲法の長所と限界とをそのままに反映するものとなったといえるでしょう。 佐々木の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではありません。 本書は佐々木を扱うはじめての評伝として生涯の軌跡を追い、牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっています。 本書は京都大学名誉教授の松尾尊兌先生が書かれる予定でしたが、先生がお亡くなりになったため執筆担当を引き受けたといいます。第1章 土地の名―鳥取・金沢・京都/第2章 ドイツにて―ハイデルベルク・ベルリン/第3章 立憲非立憲/第4章 重責を担って/第5章 激動の中へ/第6章 戦時下に時を刻む/第7章 新憲法との対話 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]佐々木惣一 論理ノ正確ハ法理探究ノ目標ナリ (ミネルヴァ日本評伝選) [ 伊藤 孝夫 ]立憲非立憲【電子書籍】[ 佐々木惣一 ]
2024.04.20
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高台院は1549年尾張国朝日村、現、愛知県清須市に尾張の人杉原定利の次女として生まれました。 室町時代後期から江戸時代初期に生きた女性で、杉原(木下)家定の実妹です。 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。 14歳で豊臣秀吉と結婚して正室となり北政所と称され、秀吉の死後は高台院となった女性の生涯を紹介しています。 織田信秀、織田信長に仕え弓衆となり、木下秀吉の与力とされ浅野長勝の養女となりました。 1561年8月に木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されました。 しかし、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため、無事に嫁ぎました。 通説では14歳のときとされ、当時としては珍しい恋愛結婚でした。 結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったといいます。 子供がありませんでしたので、加藤清正や福島正則などの親類縁者を養子や家臣として養育しました。 1568年頃から数年間は美濃国岐阜に在住し、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取りました。 1574年に近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居しました。 この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にありました。 1582年の本能寺の変の際に明智方の阿閉氏が攻めてきましたので、大吉寺に避難しました。 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、福岡高等学校を経て1985年に九州大学文学部史学科を卒業しました。 1993年に同大学院文学研究科博士課程を中退し国文学研究資料館助手となり、1997年に学位論文により九州大学博士(文学)となりました。 2000年に旧・東京都立大学人文学部助教授、首都大学東京都市教養学部准教授となり、2008年に九州産業大学国際文化学部教授、2014年に九州大学基幹教育院教授となりました。 2019年に第17回「徳川賞」を受賞しました。 1585年に豊臣秀吉が関白となり、秀吉の第一位の妻として北政所と称されました。 天下人の妻として、北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けました。 また、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担いました。 1588年5月に後陽成天皇が聚楽第に行幸し、5日後無事に還御しました。 すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられました。 従一位叙位記には豊臣吉子と記されていました。 1592年に秀吉から所領を与えられ、平野荘、天王寺、喜連村、中川村など合計1万1石7斗でした。 1593年からの文禄・慶長の役で、秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化のため交通整備を行いました。 名護屋から大坂・京の交通に秀吉の朱印状、京都から名護屋の交通に豊臣秀次の朱印状です。 そして、大坂から名護屋の交通に北政所の黒印状を必要とする体制が築かれました。 1598年9月に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたりました。 武断派の七将が石田三成を襲撃した時に、徳川家康は北政所の仲裁を受けました。 1599年9月に大坂城を退去し、奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住しました。 関ヶ原の戦い前に、京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されました。 このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後に准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件がありました。 関ヶ原合戦後は京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社に参詣するなど秀吉の供養に専心しました。 秀吉から与えられていた1万5,672石余は、合戦後に養老料として徳川家康から安堵されました。 1603年に養母の死と秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に、落飾しました。 朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称しました。 1605年に実母と秀吉の冥福を祈るため、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立しました。 門前に屋敷を構え、大坂の陣では幕府の意向で甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられました。 そして、1615年に大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びました。 一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活しました。 徳川家との関係は良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催の二条城内能興行が行われました。 公家の一員としての活動も活発で、高台院からたびたび贈り物が御所に届けられました。 1624年10月17日に高台院屋敷にて享年76(77、83の諸説あり)歳で死去しました。 墓所は京都市東山区の高台寺、遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されています。 諱には諸説あり、一般的には「ねね」とされますが、「おね」と呼ばれることが多いです。 木下家譜やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為」などと記され、「ねい」説もあります。 しかし、近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認されています。 戸籍ができる前の女性の名前は、大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで「姫」と呼べば事が足りたからです。 それゆえ、記録に名前が残されることが少なかったのです。 女性の名前が不明の場合に、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。 高台院の場合は「杉原氏」としたものが多いですが、これは生家の氏名です。 高台院の法号は死後の謐であることが多く、その人物を代表させる名とするには躊躇される場合もあります。 しかし、高台院は朝廷から勅許を得て生前から用いられた号ですので、その点での問題はありません。 とはいえ、秀吉が関白に就いたことで、その本妻の呼び名「北政所」の号で一般には知られています。 ただし、北政所とは平安時代に三位以上の公卿の本妻の呼び名だったものです。 時代が下ると、宣旨をもって特に摂政・関白の本妻に授けられる称号として用いられました。 日本歴史上に北政所と称えられた女性は複数いたため、唯一固有の号ではありません。 北政所といえば秀吉の本妻のことだけを指すと固定的に考えるのは、誤った歴史認識です。 「北政所」として語り継がれた女性の生涯には、思いのほか事実誤認が多いです。 高台院の行動と思われていた事象が、実は秀吉母のことだったり、浅井茶々のことであったします。 そのため、問題提起の意味もあり、書名には北政所を採用しなかったということです。 これは、「糟糠の妻」としての「北政所」像があまりにも大きく描かれがちだったためです。 本書ではいったん「糟糠の妻」のイメージを取り除き、等身大の高台院を描いてみたいといいます。第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]高台院(323) (人物叢書 323) [ 福田 千鶴 ]【中古】高台院おね (光文社文庫) 阿井 景子「1000円ポッキリ」「送料無料」「買い回り」
2024.04.13
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レビー小体は異常なたんぱく質が脳の神経細胞内にたまったものです。 主に脳幹に現れるとパーキンソン病になり、大脳皮質にまで広く及ぶとレビー小体型認知症になります。 ”レビー小体型認知症とか何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと”(2023年12月 筑摩書房刊 樋口直美/内門大丈著)を読みました。 50歳で若年型レビー小体型認知症と診断された著者の一人とこの病気に精通する医師との共著で、誰もが知っておくべきことを解説しています。 レビー小体が神経細胞を傷つけ壊してしまいますので、結果として認知症になります。 レビー小体が現れる原因は、脳の年齢的な変化と考えられています。 脳の神経細胞が徐々に減っていき、特に記憶に関連した側頭葉と情報処理をする後頭葉が萎縮するため幻視が出やすいと考えられています。 ただし、はっきりした原因は今のところ十分にわかっていません。 わが国のレビー小体型認知症の人は、約60万人以上いると推定されています。 65歳以上の高齢者に多くみられますが、40~50歳代も少なくありません。 幻視や認知機能の変動と並び、初期のうちからパーキンソン症状がよくみられます。 手足が震える、動きが遅くなる、表情が乏しくなる、ボソボソと話す、筋肉・関節が固くなる、姿勢が悪くなる、歩きづらくなる、転倒しやすくなるなど、身体にさまざまな症状が生じます。 樋口直美さんは1962年生まれ、50歳でレビー小体型認知症と診断されました。 41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間がありました。 多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状等もありますが、思考力は保たれ執筆活動を続けています。 2015年に”私の脳で起こったこと”をブックマン社から上梓し、日本医学ジャーナリスト協会賞書籍部門優秀賞を受賞しました。 内門大丈さん1970年東京都目黒区生まれ、小学4年生のころ2冊の本に感銘を受け、医者を志すようになったといいます。 1996年に横浜市立大学医学部を卒業し、2004年横浜市立大学大学院博士課程(精神医学専攻)を修了しました。 大学院在学中に東京都精神医学総合研究所で神経病理学の研究を行い、2004年より2年間、アメリカのメイヨークリニックに研究留学しました。 2006年に医療法人積愛会横浜舞岡病院を経て、2008年に横浜南共済病院神経科部長に就任しました。 2011年に湘南いなほクリニック院長を経て、2022年より医療法人社団彰耀会理事長、メモリーケアクリニック湘南院長、横浜市立大学医学部臨床教授を務めています。 認知症専門医で、認知症に関する啓発活動と地域コミュニティの活性化に取り組んでいます。 レビー小体型認知症は、1995年の第1回国際ワークショップで提案された新しい変性性認知症のひとつです。 日本ではアルツハイマー型認知症や脳血管性認知症と並び、三大認知症と呼ばれています。 進行性の認知機能障害に加えて、幻視症状、レム睡眠行動障害とパーキンソン症候群を特徴とする変性性認知症です。 パーキンソン病と基本的には同じ疾患であり、運動症状が主であればパーキンソン病と診断され、認知症症状が主として出現すればレビー小体型認知症と診断されます。 原因が基本的に同一であるため両者を併せもつ症例も多いです。 アルツハイマー型認知症と同様に根治方法はありませんが、理学療法などで症状を改善することはできます。 長く治療薬がありませんでしたが、2014年にドネペジルが進行抑制作用を認められ、世界初の適応薬として認可されました。 この本の狙いは、診断された時これがあれば希望が持てると認識できることと、認知症に関わるすべての医師・専門職の誤解を解くことです。 多くの人が長寿を祝う時代になり、私たちは人生最後の数年を脳や体の病気と共に生きることが当たり前になりました。 癌は2人に1人がかかる病気ですが、認知症はそれ以上です。 95歳以上の女性では84%が認知症、それ以外のほぼ全員は軽度認知障害という報告があります。 それは長寿の結果であって、もう病気とも呼べないかもしれません。 レビー小体型認知症も診断を受けていないだけで、脳や全身の細胞にレビー小体が溜まっている高齢者は驚くほど多いそうです。 認知症のイメージは50年前のがんと似ていないでしょうか。 当時は、癌になったら終わりと思われていました。 半世紀後の今、治療を受けながら仕事や趣味の活動を続ける人もたくさんいるようになりました。 著者の一人は50歳の時にレビー小体型認知症と診断され、治療を続けている患者です。 診断後、自分の病態を観察、記録し、症状は従来の説明は違うということを書き続けてきました。 当事者を苦しめる、認知症やレビー小体型認知症に被せられたどす黒いイメージを変えたいといいます。 医療者が外から見て解説してきた症状と、自分で体験する症状にはズレがありました。 病名が知られていくと同時に、誤解も広がっていきました。 その誤解は、診断された本人や家族から希望を奪い、治療やケアの不適切さを覆い隠し病状を悪化させてしまいます。 この本は、そんな誤解を一つひとつ解き、希望を持って生きるための方法と知識を伝える内容になっています。 もう一人の著者はレビー小体型認知症の患者を大勢診てきた医師です。 執筆に際しては、診断や治療など医療に関しては専門家にお話を伺う方が良いと考え対談をお願いしたそうです。 そして長年抱いてきた疑問や本音、患者や家族から伺った切実な悩みの数々をストレートにぶつけ回答をいただきました。 臨床経験豊かな医師と患者の対談であり、診断や治療に関しても他の本にはない踏み込んだ内容となりました。 レビー小体型認知症に限らず、脳や神経の病気になっても、老いてできないことが増えていっても、満足して生きていくための道はあります。 レビー小体病は知識さえあれば素人にも早期発見が可能です。 早くから適切な治療とケアを受ければ長く良い状態を保つことができ、短命になることもありません。 実際にはその逆になっている例が多く、この病気は進行が早いからなどと諦められている状況があります。 しかし、知ってさえいれば避けられる落とし穴に転がり落ちて苦しむことを回避してもらうことが長年の切なる願いであるといいます。第1章 レビー小体型認知症とは、どんな病気なのか?/第2章 レビー小体病 症状と診断と治療/第3章 パーキンソン病とレビー小体型認知症との関係/第4章 幻覚など多様な症状への対処法/第5章 病気と医師との付き合い方/第6章 最高の治療法とは何か[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]レビー小体型認知症とは何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと (ちくま新書 1766) [ 樋口 直美 ]第二の認知症 レビー小体型認知症がわかる本 [ 川畑 信也 ]
2024.04.03
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ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、ムスタファ・ケマルともケマル・パシャとも、ケマル・アタテュルクとも呼ばれます。 トルコ革命を指導してトルコ共和国の初代大統領となり、トルコを世俗的な近代国家とすることに務めました。 ”ケマル・アタテュルク オスマントルコの英雄、トルコ建国の父”(2023年10月 中央公論新社刊 小笠原 弘幸著)を読みました。 父なるトルコ人の意味のアタテュルクと呼ばれる、トルコ共和国の建設者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯を紹介しています。 1881年頃、オスマン帝国領セラーニク県の県都セラーニク、現ギリシア領テッサロニキ生まれ、父親は税関吏でした。 父母からは選ばれし者の意味のムスタファと命名され、後に入学したサロニカ幼年兵学校の数学教官から完全な者の意味のケマルというあだ名を付けられました。 1886年頃、西洋式教育の学校に入学しましたが、1888年に父親が亡くなり家族でサロニカに戻り叔父の許に身を寄せました。 その後、しばらくして母が再婚したため叔母の家に身を寄せました。 1894年頃、サロニカ幼年兵学校に入学し、1896年にマナストゥル少年兵学校に入学しました。 小笠原弘幸さんは1974年北海道北見市生まれ、青山学院大学文学部史学科卒業後、2005年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を単位取得退学しました。 2006年日本学術振興会特別研究員となり、2008年にオスマン朝の研修で博士(文学)となりました。 専門はオスマン帝国史とトルコ共和国史です。 公益財団法人政治経済研究所研究員、青山学院大学総合研究所員などを経て、2013年に九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門イスラーム文明史学講座准教授となりました。 2018年に樫山純三賞を受賞し、日本イスラーム協会理事を務めました。 ケマル・アタテュルクは、1899年に陸軍士官学校に入学しました。 1902年に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業しました。 陸軍大学校に進み、1905年に修了して参謀大尉に昇進し、研修のためダマスカスの第5軍に配属されました。 士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、ダマスカスで設立された「祖国と自由」のシンパになりました。 オスマン帝国は弱体化し、バルカン半島や西アジアで領土を次々と失って瀕死の病人といわれるようになりました。 帝国の衰退をとめるために、それまでの硬直した古いスルタン政治の打破をはかる運動が青年将校の中にあらわれまし。 1905年に日露戦争で仇敵ロシア軍が新興国日本に敗れたことは、オスマン帝国の軍人に大きな刺激を与えました。 日本にならって、古い体制を打破して立憲国家を建設することをめざす青年トルコ革命を誘発しました。 1906年にマケドニアで設立された「統一と進歩協会」本拠がフランスのパリに置かれると、「青年トルコ党」の現地支部を設立して「祖国と自由」を吸収しました。 ケマル・アタテュルクは1907年に第3軍司令部に転属され、赴任地で「青年トルコ党」の現地支部である「統一と進歩協会」に加入しました。 1908年に「青年トルコ」が挙兵しミドハト憲法を復活させて第2次立憲政治を実現させ、翌年にはスルタンアブデュルハミト2世を退位させて革命を成功させました。 以後、オスマン帝国は「青年トルコ」政権による立憲体制がとられることになりました。 しかし、スルタンは実権を失ったものの依然として存続していました。 政権は安定せず革命の混乱に乗じて周辺のオーストリア、ブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露わにしました。 さらに、イタリアがオスマン帝国領の北アフリカに進出するなど、帝国主義の荒波にさらされることとなりました。 ケマル・アタテュルクは、1909年に第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命されました。 3月31日事件が勃発すると、軍はサロニカの第3軍とアドリアノープルの第2軍から部隊を編成して、帝都イスタンブール鎮圧に派遣しました。 ケマル・アタテュルクは第3軍所属の予備師団作戦課長として鎮圧部隊に連なり、終了すると第3軍司令部に帰任しました。 1910年には、ムスリム住民の多いアルバニアでも反乱が起こりました。 「青年トルコ」は憲法の復活による立憲政治の再開と、オスマン主義による国民統合を主張しました。 しかし、次第にその内部にトルコ民族としての自覚を重視するトルコ民族主義も台頭し、安定を欠いていました。 一方、帝国主義列強による侵略が強まり、1911年にリビアに侵攻したイタリア軍との戦争に敗れてトリポリ・キレナイカを失いました。 ケマル・アタテュルクは1910年からの同軍士官養成所勤務を経て、再び第3軍司令部に戻りました。 1911年に第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て参謀本部付となりました。 伊土戦争が勃発してイタリアがリビアに侵攻したため、「統一と進歩協会」の志願者と同行してトリポリタニアに赴きました。 ケマル・アタテュルクは少佐に昇進し、アレクサンドリア経由で陸路ベンガジに潜入し、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官に着任しました。 1912年にデルネ地区の司令官に任命されゲリラ戦を指揮しましたが、第一次バルカン戦争が勃発したためリビアから呼び戻されてダーダネルス海峡地区に着任しました。 混成部隊司令部の作戦課長を拝命し、同部隊がボラユル軍団に再編された際も同職を続けました。 オスマン帝国は1912年の第1次バルカン戦争でも、イスタンブールを除くバルカン半島を放棄しました。 1913年に軍団主力の第27師団はボラユルの戦いで、ブルガリア勢の第7リラ歩兵師団に敗北し、アドリアノープルはロンドン条約調印により、ブルガリア王国に割譲されました。 同年の第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出てケシャンを落としました。 さらに、イプサラ、ウズンキョプリュ、カラアーチに入り、ディメトカを経由してアドリアノープルを奪還しました。 ケマル・アタテュルクは街を離れ、ブルガリアの首都ソフィア駐在武官に任命され、セルビア首都ベオグラードとツェティニェの駐在も兼任しました。 バルカンの戦禍を逃れた多くのイスラーム教徒が帝国領内に移住してきて、イスラーム教徒の比重が高まりました。 1914年に青年トルコの軍人エンヴェル・パシャがクーデタによって権力を握り、軍部独裁的な青年トルコ政権を樹立しました。 第一次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権のエンヴェル・パシャはロシアとの対立関係からドイツ、オーストリアとの提携を強め、同盟国側で参戦し独断で開戦に踏み切りました。 オスマン軍はドイツ軍の援助を受けて、バルカン半島ではイギリス・フランス連合軍との戦いで勝利するなど健闘しましたが次第に連合軍に押されました。 また、中東でもパレスティナをイギリス軍に占領され、アラブ人の反乱もあってオスマン帝国軍は翻弄され次第に劣勢になりました。 1918年にスルタンのメフメト6世は単独で講和を決定し、孤立したエンヴェル・パシャはドイツに亡命しました。 敗戦国となったオスマン帝国は翌年のセーヴル条約で壊滅的な領土割譲を余儀なくされ、青年トルコ政権の中枢部は国外に逃亡しました。 敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーヴル条約を結ぶと、国民的な抵抗運動が起りました。 ケマル・アタテュルクが指導者となり、1919年にイズミル侵攻を企てたギリシア軍と戦いました。 1920年にトルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集し、イスタンブールのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立しまし。 1921年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得ました。 1922年にギリシア軍は撤退し、イズミルの奪回に成功しました。 ギリシアとの講和後、同年にスルタン制を廃止し、連合国とはセーヴル条約を破棄し、オスマン帝国は滅亡することとなりました。 改めてローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせました。 1923年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党を率いて初代大統領に選出されました。 翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコの世俗主義化につとめました。 ケマル・アタテュルクの業績は、大きく2つに分けることができるといいます。 ひとつはオスマン帝国の軍人にして救国の英雄として、もうひとつはトルコ共和国という国をつくりあげた政治家としてです。 戦士としては、列強による祖国分割を阻止せんとして立ちあがった愛国者たちを糾合しその指導者となりました。 国民は奮闘し、ギリシア軍を激戦のすえ追い返して、列強の野望を打ち砕くことになりました。 政治家としては、祖国に平和世界に平和のスローガンを掲げどの陣営にもくみせず中立を保ちました。 現在のトルコは中東・バルカン諸国でもっとも成功した国のひとつであり、その礎を築きました。 ただし、裏の顔もつきまとい、大統領に就任してのちともに戦った盟友たちを追放あるいは処刑し、権力を固めました。 トルコ民族主義を強硬に推し進めたゆえにクルド人を弾圧し、宗教を抑圧しました。 なお、近年では親イスラームの公正発展党を率いるエルドアン大統領のもと、アタテュルクの業績を暗に批判されているといいます。序章 黄昏の帝国/第1章 ケマルと呼ばれる少年ー1881~1904年/第2章 ガリポリの英雄ー1905~1918年/第3章 国民闘争の聖戦士ー1919~1922年/第4章 父なるトルコ人ー1923~1938年/終章 アタテュルクの遺産[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】アタチュルク—あるいは灰色の狼ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父 (中公新書 2774) [ 小笠原弘幸 ]
2024.03.16
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宮本常一は1907年山口県屋代島、現周防大島生まれ、大阪府立天王寺師範学校、現大阪教育大学専攻科を卒業しました。 学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになりました。 ”今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる”(2023年5月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。 日本のすみずみまで歩いて聞き集めた小さな歴史の束から、世間・民主主義・多様な価値から日本という国のかたちをも問いなおした、宮本常一の生涯を紹介しています。 1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、膨大な記録を残しました。 柳田國男は1875年生まれの民俗学者・官僚で、農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めました。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者で、位階・勲等は正三位・勲一等です。 日本人とは何かという問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行しました。 渋沢敬三は1963年生まれの実業家、財界人、民俗学者、政治家で、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣を務めました。 祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継ぎました。 畑中章宏さんは1962年大阪府大阪市生まれ、近畿大学法学部を卒業し、災害伝承、民間信仰から流行現象まで幅広い領域に取り組んでいます。 平凡社の編集者として、『月刊太陽』編集部に所属し、多摩美術大学特別研究員、日本大学芸術学部講師を務めています。 フィールドワークでは、特定の調査対象について学術研究をするとき、テーマに即した現地を実際に訪れ、対象を直接観察します。 関係者に聞き取り調査やアンケート調査を行い、現地での史料・資料の採取を行うなど、学術的に客観的な成果を挙げる技法です。 宮本の民俗学は非常に幅が広く、後年は観光学研究のさきがけとしても活躍しました。 観光学は観光に関する諸事象を研究する学際的学問です。 観光学は、地域経済の振興、発展、環境保全など解決していくためにあります。 経済の発達に伴い楽しみのための旅行が広く普及し、マス・ツーリズムの時代が到来しました。 これに伴い、いかにしてより満足できる観光が実現するか問われるようになりました。 民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築きました。 民具は民衆の日常生活における諸要求にもとづいてつくられ、長いあいだ使用されてきた道具や器物の総称です。 これは渋沢敬三によって提唱された学術用語です。 日本常民文化研究所の前身であったアチック・ミューゼアムでは、民具をきわめて広い対象をあらわす概念としています。 アチック・ミューゼアムは1921年に、実業家で民俗学者でもあった渋沢敬三によって創設されました。 その後、財団法人時代を経て1982年に神奈川大学に移管され研究が引き継がれました。 宮本が所属したアチックミューゼアムは後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となりました。 ここでは漁業制度史や民具の研究を中心に、日本の民衆の生活・文化・歴史の調査研究が行われています。 網野善彦は、1928年山梨県東八代郡御坂町生まれの日本中世史を専門とする歴史学者です。 宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではありませんが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視しました。 そのため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇されました。 しかし、20世紀末になって再評価の機運が高まりました。 宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れ、柳田民俗学を乗り越えようとしました。 柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめました。 そして「私たち」の起原、定義、未来を追求する際、「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えました。 そのとき、「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られると考えたといいます。 これに対して宮本常一は、「もの」を民俗学の入り口にしました。 たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えました。 そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたといいます。 日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫、南方熊楠らによって発展していきました。 彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三が独自の立場から後進を支援指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一です。 宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把捉するとともに問題点を明らかにしていきました。 それは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことでした。 ほかの民俗学者の民俗学と際だって違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことです。 宮本は歴史をつくってきた主体として、民衆、あるいは庶民を念頭におきました。 これまでの歴史叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしてきたかのように力説されてきました。 しかし宮本は、このような歴史認識は歴史の一面しか捉えていないし、私たちの歴史とはいえないと考えました。 また宮本は、民俗学はただ単に無字社会の過去を知るだけではなく、その伝統が現在とどうつながり、将来に向かってどう作用するかをも見きわめなければならないといいます。 そして、歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところでした。 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みました。 「大きな歴史」は、伝承によって記憶されるだけで記録に残されていない「小さな歴史」によって成り立っていることを、具体的に示そうとしたといいます。 生活誌、生活史を叙述する際に、私たちが獲得してきた技術や産業の変化に目を向けたことも、宮本民俗学の大きな特色です。 宮本の民俗学には「思想や理論がない」「その方法を明示していない」とアカデミックな民俗学者から批判されてきました。 しかし、宮本の民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないかといいます。 主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきでしょう。はじめに 生活史の束としての民俗学/第1章 『忘れられた日本人』の思想/第2章 「庶民」の発見/第3章 「世間」という公共/第4章 民俗社会の叡智/第5章 社会を変えるフィールドワーク/第6章 多様性の「日本」 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる (講談社現代新書) [ 畑中 章宏 ]辺境を歩いた人々 (河出文庫) [ 宮本 常一 ]
2024.03.02
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新選組は幕末から維新にかけて特異な存在感を示し、さまざまな興味を抱かせる集団です。 ”斎藤一 京都新選組四番隊組頭”(2022年3月 河出書房新社刊 伊東 成郎著)を読みました。 新選組の四番隊組頭を長く務め、会津戦争と西南戦争に従軍し、藤田五郎として明治大正を生きた斎藤一の生涯を紹介しています。 新選組の中枢を担った近藤勇と土方歳三は、武家ではなく多摩地方の農家の出身でした。 ともに幼い頃から武士に憧れ、動乱の時代の中でその思いを実現させ時代の変革とともに散っていきました。 斎藤 一は1844年に江戸で(一説には、播磨国ともいわれる)生まれ、父親が明石出身であったことから明石浪人、または播州明石浪人を名乗ったようです。 父・右助は播磨国明石藩の足軽でしたが、江戸へ下り石高1,000石の旗本・則定鈴木家に仕えたとされ、後に御家人株を買って御家人になったといわれます。 斎藤 一は幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務めました。 一時期御陵衛士に入隊し、戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦いました。 明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦いました。 伊東成郎さんは1957年東京生まれ、1979年に明治大学文学部史学地理学科を卒業し、1981年に東京写真専門学校を卒業しました。 同年に全国石油業協同組合連合会広報部に就職しましたが、翌年伊東写真館祖父が明治末年に開業した同店で写真撮影業を自営し、現在に至ります。 同時に、歴史関連の調査、執筆活動を展開してきました。 2000年にNHK「その時歴史は動いた」の製作に協力し、2003年に東京都中央区江戸開府400年記念事業検討委員会委員に就任しました。 斎藤一という名前は、京都に移ってから新選組全盛期にかけてのもので、最初の名前は山口一でした。 1862年に江戸で刃傷沙汰を起こして京都に逃亡した際、斎藤一と名を変えました。 1867年に山口二郎(次郎)と改名し、会津藩に属して戊辰戦争を戦った時期には一瀬伝八を名乗りました。 斗南藩に移住する直前、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しました。 1872年の壬申戸籍には藤田五郎として登載されています。 19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり斬ってしまい、父親の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めました。 1863年3月10日に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成しました。 同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなりました。 新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢されました。 後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務めました。 一般に斎藤一は、新選組三番隊長と呼ばれます。 小説から漫画にいたるまで踏襲されているこの肩書きには、実は史実としての裏づけがありません。 原典は西本願寺の寺侍だった西村兼文が1889年に編んだ新選組始末記です。 後年、この組長編成は独り歩きし、京都土産の暖簾や湯呑にも登場するに至りました。 しかし、行軍録と題する新選組の編成表は行軍形式で整えられており、近藤や土方のほかに当時在籍していた小隊ごとに整然と配列された全隊士名が確認できます。 八小隊と番外の小荷駄隊という全九基による新選組の小隊編成があり、斎藤一は決して「新選組三番隊長」や「三番隊組長」ではなく、「新選組四番隊組頭」であるといいます。 1864年6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられました。 1867年3月に伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると斎藤も御陵衛士に入隊しましたが、のち新選組に復帰しました。 同年12月7日に紀州藩の依頼を受けて同藩士・三浦休太郎を警護しましたが、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃されました。 三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり宮川信吉と舟津釜太郎が死亡し、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負いました。 斎藤は鎖帷子を着ており無事でしたが、三浦は顔面を負傷したものの命に別状はありませんでした。 将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加しました。 1868年1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦し、斎藤はいずれも最前線で戦いました。 近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かいました。 土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加しましたが足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着きました。 斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加し、8月21日の母成峠の戦いにも参加しました。 敗戦により若松城下に退却し、その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦しました。 斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けました。 9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降しました。 降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送りました。 会津藩は降伏後改易され会津松平家は家名断絶となりましたが、1869年11月3日に再興を許されました。 知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北半島を松平家側で選ぶこととされました。 旧藩幹部は下北半島を選択し藩名は斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴きました。 斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、会津藩士としては大身に属する系譜の篠田やそと結婚しました。 後年、1874年に元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚し、氏名を藤田五郎に改名しました。 時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けました。 同年7月に東京に移住し警視庁に採用されました。 1877年2月に九州で西南戦争が起き、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加しました。 斬り込みの際に敵弾で負傷しましたが奮戦して、1879年10月に政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されました。 1881年に警視局が廃止されて一旦陸軍省御用掛となり、その後警視庁の再設置により11月に巡査部長となりました。 1885年に警部補、1888年に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1892年12月に退職しました。 退職後、東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めました。 なお、出自、経歴は不明な点も多いといいます。1 新選組前夜/2 壬生狼疾駆/3 新選組四番隊組頭/4 孝明天皇御陵衛士/5 京都落日/6 転戦の果てに/7 斎藤一の明治 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 斎藤一 京都新選組四番隊組頭 [ 伊東 成郎 ]【中古】 斎藤一 新選組最強の剣客 / 相川 司 / 中央公論新社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.02.17
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土方久功は若い頃から世界の民族文化に関心を寄せ、東京美術学校で彫刻を学びました。 その後1929年に当時日本の委任統治領だったパラオ諸島に渡り、着いて3ケ月後に南洋庁の嘱託に採用されました。 ”[改訂版]土方久功正伝”(2023年5月 東宣出版刊 清水 久夫著)を読みました。 28歳で単身南洋パラオへ渡り、30歳でヤップ離島のサトワヌ島へ渡って原住民と生活を共にしながら、彫刻の制作と島の民俗学的な研究を行なった生涯を紹介しています。 島の子供たちが学ぶ公学校で木彫を教え、島々を巡りながら昔話や工芸作品の収集、民族調査などを進めました。 その時の教え子は、後にパラオの民芸品「ストーリーボード」を制作し、今日まで受け継がれています。 久功は南洋に13年間滞在し、島の人々とともに暮らし「日本のゴーギャン」と呼ばれました。 清水久夫さんは1949年東京生まれ、法政大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得しました。 日本学術振興会奨励研究員、法政大学非常勤講師を経て、世田谷区総務部美術館建設準備室学芸員となりました。 世田谷美術館開館後は、学芸部教育普及課長、資料調査課長等を勤めていました。 埼玉大学・法政大学・跡見学園女子大学非常勤講師を務めました。 土方久功は1900年現在の東京都生まれ、父親は陸軍砲兵大佐で、伯父は伯爵、母方の祖父は海軍大将・男爵でした。 旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父親の病気退職による経済的理由から、1919年に東京美術学校彫刻科に入学しました。 三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍していました。 1924年に同学を卒業し、土方与志が築地小劇場を設立し、久功が同劇場の葡萄の房章をデザインしました。 1929年にパラオに渡り、現地住民の初等教育学校の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査しました。 1931年にヤップ諸島の最東端・現在のサタワル島に渡り、7年間を同島で過ごしました。 1939年にパラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務しました。 現在のチューク諸島、現在のポンペイ島、現在のコスラエ島、現在のジャルート環礁、サイパン島、ロタ島を引き続き調査しました。 1942年に小説家の中島敦とともに帰国しましたが、同年にボルネオ調査団に参加し日本が統治した北ボルネオを調査しました。 1944年に病を得て帰国し、岐阜県可児郡土田村、現在の同県可児市土田に疎開しました。 第二次世界大戦終了後、1949年に東京都世田谷区に移転して、彫刻家となりました。 1977月11日に心不全のため満76歳で死去しました。 土方久功を一言で言いあらわすのは難しいです。 彫刻家であり、詩人であるとともに、民族誌家でもありました。 今日、土方久功の名を知る人は少ないかもしれません。 その原因の一つは、久功自身の生き方にあったといえるでしょう。 画壇・文壇と深く関わらず、自由人として生き抜きました。 制度の外にあり、名聞を求めず、なかば市井に隠れて、忍耐強くみずからの世界を築きつづけました。 歿後1990年から3年間、『土方久功著作集』全8巻が刊行され、主要な著書、論文、随筆、詩が収められています。 また、通算10年以上に及ぶ1922年7月から1977年1月までの日記122冊、草稿やノート類などが残されています。 今日では、土方久功に関する資料の入手は以前に比べ、容易となっていますので、今後の研究の発展が期待されます。 戦後、土方久功が展覧会を開いたときなど、新聞や雑誌で取り上げられることがありました。 その際、しばしば久功は、「日本のゴーギャン」と言われました。 没後も同様で、例えば、2007年の世田谷美術館の中島敦との二人展のタイトルは、「パラオーふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功」展でした。 旧著のタイトルは、「土方久功正伝-日本のゴーギャンと呼ばれた男」でしたが、異論があったといいます。 本人は日本のゴーギャンと呼ばれることをとても嫌がっていたということです。 しかし、著者は土方久功が目本のゴーギャンであったと言うつもりはありませんでした。 日本のゴーギャンと呼ばれていたということを言いたかったといいます。 本人の日記や著作では、本人はゴーギャンが好きで、ゴーギャンの幻想的なものに引きつけられていました。 真似たいと思う、羨ましくもあるが、どうにもならない、ゴーギャンは、あまりに自分から遠いかから好きなのかもしれないと言っています。 たしかに、久功の生き方にしろ、作品にしろ、ゴーギャンとの共通点は非常に少ないです。 ですが、久功が日本のゴーギャンと呼ばれていたのは事実です。 久功にとっては、不本意で、実に不愉快なことであったに違いありません。 なお、「日本のゴーギャン」という呼び方は、最近では日本画家の田中一村の方がゴーギャンとしてよく知られています。 本書の執筆に当っては、土方久功の遺族および知人の方々から資料を提供され、示教を得たとのことです。[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]第1章 幼年から青年時代へ/第2章 死の影/第3章 遥かなる南洋へーパラオの生活/第4章 孤島に生きて/第5章 再びパラオへー丸木俊と中島敦/第6章 戦時下の日本へ/第7章 ボルネオから土田村へ/第8章 戦後東京の生活/第9章 パラオ、サタワル島の人々との交流/終章 栄達、名誉を求めぬ一生土方久功正伝[本/雑誌] / 清水久夫/著日本のゴーギャン 田中一村伝(小学館文庫) [ 南日本新聞社 ]
2024.02.03
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スーザン・ソンタグはアメリカの女性作家、批評家です。 シカゴ大学卒業後ハーバード大学で修士号を取得し、雑誌の編集に従事し諸大学で哲学を講じました。 ”スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想”(2023年10月 集英社刊 波戸岡 景太著)を読みました。 1960年代のアメリカで若きカリスマとなり、今年生誕から90年を迎えいまでは忘れかけられている批評家スーザン・ソンタグの生涯を紹介しています。 処女作は1963年の小説『恩恵者』 です。 以後、1966年に『反解釈』 1969年に『ラディカルな意志のスタイル』1977年に『写真論』、1979年に『隠喩としての病い』 などを発表しました。 かつて、反解釈・反写真・反隠喩で戦争やジェンダーなど多岐にわたる事象を喝破しました。 波戸岡景太さんは1977年神奈川県生まれ、千葉大学を卒業し慶應義塾大学大学院文学研究科博士後期課程を修了しました。 明治大学理工学部講師、准教授、教授を歴任しました。 現在、明治大学大学院理工学研究科 建築・都市学専攻 総合芸術系教授を務めています。 アメリカ文学者で、博士(文学)〈慶應義塾大学〉、専門はトマス・ピンチョンを中心とした現代アメリカ文学・日米比較文化論です。 スーザン・ソンタグは1933年に東欧ユダヤ系移民の父母の元にアメリカ国籍者としてニューヨーク市で生まれました。 父親は中国で毛皮の貿易会社を経営していましたが、5歳の時に結核で死去しました。 その7年後、母は同じ東欧ユダヤ系のネイサン・ソンタグと親密関係になりました。 正式には結婚はしませんでしたが、スーザンと妹は義父のソンタグ姓を名乗るようになりました。 ソンタグはアリゾナ州ツーソンをへてカリフォルニア州ロサンゼルスで育ちました。 15歳でノースハリウッド高等学校を卒業後は、学部生としてカリフォルニア大学バークレー校で学び始めました。 のちシカゴ大学に転校し、学士号を得て卒業しました。 ハーバード大学大学院、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ、パリ大学の大学院でそれぞれ哲学、文学、神学を専攻しました。 大学院修了後、アメリカユダヤ人委員会の機関誌の編集者となったのち、コロンビア大学などで哲学講師となりました。 そのかたわら、1963年に作家デビューし、1966年には初の評論集を出版しました。 ソンタグは30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていました。 2004年12月28日に骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで71歳で死去しました。 生涯を通じ、アメリカを代表するリベラル派の知識人でした。 ベトナム戦争やイラク戦争に反対するなど、人権問題についての活発な著述と発言でオピニオンリーダーとして注目を浴びました。 ソンタグは写真や映画といった映像文化に造詣が深く、ジェンダーやセクシュアリティの問題にも敏感でした。 かつまた、結核やがんといった病のイメージについても熱心に議論しました。 そして、ベトナム戦争以後、9・11に至るまでずっと社会問題に反応し政治的な発言を続けました。 ソンタグは、「批評家」「作家」「評論家」「映画監督」「活動家」などの肩書きをもつマルチな才能をもった文化人でした。 ソンタグと同じくらいメディアに注目された知識人は今も昔も存在します。 ソンタグは自身の輝かしい学歴に背を向け、刺激的な内容を絶妙な文章に磨き上げました。 けれども、メディアを利用しても決してメディアに踊らされることのなかった人はとても珍しいです。 2004年にソンタグが亡くなってから20年近くが過ぎようとしています。 今、世界的な評価の高まりとは裏腹に、日本ではその名を耳にすることが減ってきたように思われます。 それはソンタグが背負ってきた1960年代的なアメリカの「カッコよさ」が、今の日本ではあまり魅力的ではなくなったことも理由の一つかもしれません。 あえて一般的な感情を逆撫でする政治的立場を表明してみせたりした、1970年代以降のもう一つの「カッコよさ」も、流行らないかもしれません。 しかし、そうした傾向はあくまでも、「今の日本では」ということに過ぎません。 ソンタグの精神的成長の記録というべき著作群は、読み方さえ理解すれば、明日を生き抜くための最高のツールとなるはずです。 本書を通じて、ソンタグの挑発する知性とあらがいの思想が、厳しくも慈愛に満ちたものであることに気づいていただければ幸いですという。誰がソンタグを叩くのか/「キャンプ」と利己的な批評家/ソンタグの生涯はどのように語られるべきか/暴かれるソンタグの過去/『写真論』とヴァルネラビリティ/意志の強さとファシストの美学/反隠喩は言葉狩りだったのか/ソンタグの肖像と履歴/「ソンタグの苦痛」へのまなざし/故人のセクシュアリティとは何か/ソンタグの誕生/脆さへの思想[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想/波戸岡景太【1000円以上送料無料】こころは体につられて 下 日記とノート1964-1980 [ スーザン・ソンタグ ]
2024.01.20
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五代友厚は1836年薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷、現在の鹿児島県鹿児島市長田町生まれ、大阪経済界の重鎮の一人です。 ”五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人”(2023年9月 平凡社刊 橋本 俊詔著)を読みました。 幕末に薩摩藩士の子として生まれ、後に経済人として鉱業と製造業を中心に多くの事業を始め、大阪商工会議所の設立に尽力し、大阪経済の礎を築きました。 東の渋沢栄一、西の五代友厚と称されるように、二人は日本の資本主義経済の船出に大きな貢献をしました。 それぞれ東京商法会議所と大阪商法会議所をつくり、一橋大学と大阪市立大学の創設に関与しました。 大阪経済の創始者である五代ですが、出身は関西ではなく薩摩です。 明治維新は薩摩をはじめ長州、土佐、肥前出身の武士の活躍で達成されました。 五代が偉大な人物として名を残せたのは、薩摩藩での若い頃の人生が決定的に重要です。 橘木俊詔さんは1943年兵庫県生まれ、1967年に小樽商科大学を卒業しました。 1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了しました。 大阪大学教養部助教授を経て、1979年に京都大学経済研究所助教授、1986年に教授となりました。 専攻は労働経済学で、1998年に経済学博士(京都大学)となりました。 2003年に同大学院経済学研究科教授となり、2007年に定年退任し名誉教授となりました。 現在、京都大学名誉教授、京都女子大学客員教授、元同志社大学経済学部特別客員教授を務めています。 五代友厚は記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられました。 8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びました。 14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父・五代秀堯が奇妙な地図を広げて友厚を手招きました。 見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。 少年期の五代才助はこれを見ることができる環境で育ち、諸外国へ思いを馳せたのかもしれません。 1854年にペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となった折、五代は男児志を立てるはまさにこのときにありと奮いたったといいます。 1855年に藩の郡方書役助となり、翌年に長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。 1862年に懇願するも渡航を拒まれた友厚は、水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航しました。 1863年に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となりました。 通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入りました。 1865年に藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴しました。 1866年に帰国し御小納戸奉公格に昇進し、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任しました。 長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど、実業家の手腕を発揮し始めました。 1868年に戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍し、明治新政府の参与職外国事務掛となりました。 外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたりました。 また、大阪に造幣廠を誘致し、初代大阪税関長となり大阪税関史の幕を開けました。 1869年の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立しました。 紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力しました。 大阪財界人、田中市兵衛らとともに 大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立しました。 薩摩の七傑とは、西郷隆盛、島津斎彬、大久保利通、黒川清隆、桐野利秋、付田新入、そして五代友厚です。 このなかで、島津斉彬が育てた出色の家臣として、西郷、大久後、寺島宗則、そして五代が挙げられています。 マス・グラバーとシャルル・モンブランは、五代の人生を語るうえでとても重要な二人の外国人です。 五代の薩摩藩士としての富国強兵、殖産興業政策の実行、明治新政府の外交官、官を辞しての経済人としての生活にも影響を与えました。 渋沢栄一はフランスでフリュリ=エラールから銀行業を学びましたが、五代におけるグラバーとモンブランは、渋沢におけるエラールよりもけるかに大きな影響力がありました。 多岐にわたる事業を経営したのは東の渋沢と同じであるが、両者に違いもあります。 第一に、渋沢が企業の経営に関与した数は500社近くにも達し、日本資本主義の父と称されるほどですが、五代の場合はその企業数は渋沢よりかなり少ないです。 第二に、渋沢が最初に手掛けた事業は銀行業でしたが、五代の場合には、鉱山業と金・銀・銅などの鋳造と精錬でした。 経営者としての生活を送りながら、五代は商工会議所の設立に関与し、いわゆる財界活動の拠点を創設するとともに自らが会頭職を務め、文字通りの大阪財界の指導者となりました。 商業講習所の設置にも関与し、商業教育を大阪に根づかせようとしました。 ところが1885年に五代は49歳で命を落としました。 遠因は糖尿病にあったとされ、高血圧症心臓疾患が直接の死因でした。 東の渋沢は当時としては珍しい91歳まで生きた長命であり、それこそ数多くの事業を成しましたが、五代の場合には50歳になる前の死でした。 とはいえ明治時代の平均寿命は45歳前後であったとされますので、決して早世ではなく、仕事の種類と量の多さを渋沢と単純に比較するのは正しいとはいえないといいます。[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]序章 友厚の幼青年期とは/第1章 長崎海軍伝習所と薩英戦争/第2章 薩摩藩の英国使節団/第3章 幕末から明治期ー役人・民間経済人として/第4章 働き盛りを迎えた明治10年代/第5章 五代友厚と渋沢栄一五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人/橘木俊詔【1000円以上送料無料】新・五代友厚伝 近代日本の道筋を開いた富国の使徒 [ 八木 孝昌 ]
2024.01.06
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藤原彰子は998年に生まれた才色兼備の誉れ高い女性で、第66代一条天皇の皇后中宮になりました。 父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘の源倫子で、藤原氏の土御門邸にて誕生しました。 ”藤原彰子”(2019年6月 吉川弘文館刊 服藤 早苗著)を読みました。 藤原道長の長女として生まれ一条天皇の中宮となり2人の天皇の生母として政務を後見した藤原彰子の生涯を紹介している。 誕生の日は不明ですが、道長と倫子の結婚は前年の12月16日ですので、9月から12月の誕生と推定されます。 990年12月に3歳で袴着が行われました。 995年に彰子8歳の時、父・道長が内覧の宣旨を受けました。 999年2月9日に裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられました。 同年11月1日に一条天皇の後宮に入り、同月7日に女御宣下をうけました。 この時、一条天皇にはすでに藤原道隆の長女の中宮・藤原定子、女御・藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していました。 1000年に藤原彰子が新たに皇后となり、先に中宮を号していた藤沢定子は皇后宮を号しました。 朝廷史上はじめて一帝二后になりました。 藤原定子は第二皇女・媄子内親王の出産が難産となり崩御しました。 服藤早苗さんは1947年愛媛県生まれ、1971年横浜国立大学教育学部を卒業し、小学校教諭となりました。 1977年東京教育大学文学部を卒業し、1980年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1986年に東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1991年に第6回女性史青山なを賞を受賞しました。 1992年に家成立史の研究で東京都立大学文学博士となりました。 2001年に新設された埼玉学園大学教授に就任し、2009年に埼玉学園大学人間学部学部長となり、2015年に定年退職し名誉教授となりました。 専門は、日本史、家族史、女性史、ジェンダー論です。 藤原定子と藤原彰子はいとこであり、ともに一条天皇の妻でしたが、定子は皇后、彰子は中宮という肩書きでした。 定子は24歳で亡くなり、彰子は87歳まで生きました。 定子は一条天皇との間に二人の皇子を産みましたがどちらも天皇にはなれませんでした。 彰子は一条天皇との間に三人の皇子を産み、うち二人は天皇になりました。 藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母を、13歳の藤原彰子が担うことになりました。 母の源倫子も育児に協力したとされます。 1006年頃からは、藤原彰子の家庭教師は『源氏物語』作者の紫式部でした。 王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁もいました。 また、紫式部の娘で歌人の越後弁、ほかに歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成しました。 藤原彰子は008年に30時間の難産で土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王、後の一条天皇を出産しました。 1009年に今度は安産で第三皇子・敦良親王、後の朱雀天皇を生みました。 これにより、父・藤原道長の権力が強まることとなりました。 1010年に妹・藤原妍子が冷泉天皇の第二皇子・居貞親王に入内しました。 1011年に病になった一条天皇は居貞親王に譲位し崩御しました。 居貞親王は三条天皇となりましたが、24歳の藤原彰子は三条天皇の即位に反発したとされます。 ただ三条天皇の皇太子は、中宮・藤原彰子が産んだ敦成親王、後の一条天皇に決まっていました。 1012年頃、紫式部が退任した模様ですが、藤原彰子は皇太后となりました。 1016年に敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任しました。 1017年に道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引きました。 道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えました。 しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続きました。 1017年に三条天皇が崩御し、中宮彰子の子・敦成親王が後一条天皇となり、幼帝のため父・藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。 1018年に、藤原彰子は太皇太后になりました。 1026年に藤原彰子は出家し、院号の宣下があり上東門院となりました。 1030年に、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院といいます。 1036年4月17日に後一条天皇、1045年正月18日に後朱雀天皇が崩御し10年の間に2人の子を失いました。 その後は孫の後冷泉天皇が即位しました。 1052年に重篤な病に陥りましたが、その後体調は回復しました。 そして、1074年10月3日に法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御しました。 東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬されました。 藤原彰子には日記などはなく、唯一30余首の和歌がのこされているだけです。 しかし、父の日記や貴族男性の日記などが遺っており、彰子の行動を追うことができます。 本書では、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長として、また摂関家の尊長としての発言力があったことを明らかにしたといいます。第1 誕生から入内まで/第2 立后と敦康親王養育/第3 二人の親王の誕生/第4 皇太后として/第5 幼帝を支えてー国母の自覚/第6 後一条天皇の見守り/第7 天皇家と摂関家を支えて/第8 後朱雀天皇の後見/第9 大女院として/第10 彰子の人間像 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]藤原彰子(294) [ 服藤 早苗 ]藤原彰子 天下第一の母 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 朧谷寿 ]
2023.12.22
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南方熊楠は1867年現在の和歌山市生まれの民俗学者、生物学者で、日本民俗学の創始者の一人です。 ”未完の天才 南方熊楠”(2023年6月 講談社刊 志村 真幸著)を読みました。 驚くべき天才的才能を多方面に発揮しながら、仕事のほとんどが未完に終わった南方熊楠の生涯を紹介しています。 大学予備門を中退してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究しました。 イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職につきました。 帰国後、和歌山県田辺で変形菌類などの採集・研究と民俗学の研究を行ないました。 民俗学の草創期に柳田国男とも深く交流して影響を与えました。 熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでいました。 学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものでした。 書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれました。 多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られましたが、生涯を在野で過ごしました。 志村真幸さんは1977年神奈川県小田原市生まれ、2000年に慶應義塾大学文学部を卒業しました。 2007年に京都大学大学院人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻博士後期課程を単位取得退学しました。 専門は比較文化研究で、2008年に博士(人間・環境学)の学位を取得しました。 2020年にサントリー学芸賞(社会・風俗部門)、2021年に井筒俊彦学術賞を受賞しました。 南方熊楠顕彰館および南方熊楠顕彰会外部協力研究者として、資料調査、展覧会、出張展、公開講座などを担当しています。 2019年より南方熊楠顕彰会理事、慶應義塾大学非常勤 講師、京都外国語大学非常勤講師を務めています。 南方熊楠は生物学者として粘菌の研究で知られていますが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしていました。 さらに、高等植物、昆虫、小動物の採集も行なって、調査に基づいてエコロジーを早くから日本に導入しました。 1887年1月8日に米国サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジに入学しました。 8月にミシガン州農業大学、現・ミシガン州立大学に入学しました。 当初は商業を学ぶ予定でしたが次第に商買の事から離れていきました。 ミシガン州立大学は一流大学でしたが熊楠は大学に入らず、自分で書籍を買い標本を集めもっぱら図書館に行く生活を送ったといいます。 1888年に自主退学し、ミシガン州アナーバー市に移り動植物の観察と読書にいそしみました。 1892年9月に渡英し、1893年のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表しました。 また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学しました。 さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ』に次々と寄稿しました。 生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっています。 帰国後は、和歌山県田辺町に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じました。 当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開しました。 菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見しました。 民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表しました。 1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献しました。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがあり、他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されています。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟しました。 言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残しました。 熊楠という天才の魅力は未完の天才という点にあります。 驚くほど多方面で才能を発揮し、生物研究ではキノコ、変形菌(粘菌)、シダ植物、淡水藻、貝類、昆虫、水棲腿虫類と幅広く扱い、熊楠の名が学名に付いた新種も少なくありません。 人類学、民俗学、比較文化、江戸文芸、説話学、語源学といった人文科学系の分野でも業績が多いです。 国際的な活躍もめざましく、世界最高峰の科学誌である「ネイチャー」には51篇、同じくイギリスの「ノーツーアンドークェリーズ」には324篇もの英文論考が掲載されました。 キノコを巧みにスケッチしたかと思えば、十数カ国語を解し、また環境保護にとりくんだことで「エコロジーの先駆者」とも呼ばれます。 とてつもない記憶力を誇り、十数年前にとったノートの内容をそらで思いだすことができたそうです。 ロンドン抜書や田辺抜書といったノートに数万ページにおよぶ筆写をおこない、「人類史上、もっとも字を書いた」といわれることもあります。 思想家とか科学者とか政治運動家とかいった、個別の分類にはあてはまらない人物が熊楠なのです。 しかし、熊楠の仕事はほとんどが未完に終わっています。 睡眠中に見る夢のもつ意味を一生をかけて追い求めましたが、最終的な結論は出ていません。 柳田国男とともに目本の民俗学の礎を築いたものの、途中で喧嘩別れしてしまいました。 キノコの新種をいくつも発見していたのに、ほとんど発表していません。 英語でも日本語でも多数の論考を書きましたが、集大成となるような本はついに出版されずに終わっています。 神社林を保護するために、日本で最初期にエコロジーの語を導入しましたが、もっとも大切な神社については守れませんでした。 なぜか熊楠は完成を嫌っていて、未完性は熊楠をめぐる最大の謎なのです。 熊楠が手を付けたのがいずれも難しい分野だったことが指摘できます。 そして、そもそも結論を出すために学問をしているわけではありません。 学問をすること自体が楽しく、充足した時間なのでしょう。 そして未完であるのも、案外、悪くありません。 むしろ怖いのは、終わってしまうことなのです。 やることがなくなり、追究すべき「謎」がなくなってしまったら、どうしたらいいのでしょうか。 著者は、もっと別にやりたいことがあれば、熊楠研究から離れてもいいけれど、これほどおもしろいテーマ/人物もなかなかいないです。 さいわいにして、熊楠の資料はまだ山のようにある。当分、熊楠研究が「終わる」心配はなさそうだといいます。 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]第1章 記憶力ー百科事典を暗記する/第2章 退学と留学ー独学の始まり/第3章 ロンドンでの「転身」-大博物学者への道/第4章 語学の天才と、その学習方法/第5章 神社合祀反対運動と「エコロジーの先駆者」/第6章 田辺抜書の世界ー人類史上もっとも文字を書いた男/第7章 英文論考と熊楠のプライドー佐藤彦四郎というライバル/第8章 妖怪研究ーリアリスト熊楠とロマンチスト柳田国男/第9章 変形菌(粘菌)とキノコー新種を発見する方法/終章 熊楠の夢の終わりー仕事の完成と引退とは何か?未完の天才 南方熊楠 (講談社現代新書) [ 志村 真幸 ]南方民俗学新装版 南方熊楠コレクション (河出文庫) [ 南方熊楠 ]
2023.12.09
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橘嘉智子は786年に奈良麻呂の変で凋落した橘氏に生まれましたが、第52代嵯峨天皇の寵愛を受けて皇后にまで上り詰めました。 嵯峨天皇の死後も仁明天皇の母として影響力を発揮し、承和の変ではその決断が結末を左右しました。 ”橘 嘉智子”(2022年10月 吉川弘文館刊 勝浦 令子著)を読みました。 内舎人の橘清友を父とし田口氏を母として生まれ嵯峨天皇の夫人となり仁明天皇と正子内親王を産み夫の死後太皇太后として重きをなした橘嘉智子の生涯を紹介しています。 尼寺檀林寺を創建するなど篤く仏教を信仰し、晩年には橘氏の教育施設である学館院を設立ましした。 勝浦令子さんは1951年京都府生まれ、1973年に東京女子大学文理学部史学科を卒業し、1981年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学しました。 高知女子大学専任講師・助教授、東京女子大学助教授・教授を経て、2019年3月に定年退職し、東京女子大学名誉教授となりました。 2001年「日本古代の僧尼と社会」で東大文学博士(文学)で、専攻は日本古代史です。 橘嘉智子は平安初期の皇后の中でも最も注目すべき人物であるといいます。 橘諸兄は光明皇后の異父兄で、悪疫で藤原不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち右大臣となり政権を握りました。 藤原広嗣は藤原宇合の子で、橘諸兄と対立し吉備真備・玄昉らを除こうとして反乱を起こしました。 橘諸兄は藤原広嗣の乱を乗りきり左大臣正一位に至って全盛を極めましたが、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失いました。 藤原仲麻呂は藤原南家に生まれ、天平文化華やかな時期に大仏造立などに功績を残しました。 光明皇后の信任を得て勢力を拡大し、孝謙天皇の時に紫微中台の長官となりました。 橘諸兄の長男の橘奈良麻呂は参議となり、藤原仲麻呂と対立しました。 757年に藤原氏に対する不平分子を糾合して仲麻呂らを討とうとしましたが、事前にもれて獄死しました。 藤原仲麻呂は橘奈良麻呂の乱を未然に押えて淳仁天皇を即位させ恵美押勝の名を賜り、太政大臣となって専権をふるいました。 橘嘉智子は786年生まれ、橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣・橘清友の娘です。 祖父の橘奈良麻呂が起こした政変計画で罪人となったことから、停滞気昧となっていた橘氏に生まれ幼くして父の清友も亡くしました。 しかしよい人柄や指導力と天性の美貌に恵まれ、また高祖母県犬養橘三千代や曽祖母藤原多比能に繋がる藤原氏の人脈もあって、桓武天皇皇子の賀美能親王に嫁しました。 親王は嵯峨天皇として即位し、即位後の809年6月に夫人となり、正四位下に叙されました。 翌年に従三位に昇り、815年7月に皇后に立てられました。 橘氏出身としては最初で最後の皇后で、世に類なき麗人であったといわれます。 桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣らの後押しで立后したといわれます。 嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻でした。 立后の宣命には、同じく臣下から皇后となった聖武天皇の皇后・藤原光明子の先例を踏襲しました。 嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)他2男5女を儲けました。 嵯峨天皇の淳和への譲位に伴い823年4月に皇太后となり、仁明天皇即位により833年3月に太皇太后となりました。 仁明天皇と淳和天皇皇后正子内親王の母后として、嵯峨天皇の生前および崩御後も大きな影響力を発揮しまし。 政治的には、伊予親王事件や平城太上天皇・薬子の変などの政変を、嵯峨天皇の配偶者の立場から経験しました。 嵯峨太上天皇崩御直後の842年に起きた承和の変においては、太皇太后として自ら重要な鍵を握る役割を果たしました。 県犬養橘三千代から始まり、その娘の光明皇后と牟漏女王によって祭り継がれていた酒解神などの諸神を、太后氏神として山城国の円提寺、さらに葛野郡に遷祭しで、梅宮社を創建しました。 仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建しました。 河内国の観心寺講堂の造立や如意輪観音菩薩像の造像、法華寺十一面観音菩薩像の造像などにも関与しました。 また、橘氏の教育施設である学館院を創設しました。 恵与を五豪山や神異僧への供物奉納のために独自に唐へ派遣しました。 さらに、恵誓を介して禅僧義空を招聘し、自らも禅を学んだと伝えられています。 嵯峨天皇譲位後は共に冷然院・嵯峨院に住みました。 嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有しました。 850年3月に仏門に入り、同年5月に冷然院において享年65歳で崩御しました。 参考となる主要史料は、正史の『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本紀略』『類聚国史』です。 本書ではこれらの史料を基本に、その他関連する史料を加え、また先行研究を再検討しつつ、まず時系列に沿いながら嘉智子の実像をできる限り明らかにしたいといいます。 そのうえで嘉智子没後に、嘉智子創建の檀林寺、梅宮社、学館院などがどのように変化していったのかを追ってみたいとのことです。第1 家系と出生/第2 嵯峨後宮への道/第3 嘉智子の婚姻/第4 皇后嘉智子の誕生/第5 嘉智子期の皇后と皇后宮/第6 皇太后そして太皇太后へ/第7 太皇太后嘉智子の宗教活動/第8 承和の変と嘉智子/第9 晩年の嘉智子/第10 嘉智子の崩御とその後/第11 嘉智子像の変遷[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]橘嘉智子(316) (人物叢書) [ 勝浦 令子 ]李〓詩 嵯峨天皇 (シリーズー書の古典ー) [ 佐藤容齋 ]
2023.11.25
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ソニーの快進撃が続き2021年度にはソニーグループで過去最高益を達成しました。 今やトヨタと並び日本を代表する世界的企業といっていいでしょう。 しかし、ソニーという会社名は知っていても、そのソニーをつくった井深大と盛田昭夫のことを知る人は今どれだけいるでしょうか。 ”井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力 ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい”(2023年3月 青春出版社刊 郡山 史郎著)を読みました。 私利私欲から動く経営者や個人の尊重を忘れた経営者が増えてきたように思える現在では、井深さんの生き方と盛田さんの働き方は令和の時代にますます必要だといいます。 元ソニー常務である著者は、2人の側近として仕事のやり方やマネジメントその生き様を間近で見続けてきました。 二人はどこにもないものを生み出し、新しい未来を切り拓いた名経営者です。 彼らが立ちあがった戦後という時代は、先が見えないという意味では私たちが生きているこの時代に通じるものがあります。 「過去には何の価値もない」という井深の教えを守り、これまでは積極的にソニーについて語ることを避けてきました。 しかし、彼らの生き方や働き方が混迷の時代を生き抜く道標となるのではないかと思い、今語ろうと思うといいます。 本書では、名経営者の力強い言葉の数々を紹介しています。 郡山史郎さんは1935年鹿児島県指宿市生まれ、1954年にラ・サール高等学校を卒業し1958年に一橋大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社しました。 1959年にソニーに転じ1973年にシンガーに転じました。 シンガー日本代表を経て、1981年にソニー映像事業部長となりました。 1984年にソニー情報機器事業本部長、1985年にソニー取締役、1988年にソニー経営戦略本部長となりました。 1990年にソニー常務取締役、1991年にソニー一般地域統括本部長、資材本部長、サービス本部長、物流本部長となりました。 1995年にソニーPCL代表取締役社長、2000年にソニーPCL代表取締役会長、クリーク・アンド・リバー監査役となりました。 2002年にソニー顧問となり、2004年にCEAFOMを設立して代表取締役に就任しました。 人材紹介業をおこなう傍ら、これまでに5千人以上の定年退職者をサポートしたといいます。 井深 大は1908年栃木県上都賀郡日光町、のちの日光市生まれ、祖先は会津藩の家老でした。 2歳の時に青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られました。 母さわと共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻りました。 安城第一尋常小学校卒業、のちに再婚した母に従い母の嫁ぎ先の神戸市葺合区、現在の中央区に転居しました。 兵庫県立第一神戸中学校、のちの兵庫県立神戸高等学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部を卒業しました。 学生時代から奇抜な発明で有名であったといいます。 東京芝浦電気の入社試験を受けるも不採用で、大学卒業後は写真化学研究所に入社しました。 学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得しました。 後に日本光音工業に移籍し、その後、日本光音工業の出資を受けて日本測定器株式会社を立ち上げて常務に就任しました。 日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合いました。 敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年10月に、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げました。 後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流しました。 翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で社員20数人の東京通信工業、後のソニーを創業しました。 義父の前田多門(東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役でした。 以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開しました。 そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興と急成長を象徴する世界的な大企業に成長していきました。 盛田昭夫は1921年愛知県名古屋市白壁生まれ、生家は代々続いた造り酒屋で父親は盛田家第14代当主でした。 愛知県第一師範学校附属小学校、旧制愛知県第一中学校、第八高等学校、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業しました。 太平洋戦争中、海軍技術中尉時代にケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合いました。 終戦後、1946年に井深らと、ソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し常務取締役に就任しました。 ソニー創業者の一人で、製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出しソニーブランドの人気を高めました。 1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を、1979年にウォークマンを発売しました。 1959年ソニー代表取締役副社長、1960年米国ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ取締役社長、1971年にソニー代表取締役社長に就任しました。 ソニーの会長兼CEOを務めた出井伸之が2022年6月に亡くなり、10月25日にお別れの会が催されました。 出井と著者は1年違いでソニーに入りました。 著者は2歳年上で、出井の事実上の上司だった時期もあります。 取締役になったのは4年早かったが常務だった1995年に出井は14人抜きで社長になりました。 このとき著者はソニーを退社しましたが、出井のことは人間的に好きで尊敬もしていたといいます。 出井はソニーの社長を5年、会長兼CEOを5年務めたあと、2006年にベンチャー支援などを手がけるクオンタムリープを創業しました。 著者が2004年に人材紹介ベンチャー「CEAFOM」を起業したとき、出井は個人で出資してくれたそうです。 新型コロナウイルス感染症の流行で経営が圧迫され、結局、投資してもらったお金を返せないまま、出井とお別れすることになりました。 出井の訃報は、本書をまとめるきっかけのひとつでもあるといいます。 祭壇から展示のほうへ移動して展示物を観て回りながら、あることに気づいたとのことです。 井深大、盛田昭夫の写真がないのです。 出井が育てた人、引き上げた人は写っているのに、上司や先輩にあたる人たちの写真はなかったのです。 井深と盛田は、会社経営の役割は違いましたが、「過去にとらわれない」というマインドは共通していました。 二人が目を向けたのは常に未来でした。 過去にとらわれないから、若い世代に古い価値観を押し付けることはありません。 死ぬまで「老害」とは無縁でした。 とくに井深は「時代が変われば、人間も価値観も変わる」とよく話していたそうです。 井深にとって、ソニーが時代とともに変化するのは当然のことでした。 その意味で、出井は「井深イズム」の継承者でした。 盛田はソニーの事業を通して「井深イズム」を世に広めていきました。 かつて日本の電子産業が世界を席巻した時期がありました。 日本の電子産業をリードしたのがソニーであり、井深と盛田という二人の経営者でした。 日本人が世界で再び大活躍できるならどこに可能性があるか、と探ってみるのは楽しいことです。 井深大の生き方、盛田昭夫の働き方は、日本人が力を取り戻すうえで大いに参考になるでしょう。 少なくとも、元気をもらえるはずです。 本書を読まれたあと、将来のために役立ててもらえるなにかしらのヒントを得ていただければ幸いといいます。第1章 運命を変えた、二人の名経営者との出会いー私とソニーと、井深と盛田/第2章 井深大の「生き方」-「個人」を尊重する思想の原点/第3章 盛田昭夫の「働き方」-「天性の人たらし」の素顔/第4章 井深大と盛田昭夫ー日本、そして世界を変えた最強の二人[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい 井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力 (青春新書インテリジェンス) [ 郡山史郎 ]【中古】 ソニー成功の原点 井深大、盛田昭夫の起業家精神 / 垰野 堯 / ロングセラーズ [新書]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2023.11.11
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ハリウッド(Hollywood)はアメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルス市にある一地区です。 映画産業の中心地で、アメリカ映画のことを指してハリウッドとも呼ばれています。 ”ハリウッド映画の終焉”(2023年6月 集英社刊 宇野 維正著)を読みました。 カルチャーとしての映画やアートとしての映画はこれからも細々と続いていくだろうが、長らく大衆娯楽の王様であり続けてきたハリウッド映画は、確実に終焉へと向かいつつあるといいます。 1903年に当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。 最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものです。 同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。 ハリウッド地区を象徴する看板「HOLLYWOOD」は世界的に有名です。 この看板は、1923年に「HOLLYWOODLAND」という不動産会社の広告として製作されました。 そのハリウッド映画がいま危機に瀕しているといいます。 製作本数も観客動員数も減少が止まりません。 メジャースタジオは、人気シリーズ作品への依存度をますます高めています。 オリジナル脚本や監督主導の作品は足場を失いつつあります。 ハリウッド映画は、このまま歴史的役割を終えることになるのでしょうか。 宇野維正さんは1970年東京都生まれ、武蔵高等学校を卒業し、上智大学文学部フランス文学科を卒業しました。 1996年に株式会社ロッキング・オンに入社して雑誌の編集を担当し、その後、株式会社FACTにて『MUSICA』の創刊に携わりました。 2008年に独立しファッション誌やウェブメディアで多数の連載を持ち、2015年から映画サイトのリアルサウンド映画部で主筆を務めています。 ハリウッド映画はアメリカのハリウッド地区で作られた映画のことです。 ハリウッドは古くからアメリカ映画産業の中心地として発展し、現在も多くの映画制作会社の拠点となっています。 20世紀のはじめ(1901年~)、アメリカ映画の拠点は東海岸のニューヨークとシカゴにありました。 しかし、20世紀初めの時代、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴでした。 当時の映画関連会社の間でさまざまなトラブルが生じ、一部の映画クリエイターが東海岸から遠く離れたハリウッドへ拠点を移しました。 これが、のちにハリウッドが映画の中心地になるきっかけとなりました。 ハリウッドは海岸だけでなくダイナミックな山並みや砂漠など豊かな自然に恵まれた地域で、ロケーションは抜群です。 また、降水量が比較的少ないという特徴もあります。 このような地理的条件から、天候に左右されやすい映画の撮影場所として理想的といえます。 ハリウッドに拠点を移したクリエイターの活躍の影響を受け、1910年から1920年にかけてハリウッドには続々と映画撮影所が開設されました。 ハリウッドには数多くの映画制作会社の拠点がありますが、6つの制作会社が大きな影響力をもつといわれています。 ワーナーブラザーズ、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、パラマウント・ピクチャーズ、20世紀フォックス、ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント、ユニバーサル・ピクチャーズです。 一般的に、ハリウッド映画、イコール、ビッグシックス作品という認識をもつ人も多く、アメリカ映画の中で最もメジャーな制作会社といえます。 アメリカは古くからたくさんの映画作品が生まれている国ですが、中でもハリウッド映画は多彩なジャンルと壮大なスケールで多くの人を魅了し続けています。 しかし、ハリウッド映画を習慣的に観てきた人なら、2020年代に入ってから日本で劇場公開される作品の本数が極端に減少していることに気づいているでしょう。 2020年代は新型コロナウイルスの世界的なパンデミックとともに幕を開けました。 日本でも一時期はほとんどの映画館が休業を余儀なくされて、営業を再開してからも一部のメガビット作品を除いて映画館への客足はなかなか戻りませんでした。 もしかしたら、ハリウッド映画の劇場公開が減っているのは、その影響がまだ続いているからではないかと思っている人もいるかもしれません。 しかし、新型コロナウイルスは、時計の針を少しだけに早く先に進めるきっかけとなったに過ぎません。 映画というアートフォームが、ほかの映像コンテンツと同じように、ストリーミング戦争の波に巻き込まれることになるのは時問の問題でした。 2020年には、先行するネットブリッグスやアマゾンプライムビデオなどに続いて、北米でディズニープラス、HBOマックス、アップルTVプラスをはじめ大手ストリーミングサービスが出揃いました。 各プラットフォームが社運をかけて体制を整備し、過去の映画やテレビシリーズの配信権を囲い込み、数々の新しいキラーコンテンツの配信を準備していました。 そこにちょうどやってきたのが、新型コロナウイルスのパンデミックでした。 新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いた2022年になっても、劇場公問されるハリウッド映画の作品数がそれ以前の水準に戻ることはありませんでした。 そして、それは2023年以降も変わらないことが見込まれています。 結果として、メジヤースタジオからリリースされる作品はシリーズものばかり、それも観客を呼べる有名スターたちが出演している作品が中心となりました。 年に数本のメガヒット作品が映画産業を支えるという傾向か年々強まっています。 映画の産業構造そのものの激変期にあって、必然的に映画の成り立ちや作品の内容も大きく変わってきました。 映画は大勢で「観る」ものから個人で「見る」ものへとある意味で元祖返りしつつあります。 その過程で、監督をはじめとする映画の送り手たらは、自らのアイデンティティを問われ、巨大企業のコマとなるか独立性を維持するかの選択を突ぶつけられました。 映画というアートフォームの革新の必要に迫られているのです。 カルチャーとしての映画、アートとしての映画はこれからも細々と続いていくでしょう。 しかし、産業としての映画、とりわけ20世紀中盤から長らく「大衆娯楽の玉様」であり続けてきたハリウッド映画は、確実に終焉へと向かいつつあるといいます。はじめに/第一章 #MeToo とキャンセルカルチャーの余波/第二章 スーパーヒーロー映画がもたらした荒廃/第三章 「最後の映画」を撮る監督たち/第四章 映画の向こう側へ/おわりに[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ハリウッド映画の終焉 (集英社新書) [ 宇野 維正 ]ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために (ちくま学芸文庫) [ 蓮實 重彦 ]
2023.10.28
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徳川慶勝1824年生まれの幕末から明治初期にかけての大名・政治家です。 ”写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断”(2010年10月 日本放送協会出版刊 NHKプラネット中部編/徳川黎明会監修)を読みました。 江戸幕府の幕引き役となり日本を守った御三家筆頭の徳川慶勝撮影の生涯を、本人撮影の写真や貴重な史科を通して紹介しています。 尾張藩支藩だった美濃高須藩主・松平義建の次男です。 1849年に宗家の尾張名古屋藩主徳川家14代となり藩政改革を実行しました。 日米修好通商条約の調印に反対し、将軍徳川家定の継嗣問題でも井伊直弼と対立し隠居謹慎となりました。 のちゆるされ、公武合体運動の中心として幕末に活躍しました。 第1次長州征伐のときは征長総督となりましたが,第2次の征長には出兵を拒否しました。 明治維新後に議定、名古屋藩知事となりました。 本書は2009年8月23日のNHKハイビジョン特集「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝」に関連して、NHKプラネット中部が編集したものです。 株式会社NHKプラネットはかつて存在した日本放送協会グループの放送番組制作会社です。 地域情報番組の制作・地域放送局のイベント支援を専門としていました。 各地域ごとに作られた番組制作会社6社があり、NHK中部ブレーンズ(東海・北陸)はその一つでした。 しかし、NHKの経営改革の一環として関連会社の整理・統合が求められました。 地域情報番組を担っていた6社を2008年4月1日に統合して発足したのがNHKプラネットです。 NHKプラネット中部は株式会社NHKプラネット中部支社となりました。 NHKでは経営改革の一環として、更に業務分野ごとに関連会社を整理することを求められています。 これに伴い、2020年4月1日にNHKグループの番組制作会社でコンテンツビジネス全般も担当しているNHKエンタープライズに吸収合併されました。 そして、これまで行っていた事業はNHKエンタープライズの地域支社として継続しています。 徳川慶勝は1824年に江戸四谷の高須藩邸に生まれました。 母は徳川治紀の娘の正室・規姫で、徳川斉昭は母方の叔父に、斉昭の子徳川慶篤と徳川慶喜は従弟にあたります。 尾張藩では10代藩主・斉朝、11代藩主・斉温、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧と、4代続いて将軍家周辺からの養子が続きました。 また11代藩主・斉温がその在世中に一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなど、藩士の士気を落とす出来事が続きました。 慶勝の擁立は12代・13代と取り沙汰されましたが実現せず、1849年に慶臧が死去してから、慶勝の14代藩主就任が実現しました。 藩主就任後の慶勝は、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行いました。 他方、外国船の来航が相次ぐ情勢下にあって、徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城らの感化もあり、対外強硬論を幕府に繰り返し主張しました。 1858年の日米修好通商条約の調印に際しては、慶勝は徳川斉昭・慶篤父子と共に江戸城へ不時登城し、大老・井伊直弼に抗議しました。 この行為が咎められ、井伊政権による安政の大獄により隠居謹慎を命じられ、代わって弟の茂徳が15代藩主となりました。 このころから、欧米から伝来した写真術に興味を持ち写真を撮影しています。 撮影した写真の中には名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真が1,000点近く残されました。 1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、1862年に「悉皆御宥許」の身となりました。 その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられました。 1863年に茂徳が隠居して実子の義宜が16代藩主に就任することとなり、慶勝はその後見として復権しました。 他方、慶勝に茂徳も家中に影響力を保持したため、文久期以降、尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制の様相を呈しました。 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局に関与しました。 京都では1863年に会津藩と薩摩藩が結託して8月18日の政変が起こり、京から長州藩および尊攘派の公卿らが追放されました。 1864年に慶勝は、雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられましたが辞退しました。 その年、長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を引き起こし撃退された長州藩は朝敵となり、幕府が第一次長州征討を行うこととなりました。 征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられましたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征しました。 この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋しました。 しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定しました。 慶勝は再征に反対し茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就きました。 長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり、幕府軍を藩境の各地で破りました。 1866年12月に、徳川慶喜が家茂のあとを継いで15代将軍に就任し、幕府の復権を目指しました。 しかしそのわずか20日後、公武合体を支持し幕府の後ろ盾となっていた孝明天皇が突然崩御しました。 1867年10月に、徳川慶喜は倒幕の大義名分を失わせる策に出ました。 朝廷に政権を返上する「大政奉迷」を行ったのです。 慶喜の構想は、天皇をいただいた新政体のもとで幕府が衣替えして政治の中枢を担い、引き続き実権を掌握し続けようというものでした。 しかし慶喜の構想は、薩摩や長州そして公家の岩倉具視など、強硬な倒幕派に阻まれました。 12月に有力諸藩の藩主などが参内し、天皇の御前で会議が聞かれ、「王政復古の大号令」が発せられました。 このとき慶勝は新政府の「議定」の一人に選ばれ、総裁に次ぐナンバーツーになりました。 引き続き聞かれた小御所会議で、岩倉具視や大久保利通らによって、慶喜の辞官納地が提議されました。 会議に出席していた慶勝、そして元福井藩主松平慶水や元土佐藩主山内豊信らは、新政府に徳川慶喜が参加することを想定していました。 しかし激しい議論の末、岩倉たちに押し切られるかたちで、慶喜に辞官納地を促すことが決定されました。 そして、新政府から旧幕府勢力を排除する方針が示されました。 こうした動きを前に、慶喜の周囲で薩摩や長州を討つことを望む声が高まりました。 その中心にいたのは、慶勝の弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬でした。 1868年1月に、会津藩と桑名藩を主力とする旧幕府の軍勢が、本営を置いていた大坂城を出発し御所を目指しました。 その途上、京都南部の鳥羽において、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍と遭遇し、戦闘が開始されました。 戦いは当初膠着気味に進みましたが、、新政府軍の陣営に翻った旗が流れを一気に変えました。 それは天皇の軍隊を意味する「錦の御旗」であり、敵陣に錦の御旗が翻ったことで、旧幕府軍は戦意を喪失しました。 さらには、旧幕府方の淀藩や津藩が新政府側にまわったことなどにより、旧幕府軍は窮地に陥り敗走しました。 容保と定敬は、慶喜とともに軍艦で江戸へと退却しました。 慶勝は旗幟を鮮明にするよう最後通告を突きつけられ、人生最大の決断の時が訪れました。 新政府にくみすれば、血を分けた弟たちを窮地に追いやることになります。 さらに、徳川を名乗りながら江戸幕府の息の根を止めた「裏切り者」の汚名を着せられるかもしれません。 下された慶勝の決断は、新政府側につくことでした。 慶勝によって江戸に至る街道沿いは新政府支持一色に染まり、旧幕府派と新政府派の戦闘が起こる心配がなくなりました。 新政府軍は悠々と東海道や中山道を進み、1868年4月の江戸城の無血開城を果たしたのです。 明治に入ると、領土と領民を朝廷に返す「版籍奉還」や、独立性を持つ藩を廃して国の行政単位として県置く「廃藩置県」など、中央集権国家を作り上げるための政策が次々に実行されますた。 そして1871年に、慶勝は殿様の座を降り、華族として東京に移り住みました。 名古屋城を去ることになった慶勝は、名残を惜しむかのように集中的に城の姿を写真に収めました。 東京に移り住んだ慶勝は、隅田川のほとりの下町・本所に屋敷を構えました。 慶勝は、ここでも多くの写真を残し、下町の庶民たちの暮らしを写しました。第1部 政治家徳川慶勝ー日本近代化、陰の功労者(徳川慶勝の生涯ほか)/第2部 殿様徳川慶勝ー殿様らしい最後の殿様(特別対談・徳川慶勝の魅力ー竹内誠×黒鉄ヒロシほか)/第3部 写真家徳川慶勝ー江戸の原風景をとらえた記録写真家(慶勝の写真術ほか)尾張徳川家の幕末維新 徳川林政史研究所所蔵写真 [ 徳川慶勝 ]【中古】写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断 /NHK出版/NHKプラネット(単行本)
2023.10.14
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日野富子は1440年に室町幕府に将軍家と縁戚関係だった名門・日野家に、日野政光(重政)の娘として生まれました。 ”日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事”(2021年7月 ミネルヴァ書房刊 田端 泰子著)を読みました。 北条政子・淀殿とともに三大悪女と呼ばれる日野富子は、激動の時代にあって夫の政治を支え後継者を育てようとして御台所として精一杯役割を果たそうとしたのだといいます。 16歳で室町幕府第8代将軍・足利義政の正室となり、子の足利義尚を将軍の跡継ぎにしようとしました。 山名持豊(宗全)と結び、義政の弟義視をおす細川勝元と争い、応仁の乱を引き起こしました。 義尚が9代将軍となると幕政に関与して、高利貸し、関所新設による関銭の徴収などで蓄財をはかりました。 田端泰子さんは1941年神戸市生まれ、1964年京都大学文学部を卒業し、同大学院博士課程を中退しました。 その後、橘女子大学助教授、1980年教授となり、校名変更で1988年京都橘女子大学教授となりました。 専門は日本中世史(中世後期の村落構造)・女性史です。 1989年の文学博士(京都大学)の学位を取得し、2004年より学長となり、2005年校名変更で京都橘大学学長となりました。 2010年に退任し、現在は名誉教授です。 日野富子は室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたります。 正式名は氏姓+諱の藤原朝臣冨子で、従一位冨子の本人署名が後世に伝わりました。 当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれていました。 実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていません。 父親は蔵人右少弁・日野重政、母親は従三位・北小路苗子です。 兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)がいます。 16歳で義政の正室となり、1459年に第1子が生まれましたが、その日のうちに夭折しました。 それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし、義政の側室4人も追放しました。 富子は1462年と1463年に相次いで女子を産みましたが、男子を産むことはできませんでした。 1464年に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者としました。 しかし1465年に富子は義尚を出産し、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立しました。 これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発しました。 富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいました。 東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれます。 1471年頃には室町亭に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まりました。 当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものでしたが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していました。 1473年に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となりました。 義政は政治への興味を失い、1475年には小河御所を建設して1人で移りました。 1476年に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となりました。 「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は、1、2町にも達したといいます。 11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移りました。 しかし、1481年になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまいました。 その後は長らく義政とは別居したといいます。 1477年にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ちました。 義勝の早世により第8代将軍となった義政は、正室富子から男子が生まれるのを待たず、弟義視を自身の後継者に決めました。 この決定は義尚の死後、政治的混乱を引き起こす遠因となりました。 義政青年期の政治は後継者問題にも表れているように、優柔不断であり、両畠山氏の争いを止めさせることができず、応仁・文明の大乱を引き起こす原因をつくってしまいました。 大乱中に富子は出産を抱えていたにもかかわらず、天皇家が室町第に避難してきて以来、その居所を提供する仕事に謀殺されました。 それとともに義尚が1473年に第9代将軍を拝命しましたので、その後見役を、日野勝光の死後は特に、務めねぱならなくなりました。 1474年5月に尋尊が「公方ハ御大酒、諸大名ハ犬笠懸」「天下公事修ハ女中御計」と記しました。 政治に関心をなくした義政と、逆に義尚の後見のためにも政治に参画せざるをえなかった富子の状況を如実に表しています。 富子の執政が最も実を上げるのは、1477年7月から9月でした。 富子は御台所として、夫生存中も時には執政し、嫡子で次期将軍となった義尚の後見役を務め、義尚と義政が相次いで死去した後も次期将軍家の選定に努力しました。 御台所として、十分にその役割を果たした人であったと言えます。 しかし室町戦国期の社会通念は儒教思想そのものであり、「腹は借り物」という男性優位、女性蔑視の考えが一般的であったことも分かりました。 そうした社会通念の世にありながら、鎌倉時代句御台所北条政子と同じく、将軍家の中の一つの家として、政治上の欠け落ちた点を補い、側面から将軍家を支える役割を果たしました。 日野富子に対する研究が異なった様相を見せ始めるのは1980年代後半に入ってからです。 本書では、その後の室町・戦国期の権力構造や経済圏、文化の特質などに関する研究を参照しました。 室町期の衣服や「坐態」に関する論稿なども加えて、日野富子という将軍家正室が、大乱の時代をどのように生きようとしたのかについて、明らかにしたいといいます。第1章 公家日野家の歴史/第2章 富子、義政に嫁ぐ/第3章 義尚を後見する富子/第4章 義尚の自立/第5章 後継将軍を選ぶ/終章 晩年の富子とその死 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 田端 泰子 ]秘恋 日野富子異聞【電子書籍】[ 鳥越碧 ]
2023.09.16
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バブル崩壊で不動産価格と株価の暴落が深刻な資産デフレをもたらし、バランスシートの悪化が経営を圧迫しました。 これに異常な円高が追い討ちをかけ、国内需要が低迷しているのに輸出にブレーキをかける円高ではやってられませんでした。 ”新冷戦の勝者になるのは日本”(2023年6月 講談社刊 中島 精也著)を読みました。 ポスト冷戦時代は日本の長期低迷時代でもありましたが、米中対立を軸とする新冷戦時代になって、いままでの日本のピンチが逆に日本復活の大チャンスになるといいます。 日本企業は積極的に海外への工場移転を進めましたが、ポスト冷戦でグローバル化の進展というタイミングに合致していました。 この結果、日本経済はバランスシート悪化、円高、産業空洞化の三重苦に見舞われることになりました。 ところがポスト冷戦が30年で終了すると、世界経済を取り巻く諸条件が一変しました。 経済安全保障が重視されるようになり、グローバルーサプライチェーンの見直しが進行しています。 新冷戦下の世界経済環境は新興国には不利ですが、逆に日本には追い風が吹くといいます。 新冷戦と地球儀を俯瞰する安倍外交のコラボが結実して、TSMCの熊本工場進出が実現しました。 加えてアベノミクスで株価や不動産価格が回復しバブル崩壊から30年が経過した今、日本経済を苦しめてきた三重苦は過去のものになりつつあります。 まさに日本大復活の芽が見えてきています。 中島精也さんは1947年熊本県生まれ、横浜国立大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社し調査情報部へ配属となりました。 1976年に日本経済研究センターに出向、1987年に伊藤忠商事為替証券部へ異動しました。 1994年にifo経済研究所客員研究員(ドイツ・ミュンヘン駐在)、2006年に伊藤忠商事秘書部丹羽会長付チーフエコノミスト(経済財政諮問会議担当)となりました。 2015年より丹羽連絡事務所チーフエコノミスト、2018年に福井県立大学客員教授となり今日に至ります。 1980年代後半にゴルバチョフは新思考を提唱し、ソ連外交の根本的転換を推進しました。 これを受けて米ソ間の首脳会談が定例化し、1989年のマルタ会談では冷戦の終結が宣明されました。 続く東欧社会主義圏、軍事ブロックの解体、ドイツ統一、全欧安保協力会議のパリ憲章における不戦の誓いなどがおこなわれました。 それまでの冷戦の主舞台となった欧州で、東西対決型紛争の条件がなくないました。 このポスト冷戦時代は、日本がバブル崩壊の後始末に追われる最悪のタイミングでやってきました。 ポスト冷戦は世界の労働力、資源、土地、マネー、技術が開放されたことから、物価の安定と生産性向上を受けて、世界貿易と投資が飛躍的に増大しました。 インフレなき持続的成長が長きにわたり継続し、世界、とりわけ中国など新興国がその果実を享受しましたが、日本だけが蚊帳の外におかれていました。 日本はバブル後遺症によるバランスシートの悪化、異常な円高、グローバル化による産業空洞化の三重苦に陥っていました。 労働力など生産要素価格の下落で世界はディスインフレで心地よかったのですが、日本経済はさらにデフレが進行して潰されてしまいました。 日本の製造業に深刻な打撃を与えたのは止まらない円高でした。 大規模な為替介入と金融危機で一時的に円安に振れましたが、2000年代に入ると再び円高が続きました。 リーマンショックでドルが底割れして、2011年10月に1ドル75円32銭の変動相場制導入以降の円の最高値をつけました。 急激な円高は製造業の競争力低下をもたらしました。 円高のボディーブローに耐えられない企業は工場閉鎖に追い込まれたり、中国やASEANへの工場移転を決断しました。 産業空洞化に直面した地方都市は壊滅的打撃を被るところも出てきました。 円高で体力が低下した企業は雇用カットか賃下げかの二者択一を迫られました。 米国とは企業風土が異なる日本では大量解雇はしづらく、結果的に賃下げで労使共に妥協せざるを得ませんでした。 賃金水準は1997年をピークに低下し、それから25年が経過してもいまだに名目賃金はピーク時を回復していません。 失われた10年と呼ばれたように、ゼロ成長とデフレの時代はその後も長く続くことになりました。 企業の多くは自主的に不良資産の縮小に努め、銀行は不良債権比率の縮小に務めました。 これが幸いして2008年にリーマンショックが襲っても邦銀の経営は盤石でした。 2000年から12年にかけての日本経済は実質成長率の平均が0.6%と超低成長、消費者物価の平均上昇率はマイナス0.6%と、バブル崩壊後にデフレにはまり込んでしまいました。 デフレのぬかるみからなかなか抜け出せない状況が続いていました。 このデフレを吹き飛ばし日本経済の再生を目指して総理にカムバックしたのが、安倍晋三さんでした。 毛利元就の「3本の矢」にちなんだ政策は、第1の矢「大胆な金融政策」、第2の矢「機動的な財政政策」、第3の矢「民間投資を喚起する成長戦略」からなっていました。 第1の矢と第2の矢は不況からの脱出を目的としたケインズ政策です。 潜在成長軌道から下方に外れてしまった日本経済を財政金融政策を駆使して、とりあえず元の成長軌道に復帰させることを目指しました。 円安は日本製品の価格競争力を高めるので輸出が伸びるはずですがおかしいです。 何か原因があると思いながら考えを巡らしていると、空洞化が進んでいることに気がつきました。 日本の供給力が落ちているのでは円安の輸出刺激効果は薄いのです。 金融緩和を起点として、円安、輸出増加、生産増加という好循環メカニズムが働きません。 第3の矢は潜在成長軌道の傾きをアップさせて、日本経済がより高い成長軌道を走ることを目標としていました。 しかし、第3の矢は岩盤規制を貫通することができませんでした。 安倍外交は世界に日本が自由主義、民主主義の守護者として信頼できるパートナーであることを認知させた8年間でした。 日米同盟を基軸として、自由で開かれたインド太平洋を推進しました。 その目標実現のために自らの防衛力を強化し、アペノミクスで経済再生を推し進め、地球を40周して多くの国との信頼関係構築に努めました。 ウクライナ戦争を起点として民主国家と専制国家の新冷戦時代になり、国際緊張が高まりました。 経済安全保障の重要性という見地から民主主義の同盟国と友好国は、互いにフレンドショアリングというグローバルサプライチエーンの再構築に動き始めています。 安倍外交は日本がフレンドショアリングの拠点として海外から選択されるための基礎を築きました。 その実例が台湾TSMCの熊本工場進出であり、日本に投資する海外企業の先駆けとして重要な役割を果たすことになるでしょう。 その後も案件は目白押しで、日本が新しい半導体サプライチェーンの核になる可能性を示唆しています。 実は安倍総理の地球儀を俯瞰する外交が最大の成長戦略ではなかったでしょうか。 新冷戦と安倍外交のコラボが海外企業の日本進出を通じて、日本経済の再生に大きく貢献する予感があります。 新冷戦時代への移行により日本経済を巡る環境激変は必至です。 民主国家と専制国家の間でブロック化が進行し、世界の生産要素の供給と価格が大きく変わるからです。 その結果、ポスト冷戦時代は新興国有利で日本不利でしたが、世界経済の条件が新冷戦では新興国不利で日本有利とコマが逆転していきます。 グローバルサプライチェーンを見ても、西側の同盟国と友好国との間でフレンドショアリングの構築が進みます。 日本が信頼されるパートナーとして、新たなグローバルサプライチェーンの一角を占めるのは確実です。 いかにイノペーションを起こすかが課題であり、そのために先端技術分野への予算の優先配分は必須条件です。 バブル崩壊以降、長きにわたって日本企業を苦しめてきた円高は終わりました。 株価や不動産など資産価格がバブル期のレベルまで回復したことにより、バブル崩壊で悪化した企業のバランスシートも著しく改善しました。 バブル崩壊以降の敗北主義的な内向き思考も遠のき、未来への投資という資本主義本来のアニマルスピリッツが戻りつつあります。 日本大復活をもたらす条件は整ったと言えますので、あとはそれをうまく活かすために構造改革が不可欠です。 そういう意味でイノベーション重視のアペノミクスの使命はまだ終わっていません。 変化の時代は顧客ニーズ、価値観、企業間パワーバランス、流通、技術、規制等が大きく変化します。 この様な時代にあっては既存の製品サービス、既存の販売方法、既存の開発・生産方法は変化に対応できません。 変化の時代は、既存の強みが必ずしも強みではなくなり、逆に弱みになることさえあります。 改革なくして成長なしは普遍の真理です。 日本大復活は改革の志を持った政治家、経済人、ならびにそれを支援する我々日本人一人ひとりの意志の力にかかっているといいます。第1部 ポスト冷戦の終焉(新冷戦を仕掛けた習近平/中国との対決姿勢を強める米国/プーチンリスクとウクライナ戦争/緊張度を増す日中関係)/第2部 新冷戦で変わる世界経済(冷戦の終結とグローバリゼーションの進行/デフレからインフレへ/新冷戦時代の世界経済/新冷戦は日本大復活の時代)新冷戦の勝者になるのは日本 (講談社+α新書) [ 中島 精也 ]新冷戦時代の超克ー「持たざる国」日本の流儀ー(新潮新書)【電子書籍】[ 片山杜秀 ]
2023.09.02
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田沼意次は江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中で、遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)です。 ”田沼意次 その虚実”(2019年3月 清水書院刊 大石慎三郎監 後藤一朗著)を読みました。 従来賄賂政治家というレッテルがはられていた田沼意次について、史料と史料批判のうえに立って新たな田沼像を呈示しています。 第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である田沼時代に名前を残しています。 父親は紀州藩の足軽の生まれ、徳川吉宗に仕えていたことが幸いし、吉宗の将軍就任に伴って幕府旗本となりました。 意次もその跡をつぎ将軍家重・家治に重用されて出世街道をのぼり、1767年に家治の側用人、1772年に老中となりました。 行った政策は、株仲間公認、印旛沼干拓、蝦夷地開発のほかに、俵物の輸出奨励や南鐐二朱銀の発行などがります。 後藤一朗さんは1900年田沼意次の城下町静岡県相良町(現、牧之原市)生まれ、静岡銀行に奉職し32歳で支店長となり、以後25年間各地を歴任しました。 停年後に本部に入り「静岡銀行史」編集に参画しました。 1960年退職し田沼意次に関する史料収集とその研究に専念し、幾多の新事実を発掘した異色の歴史家で、1977年に逝去しました。 文筆をもって職とする作家ではなくまた専門の歴史家でもありません。 本書において粉飾もせず、誇張もせず、隠蔽もせず、そしてなんぴとにも恐れず、遠慮なく、思うことすべても率直に書きつづったといいます。 田沼意次は1719年に紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として、江戸の本郷弓町の屋敷で生まれました。 吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍と子供たちの側近に配置して幕政を掌握しました。 意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、1735年に父の遺跡600石を継ぎました。 1737年に従五位下・主殿頭になり、1745年に家重の将軍就任に伴って本丸に仕えました。 1748年に1400石を加増され、1755年にはさらに3000石を加増されました。 その後家重によって1758年に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判をするのため、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられました。 1761年に家重が死去した後も、世子の第10代将軍家治の信任は厚く、1767年にさらに御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し5000石の加増を受けました。 さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、1769年に侍従にあがり老中格になりました。 1772年に相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、側用人から老中になった初めての人物となりました。 順次加増されたため、この5万7000石は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたる分散知行となりました。 田沼意次はあれだけの政治活動をした大宰相であるにもかかわらず研究資料の少ないことで、歴史家泣かせの一人だと言われています。 わずかに伝わる文献は反対政権の御用史家の作為のもの、あるいは低級な町の噂本がそのすべてであると言ってよいでしょう。 巨大な山岳の形容はその山のなかにいたのではわかりません。 向かい側の山に登って眺め、そこではじめて全貌がわかります。 反対側から見てこそ「幕府」という山の姿はわかるものですが、当時はみな「幕府」の傘の下にいたのでわからなかったのです。 監修者は今までのような幕府傘下から見た一方的な田沼論にあきたらず、あらゆる視点から田沼個人を観察し、その時代を探究・分析して実態の把握に懸命になっていました。 その時ふと徳川将軍家のお家騒動が目に映り、大政変の根源を見出すことができました。 江戸時代の歴史なかんずく政治史を見ていると、将軍の代替わりを境として前後に大きな断絶(または曲折)があるのに気がつきます。 それは将軍が絶対的な権威と権力とを持ち、その親任をうけて政治が行なわれるという当時の政治体制に由来するものといえるでしょう。 将軍が亡くなるとそれまで江戸城西の丸にいた嗣子が、その側近をつれて本丸御殿に移ります。 たとえそれまでの老中以下の幕府正規の行政組織が前代のまま残っていた場合でも、新将軍とその側近衆が実際上の権力の中核体を作ります。 どうしても前将軍の時代と多かれ少なかれある程度の断絶が生まれるのです。 このなかで、柳沢吉保-荻原重秀のいわゆる元禄後期政権とつぎの新井白石政権との間、・田沼意次政権とつぎの松平定信政権との間の二つの場合が、その断絶の幅がもっとも広いです。 このような事情があったためか、荻原重秀についても田沼意次についても信用するに足る基礎史料がほとんど残されていません。 実権を握った反対政権のために関係史料が浬滅されたのでしょうか。 悪人田沼意次をえがく場合にはその典拠とする史料批判がほとんどまったくといってよいほどなされていません。 田沼の悪評・悪行を記したものであれば何でもとりあげてあたかも歴史的事実かのごとく書きたてています。 田沼の悪事として諸書に書かれている話はほとんどといってよいくらい辻善之助『田沼時代』(大正四年刊)、徳富蘇峰『近世日本国民史 田沼時代』(昭和二年刊)の両書、なかんずく辻氏のものに依拠しています。 ところがこれら両書の田沼悪事に関する話は検討してみると、信用できない史料を軽々と事実かのごとく採用したものか、信用できる史料の場合は史料の読みちがいにもとづくものです。 このほか田沼意次が悪事を働いたとする典拠に使われてきた『続三王外記』『甲子夜話』「植崎九八郎上書」「伊達家文書」などの場合を検討してみると、どの場合も史料そのものかまたは史料の使い方に著しい欠陥があります。 監修者はかねがね田沼時代に関する定説に疑問をいだきあれこれ調べてきましたが、たまたま田沼意次の居城のあった相良を訪ねたのが機縁で著者の後藤一朗氏と面識を得ました。 同氏の御経歴はあとがきに詳しいので略しますが、田沼意次の大変な熱愛者でほとんど独学で田沼に関する研究を重ねてこられ、その結果できあがったのが本書だといいます。序文/1 田沼意次の人間像(田沼意知の危禍/意次の生い立ち)/2 田沼政治の母胎(吉宗時代とその前後/田沼時代の社会相)/3 田沼政治の全貌(田沼の経済政策/田沼の社会政策 ほか)/4 政変の裏表(喬木風多し/政変ついに来たる/反対政権の施策/田沼失脚の真因/余燼)/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]
2023.08.19
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鶴 彬=つる あきら は1909年石川県生まれの川柳作家で社会運動家です。 ”反戦川柳人 鶴彬の獄死”(2023年3月 集英社刊 佐高 信著)を読みました。 昭和初期に軍国主義に走る政府を真正面から批判し、反戦を訴え続け29歳で獄死した川柳作家の、知る人ぞ知る 鶴 彬を紹介しています。 川柳は俳諧連歌から派生した近代文芸です。 俳句と同じ五七五の音数律を持ちますが、俳句にみられる季語や切れの約束がありません。 俳句は発句から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付けが独立したものです。 江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出した”誹風柳多留”が刊行されて人気を博しました。 これ以降「川柳」という名前が定着しました。 このころは、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴としました。 人情の機微や心の動きを書いた句が多かったです。 現代では風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれています。 字余りや句跨りの破調、自由律や駄洒落も見られるなど、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくありません。 その川柳を通じて、昭和初期に軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家が 鶴 彬です。 官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した“川柳界の小林多喜二”と称されます。 佐高 信さんは1945年山形県酒田市生まれ、山形県立酒田東高等学校を卒業し、1967年に慶應義塾大学法学部を卒業しました。 卒業後、郷里の山形県で庄内農高の社会科教師となりました。 ここで3年間、教科書はいっさい使わずガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びたといいます。 その後、酒田工高に転じて結婚もしましたが、同じく“赤軍派教師”のレッテルを貼られました。 県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥り前妻と離婚し、1972年に再度上京したそうです。 その後、総会屋系経済誌”現代ビジョン”編集部員を経て編集長となり、辞めてから評論家になりました。 現在、東北公益文科大学客員教授を務めています。 「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表で、先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務めています。 鶴 彬を後世に残そうとしたのは昭和時代から平成時代の川柳作家一叩人、こと命尾小太郎さんで、その執念に気付いたのがンフィクション作家の澤地久枝さんだったといいます。 澤地さんは”鶴彬全集”を完成させました。 そして、書籍を出版してまとまった形で鶴 彬を世に問うたのは小説家で川柳評論家の坂本幸四郎さんでした。 鶴 彬は1909年1月1日石川県河北郡高松町、現かほく市に竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれ、本名を喜多一二=きたかつじといいました。 生年月日は戸籍上の日付で、実際には前年12月といわれています。 翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年に尋常小学校に入学し、1923年に高等小学校を卒業しました。 9才の時に父親が死に、母親が再婚して兄弟姉妹6人は離別しました。 小学校在籍中から、”北国新聞”の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム喜多一児で「北国歌壇に作品を発表しました。 1925年から川柳誌”影像” にデビューしたのを契機に、多様な川柳誌に作品を寄せるようになりました。 1927年には井上剣花坊の家に寄ったり、初の川柳の評論を”川柳人”に発表するなど、社会意識に芽生え始めました。 1930年1月に金沢第7連隊に入営しましたが、3月1日の旧陸軍記念日に連隊長の訓辞に疑問を抱いて質問した事件により重営倉に入れられました。 1931年に金沢第7連隊に”無産青年”を勧めたりした赤化事件により軍法会議にかけられ、刑期1年8ヶ月の収監生活を余儀なくされました。 1933年に4年間の在営を終えて除隊後、積極的に執筆活動を行いました。 10月頃、井上信子推薦で東京深川木材通信社に就職しました。 次第に反戦意識を高めていた鶴は思想犯とみなされ、1937年12月3日に治安維持法違反の嫌疑で特別高等警察に検挙され、東京都中野区野方署に留置されました。 しかし、度重なる拷問や留置場での赤痢によって、1938年9月14日に29歳で世を去りました。 1972年9月に郷里高松町に句碑が建立されました。 佐高信さんは鶴を、川柳界の小林多喜二と紹介しています。 ”鶴彬句集””鶴彬全集”(全1巻 たいまつ社)があり、1998年に”鶴彬全集”(増補改訂版)が復刻出版されました。 2008年4月に今年没後70年来年生誕100年を迎えるにあたって、記念事業をすすめる鶴彬生誕100年祭実行委員会と映画「鶴彬」を成功させる会が発足会を開きました。 そして2009年に生誕100年を迎え、その波乱に満ちた生涯を「ハチ公物語」の名匠・神山征二郎さんが、「鶴彬-こころの軌跡-」というタイトルで映画化しました。はじめに 同い年の明暗/1 鶴彬を後世に遺そうとした三人/2 師父、井上剣花坊/3 兄事した田中五呂八との別れ/4 鶴彬の二十九年/5 石川啄木と鶴彬/補章 短歌と俳句の戦争責任 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 反戦川柳人 鶴彬の獄死 (集英社新書) [ 佐高 信 ]小説鶴彬 暁を抱いて [ 吉橋通夫 ]
2023.07.29
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伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋の長男として生まれ、40歳のとき家業を次弟に譲り、生涯独身で画事に熱中しました。 ”若冲が待っていた 辻 忠雄 自伝”(2022年12月 小学館刊 辻 惟雄著)を読みました。 江戸中期の絵師・伊藤若冲を奇想の画家として再発見し若冲ブームの扉を開いた、日本美術史大家の自伝的エッセイです。 初め町狩野の大岡春卜につき春教と号していましたが満足できず、のちに相国寺をはじめ京坂の名刹にある宋、元、明の名画を熱心に模写しました。 また、身近にある動植物を日々観察し写生に努め、”動植綵絵”30幅は、”釈迦三尊像”3幅とともに相国寺に寄進されたもので、若冲の悲願のこもった生涯の傑作です。 濃艶な彩色と彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形がみごとに調和して、特異な超現実的ともいえる世界をつくりだしました。 著者は戦争と重なる少年時代の若冲との出会いから、日本美術隆盛の今日までを綴っています。 辻 惟雄さんは1932年名古屋市生まれ、産婦人科医の都筑千秋氏の次男で、母方の叔父の辻欽四郎の養子となりました。 都立日比谷高校、東京大学文学部美術史学科を卒業し、同大学院博士課程を中退しました。 東京国立文化財研究所技官、東北大学文学部教授、東京大学文学部教授、国立国際日本文化研究センター教授、千葉市美術館館長、多摩美術大学学長、MIHO MUSEUM館長などを歴任しました。 現在、東京大学と多摩美術大学の名誉教授です。 日本美術の時代や分野を通底する特質として、「かざり」「あそび」「アニミズム」の3つを挙げています。 1995年に学位論文「戦国時代狩野派の研究 -狩野元信を中心として」で、文学博士(東京大学)の学位を取得しました。 2016年に文化功労者に選出され、2017年に朝日賞受賞、2018年に瑞宝重光章を受章しました。 伊藤若冲は1716年京都の錦小路にあった青物問屋の枡屋の長男として生まれ、23歳のときに父親の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名しました。 別号、絵を米一斗と交換したことから斗米庵といい、八百屋や魚屋が軒を連ねる錦小路で、海の幸や山の幸に囲まれて過ごし、若冲の原体験として後の作品に反映されています。 若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さず、商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶りませんでした。 1755年に家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改めて隠居しました。 何がきっかけで絵に目覚めたのか不明ですが、家業の傍ら、30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めました。 最初は狩野派の門を叩きましたが、狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けないと考え、画塾を辞めて独学で腕を磨きました。 京都には中国画の名画を所蔵する寺が多く、模写の為にどんどん各寺へ足を運びました。 やがて、絵から学ぶだけでは絵を越えることができないと思い、目の前の対象を描くことで真の姿を表現しようとしました。 鶏の写生は2年以上続き、その結果、鶏だけでなく草木や岩にまで神気が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになったといいます。 1758年頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年、鹿苑寺大書院障壁画を制作し、1764年には金刀比羅宮奥書院襖絵を描きました。 1765年に枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟の宗寂が死去しました。 この年に、「動植綵絵」全30幅のうちの24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進しました。 隠居後の若冲は作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説でしたが、1771年に帯屋町の町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っていたことが分かったそうです。 1572年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下され、錦高倉市場の存続の危機になったことがありました。 若冲は奉行所と交渉を続ける中で、商売敵の五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知りました。 このため、市場再開に奔走していたことが、若冲の弟の子孫が記した錦小路青物市場の記録などから分かったといいます。 若冲はあくまで四町での錦市場存続を模索し、最終的に1774年に冥加金を納める条件で市場は公認されました。 こうした事情のためか、この時期に描かれたことが解る作品はほとんど無いということです。 1788年の天明の大火で自宅を焼失し窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけました。 相国寺との永代供養の契約を解除し、晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁して、義妹である末弟宗寂の妻の心寂と暮らしました。 1800年に85歳の長寿を全うし、墓は上京相国寺の生前墓の寿蔵と石峯寺の2箇所にあり、遺骸は石峯寺に土葬されました。 後に枡源7代目の清房が、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書きました。 本書は若冲についての書ではなく、著者の幼少期から、高校、大学、大学院を経て、東京国立文化財研究所に就職し、大学教授、美術館館長などを歴任した記録とエピソードです。 2021年1月1日から1月31日まで日本経済新聞に連載された、「私の履歴書」をもとに加筆、再構成したものです。 若冲との出会いは、東京国立文化財研究所時代に、アメリカの資産家の御曹司が若冲の絵を熱心にさがしている、という噂を耳にしたことだったそうです。 その人が東京の古美術商と、2点の若冲の作品を買う契約をしたと聞いて、慌ててその店を探し当てました。 当時は、若冲の本物に接する機会もありましたが、逸していたといいます。 1957年に東横百貨店で「鶏図名品展」が開かれましたが、期間が短く見ることができませんでした。 1964年に店に掛け合って、「紫陽花双鶏図」「雪芦鴛鴦図」の2点を借り出すことができました。 西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室に持ち込んで、学生たちに見せたそうです。 これほどの作品がアメリカにわたってしまうのは惜しいと思い、若冲の展覧会などをするようになりました。 その御曹司はジョー・プライスさんであり、戦後初めて若冲を評価した第一発見者で、著者はさしずめ2番手だといいます。 ジョー・D・プライスさんは1929年アメリカのオクラホマ州生まれ、江戸時代の日本絵画を対象にする美術蒐集家で、財団心遠館館長、京都嵯峨芸術大学芸術研究科客員教授です。 1953年にニューヨークの古美術店で若冲「葡萄図」に出会って以来、日本語を解さないながら自らの審美眼を頼りに蒐集を続け、世界でも有数の日本絵画コレクションを築きました。 若冲は当時は日本では今日ほど注目されておらず、奇の極みというべき若冲の真価がわかったのはかなり後であったといいます。 1970年に刊行した”奇想の系譜”で、岩佐又兵衛や伊藤若冲などを奇想の画家としていち早く再評価しました。 生前の若冲は平安人物志の上位に掲載されるほどの評価を受けていましたが、時代の変遷とともに江戸絵画の傍流扱いされるようになっていたのです。 再評価により、琳派や文人画、円山派などを中心に語られてきた、近世絵画の見方を大きく変えました。 日本の美術史に大きな影響を与え、特に1990年代以降の若冲ブームの立役者となりました。まえがき-「運にお任せ」精神的に豊かだった半生/幼少時、あだ名は「めそめそピーピー」/幼稚園、かなわぬ恋の「事始め」/戦争に地震、恐怖が日常に/終戦の玉音放送はひとり自宅のラジオで/美術部で写生に励み、日比谷高校への編入をめざす/浪人覚悟も東大合格。しかしいきなりの留年/2年連続の留年で医学部断念。美術史学科に転部/「雪舟展」をきっかけに日本絵画に傾倒。卒論は浮世絵をテーマに/母、49歳で逝く。美術史の研究を生涯の仕事と決める/大学院進学。吉川逸治先生の講義で開眼/岩佐又兵衛と格闘し、修士論文は合格/東京国立文化財研究所に就職。そして、ついに結婚/曾我蕭白の奇怪で猛烈な絵に衝撃/『奇想の系譜』を連載、刊行。江戸の美術史の定説破る/東北大学に赴任。プライスさんの招きで米国に/性に合っていた東北大学ののんきな雰囲気・父親の死/仙台と東京との往復生活を経て、母校東大に戻ることに/恩師、山根先生との米国旅行の思い出/人との出会いに恵まれた東大での10年/「かざり」への開眼、日文研への再就職/千葉市美術館の館長に就任。高畑勲さんとの再会/多摩美術大学学長を引き受け、『日本美術の歴史』刊行/最後の奉公。70歳でMIHO MUSEUM館長に/辻先生への手紙/辻先生との思い出 悦子プライス/そのパトスだよ、君! と師は叫んだ 泉武夫/奇想の美術史家・辻惟雄先生への手紙 山下裕二/僕の芸術の師匠 村上隆/あとがき/あとがきのその後[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]若冲が待っていた 辻惟雄自伝 [ 辻 惟雄 ]若冲百図 生誕三百年記念 (別冊太陽) [ 小林忠 ]若
2023.07.12
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シチリア島は、イタリア半島の西南の地中海に位置し州都をパレルモとする、イタリア領の地中海最大の島です。 ”シチリアの奇跡 マフィアからエシカルへ”(2022年12月 新潮社刊 島村 菜津著)を読みました。 かつてマフィアの島と言われいまもその面影が残っている中で、オーガニックとエシカル消費の最先端へと向かっているシチリアを、10年以上現地取材し伝えようとしています。 シチリアは周辺の島を含めてシチリア自治州を構成しており、イタリアに5つある特別自治州のひとつです。 紀元前にはギリシア人植民者とカルタゴが争い、後のポエニ戦争でローマの支配下に入り、6世紀にはユスティニアヌス大帝の東ローマ帝国に属しました。 9世紀後半にはイスラムが掌握し、中心拠点となったパレルモは3000人ほどの町から30万人を超える都市に急成長し、イスラムの中心都市として繁栄しました。 11世紀に北欧のノルマン人が征服し、ムスリムとも共存して多文化が融合したシチリア王国として繁栄しました。 その後、フランスのアンジュー家、アラゴン、スペインなどに次々に支配され、1861年にイタリア王国の一部となりました。 マフィアはイタリアのシチリア島を起源とする組織犯罪集団で、19世紀から恐喝や暴力により勢力を拡大した、1992年ごろファミリーと呼ばれる186のグループがあり、約4,000人の構成員がいました。 一部は19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国に移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大しました。 1992年ごろアメリカ全土に27ファミリー・2,000人の構成員がいて、ニューヨークを拠点とするものとシカゴを拠点とするものがありました。 島村菜津さんは1963年長崎生まれ福岡育ち、福岡高等学校、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業しました。 大学在学中はイタリア美術史を専攻し、卒業後にイタリアに留学し、以後、現地での数年間にわたる取材をもとにしたノンフィクションなどを発表しています。 ”スローフードな人生!-イタリアの食卓から始まる”を刊行し、日本で当時ほとんど知られていなかったスローフードを紹介し、日本におけるスローフード運動の先駆けとなりました。 マフィアの起源は、中世シチリアの農地管理人で、農地を守るため武装し、農民を搾取しつつ、大地主ら政治的支配者と密接な関係を結びました。 1860年に統一イタリア王国にシチリア島が統合されたことが、歴史の変換点となりました。 イタリア王国は現在のイタリア共和国の前身となる王国で、イタリア統一運動の流れの中で1861年に成立し、1946年に共和制へ移行しました。 激動の世紀にあって、国民化、民主化を急がせる中央政府に反発は強まり、大地主や宗教勢力の他にも、勃興する労働運動、さらにファシストによる混迷が生まれました。 ここにマフィアの躍進する素地ができて、マフィアは主に労働運動などを扇動し、デモなどを通じて会社や政治への関係を強めました。 マフィアの一部はイタリア人のアメリカ大陸への移民が増えるにつれて、アメリカ大陸においても同様の犯罪結社を作り定着しました。 1920年代から1930年代にかけてベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権によって徹底的に弾圧されたマフィアは、壊滅的な打撃を受けました。 一旦衰退したマフィアは、第二次世界大戦中にドイツのスパイ工作に対抗するアンダーワールド作戦や、第二次世界大戦への1941年のアメリカ参戦により転機が訪れました。 波止場はマフィア組織の支配下となっていたので、東西海岸一帯の埠頭や繁華街での日本やドイツ、イタリアの諜報活動に対するため、アメリカ海軍はマフィア組織との協力が必要でした。 マフィアのラッキー・ルチアーノはアメリカ海軍に協力し、特に東海岸やメキシコ湾一帯の波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示しました。 マイヤー・ランスキーらを刑務所に呼び、波止場における自分たちの支配力を行使するよう命じました。 1943年に連合軍がイタリアのシチリア上陸を計画した際に、チャールズ・ハッフェンデン海軍少佐は、刑務所にいるラッキー・ルチアーノに協力を要請しました。 1957年11月14日に幹部がニューヨーク州アパラチンに集合した際、FBIによる大量検挙で初めてマフィアは世に知られる存在となりました。 マフィアは、封建制から資本主義への移行と、イタリア統一期の混乱の中で生まれたといいます。 労働者を管理し抑えつける必要から生まれ、第二次大戦後の闇市や都市開発、さらには冷戦体制がこれを成長させました。 マフィアは資本主義国家とともに産み落とされ、政界や財界、司法の腐敗とともに、これに寄生しながら成長してきました。 2020年に突如襲った新型コロナウイルスの流行で、観光産業の被害の深刻さが浮き彫りになるとともに、この国らしい創意工夫が見られました。 環境、移民、貧困、さまざまな問題に取り組む団体が手を組んで、貧しい地区や移民の子たちが悪い組織にリクルートされないように、力を合わせようとしました。 そして、2022年春にロシアによるウクライナ侵攻が起き、紛争地帯からの不法な難民 や移民が押し寄せました。 その輸送はマフィアの中心的ビジネスであり、そこには武器の密売、国際的な資金洗浄がセットになっていました。 法務大臣は、大がかりなウクライナ難民の受け入れをめぐり、パンデミックの時期を教訓として、公的資金を狙った詐欺の横行や人身売買への警戒を強く呼びかけました。 パンデミックが落ち着いた後、私たちにとって、旅というものが以前よりずっと貴重なものになることは必至です。 マフィアの島が、今やオーガニックとエシカル消費の最先端へ向かっています。 みかじめ料不払い運動に反マフィア観光ツアー、有名ピザ屋が恐喝者を取り押さえ、押収された土地は、人気の有機ワイン農場に姿を変えました。 自然や芸術、おいしいものを満喫するだけではなく、旅をする地域も豊かにするようなエシカルな旅が人々を惹きつけていくことでしょう。 民主国家の重たい歩みにマフィアが寄生しているのならば、シチリアで今、始まった挑戦は、真の民主主義を実現していくための草の根運動だと言えるといいます。 次の世代のために故郷の島を変えていくことを諦めない人々のしなやかな闘いで、これから新しいシチリア人像が見られることになるでしょう。プロローグ 自由という名の男/第1章 町の負のイメージをいかに覆すか/第2章 マフィアは情報と戯れる/第3章 故郷のために命をかけた二人の判事/第4章 さよなら、みかじめ料運動/第5章 恐怖のマフィア博物館/第6章 押収地をオーガニックの畑に/第7章 食品偽装と震災復興/第8章 もう、そんな時代じゃない/エピローグ 民主主義とエシカル消費[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]シチリアの奇跡 マフィアからエシカルへ (新潮新書) [ 島村 菜津 ]中世シチリア王国の研究 異文化が交差する地中海世界 [ 高山博 ]
2023.06.25
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尋尊は1430年生まれの室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧で、大乗院門主です。 ”尋尊”(2021年10月 吉川弘文館刊 安田 次郎著)を読みました。 室町時代中期の僧侶で、時代の転換期に門跡の舵を取り、詳細な史料を書き残し、応仁文明の乱や明応の政変の動向や当時の社会・経済・文化を現代に伝えた、尋尊の生涯を紹介しています。 興福寺は奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つです。 藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺として中世にかけて強大な勢力を誇りました。 父親は一条兼良で、室町時代前期から後期にかけての公卿・古典学者です。 関白左大臣・一条経嗣の6男で、官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮でした。 尋尊は1438年に大乗院に入室し、2年後に得度、受戒しました。 1441年に大乗院門跡を継承し、1456年から1459年まで興福寺別当を務めました。 その日記”大乗院寺社雑事記”は、寺院経営だけでなく応仁・文明の乱前後の激動する社会を活写する史料として重要です。 また、年代記”大乗院日記目録”をまとめました。 安田次郎=ヤスダツグオさんは1950年奈良県生まれ、専攻は日本中世史で、1979年東京大学大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。 2002年に東大文学博士となり、お茶の水女子大学文教育学部助教授、同人間文化創成科学研究科教授を務め、2015年定年退任し、名誉教授となりました。 尋尊は興福寺180世別当、大乗院第20代門跡でした。 大乗院は興福寺にあった塔頭の一つで、1087年に藤原政兼の子の隆禅が創建しました。 その後、関白藤原師実の子・尋範が継承したことから、摂関家特に九条家系の勢力が強かったそうです。 第4代院主・信円の頃に門跡寺院とされ、中世には一乗院と並ぶ有力な塔頭で、門主は摂関家や将軍家の子弟から迎えていました。 尋尊は1438年に、室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院しました。 経覚は1395年生まれの法相宗の僧侶で、母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結びました。 興福寺別当である寺務大僧正を、4度務めたことでも知られています。 尋尊は1440年に得度し、維摩会研学竪義を遂げ、少僧都・大僧都を経て僧正に任じられ、1456年に興福寺別当に就任しました。 維摩会は仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の集まりで、奈良時代には宮中の御斎会・興福寺の維摩会・薬師寺の最勝会の3つの法会が重要視されました。 この3つの法会の講師を務めた僧は三会已講師と称され、この講師を務めることが僧綱に昇進するルートでした。 尋尊はのち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任しました。 1467年から1477年まで続いた応仁の乱では、父親兼良の日記”藤河ノ記”を兵火から守りました。 これは兼良の紀行文で、応仁の乱による混乱から奈良に避難していた作者が、家族に会うために美濃国へ往復した際の出来事や、歌枕に寄せた和歌などが記されています。 応仁の乱は、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の2大有力守護大名の対立を生んだ騒乱です。 やがて、幕府を東西2つに分ける大乱となって、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となり、戦国時代移行の大きな原因の一つとされます。 尋尊は大乗院に伝わる日記類を編纂し、”大乗院日記目録”を作成しました。 これは大乗院に伝来した日記類を、第27代門跡尋尊が編集した書物です。 全4巻、記録された範囲は1065年から1504年までに及んでいます。 原本は国立公文書館内閣文庫蔵で、1428年に起こった正長の土一揆などの大事件に関する記述があります。 尋尊は見聞したことを多くの記録に書き記しましたが、自身の日記”尋尊大僧正記”は興福寺に関することのみではなく、この時代を知る上での必須の史料です。 この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記を併せ”大乗院寺社雑事記”と呼ばれ、室町時代研究の根本史料の一つとなっています。 これは約190冊あり、原本は1450年から1527年までが現存し、国立公文書館が所蔵し、重要文化財に指定されています。 尋尊の母親は権中納言中御門宣俊の娘で、出生地は、南は一条大路、北は武者小路、西は町通り、東は室町通りに囲まれた一条殿で、現在「一条殿町」という地名が残っています。 生まれたとき、父は29歳、母は26歳で、ふたりはすでに3人の男子とひとりの女子を儲けていて、尋尊に摂関家のひとつである一条家の家督を継承する可能性はほとんどありませんでした。 興福寺の大乗院に入室することになったのは偶然といえますが、いずれ京都あるいは奈良の寺に入って僧として一生を送ることは最初からほぼ決まっていたといいます。 父親の兼良は、日本史教科書に必ずといっていいほど登場する有名人で、その一生は古典学者として日本の歴史の上に大きな足跡を残しました。 しかし、尋尊は教科書に名前が出てくることはまずなく、一般にはほとんど無名の存在です。 いわゆる英雄や偉人とは違いますが、尋尊もある意味で歴史の上に大きな足跡を残しました。 時代や社会が大きく室町時代から戦国時代に転換した時期に、応仁・文明の乱、明応の政変について、半世紀にわたる克明な日記”大乗院寺社雑事記”をはじめ、欠かすことができない膨大な史料を書き残しました。 その日記や著述物、書写・編纂したものなどは、この時代の政治、経済、社会、文化を解明するために欠かせないものですが、まだきちんと解読されていないものも多いそうです。 これらが活用されれば、さらに奥行きのある豊かな歴史が描かれるでしょう。 最近では遺跡や遺物、絵画、地名、伝承など多様な史料が駆使されて歴史研究は行なわれていますが、文献がもっとも雄弁な史料であることに変わりなく、尋尊の功績は計り知れません。 当時、大乗院はさまざまな危機のなかにあり、最大のものは荘園領主としての危機でした。 社会の基礎をなした荘園制は大きく揺らいでいて、荘園と末寺をつなぎ止めておくことは容易なことではありませんでした。 門主としての尋尊に課せられた役割は、大乗院をできるだけ本来の姿で次の世代に引き渡すことでした。 尋尊が日記をはじめとして多くのことを毎日筆記したのは、押し寄せる荒波から大乗院を守るためであり、必ずしもあったことを忠実に記録して後世に残すためというわけではありませんでした。 とすれば、尋尊の書き残した記事のなかには、大乗院の不利になるようなことは省かれ、あるいは都合よく書き換えられたものもあるかもしれないと考えなければなりません。 本書は、門跡繁昌のために超人的な努力を重ね、その結果として貴重な史料を膨大に残してくれた僧の一生を、その日記を主な材料にして描こうとするものです。はしがき/第1 一条若君/第2 興福寺別当/第3 門跡の経営/第4 応仁・文明の乱/第5 大御所時代/第6 内憂外患/一条家系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]尋尊(311) (人物叢書) [ 安田 次郎 ]興福寺のすべて 歴史・教え・美術 改訂新版 [ 多川 俊映 ]
2023.06.11
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築山殿=つきやまどのは徳川家康の正室だが、生年は不詳で実名は不明です。 1579年9月19日に亡くなった、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。 ”家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる”(2022年10月 平凡社刊 黒田 基樹著)を読みました。 築山殿は今川家の血脈を受け継ぎ、徳川家康の人質時代にその正室となりましたが、のちに武田家との内通疑惑があがり織田信長から死罪を命じられました。 そして、嫡男の信康とともに生涯の幕を閉じたその生涯を、本書が紹介しています。 瀬名の名があてられことがありますが、当時の史料にも江戸時代前期の史料にも瀬名の名はみられません。 築山の由来は岡崎市の地名で、具体的な場所は”岡崎東泉記”によると、岡崎城の北東約1キロほどに位置する、岡崎市久右衛門町であったとされます。 父親は関口親永(氏純とも言われる)、母親は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たります。 夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいと推測されています。 母親は井伊直平の娘で先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したといいます。 その場合、井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たります。 関口氏自体は、御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄でした。 家康(当時は松平元信、その後松平元康)が今川氏一門である関口氏の娘婿になったのは、今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していました。 築山殿に関する当時の史料はわずか一つだけで、その動向を伝えるものは江戸時代に成立した史料かほとんどです。 江戸時代がすすむにつれて、その動向は様々に伝えられるようになり、また解釈されていくようになったようです。 本書では、江戸時代の成立ではあるものの、できるだけ内容の信頼性が高い史料をもとに、その実像を明らかにしていきます。 黒田基樹さんは1965年生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程(日本史学)を単位取得満期退学しました。 1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授となり、2012年に教授となって、今日に至っています。 築山殿の生涯における最大の謎は、築山殿が家康に殺害された、とされていることでしょう。 嫡男松平信康もまた同時に家康に殺害されたものでした。 そのため、それは「築山殿事件」「築山殿・信康事件」あるいは「信康事件」などとも呼ばれています。 1579年7月16日に信長から家康に、築山殿と信康に謀反の疑いがあると通告があり死罪を命じられました。 それを訴え出たのは、信長の娘で信康の正室となっていた徳姫でした。 信康は家康の独立時には駿府にいて母の築山殿と取り残されましたが、まもなく救出されて岡崎城に入りました。 1563年に5歳で信長の娘・徳姫と婚約し、やがて元服して岡崎城を任ぜられました。 徳姫との間には2女を儲け、夫婦仲はよかったといいますが、やがて築山殿と徳姫が不和となると、最期は築山殿とともに謀反の嫌疑をかけられ、信長から死罪を命じられて自害しました。 徳姫がいつまでたっても息子を産まないため、心配した築山殿は、元武田家家臣で後に徳川家家臣となった浅原昌時の娘など、部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。 1579年に徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にした、築山殿と唐人医師・減敬との密通があった、武田家との内通があったなど、12か条からなる訴状を信長に送ったといいます。 築山殿は8月29日に自害を拒んだことから首をはねられ、信康は9月15日に二俣城で自害しました。 もう一人の子の亀姫は、1576年に家康が長篠の戦いで功をあげた旧武田家臣の奥平信昌に娶らせました。 亀姫は信昌との間に4人の男児と1女を設け、信昌の死後は剃髪して盛徳院と号しました。 おそらく、築山殿事件は家康にとっては寝耳に水の事態だったと思われます。 経緯についてはある程度は把握することかできていますが、真相を伝える史料は存在していません。 そのため事件の真相をめぐって、先行研究において様々な解釈か出されています。 その解釈は、詰まるところ、家康と築山殿・信康をめぐる政治環境をどのように理解するかによっています。 本書でも事件の真相に迫りますが、信頼性の高い史料にもとづいて事件の輪郭を描き出し、築山殿の立場を、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からしっかりと評価したい、といいます。 戦国大名家は、当主たる家長と、正妻たる「家」妻との共同運営体とみなされます。 そこでは正妻あるいは「家」妻が管轄する領域があり、その部分に関しては、当主あるいは家長であっても独断で処理できず、正妻あるいは「家」妻の了解のもとにすすめられたと考えられます。 戦国大名家の妻妾については、「正室」「側室」の用語か使用されることか多いですが、「側室」は江戸時代に展開された一夫一妻制のもと、妾のうち事実妻にあたるものについての呼称です。 しかし、戦国時代はまだそのような状況にはなく、当時は一夫多妻多妾制でした。 家康には正室・継室のほかに、16~20人を超える側室をかかえたとされています。 側室の多くは実は身分の低い者たちで、特に寵愛したのは名もない家柄の娘たちでした。 名家の出身者ばかりを側室にしていた豊臣秀吉とは対照的で、家康は出自には全くこだわらなかったようです。 たとえば、小督局=こごうのつぼねは家康の最初の側室とされ、家康二男・結城秀康の生母として知られます。 はじめは築山殿の侍女でしたが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたといいます。 築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ、これをたまたま見つけた家康の家臣の本多重次に保護され秀康を出産した、といいます。 また、秀康双子説もあり、当時双子は忌み嫌われていたことから母子ともに家康に疎まれたといいます。 西郷局=さいごうのつぼねは遠州の名もない家柄の娘で、通称はお愛の方といいます。 はじめは下級武士に嫁いで一男一女を設けましたが、夫が戦死し、のちに家康に見初められて側室となりました。 家康最愛の側室といわれ、江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもあります。 美人で温和な人柄といい、家康のほか、周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていたといいます。 築山殿の動向、そして殺害事件は、家康の正妻、徳川家の「家」妻という観点からみていくと、どのように理解することかできるかが、本書の眼目になります。 何事も、視点か転換すると違う様相がみえてきます。 これから、新たな視点をもとに、築山殿の生涯をたどっていくことにしたい、といいます。 これまでに築山殿の生涯をまとめた書籍かなかったわけではありません。 しかしそれらは、正妻や「家」妻についての研究が進捗していない段階のもので、依拠する史料も、江戸時代成立のものについて、内容の信頼性の高さ低さを区別なく用いられていました。 本書では、現在の研究水準をもとに、信頼性の高い史料によりながら、築山殿の生涯を描き出すことをこころがけた、といいます。第1章 築山殿の系譜と結婚(「築山殿」の呼び名/築山殿の父は誰か ほか)/第2章 駿府から岡崎へ(松平竹千代(徳川家康)の登場/竹千代「人質」説の疑問 ほか)/第3章 家康との別居(嫡男竹千代の岡崎帰還/諸史料が伝える人質交換 ほか)/第4章 岡崎城主・信康(岡崎城主としての信康の立場/信康の初陣はいつか ほか)/第5章 信康事件と築山殿の死去(家康による武田家への反撃/信康の悪行のはじまり ほか) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]家康の正妻 築山殿(1014;1014) 悲劇の生涯をたどる (平凡社新書) [ 黒田 基樹 ]【中古】 築山殿無残/講談社/阿井景子 / 阿井 景子 / 講談社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2023.05.27
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畠山重忠は1164年生まれ、平安時代の終わり頃から鎌倉時代のはじめにかけて活躍した武蔵国を代表する武将で、大族秩父氏の一族で、畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子です。 ”中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流”(2018年11月 吉川弘文館刊 清水 亮著)を読みました。 平安時代末に武蔵国男衾郡畠山、現在の深谷市を本拠として、武勇に優れ清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と称された、有力御家人の畠山重忠の生涯を紹介しています。 源頼朝の挙兵にあたり、はじめ平家方について三浦氏を攻めましたが、のち帰順して平家追撃軍に加わり各地に転戦しました。 治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。 1187年の梶原景時の讒言によって、謀反の罪を着せられそうになりましたが、謀反を企てているとの風聞が立つのは武士の眉目と語って、嫌疑を一蹴したといいます。 1205年に平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の陰謀にまきこまれ、子の重保が鎌倉由比ヶ浜に誘殺され、ついで重忠にも大軍がさし向けられました。 このとき重忠は本領に帰って、決戦を勧める郎党の言を制し寡勢でこの大軍を迎え撃ち、一族郎党とともに討死したと言われます。 清水亮さんは1974年神奈川県生まれ、1996年に慶應義塾大学文学部を卒業し、2002年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学しました。 2005年に学位論文により早稲田大学より博士号(文学)を授与され、2007年より埼玉大学教育学部准教授を務めています。 畠山氏は坂東八平氏の一つの秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷、現在の埼玉県深谷市畠山を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがあります。 多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていましたが、父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えました。 1180年8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵しました。 この時、父・重能が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かいました。 23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走し、相模国まで来ていた畠山勢は頼朝方の三浦勢と遭遇し合戦となり、双方に死者を出して兵を引きました。 26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡しました。 重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取りました。 その後9月に頼朝が安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えた大軍で房総半島に進軍し武蔵国に入りました。 すると10月に重忠は、河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏しました。 重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍し、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入りました。 1183年に平家を追い払って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の源範頼と義経に6万騎を与えて近江国へ進出させました。 翌年正月に、鎌倉軍と義仲軍が宇治川と勢多で衝突し、義経の搦手に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏を組んで真っ先に宇治川を押し渡りました。 宇治川の戦いで範頼、義経の鎌倉軍は勝利し、義仲は滅びました。 1184年2月に、範頼と義経は摂津国福原まで復帰していた平家を討つべく京を発向し、重忠は範頼の大手に属していました。 一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れました。 その後、頼朝は範頼に大軍を預けて中国・九州へ遠征させましたが、 『吾妻鏡』ではこの軍の中に重忠の名は見当ないそうです。 1185年3月に、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。 その後、頼朝と義経は対立し、義経は京で挙兵しましたが失敗して逃亡しました。 義経の舅の河越重頼は連座して誅殺され、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承しました。 1186年に義経の愛妾の静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めました。 1187年に、重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨で彼の代官が狼藉をはたらいたため、重忠の身柄は千葉胤正に囚人として預けられました。 頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免しましたが、重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると侍所所司の梶原景時がこれを怪しみ謀反の疑いありと讒言しました。 頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか審議しましたが、小山朝政が重忠を弁護し、とりあえず、下河辺行平が使者として派遣されることになりました。 行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとしましたが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得しました。 景時が取り調べにあたり、起請文を差し出すように求めましたが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張ったそうです。 これを景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与えて帰しました。 1189年夏の奥州合戦で先陣を務め勝利し、藤原泰衡は平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅びました。 奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられました。 1190年に頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしました。 1193年に武蔵国の丹党と児玉党の両武士団の間に確執が生じ、合戦になる直前にまでおちいった際に仲裁に入り、和平をさせ国内の開戦を防ぎました。 1199年正月の頼朝の死去に際し、重忠は子孫を守護するように遺言を受けたといいます。 1203年の比企能員の変では、重忠は北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼしました。 畠山氏が成立した12世紀前半~中葉は、日本中世の成立期にあたります。 この時期、日本列島各地に荘園が形成される一方、各国の国府の行政組織が管轄する公領も、中世なりの郡・郷として確定されていきました。 荘園と公領が一国内に併存し支配の単位として機能した荘園公領制を基盤として、中世前期の支配システムである荘園制が成立しました。 そして、中世前期の在地領主は都鄙間に立脚して所領を支配し、その所領を超えた地域の住民に影響力を行使する存在でした。 ですが、全ての武士が在地領主であったわけでも、在地領主の全てが武士であったわけでもありません。 武士とは武芸を家業とする職業身分であり、地方の所領に本拠を形成し、収益を取得する在地領主とは、そもそも異なります。 本書では、近年の武士研究・在地領主研究の達成をふまえ、武士(団)・在地領主としての畠山重忠・畠山氏のあり方をできる限り具体的に示すことを目指すといいます。 畠山重忠の振る舞い・言説に関する史料は多く残されていますが、そのほとんどは鎌倉末期に成立した 『吾妻鏡』や、 『平家物語 『諸本の記事です。 在世中においても一流の武士としての評価を得ながら、北条時政らのフレームアップによって非業の死を遂げた重忠の振る舞いの言説については、 『吾妻鏡』編者などによる賛美(曲筆)の可能性が古くから指摘されてきました。 本書でも、 『吾妻鏡』 『平家物語』諸本に記された重忠の振る舞い・言説の一つ一つを、無前提に事実としない自制を心がけたいとのことです。 本書ではこのようなスタンスのもと、 『吾妻鏡』 『平家物語』諸本の記事に加え、諸系図や考古学の成果・現地調査の成果などを援用することによって、武士団・在地領主としての畠山氏のあり方に迫っていきたいといいます。畠山重忠のスタンスープロローグ/秩父平氏の展開と中世の開幕(秩父平氏の形成/秩父重綱の時代)/畠山重能・重忠父子のサバイバル(畠山氏の成立と大蔵合戦/畠山重忠の登場)/豪族的武士としての畠山重忠(源頼朝と畠山重忠/在地領主としての畠山氏)/重忠の滅亡と畠山氏の再生(鎌倉幕府の政争と重忠/重忠の継承者たち )/畠山重忠・畠山氏の面貌ーエピローグ/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]中世武士 畠山重忠(477) 秩父平氏の嫡流 [ 清水 亮 ]畠山重忠
2023.05.13
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里見義尭=さとみよしたかは1507年に里見実尭の子として生まれ、字は権七郎といい、のち入道して岱叟正五と号しました。 庶家ながら、1534年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪いました。 1537年に北条氏と手切れし以後40年におよぶ対立を続け、上総へ進出してからは久留里城を本拠として、三浦・下総へも進出して勇名をはせました。 ”里見義尭”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)を読みました。 安房・上総を基盤に庶家に生まれながらも一族の内乱に勝利し、家督を継ぎ里見氏の最盛期を築いた、戦国大名の里見義尭の生涯を紹介しています。 上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返し上総支配を固め、戦国大名として里見氏を発展させました。 滝川恒昭さんは1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了しました。 千葉県公立高等学校教員を経て、現在、千葉経済大学非常勤講師を務めています。 里見義堯は安房里見氏の第5代当主の安房の戦国大名で、父親は里見実堯、母親は佐久間盛氏の娘です。 幼名は権七郎といい、官職は刑部少輔で、正室は土岐為頼の娘、子に義弘、堯元、堯次、義政がいます。 いまの千葉県南部から中央部にあたる安房・上総の二ヵ国を基盤に、子息義弘とともに戦国大名里見氏の最盛期を築きました。 中国地方の戦国大名毛利元就、大内義隆などとほぼ同時代の人で、関東で関わりのあった大名では、北条氏康より8歳、武田信玄よりは14歳、上杉謙信よりは23歳年長です。 1533年7月に、里見氏の家中で内紛が発生し、後北条氏と通じていた父実堯が従兄の本家当主義豊に殺されました。 これは稲村の変とか天文の内訌とか言われ、義豊が叔父の里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子の里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討ったとされています。 ですが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになったといいます。 実堯・義堯父子が仇敵である北条氏綱と結んだクーデターの動きに、義豊が対抗しようとした動きであったと考えられています。 氏綱の軍を借りてクーデターに成功しましたが、真里谷信清が死去して真里谷氏で家督をめぐる抗争が起こると、義堯は真里谷信応を、氏綱は真里谷信隆を支持したため、氏綱と敵対関係になりました。 しかし義堯は関東に勢力を拡大していた氏綱に単独で挑むことは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結んで対抗しました。 そして、1537年に真里谷信隆を攻めて降伏させました。 1538年の第一次国府台合戦で義堯も戦闘に参加しましたが、大将は足利義明であったこともあって、里見軍の主力はあまり積極的に戦いませんでした。 結果として、義明の戦死は義堯にとって関東中央部への飛躍の機会となりました。 義明の死後、義堯は味方側であった下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げました。 1552年に、北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生しました。 1554年に氏康と今川義元、武田信玄との間で、三国同盟が締結されました。 氏康は1553年4月より北条綱成や北条氏尭を派遣して、毎年のように房総半島に侵攻して、沿岸の金谷城や佐貫城を攻略しました。 1555年には、上総西部のほとんどが後北条氏に奪われることになりました。 この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図りました。 越後の上杉謙信と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せました。 1556年には里見水軍を率いて北条水軍と戦い、三浦三崎の戦い勝利しました。 1560年に氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻しました。 1562年に剃髪し入道して、家督を子の義弘に譲って隠居しましたが、なおも実権は握り続けていました。 1564年に北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃ちました。 緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取りましたが、翌明け方に氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死し、第二次国府台合戦に敗戦を喫しました。 これにより義堯・義弘父子は、上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなりました。 しかしその後、義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回しました。 1566年末頃までに、久留里城・佐貫城などの失地は回復しました。 これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗しました。 1567年8月に、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲しました。 北条氏康は嫡男氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へ向かわせました。 これに対し義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破りました。 水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は、三浦口より安房へ侵入しようと試みましたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出しました。 これらの情勢により、水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなりました。 この三船山での勝利により、里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになりました。 その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれましたが、義堯は1574年に久留里城にて享年68歳で死去しました。 里見氏の存在自体はいまもよく知られています。 それは江戸時代後期の大ベストセラー、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の影響によるものです。 「八犬伝」は、いまなお歌舞伎・演劇・映画・テレビの題材のみならず、その全体構図や登場人物は姿や形を変えて、アニメ・ゲームといった多様なジャンルのストーリーやキャラクターとして再生産され続けています。 したがって、いま一般にイメージされる里見氏像といえば、「八犬伝」をペースにしたものに、江戸時代以降の人々の想像や願望で作られた系図一軍記などの物語の要素が加味されました。 これはさまざまな事情が積み重ねられて出来上がった、まったく虚構の姿となっていますが、反面、里見義尭の存在はもとより、戦国大名里見氏の正確な歴史はほとんど知られていません。 これまで大野太平さんや川名登さんなどによって、房総里見氏の歴史を解明し、架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた里見氏の歴史像を描こうとしてきました。 本書もこの路線を継承するなかで、里見義尭の生涯と人物像、さらにその時代を、史料に即して描こうとしたといいます。 しかし、房総里見氏初代とされる義実から義豊まで数代あったはずなのに、その関係史料もほとんどといってよいほど残っていません。 また、義尭は本来なら里見家家督にも、ましてや歴史に名を残すようなことはなかったはずの人物です。 ですが、一族内の権力闘争から発展した内乱の最終的な勝者となって、歴史の表舞台に登場し、以降この義尭を祖とする系統が里見氏の嫡流となりました。 それだけに後世の里見氏継承者からも、義尭はまさに特別な存在として後々まで意識されました。 そのようなことから、義尭が滅ぼした嫡流の系統を前期里見氏、義尭以降の里見氏を後期里見氏と分けて考えることを提唱したといいます。はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏)/あとがき/里見家略系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【新品】里見義堯 滝川恒昭/著里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ]
2023.04.29
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黒田孝高=くろだよしたかは1546年播磨国の姫路生まれ、諱は初め祐隆、孝隆、のち孝高といいました。 通称をとった黒田官兵衛=かんべえ、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水=じょすいとして知られています。 ”黒田孝高”(2022年9 吉川弘文館刊 中野 等著)を読みました。 播磨国に生まれ毛利攻めをすすめる織田信長に接近し、のちに豊臣秀吉に臣従しました。 九州平定後の豊前を支配し、領国経営に励んだ官兵衛、如水の号で知られる、黒田孝高の生涯を紹介しています。 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、軍師であり、また、洗礼名ドン・シメオンというキリシタン大名でもありました。 軍事的才能に優れ、戦国の三英傑に重用され、特に豊臣秀吉の側近として、調略や他大名との交渉などで活躍し、のち、筑前国福岡藩祖となりました。 秀吉の参謀と評され、後世、竹中半兵衛とともに、両兵衛、二兵衛と並び称されました。 ただし、このような評価は必ずしも学術的な裏づけをもつものではないという見解もあります。 1589年に子の長政に豊前の所領12万石を譲りましたが、なおも秀吉に用いられ、朝鮮出兵にも参加しました。 秀吉没後に石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは長政を関ヶ原に出陣させ、みずからは豊前に残って大友義統を滅ぼし三成派を一掃しました。 中野 等さんは1958福岡県嘉穂郡生まれ、1985年に九州大学大学院文学研究科博士後期課程を中退し、1995年に豊臣政権の研究で文学博士となりました。 柳川古文書館学芸員、九州大学大学院比較社会文化研究院助教授を経て、2006年より九州教授となりました。 黒田氏は賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村、現在の滋賀県長浜市木之本町黒田の出身とされますが、定かではありません。 孝高の祖父の重隆の代に、備前国邑久郡福岡村から播磨国に入りました。 龍野城主の赤松政秀、後に守護の赤松晴政の重臣で、御着城を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職、政職父子に仕えました。 小寺氏は黒田氏を高く評価し、1545年に重隆を姫路城代に任じました。 重隆の子の職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせました。 孝高は職隆の嫡男として、播磨国の姫路に生まれました。 1561年に小寺政職の近習となり、1562年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾り、この年から小寺官兵衛を名乗っています。 1567年頃、孝高は父の職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光=てるを正室に迎え、姫路城代となりました。 また、従兄弟の明石則実との同盟を結びました。 1568年9月に、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となりました。 1569年に、毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが、再興のために決起しました。 尼子勝久を擁して、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、元就の背後をつく形でした。 元就は義昭に救援を要請し、祐豊に対して木下秀吉が率いる2万の兵が差し向けられました。 さらに、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3、000の兵を率いて攻め込んできました。 政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しかありませんでした。 しかし、奇襲攻撃などで2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功しました。 政秀は浦上宗景に攻められ降伏し、この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になり始めました。 1573年に、包囲網は甲斐国の武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返しました。 4月に東播磨の三木城主の別所長治が攻めこんで来て、7月に内紛により三好氏の篠原長房が討死しました。 9月に信長が浅井長政を討って義昭を追放し、12月に浦上宗景が信長と和睦しました。 1575年に、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君の小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言しました。 7月に羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀を授かりました。 さらに年明けには政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させました。 一方、9月に浦上宗景が宇喜多直家に敗れ、小寺氏の元に落ち延びてきました。 1576年1月に、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して、信長より離反しました。 2月に義昭は、毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れました。 4月に信長と本願寺の和睦が決裂し、7月に輝元の叔父の小早川隆景配下の水軍の将の浦宗勝が、信長の水軍を破りました。 1577年5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させました。 孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5、000の兵を退けました。 この戦いの後、長男の松寿丸を人質として信長の元へ送りました。 10月に、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させました。 孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで、姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供しました。 そして自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになりました。 1578年に、荒木村重が信長に背いたとき、単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たりましたが、捕らえられて城中に抑留されました。 翌年、信長により有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉に重く用いられることになりました。 小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころです。 1582年に清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策しました。 本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、天下を取る好機とけしかけたといわれています。 その後、山崎の戦、賤ケ岳の戦、そして四国攻めと戦功をあげ、1586年に秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り、九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行いました。 九州攻め後、豊前中津城12万石を与えられましたが、1589年に家督を子長政に譲ったものの、まったく隠居したわけではなく、翌年の小田原攻めにも軍師として従軍しました。 1600年の関ケ原の戦のときは、子の長政と共に東軍に属し、長政は家康に従って関ケ原に出陣していました。 豊後中津城で留守を守っていた孝高は、浪人を傭い入れ、旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦って破りました。 関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から、筑前国名島52万石への大幅に加増し移封しました。 その後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示しました。 しかし、如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送りました。 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えました。 また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に療養滞在しました。 1604年4月19日の辰の刻、京都伏見藩邸にて享年59歳で死去しました。 今日、「軍師」として語られる人物の多くは、江戸期に隆盛した軍学の始祖に位置づけられています。 実際の戦場体験から会得された戦法や陣方を基に理念的な整理され、体系化され軍学が成立し、甲州流・越後流・北条流・長沼流などさまざまな流派として伝授されました。 「軍師」はその体現者として、実際の戦という史実と、理念が求めた虚構の間に、位置づけられました。 いずれにしろ、「軍師」という概念は黒田孝高にとっても後世のものにすぎず、その人物を評するあたって前提におくべきものではありません。 今日の孝高像が創られる上で規定的な役割を果たしたのが、貝原益軒の編著「黒田家譜」でしょう。 貝原益軒は、福岡黒田家に仕えた儒学者でした。 1671年に、孝高の曽孫にあたる福岡黒田家の三代光之は、益軒に黒田家の家史編纂を命じました。 この益軒が17年間をかけて完成させたのが「黒田家譜」16巻です。 今日からみても有用な書物ですが、孝高の没後7、80年を経ての著述であり、また、黒田家の「正史」であるがゆえの限界は否定できません。 説話的教訓的な要素もあると考えられ、史実としての信憑性は必ずしも高くありません。 「黒田官兵衛」ないし「黒田如水」のイメージは、史実とは別次元の場で増幅され、再生産されたと思われます。 とはいえ、一次史料の伝存状況に限りがあることは否めません。 こうした欠を幾分かでも補うため、本書では幕末から明治にかけて活躍した長野誠の遺業に大きく依拠したといいます。 長野誠は、福岡黒田家に仕える長野家の養子となり、幕末の福岡黒田家で、学問所本役や軍事御用1891右筆格などを務めた人物です。 福岡黒田家11代当主の長溥から依頼をうけて、黒田家の家史編纂に従い、1891年に享年84歳で没しました。 本書の目的は、虚実交々に語られてきた黒田孝高の生涯を、当時の一次史料から追い、それをもとに人物像を再構築することにあるといいます。はじめに/播磨・黒田家(孝高の出自と戦国時代の播磨/孝高の祖父重隆/孝高の父職隆)/小寺家の家臣として(孝高の登場/織田と毛利のはざまで/家督継承と織田家への接近/別所長治の謀反/摂津有岡城での幽囚/摂津・播磨の状況)/羽柴秀吉への臣従(黒田苗字に復す/秀吉のもとで/本能寺の変/織田家中の争いと毛利家との対峙)/中国・四国経略(毛利家との領界交渉/小牧合戦と紀州平定/四国出兵/孝高の洗礼)/九州平定(先駆けとしての九州出勢/豊前国内での転戦/日向への侵攻)以下細目略/豊前での領国支配と家督移譲/失意の朝鮮出兵/再起を期した「関ヶ原」/孝高の晩年と慰め/孝高の死/むすびにかえて―その後の黒田家/黒田孝高関係系図/略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]黒田孝高(315) (人物叢書) [ 中野 等 ]黒田如水 (福岡市文学館選書) [ 福本日南 ]
2023.04.29
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お市の方=おいちのかたは、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、小谷の方=おだにのかた、小谷殿とも称されます。 名は通説では「於市」で、「お市姫」「お市御料人」とも言い、別の資料には「秀子」という名も見られます。 ”お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治”(2023年1月 朝日新聞出版刊 黒田 基樹著)を読みました。 織田信長の妹で浅井長政との結婚し柴田勝家と再婚した天下一の美人とされるお市の方の、初めての評伝です。 織田信長の妹として、さらには「天下一の美人」と評された、戦国一の美女として知られています。 その意味で戦国時代の女性としてもっとも著名な一人といえるかもしれませんが、動向を伝える史料は極めて少なく、その生涯については概略しかわかりません。 著名にもかかわらず、実像はほとんど判明しないため、お市の方についての評伝書は、これまでほとんど見られませんでした。 史料が少なく実像も明らかにならないにもかかわらず本書で本格的に取り上げるのは、お市の方の織田家における政治的地位に注目したいからだといいます。 とくに信長死後におけるお市の方の地位が重要なのだろう、と考えられます。 家老筆頭の柴田勝家と結婚し、死後に茶々、初、江の三人の娘が豊臣秀吉に引き取られ、やがて茶々は秀吉の別妻になり秀吉の嫡男の生母になりました。 お市の方は織田家でどのような政治的立場に置かれていたのでしょうか、浅井長政との結婚、柴田勝家との再婚の歴史的・政治的な意味とはどのようなものでしょうか。 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程を単位取得満期退学しました。 1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり今日に至ります。 専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開しています。 歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。 お市の方について、前半生はほとんど記録がなく不明で、実名も一次史料には見られず定かではありません。 通説では、1547年に尾張那古野城内で生まれたとされています。 戦国大名の織田信長の妹または従妹で、信長とは13歳離れています。 通説では、父は織田信秀でその五女と伝えられ、母は土田御前とされています。 しかし、生母については不詳で、土田御前を生母とする説では、信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になります。 子に豊臣秀吉側室の茶々、京極高次正室の初、徳川秀忠継室の江がいます。 孫にあたる人物には、豊臣秀頼、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子などがあります。 江の娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となりました。 婚姻時期については諸説あり、古くは1564年と考えられてきました。 浅井長政は戦国時代の武将であり、北近江の戦国大名で浅井氏の3代目にして最後の当主です。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていました。 1565年12月に和田惟政が織田と浅井両家の縁組に奔走したものの、長政側の賛同を得られずに一度頓挫しました。 婚姻は次の機会の、1567年9月または1568年1月から3月ごろであったとされます。 このころ長政側から急ぎ美濃福束城主の市橋長利を介して、信長に同盟を求めてきたとされ、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされます。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結びました。 その後、長政との間に、茶々、初、江の3人の娘を設けました。 なお、この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られていますが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられています。 1570年に信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶しました。 しかし、政略結婚ではありましたが、長政と市の夫婦仲は良かったようです。 なお、江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したという説があります。 長政が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、長政とその父の久政も信長に敗れ自害しました。 市は3人の娘と共に、藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られました。 その後は、従来は市と三姉妹は伊賀国の兄の信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされましたが、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説も出ています。 この説では、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は、信長の岐阜城へ転居したことになります。 柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名で、織田氏の宿老であり、主君の織田信長に従い天下統一事業に貢献しました。 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。 明智光秀を討伐した秀吉が、信長の嫡孫の三法師、後の織田秀信を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。 ただし近年、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催は三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されているといいます。 この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。 従来は信孝の仲介とされてきましたが、勝家のお市への意向を汲んで、秀吉が動いたと指摘されています。 清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まりました。 勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで、秀吉と対抗しました。 ですが、秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔しました。 次に、岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させました。 1583年3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙しました。 事前に勝家は、足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を出しましたが、義昭では既に時代に合わずうまくいきませんでした。 4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めました。 しかし、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害しました。 お市の方は、戦国時代の女性としてもっとも著名な一人です。 そのエピソードとして、「天下一の美人」と評されたこと、兄信長に夫長政の離叛を密かに伝えた小豆袋の話がよく知られています。 また信長の死後に、羽柴秀吉がお市の方に想いを寄せていたという話もあるといいます。 しかしそれらのエピソードは、当時の史料によるのではなく、後世成立のものにみられています。 それらが事実かどうか、きっちり検証する必要があるでしょう。 当時の状況を伝える信頼性の高い史料に、「渓心院文」と「柴田合戦記」があります。 そこでは、長政との死別については、「御くやしく」思っていたと、また「ことの外御うつくしく」と、記されているといいます。 そして、柴田勝家と死をともにすることについて、「たとい女人たりと雖も、こころは男子に劣るべからず」と発言したそうです。 そこからは、「美しさ」とともに、非常に信念の強い女性であったことが伺えます。 本書においては、当時の史料、あるいは当時の状況を伝える信頼性の高い史料を中心にして、お市の方の生涯をたどることにしたいといいます。 そのなかでお市の方が、織田家においてどのような政治的地位にあったのか、それが生涯をどのように規定し、また三人の娘の生涯に影響を及ぼしたのか、考えていくことにしたいとのことです。 こうしたことから本書は、お市の方について本格的に検討する、初めての書籍となるでしょう。 巻末には、お市の方に関する重要史料二編を収録しました。 お市の方に関する史料は少ない中、重要にもかかわらず全体を容易に参照できない状態にある史料が存在しています。 お市の方についての記述は一部分にすぎませんが、史料の性格を認識するためには全体の把握が必要になります。 そこで一般の人々や、これからの研究のための便宜をはかって、二編について全文を収録することにしたとのことです。 今後の関連研究の進展に寄与することは間違いないでしょう。 お市の方の生涯については、現状において可能な限り解明することはできたと思いますが、一方で、関連する事柄について課題ばかりが認識されるものとなったといいます。 今後、信長の一族や家族についての解明がすすんでいけば、本書での想定についても考え直さなければならないことも出てくるかもしれません。 それらについての解明が本格的に進展していくことを期待したいといいます。第1章 お市の方の織田家での立場(「お市の方」の呼び名/本名は「いち」/「いち」は「市」であったか/お市の方の姉妹たち/確実に確認できる信秀の娘たち/生年は何年か/姉妹のなかでの長幼関係/母はどのような存在か/信長の養女となったか)/第2章 浅井長政との結婚(結婚に関する唯一の史料/結婚の経緯/浅井長政の前半生/長政は戦国大名か、国衆か/長政と織田信長との関係/三人の娘を生む/小豆袋の話の真実/小谷城からの退去)/第3章 柴田勝家との結婚(織田家での庇護者/柴田勝家と結婚する/なぜ勝家を結婚したのか/信長百日忌主催の意味/お市の方の覚悟/三人の娘を秀吉に引き渡す/お市の方の最期/「天下一の美人」は本当か)/第4章 三人の娘の結婚(秀吉の庇護をうける/秀吉から茶々に結婚の申し入れ/江と佐治信吉の結婚は事実か/初と京極高次の結婚/江と羽柴秀勝の結婚/茶々は秀吉の別妻になる/江と徳川秀忠の結婚)/史料集 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治 (朝日新書895) [ 黒田基樹 ]流星 お市の方上 (文春文庫) [ 永井 路子 ]
2023.04.01
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16世紀後半以降に日本人は南方各地に進出し、最盛期の住人は、マニラに 3000人、アユタヤ (シャム) に山田長政以下1500人を数え、プノンペンにも町を構成しました。 ”南洋の日本人町”(2022年7月 平凡社刊 太田 尚樹著)wp読みました。 17世紀初頭の朱印船貿易に伴って船員、貿易商人、牢人、キリスト教信徒らが多数海外に進出し、東南アジア各地に集団部落を構成した、日本人町の歴史を探索しています。 同じ頃バタビアなどで現地民と雑居して町を形成している場合は、日本町と呼びません。 江戸幕府の鎖国政策後,次第に衰退しました。 明治の世が始まると、閉塞感を打ち破るかのように、多くの人々が海外へと飛び出していきました。 その中には、成功をおさめて現地にその名を残す者のほか、人知れず無縁墓地に眠る者たちも数多く存在しました。 日本の海外進出の先遣隊として南洋に渡った人々は、大戦に翻弄されながらいかに生きたのでしょうか。 太田尚樹さんは1941年東京生まれ、戦争のため神奈川県に疎開し、そこで育ちました。 1964年に東京海洋大学を卒業し、1965年に同大学専攻科を修了しました。 1967年にカリフォルニア州立サンフランシスコ大学に入学し、1970年に単位満了により卒業し、カリフォルニア大学バークレー校大学院に入学しました。 1972年に交換制度によりマドリッド大学に転学し、社会学diplomaを修得しました。 1977年に東海大学に奉職し、1983年に東海大学外国語教育センター助教授を経て、教授になり、2005年に定年退職しました。 現在、同大学名誉教授で、専門は南欧文明史でしたが、近年は昭和の日本史をテーマとするノンフィクションの分野における活動が続いています。 欧米から極東と言われていた東洋の一画にある日本は、狭い国土に多くの民を抱え、資源の乏しい島国でした。 それでも四方を海で囲まれていますので、当然ながら日本人は海の向こうを意識しました。 そこで視野に入ってきたのが、かつて南洋と呼ばれた現在の東南アジアの国々でした。 だがそこには日本よりも先に、大航海時代の大波と余波に乗って、スペイン、ポルトガル、オランダの南蛮諸国に加え、イギリスも進出を果たしていました。 その勢いをかって南蛮船が渡来するようになったことも、日本側には刺激になりました。 そこで日本でも、幕府の直轄領であった大阪・堺の商人に貿易させたり、九州のキリシタン大名か朱印船を送り込みました。 これが、本書で扱ったフィリピン・ルソンのマニラ、ベトナムのホイアン、タイのアユタヤ、そしてマレーシアのマラッカでした。 これらの地で交易がおこなわれた結果、必然的に日本人町が形成されました。 ですが鎖国によって船も人間の往来もなくなり、人員の補給もできなくなって日本人社会は消滅してしまいました。 時代が明治に入って開国されると、志ある者は個々に南洋へ雄飛していきました。 それは脱亜入欧思想の反動として起きた、日本と近隣アジア諸国との関係強化を命題にした興亜論の先兵たちでした。 時期を同じくして郷里の貧しさと「幸せは南洋にあり」の空気に後押しされて、長崎や熊本の「カラユキさん」と呼ばれた若い娘たちも海を渡っていきました。 住み着いたのはシンガポールとマレーシアのペナン、サンダカンであり、そしてフィリピンのマニラ、ダバオの日本人町でした。 明治初期以後に芽生えた南進論は、日清・日露戦争の勝利によって欧米との対立構造と国際的な孤立を生むことになりました。 さらにこの思想は昭和初期になると、孫文や犬養毅、頭山満らの主張する欧米の支配を排除し、「アジアはアジア人の手で」という大アジア主義によって鮮明度を増しました。 南洋への関与はいくつかの形で足跡を遺してきましたが、戦前の日本でいわれた「南進論」は、概念において二分されていたとみることかできます。 女性も含めた経済活動の先鋒をつとめた日本人の南方進出と、日米開戦前夜に熱い視線を集めた、武力を背景にして現地の豊富な天然資源を獲りにゆく南進論です。 後者の南進論については、結果的にこの国策は南洋の日本人町だけにとどまらず、現地の人にも悲劇をもたらすことになりました。 それとはまったく別に、マニラやアユタヤ、ホイアンにみられたように、鎖国以前から、交易基地としての日本人町が形成されていた事実もありました。 なかでも朱印船の活動による南蛮貿易は、戦国大名たちや徳川幕府による積極的経済活動を担ってきましたが、渡来品にむけた諸大名の熱い視線をうけて、藩の財政を潤してきました。 ですが鎖国が解けて明治の世が明けると、それまで各藩に分かれていた縦割りの組織が崩れ、曲がりなりにも新国家日本がスタートすると、民の姿勢も変わってきました。 かけがえのない人生を、南洋各地に「夢」という、ときに実体感をともなわない玉虫色の未来に駆けだしていった人々が、次々と出現しました。 200年もの間、鎖国で閉塞していた日本には、外に向けたとてつもないエネルギーが溜まり、熱いマグマとなって流れでる現象か起きました。 近代に向かう変革の胎動は、志ある人々を着実に突き動かしたのです。 海外雄飛、それはいずれも外向きの好奇心と夢をもった人間たちでした。 そのなかに、禄を失い刀をそろばんにもち替えた侍、南方の資源を商った一獲千金を夢みる商人、伝統の技を新天地で生かそうとする職人だちがいました。 明治政府にとっても、それは資源保有と貿易拡大の先遣部隊であり、情報収集の協力者でもありました。 その一方で、貧しさから家族を救うために、異国に出ていく娘たちもいました。 娘子軍または、カラユキさんといわれた娘たちです。 南洋に渡ったカラユキさんたちは、もとはといえば「幸せは南の島に宿る」と信じ、冒険心、一旗揚げたい野望に抗しきれなくなり、南に漕ぎ出した人々です。 男たちの出身地がまちまちなのに比べ、女性たちは長崎、熊本の人が多いです。 長崎、熊本には港町があるだけでなく、南蛮渡来の切支丹を受け入れたように、南洋的精神風土があったということなのでしょうか。 そして日本は、「アジア人の手で」がいつのまにか「アジアの盟主として」に変わってしまい、勢いに乗った軍閥の指導で大東亜共栄圏構想となってしまいました。 日米開戦が近づいた1940年7月の第二次近衛内閣で決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」で、武力行使を含む南進政策という国策となりました。 興亜論に端を発した南進論は、南方資源の獲得を柱にした南進論となって、ついに武力進出まできてしまい、太平洋戦争となりました。 現在、東南アジアと呼ばれている地域は、戦前は南洋といういい方をしました。 現在のいい方は、主として戦後になってからの連合軍の借りものです。 戦後は東南アジア諸国への賠償からはじまり、高度経済成長の波に乗って日本企業の現地進出となりましたが、日本人町はできませんでしたし、今後もないでしょう。 世界に広くみられる中国人街の場合は、祖国を捨てた移住型であり、長い歴史のなかで現地に中国人独自のコミュニティーを作ってきたことにあります。 日本が貧しかった時代と違い、日本人には中国人のような祖国の変貌には目も向けない小国の建設という思考はありません。 中国人とは土着性への感性も精神構造も違っていますので、かつての日本人町のような社会を形成することはないでしょうし、またその必要もありません。 それでも東南アジアヘの企業進出はますますつづき、さらなる東南アジアから日本へ来る労働者の受け入れもつづくでしょう。 そんな時代であるからこそ、かつて先人が造った日本人町の歴史に関心を持っていただければ幸いだ、といいます。序章 南洋進出の先兵たち/第1章 シンガポールの日本人町/第2章 マレー半島に足跡を刻んだ日本人たち/第3章 コスモポリタンの街ペナン/第4章 日本を魅了したボルネオ島/第5章 ルソン貿易の基地マニラーマニラ日本人町の先駆者たち/第6章 マニラ麻で栄えたダバオの光と影/第7章 鎖国以前からあったベトナムの日本人町/第8章 山田長政がいたタイ・アユタヤ [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]南洋の日本人町(1007;1007) (平凡社新書) [ 太田 尚樹 ]【中古】 アジアの日本人町歩き旅 / 下川 裕治 / KADOKAWA/中経出版 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2023.03.04
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夏になってインド洋東部熱帯域で南東貿易風が強まると、東風によって高温の海水が西側へ移動し、深海からの冷たい湧昇や海面からの蒸発によって海水温が低下します。 一方、インド洋西部では、東から運ばれた高温の海水で海面水温がさらに上昇します。 これは太平洋のエルニーニョ現象と類似の現象で、エルニーニョ現象とは関係なく独立して発生する場合と、エルニーニョ現象と関連して発生する場合とがあります。 ”インド洋 日本の気候を支配する謎の大海”(2021年8月 講談社刊 蒲生 俊敬著)を読みました。 海面水温などさまざまな海洋気象観測のデータや構造に、インド洋の東西で双極的対照的な現象が現れるダイポールモード現象と、日本の気候との関りなどを解説しています。 海面水温などさまざまな海洋気象観測のデータや構造に、インド洋の東西で双極的、対照的な現象が現れ、海面水温が高くなると、そこでは対流活動が活発化し降水量が増加します。 そのため、東側では乾燥して少雨、西側では多雨となるなど異常気象がもたらされます。 これがインド洋独自の大気海洋現象でありダイポールモード現象と言われ、インドから日本にかけてのモンスーンアジア地帯の気象に大きく影響します。 日本の夏は猛暑となり、干魃や猛暑といった異常気象を引き起こすことになると考えられるというこです。 蒲生俊敬さんは1952年長野県上田市生まれ、東京大学理学部化学科を卒業し、同大学大学院理学系研究科化学専攻博を課程を修了しました。 理学博士で、専門は化学海洋学です。 1986年から1992年まで東京大学海洋研究所助手、1993年に海洋研究所 無機化学 助手を経て、1994年に同大学海洋研究所助教授となりました。 1996年に同大学海洋研究所教授となり、以後、2000年に北海道大学教授、2010年から2016年まで同大学大気海洋研究所教授を歴任しました。 2017年に東京大学大気海洋研究所特任研究員、2018年から2020年まで同大学大気海洋研究所名誉教授となりました。 海洋のフィールド研究に情熱を傾け、これまでの乗船日数は1740日に及び、深海潜水船でも15回潜航しました。 海洋の深層循環や海底温泉に関する研究により、日本海洋学会賞・地球化学研究協会学術賞(三宅賞)・海洋立国推進功労者表彰(内閣総理大臣賞)などを受賞しています。 人類の誕生以降、インド洋は、人類の英知が試される、いわば試練の海でした。 数え切れない多数の人々がインド洋と接触し、航海技術や漁業の発展のために苦闘を重ね、その結果として、インド洋からさまざまな恩恵を受けてきました。 ことに、インド洋が過去2000年以上の長きにわたって、東洋と西洋との交易・交流の場を育み、発展させ、国際社会の構築に限りない役割を果たしてきました。 さらに未来へと目を向けてみれば、今世紀末頃には、アフリカとアジアとを合わせた人口は世界人口の8割を超え、90億人にも達するといわれます。 急膨張するこのアフリカとアジアに接し、かつこの地域と他の世界とを強く結びつける海こそ、インド洋なのです。 ここ数年、インド洋に生じる特異な海洋変動であるダイポールモード現象という言葉を、新聞や雑誌等でひんぱんに見かけるようになりました。 ダイポールモード現象とは、インド洋の熱帯海域において、正反対の気候状態が同時に、東西に横並びになることです。 東側は低温で晴天続きである一方、西側では高温で豪雨に見舞われる、といった具合です。 この現象は1999年に、気候学者・山形俊男博士の研究グループによって発見されました。 ダイポールモードという名称の名付け親も山形博士で、ダイポールとは、二つの極という意味です。 日本から遠く離れたインド洋で生じる現象ですが、日本の気候と強い関わりをもっています。 たとえば2019年に出現した強烈なインド洋ダイボールモード現象は、日本列島に夏の猛暑と、それに続く異常な暖冬をもたらした主因であると指摘されています。 ダイポールモード現象の影響をまず最初に強く受けるのは、アフリカ諸国やインド、オーストラリア等々の、インド洋に接する国々です。 しかし、影響が及ぶ範囲はそれだけにとどまらず、遠くヨーロッパの国々や、日本列島にまで達しており、広く世界的なスケールで気候を支配しています。 インド洋と日本のように、はるか遠く離れた地域をつないで気候現象が伝わることをテレコネクションと言うそうです。 インド洋はこのテレコネクションを通じて、日本列島の気候をコントロールする陰の大物だったのです。 インド洋では、強い季節風(モンスーン)のために夏と冬とで流れる向きが完全に逆転する海流で、南極海からやってくる深海水の複雑怪奇な動きがみられます。 また、大陸移動のせめぎ合いと海底から湧き出る高温の熱水や、インド洋にのみ生息するふしぎな生物たちがみられます。 さらに、プレートの沈み込みにともなう超弩級の火山噴火や巨大地震や、ダイポールモード現象がみられます。 これらダイナミックな地球の姿や営みが、インド洋にはところ狭しと詰め込まれていて、インド洋を抜きにして地球は語れないそうです。 インド洋熱帯域の海面水温は、エルニーニョ現象の発生から2~3か月遅れて平常よりも高くなり始め、エルニーニョ現象の終息後もしばらく高い状態が維持される傾向があります。 そのため、エルニーニョ現象が発生した翌年など、インド洋熱帯域の海面水温が平常より高い夏の場合、大気下層の東風の影響でフィリピン付近の対流活動が抑制される傾向があります。 インド洋の海面水温が平常よりも高い場合の大気下層の高低気圧の平年からの偏りで、夏の日本付近の気圧が低くなります。 このような夏には、北日本を中心に、多雨、寡照、沖縄と奄美で高温となることがあります。 インド洋熱帯域の海面水温が南東部で平常より低く、西部で平常より高くなる場合を、正のインド洋ダイポールモード現象といいます。 逆の場合を、負のインド洋ダイポールモード現象と呼んでいます。 両現象ともに概ね夏から秋の間に発生しますが、発生頻度は年代によって大きく変わり、2000年以降は正のインド洋ダイポールモード現象の発生頻度が高まっています。 正のインド洋ダイポールモード現象では、夏から秋ごろにインド洋熱帯域南東部の海面水温が平常時より低く、その上空の積乱雲の活動が平常時より不活発となります。 この時、ベンガル湾からフィリピンの東海上では、モンスーンの西風が強化されます。 そして、フィリピン東方に達するモンスーンの西風と太平洋高気圧の南縁を吹く貿易風の暖かく湿った空気により、北太平洋西部で積乱雲の活動が活発となります。 このため、上空のチベット高気圧が北東に張り出し、日本に高温をもたらします。 また、インド付近でも積乱雲の活動が活発になり、地中海に下降流を発生して高温化させる方向に働きます。 地中海は日本上空を通過する偏西風の上流に位置するため、偏西風の蛇行を通じて日本に高温をもたらすとも考えられます。 なお、負のインド洋ダイポールモード現象については日本の天候への影響は明瞭ではないそうです。 インド洋を抜きにして、地球を語ることはできません。 本書は、そのようなグローバルな観点から、一冊まるごと、インド洋という大海の魅力に迫り、この海ならではの自然現象の数々を、できるだけ平易に紹介しています。 また、インド洋と人間社会との関わりについても、少しであるが視野を広げたといいます。第1章 インド洋とはどのような海かー二つの巨眼と一本槍をもつ特異なその「かたち」/第2章 「ロドリゲス三重点」を狙え!-インド洋初の熱水噴出口の発見/第3章 「ヒッパロスの風」を読むー大気と海洋のダイナミズム/第4章 インド洋に存在する「日本のふたご」-巨大地震と火山噴火/第5章 インド洋を彩るふしぎな生きものたちー磁石に吸いつく巻き貝からシーラカンスまで/第6章 「海のシルクロード」を科学するーその直下にひそむ謎の海底火山とは?[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]インド洋 日本の気候を支配する謎の大海 (ブルーバックス) [ 蒲生 俊敬 ]インド洋海域世界の歴史 人の移動と交流のクロス・ロード (ちくま学芸文庫 ヤー31-1) [ 家島 彦一 ]
2023.02.18
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鎖国と身分制度によって閉ざされていた江戸時代に、その殻を突き破って、日本史を近代の方向へと動かしていく上で大きな役割を果たした人々がいました。 本来はいずれも名もなき一庶民でしたが、漂流が人生を変え、歴史に名を刻むことになりました。 ”幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷”(2022年1月 弦書房刊 岩岡 中正著)を読みました。 自らが船頭を務める船で天草を出航し長崎へ向かったものの、途中で嵐に遭って船員3名とともにルソン島へ漂流した、肥後国出身の庄蔵の生涯を紹介しています。 大坂の質屋の息子だった伝兵衛は、1696年に江戸に向かう途中で嵐にあってロシア領カムチャッカに漂着し、モスクワでロシア皇帝に謁見しました。 伊勢の船頭だった大黒屋光太夫は1782年に、江戸へ向かう途中で漂流し、ロシア帝都サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナニ世に謁見しました。 土佐の漁師だった万次郎は、1841年に14歳で漂流してアメリカの捕鯨船に救助されて東海岸に行き、幕末に帰国して幕府に登用され咸臨丸に乗り込み、使節団の通訳として条約締結に尽力しました。 1837年にモリソン号で帰国しようとして果たせなかった日本人漂流者7人のうちの1人の音吉は、上海でイギリス商会につとめ、幕末期の日英交渉でイギリス側の通訳として活躍しました。 そして、原田庄蔵は音吉とともにモリソン号に乗りましたが、終生帰国を果たせず、日本人漂流民の帰国のために尽力しました。 庄蔵は1807年に、当時、海外も開かれた海上交通の要所だった肥後川尻の、12の町の中でも小さい正中島町の廻船業の屋号・茶屋に生まれました。 1835年に両親と妻子を残し、八十石船でほかの寿三郎、力松、熊太郎の三人と共に天草へ行き、ここから帰る途中、大風で東シナ海からフィリピンのルソン島北岸へ漂流しました。 そこでスペイン官憲に救われ、マニラを経て船で中国マカオヘ送られました。 1837年に尾張の音吉ら3人を含め、漂流者7人は、開国や通商をめざす米船モリソン号に乗せられて日本へ向かいました。 しかし、無二念打払令で浦賀沖と薩摩で砲撃されて断念し、命からがらマカオヘ戻りました。 このマカオで庄蔵は、のちにペリー提督の日本語公式通訳の米国人宣教師S・W・ウィリアムズに日本語を教え、ともに、その下で聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力しました。 1841年9月にマカオから、故郷・肥後国川尻、正中島町の父の茶屋・嘉次郎あての書簡を出し、書簡は2年半後の1844年2月に家族のもとに届きました。 帰国することはできず、その後香港へ移住し、アメリカから来た女性と結婚しました。 そして、洗濯屋仕立屋として成功し、ゴールドラッシュに湧くアメリカのカリフォルニアヘ、人夫10人をつれて金採掘に渡ったこともあるといいます。 また、周防の漂流民・船頭宗助ら12人のような、日本人漂流民の世話もしました。 ただ、その没年、墓、子孫については不明です。 著者は、小さな正中島町から世界へ漂流した、庄蔵という「地域」的で「地球」的な横軸と、前近代社会から近代人へと再生・自立していった歴史の縦軸から庄蔵に接近したいといいます。 またこれは、肥後川尻、正中島町と中国のマカオ・香港という、庄蔵の「二つの故郷」の物語でもあります。 岩岡中正さんは1948年熊本市生まれ、九州大学法学部を経て同大学院を修了しました。 1991年に学位論文で法学博士(九州大学)の学位を取得し、熊本大学法学部で教鞭を取りました。 政治学者で俳人で、現在、熊本大学名誉教授を務めています。 研究テーマは、政治思想史・共同性の思想研究です。 大学時代から俳句を嗜み、俳誌「阿蘇」を主宰しています。 日本伝統俳句協会副会長で、朝日俳壇賞受賞、熊本県文化懇話会賞、熊日文学賞、山本健吉文学賞評論部門を受賞しています。 香港最初の定住日本人となった原田庄蔵一行は、漂流から8年を経た1845年から、香港での定住生活が始まりました。 当時の香港は人口7450人で、1841年から英国軍が香港島を占拠していて、アヘン戦争の真っ最中でした。 アヘン戦争が終結した1842年に南京条約が締結され、香港島は正式にイギリスに永久割譲され、ビクトリア市と命名されました。 西地区が中国人街、中央がイギリス街、何もなかった湾仔の関所を超えた東側の銅鑼湾がジャーディンマセソン王国と、大きくは3地区に分かれていました。 夫々の地区が物すごい勢いで開拓されていた時代に、庄蔵一行がやってきたのでした。 1845年に香港に移住した庄蔵一行は、中環と上環の境目当たりに住居を構えたと思われます。 後年、ペリー率いる第二次日本遠征隊は香港から出発しましたが、庄蔵一行で一番若かった力松が、自分たちは湊の上の方にある関帝廟のそばに住んでいると言ったそうです。 関帝廟とは文武廟のことで、香港最古の道教寺院として有名でした。 この寺院は、庄蔵達が香港に定住してから2年後の1847年に創建されています。 当時の香港の中国人の人口は、家族が25世帯、娼婦の館が26軒で、あとは、独身、単身で大陸から流れ込んだ無数の中国人でした。 庄蔵は4人の中では一番成功し、洗濯業と裁縫業を手広く展開して、3階建の家にアメリカ人の夫人と息子と住んでいました。 夫人が白人だったか中国系だったか不明ですが、マカオでギュツラフの影響を受けてキリスト教に改宗しました。 ギュツラフは中国を訪れた最初の西洋人で、外交官としても活躍しましたが、実際は敬虔で影響力のあるキリスト教伝道師でした。 語学の天才で、日本語についても庄蔵達から日本語を学び、聖書の日本語訳なども行いました。 庄蔵はクリスチャンとしてギュツラフの聖書翻訳作業を助け、その後の香港でも引き続き5年を掛けてマタイ伝の日本語訳に成功しました。 共同作業者のギュツラフは1850年にマカオから香港に移り住み、1851年に香港で48歳で病死しました。 その功績を称えて、中環にある通りにギュツラフの名が冠せられているといいます。 庄蔵は、そのほかにもいろいろと活発な人生を送ったようです。 1852年ころ一獲千金を夢見て、中国人の苦力10数人を引き連れて、ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアまで金採掘に行きました。 1853年には、やはり漂流民として香港に立ち寄った永久丸乗員2名の世話をしました。 乗員によると、当時44歳であった庄蔵は、20歳ほども若く見える円満でほのぼのとした男だったそうです。 そして、この証言を最後に庄蔵の足取りはしばらく途絶えています。 そして、幕末に帰国して幕府に登用され、1860年に出航した咸臨丸に乗り込み、使節団の通訳として条約締結に尽力したのでした。 その後、日本領事館開設の1873年のの香港在住日本人は8名(12名とも)でしたが、その中に庄蔵の名前もその家族の名前も見当たらないといいます。 庄蔵も家族も、香港籍として名前も変えていた可能性があり、名乗り出る事もなく明治政府の知るところなく、巷中に没したのではないでしょうか、墓石も見つかっていないそうです。 寿三郎、力松、熊太郎の3人のうち、寿三郎と熊太郎の香港滞在に関する記録はほとんど残されていません。 寿三郎は1853年に病死、熊太郎は1845年に病死したといいます。 力松は13歳のときに漂流し、日本人としての教育も充分に受けられないまま、マカオ、香港と渡り歩き、キリスト教を信じ、アメリカ女性と結婚し、3人の子供を持ちました。 出版社に勤め、日本語、英語、広東語に通じていたようです。 1855年には、エリオット提督率いるイギリス遊撃艦隊に通訳として乗り込み、函館に寄港した時の通訳として活躍しました。 同年の日英和親条約の批准書交換の際にも通訳として長崎にきています。 その後、力松の記録は途絶えますが、しっかりとした仕事もあり、通訳としても活躍し、家族に囲まれて平穏な人生を香港で全うしたと思われます。 漂流が人生を変え、それぞれが歴史に名を刻みました。 本書は、日本人を超えて国際人として生きた肥後出身の漂流者の実像に迫っています。はじめにー原田庄蔵とその故郷/1 漂流物語ーマカオから父への手紙「日本より出し日を命日に」(庄蔵の手紙/寿三郎の手紙/庄蔵と寿三郎)/2 聖書物語ーウィリアムズと庄蔵 本邦初訳「聖書・マタイ伝」(「マタイ伝」写本の運命/庄蔵の聖書とその特徴)/3 故郷物語ー庄蔵と故郷の人々(父と子の盆踊り/庄蔵の教養/正中島町「家屋鋪賣買帳」と庄蔵旧居/庄蔵の長女ニヲとその末裔)/おわりにー運命と時代を切り開く力[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷 [ 岩岡中正 ]日本初、新聞が発行された 幕末の漂流者ジョセフ・ヒコがまいた種 理論社 小西聖一 / 新・ものがたり日本歴史の事件簿【中古】afb
2023.02.04
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大村純忠は1533年に、肥前国高来郡有間荘、現、長崎県南高来郡北有馬町・南有馬町を本拠とする有間氏、のち有馬氏と改めた、の晴純の次男として生まれました。 ”大村純忠”(2022年6月 吉川弘文館刊 外山 幹夫著)を読みました。 有馬清純の次男で後に大村純前の養子となった安土桃山時代の日本最初のキリシタン大名の、大村純忠の生涯を紹介しています。 有馬氏の出自は、平将門とともに承平・天慶の乱をおこして敗死した藤原純友とされています。 母親が大村純伊の娘であったために、1538年に大村純前の養嗣子となり、1550年に家督を継ぎ大村氏の第12代当となりました。 純前には実子の庶子、後の後藤貴明、又八郎がありましたが、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出されました。 純忠は領内に入ってきたイエズス会の宣教師と交渉をもち、1563年に受洗してバルトロメオと名のり、日本で最初のキリシタン大名となりました。 同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたります。 長崎を領内にもっていたことから、長崎港を開港して、南蛮貿易、外国との交渉を積極的に行、1582 年には大友、有馬氏とともに、ローマ教皇に少年遣欧使節を送りました。 しかし、純忠のキリスト教信仰は狂信的であるとして、領内の反発を招き他氏との争いも絶えなかったといいます。 外山幹夫さんは1932年長崎市生まれ、長崎県立大村高等学校を卒業して、1961年に広島大学大学院博士課程国史専攻を単位修了し、1978年に文学博士となりました。 1961年佐世保工業高等専門学校助教授、長崎大学教育学部教授、長崎県立シーボルト大学教授などを歴任しました。 2002年に退職し、県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務め、2013年に亡くなりました。 著者は長崎生まれの大村育ちで、幼少の頃から大学に入るまでの20年近くを大村の地で過ごしたそうです。 朝な夕なに風光明媚な大村湾を眺めてきて、いまふり返ってみて、時代もそうですが、まことにのどかな少年時代だったように思いますといいます。 大村純忠については、昭和30年に松田毅一さんの”大村純忠伝”が出され、この刊行を機にして行われた同氏の純忠に関する講演を大村に帰郷中聴いたそうです。 しかし大学を卒業するとともに、以後20数年にわたって、一貫して豊後大友氏の研究に専念しました。 いつかは純忠も手がけたいとは思いながら、大友氏の研究にある程度の目鼻をつけるまでは、久しく手を付けてこなかったといいます。 ようやく研究に一応の区切りをつけることができるようになった昨今、ある種の解放感を味わいながら、一気呵成に書き上げたのが本書であるといいます。 松田毅一さんは純忠研究に先鞭をつけた先学で、敬意を表するにやぶさかではありませんが、専らキリシタンとしての純忠の側面からこれを把えています。 著者はこれといささか視角を異にし、純忠の戦国大名としての本来のありかたに注目しつつ、全体像を把えようとしたそうです。 有馬氏は平姓を称していますが、おそらく平家全盛期には、これに好を通じていたものでしょう。 鎌倉時代に入ってからは御家人としての道を進め、本拠有馬荘のほか、串出郷の地頭職も得るなど、領主制を進展させていたものと思われます。 南北朝時代に入ると、有馬氏は大村氏同様南朝方につき、そのため九州探題今川了俊の攻撃を受けました。 以後時代の進行とともに、同氏の勢いは徐々に強まり、戦国初期までのうちには、ほぼ高来郡を手中におさめました。 そして有馬貴純はしだいに藤津郡方面へも進出し、戦国期に入り、同氏はさらに発展しました。 有馬氏はその後、純忠の父晴澄の天文年間の1532年から1555年にいたって、さらに勢いを強めました。 しかし、天正年代の1573年から1592年に入ると、佐賀の龍造寺隆信が急速に台頭し発展したため、純忠の兄で、晴純の後を嗣いだ義直は、守勢に立たせられ、その圧迫に苦しむことになりました。 純忠は有馬晴澄人道仙巌を父として生まれ、母は大村純伊の女であったといいます。 当時有馬・大村両家は抗争をやめ、晴純の叔母が大村純伊に嫁し、また純伊の女が晴純に嫁し、晴純の妹もまた純忠の養父大村純前に嫁していました。 純忠の生年については天文二年1533年出生とされ、生年について異説は存在しません。 出生地は”藤原姓大村氏世系譜”では、たんに有馬とだけ記しています。 有馬氏の持ち城としては北有馬町の日之江城が古くからあり、おそらくここで生まれたと思われます。 幼名勝童丸、元服して民部大輔に任ぜられ、長じて天文19年の1550年に18歳で大村家に人嗣し、これを契機にしたものでしょうか、のち丹後守に転じました。 兄弟姉妹についてみると、長兄に晴純の後有馬家を嗣いだ義直、のち義貞がいて、純忠は義直の次弟にあたります。 純忠にはさらに、直員、盛、諸経の3人の弟がいました。 直員は同名の千々石直員の下に養子に行き、高来郡千々石に住みました。 後年天正期ローマに赴いた千々石ミゲルは、その子です。 盛は松浦丹後守定の養子となり、平戸に住みました。 諸経は志岐兵部少輔鎮経の養子となり、肥後天草に住みました。 当時としては珍しく同母兄弟でしたが、互いに抗争することはありませんでした。 純忠に対して強い影響力をもったのは兄の義直で、後に、純忠は受洗を前にして、熱心な仏教徒の義直の意向を気にしましたが、不快の念を示されず安心しています。 1570年の長崎の開港についても、純忠は最初反対しましたが、これを知った宣教師たちが義直にはたらきかけ、純忠に開港するようはからわせ、純忠は兄の助言に従っています。 義直はかなり学芸に通じていたらしく、純忠は、特にこの兄から種々の影響を受けたとみられます。 戦いに明け暮れた戦国時代にあって、学芸を習得することは容易ではありませんが、純忠にはその素養があったといいます。 学芸の素養は、おそらく大村氏に入嗣する以前、有馬氏にあった当時体得したものでしょう。 詩歌の造詣深く、文章に秀れた兄を持つなど、学芸にたいして理解のある有馬氏の中で育つうちに、学芸を習得したと思われます。 こうした純忠が大村家に人嗣したことは、当然大村氏の家臣たちにも影響を与えました。 戦国期の肥前で、最大の勢威を誇ったのは龍造寺隆信です。 隆信は龍造寺氏の庶家水ヶ江龍造寺氏出身で、一時仏門に身を投じていましたがのち還俗し、その非凡の才能をもって惣領村中龍造寺氏をも併せて一族の中心となりました。 そして周囲の経略を進め、のち天正期に入って純忠の最大の強敵となりました。 さらに純忠の治世前期にとくに圧力を及ぼした者に、純忠の養父純前の実子で武雄の後藤氏に入嗣した後藤貴明かありました。 大村の反純忠派の者と内通して、純忠領内にしばしば侵入して純忠を苦しめました。 1570年に純忠は、ポルトガル人のために長崎を提供し、同地は当時寒村にすぎませんでしたが、以降良港として大発展していきました。 1572年に松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500に居城である三城城を急襲され、城内には約80名しかいませんでしたが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込みました。 1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退しました。 その後、1580年に純忠は、長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進しました。 巡察のため、日本を訪問したイエズス会士・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年に天正遣欧少年使節の派遣を決めました。 純忠の名代は、甥にあたる千々石ミゲルでした。 1586年の夏、兄の死後に長与氏の領地を奪った長与純一が、純忠に反旗を翻しましたが、純忠は軍を送り、長与純一の浜城は落城し速やかに鎮圧されました。 1587年3月、豊臣秀吉の九州平定において秀吉に従って本領を安堵されました。 ただし55歳の純忠は、既に咽頭癌と肺結核に侵されて重病の床にあり、19歳の嫡子・喜前が代理として出陣しました。 バテレン追放令の出る前の1587年6月23日に、坂口の居館において死去しました。1 若き純忠の時代/2 純忠の領国支配/3 横瀬浦開港と純忠の受洗/4 福田浦開港前後/5 長崎開港と内憂外患/6 教勢の発展と純忠の苦悩/7 純忠の卒去とその歴史的位置/付録1 大村氏の出自と発展/付録2 大村純忠の発給文書 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]大村純忠 (読みなおす日本史) [ 外山 幹夫 ] 完訳フロイス日本史(11(大村純忠・有馬晴信篇 3) 黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国 (中公文庫) [ ルイス・フロイス ]
2023.01.21
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遠山景晋=とおやまかげもとは1752年生まれ、永井筑前守直令の4男で遠山景好の養子となり、1786年に遠山家を相続しました。 500石の旗本で、通称、金四郎、左衛門、左衛門尉と称しました。 ”遠山景晋 開国を見通した蘭学家老”(2022年7月 吉川弘文館刊 藤田 覚著)を読みました。 名奉行遠山金四郎景元の父親で、目付・長崎奉行・勘定奉行などを歴任し、江戸後期の対外政策を最前線で担った幕臣の、遠山景晋の生涯を紹介しています。 1787年に小姓組番に就任し、以後、西ノ丸小姓、徒頭を経て、1802年に目付となりました。 1789年に榊原忠寛の娘と婚姻し、1794年数え43歳のとき、第2回昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第し、同年、養父実子の義弟、景善を養子に迎えました。 遠山家は幕府の主要ポストとは無縁の家柄でしたが、試験後実際には、目付、長崎奉行、勘定奉行など異例の昇進を果たしました。 1799年から1811年までの12年間に、蝦夷地出張3回、長崎出張1回、対馬出張2回にのぼりました。 1804年にロシアのレザーノフの応接のため長崎に派遣され、1807年に若年寄堀田正敦に同行して蝦夷地へ派遣されました。 途中奥州各藩を巡見し海防指導を行い、1808年に対馬派遣となり諸大夫に任じられました。 1811年には朝鮮通信使易地聘礼にあたり、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走しました。 1812年に長崎奉行となり、諸役所の経費節減などを行いました。 1816年に作事奉行、1819年に勘定奉行に転じました。 老中水野忠成に信任され、江戸湾海防の仕法などを行いました。 文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれました。 1829年に勘定奉行を辞し、隠居しました。 1837年に死去し、法名は、静定院殿従五位下前金吾校尉光善楽土大居士、墓所は遠山家の菩提寺である本妙寺にあります。 名奉行遠山金四郎景元は遠山の金さんと呼ばれ、幼名は通之進、通称は実父の景晋と同じ金四郎でした。 官位は従五位下左衛門少尉、職制は江戸北町奉行、大目付、後に江戸南町奉行でした。 藤田覚さんは1946年生まれ、1969年に千葉大学文理学部を卒業し、1974年に東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程を中退しました。 1975年東京大学史料編纂所教務職員、1976年同史料編纂所助手、1986年同史料編纂所助教授となりました。 1990年に文学博士(東北大学)の学位を取得し、1993年に東京大学史料編纂所教授となりました。 1996年から東京大学大学院人文社会系研究科教授となり、2006年に角川源義賞を受賞し、2010年に東京大学を定年退職し、東京大学名誉教授となりました。 遠山景晋は幕府役人として勘定奉行にまで大出世しましたが、遅咲きの役人人生でした。 永井家に生まれて遠山家の養子になり、やや複雑な家族関係の中、学問・剣術・音楽などに励みながら、実父母が願った幕臣として活躍する日を思い描いていました。 35歳になって家を継ぎ、翌年やっと小性組番士となり幕臣としてのスタートをきったのでした。 43歳で第二回学問吟味に首席合格し、秀才ぶりを発揮したものの、なかなか幕臣としては芽が出ず、51歳で目付、61歳で長崎奉行となりました。 作事奉行を経て勘定奉行に昇進したときは68歳という高齢で、幕府役人としてはまさに遅咲きでした。 三傑と讃えられましたが、石川忠房は俸禄300俵の養家を継ぎ48歳で目付、54歳で勘定奉行に昇進し知行500石となり、のち勘定奉行に再任され、留守居在職中に93歳の高齢で死去しました。 また、中川忠英は知行1000石、36歳で目付、43歳で長崎奉行、45歳で勘定奉行と順調に昇進し、のちに旗奉行在職中に78歳で死去しました。 景晋は、勘定奉行昇進が中川より23歳、石川より14歳遅く、三傑といっても、景晋の役人としての出世はひどく遅かったのです。 この間、幕府の蝦夷地政策の大転換のために行なわれた、1799年の東蝦夷地調査団の一員に選ばれて参加しました。 1805年に通商関係樹立を求めて長崎に来航したロシア使節レザーノフに、幕府の拒否決定を伝達するため長崎に赴き、平穏な退去を実現しました。 同年から翌年にかけて西蝦夷地の調査を命じられて宗谷まで踏破し、幕府の全蝦夷地直轄の実現に貢献しました。 1806年にロシア軍艦によるカラフト・エトロフ島などへの攻撃を受けて、三度目の蝦夷地出張を命じられ、帰路三陸から鹿島までの沿岸を巡検しました。 1806年に江戸時代の日朝外交儀礼を大転換させる朝鮮通信使の易地聘礼を実現するため、朝鮮訳官との交渉に対馬へ出張し、易地聘礼挙行の最終的合意を実現しました。 1811年に易地聘礼挙行のため応接使節団の一員として、二度目の対馬出張を行いました。 1812年から長崎奉行として長崎に二度在勤し、二回に渡るイギリスによる出島商館乗っ取り未遂事件や、極度の貿易不振などの困難を抱えた長崎市政を担当しました。 1816に作事奉行となり、日先大猷院廟などの大規模修復事業を遂行しました。 1819年から勘定奉行として、蝦夷地直轄を止め、松前・蝦夷地を松前家に返還する政策大転換の後始末を処理しました。 イギリス・アメリカ捕鯨船の活動活発化など異国船渡来事件が多発したため、1825年にそれまでの穏便な異国船対応策を大転換させ、強硬策である異国船打払令の発令を主導しました。 景晋は、蝦夷地へ3回、長崎へ3回、対馬へ2回、日光へ2回往復しました。 主に対外関係に関わる案件を処理するため、東奔西走した人生でした。 ロシアの蝦夷地接近、イギリスなど欧米諸国の東アジア進出など、世界情勢の変動の波が日本周辺に及んできた新たな国際環境のもとで、幕府の対外政策の転換を担いました。 景晋の生涯は、18世紀末から19世紀前半の日本を取り巻く国際情勢の変化と、幕府の対外政策のあり方やその転換を体現した軌跡でした。 景晋は、揺るぎない権威を帯びた将軍への奉公、忠節を第一として、職務に邁進する精誠奉職、それを自らの生き甲斐、喜びとしました。 出世それ自体が目的や目標ではなく、遅咲きだったものの景晋の出世は、精励恪勤の結果にすぎなかったといいます。 職務上の日記のほか、多くは散逸しましたが、繁務のあいまに紀行文と多くの詩文を草し、さらに絵画に造詣が深く、琵琶にも堪能だったそうです。 有能な役人であるにとどまらず、江戸時代後期に数多く登場する文人的、あるいは教養豊かな役人の一人でした。 大変な秀才であり、超有能な役人であるとともに、父母への敬愛と思慕の念、妻との心の絆、子の溺愛など、人間味の溢れた人物でもあったといいます。 1828年にアヘン戦争の情報、1831年にイギリス軍艦来日計画情報などが伝えられ、欧米諸国との戦争の危険を回避するため、異国船打払令は撤回され、天保の薪水給与令が発令されました。 渡来する異国船は海賊船であり、イギリスなどが日本までやって来て戦争し、侵略しようとするわけがない、と考えていたようです。 景晋の世界情勢に関する甘い認識は、アヘン戦争により物の見事にうち砕かれました。 儒学を深く学び、その枠の中から出られなかった景晋の知的限界と言えるでしょう。 また、アイヌの独自の文化を認識できず、生業や生活に対する強い差別と偏見も、景晋の儒学的思考がもたらした限界でした。 さまざま限界はあるものの、出世することが目的・目標ではなく、ひたすら職務に全身全霊で打ち込み、任務を着実にこなして実績を積み重ね、結果として高い地位を得ました。 もうやり遂げた、これ以上はできない、との思いからしがらみを断ち切り、幕臣人生を終えたすがすがしい生き方には、現代から見ても見るべきものがあるといいます。はじめに/第1 生い立ちと家族/第2 学問吟味に首席合格/第3 第一回蝦夷地出張/第4 レザノフ長崎来航/第5 第二回蝦夷地出張/第6 第三回蝦夷地出張/第7 朝鮮通信使易地来聘御用/第8 目付時代/第9 長崎奉行時代/第10 作事奉行時代/第11 勘定奉行時代/第12 信仰・趣味・教養/第13 晩年と死/おわりに/遠山景晋系図/略年表/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【送料無料】 遠山景晋 人物叢書 / 藤田覚 【全集・双書】【中古】 遠山金四郎 物語と史蹟をたずねて / 童門 冬二 / 成美堂出版 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2023.01.07
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大妻コタカは、1884年に広島県世羅郡三川村、現、世羅町に生まれ、旧姓は熊田とい いました。 後に、大妻学院、現、大妻中学高等学校、大妻女子大学を創立し、日本における女子教育の草分けとなりました。 ”三番町のコタカさん 大妻学院創立者 大妻コタカ伝”(2016年4月 ワック社刊 工藤 美代子著)を読みました。 私財と人生のすべてを大妻学院に捧げ尽くして、三番町の校内に建てられた学寮の玄関脇の一間に住んだ、「三番町のコタカさん」の生涯を紹介しています。 コタカという名前は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、忙しい時に困った子が訛ったものだといいます。 しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となりました。 現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされています。 3歳で父を14歳で母を亡くしましたが、農業と両立させながら勉学に取り組み、広島県立高等小学校へ進学しました。 当初、物理と数学を学ぶことを志し、周囲に反対されましたが、向学の志やみ難く、1902年に手芸裁縫を学ぶために上京しました。 叔父宅へ寄宿し、和洋裁縫女学校、現、和洋女子大学に入学しました。 洋裁を学びながら、東京府教育会附属の小学校教員伝習所や、神奈川の女子師範学校、現、横浜国立大学で学び、小学校正教員免許を取得しました。 1907年に鎌倉尋常高等小学校の教師となり、のち訓導を務めました。 同年に、宮内省御陵係・大妻良馬と結婚し、大妻姓となりました。 軍人の家庭の仕立て物を縫わせてもらったのが切っ掛けで、好きな瓶細工や袋物の手芸などを近所の人に手ほどきして好評を得ました。 工藤美代子さんは1950年東京都両国生まれ、父親はベースボール・マガジン社および恒文社を創設した池田恒雄さんです。 母親の実家は両国の工藤写真館で、両親が離婚したため工藤姓を名乗りました。 大妻女子高校を卒業後、父親の意向でチェコ・プラハのカレル大学に入学しましたが中退しました。 日本文学研究者の鶴田欣也さんを追ってカナダ・バンクーバーに渡り、1973年に鶴田と結婚しましたが、1993年ころ離婚しました。 のち、コロンビア・カレッジを卒業し、1982年に友人のスーザン・フィリップスと協力して田村俊子の伝記を執筆しました。 以後、ノンフィクション作家として活動するようになり、1991年に”工藤写真館の昭和”で講談社ノンフィクション賞を受賞しました。 そして、1993年に元集英社出版部長の加藤康男さん、元恒文社専務取締役、現ノンフィクション作家と結婚し、今日に至っています。 大妻良馬は1871年高知県高岡郡戸波村生れ、医家の大妻定馬の三男で、1891年に現役志願兵として広島の工兵第五大隊に入営しました。 1894から1895まで日清戦争に従軍し、1897年に試験検定により陸軍工兵監護に任じ、1902年に現役満期、後備役に編入しました。 1904年に日露戦争のため充員召集され、旅順攻囲軍に参加し、翌年工兵少尉に任じ、奉天包囲戦に参加しました。 1906年に退役し宮内省内匠寮に雇員として勤務し、翌年技手となりました。 1907年に、当時24歳だった熊田コタカと結婚しました。 コタカは軍人の家庭の仕立物を縫わせてもらい、これが自信となりました。 1908年に良馬が山階宮家勤めとなり宮家の中にある家に移ると、コタカは大妻学院の前身となる縫製・手芸の私塾・技芸教授所の看板を掲げ開設しました。 当時は女子が高等教育を受けること、まして職業婦人として社会に出て働くことは容易ではありませんでした。 しかしコタカは、女子も自ら学び、社会に貢献できる力を身につけ、その力を広く世の中で発揮していくことが、女性の自立につながると確信していました。 当初は近所の子供を集めた10数人でしたが、教え方が上手いと評判となり、加えて女子教育普及の波にも乗り生徒数が増加しました。 第一次世界大戦に伴う好景気により、女性の就学熱や技芸教育の広まりにより、女子中等教育は拡大しました。 1916年に各種学校として大妻技芸伝習所を設立し、三越主催の学校展覧会に出品し、婦人記者の小橋三四子に取り上げられ、コタカの名が広まりました。 1917年に麹町に私立大妻技芸学校を開校して、手芸・裁縫を教授しました。 校訓の”恥を知れ”は、正式な学校として発足するにあたって、教職員、生徒の賛同を得て制定されたものです。 この校訓はあくまでも自分に対して言うことで、人に見られたり、聞かれて恥ずかしいようなことをしたかどうかを自分で戒めることだといいます。 1919年に大妻実科高等女学校に発展し、後に高等技芸科、高等家政科を増設しました。 良馬は1921年に宮内技師に任じ、ほどなく依願免官となり、妻経営の大妻学校校主に専念しました。 校主として、経営面では、事務の決裁、施設の企画、工事の設計監督、教育の面では、学則の改正、職員恩給制度の創設等寝食を忘れて精励しました。 同年に、私立大妻実科高等女学校を、4年制の私立大妻高等女学校に組織変更しました。 1922年に大妻技芸学校を実業学校に組織変更し、大妻中等夜学校を設立しました。 1923年の関東大震災で校舎が焼失しましたが、直ちに再建に着手し、翌年に千坪の木造校舎を竣工し、学校復興の先鞭をつけました。 1925年に大妻中等夜学校を廃止し、大妻技芸学校に夜間の技芸科第二部を設置しました。 1927年から1932年頃に、和服の裁ち方、縫い方、手芸などを分かりやすく図で説明した本を次々と出版し、どれもベストセラーとなりました。 また、五尺帯や半反でできる服やツーピースの着物や、風呂敷を三角にした戦時袋などを考案して評判を呼びました。 1929年に財団法人大妻学院を設立し、理事長に就任しました。 同年、夫の良馬が急性肺炎にて逝去し、子宝に恵まれなかったこともあり、学校経営に情熱を燃やすようになりました。 1937年に世界教育大会が東京帝国大学で開催され、女子手工芸教育界を代表して発表しました。 1942年に大妻女子専門学校と改称し、良妻賢母教育を行ないました。 戦時中は国粋主義的な婦人団体の幹部として活動し、戦意昂揚の講演などを行ったため、戦後は公職追放・教職追放令となり学校を追われました。 1951年に追放解除された後は校長に復帰し、同年、再び大妻学院の理事長・学長・校長として復帰しました。 家政学部に被服・食物・家庭理学の各科を設置し、中学校から大学までの大妻学院に発展させました。 教育方針は、和装を中心に良妻賢母の養成を行うことでした。 家事評論家としても活躍し、文部省認定の裁縫や手芸に関する教科書を手掛けました。 1954年に藍綬褒章を受章し、1962年に自叙伝”ごもくめし”を刊行しました。 1964年に第1回生存者叙勲で、女子教育者としては初めて勲3等宝冠章を受章しました。 生涯にわたり女子教育に尽し、1970年に住み慣れた東京三番町にて享年85歳で逝去し、従4位勲2等瑞宝章を追贈されました。 家事評論家としても活躍し、関連雑誌の評論のほか、文部省認定の裁縫や手芸に関する多くの著書があります。第1章 大妻良馬とコタカの旅立ち㈠「写真を持って来るように」/三三九度の盃/小走りに良馬の背中を追う/家郷にも吹く維新の新風/「コマッタ」転じて「コタカ」?/とにかく厳しかった母のしつけ/校長のひと言で将来は先生に/手のひらに「鬼」と書いて/母の死に間に合わず/やりたかったのは、これじゃない㈡広島の寒村をあとにして/「あなたちょっと田舎くさいからねぇ」/和裁も洋裁も/常に一歩先を㈢黒肌の花嫁誕生/字を書くと、ハの字が増える/大妻良馬という男/前妻の両親の墓石を建てたい/「離縁してくれ」/山階宮の邸内で開校/良馬の心意気、金の指輪第2章 「女性が輝く」先駆けとして 大妻技芸伝習所開校/大成功の講習会/私塾から学校へ/現在の場所に移転/宮家の姫に手芸を教える/高等女学校設立へ/車の両輪として/志願者激増、新校舎増築/「学校経営を生活の糧としない」/関東大震災、生徒の死と校舎壊滅/焦土からの出発/働く女性に門戸を開く第3章 「良妻賢母」は古くならない 女性教育者が続々と/裁縫・手芸と人間形成/口先だけの人間になるな/校訓は「恥を知れ」/私は感謝役/褒め上手になれ/「らしくあれ」/良き妻、賢き母/礼儀作法の重視/感謝と勤労/創意工夫/女であるから/仕事に追われるな、仕事を追え/質素倹約/廃物利用と裁縫教育第4章 良馬の死を乗り越えて 神も仏も/浅草寺参り/良馬、突然の死/財団法人「大妻学院」へ/良馬あっての私/生涯一校長として生きたい/吉岡彌生の助言/東郷さん来校/新聞・雑誌・ラジオに/新校舎の完成/専門学校の認可/戦時下でも活発だった講演活動第5章 戦禍をくぐり抜け、再建へ 勤労動員/空襲で校舎炎上/焦土からの出発/GHQから教職「不適格」令が/自分なりの銃後の闘い/家もなく財産もなく子どももなく/住まいを求めて/「大妻」の名前をはずせ/四年五カ月ぶりの追放解除/追放中に大学発足/大妻の伝統を取り戻す/学院への復帰/藍綬褒章受章/創立五十周年/「大妻学院講堂再建定期預金」第6章 学長の名は「三番町のコタカさん」 学長・校長に就任/喜寿祝賀会/若さの秘訣は実行にあり/学長はお母さま/「家の子」/「愛の贈り物」/卒業の日に/逆立ちをして生徒を驚かす/勲三等宝冠章受章/危篤になったが/「あとを頼むわね」/痛む足を引きずって/「私の罪を清め給え」/自分が知らないで犯した罪/八十五年の人生のハイライト/最後の帰郷/永眠 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】三番町のコタカさん 大妻コタカ伝 /ワック/工藤美代子(単行本(ソフトカバー))教えの道をひとすじに 大妻コタカ物語 大妻学院 小島夕/北見けんいち
2022.12.24
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”半藤一利 わが昭和史”(2022年4月 平凡社刊 半藤 一利著)は、昭和史の研究に打ち込んで物書きとなり退職してから本格的スタートし2021年1月に90歳で逝去した昭和史の第一人者が最晩年に語った自伝である。 半藤一利氏の妻は作家の松岡譲・随筆家の筆子夫妻の四女で、筆子は夏目漱石の長女であるため、一利氏は漱石を義祖父としています。 半藤一利氏は1930年東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区生まれ、先祖は長岡藩士で、実父は運送業を経営していました。 1937年に第三吾嬬小学校に入学、一年後に新設の大畑小学校に通うようになりました。 小学校時代は、少年講談や浪曲に親しんだそうです。 1939年に実父が区会議員となり、悪ガキがにわかにお坊ちゃまになりました。 1943年に東京府立第七中学校に入学し、隅田川の数々の美しい橋を眺めて育ったためか、この頃から橋をつくる技師に憧れを抱いたそうです。 1945年3月10日の東京大空襲で逃げまどい、中川を漂流して死にかけ、父親とともに母親や弟妹か疎開していた、茨城県の下妻へ移りました。 その後、茨城県の県立下妻中学校を経て、父親の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎えました。 1946年に家族は東京に戻りましたが、ひとり長岡に残って勉強に打ち込みました。 1947年に一高の受験に失敗して失意なるも、翌年、旧制浦和高校に合格して入学し、すぐ理科から文科に転じ、橋の技師になる夢はいつしか萎んでいったそうです。 旧制浦和高等学校を学制改革のため1年間で修了し、1949年に東京大学文学部に入学してすぐボート部に入りました。 1953年に東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、3月に文藝春秋新社に入社しました。 見習いのうちに坂口安吾と出会い、歴史の面白さを知ったといいます。 坂口の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、坂口に弟子入りしたと称しています。 9月に出版部に配属となり、翌年3月にまた文藻春秋編集部に異動となりました。 1956年にまた出版部に異動となり、当時人気を博していた軍事記者の伊藤正徳の担当になり、連載の手伝いを頼まれて昭和史の取材を始めました。 日本中の戦争体験者の取材に奔走し、このとき、歴史の当事者は嘘をつくことを学び、これらの経験が後に昭和の軍部を描いた作品を書く素地となったといいます。 1959年に創刊準備から週刊文春編集部員となり、人一倍働いたそうです。 1961年に昭和史に本格的にのめりこみ、週刊文春連載ののち、処女作”人物太平洋戦争”を刊行しました。 1962年に文藝春秋編集部に戻り、デスクとして7年間ちょっとを過ごしました。 社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催しました。 ここから生まれた企画が、文藝春秋1963年8月号に掲載された、28人による座談会”日本のいちばん長い日”です。 1965年にデスクをやりながら、さらに取材して、1965年に単行本”日本のいちばん長い日-運命の八月十五日”を執筆しました。 売るための営業上の都合から、大宅壮一の名前を借りて、大宅壮一編集として出版されたそうです。 単行本は20万部売れ、さらに角川で文庫化されて25万部が売れました。 この他にも、30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出しました。 1970年前後から、漫画読本、週刊文春、文藝春秋編集長を歴任しました。 漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋編集長になりました。 このとき、ムック”目で見る太平洋シリーズ””日本の作家百人””日本縦断・万葉の城”を手掛けました。 次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執りました。 1977年に文藝春秋編集長に就任し、1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となりましたが、2年後に第9号で休刊しました。 この間の編集長時代の13年ほどは本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていたそうです。 のち出版局長となりましたが、2年もたたないうちにクビになり、窓ぎわにやられたそうです。 1978年の閑職のあいだに、明治史を書く構想を練り、漱石にも熱を入れました。 1984年、54歳のとき、想定外であった取締役となったそうです。 出版責任者として書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の”「文芸春秋」にみる昭和史”を監修しました。 1991年に監修と注・解説を担当した”昭和天皇独白録”が刊行されました。 1992年に”漱石先生ぞな、もし”が刊行され、1993年に第12回新田次郎文学賞を受賞しました。 専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身しました。 近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、「歴史探偵」を自称しました。 活動の場をテレビにも広げ、NHK”その時歴史が動いた”など、歴史番組にもよく出演しました。 1998年に”ノモンハンの夏”を刊行して、第7回山本七平賞を受賞しました。 2001年”「真珠湾」の日”、2004年”昭和史1926-1945”、2006年”昭和史戦後篇1945-1989”をそれぞれ刊行し、前後篇で第60回毎日出版文化賞特別賞を受賞しました。 昭和史1926-1945は、昭和史シリーズの戦前・戦中篇で、授業形式の語り下ろしでわかりやすい通史として絶賛を博しました。 昭和史戦後篇は昭和史シリーズの完結篇で、焼け跡からの復興、講和条約、高度経済成長、そしてバブル崩壊の予兆を詳細にたどっています。 2015年に、当事者に直接取材して戦争の真実を追究した、との理由で第63回菊池寛賞を受賞しました。 2016年に政治や軍部の動きをA面とし、それに対する庶民の歴史として昭和戦前を描いた”B面昭和史”を刊行しました。 2018年に”世界史のなかの昭和史”を刊行して、”昭和史””B面昭和史”と合わせて、昭和史三部作を完成させました。 2021年に90歳で、老衰のため永眠しました。 夏目漱石、兼好法師、松尾芭蕉のような、これは、と思う三人の先人がそれぞれ、一筋の道につながってきて今日があるのだといっています。 すなわち、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですということです。 あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものになりません。 ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでか難しいです。 自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを十年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれます。 何でもいい、それが自分の場合は昭和史だったのだそうです。 なぜそんなふうになったのかを、これからお話ししようということです。一、遊びつくした子ども時代向島に生まれて/人は死ぬ/豊かだった戦前/川のそばで/おかしな空気/悪童、「お坊ちゃま」になる/二宮金次郎が読んでいたもの/最初の空襲体験/少年講談と浪花節/運命の分岐点─中学進学二、東京大空襲と雪国での鍛練十四歳、死にかける/父との再会/疎開で転々/雪がくれた体力と忍耐力三、ボートにかけた青春日本人と橋/志はいずこへ/人生の”決意”/水の声を聞きながら/ボートの青春に悔いなし/”浅草大学”と苦肉の卒論四、昭和史と出会った編集者時代御茶ノ水駅の決断/生涯の宝/ボンクラの必要性/指名された理由/歴史はなぜ面白いか/人に会い、話を聞く/昭和史にのめりこんだとき/処女作は『人物太平洋戦争』/寝ながら書いたケネディ暗殺記事/『日本のいちばん長い日』/印税はゼロ/名デスクはヘボ編集長/”アソビの勉強”と潜伏期間の決意/まぼろしの「明治史」!?/ある成功の代償五、遅咲きの物書き、”歴史の語り部”となる”じんましん十年”の役員時代/辞めなかった理由/『昭和天皇独白録』のこと/山県有朋をなぜ書いたか/命がけの独立/瀬戸際の体験/道に迷ってよかった/失ったもの、得たもの/脱線はムダか/昭和史はなぜ面白いか/「歴史に学べ」でなく「歴史を学べ」/通史をやって気づいたこと/平成とは何であったか/「平成後」を想う/人生の一字[附録] 四文字七音の昭和史「皇国」という言葉/本家中国と日本/漱石先生と『蒙求』/「赤い夕陽の満洲」から/昭和史を転換させた「国体明徴」/二・二六から日中戦争へ/最高のスローガン「八紘一宇」/「油は俺たちの生命だ」/戦時下の四文字/日本人独特の死生観/崑崙山の人々/終わりに略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]半藤一利 わが昭和史(1001;1001) (平凡社新書) [ 半藤 一利 ]世界史のなかの昭和史(905;905) (平凡社ライブラリー) [ 半藤 一利 ]
2022.11.26
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三井発展の背景には、その時々において三井には技量ある人がいたという認識が共通していることがわかります。 人の三井とは、三井には個性的で有能な人物が集まったことと、その個性と技量を発揮できる場があったことを意味しています。 ”三野村利左衛門と益田孝 三井財閥の礎を築いた人びと”(2011年11月 山川出版社刊 森田 貴子著)を読みました。 幕末から明治期の三井中興の時代に、三野村利左衛門と益田孝はどのようにして、三井発展の基礎を築いていったのかを述べています。 人の三井という言葉がありますが、いつごろからいわれるようになったかは定かではありません。 1925年の高橋義雄さんによる”三井中興事情”には、三井発展の理由の一つが記載されています。 その中で、明治維新期に「主人と番頭とが其人を得て能く難局を切り抜け」、1891年ごろからは「思慮ある主人と手腕ある重役」がいたためと述べています。 三野村利左衛門は、三井の経営方針の中心を官金取扱いと考え、そのためには、三井家と三井の事業の分離が必要であると考えていました。 その最大の改革が大元方の組織改革でした。 益田孝は、創業期の三井物産において、三池炭礦の払下げを受け、三井物産の事業を拡大し、三井合名会社を設立し、三井を財閥へと組織しました。 森田貴子さんは東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し、同大学院人文社会系研究科博士課程を修了しました。 博士(文学)で専門分野は日本近現代史、特に、土地制度、都市史です。 2008年から2011年まで早稲田大学文学学術院講師、2007年に高千穂大学商学部准教授、2012年に早稲田大学文学学術院准教授となりました。 現在、早稲田大学文学学術院教授を務めています。 三井家の歴史は太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという説があります。 しかし、三井家の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という説もあります。 三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来であり、先祖は藤原道長といっていますが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない、とも言われています。 三井高俊は質屋を主業に、酒、味噌の類を商いました。 店は越後殿の酒屋と呼ばれ、これがのちの越後屋の起こりとなりました。 高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て、1673年に越後屋三井呉服店=三越を創業しました。 同時に、京都の室町通蛸薬師に京呉服店=仕入れ部を創業しました。 その後、京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売しました。 代金は売り掛け=ツケ払いという、当時の商法をくつがえす、店前売りと現金安売掛け値なし=定価販売などで庶民の心をとらえ繁盛しました。 その後、幕府の公金為替にも手を広げ、両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となりました。 明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにしました。 三野村利左衛門は、1821年に庄内藩士の子として鶴岡で生まれました。 1827年に父親が養家を出奔し浪人となり、父親とともに諸国を流浪しました。 やがて1839年に江戸へ出て、深川の干鰯問屋奉公を経て、旗本・小栗忠高の中間となりました。 1845年に、菜種油や砂糖を販売していた紀ノ国屋の美野川利八の養子となり、利八の名を継ぎました。 その後地道に資金を蓄え、1855年に両替株を買い両替商となりました。 1860年に旧知の小栗忠順からの小判吹替の情報を事前に得て、天保小判を買占め巨利を得ました。 1866年に三井家から勘定奉行小栗との伝を見込まれ、幕府から命ぜられた御用金50万両の減免交渉を任され、これを成功させました。 その後、小栗の三井組大番頭斎藤専造に対する要請によって、三井に勤めることとなりました。 そして、小栗と三井の間のパイプ役として通勤支配=取締役に任命され、三野村利左衛門と改名しました。 1868年に小栗忠順が失脚し、幕府の命運を察して新政府への資金援助を開始するよう三井組に働きかけました。 1872年に越後屋呉服店を三井の本流から切り離し、1873年に小野組と共に第一国立銀行を設立しました。 翌年の小野組の破綻に伴う三井組の危機に際して、三野村は三井組の内部改革のため、大隈重信大蔵卿を通じ明治維新政府との繋がりを強めました。 そして、三井組内部での権力を確立し、1876年の三井銀行設立に繋げていきました。 さらに、三井組内の商事組織である三井組国産方と合併させました。 また、井上馨と益田孝によって設立された商社先収会社の解散を機に、益田に三井物産会社を創設させました。 1877年に胃癌のため57歳で死去し、三井銀行の経営は婿養子の三野村利助が引き継ぎました。 幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていました。 三井の転機は、1881年に明治14年の政変で下野した山陽鉄道社長の中上川彦次郎と益田孝を、三井元方重役に据えた事です。 益田孝は1848年佐渡国雑太郡相川町に生まれ、父親は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任し、ともに江戸に出て、ヘボン塾、現・明治学院大学に学びました。 麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務し、ハリスから英語を学びました。 1863年にフランスに派遣された父親とともに、遣欧使節団に参加し、ヨーロッパを訪れました。 帰国後、幕府陸軍に入隊し騎兵畑を歩み、1867年に旗本となり、1868年に騎兵頭並に昇進しました。 明治維新後、1869年から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務し、多くの商取引を見聞しました。 のち、自ら中屋徳兵衛と名乗って輸出商を手掛けました。 仕事仲間から紹介された大蔵大輔の井上馨の勧めで、1872年に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任しました。 旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたりましたが、翌年に尾去沢銅山汚職事件で井上が下野し、益田も続いて職を辞しました。 1874年に、英語に堪能だったこともあって、井上が設立した先収会社の東京本店頭取に就任しました。 1876年に、日本経済新聞の前身、中外物価新報を創刊し、同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄に就任しました。 三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げました。 商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎は三井の工業化政策を多数押し進めました。 次いで、不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せました。 しかし、学閥を嫌う益田孝と中上川彦次郎の対立が鮮明となり、1909年に5参事の合議制による運営体制に移行しました。 また、傘下の中核企業を有限会社から株式会社へ移行しました。 1893年に三井鉱山が設立され、三井銀行、三井物産、三井鉱山の御三家体制となりました。 第一次世界大戦の好景気で三井財閥は産業が大きく伸張し、三井銀行を起点に信託・生命保険・損害保険等の金融部分の拡充・多様化が進行しました。 しかし、1927年の昭和恐慌期に端を発した財閥批判が、三井財閥に向けられました。 財閥攻撃の嵐の中で、三井総両家当主・三井高棟と益田孝が協議し、三井合名理事・池田成彬を筆頭常務理事に指名し総帥に就任させました。 池田は、11家からなる三井家を説得して財団法人三井報恩会を立ち上げ、大胆な財閥転向施策を実行しました。 その後、日中戦争の勃発を契機に戦時体制へ移行した事から、財閥批判と攻撃は次第に沈静化しました。 三井財閥は戦時経済体制の有力な担い手となり、政界にも多くの幹部を送り込みました。 三野村と益田が活躍した、幕末から明治期の日本は、国内においても対外的にも、政治・経済・社会、すべてにおいて激動の時代でした。 本書は、幕末の開港から1914年に益田が三井合名会社相談役になるまでの時期を取り上げ、三野村と益田の活動をとおして、三井と日本の社会の歴史を考えています。「人の三井」/1 幕末の三井/2 三野村利左衛門と三井の改革/3 益田孝と三井物産会社の創立/4 益田孝と三井物産会社の発展/三野村利左衛門と益田孝の業績 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]三野村利左衛門と益田孝 三井財閥の礎を築いた人びと (日本史リブレット人) [ 森田貴子 ]三野村利左衛門の生涯 幕末から明治期「三井」の基礎を築いた [ 永峯光寿 ]
2022.10.29
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