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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
遠くへ行きたい
2026.04.25
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 羽柴秀長は、豊臣政権のもとで、大和郡山城を居城として所領を統治しました。
 豊臣政権下における羽柴家一門衆の領国大名である、豊臣一門大名として活躍しました。
 ”羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟”(2025年9月 KADOKAWA刊 柴 裕之著)を読みました。
 秀長は天下統一を果たした兄・秀吉の名補佐役として知られ、豊臣政権の構築と運営に深くかかわり豊臣政権を支えつづけた羽柴秀長の生涯を紹介しています。
 才覚で織田家の重臣に出世し、主君の信長が討たれた後、政局を勝ち抜いて天下人へと飛躍しました。
 そして、天下一統といわれる国内の諸勢力の統合を成し遂げました。
 秀吉の飛躍は一人だけでなされたのではなく、家臣とともに秀吉を支えた羽柴家一門衆がいました。
 その筆頭に位置したのが、秀吉の実弟の秀長でした。
 所領は、大和・紀伊(和歌山県下)、和泉国(大阪府下)の大部分、伊賀国(三重県下)です。
 そして、秀吉を支え、時には代行を務めて、有力諸大名との折衝や軍事活動を行いました。
 秀長の存在は、秀吉が天下人に登り詰めていくにあたり不可欠なものでした。
 秀吉に比べて、秀長の史料は発給文書が少ないうえ、活動の多くは秀吉の活躍に隠れています。
 知名度に比べ不明なことが多く、家族や家臣にも目を向けて秀長の実像にせまりたいといいます。
 柴 裕之さんは1973年東京都生まれ、1999年に東洋大学文学研究科 日本史学専攻修士課程を修了しました。
 2002年に同大学院日本史学専攻博士後期課程を満期退学しました。
 文学博士文学 (東洋大学)で、専攻は日本中近世移行期政治・社会史です。
 2005年に千葉県史料研究財団嘱託、2007年に東洋大学文学部非常勤講師となりました。
 2014年に早稲田大学エクステンションセンター講師、2015年に愛知大学文学部非常勤講師となりました。
 2017年に木更津市史中世部会委員、2020年に世田谷区中世史編さん委員会専門委員となりました。
 現在、東洋大学文学部・駒澤大学文学部の非常勤講師を務めています。
 「謹んで泰山府君に上る都状」での記載から、羽柴秀長の実名、年齢、生年などが分かるといいます。
 都状とは、陰陽道の祭祀である泰山府君祭の際に使用された祭文です。
 泰山府君祭は、中国古代からの人間の寿命と福禄を司る神である泰山府君の祭祀です。
 そこに、「天正十八年十月吉曜日羽柴大納言豊臣朝臣秀長五十一歳謹啓」と記述されています。
 天正十八年は1590年であり、この年は安土桃山時代に当たっています。
 1590年に秀長は、大和郡山にあって体調が悪化していました。
 小田原征伐には出征せず、留守居役を務めたのでした。
 この都状を捧げて、祈願主は無病息災・病気平癒を願いました。
 秀長の都状もまた、重篤の病状にあったため平癒を期したのです。
 作成したのは、秀長本人またはその周辺の人物からの依頼を受けた人物でしょう。
 都状での記載のうち、実名、年齢、生年は、原則として黒字で記すことになっています。
 しかし、秀長がこの時重篤の状況にあったため、近い人物が代理人として記した可能性もあります。
 それでも、史料の性格から同時代史料であることは間違いないといいます。
 「羽柴大納言豊臣朝臣」の記述から、苗字は羽柴であり氏姓は豊臣でした。
 したがって、今後は豊臣秀長ではなく、羽柴秀長と呼ぶべきです。
 「五十一歳」の記述から、1590年10月時点で年齢が51歳であったことがわかります。
 当時の年齢は数え年で、年が改まると年齢を1歳加えていました。
 したがって、翌天正19年1月22日に死去した秀長の享年は、通説の通り52となります。
 逆算すると、生年も天文9年となり、江戸時代以来の伝来が間違いなかったことになります。
 一方、秀長が3月2日の生まれというのは、いまのところ『系図纂要』のみで確認されます。
 ほかに史料がないため、正否の判断をくだすことはできません。
 秀長の幼名について「小竹」が知られていますが、『太閤素生記』では「是ハアダ名」と記しています。
 この書は、江戸幕府の旗本土屋知貞によって、1625年~1676年の間に編纂されたものです。
 したがって、「小竹」は渾名であって幼名ではありませんので、秀長の幼名はわからないといいます。
 秀長は兄の秀吉および姉妹とともに、尾張国中村で生まれたとして知られています。
 現在、同地の豊国神社がある中村公園は、秀吉・秀長兄弟の生誕場所とされます。
 その敷地内や周辺には、多くの出生地伝承があります。
 しかし、同時代の古文書や古記録などの史料では、兄弟の生誕地について記したものはみられません。
 1626年の小瀬甫庵の『太閤記』には、「尾張国愛智郡中村」と記されています。
 『太閤素生記』には、「尾張国愛智郡中々村」と記されています。
 中村は上中村・中々村・下中村より構成され、中々村は、名古屋市中村区中村中町付近とされます。
 これらの情報源から、中々村誕生説は可能性が高いでしょう。
 秀長は1575年に羽柴長秀に改名し、翌年に藤堂高虎が仕官し家臣となりました。
 高虎は秀長に仕えると、次代秀保が死去するまで大和豊臣家の維持発展に尽くしました。
 1577年に手取川の戦いに参戦しましたが、秀吉が柴田勝家と対立し無断で撤兵しました。
 続いて秀吉が織田信長に中国地方の平定を命じられ、竹田城の戦いに参戦しました。
 この戦で太田垣氏の竹田城を攻め攻略し、秀長が竹田城の城代となりました。
 1582年に明智光秀の謀反により本能寺にて信長が自害しました。
 本能寺の変前までの秀長の活動は、史料は極端に少なく、わからないことが多いといいます。
 そのため、この時期の記載は秀吉また主君の信長の活動を通じてみていくことになります。
 秀吉は中国攻めより引き返し、明智光秀と戦い勝利しました。
 信忠の嫡男秀信が織田家家督を継ぎ、秀吉が織田家家臣の実質的な筆頭となりました。
 1583年に秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、織田家の実権を握って大坂城の築城を始めました。
 1584年に秀吉が小牧長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦い、信雄と単独講和し家康とも講和しました。
 1585年に秀長が四国平定の総大将として、長宗我部元親と戦って降伏させました。
 秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原秀吉と改名して関白宣下を受けました。
 1586年に秀吉が正親町天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と改名しました。
 1586年から87年まで、秀長は秀吉の九州平定に従い、九州東岸の総大将を務めました。
 1587年に、秀長が九州の東岸より侵攻して島津義久の軍を破り、豊臣氏が九州を平定しました。
 秀長は権大納言に任官しましたが、このころから体調が悪化しました。
 1590年の小田原征伐には出征せず留守居役を務めましたが、1591年に大和郡山城にて死去しました。
 秀長は天下人秀吉の弟として知られ、兄を支えた補佐役として関心が寄せられてきました。
 しかし、秀吉研究は枚挙に暇がありませんが、史料に基づいた秀長研究はあまりなされてきませんでした。
 本書は、同時代史料を可能な限り蒐集して、検討を通じて秀長の実像に迫ることを目指したといいます。
 ただし、これですべての謎が解明されたと思ってはいず、あくまで一試論であるといいます。
 なお著者は、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を、黒田基樹氏と共に担当しています。
はじめに/第一章 生い立ちと父母・きょうだい/第二章 織田信長と羽柴秀吉・長秀兄弟/第三章 本能寺の変後の政局と飛躍/第四章 豊臣政権の成立と秀長/第五章 秀長の妻と子/第六章 一門筆頭の執政として奔走/終章 秀長の死去とその後/あとがき/主要参考文献






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Last updated  2026.04.25 07:45:45
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