全165件 (165件中 151-165件目)
今日は何も予定がなかったので、以前から見たかった映画の一つである「誰も知らない」を、札幌に見に行った。映画館は、狸小路にあるシアター・キノというミニシアターである。サッポロファクトリーにあるシネコンでも上映中だが、どうせなら頑張っているミニシアターで観ようと、狸小路まで出かけた。この映画のモデルとなった事件については、かすかに記憶している。当時は、子育て中であったこともあり、とてもショックを受けたように思う。最近は、育児放棄、児童虐待、ネグレクトなどのニュースが珍しくもなくなってきているが、当時はまだ現在ほどでもなく、とても衝撃的だったのだと思う。(もちろん、現在だって衝撃的であることに違いはないが)この映画は、テーマそのものが関心分野であることと、主演の柳楽君がカンヌ映画祭で「最優秀男優賞」をとったということもあり、その演技も見たいと思っていた。さて、感想は・・。うーむ、何と言おうか・・。あまりに色々な思いが渦巻いてしまい、上映中はどうも映画そのものに浸ることができなかったというのが正直なところである。母親に置き去りにされた子ども達が、長男を中心に助け合って生きていくわけだが、最後にはお金も尽き、事故によって妹も死んでしまう。その間の子ども達の健気さや力強さに感動したのか、あるいはあまりにも切なくなってしまったのか、私の周囲からは涙をぬぐう気配や、すすり泣く気配があつたけれど、私は涙は出てこなかった。つまり、様々な怒りや苛立ちのようなものが渦巻きすぎて、感動すべき部分に浸りきることができなかったのだろう。しかし映画館を出てからずっと、歩きながら、あるいは電車の中で様々な場面を思い出し、色々と思いを巡らせているうちに、次第にひたひたと感動が立ちのぼってきた。子ども達4人の演技は、信じられないほど自然だった。賞を取った柳楽君はもちろんのことであるが、どの子の表情もとてもその年齢らしい子供らしさがあった。ひたむきに母親の言いつけを守り、捨てられていることに内心では気付いていても、母の愛情を信じようとしている。そして、どんな状況の中でも楽しさや喜びを見つけていこうとする。持っている知恵や能力を振り絞って、兄弟と助け合って、自分より弱い妹や弟を守ろうとする。そして、どんなに兄弟仲が良くても、友達と一緒に遊びたいという気持ちは押えようが無い。それが、子どもらしさなのだと思う。そんな子どもらしい生命のキラメキが、確かにあの映像の中にはあったと思う。それなのに、私は映画を見ている間は、そのきらめきに目を向けるよりも、母親や周囲の大人たちへの憤りの方が強すぎて、ひょっとすると是枝監督が伝えたかったことを受け止められなかったのかもしれない。モデルとなった事件の子ども達は、もう社会人となっているはずだ。どのように生きているのだろうか。それを考えながら、以前読んだ「"It"と呼ばれた子」を思い出していた。今日の映画もそうだったけれど、どんな悲惨な状況にあっても、他人を思いやる心や愛する心を失わずにいられるのは、親から確かに愛された幸せな日々があるからだと思う。子どもの出生届も出さなかった母親であっても、しっかりと子どもを抱きしめ、子どもをひたむきに守ろうとした日々が確かにあったからこそ、あの子達は母親を信じ、自分を信じて生きていたはずだ。モデルとなった事件の子ども達も、そうであって欲しいと祈る思いだ。そしてまた、自分ならどうするだろうと思う。同じアパートの住人、大家、ガス会社・電気会社の人たち、いつも行くコンビニの店員、店長、公園で洗濯や水浴びをする子ども達をみかけた地域の住人、電車の中でボロボロで汚れた身なりの少年と隣り合わせた人、誰もがきっと、「あれ?」くらいは思ったことだろう。中には、「母親がずっといない」と知った人もいる。彼らのことを「誰も知らない」というよりは、「誰もが知らないフリをした」のだ。私がそうではないとは言い切れないことに、とても心が重くなる。映画館の中で渦巻いた怒りや腹立たしさは、そのまま自分に向うものなのかもしれない。本当に、私ならどうするだろうか。そして、これを読んで下さっている皆さんなら、どうなさいますか?
2004年09月03日
コメント(8)
昨年もこのドラマを見て日記に感想を書いているはずと確かめると、9月27日に書いてあった。しかし、そこに感想を書いてくださった「ぷりん7354さん」と「天てこ舞さん 」にお返事を書いてない! 私は、コメントを書いてくださった人には何か書いているつもりなのだが、どうしてだろう?気がつかなかったのかな・・。今更ではありますが、失礼いたしました。昨年の日記も、感想を書いている途中で消えてしまったらしく、さらっとしか書いてない。今年はそんなことがないように(最近はどうもアクセスしにくかったり、うまくアップできなかったりするのでなおさら)、ちゃんと下書きを書いてからにする。(でも、あと30分しかない。ちゃんと書けるかな?)さて、二回目に見た感想は・・。今年の2月18日の日記に書いてあるが、両親と沖縄の戦跡巡拝の旅にでかけた。父の友人達(多くは師範学校の学友)が沖縄の戦いで何人も亡くなっており、父は死ぬ前に一度友人達が戦い傷つき死んだ場所で慰霊したいと願っていたのだった。平和ガイドのリーダーでもある個人タクシーのUさんの案内で、何箇所もの慰霊碑やガマの跡をたどったのだが、どこにも観光客の姿はなかった。不発弾も遺骨も処理されぬままになっているという野戦病院跡のガマに入ると、何かの気配のようなものを感じたものだった。(そして、私のカメラは作動しなくなった)その場所で、どのような惨劇が繰り広げられ、どれだけの罪のない人たちが死んでいったのか・・。洞窟の奥に残っている遺骨の人たちの魂は、安らかに眠っているのだろうか・・。ガイドのUさんのお話だと、沖縄の人たちですら、そのような事実を知らない人が増えているのだという。沖縄戦を生き延びた人たちも、その思い出が語るには苦しすぎることであったり、戦後を生き抜くのに必死であったりで、子どもや孫達に語り伝えられずに月日が流れたのだ。平和ガイドの人たちが取り組んでいる、子ども達に沖縄の歴史を伝える活動にしても、あまりにリアルなことは話せないのだとおっしゃっていた。沖縄で戦争の現実を少しは知ったためか、テレビの映像も昨年見たときよりもリアルに感じられた。そして、このドラマは確実に今に続いているのだと思う。明日は広島の原爆記念日である。戦争は国同士の利害関係による喧嘩であるが、それによってうめき苦しむのは一人一人の命や家族を持つ人間である。悲惨な戦争体験をした人たちは、それが口にすることも辛いものであるだけに、自分の中に封印してしまうことが多いようだ。結果的に戦争の暗部は語り伝えられず風化してゆき、愚かでありながら正義の仮面を被った論調が、人々を「負け犬になるな」と鼓舞してゆく。母親は誰も、人を殺す人間を作るために子どもを育てたりはしない。人を愛し愛される人間であるように、生まれてきて良かったと思える人生を歩めるようにと、幼子の寝顔を見て一度でも願わぬ母親はいないだろう。生きるために人間を信じて勇気をふりしぼった黒木瞳演じる母親のように、私も極限状態でも人間を信じる方向で勇気をふりしぼりたいと思った。沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。誰かの命を奪っても良いという正義はないと、私は強く思う。多くの犠牲を払って手に入れることの出来た「平和憲法」を、私は守りたいと思う。
2004年08月05日
コメント(0)
私は長年、NHKの大河ドラマのファンであった。多少「つまらないな・・」という気持ちがよぎっても、長年の親友とのお付き合いのような気分も混じって、律儀に見続けてきたのである。ところが、今年の「新選組」では、とうとうそんな私もついていけなくなってしまった。それでも、前回までは何とか見ていたのであるが、とうとう昨日は何かとバタバタしていたせいもあり、完全に見なかった。見逃した時にはBS放送で見るのが私の行動パターンであったが、それもする気にならなかった。結構若い人達には評判が良いようなので、「年のせいだろうな・・」と、時代の流れについていけなくなった自分を苦笑いで見つめている。どうして面白くないのか? うーん、あまりにも現代ドラマ的かつ漫画的だからでしょうね。あの時代は、若い人達には「昔話」なのでどんなアレンジもいいのかもしれないけれど、私達以上の世代にはリアリティーの残っている話だし、それなりの「新撰組(新選組ではない)」や近藤勇、土方、沖田など有名メンバーのイメージや知識もあり、切り口の違いはOKでも、あまりにも戯画的になるとどうもねえ・・。近藤勇役の香取慎吾君は頑張っていると思うけれど、「香取大明神」の掛け軸なんかが掛かっているのをみちゃうと、ゲーッという感じがしてしまい、ユーモアの使い方が違うだろうと白けてしまうのは、どうにも止められない。【追記】Romduolさんから、「香取大明神」の掛け軸は、道場ならどこでもかけてあるというご指摘を受けました。私は全く知らなかったので、「ギャグ」と思い込んでしまったのです。無知とは怖いものですね。でも、私のような無知による思い込みも、世の中には多いことでしょう(このことに限らず・・)。それを一つ一つ確認して完璧を追求するのも私には不可能なので、無知を披瀝することを恐れず、思うことを書いていきたいと思った次第です。今後も、遠慮なく「事実の間違い」は指摘してくださいね。ついでに、朝の連続ドラマも然り。これも、時計代わりにずーっと視聴している番組なのだが、今回の「天花」は今のところ「つまらない予感」。出演している俳優はそれぞれ個性もあり好きな人が多いのだけど、どうも漫画的というか・・。それでも、これから少しずつ慣れて行くのかな・・。韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」が日本でも始まったそうで、今日のお昼のワイドショーで主演俳優のぺ・ヨンジュンさんの来日騒ぎを報じていた。たしかにとても素敵な人だとは思うけれど、女性達のあの大騒ぎには本当にびっくり。どんな内容のドラマなのかわからないのだけど、女性達の熱狂ぶりを見てしまうと、何だかつまらなくなってしまったのは、私も相当に天邪鬼のようだ。今までの理想であった「素敵なおばあちゃん」になるのは無理かもしれないけれど、ひょっとすると「魔女ばあさん」には向いているかも・・。
2004年04月05日
コメント(6)
今日は友人と、この映画を観て来た。第一部をビデオで見た後、何度もビデオ店に足を運んだのだが、いつも第二部「二つの塔」は貸し出し中でまだ見ていなかったのだが、友人の強い誘いに乗って見ることにした。私はこのような映画(特殊撮影多用の映画)で涙が出ることはほとんどないクールなタイプなのだが、これは結構グッとくるものがあった。三時間半というので「長いなー」と思ったけれど、終わってしまえばあっという間であった。ということは、それだけのめり込ませるもののある映画という証明でもあろう。色々な思いを全部書くことは出来ないが、結局は力の強いものではなく、純粋でか弱く小さい者に人々が救われるということに、強いメッセージ性を感じた。世の中は善悪入り乱れているけれど、「悪」を制御していくのは暴力的な力ではない。それからもう一つ、「選ばれた者」の孤独というものも感じてしまった。共に励ましあい支えあった仲間達と一緒ではあるけれど、一番の親友であったサムとも別れなくてはならないフロドの、「癒されることのない傷」とは・・。私なりに色々と思いを巡らしながら、何だか切なくもあった。やっぱり、早いうちに原作本を読まなくちゃと思う。
2004年03月18日
コメント(0)
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二部を借りたくてビデオ店に行ったが、お目当てのものは全部貸し出し中。手ぶらで帰るのも悔しいな・・と、借りてきたのがこの「阿弥陀堂だより」。詳しい内容についてはhttp://www.amidado.com/index.htmをどうぞ。さて、感想は・・。信州の自然の美しさ、自然の中で自然に生きることの穏やかさ、・・そんなものにしみじみとした感動を覚えた。山の中の、村の死者を祭る阿弥陀堂で暮す96歳の老婆・お梅婆さんを演じる北林谷栄の演技や言葉に素晴らしいリアリティーがあって、ここまで生きてこその言葉の力というものも感じた。お梅婆さんの言葉(上記サイトより)「畑にはなんでも植えてあります。 ナス、キユウリ、トマト、カボチャ、スイカ・・。 その時体が欲しがるものを好きなように食べてきました。 質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら それはお金がなかったからできたのです。 貧乏はありがたいことです」自分の体が欲しがるものを感知する力が、今の私達にあるだろうかと、ふと思う。世の中にはサプリメントが星の数ほど溢れていて、私たちは「頭」で食物や栄養を摂取している。あるいは、単なる「食欲」というか、何らかの欲望で食べていることが多い。食欲ならばまだ自然に近いけれど、「グルメ」という中には、「珍しいもの、高価なものを食べたい欲」が強く入り込んでいるだろう。一部の欲が肥大化した結果による食欲は、生命体としての人間には不自然で危険なことも多い。私は、今のところ特別に長生きしたいとは思っていないのだが、自然に枯れるように死にたいとは思う。枯れるように死ぬためには、多くの場合長寿が条件になるように思う。病気や災害で死ぬことも「天命」なのかもしれないが、その最期は結構苦痛が伴っている。私は臆病なので、苦しみぬいて死ぬのは嫌だと思うのだ。私の祖母は101歳で私の目の前で死んでいったが、本当にいつ死んだのかわからなかった。二時間前に食事をして、お風呂に入って、呼吸が少し乱れた時間があって、少し大きな息をしてスーッと命が尽きた。全く苦しそうではなかった。あのように死ぬためには、「自分の体が欲しがるもの」を感知する力が必要なのだろうが、同世代人の中ではまだ自然力が比較的あると思われる私でも、かなり弱まっている能力だ。やっぱり、苦しんで死ぬことを覚悟しなくてはならないだろうな。でも、信州の自然の中に抱かれた美智子(樋口可南子)が、徐々に生きる力を取り戻していったように、私達もまた可能な限り自然と触れ合うことによって、生命体としての力を維持することができるのかもしれない。
2004年03月09日
コメント(0)
アカデミー賞総なめのこの映画の完結編、やっぱり近いうちに見てみたいと思い、そのためには第一部から見なくてはならないと、数日前に借りてきた。この映画の原作である「指輪物語」は、もう20年近く前から気になりながら、とうとう読まないままに今日に至っている。私は、映画を見てから原作を読むのはあまり好きではない。どうしても先に見た映像に想像力が縛られてしまうので、私にとって読書でもっとも大切な「想像力」が刺激されにくくなるからだ。だから、この映画も「指輪物語」を読んでからにしようと思っていたのだが、アカデミー賞を独占するほど素晴らしい映画なのならば、映画で楽しんでしまってもいいかと考え直したわけだ。夫も誘ったのだが、彼はあまり気乗りがしないようだったので、格別の用もない日だったので一人で見ることにした。さて、感想は・・・。まず、今はどのような映像でも創造できる時代なのだなと、まず感動した。私は、映画にSFXやCGが多用されているものは、あまり好みではない。どうしてもそれが必要だという必然性がないのに、監督や技術者の好みでそれが使われているようなものを見ると、反発心さえ湧いてしまう。しかし、この映画においては、SFXでの表現技術なくては成立しないだろうと納得した。言い換えれば、この技術を駆使できる現代だからこそ、映画化ができたファンタジーなのだろうと思う。ただ、内容的にはとても深いものがあると思うが、映像のハラハラ・ドキドキ感に翻弄されて、じっくりとその意味を考える時間が与えられないきらいもある。その意味では、やっぱり原作を読んだ方がよいだろうと思える内容だった。ただ、次々と現われる登場人物とその名前、種族の個性、あるいは物語の前提になる全体の地図がなかなか把握できず、私がこれを映画館で見たらよくわけがわからぬままに進行していたのではないかと思う。ビデオの特性を生かして、戻って確認して早送りで見るなどと、私なりに全体を把握することはできた。私はもともと、名前と顔がはっきりと記憶できにくいという弱点があるので、特に外国人の顔は同じように見えてしまうのだ。それにしても、現在公開中の映画を見るためには、第二部も見なくてはならない。でも、ビデオ、借りれるかしら。
2004年03月05日
コメント(0)
昨夜、見てきました。私は自分から映画館に足を運びたいとあまり思わないタイプなのですが、これは見たいと思ったのです。今日も時間があまりないので詳しくかけないのですが、(またこれから息子家族がやってくる!)、とりあえずの感想です。外国人が日本人を描く時、ある種のステレオタイプの日本人になっていて嫌な感じを受けることが多いのですが、これは違いました。私達が忘れていた「日本」を思い出させてくれる部分も多かったし、「正義」とまでは言わなくても「義」に生きる人間の美しさを感じさせてくれました。トム・クルーズには驚かされることが多いのですが、今回も感動しました。渡辺謙もとても良かった。もう一度、新渡戸稲造の「武士道」を読もうと思っています。(もちろん、邦訳ですが)
2003年12月14日
コメント(8)
息子家族が来ていたので、久しぶりに一緒にビデオでも見ようということになり(今日は一本39円だった!)、息子夫婦が選んできたのがこの映画。私も以前から見たいと思っていたので、孫達を寝かしつけた10時頃から、ビデオ鑑賞会となった。ユダヤ人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの実話に基づく映画のようである。一言で言えば、「ナチス占領下でのホロコースト時代を生き延びたピアニストの物語」である。私はなぜホロコーストが起きたのかなどもふくめ、ナチスやユダヤ人問題には普通より少しばかり関心がある。このような映画を見た後の感想は、なかなか言葉には出せない。ただ、頭の中を「このように生きた人々がいたのだ。なぜこのようなことが起きるのか」という疑問詞だけがグルグルと回ってしまう。主人公のシュビルマンは、心優しいピアニスト。彼を含む一家はゲットーに送られ、やがて強制収容所行きへの列車に乗り込む寸前で脱出する。その後、友人達の協力を得ながら隠れ家を転々として、最後の隠れ家でドイツ将校に見つかり、その将校の指示でピアノを弾く。そのピアノに感動したのか、ドイツ将校は見逃してくれて、食料や外套を恵んでくれる。やがてソ連軍の侵攻でワルシャワは解放され、シュビルマンは再びピアニストとして生きてゆく。という物語なのであるが、シュビルマンはどこまでも受身で気弱な人間だ。しかし、ひたすら運命に対して受身に徹して生き延びている。怒りや悲しみを爆発させて、自分で運命を切り開くタイプではない。逃げ惑い、食べ物を必死で漁る姿はみじめで悲しいけれど、これが極限の彼の姿なのだろうと納得できる。そんな彼の自分自身の尊厳の証は、ピアノを弾くことであったのであろう。目を閉じ指を空中の鍵盤に動かす姿は、悲しくも美しかった。そして、廃墟となった隠れ家の一室で、将校の前でピアノを弾く姿。その時の彼は、きっと大好きなピアノを弾くことに没入し、側にいるのが敵兵の将校であり、これが今生最期のピアノ演奏になるかもしれないなどという恐怖心も消えていたのかもしれない。それとも、自分が生き延びるためのくもの糸ということを、自覚していたのだろうか。この映画に限らず、ホロコーストや戦争関係の映画を見ていると、つくづく思う。人間の生死は、目の前の命を左右できる人間の気分次第であり、「運命」などという言葉さえも甘ったるいということを。平和な環境があってこそ、「運命は自分で引き寄せる」なんてこともできるのだろう。シュビルマンの回想録を、そのうちに読んでみたいと思う。
2003年10月19日
コメント(2)
北海道の余市町の「北星学園余市高校http://www.hokusei-y-h.ed.jp/pc/framepage1.htm 」の義家先生をモデルにしたテレビドラマが、昨夜から始まった。http://www.hbc.co.jp/tv/yoichi/index.html 北星余市高校は全国からの中退者(非行や不登校の子供達が多い)を受け入れていることで全国的に有名であり、私自身も、長年にわたっての北星余市の実践には何度も感銘を受けている。北星余市に在学中の高校生の親や卒業生とも知り合いだったりするので、この学校については人並み以上に関心がある。私自身は、まだ義家先生と直接お会いしたことはないが、彼のことを聞き、テレビでのドキュメンタリーを見て感動し、一昨日の日記ではないが「人間っていいな! 捨てたもんじゃない」と、何度も感じさせていただいた。だから、全国ネットでドラマという形ではあるが、義家先生を育てた北星余市高校の教育について知っていただき、親や教育関係者、そして「不登校や非行」を「子どもと親の問題」にしてしまいがちな社会に刺激を与えていただきたいと願っている。しかしドラマを見ながら、私の「老婆心」がムクムクと動き出してしまった。義家先生は、最近は講演などで引っ張りだこだそうである。本の出版やテレビのドキュメンタリー→テレビドラマ化などの影響であろう。しかし、彼はまだまだ若く、発展途上の青年でもあるのだ。様々な体験を積んできている人だし、北星余市という足場があるから大丈夫だと信じたいけれど、人間には弱さだって必ずあるのだ。人の心は信じるに足るものだと確信もしているが、時には悪魔にもなりうるのだとも思ってもいる。そして、何よりも無責任で冷淡なのは「世間」であり、現代のメディアである。どうぞ、それらの「怪物」が彼を、そして北星余市を餌食にしないで欲しいと、ドラマを見て感動しながらも思っていた。北星余市高校に関わる皆さん、そして余市町の皆さん、どうぞ今までと変わらずに暖かく彼らを見守りながら、時には叱咤激励してあげてくださいね。祭り上げられた時には、思わぬ落とし穴があるのが常なのですから。
2003年10月10日
コメント(2)
何気なくつけたテレビに、たまたま「サトウキビ畑」が写った。つい引き込まれて見て感動し、それについて色々書いていたのに、途中で電話が入って話しているうちに、なぜかパソコン画面が消えていた。電話を受けるために移動した時、どこかに触れてしまったのか・・。ショックである。気を取り直してもう一度、とは思うけれど、もうこちらの時間的ゆとりがない。とにかく、久々にドラマにひきこまれてしまった。ドラマならではの不自然さも散見されるが、これは仕方がないだろう。とにかく、これらの出来事は、沖縄の人たちが体験した事実の、ほんの一部であろう。殺人が正義になってしまう戦争を、普通の人たちは誰も望まない。書いたのに消えるようなことは諦めるとしても、折角生まれてきたのに人を消したり消されたりするのはいやだ。私は、息子達が生まれた時、心から願った。「この子達が生きている間、戦争だけはあってほしくない」と。人を殺めるようなことだけは、この子の人生にあってほしくはない・・と。そして、職業に貴賤はないけれど、願わくば「銃」を持つ職業にはついてほしくないと。国の役に立って欲しいと思わないけれど、人の役に立って欲しいと。どれも、私が「戦争」を他の人以上に嫌悪する感情から生まれた願いだ。私の願いはイデオロギー抜きである。「サトウキビ畑の歌」は、若い頃からとても好きな歌だった。いつか、ゆっくりと沖縄を旅して、色々なことを考えたいと思っている。
2003年09月28日
コメント(2)
「田んぼdeミュージカル」は、北海道穂別町のお年寄り達が総出演した、町民手作りのミュージカルである。(詳しくは、下記を↓)http://www.mainichi.co.jp/life/cinema/kiji/0302/16-02.html 。昨夜は、当市でその自主上映会が開催され、脚本を書いた町教育委員会の斉藤征義さんによる、撮影エピソードなどをお聞きした後、45分の映画を鑑賞した。脚本・作曲・振り付けなど、すべて町民有志によるもので、町民の熱意に動かされた映画監督・崔洋一氏が指導があったとはいえ、すべてが素人の手によるものと聞いてビックリ仰天した。もう一つびっくりしたのが、この映画制作期間(約一年間)の間に、ほとんどがお年寄りというスタッフであるにも関わらず、たった一人の死亡者もいなかったということである。特別に元気な人ばかり集めたわけではない。老人ホームやケア・ハウスの入所者もいるし、撮影の時には必ず保健士がついて、血圧測定や問診のあとに撮影したという状況なのにだ。そして、斉藤さんもビックリしたというのだが、撮影が進む間に、どんどんお年寄りが若返っていったというのだ。納得できることではあるが、画面で実感すると感動ものである。ミュージカルなど見たこともなかったり、ダンスや踊りなど他人事に思っていたはずのお年寄り達が、実に楽しそうに生き生きと笑ったり歌ったり踊ったり。もちろん、素人の手作りの映画だから、作品としての完成度を望んではいけない。だけど、芸術作品では決して味わうことのない感動を、この映画は伝えてくれた。人としての喜び、人間の可能性、自分の中に眠っていた夢、仲間と何かを作り上げる喜び、役割があることの素晴らしさ、諸々のものが、映像の中からビシビシと伝わってくる。人間って、ほんとに捨てたものではない。良いものを見せていただいた。穂別町のみなさん、本当にありがとう。ちなみに、穂別のメロンはおいしいですよ。
2003年09月12日
コメント(0)
今まで肌寒かったり曇り空だったりと、なかなか夏らしい日が来なかったけれど、今日はまさしく「夏」。今年は、本州も梅雨明けが遅かったようだし、北海道は日照不足で、農作物の状況が気がかり。「雨のち晴れ」は、雑草がとても元気になる。というわけで、午前中は少し草むしり。なれない暑さの中で下を向いていたので、ちょっとばかり貧血と言うか、クラクラしてしまった。昨日見たビデオを返却して、今日まで「47円」ということで、またまた借りてきてしまった。やらなくちゃならないこともあるのだけど・・と思いつつ、「ユキエ」(松井久子監督、 新藤兼人脚本)を見てしまう。アルツハイマーに罹った妻と夫の物語であるが、状況設定などで様々に見るものの想像力をかきたてる作品。次第に自分がダメになっていくのを感じる時の不安や苦悩を、私は祖母と付き合う中で多少は感じてはいたつもりだ。しかし、私にとってそれはやはり未知の世界だし、様々な老い方をシュミレーションして覚悟してはいるつもりだけれど、特に「痴呆」については不安がある。でも、ユキエの言葉に、少し道が見えたようにも感じた。「私の中で何が起きているのかわからないけど、これはあなたたちと、ゆっくりしたお別れをしていると思うのよ」そうだった。祖母もそのように、私達とゆっくりとお別れをしてくれた。この言葉、いつか孫達に言ってやれたら、かっこいいなあ。まあ、忘れなければの話だけど・・。ボケていてもカッコいいってことは、確かにある。憧れてしまうなあ。
2003年08月04日
コメント(0)
雨模様だったのでどこに出かける気にもなれず、妹を呼んで夫と共に、ビデオ鑑賞会をすることにした。先日は「10円」だったけど、本日は「47円」だったということもある。で、ビデオ店に行くと、以前からちょっと気になっていた「ジョンQ」があったので、迷わずそれを借りたのだが・・。家に帰って良く見ると、それは「9デイズ」だった。つまり、ケースと中身が違っていたのだ。「9デイズ」は以前に見たことがあるので、腹を立てながらビデオ店に戻りったが、お目当ての「ジョンQ」は全て貸し出し中でない。仕方がないので、デンゼル・ワシントンの他のビデオを探して見つかったのが、「タイタンズを忘れない」だった。 1971年、アメリカでの実話。人種差別が強い町の高校で、白人と黒人の高校のアメフト・チーム“タイタンズ"が統合され、黒人ヘッド・コーチのブーン(ワシントン)と白人コーチのヨースト(パットン)のもとで、最初はいがみ合う高校生達が、肌の色を乗り越えて友情を育み、チームとしての結束を強め、連戦連勝を続けるという“奇跡"の物語。アメリカには問題も多いが、このようなことも実際にあるという、懐の深さを感じる。何よりも、人と人とは、互いに本気でぶつかり合い、相手を知ろうとしたならば、どのような違いも乗り越えて心が通じ合うのだということを感じさせてくれて、心地よい感動が全身を包んだ。でも、この物語が「奇跡的」ということで映画になったということが、現実の厳しさを物語ってもいる。それにしても、どの映画を見てもデンゼル・ワシントンは素敵だなー。やっぱり次は、なんとしても「ジョンQ」を見よう。
2003年08月03日
コメント(0)
一昨日、通りかかったビデオ店で、レンタル料金が10円と言うのに驚き、ついつい三本のビデオを借りてしまった。三本借りても30円だもの、衝動借りも仕方がないところ。いくら10円とは言え、見なければ何にもならない。というわけで、今日はその一本の「パウダー」を、昼食のパンをかじりながら見た。1995年、アメリカ映画、監督・脚本はヴィクター・サルヴァ(私は映画には詳しくないので、全く知らない)。嵐の夜に雷に打たれ焼死した母親から生まれた少年の話。遺伝性疾患である白皮症(いわゆる白子)で、電気エネルギーを吸収する体質の彼は、雷などを受けやすい特異体質。そのせいもあり、祖父が死ぬまで外にも出ず、家の中で本を読んだり、夜間に農作業をしながら育った。施設に引き取られた彼が、周囲から奇異の目で見られたりいじめられたりする経緯の中で、彼が天才的な知能と特殊な能力を持っていることが明らかになってくる。誰にも理解されず、父親からも拒絶された出生の記憶を持つ彼の孤独、人の考えていることを見通すことによる切なさ、その力を誰かのために役立つことを知った喜びなど、様々な心理描写を通して、人間存在を考えさせられる映画であった。私はあまり映画を見る方ではないのだが、たまに見る時にはほとんど感動する。そして、「あー、映画って面白いな」と思うのだが、また次の偶然のチャンスまで自分で見ようとはしない。ということは、それほどの感動をしていないうことか・・。まあ、映画やビデオより、本のほうが好きなことは確かだ。
2003年07月30日
コメント(0)
前から見たかったこの映画、今日、見ることができた。70年前のオーストラリアでの実話である。白人との混血のアボリジニの子どもを隔離し、白人に同化させようという政策で収容所に入れられた少女が、母に会いたい一心で逃げ出し、1500マイルを歩き通した物語。本当に白人って傲慢だとと思ってしまう。他の国のことではない、日本でもアイヌ民族は言葉や土地や文化を、白人に近づこうとしている「和人」にメチャメチャにされたのだ。文化って何だろうと思う。その土地で人々が培って、祖先から受け継いできた言葉や知恵ではないのか。主人公の少女は、結婚して子どもを産んでからまたもや子どもと共に収容され、再び脱走したと言う。それほどの苦労をしてまで守ろうとしたものを、今の私達は持っているだろうか。
2003年07月04日
コメント(0)
全165件 (165件中 151-165件目)