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2022/01/07
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​​​​​​​​​​​​​​​ ​ご冥福をお祈りいたします。
国際プロのエースとしてアントニオ猪木
との死闘
が印象に残っている。







ストロング小林さんが死去 元プロレスラー
共同通信社 2022/01/06 23:21
元プロレスラーのストロング小林さん(すとろんぐ・こばやし、本名小林省三=こばやし・しょうぞう)が昨年末に東京都青梅市内の病院で死去していたことが6日分かった。81歳。東京都出身。
 ボディービルから国際プロレス入りし、1970~80年代にトップレスラーとして活躍した。74年のアントニオ猪木との日本人対決は当時の大きな話題を集めた。移籍した新日本プロレスでも闘った。
引退後は「ストロング金剛」の芸名で、バラエティー番組などで活躍した。


アントニオ猪木氏、ストロング小林さんの訃報に
「若くベストな時に勝負が出来た事が走馬灯のように思い出されます」
2022年1月6日 20時14分スポーツ報知
元プロレスラーで俳優としても活躍したストロング小林さん(本名・小林省三)が昨年12月31日午前7時21分、東京・青梅市内の病院でのう肺のため亡くなったことが6日、分かった。81歳だった。
 小林さんの訃報を受け、1974年3月19日に蔵前国技館で歴史に残る戦いを残したアントニオ猪木氏が追悼コメント発表した。
 「ストロング小林選手のご冥福を心よりお祈り致します。小林選手との一戦は『昭和の巌流島』と呼ばれ、入り切れない程の多くの観衆に観て頂きました。小林選手もこの試合を人生最高の試合と言ってくれ、私も格別な思いがあります。お互い、若くベストな時に勝負が出来た事が走馬灯のように思い出されます。ストロング小林選手、ありがとう」
 猪木氏と小林さんの蔵前国技館での激闘は、1954年12月22日の「力道山対木村政彦」戦以来の大物日本人対決と当時、話題となり会場には1万6500人が押し寄せる大人気となった。試合は、猪木氏がジャーマンスープレックスホールドで勝利したが、この試合をきっかけに当時、禁断と呼ばれた日本人対決がリングの主流を占める原点となった。

​​​​ 【追悼】ストロング小林さんは“会見乱闘”の先駆者だった!
猪木との調印式で大暴れ 
東スポWeb 2022/01/10 10:07
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【プロレス蔵出し写真館】〝燃える闘魂〟アントニオ猪木と日本プロレス史に残る戦いを演じたストロング小林が、昨年12月31日に亡くなっていたことがわかった。享年81歳。
小林は、今から50年前の1971年(昭和46年)、IWA世界ヘビー級王者としてカーチス・イヤウケア(=キング・イヤウケア)、クラッシャー・リソワスキー、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、ディック・マードック、同門対決となるラッシャー木村ら、そうそうたるレスラーを相手に防衛戦を行った。
73年11月9日に和歌山・勝浦町観光会館でワフー・マクダニエルに敗れるまで25回連続防衛を果たし、2年4か月にわたり国際プロレスのエースの座に君臨した。
その後、王座を奪回した小林だが翌74年に突如フリー宣言。2月13日、東京・早稲田の喫茶店「ルナ」で会見を開きジャイアント馬場と猪木に挑戦を表明した。
馬場は「全日本プロレスという組織に小林君が入るなら、対戦も辞さない」と含みのある発言に終始したが、猪木は2月25日、東京・南青山の事務所で会見し対戦を受託。大物日本人レスラー同士の対決に、プロレスファンは狂喜した。
3月1日に京王プラザで行われた調印式は殺気立ったムードとなり、握手をかわした後、猪木は左手で小林の頬を平手打ち。小林は身構え、怒りを抑えて猪木をにらみつけた。
さて、国プロの吉原功代表は3月8日に会見し、「小林を国際から除名しリングネームを剥奪、場合によっては契約違反で告訴する」と発表。これに対し大会を主催する東スポが仲裁に乗り出し、10日に小林と吉原代表の会談をセッティング。ここで〝昭和の巌流島決戦〟の実現が確定した。
和解成立の要因は、東スポが国プロに1千万円の違約金を支払って小林を東スポ専属レスラーにしたことだったと、後年明かされた。
3月19日、蔵前国技館で行われた試合(NWF世界ヘビー級選手権)は真っ向勝負となり、終盤、小林は猪木をロープ越しのブレーンバスター。そしてカナディアンバックブリーカー。猪木はロープを蹴ってリバーススープレックスで脱出し、バックドロップ。力なく立ち上がった小林は、猪木にバックを取られジャーマンスープレックスで投げられフォールされた。
それでも猪木に「こんな試合を続けていたら10年持つレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない」と言わしめた。


© 東スポWeb ​ 猪木にイスを振りかざす小林(74年12月、京王プラザ、東スポWeb)​
小林はその後、WWWF(現WWE)に参戦して時の王者ブルーノ・サンマルチにも挑戦するなど実績を残し、12月12日に蔵前大会で猪木との再戦が決定した。
ヒゲをたくわえ、たくましさを増した小林は12月6日に行われた調印式で、握手が終わると先に手を出し、猪木に殴りかかり、イスを振りかざし殴打した。不意を突かれた猪木はすぐさま反撃を試みたが、関係者に制止され、小林はさっさと姿を消した。
今でこそ珍しくなくなったが、この時の乱闘は激しく、驚愕した。この乱闘劇が〝プロレスの会見で乱闘〟の走りだったのではないだろうか?
試合は、卍固めを決められた小林がギブアップせずレフェリーストップ負けを喫した。
敗れた小林は、翌75年1月から新日本にフリー参戦し、その後、正式入団。猪木、坂口征二に次ぐNo.3として初期の新日本プロレスを支えた。
腰痛を患い84年8月26日、福生市民体育館で引退試合を行った小林は俳優&タレント業を本格化させ、ストロング金剛として活躍。多くの人に親しまれた。
それでも、あの猪木との一戦はいまだに忘れえぬ名勝負。ご冥福をお祈りします(敬称略)。



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最終更新日  2022/02/26 06:36:27 PM
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