2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全4件 (4件中 1-4件目)
1

聖夜ですね! ☆’’o 0 - ^^ ” ‘‘ イエスが地球に生誕されたとされる夜です(一部別説もあるようですが・・・)。正確な時間は知りませんが、一夜明けると誕生されていたのですね。季節は12月も終わりに近づいて、一年の終わりが迫った頃です。この候は、思考が研ぎ澄まされ、クリアーな感性に包まれる特別な時節だと聞きます。確かに、北半球では寒さも身に沁みる候で、身が引き締まる毎日です。 今年は天気に恵まれ、穏やかな一日となりました。夕方、屋外を散歩していたら、ふんわり雲が空に浮かんでいました。10日ほど前にご披露したアドベントカレンダーも佳境に入りました。 23番目の扉の中身はわたしが担当する偶然となりました。この絵だけが、パステル画ではなく、愛用の3色ボールペンで描いたサンタさんです。何の気負いも無く、真っ白の空白に気ままにペンを動かしていましたのは10日前ごろのお話です。そこだけちょっと違和感がありますね?でも、あんまりそんなことには頓着しません。 今日は遅くおきた日曜日で、午後からクリスマス・ツリーを出しました。組み立てはわたしがやり、後の飾りつけは息子のだいちとの共同作業でした。 部屋を真っ暗にした、イルミネーションはとても綺麗。気分が神聖にもなり、また高揚もしてきますね? だいちはと言えば、夕方から妻と一緒にクリスマス・ケーキ作りに熱中していました。料理が結構好きで、遊び心で、よく妻と一緒にやる男の子です。スポンジ・ケーキから始めて、生クリームのお化粧や、果物の飾り付けまで夢中でやっていました。 右の飾り付けは、わたしも少し手伝いました。不細工ですが、なかなか味があるでしょう? そして、一先ずケーキは横に置いて、3人と1匹で聖夜の食卓を囲みました。メニューは鶏の脚のオーブン焼きとフランスパンでした。もちろん、シャンパンも開けました、だいちは麦茶でワイン気分でした。部屋の明かりをすべて消して、蝋燭の灯りで食事をしました。年に数回の、このシチュエーションは、なかなか乙なものです。蝋燭の灯りの薄暗がりでの食事、質素な感じでゆったりとして良いですよ。 食事の後、ケーキを食卓の中央に持ってきて、お祝いです。我が家では、サイレント・ナイトは歌わず、ハッピー・バースディを歌います。3人で声を合わせて、♪・・・ディアー イエス・キリスト~・・・♪ なのです。一通り、儀式めいたことが終わって、急にだいちが『もみじ』の3部合唱をやろうと言い出しました。音楽の時間に、気に入ったものらしいのです。「えっ、3部合唱?」と聞き返すと、「本当は2部合唱なんだけど、ボクが作ったの」と、だいち。だいちがソプラノで、妻がメゾソプラノ、わたしがアルトならぬバリトンです。その歌が終わって、何となくお開きになりました。そんな風にして、我が家の、和洋折衷の異形クリスマスは終わりを告げました。 だいちは寝る前に、ちゃんとサンタさんのケーキを切り分けて、自分の部屋に持って行きました。サンタさんへのもてなしを考えているようでした。サンタクロースの存在については、微妙に半信半疑のもようです。そんな9歳のクリスマス。わたしは深夜になってから、プレゼントの仕込みをして、そのケーキを平らげました。美味しかったですね。そんなのどかな自然流のクリスマス・イブの一日でした。最後に、アドベントカレンダーの全容をご披露いたします。 皆さんも、それぞれに聖夜を楽しまれたことでしょうね?宗派・宗教に係わらず、神聖な気分になれるのは素晴らしい体験ですよね?
2006/12/24
コメント(12)

みなさま、随分、ご無沙汰してしまいました。ちょっと油断したら、この有様です。また、学びの研鑽に入りまして、年も押し詰まって来て、忙しさにかまけていました。5日の満月も遠に過ぎ、ずるずると来てしまいました。お詫びに、先ずは、下の12月の風景写真をどうぞ。 仕事場に行く途中で自転車を止め、激写(?)したものです。ちょっとぶれているのは、ご愛嬌ということで。 さて、皆さんはサンタクロースの存在を信じていますか?我が家の一人息子、だいちも、もう小学校4年生。折に触れて、何やらぶつぶつ言っております。「本当は、パパサンタ?」とか・・・。問われたわたしは、適度に話題を交わして、しらばっくれています。お子様のいらっしゃる家庭では、それぞれに、様々な様相を呈しているのでしょうね?学校で色んな情報を得て来るようです、そんなお年頃なのでしょう。我が家では、サンタさんはどこかに居ることになっていて、だいちもその存在を信じているようです。「サンタさんは、材料から作るから、どんなものでもお願いすれば持ってきてくれる」「製造中止になったおもちゃでも、手に入りにくい最新のゲーム機でも、何でもお願い出来る」「だから、パパやママに買ってもらえないものを、サンタさんにお願いする」とかと、言っています。「それで、今年のお願いはもう決まったの?」と、さり気なく聞きだすわたしです。わたしは「サンタさんは居るんじゃないかなぁ」と答えています。そして、中学生になった時、高校生になった時、成人した時、大人になった時の説明まで、今から用意しています。「パパは嘘つきじゃない」ということをちゃんと説明できるように、今から答えを持っています。その内容は、だいちの成長に応じたものになる見込みで、未だ詳細を詰めてはいませんし、どう変わるかも不明で、基本構想も伏せさせて頂きますが・・・。わたしは、子供の成長と共に歩んで行きたい派 なのでしょうね。そして、わたしはと言えば、「当然、サンタクロースは存在する」との自説をしっかり持っています。はい、サンタクロースは存在するのです!大人になったわたしの自説は、幾分メタファーを織り交ぜた仮説です。しかし、例えば「存在しない」と誰かが証明しない限り、その仮説は有効なのです。もしかしたら、どこかに居るかも知れないでしょう?それは例えば、ティンカーベルのような存在かも知れませんね。夢の話をしているのではなくて、わたしは充分科学的な、可能性の話をしているのですよ。松任谷由美さんが『恋人はサンタクロース』という歌で、自説を見事に描き上げたように、「大人の存在派」は、ちゃんと自分の言葉で説明できなくてはなりません。それぞれ、自分の言葉でちゃんと説明しなくては大人とは言えません。あなたは、サンタクロースの存在についてどのように説明しますか?個人個人違って良いのだと思います。もちろん、「そんなもの居る訳ないだろう」という「非存在派」も良いでしょう。「日本はキリスト教じゃないよ」と言う声も聞こえてきそうです。アメリカの新聞記者が、確か9歳くらいの女の子の質問に真っ向から向き合って、「サンタクロースは居るのですよ」と記事にした話は有名です。それを参考にしてもいいのですが・・・。しかし、やはり、自分の言葉と確信で、自分の言葉でその子供に分かる話をすることが重要だと考えます。 徐々にクリスマスが近づいて来ますね。子供たちは、サンタさんのプレゼントを心待ちにしています。徐々に期待が膨らんで、日に日にわくわくして来るのでしょうね?大人になったわたしたちにも、それは言えることですよね?正解などありませんが、やっぱりサンタさんは居るのではないでしょうか!? 下の写真は、妻の手作りのアドベント・カレンダーです。12月1日から、24個の扉を一日ごとにめくって行くというものです。今日は13日、13個の扉が開いています。わたしは、偶然23番目の扉の中身を描かせてもらいました。何を描いたかは、23日までおあずけです。お楽しみに。 ・・・旅の話も、途中のままに、深夜のおしゃべりをしてしまいました。ここは、中休憩と言うことでお許し下さい。旅は、まだまだ続きます。長いお話に付き合っていただいて、今夜もどうもありがとうございました。
2006/12/13
コメント(14)

5.伊勢神宮など 伊勢神宮には1982年に一度行ったことがある。社会人1年目の5月、GWを利用して同僚の野郎3人で紀伊半島を車で一周する計画を立てた。レンタカーを借りて、和歌山市から南下して、御坊、田辺、串本へ。そこから北上して、新宮、尾鷲を通って伊勢に立ち寄った。帰りは確か、和歌山街道、伊勢街道を通って、吉野、橋本を経て紀ノ川沿いに出発点に帰り着いたと記憶している。2泊か3泊の男3人の珍道中だったと思う。串本から北上する時に豪雨に見舞われ、通れるかどうかぎりぎりの峠を泥んこになりながら車を走らせた記憶がある。帰りの紀ノ川沿いの吉野辺りが印象的だった。 その折に、「伊勢に来たから、伊勢神宮にもお参りしよう」という単純な感覚で、伊勢神宮にお参りしたと思う。そのためか、伊勢神宮の記憶は薄っすらとしていて、何やら整然としてシンプルな参道の記憶しか残っていない。もちろん井手達はカジュアルな普段着だった。そんな経験があるから、一度はちゃんとしたお参りをしなければならないだろうなぁと、思っていた。そんな次第で、今回はボストンバッグに正装を用意していたのである。正式な礼服ではないのだが、略式ならば冠婚葬祭にでも使えるような、グレーのスーツだ。わたしのお気に入りの一着だ。 11月19日(日)の朝は、散々だった。前日の夜更かしが祟って、目が覚めたのは8時45分頃。朝食の時間の直前かと寝ぼけて思っていたら、ホテルの出発時刻の直前だったのだ。慌ててワイシャツを着て、お気に入りのスーツに着替えた。同室の友がチェックアウトを済ませてくれ、何とか出発時刻には間に合った。鳥羽から伊勢まで20分位のバスの中、ホストの御仁が伊勢神宮の概略を説明してくれた。 大和朝廷が成立し、日本という国が誕生した。初代神武天皇の即位である。紀元前660年の時代である。その後、第十代崇神天皇の御代に、初めて皇居をおでましになり、機内各地を巡幸する。第十一代垂仁天皇の二十六年(約2000年前)に大御神の御心にかなった大宮どころとして、この伊勢の地におしずまりになり宮を建てたのである。古くから「神宮」と言えば伊勢の神宮を指すと言う。五穀豊穣を大切にしている。この時から、日本の神の信仰は皇居と伊勢神宮のダブルに分かれたのだと言う。そんな基礎知識を踏まえて伊勢神宮へと向かった。 下の写真は、神宮の表玄関である宇治橋から五十鈴川を写したもの。小雨で、霧にむせぶ光景である。左向うにある砂州が五十鈴川御手洗場(いすずがわ みたらし)である。参拝する前に心身を清める場所。しかし、この日は生憎の雨だったので、ほとんどの人は手水舎で清めていた。幸いに、人影のない風景が撮れた。なかなかの絶景だった。 身を清めて、一路、御正宮(ごしょうでん)へと向かった。下の写真は参道である。雨にも拘らず、日曜日なので、人出は多かった。歩きながらの撮影で、ぶれているのはご勘弁を。いろんな色の傘のオンパレードだった。 下の写真の鳥居の向こうが、御正宮。ここから先は撮影禁止なのだった。御正宮で正式な参拝をした。御正宮は四重の御垣(みかき)に囲まれている。内側から、瑞垣(みずがき)、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣(そとたまがき)、板垣(いたがき)と呼ばれるそうだ。参拝者の地位によって、立ち入られる限度が決められていると言う。我々はたぶん、一番外側の板垣を越えた所までだったと思う。小雨に打たれながら、屋外で参拝した。正式参拝をしない人たちは、しかし、板垣越しに見るだけなのであった。少し、意気に感じた。 御正殿の全貌を詳細に見ることは出来ない。パンフレットによると、御正殿は唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)という日本最古の建築様式で、ヒノキの白木を用い、平入りの高床づくりだそうだ。屋根は萱で葺き、柱は掘立、すべて直線的で、屋根の両端には千木が高くそびえ、棟には鰹木(かつおぎ)が並んでいると言う。本殿の中まで入れるのは、神事を行う少数の方たちだけなのだろう。しかし、外観だけでももっとしっかり見たかったなぁ。 下の写真は、帰路に見掛けた神殿と結界。参道の横にあり、妙に惹かれた。資料で見ると、御稲御蔵(みしねのみくら)と言うのであろうか。五穀豊穣を祈る神宮ならではだ。わたしも参拝した。 下の写真が、神楽殿(かぐらでん)。ここでしばしの休憩をした後、御神楽(みかぐら)を執り行っていただいた。神事を司る方々が、神饌をお供えし、祝詞を奉上し、楽を奏で、舞を舞うと言う儀式である。大御神さまに捧げる一番鄭重な奉賽の真心の発露とされている。正座して、この儀式の一部始終を体験することが出来た。心身がぞくぞくして背筋が正される思いがした。舞には、巫女さんたちが舞う倭舞(やまとまい)と、神楽人の長が舞う人長舞(じんちょうまい)とがあり、それぞれに感銘を受けた。倭舞はさっさっと素早い動き、人長舞はどっしりと腰を落としゆっくりした動きだった。これを拝見できただけで充分心の満足を得た。やはり日本人の血がざわめいたのであろう。 伊勢神宮は20年ごとに遷宮をしている。式年遷宮(しきねんせんぐう)と言い、二十年に一度、宮処(御敷地)を改め、古例のままに御神殿や神宝をはじめ、一切を一新して大御神の新殿へのお遷り(遷御)を仰ぐのだそうだ。御神楽を体験する前の休憩場所では、平成5年(1993年)十月に執り行われた遷御の儀のもようをビデオで流していた。もう、1300年の歴史があるという。次回は、平成25年(2013年)、後7年後だ。その敷地は、正殿の直ぐ横にもう用意されていて、準備にかかっていた。ヒノキをはじめ、すべての材料が新しく持ち込まれて、全く新しい御正宮が作られると言う。古いものは解体され、他の建築物にリサイクルされると言う。すごいことだ。日本人は1300年も前から、こんなことをやり続けているのである。歴史の重みをひしひしと感じた。 伊勢参拝を堪能して、また、宇治川を渡り、今度は下に降った。下の写真がその光景である。紅葉はまだ半ばだったが、雨の伊勢、なかなか風情があった。右の写真は、川の段差の敷石である。ふと、京都の鴨川を思い出した。石畳の上を砕けながら流れ越すことによって、水も清められるように感じる。 下の写真は、川沿いの道で見かけた古建築。と言っても江戸辺りの商家であろう。左の建物は、旅籠か何かではないかな。右の比較的新しい目の建物は、今は豆腐料理屋になっている。そこでお昼を採り、やっと食べ物にありつけた。不思議なことに、それまで少しも空腹を感じていなかった。やはり神事に向かっていた為なのだろう。豆腐尽くしの料理が運ばれて来て、初めて食欲が湧いてきた。とても優雅で上品な昼食を、美味しくいただいた。ほっと一息をついたひと時だった。 伊勢と言えば、「赤福」なのだそうだ。昔からお伊勢参りにやって来た旅人達がおやつ程度に腹を膨らせたのだろう。人が並んで大変だったが、食後の自由時間に、これまた有名な「おかげ横丁」を歩いて、赤福本店で赤福を食べた。餅をこし餡で包んだ和菓子だ。一人前、一皿に3つ乗っていた。食後のおやつにぴったりだった。美味しくて、3つをぺろりと平らげた。時間もそんなに無かった。その後、五十鈴塾と言う畳敷きの会議室で、また、講義があるのだった。 五十鈴塾での講義のテーマは、『ゲニウス・ロキ』という初めて聞く言葉だった。これは、「古代ローマ人が取り憑かれた観念で、ゲニウス(守護霊)とロキ(場所の)というラテン語があらわしているように、それぞれの場所にひそむ地霊の力や場所の霊性のようなものをさしている。」(松岡正剛)と言う事だった。前夜の内藤廣氏の建築の話の続きだ。この講義の内容も難しいので端折るが、以下のようなコンテンツだ。 昔の人は土地に対する直感が優れていたのではなかったか。建築と場所はどういう関係にあるべきか? アジアの図像では、大地から立ち上がって来る魑魅魍魎が克明に描かれている。大地と天空の間が、昔は厚く豊かだった。建築を建てる時に、今でも欠かせない地鎮祭とは何なのか? 「大地を知るためには虫を感じなければならない」(岩田慶治)。大地にいる昆虫たち。植物は昆虫の存在が無ければ生きていけないのは何故か? 西遊記に出てくる天・中・下の妖怪たちは何なのか? 建築における復活とは? 地面は根源的である。建築と土木の関係は、圧倒的に土木の方が大きい存在。昔から、国を治めるとは、治水、治世ということだった。空海も、実は土木業者のようなものだった。 ・・・などなど、多様で、根源的で、濃密な講義内容を頭に詰め込まれて、わたしはアップアップしながら次の行く先、松坂へと向うバスに乗り込んだ。松坂は、「松坂牛」だけの町ではなかったことを思い知らされることになる。(つづく)
2006/12/04
コメント(12)

4.鳥羽、建築体験の旅 名建築を体験するのに、設計者の案内で見て歩くに如くはない。今回その僥倖に恵まれた。しかも今回の建築物は「海の博物館」。芸術選奨文部大臣新人賞や日本建築学会賞など、数々の表彰を受賞した著名建築。企画・設計を含めて7年の歳月を費やし1992年に完成した博物館である。平面的には6棟に分散し、志摩半島の海岸ベリに根付いていた。建築家の内藤廣氏と館長の石原氏、そして木造部分を担当した大工の棟梁の3人の方々に連れられて、説明や質問にも答えて頂き、中身の濃い体験をした。先ずはエントランスから御覧あれ。 そして展示棟。室内は、当時は新建材であった木の集積材を使った巨大な木造アーチ構造だった。そして内部には鉄筋コンクリート造のコア部分との程よい共演があった。とにかく巨大な入れ物だった。中央には巨大な木造船が迎え、周辺に海民たちの伝統や信仰や漁の在り様が展示されていた。海の汚染の問題までをも含んでいた。室内のアーチを覆って、外観は極めて日本的な三角屋根だった。しかし、天辺にはトップライトの仕掛けが施してあった。圧倒される広さだ。 展示室は6棟中の2棟だけ。残りの3棟は収蔵庫と1棟の体験学習室だ。博物館とは物を展示すること以上に、物を収蔵することが重要な建築物である。正倉院宝物堂と同じ機能である。如何に貴重な古い品々を風化させずに保管するか、ということが本題なのである。今回は、特別に、通常は入れない収蔵庫にも入ることを許された。そこには、海民たちの漁業の品々はもちろん、生活用品もたくさん収蔵されていた。我々が見ても懐かしい明治・大正・昭和の生活用品に思わずため息をついた。人々の生活の様子まで収集されているのだ。収蔵庫は一転して鉄筋コンクリート造のアーチで囲われ、内部は良質な保管のために、木造建築の技術が駆使されていた。湿度や温度の急激な変化が生じないように工夫されているのだ。 そして、圧巻の船の貯蔵庫。建物は上記の収蔵庫と同じ構造。ここには伊勢志摩を中心に、全国各地から集められた木造船が所狭しと並べられていた。様々な形の船を見てまわった。中には、太平洋の小島で拾ってきたという異国のカヌーまで収蔵されていた。中二階から眺めた風景が下の写真だ。余談だが、この日は午後から曇って来て雨模様、スピリチュアルの人々が良く木霊と呼ぶ丸い球体があちこちで写り込んでいるのに気づいただろうか。雨の日の湿った空気ではよく写り込むらしい。わたしには、目視は出来なかったが、何やらそんなあやしい雰囲気は感じていた。 最後に、展示室で面白いものを見つけたので紹介しよう。海女さんが海に潜るのに身に着けていたと言う魔よけの文様だ。ドーマン、セーマンと言うそうだ。海の魔物から身を守り、漁の安全を保障するものなのだろう。右の依り代は祭りの祈願で使われるものらしい。面白いことに、これらはいずれも密教や修験道の影響を汲むもののようだ。星型は、「ア・ビ・ラ・ウン・ケン・ボロン」という祈祷に似ている。右はよく知られた九字御身法、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の流れのようだ。とにかく、この文様には驚いた。わたしはこの文様のついた温度計をお土産に買って帰った。 ひとしきり、時を忘れて「海の博物館」を堪能した後、鳥羽のホテルに貸し切りバスで引き返した。ゆっくり夕食を食べ、温泉に入り、午後9時から深夜まで内藤廣氏の講演を聞いた。たっぷり3時間、濃密なお話だった。「海の博物館」は氏が独立してからの初作であり、世に認められたはじめての作品だった。思い入れは深かった。そして、氏の建築論を詳しく聞くことが出来た。個人的なエピソードもたくさん折り交えて・・・。ここでは、その話は専門的になるので端折るが、少しだけ話そう。 内藤廣氏は吉阪隆正氏の弟子、近代建築の旗手ル・コルビュジェの孫弟子に当たる。しかし、内藤廣氏は近代建築をそのまま継承したわけではなくて、それを乗り越えた旗手だった。どこにでも、同じような建築を空から置くように増産した近代建築に反して、内藤氏は地勢というものを考えていた。場所によって建築は地から生えるものであってしかるべきだ。プロトタイプの箱型の宙に浮いた建築ではなく、その場所に応じた建築が生れて当然だと言う考え方。地霊とでも言うようなものから建築は立ち登っていくのではないか。 また、建築とは死の形。特に博物館などは棺おけみたいなものだ。時間を留め置くもの。「建築は空間」と言うが、実はその空間はその中でその周囲で人間が生きていくのなのだ。氏は時間と共生する建築を目指している。生きていく中で、建築が変わっていっても良い。昨今のリフォームブームなどもそれに入るのかもしれない。そのためには、生のこと、そして近代社会が隠蔽してきた死というものをもう一度遡上に上げて、深く思索しなくてはならないのではないか。 内藤氏は今、建築家でありながら東京大学の土木の分野に身を置いていると言う。前代未聞のことらしい。一方でプレハブの研究をしながら、墓地の研究も始めていると言う。建築界では、決して派手な存在ではないそうだが、根本から建築と言うものを考えている稀代の建築家と言えよう。最後に、「これからも考えていくことかな・・・」と仰った。 ・・・以上は、多分にわたしの私情が入り込んでいる感想で、講演の主旨からは、ずれていることもたくさんあると思います。取り違いの所もあるかと思います。文責はすべてわたしにあります。しかし、わたしにとっては、久しぶりに「建築」と言うものを深く考え直させられた一日でした。その日は深夜まで仲間たちと交流を深め、今回の旅の1日目が過ぎ去りました。全く、濃密な旅の出だしだったのです。明けて翌日は、いよいよ、伊勢神宮への参拝が控えていました。(つづく)
2006/12/01
コメント(12)
全4件 (4件中 1-4件目)
1